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【毛野】関東に大王あり【武蔵】

1 :日本@名無史さん:05/01/16 09:21:12
埼玉古墳群・稲荷山古墳から出土した鉄剣金錯銘。
「今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮」
これのどこが、畿内の長谷朝倉宮にいた大泊瀬幼武
(後代の漢風諡号=雄略)なのか?!
今年のセンター試験でも自明の理として登場した。
古田武彦氏の『関東に大王あり』で関東説が脚光を浴びたが、ほかにも
井上秀雄(東北大名誉教授/朝鮮古代史)・鶴岡静夫(青学大名誉教授/日本古代史)
・故金達寿(作家)各氏らが同様の立場であった。
関東説・畿内説をとわず建設的・生産的な議論をお願いしたい。
粘着・荒らしはスルーでよろしく。


2 ::05/01/16 09:29:48
×長谷朝倉宮
○泊瀬朝倉宮

同音ながら誤字にてご寛恕を…

3 :日本@名無史さん:05/01/16 20:22:24
>1乙!
学会に巣食う、列島内「王統」一元史観よ、早く滅んでください。

4 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/17 03:43:39
関東平野に大王あり。・・・・・ケノ・ムサ・ヒタ
関東平野に大王なし。・・・・・フサ

ケノ(上ケノ こうづけ・下ケノ しもつけ)
ムサ(ムサ上 さがみ・ムサ下 むさし)
ヒタ(ヒタ上 ひたか・ひた下 ひたち)
フサ(上フサ・下フサ)


5 :日本@名無史さん:05/01/17 04:38:34
稲荷山古墳鉄剣銘【いなりやまこふんてっけんめい】
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣(国宝,さきたま資料館蔵)の剣身
表裏に金象嵌された銘文。ほぼ全文が判読された115文字は,5世紀代の最も
基準的な金石文史料。冒頭の〈辛亥年〉は471年,また大王名〈獲加多支鹵〉
(ワカタケル)は,倭王の武,記紀のオオハツセワカタケ(雄略天皇)にあたる。

乎獲居(オワケ)が〈奉事〉の〈根原〉を記すとする内容は,〈上祖〉意富比(オオヒコ)
からの8代の系譜と,その一族が〈杖刀人首じょうとうにんのおびと〉として代々仕えた
ことである。ワカタケル大王の寺が〈斯鬼宮しきのみや〉に在る時,その〈治天下〉
を〈左たす〉けたことを強調する乎獲居を関東の豪族とみるか,中央の廷臣と
みるかは,説が分れる。 [株式会社岩波書店 岩波日本史辞典]


6 :三浦義連:05/01/17 18:21:28
>>4
毛野はケヌと読んでちょ。
鬼怒川←毛野河

7 :日本@名無史さん:05/01/17 21:37:44
ケヌの王の墓は群馬にある。

8 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/18 01:34:20
>>6
ぼくにとって現地調査が必要ねすね。
「毛野・・ケヌ」は「筑紫・・チクシ」と同じですね。
「鬼怒川・・ケヌガワ」が正しい現地読みですか?


>>7
ヒタの王は那珂にいた。

9 :日本@名無史さん:05/01/18 08:43:45
>>7
北武蔵にまで毛野が進出していたとは考えられませんか?
一例として鈴製品の出土
>>8
現在では「きぬがわ」ですね。
常陸国風土記か何かに「毛野河」との表記があったはず

10 :日本@名無史さん:05/01/18 08:59:01
関東の大王・・・・・・将門のことか?

11 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/18 19:55:08
>>10
んにゃ。
7世紀以前についての話題です、

12 :日本@名無史さん:05/01/19 01:42:12
 稲荷山古墳の前方後円墳体制全体における位置づけというのは考古学的にどうなんでしょう?
 時代は倭王武が列島の東西を征服した時代です。
 ですから、稲荷山を含む北関東文化圏が、畿内を中心とする前方後円墳体制に「飲み込まれている」のか否かによって、関東王朝説成立の可否が決まって来ると思いますが。


13 :日本@名無史さん:05/01/25 22:18:34
古田武彦の本を買ってみようと思ってるんですが
初心者はどの本から始めるといいんでしょうか。
朝日文庫から出てる『古代は輝いていた』というのが概論的な感じなんでしょうか?

14 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:27:42
>>12
稲荷山古墳が5世紀後半か6世紀前半かには疑問をもっていますが、
関東圏は畿内勢力の文化的影響下には組み込まれていたと見ています。
だからといって、獲加多支鹵が雄略とみなすことはできません。
関東勢力には前方後円墳と出土品に鏡があることから畿内と共通文化をもつ進出勢力とみなせます。
畿内天皇勢力が九州から進出したにも関わらず、九州から独立していたように、
関東の勢力も近畿天皇勢力から独立していたと見ますので、
獲加多支鹵は関東の大王でしょう。
九州の倭王武の勢力範囲も、東に毛人66国からみて、
山口・広島・愛媛・島根・鳥取と見ています。
又、畿内勢力の範囲も、岡山・兵庫南部・大阪・奈良・京都南部・滋賀と見ています。
九州王朝が最大の権力を持っていても、大王は全国に割拠していたのでしょう。
それらは、九州・畿内・東海・関東・北陸・新潟・東北に3〜4大王と推測しています。
中には大王と言うには小さな地方権力者とみなせる大王もいたのではと推測します。

と言うところが僕の5世紀後半〜6世紀初頭の日本列島の概念です。

15 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:34:25

>>13
朝日文庫から出てる『古代は輝いていた』が比較的広い範囲を網羅していると思います。

16 :13:05/01/30 12:44:01
サンクス。実は二日前に我慢できずに買ってきましたw>>15
面白かったら『邪馬台国はなかった』も探してみようと思います。

17 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 13:21:41
>>16>>13
『邪馬台国はなかった』は古田氏の研究手法を知るには良いと思います。

『失われた九州王朝』(朝日文庫)が面白かったように記憶しています。
初版本を修正改定していなければ、現在では間違っている部分もありますが。

18 :日本@名無史さん:05/01/30 14:08:30
>>14
私見では、5-6世紀は、大雑把に、大和飛鳥のほかにも、
毛野,越,吉備,出雲,九州諸国あたりがいわゆる「くに」でしょう。

7世紀の壬申年の大乱の時でも、尾張が東国勢ですもんね。

19 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/31 19:02:01
>>18 >>1
 
関東が倭国に統合されたのはかなり時代が下ってから、
6世紀末から7世紀初頭と思います。
西暦600年前後までは関東勢力は独立していたと思われます。

古田氏が紹介した「筑紫の舞」にそのことを暗示するようなものがあります。
翁の舞があるのですが、3人立、5人立、7人立と3種類の翁の舞です。
3人立は筑紫の翁、出雲の翁、肥の翁の構成で、
5人立は上記3翁に難波の翁、越の翁の構成に、
7人立は上記5翁に尾張の翁、夷の翁となります。
そこで、7人立の成立が西暦600年前後と推定しています。
5人立の成立は難波の翁がでてくることから応神の頃(5世紀)になりますね。
応神は九州王朝の征東将軍のようなものでしょうか。

そして畿内への北陸反乱勢力である継体が九州に対して反乱。
継体の死後、欽明により畿内を九州王朝傘下に。

関東大王(王朝)は少なくとも6世紀後半までは存在していたのではないでしょうか?
それも、2大王、西及び北関東地域(ムサ・ケヌ)と南及び東関東(ヒタ[那珂]・フサ)地域に。

20 :12:05/02/01 00:15:29
>>14 さん

>だからといって、獲加多支鹵が雄略とみなすことはできません。

>畿内天皇勢力が九州から進出したにも関わらず、九州から独立していたように、

 この2つの主張の「純粋に考古学的な」根拠は何ですか?
 私は文献の解釈だけの議論に飽き飽きしているのです。古墳の型式とか土器の分布、流入などによる根拠をお願いします。

21 :日本@名無史さん:05/02/01 00:18:03
この2つの主張の「純粋に考古学的な」根拠が必ず存在するはずだ、
という思い込みは何に由来しますか?
私は文献を無視したヤマト=邪馬台議論に飽き飽きしているのです。

22 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/01 16:26:06
>>20 12さん
古墳・祭器の形式です。

関東においては、古墳の形式がムサ(ムサシ)からケヌ方面に変わっていっていることと、
古墳・副葬品・埴輪が畿内型(太刀・三種の神器の1つ)で畿内と共通の文化であること。
ヤマトタケルノミコトの遠征話では、南部ムサ(サガミ)とフサ止まりで遠征に成功せず引き返している点で、
継続的な畿内支配でないこと。又遠征の主目的は静岡で遠征の主は尾張の勢力と見られること。
尾張勢力(交流はあったが畿内の支配下でない)を飛び越えて畿内勢力が関東に進出できるはずがないこと。
以上、古墳の形式や土器埴輪の分布だけが根拠ではありません。

畿内においては、三種の神器は北部九州と共通するも、古墳の形式が九州と異なってしまったこと。
畿内は円墳・帆立型墳から前方後円墳に発展したのが、九州では九州中部型古墳から装飾古墳になっていった。
宗教が近縁であっても異なることから互いに独立した勢力であったとみなせる。




23 :日本@名無史さん:05/02/24 21:09:52


24 :日本@名無史さん:05/03/15 01:44:13
毛野大王age

25 :日本@名無史さん:2005/03/28(月) 00:49:56
こういうのが出てくるから埼玉の国指定史跡級の縄文遺跡とやらも壊されるわけね。
変なもんが見つかる前に破壊すれば疑問も生まれないからな。

26 :日本@名無史さん :2005/03/28(月) 19:53:21
>>3
>>25
早い話、日本の歴史学会は、天皇家が登場して以来の古代史では、地方の独自性を示すものは、
すべて天皇中心近畿中心史観に押し潰されてきたってことだろ?
その歴史観の最大の支持者は常に近畿の人間であり、今も学会の中心にいて古代史を歪曲し続けていると。
近畿地方以外の日本人は、長い間、天皇=近畿中心史観に気づかず、騙されつづけていると言ってもいいだろう。

27 :日本@名無史さん:2005/04/16(土) 21:29:42
ひでえね

28 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 16:52:36
稲荷山鉄剣銘の辛亥年五三一年説は、最近どう展開してるんしょうか。
欽明天皇の即位年(たしか上宮聖徳法皇帝説では辛亥年)とか宮の名(磯城嶋
金刺宮)や、「継体紀」末尾引用の「百済本記」記事など、関連しそうな事例
はあるのに、なんとも影が薄い説だ。

29 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 16:52:09
家康の入封以前に関東第1の都市だってのってどこ?

小田原?鎌倉?武蔵府中?

30 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 23:09:04
小田原でそ

31 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:05:27
ダントツで小田原でしょうね。むしろ二番目以下のほうを知りたい。

32 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 03:11:33
上野の由来って、上+毛野なの?

33 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/27(金) 12:21:56
>>32
ttp://www.google.co.jp/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E6%AF%9B%E9%87%8E%E3%80%80%E4%B8%8A%E9%87%8E&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

34 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 01:21:16
>>32
上+毛野→かみつ+けぬ→こうずけ(上野)現在の群馬県の範囲(上州、上毛も群馬県の範囲を指す)
下+毛野→しもつ+けぬ→しもつけ(下野)現在の栃木県の範囲

漏れは常陸在住だが

35 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 09:22:28
相模は、なにか+上?

36 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:29:25

昔から、ムサ+上(相模)、ムサ+下(武蔵)説があるがあやしい

37 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/06/16(木) 00:29:33

相模・武蔵同様のあやしい説、常陸・日高。
ヒタ+下(常陸)
ヒタ+上(日高)
ヒタは宮城に近い方が上、遠い方が下、他の西側が上、東側が下とは逆転。

ついでにまとめて
上+フサ(上総)
下+フサ(下総)

上+毛野(上野)
下+毛野(下野)

ムサ+上(相模)
ムサ+下(武蔵)

ヒタ+下(常陸)
ヒタ+上(日高)


38 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 06:46:59
日高ってどこ?

39 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 08:22:25
ここも馬鹿スレかw

40 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 10:21:08
稲荷山古墳て、昔の何郡?

41 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 13:27:16
九州王朝=先住民族ヤマト=平氏
現政権=渡来人出雲=源氏
らしい。
九州は今でも源氏が平氏を差別してる。
県知事、市長を調べた限り源氏の系統ばかり
市会議員、県会議員もそうかもしれない。
おそらく、焚書坑儒が行われている。
関東の人は気づかないのかね?





42 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 05:56:10
万世一系思想は源氏ツングースの野望、
ツングースは東アジアを彼らの子孫で埋めるつもり
アーリア人の思想を踏襲、平氏は差別の対象として
絶滅させる気、韓国がなぜ、金、朴などの姓だけなのか・・・
ツングースの野望。平氏一族(先住民族)よ今こそ立ち上がれ
関東にも少なからずいるはずだ。

43 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:31:51
ムサかバイ(遅れているよ)
と西九州では言いますが、これは関東に住んでいる遅れた人
を指していた言葉かもしれません。

44 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:35:06
源氏政権により封印された九州王朝の謎
を是非解き明かしていきましょう。

45 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:37:56
ムサかバイとは遅れているという意味以外に
髪の毛ぼさぼさで汚い格好してるね。という意味もあります。
九州人からみた関東人のイメージだったのかもしれません。

46 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 12:07:39
そんな深読みせずともスタンダードに
今獲加多支鹵=ワカタケル=雄略でいいよ

47 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 13:56:36
>>46
今=?
獲=ワ
加=カ
多=タ
支=ケ
鹵=ル

なのか?
獲をワと読んだり支をケと読んだりしないと思うが

48 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:27:34
むさ苦しいやつだな、ムサカ(西九州語)
六平、牟佐か、撫佐か、何かヒントにはならないか・・


49 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/07/10(日) 22:41:15

>>38
「日高」は茨城県北部と福島県南東部。
古い地図では名称が残っています。
今の地図では、日立市日高しか認められません。
「日高」の範囲は茨城県日立市から福島県いわき市(植田・小名浜・平)です。


50 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:57:55
なぬ〜

51 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:37:32
獲加多支鹵大王→幼武大王→倭王武→雄略天皇

52 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 04:27:17
ミコミコナース!

