5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

源平武士と戦国武士、タイマンで戦ったら?

1 :日本@名無史さん:2005/11/22(火) 15:10:07
火器の使用は無しでタイマンで戦ったらどっちが強い?

520 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 23:34:43
鹿島の話や武器術の話もおもしろかったが、心に残ったのは>>490の黒田武士の話だな。
鉄籠手で刀を受け止めて、戦場太刀で叩き殺す。まさに介者剣術の鑑みたいな話だ。
で私の知ってる話を一つ、あの可児才蔵に旅の武芸者が試合を申し込み、可児才蔵
と試合すると高札を立てて見物人を集め、試合の場で待ち受けているところに、完全武装した
足軽60人(鉄砲20丁、弓20張り、槍20本)に騎馬武者3騎を引き連れ、馬甲を被せた馬に
乗り2間半の手槍を構えた鎧兜姿の可児才蔵がやって来て「試合を始めよう」って宣言して
武芸者に向かって鉄砲や弓を放つよう足軽に命じたんで青くなった武芸者が怒って
「卑怯なり、拙者は、貴殿との一騎打ちを所望したのだ」って詰ったら、可児がせせら笑って
「戦場往来の武士の試合は、これが定法だ。お主は芸者(武芸者の略称)だが武士だ。いざ勝負せん」
と武士に怒鳴り返したって話があったな。


521 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:29:29
うーん実は鹿島の話は、ほとんど民話なので資料的価値はあまり無いっ!w

せっかくだから>>490氏の話を補足。
黒田家の家臣というのはたぶん『野口一成』の事では無いかな?
野口一成は黒田長政の普請奉行で「黒田二十四騎」の一人。戦場武功の者であった。
試合では相手の木刀を左の腕で受け止めて、右の木剣で敵を突き倒した
負けた武芸者は「腕で受ける剣術なんて無い」といって冷笑すると野口は具足櫃から
籠手を取り出し「おれの流儀はこれだ」と見せた。
その籠手には筋金を多く入れて、楯の様にして戦場に用いたもので太刀痕が多く付いていた。
太刀は突き用の反りの少ない長大な陣太刀で、錆び付いていたが
「まだ折れも曲がりもしない大丈夫」と笑いながら縁側の角に押し曲げて試して見せたとか。

【野口一成】
江戸城・大坂城の築城にも参加し加藤清正も一目置いた築城・石垣積みの名人。
福岡城の石垣は野口の指図により積みめぐらされた物だそうな。
【福岡市HP「福岡城」】 ttp://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kyushu/fukuoka/fukuoka.htm

522 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 21:59:49
タイムマシンさえあれば、このスレは実現するんだが!
解説はアニマル浜口 アシスタントコメンテーター 藤原 紀香 

523 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 00:42:53
>>522
うざい紀香節は勘弁しておくれw

524 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:07:17
長谷川京子なら問題なかったワケだが・・・

525 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 17:14:07
剣術の話だと、小野忠明が「罪人に真剣持たせて、勝ったら無罪放免してやる条件で戦わせると子息のいい修業になるよ」と柳生に勧めたとかの壮絶な話があるな

526 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:48:59
お、ひさしぶり。そろそろ再会する?w

小野忠明が強かったのは事実だが、でもその辺はやや創作ぽい感じもするな。
柳生は大名で徳川重臣で足利時代からの将軍指南だから小者の小野と互角に話していた
とは正直思えないし。言ってたとしてもハッタリくさい。
現在で例えるならシウバみたいな無敗のケンカ屋が警察官僚に向かって
「罪人に武器持たせて戦わせれば警官のいいトレーニングになるよ」
と、言ってるのに近いんじゃないかな?
当時から小野兄弟の奇行は有名だったから相手にされなかったのが実情だろうな。

527 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:49:49
警察官僚?

528 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 23:51:43
まあ、小野の師匠は氏素性不明の伊藤一刀斎だからな…
この師匠あってこの弟子あり、って所じゃないか?

