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【毛野】関東に大王あり【武蔵】

1 :日本@名無史さん:05/01/16 09:21:12
埼玉古墳群・稲荷山古墳から出土した鉄剣金錯銘。
「今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮」
これのどこが、畿内の長谷朝倉宮にいた大泊瀬幼武
(後代の漢風諡号=雄略)なのか?!
今年のセンター試験でも自明の理として登場した。
古田武彦氏の『関東に大王あり』で関東説が脚光を浴びたが、ほかにも
井上秀雄(東北大名誉教授/朝鮮古代史)・鶴岡静夫(青学大名誉教授/日本古代史)
・故金達寿(作家)各氏らが同様の立場であった。
関東説・畿内説をとわず建設的・生産的な議論をお願いしたい。
粘着・荒らしはスルーでよろしく。


2 ::05/01/16 09:29:48
×長谷朝倉宮
○泊瀬朝倉宮

同音ながら誤字にてご寛恕を…

3 :日本@名無史さん:05/01/16 20:22:24
>1乙!
学会に巣食う、列島内「王統」一元史観よ、早く滅んでください。

4 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/17 03:43:39
関東平野に大王あり。・・・・・ケノ・ムサ・ヒタ
関東平野に大王なし。・・・・・フサ

ケノ(上ケノ こうづけ・下ケノ しもつけ)
ムサ(ムサ上 さがみ・ムサ下 むさし)
ヒタ(ヒタ上 ひたか・ひた下 ひたち)
フサ(上フサ・下フサ)


5 :日本@名無史さん:05/01/17 04:38:34
稲荷山古墳鉄剣銘【いなりやまこふんてっけんめい】
埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣(国宝,さきたま資料館蔵)の剣身
表裏に金象嵌された銘文。ほぼ全文が判読された115文字は,5世紀代の最も
基準的な金石文史料。冒頭の〈辛亥年〉は471年,また大王名〈獲加多支鹵〉
(ワカタケル)は,倭王の武,記紀のオオハツセワカタケ(雄略天皇)にあたる。

乎獲居(オワケ)が〈奉事〉の〈根原〉を記すとする内容は,〈上祖〉意富比(オオヒコ)
からの8代の系譜と,その一族が〈杖刀人首じょうとうにんのおびと〉として代々仕えた
ことである。ワカタケル大王の寺が〈斯鬼宮しきのみや〉に在る時,その〈治天下〉
を〈左たす〉けたことを強調する乎獲居を関東の豪族とみるか,中央の廷臣と
みるかは,説が分れる。 [株式会社岩波書店 岩波日本史辞典]


6 :三浦義連:05/01/17 18:21:28
>>4
毛野はケヌと読んでちょ。
鬼怒川←毛野河

7 :日本@名無史さん:05/01/17 21:37:44
ケヌの王の墓は群馬にある。

8 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/18 01:34:20
>>6
ぼくにとって現地調査が必要ねすね。
「毛野・・ケヌ」は「筑紫・・チクシ」と同じですね。
「鬼怒川・・ケヌガワ」が正しい現地読みですか?


>>7
ヒタの王は那珂にいた。

9 :日本@名無史さん:05/01/18 08:43:45
>>7
北武蔵にまで毛野が進出していたとは考えられませんか?
一例として鈴製品の出土
>>8
現在では「きぬがわ」ですね。
常陸国風土記か何かに「毛野河」との表記があったはず

10 :日本@名無史さん:05/01/18 08:59:01
関東の大王・・・・・・将門のことか?

11 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/18 19:55:08
>>10
んにゃ。
7世紀以前についての話題です、

12 :日本@名無史さん:05/01/19 01:42:12
 稲荷山古墳の前方後円墳体制全体における位置づけというのは考古学的にどうなんでしょう?
 時代は倭王武が列島の東西を征服した時代です。
 ですから、稲荷山を含む北関東文化圏が、畿内を中心とする前方後円墳体制に「飲み込まれている」のか否かによって、関東王朝説成立の可否が決まって来ると思いますが。


13 :日本@名無史さん:05/01/25 22:18:34
古田武彦の本を買ってみようと思ってるんですが
初心者はどの本から始めるといいんでしょうか。
朝日文庫から出てる『古代は輝いていた』というのが概論的な感じなんでしょうか?

