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  長  江  文  明  

1 :出土地不明:03/11/25 17:13 ID:7gtOkzGs
世界で最も早く王朝を興していたかもしれない長江文明について語れ

2 :出土地不明:03/11/25 17:20 ID:KHQK0TQR
生まれながらにして2ゲッターとしての素質を持っている親父にとって
俺はたんなるお荷物だったのかもしれない。

とうとう親父が生きているうちに2をゲットすることができなかった。

病院でいつ事切れるかも解らない親父のそばで
必死にF5キーを連打していたあの日から5年。
今ではF5キーも2キーも磨り減ってしまっている。

親父が天に召された後、偶然書斎で日記を見つける。
そこで俺は親父と血が繋がっていない事を知った。

もう2をゲットする必要すら無くなった 
そう、俺は元々2ゲッターの素質なんて無かったのだ。

しかし俺はこうしてまた2をゲットしようとしている。
血が繋がってなくとも、俺の親父はあの人しかいない

今日は親父の命日だ。
墓には一人前の俺の姿と花を供えよう。

今、天国にいる親父と一緒に宣言する

「2」


3 :出土地不明:03/11/27 18:16 ID:FFcCoKX3
殷初期から殷と交易していたんだよな。
たまに戦争したりして。
加工技術は殷以上だったんだっけ?

4 :出土地不明:03/11/28 05:25 ID:HG+flolq
ながえ ふみあき

5 :出土地不明:03/11/28 06:59 ID:VY9+wAEr
殷王朝とよく言われるが、当時の実際の王朝名は商。
殷というのは、商の首都の名前の一つ。
商は都市国家の連合体で、商の王はその共王としての存在だった。
商は、占いによる神権政治が行われており、商の王はその代表だった。

6 :出土地不明:03/11/28 17:29 ID:0te/EGFj
周朝の頃に殷(商)の遺民が物を売る仕事を始めたから商人と呼ばれるようになった。
商という国号で実に良かった。
変とか奇だったら紛らわしい。

7 :出土地不明:03/11/28 18:32 ID:2cZEZY1Z
>>6
白川静が否定してなかったっけ?

8 :出土地不明:03/11/29 23:07 ID:ZD0pI0W5
紀元前3300年くらいには王国もあったようですね。

9 :出土地不明:03/11/30 00:09 ID:zRCls6Xh
>>8
全部洪水が呑み込んでしまった。

10 :出土地不明:03/11/30 11:38 ID:5RtVqyu0
大きな河の流域には何らかの文化を持った集団がいた形跡がある。
黄河にしたって、上流、中流、下流でそれぞれ違った形状の土器や青銅器が発掘されてる。
夏、殷、周と統一王朝が出現するにつれて、その被征服民の文化は失われただけだろう。
長江文明もその一つ。

11 :出土地不明:03/11/30 13:02 ID:olf9yjXh
紀元前5000年ごろには都市国家ができはじめたそうな。

>>8 良渚ですね。良渚にあった王国は北に軍隊を送って領土を拡張したりも
   してました。
   宮殿趾はどうなったのかな?

12 :出土地不明:03/11/30 22:07 ID:8NZY3yaO
>>10
そのへんって、「統一王朝」って言っちゃっていいの?

13 :出土地不明:03/11/30 22:31 ID:z83Z0Exz
ドナウはどうした。
マスターキートンファンとしては兆候よりドナウがいいのである。

14 :出土地不明:03/11/30 23:24 ID:8NZY3yaO
キートンスレに逝けばいいやないか

15 :出土地不明:03/12/01 00:09 ID:BwRVxjHn
>12
中華文明という観点からの統一ということならOKでないかい?

16 :出土地不明:03/12/01 00:18 ID:QTjWsbDz
>>15
だけど、周朝までは長江流域(すくなくとも南側)は「中華」に入ってないし、
必ずしも(秦以降みたいな)一つの制度のもとに支配を行ったわけでもないんで
しょ?>>10みたいな推測は早計じゃない?

17 :出土地不明:03/12/01 01:33 ID:BwRVxjHn
だから
>出現するにつれ
になるわけだ。

実際に夏・殷の頃は中華という考えは無かっただろうが、
中華思想の歴史は夏や殷を文明の祖として考えており、
周初期までは長江流域や、黄河下流域文化圏でさえ異民族扱いされてた。

でもまあ、楚なんかは長江文明の名残のようなものを戦国時代頃までは持ってたみたいだけど。

18 :出土地不明:03/12/01 10:03 ID:QTjWsbDz
>>17
それでも問題になるのが「その被征服民の文化は失われただけだろう」という記述。
「被征服民」なの?文化は本当に失われてるわけ?

やっぱり認識として粗すぎるというか、予断入りまくりな気がするぞ。

19 :出土地不明:03/12/01 13:20 ID:hTt5MDaV
征服される以外に土地の文化が消え去る理由って、住民全てが大移動するしかなさそうだけど?
仮に文化が融合されていったとしても、主となるのは征服者側だろ?
実際に失われてしまってるから、文献にもなにも残ってないわけだし。

20 :出土地不明:03/12/01 15:54 ID:QTjWsbDz
単純な歴史観してるなあ。
文化も文献も何ものこってない?本当に?

その言い方だと、後の中国文化を決定しているものが黄河域起源のもの
だけであるということを言わないといけないけれど、その根拠は?

21 :出土地不明:03/12/01 17:45 ID:7EClpe8b
>20
10で>大きな河の流域には何らかの文化を持った集団がいた形跡がある。
と書かれているし、
>19の>実際に失われてしまってるから、文献にもなにも残ってないわけだし。
も発掘しなければ見つからないような文化だから失われていると言えるのでは?

そりゃ小さい民族単位では古代からの文化が受け継がれているかも知れないが、
本人達も、それがどれほど前からのものかは分かってないんじゃない?


22 :出土地不明:03/12/01 18:14 ID:QTjWsbDz
>>21
いや、そうじゃなくて、
- 文化が失われたというが、「中国文化」の本流にとりいれられた長江流域起源の文化は
ないと言えるのか?黄河流域の「中原」を中心とする歴史記述は儒家の伝承に大きく
依存したもので、そこだけを無批判に「本流」と考えるのは適当ではないのではないか。
- 文献にないというが、本当か?私も詳しくはないが、黄河流域の影響の濃い「楚辞」だけを
とってもずいぶんと違う印象があるが。
- 被征服民というが、征服されたのか?征服されなくても文化が失われることだってあるし、
楚・呉・越が北方からの征服の結果成立したという伝承もないように思うが。
- 征服されたとして、それは夏〜周の時代のことだったのか?もっとあとの、たとえば
漢代あたりに文化・伝承が整理された結果だったりしないのか。
あたりが疑問としてあって、そのへんを知ってる人がいるんじゃないかと思って尋いてるわけ。

そのわりにはちょっと態度が悪かったかもしれんので、それについては陳謝。

言いかえると、「黄河文明」のみを中国の直系の先祖とすることへの疑問があって、
黄河文明-中国という系統とは別の「長江文明」を考える、というのがそもそも
正しいのかが知りたい。

23 :出土地不明:03/12/16 17:32 ID:Ozik2x8x
>>22
メソポタミアの伝承は周辺国によってなされているのに、長江文明の記録は漢民族にない。
始皇帝の焚書坑儒とはこれらの王朝を中国の正史から抹消することにあったのではないか?

24 :出土地不明:03/12/17 00:44 ID:oougsfx6
たぶん考えすぎ

25 :出土地不明:03/12/17 00:48 ID:oougsfx6
しまった途中で出してしもた。

もしそうだったら楚に関する記録なんてまっさきに焼くはずだが残ってる。
また、黄河中心の歴史記述は主に儒家の手によるもので、長江流域の
記録を消すのに儒家を殺すというのは辻褄があわない。

また始皇帝の全土支配は記憶・記録を完全に消しされるほど長いものでもなかった。

26 :出土地不明:03/12/17 12:49 ID:72qf0jDS
殷が長江文明と交流があったとは何から言えること?
甲骨文字の記録にあるわけ?匈奴の前身に関する記述はあるらしいが。

27 :出土地不明:03/12/17 17:23 ID:oougsfx6
>>26
子安貝の産地(ベトナム方面)とは交流があったのに、長江流域とはなかった、
というほうが不自然じゃないかな?
周公旦が一時楚に亡命したなんて話もあるから、黄河流域からみて長江流域がまったく
未踏の地ということだけはなかったと思われ。

「長江文明」(特に古代の蜀がどうこうというアレ)があったかどうかはまた別の話。

28 :出土地不明:03/12/18 17:43 ID:wGQCQlHd
長江文明がどれぐらい遡及できるのか、
しらないが、はっきりすれば、沖縄周辺海底遺跡も
なんらかの関係が浮上しそうな気もする。
ほんとうに、エキサイティングになってきたな。


29 :出土地不明:03/12/18 19:05 ID:tEUeHNGX
ただの自然地形>沖縄海底遺跡

30 :出土地不明:03/12/18 19:26 ID:Eo/piAuE
龍馬古城遺跡って一体どーなったの?
何年か前に見て以来音沙汰なしだけど

31 :出土地不明:03/12/18 23:59 ID:wGQCQlHd
>>29
東大教授がそんなことを逝って失笑を買ってたな。


32 :出土地不明:03/12/19 01:13 ID:oajOzj7o
>>28,31
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1066277888/l50

33 :出土地不明:03/12/19 01:40 ID:5/2xfcyj
>>32
ありがとう。
長江文明は、日本の起源に関連するから興味を持ったんだが。
あったのね、こんなスレ。
ちゃんと読んでみようと思うが、
日本には、16.000年前の縦穴住居跡(神奈川県)も、12.000年前の
土器も発見されているらしいから、12.000年前に今は水没した
海底遺跡があっても矛盾はないな、と思っただけ。
まあ、よんでからのことだな。


34 :出土地不明:03/12/19 11:30 ID:wt1eB641
>>31
実は逆で、琉大の教授が嘲笑をあびてる、ってのが真相です。

>>33
自然現象で説明できないものがひとつもなく、
人工だとするとあまりに杜撰としかいいようのない構造が多く、
大衆向けに発表されている内容は捏造だらけ、という話ですな。

35 :出土地不明:03/12/19 16:46 ID:bDtnroR7
焚書坑儒で消失した歴史書の内容ってどんなだろう?
それとも、長江文明が記録に残っていないのは実は大したことなかったからだろうか?

36 :出土地不明:03/12/19 19:23 ID:4MURff+o
>>35
文字がなかったから記録のしようがない
黄河流域で発生した文字で記録されるには
時間的にも距離的にも離れすぎてまともな記述は期待できない

37 :出土地不明:03/12/20 09:21 ID:83l5Fu0Z
ながえふみあき って誰よ?

38 :出土地不明:03/12/20 13:59 ID:N4idYHwD
そういえば碁の今村文明さんて、いつも長考してたわね

39 :出土地不明:03/12/20 17:56 ID:dRZJVqxv
>>37
音読みです。
ちょうこうぶんめい と読みます。


40 :出土地不明:03/12/20 20:18 ID:obtu2val
>>25
>もしそうだったら楚に関する記録なんてまっさきに焼くはずだが残ってる。

楚王朝のころで既に長江文明は古代文明となっていただろうから、自分達の出所の記憶はなかったのでは?


41 :出土地不明:03/12/20 21:55 ID:vn3wP4eJ
>>37 チャンチャンウェンミンと読みます。

42 :出土地不明:03/12/21 03:04 ID:33T2C619
>>40
もしそうならばわざわざ始皇帝が焼く必要はない。
どっちにしても 23 の仮説は成立しない。

43 :出土地不明:03/12/25 04:45 ID:nrKzms5y
長江文明の発掘って、進んでるの。
日中共同なのかな?


44 :出土地不明:03/12/29 10:45 ID:oWF/KlER
>>37
チャンガンムンミョンと読むニダ!

