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【江上】騎馬民族説は今。。。vol.4【波夫】

1 :日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:26:14
騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!                江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

☆過去スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11119593470689/
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.2【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1096735827/
http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120222213/
http://makimo.to/2ch/academy4_history/1120/1120222213.html


2 :日本@名無史さん:2005/12/30(金) 18:30:37
弐取り
糞スレがまた立った

3 :日本@名無史さん:2005/12/30(金) 20:05:33
43 :日本@名無史さん :2005/11/01(火) 00:11:48
山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響を
もっとも多く受けたものの一つですから、
それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで
受けつづけてきたところですから。
そういうことがあって、長州的思考法というのは
ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。

司馬遼太郎

4 :日本@名無史さん:2005/12/30(金) 23:54:53
>>1

また立てたのか!w

5 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:22:18
>>4
がいやまん
白馬青牛

6 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 09:46:26
新羅の金冠に勾玉があったり、
鐙に貼られた金銅透彫金具の下に玉虫の翅があったりする。
勾玉は縄文時代から日本で出土するし、
玉虫は列島固有の昆虫だ。
さらに12世紀とは言え、三国史記では新羅建国に倭人が関り、
4代目の王は倭人となっている。

騎馬民族説には何の文献的証拠もないが、
逆に新羅(倭系)半島統一説は文献も物証も揃ってる。

7 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 10:34:58
>>4
素人的にはどうも結論がよく分からんのよ。
はっきり決着つけて欲しいんだわ。
決定的な何かが出て来て欲しい。


8 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 11:23:11
>>7
結局、騎馬民族説を証明する文献はどこにもないけど、
古墳から出土する馬具等の圧倒的副葬品が証拠だったんだな。
江上さんはそれを、従来の副葬品と較べ、
戦闘的なものに「激変」と言ってた。

ただ、馬具に関しても、最近は詳細な研究が進み、
日本で発見される物は、
首長が権威を高める為の「威信財」であり、
実戦的でない事が判明してる。



9 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 12:16:46
白馬青牛だけだったよな
騎馬民族説の信者は

10 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 12:20:11
明確な証拠がないというのと
否定されたというのは別

11 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 13:28:45
http://www.momoso.net/JAA2004.html

http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012.html

12 :白馬青牛:2005/12/31(土) 16:20:20
>>6
北陸の玉作りは、縄文期まで遡るが、中国の江南の丸玉、勾玉状の
補修孔をもったものが出土しており、それが日本で最初に定着するのが
北陸。森浩一氏によると、北陸の越は江南の越から来た越人説。

新羅の4代目の王は倭人と言うんは、昔氏の脱解王の事であろう。
昔氏は、9、10、12、14、15代の王を出しとるが、ほとんど
金氏が王を出しておる。新羅の支配者文化は、スキタイ系古墳等の
北方系要素が強いが、倭人系も多かったろう。江上波夫氏も、甕棺が
北九州から南朝鮮の倭人がいた弁韓の地域に限られ、倭人の植民地で
あったろうとされる。松本清張氏の対談集、『謎の源流』から松本氏
「三雲遺跡から瑠璃壁が出ているので、北部九州は漢の直接支配地だった」
江上氏「やはり北九州が漢の直接支配地だったからですよ。」
まあ、倭人も植民地人であったわけで。『魏志』弁辰伝にも
「男女近倭」とあり、北部九州は、筑紫君磐井が新羅と手を結び大和王朝
から征伐を受けるなど、新羅地域と密着な関係であったようじゃ。

13 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:29:29
>>12
出たな妖怪

14 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:44:53
新羅アクセントは東京、山口山陰の物と同一っていうからな〜
どうしてもスサノオ族と被ってしまう。
無アクセント、崩壊アクセント地域が縄文地区で、
東京・山口山陰アクセントがスサノオ系の渡来人とみる方が自然。
緯線もそれと合致してる。

15 :日本@名無史さん:2005/12/31(土) 19:23:37
【鳥取】因幡の白ウサギの謎に挑む 鳥取大、伝承聞き取り調査
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1135758084/

54 名前: ◆3X1b8VAs/E [sage] 投稿日:2005/12/28(水) 18:03:05 ID:rDxh9Nj+0
出雲の方言でサメのことをワニという。
これは出雲一族が南方系だということを示す一つの傍証。
ちなみにベトナムに似たような話があり、並ばされたのは本物のワニ。

16 :日本@名無史さん:2006/01/01(日) 05:24:53
>>12
勾玉は三内丸山からも出てるよ。

17 :日本@名無史さん:2006/01/01(日) 07:04:14
854 :日本@名無史さん :2005/12/31(土) 09:02:47
皇室の祖地といわれる日向には海洋隼人特有の地下式横穴墳墓があるが、
これは半島の古伽耶に源流があるらしい。
どうやら伽耶で製鉄の利権を握ってたのは隼人なんだろう。
北九州を凌駕したい畿内勢力は、
製鉄の利権という目的で隼人に近づいたんだろう。
最後は神武天皇の「本籍」を日向に移すということまでして連帯を狙った。
で一応、成功。
が、隼人の中には逆らう者も出て、
これが後に「まつろわぬ者・熊襲」と呼ばれたんだろう。
彼らは筑紫の磐井の乱で磐井側に呼応してるしな。



18 :日本@名無史さん:2006/01/01(日) 08:03:47
教科書からも消えつつあるw

19 :日本@名無史さん:2006/01/01(日) 09:06:06

http://www.lifeinkorea.com/Images/Kyongju/Kyju664.jpg

新羅の金冠の「出」みたいな立ち飾りは、
メソポタミアがルーツといわれる「生命の樹」だよな。
どう解釈すればいいんだ?

20 :日本@名無史さん:2006/01/01(日) 09:19:03
>>12
森の説なんて古いよ。
三内丸山の勾玉はどう説明するんだ?

21 :白馬青牛:2006/01/01(日) 16:35:11
>>19
樹木信仰は、北方の遊牧民や狩猟民にも多い。
>>20
>12では、玦状耳飾がぬけとった。玦状耳飾の起源は江南説だけでなく、
満洲や沿海州説も無視できん。
三内丸山よりも、中国浙江省の河姆渡遺跡の玦、丸玉、勾玉状の補修孔の
方が紀元前6千年以上前で古いのではないか。

22 :日本@名無史さん:2006/01/01(日) 21:23:21
ルーツが河姆渡であれどこであれ、
伝わってから何千年も日本固有だったと言っていい勾玉が、
新羅の金冠にある。
そして金銅透彫金具の下に使われてる日本固有の昆虫、玉虫。
んで12世紀に書かれたとはいえ三国史記の倭人の王。

騎馬民族説より、
倭人半島統一説の方がよっぽど正しいな。

23 :日本@名無史さん:2006/01/01(日) 21:27:06
>>21
>勾玉状の補修孔
それって勾玉のルーツなのか?
たまたま勾玉に似てたんじゃないの?

24 :白馬青牛:2006/01/01(日) 23:10:58
>>22
あなたは、新羅の昔氏の末裔の韓国人?『魏志』倭人伝にあるよう、
倭人も「男生口四人女生口六人」と自国の奴隷を献上した漢人の隷属国で
漢人の植民地あったことに変わりないのであるが、何で倭人の衣を借りる
んか。『新唐書』日本伝にも、新羅が海路を塞いだので、日本の使者は、
明州、越州を経て朝貢した。『旧唐書』渤海靺鞨伝に渤海が日本国の
舞女十一人を方物として献上したよう日本は隷属売女外交をし、
平安期も一方的に新羅人に侵された日本よりも、余程活躍しとる。
海洋王国新羅人の末裔なら自国民が中国人に拉致される現状を改善した
真の愛国者、張保皐を誇りに思え。何で日本人に媚びるんか。
>>23
断定は出来んが、玦、玉作り技法や文化は、流入したと考える。

25 :22:2006/01/01(日) 23:29:32
>>24
なにをごちゃごちゃ言ってるんだ?
俺をあんたに絡んでるヤシと間違えてるのかもしれんが、
ここは騎馬民族説のスレなんで話をそらすな。
新羅の金冠に日本固有と言っていい勾玉があり、
同じ墓から日本列島固有の昆虫・玉虫が使われた透彫金具が出土してる。
で、三国史記の倭人王の文献…
けっこうこういう事を知らない人が多いんで、書いたまでだ。
自分の読んだ本の自慢をしたいんなら違うスレにいけ。



26 :22:2006/01/01(日) 23:52:01
あ、それと中国の正史もあんまり信じてねぇの、
岡田英弘が言うように。
1753年の明史日本伝なんて、山城守の信長だ、平秀吉なんて出てきて、
その酷さに笑えるから。
そんなアホな明史日本伝より1500年も前の魏志倭人伝や、
また新唐書日本伝、旧唐書渤海靺鞨伝なんてもっと酷いんじゃねえの?w

考古学の方が大事だよね。
まぁ文献なんて参考ていどのものだな。


27 :白馬青牛:2006/01/02(月) 00:24:46
>>25
昔氏のことを自慢したいんか知らんが、新羅は昔氏の歴史だけではない。
>話をそらす?スキタイ的な新羅の金冠が、青銅製冠の多い日本が
固有なら兎も角、勾玉だけを指摘しても、金冠全体を語ったことにならん。
弁辰地域の倭人のものを冠に付けただけのこと。
>自分の読んだ本を自慢?『魏書』や旧、新『唐書』等の記述は、
このスレに関係ないとでも?あなたがた、韓国人は『三国史記』や
『三国遺事』だけの文献で解釈するんか。それでは勾玉の例のように、
全体的に広い視点で検証する作業を放棄した事になると思えるが、
如何なものであろう。

28 :22:2006/01/02(月) 00:36:48
>>27
俺は韓国人じゃねえよw
チョンが大好きな騎馬民族説を否定する日本人だ。
レス見て分かるだろうが。

勝手に決め付けるおまえそっくりのアホが、
中華思想丸出しの中国のアホ正史を書いてきたんだろうな!www

29 :白馬青牛:2006/01/02(月) 00:39:30
>>26
ありゃ、岡田英弘信者じゃったんか。岡田氏の黄海、東シナ海の制海権を
持った漢人が東アジア国家形成に影響したとする説に賛成と言うことか。
それで他スレで岡田氏の魏晋人口減少説を唱えたんか。ふむ。それでは、
何故に日本語と漢語は文法、数詞が違うんか説明してもらおうかのう。

30 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 01:24:26
>>29
うざいんで22というコテやめるぞ。
君の欠点はすぐに人を「信者」と決め付ける事だな。
どんな人でもピリッと優れた意見を言ってる部分を尊重すればいいんだよ。
例えトンデモ学者でもね。

で、あんたは>>27で、
>勾玉だけを指摘しても、金冠全体を語ったことにならん。
などと言ってるけども、
俺は同時に出土した列島固有の玉虫の翅の事も言ってるだろうが。
玉虫はどうなんだ?
それと「参考程度」の三国史記の新羅王が倭人ということも言ってるんだが?


31 :白馬青牛:2006/01/02(月) 01:28:49
>>26
日本の文献資料も戦国時代の戦死者の数が正確ではなく、誇張しとる
であろう。中国の文献は出鱈目で文書輸入国の日本が正確と言う根拠は?
岡田英弘氏の中国近親憎悪も中華思想丸出しなんじゃが。
岡田氏の韓人まで漢語使用であったとか、余程中華文明に憧れが強いので
あろう。岡田氏は考古学的考察も薄いと思うが。まあ倭人が漢に
隷属したのは同意できるとして、韓人は違うようじゃ。『魏志』にも
帯方郡が韓を併せようとした事に韓人が反乱を起こしておる。
それについて江上波夫氏は、
「(倭人は)漢の属国になって、壁とか鏡とかもらって喜んだ。
楽浪、帯方も漢が植民地として漢人を住まわせ彼らの間には漢文化が
存在した。その付近に韓人には、その文化が受け入れられていない。
彼らは別に特別な文化をもっていたようです。」とされる。
朝鮮半島に北方民族が国家形成出来たのも、韓人の漢に対する反発と
韓人現地民の協力によると思う。「現地民の協力」がないと事は進まん。
単純な武力征服では無いと思う。

32 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 01:49:05
>31
>まあ倭人が漢に 隷属したのは同意できるとして

どの程度根拠のある話なのですか?


33 :白馬青牛:2006/01/02(月) 01:51:13
>>30
どうも全体論より矮小化して考えるようじゃのう。勾玉や玉虫より
シンボルである金冠が重要であろう。
ほいで新羅三氏の昔氏のことだけ強調してもねえ。
大部分の王を出した金氏や朴氏に比べて勢力が強かったと言う根拠が
あればの話であろう。

34 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 01:54:20
北部九州は漢に征服されていた、では北部九州の渡来人は
何系なのだろ?
そして邪馬台国とはどこにあったのでしょう

35 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 02:04:59
だから文献(およびそれに連なる説)なんてどうでもいいんだよ。
明史日本伝の大笑いの「平秀吉」以前の説だし。w
だいたいこんなもの参考程度なんだからね。

で聞きたいが、
なんで新羅の王が列島固有の玉虫の翅を透彫金具を使ってたんだ?
玉虫の翅の美しさを知ってた人物(倭人)が、
金細工が上手いスキタイ系の工人に作らせたと考えた方が楽だろう?



36 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 02:20:14
>>35
×玉虫の翅を透彫金具を使ってたんだ
○玉虫の翅を透彫金具に使ってたんだ


37 :白馬青牛:2006/01/02(月) 02:34:57
>>32
>12、24にも書いた通り。隷属と言わずして他に解釈出来ません。
歴史的に日本が中国と対等意識を持つのは近世からでしょう。
それと倭人の甕棺も華北に起源がありますが、倭人江南説の江上波夫氏は
華南の可能性もあるとされておられるが、松本清張氏は、江上氏との
対談で甕棺なり支石墓は漢人が残したとされ、江上氏は、朝鮮西海岸に
多い支石墓は韓人系、甕棺は倭人系とされる。
形質人類学的に北九州の甕棺の方は、高顔弥生型で中国の山東人に近く、
西九州の支石墓は低顔縄文形質が強い。朝鮮南部の遺跡では高顔、低顔の
両者が存在する。西九州と朝鮮西海岸は歴史的にも、倭寇で協力する等
類似する。甕棺も朝鮮東南部と北九州の共通点もあるが、形質から
倭人を支配した漢人説も考えられる。中頭の甕棺の土井ヶ浜人種と
短頭化した近畿古墳人は別集団であったとする金関丈夫説もあり、
古墳期は漢人ではないと考えておるのですが・・・。

38 :白馬青牛:2006/01/02(月) 02:55:26
>>35
何度も同じことを言うのう。
文献が全て虚構であれば、日本史も否定することにならんか。
まあ『明史』より『魏志』の方が漢人が支配地の倭人について書いて
おるんで、信憑性が強いとも解釈出来るよのう。
あらゆる検証から総合的・全体的に解釈せい言うとるんで。
どうも視野が狭いのう。
多民族国家の新羅に色んな文化があって当然のことじゃ。

39 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 09:35:56
>文献が全て虚構であれば、日本史も否定することにならんか。

おまえはバカか。
全て虚構なんていつ言った?
参考程度って何度も言ってるだろうが。

40 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 10:02:54
「瓢公」という人物がおりました。
「瓢」という苗字ですが、彼は新羅第一代の王赫居世の時、新羅に遣ってきた。
そのとき腰に瓢をくくりつけていたので「瓢公」と呼ばれた。
こう呼ばれた「瓢公」という人は、元「倭人」である。
彼は二代から四代に渡って新羅の王に仕えた。
国の実力ナンバー1というか、王の後ろのほんとうの王みたいな人で、
実力をふるって新羅という国を作り上げた。
そういう人物が瓢公である。
 さらに不思議なことは、新羅の初代の王である赫居世と言われる人物についても書いてある。
彼は「朴」を姓として名乗ったと書いてある。
朴というのは韓国の朴大統領の姓と同じです。
それを表せば瓢の事であるから、漢字で「朴」という姓を名乗った。
ですから初代自身も倭人と深い関係がある。
瓢は倭人とたいへん関係がある。
だから新羅という国は、初代の王の赫居世といい、脱解王といい、瓢公といい、
何か倭人と関係が深い感じである

古田武彦

41 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 11:43:51
12世紀に書かれた三国史記だが、
日本人を忌み嫌う今の韓国人の精神性が、
すでに見られ始めるこの時期においてさえ、
倭人の王や建国に関わる瓢公の事が書かれてる。

さすがにこれだけは打ち消せない事実となってたんだろうな。
そういう意味では逆に信頼できるなw

42 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:16:22
>>8
>日本で発見される物は、 首長が権威を高める為の「威信財」であり、
>実戦的でない事が判明してる。

例えば馬兜の、どこが実戦的でないのか?
たしかに任那のより洗練されているが、洗練されているのと実戦的でないのは
違う。源平時代の鎧など洗練の極みだが、実戦に使われたではないか。

それと、実戦的でないから馬が実戦に使われなかった、と言いたいのだろうが、
5世紀には列島各地に王朝直営と見られる大規模馬牧場ができている。
これは農業用だったと言いたいのか?

43 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:21:05
北部九州の渡来人は北方系だが西南朝鮮で土着化した一族ではなかろうか?
漢の使節がみた博多近辺の
倭人の風俗は極めて南方的である。馬に
ついての記述はないのですが、福岡中部筑紫野小郡近辺の弥生人の遺跡では
馬を埋葬していた形跡がある、さらに朝鮮の遺物がこの地域から出土する
ことから博多近辺の倭人が朝鮮南西部にいた北方騎馬系を起源とする
棄民を受け入れ当時の過疎地筑紫野小郡北部近辺に移住させたんではないか?
しかし、どうやらこの小郡近辺も南部小郡駅の付近になると旧石器時代の
遺跡などが主流になるようです。
おそらく筑紫野と接する小郡北部を北限として朝鮮の棄民を受け入れたのでは
ないかと思われる。


44 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:29:25
そして筑紫野、小郡三沢三国地域は戦後開発が進んだ地域でこのあたりは
律令時代江戸明治大正と原野だった地域です。
この地域に集中的に朝鮮の北方棄民を住まわせたと考える。
しかし、この範囲が比較的小さかったことから
古墳時代の福岡南部筑後地方は全国平均でみても縄文形質を
より残すことになる。これは比較的狭い地域であったせいで
他の筑後地方の縄文人との混血が進んだからと思われる。
筑紫野小郡三国地域は近年急速にニュータウン化が進み
原野が開拓されその折りに遺跡の発掘がされています。
小郡三国の南は江戸時代より前に開けた地域で
開発が遅れていて、発掘があまり進んでいません。
近年になってやっと小郡官営遺跡が発掘されたほど開発・発掘が
進まない地域となっています。


45 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:37:42
魏志東夷伝、韓人(辰韓近辺)の節にもやはりこの馬を埋めるだけで
乗馬を知らない北方系とおぼしき人たちが登場します。
おそらく、筑紫野小郡三国地域の移住した彼らと同系の人だったと
思います。
漢人使節がみた博多近辺の倭人の風習ではこのようなものは見られません。
おそらく、彼ら博多近辺の先住民が半島南部の棄民の移住をサポートし
たのでしょう。過疎地筑紫野・小郡三国に住まわせたのです。

しかし古墳時代の人骨を見ますと、眼窩の深さ、顔の高さなどから
筑前豊前の方が南部筑後よりも北方的形質をより残すことになります。

これは、筑前豊前で均質的に北方系が入ったのに対し、南部筑後では
小郡三国近辺が北限で限定的であった為です。

46 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:41:20
筑紫野小郡三国に移住した北方系は出自こそ騎馬系であるかもしれませんが
騎馬の技術はもちません。彼らは極めて弱い立場にいる。
難民という立場であったと思われます。
福岡の主導権はまだ博多近辺の先住系の倭人にあったことが伺える。
そして北西九州は縄文人の形質の強い地域であるので九州全土の主導権を
北方系が取ることなど到底不可能であった。


47 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:47:45
彼ら北部九州の北方系出自の渡来人は日本どころか九州、北部九州の
主導権さえとることは出来なかったと考えるべきです。

後の日本の主導権を握る渡来人は土井が浜、吉母に到着する
北部九州を経由しない半島北部か山東遼東から直接入った渡来人でしょう。
彼らは出雲地方にもっとも多く渡来しています。


48 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:49:00
新羅が高句麗同様に多種族国家なのは当然のこと。
一つの概念にとらわれるなってこと!
いろんな文化がはいるわけだから・・・

49 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:51:50
出雲人は古代トルコ系白狄族の一派との説もある。
彼らは鉄鍛冶を生業として、白衣装を好んだらしい。

50 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:54:08
出雲、土井が浜地方に入る渡来人は北部九州を経由しておりません。
彼らは直接ダイレクトに渡来していると考えるのが自然。

彼らは北部九州の渡来人とは異なりこの地域の主導権を掌握しました。
そして古墳時代以降、関東東北に大量の渡来人を送り込み。
北部九州以上に渡来系質を残してしまうほど渡来人を送り込んだ
出雲族であろうと思われます。

出雲、東北関東の渡来人の特徴は極度に眼窩の突出があることが
最大の特徴となります。
彼らの渡来形質は北部九州を凌駕します。
北部九州は西九州、筑後の縄文形質と混じり
比較的古モンゴロイド形質を残すなりました。



51 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 15:13:39
ハッキリ言って。北部九州の遺跡発掘はほとんど進んでいない。
近年になってやっと久留米地区の縄文遺跡が発掘されつつあり
北部九州の古代像が明らかになりつつあるようですが、まだまだ
だと思う。律令制の主要都市小郡の官営遺跡さえ昭和50年代になってやっと
みつかってます。その近辺にあった井戸(官営施設の井戸)は
この官営遺跡の前に発掘されていた為、「長者の泉」と名付けられている。
(この地域に相当な大金持ちがいてその長者が使っていた泉だろうと
いうことから名付けられた)しかしこの後官営遺跡、縄文時代遺跡と
みつかったので官営施設の水源であったろうということが判明しました。


52 :がいやまん:2006/01/02(月) 16:04:36
>>49
>古代トルコ系白狄族
楯筑遺跡中円双方墳、月型石、神面などがトルコ的だが、田和山遺跡の
頂上に半月状の壇があったりするから、出雲から吉備に向かったのかな。

53 :白馬青牛:2006/01/02(月) 16:10:58
>>394041
嫌韓低脳君に馬鹿といわれてもねえ。
朴氏の始祖赫居世神話から「南山のふもとに稲妻が走り、一頭の白馬が
ひざまずいて、いなないていた。そこに一個の紫色の卵があった。
卵を割ると童子が現れた。天子が天から降ったというので、六村の人は
その王后を求めようとすると鶏龍が現れ、左の脇から童女が生まれた。
この二人の聖人は王と王后となった。」稲妻が走り、白馬とあるのは、
北方民族の感生説話的で、馬や天子降臨モチーフも北方アジア系であろう。
鶏龍の王后は水神の娘と見られ東南アジア系の水神信仰か。
ちなみに昔氏のそれは、倭国の東北一千里に多婆那国から箱船にのせ
海に棄てられた小児が辰韓で拾われ脱解王となるのは、箱船漂流、
水神信仰で、東南アジア太平洋系の要素。神話類型でも多民族性を
表しておる。
>日本を忌み嫌う今の韓国人の精神性がすでに見られ始めるこの時期に
おいて?12世紀頃そのような事実があったんか。また妄想か。
少し前の11世紀に刀伊に拉致された日本人が高麗に救出されたことも
あったのう。嫌韓や政治思想で歴史を捉えるんは、共産主義史観の影響
かも知れんのう。可哀想に洗脳されて。

54 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 16:12:39
近畿の形質が違うのは近畿にはまた別の種族が入ったということなのか
それとも、いわゆる上流階級と形質が違っていたせいだろうか。

55 :がいやまん:2006/01/02(月) 17:10:03
あ、白馬青年さん、おめでとうございます。
ちょっと出かけるところなんで。じゃ、また、今年もよろしくおねがいします。

56 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 18:43:14
>>53
三国史記・巻38・官職(上)に
「新羅の官職名は時代によって変わり、その名はいろいろある。
それには中国のものと夷言(倭人の言葉)によるものとが混じっている。
侍中、郎中は中国・唐の官命で意味はわかるが、
伊伐しょく・伊しょくは夷人の言葉で、
何を意味してるか分からない。」と書かれてる。
で、新羅の36代景徳王は倭人的官職名の他に、
761年に地名も変えるという事をしてるんだ。
地名にも倭の影響が残ってたから。
新羅がいかに倭の影響が残ってたかがわかるね。
でね、神話の事を言われてもね。
レヴィ・ストロースの研究でもわかるように、
A族とB族が接触した時に、B族がA族の神話を、
自分たちの昔からの神話のように語り始める場合があるからね。
あんまりあてにはならないよ。


57 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 19:04:30
>>48
あの時代に実戦があった痕跡があるのか?

穴沢和光・馬目順一「武器・武具と馬具」
「金ピカ文化の伝播と受容の過程は、
およそつぎのようなコースをたどったものと推測される。
まず少数の精巧な品が舶載され、
大王宮廷や大陸にコネのある有力な地方首長などの限られたエリートの威信財として歓迎される。
つぎに主に畿内に定住した渡来工人やその技術を模倣した土着の倭人の工房で
舶載品のコピー生産が開始される。…・」(p187)

で馬具革命は
@鏡板及び引手付き轡の出現(三世紀ごろ)、鐙の考案(四世紀初頭)
A鐙が左右に吊される(五世紀前半)
B後輪傾斜鞍の出現(六世紀初頭)の3段階

58 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 19:06:54
間違い、すまん。
57は>>42へのレス。

59 :日本@名無史さん:2006/01/02(月) 19:34:56
つ〜か、俺たちは学者じゃないんだからさ。
馬具の研究とかしてる学者で、
江上の言う事を肯定してる人なんているのか?
その人の本を読んでみたいんで紹介してちょ!

60 :白馬青牛:2006/01/02(月) 23:35:37
>>55
がいやまんさん。明けましておめでとうございます。
新年から百薬の長におぼれておりましたので、愛想の無い事でした。
酔い覚ましの中ですが、こちらこそ今年もよろしく願います。

61 :白馬青牛:2006/01/03(火) 01:04:04
>>56
レヴィ=ストロース氏が、新羅神話において日本神話の影響に言及
したんか?また日本神話のスサノヲの命の話をアメリカ原住民型と
するんは、性質特徴からであろう。
神話を否定することは、我が日本国、日本民族の根源を否定と言う
ことか?残念じゃが、同意出来ん。嫌韓人は、朝鮮を否定する為には、
何でもよく、我が日本民族、伝統文化まで貶める。日本人の行動様式は、
吉田敦彦氏が指摘されたよう日本神話の類型にあると思う。なにがあてに
ならんのか?わしは、縄文期から神話成立の時代まで日本神話に影響を
与えた、諸民族に感謝したい。また北方民族の思想も(がいやまんさんの
いわれる匈奴思想と関連するかは解らりませんが神話北方類型や大乗仏教。
(東南アジアの小乗仏教と違い、中央アジアの月氏的遊牧民思想。)
我々は中華思想の子でなく、(朝鮮半島と違う運命を辿る)近世において
中華の属国から抜け出し、日本文明を築けたのも、古くは匈奴的思想に
原型があると思う。それ故北方民族は、我が国・日本民族に多大な
恩恵を与えたと考えとる。

62 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 01:37:04
>>61
おっさん酔っ払ってるな?w
まぁ俺も酔っ払ってるがw

神話類型なんて危険だというだけの話。
これも参考程度だな。

で、三国史記の倭的官職名および地名変更についてはどうだ?
勾玉、玉虫、新羅建国における倭人の活躍、んで官職名や地名まで倭系…
新羅(倭人王)半島統一説のほうが、騎馬民族征服王朝説より信憑性あるだろうが?


63 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 10:38:49
>>57
>あの時代に実戦があった痕跡があるのか?

「痕跡」がなければ実戦はなかったのか?
倭と任那の関係が生じるには、日本書紀が言うとおり4世紀中葉には倭が半島南部に
進出していなければならないし、少なくとも4世紀末に広開土王軍と倭軍との戦いが
あったのは確実ではないか。
列島内部は別として、列島と半島をひっくるめて見れば4世紀から6世紀までは
連続する戦いの時代だった。
そして列島の大規模馬牧場はそれと軌を一にして現れるのだ。

64 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:01:38
>63
日本での馬の生産は急務だったでしょうね。
馬具に関しても、日本で生産された物を半島に輸出したりしてるみたいですね。

65 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:19:44
http://www.momoso.net/JAA2005.html
古墳時代の軍事革命。

なにやら議論してた「東国」という考古学的概念の事も語ってるし面白いよ。

66 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:52:34
おそらく、出雲が東国古墳時代人の入国管理センターみたいな
感じになっていたんでしょう。出雲人自身の出自から
半島騎馬民族とのツテを通じネットワークを屈しして
人材を集めた。東国古墳時代時は出雲人と半島の出自を同じくするが
出雲人とはいえない(出雲に長期間滞在していない)
半島から出雲入国管理センターで日本風の苗字を付けられそのままダイレクトに
東国の軍事拠点に派遣させられた。

67 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 13:07:40
無アクセントとアクセントの強い地域はどうしても意思の疎通が
困難になりがちだよな。
アクセントの強う地域の人にしてみれば無アクセントは
棒読みみたいでやる気なさそうに感じるらしいし、
逆に無アクセントの地域の人にしてみればアクセントの強い
地域の人の話は耳につく。

68 :白馬青牛:2006/01/03(火) 14:17:07
>>62
自分に都合が悪うなると参考程度かいの。同じことの繰り返しじゃのう。
三国史記の倭的官職名とは何か。大舎、舎知等の官職名や旧官職の
大奈麻が倭的?地名についても具体的に言わにゃァのう。
倭人半島統一説は、全体論として根拠に薄いのう。

69 :白馬青牛:2006/01/03(火) 15:19:15
>>65
どうも考古学協会の意見は、疑問が多い。
3「軍事革命」で、長弓の用法は、エドワード2世以前のエドワード1世が
ウェイルズ出征の際、苦戦した経験から採用した。スコットランド
諸部隊がイングランドを荒らした時も、馬に乗った歩兵であり、戦闘に
際しては馬から下りた。軍事変革を強調したい余りの観もある。
4「東国の成立と軍事革命」でも、
倭軍主力が重装弓兵であった?どのような根拠から断定されとるんか。
後世の日本戦闘からの推測ではないんか。重装騎兵の弱点も書かず、
高句麗に対し負け惜しみの感情論となっとる。東国を強調する為、
筑紫の馬、日向の駒は無視か。
5「日本古代国家の成立と軍事革命」に至っては、敗戦を成功とすり替え
東国史観丸出しとなれり。
いやはや笑わして貰うたが、目糞鼻糞を言うたらきりが無い。
アジアの騎馬民族や漢人の戦闘形態は、比較せず西洋を持ってきて
語るとは、西洋事大の関東史観。

70 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 17:37:15
>>69
>どうも考古学協会の意見は、疑問が多い。
君の意見が疑問だらけだ。
2ちゃんですら誰も賛同しない妄想意見。
広島史観。

71 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 18:27:43
竜山文化はその名の通りトーテムを龍とした文化。
BC2000〜BC1500年の頃の文化
後期には殷がおき、鼎(かなえ)、青銅器、灰釉陶や印文硬陶、甲骨文字、漢字
など中国文明の基礎が作られる。紀元前1500年頃の大昔のこと。
日本は縄文時代まっただ中、新モンゴロイドの骨は発見されていない。

このウチ、三世紀の倭人伝をみるに竜山、殷の影響はせいぜい
骨の占い以外に見られない。それも骨占いは
極東アジア全体の文化で竜山固有のものではない。
北部九州の渡来人が山東人そのものであった可能性は極めて低い
ただ遺伝的にこの近辺の特徴を兼ね備えていたことは確かである。
俺は、キョウド、犬戎(けんじゅう)系の北方騎馬民の棄民、亡民で
半島西南部で細々暮らしていた人たちだと考える。

しかし日本本土の渡来人は出雲系で全く別の出自をもっている。
彼らは高句麗北の白狄の後裔である。

72 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:06:13
>>69
あんたなぁ。
こんなとこで偉そうに言ってるんなら、
ここで岡安さんに質問してみれや。w
http://www.momoso.net/BBS-log/200-299.htm

2ちゃんなんかで偉そうに言ってるやつなんて、
ボコボコにやられちゃうぞw

73 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:12:56
いいじゃないですか、2chは大衆向けで分かりやすくなければ
なりません。

74 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:32:45
>>69
東国の定義については反論しないんだね。
君こそ負け惜しみの感情論だね。

75 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 20:08:00
古墳時代の出雲系は主に傭兵、人材スカウト、開拓
などを目的として連れてこられたように思う。
白狄の後裔

一方、弥生期の北部九州系は政治亡命か移住という形じゃないかな。
僻地にばかり移住して主導的立場にいないのは明白だから。
扶余なのか扶余に従属的な立場にいた犬戎、匈奴系なのかはわからない。

76 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 20:11:16
ただ、断っておきますが、物部(出雲)、幡氏(八幡、戸畑、宇佐)
はこれとは違う渡来氏族です。

77 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 22:00:50
>59が良いこと言った。
馬具の詳細な研究してる学者で、
江上説の支持者なんているのかな?

78 :日本@名無史さん:2006/01/03(火) 22:01:28
どうしてもわからないのが近畿のみ短頭になってしまったこと。
眼底の突出とかは近畿よりも関東東北が高くなってるようですが・・

東北関東系と近畿の渡来系は別の系統なんだろうか

それと、
北部九州の稲作と山東の稲作が共有された時、同時に鹿骨占いが
山東と九州北部共有されたと思う。
これは後の本格的な扶余?、匈奴系?半島の渡来人の存在より
ずっと前のことだと思う。


79 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:01:08
>>68
>倭人半島統一説は、全体論として根拠に薄いのう。

新羅の建国に倭人が関わってるという事は、
お隣の国の正史なんですが?


80 :白馬青牛:2006/01/04(水) 00:06:58
>>70
>疑問と思える部分について言えいや。誰の賛同も求めとらんが、
わりゃは、自分の意見に人の賛同を必要とするんか。人を頼る根性が気に
入らん。わりゃは、おどれが他人と込み合うとることも人頼みか。
>>72
岡安氏の方が、騎馬民族説について議論することを逃げとるんで。
岡安氏の検索しとるんなら解ろう。岡安氏が不満があるんなら、学者の
権威とやらを言い訳や考慮せず、ここへ来りゃあええことじゃ。
岡安氏が腹をくくってここへ来る性根があるかどうかは知らんが。
ほいで何じゃわりゃ。ヘボ学者の権威を借りてボコボコにやられるじゃァ
わしにものを言うとるが、おどれ自身の意見を言えいや。つまらん。
他人の意見や権威を借りて物申すな。奴隷根性はもつなや。
>>74
ほいじゃ、われの意見で東国の定義を言うてみいや。
われこそ負け惜しみの関東奴隷根性で物を言うな。

81 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:11:28
>>80
>岡安氏の方が、騎馬民族説について議論することを逃げとるんで。

いつ逃げてるのか言え。
岡安さんは成立の余地はないと言ってる。
あんたさぁ。
馬具の編年について詳細に語れるのか?
語れない人間が、語れる人間に何を偉そうに言ってるんだ?

82 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:11:49
口慎みましょうよ。

83 :白馬青牛:2006/01/04(水) 00:13:02
>>79
何でお隣の国の承認がいるんか?韓国に事大しとるんか?
ほう、朝鮮人の奴隷になったんか?お目出たいのう。

84 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:15:35
>>80
>ここへ来りゃあええことじゃ。

何でこんなとこに来るんだ?www
お前が行けよ、もみじ饅頭野郎!

85 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:16:21
あんまり、ちいさな事でからむのはいくない。

86 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:17:10
>>80
馬鹿すぎてワロタワロタwww

87 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:17:54
>>84
キミ、いろんな人にからんでるだろ?、スレあれるからキミがどっかいけ

88 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:18:54
>>87
名物おじさんだからね

89 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:19:26
失敬
名物おじいさん

90 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:20:20
>>白馬青牛おっさん
>何でお隣の国の承認がいるんか?韓国に事大しとるんか?
>ほう、朝鮮人の奴隷になったんか?お目出たいのう。

何言ってるんだ?w
三国史記は一応、韓国の正史だよね?



91 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:20:43
多少煽られてもスルーしとけばいいのに

92 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 00:52:20
邪馬台国近畿説の人ではないか

93 :白馬青牛:2006/01/04(水) 01:26:06
http://www.momoso.net/BBS-log/100-199.htem
No147なぜ「騎馬民族論争」が歓迎されないか
で岡安光彦の言は全体的に人を馬鹿にした文章じゃが、「そんな暇ねーや」
や「騎馬民族は来たって来なかってどっちでもいい、と思ってます」
と逃げておらんのか。全体的に専門家態度という狭い視野で考えて
おられるようじゃのう。


94 :白馬青牛:2006/01/04(水) 01:29:48
http://www.momoso.net/BBS-log/100-199.htm
じゃったかのう。

95 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 08:20:04
>>93
前後の文脈を省略する共同通信記者みたいな事はするな。

岡安氏は、
「物理的に無理。お説が正しいかどうか、
仰っている内容の成否を一つ一つ考古学的に検証するには、
実にエライ手間隙がかかります。
もし考古学の専門家として答えるためには、
そうとうな時間とエネルギーが必要です。
明日までに答えろ、ったってそれは無理というもの。
誠実な研究者ほど、直ぐには簡単には答えられない。
 この掲示板におけるやりとりを見ておられればわかるように、
私たち研究者は、さまざまな小さな事実や論理を、
さながらレンガを一個一個積み上げたり、
またそれを壊して積み上げなおすようにしながら、
「通説」や「定説」を構築することに努力しているのであって、
構築するのもそれを否定するのも簡単ではない。」
と言ってる。

96 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 08:23:52
>>93
>全体的に人を馬鹿にした文章じゃが

お前が言うな。


97 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 11:10:25
97

98 :白馬青牛:2006/01/04(水) 22:49:54
>>95
その専門家意識がねえ。そもそも岡安氏の「そんな暇がねーや」も、
おかしい。西洋では、学者とは「暇」から来とる言葉じゃそうじゃが、
学問とは、暇人の遊びや道楽じゃないんかのう。
江上波夫氏は、
「遊びで勉強するっていうと、いまの人は不真面目に思うものね。
刻苦勉励するんだから。だから他のことはせずに勉強することを
教えられちゃうんです。学校時代から。もっぱら研究室に通ってさ。
だからわざわざ狭くしちゃうわけです。
それで、解るものが解らないことになるんです。少し見聞を広くして
おいたら、読んだらすぐに解るものは解る。文字面だけで解釈するから、
えらい難しいものになっちゃうんですよ。」と専門馬鹿の大量生産を
嘆かれておられたのであろう。

99 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 23:04:54
青牛さんはどうも余計な事いうのが好きなようですね。(独り言)

100 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 23:20:43
TK209期がどうこうなんて専門家にしか分からないけどな。
専門馬鹿言われようが、考古学者のコツコツ地味な研究の積み重ねで、
馬具や武具の編年ができたみたいだしなぁ。
江上さんの時代にはなかったものだからね。
そういう研究の結果、江上説を否定する学者が多いのは皮肉な結果だし、
元江上ファンとしては寂しいがな。
江上説を引き継いでいると辛うじて言えなくもない桃崎祐輔氏でさえ、
「いくつかの骨子自体は、決して荒唐無稽の怪説なのではない。
問題はそれが征服王朝論の傍証資料へと飛躍する点である。」
と江上説を評してる。



101 :がいやまん:2006/01/05(木) 10:10:15
スキタイ・匈奴で有名な騎馬文化時代に流動性をもってきた北アジアの民族、文化、
言語、墓制などの大陸から日本への移動という風に議論の枠組みを拡大してはどう
か。そもそも倭という民族名が山海経時代から金印時代にかけ移動、倭人伝では
ついに奈良県にまでに達した感がある。江上説は応神に絞ったのだろうが、倭人
以前からも騎馬文化を経験した文化の流入はあり、さらにそれ以前に到来している
騎馬文化より前の方形周溝墓、銅鐸等の大地崇拝文化もあるのではなかろうか。


102 :日本@名無史さん:2006/01/05(木) 13:23:55
>>100
そう言えば金海(金官の故地)の北方式の王墓の資料も、江上説が世に出て、その後
「否定」された時代にはなかったな。
韓国の申敬チョル教授という専門馬鹿がこつこつ研究して、土器の編年をやった結果、
任那の騎馬化が従来のような4世紀後半、高句麗の影響によるものではなく、すでに
3世紀末に起こっていることが証明されたのだった。
申教授にかかると、任那の北方化が「文化受容」だなどと当たり障りのないことを言う
お役所的な日本の学者連中は素人扱いだ。

103 :日本@名無史さん:2006/01/05(木) 16:19:05
>>102
ただ、あの人は「日本列島系土器」の流入について、これが加耶建設の時期とするならば、
「日本列島各地から加耶建設に動員された倭人集団」の存在なん言ってるからなぁ…
ちと強引だし無理がない?w

104 :日本@名無史さん:2006/01/05(木) 17:02:02
>>103
その説は始めて聞いたが、まあ申教授も韓国の民族主義と無縁ではないからね。
ただ、その説は「伽耶の北方化は扶余の南下・征服による」という、申教授の学説の
核心とは無関係だ。

105 :日本@名無史さん:2006/01/05(木) 19:07:18
  洛東江下流域の伽耶には、
四世紀代に北方遊牧民族系の文物をもつ「金海型木槨墓」が現れ、
この時から人及び馬・鳥を犠牲として殉葬する習俗が現れる、
と申敬慶星大学校助教授が記述する*21。
大型の「金海型木槨墓」(王族墓)の場合、
主人公の左右に各々二〜三人が殉葬されていた。
なお、申敬氏は、文献に殉葬の習俗が記述されている韓国人関連種族は扶餘だけとして、
扶餘文化の南下に関係ありとみるが、
その文献(『三国志』扶餘伝)では、「棺があるが、槨はない」と記されるので、
あるいは扶餘以外の種族が関与したことも考えられる
(ただし、『晋書』扶餘国伝では、殉葬記事に槨は作るが棺は用いない、とも記す)。
伽耶の木槨墓の時代には、日本的な遺物も出ること、
殉葬習俗が南方の洛東江下流域から北へ新羅慶州に向かって拡がっていることに留意しておきたい。

106 :日本@名無史さん:2006/01/05(木) 20:21:44
>>104
申教授って任那を支配したと思われる夫余系の
日本征服説には懐疑的じゃなかったの?

107 :日本@名無史さん:2006/01/05(木) 21:31:45
>>105
>その文献(『三国志』扶餘伝)では、「棺があるが、槨はない」と記されるので、

三国志扶余伝は「有郭無棺」すなわち「郭があるが棺はない」だぞ。
つまり金海型木郭墓と同じ。

>>106
>申教授って任那を支配したと思われる夫余系の日本征服説には懐疑的じゃなかったの?

その通り。日本にはまだ木郭墓がみつかっていないことを理由にして「判断保留」している。
しかし一方で、江上説は伽耶までなら成り立つとも言っている。
江上説は簡単に言えば「扶余が任那を征服し、次いで日本を征服した」ということなのだから、
江上説は「否定された」のではなく、「その半分までは証明された」と言うべきなのだ。
残りの半分が問題ではあるけどね。



108 :白馬青牛:2006/01/06(金) 00:08:46
>>100
編年と言うても、それはサンプルの一種に過ぎんよ。最新の科学で
あろうと記録や出土品で残るのは、ごく一部に過ぎんわけで。
記録や出土品からどう判断するかが重要であろう。

わしが>65の日本考古学協会の要旨を馬鹿にしたのもその思考方法に
ある。まず倭の戦闘が重装弓兵と前提条件を付け、高句麗の主力も
重装騎兵と決め付けておる。そして前提条件は根拠に乏しく、前提条件の
倭の長弓兵が有効であったとしたいが為、英国の中世の戦闘を持って来て、
その戦闘技術変容に重点を置いてマルクス、ランケ等の発展段階説で
捉えておる。全体的文章から結局、日本は、唐の朝貢国家であるのに、
偏狭ナショナリズムによる言い訳で、韓国の学者の偏狭ナショナリズムと
たいして変わらん。まあ学問より、近代政治思想の方を重要視するんじゃ
ろう。これらの人達が隠蔽、捏造を出来るだけせん様に願いたいもんじゃ。

109 :日本@名無史さん:2006/01/06(金) 00:14:12
>>107
つまり「半騎馬民族説」ってわけだね?w

110 :日本@名無史さん:2006/01/06(金) 00:21:30
>>108
 >まず倭の戦闘が重装弓兵と前提条件を付け

条件なんかじゃなく、物証として証明されてるからでしょうが。
岡安氏が言うように、
「古墳時代の倭軍の主力は一貫して弓兵である。
このことは古墳時代後期〜末期の最下級の兵士の武装が、
大刀ではなく弓であることからも読み取れる。」
とあるように。

111 :白馬青牛:2006/01/06(金) 02:09:21
>>110
物証のサンプルで読み取れるだけじゃ根拠に薄い。じゃけえ、出土品と
戦闘が一致するかどうか。白兵の接近戦ともなれば、弓より矛であろう。
『北史』倭人伝にも、弓矢・弩と共に矟(ほこ)や小型の矛も使用すると
ある。重装騎兵の弓隊主体で戦闘出来るんか。騎馬民族の戦闘形態である
軽装騎兵による迂回作戦や、重装騎兵による近距離矛隊も必要となろう。
その布陣についても考慮せず、騎馬民族とお隣さんで、影響を受けた
高句麗相手に、日本の後世の私闘が如く、名乗りを挙げて重装弓騎兵や
弓隊主体で出陣したとでも言いたいんか。白兵戦においても高句麗歩兵
矛隊と対抗する為には、歩兵矛隊が必要となろう。戦闘形態や配備、運用に
ついても考慮せんといけんじゃろう。

112 :日本@名無史さん:2006/01/06(金) 09:20:07
>物証のサンプルで読み取れるだけじゃ根拠に薄い


「倭軍の第二次RMAの開始とともに古墳時代後期が始まる。TK47とMT15の境界期、
倭軍は弓兵の重装甲化を一気に停止し、主要装備から鉄製甲冑と剣を廃止した。」

こういったTK47とMT15なんて言われる「期」は、
それなりの数の出土品があるから編年に組み込まれてるのは当然でしょう。
どこが根拠に薄いのかな?
あなたはそれでもまだ明史日本伝(誰かも笑ってたが)以前の、
『北史』倭人伝の記述でどうこう言われるわけかな?





113 :日本@名無史さん:2006/01/06(金) 09:46:59
>>107
前漢の武帝時代(約二千百年前)の諸候の墓が竪穴木郭墓だから、
任那を征服したのはその末裔かもね。
申教授が>105にあるように「韓国人関連種族は扶餘だけ」としてるところに
偏狭さを感じるけど。


114 :日本@名無史さん:2006/01/06(金) 14:00:04
>>113
どうも、「木郭墓」ということだけを捉える向きが多いようだが、申教授の
考証はそんな大ざっぱなものではない。

金海大成洞遺跡の木郭墓は、平面形が殉葬に対応していること、棺がないこと、
木郭が四隅に丸太の杭を打ち、その間を横積みした丸太で埋める構造である
こと、などが北方系ないし扶余系の特徴とされるのである。
もちろん、副葬品にも北方系の特徴はある。

これに対して、それ以前に大成洞に行われた狗耶韓国の王墓は、平面形が
一人用であること、木の板を用いる構造であることなどが上記のものとは
異なる。そしてこれを楽浪郡系の文化であるとする見方がある。
すなわち、北方系になってはじめて木郭墓になったのではない。

「前漢時代の竪穴木郭墓」がどんなものか私は知らないので、教えてもらえ
れば有り難い。

115 :日本@名無史さん:2006/01/06(金) 18:35:42
>>114
写真でもあればいいのだが、残念ながらない。
http://www.come.or.jp/hshy/j95/12a.html#20

116 :115:2006/01/06(金) 18:37:52
分かりにくいね。114のリンク先の一番下。

117 :115:2006/01/06(金) 19:48:01
ぐ!見れないね。コピペ。

 中国・四川省綿陽市にある前漢の武帝時代(約二千百年前)の諸候墓から、
百体を超す漆塗りの馬や武人木像「木胎漆騎馬俑(もくたいうるしきばよう)」が出土、
綿陽博物館で「稲作の起源と伝播に関する環境考古学調査団」
(代表・安田喜憲国立国際日本文化研究センター教授)に公開された。
半数以上が完形で、秦始皇帝兵馬俑(へいばよう)の“漆工芸版”。
これまで中国で発掘例はなく、木彫りに黒漆を厚く塗っており、いまも鮮やかな光沢を伝えている。
 出土したのは、省都の成都北東約百キロの双包山漢墓(そうほうざんかんぼ)(縦十五メートル、横二十メートル)の
地下二メートルにあった竪穴木郭墓(たてあなもっかくぼ)の上部。
七月までの同博物館などによる発掘調査で、他の多数の副葬品と一緒に、
漆騎馬俑が折り重なるようにあったという。


118 :日本@名無史さん:2006/01/06(金) 21:32:50
>>117
馬俑を入れるのならすでにして別の文化だ。
伽耶のは馬そのものの殉葬だから。

119 :白馬青牛:2006/01/06(金) 21:56:04
>>112
対談集『世界史の新視点』六興出版で、松田壽男氏「歴史学者、
考古学者っていうものはみんな視野が狭いんじゃないか。記録や出土品の
扱い方を知らないんじゃないか。出土品は、日記や手紙と同じく、
一部分の特殊な物しか残らない。それを掴まえて、やれ何だかんだって
論じていることはおかしいんじゃないか。その特殊事象を普遍の上に置か
なくちゃならない。それを忘れている人が非常に多いと思うんです。」
江上波夫氏「そうなんだ。特殊な物しか残らない。(中略)だからものの
解釈というのは、幅広くなきゃダメですね。やっぱり人間的経験とか、
社会的経験とか、そういうものを積んでないと歴史家には向かないね。」

どうも、あなたは、物事を狭く考えようとされる。当時の戦闘形態を
現在の出土品のみから判断するのは、おかしい。それ故、>65の
日本考古学協会の「変てこ」な文章になるんじゃと思いますよ。
『明史』日本伝について、また言うておられるが、明智が阿奇支に
なっとる細部のこと等より、全体論として日本認識は如何に。

120 :日本@名無史さん:2006/01/07(土) 00:50:09
>>白馬青牛氏
言われたから言い返すわけではないですが、
物事を狭く考えてるのはあなただと思いますが。
歴史学を人に例えるなら、考古学は「骨格」で文献史学は「肉」のようなものだと思います。
騎馬民族説を証明する文献がない以上、
考古学からのアプローチしかないと言えるのが現状なわけでしょ?
で、最近の考古学者が騎馬民族説に対してどう言ってるかを、
このスレで言ったならば、
あなたは彼らを「専門馬鹿」だとか、何やら異常に嫌悪してますね。
何故ですか?
あなたの文献史学の知識が凄いのは誰もが認めるところですが、
何故そんなに考古学者に対して嫌悪感を示すのかな?
私は素直に、彼ら考古学者を尊敬してますが。





121 :白馬青牛:2006/01/07(土) 02:10:28
>>120
わし自身は出来るだけ、幅広い視野で思考しようとしております。
文献は証明の為ではなく、そこからどう読み取るかの問題であり、
考古学のアプローチだけでなく、神話学、民族学、文化人類学と色々な
考察があるでしょう。これらを総合して全体論として考えるものであると
思います。専門分野を深く掘り下げるほど井の中の蛙になって仕舞うで
せう。その知識に伴い偏見も増えるわけで。江戸期の三浦梅園氏が
「学問は臭き菜のようになり、能く能く臭みを去らざれば用い難し。
少し書を読めば学者臭し、余計書を読めば余計学者臭し、こまりものなり」
と云われるが如く。
現在の>65のような考古学者は、全体像を構築する思考に欠け、
中世の概念やマルクス共産主義史観等の発展段階説
(逆説的偏狭ナショナリズム)で事物を捉えようとするからです。
わしは、西日本人なので総合的全体像で思考し、東国史観の人達は、
分析、専門から思考するのは、列島東西の民族性の違いでしょう。
まあそれは、個人によっても違いますが。
軍隊の前線指揮官でも、各隊の視野が狭くなり、間隔が密接すると
包囲殲滅に遇う危険性が増えるので、各隊の間隔をあけ、視野を広げ、
地形・環境の状況も必要になります。ジェネライズ(総合)する能力が
必要なわけで。それは学問でも同じでしょう。

122 :日本@名無史さん:2006/01/07(土) 10:23:42
>わしは、西日本人なので総合的全体像で思考し、東国史観の人達は、
>分析、専門から思考するのは、列島東西の民族性の違いでしょう。

こんな事を言ってる時点で偏見だし…
誰も納得しないなw


123 :日本@名無史さん:2006/01/07(土) 10:33:56
http://www.momoso.net/orientalism.html

ごく荒削りな言い方をすれば、「東国史観」には、
その基層に欧米考古学の影響の下に形成されてきた
和製オリエンタリズムとしての日本考古学があり、
さらに日本列島における過去の支配者ないし支配的地域の価値観が組み込まれている。
厳しい見方をすれば、そのような意味において、
「東国史観」は「皇国史観」と同じルーツを有する、その一亜流といってもよい。

>広島ハゲ

岡安さんは、きっちり批判したうえで考古学を進めてますが何か?
君こそ「偏見」ですね…プッ

124 :白馬青牛:2006/01/07(土) 21:35:09
>>122123
何処が偏見なんか。偏見と捉えるのは、被害妄想であろう。
西日本の横型社会と東日本の縦型社会の構成が違うのは、当たり前の
ことじゃ。
わしゃ、ハゲとらんので残念じゃのう。わしの言う東国史観は、
視野の狭い専門家、発展段階説主体で歴史の物事を視るもんをさす。
矮小化して物を捉えるなや。

125 :日本@名無史さん:2006/01/07(土) 21:55:26
>現在の>65のような考古学者は、全体像を構築する思考に欠け、
>中世の概念やマルクス共産主義史観等の発展段階説
>(逆説的偏狭ナショナリズム)で事物を捉えようとするからです

65のような考古学者とは岡安さんだな。
ぜんぜん視野が狭くねぇじゃん。
人のこともよく知らないで、
勝手に決め付けることを「偏見」と言うのだよ。


126 :白馬青牛:2006/01/07(土) 23:02:21
>>125
>65の文章の何処に賛同するんか。視野が狭くないと言うのは、
どの文章からそう思えるんか。具体的に書け。
具体的に書かず、勝手に岡安氏を信仰することこそ「偏見」
「関東隷属史観」と言うんかのう。

127 :日本@名無史さん:2006/01/07(土) 23:18:13
  煽りにつられて 罵倒する
 (( (`Д´) (`Д´)
  (/ /) (/ /) ))
  < ̄<  < ̄<

   ハイ! ハイ! ハイ ハイハイハイ!
  (. `Д)_(Д´ )
  ノ ノヽ |  |>
  ノ >  < ヽ

   青牛探検隊!
   青牛探検隊!
 _(Д´ )  _(Д´ )
  ヘ|  |\  ヘ|  |\
    <     <

128 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 00:06:44
岡安氏の論文から、
あなたが言う「マルクス共産主義史観等の発展段階説 (逆説的偏狭ナショナリズム)」
とやらが、どう読み取れるのかな?w

129 :白馬青牛:2006/01/08(日) 01:14:59
>>128
まず、>65の文章から「マルクス共産主義等の発展段階説(逆説的偏狭
ナショナリズム)と読み取れんと思う部分を書けや。
参考にわしが書いた>69を読め。

130 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 01:40:22
>>広島ハゲ

おまえは馬鹿か?
東国史観まる出しとなれりなんて言ってる、
あなたの>>69のようなレスを、
岡安さんは批判してるのだろうが。
http://www.momoso.net/orientalism.html

131 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 01:45:35
 倭は高句麗新羅に乗っ取られたのか??? 