53 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 05:45:37
>>26
つーか、平安朝後半以来関東にはさんざん悩まされて来たからなー。
公家の謀略政治の一貫なんだろw

鎮守府から征夷大将軍、幕府と言う流れで東国が朝廷の鬼門なんてのは明白だろ。
平安期以前は尚更そうだったろうな。


54 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 06:17:45
大和律令体制下では普通に大和政権になってるのに、
ずっと後になっていきなり未開人(蝦夷)扱いだもんな
不自然過ぎる。歴史ねつ造すんな。

55 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:09:26
>平安期以前は尚更そうだったろうな。

一応律令制が引かれているから支配圏には入ってるんじゃない?
東北や関東がどういった形で近畿と接していたかはよくわからないが・・
ちなみに九州だって謎だらけ、いきなり畿内から官吏が派遣されてくる。

56 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:40:55
武蔵は関東全域の高麗人を移住させられた。
武蔵国は昔から台地ばかりだから農耕には適さなかった。
いまでも東京都と埼玉県の武蔵野台地は宅地以外はほぼ畑。
この畑ですら江戸時代以前は玉川上水などがなかった。
水が確保できなかったため雑木林や雑草が生い茂っていて
農耕できない。

もちろん高麗人の移住とはそんな苛酷な環境への移住なので
あまり良い地域を与えられたとはいえない。


57 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:48:40
しかしこの高麗人たちが
関東の武士たちになった可能性は高い。
甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の
高麗人が武蔵に移住した。
そして東国といえば騎馬という伝統を彼らが作っていった。
その後、平安末期に朝廷に反旗を翻したのももちろん彼らだろう。


58 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 01:45:27
「高麗人が武蔵に移住した」と「高麗人が武士になった」には開きがある。
高麗人の子孫の誰もが武士化したわけでもあるまいに。
つーか、武蔵の牧と高麗人の移住先ってそんなに重なっているのか?

59 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:08:51
『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛夘
 駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野七國の高麗人
 千七百九十九人を以て、武藏國に遷し、始めて高麗郡を置く。

『続日本紀』神護景雲二年(七六八)六月癸巳
 武藏國橘樹郡人の飛鳥部吉志五百國・・・

飛鳥部吉志は百済姓

60 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:13:06
武蔵國"高麗"郡 武蔵國"新羅"郡age

61 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:13:35
そういえば関東は肌のつるんとした人が多いな・・

62 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:16:51
>>58

>>57は、もともと武装集団だった高句麗(高麗)人が関東の武士になったと
言いたいんじゃないのかな。

63 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:21:33
なぜ、日本はこれだけ、渡来人を受け入れたと思う?

64 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:35:15
高句麗以前に古墳時代から既に東国は西国に比べて
馬文化を受け入れていたとか読んだ覚えがあるが。
律令時代には蝦夷人も騎馬化してたそうだし。

65 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:49:55
武蔵といえば武蔵七党に代表される中小武士団だと思うのだが、
高麗郡て、七党の根拠地から微妙にズレてるよね。丹党だけかな。

周辺が武装していくなかで高麗郡の住人も自衛のための武士になった
者達がいることまでは否定せんが、いかにも高麗人の子孫が武士の伝
統を作り上げていきました、なんて文章を見ると萎えるよ。
>>57はちょっと発想が飛びすぎ

66 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:58:26
ただ武士のあのチョン(朝鮮)マゲって朝鮮の人のマゲではあるらしいね。

67 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 08:24:40
>>62
ないだろ。高麗はもともと北朝鮮起源の政権だが、
武士階級が公家と分化したと言う社会構造ではない。
高麗の建国は918年。
>>56
本国北朝鮮の方が遥かに過酷だよ。
南朝鮮でも冬季は11-12月でも零下10度にもなるはず。
だからオンドルが必要になる。

68 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:16:12
>>66
そうか?
明治期になって前代の風習をバカにする意味で丁髷(ちょんまげ)呼ばわりするようになったと某本で見たのだが。
朝鮮人をチョン呼ばわりするようになったのはもっと後だ。

つーか、そんなに関東武士を朝鮮人にしたいのか。
朝鮮人に日本人が長い間支配されてきたと言いたいのか。
朝鮮人の57や66としてはそのほうが気持ちいいのだろうな。

69 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:32:31
お互い様かも、今まで西の方を朝鮮人呼ばわりしてたの
殆ど関東の御用学者じゃん。

70 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 03:34:37
>>67
高麗(駒、コマ)は高句麗であって、高麗(コウライ)ではない。
所在地も高麗(コウライ)は朝鮮、高句麗は満州。
高麗(コウライ)の建国者は高句麗滅亡後、朝鮮半島に逃れて
高麗を建国したことになっている。

71 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 02:26:59



72 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 03:14:06
高麗郡も元は別の地名があったんでしょうね。
クマ郡とかだったかも、九州に多い地名。

73 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 22:56:02
なぜ高麗と書いてコマと読むのだろう

74 :日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:15:59
最終レスが8月21日の秩父事件スレが落ちたか。
アゲとくか

75 :日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:21:44
>>73
コリョとはぜんぜん違う別物なんだ、間違えんなよという強い意志を表している

76 :日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:58:39
ん?

77 :日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:19:03
>>49
「日高」=ひだかみ(上)
「常陸」=ひだしも(下)

だね。

78 :日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:21:40
いかん、>>37と同じことを書いてしまった、、、、、、、、

79 :日本@名無史さん:2005/10/29(土) 23:50:38
チチブage

80 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:05:12
7世紀頃に関東の豪族が大和朝廷に反乱を起こしたような。

まだ半島人やふ囚が移住してくる前の話。

81 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:15:56
関東・東北と九州は逆賊の宝庫

82 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:40:08
まだ服属してないなら逆賊とは言わんでしょ。

83 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 07:07:59
獲加多支鹵

支=シ 鹵=は「鹵獲」のロ

ゆえに「バカたしろ」と読む。
「今、バカ田代」が正しい!!!!

84 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/30(日) 12:54:50
>>80
反乱のソースは何?

反乱の相手は大和朝廷ではないでしょう。
大和朝廷は畿内以外に力を示すことは未だ無理。
大和朝廷は未だ尾張に対してさえ支配が及んでいないのだから。(672年以前)
まだ半島人やふ囚が移住してくる前の672年以前だから、
関東平野内での抗争か九州王朝に対しての反乱と思われるが。


85 :例の反乱話の奴=俺:2005/10/30(日) 13:05:59
8世紀以降に関東に移されたふ囚の反乱と勘違いしているのかも。

86 :85:2005/10/30(日) 13:17:29
ソースなんて言えるものはありません。

何故かというと蝦夷関係か隼人関係の本に書いてあったような・・・

という我ながらいい加減なものです。

隼人は畿内とそこから少し外れた地域に移住させられたようですから、

関東には来ていませんね。

87 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 13:47:32
隼人の一部は関東にも移住したろ?
薩摩・大隅→畿内→関東

88 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 13:53:23
日本書紀534(安閑1)に武蔵国造の笠原直使主と小杵が国造職をめぐり
それぞれ倭王、上毛野氏と組んで抗争したと伝える。
笠原直の本拠は鴻巣市笠原付近で、墳墓は埼玉さきたま古墳群。

89 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/30(日) 22:01:30
>>80
>>85-86
>>88
抗争を起したのは小杵と上毛野氏で、
武蔵国(夷?)に対する反乱で、九州王朝と笠原直使主に対してだと思います。
笠原直使主は既に九州王朝と同盟関係にあり、
北関東の上毛野氏(毛野王権・地域独立王権)は未だ西日本文化圏内(前方後円墳等)に入っていない時代ですから。
この抗争で北関東の上毛野氏が敗退し、その後北関東に前方後円墳も広まっていったのではないでしょうか?

未だ詳しくは調べていない上での考察です。

90 :80:2005/10/30(日) 22:47:36
>>89
ありがとうございます。

91 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/31(月) 00:46:05

>>80
535年は磐井の乱後の一時的な九州王朝弱体化の時期ですから、
それに乗じて毛野王権が武蔵に反撃をしかけたこと示しているのではないでしょうか。
その後、九州王朝派遣である欽明よる継体朝畿内政権の平定、
6世紀中盤の九州王朝の再安定化時期(九州元号「兄弟」)と共に、
武蔵九州王朝同盟国「夷」の北関東進出が本格化し、
それが6世紀末の前方後円墳の北関東への拡大となっていると見ます。


92 :(´,_ゝ`)東皇帝ジーモン・ジョーカー@南武蔵◇1966DD2006BB:2005/11/01(火) 01:02:11
俺は皇帝に即位した。

大和朝廷にも唐朝廷にも従わん。いずれは全国制覇する。

93 :80:2005/11/01(火) 01:54:43
>>91 ありがとうございます、全く知らなんだ。

私は飛鳥時代には既に大和王権が東北と後の鹿児島県以外

の地域に影響力を持ち、形式的にせよ地方豪族たちを

服属させていたものだと思い込んでいました。

94 :日本@名無史さん:2005/11/02(水) 17:15:52
>>93
九州王朝説
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC

95 :日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:48:15
このスレではド田舎東京は除外ですか

96 :日本@名無史さん:2005/11/07(月) 02:56:49

東京はド田舎以下の無人地帯。
水の無い台地、低湿地と干潟、
人の住めるところが無い。


97 :日本@名無史さん:2005/11/07(月) 05:50:12
せんそう‐じ【浅草寺】‥サウ‥
東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。
山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像をまつったのが
始まりと伝え、円仁・頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として
信仰を集めた。浅草あさくさ観音。

[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

98 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/07(月) 22:33:09
>>97
江戸湾岸は全くの無人地帯ではなかったでしょう。
漁民が少しはいたと思います。
彼らは干魚等を荒川を遡って埼玉方面に売りに、
又、埼玉方面から買い付けに来たりしたのでしょう。
勿論穀物との物々交換であったでしょうが。

埼玉地方は権力の中心地として人口も抱えており、
その淡白質の供給地として江戸湾岸は重要であったと考えられます。
その湾岸の中心地として、荒川河口の浅草は江戸湾岸の人々が集まるところであったと。
その浅草に628年迄に仏教が伝わっていてもおかしくありません。

荒川河口の浅草から埼玉権力者への蛋白質供給が無ければ、
武蔵埼玉王権が北関東の毛野王権を凌駕できなかったでしょう。

99 :保守:2005/11/27(日) 02:02:21
★守護・地頭の実態−坂東武者の全国拡散★
1 :日本@名無史さん :2005/10/08(土) 08:23:07
自慢のように聞こえるし、他の地方の人間にとっても周知の事実だと思っていたので
今までは黙っていたが、藻前らがやたら関東を叩いたり、その認識に?を付けたくなったり
するんで、言及するとするが、
鎌倉時代の守護・地頭の実態は、北は東北から南は九州まで、関東甲信(特に関東のいわゆる坂東武者)
の全国津々浦々への拡散だぞ。
当時関東在住の、守護として血筋のはっきりした豪族だけでなく、弱小の豪族までが、それこそ今の市町村長の
ような形で知行地を貰い、移住して行った。主に惣領以外の次男・三男坊だけどな。
その子孫で歴史上の偉人も多い。
日本史が中国・朝鮮史と違うのは、ヨーロッパと同様に封建時代があったからだと言われているのは周知の事実。
それもこれも坂東武者、即ち関東の人間のおかげなんだぞ。
当時、関東以外の地ははっきり言って王朝国家の惰眠を貪りつづけていた。武士は単なる貴族らの使いっ走りに過ぎなかった。
文化の伝播についても、九州などの西からだと考える香具師が多いようだが、こういうことで、関東の影響が全国に広がって
行ったというのが実際だ。
言いたかないが、藻前ら本当は関東に足を向けて寝らんないんだぞ。
(鎌倉・室町の両時代は坂東武者の、江戸時代は三河遠江を初めとする中部地方の人間の全国拡散と言えよう)

100 :日本@名無史さん:2005/11/28(月) 23:06:58
213 :60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :2005/11/28(月) 22:45:06 0
>>212
女性と同じ。
ピンクも黒もいる。

黒のヤリチソは黒、ピンクのヤリチソは紫。

★20代30代女性と50代60代男性★25
http://love3.2ch.net/test/read.cgi/furin/1132787512/213


101 :日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:44:12
さいたまスレが伸びてる
川越に嫉妬する浦和人

102 :日本@名無史さん:2005/12/19(月) 00:04:37
古代東海道が通ってた所じゃないところに集中的に渡来人を入植させてるね(武蔵とか相模北部)
ま人が少なかったし発展してなかったんで当たり前か。なぜ相模や下総、上総が細分化されてて
武蔵が大きいままなのかを見れば分かるが。


103 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/20(火) 03:08:15

武蔵の地域が広いのは、
この地の勢力が東京湾北岸から荒川沿いの地域(利根川の西側)であったから。

104 :日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:23:50
age

105 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/23(金) 01:49:38
>>103の補足

武蔵:
関東平野で最も経済力大きいのは荒川流域。
穏やかな川で流域は水稲澱粉エネルギーの生産力が大きく、
又東京湾から魚介類淡白質の供給を受け、栄養分豊富な地域。
それが武蔵経済圏。

毛野:
それに対して利根川は坂東太郎の暴れ川、流域に安定した水稲耕作は望めず。
又その流域は東京湾からも遠く、魚介類淡白質の供給も受けにくい。
その弱い経済力で毛野は常陸よりも早く武蔵に破れ、その鈴文化を失い前方後円墳文化となる。

常陸:
水稲澱粉にも魚介類淡白質にも比較的恵まれ、その経済力で前方後円墳文化の支配に最後まで抵抗できた。
常陸国風土記の地名説話で、個々の地名が現代の地名と一致率が高いことは、
常陸が比較的新しい時代に下ってからの被支配化であることを物語っている。


食料の面から捉えてみました。

106 :日本@名無史さん:2005/12/23(金) 15:11:57
age

107 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 03:45:35
大好きさん応援 蛋白質age

108 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 03:56:24
風土記はいつの時代に誰が書いたの?