45 :出土地不明:04/01/04 22:17 ID:MployvTf
三星堆の遺物の最上層には大量の象牙がばらまかれていたみたいだが
当時は四川盆地に象がいたんだろうね。
「象」という象形文字も明らかに象を見た人が作ってるぽいから
黄河流域にもいたのか。

46 :出土地不明:04/01/04 23:00 ID:c1c8OQxA
>45
華南までは広く象が住んでいたらしいゾウ

47 :出土地不明:04/01/12 02:44 ID:AaJEkriX
【海南】跪いて謝罪する「東条英機像」を製作(写真)
ttp://www.people.ne.jp/2004/01/10/jp20040110_35732.html

海南省のあるホテルに8日午前、日本のA級戦犯である東条英機が中国の人々に
跪いて謝罪する彫刻が登場し、市民の注目を集めている。

彫刻は、ホテル側が「現代の若者が歴史を忘れず、中華民族の再興という使命を
担っていくように」との願いを込めて特注したものという。(編集UM) 

「人民網日本語版」2004年1月10日


48 :出土地不明:04/01/18 17:47 ID:wVIswPpx
ちなみに私の彼女は青銅器フェチです。

49 :出土地不明:04/01/31 12:28 ID:scaRb/Ou
 ここ参照
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/hakari.html

 あと平凡社から出ている「新中国の考古学」(関野雄 監訳 1988 平凡社刊)を大きな図書館で探すといいかも。





50 :出土地不明:04/01/31 13:16 ID:y96mDqE8
>>49
> ttp://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/shinpo/hakari.html

なんだか懐かしい感じのする文章だ。社会・経済上の矛盾による体制の崩壊。
弁証法的唯物論だね。別に悪い意味で言ってるのではないので、誤解無きよう。

51 :出土地不明:04/02/17 22:57 ID:kSxQzt6g
何年か前、世田谷美術館で三星堆の青銅器遺物、縦目仮面や巨大な神樹を見て、
びっくり仰天。ところで「長江文明の発見」(角川選書)を書いた若手の
学者「徐朝龍」先生は今何処で何をしてるのでしょうか?


52 :出土地不明:04/02/17 23:22 ID:TF84Wu6d
京セラのサラリーマンだよ

53 :51:04/02/18 18:51 ID:W2tGq6zm
>>52
よく判りませんが、京セラから援助を受けて研究してるという
ことでしょうか? 京セラは太っ腹な企業なので、そのくらい
平気かなと。
先生には、是非研究を続けてもらいたいものです。

54 :出土地不明:04/02/18 19:14 ID:0UESLW0H
普通にサラリーマンやってるだけだと思うよ

55 :出土地不明:04/02/19 13:40 ID:30b46LnK
>45
そういえば「象」という漢字に訓読みがあるのはどうしてでしょうねえ。
日本にも象がいたんでしょうか。なうまん象とか昔のことではなく。

56 :出土地不明:04/02/19 14:40 ID:AMljW7Us
>>55
あれはもとの発音と似つかないぐらい変遷した結果、「訓読み」ということに
なった、ってだけの話だ。

57 :出土地不明:04/02/20 14:14 ID:Xslw8KBL
象の訓読みって「ぞう」ですか?

58 :出土地不明:04/02/20 15:44 ID:EVzNWiz5
>57
 「ぞう」は音読みで(何音かは忘れた〜)、訓読みは「かたち」とか「かたど・る」とかでなかったけ

59 :出土地不明:04/02/20 17:58 ID:Xslw8KBL
>>58
>>56もそのつもりで書いたのかな。
「かたち」、「かたど・る」なら完全に訓読みだと思うけど。

60 :出土地不明:04/02/23 00:35 ID:Gs7P4UY3
呉越を立てた長江人が海を渡って日本にも居住した
これが日本人である。
長江域に暮らす中国人と日本人は遺伝子的にも近いし、
魏志和人伝でも触れられているように和人は長江から東南アジア
日本と非常に幅広く住んでいた事でもわかるように
長江文明を樹立していたのは日本人だと断定して間違いないと思う。

61 :出土地不明:04/02/23 10:59 ID:2vlrFrES
日本人の先祖には、長江流域から流れてきたのも居るだろうけど、
ウリナラマンセー発想の60の祖先はきっと半島からやって来たんだろうなぁ

62 :出土地不明:04/02/23 11:01 ID:TltuVZ2S
>>57-59
最近の流れとして「ぞう」を音・訓両方に載せてる辞書がでてきてるみたいよ。
大字源とか。

「訓読み」の意味が問いなおされているようで。



63 :出土地不明:04/02/23 11:02 ID:TltuVZ2S
>>60
論理にかなりの飛躍があるな。

64 :出土地不明:04/02/23 11:43 ID:VQ8eL8zK
縄文人が長江の祖、これどうよ。

65 :出土地不明:04/02/24 12:46 ID:Y6YCdV0O
>>61
だよね。

66 :出土地不明:04/03/16 22:01 ID:S7FrgwY/
だよねじゃなく、二種類だろ、大きなルーツ的流れは。

67 :出土地不明:04/03/23 15:43 ID:PntyG3/W
>>64
縄文人が川になったのか・・

68 :出土地不明:04/03/24 19:05 ID:Z215Z/Nz
夏の時代に会稽に諸侯が集まったというのは舜の時だったっけか?

69 :出土地不明:04/03/25 00:59 ID:ze48H1hJ
禹のとき

70 :出土地不明:04/04/01 09:47 ID:ygw1CmmH
>>55
物凄く亀レスなんだがふと思い出した。
象の訓読みの話題なんだが地名に「象潟」があるよね。
これのことかな?でも「キサ」って何だ?

71 :出土地不明:04/04/01 12:28 ID:DzriNyDJ
>>70
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~koremaru/chimei/nenpoxx/nenpo10/KISAKATa.htm

72 :70:04/04/01 20:44 ID:81gNbitL
>>71
サンキュ

73 :出土地不明:04/05/10 12:55 ID:ehymmxml
a

74 :出土地不明:04/05/29 23:36 ID:pBMNAjwj

◎弥生時代の始まり、紀元前10世紀後半
 
国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授らは23日、千葉大で開かれた日本考古学
協会の研究発表会で、北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化
物を放射性炭素年代測定した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)は
紀元前十世紀後半」と発表した。

 同教授らは昨年、弥生早期の始まりを前十世紀とする説を出したが、早期初め
のデータを得られないまま早期後半の測定値などから推定していた。

75 : :04/05/29 23:36 ID:pBMNAjwj
今回の発表によると、佐賀県の菜畑遺跡から出土した「山の寺式」土器
(早期初め)の炭化物は、前930―前800年。福岡市の板付遺跡の「夜臼1式」
(早期前半)は前900―前790年だった。その結果、早期初めは前945―前915年
と推定されるという。

 また水田稲作が各地に広がった弥生前期の始まりは、北部九州が前九世紀末
だが、高知県の居徳遺跡や高松市の東中筋遺跡などの土器の測定から、四国や
近畿は前8―7世紀ごろとみられるという。〔共同〕 (07:00)

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20040524AT3K2302C23052004.html

76 :出土地不明:04/05/29 23:37 ID:pBMNAjwj
弥生期の渡来人と水田稲作による弥生時代の始まりとは全くの無関係。

水田稲作は前10紀後半に北九州から始まり、前8世紀には奈良まで伝わって
いた事が分かっている。

ただし、渡来人の渡来時間が早まるという発表は一切無い。

つまり渡来人は日本の稲作とは全然関係のない人々。

77 :出土地不明:04/05/30 13:29 ID:fETWxs98
>>76
稲だけやって来たわけ?
日本に於ける稲は帰化植物だったわけか。

78 :出土地不明:04/05/30 21:18 ID:UU2i9wW+
稲作自体は約6500年前から縄文人はやっている。
縄文海洋民が江南方面で持ち帰っただけでしょう。
水田も縄文海洋民が約3000年前に同様に持ち帰っただけでしょう。

縄文人は8000年位前の縄文早期頃は、人類初のヴァイキングと言っても
良いくらい、それはそれは大変な海洋民だったらしい。

朝鮮や江南はもとより、ミクロネシアやポリネシアなどの太平洋、はたまた
北アメリカや南アメリカまで、太平洋を股にかけて海を行き来していた
トンデモな人々だったらしい。

それほど全人類に先駆けて航海術に長けていた人達だった訳です。
「海を渡った縄文人」という本を参考に読みなされ。

79 :出土地不明:04/05/30 22:23 ID:jWU7Cf3P
「らしい」と「である」の間に横たわる懸隔のいかに大きいこと。

80 :出土地不明:04/05/30 22:59 ID:77uHNfT1
>>79
全く同感。
まさに「超えがたいヒアタス」ですな。

81 :出土地不明:04/05/30 23:20 ID:0Jhc+tSF
サヨック発想者は、中国朝鮮から来るという発想ばかりが得意で
日本から行くという発想が全くできない、ある種の障害者だからね。

82 :80:04/05/30 23:52 ID:77uHNfT1
>朝鮮や江南はもとより、ミクロネシアやポリネシアなどの太平洋、はたまた
>北アメリカや南アメリカまで、太平洋を股にかけて海を行き来していた

この範囲に縄文時代遺物の、類似品ではない確実な搬入品が存在していると
いう訳ですね。。。
大したものだ。。。

83 :出土地不明:04/05/31 08:34 ID:+VaVZ+ED
 もっと絶句しちゃうのは、確たる証拠もないのに、声がでかいやつが>78みたいなことわめきちらせば
それが「既成事実」になっちゃう現状ですワナ。

84 :出土地不明:04/05/31 17:30 ID:Q2sL35B1
まるで中国共産党の政策と同じですな

85 :80:04/05/31 17:48 ID:3OFcc105
こっちはもっと激しいですよ。。。

■■■弥生人は朝鮮を経由していない■■■
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1068266612/l50

86 :出土地不明:04/06/01 01:46 ID:R+rEO6uB

>そもそも、揚子江下流域に発生した稲作技術と渡洋能力を備えた人々が、
>大陸の戦乱を避けて、北九州〜半島南部一帯へ植民したのが倭人だろ。
>別に半島人が文化的優位性を背景に日本を侵略したってわけじゃない。
>でもって日本人は多かれ少なかれこの当時の倭人の血を引いてるわけだ。
>半島に残った連中はその後新羅に制圧されちまったけどな。
>だから現在の朝鮮人の一部と近畿やそれを代表する天皇家とが近縁なのは
>ある意味当然だろ。


いやあ、久々に江南デムパを見かけて、懐かしいので貼っておくw
みんなで腹の底から笑いましょう。


87 :出土地不明:04/06/01 05:45 ID:3MbV6JU2
隔離列島日本の住人の生成法

1・静的期間  大陸側沿岸国に民族戦乱のない期間
常時、少数の移民が日本列島に入植し続け、先人集落に埋没し続ける。
先人集落が発展し続ける期間。
数万年のスパンで日本人を形勢
土着豪族化 (オリジナルの日本象)

2・動的期間  大陸沿岸国に民族戦乱のおきた時期
第一期 秦の始皇帝の東征による、呉越民の滅亡
第二期 五胡十六国、異民族により中原から漢民族が四散
第三期 南朝の6度の王朝易姓 陳においては漢のエリアが極小化
第四期 大陸から非漢王朝化 隋による

それぞれ、列島内の先人集落に脅威となる規模にて入植。
場合によっては豪族化に成功。
第二期以外は、長江周辺の文明像を 日本に移植




 


88 :出土地不明:04/06/01 21:01 ID:oDVIWtTg
いつもソース無しの妄想だけ。

89 :87:04/06/01 21:21 ID:/FJPcLfp
ソース? ここは考古学だろ

地理的状況を論理的に絞っただけだが?
文献などある時代は少ないのが考古学な。

ポイントは、大陸沿岸部で民族戦乱が起きた時期だけ、
大規模難民が出る可能性がある。ってことだ。


90 :出土地不明:04/06/01 23:49 ID:EMfJiSOx
どうみても「地理的状況」を「論理的に」書いたものには見えんが。

「歴史上の事件および状況」を「恣意的に」関連づけた、というならわかるけれど。

91 :岩屋山亜式 ◆CAT9FZUkUk :04/06/02 00:07 ID:5t5Us25p
>>89
>文献などある時代は少ないのが考古学な。

??
遺構や遺物などの物質資料を使う方法が考古学だが…
文字記録の有る無しや多少とは、関係ない。

92 :87:04/06/02 01:01 ID:FAlqED6o
大陸沿岸部で民族戦乱が起きた時期だけ、
大規模難民が出る可能性がある。

これが先にあるんだよ。 次に正史の中で 
それに該当する事件をあげてみた。恣意的でもなんでもない。
北方でも南方でも何でもいい。 他にあるかい?