魏志倭人伝訳文(ホームページ製作者訳)
http://inoues.net/wajindenx.html
三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
出雲の四隅墓、九州の丸墓
東国武士の袴、白装束、ちょんまげ←高句麗、扶余、鮮卑の習俗

源氏の白旗、平氏の赤旗、天孫伝説、朝鮮壇君(天君)伝説
角餅、丸餅、日の丸等々
倭が高句麗・新羅に乗っ取られたかどうかを徹底検証します。

132 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 09:57:37
>>102
>任那の騎馬化が従来のような4世紀後半、高句麗の影響によるものではなく、すでに
>3世紀末に起こっていることが証明されたのだった

3世紀後半といえば、大和が日向に異常な接近を見せた時だ。
結局、半島南部の製鉄の利権目的で、
北方にいた夫余も、そして大和・日向も動いたのだろう。
俺の説は、大和が鉄の利権を伽耶の倭人(北九州勢力)から奪いたいために、
隼人に近づき、隼人が夫余をそそのかし、伽耶を攻めたのではないか?
隼人の拠点は半島南部から北朝鮮あたりにまで及んでたみたいだ。
証拠は北朝鮮の眞波里古墳から出土の珠文帯に玉虫の翅が付着。
姥岳伝承など神話でも北朝鮮と類似。
宮崎の山間部でみられる養蜂巣箱のウトと呼ばれるものも対馬や北朝鮮とも類似。
隼人独特の地下式横穴墳墓と福泉洞古墳の類似は、
隼人が彼ら夫余から影響を受けたのかも。
ただ、当然だが木郭墓ではない。
馬面冑が和歌山の大谷古墳から出土してるが、
大谷古墳は前方後円墳だから夫余系とはみなせない。
当然、騎馬民族が日本を征服したなんて話は成立しない。

133 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 13:48:31
面白い仮説です。
天孫降臨の地(日向)
大和と日向の関係、大和と扶余の関係とか
色々なことがそれで説明できそうで

134 :白馬青牛:2006/01/08(日) 14:46:46
>>130
[東国が「隷属地」、「進んだ畿内」に「征服」された「遅れた地域」と
見なす視点が、][その地理的・歴史的・社会的価値の文脈の中に搦め
取られてしまうからである。「東国史観」は、そのことに無自覚な歴史観
である]つまり地理・歴史・社会は考察せず、考古学の中の自分の
世界に閉じこもって思考し、掘り下げた井戸の中から大海を想像する
ことじゃろう。なんとか「隷属地」東国に独立性を持たせたいと、
空虚な論理を展開する。こういう狭い発想法が東日本的特徴で、それを
わしは「東国史観」じゃ言うとる。
直木孝次郎氏は「西国の豪族は東国の豪族より独立的な意識を持つものが
多い。西国の豪族には君姓が多いのに対し、東国の方は直姓が多い。
西国は天皇家との繋がりを必ずしも強調していない。それだけ早くから
西のほうが開けたので、独立的なのが多くて、東国は、天皇家と結びつく
ことによって権威を維持していた。」といわれたが、西日本の横社会と
東日本の隷属縦社会の違いは、古代から明確にあらわれる。

135 :白馬青牛:2006/01/08(日) 14:55:57
>>131
ちょんまげは、東アジアや東南アジアの概ね農耕民の習俗。
鮮卑等の東胡は、概ね髠頭(頭頂部を剃る月代の様なもの。)
高句麗の場合は、漢化した服装や髪型。

136 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:12:53
東胡系の頭のそり方も地域差があったのではないでしょうか?
半島の西南界の大島(チェジュ島)にも鮮卑ににた頭のそり方を
してる人がいたようだが少しそり方が違うように述べてある。


137 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:17:59
つぎに内兵の語義について述ベておかねばならない。
これについては大伴室屋・金村以降の大伴家の衰運にも触れたコンパクトな文章がある。
五世紀か六世紀はじめごろから天皇や有力皇族の側近に仕える舎人の制度が興り、
それは身辺に仕えるだけでなく、天皇身辺の警護に任ずるようになった。
それは東国の国造の子弟を主とし、少数精兵主義の親衛軍であった。
この天皇直属の舎人軍の強化が、大伴氏等の門号氏族や靫負軍の、
天皇家側近における比重をいちじるしく低めた。
靭負軍は主として西国の国造ないし豪族の子弟から成り上番して
大伴家の統制下に入り、宮城門(外門・中門)の守りに任ずる。
令制以後においては、舎人軍の役割りは五衛府のうちの兵衛府に引きつがれた。
兵衛の古訓はトネリ、またはツハモノトネリである。
兵衛は多く国造家や地方豪族の子弟のうち『身材強幹、弓馬に便なるもの』から選ばれ、
天皇・皇族の側近に仕え、内裏の門(閤門)を守り併せて天皇・皇族の身辺を護衛する

ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~machino/yaka1/part4/ohtomo.htm

138 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:21:01
前方後円墳は○(倭、輪、先住系、西日本、丸墳)
に小さい□(高句麗(出雲系)、四隅、新参渡来系、東日本、方墳)
がくっついている。
近畿で出雲と倭が和睦しその象徴として出来た墓が
前方後円墳だったのでは?東日本ではこれに抵抗する一族が
○(輪、倭)を嫌い前方後方墳をつくった。
後に倭から日本、大王から天皇(東日本=天孫)国家を
樹立する勢力に発展する。

139 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 19:41:04
すまん、今テレビを見ていて思ったのだが。
朝鮮では座り方は片方を立てひざにして座るという。
実は、日本も昔はそうだったらしく、畳が普及するにつれ正座になった。
昔の貴族の住居を見ても、朝鮮との繋がりがあるような気がする。
例えば畳以前は円形の御座のようなものに座っていたらしいが、これは半島にも存在した。

140 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:13:49
>>133
132です、ありがとう。
面白いでしょ?w
この仮設なら、何故4世紀後半から日本固有の前方後円墳に、
突然馬具が現れるのかという問題も、
隼人が夫余から譲り受けて各首長に配った威信財であると説明できるし。
大谷古墳のある和歌山の紀氏なんて日向ゆかりの氏族だしね。
さらに伽耶の福泉洞古墳から馬具とともに日本系土器が出土する不思議さも説明できる。
さらに三国史記の瓢公はじめ倭人の記述も、
不穏な空気を感じた筑紫が新羅に送り込んだ人物であろうと説明できるし、
後の磐井の乱も、半島南部の鉄の利権を奪われた筑紫の長年の怨念からくる反乱だと説明できる。

つまり「騎馬民族(夫余)VS倭」じゃなく、
倭の中の「大和・日向VS北九州」の争いに騎馬民族を利用したって話なんで、
夫余が日本に征服に来る理由なんてないからね。
彼らも半島南部の鉄の利権に参加できればそれで良かったんだから。




141 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:35:33
>>132
隼人の介在はなんとも言えないが少なくとも必要はない。
扶余は3世紀末に鮮卑に敗れて沃阻に走ったが、翌年王子が西晋によって故地
に戻されて傀儡政権を作った。しかし、全部の扶余が戻ったとは限らない。
高句麗の残党が唐の傀儡政権を作っても独立派が渤海を建てたように、独立派
は必ずいただろう。
その独立派が、安住の地を求め、ついでに戦力の基礎となる鉄を求めて、
沃阻から伽耶の地に至ったと考えるのは、不自然ではない。
伽耶に到達さえすれば、これを征服するのに隼人の助けは必要なかっただろう。

なぜなら、狗耶韓国はちょうど吉野ケ里と同じ様な段階にあったのに対して、
扶余は鮮卑との長い戦いを通して、すでに騎馬戦術と鉄製装甲の技術を持って
いたから、戦力は隔絶していた。

伽耶(金官)の扶余と畿内勢力との関係は早い段階から確かにある。
なぜなら、虫の羽どころではなく、金官の遺跡からは畿内由来の巴型青銅器
(木製盾の飾り)と筒型青銅器(槍の柄の石突き)がたくさん出るからだ。
これがどんな関係だったかが謎。

>大谷古墳は前方後円墳だから夫余系とはみなせない。

高句麗は積み石塚、百済は磚室付き墳丘墓だが、これらは「扶余系とは
みなせない」のかな?

142 :日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:05:08
>>141
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm
一応、俺の仮説「らしき事」を言ってくれてる人もいるw
俺が隼人も「連合」に参加してると思う理由は、
132で言った事以外に、伽耶から日本の沖縄でだけ採取できる貝で造った装飾品や生活具(杓子)が
出土してる事も一つの理由。
誰が持ち込んだのだろうか?と考えての説なんだ。
それと逆説的に考えて、何で大和は日向に急接近したのかの意味が、
騎馬民族にも接点がある半島北部にまで延びてる「ネットワークの活用」以外にないから。

>これらは「扶余系とは みなせない」のかな?
3世紀前半から続く前方後円墳のスタイルはそのままなんだが、
彼らの力を借りたんだから影響を受けた可能性はもちろん大。
隼人の地下式墳墓のように。



143 :白馬青牛:2006/01/09(月) 00:23:06
>>136
魏志韓伝によると、済州島は「皆髠頭如鮮卑 但衣韋」とあり
髪型剃り方ではなく、衣類が違っておったようです。
東胡でも、烏桓、鮮卑、柔然、契丹は、髠頭ですが、室韋は、被髪、
あるいは索髪(頭髪を編む)です。靺鞨も編髪です。

東日本へは高句麗人が移住したことは、文献や積石塚から確認
出来ますが、高句麗の牛車や犂農耕が、東日本の文化になっておらず、
馬文化を含め外来よりも東日本土着民の文化影響の強さでしょう。
西日本は、犂文化等は流入しておりますが、ステップ遊牧民の乳文化に
乏しく、仮にトルコ系やモンゴル系が混じっておったとしても、
文化領域から、せいぜい満洲のツングース狩猟農耕民文化の流入と言って
良いでしょう。しかし梅棹忠夫氏のいわれるように、北方胡族の軍事・
組織編成力の影響やクリルタイの選挙によるリーダーの選出等は、
西日本の横型社会(村の代表は選挙制)に影響したと思います。
東日本は、縦型社会(概ね村の代表は世襲制)で北方胡族の影響は、
さほど受けてないと思えます。

144 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 05:31:36
>>142
>これらは「扶余系とは みなせない」のかな?
>3世紀前半から続く前方後円墳のスタイルはそのままなんだが、
>彼らの力を借りたんだから影響を受けた可能性はもちろん大。

なんかずれてるね。
君は大谷古墳が前方後円墳だから扶余とはみなせない」と言ったのだ。
これは「木郭墓ではないから」と言う意味だろう。
それならば、高句麗は積み石塚、百済は磚室付き墳丘墓でいずれも木郭墓ではないが、
これらもまた「扶余とはみなせない」ということになるではないか。
念のためだが、高句麗、百済の支配者は文献上、扶余とされている。

>夫余が日本に征服に来る理由なんてないからね。

理由を考えるのは簡単。つまり高句麗の圧力が強まって、伽耶も安住の地では
なくなったからだ。
それに単なる征服欲だってある。
フランスのノルマンがイギリスを征服したのは、王族の婚姻関係から王権を
主張したのだが、要するに言いがかりをつけて支配を拡大したのだ。
畿内と金官は関係があったのだから、このようなことを考えてもよい。





145 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 06:51:48
>>144
「高句麗は積み石塚」と言うのは前スレでも出てた、
信州大室古墳群に代表される感じの物の事ですか?
あれなら明らかに高句麗系と言えると思いますが、
全然違うし。
前方後円墳は高句麗起源とされてない以上(北朝鮮はそう主張してるみたいだけどw)、
基本的に扶余系とはみなせないという意味です。
和歌山・大谷古墳からは有名な馬面冑が出てますが、円筒埴輪や勾玉も出てる。
じゃぁ、その馬面冑とは今の考古学で言うところの威信財ではないかと言う意味です。




146 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 07:05:06
>>143
125代続く世襲制の最たるせいど天皇制は西日本に生まれたとお考え
でしょうか?
もしそうならその考えはおかしくありませんか?

弥生時代から前方後方墳の元祖的高句麗地域の文化は東日本に
広がっています。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html



147 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 08:06:41
>>146
前方後方墳が天皇の陵墓とされた事あるのか?


148 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 08:17:50
東は東の天皇がいたんじゃないですかね。
3世紀九州ではまだ弥生時代末期にあたるころ、
関東、近畿では大王の元になるような権力の集中があった。
後、これらの一部が朝鮮の天君制度を模倣し
自らを天皇と呼んだ。

149 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 08:57:28
>>144
>理由を考えるのは簡単。つまり高句麗の圧力が強まって、伽耶も安住の地では
>なくなったからだ。
>それに単なる征服欲だってある

そこらが江上説が批判される理由。
金官では倭人勢力を支配してた形だと仮にしても、
好太王碑にみられるように、
半島奥地にまで進出する力を持ってた倭を、
高句麗におびえた金官王が征服するという変な事になるから。
大和の王族の一員に迎えられたと言うのならまだ分かるが、
何故「征服」と飛躍してしまうのだろうか?
まず征服ありきを前提にする鼻息の荒さを感じる。



150 :がいやまん:2006/01/09(月) 10:08:42
>>143
志賀島を最南端とする楽浪海中倭人族の一部として済州島、五島列島、九十九島
有明海等を考える必要がありますね。珍島、勅島の風習が沖ノ島、姫島、厳島、
淡路などとつながるかも。隠岐島あたりから吉備、丹後という線もあります。高句麗、
百済は倭の一部であり、百済の一部が、楽浪海中に入海し、関門で三方に分列行進
ということもありえるかと思います。こうした動きと高地性集落が連動することもありえ
ましょうか。話は変わるが、東日本は小田原評定でもわかるとおりイラン系みたいな
おれがおれがというところがあり、倭人伝に描かれた「オー」と、道端の草にひれ伏す
といった感じじゃなかったんでは。

151 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 13:17:19
>>145
まだとらわれている。
扶余のものとされる3種類の、全く異なる墓がある。このことから言える
のは、本来、「扶余は◯◯墓を作る」ということではなくて、「扶余は
どんな墓でも作る」ということであるはずだ。

伽耶にやって来た扶余は、満洲からほとんど直接に来たから、色々な
影響を受けていなかった。加えて、伽耶に行われていた墓は外形的には
彼等のと似た木郭墓だった。だから扶余はこれに影響を受ける動機がなく、
満洲で行っていた墓制を維持して、後世に自分の出自を示す結果となった。

高句麗、百済にやって来た扶余は、恐らくその土地の文化に影響されて、
それぞれ積み石塚および磚室付き墳丘墓を作った。この流れで行けば、
倭にやって来た扶余は、そこに行われていた前方後円墳に影響されて
前方後円墳を作ったはずである。

古代人が墓を作るのは後世の歴史家のためではなく、人民に自分の権威を
示すためだ。君が扶余系の倭王であったとして、巨大前方後円墳の隣に、
墳丘もない木郭墓を作る気になるだろうか?

152 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 13:21:27
>>149
>まず征服ありきを前提にする鼻息の荒さを感じる。

倭は常に強大なはずだというのも、別の鼻息の荒さだ。

>半島奥地にまで進出する力を持ってた倭を、
>高句麗におびえた金官王が征服するという変な事になるから。

どうしてそのような、時間軸のない平面的な考え方になるのだろうか。
確かに広開土王と戦った4世紀末の倭は強大だった。
しかし4世紀初頭にその通りだったのではない。
4世紀初頭の倭はまだ統一もできておらず、軍事的にも未発達だった。
その後の100年間のどこかで征服が起こったと考えればよいのだ。

そうすれば、広開土王と戦った倭はすでに扶余化されて騎馬戦術と
鉄製武器/防具を持ち、かつ任那と一体化した倭だった、ということ
になる。

これは、ノルマンに征服されて大陸の進んだ騎馬戦術を受け入れた
イギリスが、逆に大陸に進出してフランスと英仏戦争を戦ったのに
相当する。

153 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 13:27:15
>>149
>大和の王族の一員に迎えられたと言うのならまだ分かるが、

もちろんそれもあり得る。というより、その方が事実だったのではないかと
思っている。
しかしそのようにして迎えられた扶余は卓越した戦闘力を持つ集団だから、
いずれは平和的に、あるいはクーデターで実権を握り、簒奪するだろう。
ちょうどシチリア王国のノルマン人のようにね。
それもまた征服の一種だ。

154 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 14:40:11
>>153
うん。征服と言っても実際はそんな感じだったんでしょうね。
実権を握ったのは応神でOKですか?


155 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 15:01:39
>>152
>4世紀初頭の倭はまだ統一もできておらず、軍事的にも未発達だった。
>その後の100年間のどこかで征服が起こったと考えればよいのだ。

最新の考古学では大和のマバカ古墳は3世後半と認められ、
庄内土器も見つかってるし、統一初期と見ていいかも。



156 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 15:02:55
失礼、3世紀初期の間違い。

157 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 19:11:28
ごく普通な疑問として、倭国大乱を証明する首のない惨たらしい遺体が
弥生時代の墳墓から発見されるのに、
何で、江上さんの言う時代にはほとんど発見されないのかと思ってんたが…
皆さんの言う扶余系支配者が、大和の王家に迎え入れられたとするのなら納得も出来ます。

ただ、そんな事を書いてる文献ってあるのでしょうか?

158 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 19:38:26
>>157
ない。

159 :白馬青牛:2006/01/09(月) 21:38:03
>>146
北方民族の例から族長期は、選挙制で期間があるが、王になると
世襲制になるのでおかしくはないでしょう。
高句麗の文化の影響は、東日本にも習俗としてありますが、
>143で書いた様に。文化的に欠落部分が多いと思いますよ。
>>150
珍島、勅島の風俗が厳島とつながるのかどうか、同一の風俗を知りません。
東日本の小田原評定は、李氏朝鮮の党争と似ておると思います。
四色闘争でしたね。朝鮮と東日本は縦型社会同士で似ております。
倭人伝で「オー」は「噫」のことでしょう。倭人は、北九州あたりは
漢人の植民地の側面、階級社会でもあり、下戸は漢人に売買される
奴隷でもあったでしょう。階級性が薄くなったのは、江上氏の言われる
北方民族の民主制が流入したのかも知れません。後世では東日本の方が
隷属階級社会で長子相続です。西日本が末子相続で、アイヌ人も
末子相続の傾向にあることは面白い現象です。

160 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 22:01:27
>>7
結局、何が出てきたらこの説が証明された事になるんだろうな?w
さっぱり分からないやw

161 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 23:06:42
>>151
前方後円墳という墓制が途切れることなく続いてるのは何故だ?
との誰もが思う初歩的疑問を江上説支持者に聞いても、
扶余は在地の墓制を踏襲してるとの答えがある。
だが反対派からすれば、それは疑問の説明にはなっても、
征服説の根拠にはならないし、
逆に、倭の墓制が全然変わってない事を根拠に、
征服なんてされてないという論を強めるだけ。



162 :日本@名無史さん:2006/01/09(月) 23:42:24
結局、江上説はマジックみたいなものだ。
騎馬民族という言葉からくるイメージは、
誰にでも、あのチンギスハーンを連想させる。
あんなのに攻められたらとてもじゃないがかなわないと当初は誰もが思う。
で、古墳から出る馬具の数々を征服された物証とする…
が、詳細に見れば何で倭系の出土品もあるのか?ともなってくる。
文献と物証が合えば、ほぼ歴史的事実となるのだが、
どだい文献がないうえに、物証でさえ、今の考古学では首長の威信財とみなされ、
はなはだ怪しくなってるのが現状だ。



163 :日本@名無史さん:2006/01/10(火) 00:51:35
>>159
調子に乗りすぎw
前スレの返答貼っとくぞ


常一がいう騎馬民族の貴族って誰の事よw
常一は江上さんの騎馬民族説に洗脳されてそういう事言ってたんだろ?
それに、東国=馬文化、西国=牛文化を考慮していたのだろうか。
日本の馬は高橋先生が言うように暴れ馬!

加藤氏と大林氏は「腹」系譜の信憑性について、互いに論じてるんだろ。論点をずらすなよ。
大林氏=東漢氏が都賀使主から分かれた氏族である点を信用できる。つまり同一の祖先からの分流
加藤氏=東漢氏は擬制的同族関係に編成したものとする(坂上氏を中心として)

東漢氏の系譜では、東漢直系の氏族(坂上氏など)に掌握される立場にあった東漢人系の氏族も
「腹」系譜の中では、同族として組織されてる。
つまり東漢氏の腹系譜は、本来異質(東漢氏の配下豪族)な氏族を取り込んで肥大化してるわけ。

田辺史は河内の渡来系だろ。その一部が上毛野朝臣姓を賜ったから上毛野氏族の一員になった。
『姓氏録』の系譜を鵜呑みにしてた誤りを、認めたらどうだい?

164 :日本@名無史さん:2006/01/10(火) 09:03:58
>>154
>実権を握ったのは応神でOKですか?

適当だと思います。
簒奪の前の段階、つまり畿内の大王の臣下となって西日本のどこかに領地を構える
「扶余公国」の段階は、応神じしんであってもよいし、その前の世代であってもよい。

165 :日本@名無史さん:2006/01/10(火) 13:22:37
>>162
>が、詳細に見れば何で倭系の出土品もあるのか?ともなってくる。

ギリシャ人に征服されたエジプト王国の墓にはエジプト系の出土品がないのか?
清国の満洲族皇帝の墓には中国系の出土品がないのか?

166 :日本@名無史さん:2006/01/10(火) 16:48:49
>>165
それはちと無理があるんじゃない?
ギリシャの話も清国の話も、
歴史書に残ってるうえに物証もあるから歴史的事実とされてるんで。



167 :白馬青牛:2006/01/10(火) 22:54:51
>>163
この板の「源平武士と戦国武士、タイマンで戦ったら?」の方は、
最近書いとらんのかいのう。
宮本常一氏のことを洗脳とやら罵倒しとるが、推測で言うなや。
東日本=馬・畑・犂耕少なし・長子相続・同族的結合・隷属的小作。
西日本=牛・水田・犂耕発達・末子相続・一揆・契約小作とされたのは
宮本常一氏でもある。東日本の馬の使い方は農業に使うので、北方民族の
乗馬用のみに使うのと違う。
日本馬や朝鮮馬が、暴れ馬であったのは、去勢馬を使わず牡馬を使うたので
あろう。その点は以前に書いたが、モンゴル系の柔然が牸牛の後に去勢牛を
従がわせた例から家畜の習性や管理が、当時トルコ系ほど解っとらんと
思える。家畜管理に拙劣なまま、極東地域に伝わったのでわろう。
馬の問題は定かでない部分が多いが、ほいで関東に馬文化があるんか?
大林氏は、漢氏が異姓の帰化人を包容したことは尤もとされるが、本宗と
支族の間に懸隔がないことから加藤氏の日本近世同族組織はモデルに
ならないとされておられる。東日本の社会制度に普遍を求めることに
問題があろう。田辺氏と上毛野氏の関係を否定する為に『新撰姓氏録』を
間違いと断定するんか。上毛野氏の始祖説話からそう思えんが、
そもそも上毛野氏が関東土着勢力であったという根拠はあるんか?

168 :日本@名無史さん:2006/01/10(火) 23:48:15
騎馬民族はともかく、韓民族って何?
韓って、昔の日本では外国って意味だろ。
カラ、唐、韓。
朝鮮人が日本の文献見て
韓ていう民族がいたような勘違いしてるんじゃないのか?
それとも、中国の戦国時代に晋が分裂してできた韓の生き残り?
なんにしろ、韓という民族を朝鮮人がいまさら名乗るってのには違和感がある。
朝鮮人て都合よすぎねえか?
日本人が半島経由で来て、日本人の先祖が帰化してると文献に書いてるのを見て
さも自分たちに手柄があるかのように喋る。
このスレにも、明らかに日本人のフリした朝鮮野郎がいるよなあ?


169 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 00:16:11
常一のは明らかに妄言
武士発生以前から存在してた風習を関東武士に擦り付けてるんだから
(平安末期の安芸武士は弱かったろうな・・・)

>日本近世同族組織
それに囚われてるのはおまいさんでしょ
近世関東の村々に多かった村落内の身分格差とかを、古代・中世とごっちゃにしてる。

大林氏は漢氏が騎馬民族系の出身とか言ってるの?それは牛サンの妄想でしょ
漢氏など古代氏族の系譜が、擬制的な同族関係で結ばれているという説のが有力なんだが?
関東一の名族・毛野氏族(上野、下野国)も同様らしい。

上毛野君(朝臣)の関東以前の系譜なんて、はっきりと判らないだろう。皇別系ではあるが。
ただ関東土着の豪族であった事は明らか。
上毛野氏に限らず大王家、物部、大伴、葛城、蘇我、春日とか中央の名門だって、
何処から来たかなんて自称の部類ではあるが。
とにかく、田辺史(百済系)と上毛野朝臣は元来違う。

170 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 08:29:00
>>166
>ギリシャの話も清国の話も、 歴史書に残ってるうえに物証もあるから歴史的事実と
>されてるんで。

歴史書や史実に残っていることから、残っていないものを類推していけないのかな?
まあ類推するまでもなく、少数派の征服者が多数派の被征服者の社会に溶けこむのは、
統治政策上、当然のことだが。



171 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 08:48:55
>>170
そういう見方も当然出来なくはないが、
大和側から見れば、金官伽耶で鉄や馬具および騎馬文化まで、
国益のために摂取してただけという見方も当然出来る訳で。。。

172 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 09:45:44
倭の五王の話で当惑するのは、上表文のなかの「祖でい自ら甲冑を貫き」
に始まる武勇談だ。もし文章の通りであれば、祭祀的なイメージの三輪王朝
の大王が、突如変身して軍隊の先頭に立ち、関東から九州まで転戦した
ばかりか、海を越えて朝鮮半島で戦ったことになる。

そのような大王のイメージはなかなか受け入れにくいのだが、倭の五王の
祖先が一武将だったのであり、その武将が全国統一に関与した後、その人
あるいはその子孫が大王位を簒奪したのだ、と考えればすんなりと理解できる。

その武将はもちろん土着の人であってもよいが、それが任那系、すなわち
扶余系の人だったとすれば、はなはだ都合がよい。なぜなら倭と任那の
特殊な関係を、ついでに説明してしまうことができるからだ。

このように考えれば、畿内の三輪王朝が4世紀中葉に任那に遠征して、
騎馬戦術をもつ扶余王朝を服属させた、という無理な想定をしないで済む。

173 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 10:05:10
>>172
それが扶余系の人だったとすれば、
「倭人に権威を示すために、巨大前方後円墳を作った」までは理解できても、
埋葬される小空間は木郭墓でないといけないと思うのは当然だと思う。
その事が、申教授が木郭墓が日本で発見されてない以上、態度保留してる要因なんだろう。
が、巨大前方後円墳の埋葬空間から木郭墓が発見されるのは無理があると思うなぁ。
仁徳陵は朱塗りの石室だと聞いたことがあるし。

174 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 11:24:34
>>172
倭の五王は九州の王様。
大和の王様じゃない。

175 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 15:11:47
>>174
根拠は?


176 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 15:42:18
>>173
>埋葬される小空間は木郭墓でないといけないと思うのは当然だと思う。

別に当然ではない。なぜなら高句麗の扶余の「小空間」は積み石塚の石室であり、
百済の扶余の「小空間」は墳丘墓のなかの磚室だから。


177 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 16:31:44
そうすると扶余というのは「支配した側の影響」を受け続けて、
墳墓を構築してきたって訳か。
で、日本においても倭を支配したから、
墓制が前方後円墳であり、埋葬される「小空間」も倭的であるはずだって訳か?

なんじゃそりゃ?
アイデンティティの全くない民族って訳か?


178 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 16:58:34
前方後円墳そのものが扶余と倭の融合みたいなものだと
漏れは思ってるので決しておかしいとはおもわん。

179 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 17:07:11
むしろ、任那で九州の円墳が発掘されていないのが
なにより、九州、任那、近畿との関係を明確に示してるように
思う。

180 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 17:28:30
>>176
それ違うよ。
支配者にも二通りあって、分かりやすい例で言えば、
チベットを支配した時のモンゴルと、
今、チベットを支配してる中共を比べるよ。

モンゴルは信じられないほど開放的で、それまでのチベット文化を継続させる事はもちろん、
ハーン自らチベット仏教の信者になるという事もしてる。
反面、今の中狂はどうだ?あれはダメこれはダメの暴力的支配だ。

扶余はモンゴルタイプの支配者だったのだろう。
だから、支配した高句麗に積石塚を何の屈託もなく許し、
百済にも磚室を許すという同じ事をした。

で扶余自信の墓制は持ってたはずだ。
それが満州時代から木郭墓だったから、
申教授は日本に出ない事を理由に、態度を保留してるんだ。




181 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 19:47:56
>>170
>だから、支配した高句麗に積石塚を何の屈託もなく許し、
>百済にも磚室を許すという同じ事をした。
>で扶余自信の墓制は持ってたはずだ。

私が言ったのは高句麗、百済の王ないし王族、すなわち支配者である扶余自身の墓の
話だ。それが積み石塚であり、磚室墓なのだ。


182 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:44:25
>>181
>177に答えてチョ。

183 :日本@名無史さん:2006/01/11(水) 21:59:49
モンゴルはいったん忠誠を誓った民族には、
後はそれまでどおりにやらせてたみたいだし、
元時代のペルシャ人達の首長の墓も、
モンゴル化されたわけでなくそのままだし、何も問題ねぇ。
扶余が高句麗や百済を支配したと文献にあっても、
実際はモンゴルと似たようなもので、
高句麗や百済に好きなようにさせてたとしたら、
積石塚や磚室墓もそれまでの首長の墓なんじゃねーの?

184 :白馬青牛:2006/01/11(水) 22:07:26
>>169
都合が悪いと妄言か。平安末期の安芸武士は弱かったろうな?
関東武士が安芸に多く移住し、精強となったと言いたいんか知らんが、
古代からの安芸の役割は、対外戦や吉備国の牽制等、軍事氏族佐伯部の
サヘキ(さえぎる)の影響か近代戦でも、広島部隊が防御戦で比類なき
実績を持っとるんは、古代の先人から受け継がれた伝統「さえぎる」
役割のおかげでもある。関東の伝統・実績はどうかのう?
大林氏は、漢氏の中国文明と騎馬民族要素を述べておられる。わしが
書いた、河内西文(書)氏の騎馬文化(史部が天皇の騎馬護衛に当った
こと)、フン族のアッティラ伝説と坂上氏移住伝説の類似や田辺氏と
上毛野氏の関連も大林氏の引用じゃ。
確かに中央の名門は自称であろう。唐の王朝も鮮卑族出身部分を隠し
漢人を名乗ったように思える。上毛野氏も、王朝と結びつける為と
考えられる。後世関東の例では、佐伯氏から藤原秀郷の後裔と変えた
相模の波多野氏もそうであろう。しかし、田辺氏との関連を強調する
あたりは、密着な関係はあったと思うが。

185 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:22:31
佐伯という地名、苗字は
肥前、肥後、筑後ではまず
見かけませんので(筑前でも聞かない)
そのあたりになにか鍵があるかも。
物部ルーツの地名、苗字も殆ど無し。

186 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 05:26:55
>>183
私も調査不足だった。セン室墓は6世紀のもので、その前の初期のものは積み石塚、石室つき
封土塚(墳丘墓)などである。いずれにしても木郭墓はない。
これらはもちろん百済の王、王族の墓とされている。
http://inoues.net/korea/kudara_kofungun.html

高句麗については時間がないので割愛したが、「高句麗、古墳」でぐぐればいくらでも
出てくると思うよ。

>>182
事実がその答になっている。なんと解釈するかは君の自由だ。

187 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 10:00:27
百済のくつわ、丸ごと出土…大阪・四條畷
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20060112p301.htm
古代の子馬も轡で調教 大阪・四条畷、国内最古級か
http://www.sankei.co.jp/news/060111/bun084.htm
 口にくわえるハミが左右にずれないよう、両端にシカの角を付けたヒョウ轡と呼ばれる種類。
大人の馬には小さく、子馬用らしい。国内二例目の出土で、同課は「装飾の少ない実用品
で非常に珍しい。子馬を調教するために使ったのだろう」としている。



188 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 12:47:00
百済から持ち込む? 鉄製くつわ出土 大阪・蔀屋北遺跡
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601120016.html

189 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 12:58:01
任那日本府と言われるものは、
扶余が実質支配する金官伽耶から鉄を買い付ける、
大和の出張所みたいなものだったのだろう。
ただ、これがあったおかげで騎馬文化にも接触出来て、
蚊帳の倭人も弓兵主体とはいえ一部騎馬化してたのだろう。
好太王碑の時代に高句麗を北に追いやったのも、
こうした倭人騎馬軍であって、
日本の5世紀以降、馬具が出てくる古墳の埋葬者は、
里帰りしてきた倭人だろう。

190 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 12:59:04
蚊帳は「伽耶」の間違いw

191 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 16:17:20
白馬青牛さんに是非
芸備を中心とした瀬戸内、四国の
土器、暮式の変遷も解説して欲しいな。
スレ違いとすれば他のスレでもお願いします。

192 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:18:20
>>189
>蚊帳の倭人も弓兵主体とはいえ一部騎馬化してたのだろう。

伽耶の倭人とは扶余王朝の支配下の元狗耶韓国人という意味か?
それとも任那日本府に駐留する大和軍と言う意味か?
そのへんがあいまいだな。


193 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:07:28
>>191
ここで構わないんじゃね?
牛タソに関わってれば、どうせ騎馬民族の話になるし。

>>184広島
さてと、常一説はアホらしいからひとまず置いといて、佐伯氏についての疑問。

佐伯氏といっても、
@中央・大伴氏族の佐伯氏、カバネは連A国造系の佐伯氏、カバネは直B部である佐伯部
で、@ABの出自は全く違う。

ところでBの佐伯部は蝦夷の出身とされてるんだけど、この蝦夷は東北の蝦夷なのか?
当時の王権の勢力を考えると疑問だろう。中には東北出身者も少しは居たかもしれないが。

関東の常陸に居た蝦夷だったかもしれないし、さらに西の東海地方の蝦夷?
いずれにせよ、畿内より東出身の佐伯部の武力が期待されたんだろうけど。

佐伯部は安芸以外にも播磨、讃岐などに配置されたけど、それを管理する氏族は
蝦夷(東国)出身ではないだろうな。
安芸で言えば、佐伯直=安芸国造(厳島神社社家)ってな感じか?
平安末の佐伯氏は京武者でもあり、後に平氏を称してるけど。

相模の波多野氏は擬制的に秀郷流藤原氏と繋がってるだろ。それで秀郷流の一員。
大伴氏族の佐伯氏だって擬制的同族でしょ?
漢氏も擬制的同族関係で結ばれてる。秦氏は氏族が巨大だから尚更。

大林氏のは読んでないから何とも言えない。

194 :日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:25:22
>>192
大和軍だと思うが…

195 :白馬青牛:2006/01/13(金) 00:47:57
>>191
芸備の変遷等は、安芸と限定しても、弥生の箱式石室、土坑墓。北部の
四隅突出墳、東広島の古墳群、後期古墳の漢氏と係わるんか解りませんが、
可部(漢弁)古墳群、佐伯部と関連する竹原市から本郷(現三原市)に
存在する古墳群等様々な要素がありますが、郷土や地方の遺跡を語るスレ
では無いので、ここではもっと範囲を広げて語りたいのです。
>>193
文章の前半は他スレで答えておるんで、ここで言う必要も無いが、
波多野氏が系譜を変えたんで秀郷流の一員と言うのもおかしい。
両者に関係はあったと思うが。擬制的同族性という近世東日本概念での
解釈じゃのう。

196 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 05:04:10
>>194
広開土王とも戦うような巨大な大和軍が、どういう経緯で、独立国たる金官に、
駐留するようになったのか?
そこがわからない。
つまり、そのようなことが可能になるには、金官と倭の、特殊な関係がすでに
できていなければならない。それはどうやってできたのか?
そしてそれはどのような関係だったのか?
それが最大の問題だ。

197 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 08:00:49
>>196
まず経済問題があったと思うよ。
扶余にしても、自分たちで鉄を消費するだけじゃ潤わないし、
算出する鉄を買ってくれる大和は最大の市場であり、お得意様。
そこに強固な関係が出来てたと見る。
それが畿内系青銅器や土器の出土に現れてると思う。

198 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 11:04:51
>>197
経済関係はわかる。
しかし領土内に他国の軍隊を入れるのはそれとは別の問題だ。
それには金官が倭に服属していなければならない。
どんな事件の結果として、金官が倭に(具体的には三輪王朝に)服属するように
なったと想定するのか?

ついでだが土器の関係は反対だ。スエ器は伽耶に始まって倭に普及するのだ。

199 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 11:36:08
>>198
いきなり大和軍が金官伽耶の地に入ったとは思えない。
それは無理だろう。
金官が倭に(具体的には三輪王朝に)服属したとは思えない。
除々に経済的に必要不可欠な存在として、
お互いが認め合った結果、連合軍のような形になったと思う。
このような事は古代にはよくあった事だ。
扶余系の王にとっても、圧迫してくる高句麗に対して、
あるいはかつて自分たちが武力で追いやった北九州系倭人との関連が強い新羅に対しても、
自軍だけじゃ絶対数が足りなかったと思う。
したがって積極的に武具などの供与を大和軍に認めただろう。
その時に大和軍も一部騎馬化した。

須恵器はもちろん伽耶。
最新の生活用具として大和に普及した。
が、列島系の土器も数は少ないがあったはずだ。


200 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 17:25:45
狗耶韓国って、元々倭の北限と言われてたくらいで、
住民は倭人でしょ。

201 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 21:37:36
江上さんの時代には、4世紀初めの日本なんて、
まだまだ弥生の牧歌的農耕時代が続いてたと思われてたからね。
でも最近の考古学では、
最古の前方後円墳は3世紀の前半(天理・マバカ古墳)と見られてるから、
この100年の時間差は、明治維新が100年遅れてたら?と同じ位大きい意味があると思う。


202 :世界@名無史さん:2006/01/13(金) 22:03:21
最古の前方後円墳は2世紀まで遡れないかな?

203 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:06:42
二世紀まで遡ったら困る。
前方後円墳は
漏れの仮説では倭と出雲の合体だから。
倭と出雲の合体が畿内地方を中心に起こったという説で
ぴったりを合うから。

204 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:09:43
倭と出雲の合体という、出雲とは四隅突出墳の事?

うーん…

205 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:46:40
>>203
前方後円墳は須弥山という仏教的墳墓だよ。
もちろん仏典伝来以前の話だけど、
仏教的死生観は伝わっていたのだろうな。

今も各家庭に仏壇(須弥壇)があるし。

206 :日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:49:23
前方後円墳は仏教と関係が深いということ?


207 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 00:03:25
仏教にも取り入れられたスメール山(崇高な山)死生観と言えばいいかな。
埋葬されるのがスメラノミコトだし…

208 :がいやまん:2006/01/14(土) 09:42:46
海外では日本車スバルとそのマークからその語源をプレヤデス星団
で、古い日本語スマルにあると見て、そのスマルは須弥山、サミット等と
関係があるのではとするものだ。漏れは、たとえば、俵藤太伝説が松枝の
7人の航海者伝承起源であったりすることから、首長を意味するスメラミコト
とスマルに関係があるのではないかと思う。モンゴルではスバルと月を観測し
その位置関係で占いを行うといわれる。俵藤太は弓との関係が強い。

209 :がいやまん:2006/01/14(土) 09:44:28
またミスタイプをした。松江のこと。あの東の方にムカデ関連の神社があるはず。

210 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 13:46:50
>>199
扶余が支配する金官伽耶が、倭と対等な関係で軍事同盟を結んだ。そして倭と
共同作戦を行う過程で、倭軍の「近代化」に寄与した。

君の見方を、上記のようにまとめていいかな?
このような「強力な任那」という見方は、ひたすら倭の被保護国である「弱小な
任那」という従来の見方からすれば大きな進歩である。
そして「強力な任那」は考古学の成果とも一致する。
すなわち4世紀の金官の出土品の戦闘的、実用的な特徴;5世紀の任那と倭の武装
が細部を除いて同一であること;4世紀には金官が任那の盟主であり、新羅を圧迫
していた(新羅から釜山地域を奪った)という、考古学からの申教授の説、等。

しかしわからないのは、文献上では金官がいかにも影が薄いことだ。
日本書紀では、垂仁記等で任那ははじめから被保護国として描かれる。
神功記の百済との共同作戦(360年代)にも金官は登場しない。それどころか、
他の6国とともに、他の作戦の「ついでに」平定されたことになっている。
三国史記によれば新羅は4世紀中になんどか倭人の進入を受けているが、金官との
戦いの記述はない。
広開土王碑に、安羅軍の記述はあるが、まだ盟主であったはずの任那加羅(金官)
は軍の名称としては出てこない(国名または地名として一度出る)。
このように文献上では、「強力な任那」は存在しないと言ってよいくらいだ。

このギャップをどう見る?

211 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 15:12:13
金官が盟主だったかもね。
大和は礼をつくして扶余王に接触したと思うよ。
何故そう思うかと言えば、今の日本人もそうするであろうから、
昔もそうしたんでないかとw
ただ、盟主とは言うものの、兵士の絶対数が不足してたと思う。
なんとなく一般に騎馬兵は強いと見られがちだが、
弓兵に対しては弱いという事は明らかだ。
馬をやられれば兵士が重装であるほど動きが遅くなり、
逆にマイナスになるからね。
で弓兵の強さとは弓兵の多さに比例すると思う。
ここに弓兵を欲しがってた金官と大和が簡単に同盟できたであろう根拠があるんだ。
で、騎馬戦術を得た大和から金官を見ても、この地の盟主であったことに違いないが、
いつでも倒せる相手だったし、さほど重要視してなかったのが、
「ついでに」みたいな記述になってしまってるのかもね。
広開土王碑にも陰が薄いという話だが、
扶余が高句麗の支配者になった時、
数人の長官を置くだけのモンゴルタイプの支配をしたと思う。
で、その数人を高句麗があっという間にクーデターを起こし、
倒したんではないかな?
で高句麗からもさほど大した存在ではないとみられてたのかも…
まぁよく分からないがw


212 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:30:44
>>3
山口県カワイソス…

213 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 18:40:03
>>212
山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響を
もっとも多く受けたものの一つですから、
それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで
受けつづけてきたところですから。
そういうことがあって、長州的思考法というのは
ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです

司馬遼太郎

214 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 19:16:54
朝鮮が古代から倭人の血液的影響を受け続けてたんでw
あとは北方騎馬民の血。

215 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 19:30:23
山口県はそうでもないんですよ。弥生期古墳期の人骨みても
その影響は小さい。
あんまり言いたくないけど山陰出雲がその影響をモロうけてる
でも現在の出雲人は安芸長門などの縄文的な人と混血してるから
薄まってるよ。
そして文化も完全に西日本の文化圏に入ってる。
古墳時代の出雲人はむしろ東日本一帯に広がったと考えるのが妥当だと思う。

216 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:29:29
出雲の製鉄集団は、それこそ扶余に追い散らかされた半島南部の倭人じゃないの?
スサノオが植林の神でもあるのは、
半島にいた時に製鉄に使う大量の木を切るばかりで植林を怠り、
その結果、騎馬民に有利な条件を作ってしまった反省からきてるのじゃないかな?

217 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:40:26
で、スサノオが退治したヤマタノオロチこそ四隅突出墳の連中ではないのかな?
あの奇妙な四隅に伸びる部分はヘビを連想させる。

218 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 20:47:15
>>216妄想は勝手だけど
出雲、山陰の古墳人の人骨をどうみるか
そもそも西九州倭人と出雲は埋葬方法が全く違うんだぞ

219 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:13:20
>>218
ま、神話っすからw

220 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 21:33:33
友よ、天皇陛下の御名のもと美しい日本国を築こうではないか。


           .,.v-ー''″ ミ,
         ,,/  ,,,,   ミ
       .,/   ,,|||||||,,  ミ.
       ,!′  ,,||||||||||||| .゙゙!;
      ノ   |||||||||||||||||  ゙`!;        日本人だけの特権!
      .\.,  "|||||||||||||"   ..ミ            世界の中心で天皇陛下万歳を叫ぶ!
        .\  "|||||||" ,.,v-r|i
         )   ""  ./ ′ .ミ,
         .)    .,r'′   ミ.
          .゙'ー‐'¨¨″     フ∧_∧
                    r(,,゚Д゚)
                     〉日本つ
                    ⊂、 ノ
                      し'

     天 皇 陛 下 万 歳 !

日出づる処の極東板より
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/asia/1135328170/

221 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 23:21:37
>>210
神功皇后三韓征伐をどうみる?
3世紀というのは、まぁあれだが、
応神の母だから4世紀中頃あたりなら、
実際にあったかは別として、
そういうような話が生まれてよいぐらい、
大和に軍事的アドバンテージがあったとは思う。
金官と大和の利益が一致し、同盟を組んだのは4世紀前半と俺は見てるから、
4世紀中頃なら、鉄も騎馬戦術も得た大和は絶頂期だったと思うし、
皇后でも安心して半島に来れる状態だったかも。


222 :白馬青牛:2006/01/14(土) 23:35:47
>>211
>騎馬兵が弓兵に対して弱いということは明らかだ。馬をやられれば
兵士が重装であるほど動きが遅くなり?
重装騎兵が馬甲を着けるのは、矛、弓、剣等に耐えうるように、
馬が胴体を射撃される懸念を克服する為、馬体全面を馬甲を以って
覆う形式であり、軽装騎兵を保護して前面(方陣)にある。
方陣形態は、敦煌壁画にも描かれ、鮮卑騎馬兵は馬に鎧を装着(馬甲)
しておる。それは移動出来る防御壁、鋼鉄の壁として防御壁の役割も
あったんじゃないんか。パルティア重装騎兵についてユスティヌスは
「馬自体に対する防御策として、馬体全面を保持するものであった」と
記しており、パルティア(安息)鮮卑、高句麗の重装騎兵は、
主要武器を矛とした戦闘で、それは壁画にも描かれており、
戦闘形態も似たものと考えられる。
しかし重装騎兵は、その重さにより、小回りが効かず、投石機には
苦闘するという弱点もあったろう。
北ユーラシアの戦闘形態を考慮せず、後世の日本の平安後期あたりの
戦闘形態から、戦闘形態に普遍的概念を想像するのはおかしい。

223 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 23:43:47
どっちにしても神功の後の応神の時に辛国から渡来人が大勢きてるから
神功も何か半島でしてたのでしょ。
近畿人は応神をどういう目でみてたのだろ。


224 :日本@名無史さん:2006/01/14(土) 23:56:40
応神は畿内の王として実在の人物とされていますが、
神功、仲哀も実在の人物だと思う。
その前のヤマトタケルも実在の人物。
その遺物は九州に沢山ある。



225 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:12:35
仲哀は三缶征伐をためらった、神功は積極的であった。
仲哀はクマソに殺される、神功はクマソ征伐に成功する。


226 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:21:46
>>222
>馬が胴体を射撃される懸念を克服する為、馬体全面を馬甲を以って
>覆う形式であり、軽装騎兵を保護して前面(方陣)にある。

重くて馬も大変だったでしょうねw

227 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:41:26
馬も馬体全面を防御し、
人間も全体を防御してたら、
動けないマジンガーZみたいだったろうな!w

228 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:21:47
>>222
>北ユーラシアの戦闘形態を考慮せず、後世の日本の平安後期あたりの
>戦闘形態から、戦闘形態に普遍的概念を想像するのはおかしい。

弥生時代から倭は弓でしょ。
先端が石から青銅、そして鉄に変わっただけ。

229 :白馬青牛:2006/01/15(日) 01:27:40
>>228
>111を読め。

230 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:33:46
>>229
読んだけどフーン…

231 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:39:39
好太王碑は、
高句麗が倭に追いやられ、
盛り返した場所に建てられたのが、
あんなに北な場所だから、
倭がいかに強かったかの証明だよね。

232 :白馬青牛:2006/01/15(日) 01:59:28
>>231
韓国人が主張する自民族優越主義の影響の裏返しか?
高句麗は、韓人でもないのにのう。
よほど、韓国人に劣等感を持っておるようじゃのう。

233 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 08:46:13
今どき東国がどうだ、西日本がどうだくだらん事言ってるおまえは消えなさい…

234 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 09:40:03
>>222
>馬をやられれば 兵士が重装であるほど動きが遅くなり?
と自分で疑問を出しながら、
>しかし重装騎兵は、その重さにより、小回りが効かず
と認めてる超馬鹿レスw

235 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 10:50:57
>>187-189

【大阪】百済の轡、丸ごと出土 「馬の飼育が百済からの渡来人によって日本にもたらされたこと裏付ける」〔01/12〕
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1137039620/

236 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 11:18:12
>>235
金官の扶余王と同盟を組んでた大和は、
同じく扶余王族を持つ百済とは友好関係にあったから、
馬匹生産のために百済から技術者に来てもらった。
たったそれだけの事だと思う。


237 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 16:48:17

伽耶にいた倭人が騎馬を学び、騎馬民族化したとして、その倭人が列島にやってきて大和王朝と対峙したら、大和王朝に大人しく従っただろうか?

わしが騎馬や半島の甲冑や戦法を学んで帰ってきたら、大和王朝を乗っ取ってしまう。

そうしたら、騎馬民族が大和を征服した事になるんで内科医?
少なくとも騎馬王朝だがね。



238 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 18:31:54
>>237
乗っ取ってしまおうと言うあなたをみんなで防ぐなんらかのシステムがあったのかもね。
というかモンゴルのような平原ならともかく、
森林の多い日本では、思っているほど効果的じゃなかったのだろうな、騎馬戦術は。


239 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 19:11:37
>>231
>好太王碑は、 高句麗が倭に追いやられ、 盛り返した場所に建てられたのが、
あんなに北な場所だから、 倭がいかに強かったかの証明だよね。

朝鮮戦争と間違えては困る。その時の高句麗の首都に建てられただけのこと。

>>238
>森林の多い日本では、思っているほど効果的じゃなかったのだろうな、騎馬戦術は。

扶余の本拠、満洲東部はもっと森林が多かった。だから貂がよく捕れたのだ。




240 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:31:20
>>211
「強力な任那」と「弱小な任那/文献では影が薄い任那」とを統一的に説明
しようとすると、わけがわからなくなるだろう。

なぜ文献では影が薄いか。私はすでに任那と倭が一体化していたからだと考える。
そしてその一体化が、任那(金官)による征服ないし簒奪の結果だと考えれば
「強い任那」と「影が薄い任那」が統一的に説明される。

征服が一挙に起こったと考えるのは抵抗が多いだろう。だから、倭王に仕える
扶余系豪族の段階を経て、段階的に起こったと考えれば抵抗が少ない。
この扶余系豪族の段階でも朝鮮出兵はあり得る。

誰だったか学者が、広開土王戦争までの倭軍は畿内の軍隊ではなく、西日本の
豪族の私兵だろうと言っていたが、うなづける。この豪族を扶余系と考えれば
よいわけだ。


241 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:53:57
ところでウマという語はシナ語起源と言われているが、半島から騎馬を
習ったのならウマに関する単語も半島語でなければおかしいのではないか。

 アブミとかクツワ、クラのような日本語は始めからあったのだろうか?
 アブミ、クツワは日本語としては少々おかしいところもあるが、日本語
なのだろうか?


242 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:01:11
>>240
>倭王に仕える扶余系豪族の段階を経て

具体的にどこか思い当たる豪族の名前ある?
木郭墓が出れば分かりやすいんだけどなw

単純な疑問なんだが、
仮にあなたの言うように、段階を経て征服したとしても、
自分たちのそれなりの伝承を残すと思うんだ。
何か思い当たるものある?

それと全く反対に大和が金官を簒奪したとも考えられる。
最初は援軍という形であったとしても、
騎馬戦術を覚えた大和ならば扶余王を圧迫できたとも思うし…


243 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:33:07
古墳時代中期の馬具と馬匹
http://www.momoso.net/JAA2004.html

古墳時代の軍事革命
http://www.momoso.net/JAA2005.html

244 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:44:34
>>239
>扶余の本拠、満洲東部はもっと森林が多かった

隠れ家にもってこいだったんだろうな。

245 :白馬青牛:2006/01/15(日) 22:54:38
>>234
わしゃは、>211について言うたんど。わりゃ、211か。
まあ最後にwを付ける者じゃし、程度が低いことは想像出来る。
投石機に対する弱点を書いたんじゃが、人の文を捏造することが好きな
ようじゃのう。あんたの国じゃ、それが当り前なんじゃろうのう。

246 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:19:37
>>245
ハゲは氏んでください

247 :日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:40:43
>>240
任那と倭は一体化していたんだろうな。
漏れもそう思う。
で、どちらが主導権を持ってたかの話だろうな。
当初は金官の扶余王だったろう。
が、じわじわと大和に移ったんだろうな。
神功皇后の三韓征伐も、
大和の余裕がなせる説話なんだろうな。

248 :白馬青牛:2006/01/16(月) 02:06:04
>>246
おどりゃ、氏ねじゃ。人を呪う文を書きおって。つまらんことすなや。
隣国の恨の精神の受け売りか知らんが、人を呪う限り、反作用で
自分にもリスクが降りかかるど。いびせえ(威武せえ)けえ、
わしゃは、あなたやあなたに愛情を持って接した方々が幸福であります
ようにと願います。

249 :日本@名無史さん:2006/01/16(月) 05:59:23


     「おどりゃ」「わりゃ」…
      ネットでいきがってどうすんだw


   

250 :日本@名無史さん:2006/01/16(月) 06:25:56
古代史やってる人間が隣国がどうとかつまらんことを言うな
イデオロギーと学問は分けて考えろ
それが出来ないのなら歴史学に手を出すな

251 :日本@名無史さん:2006/01/16(月) 14:19:48
>>250 特に某隣国の歴史学会はイデオロギーと学問の違いを区別できないのが
ほとんどなので、相手にすべきではないようだ。


252 :日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:17:40
>>242
>具体的にどこか思い当たる豪族の名前ある?

例えば吉備などがあやしいと思う。

>自分たちのそれなりの伝承を残すと思うんだ。
>何か思い当たるものある?

吉備が「自分たちの伝承」を残している?

>>247
>任那と倭は一体化していたんだろうな。 漏れもそう思う。

賛成してくれてありがとう。

>で、どちらが主導権を持ってたかの話だろうな。

簒奪が起こった後に、倭が主導権を取ったということもあり得る。
もちろんその倭とは扶余化した倭だが。
いつもの例で言えば、フランスのノルマン人がイギリスを征服した
ことによって、ノルマンジーが自動的にイギリスの属国になったように。



253 :日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:49:39
>>252
吉備か、こりゃまた微妙だなw

俺が言ったのは、扶余が何年かかけて倭を簒奪したのなら、
堂々と自分たちの出自をさ、自慢げに語っても良かったと思うんだがな。
まぁそんなの残ってたら、話は早いんだがw

俺は逆に大和が金官を婚姻を通じて簒奪したと思うんだ。
金官扶余王家と婚姻する事は、扶余系百済王家とも親戚関係になれるしね。
白村江に援軍出したのも、王家同士のつながりがあった故の事だろうし。


254 :日本@名無史さん:2006/01/16(月) 23:01:40
>フランスのノルマン人がイギリスを征服したことによって、
>ノルマンジーが自動的にイギリスの属国になったように。

聞きたいんだけど、これってどういう形で歴史的事実となってるん?
複数の信頼できる文献があるって事なのかな?


255 :白馬青牛:2006/01/17(火) 00:30:42
>>249
誰が喜んで、いきがるんかいのう。失礼な文章にはぞんざいな言葉に
なるわい。「わりゃ」は親しい者には、遠慮のう使う言葉で、
悪い言葉じゃないど。
>>250
わしが、近代政治思想から判断すな。と言うたことの逆説か。
イデオロギーと学問を分けて考えんのは、韓国や日本の学者にもえっと
(沢山)おろう。それらに言うたれいや。

256 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 06:00:05
佐伯氏は豊後の出雲系でしょ。
豊後の土蜘蛛を土蜘蛛系が支配するなんてまず考えられない。

257 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 10:05:51
>>253
>俺は逆に大和が金官を婚姻を通じて簒奪したと思うんだ。

その事件をいつごろに想定するの?

>金官扶余王家と婚姻する事は、扶余系百済王家とも親戚関係になれるしね。

金官の扶余はいちばん最後に満洲を出た、扶余の本家だ。百済が、文化的に
進んでいるのに倭に頭が上がらないのは、本家と分家の関係だと思う。

>>254
>聞きたいんだけど、これってどういう形で歴史的事実となってるん?
>複数の信頼できる文献があるって事なのかな?

どんな英国史にも載ってるよ。
「属国」というのは私の表現だが、フレンチノルマン人の主体がイギリスに移り、
かつその後もノルマンジーが彼等の領地であったことを表したのだ。
この関係は、なぜ任那が倭の直轄領になったのかを示唆する。


258 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 10:13:27
>>257
> 百済が、文化的に進んでいるのに倭に頭が上がらないのは、本家と分家の関係だと思う。

単純に国力と情勢の差でしょ。

259 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 11:55:19
>>257
>その事件をいつごろに想定するの?
4世紀半ば。
金官扶余と大和の同盟は4世紀始めごろにあったと見ている。


260 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 20:18:43
>>259
なるほど、4世紀半ば以降の金官の王は倭人だったと見るわけか。

ところで金官では、5世紀初頭に王墓の造営が絶えるまで、ずっと木郭墓が造り続け
られるのだが、倭人金官王たちはなんで前方後円墳を作らず、扶余式の木郭墓に
納まったのかな?

261 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:07:33
★古代カラ半島国家の歴史★

【志良岐】
国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の
南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。
シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、
木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは、
「国を治める皇孫」の意味であり、稲飯命の別名なのである。
この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、
『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、
また、新羅と表記するのが一般的ある。
神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった
志良岐は、古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係に
あった国である。
その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(クニキシ。コニキシとも呼ばれる)という長官
が置かれ、王の統治を補佐するという独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、
志良岐王(シラキのキミ)は、臣下である第十七代・国吉士(クニキシ)=金奈勿に王権を
奪われることになった。
奈勿は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の血を引く志良岐王族を皆殺しにした。
そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。
金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(倭人)ではなく、朝鮮人である。
金氏は謎の一族である。彼らが、いつ、どこから来たのか、どのような方法で志良岐に
移住したのか、それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。
韓国に伝わる新羅の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話があるが、
もちろん作り話である。新羅建国(奪国)者=金氏に関する歴史的資料は皆無なのだ。

コピペ協力よろしく!
バラまいてね!


262 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:11:30
崇神天皇=孫木入彦(ミマキイリヒコ)の偉大さも忘れちゃダメ!

天皇家の養子(入彦)だけど、ちゃんとした皇族(孫木)だぞ!