109 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/15(日) 04:56:56
>>108
常陸国の歴史書か言い伝え(常陸国古事記のようなもの)を、又はそれを九州王朝が風土記に編纂し、
それをベースに畿内天皇朝廷が又編纂し直したものだと思います。
日本書紀に常陸国歴史書からの抜粋と思われる部分(常陸国大王の活躍話。水戸黄門の話の原型か?)があります。
下記の参考は畿内天皇朝廷の編纂についてのことでしょう。

参考
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/hitatihudoki.html


110 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/15(日) 05:39:28

>>109の参考に出てくる倭武天皇は、
九州王朝の倭の五王の武のことではないかと思われます。
九州王朝歴史書に常陸国大王の事跡を武の逸話として盗用したものではないでしょうか?
単なる楽しい推測ですが。


111 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 06:14:03
ウソ教えんなよ

112 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/15(日) 20:03:58
>>111
はい、すみません。

>>109の参考資料は破棄してください。
僕も支持しているものではありませんので。

113 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 00:08:50
>>105
毛野>武蔵>常陸

114 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 00:28:41
毛野なんていうくらいなんだから、草原ばかりだったんだろうな

115 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/24(火) 02:53:31
>>113
武蔵、常陸、毛野の勢力範囲について。

3地域の境界線は利根川
古利根川は、現在の江戸川と江戸川と利根川の分流点(茨城県猿島郡境町)より上流の利根川です。
武蔵:古利根川の南西側
常陸:古利根川の東側
毛野:古利根川の北側

最も高い効率である農業の水田耕作生産力から経済力を判断すると。
毛野の水田耕作適地は谷中遊水地周辺のみ。
又毛野の高密度淡白供給地は谷中遊水地のみ。武蔵は東京湾、常陸は霞ヶ浦等湖水と太平洋が淡白供給元。
よって
経済力:武蔵>常陸>毛野

面積(山間原野を含む):毛野>武蔵>常陸


>>114
水の少ない草原と森林が平野面積の大部分。
水田適地は谷中遊水地周辺と利根川渡良瀬川間の地域のみ。

116 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 03:54:14
>>115
関東平野の谷地・小平野は軒並み火山灰土特有のリン酸欠乏がひどいので
水稲稲作には決して適した土地じゃないよ。
葉は茂っても実が付かないから稲作には致命的。藁しか出来ないからね。
そしてこのリン酸欠乏は火山灰土のためなので
箱根・富士に近い古利根川西岸の武蔵国のほうが酷い。
もちろん赤城・榛名などに近い毛野も酷い。
火山から遠い常陸は少しだけマシ。だが常陸は寒流の海に面するので
冷害という深刻な問題がある。風土記にさえ記述されているくらい。
押並べて関東平野は稲作にはどこも適していない。
弥生時代以降関東が一気に後進地域に転落した最大の原因はこれだ。
(戦後になって化学肥料が普及して初めて豊かな農地になった)
武蔵や相模、あるいは上野が比較的発展していたように見えるのは
単純に畿内に通じる主要な道の入り口付近に当たったからだろう。

117 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/24(火) 17:04:23

>>116
弥生時代に関東が後進地域に転落した原因はその理由の通りです。
しかし関東弥生末期(西日本古墳初期)に西日本人(主に尾張から)の相模武蔵進出(ヤマトタケル東征話等)がありました。
彼らが持ち込んだのは革新的水田農業技術です。
この技術によって米の増産が計れ経済規模が拡大し古墳時代に入れたのです。
魚粉屑や人糞による水田へのリン肥料の投入です。
火山灰地でも河川反乱のない低湿地があれば水稲耕作が可能になったのです。
このリン肥料によって水稲を飛躍的に増産できたのは、
東京湾を後背に持つ武蔵、鹿島灘と沼沢地(霞ヶ浦手賀沼現利根川下流域等)のある常陸、それに相模湾の相模です。
しかしながら毛野は谷中遊水地の様に豊富な魚資源のある沼沢地がありません。
戦後の燐安肥料普及まで、海の魚資源は人への淡白質供給のみならず水田へのリン肥料の供給元として非常に重要であったのだと思います。

118 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:31:39
>>117
そりゃ無理大杉の仮定だよ。
日本の最先進地(畿内)で人糞が肥料として用いられ始めたのが
やっと中世になってから。魚肥の普及に至っては近世後期になってから。
肥料と言っても単純な話では無いわけで、
人糞や家畜の糞でもそのままでは肥料にならず、そのまま撒けば有害だ。
寝かして十分醗酵させるというプロセスを経なければならない。
牧場にして放っておき家畜の糞が土に返るのを待つという方法ではなく、
人為的に糞を集めて発酵させる肥料が普及し始めたのは
世界的に見てもかなり後世になってからのこと。
魚肥に至ってはとった魚をそのまま食べるより
明らかにカロリー上も労力上も非効率なわけだから
漁獲法が長足の進歩を遂げてかなり大量の余剰が生まれない限り
決してあり得ない。魚網を使った大規模なイワシ漁法が生まれた
江戸時代になってからようやく肥料に回せる余裕が生まれたわけだ。
水田稲作の優秀さというのは、水を普通は川から常時引き込むので
流水が泥と一緒に肥料分を持ち込んで田に堆積するため
施肥せず連作してもそれなりに収穫が見込めるというところにある。
関東のリン酸欠乏の土地はこの利点を悉く帳消しにしてしまうので
古代の稲作にとっては本当に不毛の地だったんだよ。
仕方ないので焼畑で灰を肥料分として供給する畑地を開発する他は無かった。
古代の武蔵野が一面の茅野だったのは頻繁に火入れをしていたから。

119 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:39:46
草っ原じゃだめなの?草っ原がいいのにい

120 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:40:36
まあ古代から焼畑農業は日本でもあちこちで行われていたが、
奈良時代の段階で森林が回復せず一面の草原になるほど
火入れが頻繁に行われていたのは全国でも関東平野の特に武蔵野だけ。
中世末にはすっかり植生が貧弱になる畿内や西国の山々でさえ、
奈良時代には鬱蒼とした照葉樹を主体とする森林だった。
武蔵の在地権力を支えていたのは収奪的な焼畑畑作かもしれないね。
それでも生産性の点で東海以西とりわけ畿内には全く及ばなかったわけだが。

121 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/25(水) 22:35:05

>>118>>120
確かに>>117は無理大杉。
人糞肥料は何時の時代からでしょうね。江戸期には既にありましたが。人糞発酵肥料も古くからあると思います。
発酵堆肥肥料は発酵食品と同じぐらいの歴史があると思いますから、人糞発酵肥料も同じくらいの歴史があるのでは?
子供の頃、田圃のあぜ道にあった人糞発酵用肥田子に落ちたことがありますが、よく発酵していたのでそれほど臭くはありませんでした。
江戸時代に肥料として良好な発酵状態かをみるのに味見した学者がいましたね。

網による漁業は何時の時代からかはよくわかりませんが、海洋民である弥生人の時代までは遡れるのではないでしょうか?

6世紀の武蔵が毛野を凌駕できたのは、毛野に優った経済的背景があったからでしょう。
それが何かはまだわかりませんが。
焼畑では武蔵と毛野に差は出来ません。

畿内のから照葉樹林が消えていったのは弥生時代末期から古墳時代です。
照葉樹林が松杉等のヤニの多い針葉樹林に変わりました。
聖徳太子について書かれた時代では、燃料木は既に煙のよく出る針葉樹林に変わっていることを示しています。
その時代には完全燃焼すれば煙の出ない照葉樹燃料木は既に針葉樹燃料木に変わっていたのでしょう。
7世紀の畿内や九州では照葉樹は里山には既に少なく奥山にしか生えていなかったのでしょう。

122 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:23:07
>>121
人糞肥料が普及したのは鎌倉時代からと言われる。
土地を休ませる必要が減って二毛作が始まった(畿内)のもこの時期だ。
そもそも人為的な施肥という概念そのものがかなり高度な農法概念なので
農耕文化が相当進歩しないと生まれてこないわけで。
畿内の森林資源の衰退は確かにもう少し早かったね。
中世末というのは畿内山林の禿山化の最終段階に近いわけで。
だが、武蔵野の草原化は奈良時代には歌に詠まれる通り
明らかに行き着くところまで行っていたので
全国的に見ても異様な植生衰退が起きていたんだよ。
毛野と武蔵の違いは可耕地面積の差に尽きるだろう。
特殊な集約農業である水田稲作を主体とする日本では
耕地面積の差より農地への労働力投入の差のほうが重要であると言われるが
粗放焼畑農業の場合、絶対的な可耕地面積は決定的な意味を持つ。
武蔵のあまりにも広大な台地は粗放農業には不可欠だったのだろう。
毛野は山がちで武蔵ほどの広大な可耕地面積は得られない。

123 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:24:41
古代関東では高級なヒエやアワは食ってないし、育たない。
やつらは万年、シジミを食って、牛馬の放牧をしていたのさ。

高句麗でしていたようにね。

124 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:30:43
ヒエやアワが高級〜?

125 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:36:57
>>123
牛は西国

126 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/26(木) 13:11:16

>>122
武蔵と毛野の差は可耕面積の差がひとつ。
もうひとつは海魚淡白供給量の差ですね。
どちらも、武蔵>毛野
下毛野の平野部は水が乏しいところが多いので(森林では保水できるが)、
平野面積差以上に可耕面積差が大きくなります。
それに対して武蔵の平野部は荒川流域から利根川西岸まで水が比較的豊富で殆ど可耕地。

127 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:48:38
なるほど、古代関東人は遊牧民族であった・・・

128 :ぐんま:2006/01/28(土) 12:00:55
森田あゆみ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E3%81%82%E3%82%86%E3%81%BF

129 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:45:42
毎日、しじみ汁だったのね〜!! 貝塚ができるほど〜!!

関東には甘藷と南京豆があるからいいや。

130 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:55:29
もまいら、富士・浅間山を忘れていないか?
この活火山は戦国末期頃まで活発に噴火を繰り返していた。
ある意味、関東平野は富士山が吹き上げる火山灰が溜まってできた灰土平原
だぞ。亜硫酸ガスでも噴出せば、風にのって関東一円は死の荒野と化してい
た。
そんなところでのんびり農業や魚釣りやってる暇があるわけない。

131 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:58:06
>>129
甘藷は江戸時代〜
ピーナッツは戦後〜

関東にそもそも固有の農作物なんてありません。

132 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 21:00:18
ある意味じゃなくても、関東ローム層は富士山の火山灰ですが。

133 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 22:33:14
毎日シジミ汁を食いたい。

134 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 01:25:11
>>129
>毎日、しじみ汁だったのね〜!! 貝塚ができるほど〜!!
それは武蔵南部の話だろう。

>>130
農業に火山の影響なんて10年20年、そんなにいつまでも重大な状況が続くものでない。
大正に噴火した桜島でも美味い大根ができるのだから。

火山灰の影響が続きやすいのは武蔵野のような水の少ないところ。
水の豊富な荒川流域の武蔵では問題なし。

135 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 01:33:43
大規模河川周辺で農業は無理だろうと小一時間(ry

136 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 01:44:25
今はアサリよりシジミは高い。

137 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 02:36:30
>>135
それで坂東太郎利根川流域では農業の発達は難しかった。
温和な荒川流域では農業OK。

138 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:54:29
>>137
おいおい。一応関東について語るなら
関東の古地理についても勉強しておいてくれよ。
当時利根川と荒川は武蔵国北東部を数kmも離れず流れていて(古利根川、元荒川)
最終的には合流して(正確には乱流デルタ状態)東京湾に注いでいたんだが。
今の荒川流路には入間川が別の川として流れていた。
今の利根川中下流の流路には下野方面からの鬼怒川・小貝川だけが流れていて
霞ヶ浦の前身となる湾(香取海)に注いでいた。

139 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 09:33:23
毛野は毛人の野(土地)という意味で、もともとアイヌ(蝦夷:毛人)の土地と
いう意味だぞ。遊牧民系の渡来高句麗人はその後だろが。

140 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 10:02:48
>>130
鹿児島は桜島の西にあるから、季節風のおかげでそう被害がないだけ。東側
が海だからいいのだ。
富士山は休火山の今と違って、当時は毎日煙を上げていたんだよ。時々、大
噴火も起こして。それは富士だけではなく浅間や赤城もそう。活動期だった。
今のプレート型地震だけではなく、火山性地震ももっと多かったハズ。
また火山のタイプも異なり、富士山系の火山は86年11月の伊豆大島三原山
のように大爆発でなくとも有毒な硫化ガスを噴出させる事が多く、動植物
に致命的な打撃を与えます。

少なくとも、大根をのんびり植えてる時代ではないですね。

141 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 10:09:33
殺生石って、確か火山性ガスかなんかで人や獣を殺したんだったっけ?
あれは那須だったかな?

142 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 14:33:59
>>138
縄文期や弥生期では同じ認識です。
古利根川については以前書いております。
関東平野中央部から東京湾にかけては、
河川流路が網の目のように変化する乱流デルタ地帯です。
現在の谷中湖のように遊水湖沼地帯が平野中央部南部全体に広がっていました。
武蔵が毛野を上回る経済力を持つようになったのは、
荒川が平野最西ルートを流れ入間川と合流する安定した河川ルートになったからでしょう。

>>140
6世紀迄の火山活動は全国的にみれば現在と変わるところはありません。
又、ある地方で致命的火山活動があっても、
火山活動が活発に継続するのは精々数年。
活発な活動収束後20年もたてば自然は回復します。

143 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 14:57:48
>>142
荒川を入間川に付け替えたのは1629年だよ。
はっきり記録が残っている。
台地を掘り割って流路そのものを変更する江戸時代らしい大規模工事。
放っておくと関東平野中央部に集中する水を四散させるという
徳川幕府初期の利根川・荒川・鬼怒川水系の大土木工事の一環。

144 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:57:48
>139禾(け=穀類)、または毛(稲毛の毛、稲穂や麦穂のトゲ)の野と教わりましたが???

145 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 16:20:01
毛=草じゃなかったっけ?

146 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 19:46:09
>>143
現荒川を熊谷で和田吉野川に付け替え合流させ、入間川に合流しています。
大宮台地の西側を南下しています。
旧荒川は入間川と合流せず、大宮台地の東側を流れて東京湾に流れこんでいました。
以上確認訂正します。

4〜5世紀頃、利根川は行田付近で南下し旧荒川と網目の様に流れていたのが進路を変え、
現在のようにそのまま東進するようになったのではと思います。
その為谷中湖近辺の遊水地が発達し、渡良瀬川流域で発展した毛野は相対的に衰え、
利根川が南下しなくなり、荒川流域だけになった武蔵は発展できたのでしょう。
又、荒川だけとなった武蔵は東京湾との水運を発展することもできるようになったのでしょう。



147 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:52:59
大宮台地は僻地
氷川社家も新興勢力
大宮東バレー負けたか
大宮商も負けたか

148 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:58:18
毛人がアイヌなら、越の人はどよ。

149 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 20:01:30
>>146
今度は1641年の利根川赤堀掘削を否定する気か?
利根川が銚子に向かうようになったのは1641年のことで
さらにそれ以前に前提として渡良瀬川水系と利根川水系を北側で結ぶ工事が
1590年代に行われている。いずれも徳川家康江戸入城後の話。
利根川、荒川、渡良瀬川水系が全部大宮台地の東側を通って東京湾に注いでいなかったら
中心が激しく褶曲沈降する関東平野において河川が埋め立てる土砂が足りず
東京湾は現在でも春日部付近まで入り込んでいただろうよ。
この辺りはものすごく沖積層の厚い陥没した湿地帯で相互往来が非常に難しく
今でも木曽三川デルタ地帯や親不知に匹敵する方言上の決定的な境界線となっている。

150 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 20:54:20
>>149

否定していない。
古利根川下流は江戸川です。
>>115を参照のこと。
>>146をよく読み直したら。
東進は谷中湖南西の利根川のこと。

151 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:09:22
古利根川は中川だべ

152 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:45:21
毛人=蝦夷ですな。

153 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/05(日) 21:57:12
古利根川は何本もある。
中川もそのうちの1本。

154 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:04:46
古代関東は、アイヌ達を高句麗の騎馬軍団達が荒らしまわっていたんだろうね。
古代騎馬民族は関東へ送り込まれた渡来人だったに違いない。

草の生える程度の灰土平原なら遊牧に最適。彼らは馬や山羊の肉も食ってたん
だろう。そして後世、"チョン"髷を結う武士へと変貌していったのだろう。

155 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/08(水) 19:53:56

関東平野に牧畜のできる灰土平原はありません。
平野の中央低地部は湖沼の点在する広大な遊水地。
平野周辺部は土地が凸凹の水のない潅木地帯。
耕作適地は渡良瀬川と荒川上中流の流域のみ。那珂川下流域も。

156 :日本@名無史さん:2006/02/08(水) 20:04:59
馬の産地ではある。「馬」が付く地名は多いぞ。

157 :日本@名無史さん:2006/02/08(水) 20:21:29
>>156
それ、どれくらい遡れるの?