14 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:27:42
>>12
稲荷山古墳が5世紀後半か6世紀前半かには疑問をもっていますが、
関東圏は畿内勢力の文化的影響下には組み込まれていたと見ています。
だからといって、獲加多支鹵が雄略とみなすことはできません。
関東勢力には前方後円墳と出土品に鏡があることから畿内と共通文化をもつ進出勢力とみなせます。
畿内天皇勢力が九州から進出したにも関わらず、九州から独立していたように、
関東の勢力も近畿天皇勢力から独立していたと見ますので、
獲加多支鹵は関東の大王でしょう。
九州の倭王武の勢力範囲も、東に毛人66国からみて、
山口・広島・愛媛・島根・鳥取と見ています。
又、畿内勢力の範囲も、岡山・兵庫南部・大阪・奈良・京都南部・滋賀と見ています。
九州王朝が最大の権力を持っていても、大王は全国に割拠していたのでしょう。
それらは、九州・畿内・東海・関東・北陸・新潟・東北に3〜4大王と推測しています。
中には大王と言うには小さな地方権力者とみなせる大王もいたのではと推測します。

と言うところが僕の5世紀後半〜6世紀初頭の日本列島の概念です。

15 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:34:25

>>13
朝日文庫から出てる『古代は輝いていた』が比較的広い範囲を網羅していると思います。

16 :13:05/01/30 12:44:01
サンクス。実は二日前に我慢できずに買ってきましたw>>15
面白かったら『邪馬台国はなかった』も探してみようと思います。

17 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 13:21:41
>>16>>13
『邪馬台国はなかった』は古田氏の研究手法を知るには良いと思います。

『失われた九州王朝』(朝日文庫)が面白かったように記憶しています。
初版本を修正改定していなければ、現在では間違っている部分もありますが。

18 :日本@名無史さん:05/01/30 14:08:30
>>14
私見では、5-6世紀は、大雑把に、大和飛鳥のほかにも、
毛野,越,吉備,出雲,九州諸国あたりがいわゆる「くに」でしょう。

7世紀の壬申年の大乱の時でも、尾張が東国勢ですもんね。

19 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/31 19:02:01
>>18 >>1
 
関東が倭国に統合されたのはかなり時代が下ってから、
6世紀末から7世紀初頭と思います。
西暦600年前後までは関東勢力は独立していたと思われます。

古田氏が紹介した「筑紫の舞」にそのことを暗示するようなものがあります。
翁の舞があるのですが、3人立、5人立、7人立と3種類の翁の舞です。
3人立は筑紫の翁、出雲の翁、肥の翁の構成で、
5人立は上記3翁に難波の翁、越の翁の構成に、
7人立は上記5翁に尾張の翁、夷の翁となります。
そこで、7人立の成立が西暦600年前後と推定しています。
5人立の成立は難波の翁がでてくることから応神の頃(5世紀)になりますね。
応神は九州王朝の征東将軍のようなものでしょうか。

そして畿内への北陸反乱勢力である継体が九州に対して反乱。
継体の死後、欽明により畿内を九州王朝傘下に。

関東大王(王朝)は少なくとも6世紀後半までは存在していたのではないでしょうか?
それも、2大王、西及び北関東地域(ムサ・ケヌ)と南及び東関東(ヒタ[那珂]・フサ)地域に。

20 :12:05/02/01 00:15:29
>>14 さん

>だからといって、獲加多支鹵が雄略とみなすことはできません。

>畿内天皇勢力が九州から進出したにも関わらず、九州から独立していたように、

 この2つの主張の「純粋に考古学的な」根拠は何ですか?
 私は文献の解釈だけの議論に飽き飽きしているのです。古墳の型式とか土器の分布、流入などによる根拠をお願いします。