個人的には嫌いじゃないがね

529 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:24:24
>>526 柳生とは同格の新参だからそれほどでも無さそうだよ。
加えて、小野忠明の方が取り立てられたの早いし。年齢的にも大差ないから。
それと、幕府初期の朱子学導入の要因が、上下のケジメが無かった{戦国風}というのが大きいとのこと
また、忠明の逸話も命令には絶対服従だが、剣についてやそれ以外はかなり大雑把
好意的に書かれてる文章でも、どこか欠落がある人間{忠常も}というのが多いよ。
ちなみに、柳生との交流については十兵衛の月之抄など著書で度々忠明との交流が示されてる。
剣は人を斬り慣れれば強くなるとかいう意味の会話とか出てる。
一説には一刀流の客分だったとか。その後の柳生に形が組み入れられたりしてるしね

530 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:41:55
十兵衛と忠明は不良同士で気が合ったのかもなw
でも小野と柳生とは同格と言えるのかな?宗矩は地方豪族で後に大目付となる人だよ。
剣術指南という事以外はかなり家格が違う様な感じだが。

531 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:45:49
宮本武蔵と柳生十兵衛


タイマン勝負が見たいね〜

K1並の迫力ある真剣勝負になるよきっと

532 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:56:27
>>530 忠明が死んでからの話だから
加えて忠常は柳生に毎回勝ってるし、剣以外は興味無さそうな記述が多いよ
ま、家光を平気で他の門弟同様扱う流派だから
価格が違うとか言ってもきかないんじゃない?

533 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:00:51
柳生十兵衛は荒木又衛門の師匠でもあったんだね
年下の先生って珍しくなかったらしい、当時は
実力主義の気風が残ってたのかな

534 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 13:15:28
柳生但馬守は実戦でも強いと思ってたけど
大坂夏の陣の折り、秀忠本陣に乱入してきた木村長門守一族の武者七名を一人で切り捨てたって逸話もあるし

535 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 17:26:35
東郷重位の師匠も年下だな。当時は実際立ち合って優劣決めてたから年下の師匠も
珍しく無いだろ。

・・・つーか、後は剣豪スレでやって、そろそろ源平と戦かおうぜ。

536 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:10:41
>>535
戦国の素人武士じゃ鉄砲が持たなきゃ勝てない

537 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:12:55
源平武士ってことは源為朝が代表格かね?
でも多分に神話的な人物で、実像が知れてるとは…
矢一本で軍船撃沈とか、抜かれた腕の腱が再生するとか無茶苦茶

538 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:40:28
>537
こらこら、琉球王祖にむかってインキチ呼ばわりは失礼なるぞ。

539 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 06:50:29
柳生に関して言えば、尾張柳生の末裔が本を書いてるねぇ。
古い本で一回絶版になって復刻してまた絶版になってるのかな?
むか〜し、図書館で取り寄せて読んだ記憶で覚えてるのは、
江戸柳生じゃなくて、尾張柳生が正統だぞっと。
石舟斎から道統を受け継いだのは尾張だぞっと。
新陰流は介者剣法とは違うんだぜってとこかな。
倭寇の剣術を武備志が取上げて、その中に陰流の目録あるけど、
愛洲移香斎は伊勢の生まれとか、九州の生まれとか言われてるけど、
海賊の剣術なら、重装備の鎧を前提としない剣術だったというのも、
納得できる話だよな。


540 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 18:24:41
>>537
強弓NO1とはいえ、源為朝が源平の時代を代表する武士と言えないと思うよ。
西国鎮西育ちで、時代を代表する騎馬での弓射が得意ではない。
>>538
沖縄に限らずあの周辺は、落ち武者伝説みたいなものが多いらしいね。
与論島とか。
自称だけど。

541 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 20:29:11
源平時期代表が為朝じゃないとすると
誰?
坂東武者の鑑、といえば畠山重忠(武勇と教養を兼ね備え、一ノ谷では馬を担いで!急斜面駆け下りた馬鹿力武士。でも最後は悲惨…)
それとも平教経(王城一の精兵、と謳われた。弓で義経四天王の一人を射殺す)?