158 :日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:09:47
将門の大結馬牧、長洲馬牧

159 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/11(土) 18:08:55

将門の時代は新しすぎる。
舞台は4〜6世紀です。
関東平野で馬を本格的に生産するのは7世紀後半白村江敗戦以降でしょう。

160 :日本@名無史さん:2006/02/11(土) 19:26:59
4〜6世紀? 紀元前から関東に馬はいたが?

161 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/11(土) 22:31:37
>>160
馬は紀元前からいたでしょう。

日本での馬の本格的生産は、
白村江敗戦後の対唐戦に備えた、
軍備力強化の時からでしょう。

162 :日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:31:18
生き物としての馬そのものは、確かにいたやな。

問題はそれを軍用として飼い慣らしていたかどうかと、
その規模、って話だろ?

>>161
日本での、ではなくて「関東地方での」という条件で書かないと、このスレ的には無意味。
できれば鐙や鞍なんかの発掘実績込みで頼む

163 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/22(水) 14:41:18
>>162
発掘実績から説明することは難しいことですね。
旧入間川流域の古墳群出土品から見て、
武蔵への軍用馬の導入は西日本に遅れることなく4世紀末から5世紀初頭頃でしょう。
西方より古墳文化を持った人々が武蔵に移住したときに軍用馬としてつれてきたのでしょう。
又この馬を使った軍事力が毛野を圧倒していった大きな要因(東京湾からの魚介淡白質供給同様)となったのでしょう。
又5世紀中頃には、群馬県白井遺跡群に馬の多量のヒズメの跡が残っていました。
これは武蔵が上毛野を支配した時期です。榛名山の噴火で上毛野が弱体化した時期でもあります。
だからと言って軍用馬の生産を大規模したとはいえません。
埼玉県大宮台地等に残るオオマキ等の馬に関わる地名からみて、
軍用馬の本格的生産は白村江敗戦後の天武期(全国一斉)からでしょう。

馬の生産には塩が必要不可欠で重要ですから、
東京湾から馬飼育用塩の調達が出来ない上下毛野が、
武蔵に先駆けて馬の生産をすることはありえません。

164 :日本@名無史さん:2006/02/22(水) 20:41:04
軍用ではなく騎馬民族の高句麗がそのまま渡来しただけ。関東は遊牧だよ。遊牧。

165 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/22(水) 22:42:59
関東平野には遊牧できる環境スペースがない。
高句麗は騎馬文化も持ち込んだであろうが、
定住生活であった。

蛇足:高麗=駒と思います。 高句麗=高駒麗

>>164
ところで、高句麗の武蔵入植はいつ頃とみますか?



166 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:16:38
話ずれるけど、割り込みスマソ
http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/komaou.html

167 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/23(木) 01:51:56
>>166
話はずれていません。

>>164
高句麗人の武蔵入植は8世紀初頭です。
高句麗人の関東平野への進出は早くても668年以降です。
高句麗人が難民として日本へ来た頃、日本では牧による軍用馬の本格生産が始まったのです。

168 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 02:35:14
高麗神社は出世守護と見せかけて実はかの法則発動体のようだね。
若槻首相にしてもライオン宰相にしても人気は高かったが
経済政策も明らかに間違っていたし最期も悲惨だ。
首相に参拝してもらっては本当に困る神社かもw

それはさておき、縄文中期の関東縄文文化を支えたのは
カシ類(おそらくシラカシ)の大森林のどんぐりだったのだが、
それが奈良時代には武蔵野の風物詩とは「見渡す限りの大草原」に大変貌している。
気候は少々寒冷化しただけで森林が消失するほどの乾燥化が進んだことはあり得ないので
人為による強力な森林劣化と植生改変の結果であることは明らかだ。
九州王朝大好き氏はこの理由を牧畜(牧場)と焼畑畑作農業の
どちらに起因するとお考えかな?
どちらと見るかによって上代武蔵国の経済構造はかなり異なるものになる。

169 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/23(木) 16:42:22
>>168
660年代からの馬牧畜によるローム層台地の森林荒廃ですね。
660年代よりの「牧」政策により、その牧畜の担い手は牧畜技術を持った難民高句麗人でしょう。
8世紀に入り国内情勢も安定し軍用馬の必要性も少なくなり、又、関東原住民と高句麗人との軋轢も起き、
武蔵を中心とした関東ローム層台地に散らばっていた高句麗人を高麗川流域に集め、
定住化させ、馬牧畜から水稲作等の農業へと高句麗人の生業を転化したのでしょう。

西日本の農耕牛に対して、東日本の農耕馬はこの時代の高句麗人による起源となるのでは。

170 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/24(金) 01:04:33
>>168
武蔵(大宮台地)は8世紀になると蝦夷制圧の為の軍馬生産の拠点となったようです。
武蔵野の風物詩としての「見渡す限りの大草原」とは、大宮台地ではないでしょうか。


171 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:38:05
大宮台地ってどの辺のことですか?

172 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/24(金) 09:37:48
>>171
現荒川と元荒川に挟まれた地域。
さいたま市の市域に概ね相当。
浦和区、緑区、中央区、大宮区、北区の地域。

173 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 18:38:43
【大宮台地】
武蔵の武士団発生地から外れてる、いわば武蔵国の辺境が足立郡。
足立氏本拠地は桶川説と大宮説。

与野本町、南与野、中浦和あたりで坂があるから
あの辺りが大宮台地の切れ端か。
大宮だと埼玉栄の西側の坂。

174 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 11:02:04
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾

『嫌韓流2』発売中

駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう

175 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/25(土) 14:07:10
>>171
大宮台地の追加説明

大宮台地飛地:川口北部の東北自動車道沿い北は埼玉スタジアム近辺までの細長い地域。

両台地中央部の見沼と見沼用水の低地は、古荒川古利根川によって、大宮台地が侵食されたものです。
現在の大宮台地は、ひとつ河岸段丘であった古大宮台地が見沼低地によって東西に分断されたものです。

中央に水の豊富な低湿地(見沼)を挟んだ2つの大宮台地は馬の放牧には最適地だったのではないでしょうか。
現在の武蔵野の地域(東京都・埼玉県南端)は馬放牧をするには水が貧弱で大宮台地に劣る。

176 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 11:05:44
【大宮台地】
埼大道りを北浦和方面へ向かうと、17号線を越えたあたりから上り坂になる。
旧ロジャースのあたり。
大宮台地は水利に乏しく畑作中心。

県南は江戸時代まで埼玉の後進地帯。
県北西部は平安から戦国に至るまで勇猛な武人を多数輩出。

177 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/02(木) 00:50:12
>>176
あの坂は大宮台地西端の断層の東面にできた坂だよ。

178 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 23:18:03
毛野の国は大きかったらしいね
でも獲加多支鹵大王は雄略だよ
斯鬼=磯城だし

179 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 01:18:59

でも、武蔵との争いに敗れました。

180 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 01:25:44
>>178
獲加多支鹵大王は九州王朝の7人の弟大王の1人です。

181 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 02:22:42
>>169
俺とは意見が違うようだなあ。まあ地層中の花粉を調べれば解決することだが
俺は武蔵野の草原化はもっと古くから起こったんだろうと思っている。
関東平野(武蔵野)に最初に入植した弥生人は出雲系だったことはほぼ明らかなんだが、
出雲系は北方アジア的な雑穀農業系文化に馴染みが深い。
だとすれば、初歩的稲作のための水利としては条件が非常に悪い関東平野では、
北方アジアと同じように森を焼畑で開いて粗放的な畑作を始めたことは想像に難く無い。
縄文人は縄文後期から晩期に関東平野では人口崩壊を起こしているので
大した軋轢無く出雲系弥生人は森を切り開いてしまっただろう。
関東平野は満州ほど広くないのでw
あっと言う間に森を切り尽して見渡す限りの草原にしてしまった。
武蔵の在地権力が強かったと言っても数百年の短い期間で永続的とはいえず
しかも主要な根拠地が「広大な」武蔵国を短期間に北へ南へと大きく移動するのは
粗放農業のため地味の低下が激しく移動または興亡(勢力交代)を
余儀なくされたからだと思われる。

182 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 02:59:17

出雲人の関東入植は大国主の国譲り以降なのだけれど、
そんな彼らが焼畑粗放農業とは?

183 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 03:23:28
>>182
粗放というのは驚異的な集約農業である水田稲作と比較して粗放だということだよ。
焼畑粗放農業自体は、朝鮮半島などでは19世紀までごく当たり前だったわけで
上代の日本では全く驚くようなことではないよ。
日本の稲作文化はかなり長期に渡って複数文化の渡来と内在的発展を繰り返した
重層的なもので、弥生時代に完成品が一層で渡ったものではないと考えている。
弥生早期に朝鮮経由で伝わったらしい水田稲作は後世の日本式稲作の一部要素でしかない。
これは北アジア的畑作雑穀農耕と深い関係があったらしく、
水田稲作技術とセットで畑作技術も携えていたことは確実だ。
彼らが関東平野に入り、手の施しようがない大河川の氾濫原・大湿地と
火山灰土で生産性が絶望的に低い谷地、そして広大な台地を見た時、
手持ちのツールの中から「畑作雑穀農業」を選択して
台地の焼畑化を進めることにしたことはごく自然なことだと思うけど。

184 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 03:30:34

出雲人は関東入植後、常陸の国鬼怒川下流域では水稲定住農業をしていた様に見えるが。

185 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 03:42:34
>>184
そりゃ出来るところでは水田をひらくだろうよ。稲作は収量が多く魅力的だからね。
だが、それでは足りず、または東日本太平洋側特有の冷害被害などもあるわけで
粗放的畑作をメーンに据える方が、当時の関東平野とりわけ武蔵国では
自然条件と入植者の農法ツールから見て有利だったということだろう。
武蔵>毛野、常陸となった理由はこの状況を前提とした場合の総体的生産力が、
台地が多い武蔵が圧倒的有利だったということによるのだろう。
だがそれは徹底した森林破壊と度重なる勢力興亡という副作用を生み、
もちろん畿内政権の国力には全く歯が立たなかった。

186 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 18:49:07
出雲人の関東入植がガセだろう

187 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 01:48:58
>>186
関東平野の神社の祭神を調べれば。

>>185
貧栄養土壌で水の無い台地部では澱粉質穀類芋類の生産は無理。
澱粉質を含まない低カロリーの野菜しか育たない。
台地部の焼畑で育てられる澱粉質は精々麦類、それも極端な低収量。
火山灰土の少ない地域でしか澱粉質穀類芋類は収穫できない。

もし日本の古代に薩摩芋やじゃが芋があれば歴史は全く異なっていたと思う。

188 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 02:59:49
>>187
焼畑なら森林土壌が蓄えていたリン酸がまだ残っているから
開墾して数年の間なら蕎麦や雑穀程度なら何とかなるわけで。
収穫量が落ちてきたらまた他の森を切り開くことになる。
谷地での稲作はこうはいかないのは、
水田稲作は粗放的にどうしても出来ないという事情があるから。
葦原を焼き払ってもその直後に播種できるわけじゃない。
まず水田に水を張るための水利をきっちり確立しなければならないからね。
それだけの時間と労働力投入が必要なのに、
数年内にすぐにリン酸不足になって小水田は使い物にならなくなる。

189 :氷川は大宮、女体は浦和:2006/03/04(土) 09:23:57
【大宮台地】
他地域でも無理だし、稲作は無理。
大規模河川周辺で農業開発は近世以降。
江戸時代でも大宮台地の村々は畑作農家多し。
武的要素は埼玉の他地域よりも薄い。特に浦和は。

190 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 11:08:03
焼畑はカルシウムのイオン化作業。
カルシウムイオンで酸性土壌を中性化するのが目的。
耕作により土壌が再酸性化すれば土地の放棄。これが焼畑農業。

水稲は比較的酸性土壌環境でも生育するので焼畑作業の必要性なし。

燐酸は森林を焼いても土壌に補給されない。
木は殆ど燐酸を含有していないから。

燐酸の土壌への補給は、動物の糞尿死体と上流から河川水。
原生林大宮台地への燐補給は鳥の糞と小動物。
非人為的な燐の再生は不可能。

191 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:06:00
>>190
いやいや、リン酸が再生不能だからこそ「1回限り」になったわけで
それで武蔵野の森林破壊が加速度的に進んだのジャマイカ。
焼畑の肥料的意義は基本的に草木灰供給によるカリウム分の補給だよ。
窒素とリン酸は既存の森林土壌からそのまま受け取ることになる。
火で燃やすというのは木材を使うという目的が無い限り
古代においては最も効率的に森林を切り開く方法なので
肥料補給だけの問題でもないけどね。

192 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 17:44:51
>>191
栄養学的にはカリウムの補給には異存なし。
焼畑の最大の目的は酸性土壌の中性化です。
酸性土壌では多くの農産物が育たないし育っても収量は少ない。
日本では土壌の酸性化を防止する為に、雑穀畑作農業においても集約農業にならざるをえなかったのです。
縄文期の西日本の人口過疎は雑穀畑作集約農業技術がまだなかったからと思います。
酸性土壌の日本だからこそ水稲が急速に普及したのです。

本題に戻って、8世紀の武蔵野の草原化は焼畑農業によるものでないでしょう。
仮に一度草原化しても、50年も経てば森林は回復し始めますから。

193 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 18:15:04
>>191

参考:
日本の弥生時代の始まりは水稲を含めた穀類集約農業技術が入ってきた頃(縄文末期〜晩期)ではないかと思います。
縄文文化の発展した平野地域は、酸性土壌の火山岩地帯ではなく、中性土壌の水成岩地帯であることが関連していると思います。

中国春秋時代に、大陸中部から水稲集約農業技術が、大陸北部から雑穀集約農業技術が前後して日本に入ってきたのではと思います。

194 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:01:46
>>193
ん?縄文文化の発達した地域は火山灰地が中心だよ。
関東平野、中部山岳(八ヶ岳山麓)、熊本平野などなど。
縄文末に朝鮮経由で九州に渡来した北方系の稲作+畑作の農耕文化を
粗放というか集約というかは程度の問題なのかもしれないけどね。
田植え法、稲作儀礼、餅食、稲藁文化、庭での多様な植物栽培といった
複雑な日本式稲作文化体系はもっと複雑な受容と発展の後に
完全な形としては中世頃確立したものと思われる。
要素渡来は弥生早期ではなくもっと前のものともっと後のものがあったようで
長く見る必要があるように思うよ。弥生時代の中国からの渡来は疑問視している。
ともかく、
武蔵野の草原化のとどめを刺したのが牧場政策だったことは俺も否定しないよ。
切り開かれて疲弊した土地がこれ幸いと牧場に利用され草原化は完成したんだろう。
下草がほとんど生えない照葉樹林をいきなり牧場化するということは
あまりにも考えづらい。

195 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/04(土) 23:30:45

「縄文文化の発展した平野地域」とは、人口の多い、
福井、青森のような巨大遺蹟を残す権力があった地域を意味して書いたつもりでした。
多数の人口を抱えていない縄文集落のことではありません。

196 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/14(火) 16:36:29
>>194
疑念について説明します。

>下草がほとんど生えない照葉樹林をいきなり牧場化するということはあまりにも考えづらい。

牧草地に作るにも土壌の中性化を図り、
牧草が良く生えるようにしなければなりません。
樹林を焼くことにより牧草を生育しやすくするのです。
樹林を伐採して牧草地化するのではありません。
ですから樹林を焼けば、
翌年から樹林の牧草地化が、特別の手を加えることもなく始まります。
(牧草の種付けは自然に任せるか人為によるかの差はありますが。)

既に牧草地であっても、新芽の芽吹き始める前の2月頃に野焼きをし、
その年の牧草の生育を促します。

197 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:36:44
>>187
もともとの武蔵国造は阿倍姓
出雲系を称したのはあと

198 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:38:10
今月のムーに
関東の大王が藤原京を手本に大里京を作ったっていう
話が載っていたけど
あれってトンデモ説?