263 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 21:56:25
>>260
>なるほど、4世紀半ば以降の金官の王は倭人だったと見るわけか。

いや、倭人が王になってとかそういう意味じゃない。
入り婿か嫁入りか知らないけど、扶余の王家はそのまま存続したと思う。


264 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:10:54
みえてきた、みえてきたw
少なくとも
金官扶余と大和、豊国が同盟結んでたみたいだな
4世紀初頭台与の時代だ。

265 :日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:15:17
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
             /": : : : : : : : \
           /-─-,,,_: : : : : : : : :\
          /     '''-,,,: : : : : : : :i
          /、      /: : : : : : : : i     ________
         r-、 ,,,,,,,,,,、 /: : : : : : : : : :i    /
         L_, ,   、 \: : : : : : : : :i   / 古代日本?偉大な国だったでしょう。
         /●) (●>   |: :__,=-、: / <   シラキは、やはり日本領土だったと思ふ。
        l イ  '-     |:/ tbノノ    \    
        l ,`-=-'\     `l ι';/       \ 
        ヽトェ-ェェ-:)     -r'          ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ヾ=-'     /
     ____ヽ::::...   / ::::|
  / ̄ ::::::::::::::l `──''''   :::|
志良岐の国号を、勝手に新羅に変えた金奈勿は許せないっス。


266 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 05:17:42
佐伯は物部で出雲人です。
渡来系でしょう。銅鐸、四隅

267 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 20:22:41
>>263
君の説によれば、婚姻関係で入った倭人王族の他に軍事同盟による倭軍がいた
ことになっている。
倭軍として入った倭人は、いちいち往復するのは当時は困難だから、領土をもらって
土着しただろう。そのなかからお偉方の死者が出れば前方後円墳を築いたはずだ。
(土着した倭人が前方後円墳を築くことは、全羅南道の11基の前方後円墳(5、6世紀)
が証明している。)
しかし実際は、伽耶地域には前方後円墳は一つもない。

268 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 20:36:13
★古代カラ半島国家の歴史 2★

【任那】
地名の読みは、ミマナである。
日本国の第十代大王(オオキミ)である崇神天皇=孫木入彦命(ミマキイリヒコ)の御名を
記念して命名された。地名の意味は「皇孫の名」である。
志良岐の西側にあった日本国領土である。
任那は、正確に言えば「国」ではない。ヤマト朝廷が直接統治する天皇家の「領地」であった。
神武天皇が日本国を建国する以前から、任那には多くの倭人が住んでいた。隣接する志良岐や
久多良とともに、任那は日本文明圏を構成する地域の一つだったのである。
崇神天皇の時代に日本国の正式領土となった任那には、ヤマト朝廷が管理する鉱山と製鉄所が
置かれ、日本列島および志良岐、久多良へ鉄材が輸出されていた。
これらの鉄は、鍋などの生活用品を製造するための原材料として使われると同時に、剣や槍など
の武器の製造にも利用された。
そのため、日本にとっての任那は、経済面だけでなく、軍事面でも重要な意味を持つ地域で
あった。任那にはヤマトから派遣された軍が常駐していた。任那の軍は、任那の独立を守る
ための組織であると同時に、志良岐および久多良に対する軍事支援を行う任務も持っていた。
また、カラ半島北部の騎馬民族勢力に対する監視活動・情報収集活動等も行っていた。
朝鮮人国家の金氏新羅に征服されるまでは、多くの倭人が居住し、日本文化が花開く美しい
土地であった。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!


269 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 20:36:57
全羅南道(半島南西部)には九州系の倭人が住んでいたのでは
ないでしょうか?だからここで後期前方後円墳が見つかる。
前方後円墳が後期しか出ないというのは西九州旧甕棺地域と一致する。

金官はまた別の政治形態だったのではなかろうか、
扶余が実質主導権をもっていて前方後円墳を作らなかったとか
いずれにしてもこの地は近畿大和が支配していたのでしょう。



270 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 20:41:29
ところでこの中で江上の説を信じている人は本当にいるのですか?
研究すればするほどこいつが大嘘付きだったという気がして
もの凄い憤りを感じます。
専門家なら文献、各地の伝承はあたってるはず
直ぐ嘘と判る。

271 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 21:57:39
>>267
wikiより。

全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、
円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。

まぁ、どこまでを伽耶とみなすかという問題もあるだろう。
軍人は、何年かの任期で帰国してたんじゃないだろうか?

272 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:00:15
>>271
あれはよく調べたら、実は前方後円墳じゃなかったというヤツじゃなかったっけ?

273 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:18:22
>>272
同志社の森教授が前方後円墳と認めちゃった松鶴洞古墳?
あれは円墳が重なり合ってただけだったみたいだね。
NHKの番組で、東京大学名誉教授の斎藤忠氏が、
「森さんはもっと慎重に発言して欲しい」と言ったみたいだ。
異例だよね、そんな事は。

274 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:39:33
>>270
直ぐブチ切れる有名人

275 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:18:30
天照大神と高木神(御井神?)は一緒になって
天下りさせますが、アマテラス(女)が半島の鬼道の使い手で
高木神(男)は久留米の高良山の土着の神のように思う。


>>274
ヒントください。

276 :日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:26:10
>>274あ、すみません、気づきませんでした。。usi

277 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:01:21
御井(三井)神は木俣神となってますが元々は水神のようです。
この地を支配した物部(五十猛、スサノオ系)に変えられたのだろうか。


278 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 04:05:36
彝(イ)族自治州には美姑(ミコ)県というのがあり鳥をトーテムとしてます。
彼らの言語は今はチベット系ですがかつては西戒に住んでいたとか
中国の秦も鳥をトーテムとしてたらしいので彼らと同族だったのかも
しれません。
そして日本に鳥トーテムを持ち込んだ弥生人も彼らだったのかもしれないし
秦一族もやはり半島経由でもってきかもしれない。


279 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 04:40:17
魏志の辰韓では
大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す。
とある。

ヤマトタケルが戦死し八幡の香月に白鳥になり戻ってきたという
これはまさに辰韓を通じ(あるいは他(大和?)を経由し)この地に
トーテムとして鳥が入ったことを示してる。

伊都国では見られない風習であるという、
しかし弥生の遺跡の一部にはこの鳥の模型のような
ものが出るらしい、死者を送るためのものなのだろう。
秦の位置にあったイ族系の人たちが弥生人であった可能性が大きいと思う。

彼らは満州、半島を通過し列島に入った、しかし時代により、集団により
満州、半島の文化の影響を集団別に受けながら列島各地に渡来したのであろう。
そして列島や百済などの土着文化
赤、熊信仰、入れ墨などの風習が各々
吾人、倭人、イ人、奴人が混じり倭吾イ奴人を形成したのかもしれない。
日本は万の神というけれどアジア各地のいろんな風習が入ってる、
これは渡来人でもたらされたものもあれば単なる文化移入のものも
あったり複雑なのだろう。
ただ、ルーツが権力者によって隠されていて、
>>277のように判りにくいケースが多い。

280 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:29:10
>>272 >>273
全羅南道は百済の南部にあたり、倭と百済の間で領地の移動があったところ。
ここにある11基の前方後円墳はほんもの。

松鶴洞古墳は慶尚南道で、伽耶諸国のうちの安羅があったところ。
この古墳は273氏が言うように、綿密な発掘調査によって重なり合った
円墳であることが確認された。
結局、伽耶地域には前方後円墳は一つも発見されていない。

>>270
>研究すればするほどこいつが大嘘付きだったという気がして

「扶余がまず任那を、次いで倭を征服した」という彼の説のおおすじ
のうちで、少なくとも前半は証明された。
この部分については江上は予言者であり、それをけなしたおおかたの
学者連中は単なる事無かれ主義者であった。


281 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 14:19:46
>>280
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/trip04326b.html

>最初に行った慶尚南道の咸安(ハマン)は、
>安羅伽耶のあったところといわれ、町の背後の丘には古墳が累々と並んで壮観である。
>今も「安羅」や「伽耶」の地名が残る

282 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 15:36:51
>>267
金官の扶余王がいるうちは、
大和の人間は伽耶の地に前方後円墳を作らなかったと思う。
あんなもの扶余の木郭墓より目立つし、王に失礼だからw
大和のかなりの高位の人間が伽耶長官になっていただろうが、
もし伽耶で病死しても、大和まで運ばれてきたと思う。
産出した鉄をかなり頻繁に運んでただろうし、遺体もついでに運んだだろう。




283 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 17:55:50
★古代カラ半島国家の歴史 3★
【久多良】
国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。
6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と
同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。
久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。
クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。
古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」
「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。
久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的
に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。
久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も
大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識
で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから
である。
久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が
担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。
3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家
に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの
久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。
なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が
我々と同じ日本民族だったからである。
現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、
我々の体の中で生き続けているのだ。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!


284 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 17:57:49
★古代カラ半島国家の歴史 3★

【久多良】
国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。
6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と
同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。
久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。
クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。
古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」
「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。
久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的
に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。
久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も
大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識
で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから
である。
久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が
担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。
3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家
に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの
久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。
なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が
我々と同じ日本民族だったからである。
現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、
我々の体の中で生き続けているのだ。

これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!


285 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 19:24:32
>>267

>しかし実際は、伽耶地域には前方後円墳は一つもない。

前方後円墳は全羅南道にあって、伽耶にはない。
しかし伽耶が扶余に支配されたとして、
扶余傘下なら前方後円墳が作られないと言うなら、
百済は扶余系なんだから、そこで前方後円墳が大量に存在してるのも
おかしいのではないか?

286 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 20:03:56
>>281
>最初に行った慶尚南道の咸安(ハマン)は、
>安羅伽耶のあったところといわれ、町の背後の丘には古墳が累々と並んで壮観である。
>今も「安羅」や「伽耶」の地名が残る

どういう主旨で引用したのかわからないが、まぎらわしいね。
「町の背後の丘には古墳が累々と並んで」というのは咸安の末山里古墳群のことで、
山の数本の尾根筋に円墳が連なっているものである。
尾根の末端か平地に築かれる前方後円墳とは性質が異なる。

この旅行記はまぎらわしくて、咸安の話に続いて突然、最初に行った前方後円墳の話が
出てくるから、えっ、咸安にもあるの?と思うが、これは自動車で行った途中の行程を
飛ばして書いているのである。よく読むと13基の前方後円墳はぜんぶ全羅道である。

なお、韓国人は前方後円墳が韓国起源であるという立場から、決して「前方後円墳」
とは呼ばず、必ず「前方後円形の古墳」と言う、と書いてある。
哀れな意地だね。

287 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:40:17
結局、金官扶余王家は5世紀前後に消えるんだよね?
俺は大和朝廷の庇護のもと、日本に来たと思う。
もちろん大和の支配者としてなんかじゃない。
地方の豪族にもならない。
もう、大和支配下の豪族もがっちり固まってたし…
当時は河内王朝の時代になってから、
河内のどこかに隠居みたいな形でひっそり暮らしてただろう。
いずれ河内のどこかで木郭墓が見つかると思う。
それは彼ら扶余王が河内の大王墓の埋葬者だとする江上説の終焉を意味する。



288 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:01:29
江上はチョン州の朝鮮帰化人だったのではないか
専門家ならまず気づくはずだ!
大和王権は出雲王権と同一で
期限1世紀ころには本州全域に大規模なものが成立している。
その後混乱はあるが基本的に本州ほぼ畿内の勢力圏である
将軍を派遣してるのは確実だね。


289 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:31:33
騎馬民族説とは、満州を祖地とする扶余と倭人の大和の話なのに、
関係ない韓国人がしゃしゃり出て来るとは、ある意味お笑いだな。

290 :日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:20:47
出自が違うと言うことは、漢直・秦造と配下?(というのも隷属
縦社会的解釈で、氏族長である大人は下から推挙されたリ−ダーで
あろう。)その下の漢・秦の習俗や文化が違ったという根拠でも
あったんか?
佐伯というのは、民族、文化概念であろう。東国に勢力を伸ばした
大伴氏は、佐伯との関連が深かったろうが、大伴氏と佐伯連が
同じ文化習俗集団であったとする根拠も聞きたいもんじゃ。


漢直と漢人の間に、氏族長も糞もあるかよ。漢人は配下豪族なんだから。

官人・豪族的だった「漢人」と比較すると、「秦人」は技術者集団的要素が強いという。
秦氏の場合、秦造と秦人とでは歴然とした格差があったろう。基本的に。
それに秦造系氏族が膨大な数だから、秦造自体は擬制的同族関係とも言えるはず。

>大伴氏と佐伯連が・・・・
佐伯連が安芸人じゃないと言った事に対して噛み付いてんだろうけど、
佐伯連は大伴と同族、古代中央貴種。安芸の佐伯氏は直姓、地方有力豪族。
佐伯部は常陸あたり出身?とも思われる、東国出身主体の陸の歩兵だろうか。

291 :白馬青牛:2006/01/19(木) 23:47:39
>>290
「天皇家って何処から来たの?」と同じ文章か。
ほいじゃ、わしも同じことを言うわい。
戦国時代、上杉の越人(蛇族)に喰われ奴隷にされた関東(蛙)がよう
吠えるのう。蛇に喰われた蛙は劣等感が強いわい。考え方も井の中の
蛙じゃしのう。越後の先祖、中国江南へ行って、土下座でもすりゃァ
似合うど。

292 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:23:12
※急(隠密)な合戦であった平治の乱で義朝は、その基盤の関東武士を僅かしか動員出来なかった。
それに独立心が強い関東武士が簡単には上洛しなかったことなども。
『保元物語』と『平治物語』を比較すると、平治での東国武者の参戦は少ない。


『源平合戦と平家物語』上横手雅敬著(京都大)2001年

・平家物語の作者はネット裏で観戦している。どちらか一方をひいきにするのではなく、
源平の両方に公平な態度で書いていて、パッションがない。
・(歴史叙述の一形式である平家物語)確かにそこには史実が記されている。
しかし史実を記したといっても、平家物語は単なる記録ではなく、紛れもなく文学性を持っている。

・生まれながらに平家の御曹司として育った清盛は、保元・平治の乱を除けば、生涯を通じて
合戦らしい合戦を経験しなかった。
為朝は「清盛などがヘロヘロ矢」とあざ笑っているが(『保元物語』)、確かに一騎打ちでもすれば
坂東育ちの義朝にはかなわないだろう。
・合戦という事になれば、平氏は源氏に勝ち目はない。
平氏の率いる西国武士は、僧兵や山賊・海賊を相手にしてきた天朝の番犬であるのに対し、
源氏の基盤である東国では、合戦自体が目的であり日常茶飯事である。

保元・平治の乱に、清盛・重盛はよく戦っているがとうてい勇将とはいえない。
平治の乱の清盛は、熊野詣の留守中に義朝が挙兵すると言うハンディを克服し、より勇敢な相手を
撃破した。
相手方を油断させ、分裂させ、天皇・上皇を相手の支配下から脱出させるという
政治力の勝利であった。
東国の原野での合戦ならばいざ知らず、京都において複雑な朝廷社会を背景にして戦うという大局の
洞察において、清盛は義朝よりも優っていた。彼は義経などとはタイプを異にする名将である。

293 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:50:39
>>292
また、他スレと同じ文章か。平治の乱で、関東武士の参戦が少ないと
言うとるが、兵数を明記せいや。関東が合戦らしい合戦を経験したんか。
自ら名乗りを挙げる合戦がそうなんか。地物、地形の利用、奇襲や
迂回する等の戦闘技術でもあったんか。当時の関東の私闘は、後世の
近代博徒集団の戦闘に類するものであろう。戦後博徒集団も名乗りを
挙げて戦う形態も少なのうなったが。
まあ当時日本自体が重装騎兵に馬甲を付けず、矛でなく弓を使う等、
中央ユーラシアでは考えられん拙劣な戦闘方法を使うておった。
上横手氏の関東武士美化による妄想も甚だしい文章じゃ。
越人蛇奴隷の関東蛙民が、喜びそうな文章じゃのう。

294 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 01:01:33
>>293
頭に血が上りすぎて、コテ忘れてるよ
血圧には気をつけてねw

295 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 03:48:40
百済の大寺と言うのがあっただろ?
法隆寺と同じ時期に同じ規模の寺。
あれは一体何?
応神・仁徳陵の頃の同じ規模の吉備の造山古墳とかも。

296 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 09:10:22
当麻郷[たぎまのさと]
茨城県鹿島郡鉾田町当麻。古老が言うには、倭武天皇が巡行して、
この郷をお過ぎになるときに、佐伯(土蜘蛛の類)の鳥日子という者
があった。命令に逆らったため、すぐに殺された。そして、
屋形野の帳の宮においでになるとき、御車の通る道は狭く
凹凸が烈しかった。悪い路の意味で、当麻という。

先住民なのに日と鳥が名前にある、
しかもヒコ
おそらく渡来系だろう。

297 :がいやまん:2006/01/20(金) 10:07:08
当麻郷[たぎま) これって大和にもある。多分殺されたのは地元の大王だろう。
漏れは、殺した大和政権の大和タケルの方こそ渡来系ではと疑う。

298 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 10:21:00
タケル以前にも渡来系の司令官が各地に派遣されてるの
だと思います。

299 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 13:37:51
>>285
>扶余傘下なら前方後円墳が作られないと言うなら、
>百済は扶余系なんだから、そこで前方後円墳が大量に存在してるのも
>おかしいのではないか?

前方後円墳が存在する全羅南道(および北道)は、510年代に倭から
百済に割譲されたものだ。そのことが日本書紀(継体記)に書いてあって
それが考古学と一致した例だ。(古墳の年代も5世紀後半〜6世紀前半)

つまり、全羅道の前方後円墳は倭の支配の下で築かれたものであり、
この時代、倭人豪族が半島に土着すれば前方後円墳を築いたことを示して
いるのである。



300 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:55:56
>>299
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
_____________________

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   ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::|  │
    |:|: ..   :||    .. |:|  │
    :|: ..   ||    ..|| <   古代のカラ半島南部は
                     日本領だったのだ!
     :\ [_ ̄] /::|   │
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古代カラ半島の歴史1・2・3をコピーせよ。
近所にバラまきたまえ!
地球を守るために、ウルトラマンに協力せよ!!


301 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:54:40
>>299
その時代はそういう事なんでしょうね。
ただ金官扶余王がいた5世紀前後までは、
倭人は墓を作らなかったと思うよ。
>>282にも書いたけど。

302 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:01:24
崇神天皇=御間城入彦五十瓊殖尊
も神功も実在で記紀の記述に基本的に間違いはない。
高句麗、中国の記述と同じじゃないか!
全部が真実ではないとしても基本はあってるのである。
馬漢、辰韓は神功によって百済、新羅に改名させられたのである。

303 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:07:18
騎馬民族説では、まず北九州を侵略したとか言ってたけど証拠出てる?
それさえないのが現実でしょ。

304 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:13:52
江上はチョン州の帰化人だよ
この証明を先したいほどだw

素人じゃない専門家、大家だ。
記紀、風土記、中国、韓国の史書、遺跡、地名
照らし合わせるとこいつの説が大嘘付きであることは
素人にも一目瞭然。
嘘800こいて愚民を欺くのが目的だとしか思えない。


305 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:20:30
>>302
>神功も実在で記紀の記述に基本的に間違いはない。
>高句麗、中国の記述と同じじゃないか!

神功皇后が出ている高句麗、中国の記述を教えてくれ!


306 :日本@名無史さん:2006/01/20(金) 22:09:37
記紀に神功が三韓征伐するとき、故郷大和の三輪山にちなに
この地域を三輪となずけ、銅矛・銅剣を祀り
民衆を鼓舞したとあるが
これは残ってるね。
江上、安本始め大嘘付きは認めないけど

307 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:04:25
>>306
そんなありふれた地名説話でなく、高句麗、中国の記述を教えてくれ!

308 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 15:52:56
>>304
>記紀、風土記、中国、韓国の史書、遺跡、地名
>照らし合わせるとこいつの説が大嘘付きであることは
>素人にも一目瞭然。

扶余による任那の征服はあらゆる「記紀、風土記、中国、韓国の史書、地名 」
に出てこない。
まさに事実は文献より奇なり。それを予言した江上は偉大だ。


309 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 16:08:34
>>301
>ただ金官扶余王がいた5世紀前後までは、 倭人は墓を作らなかったと思うよ。

少し正確にすれば、金官王朝は5世紀初頭でなくなるのではない。
金海地域で王墓が作られなくなった後、釜山地域に王墓が作られるようになった。
この「新王朝」と金海王朝との関係は不明だが、ともかくも釜山の王朝は
金官加羅を代表し、6世紀後半の滅亡まで、木郭墓を作った。

だから前方後円墳の有無は時代の差ではなく、地域性の差だ。

310 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 16:39:50
6世紀に百済に譲渡するまで、
全羅道で倭人が前方後円墳墓建設するくらいの権力を
その地で持ってるんだから、
加羅の倭人を「征服した」扶余は、倭に「侵攻」するより先に、
当然全羅道の倭人も制圧するのが手順じゃないのか?



311 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 17:49:14
>>309
そうすると、4世紀後半に大和を制した騎馬民族というのは誰になるのだろう?

312 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 18:54:26
>>311
誰でもない



騎馬民族は来なかった

313 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 19:43:06
少なくとも征服者としてはやってきてないね。

314 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 19:55:28
>310
何回も言っているのだが、扶余征服説の立場からすれば、全羅道の倭人は列島が
扶余に征服されて、扶余化した倭国ができた後に、半島に逆進出した倭人だ。

これは、いつもの例で言えば、イギリスがノルマンジー半島のノルマン人に
征服されて、イギリスがノルマン化し、イギリス/ノルマンジー連合王国が
できて数十年後に、イギリスがフランスに逆進出した(英仏100年戦争)
のに相当する。

倭の場合も扶余によって任那/倭連合王国ができたと考えるわけだ。

315 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:01:38
>>312 佐原真と江上の論争で佐原は騎馬民族の風習が日本に全然伝わって
いないと言っているようですね。


316 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:03:02
>>314
訂正
数十年後 → 270年後


317 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:04:39
>>314
俺は310じゃないけど質問。
半島南部にいた倭人(北九州系)が扶余に征服されたまでは同意できても、
そのすぐ後、金官に畿内系青銅器や土器が出て来ることについて、
あなたはどう思うのかな?

それとイギリスの王家はちゃんとした系図か伝承を持ってて、
物証もあるから、事実とされてるんだと思うよ。


318 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 20:43:58
>>315
学会では相手にされてない騎馬民族説

319 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:26:57
★古代カラ半島国家の歴史 4★
〜謎の民族カラビトの正体〜

古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。
シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、
古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。
つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を
組織的に展開しているが、これはデタラメなのである。
古代日本に移住したのは、カラ半島に住んでいた倭人=カラビト(韓人)であり、彼らは日本民族
だったのである。
カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。


320 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:27:45
http://blogs.yahoo.co.jp/kmlyshk/folder/951825.html

321 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:39:34
>>319 江戸時代に新井白石が日本の起源は馬韓ではないかと言っているが
この辺から大和朝廷の先祖が渡来したのかも知れない。しかしそれは倭人と
同じ日本語族だったのだろう。日本語と新羅語の王の称号が異なることが
決定的証拠になる。



322 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:00:42
>>314
それなら加羅でもその後、
細々と木郭墓作るだけでなく、
全羅道同様、前方後円墳が築かれないとおかしい。

323 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:05:26
がいやまんさんの言うとおり
全部秦の末裔だな。


324 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:05:36
>>322
なるほど。
それもそうだなw

325 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:10:00
日本の前方後円墳が3世紀に造られたのに対し
韓国のは5、6世紀に造られたんじゃないの?
日本の前方後円墳は2世紀に遡れないかな?


326 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:14:12
デムパ過ぎて感電しそうなスレ

327 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:16:12
>>325
俺の予想では2世紀後半まで行きそうだな。
もちろん、天理あたりの古墳。

328 :日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:38:35
日本最古の前方後円墳は2世紀まで遡れるかもしれないね^^
俺はそう信じたいな〜。


329 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:23:44
>>317
>半島南部にいた倭人(北九州系)が扶余に征服されたまでは同意できても、

北九州系の倭人ではなく、倭人と言われる狗耶韓国人が扶余に征服された。

>そのすぐ後、金官に畿内系青銅器や土器が出て来ることについて、

それらは出土品の一部であるが、金官と畿内の間に貿易があっても不思議
ではない。なにしろ畿内は鉄を入手しないといけないのだからそれでも足りない
くらいだ。申教授は倭の「商品」は兵士だったのではないかと言っているが、
それに反対する日本人学者が少ないのは面白い。

>それとイギリスの王家はちゃんとした系図か伝承を持ってて、
>物証もあるから、事実とされてるんだと思うよ。

すぐその言い方が出てくるが、既知のことから未知のことを類推する話を
しているのだ。

330 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:27:56
>>322
>それなら加羅でもその後、 細々と木郭墓作るだけでなく、
>全羅道同様、前方後円墳が築かれないとおかしい。

おかしいと言ったのは私だ。倭人による金官簒奪説に対してね。
で、なぜ築かれなかったのか。倭人による簒奪や、倭軍の駐留などはなかった
からだ。
扶余征服説の立場から言えば、扶余化した倭は父祖の地である任那の体制を
尊重したのである。
それに対して、全羅道は伽耶諸国にも百済にも属しておらず、倭にとって
草刈り場だったのではないか?

>>325
>日本の前方後円墳が3世紀に造られたのに対し
>韓国のは5、6世紀に造られたんじゃないの?

その通りだよ。全羅道の前方後円墳が5、6世紀だというのはすでに私が言って
いる。扶余による倭の征服/簒奪の後の逆進出だから当然。

331 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 16:18:11
>>330
倭人は進出、駐留したのではなく、最初からそこに住んでるだろ。
おかしな論理だな。
すると半島に逆進出した倭人の墓は前方後円墳で、
扶余が木郭墓ということになるじゃないか。
しかし日本に「侵攻した」扶余の墓は前方後円墳なんだろ?
加羅がずっと扶余の支配下なんだから、改めて派兵する必要はないし、
派兵するなら、他と同じ前方後円墳になるのが当然だよ。
単純に言って、加羅と全羅道の墓制が違うなら、
支配の形態がそもそも違うと考えるのが当然だ。
加羅が木郭墓なんだったら、そこは扶余の影響が強いから倭人と言えど巨大墳墓構築は無理、
全羅道が前方後円墳なら、そこは倭人の圧倒的な影響下だったということ。
普通に考えて、扶余が加羅に進出してそこの倭と同盟関係になった、
仔馬が倭に飼育師とともに輸出され、生育して騎馬兵力を作り出せた、
騎馬戦術による倭の急速な国家統一が実現しその象徴が前方後円墳、
今度は半島に大量に兵力を拠出、倭が全羅道を掌握、現地に前方後円墳を建設、
というのが妥当な推察だよ。そして扶余は細々と加羅に木郭墓を建設してたんだろう。

332 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 16:56:28
江上さんは1984年に書かれた本で、
福岡の老司古墳、池の上古墳の出土品と伽耶の類似から、
「伽耶の騎馬文化が5世紀初めごろ北九州にもたらされ、
さらにその後、瀬戸内、畿内に広がった」と少し解釈変えたみたいだが、
なら征服者を何天皇と考えたのだろう。

333 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 17:23:30
>>330
それとさぁ、墓制の話に戻るけどね。
文献上、高句麗が扶余に支配されてた時代の首長の墓が、
従来どおり高句麗そのままだからと言って、
扶余は在地の文化を踏襲するってのは無理があり過ぎるよ。
それって、はっきり扶余人の墓と決まったの?
「文献上、扶余が支配してたから、この墓は扶余人と思われる」
程度の話ではないのかな?
ググったけどわからないんだ。

だいたい、父祖からの伝統を重んじず、
埋葬される形態まで在地のものを踏襲する民族なんて世界にいないと思うよ。
だから申教授は日本で木郭墓が出ない以上、扶余の日本征服説はないと言ってるんだろ。

334 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 17:34:34
金氏新羅の初代王・金奈勿は、高句麗王・故国原王に対し、

「私はシラキの王になりたい。私が王となった暁には、
 シラキは高句麗に従属します」
と、言って、高句麗の軍事支援を求め、稲飯命の子孫である志良岐王族を
高句麗軍の力を借りて、皆殺しにした。
志良岐王族が滅びたあと、金奈勿は、計画通りに新しい王となった。
しかし、任那から来たヤマト軍に志良岐領土を占領され、
一時、高句麗に逃げた。

金奈勿が、自分が王になりたいがために、
志良岐と稲飯命の子孫である志良岐王族を高句麗に売った件については、
満州にある広開土王碑に書いてある。


335 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 18:12:24
老司古墳
http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/roujikohun.htm
 人類学からの推定では2号石室では兄弟関係、
4号石室では親子関係の可能性が指摘されている。
ともあれ5世紀前半代におけるこの地域の最高首長クラスの家系であるが、
顔面の特徴はいわゆる渡来人渡来人的でなく、
縄文人的特徴をも有している点で
「弥生時代以来の混血を経た形質」であるとされたことは重要な示唆を与えてくれる。
すなわち伝統的な在地型首長の家系を引く首長層であることを意味しており、
一部の副葬品に加耶系遺物があることのみを重視して、
渡来系首長であることを主張する向きがあったことに対する警鐘である。

336 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 18:19:43
結局、何も難しい事はないのです。
前方後円墳は大和系。
金海木郭墓は扶余。

たったそれだけ。

337 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 20:46:03
>>334
>志良岐と稲飯命の子孫である志良岐王族を高句麗に売った件については、
>満州にある広開土王碑に書いてある。

初耳だ。碑文のその部分を引用してくれない?



338 :日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:18:03
姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/01.htm
志良岐氏は新良貴氏だ。かれは但馬丹波から半島に渡った
辰韓のシラ国の村長が起源。
後、金氏の子孫、日鉾(日は高句麗アイテム)が但馬に移り住む
日鉾の子孫は皇孫(高句麗人の子孫)として各地の司令官に
天下りする。

339 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 09:05:59
平氏(赤旗=先住民の色)はどこに拠点があった?
源氏(白旗=朝鮮人の色)はどこに拠点があった?
南朝はどこに拠点があった?北朝はどこに拠点があった?
水神と共に祀られる平氏、水神といえば西日本だよね。
平氏も貴族だから朝鮮の血は濃いよ、しかし先住民の
反乱だったんだ。あれは単なる権力闘争じゃないんだよ。
南朝しかりだ。よーく考えよう。
記紀、倭人伝、東夷伝、風土記をよーく読もう。
先住民はいま朝鮮人(源氏=東日本人)により根絶やしに
されようとしているのである。

340 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 15:24:08
>>331
>倭人は進出、駐留したのではなく、最初からそこに住んでるだろ。

金官に最初から住んでいるのは狗耶韓国人だ。狗耶韓国人は倭人と
言われる(私もそう思う)が、ちょうど吉野が里のような発展段階
にあり、吉野が里と同様に大和の体制に組み込まれたことはなかった。
進出、駐留と言っているのは大和政権の軍隊のこと。

>すると半島に逆進出した倭人の墓は前方後円墳で、
>扶余が木郭墓ということになるじゃないか。

その通りだがなにか?

>加羅がずっと扶余の支配下なんだから、改めて派兵する必要はないし、
>派兵するなら、他と同じ前方後円墳になるのが当然だよ。

全くその通り。それが私の主張していることだ。一回性の派兵/共同作戦
はあっても駐留/土着はなかったのだ。

>全羅道が前方後円墳なら、そこは倭人の圧倒的な影響下だったということ。

これもその通り。ただし倭人の、と言うより大和政権の影響下。

341 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 15:27:44
>>331 続き
>普通に考えて、扶余が加羅に進出してそこの倭と同盟関係になった、

「そこの倭」というのが狗耶韓国の意味なら、扶余の金官は狗耶韓国に
取って代わったのだから、扶余と狗耶韓国との同盟は有り得ない。
それとも狗耶韓国人を通じて畿内政権と同盟したという意味かな?

>騎馬戦術による倭の急速な国家統一が実現しその象徴が前方後円墳、

前方後円墳の発達が始まった4世紀には、まだ列島の本格的な騎馬化
は始まっていない。ところが従来の説だと倭は4世紀中葉には任那を
服属させていないといけない。それが問題。

>>333
では百済はどうなの? 百済については以前に解説のページを示したが、
見てくれたかな。 百済の王族が扶余であることは墓誌銘に記されている。

>父祖からの伝統を重んじず、 埋葬される形態まで在地のものを踏襲する
>民族なんて

清王朝の始祖を祀る瀋陽の北陵は中国の明十三陵とそっくりだが。

342 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 16:34:57
>>341
なるほど、騎馬民族は先代の文化をほぼ引き継ぎ威厳を保つ性癖があるというわけだな。

金官扶余の木郭墓が続いてるからと言って、
そこに大和軍が駐留してなかったという根拠はある?
上の方でも言ったけど、
扶余王の領地に前方後円墳がないのは、
そこが王の領地だからだと俺は思う。

で、聞きたいんだが>>335の老司古墳だが、
江上さんは自分の説が証明されたと言って喜んでたんだが、
あなたはどう思う?
俺は大和系豪族の墓だと思うのだが。

343 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 19:28:00
白牛さん

でてこないけれど
朝鮮の血が濃いことがわかって
出てこれなくなったのかしら?

344 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 21:11:59
馬韓は百済になり、辰韓は新羅になってるのに、
弁韓は統一されてないだろ?騎馬集団が侵攻したのは同じなのに。
同じ扶余系が現地の韓人を支配した馬韓では統一されてるんだから、
同じことが加羅で起ったなら、同じように統一されなきゃおかしいだろ。
扶余が侵攻したにせよ、馬韓と弁韓とは事情が違うってことだ。



345 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 23:00:14
古墳時代中期の馬具と馬匹
ttp://www.momoso.net/JAA2004.html

倭(古墳時代の日本列島の社会集団)の首長層にとって、馬や馬具は
ただ所有しているだけで所有者に社会的重み、権力、影響力を与える
威信財として重要な意味を有した。

【5世紀前半〜中頃】
大局的に判断すると、日本列島に馬やそれに騎乗するための馬具が
組織的に導入され始めるのは5世紀に入ってからのことである。

日本列島においては戦争による領土の統合が進まず、
前方後円墳など特定形態の墳墓の造営を通した祖霊祭祀の共有を
重要な要件とする武力抗争回避秩序が列島諸集団の間に形成され、
後の畿内をその初期値としての相対的な中心地とする比較的安定した
物流ネットワークが形成され、古墳時代前期社会が成立した。
前期社会の安定的経済空間には循環的因果関係に基づく中心地への
富の集積が促進されて「畿内」に富と権力が急速に集中し、
物流ネットワークの一元化も進んで武力抗争を経ずに領土の統合が
実現し古墳時代中期社会が成立した〔岡安〕


【5世紀後葉〜6世紀初頭】
倭の馬具に大きな変化が急速に進行した。もっとも重要な点は、
新羅や伽耶には遅れたが、倭の社会において、威信財としての馬具が
組織的に製作され、広範な首長層に供給される社会システムが成立した

倭の馬具の急激な変化の最大の契機は百済社会の壊滅による
技術(工人)の流出と考えられるが、そうした国際的契機と
おそらく連動した倭の社会の変化も強く関係していた。

346 :日本@名無史さん:2006/01/23(月) 23:23:30
古墳時代の軍事革命
ttp://www.momoso.net/JAA2005.html

【古墳時代中期】
倭の馬匹生産は畿内王権主導で既に中期から積極的に開始されていたが、
騎兵編成には至らなかった。
倭軍の教義が重装弓兵による半島南部の陣地防御に主眼を置いていたから当然である。
王権中枢は騎兵の育成を怠っていたわけではなく、渡来人の力を得つつ、
騎馬兵力の中核となる馬匹生産集団の育成をとくに東国に重点を置いて開始していた。

【古墳時代後期】
倭軍は弓兵の重装甲化を一気に停止し、主要装備から鉄製甲冑と剣を廃止した。
次いで東国を中心に弓兵の騎兵化に着手した。
倭軍の教義が、中期までの陣地防御から、機動防御を主眼とする教義へと
変化した結果と見られる。

【古墳時代末期】
東国の私的軍事力(国造軍)を基盤とする倭の軍事体制が確立した。
東国の軍事的独立が倭王権への隷属を条件に一定程度保証され、
倭軍の主力として編成され、東国が成立した。
騎兵の充実はこの期の特徴で、馬具の標準化も進む。


倭は、高句麗・新羅・唐との戦争を通して三次にわたる軍事改革を押し進め、
東国国造軍をその主力とする独自の軍事制度を構築して軍事革命を実現し、
極東の軍事的緊張の時代を滅びることなく克服し、独立した国家を
建設することに成功した。

347 :白馬青牛:2006/01/24(火) 02:09:09
>>343
日本に、朝鮮の血が濃いことは、篠田謙一氏のDNAから弥生以降、
遼寧・山東・朝鮮の狭い範囲から渡来した集団であった事や、
徳永勝士氏のHLAからも朝鮮が日本人に一番近いとされておる。
ただし朝鮮とは歴史的文化が違う道を辿ったと言うとるんじゃが。
>>346
岡安氏の妄想。中央ユーラシアの戦闘形態を無視し、井の中の蛙式思考は
笑うしかない。重装弓兵で重装矛騎兵に対抗出来るんか。重装弓兵を
何処に配置するんか。高句麗の重装矛騎兵、重装矛歩兵に対し。
陣地中央か側面か。しかも馬甲を装着せんかったら馬がやられる。
重装弓騎兵では戦闘出来ん。それをどのように運用するんか。
まずそれを答えよ。

348 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 02:14:34
このスレの書き込み、ネタか本気かわからないのがあるが、

日本は東北(ロシアからのツングース系)で、馬が来ているぞ。
で、
歩兵主体の大和朝廷軍が、騎馬の東北を征服していくわけだが。


349 :白馬青牛:2006/01/24(火) 02:33:39
>>348
蝦夷の騎馬習俗が、大和からの影響か、オホーツク文化人からの影響か
断定出来ん。オホーツク人の「靺鞨」(ツングース)は騎馬習俗が
あるが、靺鞨と蝦夷の間の樺太の「流鬼」は騎馬習俗が無かった。
蝦夷の騎馬文化は、謎の部分が多い。


350 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 02:35:24
>>350
>蝦夷の騎馬習俗が、大和からの影響か、オホーツク文化人からの影響か
>断定出来ん。
馬の数から見て、オホーツクで間違いないだろう。
文献などを信用するならね。

351 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 02:37:34

http://www.tabiken.com/history/doc/C/C059R100.HTM
>718年(養老2)エゾが1万1,000頭の馬を献上したと記録されているが,
>これはエゾの朝貢貿易を示すものである。

短期間で異常繁殖する動物でないことは確か。


352 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 02:40:13
加羅・対馬・筑紫の北九州と、畿内とか併存してたわけだが、
九州は鉄産出する加羅が中心だった。
そこに扶余が進出してきて九州の思い通りにならなくなったんで、
倭国内での九州の地盤が低下。九州は加羅と対立するようになったんで、
畿内が加羅と交易し始め、倭国において畿内>九州の勢力関係が定着。
対加羅攻略において、早急な畿内中心の連合形成が必要になった。
独自に馬飼育して力を蓄えた大和政権が半島に本格的に進出し始め、
全羅道を占領して前方後円墳を建設。
準同盟関係の加羅とは直接的な交戦状態にはならずに、
対高句麗・新羅作戦上、倭国が加羅扶余王家を婚姻関係を通じてゆっくりと併呑していった。
それにより百済扶余王家とも血縁関係が生じ、以降同盟関係が樹立される。
遂に加羅が高句麗に屈服したり、百済滅亡に至り、
扶余王族は日本に亡命することとなり、扶余知識人らが
扶余・高句麗と共通性のある神話伝承を日本にもたらした。

百済王子らが、倭国に人質に出されたりしてるが、
単純な本家と分家の関係とかなら、人質に出す出さないとかの関係には成りえないはずだが、
上の筋書きなら、そうことがあって不思議ではない。

353 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 02:41:00
こっちにもあった。

718念 養老 2
http://www5b.biglobe.ne.jp/~NOTO/chronology.htm#縄文時代〜弥生時代
8月 出羽と渡島(わたりしま:北海道)の蝦夷87人が入京し,馬1,000疋を貢上した。

どう考えても希少価値があり、人間が持ち込まなければならない馬が、
東北に逃げて、急激に増え、しかも非交流の野蛮(大和から見て)が、
乗りこなせるようになったと考えるのは、無理がありすぎ。

やはり東北から流れてきたと考えるべきだろう。

354 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 02:43:54
>>352
稲作の時期から考えて、日本の人口はもっと早くの段階で増え、
(これは稲の遺伝子から見ても信憑性がある)
朝鮮半島と日本を行き来していたと考えるのが普通では?
そういった人々の国(もしくは集落)が、早くから朝鮮にあったのだろう。

実際に、朝鮮半島には縄文式土器やら、貝塚やらが出てきているわけだし。

355 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 02:48:48
朝鮮人は野生の稲だけを探して騒いでいるけど、
(稲を育てていたとする根拠がない)

日本の場合は紀元前1000年前には、
稲作が起こったとする根拠があるわけだし。
稲は寒さに弱いなどの欠点もある。
一定の食料を手に入れた日本人が、半島に渡っていったとする根拠のほうが高いだろう。
もっともその場合は、稲作技術を持つ越人が日本に渡ってきたと考えるのが妥当だが。
ちょうど越滅亡の頃に、日本の稲作が始まるわけだし、
入れ墨の習慣(越と邪馬台国)の共通点もある。
そうすれば、一つの線で結べる。

356 :白馬青牛:2006/01/24(火) 03:25:33
>>351
大和と蝦夷の戦闘の時も蝦夷は馬や奴隷を献上しておったが、
弥生期から馬の骨の出土が東日本へ集中しておること、
関東、東北に犂耕の少ないことは、東北の騎馬文化に致命的なことで
あろう。靺鞨も人力による犂文化がある。文化複合セットによるもので
ないと、根拠にならん。しかも黒水靺鞨は歩兵戦を得意とした。
同様に犂文化のある西日本でも、乳文化は無く、遊牧民セット文化の
流入は無かったと言えよう。
>>355
北陸が大和から「越」と呼ばれ、江南起源の蛇族であったであろう。
王朝から見て彼等が別集団との認識もあったと思える。
倭人は骨占習俗や人種的にも江南より山東・遼寧の人種要素が強いで
あろう。刺青も倭人だけでなく、韓人にもあった。
倭人も漢人の奴隷であったことに変わりは無いが。

357 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 08:44:53
倭人のルーツはわかりにくい、確かに山東と共通の骨占習俗は入っている
しかし、山東の先進的な文明全ては入ってない。
(須恵器に代表されるもの)
高良山の御井神、博多の住吉大神に代表されるよう、水に対する信仰
また、火に対する信仰が強い。
半島の文化移入も縄文後期、
支石墓に代表されるものは長崎高来町有馬(縄文の屈葬を踏襲、人骨も縄文的)
馬を埋葬する習俗、鳥をトーテムをしたものは吉野ヶ里、筑紫野の辺境の地であり
またその広がりは局地的で広がりをみせない。征伐された土蜘蛛、熊襲の氏名を
みてもそれらトーテムを示している可能性は低い。

例として川上梟師の、梟は大和側が征伐した蝦夷 八十梟師の名前を由来とする、
羽白熊鷹は神功紀で後期古墳期。基本的に耳垂、鼻垂、土折居折、麻剥、厚鹿文
熊津彦、熊兄等、蘇民、熊民、土民を顕すものばかり。
現在でも九州倭人は鳥、馬などを示す地名、苗字は極めて少ない。

というわけで、
倭人は半島、江南?から来た渡来人を臣民とし支配していた
縄文人の末裔であると考える。

むしろ、苗字、地名からすると蝦夷の方が渡来的ではないか。


358 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 08:58:25
753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/23(月) 03:51:57 ID:a0zUhsNw
残念ですが、東北、関東の金、今野、近野、紺野さんは
新良貴建国の時の金氏の末裔だよ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kin_sei.htm
東北には金氏の古墳だってあるんだぜ〜
顔みれば判るし、DNAでも一致してる、
白信仰の本場でもあるだろう。

359 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 09:47:43
漏れはずっと八幡大明神の末裔
到津荘、小倉荘、麻生荘、山鹿荘、上津役郷、野面荘、香月荘
を新渡来系だとみてきた、
でも八幡も土着性が極めて高く、天孫度が低いことがわかった。
土蜘蛛征伐の将軍達
大屋田彦、小狭田彦、田道命等、天、日等渡来を示すアイテムが無い。
おそらく、田園を支配していた豊前の豪族だろう。
非主流派(甕棺地域)の土蜘蛛も同じ田の苗字が居り
基本的には似た血筋だと思う。
水田を行う土着民系だと思う。
八幡大神達も
土着性の高い為に中世、東国から天孫系の武士
宇都宮氏が
派遣されその殆どが失脚することになったと思われる。

360 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 11:24:32
>>347
逆に高句麗は鉄をどこから調達してたのだろうか?
広島ハゲの短絡性には笑うしかない。

361 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 11:51:11
略奪思考(騎馬)
生産思考(稲作)
基本的に生産思考の人はあまり人と対立しないし、
軍事もせいぜい略奪者から防衛する為の手段。
そう考えると稲作地域が急に略奪者(騎馬系)になるとは到底思えず。

362 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 11:53:45
銅剣銅矛祭器(実用性ゼロ)を侵略者のアイテムと考えた
戦前の人の思考の短絡性に呆れる。

363 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 13:02:09
>残念ですが、東北、関東の金、今野、近野、紺野さんは
>新良貴建国の時の金氏の末裔だよ。
その資料自体信憑性が薄いだろ。
当時は、殆ど誰でも適当な有名人の血縁を名乗って書き記しているわけだから。

>顔みれば判るし、DNAでも一致してる、
顔を見てきたのか、凄いな。
DNAって何のDNAだよ!

そっちの主張の根拠は滅茶苦茶怪しいが、
その当時の朝鮮の墓から出る骨は、何故か中国系の特徴をもっている。




364 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 13:14:10
>>356
>>弥生期から馬の骨の出土が東日本へ集中しておること、
それは東北から流れてきて、関東で発展したとも考えられるのでは?
だいたい東日本は土質から、馬の骨は残らないわけですが、
何を根拠にして馬の骨と言っているのか分かりません。

>>関東、東北に犂耕の少ないことは、東北の騎馬文化に致命的なことで
>あろう。

○犂耕 りこう
牛馬に引かせた犂(すき)による耕作。

騎馬文化と全く関係ないと思われます。
騎馬民族と農耕文化の繋がりもよくわかりません。

当時の東北も、乳文化のあるなしは、どうやって見分けをつけるんですか?
たまたま、乳文化だけが西に受け入れられなかったと考えても
おかしくないですよね。


365 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 13:15:47
>>356
刺青も倭人だけでなく、韓人にもあった。
その韓人が、何人なのかが分からない。

現在の韓国人とは違う人種であることは、間違いないだろう。


366 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 13:22:59
逆に、朝鮮半島系の人々が農耕文化をもっていたのならば、
東北の馬文化とはさらに別なモノと考えられるのでは?

比較しようにも、朝鮮半島の古代史は闇の中だからな。
何系の民族だったのかも含めて、想像することしかできない。


367 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 13:28:36
西日本ではかつて水をアカともいったらしいが
(アクアと関係ある印欧語の名残とされる。)
これが何時入ったかも知りたいとこです。

368 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 13:29:48
東夷伝があるさ

369 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 14:00:31
>>365
当時半島にはいくつもの人種がひしめいていたわけで……
韓国(朝鮮)人といえる人種は存在してない。

日本もそうだとも言えるが半島よりは現在への連続性があるような気がする。

370 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 14:01:44
133 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 13:35:53
新羅は出雲人の国
http://makimo.to/2ch/mentai_whis/980/980828553.html


134 :日本@名無史さん :2006/01/24(火) 14:00:44
新羅人は出雲・丹波・但馬人(銅鐸=鈴、五十猛)かもしれないが。
出雲系が純粋な倭系とは思えない。

彼らは少なからずその前に高句麗の影響を受けている。
だから出雲系(出雲人、初期近畿人、関東東北人)は
当初は高句麗との混血であり、更に新羅からの渡来人と
混血したと考えられる。
だからあそこまで高句麗、新羅文化に拘りがあるのです。

371 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 16:20:08
>>370
考えるのは自由だけど、根拠が薄いよなあ。
半島南部にいた混血している人々が、
さらに日本に流れてきて混血したならまだ話しはわかるんだけど。

だいたい、当の朝鮮の資料は年代やら内容やらを考えると、ほぼ皆無だし。
高句麗自体が、中国人なのか朝鮮人なのか分からんし、
新羅の文化は薄すぎるし。


372 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 16:21:40
だいたい当時の高句麗、新羅の人口ってどれくらいなのさ。
遺跡等の根拠つけてしりたい。

稲作の伝播等から考えても、九州側の人口のほうが多かったんだろ。


373 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 21:39:56
★古代カラ半島国家の歴史★
〜カラとは何か〜

加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の
大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」と
いう意味である。
カラの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄え
ていた。カラは倭人の世界だったのである。
現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から
南下してきたのである。


374 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:14:19
349 :白馬青牛 :2006/01/24(火) 02:33:39
>>348
蝦夷の騎馬習俗が、大和からの影響か、オホーツク文化人からの影響か
断定出来ん。

あほすぎ
大和の騎馬習俗が、蝦夷から習ったもの

375 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 22:29:15
「韓国人の遺伝的特徴、6割は北方系・4割は南方系」


現代韓国人の60%は北方系統、40%は南方系統の遺伝的特徴を持っている
という分析が出た。また、高句麗(コグリョ)人の遺伝的特徴は中国の
漢族ではなく、韓国人と近い可能性が高いことが分かった。
(中略)
一方、遺伝的な分化の程度(FST値)により系統を分析した結果、
韓国人は中国の朝鮮族、満州族、日本人と近いと分析された反面、
中国の漢族はベトナムと共にほかの系統が混ざるなど、
差があることが分かった。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/01/24/20060124000062.html

>4割は南方系
国粋ウヨ的な韓国人の解釈を抜きにした、ありのままの結果だけを見て、
やっぱり古代の日本が、朝鮮半島南部に進出していたと見て間違いないのでは?


376 :白馬青牛:2006/01/24(火) 23:17:09
>>364
申し訳ないです。根拠の無いことを書いてしまいました。
最近のフッ素分析法によると馬の骨とは断定出来ず、弥生以前の馬の骨や
歯は後世のものが混入した可能性があるので現時点で判断出来ません。
これについては訂正します。
しかし騎馬文化、広い意味での家畜飼育文化で犂耕も重要でしょう。
東北アジア牧畜民、狩猟民の烏桓、室韋、靺鞨等も犂耕をしておりますよ。
乳文化も平安期までは、酪・蘇・醍醐とあったでしょうが、急速に廃れる
のは乳文化の貧弱であったと言うことです。乳文化の洗礼を受けた民族は
移住地でも乳製品を利用するでしょう。馬文化も東日本の官牧が
廃止後、衰退するのも馬文化が貧弱であった証拠です。
我が国は、馬に対する諺も少なく、馬を農耕や労働力として使う。
牛は労働力で、馬は騎乗用とするモンゴルでは、考えられん馬の
使い方をしておる訳です。文化複合セット要素から東北や関東の
家畜飼育文化は貧弱であったといえます。

377 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 23:24:45
>>白馬青牛

基本的にあなたの主張がよくわからないのですが、
もしかすると、稲作を行っていた弥生人が、朝鮮半島系だと言うわけですか?
それとも、馬の文化の系統に限り、朝鮮半島から伝播したという説を唱えているのですか?



378 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 23:39:55
>>376
日本と環境、気候、地形の異なるモンゴルと
比較する意味あんのか?
やはりアホ

379 :白馬青牛:2006/01/24(火) 23:57:26
>>360
重装備が出来るというのは、それだけ鉄が豊富にあったこと。
北史室韋伝にも、室韋は「高句麗から鉄を取給する」とある。
それと高句麗等の遼寧青銅文化で、細形銅剣は縞をつくって分厚く、
突く要素では、鉄に出来ぬ威力を持っておった。
>>361
稲作民も掠奪はするでしょう。東南アジアの大量奴隷輸送文化を考えると、
これには海洋文化もセットになってますが。人と対立するのも、狩猟・
遊牧民よりも農耕民に多いと思える。
>>374
大和の騎馬習俗が蝦夷から習ったとは笑えるが、具体的な例を挙げい。
>>377
弥生人は、朝鮮半島系のみでなく山東・遼寧・満洲・沿海州からも
航海の軸線から朝鮮半島南端、対馬海峡を経由し流入したと考えて
おります。馬文化の経路もそうでしょう。

380 :日本@名無史さん:2006/01/24(火) 23:58:39
>>379
>弥生人は、朝鮮半島系のみでなく山東・遼寧・満洲・沿海州からも
>航海の軸線から朝鮮半島南端、対馬海峡を経由し流入したと考えて
>おります。

それらの国々には、稲作がありませんが。

381 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:01:14
古墳時代の軍事革命
ttp://www.momoso.net/JAA2005.html

【古墳時代中期】
倭の馬匹生産は畿内王権主導で既に中期から積極的に開始されていたが、
騎兵編成には至らなかった。
倭軍の教義が重装弓兵による半島南部の陣地防御に主眼を置いていたから当然である。
王権中枢は騎兵の育成を怠っていたわけではなく、渡来人の力を得つつ、
騎馬兵力の中核となる馬匹生産集団の育成をとくに東国に重点を置いて開始していた。

【古墳時代後期】
倭軍は弓兵の重装甲化を一気に停止し、主要装備から鉄製甲冑と剣を廃止。
次いで東国を中心に弓兵の騎兵化に着手。
倭軍の教義が、中期までの陣地防御から、機動防御を主眼とする教義へと
変化した結果と見られる。

【古墳時代末期】
東国の私的軍事力(国造軍)を基盤とする倭の軍事体制が確立。
東国の軍事的独立が倭王権への隷属を条件に一定程度保証され、
倭軍の主力として編成され、東国が成立。
おそらく東国の軍事力をその強制力として、
西国の私的軍事力は畿内王権により解体または無力化。

騎兵の充実はこの期の特徴で、馬具の標準化も進む。


倭は、高句麗・新羅・唐との戦争を通して三次にわたる軍事改革を押し進め、
東国国造軍をその主力とする独自の軍事制度を構築して軍事革命を実現し、
極東の軍事的緊張の時代を滅びることなく克服し、独立した国家を
建設することに成功した。

382 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:06:00
>>白馬青牛
しっかりしてそうで、肝心な要因が欠落している気がする。

稲の遺伝子
http://www.athome.co.jp/academy/botany/bot06.html
他にも沢山HPがあるので、検索して調べてください。
福建省の米と同じだが、後年の朝鮮半島の稲とは種類も遺伝子も違う。

その朝鮮半島系から流れてきてしまう説は、
一回リセットして、もう一回考え直した方が良いですよ。
375のレスも参考にして。

383 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:07:25
>>381
>>古墳時代の軍事革命

もう、完全に空想の世界ですよね。

384 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:10:09
>>383
ほぼ通説の世界だろ

385 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:14:00
>>384
>ほぼ通説の世界だろ

へ?

>倭軍の教義が重装弓兵による半島南部の陣地防御に主眼を置いていたから当然である。
例えばこれ、一つでも根拠あるの?

386 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:20:16
>>385
倭軍は重装弓兵。

387 :白馬青牛:2006/01/25(水) 00:27:26
>>378
環境が異なっても、雲南の白族は、稲作をしながら乳製品も作る。
牧畜乳利用文化の洗礼を受けた民族は、伝統として乳文化を排除せん
じゃろう。
>>380
朝鮮南部は稲作地帯でしょう。漢代、稲作は畑作地域の黄河流域でも
行われております。江上波夫氏は、倭人や稲作習俗が江南地方からの
流入とされますが、わしは、江南からの直接流入は漂白ルートであり、
大量の人間を移送するには難破する等問題があり、航海軸線ルートを
通るしかないと思います。また稲は交易品なので江南の物を買いつける
ことも出来るでしょう。そして江南からは人類学的根拠も薄い。
>>381
同じ文章を写す馬鹿は、岡安教という新興宗教でも作れいや。

388 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:31:20
>>387
日本の騎馬文化が主に朝鮮経由だろ
乳文化など流入しようがない

389 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:47:29
>>387 名前:白馬青牛
>朝鮮南部は稲作地帯でしょう。

だから、稲の種類と、
稲作の始まった時期を調べなさいよ。

390 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:48:58
>>387
>漢代、稲作は畑作地域の黄河流域でも行われております。

どれぐらいの範囲で行われているのか調べましたか?
三国志の時代でも、北は米を食べてませんよ。

391 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 01:03:26
白馬青牛氏の言う、
朝鮮系の馬文化だったとする主張の根拠として、
乳文化が無かったことをゴリ押しする矛盾を指摘します。

何で騎馬民族系の影響(分派)である朝鮮は、乳文化を受けついでいないのですか?
朝鮮はモンゴル系(ツングース系)の馬技術は受け継いで、
乳文化を朝鮮が受け継いでいないのに、
日本に対してだけ当てはめようとするのはおかしい。

さらにモンゴル時代に属国となり、
強制婚姻政策で種付けされていた朝鮮が、
どうして乳文化を継承していないのですか。ここでも矛盾。

それらの点から考えても、乳文化がないから、
「ツングース→東北騎馬文化」を否定するとする説は、
白馬青牛氏の説には無理がある。

東北に住んでいた人々が、馬だけ受け入れて、
乳文化を受けなかったと考えるべきです。

392 :白馬青牛:2006/01/25(水) 02:21:15
>>389
稲の遺伝子が朝鮮半島を経由しておらんものがあると言いたいんでしょう。
また北陸以東の大根・カブが満洲系であることと人種要素は一致しません。
>>390
範囲まで調べておりませんが、三国志の時代は更に後でしょう。
>>391
朝鮮が騎馬民族系の分派?とするのか解りませんが、
ツングース系の満洲人も乳利用文化は無いでしょう。
朝鮮の馬文化は貧弱でしょう。馬飼育に適した地域は、無理に挙げれば
済州島ぐらいのものでしょう。満洲も扶余、海西女直の満洲平野は馬産地
ですが、高句麗、建州女直の森林山地では馬育成に適しておらんでしょう。
元に支配された漢民族も乳文化は無い。矛盾しておりませんが。
東北地方が馬だけ受け入れたのは何処からですか?ツングース・満洲は
乳文化はありませんが犂耕はありますよ。靺鞨は牛がおらんので人力で
やってましたが、馬を労働力に使っておりません。日本の東北地方の馬は
労働農耕馬でしょう。これらを考慮し文化領域を設定するのに欠落して
おると思いませんか?


