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マルクス経済学・マルクス主義・7発目

216 :Jimmy:2006/08/07(月) 00:52:12 ID:7v1hFt2Q
>>215
 中野は当初は『資本論』における貨幣生成論の二重の構成、つまり
価値形態論→交換過程論、商品語→商品所有者の行動論、という構成を
久留間説的に支持していたのでしょうね。でこれを「価値形態論」に
一本化することを主張する宇野説に次第に移行していった、というのが
『価値形態論』の背景で中野の上に起きた変化。だから中野のテクスト
そのものに宇野価値形態論から離別していく契機を見つけだすことは出来ない
のは当然でしょう。
 直接私が影響を受けたのは、一番弟子の竹内靖雄の論考、具体的には
中野正著作集『価値形態論』への竹内の付した解説および竹内自身の
『マルクスの経済学』での価値形態論批判、この二つで、要は単純な
価値形態→拡大された価値形態→一般的価値形態の移行過程を支配している、
「欠陥の論理」が最初から貨幣形態を価値形態の完成形として、それとの
比較において、それぞれの価値表現の欠陥を指摘する循環論理である
ことを指摘しているのです。
 中野は「価値形態論」を通じて商品から貨幣への「生成の論理」を
極限にまで追求したのですが、竹内はそれをあっさりと「循環論証じゃん」
と切って捨てたのです。

 一緒に考えていただきたいのは、単純な価値形態と拡大された価値形態までは、
商品所有者の主観的価値表現ですが、一般的価値形態になると商品世界を通じる
客観的形態に転化しますが、どうしてそのような転化が可能になるのでしょうか?
無数の商品とその所有者(個人とは限らない)の参画する商品世界で、無数に生じる
主観的価値表現列を客観的に統一できる契機は何なのか?個別の商品が
おこなう無数の観念適評源をどうやって、他の商品所有者は知ることが出来て、
客観的統一に至ることが可能なのか。
 単に「欠陥」から「要請」されるで済まされない問題だと思います。
 宇野「経済原論」、鈴木「原理論」、岩田「マルクス経済学」いずれも、
そこに論理の耐え難い飛躍がある様に思えます。鈴木「原理論」は「欠陥」
規定だけに純化しているが、その他は、複数の拡大された価値形態の
交錯点に共通の等価商品が生じて云々と説いていますが、繰り返し指摘してきたように、
すべての拡大された価値形態に共通の等価商品は論理的に言って存在しえません。
 この「交錯点」の論理は「欠陥」の論理では循環論証の「欠陥」が
露骨なので恐らくそれを補正するために導入されたのでしょうが、却って
一層の欠陥をあらわにしている。それを解決するのは、商品世界において、
唯一自らは価値表現しない商品を最初から密輸しておくことで、それこそが
「貨幣」なのではないでしょうか。

 商品から貨幣が「生成」するという主張は極めて疑問に思えてきたのですが、
そこから貨幣→資本の生成についても同様な疑問が起きてきました。
そうなってくると、殆ど「原理論」の崩壊と同義ですよね。
あるいは、聡過程論で産業資本→商業資本→銀行資本の分化論もしかり。
これらの資本の分化形態は、資本間の競争過程を加速し利潤率均等かを
促進する諸機構であるとされていますが、そんなことはどうやっても
論証できるものではないでしょう。
 単に無政府的に資本が様々な局面に投下された結果生じてきた分業関係に
過ぎない。そこに何らかの意義を見つけようとしても無駄でしょう。
効率化なども、before−after的な比較が不可能なのです。それがあたかも出来る
かのようにこじつけ・誤魔化しを皆やらかしている。
 宇野学派の「原理論」は人類が作り上げた最後の弁証法体系で、それは知的な
構築物としてはそれなりに優雅で緻密な言語構成物です。あくまで知的な
楽しみの対象として接するなら、大いに興味深いものがあるでしょうが、
実証科学の資格は全く備えていない、と考えます。

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