542 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 12:43:25
やっぱ話半分で聞いても強弓NO1は為朝っしょ。
精密射撃で強弓なら那須与一。

畠山が馬を担いだというのは馬一頭丸ごと担いだわけでは無いらしいよ。
まぁ、一瞬ぐらいは丸ごと担いだかも。

543 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 13:34:23
戦国代表一番手 雑賀孫市。

544 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 14:42:55
銃撃かよw

545 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 15:26:49
佐用三郎範家 名越尾張守打死の事 くだり杉か

546 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 15:42:52
戦国代表二番手 足利義輝。

547 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 16:05:18
戦国代表三番手
小島 弥太郎

548 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 17:43:57
>>541
もちろん、為朝がその時代を代表する最強武人の一人だと思うけど、
騎射という点から見ればね。

平家方なら誰だろう?
都や奈良では、流鏑馬はともかく狩猟と実戦経験を基とする本物の騎射術は養えない。
熊野育ちの平忠度はどうかな。熊野=騎射ではないけど。
源氏方だけど、近江・佐々木高綱などは歴戦の勇士だと思う。

いくら畠山重忠でも、馬は300`近くあるし、
ましてや重忠の乗馬は大柄な名馬・秩父鹿毛とか。
『平家』の逸話は造り話では。
畠山重忠の怪力ぶりが反映されて出来たものなのかな。

549 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 17:52:21
平教経しかいないでしょ、平家方だと。例によって史料が曖昧な事跡しか残ってないけど…
それを信じるのなら、木曾義仲の四国討伐軍を六度の戦で六度勝ち
屋島では佐藤兄弟の兄はじめとする源氏方の武士を矢で次々討ち取り
壇ノ浦では義経を追い詰め(有名な八艘飛びは逃げるため)、駄目だとわかると源氏の猛者二人を道連れに入水
他に平家方のつわものは思い浮かばない

550 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 18:03:49
>>549
『吾妻鏡』では平教経が甲斐源氏の安田義定軍に打ち取れられたとあり(一の谷)
でも『平家』では壇ノ浦での教経の活躍は有名。
『玉葉』は「一定生存と云々」、解釈は?

死亡説もあったらしいが…
『吾妻鏡』誤報の可能性が高いのかな。

551 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 18:06:36
訂正
×生存
○教経においては一定現存と云々

552 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 18:26:08
>>550
偽首だったんじゃないのかね?>吾妻鏡
当時は写真なんかないから、後で間違いだった、別人だったとか良くあったらしいから
酷いのになると、雑兵首に兜つけさせて偽装するケースもあったらしい

553 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/04/19(水) 01:11:50
>西国鎮西育ちで、時代を代表する騎馬での弓射が得意ではない。
>都や奈良では、流鏑馬はともかく狩猟と実戦経験を基とする本物の騎射術は養えない。
為朝の行動について、唯一具体的に記した『保元物語』では、
・鎮西→「遠矢ヲ射学ビ、太刀仕様」を知り、「カチ立」が得意。
・武蔵や相模→「馬ノ上ニテ押并テ組事」の上手。
とされていますね。『吾妻鏡』の大庭景能譚では、馬は東国>鎮西。
ただ、こうした記述にはイメージ操作というか先入観もあったのではないか
という気もします。東国に多かったのは事実ですが、西国でも九州などに牧
が分布していましたし、そんなに綺麗に分かれたものでしょうか。
逆に、東国でも三浦などは船戦の心得があったらしい。
東国だから、西国だからというのよりは、もっと細かい地域差や個人差が存
在した様に思います。大庭の言葉も、1270〜1280年代の鎌倉幕府側
にとってイメージの固定に丁度良いものであったでしょうし。
『保元物語』もイメージでくくったものでしょうが、こちらは東国が騎射の
上手とは書いていないのが気になります。
東国武士こそ「本物」というのは、高橋昌明先生の引き写しの様になって来
たのを承知の上で申し上げれば、作為的に形成された面もあるのでは。
京都周辺でも狩猟はしばしば行われていますし、逆に東国でも頻繁に狩猟を
行っていれば、鹿でも猪でも姿を消しますよ。
両者の経験の間に、明確な差が存在したものかどうか。