393 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 03:12:39
>>392
>稲の遺伝子が朝鮮半島を経由しておらんものがあると言いたいんでしょう。
違う。
少しは人の話しを聞きなさい、日本の米は福建省系の熱帯ジャポニカ米です。
http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0108_3.html
http://www.nouminren.ne.jp/dat/200203/2002031101.htm

だいたい、白馬青牛の思う朝鮮での稲作は何年なんだ?


394 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 03:15:35
>>392
>範囲まで調べておりませんが、三国志の時代は更に後でしょう。
これも意味不明。
三国時代が、後漢のあとなのは、少し物知りの小学生でも知っている。
ここでいっているのは、三国志の時代でも、
黄河より北部の中国人が、米を食べず粟を食べていたことだろ。

もしかして、白馬青牛は国粋ウヨの在日かなにかか?

395 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 03:22:57
>白馬青牛
392での反論がまったくわからない。
そちらが東北に乳文化が無いことを根拠にして書いたから、
反論したまでのことでしょう。
ようするに、乳文化と馬は関係ないでFAですね。

で、
白馬青牛の話しを総合すると、東北には馬の文化が無かったと言うことですか?
日本が統一する過程で、東北に馬の文化が存在していたのは明らかですが。

乳文化とツングースの馬文化が関係ないのであれば、
もはや白馬青牛の言う、東北での馬の文化が無かった根拠は犂耕だけになりますが、
そんなもの、東アジアより先は、12世紀頃まで存在していませんよ。
農業と馬文化をつなげる主張自体が、無理がありすぎると思いますが。
モンゴル人でさ、近代まで殆ど農業やってませんでしたよ。

396 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 06:33:03
牛の博物館(日本の家畜の歴史と文化)
http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/organ/23-b2.html

>一三一〇年にだされた國牛十図には、主に馬は東日本で生産され、
 牛は西日本で飼育されていたと記されています。
 これは日本の家畜飼養に地域性があったことを示しています。
>この絵巻には京都で貴族が乗る牛車を引くための牛が描かれています。
 牛による犂耕は西日本に伝えられました。

>一方、東日本では騎馬生産が行われ、それに馬の糞による堆肥は
 発酵温度が高く寒い地方での耕作に適しており、
 その飼育が盛んだったと思われます。

>西洋では、役畜としては勿論ですが、乳、肉、卵のような
 食に基づいた家畜文化が広く見られます。
>仏教思想の影響が強かった日本では、むしろ家畜との精神的な
 関わりの文化が培われてきました。

397 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 12:04:17
牛による繋駕法と馬文化は関係ないでしょ。
モンゴル人が牛使って繋駕法やってたんですか?


398 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 14:10:20
>>352
はじめの5行くらいは納得できるが、あとはなんだか生ぬるい。

古代史最大の謎である倭と任那の特殊な関係が、「準同盟関係」と
「婚姻関係を通じてゆっくりと併呑」では説明し切れない。
百済だって同じだというかもしれないが、任那は王国であると同時に
倭の「領土」でもある点がさらに特殊だ。

また百済との関係が二次的に婚姻関係を通じて生じたようになっているが、
日本書紀では百済との関係の方が早い。百済と倭が共同作戦を行った
(460年代)に、ついでに任那6国が平定されたことになっている。
日本書紀の通りとは到底思えないが、少なくとも並行して両国との
関係ができたのではなかろうか。

>単純な本家と分家の関係とかなら、人質に出す出さないとかの関係には
>成りえない

田舎の農家の本家分家ではない。分家にあたる王朝であろうと、倭から
見れば百済は常に高句麗に服属する危険を抱えているし、前科もある。
人質によって、そうならないことを誓わせるのは当然だ。

まああまり批判ばかりしていても悪いので、そのうち私のすじがきを
書こうと思っている。
もちろん裏付けはない。しかしどうせ裏付けなしに自由に作るすじがきなら、
すべての関係や状態を説明できることを主眼にする。

399 :日本@名無史さん:2006/01/25(水) 14:55:55
>>398
訂正 (460年代)→(360年代)

400 :白馬青牛:2006/01/25(水) 23:22:38
>>393
朝鮮の稲作は、松菊里遺跡の起源前4〜5世紀にあったと思われるが、
年代が正確か定かではない。日本の稲作が縄文期水稲でなく焼畑稲作で
あることは、中尾佐助氏の照葉樹林文化論でも、@プレ農耕段階
(半栽培民文化、日本では縄文前期とされる)A雑穀を中心とした
焼畑段階、(典型的な照葉樹林文化、日本へは縄文後期に到来か?)
B水稲作農耕段階(日本へは縄文晩期弥生前期到来か?)という変化を
辿る。佐藤洋一郎氏の「焼畑稲作」はAの段階であろう。
焼畑雑穀農耕段階を水田稲作に結びつけてもしょうがない。
>>394
時代が新しくなるほど、南北の生態が明確となろう。今から5000年前
は中国北部も温暖で東南アジア的状況であったと鈴木秀夫氏はいわれるが、
華北の稲が陸稲か水稲か調べておらんので、明確な答えは出来ん。

401 :白馬青牛:2006/01/26(木) 00:15:06
>>395
東北に馬文化があったのなら馬の諺が現在でも多くないとまずいでしょう。
犂耕について室韋・靺鞨の例を挙げても、また同じ主張をするとは。
大興安嶺・熱河・陰山・セレンゲ河・バイカル地方等に農耕が無かったと
いう根拠はありますか?もう少し北アジアの歴史を調べて書くほうが
よいと思います。モンゴル純遊牧民でなく、モンゴル系のブリアート・
ダフール・土族等はどうですか?
>>396
その文は、市川健夫氏のブナ帯文化の引用もありますね。
「照葉樹林地帯におけるミレット栽培段階は焼畑耕作であり、長期間の
休閑によって地力の回復を図っている。ところがブナ林帯における雑穀
農耕地帯においては、一部焼畑もあるが、大部分永久畑(常畑)を耕作
していた。そこで、地力を維持するために牛馬を飼育して、そこから
生ずる大量の厩肥を投入している。とくに馬の糞は醗酵する時に熱を
出すので耕地を保温する機能を持っており、冷涼なブナ林帯には欠くこと
のできない青酸手段になっている。このような事情が、牛馬小作制度を
生む要因にもなっている。」朝鮮半島も南端は別として、基本的に
ブナ帯地域なので、東北日本農耕社会と同じく隷属縦社会構成と
なるのに不思議はないのです。東日本と朝鮮半島は似ております。

402 :白馬青牛:2006/01/26(木) 00:34:49
>>394
忘れとった。残念じゃが、わしは偏狭国粋主義者でも無く、在日でも無い。
在日と出すあたりは、よほど在日に劣等感でも持っておるのあろう。
日本史板では、他スレでも多いが、言語に窮すると相手を在日と言い、
自分の精神的安定を求める精神異常者が多い。あなたもその一人とも
思いたくも無いが、稲を与えた中華や朝鮮に事大する根性が根底に
あるんかのう。

403 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 19:28:09
西舟東馬ってことだ

404 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 20:23:03
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は
朝鮮人の国だったと信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の先進文化を伝えた」
と主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。
朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は
倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『先進文化』なるもの
は存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。
先進文化ウンヌンという話は、日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ
フィクションである。


405 :日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:15:23
★古代カラ半島国家の歴史★
>>404
どっちも馬鹿


そろそろ有名人お出ましか

406 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:16:34
>>白馬青牛
はっきり、日本の稲作の時期を答えてください。
あと、遺伝での違いまで認められないのですか?

>言語に窮すると相手を在日と言い、
>自分の精神的安定を求める精神異常者が多い。
ウヨと決めつける精神異常者が多いですね。

言語に窮しているようにも思えませんが。
あなたが頑なに結果を認めない態度は、
精神異常とは言わないが、普通ではない。



407 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:22:32
>>白馬青牛
>東北に馬文化があったのなら馬の諺が現在でも多くないとまずいでしょう。
???
は? どう言う理屈ですか?

>大興安嶺・熱河・陰山・セレンゲ河・バイカル地方等に農耕が無かったと
>いう根拠はありますか?
???
モンゴルが犂耕していたという根拠があるんですか?
モンゴルが犂耕を止めてしまった理由は?
やっていたのを探すのではなく、
犂耕が関係なくても馬文化があると言う意味を理解して貰いたいのですが、
言葉の意味するところを理解してください。

>東日本と朝鮮半島は似ております。
ええと、大砲とヤカンでも似ている部分はあります。

408 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:31:06
白馬青牛氏には、この結果についても答えて貰いたいですね。

「韓国人の遺伝的特徴、6割は北方系・4割は南方系」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/01/24/20060124000062.html

最後に、
>よほど在日に劣等感でも持っておるのあろう。
>稲を与えた中華や朝鮮に事大する根性が根底にあるんかのう。
↑これ、ギャグかなにかですか?

日本人に過度の劣等感をもち、何にでも日本を比較し、
都合の悪いデータ(遺伝子等の結果)を見つめずに見苦しい言い訳を言い、
稲作(文化)を日本に教えたと偉そうに宗主国顔をしている者達こそ、
国粋主義の半島の人達と国粋在日の行為そのものです。

409 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 03:12:20
>忘れとった。残念じゃが、わしは偏狭国粋主義者でも無く、在日でも無い。
>在日と出すあたりは、よほど在日に劣等感でも持っておるのあろう。
>日本史板では、他スレでも多いが、言語に窮すると相手を在日と言い、
>自分の精神的安定を求める精神異常者が多い。あなたもその一人とも
>思いたくも無いが、稲を与えた中華や朝鮮に事大する根性が根底に
>あるんかのう。
書いてある意味から分からないが、
普通の日本人は、こんなことは書かない。


410 :日本@名無史さん:2006/01/27(金) 17:06:08
事大していたら劣等感は持たないだろう。

しょせん、その程度の知識か。

411 :白馬青牛:2006/01/27(金) 23:47:38
>>406407
焼畑稲作と水稲を同一視出来ん。移動性の強い焼畑雑穀と定住性の強い
水稲社会の違いを述べよ。RM1−b遺伝子を持つ稲が朝鮮半島で
見付からんことは、日本が朝鮮へ稲作を伝えたという珍説の根拠が苦しく
なったということでしょう。
馬飼育民は、馬に関する諺が多い。カザフ人の諺に「馬がよければ遠路も
楽しい」「馬を大切にする者は歩かなくてすむ」等。それに馬の年齢による
呼び名や馬の毛色の区分も含め日本は馬文化に乏しい。
モンゴルの先祖室韋の犂は『旧唐書』室韋伝を読めば良いでしょう。
エミール=ヴェルトの犂農耕において大型畜の家畜化が行われたと
されるのに反論するのであれば、馬と牛飼育の歴史・文化において
何処がどう違うのか具体的に言うことですよ。東日本と朝鮮半島の
違いも具体的に言われた方がよろしい。抽象論でなく。

412 :白馬青牛:2006/01/28(土) 00:58:17
>>408
その記事は笑うた。高句麗人の遺伝子について「朝鮮族が中国の漢族に
比べ韓国人と遺伝的に近いという結果を見た場合過去韓半島と満洲一帯で
活動していた高句麗人の遺伝的特徴は中国漢族集団より韓国人集団とより
近いと判断される」李氏朝鮮や日本統治時代に移住した朝鮮族集団では
根拠にならん。中韓の高句麗帰属問題にナショナリズム丸出しの感情論。

あなたの何故、何処でが無い幼稚な抽象論は、この記事の影響ですか。
如何に日本が○×式教育で、回答という結果論(過程や内容を考察する
能力の無い)でしか物の見れん馬鹿を大量生産したとしても、あなたの
思考はどうも逆説的に朝鮮半島に隷属した態度が現れておりますね。
それは、あなたの文章からも。その記事の都合の悪いデータ
(遺伝子の結果)を見つめず、とされるが、根拠の薄い韓国国粋主義を
わしに押し付けようとするのは如何なものか。あなたは、「宗主国顔」と
韓国を宗主国と考えておるんでしょう。ところが、朝鮮半島は、日本の
宗主国では無いでしょう。その根拠があったんですか?

413 :日本@名無史さん:2006/01/28(土) 01:02:22
>白馬青牛
日本の話しろよ
中華でごまかすな

414 :日本@名無史さん:2006/01/28(土) 01:26:38
日本人の来由
ttp://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/

「韓国人のルーツは中国中北部の農耕民族」
ttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/05/11/20040511000078.html
朝鮮民族の形質的特徴(世界大百科事典/平凡社)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1120914010/690-691

【生物】韓国人、遺伝的に日本人と近い
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1123060474/
【韓国】AB型−O型の親からAB型の子供は可能…Cis−AB型〔01/09〕
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1136781029/
【朝鮮】「高句麗人−韓国人DNAで繋がる」 満州一帯の民族と韓国人、同じ系統、中国人はむしろベトナムと近い[01/24]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1138082041/

415 :日本@名無史さん:2006/01/28(土) 01:28:27
>>408
別ソース

[教育] 高句麗人−韓国人‘DNAで繋がる
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/news2/060124.htm

416 :日本@名無史さん:2006/01/28(土) 19:28:57
剥罵性牛爺は何を言いたいのか?
騎乗下手の西日本人が騎馬民族の末裔だとでも?

「船に牛と一緒に乗って、大陸からやって来ますた」
とでも言う方がマシなぐらいだ。

417 :白馬青牛:2006/01/28(土) 23:15:57
>>416
騎乗下手の西日本人に騎射を学んだ東国人が騎馬民族の末裔ではないが、
「船に牛と一緒に乗って、大陸からやって来ますた」の文については、
マシどころか、鋭い指摘である。
富山県の高瀬神社の祭神、出雲神の大己貴命伝承に「祭神大己貴命
牛に乗り給へて今越中州久和崎山見津賀峯と云ふ処にお登りになり、
谷中の荒振る賊共を征服し給いて、此の国を撫育せんと乗り給ふた牛を
放ちて水見里、久和立野岳へお行きになり給ふ。山も牛獄山と云ふ。」
「大己貴命北陸御経営の時(中略)此の地方を平治し給ひ、自らの御魂をも
鎮め置き給ひしと云ふ」(高瀬神社誌)「此御神は、高麗より御渡り」
(越之下草)とあり、出雲系四隅突出墳人(高句麗人も含む)が、
越(北陸)を「牛に乗って」平定した伝承でもある。
『魏志』蠕蠕(柔然)伝に「牛に乗って掠奪する」記述、岩村忍氏は、
古代モンゴル人にとっては馬より牛が重要であったとされ、モンゴルの
先祖室韋も『北史』室韋伝に「無羊少馬多豬牛」とある。大興安嶺山地は、
馬が活躍出来そうもない。
これらから、あなたの船+騎牛民族征服説については反論出来ません。

418 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:19:52
>>417
>騎乗下手の西日本人に騎射を学んだ東国人

そんな事実はありません
『嘘つきになるど』

419 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:33:11
>>白馬青牛
>日本が朝鮮へ稲作を伝えたという珍説の根拠が苦しく
>なったということでしょう。
違うだろ。
どう斜め読みしているんだ?

日本の稲作と南方に繋がりがあるが、
日本と朝鮮の遺伝子に繋がりがないことがわかったんだろ



420 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:34:56
>>白馬青牛
>馬飼育民は、馬に関する諺が多い。

それは文法の発達の時期に合わせ、馬全体との結びつきが多い地域だろ。
じゃあ、馬の諺の無い地域に、馬は絶対に住んでいないのか?




421 :あるじゃん。:2006/01/29(日) 00:36:46
馬耳東風(馬の耳に念仏、馬に経文) -日本の諺
瓢箪から駒 -日本の諺
しり馬に乗る -日本の慣用句
生き馬の目を抜く -日本の諺
牛を馬に乗り換える -日本の諺
犬馬の労 -日本の諺
牛は牛づれ馬は馬づれ -日本の諺
馬には乗ってみよ、人には添うてみよ -日本の諺
老いたる馬は路を忘れず -日本の諺
鹿を指して馬となす -日本の諺
やせ馬の先走り -日本の諺
馬子にも衣装 -日本の諺


422 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:45:32
>高句麗人の遺伝的特性は中国漢族ではなく、
>韓国人に近い可能性が高いことがわかった。

高句麗人の特定がわからないのに、どうやって遺伝子で調べたのかね。

>>414
【生物】韓国人、遺伝的に日本人と近い
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1123060474/
↑これは韓国の歪曲捏造だったから。
http://nijibox.ohflip.com/futabafiles/001/src/sa39983.lzh.html
今回の一件を通して、隣人、隣国のおつきあいや歴史の難しさを痛感した。
お互いに疑心暗鬼になると、精神的にもよくない。
小さな輪から大きな輪へと、良好な心の和を築きたい。
(鳥取大学医学部機能形態統御学講座 形態解析学分野)

【生物】韓国人、遺伝的に日本人と近い
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1123060474/
↑これも、日本人が渡っていた証拠だわな。

韓国からわたってきたとするなら、どうして日本人の遺伝子が韓国にあるのか説明してくれ。

423 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:58:03
>>白馬青牛
言っている意味がわからないのだが、
朝鮮に日本を含めた南方系の遺伝子が見られることについて、
どのような反論があるのかがまったく見えてこない(答えていない)。

結果から物事を見ないというのか?

古代の日本が朝鮮に進出していたとする根拠としては、十分だと思うが。
どうして南方系の遺伝子が騎馬民族だった(?)朝鮮半島で見られるのか、
まず、そこから理知的に説明しなさい。

>朝鮮半島に隷属した態度が現れておりますね。
これの論拠も感情に偏りすぎていて、ちっとも意味が伝わってこない?


424 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 01:11:37
在日の国粋ウヨだろと指摘されたことに対して、
>朝鮮半島に隷属した態度?
が出てくることがまったくわからない。
白馬青牛が朝鮮半島マンセーしているだけだろ。
馬の宗主国は朝鮮ニダ。ってやつ。


425 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 01:17:50
>>424
白馬青牛「東日本と朝鮮半島は似ております。」

彼は生粋の東日本嫌い。
それに似てると妄想してるんだから朝鮮を好きなわけない。
どうでもいいけどね。





426 :白馬青牛:2006/01/29(日) 01:31:04
>>418
関東が騎乗技術に優秀であれば、西行に「弓馬の事」を教えて貰うことも
あるまい。事実が無いと主張するんなら、根拠を示せいや。
>>419
日本と朝鮮の稲作に全く繋がりがないといえる根拠は?
朝鮮にない中国固有の品種が混ざっておるというだけのことじゃろう。
>>420421
馬がおるおらんということじゃなく、馬文化の影響を言うとる。
「馬の耳に念仏」という馬を馬鹿にした表現は、馬に疎い証拠にもなる。
馬に対する美的表現では無い。モンゴルでは馬は賢い象徴。
騎馬遊牧民に多い、美しい女性に「あなたは、牝馬のようだ」とは、
日本では普通言わん。日本では、馬の毛色種類や年齢区分も単純で
如何にも馬文化に乏しい。

427 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 02:01:21
>>426広島牛
残念ながら418は俺だよw

西行の実戦で活躍したのか?してないだろ。
彼は流鏑馬など儀礼的武芸の達人。妄想はやめなさいね。
それに西行がスーパーマンなわけで、京武者の儀礼的武芸が
どれほどの腕前だったかなんてわからんよ。文献資料は都中心だし。
第一、坂東武士が京武者でもあるから、坂東人から習ったんだよ、都の武芸は。

騎馬術の本場は古代以来、東北蝦夷だった。
当時、都の軍事官僚など足元にも及ばないだろう。
蝦夷や俘囚から学んで、独自に発展させたのが関東武士の実戦武芸。

428 :白馬青牛:2006/01/29(日) 02:11:41
>>423424
南方系の遺伝子は、縄文期北陸の中国江南の越文化流入について
言うたが、日本の縄文人にも含まれ、朝鮮人も含んでおろう。
韓国の礼安里遺跡に遺伝子は解らんが、南方形質の低顔があるように。
朝鮮日報の記事に、結果から物事というより内容じゃ。
朝鮮族が高句麗人に近いと、前提条件を創作する記事自体可笑しい。
古代日本の朝鮮に進出は、倭人の殖民であろう。倭人自体、半島南端にも
おったろう。ほいでわれは、「説明しなさい」じゃ命令口調で人にカバチ
たれな。無礼過ぎるど。意味が伝わってこんのは、われが低脳じゃけえ、
しょうがない。われの低脳までわしゃは考慮出来ん。
馬文化に乏しい朝鮮が馬の宗主国?なんじゃそりゃ。わしが言うとらん
ことを勝手に捏造すなや。われが何人か知らんが捏造好き民族には違い
ないのう。
>>425
東日本嫌いと勝手に決めつけな。わしは、朝鮮と東日本の社会構成が
似とる言うただけじゃ。似ておらんのなら、その根拠を書け。

429 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 02:20:16
牛サン元気だね〜w
まぁ、血管切れないように気をつけてくださいな

おやすみ

430 :白馬青牛:2006/01/29(日) 02:57:57
>>427
北陸越後の越人(蛇族)に喰われた奴隷狩りされた関東(蛙)じゃった
んか。儀礼的武芸と違い坂東が実戦的?都の武芸が坂東人に習った?
たわ言とわめくより、具体的な根拠を書け。当時の関東の戦闘は、
私闘形態と江戸期の関東博徒集団の縄張り争いとは関連が深いであろうが。
騎馬術の本場は古代以来東北蝦夷?騎馬術の本場は、中央ユーラシア
遊牧地帯じゃと思うが、それは別として蝦夷の記述も漢に対する騎馬の
匈奴や漢人の越人の対船戦等に当てはめ、誇張した部分があろう。
足元に及ばんのであれば、なぜ蝦夷は降伏したんか。戦闘中にも、
なぜ蝦夷は自国民を奴隷として都に売ったんか。蝦夷から学んでどう
発展させたかも具体的に書かず吼えるだけじゃのう。越人と蝦夷に対し、
戦闘下手坂東奴隷人の劣等感が出とるど。

431 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:03:45
>>白馬青牛
>日本と朝鮮の稲作に全く繋がりがないといえる根拠は?
上記紹介されている、米の遺伝子。
朝鮮の稲作が日本に伝来した根拠は何ですか?
まだ、白馬青牛の言う日本の稲作時期を聞いていない。
朝鮮の稲作の時期と、日本の稲作の時期を説明してください。
発表される限り、日本の稲作は3000年ほど前です。

432 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 03:05:44
>>白馬青牛
>馬がおるおらんということじゃなく、馬文化の影響を言うとる。
またまたよくわからんことを言っているようだけど、
古代の馬の諺、モンゴルでも朝鮮でもあったとする根拠が。まったくわからない。
当時の文献なんぞ、モンゴルや朝鮮にないだろ。

何を根拠にして、馬の諺やら馬の言葉があったなどと言っているのだ?


433 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 11:29:53
>>430広島御バカ
まともな反論しなさい。それじゃ低脳すぎだよ。

>>427等の根拠なら
下向井龍彦
関幸彦
福田豊彦
近藤好和
中澤克昭
上横手雅敬

など専門家各氏を参考にしてるが、おまいさんのは常一&久米の妄想。
そして高橋昌明氏の著作から都合の良い部分を抜書きする『騙しレス』。

434 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 13:01:40
★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。




435 :白馬青牛:2006/01/29(日) 17:52:55
>>431
上記に紹介されている。米の遺伝子。答えになっとらん。日本の米の
遺伝子全く繋がりが無いんかと質問したんじゃが。
佐藤洋一郎氏の本を読んどらんので詳しくは解らんが、
http://www.athome.co.jp/academy/botany/bot06.html
に出とった。それに稲作も雑駁焼畑と水稲農耕は段階が違う言うた
はずじゃ。照葉樹林地帯の西南日本と違い朝鮮半島のほとんどが、
東北日本と共通するナラ林(ブナ林)であり、照葉樹林地帯植生から
中国南部の品種が伝播したんは当然の事。佐藤氏の「弥生米のDNA
分析を行ったところ、朝鮮半島に存在しない中国固有の水稲の品種が
混ざっている」とされるが、水稲農耕を「縄文人が朝鮮半島から
持ち帰ったという推測もあり得ます。」推測は兎も角、後半部の発言から
佐藤氏は、かなり縄文至上主義のようで。

436 :白馬青牛:2006/01/29(日) 18:27:15
>>432
また、捏造か。わしゃは、朝鮮の馬の諺について述べとらんど。
古代の馬の諺じゃ言うたことも無い。現在にも受け継がれておる諺に
決まっとろう。当時の文献に出ておらんかったら存在せんことに
なるんか。相変わらず幼稚じゃわい。文献は、日常茶飯事を全て記録した
ものではない。特殊なものしか残らん。考古遺跡の出土品も同じく。
それに諺、伝承等は、文献に出ておらんと否定したら、民俗学、
文化人類学、神話学はいらんことになる。
>>433
越後の越人蛇族に喰われた坂東蛙君こそ、まともな反論をすりゃあええ。


437 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:34:43
>>白馬青牛
捏造しているのはお前だろ。
┐(´ー`)┌ヤレヤレ
朝鮮やらモンゴルで、馬の言葉や、馬の諺があったかどうかも分からないのに、
それを日本に当てはめて、東日本の馬文化を否定しただろ。
どうしてそう、都合良くポンポン話しが変わるのかね。


438 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:38:18
>>白馬青牛
米の質問にも答えていない。
稲作が朝鮮の影響を受けたとするなら、
朝鮮で始まった稲作の時期と、
日本の稲作の時期をまず答えなさい。
http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0108_3.html
http://www.nouminren.ne.jp/dat/200203/2002031101.htm
で、朝鮮の米と日本の米の種類が違う理由はなんですか?

439 :日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:40:40
英雄みながら三国志

440 :日本@名無史さん:2006/01/30(月) 00:33:08
>>436広島牛
相変わらず蛇とか蛙とかアホな事言ってるねぇw
返す言葉もないよ、完全に馬鹿コテだな・・・。

まず、騎馬民族は来なかった!
大和政権の騎馬戦術は半島経由で取り入れた。
そして、後世の軍事官僚は蝦夷戦争から騎馬術を学んだ。騎射に優れた東北蝦夷。
関東兵の騎馬術は数世紀も続いた実戦経験によって子孫に受け継がれて発展。
京武者の武芸は儀礼的。実戦とは別だが後鳥羽院のような名人も。

東は馬、西は船。

441 :白馬青牛:2006/01/30(月) 23:47:10
>>437438
わしの質問には全然答えず、具体的考察も無く、同じ主張を繰り返す。
幼稚園児程度の知能しかないんでしょうがない。
>>440
坂東蛙君の言う騎馬術とは何か?戦術的に詳しく書いて貰いたい。
敵兵に対し騎兵は後退し、騎馬伏兵を迂回させ、敵兵の兵站が伸び
きった時に包囲殲滅か?あるいは、前線部隊と後方部隊を遮断させる
ことか?蝦夷や関東兵の騎馬戦術については、どのようなものか?
騎馬戦術面について詳しく書いて貰いたい。
>東は馬、西は船。中国の南船北馬に結びつけたいのであろうが、
中国北部の馬文化は、車、犂がセットになっており、これらに欠ける
馬文化に乏しい東日本と同一視は出来ん。西の船については、
西日本=開放、自由の海洋型。東日本=閉鎖、専制の大陸型。の
文化類型と言うことか?そうであれば単純比較出来て嬉しいが、
東日本が馬文学に乏しいように西日本も伝統的海洋文学は乏しい
(海洋国家琉球は除く)。しかし白村江戦以前であれば、少なくとも
西日本は、航海民、海洋民であると言える。ここは強調しときたい。
後世、中国文明にかぶれた上層知識人(鎌倉・室町の宋・明文化の影響)
は別として、西日本の民間では、海洋文化も受け継がれておったとも
考えられる。倭寇活動や日本東西の社会構成の違いも考慮に入れて。

442 :日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:09:25
>>441ヒロシマ在カミツキガメ
いつの間にか蛙にされちまったよw

>蝦夷や関東兵の騎馬戦術については、どのようなものか?
そんな事が判る豊富な史料が辺鄙東国にあったら、
都流鏑馬マンセー珍説は存在しなかったろうよw

>東は馬、西は船。中国の南船北馬に結びつけたいのであろうが、
>中国北部の馬文化は、車、犂がセットになっており、
>これらに欠ける馬文化に乏しい東日本と同一視は出来ん。
日本の地形は起伏に富んでいる。蝦夷の馬=狩猟だろう。

関東の騎馬文化(術)は東北からの影響は大きい。蝦夷戦争であり俘囚、時代が下って義家など。
ただ、最大の要因は内乱状態による戦闘術の練磨だろうか。
東北蝦夷の騎馬兵については関東以上に史料がない。
奥州藤原氏の武力も推し量れないし。実戦経験という点では疑問符だが。

俺は広島流中華厨説を否定してきた。
今更、東日本と中国を結びつけて考えるわけないだろ。

443 :白馬青牛:2006/02/01(水) 01:22:13
>>442
騎馬戦術について答えることが出来んのに、騎射に優れたというのは
坂東蛙君の妄想と言う訳か。>蝦夷の馬=狩猟と言うが、東北地方の
マタギ等狩人は狩猟に馬を使うたか?それだけ騎乗文化の伝統に
乏しいということではないんか。
戦闘術の練磨で、「やあやあ、我こそは」と名乗りを挙げ、打ち物による
白兵戦の距離でも、弓か組打ちをすることが実戦的なんか。
坂東は、鈍重な奥羽越よりも、弱かったと自慢したいんかのう。

広島流中華厨説?東国の鎌倉文化も宋文化の影響が強いコピー文化。
社会制度も東国の宗族制を考えると西日本より中華化しとるとも考え
られる。宋は関東の宗主国様ゆえ、元の使節を斬り、戦国期も江南の越人
蛇族の裔、越後の越人蛇族に蹂躙拉致されてもしょうがなかった訳か。

444 :日本@名無史さん:2006/02/01(水) 01:46:50
>>414
【研究】 耳あかの"乾or湿"、DNAの1塩基が決定…日本人の8割は乾燥タイプの"突然変異"★2
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1138598941/
【韓国】 耳糞で韓国人が解る [1/31]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1138674772/

445 :日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:29:45
>>443広島牛
古代〜平安〜鎌倉初期の騎兵は弓射騎兵。東西に関係なく。
打物騎兵は元寇を経験した南北朝以降。弓射歩兵が増加。

マタギに何の関係が?また話を散らすわけねw
東北蝦夷だって騎乗身分の騎馬兵は限られた階層だろう。

源平合戦(治承・寿永)期に増加した打物戦(首取りが主)も、騎射戦の後に行われたのが基本。

>坂東は、鈍重な奥羽越よりも、弱かったと自慢したいんかのう。
俘囚が暴れてた時代はまさしくそうだろう。
東北兵より関東兵のが先祖以来の戦闘経験は豊富。
義家の頃は互角じゃないか。源平期では坂東だろう。馬牧の豊富さなら東北だが。

西国でいえば、中国・四国が騎兵で最弱なのは明らかだろうか。近畿・九州のが上だな。
中国でも強さ比較なら近畿に近い、岡山>広島だろうか。
中国・四国は船戦が得意。船は西高東低。

越後の長尾氏は関東発祥、横浜市戸塚区長尾台。
南北朝期に守護代として移住したわけだが、蛇とか電波は要らないからw

446 :日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:35:03
追加

>鈍重な奥羽越よりも・・・
なにげに越後をはさんでんじゃねーよw
越後は関係ないだろ、騎兵の元祖は東北。

447 :日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:00:41
>>446
元祖という言い方は誤解を招きかねないんじゃないか?

448 :日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:23:13
>>447
そうだな・・・こうしとくか。
8,9世紀段階で国内無類の強さ<東北蝦夷の騎兵

>>443
>東国の鎌倉文化も宋文化の影響が強いコピー文化。
粗野な田舎だったんだからしょうがない。つか、都も鎌倉もお互い様。
百済系新漢人。都の馬文化は南朝鮮系。

449 :白馬青牛:2006/02/01(水) 23:07:11
>>445
越後蛇族越人奴隷の坂東蛙君。古代の騎兵は弓射騎兵と決め付けれるんか?
重装備矛騎兵も考慮して良いと思うが。
http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/hp/hp730.htm
和歌山県大谷古墳の例もあろう。戦闘形態は、西国の遠矢と打物に対し、
東国の近矢と組討という地方差があったろう。打物騎兵が元寇を経験した
南北朝以降と言う根拠は?
蝦夷の民間に普及しておらんのであれば、騎馬文化は無いのであろう。
ほいで、名乗りを挙げる戦闘に戦闘経験も糞もあるまい。爾後の文章は
妄想も甚だしい。広島が岡山に負けたという戦闘例も無い。船戦の概要も
述べず妄想に至るか。越後兵士が越人蛇族に違いあるまいに、坂東蛙
奴隷民は、言い訳がましいのう。まあ広島県の安芸・備後も含む出雲系の
四隅突出墳人に平定された越人蛇族(ヤマタノオロチ)に犯された
坂東蛙君は悔しいので、中国地方に嫉妬し妄想を繰り返すんじゃろう。

450 :日本@名無史さん:2006/02/02(木) 00:30:33
おまえらは何をくだらない事ばっかり言ってんだ?
いい加減にしてくれないか。

451 :日本@名無史さん:2006/02/02(木) 01:57:26
僕はユダヤ系日本人です。


452 :日本@名無史さん:2006/02/02(木) 18:20:51
>>449
朝廷軍の騎兵も弓射騎兵だろう。古いからはっきりとした史料は無いだろうが。
矛は歩兵の可能性も。打物歩兵。
史料の無い蝦夷はともかく、日本の騎兵は5世紀末〜6世紀以降だろ。

>戦闘形態は、西国の遠矢と打物に対し、東国の近矢と組討という地方差があったろう
高橋氏だな。遠矢に関してはそうだと思うぞ。
俺個人の考えだが、西国の船戦では陸から射かける遠矢が盛んだったのかもな。
でも遠矢は、どう考えても歩射だろう。馬上で大矢は用いない。
打物は具体例が何も無い。高橋氏は平家物語を否定したり肯定したり・・・。
東国の近矢って馬上騎射の事だな、それは当然。組討(短刀)は首取りの力技か。

>>450
あえて言えば、俺のは北方狩猟民族説みたいなもん。
騎馬民族は来なかった。

453 :日本@名無史さん:2006/02/02(木) 19:13:06
征服者としての騎馬民族は来なかった。
これでFAでしょ?

454 :日本@名無史さん:2006/02/02(木) 21:29:00
新羅と志良岐は違う国じゃん。

新羅(シルラ)は313年以降に、朝鮮人=金奈勿一派が建てた国だろ。

志良岐(シラキ)は、稲飯命が建てた日本民族の国じゃん。
金奈勿が高句麗と手を組んで、志良岐王家を滅ぼし、新羅を建てたのが真相。

金奈勿は、もともとは志良岐王家に仕えていた役人だけどね。



455 :白馬青牛:2006/02/03(金) 00:01:20
>>452
安息(パルティア)の例では、重装備騎兵の弓は矢ともに長い直弓で、
軽装備騎兵はスキタイ式彎弓。また重装備騎兵も、ごく近距離では、
鎧通しの如き刀子を戦闘に用いておる。勿論重装備騎兵に矛(長槍)戦闘
は不可欠なものである。つまり重装備騎兵は移動出来る防御壁であろう。
馬甲も付け、これらが欠けると重装備騎兵の戦闘力を十分に発揮出来まい。
歩兵矛隊も鮮卑や高句麗兵を描いた壁画に出ておる。
白村江以前、外征しておることからこれらがセットであったと思う。

それと「吉野・十津河の指矢三町遠矢八町」と船戦と縁の薄い奈良県
山地の兵も遠矢であろう。近距離戦闘になる前は遠矢戦闘で闘い、
決定打は白兵戦による打物戦(時代によっては矛・槍)であろう。
高橋昌明氏は弓重視ではあるが。白村江戦から後外征のない日本は、
戦闘の日本化、地方化が起こり、矛(槍)騎兵が必要な距離でも、騎射
から組打ちに展開する奇妙な現象が出来た。蝦夷相手の戦闘と言う、
ぬるま湯につかった為か。
北方狩猟民族説とは、ツングース系のオホーツク文化人のことか?

456 :437438 :2006/02/03(金) 07:36:09
>>白馬青牛

>わしの質問には全然答えず、
質問らしい質問など、何もしていないだろ。

>具体的考察も無く、同じ主張を繰り返す。
わかりやすく遺伝子のデータを見せているが。
主張?
遺伝子のデータや種類よりも、主張が重要なのか?

それより、稲作の時期を全く答えていないが。
馬文化がある土地に、馬の言葉があるとする根拠の説明も無し。
自分から東日本の馬文化を否定するために、馬の諺などという珍説を出しながら、
当時の馬文化地域と言葉の関係を1つも説明できないのはどういうことだ?

それこそ、幼稚なデンパだ。



457 :437438:2006/02/03(金) 07:41:47
>>白馬青牛

稲作が朝鮮から伝来したと主張するのであれば、
朝鮮の稲作の時期と、日本の稲作の始まった時期を最低限するべきだろう、

こちらは日本の稲作が3000年前に起こり、
(遺伝子的に見て、まず中国南部<越>より伝来したとみて間違いないだろう)
温暖であったため(稲は寒さに弱い)に日本の稲作がはやく普及し、
日本の人口が増えることによって、日本と朝鮮を行き来する人々があったと考えている。
(司馬遼太郎説に近い)

まず、日本と朝鮮の稲作の時期がいつなのか、
それぐらい答えて貰いたい。
また、中傷したり関係ない話しで誤魔化すのか?

458 :日本@名無史さん:2006/02/03(金) 10:19:17
>>455
だらだら言ってるけど、肝心なことは次の一点。
騎馬民族は列島にやってきて倭を征服したのか?
イエスかノーで答えてくれ。

459 :日本@名無史さん:2006/02/03(金) 16:55:18
世界史板で、こんなん見つけました。

世界@名無史さん :2006/01/12(木) 00:46:24 0
たびたびあっていた海外からの侵略

日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。
日本側の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』
『百練抄』 『日本紀略』『扶桑略記』等)、それまでたびたび侵略を受け、
九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されている。
詳細(海賊・倭寇の起源を探る)
その大半は、朝鮮半島からのものであった(これが倭寇の正体。倭寇=朝鮮人)。数隻の賊船に
よるものがほとんどであったが、中には、
45隻・2500人の新羅の者が来襲し、捕らえた捕虜が「王の命令を受けて略奪に来た」と
述べたこともあった。(『扶桑略記』)
また、どこの国のものかは定かではないが、最大規模のもので、 承徳元年(1097年)、
異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せ、 大宰府官兵・九州軍士が賊船を撃破し賊徒数万を
海没させた、という記録がある。
九州大宰府は、古代から日本外交の窓口の役割を果たしてきたが、同時にそこは外冦防衛の
拠点でもあった。


460 :日本@名無史さん:2006/02/03(金) 22:45:40
>>458
征服なんてされてないよ。
根拠は福岡の老司古墳。
江上さんは、この古墳の発見で自説が証明されたと言ってたが、
出てきた人骨は従来の倭人だった。
しかも5世紀初めの古墳だし。
あの人は4世紀初めに北九州を征服(崇神天皇)なんて仮説を立ててたんだから、
この時間軸の差をどう考えてたんだろう。




461 :日本@名無史さん:2006/02/03(金) 23:00:56
江上さん自身も、この老司古墳の人骨のことは知ってたはずなのに、
それを書かないのは研究者として卑怯だと思う。

462 :白馬青牛:2006/02/03(金) 23:59:57
>>456
稲の遺伝子のデータや種類を言うんじゃったら、>435の熱帯
ジャポニカの変容とされる「b遺伝子」は朝鮮に無く、江南から直接来た
ろうが、温帯ジャポニカ「a遺伝子」は何処を経由して来たんか。
>438で佐藤氏の引用をし、著書を読んどるんなら捏造せず明確な
答えを出せ。稲作の時期はナラ、ブナ林地帯の朝鮮(今のところ2000
数百年前であるが今後の調査にもよる。)よりも照葉樹林地帯の西南日本の
方が早い(3000年前以前にも江南の玦状耳飾が北陸(越)へ伝播も
含め、江南文化の影響は縄文期には強いと思うので稲自体ももっと古くに
伝えられた可能性もありうる。)と思う。あくまで推測であるが。
しかし照葉樹林文化において稲作を陸稲の焼畑段階と水稲段階では違う
ことは、前にも述べたが同一視(世界地図、世界の農業地域ホイット
ルセイ、ほかを見ると東南アジアの水稲Eと焼畑Cは区分されておる。)
する自体可笑しい。照葉樹林文化も考察せず稲から妄想を膨らませ、
木を見て森を見ん、相変わらず幼稚な推論を言うとるのう。
現代に伝承される馬の諺が珍説?文化類型を設定する考察を否定出来る
条件とは如何なるものか?回答して貰いたい。

463 :白馬青牛:2006/02/04(土) 01:07:50
>>457458
司馬遼太郎説に近い?わしが、司馬史観に批判的であるのを考慮してか。
http://www.kurikomanosato.jp/to-siba-umi.htm
に、あるよう朝鮮に比べ歴史において海洋的要素が乏しいのは
同意出来るが。
日本の人口が、稲作により増加したと言うのなら増加率の推移も書け。
中傷はしとらんし、誤魔化してもおらんよ。歴史を考察する視点は、
文献・出土品等は極く一部分に過ぎず、証明の為では無く、データに
過ぎん。そのデータを如何に活用するかにかかる。今日こんな出土品が
出ましたから、こうですでは、流行、トレンドを追うだけであろう。
単一のデータで物を解釈するのは、余りにも幼稚過ぎる。複合的全体論で
ないと。
イエスかノーかの○×式教育の影響が強いのう。まあそれは別として、
前にも言うたが、倭人は後の倭寇のようにエスニック集団で日本列島の
住民のみ指すもので無いのは当然として、倭人は殖民活動もあろうが、
あくまで漢人の隷属民であったろう。(ギリシャから地中海・黒海に
殖民したイオニア・ドーリア型、南方海民型)日本の国家形成(地中海の
南方海民で無く、ギリシャで言うとマケドニア。北方海民ヴァイキング等)
には騎馬民族と言うよりも、ツングース系北方民族(水民・歩兵主体)が
関与したと思う。4世紀前後の気候の寒冷化による、世界的(ゲルマン・
エフタル・鮮卑・羌・高句麗等)に北方民族の南下現象と、それに伴う
北方民族の国家形成を重視するので、日本のみ例外と考えるのは難しい。
四隅突出墳の出雲系が越(北陸・古志のヤマタノオロチ)平定もその
流れによると思う。

464 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:36:03
>広島牛
437,438がきちんと答えてるのに罵倒で返すとは、、
捏造は広島サンの専売特許

>>455
それじゃ、古代日本で打物騎兵が存在してた証拠は?文献では弓騎兵だけ。
矛など打物を言うなら歩兵だろ。

>奈良県山地の兵も遠矢であろう。
遠矢(歩射)は城郭戦の増加する南北朝期。騎馬の特性が生かせない。
騎射⇒下馬射の増加。
馬に乗って射るより、下馬して射た方が飛距離が出るだろう。想像すりゃ、誰でも判ると思うが?
遠矢(歩射、西国)、強弓(騎射、東国)

>蝦夷相手の戦闘と言う、ぬるま湯につかった為か。
ならば都の武芸はボウフラでも湧いてそうだw

465 :白馬青牛:2006/02/04(土) 02:34:58
>>464
おどりゃ、わしが捏造するじゃ。捏造しとるんは、どの文章か言えいや。
奴隷根性を持つ弱虫が何カバチたれとんなら。わりゃええ加減にせいや。

文献が証明の道具とは笑わすが、文献の弓騎兵だけとは、どの文章から
解釈したんか言えい。矛が歩兵と短絡的解釈。軽装備騎兵を中央に配備し、
矢の猛射を浴びせ、その四方を重装備騎兵が取り囲み、鉄の壁を作り、
重装備騎兵が矛(長槍)を以って刺突する形態は中央ユーラシアに
普遍的戦闘形態であろう。鮮卑や高句麗も地域差があるが、戦闘形態に
基本的差異はあるまい。遠矢が南北朝期という根拠も言え。
下馬して射つ方が飛距離が出ると言うのであれば、何メートルの差が
出るんか答えいや。
蝦夷相手に苦戦した坂東は、ボウフラにも及ばん。越蛇に喰われた坂東蛙は
いささか誉め過ぎたかのう。

466 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 09:27:50
>>463
>倭人は殖民活動もあろうが、あくまで漢人の隷属民であったろう

根拠が薄いな。


467 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 18:43:26
>>465
わーい、広島人がキレタキレタ
>白村江戦から後外征のない日本は、
 戦闘の日本化、地方化が起こり、矛(槍)騎兵が必要な距離でも、
 騎射から組打ちに展開する奇妙な現象が出来た。
 蝦夷相手の戦闘と言う、ぬるま湯につかった為か。
思いっきり妄想なんだが??

日本の戦場を想像してみろ、大陸となぜ比較する。
蝦夷も東国武士も騎馬での狩猟は日常生活だった。そこから来る残虐さはあるが(関東武士)。
山林原野での実戦の騎射はそれが生かされてる。遊牧民じゃないし。

それでまた強行質問かよw
僧兵や山賊のようなトーシロ兵以外で、打物騎兵が存在したという証拠は?
実戦や狩猟経験の少ない都で盛んに行われた『流鏑馬』も騎射なんだが?
都の武官には騎射絶倫とかいう表現がされてるよな。あくまで経験薄の都視点だが。

それと越後勢は北関東から追い返したわけだけど、何か?
相模、武蔵、甲斐、駿河人に支配された騎馬下手安芸人末裔さんw

468 :日本@名無史さん:2006/02/04(土) 19:32:32
>>467
気持ちはわかるが馬鹿の煽りには乗らないようにした方がいい。

469 :白馬青牛:2006/02/04(土) 23:30:56
>>466
後漢の金印「漢委奴国王」が示すよう、委奴国王が楽浪郡太守を通じて
皇帝に付属しておった。同時代雲南の「滇王之印」には「漢」の字が無い。
滇国は漢皇帝に直属しておらんかった。福岡県の三雲遺跡や須玖岡本遺跡
から瑠璃璧が出ており、玉璧は、君主が臣下に地位や任務を与える下賜品
であり、倭人は、男女生口(奴隷)を献上する隷属民であろう。
>>467
大陸と比較せず、狭い視野はやはり越蛇に喰われた井の中の蛙らしい。
蝦夷や東国武士だけが騎馬で狩猟?『今昔物語集』讃岐の源大夫や
類盗る『類聚三代格』の豊後国の「騎猟之児」「城府来弓馬之士」を
無視かいのう。妄想、捏造しとるんはわれじゃ。
打物騎兵は、『平治物語絵詞』「六波羅合戦巻断簡」に騎馬武者が刀を
持っておる。しかしユーラシアの矛騎兵は見えぬことから、日本的、
ローカル的ぬるま湯と思えるのが妄想になるんか。都の武官が実戦や
狩猟経験が少ない?この日本史板の『源平武士と戦国武士、タイマンで
戦ったら』でも、わりゃは同じ様な妄想を言うとったのう。
越後蛇族に秋期から毎年犯されとった坂東蛙は、労働力確保の季節戦闘も
も都合が悪いんで誤魔化しとるんじゃろうが、残念じゃが、安芸人は坂東と
違い他地域との戦闘に負け隷属化されたことは無い。安芸へ入植した関東
武士は、概ね現地民と共存し広島人となった。婚姻や社会制度からも
明らかであろう。わしも騎馬下手の坂東の血が入っておるが、関東武士
末裔は風土条件から安芸人となりて精強となり、近代戦でも比類無き
武勲を発揮したともいえよう。

470 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 00:19:22
>>469
毎年生口を献上したわけではなかろう。
隷属とは大げさだな。
ほどほどの付き合いだったろうな。

471 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 00:50:35
>>468
悪いが無視出来ん、広島ミニ中華思想に釣られてしまう、捏造が多いから。

>>469
平家物語や平治物語を否定して『今昔物語集』ねぇ、、
日常的に狩猟を行っていたのだよ、関東や信濃の武士は。狩猟社会の住民といえる。
工藤兼光の発言に見られるように。
富士の巻狩にみられた複数国レベルの大規模な狩り、西国では見れないだろ。

西国人にも狩猟好きの名人がいたことに何の不思議もないが?都の貴族層にもいるし。
狩猟ヲタの後鳥羽院もしょっちゅう狩猟を行っていたわけじゃない。
武芸の方もかなりのマニア、名人で、神泉苑などで武技を磨いたそうだけど、
その末路はご存知の通り。

殺生を日常としていた東国では都のような「浄穢思想」が薄かった。
直実の発言もそれ自体は虚構にしろ、当時の思想などを反映したものだともいえる。
・坂東武者は死への観念が薄い。
・強弓の武士がごろごろいた。
関東は9世紀後半以来、自力救済(元木氏)、アナーキー(関氏)な世界よ。実戦騎射は練磨される。

>打物騎兵は、『平治物語絵詞』「六波羅合戦巻断簡」に騎馬武者が刀を持っておる。
本来は弓射騎兵、弓射戦後に打物戦となる。馬上で決着・組討⇒落馬など、色々。

それとさ〜、>>458にある質問には都合が悪いから答えないわけ?

472 :白馬青牛:2006/02/05(日) 02:22:18
>>470
毎年とは言うとらんが、生口を献上し隷属といわずして何と言うんか。
独立国でもない。漢に隷属し臣下であったと言うべきであろう。
>>471
捏造は、越奴隷民坂東中華人の得意じゃろう。人に対し捏造と根拠も無く
喚く奴隷根性にはあきれるわい。日常的に狩猟を行い、狩猟社会?
兵(つはもの)の道も知らず、残虐行為を繰り返す坂東武士がか?
シロコゴルフ氏は「ツングースは概して残忍ではない。残虐なことは
どんな種類のものでも、ツングースは嫌う。動物を必要もなくして
殺すことはオルマ(悪)と見なす。ツングースは金や利得の為には
殺さない。彼等は病獣や傷ける獣を見逃してやることは、もっとも
好まれる話題である。」日本でも古来「窮鳥懐に入れば猟師もこれを
殺さず」を美徳としておったんじゃが、残酷さを誇るとはあきれる。
我が国の狩猟文化を貶め、狩猟民族は残酷と誤解を与えせしめ何が
嬉しいんか。狩猟の生業を伝統としておられた諸民族の方々に対し、
無礼極まれり。狩猟作法も知らん坂東人が戯言をぬかすな。坂東蛙は、
もう一度西行から狩猟の作法、山神に供えた葥祭餅の食べ方まで
学習したらどうか。

473 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 07:34:59
>>471
おっと誤爆
工藤景光 実盛

>>472
左翼の職能論者が過度に武士の残虐さを強調してるだけで、
京都権力者たちの非道に較べりゃ(ry

>もう一度西行から
あんたは恐山のイタコかいw

474 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 10:26:28
というわけで、
伽耶的埋葬品をもつ老司古墳の発見を、
江上さんは自説の証明としたわけだが、
発掘された人骨が倭人であるという事で、
逆に自説を見事に否定されたわけだ。

柔道でいう「内股すかし」をくらったようなものだろうな。

あとは、扶夫王家が日本に亡命してきたとして、
日本のどこかで遺跡が見つかる程度のものだろう。

江上説は完全に終了した。

475 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 16:45:34
>>458
例えばだが、扶余系の豪族が西日本に領地を貰って畿内の大王に仕えた。
この扶余系豪族が何代か後に、畿内の大王との婚姻関係によって平和的に
大王位を譲られた。
このような筋書きはイエスになるのか? ノーになるのか?

>>474
それは騎馬民族説の筋書きの一つのバリエーションが否定されたに過ぎない。
百歩譲って「江上説」が否定されたとしても、それをもって「扶余征服説」が
否定されたことにはならない。

476 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:38:44
>>475
>この扶余系豪族が何代か後に、畿内の大王との婚姻関係によって平和的に
>大王位を譲られた。
想像するのは勝手だが、何でそんな事をしなければならないの?
そんな事する理由がわからない。
そこまでしなければいけないほど扶余王は凄いのか?

>筋書きの一つのバリエーションが否定されたに過ぎない。
そうかなぁ。
老司古墳埋葬者は古墳の規模からいっても九州北部のかなりの豪族だぞ。
扶余が直接日本に来て騎馬文化を伝えたのか、
それとも倭人が金官で騎馬文化を習得したのかで言えば、
後者である事が明白になってる。
他にそれらしき古墳から伽耶的文化の発掘がない以上、
江上説は成立しない。
それと百歩譲って、老司古墳を天皇墓とするなら、
5世紀前半だし何天皇に比定すればいいのだろう。
河内に大規模古墳が出来てる時期だしな。


477 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:42:56
>>475
「騎馬民族『征服』説」としてはノーでしょ。

478 :日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:48:18
>>475
扶余が日本を征服したのなら、
北九州から畿内に入って大王となるわけだから、
北九州でもそれなりの大きさの陵墓でなくてはならないはずだし、
時期的にも4世紀〜5世紀前半の古墳という事で、
おのずと限られてくるよな。

老司古墳から人骨など発見されなかったら、
江上説もまだまだ信憑性を持ち、話も違ったのだろうが…

とにかく征服説は無理だ。

479 :白馬青牛:2006/02/06(月) 00:14:09
>>473
左翼の職能論者?下向井氏は元木泰雄氏の『武士の成立』の書評で、
「職能人論に立つ武士論は今日、通説破壊=歴史修正主義の急先鋒を
進んでいる」坂東蛙は逆説に捏造し楽しんどる。草深い関東から
社会変革が起きたというのは、日本の中の狭い視野で奴隷社会から
封建社会へと発展段階説を唱えた石母田共産主義史観で、下向井氏のような
関東賛美共産主義者に受け継がれておる。武士の残酷さを強調しとるんは、
在地領主論者じゃないんか。都の権力者も非道であったろう。確かに
東西の武士に係わらず利用された部分はある。じゃが西行からと言う
比喩も理解出来んとは。

老司古墳の縄文在来型の要素が強い人骨であったのは興味深い。西日本
古墳人骨は、近畿古墳人骨に比べ縄文的特徴要素が強い。弥生の北九州
平野部の甕官渡来型人骨(倭へ来た植民地出先機関の漢人かどうか
解らんが)が少数派であったとも考えられ、弥生期よりも4世紀頃の
気候寒冷化に伴い北方民族が南下し、近畿に多く移住したのち西日本
各地に縄文型から渡来型へ徐々に変化が起き、現代化したのであろうか。
弥生期は、古墳期の気候寒冷化による世界的民族移動期ほど、人が多く
移住せず、在来縄文型が多数を占めたとも考えられる。

480 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 01:09:05
>>479
ってか、職能論と領主制論を、対立させて考える事がイカレてるわけで(ry
関東賛美??広島大の下向井氏は蝦夷の武を強調してるわけだが?
それに、下向井氏は領主制論者じゃないし。

>武士の残酷さを強調しとるんは、在地領主論者じゃないんか。
●口氏左翼丸出しw

西行が狩猟名人?ソース無し電波飛ばすなよ、
仮にそうだとしても領地の紀州でだろ。都じゃ本物の騎射は磨けんよ。


>弥生期よりも4世紀頃の気候寒冷化に伴い北方民族が南下し、
石母田批判で江上氏マンセーねw
まぁ、4世紀じゃ騎馬文化を持った民族じゃないけど・・・。

481 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:26:43
>>477
>このような筋書きはイエスになるのか? ノーになるのか?
>「騎馬民族『征服』説」としてはノーでしょ。

なるほど、「騎馬民族が列島にやってきて倭を征服した」ことは
なかったが、倭の五王は扶余系だった、ということがあり得るのだね。
それで結構。

>>476
>そこまでしなければいけないほど扶余王は凄いのか?

凄い。三輪王朝が対抗できない装甲騎馬戦術を持っている上に、王朝の
生命線である鉄と、大陸文化の輸入口を押さえている。これ以上有利な
立場はない。

>それとも倭人が金官で騎馬文化を習得したのかで言えば、
>後者である事が明白になってる。

5世紀はすでに倭ぜんたいが騎馬化しはじめた時期だ。この時期の九州の
騎馬文化はほかに幾らでもある。土着の豪族が騎馬化してもなんの不思議も
ない。

>他にそれらしき古墳から伽耶的文化の発掘がない以上、 江上説は成立しない。

古墳時代中期の出土物はすべてが「伽耶的文化」と言っていいくらいだ。
当たり前すぎて眼に入らないのだ。

>5世紀前半だし何天皇に比定すればいいのだろう。 河内に大規模古墳が
>出来てる時期だしな(>老司古墳)

騎馬民族説は、倭の五王にあたる河内の大規模古墳がすでに扶余系である
と考えるのだ。

482 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:58:29
扶余がそんなに凄いなら何で攻めてこなかった?
攻めてきた痕跡があるのかな。

で、馬具はもちろんの事、石蓋墓など最も伽耶的な古墳として老司古墳があるのだ。
したがって江上さんは自説の根拠とした。
が埋葬者は在地の倭人であった。
これは致命的だ。
じゃ他の古墳は?という話だ。
たとえば馬面冑で有名な和歌山大谷古墳は、
伽耶的とは決していえない。
あの馬面冑は新羅のものとそっくりらしいからな。



483 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 18:21:33
>>481
仮に扶余系が大和王朝と何らかの婚姻関係を結んだとして、それは「征服」なのか?
単なる結婚だろうが。
征服なんて言葉を使うなら、
大和王朝を扶余チックに変えてみせなきゃ意味ないだろ?
三種の神器に勾玉がある王朝は少しも扶余に変革させられてないとも言えるぞ。

484 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 19:42:12
>>481
> なかったが、倭の五王は扶余系だった、ということがあり得るのだね。

倭王武の上表文なんかを見る限りその可能性は限りなく低い。

485 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:35:25
>>484
>倭王武の上表文なんかを見る限りその可能性は限りなく低い。

たとえばどんなところが「その可能性は限りなく低い」かな?