93 :出土地不明:04/06/02 01:25 ID:BF8igLMQ
考古学におけるソースは遺構や遺物。
少なくとも報告書くらいは出せ

94 :出土地不明:04/06/02 18:09 ID:zIv5tiTL
>>92
つまり、自分の考えにあいそうな事件(だけ)をピックアップした、ってことだろ。
そういうのを「恣意的」と言うんだよ。

95 :出土地不明:04/06/03 22:19 ID:bRLKZ6Yf
しっかし、江南渡来人妄想者は、稲作くらいしか まともなソースが
ないのに、よくもまあ、こんなにも妄想のアイデアがこんこんと
涌き出てくるよねw

なんか想像するだけでも可笑しくなってくるw

96 :出土地不明:04/06/03 22:20 ID:9BvHAqX/
民族移動とか伝播とかが好きな人が多いね。
なんで?
ワシは文化変化のモデルケースとしては弥生時代の始まりに興味はあるが、
渡来人がどっから来たのか、それが現在の中国人とか韓国・朝鮮人の直接の祖先かどうかなんてどうでもいい。
極端な話、イギリスにおける新石器時代の始まり、でもいいわけだし。
英語の論文読むのがマンドクサイから弥生に関心持ってるだけでさ。

97 :出土地不明:04/06/04 00:50 ID:V+sY1bkN
>>95
朝鮮半島経由がほんの一部だけでもありうると認めると自分のアイデン
ティティが完全に崩壊するような気がして、ついつい必死になるんだろ。
軟弱な話だよ。

98 :出土地不明:04/06/04 01:05 ID:fC2GgjYD
朝鮮を経由してても、渡来人の正体は朝鮮の原住民でなくて、
その支配者だった華北人なんだし。

99 :出土地不明:04/06/04 10:52 ID:an1N1YfD
朝鮮の原住民とやらが少しでも渡来していたと認めると自分のアイデン
ティティが完全に崩壊するような気がする人ですか?

100 :出土地不明:04/06/04 11:58 ID:6HQa0HGJ
>>98

華北人
朝鮮原住民(倭人?縄文?)
 
どっちにしても、北方系の現代朝鮮人とは無縁


101 :出土地不明:04/06/04 23:25 ID:j78EuT2N
無縁な訳が無い。
歴史の通り、現代朝鮮人は縄文人、満州人、華北人など、
しっかりそれらが混血したもの。

ただ分からないのは、華北人(弥生人)が来る前には、
既に満州人などの北方人種が朝鮮半島に侵入し、それまでの原住民と
混血していたかどうかである。

3世紀頃には朝鮮半島の原住民であった韓人は既に扁頭、
つまり超短頭〜短頭人種であり、中頭人種の華北人や倭人とは
形質を著しく異にしている。

また、最も北方系は実は倭人。古モンゴロイドだが。

102 :出土地不明:04/06/05 09:13 ID:L44pYdTF
倭人が、「太白(周王家の初代長兄)の後裔で、大夫(王の血を引く家臣)
である」というのを、呉国王の後裔とか、江南とか、長江に無理矢理こじ付け
る人がいるようだが、やはり彼らの先祖は華北の黄河流域のどこかから、
黄河を下って、渤海より朝鮮南部を経由して日本に入った渡来人だったのだろう。

103 :出土地不明:04/06/05 09:35 ID:EZ6zQ2C5
アホ、太白=呉国の祖  史記読め

104 :出土地不明:04/06/05 15:18 ID:9e62ZmuB
周の血を引くという点では、華北系である事に間違いないのだが。
倭人は呉の原住民ではなくて、華北から来た呉の支配階級の枝分かれ
だったのかもな。

いずれにせよ吉野ヶ里弥生人骨は華北型。

105 :出土地不明:04/06/06 10:57 ID:f68Fy/kg
>>104
それは、多いにありえるね。
と言うのは、600年頃大陸では漢人がほぼ全滅したと言われ、
現代の呉の民族と、紀元前の呉の民族は全く違うかもしれない。
もしくは、 春秋等民族内戦乱期で、大移動するのは、百姓ではなく
貴族のみ。 そして秦帝は中国史初めて、地方の諸王貴族を廃止した。
(それまでの春秋戦国は、周王家ゆらいの1000年貴族が土地を支配は変わらず)
秦帝の中央政権政策で、貴族は大陸から逃げるしかなかった。

106 :出土地不明:04/06/06 13:45 ID:8HuovGdI
黄河人である征服者華北人たちの容赦無き江南への大量流入。
それは長きに渡り独自性を保ってきた長江世界の終わりを告げる時でもあった。

長江人たちの血と汗と涙の結晶であるはずの稲作だけが、
容赦無き征服者たちを満たすために引き継がれていった・・・

107 :出土地不明:04/06/06 21:00 ID:QJ046qMn
>106

どこからそういう香ばしい妄想が沸いて来るんだ…?

>と言うのは、600年頃大陸では漢人がほぼ全滅したと言われ、
おい、隋の統一時に漢民族ホロコーストが行われたと言う記録が在るのか?
魏晋南北朝における北方騎馬民族との融合による混血により、漢人の混血が進んだ
のは事実だが、漢人全滅なんていう電波はどこから出てくるんだ?

>もしくは、 春秋等民族内戦乱期で、大移動するのは、百姓ではなく
貴族のみ。 そして秦帝は中国史初めて、地方の諸王貴族を廃止した。

詩経に出てくる民衆流浪の記録はスルーか?一説には、春秋戦国の時流浪した民衆が
日本に渡ってきたというがね、その説にかんしてはどう思うのかね?

>秦帝の中央政権政策で、貴族は大陸から逃げるしかなかった。
大変だ!韓の公子張良は日本に逃げてきていたんだね!

余りにも痛々しいのでさらしあげ

108 :出土地不明:04/06/06 21:36 ID:0r1YUUf2
>>107
あなた、番号を間違えてますよ。

109 :出土地不明:04/06/06 21:49 ID:f68Fy/kg
>>107
頭悪いのに、必死すぎ。プッ。

隋統一時の漢民族の推定 わずか500万人だろ。 調べてみろ
 春秋時代百姓の移動は、トピックとして特異な現象だな。
史記を読んでみよう。 一度の戦乱でも占領下の農民を虐殺した事や
排斥した事はない。(民衆が逃げたのはある)
大陸から、大陸外へ逃避するだけの歴史的な事件といえば、
秦の中央政権政策だ。
なぜなら、全国の1000年貴族を廃止したからだよ、各貴族の財産も奪われた。
これは、共産革命と同じ事。 大陸に貴族の生きるすべなどなくなった。
大陸外に退避する必然性は、有史以来この一回だけだというくらいである。
さらに、始皇帝宣言後、最後まで抵抗したのが東の辺境である。


110 :出土地不明:04/06/07 20:36 ID:E7gmzXwH
>隋統一時の漢民族の推定 わずか500万人だろ。 調べてみろ
あなたの推計の根拠が分からないのですが?
当時の史書・杜佑の『通典』巻七によれば隋の人口は4601万9956人です。
このうち南朝陳の戸数は50万で、安本美典の推定によれば当時の1戸あたりの
人口は約4人ですから約200万となります。
この当時の漢民族と言う概念は宮崎市定らが指摘するように非常にあやふやなのですが、
一応南朝のひとびとを正統な漢民族だとすると200万人となりますし、
北方のひとびとを含めれば漢民族の人口は4601万9956人+αとなります(朝鮮や日本へ移住した
漢民族も多数いる)。
この当時500万人という推定をどなたがなさったのか
わかりませんが、何を根拠としてそういう数字をはじき出したのでしょうか?
根拠不明な数字を挙げるのはやめて、証拠があるのなら出していただけませんか。
あ、言っておきますが岡田英弘の中国意外史のような証拠と数字のはじき出し方が
わからないような本を、博学なあなたがまさか根拠としてあげるとは思えませんが、
ああいうのはやめてください。そこまで強く言い切ったのですから、
当時の戸籍などからきちんとした数字を出してね。

111 :出土地不明:04/06/07 20:56 ID:E7gmzXwH
>109

>史記を読んでみよう。 一度の戦乱でも占領下の農民を虐殺した事や
排斥した事はない。(民衆が逃げたのはある)

始皇帝が邯鄲で占領下の民衆虐殺を行ったことが他ならぬ史記に出てくるのですが。
>なぜなら、全国の1000年貴族を廃止したからだよ、各貴族の財産も奪われた。

そんなこと史記のどこにも書いていないのですが。天下の豪族12万を移住させたと言う
ことは書いて有りますが、貴族廃止ということはどこにもありません。秦は功績のあった兵士に兵爵を
与えあちこちに封建領主を作ったり、民衆に位を与える民爵を行っていたようですがそれらを全部
始皇帝が剥奪したという記録がどこかにあるのでしょうか。また新出土資料にそのようなことが
あるのでしょうか。わたしが以前睡虎地の秦簡を読んだ限りでは、そのようなことはなかったのですが。
わたしは浅学でそのような史料を存じませんのでご教示賜りますよう宜しくお願いします。
また、千年貴族と言うのは日本や中国の史学ではわたくしが見聞する限りに於いて聞いた事が無い単語ですが、
朝鮮半島ではそのような言い方をなさるのでしょうか。

>大陸外に退避する必然性は、有史以来この一回だけだというくらいである。
じゃあ、隋書の「百姓の自ら抜して南に奔る」とか、そういうのは捏造か何かだったのでしょうか。
日本にやってきた有漢氏とかはどうだったのでしょうか。
いやあ、史書ってどこまで本当なんでしょうね!!