554 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 20:08:58
>山野さん
『保元物語』を言うなら、為朝が「清盛などがヘロヘロ矢」と馬鹿にしてる
清盛こそ、高橋氏のいう所の正統な武士じゃないんですか。
高橋氏は誰が正統な武士なのかの名前も挙げずに、都の武芸の繰り返し…流鏑馬でしょうに。
強烈な京都マンセーで、他学者から反発され・・・

平家などを鎌倉の一方的な作為とするならば、何故
坂東武者相手に活躍する巴御前を登場させたり、猪俣の一騎打ちの記述があるのか?
不自然じゃないですか?
巴や重忠の馬背負いの話は創作でも虚構の中に真実がある。上横手氏が述べる・・・

・平家物語の作者はネット裏で観戦している。どちらか一方をひいきにするのではなく、
源平の両方に公平な態度で書いていて、パッションがない。
・(歴史叙述の一形式である平家物語)確かにそこには史実が記されている。
しかし史実を記したといっても、平家物語は単なる記録ではなく、紛れもなく文学性を持っている。

555 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 20:13:36
九州は西国の中でも馬の産地ですから、九州武者は強かったのだと思いますが
景能がいう筑紫(鎮西)とは九州なわけで。

『吾』で景能は為朝を本朝無双の強弓だと述懐してます。
作為ならこんな事言わないでしょう。
本朝無双なら、頼朝は熊谷直家の名を挙げてるけど関係ないか。

人間生まれ持った資質は当然あるし、おっしゃる通り西国武士にも優れた武人は多くいた。
ただ、それを伸ばすための環境が都には少ない。
おそらく高橋氏が最大の根拠としたい、西行は武芸にも優れていた武士だった。
でも野山や川で重い甲冑を着け、動く標的を射る実戦では未知数でしょう。

武士の狩猟と言っても、武士自体地域の支配者、特権階級なわけで、
多くの坂東人が馬上弓射で朝夕獲物を追ってたわけじゃないし、
それに獲物としては、鳥を射る方が当然多いと思う。
殺生に対する罪悪感が、当時の畿内近国と坂東とでは違うんじゃないですか。

・工藤景光
11歳から狩猟を生業としてきて、左弓手に来た獲物を逃す事はなかったのに
70余歳・・・もうダメポ

556 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 20:32:51
五味文彦氏によると

【東国武士団】
季節を問わず、昼夜の区別なく、悪所にも馬を踏み入れて合戦を行い
その日常は高度に訓練された戦士の生活であり
反面、西国の海戦には弱い

【西国武士団】
合戦は季節の訪れとともに行われ、4,5月に集中。
海賊的性格を持った季節的武人である。

557 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/04/20(木) 17:00:13
>>555
>作為ならこんな事言わないでしょう。
寧ろ、強いからこそそれから逃れた老武者とその発言が引き立つのだろうと
思いますよ。作為=創作とは限りませんが、少なくとも編纂当時の鎌倉武士
に、坂東武者は馬術に通じているべきものだというメッセージを伝える役割
はあったでしょうし(逆に言えば当時はだれて見えたのでしょうね)。

>西行は武芸にも優れていた武士だった。
西行も出ては来ましたが、個人を以って根拠とするのではなく、騎射という
様式は京都で発展した形式であるというものでしたね。
それで、私は坂東武者の得手がこれ、鎮西武者の得てがこれでといった地域
ごとに単純に得手不得手が分かれていたのであろうか、少なくとも坂東武者
の勇猛ぶり(斎藤別当談にあった様な)は後世形成されたイメージという面が
あるのではないかと考えているという訳です(ご存知なのでしょうが)。
要するに、>556氏が挙げられた様な「東国」と「西国」で性質が分けられる
かどうかは疑問であり、強弱は尚更分からないと。