>>482
>あの馬面冑は新羅のものとそっくりらしいからな。

新羅から出た馬兜とはどんなものか、紹介してくれ。

>>483
>仮に扶余系が大和王朝と何らかの婚姻関係を結んだとして、それは「征服」なのか?

平和的に大王位を譲られたとしてもそれは「簒奪」であって、結果において「征服」
と同じ事だ。別に婚姻関係にこだわっているわけではないよ。

>大和王朝を扶余チックに変えてみせなきゃ意味ないだろ?

簒奪とはそのまま受け継ぐことだから、変わらなくともよい。
しかし変わるところは自ずから変わる。
例えば倭の武装は伽耶と共通になってしまったではないか。

>三種の神器に勾玉がある王朝は少しも扶余に変革させられてないとも言えるぞ。

三輪王朝に「三種の神器」があったの?


486 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:28:21
>>485
金官伽耶の王家は滅亡する6世紀後半まで続いてるんだよね?
じゃ日本に来たのはいつの時代とお考え?
というか彼らが日本に来たという何の証拠もないんだけどね。




487 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:36:57
>>481
>5世紀はすでに倭ぜんたいが騎馬化しはじめた時期だ。この時期の九州の
>騎馬文化はほかに幾らでもある。土着の豪族が騎馬化してもなんの不思議も
>ない。

そりゃそうなんだが、あなたが征服王朝説をとるのならば、
この時期の福岡平野の首長は扶余人でなくてはならないはずだ。
が、そうではないという結論が出てる。

488 :日本@名無史さん:2006/02/06(月) 22:26:39
>>485
祖禰より云々から始まる文。
先祖代々国を大きくしてきた経過が記されているが、そこに半島視点が一切反映されてないこと。
また代々の倭王が称してきた号。
変動はあるが倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事。
倭王が扶余系ならこういう順番にはならんでしょ。
というか、そもそも倭王を名乗らんと思うよ?

489 :白馬青牛:2006/02/06(月) 22:37:45
>>480
坂東蛙よ。わしゃは、在地領主論者のみならず、国衙論者等も含めて
言うとるんで。>472でも狩猟作法を言うとるんで。西行が
狩猟名人と誰が書いたんか。毎度のことじゃが、何でわれは、人の
書いとるもんを捏造して言うんか。それが関東の習慣なんか?

4世紀の気候寒冷化の民族移動と江上説は関係ない。江上氏は、
騎馬民族の人数は少ないと考えておられた。征服王朝説に関しては、
江上説より梅棹(ツングース水軍)説や水野(王朝交代)説の方が
同意出来る部分が多いと以前にも書いとる。

490 :日本@名無史さん:2006/02/07(火) 00:18:34
>>489
>わしゃは、在地領主論者のみならず、国衙論者等も含めて言うとるんで。
元木氏らの軍事貴族説も含めてか。それじゃ尚更、排他的で問題ありだろ。

職能論のみでは、上総・三浦・秩父氏のような有力武士の説明すら出来ない(国衙在庁官人)。
党と呼ばれる中小武士団じゃ尚更。武蔵七党など馬牧との関係は大きい。
関東から進出した都の軍事貴族も、武士職能(芸能人)論のみでは説明できない。

>西行が狩猟名人と誰が書いたんか。
同じ意味だろ。西行が狩猟名人だと思わないなら余計な事書くなよ。
延慶本(平家物語)、佐原義連「三浦にて朝夕狩するに・・・」
狩猟を常としていた東国武士が、風流人の佐藤義清に習う事などないね。

>江上氏は、騎馬民族の人数は少ないと考えておられた。
おまいさんは大量に騎馬民族が来たとでも?w

>征服王朝説に関しては、江上説より梅棹(ツングース水軍)説や
 水野(王朝交代)説の方が同意出来る部分が多いと以前にも書いとる。
どこに書いた?前スレか?
水野氏ってこんな事言ってるのか?↓

>弥生期よりも4世紀頃の気候寒冷化に伴い北方民族が南下し、
 近畿に多く移住したのち西日本各地に縄文型から渡来型へ徐々に変化が起き、
 現代化したのであろうか。

491 :白馬青牛:2006/02/07(火) 02:14:01
>>490
国衙論者等を含めて全体論として批判的ではあるが、細部には参考になる
部分もあるわい。何で排他的なんかいのう。
高橋昌明氏のいわれるセミ・プロを武士と呼べるかどうかじゃ。
前提条件を付け説明出来ないとほざいてものう。
都の軍事貴族が関東から進出?逆であろう上方から関東下向し、関東人を
支配したと言えよう。狩猟を常としたのは讃岐の源大夫の「日夜朝暮、
山野に行て鹿鳥を狩り、河海に臨て魚を捕る」と東西の違いでは無い。
西行の弓馬談に感銘したんは、北条泰時や三浦義村ら鎌倉武士じゃろう。

大量に来たんが、何で騎馬民族と決め付けるんか。わしが、何処に
書いたかぐらい自分で調べえや。人の文を読まず、前文の揚げ足を
取ろうと思いつきでものを言うとるけえ解らんのじゃろう。
水野氏は気候変化を言うておられん。勝手に決め付けるな。

492 :日本@名無史さん:2006/02/07(火) 14:56:06
>>486
6世紀後半まで続いたのは釜山地域の王朝で、申教授によればこの王朝は
本来の金官である金海地域の王朝とは別物である。金海の王朝は5世紀
初頭に王墓の建設が絶え、「行方不明」(申教授)になった。

>じゃ日本に来たのはいつの時代とお考え?

4世紀中葉にはすでになんらかの形で日本に来ていなくてはならない。

>>487
>征服王朝説をとるのならば、 この時期の福岡平野の首長は扶余人でなくては
>ならないはずだ。

扶余による征服または簒奪が必ずしも九州の段階を経たと考えなくてもよい。
金官は畿内と直接の関係を持っていたことが発掘からわかるからだ。
私は九州は二次的に統一されたと考える。

>>488
>先祖代々国を大きくしてきた経過が記されているが、そこに半島視点が
>一切反映されてないこと。

倭王武は五王時代の最後の王で、「始祖」が倭に土着してから少なくとも5代、
少なくとも100年経っている。半島からの視点がなくても当然。

>変動はあるが倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事。
>倭王が扶余系ならこういう順番にはならんでしょ。

いつもの例だが、ノルマンジー公がイギリスを征服してイギリスとノルマンジー
を併せた王になったわけだが、ノルマン王朝ではあってもノルマン王とは
称しない。イギリス王だ。領地を称する順番もイギリスが先だろう。

493 :日本@名無史さん:2006/02/07(火) 15:52:34
>>492
なるほど、筋は通ってるねw
ただそれを証明する手段がないよな。
何が出てきたら証明された事になるのだろう?
木郭墓か?

494 :日本@名無史さん:2006/02/07(火) 19:42:09
>>492
申教授の言う「別物」って部分、良ければ詳しく教えてくれないか?
出土物が異なるって事なんだろうか。

495 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/08(水) 16:57:32
過去を知っていると信じるのは愚の骨頂だ。
われわれが過去を捏造するのだ。
過去に向って立つ時、われわれの眼前にあるのは、無数のまことしやかな、
虚妄の道路である。

過去について、われわれは頭の中で小説を書く。

                     原口統三   二十歳のエチュード

一息ついて、小説をよんでみました。何か、真をついているところもありますね。
昔はこんな本もよくよんでました。


496 :日本@名無史さん:2006/02/08(水) 19:39:12
>>493
「謎の4世紀」たるゆえんだ。
三輪王朝がどうやって金官の扶余王朝を服属させたか(従来の筋書きによれば)
についても、いろいろな仮説を考えてみることができるだけ。

>>494
「巨大古墳と伽耶文化」という本の巻末の座談会で、申教授が「別物」という
言葉を使って説明していたが、この本がいま手元にない。
図書館から借りて来たら引用する。
要するに木郭墓の造りや出土物に新羅の影響が見られると言うことだったと
思う。ちなみにこの地域はもともとは新羅領だったが、金官がその盛期に新羅
から奪い取った、と申教授は主張している。

497 :日本@名無史さん:2006/02/08(水) 21:45:13
>>496
伽耶で、大和が扶余を服属させてはいないと思う。
扶余の王墓が続いてるんだし。
かといって、扶余が日本に来て大和を服属させてもいないと思う。

498 :日本@名無史さん:2006/02/08(水) 23:48:30
>>491
高橋氏のは、例の他スレで(ry

>逆であろう上方から関東下向し、関東人を支配したと言えよう。
王胤貴種の血統に従ったんだよ。そして王胤は土着してない。
在地有力豪族の娘と婚姻を結び、子・子孫が母系の地盤を基に発展させてる。

>讃岐の源大夫
それは殺生を行う悪者として挙げられてる。狩猟民の坂東人と比較するのは間違ってる。
>西行の弓馬談
馬は関係ない、実戦と無関係な流鏑馬の話し。それも時代の下った頃・・・。

>人の文を読まず、前文の揚げ足を取ろうと思いつきでものを言うとるけえ解らんのじゃろう。
はっきりと答えないから、何を言いたいのか解んないんだよ。
その4世紀に騎馬文化民族が来たのか、来なかったのか、
どう思ってるのか答えてないだろ?

>水野氏は気候変化を言うておられん。勝手に決め付けるな。
知らないから聞いてるわけで。
水野説は、崇神、応神(征服王朝)、雄略(越前から)の3交替説だっけ?
征服王朝が渡来系だと言いたいの??、これは井上光貞説か。
いずれにせよ古いなあ、騎馬民族説。。

499 :日本@名無史さん:2006/02/09(木) 07:58:28
>>496
扶余は各地の墓制の影響を受ける民族だと言いながら、
新羅の影響受けてるからと言って、
5世紀初頭に王家がどこかに消えたというのはダブルスタンダードだな。
新羅の影響を受けつつも半島に残り続けたとみるべきだろう。

500 :日本@名無史さん:2006/02/09(木) 21:32:37
>>499
そのとおりだよな。
木郭墓のつくりが違う程度で「別物王朝」になるんなら、
日本に来て前方後円墳に変ってる事はどうとらえればいいのだろう。


501 :日本@名無史さん:2006/02/09(木) 21:33:43
>>497
少なくともある時点以降は任那が倭に服属していたのは確かだ。
広開土王碑でも安羅は倭の別働隊として働き、金官は倭と一体で行動している。
また日本書紀によれば任那は倭に朝貢している。

>>499
扶余が各地の墓制の影響を受けると言ったのは私だが、
金海地域の金官王朝が5世紀初頭に行方不明になり、釜山地域の金官王朝は
これと「別物」だと言ったのは申教授だ。
いっしょくたにしないように。

502 :白馬青牛:2006/02/10(金) 01:08:44
>>498
河内源氏や藤原秀郷流も近畿系統ではないんか。秀郷の流れの奥州藤原氏
のミイラ遺体が在来縄文人型でなく、外来渡来あるいは近畿型であった
こともふまえ、東国支配者は在来縄文系だけでは説明出来ん。
西国讃岐の源大夫と東国陸奥国の壬生良門の「夏は河に行て魚を捕り、
秋は山に交わりて鹿を狩る」と変わらん。セミプロも含める武士の起源に
は狩猟・漁労民要素が強いと思うが、武士の起源についてこのスレと
関連させいずれ延べようと思う。
相変わらず実戦について戦闘形態を詳しく延べんのう。関東の実戦とは
何か。迂回か、包囲殲滅か。
日本へ来たのは騎馬というより、船移動の歩兵中心集団を想定した方が
良いと何度も言うとる。水野祐氏は崇神、仁徳(征服王朝)、継体の
三王朝交代説で、日本民族の主流をなす民族の人種要素のなかに
南ツングース族の系統が濃厚に混ざっておるとされる。井上光貞氏は
反騎馬民族論者であるが学説に古いも新しいも無い。

503 :日本@名無史さん:2006/02/10(金) 10:37:21
>>501
そうすると、扶余の墓制については、
あなたや江上さんの言うように、
在地のものを踏襲してるだろうという人と、
申教授のように独自の金海式木郭墓であろうという二派があるわけだな。
これはややこしいなw

504 :日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:53:04
今日その本を借りて来たが、申教授は「別物」という言葉は使って
いなかった。それにあたるところは:
「5世紀前葉以降文献に出てくる532年の滅亡までの金官伽耶は、名目
上の金官伽耶です。なぜならばこのとき出た東莱福泉洞、蓮山洞(註:い
ぜれも釜山地域)以後の文化は完全に新羅スタイルに変わるからです。
そのときの名目上の伽耶はそれまでの首長と認められますが、新羅の手先
としての伽耶です。名前だけの伽耶で、4世紀から存在していた伽耶とは
異なります。」

つまり、国の性格が「異なる」ことを言っているだけで、東莱の首長が
扶余系か、伽耶系かはなにも言っていない。ただし上にもちらっと言って
いるように地域の支配者としての、以前からの連続性はある。また4世紀
には東莱でも扶余式の木郭墓が築かれていた。
したがって東莱の金官王朝の系統については:
*金海の扶余の一派が派遣されて、それまでの伽耶系の首長にとってかわった。
(それが5世紀以降に新羅の影響によって新羅化した。)
*伽耶系の首長が扶余の支配によって扶余文化を取り入れた。(5世紀
以降については同上。)
という二つの可能性があることになる。

505 :日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:56:56
一方、「行方不明」については次のように言っている。
「3世紀末ごろ、金海の狗耶韓国と東莱(今の釜山)の居[シ七/木]山国
とが政治的に統合して、金官伽耶になりますが、5世紀前葉、突然金海大成
洞の集団が行方不明になってしまいます。それ以降の金官伽耶を誰が管轄する
かといいますと、福泉洞古墳集団の可能性が高いのではないかと考えています。

いずれにしても、金海の扶余が釜山地区に逃れて東莱の金官王朝になった、
という可能性は申教授は考えていないわけだ。

506 :日本@名無史さん:2006/02/10(金) 21:01:02
>>503
ややこしいと思うのは「逆は必ずしも真ならず」ということを考えないからだ。
木郭墓ではない百済や高句麗の古墳が事実としてあるのだから、それを見て常識で
判断してもらえばよい。

507 :日本@名無史さん:2006/02/10(金) 23:35:59
>>502
この調子じゃキリねーな

河内源氏が関東発祥なんて言った事ないぞ。実質、相模源氏っぽくなるが。
秀郷流藤原氏は下野豪族。
ミイラが縄文系じゃなかった、とかの話は関係ない。
平泉藤原は下野秀郷流だけど、関東の古代豪族の出自は謎だし(関東に限らないが)、
秀郷流藤原氏は、下野国の鳥取氏が中央貴種の血を取り込んで藤原姓を称した。

>西国讃岐の源大夫
畿内近国で非難される対象の狩猟(殺生)を、坂東では生活の糧として行っていた。
そこにも噛み付くわけ??
鎌倉時代には都を真似て、鎌倉武士も洗練されていく。
>関東の戦闘形態
将門時代なら福田豊彦氏。将門は私営田領主というより馬牧の牧場経営者。
多数の歩兵隊(伴類、頼りにならない)と少数の騎射兵(従類、勝敗を左右)。

>日本へ来たのは騎馬というより、船移動の歩兵中心集団を想定した方が良い。
それじゃ、当時の渡来人が騎馬文化民族じゃないと思ってるわけだな。
>学説に古いも新しいも無い。
石母田批判は露骨なんだが?
東北騎馬民族みたいのは語られてるが、ヤマトと騎馬民族は(ry

508 :白馬青牛:2006/02/11(土) 01:00:43
>>507
藤原秀郷は、左大臣藤原魚名の玄孫で下野鳥取氏を母に持つが、
中央貴種の血を取り込んでというより、鳥取氏も関東移住の武装開拓民を
想定した方が良い。奥州藤原氏のミイラから考えると。
坂東で狩猟を糧としたのは縄文期の貝塚沿岸民であろう。アイソープ食性
分析から見積もった縄文人の食生活パターン(南川雅夫、1990)に
よると、北海道グループは縄文期から近世アイヌの時代まで海産物が一貫
して主たるたんぱく源であり、本州グループでは、内陸に住んだ縄文人は、
ドングリ、クルミ等のC3植物を主たるたんぱく源としたのに対し、
沿岸で貝塚を残した縄文人はC3植物と、鹿、豬等陸の哺乳類、海産物を
等分に組み合わせた食事を楽しんだようである。日本の肉食をタブー視
する意識も仏教以前に、縄文期の内陸採集(若干の草食動物・魚介類)
民に遡り考える必要もある。東北日本と同じナラ林地帯に属する満洲では
家畜飼育文化が発達したが、日本の縄文内陸民は狩猟民より採集民で
あろう。関東の武士起源も縄文系を含む漁労民を想定しても良いと思う。
坂東の具体的戦術形態を聞いたんじゃがのう。石母田共産主義史観批判に
露骨も糞もない。東北騎馬民は、内陸採集型か貝塚型か?

509 :日本@名無史さん:2006/02/11(土) 01:50:08
>>508
だからさ〜、遡ればキリがないわけよ。
坂東古代豪族のルーツが、渡来系(半島経由)の可能性も考えられるし。
畿内の支配者層だってそうでしょ。
『先代旧事本紀』物部氏の天孫降臨神話だって、海との関わりが大きいし。

坂東武士が狩猟民の末裔だったか、とか関係無く、狩猟という習俗に関しては
坂東武士に受け継がれた。もちろん、彼らのは騎馬弓射での狩猟。
東北から移植された俘囚はまさに騎馬狩猟民だが、後に東北に帰ってるか・・・。

>坂東の具体的戦術形態を聞いたんじゃがのう。
それじゃ、朝廷軍はどうなんだ?
壬申の乱で大海人は、『甲斐の勇者』など東国兵動員に成功。勝利。

東国では狩猟が実戦における最大の訓練。そして戦闘形態は騎射戦が基本。
東北蝦夷から学んだ騎射術を継承したのが都の近衛府武芸。実戦は未知数。

>石母田共産主義史観批判に露骨も糞もない。
ほらっ、排他的じゃんw

510 :日本@名無史さん:2006/02/11(土) 02:08:24
>広島牛タソ
もう面倒くさくなっちゃった
オリンピックも始まるし

秀郷だが、近江との関わりは無いよ。知ってたならスルーしてくれ。
後世は英雄だが、実際は群盗みたいなもんだろw
当時の関東豪族はそんな輩が多いがw

511 :日本@名無史さん:2006/02/11(土) 14:38:43
★ 三国史記に記された百済の建国神話 ★

【百済の建国 (三国史記より)】
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだ。
後継者争いで身の危険を感じた弟の温祚(おんそ)は、高句麗から逃げ出し、自分の国を建てるために
南方へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。10人の臣下にちなんで、当初は国の名を
「十済」とした。しかし、百姓たちが自分にしたがったことを喜び、百姓たちにちなんで国号を「百済」
に改めた。

【呉の建国 (史記より)】
『史記』によると、呉を建国した太伯(たいはく)は、周の古公亶父(たんぽ)の長男であったが、
後継者問題で身の危険を感じ、南方の江南の地にのがれて文身(いれずみ)・断髪し、後継者となる
意志のないことを表明して句呉と称したという。こうした事情を知って、この地の人々、千余家が
彼にしたがった。太伯は彼らを臣民として呉を建国した。

12世紀に成立した三国史記の『百済建国神話』が、史記のパクリであることは
間違いない。


512 :日本@名無史さん:2006/02/11(土) 17:46:41
★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。


513 :白馬青牛:2006/02/11(土) 23:20:01
>>509
騎馬狩猟習俗については、>469に九州の「騎猟之児」の例も書いた。
関東、東北だけではない。壬申の乱は、騎馬戦ではないし、東国という
より美濃兵が多かったと思うが。近江朝が勝った唯一の作戦である
騎馬戦を提案したのは河内の田辺氏であろう。騎射戦が有効なのは
敬装備騎兵で機動力に欠ける重装備騎兵が騎射主体とは、対蝦夷戦の、
ぬるま湯につかった日本化であるが実戦とはほど遠い。都が東北蝦夷
から騎射を学んだという根拠もない。では蝦夷は何処から騎射技術を
学んだんか?オホーツク文化人か?
石母田氏は兎も角、ご存知のようにわしは、民俗神話板の蝦夷のスレで、
東国優越史観の網野善彦氏の漁民の商人化を引用した。網野氏の近代
左翼思想から西日本を帝国主義と愚弄する東国被害者意識は別として、
東国的史観の中では、視野が広い方じゃ。しかし排他的なのは概ね東国
優越主義者であろう。坂東蛙君は内陸関東民か?関東武士起源要素も
強い漁労民文化に触れず騎馬を強調するところをみると。

514 :日本@名無史さん:2006/02/11(土) 23:24:48
>>513
何とか主義とかはどうでもいいんだよ。

515 :日本@名無史さん:2006/02/12(日) 17:25:03
>>513広島牛
軽くにしとこう

美濃も東国。
景能と為朝。
武士起源を縄文まで遡る意味あんのか?
朝廷軍はもっと重装。
弓馬戦闘は夷僚の生習。

516 :白馬青牛:2006/02/13(月) 00:55:18
>>515
美濃を東国に含める論拠は如何に。日本の東西分類は糸魚川〜浜名湖ライン
か、伊吹山〜鈴鹿山ラインか、それとも長島信広氏のように大阪、和歌山迄
西日本で、京都、奈良〜駿河、伊豆迄中央部と捉え、それ以東を東日本と
捉えるんか?3区分は狩猟文化でも、熊を指標とする東北日本型、焼畑式
山地農耕や狩猟を行い、林業を生業とする中部・近畿日本型、焼畑狩猟
文化で、猪を指標とする西南日本型に分類される。
大庭景能と為朝?騎馬民族であるモンゴル人が遠矢戦闘をせんかった
根拠はあったんか?武士起源は、倉田享氏の漁民説、宮本常一氏の
山岳民説(漁民も狩猟民から発祥し、彼等の闘争心、四国や紀州等の
山岳民は、戦国の終了で多大な虐殺をされた件もあった。)で
あるが、それに対し梅棹忠夫氏は、海民の山地への移住も考慮し、
ツングース北方海民が起源とされる。
朝廷軍がもっと重装と断定出来るんか、蝦夷の弓馬戦闘形態にも述べず、
蝦夷の弓馬戦術は何処から学んだか?書いとらんが。

517 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 01:32:53
第209回 特別講演会  特別講師 大塚初重先生
 古代日本の馬文化   「江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を考える」
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku209.htm

辰王の系譜、天皇家の遠祖
    −騎馬民族は来なかったか?
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm

老司古墳
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/roujikohun.htm

和歌山・大谷古墳
ttp://inoues.net/ruins/otani_kofun.html

518 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 08:47:26
天皇家は天つ神だという。これに対して出雲などは国つ神だという。
しかし、天皇家より先にヤマトに居たニギハヤヒもまた天つ神だという。
一体天つ神とはなにか。
私の結論を先に言えば、天つ神とは半島からの征服民族、この場合は
扶余族のことだと思う。
ニギハヤヒは扶余の先遣隊であり、天皇家は本隊だったのだ。
そして三輪王朝は出雲が中心になって建てたヤマト国家だった。
「国譲り」とは単に出雲を譲ることではない。まさにヤマト国家の
扶余への禅譲だったのだ。

519 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 12:47:09
>>517番さん
大塚先生の講演会は、どこの主催でいつの何時からどこでなのでしょうか?いってみたいものですから。
それとももうおわったのでしょうか・

520 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 18:24:25
扶余って自分たちを何と呼んでいたのだろうか?


521 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 18:36:51
>>518
>三輪王朝は出雲が中心になって建てたヤマト国家だった。

四隅突出墳墓が大和にあれば、あなたの意見を認めてもよいのだが・・・

522 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 19:40:35
>>521
四隅突出墳墓の特徴は前方後円墳の前方部の張り出した形に、また表面の葺き石に
現れている。つまり前方後円墳の特徴の一部をなしている。

>>520
「扶余」または「余」



523 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 20:03:03
>>518
それを言うなら物部、天皇の祖は
扶余に突き出された半島の在地勢力じゃないか?

あえて半島とするならば。

524 :日本@名無史さん:2006/02/13(月) 22:43:01
>>522
3世紀初め、天理にマバカ古墳(前方後円墳)が出来てるんだから、
それは無理があるんじゃない?
葺き石というのは土崩れを防ぐ手立てだったと思うんだが。


525 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 09:14:07
>>519
「一覧」のページに日付載ってるだろ。

209 2003.2.16 【特別講演会】 大塚初重先生


第208回 新春講演会 「騎馬民族は来なかった」
1.韓国の前方後円墳 【最近の話題】
2.騎馬民族は来なかった。
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm

526 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 09:17:46
老司古墳
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/roujikohun.htm
X 被葬者像
 人類学からの推定では2号石室では兄弟関係、4号石室では親子関係の可能性が指摘されている。
ともあれ5世紀前半代におけるこの地域の最高首長クラスの家系であるが、顔面の特徴はいわゆる
渡来人渡来人的でなく、縄文人的特徴をも有している点で「弥生時代以来の混血を経た形質」である
とされたことは重要な示唆を与えてくれる。すなわち伝統的な在地型首長の家系を引く首長層である
ことを意味しており、一部の副葬品に加耶系遺物があることのみを重視して、渡来系首長であること
を主張する向きがあったことに対する警鐘である。

和歌山・大谷古墳
ttp://inoues.net/ruins/otani_kofun.html
 大韓民国釜慶大学博物館学芸研究士の李尚律(イ・サンニュル)氏は、韓国考古学が専門で、特に
三韓時代から三国時代の馬具の研究、ならびに同時代の韓国・中国・日本の比較研究をしているが、
氏の研究によると、馬冑はA類形とB類形に分けられ、A類が加耶系、B類が新羅系とすれば、
大谷古墳の馬冑はB類に分類できるそうである。A類は加耶で独自に考案され、B類は新羅系では
あるが源流は高句麗にあるのではないかとする。A類は金官加耶勢力の衰退とともに姿を消し、
やがて新羅の台頭にともなってB類全盛時代を迎えるのだそうだ。だとすれば、大谷古墳、将軍山古墳
の馬冑は、新羅系の渡来人が日本にもたらしたものと言うことになるのだろうか?

527 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 18:51:09
http://www.pref.shimane.jp/section/maibun/maibun.f/sako.html
*古墳時代前期の出雲*  
弥生時代終わり頃の出雲には、巨大な墓(四隅突出型墳丘墓)を造るふたつの中心地がありました。
ひとつは西谷墳墓群(出雲市)に代表される出雲西部、
もうひとつは荒島墳墓群と仲仙寺墳墓群に代表される安来市荒島丘陵周辺の出雲東部です。
その後時代がくだり古墳時代に入ると、全国に前方後円墳が造り始められる一方、
出雲西部では目立った有力者の墓が造られなくなり、
東部のみで四隅突出墓にかわって大型の方墳が造り続けられました。
こうしたことから、古墳時代はじめの出雲は東部が中心地となり、
しかも前方後円墳を受け入れない、あるいは前方後円墳を造ることを許されないという、
全国的にも特異な地域だと考えられてきました。

528 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 18:56:25
>>518
>「国譲り」とは単に出雲を譲ることではない。まさにヤマト国家の
>扶余への禅譲だったのだ。
 
騎馬戦術があったからって扶余はそんなに強くないよ。


529 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 19:50:33
>>522
>それを言うなら物部、天皇の祖は
>扶余に突き出された半島の在地勢力じゃないか?

「半島の在地勢力」というのは倭人系の伽耶人という意味だろうと
思うが、なぜそんな風に考えないといけないのか、わからない。
同じ半島南部の勢力なら、武力を持っている扶余のほうが蓋然性が
高いではないか。

>>524
>3世紀初め、天理にマバカ古墳(前方後円墳)が出来てるんだから、
>それは無理があるんじゃない?

その説は朝日新聞の記事から始まっているが、3世紀初めというのは
確定していない。箸墓と同じグループ(つまり3世紀末〜4世紀前半)
とする説も強い。例えば:
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku207.htm

530 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 19:54:04
>526
新羅から馬兜も騎兵壁画も出ていないのになぜ新羅系の馬兜というのが
わかるのか、わからないが、確かに二つの類型はある。しかし年代が
違うから単なる技術の発達かも知れない。二つの類型とは:

*釜山の福泉洞10号墳からのものが埼玉県の将軍山出土のものと非常に
よく似ており、鉄板の鋲止めで作られている。鉄板の継ぎ方も全く同じ。

*玉田28号墳(大伽耶)出土の物が大谷古墳出土のものと非常によく
似ており、打ち出し(?)で作られている。違いは鼻の孔に合わせた
波形の有無くらい。

531 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:47:15
>527にもあるように、出雲も後に大和の支配下に入るのだから、
「国譲り」とはそういう事じゃないの。

532 :日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:53:11
>>529
また、朝鮮人のプロパガンダですか?(W

★★ 和漢同盟と百済建国 ★★

4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について、皆さんの意見を書き込んでください。
和漢同盟があってこその、百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。

百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の役人や武将、
民間人が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。


533 :日本@名無史さん:2006/02/15(水) 00:40:55
>>522
>四隅突出墳墓の特徴は前方後円墳の前方部の張り出した形に、また表面の葺き石に
>現れている。つまり前方後円墳の特徴の一部をなしている

なしてない。
考え杉でつ・・・
そうあってほしいという、あなたの願望だろう。

534 :日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:18:02
>>531
それだけでは天皇家にとっての出雲の重大さが説明し切れない。
単なる地方の支配権譲渡なら九州だって同じ事だが、九州には國譲り伝説がない。

>>533
三輪王朝が出雲かどうかの論議はまた別の機会に譲るとして、
私が特に言いたかったのは、先にヤマトにいたニギハヤヒと、後から来た
天皇家とがいずれも「天つ神」であるという奇妙な事実だ。
しかもニギハヤヒは「天つ磐船」に乗って舞い降りたのだから、海外由来である
ことを暗示している。

また日本書紀によれば、神武とニギハヤヒが、使いを介してそれぞれの矢と
ユキ(弓射用具)を見せ合い、その特徴によって「天つ神」であることを
互いに確認する。いかにも同族らしい話である。

この話を、私はニギハヤヒが扶余の先遣隊、天皇家が本隊であったと解釈する。
つまり扶余による征服/簒奪が2段に行われたということだが、このように
仮定すると、いろいろと都合がよいことがある。
どのように都合がよいかは徐々に説明する。

>>532
発掘によれば金官の北方化は3世紀末にすでに起こっていますから313年では
遅すぎますね。

535 :日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:39:15
>>534
出雲と九州は別勢力。
天皇家とは九州出身の一勢力で近畿侵入。
出雲勢力の影響は近畿まで及んでいた。

非常に大雑把だけど天皇家にとって出雲と九州は同列に語れる勢力ではなかったというだけでしょ?

536 :日本@名無史さん:2006/02/15(水) 23:34:51
>>534
扶余が大和を簒奪したのなら、三種の神器も騎馬的に変えて見せなきゃ。
縄文から続く勾玉がある時点で簒奪じゃないって。
そんな状態で征服・簒奪なんて言うのが変だよ。
もし仮に扶余が日本に来てたとしても、大和に飲み込まれたと言えるわけだ。

537 :日本@名無史さん:2006/02/15(水) 23:38:43
535氏に同意。
神武天皇が日向出身という伝承はなぜだ?
仮に扶余が征服したのなら、それを堂々と伝承すればいいだけ。

538 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:30:26
>>516
屁理屈だな、当時の認識では美濃も伊勢も東国だろ
現代の認識だって岐阜は東日本、三重はともかく。

西国は船、船上で歩射の遠矢が想像できる。
朝廷軍は鉄甲、鉄冑。集団歩兵用。

朝廷軍の戦闘法はどうした?陸戦で東国兵に頼りっぱなしだが。
田村麻呂は創られた英雄。アテルイなど蝦夷こそ、当時最強の騎射兵だろ。

539 :白馬青牛:2006/02/16(木) 01:15:23
>>538
美濃は、西日本と思うたことはないが。西日本と限定すれば、都も怪しい
もんじゃ。わしはモンゴルにおける遠矢はどうかと尋ねたが、答えられん
ようじゃのう。蝦夷と戦闘したんは、都ではのうて概ね坂東兵じゃろう。
戦闘の前線は隣の連中にやらせるのは、近代以前は当たり前のこと。
朝廷軍の戦闘法は、白村江以降の壬申の乱で河内の田辺氏以外、近江の
豪族等が奇襲に慎重で戦闘に拙劣であったろう。陸戦で東国が強かったと
いう戦闘例は?河内の楠軍に多勢を持って少勢でやられた弱兵の関東が
大物をたれるのう。大して強うもない東北蝦夷に戦闘を習うぐらい弱兵と
自慢するとはねえ。奴隷根性はどうしようもない。坂上田村麻呂も
苦労したろう。アテルイは何人か知らんが、当時最強の騎射兵?靺鞨、
契丹やトルコ系諸族と比較して最強の騎射という根拠は?しかも蝦夷の
騎射は何処から学んだんかまだ書かんのか。

540 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 01:49:11
>>539牛返しマンドクセー
また無駄に知識をひけらかす妄想
話を散らすなよ

モンゴルは知らないし関係なし、国内の話だろうに。
田辺も坂上も南朝鮮系、騎馬民族じゃない。田辺氏なんて小規模勢力だろ。
この時代でも、信濃・甲斐・上野あたりの渡来(帰化)人のが馬に馴れてるだろう。馬牧。

白村江以前の日本にまともな軍なんてないだろ、豪族連合みたいなもんか。
東国兵を組織してようやく(ry
実戦経験の乏しい軍事官僚、蝦夷相手にボロクソ

楠のは城郭戦・ゲリラ戦、つか参戦は関東武士だけじゃない
城郭戦で騎馬の利点なし、歩射で対応するしかない。やる気も無し
打物騎兵の存在しない古代と関係なし。南北朝期は下馬戦闘の萌芽。

541 :白馬青牛:2006/02/16(木) 02:45:01
>>540
田辺氏や坂上氏が南朝鮮系?韓人とする根拠は?
関東の馬牧が衰退したのは、騎馬の伝統が無いと誇っとるんか。
白村江以前は、安倍比羅夫による遠征で、蝦夷を服属させておるのにねえ。
東国の実戦経験も、弱い対蝦夷戦では。楠軍に補給を奪われ、しかも
関東勢は斬撃白兵戦でやられるのは弱兵といわずして何か?
打物騎兵が存在せんのなら、高句麗や新羅の重装備騎兵に矛は使わん
かったとでも珍説を披露したいんか。それたあ、蝦夷の騎射技術は
何処から学んだんか言えいや。

542 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 07:02:26
>>541再びモウソウドロヌマ牛
>田辺氏や坂上氏が南朝鮮系?韓人とする根拠は?
散々論破されてるのに気付かないとは・・・

>関東の馬牧が衰退したのは、騎馬の伝統が無いと誇っとるんか。
広島牛史観。
関東や信濃の牧が無くなったとでも?牧を武の地盤として武士団があるんだが

>関東勢は斬撃白兵戦でやられるのは弱兵といわずして何か?
また話をズラして妄想罵倒かよ。古代戦闘とまるで違う時代だっての。

楠正成はゲリラ戦の天才、智謀の人。その正成が『太平記』ではこう語る。
「もし勢をあわせて戦わば、六十余衆の兵集めて
武蔵・相模の両国に対すとも、勝つこと得がたし」
そして正成は、「謀を以って」勝つと後醍醐に進言する。

>打物騎兵が存在せんのなら、高句麗や新羅の重装備騎兵に矛は使わん
 かったとでも珍説を披露したいんか。
日本だぞ、中華思想のあんたは別だろうがw

>蝦夷の騎射技術は何処から学んだんか言えいや。
学者でも無理だろ。だからナニ?
まあ、狩猟が訓練になったはずだ。

安倍比羅夫は水軍。白村江以前は西国主体で水軍重視か。
だが、唐に惨敗した。
陸戦を想定すれば東国に期待するしかなかったんだろう。

543 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 07:05:38
「もし勢をあわせて戦わば、六十余州の兵集めて
武蔵・相模の両国に対すとも、勝つこと得がたし」

朝から俺も阿呆だw
しばらくいいや


544 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 09:35:47
>>534
ニギハヤヒが扶余の先遣隊、天皇家が本隊であったなら、
使いを介してそれぞれの矢とユキ(弓射用具)を見せ合い確認する事もなかったと思うのだが。

ただ、その「確認」というのは面白い。
馬具などが出土してる古墳から、同時に勾玉も出てるというのは、
あの時代には勾玉が同族(倭系)の確認手段だったと思うんだ。
あれは単に装飾品ではなかったと思う。
老司、大谷をはじめ勾玉が出てる古墳の埋葬者は、
いくら馬具が出てようが倭人である証拠だと思う。

545 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 12:59:43
初歩的な質問かもしれんが扶余族と朝鮮族って違うの?

546 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 14:18:45
>>535
単に有力な地方勢力というだけなら、天皇家が出雲の神事を受け継ぐ
ことはないと思う。やはり天皇家は、神事を受け継ぐことを条件に
出雲からヤマト国家を禅譲されたのだ。

>>536
>扶余が大和を簒奪したのなら、三種の神器も騎馬的に変えて見せなきゃ。

そのまま引き継ぐからこそ「簒奪」なのだ。
満洲族が明国の体制や祭祀をそのまま引き継いだようにね。

>もし仮に扶余が日本に来てたとしても、大和に飲み込まれたと言えるわけだ。

その通りだと思う。満洲族が中華に飲み込まれたようにね。

>>537
>仮に扶余が征服したのなら、それを堂々と伝承すればいいだけ。

日本書紀は扶余が征服/簒奪の直後に書いたのではない。8世紀になって
編纂を命じた支配者の立場で書いているのだ。その支配者が万世一系の
方を重視するならば「扶余による簒奪」などは書かないだろう。

547 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 14:21:52
>>544
>ニギハヤヒが扶余の先遣隊、天皇家が本隊であったなら、
>使いを介してそれぞれの矢とユキ(弓射用具)を見せ合い確認する事も
>なかったと思うのだが。

携帯電話がある今日の話ではない。
ニギハヤヒにしてみれば、近くまで来て暴れている軍隊がどこの勢力なのか、
さっぱりわからない。「天つ神」と称しているらしいから、本当ならば
態度を決めなくてはならないが、単なるデマ宣伝かも知れない。だから
「物証」で確認したのだ。

「天つ神」に違いないことを確認した後は、ニギハヤヒは主戦派のナガスネヒコ
を殺して神武に帰順する。極めてわかりやすい、ありそうな話だ。
またこの話から、同じ「天つ神族」でもニギハヤヒが神武の下位であったことが
わかる。私が先遣隊、本隊というゆえんだ。

548 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 15:16:25
>>547
あなたは本隊の王を応神と考えてるのかな?
>492で、4世紀中葉には何らかの形で(扶余が)日本に来てなくてはならないと言ってるが、
ニギハヤヒも含めた時間軸をどうお考えなのかな?
ニギハヤヒが扶余の先遣隊なら、にほんにおける騎馬文化ももう少し早くなるはずだが。



549 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 19:50:37
扶余族って今の朝鮮族の祖先だよな?

550 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:54:01
>>546
フヨ病か、おまえは?(W

>日本書紀は扶余が征服/簒奪の直後に書いたのではない。8世紀になって
>編纂を命じた支配者の立場で書いているのだ。その支配者が万世一系の
>方を重視するならば「扶余による簒奪」などは書かないだろう。

フヨなら、「フヨの万世一系」と書けば良いだろ。
実際には、フヨは日本に来てないだろうが。
カラ半島南部に来たのは、930年以降だろ。それ以前には来てないじゃん。

また、高句麗人も、日本に移住してないじゃん。
高麗神社は、帯方郡出身の倭人が建てたものだし。

ビョーキか、おまえは(笑



551 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:56:18
   これが正しい歴史。
      ↓↓

★★ 和漢同盟と百済建国 ★★

4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について、皆さんの意見を書き込んでください。
和漢同盟があってこその、百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。

百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の役人や武将、
民間人が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。



552 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:56:30
>>550
騎馬民族説は電波だけど
ビョーキはおまえ

553 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 22:04:37
>>550
>カラ半島南部に来たのは、930年以降だろ。それ以前には来てないじゃん

それは違う。3世紀末には伽耶に来て狗邪韓国(倭人)を追い出してる。
で扶余が支配する時期に畿内系土器も発見されてるから、
伽耶の地で、大和と扶余の接触があったのは事実だ。
問題は扶余の王家だが、これが日本に来たかどうかだ。
証拠はない…今のところは。




554 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 22:15:35
で留意すべきは、この時点(4世紀)で、扶余の王家と大和の接触はあるのだが、
大和の王家と扶余の接触の事実は確認できない。
簒奪という意味では、大和が扶余の王家に対して婚姻等で成したと見るほうが自然だと思う。
つまり、飲み込んだという形だな。
扶余王家が支配する百済との良好関係も、これで説明できる。

555 :日本@名無史さん:2006/02/16(木) 22:27:12
扶余が今の朝鮮族の祖先の1つなのは確かなのだが、
朝鮮族のベースもやはり土着の中央モンゴロイドだろうね。

それもまた縄文人に似た骨格の。


556 :白馬青牛:2006/02/17(金) 00:03:33
>>542
韓人を全て同一民族とする、韓国人史家の影響を受けた日本史家の
引用か?それで論破とはねえ。関東の馬牧は官牧で朝廷に貢上する為の
物で官牧が衰退に伴い関東の馬飼育も衰退したのは馬文化に乏しいと
言うこと。遊撃、籠城、迂回戦闘は楠正成個人の問題ではなく、赤松氏も
含め西日本の民間に受け継がれた戦闘法じゃと思う。東国史観のマルクス
共産主義的時代変化による発展段階説で戦闘形態を捉えるなや。
戦術が無ければ、六十余衆の兵であろうと弱兵の関東勢にすら勝てまい。
楠軍の鑓に突かれ、打物白兵戦に弱い関東人の言い訳はええわい。
学者でも?学者は偉いんか?学者の権威にすがる関東的思考はどうでも
ええ。蝦夷の騎馬と書いた限り、あんたの意見言えいや。
日本は、中国の越文化圏の船自体で戦闘する巨艦主義に敗れたが、
船を輸送役割とし、歩兵戦に頼ったので仕方が無い。東国の陸戦とは
また妄想か。それはさておき、武士の起源でも東国の伊豆、相模、安房
あたりは漁民の陸上がりと思える。北条氏の家紋三つ鱗は言うまでもない
が、後の里見領から後北条氏領への海賊行為も考慮すべきであろう。
後北条氏の早雲は、紀州から乱波集団を呼び遊撃戦闘員とした等西日本の
戦闘法を東国で活用したとも言える。

557 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 00:16:01
>>555
ありがと
ほぼ別物ってことですね

558 :白馬青牛:2006/02/17(金) 00:20:04
>>555
朝鮮族のベースが、土着の中央モンゴロイドで縄文人の人骨に似た骨格?
意味がよう解らん。中央蒙古種とは、華北人、モンゴル人、
ブリアート・モンゴル人に典型な新モンゴロイドであろう。
北蒙古種はツングース人種とも言われ、エベンキ・ナナイ等、
バイカル北部〜満洲東部アムール・沿海州の諸民族に典型でこれも
新モンゴロイド。
朝鮮人は北方古アジア族であるニブヒ族(ギリヤーク)に典型な
アムール・サハリン(樺太)型人種の影響も強いと思う。
縄文人は、古モンゴロイドであろう。中国南部の越文化圏の地域も
形質的には古モンゴロイド。

559 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 03:28:42
朝鮮人は、エベンキの風習とよく似てるよね。
トーテムとか。

560 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 07:33:21
・梅棹忠夫氏

『騎馬民族は来なかった』佐原真著,1993年

二年ほど前、梅棹忠夫さんの文化功労者の祝賀パーティーの際に、
彼は私に騎馬民族は来なかったというあなたの意見に賛成です、
と激励下さいました。

561 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 13:12:28
>>553
>3世紀末には伽耶に来て狗邪韓国(倭人)を追い出してる。

3世紀末に伽耶に来たという認識はありがたいが、現地人を追い出したとは
限らない。むしろそのまま支配しただろう。百済の場合のように。

>>554
>簒奪という意味では、大和が扶余の王家に対して婚姻等で成したと見るほうが自然だと思う。
>つまり、飲み込んだという形だな。

満洲族も文化的には中華に飲み込まれたが、支配者はあくまで満洲族である
ことに変わりはない。


562 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 13:46:41
>>548
>ニギハヤヒが扶余の先遣隊なら、にほんにおける騎馬文化ももう少し早くなるはずだが。

4世紀における倭の騎馬化が必要なのは、むしろ従来のすじがきの方ではないか?
なぜなら、このスレにもなんどか出たように、従来のすじがきでは三輪王朝
(またはなんらかの豪族)が扶余王朝の金官を破って服属させるために、扶余
なみの騎馬戦術を「文化受容」によって獲得しなければならないからだ。

わたしのすじがきなら、4世紀の本格的な騎馬化は必要ではない。なぜなら
扶余の「先遣隊」が倭を武力征服したとしても、相手は騎馬戦術を知らない
歩兵のみであるから、少数の馬でよかった。また必要な少数の馬は、任那から
送れば済んだ(現地で育てる必要はなかった)。

さらに言えば、たとえ馬が送れなかったとしても、扶余は倭よりも各段に
進んだ鉄製武器/武装を持っていたから、なお戦力の差があった。

またさらに言えば、扶余は三輪王朝から平和的に領地を下賜され、政権の
重要な構成要素として迎えられた可能性もある。なぜなら扶余は「鉄供給」
という、王朝の生命線を握っていたからだ。この場合は馬の必要性はさらに
低下する。

5世紀の列島の本格的な騎馬化は、金官の扶余の本体が列島に移ったことと、
戦う相手が高句麗に変わったことによって、列島が代わって馬供給基地に
なったことによると考える。



563 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 13:51:41
>>555
「祖先」という表現の意味が分かりづらいが、
扶余が朝鮮族の祖先と数えられるなら、
モンゴルも祖先の一つということになるよ。

564 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 13:57:43
>>562
馬、運べないよ。仔馬しかね。
騎馬兵から馬とったらただの人です。
いくら鉄器があっても多勢に無勢では勝てませんて。

565 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 14:11:29
>>562
>従来のすじがきでは三輪王朝(またはなんらかの豪族)が
>扶余王朝の金官を破って服属させるために、
>扶余なみの騎馬戦術を「文化受容」によって獲得しなければならないからだ。

従来の筋書きではなく、俺の言ってるのは大和と扶余の連合・同盟。
その同盟関係の過程で、大和は騎馬戦術を「文化受容」した。
結果的に大和朝廷が、5世紀に河内平野に世界最大級墳墓を連続して作れたのは、
豊富な鉄の安定的供給があったからだし、その供給源に扶余がいた。
扶余の王家は5世紀初頭まで伽耶の地にあり続けたし、
大和の王家も畿内にあり続けた。
どちらかが武力で攻めてどうこうの話ではない。
大和と扶余は歴史上、戦った事はなかったと思う。



566 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 16:41:13
>>565
>扶余の王家は5世紀初頭まで伽耶の地にあり続けたし、
>大和の王家も畿内にあり続けた。

私のすじがきはそのことを全く否定しない。
しかし「大和の王家」が万世一系ではないことはあなたも知っている通りだ。

>どちらかが武力で攻めてどうこうの話ではない。
>大和と扶余は歴史上、戦った事はなかったと思う。

そのケースも、私のすじがきが許容することは、よく読んでもらえばわかる。
つまり、大和と扶余が戦ったことはないのに、倭の五王は扶余系、という
ことがあり得るということだ。

>>564
「馬が運べない」というのは両刃の剣だ。
倭王が百済などに数十頭の馬を贈った話は日本書紀に何カ所かあるし、
5世紀以降の半島での戦いを、倭は列島から馬を運んで戦ったのは
間違いないからだ。




567 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 17:56:44
>>566
考古学的に言えば、たった一人の扶余人でさえ、
日本に来てた事を証明できないのが現状なのでは?
老司古墳の埋葬者が渡来系人種であれば見事に証明されてたけどw
逆に、大和の人間が伽耶におもむき、鉄での交易をしてた事、
さらに騎馬文化を摂取してた事(老司古墳埋葬者の例)などは証明できるよな。

>大和と扶余が戦ったことはないのに、倭の五王は扶余系、という
>ことがあり得るということだ。

王として迎え入れるという事か?
ないだろう。
また婚姻による簒奪においても、
伽耶の地で扶余の王家と大和人の接触はあるが、その逆はない。


568 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 20:36:51
>>567
>王として迎え入れるという事か? ないだろう。

渡来系と言われる、豪族ナンバーワンに上り詰めた氏族はいくつかある。
豪族ナンバーワンは許容するのに、なぜ、ワンランク上の大王だけは
あり得ないと考えるのだろうか?

>伽耶の地で扶余の王家と大和人の接触はあるが、その逆はない。

伽耶から出る畿内系の青銅器などがその証拠だというなら、倭からの出土品に
あふれる、スエ器や任那式の鉄製鎧はその逆の証拠だろう。



569 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 21:51:12
>伽耶から出る畿内系の青銅器などがその証拠だというなら、倭からの出土品に
>あふれる、スエ器や任那式の鉄製鎧はその逆の証拠だろう。

それは違う。
大和が伽耶に行く動機が鉄であり、はっきりしてるし。
畿内系青銅器が伽耶になければ、
日本にある須恵器や鉄製鎧などが、
扶余が日本に来た証拠とされたかもしれないが…
つまり交流してたという事がわかった以上、
須恵器も最新道具として日本にもたらされたと言えると思う。



570 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:07:47
>なぜ、ワンランク上の大王だけはあり得ないと考えるのだろうか?

ありえないとは思わない。
が、証明しようがないと言ってるんだ。


571 :日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:03:12
扶余にこだわりすぎ
1%も証明出来ないのに

572 :白馬青牛:2006/02/17(金) 23:07:44
>>559
似ている風習を、もっと具体的に書けば良いと思うが。
>>560
梅棹忠夫氏は、騎馬民族征服王朝説を批判され、「@騎馬民族が北九州に
侵入したとすれば、出土品に馬具がありそうだが、一例もない。
A三、四世紀に朝鮮南部に騎馬民族がいたという考古学的資料がない。
B古代日本の輸送やコミュニケーションに馬で駆けめぐった証拠もない。
それでは反騎馬民族論者が古代国家の北方的性格を説明できたかといえば、
やはりできていない。そこで水軍説というツングースの一部が船団を
組んで日本に上陸し大和朝廷を打ち立てたと考える」ということじゃが、
昭和51年『日本史のしくみ』中公文庫で語られたことであり、@、Aで
梅棹氏の反論は苦しい部分が出てきた。よほど悔しかったのか、最近では
『文明の生態史観はいま』中央公論新社、第5章 講演 海と日本文明で、
佐原氏に同意して去勢がなかったことを根拠とされておられる。
詳しくはP197〜から読んでみんさい。あくまでツングース水軍に
こだわっておられるが、わしは、梅棹説にある程度妥当と思える部分も
ある。しかし梅棹氏の海洋好きで、大陸や遊牧民嫌いは、陸を
イメージする騎馬を絶対許容出来んといったところか。

573 :白馬青牛:2006/02/17(金) 23:18:01
『文明の生態史観はいま』は、
http://la-plata.net/det/Books/4120031195/872884/
にあった。

574 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:50:27
>>566
馬運ぶ場合、平和裏に運ぶなら、なんとか運べるだろうが、
そうでないなら迎撃されるから無理。
倭から半島に運ぶ場合、加羅などを橋頭堡にして、
無風状態で安全に航海することはできても、その逆はない。
だから任那から筑紫に騎馬部隊として侵攻するのは無理。
ノルマンジーの話がよく出てるが、
第二次大戦のノルマンジー上陸作戦は今までの話の逆バージョンだが、
そんな容易なことではなかったのは分かるだろ。
当時の船舶建造・航海技術からして、やっとこさ馬運べるレベルなんだから。
倭が半島に馬運ぶケースでは任那や百済の地が敵地でないことが前提になってる。
一方で、その前時代に半島から倭に馬を運んだのは、
繁殖が目的だから、半島で生ませた仔馬の方が効率がいい。
半島へ逆輸出する場合は、実戦での即時投入が可能な成馬だろう。

575 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 07:19:13
つ〜か、高句麗との戦いでは百済の馬が中心だったんじゃね?
足らない頭数を日本から運んだんだろう。

576 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 10:21:33
2月22日、竹島の日
『嫌韓流2』ついに発売!

45万部のベストセラー『嫌韓流』をまだ読んでないやつは、今のうちに買って読んでおこう

577 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 10:33:25
>>572
古代国家の北方的性格というのは、
遺伝子的にブリアートと関係してるとも言われる、
弥生人そのものの性格かもしれませんね。
どっちにしても4世紀〜5世紀の騎馬民族・扶余とは関係ないでしょうね。


578 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 13:44:40
>>571
それ以前に扶余は騎馬民族ではないのだが・・・
扶余は基本的には農耕民族。また扶余は他の北方系騎馬民族とは違い
性格は温厚で侵略して国と王朝を建ててその地の先住民を支配すると
いう発想を持たなかった。むしろ倭人に溶け込んでいったというのが
正解ではないかと思う。ちなみに朝鮮人の祖先の新羅は4世紀に
鮮卑が簒奪されたので鮮卑が祖先ではないかと思う
扶余はツングース系とされてるけどツングース系なのが明らかな
悒婁とは違う言語を使っていたからもしかしたブリアートとの混血だったのかも
しれないと思うのだが

579 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 13:57:06
【『嫌日流』まとめサイト】
http://homepage3.nifty.com/hakch/

マンガで描かれている日本人の顔と朝鮮人の顔がおもしろい(W
目が細く、目尻が吊り上った、一重マブタの、着物を着ている女二人組が
日本人だという。

1)目が細い
2)目尻が吊り上っている
3)一重マブタ

これらの特徴は、朝鮮人の顔に見られるものなんだが(W
逆に、マンガに登場する韓国人の女たちは、二重マブタ(笑)で、
目が大きい日本人顔で描かれているよ。

よく、
「韓国人が、日本人について語っていることは、すべて韓国人自身に
 当てはまることだ」
と、言われるが、ニセ嫌日流は、まさに日本人と韓国人の容姿を逆転させて
描いているんだよな(笑
韓国人は、いつも、事実を真逆に語る(描く)よな。
嫌日流が日本で出版されたら面白くなるね(笑


580 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:33:03
>>572
俺のレスなのにご苦労さん
『文明の生態史観はいま』は来月にでも図書館で読んでみるか

>>556
加藤氏は蘇我氏渡来人説を否定してるけどな。門脇氏の百済国高級官僚・木満致説とか。

坂東人漁民という以前に、日本人自体が漁民だろうに。
『太平記』で楠木正成に言わせてる、60余州に勝る相模・武蔵武士は打物騎兵なんだが。
下馬戦闘自体は西国の方がより多かったろう。
それと、楠木氏は静岡、埼玉発祥かもしれない。河内に移住したという説は有力。

蝦夷は城郭戦でのゲリラ戦が得意だったようだから、楠木氏らの先駆を成すかもしれない。
蝦夷も朝廷軍との戦いから、城郭戦で有効な弩を取り入れたようだが。

青牛くんの罵倒でスレタイから外れまくる
あんたは騎馬民族征服説に反対なのかい?今までの牛レスからしてそうは思えないんだが?
それとも宮本常一の妄言のような都の貴族=騎馬民族末裔説?、藤原のどこが騎馬民族的?

5世紀前半〜後半、半島から日本に多く入ってきた氏族が騎馬民族だったとでも?
あや=漢氏の偽系図をそのまま受け取っても中国漢。騎馬民族には結びつかないぞ。
騎馬民族の末裔が大陸から入ってくる事があってもごく少数派。

朝廷軍の騎馬文化は半島から取り入れ、蝦夷戦争から騎馬戦術を学ぶ。
そして、近衛府の傀儡的な儀礼的武芸へと。

581 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 15:19:01
>>572
エンコリで拾ったのだけれど
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866

582 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:29:53
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。

彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。


583 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:34:48
濊が朝鮮人の祖先なのは当たり前なんだが、濊は1〜2Cに半島に流入した
北方系だろ。

土着系ではないよ。

朝鮮半島の土着系は縄文人骨によく似た短い顔、彫りが浅くなく
隆起した鼻骨を持つ中央モンゴロイドの系統。

584 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:40:29
>>582
つーか自分で「扶余系の高句麗や百済とは別系統ニダ」
と言ってるのだから世話ない罠w
まさに自爆乙だなw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F

585 :YAP?:2006/02/18(土) 18:20:03
騎馬民族というからには、父系制氏族〜部族の連合体であったのだろうが、
とすれば、中堀豊氏らの研究するY染色体ハプロタイプこそ、単系的に、
父系を辿ることが出来る。
Y染色体ハプロタイプのデータがまだ少ないために、はっきりしたことが
いえないのが残念だが、日本人で多いY染色体ハプロタイプのうち、YAP
は、まあ縄文系として間違いないだろう。
弥生系と考えられるもののうち最多のO2b1とか、或いはその祖先型である
O2b*は、半島と共通であるが、「騎馬民族渡来」以降に列島に入ったとする
のは困難だ。どうしても、紀元前に溯るだろう。
O3〜O3eは大陸系だが、江南から由来した可能性も完全には否定できない。
「騎馬民族」を、江上説でいう「扶余族」とするなら、満洲族のY染色体ハプロ
タイプの資料が欠かせないのだが、誰か知らないか?