199 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/14(火) 23:51:11
>>197
関東の出雲系は、出雲の国譲りで東方に逃げだした難民の一派である外来者。
関東で出雲系と名乗るには相当実力を蓄えてからでないと関東内では不利。
武蔵が九州王朝の一つの大王国(夷)となれば出雲系と名乗るメリットがある。
九州王朝内大王国順位は@筑紫A出雲B肥C浪速D越?E尾張?F夷であり、
武蔵が九州王朝大王国となった頃には実力No1大王国は肥であったから。
継体が九州王朝実力者の応神五世の孫と言って虚勢を張ったのと同様。

>>198
トンデモ説かどうかは知りません。
検証に値するものかもしれません。
今月のムーはまだ読んでいないのですが、
条里制を示すものが発掘されたのですか?

仮に手本から大里京を作ったのであれば、
その手本は倭京(大宰府)でしょう。
藤原京の手本も倭京です。
浪速(大阪)では第一次浪速京があります。
あと、尾張(美濃)・出雲・越(福井)にも京址が発見される可能性があります。
倭京が「大宰府」であるのに対し、第一次浪速京や大里京は「宰府」の位置づけになるのでしょう。
ただし、平城京は倭京を凌ぐものとして建設されたものでしょう。


200 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:01:16
阿倍(稲荷山鉄剣)⇒出雲(旧事紀)⇒物部(氷川)

201 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/16(木) 03:01:56
>>200
>阿倍(稲荷山鉄剣)⇒出雲(旧事紀)⇒物部(氷川)

夷(関東)大王国(武蔵)の支配者が、安部→出雲→物部と変わっていっただけですね。
これは畿内朝廷の見方か九州王朝の見方によるかによって変わっているだけかもしれません。

たとえば、7世紀(九州王朝の認識・毛野半島派兵)では関東大王国の中心が武蔵でなく毛野になっています。
これは現在の下総と呼ばれる地域の北部が8世紀(畿内朝廷の認識・常陸国風土記)では常陸に含まれていたように、
7世紀での武蔵北部地域は毛野に含まれていたと考えられます。
8世紀(畿内朝廷の認識)では武蔵北部地域は毛野ではなく武蔵になっています。

さきたま古墳群のある現在の行田市の地域が時代によって毛野か武蔵であるかの決定をしなければならないでしょう。
僕の認識では、行田市の地域は7世紀までは毛野で、8世紀からは武蔵です。
氷川神社のあるさいたま市の地域は変わりなく武蔵でしょう。
もうひとつ注意すべきは出雲系の分布が、関東平野南部低地部から常陸方面であることです。

結論は場所の移動による変化
阿倍(稲荷山鉄剣):毛野南部(武蔵北端) ⇒ 出雲(旧事紀):武蔵中部低地部 ⇒ 物部(氷川):武蔵中部低地部

202 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:32:01
ムーを買ってみた
埼玉県北部、旧大里町に大里京はあったと著者は推論している
国宝「延喜式」の「紙背文書」の裏側に記された大里郡坪付によると
大里条里は南北9条東西10条に渡り存在したという。
これは大里町を中心に熊谷市や行田市に跨る条里遺構に該当すると言う

大里を内裏と推定したり宮郭という地名からそこに宮殿があったなど
かなり強引なこじつけが多いことから作者の妄想ともとれるが
下田町遺跡からは掘建て式の小屋郡に混じり大型の建築物の遺構が見つかり
溝や建物が東西南北の四方に向け整然と方向つけられていることから
ここに豪族当たりの館と集落ががあったことは確かなようだ

203 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/17(金) 04:47:43
大里京存在の可能性は否定できませんね。
元荒川と和田吉野川に挟まれた水利(井戸)の良い台地地域ですから。
残念なことに江戸初期の荒川付け替え工事で、
条里制が残っていたかも知れない地域の真ん中が破壊されていることです。
又、宮址部分が完全に破壊されていると思われることです。
著者の論より西よりに大里京があれば、条里の東部分が破壊されているだけで、
宮址はそっくり地下に眠っていると期待したいです。

条里制の痕跡が残っていないかと衛星写真で調べようとしましたが、
丁度この地域の解像度が悪く調べられませんでした。
下田町遺蹟の上にできた工場は解像度の高い部分の北端にばっちり写っていたのですが。

下田町遺蹟を発掘している頃、仕事で行田駅を降りたことがあるのですが、
その時知っていれば下田町遺蹟や大里町の方面に足をのばしたのに。

204 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:27:14
いや、関西だろ

205 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/20(木) 21:43:46
>>201の補足
毛野と武蔵の境界の変更
行田市〜熊谷市〜大里郡の地域が毛野国から武蔵国に編入されたのは、
武蔵国が秩父国を含む21郡に編成された717年です。


206 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 23:10:54
九州王朝大好き氏は、さいたま市民?

207 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:15:21
確か、奈良県のご出身だったような

208 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/22(土) 16:59:26

鹿児島生まれの奈良出身です。
学校は奈良神戸東京でした。
子供の頃は天皇御陵に入って遊んだこともありました。(戦後は入れた時期がある)
仕事の出張の折には足を延ばして、鹿児島から北海道まで現地調査で回ってきました。
今は阪神間に住んでいます。

209 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:16:47
【歴史】関東地方の『武蔵』の地名の由来は朝鮮語の『モン(苧麻)』〔04/22〕
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1145695734/

210 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:56:08
ホロン部って頭のいい人いなさそうだね

211 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 11:09:53
九州王朝大好きは、さいたーまの地形に詳しいですな

212 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/23(日) 12:21:33
>>209
怪しげな説なら下記のほうがましじゃないかな?

武蔵←ムサシ←ムサシモ←ムサ下←ムサ
相模←サガミ←ムサカミ←ムサ上←ムサ

常陸←ヒタチ←ヒタシモ←ヒタ下←ヒタ
日高←ヒタカ←ヒタカミ←ヒタ上←ヒタ

>>210
「ホロン部」とは何ですか?

>>211
関東には住んでいたましたし、四十数年前から最近まで、
休日には関東平野のあちこちに車でドライブやオートバイでツーリングをしていました。


213 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:22:38
そろそろ大好きさんの著作出版に期待していいですか?

214 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 15:32:17
>>212
>「ホロン部」とは何ですか?

日本人に対して、「韓国人・朝鮮人・韓国・北朝鮮は優越である」という
メッセージを発信している人達。また、在日韓国人・朝鮮人の擁護レスを
組織的に書き込んでいる人達。日本語に難有りなケースも見受けられる。
又、日本及び日本人に関する全ての事象のルーツを朝鮮半島に求める変てこ
な理論の普及・啓蒙活動も精力的に行っている。
以下、コピペ
>ホロン部 【名・形】
>
>一定時間帯(主に夕方)になると一斉に擁韓・媚韓レスを付ける在日工作員
>および電波レスをする人のこと。
>書き込みが可能な時間が決まっているのか、ある時間になると一斉にレスを
>しなくなることから、 半島系学校のクラブ活動ではないかと噂されている。
>ある時そういう電波の一人が、日本語で「日本は滅ぶ」と書こうとしたとこ
>ろ、 「日本はホロン部」とミスったままレスをしてしまったために、「ホ
>ロン部」と呼ぶようになった。
>
>用例:
>「〜はホロン部」
>「はいはい、ホロン部ホロン部」
>
>別形態として
>「気味タッチ部」「heppy部」等が確認されている。
>
>最近のホロン部の傾向は
>・僕は〜人(日本だったり、海外在住のとかいったり)
>・直接罵るのではなく、印象操作を試みる
>というのがあるな。
>でもやり方が稚拙で、何の効果も上げられていない。

215 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 16:21:24
>>209みたいな電波は、ある意味、ホロン部wの限界を示しているな。
日本語のある単語の語源が朝鮮語だと主張するなら、その朝鮮語の
語源は何なのかまで示すべきなのに、それをしないし、出来ない。
まさか、彼等は朝鮮半島こそが人類発祥の地だとでも思っているのか!?
人類の全ての文化は朝鮮半島発祥とでも言うのか!?
天動説もいい加減にして欲しいもんだ。


216 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 17:10:52
>>212
その怪しげな説だと疑問が生じる。
何故武蔵の古語である「无邪志」に「下」の字が入ってないのか?
という疑問。怪しげな説に従うのなら、「无邪下」となるのでは?
また、ムサシモ→ムサシと変化したなら、何故ヒタシモ→ヒタシでは
ないのか?等々。

まだモサシ→无邪志→(多支鹵→武・ニ文字化政策)→武蔵の説のほうが
解かり易い。

217 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/23(日) 23:52:46
>>216
武蔵←无邪志←ムサシ←ムサシモ←ムサ下←ムサ 語尾消え
常陸←ヒタチ←ヒタシ←ヒタシモ←ヒタ下←ヒタ 語尾消え発音し易く
こんなんでどうでっしゃろか?

218 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:37:50
>>217
では、无邪志の古語である身刺は何と説明するの?
どっちにしても、「下」という字が当てられてないわけだけど・・・。
賀茂真淵の上下説は同じ語から発すると推測した地名が結果的に、
「武蔵」「相模」と全く別の漢字が当てられているという事実を
無視しているように思えて仕方ない。


219 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/24(月) 11:55:58
>>218
別漢字はその通り。

勝手な想像だが、
武蔵←无邪志←身刺←mssaシ←mssaシモ←mssa下←mssa
相模←saガミ←mssaカミ←mssa上←mssa
とも考えられる。

西日本的発音であれば、musaかmisaになり、mssaは無い。

220 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/24(月) 13:49:56
武蔵←无邪志←mssaシ←mssaシモ←mssa下←mssa
武蔵←身刺←mssaシ←mssaシモ←mssa下←mssa

221 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 23:24:51
では、九州王朝大好き氏に訊きたいけど、上毛・下毛にはちゃんと上下の
漢字が当てられていることをどう思う?
また、上毛・下毛は最初に上下が付いてる。つまり、上(下)+毛(野?)
だよね。
なのに、>>212>>217>>219-220の例はムサ+上(下)というように、
後に上下が付く。隣接している地域なのに、何故、上下の付き方が違うのか?
日本語の構成としては、方角や位置は名前の前に来るのが普通じゃないかな?
遠い江→遠江とか、近い江→近江みたいに。或いは、現在の地名でも、
下高井戸とか、北鎌倉とか。だから、上毛・下毛はスンナリ納得出来るけど、
「ムサの下」というのは変だと思わない?


222 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/25(火) 00:59:22
上毛・下毛・上総・下総しかり。
しかしこれは8世紀畿内天皇朝廷になってからの分割命名です。
7世紀までは「ケヌ」「フサ」で上下に未分割。
「相模」「武蔵」と「常陸」「日高」に分かれたのは、
5世紀以前と古いとも考えられる。
もうひとつ奇妙なことは、
武蔵・相模は西南が「上」で東北が「下」とケヌ・フサと同じ、
一方日高・常陸は東北が「上」で西南が「下」である。
矛盾だらけです。
なお「日高」は茨城県北部から福島県南西部ですが、
仙台平野を中心地とした「日高見国」(8世紀迄)と関係があるのでは???
日高見←ヒダカミ←ヒタカミ←ヒタ上????

想像だけが膨らみます。



223 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 02:46:55
う〜む、大好きさんがこれほど古代関東マニアだとは!

224 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/25(火) 12:33:03

興味が湧いたところはどこでもマニアです。
奈良出身で、郷土史マニアになれないので。

225 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 13:45:46
>>224
何故?
やはり、奈良はいろいろと面倒臭い部分があるのですか?

226 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 22:06:38
>大好きさん
好人物

>性牛くん
変態

227 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:27:26
>>222
>7世紀までは「ケヌ」「フサ」で上下に未分割。

いや、「フサ」については知らないけど、毛野は5世紀に分かれたはず。

>武蔵・相模は西南が「上」で東北が「下」とケヌ・フサと同じ、
>一方日高・常陸は東北が「上」で西南が「下」である。

その「あやしい説」の上下は、もしかしたら方向を表している
わけではないのかもね。
こうは考えられないかな?上毛・下毛の上下は方向を表しているので
語頭に来るけど、「ムサ」&「ヒタ」の上下は方向以外の意味で使われて
いるので語頭に来ない。
それだったら、武蔵・相模と日高・常陸の上下の位置が違うのも理解出来る。
ただやはり、「あやしい説」はちょっと強引な説であると思う。


228 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 02:08:24
>>219>>220
昔の方言の音韻は現代語の感覚で考えてはいけないという問題があるからねえ。
ズーズー弁は縄文語の名残だなどというどうしようもない電波説があるが、
ズーズー弁は16世紀末には存在しなかったらしいことが
ポルトガル宣教師文献や数少ない日本語の音韻文献などから伺える。
関東方言の母音の弱さはこの16世紀末のポルトガル語文献にも記されているので
ズーズー弁よりは歴史が古いだろうが、どこまで遡れるかは分からない。
奈良時代の東歌の万葉仮名表記には母音脱落の痕跡は見られない。
九州王朝説によって北部九州で歌われたと説明される記紀の古歌は
今の関西弁以上に明瞭な開音節の母音中心言語であったことが明らかで
これは今の福岡県博多以西の方言の特徴とは似ても似つかない。

229 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/26(水) 16:03:30
>>227
ケヌの上下分けの時期については簡潔に説明できるまで待って下さい。

>上毛・下毛の上下は方向を表しているので語頭に来るけど、
>「ムサ」&「ヒタ」の上下は方向以外の意味で使われているので語頭に来ない。
同意。
前後の方向性は畿内からを示していますが、
上下の方向性は何処からを示しているのでしょうね?