112 :出土地不明:04/06/07 21:13 ID:TnU7bRW2
>>111
> わたしが以前睡虎地の秦簡を読んだ限りでは、そのようなことはなかったのですが。
> わたしは浅学でそのような史料を存じませんのでご教示賜りますよう宜しく
> お願いします。

きっと里耶秦簡を読める立場の人なんだよ、うん。

つうか、夏殷スレもここも滅茶苦茶。何もレスがないよりは良いのか…


113 :出土地不明:04/06/08 11:16 ID:WJ6QpsLe
>>111
日本語を解せないのかい?
春秋時代に百姓の虐殺などの記述はなく、
秦帝の時のトピックのみに、1000年貴族が廃止になったとかいたろ。
1000年貴族というのは言葉どおり、解せないならば、君は
中国史を理解してないという事だよ。
BC1200年以前を含めて、中国史では土地は常に、
王朝始祖ゆらいの豪族などの封建制。全土が1000年続く土地の貴族の
所有土の制度だった。 

>>都に豪族を12万移住させた
この意味が理解できないなら、歴史のセンスそのものがないってことだよ。
土地を奪われた貴族は滅亡と同じ事。
この秦帝の代において、はじめて大陸外に逃避するしかない豪族が発生した。
1000年変わらずの領土が喪失させられた
歴史的稀有の事由を書いている。

電波もの等ではなく、中国正史をしっかり勉強したほうがいい。

114 :出土地不明:04/06/08 11:22 ID:WJ6QpsLe
ちなみに、続く漢は、秦の中央直轄郡制度にプラスして、
元の皇族による封建領土制をミックスさせ、
領土貴族主義が復活する。

漢の劉邦が中国史初の百姓出身の帝というのは、秦帝の貴族破壊により
地方の豪族が消滅したゆえとされている。

115 :出土地不明:04/06/08 12:16 ID:K1OCZyiR
http://ime.nu/lint.s1.x-beat.com/up/img/up5176.jpg
この土器なんかちょっとそそるね

116 :111:04/06/08 23:05 ID:qdVWP0Va
>113

まず、わたくしが質問した事項に誠実に回答していただけませんか。
また、史料の提示を全くなされないのはどういうことでしょうか。

>春秋時代に百姓の虐殺などの記述はなく、
史記をあなたは当然お読みになっているはずですが、殷の帝辛の事跡
についていかが思われるのでしょうか。自らの主張に都合の良い
春秋時代にのみ言及されるのかわかりかねます。

>秦帝の時のトピックのみに、1000年貴族が廃止になったとかいたろ。
1000年貴族というのは言葉どおり、解せないならば、君は
中国史を理解してないという事だよ。

わたしは中国史を理解できておりませんので、もう一度ご説明をお願いします。
1000年貴族とはどの学者がいつ頃言い出した説なのでしょうか。また、根拠となる文献の提示を
再度お願いします。中国史を理解されているあなたさまなら、もちろん御提示願えると確信しております。

>BC1200年以前を含めて、中国史では土地は常に、
王朝始祖ゆらいの豪族などの封建制。全土が1000年続く土地の貴族の
所有土の制度だった。 

いやあ、わたくしが以前中国史をかじった時には郭氏が提唱された殷(商)代奴隷制というものが
定説になっていたのですが、随分定説も変わったものですねえ。三皇五帝の頃からずっと
封建制だったとは眼からうろこが落ちる思いですが、根拠はなんでしょうか。

>この意味が理解できないなら、歴史のセンスそのものがないってことだよ。
わたしは歴史のセンスがこれっぱかしもございませんので…センスをお持ちのあなたがうらやましいです。



117 :出土地不明:04/06/09 06:56 ID:JpvsZzQa
呆れる程にセンスないね(笑)
1・春秋時代に百姓・・・ 
質問にセンスがない。俺の主張は春秋の話でそれが正しいならOKだろ?
何聞いてるのかさっぱり?

2・1000年貴族・・・
1000年貴族は、俺がこの2chの記載の中で創作した表現だが?
それが何か不満なのかな? 表現センスあるだろ(笑)
なぜ秦帝の施策で滅せられた貴族を1000年貴族と評したか
続く3で説明しよう

3・いいかい王朝の全領域に対しての地方の土地の状況を見て
貴族の存在を比較するんだよ。

秦: 全領域が非封建制の直轄地となり(領土を与えられる諸豪が不在となり)
   12万の貴族が都に移される、それぞれの土地を所有していた金持が
   土地を奪われる。 つまり全領域での在地の貴族死滅

周: 全領域が封建制 周朝由来の諸王が領土を与えられ、
   それぞれの領土内にはその土地由来の貴族が古来からの家業を継続
   周朝由来の貴族でも約900年、在地の貴族社会はさらに古来から

殷: 君のセンスのなさは、ここで奴隷制を持ち出した事からも明白。
   それは殷の中央の話。
   この時代は、地方に殷朝由来の諸王を封じる事すらできなかった
   全国800諸豪と4大諸豪があったとされ、もちろん、土地の支配権は
   それぞれのもの。   封建制以前といっても良く、800諸豪というくらい
   それぞれの土地に貴族いた。 (貴族存在度100)

結論: 秦帝が中国史ではじめて王朝全域で、その土地の諸豪を壊滅させた。
    この事件は、それぞれ1000年貴族というべき周においての900年、
    さらにはそれ以前の殷代から続く、土地に根ざし続ける貴族達が
    有史以来はじめて中国王朝から逃亡しなければならなくなる事件である。

いいかい、三皇五帝なんて時代は封建制どころか地方には王由来の統治者が
不在なんだよ。 テーマ判ってる? 爆笑すぎて話しにならんな




118 :出土地不明:04/06/09 07:41 ID:1eAk4Wlx
117が本物の厨房であることだけは確かだな。

>つまり全領域での在地の貴族死滅
ヨコミツの史記のまんがも読んだ事がねえのか?死滅した貴族がなんで秦滅亡後
ボコボコボコボコ出てくるんだ?つうか藻前ゲームしかやったことねーだろ?
中国全土ってどんだけひろいのかわかんねーか?ヒッキーだから知らないのか?

>全国800諸豪と4大諸豪
はいはい封神演義しか読んだ事の無い厨房は三戦板へお帰り。

>爆笑すぎて話しにならんな
>(貴族存在度100)
>俺がこの2chの記載の中で創作した表現だが?

藻前、マジで馬鹿だな。隣の国へ帰れよ。

119 :出土地不明:04/06/09 08:04 ID:XWBqWUrK
>俺がこの2chの記載の中で創作した表現だが?
コンセンサスのない言葉を使うというセンスのなさ。呆れる程にセンスないね(笑)

殷: 征服した異民族の宗教拠点等に王子を派遣して支配。
周: 軍事的拠点に一族を移封して支配。諸侯同士で領土の割譲がおこなわれることもあった。
秦: 統一後も封君が存在していた。

はたして、戦国の世に旧来の地を保ちえた者などいたのだろうか?

120 :出土地不明:04/06/09 08:11 ID:JpvsZzQa
>>118
秦滅亡後、皇帝になったのは、百姓出身の劉邦なんだよ。
彼が、封建制貴族社会を復活させた。良かったな〔笑
たしかに殷の記述は16世紀の封神演儀の表現をそのまま持ち出したのだから
突っ込まれても仕方ないな(笑)  で? だからなんだといいたいんだい?
地方に貴族が存在できた時代って意味は判るね?
申し訳ないがゲームをやるほど若くないんだよ

スレ関連に戻すが、始皇帝の時の中央政権制度によって全国の貴族は
貴族としての力を絶滅させられたんだよ、これは有史以来はじめての大事件であり
諸豪や貴族が、王朝以外に逃避せざるをえなくなり朝鮮半島や日本に大量に
移動するだけの可能性が生まれたのは、この時がはじめてなんだよ。

121 :出土地不明:04/06/09 08:19 ID:JpvsZzQa
>>119
殷;
周に比較した場合として、殷が封建制と分類されていないが、確かに
殷もまた地方に殷王朝の皇族を置く事はあった。 でそれがどうした?
周:
春秋時代も農民虐殺や貴族廃止等の記載はなし。 諸侯は元は周王室ゆかりで
遠戚のようなもの。 で?諸侯の争いで各地の貴族が存続できなくなったってのは?
君の脳内妄想以外にソースはあるのか?


122 :出土地不明:04/06/09 09:13 ID:XWBqWUrK
>>121
>土地に根ざし続ける貴族達が
自分で書いといてつっこまれると知らん振りですか?www
周王の意向で三方国替えのようなことが行なわれたり、晋は同姓の国を滅ぼしまくったり、
貴族と土地は切り離せないという主張そのものが嘘だということがわかる。


さて、?の文公は土地を遷ることを考えた。
占った結果、民にとっては利だが君主にとっては害であると出た。
しかし、?の文公は「民の利益こそが私の利益である」として移住を決行した。
?の文公はその後まもなく亡くなった。
ただ、面白い話を紹介しただけ。

123 :出土地不明:04/06/09 22:46 ID:1eAk4Wlx
うーん

124 :出土地不明:04/06/09 23:05 ID:1eAk4Wlx
あ、途中で送信しちまったよ。すまないね、本当に…

>秦滅亡後、皇帝になったのは、百姓出身の劉邦なんだよ。
彼が、封建制貴族社会を復活させた。良かったな〔笑

あのね、漢の高祖を「劉邦」というのはかなり問題が有るんだけど、そういう基礎的な話からしなければいけないのかい?
あとさ、漢の高祖が行った漢初の郡国制のどこが「封建制貴族社会の復活」なのかな?
諸侯王の権限が大幅に狭められている(極端に言えば名目だけの統治で、領国統治の
実権は官僚に委任されている)とか、旧秦の地域では封建が行われていないとか、
復活と言うことができるとは思えない、秦の制度を色濃く遺した制度なんだけど。

>たしかに殷の記述は16世紀の封神演儀の表現をそのまま持ち出したのだから
突っ込まれても仕方ないな(笑)  で? だからなんだといいたいんだい?

「フィクションを史実と混同するのはおかしい」と言いたい。
ここまで単刀直入に言えば、わかるだろうな?

>諸侯は元は周王室ゆかりで
遠戚のようなもの。
へえ、長江文明の楚国って周王朝の遠戚だったんだね?!初耳。

>諸侯の争いで各地の貴族が存続できなくなったってのは?
君の脳内妄想以外にソースはあるのか?

春秋左氏伝の至るところに、滅亡した貴族についての記載が有るんだが。

125 :出土地不明:04/06/10 17:29 ID:87CWNAX9
あー。双方そろそろ落ちついてくれんかね。


126 :出土地不明:04/06/17 23:39 ID:Bt0mSDjo
長江文明は
梅干・納豆などに違和感のない、醗酵食が豊か。
倭人の食文化に影響しなかったとは思えない。

127 :出土地不明:04/08/10 02:31 ID:+EER9rNw
今日から東京都美術館で三星堆をやるね

128 :出土地不明:04/08/10 02:52 ID:bL1mpKNv
鳥越先生の調査報告はおもしろいけど、
なんでもかんでもテキトーに「倭族倭族」と
呼ぶのはやめて欲しい。民族なのか文化圏なのか
使い方が曖昧。

129 :出土地不明:04/08/10 08:12 ID:iAEfVqiS
 裸族萌え

130 :貝塚マニアと楚蛮文明:04/08/17 02:33 ID:0uRvSMu7
>>127
先日の日曜見に行きました。
十二楽坊使って、いやらしいなと思いつつ、それに釣られるヤツが
学術的かつ学問的なこの展覧会で一体何が判るんだろう?

十二楽坊が最後に締めとして「中国は多様」と括ったが、
「もう中華じゃないじゃん」というつっこみはさておき、
これは結論を急いで他に求める最近の中国の短絡的な商業主義が前面に出たって感じ。

隣の松坂屋デパートで同じ中国の展覧会も併せて見に行ったんだけど、
殷周の括りとしてその巨大な青銅仮面を展示して如何なものかな?

殷も周も中原の都市国家じゃん。
しかも巴蜀(楚蛮の地、今の四川)すら支配していた証拠など無いのにも拘わらず。

かの展覧会(都美)は黄河も長江も同じ源流だとよ。

出た!
中華の強引な正統主義!
川の本来の名前からして違うじゃん。
北は「河」南は「江」と呼んでいたはずだろうに!

131 :出土地不明:04/10/02 18:34:09 ID:8mj8Zjdf
昔は揚子江と読んでいたのになぜ最近は長江なんだろ?

132 :出土地不明:04/10/03 15:03:10 ID:afWl/OjR
読みやすいし呼びやすいからだと思う。

133 :出土地不明:04/10/04 02:55:14 ID:P+hJckw1
中国ではもともと「長江」の方が一般的だったんだよ。
最近は日本でもそれに従っただけ。

「揚子江」という名は、最下流部の揚州あたりの流域だけを
指すローカルネーム。毛唐が長江全体を揚子江というのだと
勘違いして、それが広まった。欧米追従の日本でもそうなった。

134 :出土地不明:04/10/06 09:57:18 ID:WS/L2sqQ
長江文明って漢族か。


135 :出土地不明:04/10/11 22:50:51 ID:nDUHkqM0
いや、塗仏の宴

136 :出土地不明:05/03/19 09:13:47 ID:mOKE/+GG
『中国の歴史01神話から歴史へ』(講談社)
誰か読んだ〜?