21 :日本@名無史さん:05/02/01 00:18:03
この2つの主張の「純粋に考古学的な」根拠が必ず存在するはずだ、
という思い込みは何に由来しますか?
私は文献を無視したヤマト=邪馬台議論に飽き飽きしているのです。

22 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/01 16:26:06
>>20 12さん
古墳・祭器の形式です。

関東においては、古墳の形式がムサ(ムサシ)からケヌ方面に変わっていっていることと、
古墳・副葬品・埴輪が畿内型(太刀・三種の神器の1つ)で畿内と共通の文化であること。
ヤマトタケルノミコトの遠征話では、南部ムサ(サガミ)とフサ止まりで遠征に成功せず引き返している点で、
継続的な畿内支配でないこと。又遠征の主目的は静岡で遠征の主は尾張の勢力と見られること。
尾張勢力(交流はあったが畿内の支配下でない)を飛び越えて畿内勢力が関東に進出できるはずがないこと。
以上、古墳の形式や土器埴輪の分布だけが根拠ではありません。

畿内においては、三種の神器は北部九州と共通するも、古墳の形式が九州と異なってしまったこと。
畿内は円墳・帆立型墳から前方後円墳に発展したのが、九州では九州中部型古墳から装飾古墳になっていった。
宗教が近縁であっても異なることから互いに独立した勢力であったとみなせる。




23 :日本@名無史さん:05/02/24 21:09:52


24 :日本@名無史さん:05/03/15 01:44:13
毛野大王age

25 :日本@名無史さん:2005/03/28(月) 00:49:56
こういうのが出てくるから埼玉の国指定史跡級の縄文遺跡とやらも壊されるわけね。
変なもんが見つかる前に破壊すれば疑問も生まれないからな。

26 :日本@名無史さん :2005/03/28(月) 19:53:21
>>3
>>25
早い話、日本の歴史学会は、天皇家が登場して以来の古代史では、地方の独自性を示すものは、
すべて天皇中心近畿中心史観に押し潰されてきたってことだろ?
その歴史観の最大の支持者は常に近畿の人間であり、今も学会の中心にいて古代史を歪曲し続けていると。
近畿地方以外の日本人は、長い間、天皇=近畿中心史観に気づかず、騙されつづけていると言ってもいいだろう。

27 :日本@名無史さん:2005/04/16(土) 21:29:42
ひでえね

28 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 16:52:36
稲荷山鉄剣銘の辛亥年五三一年説は、最近どう展開してるんしょうか。
欽明天皇の即位年(たしか上宮聖徳法皇帝説では辛亥年)とか宮の名(磯城嶋
金刺宮)や、「継体紀」末尾引用の「百済本記」記事など、関連しそうな事例
はあるのに、なんとも影が薄い説だ。

29 :日本@名無史さん:2005/05/08(日) 16:52:09
家康の入封以前に関東第1の都市だってのってどこ?

小田原?鎌倉?武蔵府中?

30 :日本@名無史さん:2005/05/11(水) 23:09:04
小田原でそ

31 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:05:27
ダントツで小田原でしょうね。むしろ二番目以下のほうを知りたい。

32 :日本@名無史さん:2005/05/27(金) 03:11:33
上野の由来って、上+毛野なの?

33 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/05/27(金) 12:21:56
>>32
ttp://www.google.co.jp/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E6%AF%9B%E9%87%8E%E3%80%80%E4%B8%8A%E9%87%8E&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

34 :日本@名無史さん:2005/06/04(土) 01:21:16
>>32
上+毛野→かみつ+けぬ→こうずけ(上野)現在の群馬県の範囲(上州、上毛も群馬県の範囲を指す)
下+毛野→しもつ+けぬ→しもつけ(下野)現在の栃木県の範囲

漏れは常陸在住だが

35 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 09:22:28
相模は、なにか+上?