>多くの坂東人が馬上弓射で朝夕獲物を追ってたわけじゃないし、
そう思います。仰る通り。ただ、「馬上弓射で朝夕獲物を追ってた」と思って
いる人が多いので、敢えて口にしました。
特に『平家物語』好き(仄聞や小説で憶えた人)に多い。
>殺生に対する罪悪感が
この点は確かに今後研究されるべき課題だろうと思います。五味先生が昔やっ
ておいででしたが、もうおやりにならないでしょうね。
ただ、多田満仲が五戒を受ける際、殺生戒の時だけ空眠りをしていたという話
の様に、京都周辺にも殺生で押し切る姿勢はあったろうと思います。
(各地域を比較しようにも、この時代はまだ記録が京都周辺に偏っているので、
なかなか難儀しますが)

558 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 02:41:53
東国の騎射っすか・・・
騎射の話は半年ぐらい前だったから忘れちまったのでw既出かもしれないけど
今昔物語集 巻25-3の「源宛と平良文と合戦ふ語」って参考になりません?

一騎打ちの騎射で双方駆け違いざまに放った矢をかわしてるし(マトリックスかよw)

559 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:22:25
>>557
『平家』によれば東国には強弓の武士が大勢いた。
それを差し置いて為朝を無双の名人と言ってる訳です。
リアルな話でしょう。
『平家』と違い、この話自体を否定する見解というのは見かけないですが。

『平家』の東国武士の逸話も、全体的な形として受け入れてる研究者は多いですよね。
誰それが発言した、とかはともかく。

>京都で発展した形式
近衛下級官人の武芸が軍事貴族に受け継がれたという高橋氏の説ですけど、
近衛府が武力を保持していたとする9世紀初期では、地方豪族出身者が多数だと言うし。
そして10世紀、武的機能の衰退してる近衛府。
時代遅れ近衛府の儀礼的武芸が軍事貴族(武士)へと、どう受け継がれたと言うのか
高橋氏とラグビー好きの先生は、、

地方(優れた技量の流入)←都の武芸→(華やか、洗練される)都

560 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:23:23
【吾妻鏡】
鎮西八郎は吾が朝無双の弓矢の達者なり。
しかれども弓箭の寸法を案ずるにその涯分に過ぎたるか。
その故は、大炊御門の河原において景能八男の弓手に逢う。八男弓を引かんと欲す。
景能潛かにおもへらく。貴客は鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか。
景能は東国に於いて能く馬に馴るるなりてへれば。
則ち八男が妻手に馳せ廻るの時、縮相違ひ、弓の下を越ゆるに及びて、
身に中たるべきの矢、膝に中たりをはんぬ。
この故実を存ぜずば、忽ちに命を失うべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。
壮士等耳の底に留むべし。老翁の説、嘲哢すること莫れと云々。

源為朝は日本一の弓矢の達人だ。
だが、体躯に対して大き過ぎる弓を用いていたのではないか。
大炊御門の河原の戦において景能は、為朝の弓手にあってしまい射られそうになった。
その時思った。為朝は九州から来たので騎乗での弓の扱いに慣れていないのではないか。
それに対して景能は、東国の者だから馬の扱いによく慣れている。
そこで、馬を為朝の妻手に馳せた。
そのため、体に当たるはずの矢が左膝を射られただけで済んだ。
この故実を知らなかったら命はなかったろう。
勇士はただ騎馬に達すべきだ。
壮士らもよく憶えておいて欲しい。老いぼれの言う事だと馬鹿にしてはいけない。

「東国において能く馬に馴れるなり」と自認する景能の意識は
当時の東国武士の共有するところのものであったに違いない。」
(福田豊彦氏)

561 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:52:38
言い忘れました。>>556のレスも俺ですw