137 :出土地不明:05/03/19 14:13:15 ID:IDJWul2k
>>134
難しいね。よくわからない。漢民族が北方的なのは南方的なのかは、
なんともいえないと思う。長江流域の稲作民はなんとなくだけど、
漢民族でないのが、漢民族になったようなケースが多いし、だから、
ちがうんじゃないか。

138 :出土地不明:05/03/20 06:29:08 ID:Fsp8KIWv
江 南 は B 5 2 - D R 1 5 が カ ラ ッ ポ !

例えば、日本人には10パーセントと高率に見られるハプロタイプは、
朝鮮半島に行くと二、三パーセント、中国大陸の北のほうでは1パーセント
程度しかないんですが、モンゴル共和国に行くと5パーセントに跳ね上がる
んです。そうすると日本人に最も多いハプロタイプはモンゴルから来た
らしいと分かるわけですよ。

http://www.interq.or.jp/dog/macendo/book009.htm

中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠華北人≠西日本人
中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠華北人≠西日本人


139 :出土地不明:2005/04/07(木) 02:51:31 ID:GicueZXU
>>138
だから、そこからの解釈としてもっとも蓋然性が高いのは、
日本で10%で、モンゴルで5%しかいないんだから、日本から、
モンゴルにどどっと人がでていって、モンゴルの半数が日本系の
人になった、ということだろうが。どうして、モンゴル人が日本に
来るっていう結論になるんだよ?

140 :出土地不明:2005/04/07(木) 09:22:15 ID:u1/z3an1
モンゴルコピペうざいな。専用スレ立ててやって欲しいぜ。

141 :出土地不明:2005/04/07(木) 13:04:06 ID:YE5yPQaS
むしろチラシの裏で・・・

142 :出土地不明:2005/05/15(日) 12:32:44 ID:kOo0ryXR
 ┏━┓┃┏━┓  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       ┃      │  我が名は饕餮!彝器に我が尊顔を見出した
  ●   ┃   ●  <  る者、おそれおののきひれ伏すがよい!
       ┃       \___________________




143 :出土地不明:2005/11/06(日) 23:13:11 ID:lOe3gMAR
up

144 :出土地不明:2006/06/23(金) 23:36:05 ID:xYJNPL1u

河姆渡文化

http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM



145 :出土地不明:2006/06/24(土) 00:01:01 ID:5cwS7FwK

河姆渡文化

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


146 :出土地不明:2006/06/25(日) 04:06:21 ID:7ueQZROR
わくわくするね

147 :出土地不明:2006/08/08(火) 01:02:22 ID:40NmZ/mi

倭人の故郷だな

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm

148 :出土地不明:2006/08/08(火) 03:20:08 ID:Q4HrEYTy
倭人なんて滅んだつぅのが中国の戦略だろ。
逆に日朝同祖は戦略に使ってくるだろ。これはメリケンも一緒w

149 :出土地不明:2006/08/08(火) 08:54:19 ID:5oDVSUTW
↓妄想家の正体=高卒のアホ


氏 名   杉崎好洋 (すぎさき よしひろ)
誕生年   1960年(昭和35)10月生まれ
出身地   岐阜県大垣市赤坂町(赤坂中,大垣東高卒)
現住所   愛知県名古屋市南区
職 業   会社員 (名古屋市内の食品会社に勤務)  
家 族   妻, 娘2人

150 :出土地不明:2006/08/08(火) 20:16:51 ID:PCqfgy8S
      ↑
陶器オタクさん、こんばんは、いそがしそうね。

151 :出土地不明:2006/08/09(水) 15:36:26 ID:MoDzkspK
BC35C頃に高床式住居、甕棺墓(土器棺墓)が日本に出現するが・・・・・


高床式倉庫群、竪穴式住居群、千五百年の営みを積み重ねて来た遺跡、
建物跡ひとつをとっても同じ場所に何度も建て替えられている。
三内丸山に集落があったのは縄文時代前期半ばから中期末までの一五〇〇年間
も古い前期半ばは紀元前三五〇〇年頃、いまからおよそ五五〇〇年前だ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~zpmasasi/sannai.html

青森県内の縄文時代早期から中期後葉の墓を集成し、埋葬方法の種類と
移り変わり、配置についての基礎的な分析を行った。青森県内の埋葬方法は、
早期後半に大半が出そろい、前期中葉に土器棺墓、前期末葉にフラスコ形
土坑が出現して副葬品の量にも差が生まれる。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/special/koubo_sha.html

152 :出土地不明:2006/08/09(水) 15:37:53 ID:MoDzkspK
BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代に全く伝わっていないっ!


浙江省余姚(よう)県河姆渡遺跡を標準とする新石器時代の文化をいう。主に寧紹平原の
東部地区に分布している。河姆渡遺跡には四つの文化層があり,第1層は良渚文化早期と
類似しており,第2層は馬家浜文化の要素がある。第3・4層は河姆渡文化層で,上の両層
よりも古く,注目すべき出土器物がある。土器は原始的な手づくりの,あらい厚手の不整形で,
低温で焼かれた夾炭黒陶が最も多く,混ぜられた植物の茎葉砕片やもみ殻が焼けて炭化し,
土器を黒色にしている。夾炭黒陶は第4層では最大量を占めるが,第1層に至るほど漸減し,
第1・2層では焼成温度の高い砂混じりの夾砂紅陶・灰陶が優勢となる。第4層の土器の主な
ものに,釜・罐(かん)・鉢・盤・器台がある。釜が四つの層を通して出土し,形態と
装飾が最も多様なところから,釜を南方地区新石器文化の特徴とする見解がある。第3層
出土の甑(そう)は,蒸気熱を利用した穀物の蒸し器で,のちに朝鮮・日本などに伝わり,
東アジアに特徴的な穀物を蒸して食べる調理法を普及させたものである。また紡錘のほか,
濃茶の文様を施した数個の彩陶片も発見されている。遺跡層が地下水面下にあったため,
多くの木器が保存され,耜(し。すき)・碗・盆・かい・杵・矛・紡・紡錘などのほか,
組み合わせ部品用と思われる大小の棒が発見されている。
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D276R100.HTM

153 :出土地不明:2006/08/09(水) 15:38:37 ID:MoDzkspK
見よ!

BC50C頃の河姆渡遺跡に既にある、骨製や木製の鋤、黒陶や彩陶、
釜・甑・鉢などの器形が縄文時代にさーっぱり伝わっていない。



◎河姆渡遺跡

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
http://homepage3.nifty.com/sugar-tr/joumonG.html




154 :出土地不明:2006/08/10(木) 20:40:51 ID:4ajs9oNs
 日本全国にある多くの神社が、古代韓半島の直接的な影響を受けてできたもので、相変らず我々(ウリ)の神さまを
祀っていることを、韓日研究陣が確認した。シン・ジョンウォン韓国学中央研究所教授が導く韓日史学者4人は去年、
東京と近隣埼玉県、神奈川県など関東地方と京都の神社50余所を訪問、このような事実を把握した。
 教授らが最近発刊した「韓国の神さまをまつる日本の神社」というタイトルの研究書によると、古代韓半島渡来人たちは、
日本に定着して、故郷での慣習どおり祭壇を建てて氏神と豊年を祈る祭祀を定期的に行った。
 これによって韓半島系統の神社を日本列島で祈るようになった。
 西暦927年に完成した日本古代律令集である「延喜式」の神名帳には、当時、全国2千861個の重要神社と祭神が記録されており、
その中でかなり多数が韓半島渡来系神社に推定された。
 代表として埼玉県の「高麗神社」が挙げられる。この神社は日本で「高句麗」を「高麗」と表記、「コマ」と読んだと
いう事実で、韓半島渡来系神社なのが容易に確認される。
 大阪府の飛鳥戸神社は百済系飛鳥戸造一族の氏神である「飛鳥大神」の祭祀を行っている。「飛鳥大神」は百済の崑枝王だ。
 徳島県には「新羅神社」がある。この神社の扁額には「新羅神社」と明記してあり、地元の人たちも「シンラジンジャ」と
呼んでいる。
(中略)
日本神社を管掌する「神社本庁」によれば現在日本列島には 8万7千余神社がある。
非登録神社まで合すれば10万余ヶ所を上回ると推算される。
 シン教授は「今回の研究の収獲は、日本全国に散在した多数の神社が、古代韓半島に起源があることを目で確認したこと」
と言い、「靖国神社によって関心が高くなった日本の神社に関する新しい理解に役に立つように願う」と言った。

ソース:世界日報(韓国語)を抄訳<現存日本神社多数韓半島神さま仕えて>
http://www.segye.com/Service5/ShellView.asp?TreeID=1052&PCode=0004&DataID=200601020809000893
中央日報もキタ━━━━━(゜∀゜)━━━━━!!!!! 
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=71292&servcode=400
前スレ
日本神社の多数は韓半島起源!
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1136184885/




155 :出土地不明:2006/08/10(木) 21:33:34 ID:QtutY7Ih

 2、高床式住居と神社建築

 稲作と高床式住居を携えて日本列島に移住した倭人は、米を籾のまま
高床式の穀倉へ保管しました。冬の間、穀倉で守られ種籾の穀霊は、
翌年の春に新しい生命を再生させ、秋には豊かな実りをもたらすと
考えられていました。
 
 「テン国」時代の遺跡から出土した青銅器に、収穫期に人々が稲束を
高床式の穀倉に運ぶ情景が描かれたものがあります。その上に描かれて
いるのが、3羽の鳥です。現在のタイの少数民族の間でも、鳥は
「神が天降りるための乗り物」だと信じられています。
青銅器の絵画は、その倉が単なる穀倉ではなく、
「農耕神が鳥に乗って天降っている聖なる建物」であることを示して
いたのです。

 日本で出土した高床式穀倉の絵画には、1〜2世紀までさかのぼる
ものがみられ、様式も「テン国」のものと大差ありません。
後に大和朝廷が伊勢神宮を建設するときも、「稲の産屋」である
高床式穀倉を神殿として継承、現在に至る神社建築が確立したと
考えられています。日本から遠く離れたタイ山岳民族の住居と、
私たちが普段身近に接している神社の本殿にこのようなつながりが
あったとは、驚きです。実は、このように酷似しているのは
これだけではないんです。

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm



156 :出土地不明:2006/08/10(木) 21:38:17 ID:QtutY7Ih
3、村の門と鳥居

 日本列島でも、タイの山岳民族でみられるような木彫りの鳥が、
弥生時代の遺跡から出土しています。それも住居跡ではなくて、
村の出入り口にあたる場所でです。これは、古代日本でも、
アカ族と同様の門があったことにほかなりません。村内に悪霊が
侵入するのを防ぐ目的で建てられていた門は、やがて、より神聖な
場所である神社の入り口に建てられるようになっていきました。
これが「鳥が居る門」、すなわち「鳥居」ですね。

 写真右は、熱田神宮の鳥居です。比較してみるとその形態は
そっくりです。相違点は、神社の鳥居には貫(下段の横板)があるけれど、
アカ族の門にはないこと。アカ族の門は毎年建てられるので補強は
必要なかったのですが、鳥居は恒久的施設にするために補強が
必要だったと考えられています。つまり、アカ族の門が鳥居の原型と
いうわけですね。

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm





157 :出土地不明:2006/08/10(木) 21:45:11 ID:QtutY7Ih
 1.倭人

 弥生時代初期に、中国の江南(長江の流域以南)から日本列島へ
渡来してきた集団は倭人と呼ばれていました。3世紀後半の中国の
史書『魏志倭人伝』(通称)には、倭人に関する詳細な記述があり、
その特徴として「稲作、貫頭衣(着物の祖形)、断髪(ザンバラ髪)、
黥面・分身(いれずみ)、潜水漁労、歌垣」などが挙げられています。