36 :日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:29:25

昔から、ムサ+上(相模)、ムサ+下(武蔵)説があるがあやしい

37 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/06/16(木) 00:29:33

相模・武蔵同様のあやしい説、常陸・日高。
ヒタ+下(常陸)
ヒタ+上(日高)
ヒタは宮城に近い方が上、遠い方が下、他の西側が上、東側が下とは逆転。

ついでにまとめて
上+フサ(上総)
下+フサ(下総)

上+毛野(上野)
下+毛野(下野)

ムサ+上(相模)
ムサ+下(武蔵)

ヒタ+下(常陸)
ヒタ+上(日高)


38 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 06:46:59
日高ってどこ?

39 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 08:22:25
ここも馬鹿スレかw

40 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 10:21:08
稲荷山古墳て、昔の何郡?

41 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 13:27:16
九州王朝=先住民族ヤマト=平氏
現政権=渡来人出雲=源氏
らしい。
九州は今でも源氏が平氏を差別してる。
県知事、市長を調べた限り源氏の系統ばかり
市会議員、県会議員もそうかもしれない。
おそらく、焚書坑儒が行われている。
関東の人は気づかないのかね?





42 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 05:56:10
万世一系思想は源氏ツングースの野望、
ツングースは東アジアを彼らの子孫で埋めるつもり
アーリア人の思想を踏襲、平氏は差別の対象として
絶滅させる気、韓国がなぜ、金、朴などの姓だけなのか・・・
ツングースの野望。平氏一族(先住民族)よ今こそ立ち上がれ
関東にも少なからずいるはずだ。

43 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:31:51
ムサかバイ(遅れているよ)
と西九州では言いますが、これは関東に住んでいる遅れた人
を指していた言葉かもしれません。

44 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:35:06
源氏政権により封印された九州王朝の謎
を是非解き明かしていきましょう。

45 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 07:37:56
ムサかバイとは遅れているという意味以外に
髪の毛ぼさぼさで汚い格好してるね。という意味もあります。
九州人からみた関東人のイメージだったのかもしれません。

46 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 12:07:39
そんな深読みせずともスタンダードに
今獲加多支鹵=ワカタケル=雄略でいいよ

47 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 13:56:36
>>46
今=?
獲=ワ
加=カ
多=タ
支=ケ
鹵=ル

なのか?
獲をワと読んだり支をケと読んだりしないと思うが

48 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:27:34
むさ苦しいやつだな、ムサカ(西九州語)
六平、牟佐か、撫佐か、何かヒントにはならないか・・


49 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/07/10(日) 22:41:15

>>38
「日高」は茨城県北部と福島県南東部。
古い地図では名称が残っています。
今の地図では、日立市日高しか認められません。
「日高」の範囲は茨城県日立市から福島県いわき市(植田・小名浜・平)です。


50 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 19:57:55
なぬ〜

51 :日本@名無史さん:2005/07/21(木) 20:37:32
獲加多支鹵大王→幼武大王→倭王武→雄略天皇

52 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 04:27:17
ミコミコナース!

53 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 05:45:37
>>26
つーか、平安朝後半以来関東にはさんざん悩まされて来たからなー。
公家の謀略政治の一貫なんだろw

鎮守府から征夷大将軍、幕府と言う流れで東国が朝廷の鬼門なんてのは明白だろ。
平安期以前は尚更そうだったろうな。


54 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 06:17:45
大和律令体制下では普通に大和政権になってるのに、
ずっと後になっていきなり未開人(蝦夷)扱いだもんな
不自然過ぎる。歴史ねつ造すんな。

55 :日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:09:26
>平安期以前は尚更そうだったろうな。

一応律令制が引かれているから支配圏には入ってるんじゃない?
東北や関東がどういった形で近畿と接していたかはよくわからないが・・
ちなみに九州だって謎だらけ、いきなり畿内から官吏が派遣されてくる。