否定できる明確な根拠がないので、今後の宿題でもあり、あやしい説です。

>>228
毛野の現地古音「ケヌ」
ケヌ←ken(n音が非鼻音)
ケノ←ken(n音が非鼻音)
「ケノ」「ケヌ」「キヌ」は、「kn」を曖昧母音付きで発音したのではないでしょうか。

万葉仮名は西方文化だから東歌といえども西方言語で歌われたと思いますよ。
万葉仮名は現在の標準語で発音する以上に関西弁的発音がしっくりするのです。
標準語で発音すると違和感を覚えるのです。
西方言語(万葉言語)は九州王朝言語であり現在の関西弁に近いものと思います。
関西弁は、開音節というよりも標準語やその他の方言に比べて
語尾の母音をはっきり発音するのがひとつの特徴です。

又、韓国の慶州方言と関西弁が似た感じであることもひっかります。

230 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:46:06
同じマクドナルドの略し方でも、関東ではマック。関西ではマクドぉ。
現代でも母音の違いがハッキリしている。
昔なら尚更だろうね。

231 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 23:17:06
>>229
上代平城京方言がアクセント面では平安末の京都方言とほとんど変わらず、
これが現代畿内方言にかなり保守的にひきつがれていることには全く同意しますが
私が主張したいのは、この万葉語と同じ音韻特徴を持つ記紀の古歌謡が
今や関西弁とは似ても似つかない音韻特徴の方言を持つ北部九州で
歌われていたらしい(九州王朝説)ということ。
これは現代の方言差を古代へ不用意に敷衍させてはいけないことを
雄弁に物語ります。例えば古代大宰府の方言は現在の「ちっごべん」とは
似ても似つかない明瞭な開音節言語だった。
同様に、今の関東方言の特徴を古代へ不用意に敷衍させてはいけないのです。
東歌に残る古代東国方言は、音韻上は畿内と同じく母音の甲乙を使い分けており
その上で「ふろよき(降る雪)」「にの(布)」のような「訛り」が記述されている。
つまりこれは当時の東国方言の音韻をかなり正確に音写したことを示唆します。
しかも畿内語から見て奇妙な字足らず・字余りは存在しない。
ということは音節構造も畿内語とほとんど変わらなかったらしいということです。
もし母音の脱落や閉音節が頻発していれば、現地音の音節のカウントがずれてしまい
畿内語の万葉仮名読みから見て奇妙な字足らず・字余りが頻発するはずなのです。

232 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 01:45:21
231の続きなんだけど、
朝鮮語のアクセントと日本語のそれは「他人の空似」の域を出ませんよ。
今では南東部と北東部の一部にしか残っていない
朝鮮語のアクセント体系は「上がり目」をメルクマールとするもので
東京式の丁度逆。システムが京阪式とは全然違う。
しかも対応するとされる単語の間にもアクセントの対応関係が無い。
日本語の古アクセントについては、対応するとされる他の言語としては
オーストロネシア語族のタガログ語のアクセントと
初拍に限っては偶然以上の一致を示すようですが。
初拍アクセントの重要さについては
京阪式アクセント体系をご存知の方ならすぐ分かると思います。

233 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/27(木) 21:17:00
>>231
現代の方言差を古代へ不用意に敷衍させてはいけないことには同意します。

しかし日本語は歴史的に開音節言語であり続け、
方言においても閉音節言語であったことはありません。
万葉歌謡においても、方言が開音節であるかぎり単語の音節数が同じであれば、
字余り現象は起き得ません。
時代地域によって母音の強弱があるだけです。
現代語の「〜です。」の例をとれば、
関西語:〜desu 〜デスゥ
標準語:〜des 
標準語ではs音につながる母音が弱くて曖昧で、
語尾音は閉音節言語のように聞こえる弱い母音。
>>230の例では
関西語:マクドォ  マックゥ
標準語:マクド   マック(語尾音は閉音節言語のように聞こえる弱い母音)
語尾母音を強く発音したり弱く発音すると
マックゥやマクドでは発音しにくくなりますね。
関西では「マクドォ」と発音しても「マクド」と書きます。
開音節言語であるかぎり古代方言は万葉仮名で書けたのです。

慶州方言(慶州南道)については朝鮮語について論じているのではありません。
関西語の様に語尾母音を強く発音することに注目しているのです。

234 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/27(木) 21:28:59
>>233
関西語式の高低アクセントでないと語尾母音を強く発音しにくいです。

マクド
低高低
/\

235 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:09:50
>>233
鹿児島方言が余りにも有名ですが、それ以外にも豊前豊後を除く
九州の大部分の方言はすでに「閉音節」と言ってもよい状況ですよ。
薩摩弁の「くぎ」は「クッ」で1音節の閉音節です。
東京方言などについても「です」を[desu゚](最後の記号は無声化音)ではなく
[des]と発音するとするならすでにこれは「閉音節」となっているということ。
関西の場合無声化は確かに少ないのですが、語尾は実は結構飲み込む要素が強く、
「のや」→「ねん」のように撥音になったり、「おます」→「おまっ」のように
声門閉鎖音を使って正真正銘の閉音節が出現していたりします。
「ねん」はモーラは2つですがシラビーム単位では全くの1音閉音節です。
「です」を「ですぅ」と文字通りの発音をするのは
これが関西弁にとって東京からの外来語だから。
「よそ行き語」で「こなれていない」ので「*でっ」にはならない。
近年では「〜でっせ」「〜でっか」までは「こなれつつ」ありますが。
それに、東京の「マック」の「ク」はあまり無声化しません。
「撒く」の「く」はほとんど母音脱落で[mak]に近づきますが、
「マック」は促音が逆に最終音節の母音発音を丁寧にさせる働きをします。

236 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/28(金) 16:06:20
>>235
鹿児島方言は江戸時代に江戸幕府からの閉鎖性を作る為に、
人為的に変えられた言葉として閉音節が多くなったのでしょう。

「九州の大部分の方言はすでに「閉音節」と言ってもよい状況」とはよく知りませんでした。
畿内朝廷と関係の深い豊を除く九州の全ての地域で閉音節化をしているのは興味深いことです。
8世紀初頭に畿内朝廷による九州王朝派狩が行われました。
その時畿内の追手から逃れる為に非九州王朝語化した結果閉音節化したのではないか、と想像を広げてしまいます
又、8世紀以降も畿内朝廷に抵抗し続けた肥の人達、
特に肥後人の特別な関西弁嫌いはその反畿内の影響ではないかと思われます。
豊を除く九州の人は全国的に比較すると関西弁嫌いです。


「です」の発音は、東京語では「desu゚」で語尾母音は無声化音又は弱音ですね。
NHK語(特にナレーション)は完全に「des」で閉音節化していますね。


237 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:36:30
>宇佐比乃禰

うざいのね?

238 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 02:20:00
陸奥(道奥)國が置かれる以前は、常陸(常道)國は仙台市南方迄の広大な国だった。
のち北部の宇多・行方・標葉・磐城・菊多(=キタ.常陸多珂郡の北部を割く)5郡を分けて石城國を設置。その石城國も、陸奥國が新設されると西隣の石背國と共に吸収された。

「ヒタチ」は常陸の枕詞であり、「ヒタチの常陸(つねみち)」と言った。
扨て、このヒタチだが、私は日高路(ひたかみち=ひたかぢ)の訛化ではないかと考えています。

239 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 00:52:44
>>238
「ヒタチ」の言葉の歴史はそのような新しいものでないと思えます。
常道国は712年に畿内朝廷によって仙台平野南部以南の太平洋沿岸部地域に設置されたものです。
中心地は相馬orいわき?
(仙台平野北部は日高見国に対する前線として724年多賀城国府設置。
最初の多賀城政庁設置は7世紀初頭の九州王朝系勢力。
日高見国中心地は仙台平野から日高見(北上)川中流域まで既に北退。
日高上国は親九州王朝、反畿内朝廷?)

ヒタチは日高見路(ヒタカミミチ→ヒタカミチ)が語源かもしれませんね。
しかし6世紀末まで独立勢力がいたヒタチがヒタカミチと言うのも変ですし?
枕詞であれば「ヒタチのツネミチ」で「ヒタチ」の語源も8世紀として合理的になりまね。
7世紀以前には、「常陸」は「ツネミチ」と読まれていたことになりますね。

240 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 03:38:16
間違い修正
誤:最初の多賀城政庁設置は7世紀初頭の九州王朝系勢力。
正:最初の政庁設置は7世紀初頭の仙台郡山遺蹟で九州王朝勢力。

241 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 03:54:24

最初の政庁設置は7世紀初頭の仙台郡山遺蹟で九州王朝勢力=日高見国
日高見国が九州王朝に参画したのは7世紀初頭か?

242 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:06:17
道奥(→陸奥、みちのく→むつ)と常道(→常陸)の道(みち)は、同じ幹線道路(日高路・日高見路)、又は行政区域としての道(ドウ)を指しているのでしょうか?

243 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/14(日) 22:12:23
「ミチ」は行政区画を示していたと考えざるをえないです。
陸奥(ミチノク)・常陸(ツネミチ)・常道(ツネミチ)は其々陸奥国・常陸国・常道国として存在していたからです。

「ヒタチ」が枕詞であることは僕にとって新しい知見です。

244 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:38:23
ヒタチを『日(太陽)の立つ(昇る)処』(= 東の果て)と解釈して、彼の地の日立銅山(日本鉱業梶ィ現・款゙ャパンエナジー)、引いては茨城縣多賀郡日立町(現・茨城県日立市)が名付けられました。
鉱山の電機修理部門が、のちの日立製作所です。

245 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:54:53
>243「敷島の大和」も枕詞ですよね。

「長谷の初瀬(泊瀬)」(ながたに の はつせ)から、長谷をハセと呼ぶようになったようなものですね。

246 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/17(水) 18:09:55
>>238
>「ヒタチ」は常陸の枕詞であり、「ヒタチの常陸(つねみち)」と言った。

枕詞としての「ヒタチ」の出典を教えていただけませんか?
探してみましたが、見つけられませんでした。


247 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/05/20(土) 11:43:45
>>238
>「ヒタチ」は常陸の枕詞であり、「ヒタチの常陸(つねみち)」と言った。

「ながたに の はつせ」(長谷の初瀬)が「はせ」(長谷)になったことが判るように、
「ひたち の つねみち」(ヒタチの常陸)が「ひたち」(常陸)になったことが判る資料でもかまいません。

248 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 23:48:27
へえ

249 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 23:51:51



250 :日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:56:19
えへ

251 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/26(月) 05:15:52
>>198-203
大里京(熊谷市大里町)が確認できました。
衛星写真の精度が上がり、大里京の痕跡が認められるようになりました。
大里町中心部集落が大里京条里制の範囲内に入っていますね。
周辺の農地も農地改良で農地区画が変更されていますが、
この地域の農地だけが特異的に正確に南北に区切られているので、
これは条里制の影響でそうなったものと思われます。
農地改良前の航空写真が手に入れば、
南北9条東西10条の範囲も正確に特定できると思います。
現地発掘できれば駄目押しで確定できるのですが。


252 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 16:29:27
九州弁、琉球方言、東北弁、北海道弁…なんか、似てる気がするのは漏れだけ?

253 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/28(水) 02:59:44
>>198-203
大里京(熊谷市大里町)が確認できました。
衛星写真の解像が上がり、大里京の痕跡が認められるようになりました。
大里町中心部集落が大里京条坊制の範囲内に入っていますね。
周辺の農地も農地改良で農地区画が変更されていますが、
この地域の農地だけが特異的に正確に東西南北に区切られているので、
これは条坊制の影響でそうなったものと思われます。
農地改良前の航空写真が手に入れば、
南北9条東西10坊の範囲も正確に特定できると思います。
現地発掘できれば駄目押しで確定できるのですが。

以上修正

254 :唐松山:2006/06/29(木) 19:55:08
電子国土、gis、で検索してね゜


255 :唐松山:2006/06/29(木) 21:43:55
相模は、寒川神社・・サムカワカミ・・サムカミ
むさしは、西暦500年頃の富士山の噴火で引っ越した。
多摩、野毛より引っ越した。引越し先は、さきたま。
ふじ の意味は゛火地゛万葉集4437だったか あしふふく 葦火ふくとあります。
 ゛ひ゛は干 干枯れるの意味で使うので土地の名前にはあまり使われません。
藤蔓 焼畑後の荒地によく生えます。 落葉松、浅間山によく生えています。別名藤松
フヂは焼畑用語だ
他には、ホド、ナラ、ヒラ など地名を調べればどの辺から人か゜住み着いたかわかります。
問題は、産業の米・鉄です。キダイ鉄に頼る限り独立はありえない。
武蔵のカナサナ 常陸のカナサ 下野の加蘇山 甲斐の金桜 信濃の篭川[地名]
どこが一番産出量が多かったか?

256 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/06/30(金) 22:40:14
google maps での検索が良い。

257 :唐松山:2006/07/01(土) 00:12:54
http://nrb-www.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p

258 :唐松山:2006/07/01(土) 01:18:41
鴻巣はこくふのす(下) ・す・には・下の意味があります。安曇野市穂高に嵩下
(たけのすとよみます)があります。 
岩井堂、岩井堂観音 浅草寺の観音様も元は秩父の岩井堂観音です長野県から関東地方にいくつも有ますが
これは九州ですか?