 7000年前、倭人はこの2つを携えて長江を下り東シナ海沿岸に到達
しました。4000年前、漢民族の進攻より苗族が圧迫されて南下した際、
倭人は上流と下流に分断され、下流の倭人は「越人」と呼ばれるように
なりました(越と倭の古音は、ともに「wo」)。さらに、
春秋時代(紀元前8世紀〜同5世紀)には「呉」や「越」を建国。
史書では、呉・越人の特徴として「稲作、断髪、鯨面・分身、潜水漁労」
が挙げられていますが、これらの諸特徴は『魏志倭人伝』の倭人と
まったく同じです。そして、戦国時代、これらの人々は呉・越の滅亡
による戦乱と混乱をさけるため、「ボートピープル」となって
中国大陸を脱出、稲作と高床式住居を携え、江南とよく似た
気候(照葉樹林帯)の日本列島西部に到着しました。これが、
弥生時代の幕開けとなったのでした。

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm




158 :出土地不明:2006/08/10(木) 23:32:55 ID:bIrZRxC/
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159 :出土地不明:2006/08/11(金) 11:06:39 ID:6rKMX9+L

当時の古朝鮮半島の南部には鳥を神聖な神とする風俗が存在した事実が
認められ、日本の神社のどこにもある「とりい(鳥居)」も、もともと
「鳥が居る」という意味で、南朝鮮半島に多く存在する風俗であった。
それは、トリを村や村を守る災難避けの神とする古代信仰から生まれた
風俗で、村の入り口の立てられていた。5、6世紀に到来した馬、牛も騎乗、
運搬、耕作用であり、弥生文化が食用家畜の飼育を受け入れなかった
ことは、その後の日本の食文化に大きく影響した。

http://www.toolware.jp/helpdesk/citizenship/citizen34.html

160 :出土地不明:2006/08/11(金) 11:22:35 ID:6rKMX9+L
ここで「狄」は、異民族を表すケモノ扁に音符の亦(火は誤った形)を
組み合わせた字で、亦(テキ)とは高く抜き出た鳥の尾羽(?、卓)を
意味する。すなわち、頭(の帽子)に鳥の尾羽を掲げた異民族を指す
言葉だという。北方の蛮族を後代の中華では北狄と呼ぶが、殷は山東省に
拠った氏族と深い親近関係にあり、軍事力の過半を彼らに頼っていた。
簡狄の出自はおそらくその周辺(北東方)に勢力を張った氏族のひとつ
だったとみられ、分(春分・秋分)を司った玄鳥氏以下、多くの氏族が
殷の中枢に迎えられている。彼らは鳥を祖霊として信仰していた
(玄鳥氏、鳳鳥氏、青鳥氏、丹鳥氏、祝鳩氏といった氏姓は、黄帝の子、
小昊金天氏の代に定められた官位名ともいう)。中宗・太戌に仕えて
卜占を司った中衍(ちゅうえん)は「鳥身人言」の鳥巫であった。

以上の状況証拠から推測すると、殷代には太陽と鳥の信仰があり、おそ
らく広く民衆レベルで支持されていた。そのため歴代の(おそらく外来の)
王たちは、「太陽の子孫=天意を受けた支配者」という称号によって人心
掌握を計ったのではないかと考えられる。また鳥信仰の基盤は、北東方の
民族(北狄または東夷)から受け継がれたらしいこともわかる。
http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/fav/gyokusou2.html

161 :出土地不明:2006/08/11(金) 12:42:38 ID:6rKMX9+L
>戦国時代、これらの人々は呉・越の滅亡による戦乱と混乱をさけるため、
>「ボートピープル」となって中国大陸を脱出、稲作と高床式住居を携え、
>江南とよく似た 気候(照葉樹林帯)の日本列島西部に到着しました。
>これが、弥生時代の幕開けとなったのでした。


高床式建築は5500年くらい前、稲作は6000年くらい前から日本には
ありますが何か?

BC4〜5Cに呉・越が滅亡するが、その500年前のBC10Cには既に
水田技術は日本に伝わっていますが何か?

日本最古の水田遺跡である菜畑遺跡や板付遺跡には江南に既にある
青銅器、灰陶や印紋陶や原始磁器や三足土器などの江南の土器や
その擬似物さえいっさい見られませんが何か?

その変わり、朝鮮無文土器やその擬似物の遠賀川式土器が
出てきますが何か?

162 :出土地不明:2006/08/11(金) 20:51:36 ID:t/CPusaj

9cmのチョン半島

163 :出土地不明:2006/08/19(土) 14:01:40 ID:35TnMtaV
【中国西安】兵馬俑坑に日本人観光客転落 兵人形がドミノ倒しで200体破損【遺産損失】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/editorial/1155790173/l50

164 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:26:14 ID:IMluSFJO
>>157
あなたの説はすべて正しいです。

165 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:28:44 ID:IMluSFJO
邪馬台国の謎をついに解明。

邪馬台国はシナ大陸南部(現在の中国の少数民族自治区内で、ベトナム・ラオスの国境付近)の
どこかにあるという私の推測は正しかった。

邪馬台国の謎を解明する手がかりとして、「遺物や移籍からの考古学的見地からの推測」
「文献の信憑性と記述内容による推測」「民族学的見地や言語学的見地」など、いろいろな
分野から攻め入ることが可能だが、私は「邪馬台国」という独特な地名的見地から推測される
地理的見地によって邪馬台国の謎を解明することに成功した。

私が最も注目したのは古代の文献に記された「邪馬台国」という、現在の日本各地の地名には
「邪馬台国」に近い地名が全く残っていない、非常に珍しい地名であることに注目した。
古代の外国にも文献で残るほど良く知られる有名な地名である「邪馬台国」という地名が、なぜ
現在において消滅してしまったのか?

この点について一週間ほど前のごく最近、疑問を持ったので、この有名な地名がなぜ日本国内から
消滅してしまったのかを重点的に深く思考をし続けてきた。
そして思考を開始してから三日ほどで謎が解けた。

166 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:29:54 ID:IMluSFJO
「邪馬台国」という地名は消滅したのではなく、現在においても重要な言葉として変換されて
日本人の間で使われているのだと確信するに至った。
つまり古代に存在した「邪馬台国」という地名は、古代から現在にかけて地名でなくなり、重要な
言葉として日本人が日常的に使い続けてきたので、地名としての「邪馬台国」は残らなくなり地図の
上からは完全に消滅してしまった。

ではこの「邪馬台国」という地名が重要な言葉として、どうして変換されるようになったのかを
説明することにする。

私達は漢字である「邪馬台国」の呼び方をひらがなでは「やまたいこく=ヤマタイコク」と呼んでいる。
古代の魏志倭人伝では漢文しかないので、「邪馬台国」をひらがな読みの「やまたいこく=ヤマタイコク」
とは呼ばない。しかし古代の漢民族である中国人(魏の国の住民)は、古代日本人のことを倭人と呼んで
いて、「邪馬台国」を含む倭人の国に存在した数百の国の地名を、漢民族達が勝手に作ったとは考えられない。

となれば倭人の代表(使節団)が魏の国に赴いた時か、魏の国の代表(使節団)が倭人の国に赴いた時の
どちらかの場合に、現地の倭人(豪族?)が使って呼んでいる地名(もしくは人名)を国名として用いて、
その発音になるべく近い漢字をあてはめて文献に記したと推測するのが正しいだろう。

要するに江戸時代から明治時代の日本人が、西洋の外国から初めて見聞きするたくさんの外国の地名や
外国語を、日本のひらがなや漢字にあてはめて使ったのと同じ感覚である。(外来語として使用する)
例:カステーラ=カステラ、ロシア=露西亜、フランス=仏蘭西

167 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:31:02 ID:IMluSFJO
このように「邪馬台国」という漢字も、実は魏の国の住人にとっては外来語として作られたものであり、
倭人が「やまたいこく=ヤマタイコク」と呼んでいる地名を、その地域の国名として解釈をして(古代の
倭人には国という概念がなかったはずなので正式な国名は存在しなかった、そこで魏の国の住人は倭人の
住んでいる地域の地名を漢字に置き換えることで国名として、それぞれの倭人の豪族達が支配する地域を
独立した自治区国家と判断して対応した)

したがって「邪馬台国」が、「やまたいこく=ヤマタイコク」と漢読みでなく和読みの発音になるのは
当然となる。
元々が倭人が和読みの発音として呼んでいた「やまたいこく=ヤマタイコク」に魏の国の住人が近い発音の
漢字をあてはめただけだからなので、外来語である「邪馬台国」の漢字があてはまる地名を探すことををやめて、
「やまたいこく=ヤマタイコク」という地名をキーワードにしてさらに深く思考をしてみた。

そこでまず注目したのが、「やまたいこく=ヤマタイコク」を発音ごとに分けて3つにブツ切ることにした。
「ヤマ」「タイ」「コク」と3つに区切ると、「コク」は元々は国という漢字をあてはめたものなので、
倭人は自分達の地名(地域名)を「やまたいこく=ヤマタイコク」とは呼ばずに、「やまたい=ヤマタイ」と
呼んでいたことになる。
つまり「邪馬台国」の正式な地名(地域名)は、「やまたい=ヤマタイ」ということになる。

168 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:32:02 ID:IMluSFJO
「やまたい=ヤマタイ」を和音的な発音で区切ると、「ヤマ」「タイ」と2つに読み名に区切ることができる。
日本では「ヤマ」という発音は、地名や人名や重要な文字にとなんにでも使われる、日常生活で一番よく
使われる発音でもある。

一方「タイ」という発音は地名や人名には珍しい部類だが、高級魚を「タイ=鯛」と呼んだり、祝い事で良く
使われる「めでたい」や「イタイ=痛い」「タイマン=怠慢」「タイジョウ=退場」「台風」といった風に、
「タイ」に別の意味の発音を付けることで新しい意味の言葉として非常に良く使われるのが「タイ」という発音。

このように「やまたい=ヤマタイ」を和音的な発音で2つの「ヤマ」「タイ」に区切ると、この2つの発音は
日本人には非常になじみが深く、至る所に変換されて使われている発音であるということがわかる。

つまり私達日本人は、消滅したと思われている古代の「邪馬台国」の発音を現在においても、至る所で重要な
発音(言葉)として、当たり前のように使い続けていることになる。
「ヤマ」「タイ」の発音が当たり前に使われすぎるからこそ、これまで「邪馬台国」が日本人の言葉(発音)の
歴史にとってどれほど重要だったのかさえも、全く気づかなかったのかも知れない。

169 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:33:08 ID:IMluSFJO
みなさんもこれで「ヤマ」「タイ」が、日本人にとって非常に重要な発音として
古代から現在にまで使われ続けていることに気づいたと思う。

さてここからが邪馬台国の謎を探る本題である。

まず「ヤマ」「タイ」と2つの和音的な発音に区切ったうち、「ヤマ」についての
使われ方を深く思考してみた。
単純に考えると「ヤマ」は、「山=ヤマ」となり、「ヤマ」とは起伏の激しい地域の地形を
発音で表すために「ヤマ」と呼ばれたと考えられる。

ここで第一の推測が成り立つ。
邪馬台国のあった場所は起伏の激しい地域にあり、すなわち山岳地帯にあったのでは?と推測される。
その起伏の激しい地域一帯を現地民が地名として「ヤマ」と呼んでいたために、この地名が後に「山」
という漢字にあてはめられて現在でも起伏の激しい地形を「ヤマ=山」と呼び続けている。

しかしこの推測だとここで別の疑問も湧いてくる。
それは日本人は、起伏の激しい地形を「ヤマ=山」と呼ぶこともあれば、「オカ=丘」「キュウリョウ=丘陵」
と呼んだり、「サンミャク=山脈」や「ダイチ=台地」と呼ぶこともある。
つまり同じ起伏の激しい地域でも、地形のほんの微妙な違いによって呼び方を変えていることである。
特に「ヤマ=山」と「サンミャク=山脈」は山が連続しているかしていないかの違いだけで、ほぼ同じ地形で
使われて漢字も同じ山が使われているのに、なぜか山に対する発音は「ヤマ」と「サン」に分けられている。