56 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:40:55
武蔵は関東全域の高麗人を移住させられた。
武蔵国は昔から台地ばかりだから農耕には適さなかった。
いまでも東京都と埼玉県の武蔵野台地は宅地以外はほぼ畑。
この畑ですら江戸時代以前は玉川上水などがなかった。
水が確保できなかったため雑木林や雑草が生い茂っていて
農耕できない。

もちろん高麗人の移住とはそんな苛酷な環境への移住なので
あまり良い地域を与えられたとはいえない。


57 :日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:48:40
しかしこの高麗人たちが
関東の武士たちになった可能性は高い。
甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の
高麗人が武蔵に移住した。
そして東国といえば騎馬という伝統を彼らが作っていった。
その後、平安末期に朝廷に反旗を翻したのももちろん彼らだろう。


58 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 01:45:27
「高麗人が武蔵に移住した」と「高麗人が武士になった」には開きがある。
高麗人の子孫の誰もが武士化したわけでもあるまいに。
つーか、武蔵の牧と高麗人の移住先ってそんなに重なっているのか?

59 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:08:51
『続日本紀』霊亀二年(七一六)五月辛夘
 駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野七國の高麗人
 千七百九十九人を以て、武藏國に遷し、始めて高麗郡を置く。

『続日本紀』神護景雲二年(七六八)六月癸巳
 武藏國橘樹郡人の飛鳥部吉志五百國・・・

飛鳥部吉志は百済姓

60 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:13:06
武蔵國"高麗"郡 武蔵國"新羅"郡age

61 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:13:35
そういえば関東は肌のつるんとした人が多いな・・

62 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:16:51
>>58

>>57は、もともと武装集団だった高句麗(高麗)人が関東の武士になったと
言いたいんじゃないのかな。

63 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:21:33
なぜ、日本はこれだけ、渡来人を受け入れたと思う?

64 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:35:15
高句麗以前に古墳時代から既に東国は西国に比べて
馬文化を受け入れていたとか読んだ覚えがあるが。
律令時代には蝦夷人も騎馬化してたそうだし。

65 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:49:55
武蔵といえば武蔵七党に代表される中小武士団だと思うのだが、
高麗郡て、七党の根拠地から微妙にズレてるよね。丹党だけかな。

周辺が武装していくなかで高麗郡の住人も自衛のための武士になった
者達がいることまでは否定せんが、いかにも高麗人の子孫が武士の伝
統を作り上げていきました、なんて文章を見ると萎えるよ。
>>57はちょっと発想が飛びすぎ

66 :日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:58:26
ただ武士のあのチョン(朝鮮)マゲって朝鮮の人のマゲではあるらしいね。

67 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 08:24:40
>>62
ないだろ。高麗はもともと北朝鮮起源の政権だが、
武士階級が公家と分化したと言う社会構造ではない。
高麗の建国は918年。
>>56
本国北朝鮮の方が遥かに過酷だよ。
南朝鮮でも冬季は11-12月でも零下10度にもなるはず。
だからオンドルが必要になる。

68 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:16:12
>>66
そうか?
明治期になって前代の風習をバカにする意味で丁髷(ちょんまげ)呼ばわりするようになったと某本で見たのだが。
朝鮮人をチョン呼ばわりするようになったのはもっと後だ。

つーか、そんなに関東武士を朝鮮人にしたいのか。
朝鮮人に日本人が長い間支配されてきたと言いたいのか。
朝鮮人の57や66としてはそのほうが気持ちいいのだろうな。

69 :日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:32:31
お互い様かも、今まで西の方を朝鮮人呼ばわりしてたの
殆ど関東の御用学者じゃん。

70 :日本@名無史さん:2005/08/13(土) 03:34:37
>>67
高麗(駒、コマ)は高句麗であって、高麗(コウライ)ではない。
所在地も高麗(コウライ)は朝鮮、高句麗は満州。
高麗(コウライ)の建国者は高句麗滅亡後、朝鮮半島に逃れて
高麗を建国したことになっている。

71 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 02:26:59



72 :日本@名無史さん:2005/08/22(月) 03:14:06
高麗郡も元は別の地名があったんでしょうね。
クマ郡とかだったかも、九州に多い地名。

73 :日本@名無史さん:2005/08/29(月) 22:56:02
なぜ高麗と書いてコマと読むのだろう

74 :日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:15:59
最終レスが8月21日の秩父事件スレが落ちたか。
アゲとくか

75 :日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:21:44
>>73
コリョとはぜんぜん違う別物なんだ、間違えんなよという強い意志を表している

76 :日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:58:39
ん?