259 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/01(土) 17:13:17
>>257
ありがとう。

大里町 google maps 2005or6年?データ
http://maps.google.com/maps?q=36.113,139.4&spn=0.011373,0.014484&t=k&hl=en
大里町 gis 昭和55年度データ
http://nrb-www.mlit.go.jp/Air/photo400/90/ckt-90-1/c10/ckt-90-1_c10_18.jpg

残念ながらgisも農地改良後のデータですね。

平城京では条坊の痕跡と旧地名で平城京址が確定できます。
戦前の航空写真ではよりはっきりわかります。
倭京(大宰府)では、古くからの開発が進んでいるので、朱雀大路が300m程確認できるだけです。
倭京では戦前の航空写真が必要でしょう。

260 :唐松山:2006/07/02(日) 07:09:55
大里は大砂土じやー

むかしむかし大宮という所の東を大川(見沼代用水)が流れていました。
ある年の大雨のときこの川が流れを変えて(元荒川)大きな川原が出来ました。
その土地を見た地元民はこの土地を いな(伊奈)と名づけて農業をはじめました。
大針小針。木の鍬や鋤で葦原を開墾することを思うと天国と地獄。
大宮の宮司(都の出)は、この天の恵みの地を 大砂土と名づけて農業をはじめました。
高い土地に砂町を川底近くに土呂町を開き大いに繁盛したので、この宮に名前をつけることを考え
禰宜に向かって聞きます
宮司(川が干上がって栄えたので干川はどうでっしゃろ?) 
禰宜(ひかわ、はよいのですが干川はちょっと・・) 
宮司(じゃあ日川・・ダメ、ほな氷川にしまひょ)
氷川神社の始まりです。
なお大砂土の南の台地の上ではこれまでどうりの農業が続きます。風度野(火土野)、フは、ひ、だー
イナ、は砂より砂土か? 砂ならサナだもんなー
おーい稲毛のー稲城のー教えて?


261 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/03(月) 05:25:00
>>260
場所が違うよ。

熊谷市大里町(旧大里郡大里町)・・・・現在では小さな村落が点在する地域

江戸時代以前では荒川と和田吉野川に挟まれた台地部。
江戸時代1629年に、伊奈氏が大里の台地を開削、荒川を和田吉野川に付替えた(新川)。
付け替え前の荒川は現在の元荒川である。
この工事により、大宮の東方の見沼等の埼玉県東部低湿地は広大な穀倉地帯となった。
以上、上記昔話背景の解説。

大里は、大規模な集落が有った地域に付けられることが多い地名。

262 :唐松山:2006/07/03(月) 10:44:18
砂町、土呂町・・町田 律令時代
大針・・・・・・治 播 墾
これらの字が使われる前に付けられた地名では??

263 :唐松山:2006/07/03(月) 11:24:37
用水が引かれて水田となったのは、江戸時代
それまでは陸田がほとんど 
はじめは用水がないので、桶で水田に給水この時代まだ木の桶はありませんから細かく編んだ籠に
泥や水藻で水漏れを少なくし給水します゜
田圃1枚2mx2m 5cmとして200L毎日の給水です、給水時の泥に含まれる養分で稲は育ちますので
用水(養分がない)よりよく育ちます。
川には、まだ土手が有りませんからこれだけの大川から用水は引けません。だからはじめの入植者は
山際の小さな小川のあるところへ入植します。

264 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/03(月) 12:30:06
1629年に荒川中流で荒川の水を他水系(和田吉野川経由入間川=現荒川)に流すことにより、
元荒川下流の沼沢湿地帯は水が引き、
天然の水田地帯になったことを>>260は語っている。


265 :唐松山:2006/07/03(月) 23:14:44
元の荒川と陸の境目は現伊奈町と蓮田の境を流れる見沼代用水 超える丘は、瓦葺だけ
この位の丘なら1500年前は越えていたかも
そうであれば荒川を上ってきた船の停泊地として最適、現在の状態だと良くて船の行き止まり。
大宮の出来た頃はカワラフキを荒川が流れていたと思います。

そうすると岩槻あたりに大きなダムが必要。
5000年位前まではこの辺まで海が入っていた、海の退潮により自然堤防が築かれそれが
この時代に崩れた、崩れた原因はダムを守っていた葦原を焼き払ったため弱くなって、大水に耐えられなかった。
なんて堂でしょう。

266 :唐松山:2006/07/04(火) 03:07:49
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonedamu/dam/list.htm
関東地方の洪水記録です。 堤防のない時代は・・・・

267 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 03:27:26
烏帽子族だ!


当て字だけど・・・・・

268 :唐松山:2006/07/04(火) 16:14:18
田園調布に塚立てた ン? 知らないやっぱり

269 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/08(土) 15:13:29
>>265
@1629年迄の荒川の流路は元荒川。
A元荒川の更に古い流路は、小針新田付近で分岐して現・綾瀬川に。
B更にAよりも古い荒川流路は、更に西の現・原市沼川を経て現・綾瀬川に合流。
C更にBよりも古い荒川流路は、更に南西の見沼を通過する現芝川。

Cの荒川は利根川と合流した川とも考えられます。
大宮台地の形成は縄文前期の海水面の高い頃に堆積した土砂によるものです。
縄文中期以降の海水面低下により、荒川利根川合同流の現芝川により侵食され、
大宮台地は侵食部の見沼で東西に分断されたものです。
更に時代が下がり、荒川はBの流路になりました。
ですから、基本的に瓦葺の丘を越えて流れる荒川が存在した時代はありません。
勿論上記以外に荒川が現荒川の流路であった時代もありますし、
洪水による河川反乱の時には荒川(現・原市沼川)が瓦葺の丘を越えて流れることも否定はできません。

見沼・柴川沿いにある氷川神社の存在は、出雲系の関東移住時代には、
柴川が荒川利根川合同流の大河であったことを示していると思われます。
又、小針新田付近の神社の点在は、関東平野西方型古墳文化(騎馬文化を含む)の形成開始時期(4〜5世紀)に、
荒川がAの綾瀬川ルートを流れていたと類推させます。

270 :唐松山:2006/07/08(土) 21:34:51
現在の地形からは、瓦葺を本流が流れた後は(唐松山にとって)残念ながら確認できません。
見沼代用水は東大宮駅の辺りを何メートルくらい掘り込んで流れているか、 しりましぇーん。

発見    カワラフキとフキアゲは、二対で合体できる

カワラフキ  大水のとき水に浸かる土地
フキアゲ   大水のとき手前まで水が押し寄せてくる土地・・陸地
瓦葺の U字形と吹上町と大里町を付けたとき現荒川上に U字形ができます、ほとんど同じに見える。
これが元荒川に本流のあった時の吹上町のカワラフキ(地形)だと思うのですが、
残念ながら開削されて今はこの境界線が何メートルの所にあったか判らない。 残念



271 :唐松山:2006/07/09(日) 13:30:23
蓮田市の両岸を元荒川と綾瀬川が流れている。
これは、荒川付け替え時に本来なら(水を抜いたとき)蓮田の中央を流れるはずであるが、
蓮田(大沼沢地)開発のため土手を築いて両岸に流したものと思います。
理由  伊奈町などこの沼沢地の水を利用していた権利を保障 そのかわり沼沢地上にあったであろう
    境界線を(沼沢地の)水際までとし、水の退いた沼沢地を有償で払い下げる(開発費用に充てる)
こんな所で。 

4、5世紀 葛飾郡は未だ水の中 八潮、三郷は湖 越谷は沼沢地 岩槻、春日部は陸・・こんなところでしょうか。


訂正  二対→2体  二体で一対


272 :唐松山:2006/07/10(月) 23:22:43
訂正
こうのす→こくふの下より こうのす→河の下
理由
千葉県流山市に こうのす台の地名がありました。
市川市こうの台位なら、、、、ごめんなさい。 河野様をはじめ関係欠く方々にお詫び申し上げます。
3380: 埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
1744: 埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽霧るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし



273 :唐松山:2006/07/13(木) 19:08:49
ワカタケルは、九州より東上したヤマトタケルの子供だ。
 
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/note/note2006.html#20060712


274 :日本@名無史さん:2006/07/13(木) 20:16:11
>>273
うぉいうぉいw

275 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:49:49
日本健は、河内師木を本拠地(宮)とし3人目の妻 弟橘比賣 に若建王を生ませる。
武蔵の国橘郡はこれか?
剣が九州と武蔵にあってもおかしくない。  鉄は、大陸中国製。

276 :唐松山:2006/07/18(火) 01:02:22
名前を調べました。

用水路のはじめ
巨勢ラ田朝臣 雄柄宿祢四世孫稲茂臣之後也 男荒人。天豊財重日足姫天皇[謚皇極。]御世。
遣佃葛城長田。其地野上。漑水難至。荒人能解機術。始造長ラ。川水灌田。天皇大悦。賜ラ田臣姓也
642年ころ 未だ大川はむりだよ 関東では、7世紀やっと溜池、堤くらいかな?

天皇家?
新良貴     彦波瀲武P草葺不合尊男稲飯命之後也 是出於新良国。即為国主
稲飯命出於新羅国王者組合 日本紀不見

おおひこ
タカリスクネ   先祖代々くらいの意味
タカハシワケ  高椅神社 茨木県にあり  膳系
高橋朝臣  阿倍朝臣同祖  大稲輿命之後也 大稲腰命之後也
      景行天皇巡狩東国供献大蛤。于時天皇喜其奇美。賜姓膳臣。天渟中原瀛真人天皇[謚天武。]十二年改膳臣賜高橋朝臣
膳大伴部  大彦命孫磐鹿六雁命之後也 阿倍朝臣同祖
      景行天皇巡狩東国。至上総国。従海路渡淡水門。出海中得白蛤。於是磐鹿六雁為膳進之。故美六雁賜膳大伴部
高橋連  饒速日命十四世孫伊己布都大連之後也

笠原真人  真人  磯城親王之後也



277 :唐松山:2006/07/18(火) 19:18:50
新しすぎた
笠原真人  真人  出自謚天武皇子浄広壱磯城親王之後也


278 :唐松山:2006/07/26(水) 20:04:36
訂正 高橋神社 栃木県小山市 祭神はイワガムツカリノミコト 膳大伴部でした。

倭建は河内の志紀に倭都を持つ(白鳥陵所在地)、伊都は建内宿禰に任す

倭建命、娶、・・・布多遲能伊理毘賣命、・・・又娶、其入海弟橘比賣命、
生御子、若建王。〈 一柱 〉。・・・・・・故、帶中津日子命者。治天下也。
次、稻依別王者、・・・。故、上云若建王、娶飯野眞黒比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。〈 自須至呂以音。 〉
此王、娶淡海之柴野入杵之女、柴野比賣、生子、迦具漏比賣命。故、大帶日子天皇、娶此迦具漏比賣命、生子、大江王。〈 一柱 〉。
此王、娶庶妹銀王、生子、大名方王。次大中比賣命。〈 二柱 〉。故、此之大中比賣命者、香坂王、忍熊王之御祖也。

ワカタケルは、成人になっている。
高橋神社は、九州吉井にもある。

日本武は、九州王朝の東征・・・・

なんとかならんか?

279 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/28(金) 22:20:28
日本武は、九州王朝の東征と言うよりも、
九州王朝尾張大王国の東征。
静岡東征話と南関東東征話をくっ付けたもの。
と考えると合理的。

280 :唐松山:2006/07/30(日) 17:35:11
到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯(K031)
其磯之時、歌曰、
波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布(K038)
やまとは くにのまほろば・・・九州のヤマトでは、他人の都を思って歌う?死の間際に。
河内のシキの宮にて送る歌
浜千鳥 ・・・ 磯づたう
九州へ魂の帰ってゆく歌・・・ 伊勢ですか、能煩野の隣の

常陸風土記では、日本武尊天皇・・・らしい。
武蔵の国造 小杵と比企の間の戦い らしい。
男衾郡  今の大里町から西、長瀞町 らしい。
大里郡  行田市プラス熊谷市




281 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/07/30(日) 20:16:55
>常陸風土記では、日本武尊天皇・・・らしい。

倭武天皇のこと?

倭武天皇=常陸の大王

282 :日本@名無史さん:2006/07/30(日) 23:41:50
>>279
ぉぃぉぃ何でも九州王朝起源にするなよ。朝鮮「ウリジナル」じゃあるまいし。
近畿憎しのあまり「畿内には全く何も無かった。日本史の全ては九州なのだ」という
おまえさんもフォースの「皇国史観面」に堕ちていないかね?
最近の九州王朝論者は日本史の全てを九州起源で考えるから困る。
九州王朝がいきなり尾張を支配出来たりはしないよ。
「時空を歪めて遠隔地を隣に移動させられる偉大な金日成主席」じゃあるまいし。
濃尾地方は畿内皇室(北九州勢力の分家ではあるが)が、
最も重要な後背地として最重視した地方で(巻向遺跡の出土品からも明らか)、
尾張氏はそのための姻戚関係を結んだ重要な現地豪族となる。
畿内勢力が東海・東山道双方の事実上の起点となる濃尾平野を押さえたことが、
その後畿内皇室が列島の統一覇者となる上で最も重要な要素の一つになる。
斎藤道三の格言「美濃を制するものは天下を制する」は確かに正しかったわけだ。
筑紫からでは濃尾平野にはどう足掻いても直接には全く手が届かない。
北日本の日本海側なら海路を使ってある程度の影響力を行使することが出来るが。

283 :唐松山:2006/07/31(月) 20:39:11
その時の歌をもうひとつ
到能煩野之時、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古(K032)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・へぐりのやまの くまかしがわを ・・・
たける の名前は熊襲健のものでもある。
だから 兵隊の何割かは、熊襲健から譲られた者 その者たちが歌ったから九州?の地名が入った。 とも取れないことはないが・・・ 受けにさせ その子  
その後 その子= 幼い若武 を連れて倭武軍は、九州へ帰ります。
ワー  どうやってダ埼玉へ行き着こう ウウウ

366年斯摩宿禰は卓淳国王からこの話を聞いて、さっそく従者の爾波移(にはや)という者を卓淳人の過古(わこ)に付けて百済に派遣した。
にはや と かざはや 似た名前だ
372年七支刀 
だんだん 時間軸が狂ってゆく・・・ク ク苦しいー



284 :日本@名無史さん:2006/07/31(月) 23:47:40
ねぇねぇ、オワケの臣って、大分の君と関係ないの?