586 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 18:34:11
非常に簡単な事をやたら難しく言う馬鹿。

587 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:21:03
>>569
>つまり交流してたという事がわかった以上、
>須恵器も最新道具として日本にもたらされたと言えると思う。

どちらの場合も確実に言えるのは「交流があった」ということだけ。
伽耶の畿内系青銅器は畿内人の居住あるいは婚姻の証拠であり、
倭のスエ器、鉄製鎧は単なる文化受容である、というのは公平でない。
ただし量的には圧倒的に後者のほうが多いけどね。

>>570
>ありえないとは思わない。 が、証明しようがないと言ってるんだ。

扶余・畿内同盟も、あり得るが証明しようがない。
つまり、4世紀に関するどの説も証明しようがないことは同じ。


588 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:22:58
>>574
>だから任那から筑紫に騎馬部隊として侵攻するのは無理。

私は4世紀前半の倭人を相手にするのに、「騎馬部隊」は必要ない、
少数の馬でよい、という話をしているのだよ。
コルテスがアステカと戦ったとき、1万人のアステカ軍を潰走させたのは
たった10騎のスペイン騎兵の突撃だったことを想起すべき。

>そうでないなら迎撃されるから無理。

蒙古軍は、防壁がなかった第一次のときは、迎撃されながらも馬を上陸させた
ではないか。
まして古代国家なんて集落国家がぽつんぽつんとあるだけの、すかすかのものだ。
空いているところに上陸するのは自由。

>半島へ逆輸出する場合は、実戦での即時投入が可能な成馬だろう。

要するにあなたも言っているように、古代において馬の海上輸送は可能
だったのだ。

589 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:25:15
>>577
>古代国家の北方的性格というのは、 遺伝子的にブリアートと関係してる
>とも言われる、 弥生人そのものの性格かもしれませんね。

Gm遺伝子についてはアイヌ人と沖縄人が本土人よりもっとブリアートに
近いから、縄文人が北方から来たと思われます。
魏志倭人伝は弥生人を描写しているわけですが、その記述は当時の南中国
の民族(越人)の特徴を表しています。
ですから古墳時代の北方的性格はそのどちらでもありません。

590 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:33:47
>>578
>それ以前に扶余は騎馬民族ではないのだが・・・
>扶余は基本的には農耕民族。

単なる農耕民族ではない。扶余が後の満洲族とよく似た、国民皆兵の戦闘的な
狩猟・牧畜・農耕民族であったことは、晋書扶余伝を読めばわかる。

>また扶余は他の北方系騎馬民族とは違い 性格は温厚で侵略して国と王朝を
>建ててその地の先住民を支配すると いう発想を持たなかった。

先住民族を支配して高句麗王朝、百済王朝を建てたのは扶余ではなかったのかな?

591 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:36:19
>>582
扶余王の正式な称号はワイ王だったって、知ってた?

592 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:37:13
>魏志倭人伝は弥生人を描写しているわけですが、その記述は当時の南中国
>の民族(越人)の特徴を表しています。


当時の江南の主流な物的文化がなーんにも日本に
伝わっていないがなwwww


593 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:45:13
3Cの江南の主流の土器はすでに青磁。越窯青磁として有名。

中国は1Cからすでに土器ではなく磁器の時代。青磁の時代。



594 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 20:51:14
>>587
だから、老司古墳の埋葬者は倭人であり、
伽耶の扶余文化を習得している人物でしょ?
伽耶にある程度の期間、常駐した経験がなければこういう例は出ないと思うのだが。
倭人は積極的に半島南部に関わってたという事だと思う。
しかし伽耶には扶余王がいたんだから、
これは大和と扶余の連合・同盟の証拠だと思うが。




595 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 21:02:48
倭人は扶余が朝鮮半島に侵入する400〜1300年前にはもう北方から
朝鮮半島に定着せずに突き抜けてすでに日本入りしてるよ。

596 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 21:04:03
>伽耶の畿内系青銅器は畿内人の居住あるいは婚姻の証拠であり、
>倭のスエ器、鉄製鎧は単なる文化受容である、というのは公平でない。
>ただし量的には圧倒的に後者のほうが多いけどね。

伽耶が鉄の産地だという視点が抜けてるな。
鉄も出る豊かな土地から何故日本に来たかという理由も根拠も薄い。
倭人が半島に出向いたのは鉄を求めに行ったという強い動機がある。

597 :日本@名無史さん:2006/02/18(土) 21:37:08
>>588
古代でも船で馬は運べたんだろうけど
だからといって倭人が数騎の騎馬兵ごときに敗れるとは思えん
なにしろ倭人がまだ江南にいた時騎馬隊を持つ漢民族と
ガチで戦った経験があるから数騎程度で負けるとは考えられん

>>590
扶余が戦闘的民族になったのは高句麗建国から
ただし高句麗は隋と戦った時は隋領土を満州族みたいに占領しようとはしなかった
隋は高句麗との戦い以降没落したのでその気があれば隋をまるごと
高句麗にできたかもしれないのにそれをしようとしなかったのはなぜ?
あと高句麗が戦った先住民とは同じ扶余の穢族なんだが
ついでに言うと百済の起源はまだわかっていない。百済の人民は倭人で
少数の扶余に負けて支配されるとはとても思えないのだが

598 :白馬青牛:2006/02/18(土) 23:48:13
>>577
ブリアートは、近世に成立した民族集団じゃと他スレで言うたが、
HLAでも、日本人と遠く、篠田謙一氏のDNAでは、縄文期に多少
影響した程度。梅棹氏は5世紀を想定しておられるが。
弥生人にも北方的要素はあったろうが、全体的には、髪型も断髪、服装も
貫頭衣(ポンチョ)で南方習俗。古墳時代の髪型は美豆良(ミズラ)胡服
の北方習俗とは違う。弥生期では、形質人種的にも新モンゴロイド型は
一部地域に限定された状態じゃし。北方的性格は気候変動の4世紀前後の
影響が強いと思う。
>>580
日本人自体に漁労文化要素が強いのは同意。海に囲まれた日本は、
あんたの言う東北騎馬民説の地域も残念じゃが、津軽安藤氏のように
海、船の要素が馬文化よりも強い。東アジアの地図を見れば解るが、
「河」は華北・モンゴル・満洲西部の一部の乾燥地帯。「江」は華南・
満洲に分布。漢人の言う東夷は、風土的に日本も含め「江」の湿潤風土に
属する地帯で、馬文化を強調してもねえ。続きは後で。

599 :白馬青牛:2006/02/19(日) 01:09:15
続いて。武蔵、相模の表現は保元の乱から出ておるが、後に里見領から
掠奪された相模が関東でも強いんか?安芸に移住した豪族は相模系が多いが
移住した者は勇敢で残った者は臆病者ということか?平安期から西国は
遠矢・打物白兵。東国は近矢・組打ち白兵と地域性があったろう。南北朝
時代、関東武士も騎馬で太刀打物をしたろうが、楠木軍はより実戦に
即した鑓を使うておる。鑓は猪槍のように民間の狩猟道具であろう。西国の
戦闘の、印地打ち(石合戦)等も応用された。関東は、後の関東博徒の
ように、何処の住人の何兵衛か名乗って戦闘するという地域性も強かった
と思う。楠木氏自体は関東出身の可能性も強いが、戦闘法は関東的では
ない。遊撃戦は新羅や蝦夷もあったろう。大国と戦闘するのに有効な戦闘
じゃし。弩は機動力に劣る重装備騎兵や防御には有効であるが、軽装備
騎兵や追撃戦には有効ではない。文献の蝦夷の戦闘自体漢に対する匈奴を
日本に当てはめて書いてあるので、どこまで信用出来るかじゃが。
『太平記』も鎌倉武士の戦闘を正統とする価値観じゃしのう。
江上氏は、モンゴル人好きなので、騎馬民族説としたのであろう。
宮本氏は、西日本の犂利用地帯に影響が及んだとされる。藤原氏が
秦氏かどうか解らんが、婚姻氏族で権力を牛耳る方法も北方民族的であると
思う。漢氏は、騎馬の面だけ考えれば、騎馬民族化されてない大興安嶺
以東諸族よりも、騎馬技術がモンゴル高原に次ぐ漢人の方が妥当であるが、
大林氏の言われる神牛伝説から漢人と言えるかどうか。辰韓の秦人は、
漢人ではなく秦語を話したように。漢文化を持った北方民族とも思える。
以後の話は根拠に薄い。

600 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:49:14
>>598
対応早いね、元気が一番w

俺の言う馬文化とは西国と比較しての事で、大陸と比較されてもねぇ
牛サンはオリンピック観る?例えば世界と比較しても苦しいだろ、日本。
にしても、スケートで韓国に勝てないとは。。。
東北騎馬民というのも、騎馬弓射での狩猟を日常的に行っていた事を言ってる訳で。

それで、扶余征服説は反対だっけ。
支配者層が扶余系なら、大和の東漢氏、河内の西漢氏や馬飼集団のような
南朝鮮系渡来人を軍事(騎馬兵)で重視する意義は考えられないな。
大伴・蘇我氏、物部氏も軍事基盤として、彼らの存在は欠かせなかった。
蘇我はともかく、古氏族の大伴・物部は騎馬文化は持ってなかったろうし、大王家も。
天武は東漢直の罪を罰したくても罰せなかったとか。

>平安期から西国は遠矢・打物白兵。東国は近矢・組打ち白兵と地域性があったろう。
その打物白兵に具体例がないんだよ、悪僧ぐらいだろ。正統な武士では誰よ。

楠木氏を美化してるのが『太平記』なわけで。

秦氏は武的な氏族じゃないと思うが。文・武に漢氏のような華やかさもないし。
それに日本一の巨大氏族。秦=パタ=海、と捉える説だと広範囲に理解できるが。
京都秦氏の土木技術も、秦氏が広範囲な地域からの渡来氏族だけに持っていた可能性も
どうかな?
600ゲットでしばらくサヨナラ

601 :白馬青牛:2006/02/19(日) 01:50:25
>>581
樹木信仰は、東北アジアに共通したことで、朝鮮の檀君神話、虎・熊
トーテムも同じく。アイヌ人やアメリカ先住民にも熊信仰はある。
もっと両民族の民族的特徴や、諸習慣、社会規範等諸特性について
述べられると良い。
日韓両国低脳児が集うエンジョイ・コリアか。
一言コメントし、双方反論には、罵倒し茶化す。しか出来ん馬鹿しか、
おらんサイトじゃろう。嫌韓人と韓国人ナショナリストは瓜二つ。
しかし、韓国人がエベンキの習慣に似ておることを誇りに思わず、
書き込まん所を見ると、未だにツングース=オランケ、野蛮人意識が
あるんかのう。日本人側も都合の良い時はエヴェンキのGm遺伝子を
利用しておるんで、馬鹿馬鹿しい。わしも高句麗壁画をコピーする為に
たまに見とるが。

602 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 02:08:23
>>601
ということは、これらの宗教的信仰は別に朝鮮族に限ったわけではないのですか?
個人的には朝鮮族はエベンキの風習を何らかの形で受け継いでいるように見えるのですが
エベンキと朝鮮族の関係についてはどのようにお考えですか?

603 :白馬青牛:2006/02/19(日) 02:48:29
>>600
馬文化を想定するなら世界と比較せんとねえ。馬文化はステップ地帯に
発生した文化じゃし。オリンピックは概ね見んよ。野球やサッカ−より
子供の頃の戦争ごっこ(印地打ち石合戦や棒切れを持って)の方が
楽しゅうなかったか?日本は、近代戦においても、郷土広島部隊が典型の
ように戦闘で武勲を残した。それでええじゃない。スポーツに好成績が
残せんでも。まあ戦闘とスポーツは、一戦闘、流れによって展開が変わると
いう共通項もあるが。運や流れを呼び込むのが精強の証なんじゃが。
狩猟文化は、全国にあるので、東国特有ではない。馬飼い集団が、
南朝鮮と決め付けるのもどうかと思うが、河内の馬飼いや秦氏は王朝の
護衛騎馬兵でもあった。秦氏は後の随身の家柄でもあり、土木・水利に
巧みな都江堰工事に実績のある中国西北の羌族に似ておる。
傭兵としての役割も。まず正統な武士と言うのは何か。東国では高橋氏の
言われるセミプロも含んでおるんか。わしが民間に受け継がれた戦闘の
東西地域性じゃ言うと正統性と言う。悪僧でなく悪党・野伏のことで
あろう。楠木氏美化か。『太平記』は、かなり組み打ち戦も出ておるが。

604 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:07:27
古墳時代の外航船が出土・大阪の蔀屋北遺跡
ttp://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20041103AT1G0202F02112004.html
http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html#196
 準構造船は丸太の内側をくりぬいた丸木舟を船底に使い、・・・
復元した場合、船の全長は10メートル前後と推測される。

「大王のひつぎ」実験航海
ttp://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/001/da_001_04042901.htm
科学する邪馬台国  古代の船と航海ルート
ttp://inoues.net/science/war.html
おおさか考古学百景 第5部「統一への鼓動」 (5) 船形埴輪の発見
ttp://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/koukogaku/koukogaku051201.html
線刻画で古代船団 出石町の袴狭遺跡
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/WebStudio-copy.htm
千代・能美遺跡 7 準構造船について
ttp://www.ishikawa-maibun.or.jp/maibun/hakkutu_2000/sendai/sendainomi_2000.htm
造船技術
ttp://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/2-3.htm


クビライが日本侵攻のための造船命令を発したのは1279年で、40m級の超大型船は元冠船と考えてよい。
ttp://www.sci.nagoya-u.ac.jp/kouhou/06/p16_17.html

605 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:11:27
>>603
オモロイから湧いちまうよ
戦争ごっこっていつの時代だよw広島なら極道ごっことかあるんかな?
>運や流れを呼び込むのが精強の証なんじゃが
それをいっちゃぁ、おしまいよ。
出羽出羽

606 :白馬青牛:2006/02/19(日) 03:48:27
>>602
エヴェンキと朝鮮の共通項は、婚姻で夫婦別姓ですが、これは漢人や
日本人も明治31年の民法以前は別姓が多く適応出来ず。
出産の場所(初産は実家)では、婚家出産は、近畿・中国・四国・
ツングース人・モンゴル人・漢人に共通するが、古代河内の馬飼い書氏と
田辺氏の婚姻や神話でもそうである。一方実家出産は、北陸・東海・
関東から朝鮮にかけて分布する。
朝鮮人や漢人は夫の許可なしに妻が外出することは出来ず、夫の不在中、
他の男性(客人)を迎え入れることも出来ません。がエヴェンキ等
ツングースの婦人や日本もそうですが厳しい規定はない。これは朝鮮に
おいて儒教の影響からそうなったとも考えられる。婦人を虐待したら
ツングース諸民族では大変なことになるそうで。彼女の氏族が干渉する。
大抵の場合夫はひどく罰せられる。朝鮮人はどうか。戦前でも・・・。
特定民族を貶めることになるので、省略しましょう。
馴鹿飼育民の北ツングース族のエヴェンキに特定すれば、朝鮮族のみ
ならず日本人も風土環境で異なっております。関係は薄いでしょう。
南満洲や沿海州あたりは日本や朝鮮の民族形成に関連が深いと思います。
特に朝鮮族は古アジア系ニブヒ族の影響もあると思えます。

607 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 21:32:03
>>592
>当時の江南の主流な物的文化がなーんにも日本に伝わっていないがな

順不同で千木、鰹木、鳥居、入れ墨、貫頭衣、納豆、歌垣、下駄、アニミズム信仰、
これらはいまは雲南あたりにいる越人の末裔の少数民族が保存している文化である。

608 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 21:34:02
>594
>これは大和と扶余の連合・同盟の証拠だと思うが。

前にも書いたように、5世紀はすでに九州の騎馬化がはじまっているから、
扶余まで出かけなくても修得できる。

>>596
>倭人が半島に出向いたのは鉄を求めに行ったという強い動機がある。

鉄が欲しいからといって、他人が支配しているところに出かけて行って
ただで掘らせてもらうのは虫が良すぎる。
伽耶の鉄の代償はなんだったか。申教授は「人間」だと言い、日本人学者も
あまり反対していないが、要するに兵士にする人間が商品だったという。
しかしそんな商品はあまり聞かないし(プロの傭兵は別)、使い物になるとも
思えない。
私は鉄の代償は「土地」だったのではないかと思う。つまり、鉄供給を材料に
して、三輪王朝の体制への参入を要求したのではないか。
土地を支配すればその地でじぶんの軍隊を養成して伽耶へ送ることもできる。
これは扶余が「何故日本に来たかという理由や根拠」への説明でもある。

609 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 21:35:35
>>1

【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/ 〜981
http://2ch.pop.tc/log/06/02/19/0331/1068492251.html

610 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 22:06:00
>>608
金官から、沖縄でしか採れない貝で作られた生活用具が出土してるね。
交易があった証拠だね。
俺は、扶余は高句麗対策として兵士が不足してたので、
交易(同盟)の過程で、いざという時のために大和に援軍を要請してたと思うがな。
扶余に土地を要求され、王朝への参入も要求されて黙ってるほど、
大和は非弱だったとあなたは考えてるのだな。
4世紀初めごろならわかるが、それでも軍事的にほぼ対等、
4世紀終わりごろなら騎馬戦術も覚えた大和が扶余を凌駕してたと思うが。
扶余が日本に入る余地はなかったと思う。


611 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 22:23:12
>>608
あ、それと忘れてた。
>5世紀はすでに九州の騎馬化がはじまっているから、
>扶余まで出かけなくても修得できる。

老司の埋葬スタイルはどうよ?
石蓋土壙墓などは、江上さんが一目見て伽耶だと分かると言って、
大喜びしてたほどの古墳なんだ。
日本の古墳で最も伽耶的と言ってもいいほどだ。
この埋葬者が伽耶まで出かけなくて、
これほどの伽耶スタイルを修得できたとはとても思えないが?



612 :日本@名無史さん:2006/02/19(日) 23:07:05
>>608
土地を要求して、与えられたのなら、
誰はばかることなく金海木郭墓を作って良かったんじゃないの?

613 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 15:24:56
>>610
>扶余に土地を要求され、王朝への参入も要求されて黙ってるほど、
>大和は非弱だったとあなたは考えてるのだな。

「王朝への参入」ではなく、「三輪王朝の体制への参入」と書いた
はずだ。三輪王朝体制は各地の豪族が大和に寄り集まってできた寄り合い
所帯、あるいは共同参画政権だった。そのなかの一員として参加する
ことを要求して認められた、という意味だ。

異質なものを仲間に入れるのか、というかも知れないが、三輪王朝体制の
構成員そのものが縄文から弥生まで、あるいは銅剣文化から銅鐸文化
まで、ものすごい異質同士の集まりだった。そのなかで扶余はちょっと毛色の
変わった地方豪族であるに過ぎない。

そして鉄の供給という切り札を持つ扶余は、決して招かれざる客では
なかっただろう。

614 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 15:27:15
>>612
>土地を要求して、与えられたのなら、
>誰はばかることなく金海木郭墓を作って良かったんじゃないの?

上記のように三輪王朝の体制は異質の集まりだが、恐らくは参画者で
あることの共通の標識として、メンバー全員がその地位あるいは実力に
応じた前方後円墳を築いたのだと思う。
だから扶余が三輪王朝体制に参加したのなら、前方後円墳以外の墓を築く
ことはあり得ないのだ。

615 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 15:40:23
【古代史】韓国の古墳にクスノキの棺…鉄の見返り、日本から運ぶ?”新しい歴史像も浮上”[2/20]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1140406217/
韓国の古墳にクスノキの棺 鉄の見返り、日本から運ぶ?
http://www.asahi.com/culture/update/0220/002.html
 朝鮮半島からもたらされた鉄の見返りに、日本から何が運ばれたのか。古代史最大級の謎に、新たな仮説が
登場した。木材だ。韓国南部の古墳で昨年、朝鮮半島では自生しないクスノキの棺が発見されたからだ。
中国を含む東アジアに特定の樹木を貴ぶ文化があったという新しい歴史像も浮上している。
(略
 逆に、当時の日本では鉄は未発見で、朝鮮半島からの渡来品は極めて貴重。見返りとしては米や塩、人が
考えられてきたが、どれも朝鮮半島にもあり、「対価になりえない」との異論があった。
 李教授は「木片は棺だったと考えていいだろう。クスノキなど棺に適した樹木が自生しないため。
その貴重さは鉄との交易に見合うはずだ」と話す。
(略

*関連
【韓国】伽耶時代の古墳から木棺を搬出。木材は日本産の可能性大 [06/22]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119632341/

*武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html
武寧王陵の木棺
ttp://hb3.seikyou.ne.jp/home/Hideo.Yoshii/gyouseki/kongju01.html
国立公州博物館
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/his_kor/chungchon2.html

616 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 18:59:22
>>613
あなたが言う「三輪王朝の体制への参入」だが、
扶余が参加したのなら、馬具などから考えても4世紀後半という事だよね?
吉備あたりか?

617 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:12:34
考古学的出土物からわかる最大公約数的な話をすればいいだけだと思うよ。
伽耶を支配してた扶余と大和の間で交易はあった。
これを疑う人はいないだろう。
で、扶余は5世紀初頭まで伽耶に王家があって、大和も畿内にあった。
つまり友好関係があり、鉄の交易を守るため連合してた。
高句麗対策として倭人が伽耶文化そっくりの古墳を作るほど、
長期間、半島に居たのも確実(老司古墳)。
扶余は伽耶に居る事でよかったし、大和も交易で鉄を得られるんなら連合で良かったし、
何も難しい事ないんじゃないの?
征服だどうだなんてありえないよ。


618 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:47:31
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗も
フヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。

彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。


619 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:13:25
>>616
4世紀前半でもよいと思う。
そして吉備というのは非常に面白い。関裕二という人が物部=吉備説を唱えて
いるが、そうであれば、ニギハヤヒは物部の祖であるから、私の考えた
扶余先遣隊説とつながって来る。
そして、吉備がずっと後まで朝鮮経営を専管していたこと、4世紀中頃に
吉備が大和の大王と同等の前方後円墳を築いたこと、大和周辺の物部の領地
は河内であり、これが河内王朝の布石となっていること、などが芋づる式に
説明されてくる。

620 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:37:39
>>619
4世紀前半なら、馬具が出ないという事をどう説明する?

621 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:57:15
>>619  >4世紀中頃に 吉備が大和の大王と同等の前方後円墳を築いたこと

あったっけ?

622 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:09:35
>>621
造山古墳の事だろうけど。
たしか阿蘇産の家型石棺とかがあったはず。
このような出土物からどうやって扶余と結びつけるのだろうか?


623 :日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:31:43
失礼、造山古墳は5世紀だったね。


624 :日本@名無史さん:2006/02/21(火) 19:38:22
>>620
その質問への答は>>562に書いたので繰り返さない。

>>622
造山の近くに放置してあるのは家型でなく長持ち型。
造山ではない他の古墳に由来すると言われている。

>>623
造山は5世紀とされているようだね。
応神陵、仁徳陵より一世代前の古墳と大きさを比較すべきとなにかに書いて
あったので間違えた。
しかし5世紀としてもわたしのすじがきは変わらない。

625 :日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:23:40
http://www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/hakkutsu/kekka/konobaru/Q6_more.htm
伽耶も重要な土地だったろうけど、弥生時代から阿蘇谷で鉄が採れてるね。
神武とは阿蘇・日向から畿内を攻め、銅鐸文化を終結させた鉄族だったのでは?
その前のニギハヤヒは北部九州の鉄族だったかも。
そう考えれば、弓射道具を見せ合って同族と確認したというのもうなずける。

扶余に仮定するなら神武東征に騎馬の記述があってもよさそうだが…




626 :日本@名無史さん:2006/02/22(水) 19:16:29
参考になるかどうか分からないがw
九州の祭神別マップ。
神武を祭ってる神社は熊本と宮崎に圧倒的に多い。

http://kamnavi.jp/jm/sindai.htm


627 :日本@名無史さん:2006/02/22(水) 20:51:10
>>625
褐鉄鉱は湿地帯で微生物の働きでできるものだから、全国各地で取れる。
阿蘇の褐鉄鉱が九州に圧倒的な優位をもたらしたとは思えない。
やはり伽耶の重要性は、加工がしやすく品位が高い鉄梃で供給して
くれるところにあったのではないか。

また、ニギハヤヒや物部が九州出身であったこともあり得ないではない
が、それだと倭と伽耶の特殊な関係の説明がまた別途に必要になる。

628 :日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:17:29
>それだと倭と伽耶の特殊な関係の説明がまた別途に必要になる。

わからない。
例えば、何?

629 :日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:01:41
>>625
>圧倒的な優位をもたらしたとは思えない。

うん。実際、神武が大和を攻める時、苦労してるではないかw
圧倒的優位でなかったことが神武=阿蘇・日向集団の証拠。

でなによりも高天原が阿蘇に思えて仕方ない。
阿蘇には何回か行ったが、まさに「高天」に「原」があるからな。


630 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 14:15:47
>>629
圧倒的優位でないなら褐鉄鉱の話をする必要はない。それに対して伽耶の鉄梃は
圧倒的優位だった。三輪王朝の遺跡から出る大量の鉄梃が、それを証明している。
つまりそれを握った三輪王朝が優位に立ち、したがって三輪王朝への供給者も
また優位であったということだ。

>>628
倭と伽耶の関係が特殊でないと考えることがわからない。
4世紀初頭、任那(狭い意味)は鉄と騎馬を持って圧倒的優位にあった。
4世紀〜5世紀、任那式の武装が倭を覆った。
4世紀末、任那と倭はすでに一体化していた(広開土王碑)。
5世紀、任那は倭に服属(朝貢)していた。
6世紀、任那の回復が王朝の歴史の大部分を占めるほどの至上命題になった。

このような経過を統一的に説明するのは難しい。学者たちの説明は「任那日本府」
におびえてあたりさわりのない作文に終わっている。
これを称して特殊という。

631 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 14:40:15
箸墓古墳から国内最古の馬具出土
ttp://www.begin.or.jp/sakura/topix10.htm
 桜井市の箸墓古墳の周濠(しゅうごう)で、四世紀初頭の木製鐙(あぶみ)が見つかり、2001年11月30日
市教育委員会が発表した。定説を一世紀近くさかのぼる国内最古の馬具となる。

 桜井市箸中、箸墓古墳の周濠(しゅうごう)から出土した三世紀末〜四世紀初めの木製輪鐙(あぶみ)ば、
騎馬文化とわが国のかかわりを再検討するきっかけになると同時に、不明な点が多い東アジアにおける
騎馬文化の一面にも光をあてそうだ。

 今回発見された鐙は、中国や朝鮮半島との多角的な交流のなかで、乗馬の風習も定説より百年近く前に
伝わっていたことを示す。大王が権威の象徴として使ったのか、中国からの使者が乗っていたかはわから
ないが、箸墓古墳の近くを騎馬の人物がかっ歩する光景が浮かび上がってくる。 

632 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 14:47:38
>615 関連

奈良の巣山古墳で木棺・舟形木製品が出土・葬送に使用か
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060222AT1G2203422022006.html
 奈良県広陵町教育委員会は22日、国特別史跡の巣山古墳(4世紀後半)の堀から大型の木棺のふたの一部
と舟形木製品が出土したと発表した。埴輪(はにわ)の線刻画や九州の装飾古墳の壁画などに描かれた船を
使った古代の葬送の儀礼を裏付けるものとみられる。巣山古墳は天皇墓に匹敵する規模で、葬送儀礼を研究
する重要な資料になりそうだ。
 堀の北東部から出土した木棺のふたの一部はクスノキ製で、上部が膨らみ両側に突起のある「長持形」と
呼ばれる形。長さ2.1メートル、幅0.8メートルだが、復元すると、長さは約4メートル、幅は約1メートルになるという。
舟形木製品は先端が反り上がった板が3.7メートル残っており、全長8メートル以上と推定される。
(略

観光 巣山古墳概要
http://www.town.koryo.nara.jp/kankotokusan/kanko/suyamakohunn_gaiyou.html

633 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:32:00
>>630
何も難しくないと思うが。
>4世紀初頭、任那(狭い意味)は鉄と騎馬を持って圧倒的優位にあった

そうとは限らない。騎馬を持ってる事は確かに優位ではあるが、
だからといって圧倒的に優位とは限らない。
大和の多軍と互角程度だったと思う。

後のは連合・同盟説で説明できる。



634 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 13:15:17
>>633
>大和の多軍と互角程度だったと思う。

圧倒的優位というのはなにも戦闘で優位ということだけではない。
鉄は大和の必需品であり、騎馬や鉄製武器は大和が取り入れるべき技術だ。
要するに伽耶は資源と技術とにおいて大和の首根っこを抑える立場にあった、
という意味だ。(ただし4世紀前半)

>>後のは連合・同盟説で説明できる。

同盟というのは利害関係であり、せいぜい信義だ。
利害関係や信義で、ある大王の治世記の大部分が任那問題で埋まり、
任那の回復と新羅への復讐とが遺言になるほど入れ込むというのは、
どうしても説明し切れない。
しかもこの時代は河内に大製鉄センターができていたり、百済が
新しい供給者になったりして、任那の鉄はもはや重要性を失っていた。

635 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 19:42:15
>>634
大量の鉄を買い付けてくれる大和は最高の得意先だったわけだろう。
扶余にしても大和を攻めるどうこう以前に、
産鉄地を守る事が先決だったろうし、
高句麗対策として大和に援軍要請した事も当たり前だったと思う。
大和にしても鉄の供給地を守るためなら喜んで要請に応じただろう。
なぜ>「大和の首根っこを抑える立場」とかいう発想になってしまうのだろうか?

636 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:43:45
>>635
私の634の文章の後半に答えていない。

前半は4世紀前半、後半は6世紀のことを言っている。

637 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:55:09
>>630
うーん、漏れはずぶの素人なんだけど、そう説明されると納得してしまうところはあるな。。
任那から倭に渡ってきた人々が大和を立て、半島に固執した理由が・・・

638 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 09:15:32
>>636
俺も素人なんで634の後半をもう少し詳しく言ってくれないか。
宣化天皇か?

639 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 10:12:56
>>636
634の後半。
>同盟というのは利害関係であり、せいぜい信義だ。

だから婚姻等があってある意味同族化したのだろうといってる。
あくまで大和が能動的主体となって…
ヌルハチが明を攻めて簒奪したのとは全然意味が違う。


640 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 14:12:33
>>639
>だから婚姻等があってある意味同族化したのだろうといってる。

伽耶に扶余が来たことを認め、それが三輪王朝と「同族化」したというのなら、
私が言っていることと大差ない。

それから、「大和の首根っこを抑える立場」についてもうすこし付け加えると、
統一された倭国が金官の扶余と取引しているのなら、あなたの言うように
単なる貿易相手同士とも言える。
しかし、4世紀初頭の時点で九州は大和に統一されていなかった。
大和からすれば扶余が大和にではなく九州に、鉄と馬を渡すことは悪夢
であった。
そして伽耶が金官になったときにそれまで濃密だった九州との関係を
断って大和と結んだことに、なにか政治的なものを感じる。
「大和の首根っこを抑える立場」というのは上記のような意味である。

>>638
欽明天皇。

641 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 17:29:16
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗も
フヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。

彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。


642 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 18:25:07
>>640
>私が言っていることと大差ない。

うん、そうなんだw
とにかく、従来の武力による征服説なんかはもう完全に無理だと思う。
扶余と大和の婚姻関係はあったと思う。
百済との後まで続く親密な関係からもそう思う。
ただ、あくまで大和が主体であって、最終的に扶余を飲み込んだと思う。
こんなの全然「征服」じゃねぇw

643 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 11:56:26
>>642
>とにかく、従来の武力による征服説なんかはもう完全に無理だと思う。

だから私の考え方ならば無理ではない。
私が言っているのは、三輪王朝体制が成立したときに、金官の扶余勢力が、
その優位な立場を利用して体制の一員として入り込んだということだ。
(マキムクというのは意外に開かれた、あるいは国際的な体制であった
ことが、発掘から言われている)
いったんこのことが起これば、そのあとは何でも起こり得る。
体制の一員になったということは支配する土地を得たといういことだから
その土地で勢力を培い、体制のなかで有力になってあるときにクーデターを
起こしてもよいし、多くの同様な試みがあったように婚姻関係によって
外戚となって遂に簒奪してもよいし、またニギハヤヒが神武をそうしたように、
同族の主力を導き入れてもよい。
このようにして「獅子身中の虫」方式による「征服」が起こり得た、というのが
私の考え方だ。
いずれにしても扶余と大和は「同族化」「一体化」したというのはあなたと
同じだが、その結果は扶余による簒奪、ということが異なっているかもしれない。
少なくとも当初は「大和が主体」というのは私も同じ。
「体制に入り込む」というのは扶余の一部が大和に臣従するのだから、形式的には
大和が主体だ。


644 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:31:55
【884年・9月】
新羅船45艘が対馬を襲ったが、太宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。この事件の顛末については、『扶桑日記』 『日本紀略』 などの
史料により確認できる。 この事件は1017〜21におきた刀伊の入寇事件とともに、平安時代のわが国が遭遇した大きな戦いだった。
合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は、尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている。
これを打開すべく王の命令により、2500人の軍が 大小百艘に分乗、飛帆したという。王の命令による海賊行為であった。
『武士の誕生』 関幸彦 (NHKブックス)

・その他の新羅の入寇・
【811年(弘仁2年)・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。

【813年(弘仁4年)・02月】 新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。

【869年(貞観11年)05月】 新羅の海賊、博多で掠奪する。

【893年(寛平5年)・05月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。

【894年(寛平6年)・04月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。

【997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇、1019年(寛仁3年)、刀伊が来襲。このときは藤原隆家が撃退。

【きままに歴史 「元寇と高麗」】
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm
このホームページの末尾にある年表を参照してください。新羅などが日本を侵略した記録を、年表形式で
まとめてありますから、便利です。

皆さん、「良い歴史教科書」を作るために、文部科学省にメールを送りましょう。小学校・中学校・高校で使用する歴史教科書に、
朝鮮人の日本侵略の史実を載せるよう、文部科学省にメールで要求しましょう。
また「戦後史」として、『日本人拉致事件』も歴史教科書に載せるよう要求しましょう。

文部科学省
http://www.mext.go.jp/mail/index.htm


645 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:39:14
>>643
ただ、三輪王朝体制の一員になって土地を得たと言われても、
それがどこかを特定するのは難しいな。。
何かひとつの説を証明するというのは極めて困難だからね。

646 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 20:06:42
>>643
その、扶余が内側から王朝を奪取した、というのは何か根拠があるのでしょうか?

647 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 20:43:36
>>645
>何かひとつの説を証明するというのは極めて困難だからね。

その通り。4世紀に関するいかなる説も「証明」はできない。
大和と扶余の「同盟」も、同盟条約の金石文でも出てこない限り証明はできない。



648 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:19:59
三輪王朝の体制に扶余が参入したというと、なにか突飛なことのように思う
かもしれない。しかし考えてみよう。有力豪族のうちの一部は、むかしから
渡来系と言われているのだ。
そのなかには高句麗系、新羅系、百済系などがある。百済滅亡のときに
流れ込んだ亡命貴族はいいとして、渡来系豪族はその前からいる。
これらの豪族はどうやって倭に入り込んだのだろうか?
そして任那系と言われる有力豪族はなぜいないのだろうか?
最も関係が深かった任那について有力な渡来系豪族がいないのは
かえっておかしいのではなかろうか?

649 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:30:02
>>648
そうなったらもう「騎馬民族征服王朝」どころか「騎馬民族王朝」とすら呼べなくなるよ?

650 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:52:16
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾

『嫌韓流2』発売中

駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう

651 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:35:53
>>648
>有力豪族のうちの一部は、むかしから渡来系と言われているのだ。

具体的にどこの豪族が何系なのかな?

652 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:51:10
>>649
別に呼び方はどうでもよい。
私は「倭の五王は扶余だ」と言っているのだ。

653 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:48:09
>>652
根拠は?

654 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 05:18:24
>>648
新撰姓氏録って知ってる?
諸蕃って何だ?

655 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 08:44:49
>>653
根拠はいままで言ったこと、また今後言うことの全て。

>>651
例えば東漢氏は百済系、秦氏は新羅系とされる。
また、蘇我氏は出自不明だが一般に渡来系と言われている。
そのほかにもいくらでもあるから、自分でぐぐってごらん。

あるネット資料によれば、河内を領地とする氏族の70%は渡来系だそうだ。
そうすると、河内王朝の大王が土着系とすれば、ほとんどが渡来系の
取りまきのなかに土着系の大王がぽつんと浮かんでいることになる。

それよりも、大王じしんが渡来系だから渡来系の取りまきを引き寄せた
と考えた方がよほど分かりやすい。

656 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 09:58:52
>>655
縄文人も弥生人も渡来系だから別に渡来系であってもいいんだけど。
あなたは>648で、
>有力豪族のうちの一部は、むかしから渡来系
と言ってるね。
4世紀前半〜中頃に扶余が三輪王朝に参加したと考えてるなら、
それより昔、つまり3世紀ごろの話をしなきゃいけないんじゃないの?
そんな時代の渡来系豪族って何だろ?と思ったもんでね。
秦氏は主に4世紀後半でしょ?

657 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 13:22:38
>>656
「むかしから」と言ったのは、「戦前から」「騎馬民族説より以前から」と
いう意味だ。
それから縄文人や弥生人が海外から来たからと言って「渡来系」とは
言わない。
「渡来系」とは以前には「帰化系」と言ったのを、戦後に言い直した用語だ。
「帰化」とはその徳に帰するべき王朝があっての話だから、まあ三輪王朝成立
以後のことと考えてよかろう。

658 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:14:37
山が多く海にぐるりと囲まれたこの日本で、な〜にが騎馬民族だよw
妄想振り散らかすキチガイ江上とその信者はキモ過ぎるよ!

659 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:28:40
>>657
>631で紹介されてる箸墓古墳の周濠から出た木製馬具だが、
古墳の「副葬品ではない」という所がミソなんだなw
扶余と大和の接点はあった証拠にはなるのだが…
やはり扶余が大和の王になったというのは無理があるよ。


660 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 18:01:05
>>655
>あるネット資料によれば、河内を領地とする氏族の70%は渡来系だそうだ。

どこのネット資料は知らないが、
特別な技能を持ってたりする人達には多く来てもらっただけ。
素晴らしい事だと思うが。


661 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:02:44
>>660
>特別な技能を持ってたりする人達には多く来てもらっただけ。

特別な技能を持っているのは「部民」だ。
ここで「氏族」と言っているのは領地を持つ支配階級のことだ。


662 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:22:23
http://www.bund.org/opinion/20040925-1.htm

に引用されている文章:
「吉田晶によると、河内国の渡来系氏族は、古市郡では12氏のうちの8氏、
高安郡で18氏のうち12氏、安宿郡で8氏のうち6氏、交野郡で10氏のうち8氏、
讃良郡で8氏のうち6氏…(中略)……河内国においては計68氏の70%が渡来系だった」。

吉田晶は京大文学部卒、岡山大教授だが、上記の地の資料は「弥生系渡来人」という
言葉を使ったり、左がかっていてあまり良い資料ではない。

663 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:55:46
>>662
>「4世紀末から始まる渡来のうねりが、5世紀に入るとさらに大きくなったことを
>古墳出土の遺物が示しているが、それを『輸入』したものとして片づける学界の姿勢は
>まだ改まっていない。

何度も例を出して悪いが、老司古墳の埋葬者から言える事は、
倭人が半島南部で積極的に文化摂取した事を物語ってるのだが…

664 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:12:34
>>扶余簒奪説の人

渡来人の事を偏見なく書いてる記紀で、何故、大君が扶余と書かないか。
最大の謎だと思わないか?
答えは扶余ではないからだ。

665 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 23:33:11
2004年の講演なのに「弥生の500年問題」は無視ですか。
そして相変わらず「100万人がやって来た」ですか。
そんでもって天皇も自分は百済の血を引いていると「言い出し」ましたか。
サヨクって……やっぱりダメかもわからんね。

666 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 15:14:27
>>663
>古墳出土の遺物が示しているが、それを『輸入』したものとして片づける
>学界の姿勢はまだ改まっていない。

だから金官の北方式木郭墓も、日本で出る馬兜も、なんでも「文化受容」で
片づける「学界の姿勢」が問題なのだ。

>>664
扶余の本拠である金官の歴史は「カラ国記」(カラの漢字は省略)だが、カラ国記
には王が扶余だとは一言も書いてない。

667 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 18:57:02
>扶余の本拠である金官の歴史は「カラ国記」(カラの漢字は省略)だが、カラ国記
>には王が扶余だとは一言も書いてない。

実は扶余でなかったりしてww

668 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 19:00:17
>>666
老司の人骨に触れなかった江上の姿勢も問題だぞ。


669 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 19:16:30
>>667
>実は扶余でなかったりしてww

大成洞遺跡が発掘されるまでは皆がそう思っていた。
江上波夫以外の日本の学者連中も含めてね。

>>668
老司の人骨が倭と任那の「同盟」を「証明」するという話だったと思うが、
(人骨が証明しているという理由を理解できるか否かは別として)
その同盟ができていなければならない4世紀はじめにおいて、九州と大和は
まだ統一されていない。
同盟があったとして、それを証明しなければならないのは任那と大和との間なのだ。
そして4世紀末になれば倭と任那が一体化されているのだから、その時点で
どんな交流があったとしてもすじがきには影響しない。

670 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 19:34:37
>4世紀はじめにおいて、九州と大和は まだ統一されていない。

一応、3世紀後半と言われてる古墳が福岡平野にある。
どう考えるかは自由だが、俺は大和の強い影響下にあったと見る。
http://www.city.fukuoka.jp/contents/7d14c2133a7/7d14c2133a723.htm

671 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:50:55
扶余がどうこうより、継体天皇の出自を高句麗系として、
高句麗の簒奪とした方が早いんでないの?

672 :白馬青牛:2006/03/02(木) 02:06:25
大成洞遺跡の人骨が渡来型でないと言うことは、弥生期の筑紫弥生型人骨は
さほど影響がなかったということであろう。
更に古墳期に家畜による牛型結核菌(縄文期から発生例は無く、古墳人が
最初の結核患者とし、それは渡来人によってもたらされたとされ、牛家畜
飼育に免疫の無い非家畜民の倭人、縄文系はかなりの死滅者を出したと
言う。現在でもウルルン滞在記でやっておったが、南米の原住民に接触
する時、先進国文明人は病気を原住民にもたらさぬように注意が払われて
おる。)、これら崇神天皇の牧場設置の時期の疫病について、江南派の
重鎮、江南系漁撈稲作民日本征服説(安田氏の説を梅原猛氏は、
反騎馬民族説とされる。)の安田義憲氏が、『気候変動の文明史』NTT
出版、に書いておられる。安田氏は気候変動から、5世紀頃日本へ疫病を
もたらした家畜飼育集団が移住したとされる。これらから弥生期よりも
古墳期に、北方民族の日本移住が多いと思えるのであるが。

673 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 10:47:18
>>671
それもあり得る。簒奪は一回とは限らない。
ただし高句麗も扶余だけどね。

674 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 14:20:30
簒奪があったとして、記紀を編纂した人たちは何で隠すのだろう?
文官が渡来派と在来派に分かれてて、在来派の力が強かったのか?
つーか、姓もない王というのは変だよ。

675 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 15:19:11
扶余が、早くから三輪王朝の体制に参画したとして、
ならどこかの古墳の副葬品から、木製であろうが馬具が出てこないと不自然だ。
箸墓古墳の「周濠」からは出てるのにね。
この木製馬具を持ってきた人物は、
馬を連れて使者として来日したが、半島に帰ったという事だろうなw

676 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:19:29
>>674
三輪王朝からの連続性(万世一系)をテーマにするのなら隠すだろう。
しかし日本書紀は親切で、ヒントも与えてくれる。
ニギハヤヒと神武が共通して「天つ神」だというあたりが怪しい。
しかもニギハヤヒは船に乗って舞い降りたのだ。

>つーか、姓もない王というのは変だよ。

今でも天皇には姓がないけど?

>>675
河内王朝以前にも馬関係のものはちらちらと出ていて、それが騎馬化が突然でなく
漸進的に起こった(だから征服ではない)という、アンチ派の一つの論拠になって
いたのでないか?





677 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:24:36
>>670
日本最古級の前方後円墳が福岡平野にあったとは知らなかった。
九州でも少なくとも福岡平野は三輪王朝の体制に属したと考えざるを得ないね。

しかし老司古墳は5世紀初頭〜中葉だから、私が後半で言ったことにあてはまる。

678 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:24:46
高句麗が簒奪!!!
なるほど、それで武寧王には棺桶木材をプレゼントかい。
ブラックだねぇwww

679 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:19:42
継体天皇は越前だよね。
山陰・北陸といえば四隅突出墳を思い出すんだけど、
北朝鮮にも四隅突出墳があると言う話を信じるなら、
高句麗との関わりが…ってなるけどな。
ちょつとあの話は怪しいんで放置しておいた方がいいだろうな。




680 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:27:20
>>677
日向にも3世紀後半の前方後円墳があるから、
大和の影響力は、かなり古くから広範囲に及んでたろうね。

681 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 07:52:46
>>676
>今でも天皇には姓がないけど?

身近で、日本への文明流入先である朝鮮を見ても、
高句麗は高、百済は余、新羅は金・朴・昔、伽耶は金、
中国は漢なら劉、魏は曹、と言うようにいずれも立派な姓があります。
これらの地域から渡来して来たと言うのなら、
日本の大王に、何故姓が無いのかと言う話です。

682 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 10:58:59
>>681
簒奪したからです。それまでの伝統を引き継いだのです。

683 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 11:12:48
>>680
日向を含む九州の背梁山地の東側はむしろ瀬戸内海世界に属し、したがって
三輪王朝の勢力範囲だった、ということかも知れない。
そしてその西側は壱岐〜対馬〜東松浦半島という比較的安全な航路を持つ
のが強みだったので、別の世界を形成した。それがイワイの王国につながった。
と考えられる。

684 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 18:09:28
3世紀後半には瀬戸内海から日向までが大和の勢力内にあった。
扶余が日本の一地方を与えられたなら、
それ以外の未開拓の地が考えられるのだが…

さらに言えば、倭人と扶余は異民族だ。
扶余には冬至に大々的に祭典を行う習慣があったらしいが、
日本のどこかが扶余に与えられたとして、
そんな習慣が残ってる地域があるのかな?

685 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 18:49:13
>>609のキャッシュ

http://64.233.179.104/search?hl=ja&q=cache%3A2ch.pop.tc%2Flog%2F06%2F02%2F19%2F0331%2F1068492251.html&lr=

686 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 20:08:32
>>684
>扶余が日本の一地方を与えられたなら、
>それ以外の未開拓の地が考えられるのだが…

ずっと同じ豪族が同じ土地を持っていたと考える必要もない。
日向を例にとれば、新しい大型前方後円墳が古い円墳や前方後円墳を破壊して
作られている。これなどは示唆的だ。

>扶余には冬至に大々的に祭典を行う習慣があったらしいが、
>そんな習慣が残ってる地域があるのかな?

グッドクエスチョンだ。
天皇家の「新嘗祭」が冬至祭祀の変形だよ。

687 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:23:18
>>686
日向はまつろわぬもの熊襲の地でもあるからねぇ。

>「新嘗祭」が冬至祭祀の変形だよ。
何かソースはあるの?
飛鳥時代から始まった事になってるが。

それと、京都の綾部のように綾氏ゆかりの地名が残ってたりするんだが、
扶余も何かそれらしき地名があってもよさそうだが…
日本海にある余部という鉄橋で有名な地名は違うみたいだ。
海人部が語源みたいだし。

688 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:39:20
「倭は扶餘の別種」かよ

689 :白馬青牛:2006/03/04(土) 00:40:17
>>684
扶余のそれは、「正月祭天 國中大會 連日飲食歌舞」からじゃと思う。
その習慣が日本の地域に結びつくかは難しい。
同じ魏志扶余伝の「兄死妻嫂 與匈奴同俗」は、風習として日本でも
戦前は珍しいことではなかった。「兄死妻嫂」は、『旧約聖書』「申命記」
第25章の「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子の
ない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の
兄弟が彼女の所へはいり、娶って妻とし」の部分から読むと嫂婚制が
イスラエルにもあったことがよく解る。
>672の疫病やウシ型結核菌は安田善憲氏『気候変動の文明史』から。
http://www.1st-online-shop.com/4757140878.html
に出ておった。

690 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 04:51:48
>>689
戦前にあったかなぁ?
そんな風習は初耳だわ。

691 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:01:43
>>690
あなたは戦前生まれですか?w

692 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:16:07
江上説の時代(4世紀〜)に騎馬民族による日本征服なんてなかった。
ただ、それより以前、弥生時代に鉄器を持って渡ってきた集団が天孫であり、
我々日本人のほとんどがこの集団の末裔だと思ってる。
匈奴あたりとの習慣の類似も、われらの祖先が大陸に居た時代と接点があっただけ。


693 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:20:29
>>687
>http://www.highlight.jp/izumooyashiro/20.html
<引用> ”古伝新嘗祭の意義”の一部
「陰暦11月といえば、陽光の衰えてくるときである。年間を通して活動してきた国造の
霊威もまた衰えを見せてくるのであって、こういうときにあたり、国造が神との相嘗を
することによって、清新にして活発な生命力にみちた神の霊威をば、国造がその身につけ、
かくすることによって、新らしい年にむかってのはたらきが約束され、保障されるという、
いわば出雲国造の霊威の復活の為の祭りが、その本義をなすのであろう。」

すなわち、新嘗祭の意味はもともとは収穫感謝よりも太陽の復活を祈ることにあった。
これこそ「冬至祭り」の意味である。
扶余の冬至祭りが日本にある、というのではなく、冬至祭りが各民族に普遍的なのだろう。
クリスマスがゲルマンの冬至祭りとキリスト聖誕祭の融合したものであるように。
また、新嘗祭の古形が出雲大社にあることは天皇家がそれを出雲から受け継いだ、
即ち三輪王朝の主は出雲であったことを物語る。

694 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:33:48
>>693
つまり出雲は扶余の地だったと?

695 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:39:27
うーん、これはいよいよイスラエルに近づいてきましたね〜、ニヤニヤ。
そういえばスキタイがアッシリアを滅ぼした時、
アッシリアには捕囚されてた北イスラエルの貴族階級が居たはず。
彼らはどこに行ったんだろう?
うーん…ニヤニヤ。

696 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:09:36
主が出雲の三輪王朝が200m超級の前方後円墳を造るのかね?

697 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 13:01:04
>>694
>>696
違う。三輪王朝の主が出雲。
三輪王朝を簒奪した(あるいは継承した)河内王朝が扶余。
というのが私のすじがきだ。

698 :フヨは日本に来てないよォ:2006/03/04(土) 13:54:53
★ 朝鮮人の日本侵略史 ★

【第一次侵略=356年】
ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、
志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝が滅亡。金氏新羅の建国。

【第二次侵略=562年】 朝鮮人国家=新羅が、日本領=任那を武力攻撃。任那は滅亡した。

【第三次侵略=660年】 新羅が、唐軍と共に日本領=百済を侵略。百済は滅亡した。

【第四次侵略=811年・12月】 新羅の賊船が対馬近海に出没するので、警備させる。

【第五次侵略=813年(弘仁4年)・2月】新羅人百人余、肥前小近島に来て島民を殺傷する。

【第六次侵略=869年(貞観11年)・5月】新羅の海賊、博多で掠奪する。

【第七次侵略=893年(寛平5年)・5月】 新羅の賊、肥前・肥後を襲う。

【第八次侵略=894年(寛平6年)・4月】 新羅の賊来る。大宰府に討たせる。

【第九次侵略=997年(長徳3年)】 高麗の賊が大挙して侵寇。多数の日本人を虐殺。

【第十次侵略=1014年(長和三年)】 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。

【第十一次侵略=1019年(寛仁三年)】
50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らして物資を奪い、家屋を焼き払い、
老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。日本側は、大宰権使=藤原隆家・大蔵種材や
在地の豪族らが応戦撃退。逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。
十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の侵略。


699 :フヨは日本に来てないよォ:2006/03/04(土) 13:55:34
続き)
◆ 朝鮮人の日本侵略史 2◆

【第十二次侵略=1097年(承徳元年)】
異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し
賊徒数万を海没させた。元寇に至る外国からの侵略事件の中でも最大規模のもの。

【第十三次侵略=1274年10月(文永11年)】
忻都、金方慶らに率いられた、高麗人・モンゴル人数万人が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発。
10月5日に対馬を、10月14日には壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた。

【第十四次侵略=1281年(弘安4年)】
高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本を侵略。

【第十五次侵略=1419年(応永26年】
朝鮮が、日本領=対馬を、倭寇征伐の名目で侵略する。朝鮮では己亥東征という。
太宗は「倭寇の根拠地は対馬だ」と言いがかりをつけ、対馬を侵略した。これにより6月19日、李従茂指揮の
227隻、1万7258人からなる船隊が、朝鮮の巨済島から対馬にむかい、翌20日に対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。
当初、朝鮮軍は対馬の民家1939戸を焼き、多数の日本人住民を虐殺した。しかし、同年26日に仁位郡に進攻した頃から
対馬の伏兵に反撃され、朝鮮軍は2500余人の損害を出した。そして、宗貞盛の撤兵要求を受け入れて7月3日に
巨済島に引き揚げた。

【第2次世界大戦後の侵略】 数十万人の朝鮮人が、アメリカの占領下にある日本へ、不法入国・不法定住。

◆ 倭寇は朝鮮人だった! ◆
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/wa1.html

◆ 日韓歴史問題 2◆
http://mirror.jijisama.org/rekisi2.htm


700 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 22:11:28
>>697
地名はどうよ?
何か扶余の痕跡はあるだろうに…

701 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 22:49:34
>>700
一応狛とつく地名ならあるがどうも高句麗の移民がいたという事らしい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
ただ古くからある地名もあるらしいから一概に高句麗移民とは片付けられないと思うが

702 :白馬青牛:2006/03/04(土) 23:05:02
>>690
古代モンゴル人の烏桓も「父兄死 妻後母 執嫂」と嫂や寡婦相続婚
つまり、息子が父の遺妻を娶る婚姻(ただし実母以外の)があるが、
神武天皇の子の当芸志美美命が異母伊須気余理比売を娶ったこと、
開化天皇が異母の伊迦賀色許売命との婚姻もあり、寡婦相続婚
(widow inheritance)は、我が国にもあった。
>>692
4、5世紀の気候寒冷期に、日本へ流入した人達が少ないとは思えん。
弥生期にも北方要素はあるが、文化的に南方的要素の方が強い。
貫頭衣(ポンチョ)を着た北方民族か?あなたの「北方ポンチョ民族」説
は疑問点が多い。他スレにも「北方ポンチョ民族説」を唱える人が多いが。

703 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 23:44:33
>>702
弥生は全般にポンチョだろうが、
弥生後期に流入してきた人はどうだったかわからないだろう?
明治時代は洋服と和服が混在してたように。

704 :白馬青牛:2006/03/04(土) 23:58:40
>>699
倭寇が、多民族で構成されておったのは、以前にも書いたが、
古代に朝鮮南部を襲った倭人集団も同じくエスニック集団であったろう。
現地人の協力無しには遠征出来ん。新羅人の日本侵攻に手を貸した豪族も
おったろう。貞観8年(866年)肥前国諸郡司の新羅通謀事件や
筑紫の磐井が新羅と組んだように。刀伊の侵攻のおりには、高麗が帰途の
刀伊を襲い日本人を救出し、高麗に渡った長嶺諸近が救出された日本人を
連れて帰国しておる事も書かんと一方的な視点となる。

嫌韓の「日韓歴史問題2」のそれにある、満洲八旗軍はかなり軍紀の正しい
軍隊であったが、盟友のモンゴル軍の朝鮮蹂躙、朝鮮軍が明人を虐殺した
のは、そうであろう。モンゴル人の蛮行は、終戦時満洲で日本人の婦人も
強姦された。朝鮮人と並んでモンゴル人の蛮行も名高いが、それに対し
竹内藤右衛門が『異国物語』で満洲人を「いかにも律儀に候」と誉めて
おるように、満洲族等ツングース系は規律、規範を重んじる。
まあ、刀伊(ツングース系女真)の日本襲来は、高麗(朝鮮)が日本人を
助けたという逆の例である。

705 :日本@名無史さん:2006/03/05(日) 02:38:20
>>704
結局何がいいたいのかわからんな。(笑
モンゴルは乱暴だが満州人は律儀、どっちも中国人にとっては北方の野蛮人だし
ツングースは本来律儀?そーいう民族=○○っていう定義からしてどうなんかねえ。
高麗が日本を助けたとしても、元と一緒になって攻めてきたりしてるしねぇ。
韓国の教科書は恩着せがましく、日本は高麗のおかげで助かった、なんて。
嫌韓流はその内容が正しいとも思わないけど韓国国定教科書や戦後の自虐史観のような、
日本は侵略されたことはないが、したことはたくさんある、というような一方的な歴史観に対する
アンチテーゼとしての意味はそれなりにあると思うよ。

706 :日本@名無史さん:2006/03/05(日) 11:28:05
>>700
地名なら文献の研究から地名に使われる「みつ」「いつ」「とを」などの
数字、「たに」「はけ」などの地形を表す言葉が高句麗語とされるから、
高句麗語と近縁と思われる扶余語は区別がつかない。

707 :YAP?:2006/03/05(日) 13:38:53
「倭寇」の大半が、いわゆる「偽倭」であることは、今更論ずるまでも無い
周知の事実だ。
高麗を襲った倭寇集団の大半は、牛馬の屠殺・皮革の加工・柳器の製作を
生業とする賤民集団である「禾尺(水尺、楊水尺ともいう)」や、仮面芝居
の集団であるやはり異民族視された賤民集団の「才人」、それに半島沿海部の
住民や、済州島民であることは、有名だが、これに「真倭」即ち、いわゆる
「三島」の日本人海賊(水軍)が10〜30%程度参加していたとされている。

まあ、倭寇の話は、騎馬民族説とは無関係な話だから、あとは「扶余」が日本に
「集団」(氏族/部族単位)で移住して来たか否かだが、可能性は少ないだろう。
私には「692」氏のお考えのように、弥生時代草創期〜初期に移住して来た
北方系の民族集団(これが倭人の主流だろう)と、おそらく満洲・ツングース系
民族であると思われる「扶余」の共通の(謂わば北方系の)習俗・言語などの
共通性を、江上氏が誤って後代のものと解釈したのだろうと思われるのだが。

708 :白馬青牛:2006/03/06(月) 00:09:15
>>703
明治期に、洋装が流入したように、在来民が胡服習俗を受け入れたという
ことか?
>>705
あんたは、結局何が言いたいんか。中国人の見解が正しいと言いたいんか?
ツングースが律儀で無いのであれば、違う見解の資料を提示すればよい。
わしは、面による内陸的視点よりも、点と線の海洋的視点で解釈すべきと
言うとるんじゃ。韓国ナショナリズム史観も嫌韓も同類で、日本の江戸期や
李氏朝鮮に影響を与えた朱子学に源流がある江南思想かのう。国粋主義、
排外主義、攘夷思想。こう言うと縄文文明、長江文明至上主義の江南厨氏が
怒るであろうが。
>>707
確かに沿海州流域のポリツェ文化が、弥生文化に影響を与えた部分はある。
しかし、弥生期は、人骨から形質的に渡来型は限定された地方に過ぎず、
縄文在来型が多い。気候寒冷化の世界的民族移動期から4、5世紀の
移民が多いと思う。それ以前の寒冷化世界的民族移動期は、BC1500年
〜1000年の時期になるであろう。北方的要素は4、5世紀以降の
おそらく家畜飼育による疫病、結核菌の流入も含め、北方民族の胡服、
髪型も美豆良(ミズラ)と様々な要素があるが、弥生期の、断髪、ポンチョ
は南方習俗。それ故「北方ポンチョ民族説」には、同意出来ん。

709 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 07:02:09
書紀によれば、素戔嗚尊を迎える天照大~は、
「髪を結び髻(みづら)となし、裳を縛り袴となし…」とあるように、
普段はやらない正装として髻(みづら)があったんじゃないの?
弥生後期にはすでにあったという事だろう。

710 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 07:13:08
総連に相談すれば必要な文書には価値を見出し、不都合な文書は無視して
歴史を変えてくれるよ。

711 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 10:04:26
>>707
弥生人を一概に「北方的」とは言えない。なぜなら魏志倭人伝が倭人を南方的に
描写しており、それを裏付けるように、現在中国の南部国境あたりにいる少数民族が
驚くほど多くの、日本人と一致する文化的特徴を有するからだ。

また日本人の「北方的」特徴には階級性がある。つまり、幕末に日本に来た外人達が
観察したように、支配階級に北方的特徴が多い。これはノルマンコンケストの影響が
残ってイギリスの貴族階級と庶民階級には「体格差」があることを想起させる。

>「扶余」が日本に 「集団」(氏族/部族単位)で移住して来たか否かだが、
>可能性は少ないだろう。

と言っておけば無難だが、扶余の金官と倭との特殊な関係はなにひとつ
説明されない。

>>709
7世紀の日本書紀の編者にとっての「神代」は、3世紀の弥生時代
ではなく、5世紀の古墳時代でしかなかっただろう。

712 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 16:00:22
>>711
まぁ付与が倭を飲み込んだ、と解釈するのも、乱暴な解釈なわけで。

>5世紀の古墳時代でしかなかっただろう。
それも君の憶測でしょ?