77 :日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:19:03
>>49
「日高」=ひだかみ(上)
「常陸」=ひだしも(下)

だね。

78 :日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:21:40
いかん、>>37と同じことを書いてしまった、、、、、、、、

79 :日本@名無史さん:2005/10/29(土) 23:50:38
チチブage

80 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:05:12
7世紀頃に関東の豪族が大和朝廷に反乱を起こしたような。

まだ半島人やふ囚が移住してくる前の話。

81 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:15:56
関東・東北と九州は逆賊の宝庫

82 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 01:40:08
まだ服属してないなら逆賊とは言わんでしょ。

83 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 07:07:59
獲加多支鹵

支=シ 鹵=は「鹵獲」のロ

ゆえに「バカたしろ」と読む。
「今、バカ田代」が正しい!!!!

84 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/30(日) 12:54:50
>>80
反乱のソースは何?

反乱の相手は大和朝廷ではないでしょう。
大和朝廷は畿内以外に力を示すことは未だ無理。
大和朝廷は未だ尾張に対してさえ支配が及んでいないのだから。(672年以前)
まだ半島人やふ囚が移住してくる前の672年以前だから、
関東平野内での抗争か九州王朝に対しての反乱と思われるが。


85 :例の反乱話の奴=俺:2005/10/30(日) 13:05:59
8世紀以降に関東に移されたふ囚の反乱と勘違いしているのかも。

86 :85:2005/10/30(日) 13:17:29
ソースなんて言えるものはありません。

何故かというと蝦夷関係か隼人関係の本に書いてあったような・・・

という我ながらいい加減なものです。

隼人は畿内とそこから少し外れた地域に移住させられたようですから、

関東には来ていませんね。

87 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 13:47:32
隼人の一部は関東にも移住したろ?
薩摩・大隅→畿内→関東

88 :日本@名無史さん:2005/10/30(日) 13:53:23
日本書紀534(安閑1)に武蔵国造の笠原直使主と小杵が国造職をめぐり
それぞれ倭王、上毛野氏と組んで抗争したと伝える。
笠原直の本拠は鴻巣市笠原付近で、墳墓は埼玉さきたま古墳群。

89 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/30(日) 22:01:30
>>80
>>85-86
>>88
抗争を起したのは小杵と上毛野氏で、
武蔵国(夷?)に対する反乱で、九州王朝と笠原直使主に対してだと思います。
笠原直使主は既に九州王朝と同盟関係にあり、
北関東の上毛野氏(毛野王権・地域独立王権)は未だ西日本文化圏内(前方後円墳等)に入っていない時代ですから。
この抗争で北関東の上毛野氏が敗退し、その後北関東に前方後円墳も広まっていったのではないでしょうか?

未だ詳しくは調べていない上での考察です。

90 :80:2005/10/30(日) 22:47:36
>>89
ありがとうございます。

91 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/31(月) 00:46:05

>>80
535年は磐井の乱後の一時的な九州王朝弱体化の時期ですから、
それに乗じて毛野王権が武蔵に反撃をしかけたこと示しているのではないでしょうか。
その後、九州王朝派遣である欽明よる継体朝畿内政権の平定、
6世紀中盤の九州王朝の再安定化時期(九州元号「兄弟」)と共に、
武蔵九州王朝同盟国「夷」の北関東進出が本格化し、
それが6世紀末の前方後円墳の北関東への拡大となっていると見ます。