285 :唐松山:2006/08/01(火) 18:10:28
オー わけんねえ・・・。


286 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/08/01(火) 22:57:28
>>282
>ぉぃぉぃ何でも九州王朝起源にするなよ。

崇神から仲哀までは九州から独立した畿内大王国。
畿内は尾張と手を繋ぎ後を固め、吉備を落としいれ支配、
そして九州王朝に攻め入り返り討ちに遭う。(源九州王朝:筑紫・出雲・肥)
一方尾張は九州・畿内対立を尻目に静岡・南関東に勢力伸長。

応神により畿内は九州王朝の傘下になり、それは武烈まで続く。(浪速大王国の成立)
(九州王朝の成立:筑紫・出雲・肥・浪速・越の5大王国)

継体の九州王朝に対する反乱を尻目に、
尾張の南関東勢力(武蔵)は毛野に対抗できるほどに伸長。

欽明による九州王朝の畿内制圧に、
尾張の自己保身が尾張・武蔵の九州王朝参画に向かわせる。(尾張大王国・夷大王国の成立)
武蔵は九州王朝参画により西方を固め、敵対毛野を滅ぼす。(夷大王国の大勢力化)
九州王朝は大王国の緩い連合体である。
仲哀・継体の様に武力衝突さえしなければ、
九州王朝の構造は九州の名目的形式的支配が成立すればよいにすぎない。
あたかも中国の周辺蛮夷に対するように。

7世紀になると日高見[北上]大王国(阿武隈川北上川流域仙台平野)も九州王朝に参画。(蝦夷大王国)

7世紀の九州王朝低落後の日本の主要大勢力は畿内と日高見であったことが重要。
8世紀になると、畿内の侵攻に対する日高見の抵抗となっていく。
畿内の侵攻も盛岡止あたりで息切れするが。

九州王朝は、筑紫・出雲・肥・浪速・越・尾張・夷・蝦夷の最大構成8大王国の時に亡んだ。
なお、九州王朝の盟主国は肥と筑紫。

287 :唐松山:2006/08/03(木) 13:37:34
若武を九州へ持っていった獲居
とりあえず 古田説を採用 
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jkiki/jkiki2.html

多加披次獲居 多沙鬼獲居 半弖比 加差披余 乎獲居臣 と続くわけですが、
多加披次獲居と多沙鬼獲居は、倭武の臣として”獲居”という官名を(大和朝廷より)賜る。
半弖比 加差披余・・・官名が無い
之をどうとるか、1落ちぶれた。 2大和朝廷の手の届かない所にいた。
ということで2を採用 大和朝廷の手の届かない所 九州 にしました。

これで 七支刀を知り、文字を刻んで記念とすることを知る。
似たものが、九州からも出土する  何らかの繋がりがあった。
チャイナの鉄である。
ここまで、すべてクリアできます。

第三の選択肢が有りましたら、ご教示を。


288 :唐松山:2006/08/06(日) 09:21:37
・・・・ポコポコ グワーン ・・・ポコポコ
たたいま 修行中 ・・・・
大王寺 ウン 時宗・・・ だから おおきみのとき と読んでください。
・・・・瞑想  名僧  迷走 ・・・・グワーン ポコ
Zz Z  ZZZ  ・・・
なむー 景行天皇聖寿いっぴゃくさんじゅっさい・・・・ポコ
辛未 壬申 癸酉・・・以下 下記の計算式で・・・ポコ A欄西暦 B欄下記式・・・・
= CHOOSE(IF(A1 >10,MOD((A1 +6),10)+2," ")," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(IF(A1 >10,MOD((A1+8),12)+2," ")," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

辛亥年 辛亥年と 故古波倭国 倭乃古余見 やまとのこよみ ・・・・グワーーン
ぶつ ブツ 仏 ・・・・ZZZ

注意 玉手箱のふたは、決して開けないでください。



289 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/08/06(日) 23:44:48
よくわからん。
突っ込み処が無い。

290 :唐松山:2006/08/07(月) 19:05:33
判りにくくて すみませんです。

判らないのは、当時の大和の暦
これが判らないと、辛亥年 の文字を彫れない 
まさか 今の学者さまのように 西暦から換算してよいのか?
大和の暦=九州の暦=百済の暦=チャイナの暦 じゃないから ・・さてどうしよう。

これ(玉手箱)をとばしたら ただの昔話になってしまうンデスヨ。
大王寺で盛大な追善供養でも・・・と思っていたんですけど。




291 :唐松山:2006/08/08(火) 18:28:12
玉手箱の鍵と思われる ミカサフミ の一文
 
ミ07112      ヒトセこれ ヱトにはんべる
ミ07113      ミソのカミ ヒビにかわりて
ミ07114      ムソカもる ムワのナメコト
ミ07115      ウツロヰの トシこえセマエ
ミ07116      ヲヲミソカ ハツムカソヨカ
ミ07117      サのミソカ すへヒトセもる
ミ07118      ナメコトぞこれ
ミ07119      かくヱトの トさきのユエは
ミ07120      アメミヲヤ ノリしてヱカミ
ミ07121      フユのもり トカミはナツの
ミ07122      ゾロをもる ながくヒトクサ
ミ07123      うるおせば カミになぞらえ
ミ07124      トのタマに なつくヤマトの



292 :唐松山:2006/08/10(木) 19:46:17
ホツマ伝 ミカサフミ
http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm

ほつま伝の、38、39、40章に倭武あり。
それによると、橘姫の子 稚武彦が、倭武軍を引き継ぐ。
呼び名は、若武でいきます。
横道   倭武は鳥葬?



293 :唐松山:2006/08/12(土) 20:17:28
玉手箱の鍵が開きました。

サのミソカ すへヒトセもる  サの30日  末一年盛る。
6月30日 末一年盛る。  干支が替ります。
ヒビにかわりて ムソカもる
フユのもり
ゾロをもる
上記三行は、細かくて大変なのでそのまま。
その代わり、上記三行の調整があります。
とりあえず エクセルで二倍暦の表を作ってください。下に作り方を表示します。

A1:数字 B1:太歳 C1:西暦 D1:干支前 E1:干支後 F1:記事
C欄 数式
 =IF(A2<1,"",A2/2-203)+B2
D欄 数式
 = CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2 +6),10)+2," "),
" ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
& CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2+8),12)+2," "),
" ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
E欄 数式
 = CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2 +7),10)+2," "),
" ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(IF(A2 >10,MOD((A2+9),12)+2," "),
" ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")



294 :唐松山:2006/08/12(土) 20:20:41
その2
数字     F欄 記事
 612  六十八年癸酉(みづのととり)日本足彦国押
 628  八十三年戊子(つちのえね)秋八月丁巳(ひのとみ)の
     崇神天皇元年(甲申 太歳甲申
 1088  崇神天皇 天皇御歳、壹佰陸拾捌歳。〈 戊寅年十二月崩。
1266  仁徳天皇 天皇御年、捌拾參歳。〈 丁卯年八月十五日崩也。
1364  雄略天皇 天皇御年、壹佰貳拾肆歳。御〈 己巳八月九日崩也
表が出来ましたら、こんな感じで、打ち込んでください。
数字は、偶数で打ち込むこと。
これで 二倍暦の出来上がり。  ただし、これでは、只の二倍暦 使い物になりません。
ここからが、重要
上記の表が、出来たらお知らせください。 次へ進みますので。



295 :唐松山:2006/08/26(土) 00:57:22
玉手箱の中を覗いてみました。
なんと、くもの巣だらけ、だれかが引っ掻き回したらしく巣が、糸のようになって出てくるので、
慌ててふたをしました。

倭武に戻ります。
倭武、 16歳で熊襲武より名をもらう? 
これって、2倍暦? 普通暦?
普通暦なら、継体あたりが適当かと 531年日本天皇、皇子ともに…



296 :日本@名無史さん:2006/08/26(土) 01:40:37
「稲荷山鉄剣」の時代には既に先祖の修飾があるわけじゃん?
(オオヒコは開化天皇の兄で阿部氏らの祖にもあたる)
『古事記』をみると、孝元・開化の二代周辺はとかく紀伊〜尾張ラインの勢力との婚姻が多い。
孝元と穂積氏の祖・内色許男命の妹の間に生まれたのが開化で
内色許男命の娘・伊賀迦色許賣命と孝元の間に生まれた比古布都押之信命は
尾張連や紀伊国造と婚を結んで建内宿禰らを生んでいる。
開化は開化で、父孝元の妃・伊賀迦色許賣命との間に崇神を生み、崇神が皇嗣になっている。
これって、この時代の大王というか首長は穂積・紀国造・尾張の一族
(太平洋岸に前期古墳=発展して前方後方墳=を造った勢力)で
記紀の編纂時に男系を女系に書き換えただけなんじゃない?

崇神以降はオケ(意祁・袁祁。顕宗・仁賢と同じ名)・息長氏や丹波・但馬の勢力が出てくるが
これは中期古墳=前方後円墳=と関係あるんでは?

297 :唐松山:2006/09/17(日) 12:16:49
ついに発見 ?
安康、雄略以降 日本書紀は普通暦 古事記は2倍暦
西暦前後西暦干支
533丙午丁未繼體天皇天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也癸丑
534戊申己酉安閑天皇元年 あんかんてんのう 甲寅 きのえ とら 1194 534 甲寅
まだ途中ですが、とりあえず


298 :唐松山:2006/09/17(日) 12:30:08
書き直し
ついに発見 ?
安康、雄略以降 日本書紀は普通暦 古事記は2倍暦
西暦 前  後 西暦干支
533 丙午 丁未 繼體天皇天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也 癸丑 古事記
534 戊申 己酉 安閑天皇元年 あんかんてんのう 甲寅 きのえ とら 1194 534    甲寅  日本書紀

まだ途中ですが、とりあえず


299 :唐松山:2006/10/17(火) 16:57:08
先だってはお騒がせしました。前回の暦の話はとりけし
ほつま伝の暦を見ています
ホ28257  コヨミなを アスズとせんやむへなりと アススにきわめフソヒホの キナエのハルは
 アスス暦  年号より干支を割出す 式ができましたので、途中ですが発表します。
=CHOOSE(MOD((B3+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","のメ","のネ")
この式で神武を見ると 眼からウロコ
11,12年目訂正よろしく。
3代目からあとは、書記とおなじ。

300 :唐松山:2006/10/17(火) 17:14:01
追加
21が、アスス初年となります。
51サナト 橿原元年
134ツアト カヌカワミミ
170ネアト トキアスズ モモナソネアトアフミミカミコシギヒトの トシミソミ 
アマツヒツギをうけつぎて タマテミアメ


301 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:35:37
関東は土居中

302 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/16(木) 22:16:34
九州王朝関東東北事情


蝦夷(日高見国):九州王朝8番目の弟王大王国
7世紀の倭における畿内朝廷勢力に劣らぬ巨大勢力。
主な統治地域は、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域。
中心地(都)は宮城県仙台郡山。
7世紀前半九州王朝を構成する大王国(蝦夷)として参画。
8世紀の畿内朝廷の侵食により縮小しながら9世紀前半には北上川上流地域以北に追いやられる。
畿内朝廷軍に8世紀末13年にわたり応戦したアテルイがおり、彼と共に処刑されたモレがいる。
モレが日高見国の大王か?

夷(毛野:武蔵勢力):九州王朝7番目の弟王大王国
6世紀中頃までは武蔵地域の勢力。
6世紀中頃より7世紀末にかけて毛野旧勢力(鈴文化)を制圧。
7世紀初頭に常陸国を制圧。
中心地(都)は埼玉県熊谷大里。
朝鮮半島南部戦争への出兵により弱体化し、
701年畿内朝廷成立時にはその配下に編入される。


倭京が大宰府なら、郡山京と大里京は宰府。


303 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/16(木) 22:18:08

九州王朝関東東北事情

蝦夷(日高見国):九州王朝8番目の弟王大王国
7世紀の倭における畿内朝廷勢力に劣らぬ巨大勢力。
主な統治地域は、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域。
中心地(都)は宮城県仙台郡山。
7世紀前半九州王朝を構成する大王国(蝦夷)として参画。
8世紀の畿内朝廷の侵食により縮小しながら9世紀前半には北上川上流地域以北に追いやられる。
畿内朝廷軍に8世紀末13年にわたり応戦したアテルイがおり、彼と共に処刑されたモレがいる。
モレが日高見国の大王か?

夷(毛野:武蔵勢力):九州王朝7番目の弟王大王国
6世紀中頃までは武蔵地域の勢力。
6世紀中頃より6世紀末にかけて毛野旧勢力(鈴文化)を制圧。
7世紀初頭に常陸国を制圧。
中心地(都)は埼玉県熊谷大里。
朝鮮半島南部戦争への出兵により弱体化し、
701年畿内朝廷成立時にはその配下に編入される。


倭京が大宰府なら、郡山京と大里京は宰府。


304 :唐松山:2006/12/07(木) 18:30:40
   ご無沙汰しています
 ついに 新しい暦の読み方が解りました。
ほつまの 暦には、増しがある と書かれています 
もし 景行が 西暦239年からだとすると
 治世   成太子   成天皇 <間> 世継誕生  立太子   死亡
 60年  18才   81才  5年目  86才   126才  140才  これから`前57` ‘中20‘‘後10‘ を引く
 29年  18才   24才   5年目  29才   49才   53才    
増し 景行の年号より次の年を引く

 中 6,7,8,9,13,14,15,16,28春=40冬、  後 47より51、55年死亡より60

崇神  西暦184年  24年間  後5年くらい縮められる
垂仁  西暦219年  27年間  後7年くらい縮められる
景行  西暦239年  29年間  後8年くらい縮められる

後漢光和年中(西暦178〜183年)、倭国大乱起る。  崇神の 国内引き締め
239景初三年、女王卑弥呼、魏に都市牛利(かしくい)、難升米(なしま)らを遣わす。 
タジマモリ トコヨの国に行く

247倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越(倭世子大江)らを遣わして郡に相攻撃する
景行による クマソ討伐
檄を為りて之を告諭す。狗奴国対女王国海戦は難升米将軍の大勝利となる。直後に卑弥呼死す。大いに冢を作る。
ホ38232  18年    ソヤヤヨヒ ...クマノガタ ヲサクマツヒコ...さとさしむ しかれどこばむ かれころす
ホ38273      アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
卑弥呼の宗女壱與(いよ、比売多多良伊須気余理比売)
ホ38300  20年    フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
28年コウス16才九州へ 休むまもなく 関東下向 

 これが 増し でみた 景行です。

305 :肥国狗古智卑狗末裔・武蔵国新羅郡住民:2006/12/20(水) 13:07:34
ムサシモ・ムサカミ説に興味があります。
但し相模には出雲系神社が少ない事を考えると一考せざるを得ません。
武蔵の権力中枢が前期は荒川以北(さいたま市周辺か?・後期が荒川以南(多摩郡)
であった事は武蔵の東山道から東海道への移行にも現れています。
また前期武蔵は出雲系であり、毛野の出雲系とも密接な関わりが見えます。
但し、武蔵と毛野の出雲氏族の移住時期には時間差があると考えられます。
証左として武蔵系がスサノオを祭祀するのに対し、毛野ではオホナムチを祭祀している。

306 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 00:51:43
>>305
>ムサシモ・ムサカミ説に興味があります。
>但し相模には出雲系神社が少ない事を考えると一考せざるを得ません。

ムサ(ムサ上・ムサ下)が成立するとすれば、
その歴史は出雲系神社よりももっと遡るのとおもいます。
出雲系神はムサシになってからのもの。
南関東相模が中心地だった頃、
縄文後の経済的に低落した中西部関東(ムサシ)に入植したのが出雲系ではないかと思います。

ムサ・ケヌ・フサ・ヒタの中心地がカミ、シモは後期晩期縄文時代に衰退した地域。

以上ムサカミ・ムサシモ仮説が成立する場合の推論です。

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