713 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 18:40:13
>>711
応神や仁徳の事が書かれてるんだから、
「神代」とは弥生時代後期あたりが相当だろう。

714 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 19:04:52
いや神代とされる説話も、後代の話が付加され話が膨らんでいる。これは意図的か否かに関わらず。伝承はそんなもん。
例えばイザナギイザナミの黄泉の国説話には古墳時代後期の横穴式石室の儀礼が反映されているというのは定説。
神代の話に弥生時代以来の話が含まれていることは必ずしも否定しないが、後代の話も重層化しているというのは常識だと思うが。

715 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 19:06:59
ていうか応神や仁徳ならふつうに古墳時代だが。
大王墓見ろよ。

716 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 19:57:35
>>712 >>713
歴史上の正確な年代のことを言っているのではない。
7世紀に日本書紀を編纂した人はもはや3世紀の弥生時代の風俗なんか知らない。
だから弥生時代に相当すべき「神代」の話をして、登場人物の風俗を描写するのに、
せいぜい5世紀の古墳時代の風俗にさかのぼってしか書けなかっただろう、
だから日本書紀の神代の記述から「弥生後期」にみずらを結っていたとは
言えない、ということを言っているのだ。

ヨーロッパの、アレキサンドル大王の大会戦の絵が、中世の甲冑を着た
騎士の姿で描かれている、あれと同じことだ。

717 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 20:53:31
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/files/itokoku/siryokan/3jyou2-2.JPG

伊都国歴史博物館にある想像の服。
文句はこの博物館までw

718 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 21:13:07
>>711
「イギリスの貴族階級と庶民階級には「体格差」があることを想起させる。」

 貴族階級と庶民階級とでは食糧の量・栄養に差があるので当り前なのでは
なかろうか?



719 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 23:00:07
>>716
扶余の政治は中央に4人の大臣(馬加・牛加・豬加・狗加)と、
3使(犬使者・大使者・使者)があったそうだが、
日本のどこか、あるいは三輪王朝自身と関連付けれるのか?

720 :日本@名無史さん:2006/03/07(火) 09:56:27
>>718
当たり前ではない。今でもスカンジナビア人の平均身長は他のヨーロッパ人より
大きい。
スカンジナビアが特に食糧豊富であるとは言えないだろう。

>>712
>まぁ付与が倭を飲み込んだ、と解釈するのも、乱暴な解釈なわけで。

以前は、扶余が任那を征服したというのも「乱暴な解釈」だった。
私には、河内王朝の臣下が7割まで渡来系なのに大王は土着系、というのが
よほど「乱暴な解釈」に思えるけどね。



721 :日本@名無史さん:2006/03/07(火) 14:06:40
>>720
7割というのはソース不明確なんだが、まぁ在地系を凌駕するくらいはいたかもね。
ただ、一般邑落民を奴僕のように隷属させる習癖のある扶余だから、
征服した在地系を臣下にするとも思えない。
在地系臣下もいたというのは大君が扶余ではない証拠だ。

722 :日本@名無史さん:2006/03/07(火) 19:32:40
>>720
いや、ふつーに、「食ってるものの差」だと思うが・・・。(笑
実際に当時の、イギリスの貴族階級と、庶民階級のそれを、君の言ってる事に当てはめるのはかなり無理があると思うんだが・・・?
何故って、あれは人種の違いなどではなく、産業革命以降平均身長差があっというまに縮まり、今ではまったくわからないほど差が縮まっている、ということが証明してる。
日本人だって、縄文の肉食ってる頃のほうが、弥生期より身長高いよ。

723 :日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:03:19
>>721
>7割というのはソース不明確なんだが、

ソースは前に挙げたので繰り返さない。

>在地系臣下もいたというのは大君が扶余ではない証拠だ。

任那では、非扶余系の周辺任那諸国はある程度の独立性を保ちながら
扶余の金官に服属していた。これと、大和の支配体制とはたいして変わらない。

話は変わるが、河内王朝は自ら簒奪王朝であることを告白しているのも同然だ。
なぜなら倭王武の上表文に、王の先祖が自ら甲冑を貫いて諸国を転戦した、
と書いているからだ。
このような武将的王は、中国・朝鮮の歴史を見ればすべて王朝の始祖である。
漢、唐、明、高麗、李氏朝鮮、みなそうだ。
逆に、いったん文官的あるいは祭祀的になった王朝の王が突然武将的に変身
することはほとんどない。
だから三輪王朝の王が突然変身して武将的な河内王朝の始祖になった、
ということは想像し難いのである。

724 :日本@名無史さん:2006/03/07(火) 22:15:40
倭王・武は、倭の五王最後の雄略と言われてるから、
先祖を応神や仁徳と言ってるのであれば、
何も不思議ではないが?
それより>>719へのレスはまだかな?


725 :日本@名無史さん:2006/03/07(火) 22:30:40
>>723
>このような武将的王は、中国・朝鮮の歴史を見ればすべて王朝の始祖である。
>漢、唐、明、高麗、李氏朝鮮、みなそうだ。

前政権を武力で倒して王になったんだから当たり前。

726 :白馬青牛:2006/03/07(火) 22:57:35
>>722
縄文期は、身長160cmに達しておらんじゃろう。弥生や古墳期の
渡来型は身長160cm以上では。縄文期が弥生期より肉を食うたか
どうか難しい。
縄文期の内陸採集民は、アイソトープ食性分析から草食動物6,5%
魚貝類8,3%植物85,2%で圧倒的にドングリ・クリ・クルミ等の
植物採集に頼っておった。同じ縄文期でも北海道や本土沿岸部の貝塚民は
草食動物や海産物の割合が多くなるが。

727 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:52:53
日本には建武新政や明治維新の例もあるからねえ・・・

728 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 09:31:29
>>724
>先祖を応神や仁徳と言ってるのであれば、
>何も不思議ではないが?

応神が武将であり、三輪王朝を武力で倒して王位についた簒奪者である、
と考えているわけかな?

>それより>>719へのレスはまだかな?

前にも書いたが、簒奪者は以前の制度をそのまま引き継ぐのだ。
だから扶余の政治制度の痕跡があるかどか知らないが、なかった
としてもどうということはない。
満洲族は明の政治制度を役人ごと引き継いだ。満洲族独自のものは八旗制
という軍事組織だけだった。
ちなみに日本の古代には「八」がやたらと幅をきかしているのは面白い。
(これは多分、江上も言っているだろう)

729 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 14:15:15
>>728の上
神武の事かもしれないし、分からない。

>以前の制度をそのまま引き継ぐのだ。

またかw
どこか土地を与えられたのなら、扶余的政治をやればよかろうに。
証明しようがないよ、こんなのは。

730 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 14:51:48
>>729
>神武の事かもしれないし、分からない。

逃げてはいけない。
あなたは、私が河内王朝の祖が武将的王であり、王位簒奪者であると言ったのに対して、
倭王武(=応神)の話をして、「何も不思議ではない」と書いたではないか。
それは、応神が武将的王であって王位簒奪者であるという意味ではないのか。

>>722
>いや、ふつーに、「食ってるものの差」だと思うが・・・。

それなら栄養状態が平均化した現在の先進国の間で、平均身長に差があるのは
なぜか。(例えばノルウェーとイタリヤの間では10cmの差がある。)

731 :YAP?:2006/03/08(水) 15:05:40
体格や身長の問題など、栄養学の影響の方が大きいことはあきらかだ。

問題になっているイギリスの階級と身長の話だが、私の読んだ翻訳物の
ミステリー小説では、「セが低く髪の黒い」方が、「ノルマン風」とされ、
金髪で背の高いほうが「(アングロ・)サクソン風」だと表現してあった。

「ノルマンディー」から来たいわゆるノルマン・フレンチを話していた
征服者集団は、出自は北欧系であったかもしれないが、実態は、ノルマン
ディー公領の被征服民を配下にしたり、或いは混血したりで、みんなの
持っている一般的イメージの「ヴァイキング」の子孫とは形質的に異なって
いたわけだ(いや、実の所、そのミステリを読むまでは私もそう思っていた
)。

あまり、骨の形態に囚われないことだ。
私は、骨の形態による形質人類学的データにはあまり重きを置かないことに
している。
分子遺伝学のほうが確かだろう。

732 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:15:41
>>730
間違えたので訂正する。
誤:(あなたは)倭王武(=応神)の話をして
正:(あなたは)応神、仁徳の話をして

倭王武=雄略とされることは知っているが頭が瞬間的にショートした。

733 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:27:30
>>731
>体格や身長の問題など、栄養学の影響の方が大きいことはあきらかだ。

たしかに、戦後の各国の身長の伸びを見れば、栄養の条件が大きいことは
あきらかだ。日本だって170cm(男)になったのだからね。
しかしその日本が、北欧と同じ180cmにならないのはなぜか、という
質問をしたわけだ。
ちなみに日本は170cmに達した後わずかに下降して、明らかに限界に
達している。

>「セが低く髪の黒い」方が、「ノルマン風」とされ、

その、背が低くて髪が黒い男は貴族だったのかな?
それとも庶民?


734 :YAP?:2006/03/08(水) 15:40:44
733氏へ

>その背の低くて髪が黒い男はきぞくだったのかな?
それとも庶民?

金髪で身長の高い「サクソン風の男」同様、どちらも「庶民」です。

まあ、同じ東アジア系の集団では、おそらく、身長に関しては、大して
遺伝的な相違はなく、むしろ、環境要因が大きいでしょう。
骨に関する遺伝では、頭骨の長さなど計測地などよりも、いわゆる「頭骨
の形態小変異」(百々幸雄氏らが研究)の方が、遺伝的要素が大きいと思います。

735 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 17:52:18
>>732
上表文の先祖が武将的な応神であっても、
半島状勢が混迷し始めた4世紀後半なんで、何も不思議ではない。
神武でもいいけどね。

736 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 19:59:23
>>734
背の低いほうの「ノルマン風」の男が庶民だったのなら、低栄養のため
背が低くなったと考えられるから、もともとは背が高かったのかも
知れない。つまり、フレンチノルマン人は案外に背が低かった、とは
言えないことになる。
背が高いほうの「サクソン風」の男が庶民だったのなら、低栄養にも
かかわらず背が高かったのだから、身長は栄養で決まる、という
あなたの主旨に反することになる。
半分冗談だけどね。

>>735
結局わからない。
応神が王位簒奪者であっても「何も不思議ではない」と解釈してよいのか?

737 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:18:03
>>735
何故、簒奪者という発想になるのかな?
好太王と戦った時代の天皇なんで武人の色彩が強いというだけだと思うが。

738 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:18:52
間違えた、736へのレス

739 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:48:20
>私は、骨の形態による形質人類学的データにはあまり重きを置かないことに
>している。


頭指数や頬骨の高さはどんどん変わってしまうみたいだな。

この百年間で日本人は華北人のような中頭から朝鮮人のような短頭に
なってしまった反面、鼻のラインが凹型にしゃくれた鞍鼻型から鼻根から
鼻先まで真っ直ぐな直鼻型に変わり、身長も13cmほど伸びた。

百年で変わらないのは日本人の約半分を占める一重まぶたの頻度くらい。

九州北部の弥生人骨は顔の扁平と頬骨の突出が強いが、
東進するにつれて顔の扁平と頬骨の突出が弱くなっていく傾向がある。

頭蓋骨だけで弥生人骨の持ち主を華北や江南のシニーデとする骨屋(形質人類学者)
が多いが、当時の中国の主流文化は何も日本には伝わっていないという有り様である。

740 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 23:43:25
>>736
ならチョウセン人や満州人は日本人より身長が高いはずだろう。
実際には平均身長は、あまり変わらない。

741 :日本@名無史さん:2006/03/09(木) 07:07:21
酒の強さは遺伝子で決まる
ttp://www.athome.co.jp/academy/genetic/gen04.html

742 :日本@名無史さん:2006/03/09(木) 14:14:20
>>740
>ならチョウセン人や満州人は日本人より身長が高いはずだろう。

言ってる意味がわからない。もうすこし説明してくれ。

私の言っているのは、栄養状態を大きな要因としながらも、どうにもならない
人種間の差がある、ということだ。
日本人は幕末以来、現在までに15cmくらい延びて170cmに達した。
その間に北欧人も伸びて現在180cm前後だが、今後日本人がさらに伸び
たとしても北欧人に追いつくことは永久に無理、という意味だ。

731 で、背の低いノルマン風と背の高いサキソン風の話が出たが、その話
じたい、サキソン人(すなわちゲルマン人)は背が高い、という人種間の
差の概念を含んでいるのだ。

「ノルマン風」の正体についてはもうすこし議論があると思うので、
また改めて。

743 :日本@名無史さん:2006/03/09(木) 20:45:37
いわゆる「ノルマン」について下記のページがあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Normans

これによると、主にノルウェーから北フランスに来たバイキングたちは、
ローカルな身分の高い女性と結婚した、とあるからここに混血のチャンス
がある。しかしローカルな支配者はフランク/ゲルマンであろうから、
必ずしもこの女性たちが低身長/黒髪の要素であるとは限らない。

さてノルマンコンケストの後、ノルマンの征服者が支配階級として
それまでのアングロサクソンに取って替わった。しかしアングロサクソン
がねばり強く抵抗したので、ノルマンがそれを懐柔する過程で両者は
混血・混淆し、ここにアングロ−ノルマンという新しい支配階級が
生じた。

すなわちイギリスの支配階級を考える場合、それはアングロ−ノルマン
という一つの種族なのであり、この種族の血は大部分、長身の人種から
受け継いだものである。

このような遺伝的な性質に、栄養的な要素が加わったものが、イギリス
の貴族と庶民(人種的には主としてケルト系)との身長差であると考え
られる。

「ノルマン」という英語にはノルマンディ人という意味もある。
背の低い黒髪のノルマン風、とはゴール人とローマ人の混血である
土着ノルマンディ人のことかもしれない。


744 :日本@名無史さん:2006/03/09(木) 20:47:00
いわゆる「ノルマン」について下記のページがあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Normans

これによると、主にノルウェーから北フランスに来たバイキングたちは、
ローカルな身分の高い女性と結婚した、とあるからここに混血のチャンス
がある。しかしローカルな支配者はフランク/ゲルマンであろうから、
必ずしもこの女性たちが低身長/黒髪の要素であるとは限らない。

さてノルマンコンケストの後、ノルマンの征服者が支配階級として
それまでのアングロサクソンに取って替わった。しかしアングロサクソン
がねばり強く抵抗したので、ノルマンがそれを懐柔する過程で両者は
混血・混淆し、ここにアングロ−ノルマンという新しい支配階級が
生じた。

すなわちイギリスの支配階級を考える場合、それはアングロ−ノルマン
という一つの種族なのであり、この種族の血は大部分、長身の人種から
受け継いだものである。

このような遺伝的な性質に、栄養的な要素が加わったものが、イギリス
の貴族と庶民(人種的には主としてケルト系)との身長差であると考え
られる。

「ノルマン」という英語にはノルマンディ人という意味もある。
背の低い黒髪のノルマン風、とはゴール人とローマ人の混血である
土着ノルマンディ人のことかもしれない。

745 :白馬青牛:2006/03/10(金) 02:50:09
形質変化も近代から判断しとるようじゃのう。まあ形質は、環境的要素でも
変わることは否定せんが、遺伝子の分布は、異なる交流の時期か、
型をあらわすんか、遺伝子の単一標識として、どれだけ信憑性があるんか
定かで無い。学説の流行を追うてもねえ。このスレに多い意見であるが、
今はこれがトレンドでするのは、今日の傾向はとトレンド症候群かのう。
しかも古いと言うて、遺伝子を持ち上げ、形質人類学を否定する中華的
排斥思想は如何なものか。多くのデータを集め演繹し構成することが、
学問であるのに骨屋、これは駄目と排斥するようではのう。
しかも他スレで、HLAが弥生人がモンゴル人に近いと妄想する者まで
出て来る始末。モンゴル人と比較する為には、モンゴル人と朝鮮人に
共通するB13ーDR7等、多面的考察をせんといけんのに、単一標識で
捏造する。一標識が近いだけで、モンゴル人と日本人が近い訳でも無い
のに妄想する。ほんま、あきれるわい。

746 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 09:34:34
>>735
好太王と戦った時代の天皇なんで武人の色彩が強いというだけだと思うが。

「何も不思議ではない」の意味がやっとわかった。
するとあなたは、三輪王朝のある大王が、みずから甲冑を着て軍の先頭に
立ち、東北から九州まで転戦したばかりか、海峡を渡って朝鮮半島で
戦った(渡りて海北を平らぐること・・國)と考えているわけか?

747 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 09:51:13
>>746
いーや、そうではない。
明治天皇=長州の武士であったというスレが、この板にあったが、
応神もそんな感じだったと思ってる。
神功皇后の第4子ということだが、実際は養子かなにかではないだろうか。
半島情勢が混迷してきた大変な時期に、頼りない3人の子に皇位を継がせれなかった。
で、九州の豪族から武人の養子をもらったんじゃないかと思ってる。
その豪族とは、例の那珂八幡古墳〜老司古墳まで続いてた福岡平野の一族だと思う。
で九州系の天皇が続いていくのだが、やがてそれも途絶える。
実際、越前系の継体天皇の時、磐井の乱が起きてるね。
それが証拠なんだ。
残念ながら扶余なんて全然関係ないと思ってる。




748 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 10:04:15
>>747
> 神功皇后の第4子

第1子だろ?

749 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 11:41:25
応神天皇は神功皇后の第2子です。第1子は誉屋別命で夭折しております。

750 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 13:20:25
>>748


>>749


751 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 13:28:22
>>747
血のつながらない養子だとすると、天皇家はそこで万世一系が切れている
ことになるが、天皇家が養子によって続いた例は他にあるのかな。
実子が頼りないから養子というのは、なんか戦国大名みたいな気がするが。

それよりもその豪族その人が国内統一および朝鮮経営をまかされた武将であり、
その人が実力で大王位を乗っ取った、と考えたほうがわかりやすいと思うが。

752 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 19:19:16
俺は第4子だと思ってたんだが。まぁいいやw

>>751
万世一系が切れてる事にはならないと思う。
天皇の后は各豪族から沢山来ていたし、
男系が神武に繋がる人物はかなり居たと思う。
応神天皇も継体天皇も、男系に繋がる人物だったと思う。

753 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 20:29:29
仲哀天皇にとって、第4子です。
カゴサカ、オシクマ、ホムヤワケ、ホムタワケ。

754 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:25:08
>>752
で、朝鮮半島に渡って戦ったのはその養子天皇か、それともその実父の
九州豪族か、どちらと考えるのだろう?

755 :日本@名無史さん:2006/03/10(金) 23:18:24
>>754
それは分からないが、老司古墳の埋葬者と応神天皇は、
兄弟か親子か、極めて近い関係だったと思う。

で以前、ググってた時に見つけたのだが、
老司古墳の馬具と同じ物が仁徳天皇陵の陪塚からも発見されてるらしい。
そのHPがなかなか見つからないので、また見つけたら紹介するけど…
もしそうだとしたら、河内王朝は筑紫勢力が打ち立てた事を証明してる事になると思う。

756 :日本@名無史さん:2006/03/11(土) 09:05:15
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/fileHomudawake.html
朝鮮半島南部洛東江岸の古伽耶地方の
五世紀末から六世紀初頭とされている古墳(慶尚南道昌寧郡松山見洞古墳群7号墳)に
不知火海産のクスノキ製くりぬき式船形木棺が見つかった。
古伽耶地方の五世紀前半には倭王国応神王朝の隼人軍団の残した高霊池山洞古墳群がある。
民俗学によるとると葬制は最も変化しにくい習俗であるという。
わざわざ母国の不知火海からクスノキを取り寄せ木棺を作成しているのである

757 :日本@名無史さん:2006/03/11(土) 14:22:21
扶余が戦闘民族だとはよく聞くが性格な温厚な扶余が戦闘民族とは思えないが
扶余は戦闘には強いが戦闘は好まない民族というのが正解では?
むしろ倭人の方が戦闘民族のような気がするが。呉越時代に楚とガチで戦ってきた
倭人が扶余に負けるとはとても思えん。やはり扶余が倭の臣下に入り豪族と
なったんだろう。実際満州族も後金までは明や朝鮮に朝貢していたという話もあるしな
扶余を臣下に入れて騎馬技術を手に入れたのが実情だろう
江上氏も雑誌名は忘れたが倭韓邪馬台連合王国を提唱して騎馬民族征服論を修正した
(韓とは扶余族のことだろう)
その際倭人と扶余の数々の風習は統廃合していったのではないかと思うのだが
ついでに言うと倭国大乱で倭人が乱を止めるために中立系の
扶余系の王を大王=天皇にしたのかもしれないな

758 :日本@名無史さん:2006/03/11(土) 19:55:43
>>755
わからない、ということなので、養子王の実父の業績であったとしよう。
倭王武はその実父の何代か後の人である。いかに血がつながっている
とは言え、何代も前の親戚が「臣下」としてなした業績を、「祖でい自ら
甲冑を貫き」と、王朝のこととして誇るだろうか。
なんだかおかしい。

それなら養子王本人の業績か。その場合、武将の子というだけで、まだ業績を
上げていない養子が、三輪王朝の王子として育つのである。「いったん祭祀的に
なった王朝の王が突然変異して武将的王になるのか」という疑問は彼にもあて
はまることになる。

九州の武将的豪族を持ち出すのなら、その豪族本人が大王位を簒奪した、と考え
てはなぜいけないのだろうか。
豪族による簒奪があり得たことは神武記が語っている。

759 :日本@名無史さん:2006/03/11(土) 20:12:54
>>756
>倭王国応神王朝の隼人軍団の残した高霊池山洞古墳群がある。

ページを読んでみたがなんの根拠も示されてない。
頚甲は金官の初期の古墳からも出る、起源の古いものである。

>>757
> ついでに言うと倭国大乱で倭人が乱を止めるために中立系の
>扶余系の王を大王=天皇に

倭国大乱は時代が古すぎる。私は、三輪王朝というのは、中華が崩壊して
権威が存在しなくなったために、みずから権威を作り出そうとしたのでは
ないかと思う。だから適当な勢力をトップにして、武力によらず平和的に
あるいは合議によって、政権が作られたのではないか。
そしてそのような性格の政権であればこそ、ある程度の国際性があった
のではないか。権威がなくなって困るのは半島とて同じだから。
楽浪郡の滅亡は三輪王朝成立よりすこし後だが、その前から有名無実に
なっていたのだろう。

760 :日本@名無史さん:2006/03/11(土) 23:15:12
老司古墳の馬具とされたものは最近は馬具とは別のものとされる。
また老司古墳の横口式石室が畿内に採用されていない。

761 :日本@名無史さん:2006/03/11(土) 23:17:05
高霊の古墳の墳丘や石室のあり方は日本の古墳とかなり違うが。何を根拠にそんな妄想をw

762 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 00:02:22
>>760
>横口式石室が畿内に採用されていない。

そうだね。
竪穴横口式石室はむしろ日本の九州が半島より早いとも言えるらしいね。


763 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 00:11:18
>>758
簒奪という言葉にこだわるのならそれでもいいんだけど。
神功皇后が九州で産んだというのはうそ臭い。
九州勢力にに代替わりしたのをごまかした感じだな。


764 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 00:29:30
>>762
漢城期百済には少なくとも4世紀中頃に横穴式石室があるから北部九州より若干早く、高句麗には楽浪からの影響でさらに前からあるが。
老司や鋤崎は漢城期百済の影響というのが有力説。
伽耶地域の影響という説もあるが、伽耶は北部九州と出現時期があまり変わらないので難しいかと。

765 :白馬青牛:2006/03/12(日) 00:32:52
>>757
扶余が温厚というのは、漢人側から視てのことじゃろう。対立した民族より
良く書くのは当然といえる。扶余も漢の朝貢国であったが、王侯でないと
用いることが出来ん玉匣を扶余の王が用いたのは、相当の実力があったと
江上氏は言われたが。弥生時代の隷属奴隷民の倭の玉壁と違う。
扶余、玉匣>倭、玉壁であろう。
呉越時代に楚とガチで戦っきた倭人の戦闘はあったんか?
まあ、軟弱な呉越では、明清時代においても武勲を持つ苗族系と思われる
焼畑狩猟民の楚(華北から南下した三苗?)にやられるのは仕方ない。

766 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 01:08:47
>>764
>伽耶は北部九州と出現時期があまり変わらないので難しいかと。
http://hb3.seikyou.ne.jp/home/Hideo.Yoshii/gyouseki/miyazaki02.html

洛東江流域においては、新羅の王都である慶州や大加耶の王都である高霊などでは、
6世紀にならないと横穴系墓室は出現しない。
この地域において最初に出現する確実な横穴系墓室は、
尚州や昌寧といった洛東江沿岸地域に現れる、竪穴系横口式石室である。

767 :白馬青牛:2006/03/12(日) 01:13:51
>>1
に、このサイトも付け加えると良いと思う。
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub19.html
学会では、絶対に口にできないとか、日本の学会の捏造、封建的体質等、
本音過ぎて危い話があるが。騎馬民族説のみならず、意見に同意か否か
別として、参考となる部分が多いと思う。

768 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 01:14:30
その竪穴系横口石室は老司などと似た構造。古いものは5世紀初めくらいだから北部九州とあまり変わらない。

769 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 01:40:32
申教授は金海木郭墓で数人の殉死が確認されたと言ってなかったけ?
同じ墓の内部に埋葬するのだから近親者という事だろうな。

そういう風習は日本にあったのか?
日本でも垂仁天皇の時代に殉死をやめさせて、
代わりに埴輪になったとされてるけども、
そういうのは当然奴婢を、内部でなく外に殉死させたのだろうから、
扶余とは意味が違うだろう。

で、こういう質問すれば、また「制度をそのまま引き継いだ」となるのだろうけどw

770 :YAP?:2006/03/12(日) 11:58:27
745白馬青牛氏へ

何か誤解があるようだが、私は「形質人類学(自然人類学)」を否定しているわけではない。
ただ、頭骨のいろいろな指数(長頭、中頭、担頭とか)などは、「遺伝」の影響よりも環境要因の
影響を受けやすく(身長もだが)、それを根拠として、「○○から出土した人骨が、縄文系だ、とか
或いは「弥生系」だとかいうデータは鵜呑みにするなと言いたいだけだ。

勿論、頭骨の形態小変異の遺伝性は認めている。
私の学生時代の骨学で暗記させられた骨の印象からして、ぱっと身で、良くあそこまで
断言できるな〜という印象が尾を引いているのかも知れないが。

HLAハプロタイプについては、同じハプロタイプを持つ人同士は確実な同祖関係にあるということが
言える。勿論、ある民族集団〜部族・氏族のHLA構成が100%同一だということはありえない。
そもそも、HLAシステムは、免疫系の重要な部分であり、疾病感受性と密接に関連しており、同じ
HLAばかりの集団だと、何かepidemicな状況が生じた場合、部族が全滅することになるからだ。
本来、HLAハプロタイプは、どの集団でも複数複数存在するのであり、あるHLAハプロタイプが
「100%」などという集団は、まあ、氏族や部族ではなく「大家族」のレヴェルでも存在困難だ。
しかし、遺伝的浮動や、環境などの淘汰圧の結果、あるHLAハプロタイプの頻度が、「高く」なった場合、
それは当然、それを高頻度に有していた集団の移住経路や、各民族/部族間の分岐・形成の資料として
使用できるのは、Gm型やmtDNA、ALDH2型欠損型遺伝子(いわゆる下戸遺伝子)、Y染色体DNA
や最近面白いデータの出始めたASPM、microcephalinなどのハプロタイプなどのデータと同様だ。

771 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:16:04
支持。

弥生期の渡来人がモンゴル人に近いというのは妄想などではない。

弥生期の渡来人が拡散したのは西日本。

その西日本とモンゴルの最大頻度のHLAハプロタイプが一致するのは事実である。

これは弥生期の渡来人の末裔である西日本人とモンゴル人が
同じ祖先を高頻度で共有しているという事に他ならない。

772 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:22:30
>>769
日本に殉死がなかったかとは一概に言えない。
1)かんじんの5世紀の大型古墳はほとんど発掘されていない。
2)発掘された古墳の中に複数の人骨が出たものがある。これは前後して
亡くなった人を同じ施設を利用して葬ったのだと説明されているが果たして
そうか。
3)陪塚の問題がある。例えば岡山の造山古墳には6基の陪塚があるが、これを
殉葬と見る向きもある。下記ページ参照。
http://park15.wakwak.com/~takamatsu/kankou/tukuriyamakofun.htm
ちなみに金官の木郭墓は、一つの郭に被葬者と殉死者が入るのもあるが、主としては
。の字型に、別に殉死者用の副郭を作るのである。これを前方後円墳に翻訳すれば
陪塚である、と見ることもできる。
4)殉死は風習の問題、精神の問題でもある。日本には「追い腹」という言葉が
あるように、江戸時代に至るまで家臣の殉死の風習があった。そして明治時代の
終わりに世界を驚かせた乃木将軍の殉死がその最後のものであった。

773 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:32:56
>>763
>簒奪という言葉にこだわるのならそれでもいいんだけど。

その通り。武の上表文を見るかぎり、河内王朝は簒奪王朝であると
見るのがもっとも自然なのだ。学者を含めて、上表文をこのように
捉えているのをあまり見かけないが、不思議だ。

>神功皇后が九州で産んだというのはうそ臭い。
>九州勢力にに代替わりしたのをごまかした感じだな。

うそ臭い、ごまかし、というのは私も賛成。
簒奪の主体はだれかを別にすればね。

774 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:40:43
5世紀の大型古墳って天皇陵指定以外はかなり調査してるけどな。

775 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 21:33:02
>>772
>これは前後して亡くなった人を同じ施設を利用して葬ったのだと
>説明されているが果たしてそうか。

竪穴横口式石室は「追葬」が出来るように考えられたものらしいがなぁ、
実際どうなんだろうか…



776 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 22:03:00
津堂城山からは九州臭や騎馬臭が全然感じ取れんぞ。

777 :白馬青牛:2006/03/12(日) 23:24:01
>>770
いろいろな指数とは、頭長幅示数のことか?上顔示数も無視は無視か?
○○から出土した人骨が、縄文系だ、とかあるいは「弥生系」だとか
いうデータを鵜呑みにする?
鵜呑みにしとるんは「北方ポンチョ厨」の方であろう。
弥生人が北方民族であると妄想する。土井ヶ浜人骨は北方形質であるが、
抜歯であり南方系習俗。抜歯の北方民族とはねえ。出来るだけ北方民族の
渡来を早めたい工作活動と思えるが。
http://www5ocn.ne.jp/~vorges/sub13.html
に抜歯のことも出ておるが、越文化圏に属する北方民族か?
弥生人は、漢人の奴隷民であり、越文化人であったことに違いない。
北方要素が強くなるのは、古墳期からであろう。

778 :白馬青牛:2006/03/12(日) 23:32:10
http://www5ocn.ne.jp/~vorges/sub13.html
で出んのか?

779 :白馬青牛:2006/03/13(月) 00:05:23
どうも解らん。>767の抜歯について、補充の議論に出ておる。
HLAについては、
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
に、B52−DR15は、1200年前〜800年前とあるが、朝鮮で
賤民視された連中がもたらしたのであろうか。4,5世紀古墳期も考慮する
必要はあるが、弥生期にまで遡るは難しいと思う。
>771のようなB13−DR7の韓国人とモンゴル人の関連を無視して、
モンゴル人と日本人が近いと妄想する者が出てくる。しかも弥生人が
もたらしたという根拠は何処にあるんか?モンゴル最大の頻度かは知らん
が、徳永氏が韓国人よりもモンゴル人に近いと発言したことはあったんか?
韓国人と日本人の方が近いとされた物を読んだことはあるが、モンゴル人と
近いと言う徳永氏の意見を知りたいもんじゃ。しかも、それが弥生期と言う
ておられたんか?


780 :白馬青牛:2006/03/13(月) 00:15:34
抜歯について、議論の補充は、
http://www5.con.ne.jp/~vorges/index.html
の縄文遠望にあるが、出るかのう?パソコンは使い慣れておらんので
解らん。

781 :白馬青牛:2006/03/13(月) 00:22:36
解らん
http://www5.ocn.ne.jp/^vorges/index.html
かいのう。

782 :白馬青牛:2006/03/13(月) 00:41:03
結局わしは、パソコンを使う能力が無いのでよう解らん。
>767では、戻るから調べると出ておるようじゃし、そこから考慮して
貰いたい。
要は、「弥生ポンチョ歯抜け厨」の北方民族説に同意出来んと言うこと
じゃ。弥生文化は、蛇信仰の越文化であり、南方民族的要素の方が強い。

783 :日本@名無史さん:2006/03/13(月) 10:08:59
>>774
天皇陵が問題ではないか。それに造山の本体も発掘されてない。

784 :日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:25:36
広島牛ちゃん、これかい?

ttp://www5.ocn.ne.jp/~vorges/index.html

コピペすればいいんだよ

785 :日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:41:42
天皇陵を発掘したとして何か凄い物が出るのだろうか?

786 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 03:00:36
現代の価値観で言う財宝類は期待できないよね
金銅装物やガラス製品くらいか?
象嵌とか碑文とかの文字資料が出たら凄い。

787 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 05:38:22
天皇陵も盗掘で内容分かっているの多いが
また天皇陵になってもおかしくない大型古墳でなぜか指定が外れているのもあり調査されてたりする

788 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 05:43:59
天皇陵だからといってあんまし替わらないってことか

789 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 05:54:40
津堂城山からは九州臭や騎馬臭が全然感じ取れんぜ。

790 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 07:52:58
>>789
素環頭刀身や三角板革綴式短甲をどう見るかだな。

791 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 11:46:12
韓・日・モンゴルの共通のルーツは「ジュシン族」

ttp://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2006031426408

ルーツってのはいい杉だが当たってないこともない




792 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 15:27:10
扶余が温厚な農業民族になりそうなので、原点である晋書東夷伝扶余条にもどって、
共通認識を作っておこう。

「夫餘國在玄菟北千餘里、南接鮮卑、北有弱水、地方二千里、戸八萬、有城邑宮室、地宜五穀。
其人強勇、會同揖讓之儀有似中國。其出使、乃衣錦kei[冠网厂垂中偏炎旁右剣]、以金銀飾腰。
其法、殺人者死、沒入其家;盜者一責十二;男女淫、婦人妬、皆殺之。若有軍事、殺牛祭天、
以其蹄占吉凶、蹄解者爲凶、合者爲吉。死者以生人殉葬、有椁無棺。其居喪、男女皆衣純白、
婦人著布面衣、去玉佩。出善馬及貂[豸内]、美珠、珠大如酸棗。其國殷富、自先世以來、
未嘗被破。其王印文稱「穢王之印」。國中有古穢城、本穢貊之城也。」

793 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 15:32:44
扶余国は玄菟の北、千里あまりにあり、南は鮮卑と接し、北に弱水がある。その地
は二千里四方で、人口は八万戸、城市や王宮があり、土地は五穀が取れる。人性は
強勇である。会合の席で揖讓之儀があるのは中国と似ている。使節として外国に
行く時は錦の衣を着て金銀で腰を飾る。(魏書:国内では白い衣袴を着ている。)
その法律は、人を殺せば死刑で、家を没収する。(魏書:家人を奴婢にする。)
一を盗めば十二を返さなければならない。男女の不品行や婦人の嫉妬は皆死刑で
ある。戦争があると、牛を殺して天に祭り、その蹄で吉凶を占う。死者があると
生きている人を殉葬する。郭はあるが棺はない。喪中は男女とも白衣を着て婦人
は被りものをし、飾りをつけない。良馬および貂を算する。また美しい宝石を
産し、大きいものは棗の如くである。(魏書:弓矢刀矛を兵器とし、各戸が自ら
鎧や武器を持っている。)その國は豊かであり、先世以來、敗れたことがない。
その王の印は「穢王之印」と称する。国内に古穢城がある。もと穢貊人の城だった
ものである。」

794 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:08:17
>>793
全然日本人と似てないね。

795 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:44:36
>>793
全然近畿人と似てないね。

796 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:20:20
「日本人」や「近畿人」は古代人に似てるのか?

797 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:36:09
>>779
HLAは時間まで割り出せない。

それはただ単に徳永の創作。

あてにしないように。

AFOの科学博物館の餌食にならんように。

798 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:53:57
結局、応神天皇という人物がキーになると思うのだが、
俺はもちろん応神天皇は倭人だと思う。
が、もし応神に何ほどか渡来系の空気があるとしたら、
それは扶余というより、弓月の君・秦氏だな。
応神天皇自身が八幡神に疑せられたりしてるし。

799 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 21:59:07
>>782
>土井ヶ浜人骨は北方形質であるが、抜歯であり南方系習俗。
>抜歯の北方民族とはねえ。


抜歯は縄文文化だろが。


>弥生文化は、蛇信仰の越文化であり、南方民族的要素の方が強い。
>弥生人は、漢人の奴隷民であり、越文化人であったことに違いない。


遠賀川式土器や支石墓や金文の無い青銅器の
一体どこが越の文化なのかね?

君騙されたまま棺桶に入る事なかれ。

800 :白馬青牛:2006/03/14(火) 23:17:56
>>784
有難う。しかしコピぺする方法はよう解らん。
>>797799
ほいじゃあ、何で弥生期をあてにするんか?
抜歯は弥生人も同じ。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/236.html
北方民族の抜歯とは何か?そういう習慣が、山東よりも北のモンゴルや
ツングースにあったんか?土器等の影響は、沿海州や朝鮮から影響を
受けておるが、精神文化が江南系越系であることは、否定し難い。
誰が騙されとるんか?騙したいんは、日本の起源を少しでも早めたいと
言う、縄文や長江文明至上主義と変わらん、漢人の奴隷民である弥生人
「北方ポンチョ、歯抜け厨」の方ではないか。

801 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:28:20
>広島牛ちゃん
コピー&ペーストで検索

縄文遠望
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/index.html

802 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:33:24
>>800
君、抜歯文化が縄文中期から始まった事も知らんのかね?

逆に君がモンゴルに渡ったら、馬に乗らんのかね?
君の子孫は馬に乗らんのかね?

803 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:24:03
それに当時の江南の文化は既に灰釉陶、つまり原始磁器文化だ。
既に土器じゃない。磁器だ。

BC10Cに弥生時代が始まるが、それよりかなり前のBC15〜BC16C頃には
既に華南まで原始磁器文化である事が分かっている。

804 :白馬青牛:2006/03/15(水) 01:08:06
>>801
有難う。そのサイトは、参考になる。
>>802
はあ?玦状耳飾等、縄文中期に江南文化は濃厚であるが。
満洲から新疆へ屯田兵として移住したシボ族は遊牧生活をしておらんど。

805 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:20:27
耳飾など何処でも同じとも言えるし、琉球経由で運ばれてきた
とも考えられる。

そろそろ江南中毒から抜け出したらどうかね?

遊牧生活なんかするは必要ない。
遊牧生活なんかしてないモンゴル人がほとんどなんだから。

しかし、何度かでも蒙古馬に乗らんのかと言っているだけだよ。

806 :白馬青牛:2006/03/15(水) 02:11:44
>>805
玦状耳飾の分布、抜歯の分布から明らかな事を今更。
江南中毒?わしは、安田善憲氏のような、縄文、長江文明賛美者ではない。
http://www.nihonkaigaku.org/9_f/i9906/ts.html
のように、羌系のスキタイ系要素が強いテン国を長江文明に結びつけたり、
焼畑狩猟民の苗と結びつける等強引な所がある。江沢民氏は江南稲作地帯の
中華文明朱子学の中心地江蘇省出身であるのに、牧畜文化の漢民族と強調
したり、その西洋人と漢人が自然破壊者と断言しておられる。
東南アジアの奴隷狩りのひどさは考慮外と言うことか。
安田氏は縄文文化の賛美者でもあり、縄文を理想郷のように崇拝して
おられるが、縄文社会の実際は・・・。
遊牧生活なんかしてないモンゴル人がほとんど?何時の時代か?
モンゴル系ポンチョ抜歯民族?そがいな存在は知らん。


807 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 03:59:58
>>796
>「日本人」や「近畿人」は古代人に似てるのか?

近畿人だが、こういうサイトを見ると
精神(感性)的な部分は似てるし、今でも理解できますね。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ama-top.htm

牛を殺してどうこうの扶余なんてとてもとても・・・
むしろ、そういうのは穢れてる感じがしますね。


808 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 13:15:05
>>794 >>795 >>807
晋書東夷伝扶余条を載せたのは、扶余がおとなしい農耕民族であったという
イメージを与えようとする向きがあるので、同時代の中国人の見方はそう
ではなかった、ということを示したのだ。

だから似てる似てないの論議は筋違いだが、あえて言うならば、3世紀の
扶余が現代の日本人に似ていないことが扶余が日本に来ていないことの
根拠になるのなら、16世紀の満洲族は現代の中国人に似ていないのだ
から、満洲族による中国征服はなかったことになる。

さらに言えば、扶余伝に描写されたような習俗がそのまま日本に
持ち込まれたとは限らない。なぜならイギリスを征服したノルマンが、
すでにフランス語をアイデンティティとするほどにフランス化していた
ように、扶余もまた、征服した倭系の狗耶韓国人に影響されて「倭化」
していた可能性があるからだ。
しかし「白い衣袴」というのは古墳時代を思わせるね。

>牛を殺してどうこうの扶余なんてとてもとても・・・

日本だって古代には鹿の肩胛骨で占ったではないか。
とにかく現代の感覚で考えてもだめ。

809 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 14:27:51
>>808
どっちにしても文献史学的にも考古学的にも扶余というのは薄い。

面白いのは>>766氏の言う、
>尚州や昌寧といった洛東江沿岸地域に現れる、竪穴系横口式石室
だが、老司とほぼ同じ時期に伽耶に現れると言う事は、
老司の例を見ても言えるように倭人の墓である可能性が高いと思うが。
扶余は相変わらず地下に木郭墓を作ってたんだから、
扶余と倭人の相違がくっきりと見られるわけだが。

810 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:08:44
>扶余の王家は5世紀初頭まで伽耶の地にあり続けた。


ありえない(W
5世紀は、任那は日本領土だ。




811 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:14:59
その根拠は?




812 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 20:05:41
任那なんてなかったんだよ。

813 :白馬青牛:2006/03/16(木) 00:30:05
>>808
扶余と古代日本は兎も角、日本人とツングース系は、精神的にも
似ておると思う。肉や魚を生で食う刺身習慣も東北アジア地帯の習慣で
あるし。江南以南になると、刺身よりも米飯の乳酸醗酵を利用した
「馴れずし」の方が発達しておる。苗、壮族等。これも日本に文化流入
しとる保存食文化。
牛を食べる祭りも、江南以南の苗族やタイ系のマオナン(毛難)族等、
東南アジアにもある。満洲中部以東の東北アジアと東南アジアは、共に
川が「河」でなく、「江」の地帯で水上漁撈民文化要素が強いと言えよう。
満洲、沿海州地方の挹婁も騎馬よりも海賊の要素が強かった。

814 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 18:21:04
【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。


815 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:18:40
全く根拠のない妄説だな
くだらないコピペだ

4世紀の百済に倭の影響なんかないが

あったら出してみろ
また風納土城などの調査から3世紀後半には百済は成立してますが何か

816 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:23:27
成立してません。
西韓(ニシカラ)諸国はあったけど。






817 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:24:14
【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。


818 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:24:40
根拠を出せ。


藻前の脳内かw

819 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:26:42
西韓=任那

だな。

東韓はシラキ(志良岐)だけどな。




820 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:27:37
風納土城において遺構の断絶や突然外来勢力が大挙来た痕跡はない。
また百済は3世紀に伯済国として中国史書にすでに見える。

821 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:28:34
3世紀以前は、半島南部の国は、この二ヶ国だけだろう。











822 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:28:37
>>819

根拠、文献典拠を出せ

823 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:29:56
>>821
東夷伝読んだことあるか?

824 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:30:18
伯済国=狛済国

だな。

4世紀に誕生した国。




825 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:32:47
3世紀にあるが。
文献的にも考古学的にも確実だ。

相当な電波だな藻前は

826 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:34:13
こういうAFOを相手にすると疲れるわ

827 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:55:08
西韓=任那
だな。
東韓はシラキ(志良岐)だけどな。

3世紀以前は、半島南部の国は、この二ヶ国だけだろう。



828 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:59:42
またコピペかw
東夷伝読んだことあるか?

西韓とか東韓とか文献典拠出せ

829 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:15:01
>>809
ページを読んでみたが、著者の言いたいことは、半島南部と九州の横穴式
石室の発生には系統的なものがない、というところにあるようだ。つまり
横穴式石室のもとは楽浪郡にあるが、それを楽浪郡の滅亡後に、各地の
集団がそれぞれのやり方で受容した、ということだ。

具体的に老司と尚州(洛東江上流)を較べると、(尚州の資料が少ないが
その範囲で言えば):

老司古墳の石室の作り方は、薄くて平たい石を積み重ねて竪穴の壁を作る
という、特殊で原始的な作り方だが、尚州のはこれと同じなのか。

尚州の横穴式石室は、それまでの「長大な石郭」という特徴を保ちながら
これに横穴をつけ加えるという、前段階からのつながりが見られる。
つまりとつぜん発生したものではない。これに対して老司の前段階は
わからないが、少なくとも石室は長大ではない。

尚州の横穴式石室は垂直方向で墳丘の下にあり、これはこの地域の一般的な
特徴だと言う。老司の場合はよくわからないが、この比較的大型の前方後円墳
の発掘写真で上から全体が見えるように撮ってあるから、恐らく墳丘の表面
近くにあるのだろう。

このように多くの違いがあると思われるから、九州の倭人が尚州のあたりに
定住した(墓を築くということは定住したということであろう)証拠であると
いうことは困難だろう。

830 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:24:31
>>828
分かったか?





831 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:26:18
年代的には楽浪直接ではなく漢城百済を経由とすべき。
また老司は日本の竪穴石室の作り方に横口をつけた。韓半島の石室を模倣したもの。

832 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:27:46
>>830はスルー

833 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:06:21
文献的には応神天皇は九州ということなのだが、
俺が応神天皇と関係が深いと見た老司古墳のような、
竪穴系横口式石室は近畿では丹波あたりに多く見られるようだな。
応神と老司古墳は関係ないのかな。
もっとも天皇陵は発掘されてないんで何とも言えないけど。


834 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:14:54
丹波のは少し新しい。
天皇陵に準じる中期古墳で内容が分かるものもあるが、横口式はない。
また応神は九州で生まれただけで、実際は畿内大王家の継承争いに過ぎない

835 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:46:16
俺は堺の百舌鳥で育ったんだが、
子供の時、俺たち地元民が「にさんだ」と呼んでた、
百舌鳥ニサンザイ古墳の墳丘に入った事がある。
この古墳は最近、二重目の堀が発見されて、
天皇陵にされてもおかしくないほど巨大で立派な古墳だ。
実際、堀を長年管理してきた地元の旧家には、
この古墳は反正天皇陵という伝承があるらしい。
俺が入った時だが、後円部の山頂が丸くゆるやかに窪んでたのを覚えてる。
まぁ竪穴式だろうな。


836 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 10:09:44
百舌鳥古墳群も含む河内平野の巨大古墳の数と、
天皇の数が見事に合わないね?w
一人の天皇がいくつかの古墳を作ったという事だろうか?


837 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 12:43:28
大王一族の王子や大豪族の娘で王妃が作ってる。伝承ではそうだし、実際そうだろう


838 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 16:20:03
>>836
大王陵は大体合うのでは? 
系譜や被葬者が伝承どおり正しいかは別として。
・古市古墳群……津堂城山・仲津山・誉田山・市野山・岡ミサンザイ
         (ヤマトタケル・仲哀・応神・允恭・雄略)
・百舌鳥古墳群……石津丘・大仙・土師ニサンザイ
         (仁徳・履中・反正)
・古市後期120m規模の古墳……ボケ山・白髪山・高屋築山
                 (清寧・仁賢・安閑)


839 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 16:31:12
手塚治虫は「騎馬民族征服王朝」を信じていたんだよね?
今さらだが。

840 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:27:49
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。


841 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:34:01
妄想乙!

842 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 19:45:26
>>838
百舌鳥古墳群は正式な反正天皇陵というのがあるんで、
伝承で反正と言われる土師ニサンザイとどっちが本物?となってるw
あと、地元で「ごべい」と呼んでる御廟山(ごびょうやま)古墳もあるけど、
これもかなりでかい。

843 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 19:51:43
>>839
「火の鳥」だっけ?

844 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:23:39
>>843

そう。ニニギと名乗る騎馬民族の長が、邪馬台国を滅ぼしてしまうんだ。


845 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:42:53
支配者がいれば、必然的に被差別者もできるわけだが、
日本では四足の動物に関わる人たちが、
基本的に肉食を好まない人たちに差別されてきた感じだね。

最終的に天孫・北方民族(肉食)が、皇位も神話も乗っ取られる形で海洋民に支配されたのかなぁ。
記紀に皇室は日向出身と書かれてる事や、
さらに日本の差別のあり方をみればそんな感じがする。


846 :白馬青牛:2006/03/17(金) 23:50:13
>>845
日本だけでなく、朝鮮や更に牧畜を生業としておるチベットでも、
四足動物を解体する人達の身分は低いよ。
中国では、海上の船で生活する人達は、賤民視されておったのでは。
北方民族のが全て肉食?かのう。海洋民というのも曖昧で、
ツングース系漁撈民のことか、韓人の漁撈民か、江南〜山東の漁撈民の
ことか解らんのじゃが。

847 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:50:31
>>844
30年、40年前は江上説に考古学的な反論ができない状況だったみたいだね。

848 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:13:02
>>846
>海洋民というのも曖昧で、
>ツングース系漁撈民のことか、韓人の漁撈民か、江南〜山東の漁撈民の
>ことか解らんのじゃが。

記紀のとおり、皇室の祖地が日向なら、
沖縄・奄美・南九州の太平洋海洋民でなないでしょうか?
ツングース系漁撈民は主に日本海側だと思いますが。

849 :白馬青牛:2006/03/18(土) 00:57:49
>>848
日向の西都原古墳出土の埴輪の半構造船からは、いわゆる越文化的
大型構造船を想定出来るかどうかです。記述にも、江南の越のように
船自体を武器とした楼船・戈船等の文化があったとは思えません。
江南から来たとしても、太平洋の漂流ルートでなく、魏志倭人伝のルート
山東・朝鮮経由の方が説得力があると思いますが。
瀬戸内の大三島、大山積の神は、百済から渡って来た神であり、
ツングース系あるいは韓人系もおったでしょう。更に江南系が
おったかも知れません。
日本海側は、北陸の越のように縄文期から玦状耳飾等江南系文化が流入
しており、古くから交流のあった地方もあるでしょう。
つまり、朝鮮南端で様々要素が複合的に流入したと思えるのです。
食文化では、東北アジア〜アラスカ・カナダの原住民に至る、
北方的「刺身文化」と南方的「馴れズシ」等の魚を醗酵させる保存文化の
融合があったと思うのですが。

850 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:19:11
日本にきた天孫民族は、もとを辿れば百済と同民族。
だから仲がよかったんだね。新羅は敵。

851 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:24:41
秦氏が全国の八幡神社の元宮である宇佐八幡宮や、
同じく稲荷神社の元である伏見稲荷、
そして伊勢神宮の創建にも関わってる事を考えれば、
今の神道という宗教自体が秦氏によって創られた感じだな。

被差別の話は神道の「穢れ」という概念抜きには語れないと思うのだが、
(もちろん、後の仏教の「殺生」もある)
応神天皇が江上さんの言うように扶余であったとしたら、
俺には感覚的に合わないな。
むしろ、応神以前に天孫(騎馬民族的)色彩があって、
応神の頃に何かしらの変化が起きたと見れるのじゃないか?