92 :(´,_ゝ`)東皇帝ジーモン・ジョーカー@南武蔵◇1966DD2006BB:2005/11/01(火) 01:02:11
俺は皇帝に即位した。

大和朝廷にも唐朝廷にも従わん。いずれは全国制覇する。

93 :80:2005/11/01(火) 01:54:43
>>91 ありがとうございます、全く知らなんだ。

私は飛鳥時代には既に大和王権が東北と後の鹿児島県以外

の地域に影響力を持ち、形式的にせよ地方豪族たちを

服属させていたものだと思い込んでいました。

94 :日本@名無史さん:2005/11/02(水) 17:15:52
>>93
九州王朝説
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC

95 :日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:48:15
このスレではド田舎東京は除外ですか

96 :日本@名無史さん:2005/11/07(月) 02:56:49

東京はド田舎以下の無人地帯。
水の無い台地、低湿地と干潟、
人の住めるところが無い。


97 :日本@名無史さん:2005/11/07(月) 05:50:12
せんそう‐じ【浅草寺】‥サウ‥
東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。
山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像をまつったのが
始まりと伝え、円仁・頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として
信仰を集めた。浅草あさくさ観音。

[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

98 :九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/07(月) 22:33:09
>>97
江戸湾岸は全くの無人地帯ではなかったでしょう。
漁民が少しはいたと思います。
彼らは干魚等を荒川を遡って埼玉方面に売りに、
又、埼玉方面から買い付けに来たりしたのでしょう。
勿論穀物との物々交換であったでしょうが。

埼玉地方は権力の中心地として人口も抱えており、
その淡白質の供給地として江戸湾岸は重要であったと考えられます。
その湾岸の中心地として、荒川河口の浅草は江戸湾岸の人々が集まるところであったと。
その浅草に628年迄に仏教が伝わっていてもおかしくありません。

荒川河口の浅草から埼玉権力者への蛋白質供給が無ければ、
武蔵埼玉王権が北関東の毛野王権を凌駕できなかったでしょう。

99 :保守:2005/11/27(日) 02:02:21
★守護・地頭の実態−坂東武者の全国拡散★
1 :日本@名無史さん :2005/10/08(土) 08:23:07
自慢のように聞こえるし、他の地方の人間にとっても周知の事実だと思っていたので
今までは黙っていたが、藻前らがやたら関東を叩いたり、その認識に?を付けたくなったり
するんで、言及するとするが、
鎌倉時代の守護・地頭の実態は、北は東北から南は九州まで、関東甲信(特に関東のいわゆる坂東武者)
の全国津々浦々への拡散だぞ。
当時関東在住の、守護として血筋のはっきりした豪族だけでなく、弱小の豪族までが、それこそ今の市町村長の
ような形で知行地を貰い、移住して行った。主に惣領以外の次男・三男坊だけどな。
その子孫で歴史上の偉人も多い。
日本史が中国・朝鮮史と違うのは、ヨーロッパと同様に封建時代があったからだと言われているのは周知の事実。
それもこれも坂東武者、即ち関東の人間のおかげなんだぞ。
当時、関東以外の地ははっきり言って王朝国家の惰眠を貪りつづけていた。武士は単なる貴族らの使いっ走りに過ぎなかった。
文化の伝播についても、九州などの西からだと考える香具師が多いようだが、こういうことで、関東の影響が全国に広がって
行ったというのが実際だ。
言いたかないが、藻前ら本当は関東に足を向けて寝らんないんだぞ。
(鎌倉・室町の両時代は坂東武者の、江戸時代は三河遠江を初めとする中部地方の人間の全国拡散と言えよう)

100 :日本@名無史さん:2005/11/28(月) 23:06:58
213 :60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :2005/11/28(月) 22:45:06 0
>>212
女性と同じ。
ピンクも黒もいる。

黒のヤリチソは黒、ピンクのヤリチソは紫。

★20代30代女性と50代60代男性★25
http://love3.2ch.net/test/read.cgi/furin/1132787512/213


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