東馬西舟ですね。

562 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/04/23(日) 09:48:00
>558
騎射の典型例とされて来ましたが、近年では治承・寿永期の戦闘法の研究が
進み、静止騎射が増えただのそうでないだのややこしいですね。

>560
>『平家』の東国武士の逸話も、全体的な形として受け入れてる研究者は多いですよね。
私はそうは考えていないというだけの話です。『平家物語』自体は平家の滅
亡を必然として進行している訳で、実際には富士川の戦の場にいなかったと
いう斎藤談を始めとして東国武士の精強ぶりを強調する方向になっている。
別に西高東低だったとまでは言いませんが、『平家物語』の影響から受ける
様な印象通りには行かなかっただろうという事です。
>556の五味先生のものも、(出たのが)古い気がするのですが。

福田先生のお言葉にも、既に申し上げた理由から『吾妻鏡』の逸話をそのま
ま受け入れることは出来ず、承服致しかねます。
>『平家』によれば東国には強弓の武士が大勢いた。
平家(1220年代京)の史観・武士観、『吾妻鏡』(1280年代鎌倉)の
史観・武士観でそれぞれ語られたものでしょうから、『吾妻鏡』の観じたとこ
ろと平家のそれは必ずしも一致しないだろうと思います。
(私も=の例として挙げた訳ではありませんが、保元と吾妻を並記したりと
ややこしい真似をしてしまいましたが、平家の武士像は平家の武士像、保元の
武士像は保元の武士像としてそれぞれの食い違いを見ていくべきでした。
以後、迂闊に並記する様な真似は控えたいと思います)

563 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 11:40:09
>>562
確かに古いですね、1988年のだから(古本で買った)。
けど、大昔の領主制論とかとは違うもんで。
高橋氏の1998年のものも、それ以降も反論されてますよね。
下向井氏の日本の歴史07とか。あれは、刀剣を強調し過ぎですがw
高橋氏が京都を強調する流鏑馬も、最近は地方からの視点も指摘されつつあるようだし。

地方(優れた技量の流入)→都の武芸←(華やか、洗練される)都

564 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:02:39
まぁ、地方の軍事力を集合させる事が可能だったのは朝廷だろうから当時最高峰の武芸者が
都に多数集合していたとは思う。
ただ武士階級の話が当時のお公家さん達の記録にどれだけ残ったかは怪しい。
精鋭の軍人は「兵士の単価」が高くなるので迂闊に戦場で消耗できなくなる。
だから平氏は退却が多いとも考えられるのではないだろうか。
平家は都人だから弱いので逃げ回っていたわけではないと思う。
また八幡太郎だったか?誰かが刀術を知らないので九州の武士に試し斬りを学んだとか
いう話を見た覚えがある(もちろん確証はないw)

こういう場で軍記物や源平武者のイメージを一度再チェックできるのは良い事だ。

565 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 14:14:34
>>564
>地方の軍事力を集合させる事が可能だったのは朝廷だろうから当時最高峰の武芸者が
 都に多数集合していたとは思う。

9世紀初めの段階の近衛舎人が、地方豪族から多く集められたというからね。

ただ、9世紀段階の当時最高峰は、東北無名の蝦夷戦士だと思うんだ。
弓馬に堪能な蝦夷に対する兵站基地とされたのが坂東で、蝦夷戦争後の
移植俘囚の反乱に加え、騎馬の凶族集団の跳梁、無政府状態⇒将門の乱。
これらを経験して、武を磨いていったのが坂東の「兵」で、後の武士へと・・・
勲功を挙げ、中央に進出していった秀郷・貞盛などの子孫の一派が、都の武者。
近衛府=都の武芸は弓場、馬場で訓練。

つまり、実戦と一世紀以上隔絶した近衛府の武芸は、都の武者(軍事貴族)には繋がらない。
そもそも都の武は、人材を含めて地方からの伝播だろうし。
都も東国も、東北蝦夷から武器・武具を含めて技量を吸収したはず。