170 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:33:52 ID:IMluSFJO
こうして考えると、邪馬台国のあった地域の起伏の激しい地形とよく似ている地形のみを「ヤマ=山」と呼び、
それ以外の起伏の激しい地形を「オカ=丘」「キュウリョウ=丘陵」「サンミャク=山脈」や「ダイチ=台地」と
呼んで区別したのだと推測される。
こう推測すると現在の日本国内で古来から「ヤマ=山」という地名がついた場所は、邪馬台国のあった地域と
良く似た風景だったので、「ヤマ=山」という発音で呼ばれてそのまま地名として残ったのでは?と推測される。

こういう風に考えると、邪馬台国のあった地域の風景が頭の中にイメージしてくる。
海岸から遠くて平野部でない場所で、ある程度起伏の激しい地形(山に囲まれた盆地のような場所)の
中に、深い森と田園地帯がまばらに点在する風景、それが邪馬台国のあった場所の風景では?とイメージする。

171 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 12:35:15 ID:IMluSFJO
また「ヤマ=山」には、起伏の激しい地形を示す以外に、もっと重要な言葉の意味として使われている。

死の危険にさられている大怪我をした人や病気の人が危篤状態(重体)の時に、医者が「ヤマ(峠)は今夜でしょう」
と発音したり、山や海で遭難して死の危険からなんとか助かった人が「ヤマ(峠)は越えた。これで安心だ」
ウソがバレそうになったり、犯罪などの悪事がバレそうになる人が言い訳をする時に使う「ヤマしいことはない。私は潔白だ」
戦いに敗れた敗残兵が命からがら逃げのびた時に「あのヤマを越えればもう安心だ。もうひとがんばりだ、みんながんばれ」
それから株や競馬などの賭け事をした時や、刑事が容疑者の気持ちを探るために「あの会社(あの馬)にヤマ(大金)を張った」
「あいつ(容疑者)にヤマをかけて白状させてやる」

このように命の危険から抜け出した時や人生の大事な場面に「ヤマ=山」という言葉がよく使われる。

つまり「ヤマ=山」という発音の意味には「平和」「安全」「安心」「信頼」「信用」という言葉と
全く同じ意味で使われていることもわかる。

なぜこうした意味で「ヤマ=山」が使われるかと推測すれば、魏志倭人伝の文献によれば古代の邪馬台国は、
長い間、戦乱の絶えることのない百国余りの小国の住民が、「平和」「安全」「安心」を求めてできた大きな
連合国家であり、また同時に邪馬台国の下で百国余りの小国が互いが裏切ることなく「信頼」と「信用」を
求めたために、邪馬台国の「ヤマ=山」には、起伏の激しい地域という地名の意味だけでなく、「平和」「安全」
「安心」「信頼」「信用」という意味も同時に含まれるようになり、その意味が今日でも脈々と受け継がれいて、
「ヤマ(峠)は越えた。これでもう安心」という言葉に代表されるように、「平和」「安全」「安心」「信頼」
「信用」という言葉がまだ誕生していない時代には、「ヤマ=山」という言葉を他の発音に含めることで、「平和」
「安全」「安心」「信頼」「信用」という意味として今日まで使われてきたのだと推測する。

172 :韋駄天はふと考えた:2006/09/05(火) 13:02:41 ID:IMluSFJO
>>31
だいたい東大教授になって「俺様はエリート学生を育てるエリート教授だ」と、
ふんぞり返ってるような奴ほど、学問の視野が狭い奴が多い。

ひとつの事象を一定の方向からしか見ることができない
ひとつの事象を360度あらゆる方向から見る視野が必要とされるのが本来の学問なのに、
東大や京大で学ぶと宗教的な盲目学問に洗脳されてしまい、教科書のマニアル通りの
視線からしか物事を見たり考えたりするしかできなくなる。

だからオウムみたいなイカサマ宗教に簡単に騙されたりするのも、こういった大学で
学んだ学生達。教科書を疑うことを知らないで育ったために、今度は教科書の代わりに
宗教本を疑うことを知らないでイカサマ宗教に洗脳されてしまった。

だから沖縄海底遺跡は教科書で否定されているからという単純な理由だけで
沖縄の海底に遺跡などあるはずがないと盲目的な思い込みで完全否定してしまう。
こういう奴は権威ある組織(ナサとかアメリカの学会とか)が沖縄海底遺跡を
肯定すれば自分もコロッと肯定するような奴ら。

173 :出土地不明:2006/09/05(火) 13:57:57 ID:mlD6jcjf
韋駄天はふと考えた 氏って訓読みと音読みをもう習った学年なんでしょうか

174 :出土地不明:2006/09/05(火) 19:56:23 ID:gMPxLhDC
★『日本国』という国号の成立−その真相−★

日本という国号ができたのは7世紀頃で、最も確実に明文化されたのは、飛鳥時代の701(大宝元)年に
制定された大宝律令からである。
 720(養老4)年に編纂された日本書紀には、『日本』の名があるが、こういった資料をひもとくと、
少なくとも674(天武天皇3)年は、対外的にまだ「倭」という国号であったことが分かる。
従って、国号の変更は674〜701年の間に行なわれたと考えるのが妥当であろう。
 大宝律令よりも前に『日本国』の国号が成立した時期として、最も可能性が高いのは、飛鳥(あすか)浄御原令
(きよみはらりょう)が成立した689(持統天皇3)年6月29日頃である。

 隣国の支那へは、702(大宝2)年に粟田真人(あわたのまひと)により、『日本国』という新国号が
伝えられた。彼は浄御原令の編纂にも関わっており、日本という国号は彼が発案した可能性もある。
 
 なぜ、大和朝廷は、大和国から日本国へと国号を変更したのだろうか。
 やはり、6世紀に九州地方で起きた「盤井の乱」が大きく影響しているのだろう。
古代九州は、自ら『日の国』と名乗っていた。ヒの国は、『火の国』でもなければ、『肥の国』でもない。
あくまでも『日の国』である。この国号が意味しているのは、日神=天照大神の国という意味である。
 九州地方は、天皇家の先祖であるニニギノミコトの出生地であり、まさに『日の国』なのだ。
『日の国』という国号には、「我々こそがニニギノミコトの正統なる後継者である」というメッセージが
込められている。
 大和朝廷は、九州勢力が『日の国』と名乗ることに危機感を抱いていた。
 だからこそ、自分達(大和国)のほうがニニギノミコトの後継者であることを、国の内外にアピールする
ために、『日本国』と名乗る必要があったのである。
 これが、『日本国』の国号が誕生した真相なのだ。


175 :韋駄天はふと考えた:2006/09/06(水) 01:01:21 ID:Pr25ZlOq
>>173
そういう人の揚げ足を取ることでしか論戦を張ることができないのかね?チミは
もっと高度な論戦を張りたまえよ

例えば、
「韋駄天さん、あなたのこの主張にはここの部分とこの部分に明らかな矛盾が生じていますね?」
「この矛盾についてはどういう解釈をお持ちですか?とか」
「韋駄天さん、あなたの説を100%信じた場合、大陸から日本列島への人の移動はどういう理由で
発生したのですか?」「まさか偶然に渡ってきたとか言うつもりですか?」とか

どこの板にいっても、この程度の論戦すら張ることすらできない歴史ヲタばかりだから
私は歴史ヲタ(学歴ヲタと考古学ヲタも含む)をバカにするんですよ。


176 :韋駄天はふと考えた:2006/09/06(水) 02:02:35 ID:Pr25ZlOq
人の移動や物の流れには、すべて順序がある。(気流や海流も同じ)
突然変異で畿内に日本の政治の中心である大和朝廷がいきなり誕生した
なんていう理屈は、進化論の突然変異と同じで滑稽な理屈。

氷河期時代の日本列島での人の移動や物の流れには、北から南へのルート
(樺太→北海道→東北→関東→関西→九州)だった。
しかし縄文時代から弥生時代と奈良・鎌倉・江戸時代にかけての人の移動や
物の流れには、西から東へのルート(朝鮮半島・シナ大陸・琉球列島→九州→関西→関東→東北→北海道)
だった。

航空機でも使わない限り、九州に文明が発生せずに、九州を通り越して畿内に
突然と飛島文明(大和朝廷)が誕生するはずがない。

まずは九州で文明が栄えて、その九州文明が東へと人の移動や物の流れにそって、
次第に衰退していき、今度は関西に畿内文明が栄えていき、それがやがて鎌倉へ江戸へと
文明の中心が、次第に東へと移動していったと考えるのが自然だろう。

この人の移動や物の流れを中心にして考える理論は、「紅海方位」によってヨーロッパで
西洋文明が栄えたことを私が発見したので、「紅海方位で見る人類の移動の歴史」という
スレを立てて、そこで「紅海方位理論」によって、世界中の人の移動や物の流れがどういった
理由で発生したのかを詳しく書き込んでいる。

177 :韋駄天はふと考えた:2006/09/06(水) 02:08:37 ID:Pr25ZlOq
邪馬台国畿内説論者へ

文献やら発掘品を畿内説論者の都合のよいように
解釈する悪い癖はどうにかならないのか?
古墳の規模が大きいから、そこが古代日本の政治の中心だったとか偉そうに述べる
畿内説論者の単純思考回路の脳みそにはガッカリするよ

じゃあ何かい?数千年後のアメリカ大陸で、数千年前のアメリカ合衆国文明の遺跡を
発掘したら、東海岸の真ん中あたり(現在のニューヨーク周辺)と西海岸の真ん中
あたり(現在のロサンゼルス周辺)で1000万人規模の人が生活していた巨大都市遺跡が
発掘されたので、数千年前に滅んだアメリカ合衆国文明の政治の中心はこのどちらかの
地域だと断定するようなものではないのか?畿内説論者の言い分通りに解釈すれば。

でも数千年前に滅んだアメリカ合衆国文明の実際の政治の中心は、ちっぽけな都市遺跡が
発掘された東海岸北部(現在のワシントン周辺)だとは、絶対に認めないだろうね、
畿内説論者の石頭では。

178 :出土地不明:2006/09/06(水) 14:06:59 ID:Yplz9QvD


179 :出土地不明:2006/09/28(木) 21:12:43 ID:sjgJmo/R

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history2/1134868305/l50

日本のサヨが太平洋戦争を起こした。

180 :出土地不明:2006/10/21(土) 03:08:47 ID:Ha26rTHx
長江文明と縄文文化の類似性について

181 :出土地不明:2006/10/25(水) 16:30:59 ID:dmlKOXBX
日本民族起源の新説

――「稲作・漁労民征服王朝説」をめぐって――

浙江工商大学日本文化研究所 王 勇

http://www.japanology.cn/paper/wy/06.htm

ココ読みましたか?

長文ですが、結構聞けます。

182 :出土地不明:2006/10/25(水) 17:00:20 ID:QObcH52V
読む前から危ないわ。

183 :出土地不明:2006/10/25(水) 18:00:44 ID:Fye9MVWI
日本の弥生期の鳥信仰は北東アジアから伝わったものですが何か?

当時の長江下流域の文化だった印文陶も、陶製の鼎も、
尊、爵、瓢などの陶製の酒器も、簫、管などの骨製や竹製の縦笛や
磬などの石製の打楽器の楽器類も、

なーんにも伝わっちゃおりませんよ。

中国人は日本人の先祖のようなふりをしないように。

184 :出土地不明:2006/10/26(木) 21:09:36 ID:1d5gxVEs
長  江  文  明

以外は 書かないで 怒 

185 :出土地不明:2006/10/27(金) 19:12:04 ID:pX1UFQYq
弥生時代開始頃の長江文明の呉城文化はこんな有り様(嘲笑)


呉城文化 B1400?〜B1000?

 江西地方の文化はB3000年〜B2500年頃の山背文化を最後に一時停滞していたが、
良渚文化や石家河文化の崩壊後に呉城文化が抬頭した。黄河流域とはまったく
異質の造形美術を特色とし、豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土し、
中国磁器の源流に再考を促した。また符号を刻した土器や鋳型も発見され、
符号の総数は170を超え、12個を列記したものも出土している。隣接する湖南省
では1960年代に寧郷県で多数の貴重な青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、
商文化を凌ぐ鋳造技術と独特の造詣を示していたが、このときには商文化の一分派
と認識された。1970年代に江西省樟樹市(旧清江)で発見された呉城遺跡の城壁址は
4万uで、地方的な政治中心のひとつに過ぎなかったと考えられる。
http://home.t02.itscom.net/izn/chu0.html

186 :出土地不明:2006/10/27(金) 19:16:28 ID:pX1UFQYq
>豊富な幾何学印文陶や釉陶のほか原始磁器も出土
>符号を刻した土器や鋳型も発見
>青銅器が発見され、人面方鼎・四羊方尊など、商文化を凌ぐ鋳造技術




印文陶???釉陶???原始磁器???鼎???尊???

弥生時代開始時の長江流域の出土物は日本の弥生遺跡で
出土しない摩訶不思議なものばーっかり(嘲笑)





187 :よろずこ:2006/10/27(金) 21:43:07 ID:MwaNPGZ6
>181
東京新聞の畏友である後藤喜一氏から本書の書評執筆を勧められ、
http://www.japanology.cn/paper/wy/06.htm






188 :出土地不明:2006/10/29(日) 18:34:52 ID:BlIg02wj
日本人種のYAP+と東南アジア辺りのYAP+は別種。

日本人種のYAP+はht1。
東南アジア・中国南部あたりに微かに残るYAP+はht2。
白人や黒人のYAP+はht3。

ゆえに日本人種は中国南部や東南アジアとは無関係。

残念でした(嘲笑)

◎YAP+マップ

http://www.geocities.com/londonross1/china3.png
http://native.way-nifty.com/./native_heart/images/y_chromosome.jpg

189 :出土地不明:2006/10/31(火) 20:43:25 ID:XqffntuO
       lliiiiii,,,、                         ,,,iiiii,,,、  ,liiiiiiiiiii,,,、
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    ,,illlllllll°    ゙゙!!!!!!!!゙゙゙゙゙”″    ,,llllllll!°    '!llllllllll、  __   _,,,iillllllllll!゙′
   ,,illllllll!゙`                  ,,,iilllllll!゙゜      .゙!llllllll、  .゙llliiiiilllllllllllll!゙゙゜
 .,,,,illllllll!゙°               : ゙゙゙゙゙゙°        '゙!!!!゙   .゙゙!lllllllllll!!゙°
: '゙!!!!!゙゙°                                     ゙゙゙゙゙゙゛


190 :出土地不明:2006/12/13(水) 17:36:44 ID:nXJLSFgI
 1.倭人

 弥生時代初期に、中国の江南(長江の流域以南)から日本列島へ
渡来してきた集団は倭人と呼ばれていました。3世紀後半の中国の
史書『魏志倭人伝』(通称)には、倭人に関する詳細な記述があり、
その特徴として「稲作、貫頭衣(着物の祖形)、断髪(ザンバラ髪)、
黥面・分身(いれずみ)、潜水漁労、歌垣」などが挙げられています。

 7000年前、倭人はこの2つを携えて長江を下り東シナ海沿岸に到達
しました。4000年前、漢民族の進攻より苗族が圧迫されて南下した際、
倭人は上流と下流に分断され、下流の倭人は「越人」と呼ばれるように
なりました(越と倭の古音は、ともに「wo」)。さらに、
春秋時代(紀元前8世紀〜同5世紀)には「呉」や「越」を建国。
史書では、呉・越人の特徴として「稲作、断髪、鯨面・分身、潜水漁労」
が挙げられていますが、これらの諸特徴は『魏志倭人伝』の倭人と
まったく同じです。そして、戦国時代、これらの人々は呉・越の滅亡
による戦乱と混乱をさけるため、「ボートピープル」となって
中国大陸を脱出、稲作と高床式住居を携え、江南とよく似た
気候(照葉樹林帯)の日本列島西部に到着しました。これが、
弥生時代の幕開けとなったのでした。

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm


191 :出土地不明:2006/12/13(水) 19:12:39 ID:oV0x8ogn
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている

192 :出土地不明:2006/12/13(水) 19:14:01 ID:oV0x8ogn
鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省などの長江流域一帯で出土し、
江南の百越(越族)の間で甚だ流行したそうですよ。




鉦 打?樂器,形體似鐃,但比鐃高大和厚重,主要出土於湖南、江、浙一帶。
?都是春秋時代的樂器,在南方百越諸地則甚流行。

http://www.hawh.cn:82/gate/big5/www.hawh.cn/html/20060420/256406.html





193 :出土地不明:2006/12/13(水) 19:15:08 ID:oV0x8ogn
ところで、日本の弥生遺構で印紋土器、越式鼎、鉦なんて出土しましたっけ?(嘲笑)



●印文土器
http://www.gg-art.com/c/c22c04vc.jpg

●越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif

●鉦
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg





194 :出土地不明:2006/12/13(水) 23:22:48 ID:wmh0lcnP
>>190
おお、一番もっともらしい説が出てきたね

195 :出土地不明:2006/12/17(日) 20:36:38 ID:P6hqL5Xn
川イルカが絶滅したらしいね


196 :出土地不明:2006/12/21(木) 20:50:53 ID:4LniW0MS
まあ、今長江に住んでるシナティクと長江文明の担い手は違うからな

197 :出土地不明:2006/12/23(土) 17:09:34 ID:YUqgAawy
 1.倭人

 弥生時代初期に、中国の江南(長江の流域以南)から日本列島へ
渡来してきた集団は倭人と呼ばれていました。3世紀後半の中国の
史書『魏志倭人伝』(通称)には、倭人に関する詳細な記述があり、
その特徴として「稲作、貫頭衣(着物の祖形)、断髪(ザンバラ髪)、
黥面・分身(いれずみ)、潜水漁労、歌垣」などが挙げられています。

 7000年前、倭人はこの2つを携えて長江を下り東シナ海沿岸に到達
しました。4000年前、漢民族の進攻より苗族が圧迫されて南下した際、
倭人は上流と下流に分断され、下流の倭人は「越人」と呼ばれるように
なりました(越と倭の古音は、ともに「wo」)。さらに、
春秋時代(紀元前8世紀〜同5世紀)には「呉」や「越」を建国。
史書では、呉・越人の特徴として「稲作、断髪、鯨面・分身、潜水漁労」
が挙げられていますが、これらの諸特徴は『魏志倭人伝』の倭人と
まったく同じです。そして、戦国時代、これらの人々は呉・越の滅亡
による戦乱と混乱をさけるため、「ボートピープル」となって
中国大陸を脱出、稲作と高床式住居を携え、江南とよく似た
気候(照葉樹林帯)の日本列島西部に到着しました。これが、
弥生時代の幕開けとなったのでした。

http://www.k3.dion.ne.jp/~hougen/essay/e2/2-1.htm


198 :出土地不明:2006/12/23(土) 17:30:23 ID:TsjOrXBx
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 より抜粋

199 :出土地不明:2006/12/25(月) 17:17:38 ID:MNAfL9Th
甦る長江文明−稲作と操船の民

中国文明といえばこれまで多くの人が黄河文明を想起する。たしかに黄河流域は
中国文明発祥の地であることは間違いない。漢代に司馬遷が著した「史記」には
、黄河流域に栄えた夏、殷、周などの古代国家が存在し、春秋戦国時代を経て
秦・漢帝国が成立したことが記されている。

それ以来の中国史は主に黄河中心に記述されてきた。中国文明が内陸から周辺
地域に広がり、朝鮮やベトナムなどの半島に成立した国や、日本のように海に
囲まれた国を含めて、中国を中核に東アジア世界が成立しても、黄河文明は
その中心として意識されてきた。中国といえば誰しもが茫漠とした内陸砂漠に
つらなる大陸をイメ−ジするようになり、北中国の北京、西安、万里長城は
観光の目玉として史跡の筆頭に掲げられ、今なお多くの人が押しかけている。

200 :出土地不明:2006/12/25(月) 17:18:55 ID:MNAfL9Th
たしかに黄河文明は中華の誇りだが、それだけが中国文明ではない。南中国には長江
(揚子江)が流れ、古くから稲作と操船の民の生活があった。中国の風土は「南船北馬」
、「南稲北粟」といわれるように、黄河流域の半乾燥地帯では畑作農民と草原の遊牧
民か混在し、長江流域の湿潤地帯には稲作農民と船を操るのに巧みな海民が交じり合っ
て生活していたのである。

その風俗は「北儒南道」の言葉が示すようにかなり大きく異なっていた。黄河流域では
父系家族で旭日を信仰し、上下秩序の厳しい掟を維持して、自然を改造しそれに働き
かける人間の行為を尊重していた。だが、長江流域の生活はそれと対照的に、母系ないし
は双系家族で日輪を母として信仰し、男女差の少ない生活秩序を保ち、自然環境に順応
することが尊重されていた。

201 :出土地不明:2006/12/25(月) 17:22:13 ID:3XLiDr1a
黄河の黄と長江の緑は中国文明の基調だが、 黄土地帯の写真と長江流域の青々とした
風景を比べて見よう。 左は甘粛省蘭州付近、右は四川省成都付近のもようだが、黄河の
黄と長江の碧はまさに対象的だろう。

乾燥した黄土での麦栽培は容易ではなく、作物の生育に必要な保水の問題を解決する
ためにも、家族が男性中心に協力しあって、住みやすいように自然を改造する以外に
生きてゆく方法はなかった。そこに儒教的秩序が作られ黄河文明が成立した。だが、
長江流域は温暖で水が溢れ、自生した稲が生えていた。そこに自然に順応する道教的な
生活が展開していた。


202 :出土地不明:2006/12/25(月) 17:23:24 ID:3XLiDr1a
この黄河流域とは自然環境も風俗も異なった地域の生活は、前者は「馬の文化」と
よばれ、後者は「船の文化」とよばれているが、秦・漢帝国の成立とともに、この
長江流域の「船の文化」は「馬の文化」に組み込まれ、黄河中心の歴史に埋没されてきた。

だが、日本人に「三国志」で馴染まれている魏晋南北朝時代や、唐宋変革期には長江
流域が大きく発展している。宋代以降の中国も南中国を機軸にして、内陸ではなく
海洋を舞台に発展していった。しかも、そうした南中国の発展は秦・漢以後に限った
ことではなく、それ以前の紀元前一万年頃からの長江流域で始まっていたのである。


203 :出土地不明:2006/12/25(月) 20:39:56 ID:OYcNs8R+
一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。こ
れをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」という
結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説と合わなか
ったからだ。

 さらに同遺跡の下層には別の遺跡があり、推定で二万dから三万dにものぼる鉄滓(て
っさい‖製鉄した後の残留物)が発見されたほか、縄文式とも弥生式とも異なっていて、
中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものとよく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土し
ている。
http://www.minyu.co.jp/shasetsu/0305gatsu/0523s.html


204 :出土地不明:2006/12/26(火) 20:14:50 ID:QXwBGuaK
かと言って、炊飯用の三足土器や中国青銅器が出てこないところを
見ると、製鉄技術や土器片はやはり倭人自身の手で持ち込まれたもの
と見るべきだろう。

饕餮文の土器片はおそらく瓦だろう。

饕餮文は青銅器では周代も中頃になるとほとんど作られなくなり、
主に瓦にだけ使われるようになる。

中国で饕餮文の瓦の生産が最も盛んだった地域は燕。

山海経には倭は燕に属すと記されているし、燕が製作地と
思われる鉄斧が比恵遺跡から出土している。

倭が朝鮮半島を通して燕とも交流があったという証拠と言えるだろう。

205 :出土地不明:2007/01/03(水) 15:23:38 ID:TRQyIgc0
長江文明の民は倭人ではなかったか

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