打物に関しては、悪僧など西国で盛んだったと言われてる。
優れた流鏑馬の技量があっても、悪僧は徒歩打物だけど。

566 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 17:56:38
んーその蝦夷、奥州藤原も坂東武者にやられちゃったからなぁ。
テクでは都や東北にはかなわなかったとしても、総合力と闘争心では坂東武者だろうな。
兵士のモラールつーか・・・ まぁ戦争ってそーいうものでしょw

坂東ってーのはとにかく土地争いが多く都落ちの流れ貴族も多い。
利根水系が氾濫する度にどっかで戦争になるって感じだったんじゃないかな?
戦場慣れしていたと思うよ。

567 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:04:02
>>566
だからそのテクが都には希薄なんだってw蝦夷と近衛官人じゃ勝負にならないでしょ。
テクというのは、実戦に裏打ちされたものじゃなきゃならない。
坂東は9世紀中期以降、自力救済の世界。

日常生活では騎馬弓射での狩猟が鍛錬の場だった。日常、京じゃ無理でしょ。
都の武者も摂津・大和・伊勢とか畿内近郊の在地領主だよ。
騎射兵としての戦闘力を考えるなら、そっちで磨くと考えるのが自然。
馬なら、東国に豊富に存在した馬牧と武士との関係は重要。

関東や甲斐、駿河、信濃とか東国武士も都との関わりは持っていた。
じゃなきゃ武士身分として認められない。
だから都と地方の交流は盛んだった。熊谷直実のような小領主でもそう。

都の流鏑馬で言えば、都鄙間の交流から形成されたという事も指摘されてる。
そして、高橋氏の言う『都の武芸』と言うのは流鏑馬を指してる訳で。

都のテク=儀礼的な流鏑馬テク

568 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:42:02
>都のテク=儀礼的な流鏑馬テク

なんかこの話はスレの頭の方とループしていそうなので保留。

資料の正確さは不明だが、源宛と平良文の一騎打ちでも双方騎射で
駆け違いざまに矢を放っっているし流鏑馬が儀礼的、非実戦的とは言えないのでは?
接近しながらの騎射が大鎧相手の戦術として一番確実な攻略法だった可能性も否定できない。
まぁ効果は一騎打ち限定なのかも知れないが流鏑馬は武家としての嗜みだったのではないかな。
剣術家が巻藁斬るようなモンじゃね。

569 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:07:07
>>568
坂東初期の辺境軍事貴族⇒源宛と平良文の一騎打ち伝説(あくまで『今昔』)と
馬場で行われる流鏑馬とでは、似てるようでも実際は違うものでしょ?

・こんな感じか?【流鏑馬】
馬を真っすぐ走らせ、動かぬ的を射る。軽装。
動きとしては単純。当てれば良し、強弓も要求されない。
平坦な馬場だから足場も安心、天候もOK。
敵から反撃されない。
貴族や僧の娯楽も兼ねる。様式美が要求される。

・五味氏が述べる【東国武士団】
季節を問わず、昼夜の区別なく、悪所にも馬を踏み入れて合戦を行い
その日常は高度に訓練された戦士の生活であり、反面、西国の海戦には弱い。

実戦では大鎧を着用し、山など丘陵地でも多く行われる。
秩父・児玉・多摩・上野南部とか丘陵地は、特に武士団の密集地でしょ。
海に挟まれた三浦半島も、傾斜のきつい丘陵地だし。
足利忠綱に代表されるような河川・河原の戦も多い。
乱戦の中では一対一じゃない。他の敵に気を配らなきゃいけない。

普段から足場の悪い場所でも狩猟を行い、実戦の鍛錬とする。京じゃ無理。
殺生に対する罪悪感、当時の東国は薄かった。


西国は牛。
東=馬牧、農耕馬。
西=牛牧、農耕牛
近世の馬頭観音(石造物)も、長野・群馬・埼玉とか多い。

259 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50


read.cgi ver 05.04.09 2022/06/21 Walang Kapalit ★
FOX ★