852 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:24:38
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/onikoube-oni.files/oniwadokokara-4.htm
これを見ると確かに扶余族は日本に来た事は間違いないようだ
ただ倭人を服属させたと言うよりは倭人に服属したと思っている
白馬青牛氏は倭人を漢民族の奴隷と思っているようだが呉越時代の倭人は
共に戦った。さらには呉越には馬小屋があったという記述もあるから
騎馬戦には熟知していた可能性もある
さらに越が呉を滅ぼしたあと楚が越を滅ぼすのに100年もかかっている
この事から呉越時代の倭人が弱かったとは考えられない。それに前燕の
慕容廆に散々攻撃されていた扶余族が亡命先を占領する戦闘力があったとは
思えないしわずか数千人しかいなくて占領するのは不可
おそらく三輪王朝か倭国大乱の時期に倭人の意向で扶余の王は
倭=日本の王、つまり天皇となったのであろう。ちなみに蝦夷というか
北方から来た縄文人の一派は粛慎だった可能性が高いな
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/onikoube-oni.files/oniwadokokara-5.htm

>>840
朝鮮人の祖先はワイではなく沃沮の可能性が高いな
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-6-yokuso.htm
エヴェンキとの共通点も多いしエヴェンキの祖先でもあるらしい
ま、どっちにしても扶余族とは別族であるが

853 :白馬青牛:2006/03/18(土) 22:26:05
>>851
「穢れ」の概念は、古墳時代の動物飼育による疫病も関連するかも知れん。
江南・縄文派の安田善憲氏の言われる動物文明云々は兎も角、安田氏は、
動物飼育によるウシ型結核菌で免疫が無い縄文系や弥生系の在来民が
感染してバタバタと死んでいった。崇神天皇期の疫病の流行から牧の
設置に原因があるとされておられる。結核については、
http://www.d6.dion.ne.jp/~youichit/kekkakuno.htm
に、「鈴木隆雄は古病理学的立場から多くの古人骨を分析し、
縄文弥生時代の人骨の結核性変化は皆無で、最初の結核例は古墳時代と
述べている。6ー7世紀に大陸から渡来した人々によってもたらされたと
考えられると結論している。」安田氏とは時期のズレがあるが、古墳時代
以降の渡来人によってもたらされたのであろう。

854 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:44:52
>>852
上のサイトのA
>この依羅には高句麗系史書『朝鮮史』に
>「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅は数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して、王となった」との記述がある。

高句麗史書『朝鮮史』って…
いつ書かれた史書なん?w

855 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:57:59
>>853
>疫病も関連するかも知れん。

そうですね。ありうるし、面白いです。
疫病、血、皮革…死に関するものでしょうね。

856 :東亜+住人:2006/03/18(土) 23:01:49
>>854
ググッてみましたが何もでてきませんでした
ttp://www.google.co.jp/search?hl=ja&c2coff=1&rls=RNWE%2CRNWE%3A2005-38%2CRNWE%3Aja&q=%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E5%8F%B2%E6%9B%B8%E3%80%8E%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8F%B2%E3%80%8F&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
例によって朝鮮人のパクリ&捏造文書でしょうw
本当にありがとうございました
ちなみにこのHPはあの恐怖な「大朝鮮帝国史」も引用してますなw
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen1-dankun.htm
管理人も「韓国の民族主義の一端を担ってる」と半ば引いてましたが
批判はしてません。批判はきっちり批判しましょうw

857 :東亜+住人:2006/03/18(土) 23:02:51
×担ってる
○感じさせる

スマソ

858 :白馬青牛:2006/03/18(土) 23:15:31
>>852
>呉越時代の倭人は共に戦った。という資料はあるんか?
馬小屋があったから騎馬戦に熟知したと言うのも、華北人のように
直接、匈奴・東胡等と戦った訳でもない。
楚が越を滅ぼす時間を問題としとるが、楚は越とだけ戦った訳でもない。
楚にとって越より山東の斉の方が大国で脅威であったろう。何れにしても、
江南海岸地帯が弱かったことに違いあるまい。扶余は、百済も支配して
おるので、戦闘力が無いと決め付けることは出来ん。
蝦夷の支配者集団がオホーツク文化の粛慎の可能性があることは否定せん
が、縄文期に時代を遡って騎馬習俗はあるまい。森脇和朗氏のノネズミの
遺伝子でも、東北地方の鼠は南方型で他の本州のノネズミの遺伝子は
北方型であることから、東北地方は南方の要素も強いのではと思う。
古志は、秦氏のハタを海(pada)と言う語呂合わせで無く、辰韓の言語が
秦語に似ておったように、「古志」でなく、越人の「越」にあったと思う。
ヤマタノオロチ、蛇信仰からして。「オロチ」とはツングースの部族名で
なく、その土地の住民と言う意味が強い。オロチョン族と結びつける
語呂合わせには笑える。
朝鮮人の祖先も一民族で構成された訳でもあるまいし。韓、漢、羌、
トルコ、モンゴル、ツングース、古アジア系(特にニブヒ・ギリヤーク)
江南の越系等の混合であろう。

859 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 23:55:20
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nichiman.html
依慮王、鮮卑(せんぴ)の為に敗れ、逃(のが)れて海に入りて還(かえ)らず。
子弟走りて北沃沮(きたよくそ)を保つ。
明年、子・依羅立つ。自後、慕容鬼(鮮卑慕容部の首領で、燕国の王)、又復(ふたた)び国人を掃掠す。
依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る・・・

上に記した史書の一文では、南夫余の王・依慮はモンゴル系鮮卑族との戦に敗れ戦死?した(「還らず」が示唆している)、
翌年、王子の依羅(依罹)が新たな王となり、北沃沮(地名)を領有したと言っているのです。
更に、宿敵・慕容氏に再び攻められ、
新王・依羅は国民を引き連れて対馬海峡を渡り、日本に入って「倭人の王」となったと言っているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

だから何という史書で、いつ書かれたんだよw



860 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 11:56:47
>>859
南扶余って、存在しないじゃん(W

百済を建国したのは、大和朝廷から派遣された役人たちであって、
南扶余なんていうのは、高麗時代のデッチ上げだろう(W






861 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:02:11
高麗という国は、支配階級が高句麗人(扶余人)で、
被支配階級が朝鮮人というふうに、社会・政治構造が二重構造だったから、
支配階級の異民族=高麗人(扶余人)が、自分たちが半島南部を支配することを
正当化するために、南扶余などという架空の国をデッチ上げたんだろう。




862 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:04:54
★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。


863 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:26:39
九州と四国と佐渡島が本州と陸続きだったらいいのにな。

864 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:44:54
★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。



865 :YAP?:2006/03/19(日) 13:49:36
弥生人の渡来を江南(長江流域)からとするのは、結局、「水稲耕作」の起源が
江南に求められるからという以外に、どれだけ確実な根拠があるのかね?

少なくとも貫頭衣などのような環境要因で採否が決まることの多い衣服が
それを着た民族の出自を、決定的にするものとも思えないが。
要するに寒ければ、服を多く着込むし、暑ければ、腰ミノ一つでも良いわけだ。
まあ、技術的な問題もあり、特に原料の問題は大きいが。

南方系習俗と考えられるもののうち、少なくとも「文身」が、元来北方にあったことは、
白川静博士などの漢字の研究で明らかだ。
要するに、「北方起源」だが、その後北方で失われ、南方や東方でのみ観察される
ようになったものは、結構多く、それを中国人古代史家が、「呉越の習俗」と解釈した
可能性を考えなければならない。

今のところ、縄文人もいわゆる「northern land bridge」を
通って、つまり、沿海州・樺太・北海道ルートを経由して、列島に渡来し、また、
弥生人主力も半島を経由して(おそらくその先の河北・内蒙古・満洲あたりが源郷だろう)
列島に入ったことは間違いないだろう。
勿論越系海洋民とでもいうべき水稲耕作を列島に持ち込んだ少数集団が、存在しただろうが。

866 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:44:54
半島経由厨とでも呼ぶべき朝鮮人が多すぎる(苦笑

何が何でも、日本人を半島と結び付けたいらしい(苦笑




867 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:51:02
それを言うならネット右翼嫌韓厨の阿呆ばかりで話にならんな

868 :YAP?:2006/03/19(日) 17:31:18
まさか、日本列島で人類が発祥した、などという気ではあるまいな?
なんでもウリナラ発祥とか、中国(人)が最初という以上の恥ずかしい話だぞ?

まあ、半島は大体のおいて「経由地」だったろうが、その途中で残存した
倭人の集団もいたのは当然だし、半島から帰化した漢族や韓族も結構多く渡来したはずだ。

869 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:25:38
>>858
俺は呉越の倭人がお互い戦ったと言う意味で共に戦ったと書いたのだが
白馬氏はどうしても倭人を弱いと位置づけしようとしてるようだが
それならなぜ倭の五王の時代に倭人が高句麗遠征出来たのか?
倭人が弱かったらとても高句麗遠征なんか出来ないだろう
それは好太王碑でも明らかだ。それに東北にはツングースは来なかったと
決め付けてるようだが何もツングース=騎馬民族というわけでもない
ツングースは半猟半農もしくは半漁の民だ。その漁労をしていた民(梅悼忠夫氏の言う
ツングース水軍)が東北に来た可能性だってある。ただその数は既にいた
南方系縄文人(ポリネシア系)より少なかっただけの事だろう
もしツングースが縄文時代に来なかったとしたらなぜ東北地方は
ツングースと同様のB型血液が他の地方に比べて多いのか辻褄が合わないだろう
あと鬼首の鬼が扶余だと言われてるから粛慎ではなく扶余系の穢族の可能性もあるが
ヤマタノオロチの話は同意。だいたいオロチョン族がどうやって海を渡って
日本に来たのかがわからないし。オロチョンは内陸部族だからね

870 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 23:14:08
http://www.jomon-no-mori.jp/uenointr.htm
この鹿児島・上野原遺跡などを見ると、
さて日本人はどこから来たのか?という考え自体がどうなのかとも思う。


871 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 23:33:50
相変わらずデムパの嵐だね。ここw

872 :白馬青牛:2006/03/20(月) 00:14:25
>>865
弥生人の人種は様々であろうが、文化的に南方系であることに違いない。
環境的要因で衣服が変化する部分もあるが、トルクメン人がアルタイ地方
から西トルキスタンに移っても、隣接したイラン系と違い、20世紀前半
まで弁髪の習慣が一般的であった。文身は、アルタイのパズィリク
第2号墳から、動物文様の刺青をしたミイラ遺体が発見されておるので、
文身=南方とは断定出来んが、動物文様でなく、虫蛇文身・抜歯のセットと
なると東南アジア的文身を想定した方が良いと思う。文身のルーツが北方に
あったと言うのも強引で、文身世界は東南アジア〜オセアニアに広がって
おる現実を無視した意見であると思える。
縄文人も加藤晋平氏の言われる細石刃文化から北方ルートで渡来した集団も
あろう。縄文人はDNAから篠田謙一氏が、ブリアートから雲南と北方・
南方と幅広い地域から渡来した集団であったとされる。縄文・弥生までは
南方系文化が濃厚で北方要素は古墳期から濃厚になったことに違いないと
思う。

873 :白馬青牛:2006/03/20(月) 00:57:26
>>869
呉越の倭人?が戦ったという資料があるんか?倭人の遠征の根拠となる
「好太王碑」でも高句麗に負けておるし、倭人集団は、後の倭寇と同じく、
エスニック集団で、途中で朝鮮半島の現地人を多く含んで遠征したのでは
ないか。近代国家概念の戦闘とは違い、現地の者が続々仲間に加えよと
参戦し、大集団に膨れ上がる。近代国家の概念は当てはまらん。
わしは、東北にツングースが来なかったと決め付けた事は無い。
安倍比羅夫の北国遠征時にオホーツク文化人(粛慎)に、蝦夷が苛められて
おったことや、気候寒冷化から時計周りの南下もあり、北海道で豚を飼育
しながら海獣猟をしておった。佐渡にも来航しておる。
縄文期にも、東北アジアの影響があった事は既に述べた。血液型のB型は、
アジアでは北に行くほど多くなる事は、そうであるが、多面的に見て、
日本列島の中でも東北に南方系の要素が強いのは、>858の鼠の遺伝子や
HBV抗原の型から、東北・北海道・奄美・沖縄には、中国南部・
フイリピン・ジャワ等に多い南方系のadw型の比率が高い事等、
HLAでも東北が西日本より北方系が多い訳でもあるまい。
形質人類学者の埴原氏が列島人種の南北逆転現象と言われたが、そういう
傾向はあろう。

874 :白馬青牛:2006/03/20(月) 02:01:53
オホーツク文化人は、北海道オホーツク沿岸だけでなく道南にも。
http://www.dosanko.co.jp/okushiri/when/kouho0211.htm
オホーツク文化人の起源は、諸説あるが、
http://kamuimintara.net/detail.asp?rskey=21198707t01
北方民族の南下の時計周りであろう。

875 :白馬青牛:2006/03/20(月) 02:11:02
>874の上は、
http://www.dosanko.co.jp/okushiri/when/kouho0211.html
であったか。

876 :がいやまん:2006/03/20(月) 13:13:49
白馬青年さん、お久しぶりです。ご参考までに繰り返しますが、

カラフェト他「Y染色体識別子のベーリング海峡を越えての拡散」
http://www.familytreedna.com/pdf/Karafet_et_al.1997.pdf
の研究では
世界38民族DYS199/DYS287ハプロタイプ頻度(%)

1T(数字の2列目)
(下記の3民族のものは旧大陸への逆移住と推測)
Siberian Eskimos 22 13.6 86.4
Chukchi 6 16.7 83.3
Evens 65 1.5 98.5
(下記は米大陸)

877 :がいやまん:2006/03/20(月) 13:14:33
続き
Alaskan Eskimos 4 75.0 25.0
Tanana 12 42.0 58.0
Navajos 55 49.1 50.9
Cheyenne 45 17.8 77.8 4.4
Havasupai 10 50.0 50.0
Pima 24 41.7 58.3
Pueblos 18 50.0 50.0
Zapotecs 15 60.0 33.3 6.7
Wayusd 23 34.8 60.9

(日本・チベットなどのYAPは米大陸に入っていない
1Tの代わりに3C、CT変換は米大陸で発生と推論)
3C(数字の3列目)
Altai    31 96.8 3.2
Taiwanese  43 97.7 2.3
Mongoliansb 195 97.4 2.6
Tibetans  30 46.7 53.3
Japanesec 116 52.6 47.4

878 :がいやまん:2006/03/20(月) 13:17:59
カラフェト他が意図せずに描き出した日本がらみの興味は別にして、
彼らの推定する逆移住とオホーツク文化の関係はないのか、この点に
非常に興味を抱いています。

879 :がいやまん:2006/03/20(月) 13:22:24
上記のTaiwaneseとは原住民なのか、大陸からの移住者なのかはっきりは
してませんが、台湾に新疆方面出身者が多いのも事実のようですね。

880 :がいやまん:2006/03/20(月) 15:13:21
チベットには北方のアルタイ系言語とか、修験道とそっくりの服装とか、
日本にもあるピラミッド型石積遺跡とかがあります。アルタイには高地性
集落遺跡スベというのが沢山あるし、なんといっても、石板墓、箱式石棺墓
の発祥地、これが九州、沖縄そして四隅突出型古墳となり、古墳時代に
入りその手法は前方後円墳にも取り入れられます。山岳と水源信仰、
蛇穴、ミシャグチ等は倭国乱時代に入ってきたのではと思うのです。
おっつけて入ってくる新羅の円墳のような感じが、前方後円墳につながる
のでしょうか。

881 :がいやまん:2006/03/20(月) 16:08:09
アルタイにはアファナシエバ文化「ロシア,南シベリアのミヌシンスクおよび
アルタイ両地方に分布する,前3千年紀中葉〜前2千年紀初頭の亜新石器
(金石併用時代)文化。ハカス自治州バテニ村近くのアファナシエバ Afanas’
eva山の埋葬墓からその名がとられた。出土人骨はパレオ・ユーロペイド型
に属する。」というから白人系統だったのが、次第にモンゴロイドに代わる
ようで、これはアーリア族の南下などと、期を一にするのでしょうか。そして、
カラコルスカヤ (多色絵画・鳥・太陽人/動物像)BC2100-1900
オークニェフスカヤ (人面動物石柱・石板墓・円形石囲い) BC1900-1500
アンドローノフスカヤ(幾何学模様土器)BC1500-1100
カラスク(箱式石棺墓)BC1100-800
パジリク(盛土クルガン墳)以下の2時期に分かれる:
パジリク・クルトゥースカヤBC800-600
パジリク・マイェミルスカヤBC600-500
パジリク・ボリシェレチェンスカヤ(パジリク最盛期)(石囲い・
積石土盛クルガン墳)BC600-200
パジリク・シビンスカヤ BC200-0

882 :がいやまん:2006/03/20(月) 16:18:29
パジリク(盛土クルガン墳)時代には逆に白人、スキタイ、型が優勢になるのは
この頃モンゴロイド系は既に日本の方向にモンゴリア・オルドス・満州と移動中
だったのでしょうか。

883 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 16:53:26
★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。


884 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 20:54:51
>弥生人の人種は様々であろうが、文化的に南方系であることに違いない。


紅陶文化や支石墓文化や青銅器・鉄器文化がかね?w

885 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 09:54:27
>がいやまんさん
>>880
>修験道とそっくりの服装とか、
>日本にもあるピラミッド型石積遺跡とかがあります

それ、おもしろいですね。
写真でもあったら見てみたいと思うのですが、無理でしょうか?

886 :YAP?:2006/03/21(火) 14:31:32
がいやまん氏引用のデータは最近のHammerらの(YCC)分類による
ハプログループの名称統一前の文献なので、ちょっとわかりにくいが、要するに
ハプログループDが、縄文系とされるYAP+であり、チベット人で半数近く、
日本人で大体1/3がこの「HgD」ということになる。

大体中近東あたりから拡散していると考えられるHg(ハプログループ)Eと
このDのみがYAP+だが、後は、A、B、C、F以降の各HgともYAP−だ。

東南アジアにHgDがほとんど無いことから、縄文人主流は、中央アジアから、おそらく
河西回廊やその周辺を通過して(つまり北まわりで)東アジアに出現したとするほうが
蓋然性は高いと思われる。

同様に、日本人や韓国人で多いY染色体ハプロタイプが、HgOに属するO2b*や
O2b1であることからも、やはり弥生系の主流派も、北方系を優先的に考えるべきだろう。
勿論,O1とかO3などは、大陸中国や東南アジアにも多いので、これらが長江流域から
渡来した可能性は考えられるが、同じHgOのなかでも、O2b系は、大陸では少数派で
常識的には半島経由と考えるべきだろう。



887 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 14:55:16
何でYAPの無い朝鮮人の1/3くらいに縄文顔に似た顔があるのかを考えよう。
また何で弥生顔の方が朝鮮人とは似てないという不思議さも。

888 :YAP?:2006/03/21(火) 15:04:33
887氏へ

だから、骨などの形質人類学的研究による外見的類似が
余りあてにならないと私は思うのだが。

まあ、顔の形など唸れて方顔面を四角い板で囲んで育てると
真四角な顔になる程度のものだろう。
それにほとんど同じような遺伝子を持っていても、日本語を母語
とするのと、韓国語を母語とするのでは、顔もかなり違ってくる
のではないかと思うのだが。

889 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 15:19:21
頭蓋、殊に頭指数などは非常に短期間で変わりやすい事は
私も以前書いた。

しかし私の言っているのは頭蓋の形の事ではない。

顔のニュアンスの事である。

短頭になろうが、面長になろうが、鼻のラインが変わろうが、
こればかりはなかなか変わらないようだ。

890 :YAP?:2006/03/21(火) 16:43:07
だから、顔の「ニュアンス」などは、むしろ文化的要素、その最大のものは
「言語」(母語)だろうが、によって変わり得るのではないか?
という考えを述べているのだが。

要するに母音の多い「開音節構造」の日本語を話すことによって、周辺諸民族との
「ニュアンス」の差が生じるのではないか?というのだが。

直接、会話というか「話すこと」とは関係しないのだが、日本人の言語に関する
脳機能は、特に「読む」ことに関する漢字・かな混じり文という日本語正書法の
性格により、欧米人と異なった回路を形成していることはかなり良く知られている。

891 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 17:46:14
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。

【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。

古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。

■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm




892 :白馬青牛:2006/03/21(火) 22:40:31
>>876
がいやまんさん、お久しぶりです。Y染色体のことは詳しく知りませんが、
日本とチベットが近いというのは興味深いのです。『秘境西域八年の潜行』
で、西川一三氏が、チベット系タングート人やチベット東部カンバー人
(戦前の西康省、四川省西部も含む)について「タングート人は、蒙古、
支那人以上に日本人と似ている。細長い顔、真直ぐな鼻からであろう。」
「西康人は体は日本人より少し大きいが、その容貌はまったく日本人に
似ている。俺は蒙古人と話しても、彼等は、お前は嘘を云っている。
西康人だろう。と見られた」
チベット東部人や青海省のタングート人は、純粋なチベットと云うより、
羌系の要素も強いのですが。
モンゴル人は、丸四角顔が多いのに比べ、チベット系の面長な容貌は、
日本の新モンゴロイド型形質と共通し、むしろモンゴル人の顔型が
縄文型に近い感じがします。
>>884
紅陶文化は、江南の馬家濱文化、大渓文化に顕著で、江南至上主義者の
逆説は、はあ、ええわい。

893 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 22:42:28
>>873
東北に来たツングースは粛慎の可能性が高いがその粛慎が蝦夷を迫害していた
ところを見ると粛慎ではない可能性が高いな。おそらく朝鮮半島から来た
扶余と同じ穢系部族の狛族かもしれない。ヤマトタケルが討ち死にした時
白鳥となったとあるがこれは蝦夷側の話であると谷川健一氏も述べているのを
考えると鳥トーテムを持つ狛族が妥当かもしれないな
あとどうしても倭人が高句麗に負けたとしているがそれは違う。高句麗の
属国であった百済や新羅を属国にしたと好太王碑にもあるから負けたとは
言えないだろう。韓国の学者が朝鮮総督府によって歪められたと言ってるが
中国の学者がそれを論破してるので間違いないだろう
それにもし騎馬民族征服王朝が出来たとしたらなぜ百済や高句麗の王朝で
行われた犠牲の儀式が皇室ではないのか。大嘗祭や新嘗祭はどう見ても
農耕儀礼の儀式の延長線のようにも思える。もっともこれらの皇室儀式には
北方系要素もあるのは事実だが。さらには宦官も存在しなかった。
これは扶余が征服したとは言いがたい事実ではないか?ついでにいうと
物部氏は鹿を神聖視していたという事実もあるのだが。扶余は鹿トーテムを
持っており扶余も鹿という意味らしい。扶余が倭人に服属したというのは
決して間違いではないと思うが。これは想像だがおそらく扶余は倭人の王
(大王=天皇)に服属し服属の証として后妃を出していて大王の家系に
北方系(扶余)と南方系(倭人)の混血にさせたのだろう。もちろん
それは大王に限ったことではないのは言うまでもない

894 :白馬青牛:2006/03/22(水) 00:21:48
>>893
>粛慎が蝦夷を迫害していたところを見ると粛慎でない可能性が高いな。
矛盾しており、よう意味が解らん。
倭人が高句麗に負けておらん根拠が、百済や新羅の小国と結びつくんか
のう。後にも倭は反逆小国の新羅すら滅ぼせんぐらいじゃし。新羅が勢力を
広げると筑紫の磐井は新羅の手下に等しい行為をする。好太王碑文の
「倭以辛卯年渡海百残」をどう解釈するかも問題となるが、そういえば
森浩一氏は「高句麗水軍が倭が侵入した朝鮮半島のどこかまで陸路を
とらず海路によって攻めたということになるだろう。好太王碑では先の
文に続いて王自ら水軍をひきいて残国を討伐したとする箇所がある。
この部分を水軍と読むかどうか。中国考古学研究所長の王健群氏
(おそらく好太王碑文を一番よく観察した人)も水軍と判読しておられる。
(中略)騎馬の風習の強い民族が船を苦手とするというのは、その人なり
の思い込みにすぎないが、私の周辺にも何人もそう信じている人がいる。」
と云われたが、高句麗も水界民であった。
犠牲の儀式とは動物犠牲か?動物犠牲は東南アジア農耕地帯でも広がって
おるし、記述編集時代の価値観から伝統がなかった根拠にならんよ。
宦官も北方民族が、漢地に征服王朝を築く以前にあったんか?北方民族の
中では突厥が刑罰に去勢をすることがあるが、類例は多くないし刑罰では
本来の宦官と意味が違う。

895 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 09:27:17
>>852の文献は面白いね。
百済で各豪族への封地を「担魯」(タムロ)と言ったというのに注目した。
斉州島の「タンラ国」もこれに関係するという。恐らく百済の封地という
意味でタンラと言ったのが、後に半独立したのだろう。

坂上田村麿の「田村」もこれに関係するという。

そこで「たむろする」という、外来語くさい言葉を思い出して広辞苑で
引いて見ると「屯する」の漢字があてられ、意味は「軍隊が集合する、
またその場所」という。
「屯」と「封地」は極めて意味が近い。

896 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 12:09:33
>>893
>扶余が倭人に服属したというのは決して間違いではないと思うが

服属以前に扶余が日本に来たという証拠自体がないのだが。
来たというのは定住という意味だが。

897 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 17:38:38
なんで、大和朝廷が作った人工国家=百済の文化を、日本人が羨むんだ?(笑
_____________________________________
韓国人がアホな歴史教育をしているようだ。

【歴史教育、幼稚園から実施】

教育人的資源部(訳注:日本の文部科学省に相当)は、幼児の時から正しい歴史意識を
身に付けさせるために、多様でおもしろい活動を素材とした『幼児のための歴史教育活動
資料』を発刊し、全国8300余りの国・公・私立幼稚園に無料配布するほか、保育施設など
で出力して活用するようにホームページ( www.moe.go.kr )にも掲載することにしたと、16日
発表した。
この資料は、幼児期発達に相応しくておもしろい10編の時代的歴史エピソードと、33種類
の多様な活動で構成されており、歴史に対する幼児たちの関心と好奇心を引くことが期待
される。
(省略・・・)
★『韓国の文化の誇り、百済』編には、「日本が羨んだ百済文化」が紹介されている。←(苦笑)
(省略・・・)
古朝鮮(訳注:檀君の建国した国のこと)などのテーマも入っている。
教育人的資源部では、この資料が幼児教育現場で有効に活用されるようにするため、2月
に全国16道・直轄市の教育庁幼児教育担当講師要員400人余りを対象に研修を実施する予定だ。

▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006.01.16 20:21)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&newssetid=746&articleid=2006011620210117447



898 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:42:09
★ 倭寇の正体は朝鮮人だ!! ★

韓国朝鮮人は、
「日本の海賊=倭寇が、過去に何度も韓国を侵略し、我々韓国人に多大な被害を与えた!」と、
主張して、日本人をよく非難する。
しかし、韓国人のこういった主張は大ウソなのである。倭寇の正体は韓国人=朝鮮人なのだ。
韓国朝鮮人は、金氏新羅の時代から活発に海賊活動を行っていた。
そして、朝鮮海賊にとって、第一のターゲットは、常に日本人であった。
我々日本人こそが真の被害者であり、韓国朝鮮人は加害者なのである。韓国朝鮮人は侵略者なのだ。
新羅時代、朝鮮海賊が対馬海峡や九州西岸海域に出没し、日本人を襲って殺傷する事件が多発した。
大和朝廷は、大宰府の水軍に対し、海上警備の強化を命じた。大宰府の取り締まりが厳しくなった結果、
朝鮮海賊は「商売アガッタリ」状態になった。そのため、しかたなく、朝鮮海賊は自分たちの国の人間を
襲うようになった。
この時、彼らは朝鮮人らしく悪ヂエを発揮して、新羅王府の取り締まりから身を守るため、
自分たちが朝鮮人である事を隠し、日本人に偽装した。
「オレたちは倭人だぞォ!」と、アピールしながら海賊活動を展開したのだ。
これが倭寇の正体なのである。倭寇とは朝鮮海賊のことなのだ。

★きままに歴史 『元寇と高麗』★
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm


899 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:43:12
>>897
いいんじゃね?
アホ民族がどんどんアホになってw

900 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:00:00
>>896
あなたが「証拠」と言っているのは「状況証拠」の意味だと思うから、
>>852のページを読んでごらん。状況証拠がたくさん書いてあるよ。

901 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:44:54
>>900
読んだけどね。
>大阪府の南端には百済の大門王が統治したという淡輪(たんのわ)があり、
>田村(たむら)や外村(とむら)などの姓は「檐魯」の住民だったことの名残とされる。

大門王って誰よ?
淡輪と檐魯と田村ねぇ…
語呂合わせじゃないの。
高句麗系史書『朝鮮史』なんて言ってる時点でもうあれだな。

902 :日本@名無史さん:2006/03/23(木) 09:41:33
須恵器の生産開始は4世紀後半から 宇治市街遺跡
http://www.sankei.co.jp/news/060323/sha008.htm

903 :日本@名無史さん:2006/03/23(木) 21:35:06
読売、産経とも、単なる須恵器の問題でなく、伽耶人の居住の証拠として
報じている。
扶余が三輪王朝に参画した、という私の仮説に、少なくとも矛盾しない。
これからいろいろ議論されるだろうが、議論の前提である、「4世紀の畿内に
おける伽耶人の存在」がまず証明された。

金官の扶余の存在と同じく、このようにして仮説は証明されて行くのだ。

904 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 01:47:37
南鮮というのは元来、馬韓・辰韓・弁韓の三韓だった。
それが百済・新羅になって、弁韓は統一されてなかった。
なぜ弁韓だけ統一がなかったのか?
それは弁韓の地理的特殊性があって、
盆地が多く、土地が分断されてたため、
あるいは、日本の影響が及んでいたためという見方がある。

それはともかく、
諸国分立してた各地を統一したのは、
百済においては扶余だ。百済王は自らを高句麗とともに源を扶余に出ずと記しており、
外来系遊牧民による、ある種の征服王朝である。

のちの朝鮮統一王朝である高麗は、高句麗族の将軍、王建が建国したもので、
国名も高句麗に由来している。

すると古い時代の半島での統一王朝は、ほとんどが外来民族の騎馬民族による建国だ。

新羅はどうか。新羅の王の出自は何なのか?

新羅の「新」の字に着目すると、
それは「秦」「辰」「金」と同系統。

中国の最初の統一王朝の「秦」にも北方系説がある。

それらは騎馬民族が好んで使う文字だから、
やはり新羅も北方騎馬民族系ではないだろうか?

こうして騎馬民族が、土着の民を支配して、統一王朝を建国すると、
必ずそこで国号を改めている。

仮に騎馬民族説が確かだとしたら、
倭はなぜ即座に国号を変更しなかったのだろうか?

905 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 04:33:53
>>903
渡来人の居住は誰も否定しない。
須恵器と秦氏の関わりも言われてるように。
でもそれは彼らによる征服や簒奪とは意味が違う。

906 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 08:24:20
最古の前方後円墳?纒向石塚古墳の堀は馬てい形・奈良県桜井市
ttp://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060323AT1G2301V23032006.html
 市教委は前方部と後円部が接する部分の堀を発掘し、堀の輪郭の一部を確認。
過去の調査結果と合わせて馬蹄形と判断した。堀の輪郭は従来、墳丘の形に沿って
くびれる珍しい鍵穴形とみられていたが、くびれとされた部分は隣接する墓の堀を
誤認していたことが分かった。


907 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 08:37:18
>>903
倭人が住んでるだろ、伽耶には。
貿易してるだし人間の往来があって当然だ。

908 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 09:08:22
>>895
あぁ、百済の担魯、ねぇ。(笑
韓国人は担魯の音が「damuro」で尚且つ淡路を「damuro」と音で読むことから、大百済帝国妄想ホルホルホル・・・なわけだけど。(笑
有二十二檐魯。分子弟宗族為之。旁小国有叛波・卓・多羅・前羅・斯羅(新羅)・止 迷・麻連・上己文・下枕羅等附之。
もちろん、倭など含まれていない。
ていうかそもそも担魯が「damuro」と呼ばれていたかどうかさえ、不明なのに・・・・(苦笑

909 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 09:46:27
>>904
>すると古い時代の半島での統一王朝は、ほとんどが外来民族の騎馬民族による建国だ。

その通り。海を隔てているというだけで、倭が例外でいられると考えるほうがおかしい。

>>905
いやいや。従来のすじがきでは、日本の伽耶化は広開土王に対する敗退を契機にして
はじまったことになっていた。今回の発掘でそれが否定されたことは、契機を別に
求めざるを得ないことを意味する。それを私は三輪王朝体制への参画と見ているわけだ。

>>908
たしかに日本の「たむろ」が百済王領だというのは韓国人の妄想だ。
しかしそれと言葉の問題とは別だ。百済の支配組織の用語であれば、それが
扶余系の言葉である可能性がある。百済は扶余と被支配民族の二重構造だったからだ。
であれば、その扶余語が日本に持ち込まれている可能性があるのだ。

910 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 10:33:47
>>909
倭王武の上表分で、
自らを倭国王と名乗ってるのはどう説明するのか?
騎馬民族が征服王朝立てて、
故国の号をそのまま使用、ないし新たな国号を作らず、
征服した国の名を使った例など存在するのか?

911 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 10:37:52
須恵器、つまり灰陶は5C後半の漢氏だと言われていたが、
4Cとなると、やっぱりこれも秦氏か。

912 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 11:19:32
>>909
浅はかな考えですまんが、すでに半島に進出し、高句麗と争うのであれば、半島に本拠を持っているべきだろう?
であれば日本の伽耶化がその敗退を契機にする、という理由がよくわからないなぁ。

>であれば、その扶余語が日本に持ち込まれている可能性があるのだ。
だから「担魯」を当時の音でどう読んだかさえわからんのよ。唯でさえ百済の語彙資料は少なくて、何もわかってない。
ちなみに半島の古音というのは、現代の朝鮮音とはかなり異なることが指摘されていて、新羅統一後に唐音に影響されたと見るべきだそうで。
まぁtamuroと屯するの関係は個人的には気にはなるが・・・

913 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 11:21:25
>>912
自レス

あぁ、敗退したから、半島をあきらめて、倭に腰をすえたってことなのかな?
でもそこまで確認できてるものなのかい?伽耶化ってのは。

914 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 11:39:55
>>909
>日本の伽耶化は広開土王に対する敗退を契機にして
>はじまったことになっていた。今回の発掘でそれが否定されたことは、
>契機を別に求めざるを得ないことを意味する。

広開土王との戦いを敗退とみるか、
あんな遠くまで追い返したとみるかは別として、
今回の須恵器発見は4世紀末なんだから時期的に否定されないと思うが。

915 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:09:01
京都府宇治市と言えば秦氏だろが。

916 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:30:12
「泳げ!騎馬民族!」

917 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:41:53
>>910
満洲族はたしかに「清」という新しい国号を作ったが、「清国」の別名は
「満洲国」であった。すなわち 「故国の号をそのまま使用」した。
また対外条約においては17世紀以来、国名を「中国」と称した。
すなわち「征服した国の名を使った例」である。

>>だから「担魯」を当時の音でどう読んだかさえわからんのよ。

百済語による訓読みの話ではない。音読みにそんなに変わった読み方はない。
違ったとしても似たような音だ。

>>914
>今回の須恵器発見は4世紀末なんだから時期的に否定されないと思うが。

今回の発掘は390年頃(年輪から)とされるから、少なくとも広開土王戦争より
は前である。

918 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:45:32
>>906
http://72.14.203.104/search?q=cache:wpvtojiotn8J:www.begin.or.jp/sakura/maki01.htm+%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%82%80%E3%81%8F&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1
纒向では搬入土器の出土量が、在地の土器に対して約15%以上あり、
このような例は他の遺跡では見ることができない。
また製作された地域を調べても、西は九州北部から東は南関東までと広範囲にわたっている。
このことは、土器と共に人々の交流をも物語り、
纒向にどの地域の土器がどれだけ運ばれてきたかを調べることによって、
日本の各地域と纒向とのつながりを理解することができる。
搬入土器の出身地を調べてみると、約半数の49%が東海系の土器で、
北陸系と山陰系が17%、河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、
近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、紀伊系1%となる(『纒向』桜井市教育委員会1980による)。
さらに平成8年の第90次調査では、韓式系土器も出土しており、朝鮮半島の土器も纒向へ運ばれていることがわかった。
 このようにみると、纒向が隆盛を誇っていた古墳時代初頭、これだけ各地域と交流していた所は纒向をおいて他にはなく、
当時の纒向には各地域から人々を集めるだけの力を持っていた人物が存在していたと言わざるを得ない。
換言するなら纒向は当時の都市、或いは首都ともいうべき機能を果たしていたのではないだろうか。

919 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:49:32
>>917
>今回の発掘は390年頃(年輪から)とされるから、
>少なくとも広開土王戦争よりは前である。

半島情勢緊迫化という時期にぴったりでしょ?
秦氏だと思うけどなぁ。

920 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:57:02
>>917
同じような音?君は言語学者なわけ?
たとえば「明」ひとつとっても呉・漢・唐音、かなり違うんだけど?
実際に半島の学者が、「担魯」をどう呼んだかわからない、再構さえできないと言ってるんだけどねぇ。(笑

何にしても「騎馬民族征服説」の支持者は観念的というか、思い込みが強いな。
自分が知りもしない言語学を引用して自説を補強するのは如何かと思うけど?
日本語そのものは、未だどの系統に属するかはっきりとわかってはいないし、新羅と高句麗の言語は、かなり異なることも指摘されているんだけど。
ま、別にそんなのはどうでもいいのか?「こうあるべき」なのかもしれん品。

921 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 19:23:30
>>918
何故、東海系の土器が多いか。
ヤマトタケルの東征と関係あるかも。
尾張あたりで奥さん(美夜受媛)もらってたもんな。
奥さんを出した豪族が権力高めたのかも。

922 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 19:28:20
◆◆『2ちゃんねる』と朝鮮総連 ◆◆

在日朝鮮人が、戦後の日本で組織的なスパイ活動を展開していることは、
国際政治に詳しい人々の間では、常識として知られている事実だ。
スパイ活動の中心的役割を果たしているのは、もちろん朝鮮総連と韓国民団である。
とくに朝鮮総連は、情報収集と宣伝工作活動のために、インターネット上でいくつもの
掲示板を運営している。それらの掲示板の中で最大規模のものが、皆さんもご存知の、
あの『2ちゃんねる』である。
『2ちゃんねる』は、とうぜん防衛庁や公安調査庁から監視されているのだが、
ここで気になる事がある。それは、『2ちゃんねる』の管理スタッフは、防衛庁や公安などの
国家機関が、『2ちゃんねる』が朝鮮総連の運営するウェブサイトであることに気づいていると
いう事を、知っているのかという事だ。
『2ちゃんねる』の管理人たち、つまり、朝鮮総連=インターネット工作班の朝鮮人たちが、
自分たちが日本国家当局から監視されている事を承知の上で、『2ちゃんねる』で反日宣伝工作を
展開しているとしたら、「いいコンジョウしている」と言えるだろう。
Xデーが来たら彼らは終わりだが、その日が来るまでは『2ちゃんねる』上で反日宣伝工作を続けて
いくつもりなのだろう。逆に言えば、『2ちゃんねる』が運営されている間は、
朝鮮総連はまだ大丈夫である。しかし、朝鮮総連が日本当局に潰される時になれば、
『2ちゃんねる』は何の予告もなしに、ある日、とつぜん閉鎖されるであろう。


923 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 20:07:01
>>920
>たとえば「明」ひとつとっても呉・漢・唐音、かなり違うんだけど?

君は言語学者なわけ?
違うと言うからには違いを知っているんだろうな。
では「担」と「魯」の呉・漢・唐音を書いて見よ。
まあ、「唐音」は関係ないとは思うけどね。時代的に。

924 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 20:14:55


閉鎖したら困るのは、>>922 2ちゃんねるヲタだけ

925 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:04:56
大阪南部・淡輪と担魯は関係ないだろう。
「日本書紀」雄略天皇九年三月の条に、
雄略天皇の命により朝鮮半島で新羅を攻める際、
病没した紀小弓宿弥が「田身輪村」に葬られたとある。
「たみわ」または「たんみわ」が淡輪(たんのわ)になったのだろう。

全然、百済と関係ねーよ。w


926 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:26:49
>>917

>満洲族はたしかに「清」という新しい国号を作ったが、「清国」の別名は
>「満洲国」であった。すなわち 「故国の号をそのまま使用」した。
>また対外条約においては17世紀以来、国名を「中国」と称した。
>すなわち「征服した国の名を使った例」である。

反論になってないよ。
俺が言ったのは、
騎馬民族は征服王朝樹立すると、元来た国の名をそのまま流用するor新たな国号を制定する
のどちらかだと言ってる。百済は扶余が建てた国で、それが南下して馬韓を征服した。
よってこれは故国の名をそのまま使用だ。
「清」という明らかな騎馬民族系国号は、新たな名だし、仮に「満州国」でも故国の名だ。
これらはいずれも騎馬民族国家の国号における共通項に反していない。
「中国」だが、これは例に出すのは適切ではない。
“中国”というのは、文明の概念であって、国名ではない。
中国の国名はイコール王朝名だ。ところが西洋との接触において、意識的に国号としての「中国」
が出現したわけで、もし“中国”が国名なら、元も明も唐も金も「中国」だよ。
よって、歴史の前例から見て、騎馬民族が征服王朝樹立して、征服地の国号を使用した例はないと
いうことでよろしいか?

すなわち、倭国王を名乗った倭王が騎馬民族系ではないということの証拠がここに一つ提示された。

927 :白馬青牛:2006/03/24(金) 21:40:52
>>926
騎馬民族国家の共通項?鮮卑の例はどうなるんか?鮮卑族は、
燕・涼・魏等使うとる。しかも歴史に証拠など無いが。

928 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:47:30
>>927
その辺はいろいろこんがらがって複雑だから、無いことにしとこうぜ。
モンゴル系だしな。
ツングース系の扶余とはこの際、わけておいた方が分かりやすい。

929 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 22:28:55
俺は征服説に賛同しないが、
江上さんは、騎馬民族が倭を征服して国名を「日本」に変えたと言ってなかったっけ?

930 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 22:38:21
国号「日本」が生まれたのは大宝律令701年以降。
書紀では大化の改新645年とされてるが確実ではない。

931 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 22:54:51
騎馬民族征服説を言い出した「江上波夫自身が騎馬民族征服説を否定」して、
騎馬民族同化説に変えている。

もうすでに学界では「騎馬民族征服はなかった」という決着が着いています。

932 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 23:11:34
>>931
江上さんはカメレオンだからw

933 :白馬青牛:2006/03/24(金) 23:23:37
>>931
>もうすでに学界では騎馬民族はなかった」という決着が着いています?
その詳細を述べよ。江上氏自身が「騎馬民族説を否定して」
騎馬民族同化説に変えていると云う根拠を書け。
学界という狭い世界の権威を利用し、自身の意見が無いと言うのも笑わす。

934 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 23:25:06
そもそも弁韓も、扶余が制圧しきったのなら、
その時点で統一国家樹立されてるんだから、
百済や新羅同様、新国号が定められて当然なのに、
そうなってない。
よって扶余による加羅支配は限定的なものに過ぎなかったはずだ。
つまり、加羅地域の、多数存在してる
一つや二つの盆地、区切られたテリトリーを占領しただけのことだ。
他の地域では倭人が普通に暮らしておる。

935 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 23:36:20
>>934
はいはい。もっと勉強しましょうね、ボクちゃん。

936 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 03:21:30
>>933

図書館とかに行って自分で調べればどうですか?
考古学系の雑誌を隈なく探せばすぐに見つかると思いますよ。

>自身の意見が無いと言うのも笑わす
次号の「史林」に私の論文が出るので参考にして下さい。

>学界という狭い世界の権威を利用
933こそインターネットという狭い世界で議論している「井の中の蛙」に見えるよ。
自分でもっと調べて論文を出せば、私もその論文に対して反論を書きます。
論文を出せるくらい調べて下さい。

それと騎馬民族征服説は不毛の議論だと思うよ。
図書館に行って調べればすぐにわかるのに、時間の無駄だよ。

今回は2chとはどんな議論をしているのか少し覗いただけです。
学界ではもう終わったことをしているのだね。
でも、もう来ないと思う。
バイバイ!!


937 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 06:35:04
>>923
ちなみに周書、梁書、南史ともに担魯ではなく「檐魯」。
「檐」は「en」。漢音か呉音かはわからないが。まぁつまり「en-lu」と読んでいたのが明白なわけで、「tamuro」と呼んでいた可能性はない。
辞書ぐらい引いたらわかるだろ。

938 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 06:38:28
まぁなんつーか、考古学に詳しい方々、考古学で立証するのはよいですが、安易に知らない分野で証明しようと必死になるのは
やめていただけますか?普通に笑えるので。

939 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 06:44:19
>>923
>まあ、「唐音」は関係ないとは思うけどね。時代的に。
だから、半島の音は新羅統一期にかなり唐音の影響を受けてるんで。
そもそも百済の宗族に分け与えたという「檐魯」が現在の音で「tanro」或いは「damuro」と読んでいようと、
当時の音でどう読まれたかまったくわからないわけですが。この前提をすっとばして、檐魯がまるで扶余の支配語であるかのように
関連付けるのはやめていただけますか。

940 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 13:58:46
>>926
倭というのはみずから名乗った王朝名ではない。「倭人が住む地域」という
意味で中国人がつけた地域名だ。だから倭の五王が「倭王」と名乗るとき、
それは「倭という地域を支配する王」という意味である。

ちょうど、扶余本国の扶余王が、王朝名あるいは部族名としては扶余であって
も、「ワイ人の住む地域の王」という意味で「ワイ王」を正式称号とするの
と対応する。だから日本を支配した扶余が「倭王」を名乗ってもなんの不思議
も不都合もないのである。

941 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 14:01:44
>>937
>ちなみに周書、梁書、南史ともに担魯ではなく「檐魯」。

たしかに、木へんを手へんと見間違って略字の「担」を使ったのは私の間違い
だった。しかし:

>「en-lu」と読んでいたのが明白なわけで、「tamuro」と呼んでいた可能性
>はない。 辞書ぐらい引いたらわかるだろ。

というのも完全には正しくない。なぜなら「檐」には呉音、漢音ともエンと
タンの二つの読み方があるからだ。だから「tamuro」つまり「tan-lo」と
読んでいた可能性は少なくとも50%あるのだ。
辞書ぐらい引いて欲しい。

942 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 14:04:13
>>939
>現在の音で「tanro」或いは「damuro」と読んでいようと、 当時の音でどう
>読まれたかまったくわからない

現在の音、つまり日本語や韓国語の漢字の読み方で読んでいるのではなく、
当時百済に輸入された漢字の音を当時の百済人がどのように受け入れたかを
推定して論じているのではないのか?

もしこれをしも「どう読まれたかまったくわからない」というのなら鉄剣銘の
「ワカタケル」も「まったくわからない」、したがって論議もできないという
ことになってしまう。

943 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 18:21:07
>>940
「ワイ」というのは扶余系じゃないか。その辺は目まぐるしく呼び名が変わってる。
同じ種族なんだから、ワイ王であれ扶余王であれ同じもんだ。
だから他国を征服統治したとしたら、その際の呼称とは意味が自ずから異なる。


倭を征服して「倭王」を名乗っても不都合はないだろうが、その呼称が、

「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」

以上のごとく、
南鮮新旧国号を並べた上で名乗られてる文脈の上で分析されるべきで、
たとえば百済国王が中国に対し、自らを馬韓王と名乗るわけがないだろう。

日本書紀では大化の改新後に高句麗・百済の使節に
自らを「明神御宇日本天皇」と名乗ったとしている。

「倭国」王を名乗る以上、そこには王朝の連続性を主張する意識が反映されている。
したがって、上表文で「倭国王」を名乗ってる現実は無視できない。

944 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 20:03:31
日本の古墳の4世後半から現れる馬具だが、
それが、どこか一箇所に現れ拡まって行ったというのでなく、
各地に散発的に現れるというこの現象は、
各豪族が半島から持ち帰ったという事だろう。
三輪王朝に参画する形で日本のどこかの地域を簒奪したと言われても、
その地域からいち早く馬具が出てもいいはずなんだが、そんな状況でもないし。

945 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 20:10:18
秦氏秦氏。

秦氏が広めた。

946 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 20:47:53
>>943
なにを言いたいのかよくわからないが、自分より大きな地域を征服したときに
その地域の王を誇らしく名乗ることは洋の東西を問わずある。

例えばマケドニア人はエジプトを征服してエジプト王を名乗ったし、ノルマン人は
イギリスを征服してイギリス王を名乗った。別に従前の国名や新しい国名を名乗っては
いない。
「中国」だって「文明の概念」などという特殊なものではない。
王朝や時代を超越した名称であるが、時間を固定して空間的に見れば
「地域名、または地域名に基づく国名」である。
満洲族は自分よりはるかに大きい地域を支配したことを誇らしく「中国皇帝」と
表したのである。

>>944
>三輪王朝に参画する形で日本のどこかの地域を簒奪したと言われても、

その段階では「簒奪」とは言わない。三輪王朝を簒奪して河内王朝を開いた、
と言っている。

947 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 21:09:29
>>894
少し言葉が足りなかったようで申し訳ないが俺が言いたかったのは
縄文時代に東北に定住したツングース族は粛慎だと思っていたが
その粛慎が蝦夷を迫害したので粛慎ではなく後に高句麗を建国した狛族ではないかと
書いたのだが。あと東南アジアの動物犠牲は人身御供が起源だとされている
しかし近世人間を御供にするのを東南アジアの国々が禁じたのでその代用として
動物犠牲が普及したわけなんだが。もし宦官が北方系になかったとすれば
扶余は騎馬民族ではないと言ってるようなものでもあるのだが。なぜなら
去勢は馬をおとなしくさせる為の処置で騎馬民族や遊牧民族でよく行われてたのだが
まぁここまで行くともはや水掛け論になってしまうのでここら辺で止めておくが
貴殿はあまりにもツングースを過大評価しすぎてはいないだろうか?ついでに言うと
倭人は高句麗に負けたわけでも何でもない。引き分けをした。その証拠に
百済と新羅を属国にする事に成功した。新羅を滅ぼせなかったのはバックに唐が
いたからに他ならない



948 :947:2006/03/25(土) 21:29:47
連投になるが
百済の担魯が田村になったとか奈良百済なるものは韓国人の妄想にすぎないのではないか
ただ扶余自体は日本に来た可能性は高い。鹿トーテムの象徴たる鹿島神宮や
春日大社がそれを物語ってる。しかしそれは征服したのではなく服属として
(所謂渡来人として)来たのではないだろうが。実際大和朝廷(九州王朝説もあるが)では
朝鮮半島から来た人を穢人と呼んでいたという話もある

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4

あと日本に渡来した扶余系部族はワイ族だったと思う。扶余は昔はワイと呼ばれていたのだろう
鹿トーテムを持っていたので扶余という名にしたのだろう
余談だが新羅を4世紀以降に支配した部族は沃沮と混血した鮮卑ではなかったかと思う
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
鮮卑の部族の一派が楽浪郡設置と共に朝鮮半島に移住したがワイ系部族に追われて
辰韓に移住して南下してきた沃沮と混血したのだろう。これなら扶余系の高句麗と
新羅の言語が一致しない原因もわかる

949 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 21:34:09
相変らずヒドイ電波スレw

950 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 21:53:06
倭王が上表文で、6か国名挙げたのは、それぞれ違う王朝だからだ。
江上波夫はそこに弁韓だけ入ってないのは、
今現実に支配してて必要ないからだと書いてたが、
そうじゃなくて、支配者が変化してないからだ。
慕韓の王朝も百済の王朝も、秦韓の王朝も百済の王朝も、
それぞれ我々“倭国”に服属してた(=歴史的な事実ではないが)、
それゆえ高句麗との攻防において、日本の南鮮支配を支持してくれと
中国に求めてるわけだ。
東アジアにおいてツングース族は
王朝が変化したら、別のものだと認識してるんだから、
逆に言えば王朝の変化をもって国号を変更するのは当然のことだ。

もし扶余族が弁韓全域を支配して、その後倭国に侵攻して王朝を築き、
仮に「辰」と名乗ったとしよう。
*その前に弁韓時代に新たな王朝名が出来てるはずだが(便宜的にそれを「任那」だとする)
その場合、上表文では、自らの倭国支配の正統性承認も同時に求めるだろうから、
「辰・百済・新羅・任那・倭・秦韓・慕韓・弁韓八国諸軍事、安東大将軍、辰国王」
と名乗ってたはずだ。

任那も倭もそのままなのは裏返すと、王朝が同じままだということ。

951 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:24:58
>三輪王朝を簒奪して河内王朝を開いた、 と言っている。

だから、いきなりやってきて奪ったって意味なのかな?
なら武力による侵略って事でしょ?
三輪王朝を簒奪するんなら、三輪王朝時代に来てなきゃいかんのでは?
今回の須恵器の発見は4世紀後半なんで応神の頃だから秦氏とみていいと思う。
秦氏なら簒奪もなにも…

952 :白馬青牛:2006/03/26(日) 00:11:02
>>936
>考古学系の雑誌を隅なく探せば、「史林」に私の論文が出ているので
参考にせいじゃ?結局学界という閉鎖村でないと自分の意見は云えんと
云うわけか。狭い世界の「井の中の蛙」とは、学界の方じゃ。
騎馬民族説が不毛の議論と前提条件を決め付け、図書館で調べればわかると
具体的な論拠は無く、抽象的表現で逃げる学者さんよ。あんたは低脳か?
まあ、日本の考古学会には、つまらん捏造をせんように願うだけじゃ。
>>947
>縄文時代に東北に定住したツングース?粛慎は狛族?記述にも粛慎と
出ておるのに。東南アジアの動物犠牲は人身御供が起源で東南アジアの
国々が禁じたので代用として動物犠牲が普及した?中国南部の苗族が牛を
生贄にする祭礼、人身牛蹄は、梁の『述異記』にもあるように古いので、
代用云々と云えん。宦官もオリエントから中国に至る農耕地帯に普遍的
であると云うとるんに。倭人が高句麗と引きわけじゃ、新羅を滅ぼせない
のは唐じゃ?引き分けなら楽浪の領有権も主張しとろう。新羅のバックに
高句麗がついておる時代と混同しとる。中国の権威を借りて領有権を
主張する倭も、漢人の奴隷民に過ぎん。そもそも倭人とは、日本人だけで
なく、百済・新羅の地域人も含むエスニック集団であろう。後の倭寇が、
朝鮮人主体で古代の倭は日本人集団と都合よく云うのも近代政治思想の
概念であろうに。ツングース系が世界的気候寒冷化で南下した支配者集団で
あったことに違いないと思うが。

953 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 00:34:00
千葉市原の神門4号墳は、纒向タイプで3世紀後半の前方後円墳だという。
そんな時代に関東まで大和(三輪王朝)の支配力が及んでたのには驚いた。
やっぱりヤマトタケルなのかなぁ?
纒向での東海系土器の多さからも言えるし。
そうすると、崇神天皇が3世紀初頭、あるいは2世紀後半あたりに三輪王朝を建てたのかも。


954 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 00:51:12
もはや電波を誘発するだけの存在価値のない有害スレw

955 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 01:01:41
なんだこのスレは???

江上波夫の騎馬民族征服説を討論しているじゃないのか?

なんで発音の議論なんかしてるの?

発音なんかプロでもわかるわけないじゃん。

自分に都合にいいように解釈して
「〜ともとれる。」「〜とも解釈できる。」「〜ならば」「〜を想定」
など、推論・推測をするスレか?

答えなんか出るわけないと思うけどな。


956 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 01:02:27
まあ相手の話を聞くことができない人に
魅入られてるスレだからww

957 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 01:27:48
>>955
その通り。
発音なんてどうでもいい。
それより3世紀には大和の支配が九州から関東に及んでた事を示す考古学の方が面白い。
ヤマトタケルについては、津田左右吉らの説から、
4世紀 - 6,7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物とされてたが、
むしろ2世紀の人物とされてた記紀に近くなってる。
考古学的には「皇国史観」に近づいているなw

958 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 01:30:54
>>957
キングオブ電波

959 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 01:41:42
>>958
電波 、電波 ってうるさいんじゃボケ!
何か意見を言え、この穢人め。

960 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 10:08:37
>>950
上表文の国名は国名と地域名がだぶったりしておかしなところがあるが、
細かいところはぬきにしておおざっぱに言えば、金官の扶余王朝が周辺伽耶諸国
と新羅を支配し、百済とは提携していた、その関係がそのまま倭に持ち込まれた
のだと思う。

>>951
>だから、いきなりやってきて奪ったって意味なのかな?
>なら武力による侵略って事でしょ?

そうではない。いったんは三輪王朝体制の一員として平和的に参画した。
それがある時点で禅譲によってか、武力によってか、大王位を奪った(簒奪
した)と言っているのだ。

例えば渡来系と言われる蘇我氏は大王位をねらって失敗したが、それが成功
したケースを考えればよい。

三輪王朝体制にどうやって参画したのか、と言うのなら、その疑問は「秦氏」
や「蘇我氏」にも同様にあてはまる。

961 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 10:18:06
お前ら本当はオンナにモテたいんだろ! モテ方教えてやるよ!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1138272236/l50

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962 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 10:42:02
>>960
鉄の利権を切り札に参画してきたという訳だね?
で、大王位を奪ったのは応神であると。
母の神攻皇后はアメノヒボコの末裔とされてるけど、
新羅系だね。
第4代脱解王との関わりも言われてる。
扶余とは関係ないと思うがなぁ。


963 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 12:20:00
OH! THIS IS A SUPER ELECTRIC WAVE PARADE!

964 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 12:40:10
◆◆『2ちゃんねる』と朝鮮総連 ◆◆

在日朝鮮人が、戦後の日本で組織的なスパイ活動を展開していることは、
国際政治に詳しい人々の間では、常識として知られている事実だ。
スパイ活動の中心的役割を果たしているのは、もちろん朝鮮総連と韓国民団である。
とくに朝鮮総連は、情報収集と宣伝工作活動のために、インターネット上でいくつもの
掲示板を運営している。それらの掲示板の中で最大規模のものが、皆さんもご存知の、
あの『2ちゃんねる』である。
『2ちゃんねる』は、とうぜん防衛庁や公安調査庁から監視されているのだが、
ここで気になる事がある。それは、『2ちゃんねる』の管理スタッフは、防衛庁や公安などの
国家機関が、『2ちゃんねる』が朝鮮総連の運営するウェブサイトであることに気づいていると
いう事を、知っているのかという事だ。
『2ちゃんねる』の管理人たち、つまり、朝鮮総連=インターネット工作班の朝鮮人たちが、
自分たちが日本国家当局から監視されている事を承知の上で、『2ちゃんねる』で反日宣伝工作を
展開しているとしたら、「いいコンジョウしている」と言えるだろう。
Xデーが来たら彼らは終わりだが、その日が来るまでは『2ちゃんねる』上で反日宣伝工作を続けて
いくつもりなのだろう。逆に言えば、『2ちゃんねる』が運営されている間は、
朝鮮総連はまだ大丈夫である。しかし、朝鮮総連が日本当局に潰される時になれば、
『2ちゃんねる』は何の予告もなしに、ある日、とつぜん閉鎖されるであろう。


965 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 14:54:04
>>960
三輪王朝(俺は倭国大乱の時だと思っているが)に
参画はしただろうが王権の簒奪はなかったかもしれない
ただ王権を巡って誰が王になるのかを争ったから倭人陣営は
扶余(ワイ)の王を倭国の王として擁立した可能性はあるな
卑弥呼が南方系(つまり倭人)の農耕儀礼と北方系のシャーニズムを
混合させた鬼道を以って統治しているのを見ると扶余と倭人の混血の
女性を女王にしたのかもしれない。そうなると天皇家がなぜあれほど
国民に支持されるのも2・26事件の時の青年将校の思いも理解できる
つまり扶余の王(天皇)を擁立した事でワイ系の血を引く縄文人の末裔が
それを支持し、さらに南方系の祭主を重んじる風習と倭人の王を敬愛する
風習がさらに混合したのだと思う

>>962
アメノヒボコは新羅から来たとされてるがおそらく後に新羅を建国して
現在の朝鮮人の母体となった沃沮系鮮卑人とは違う、狛族ではなかったかと
思うが


966 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 15:44:10
>>965
>後に新羅を建国して現在の朝鮮人の母体となった
沃沮系鮮卑人とは違う、狛族ではなかったかと
 ↑
ウソつくなよ。
沃沮系鮮卑人 ←何だよ、これは?沃沮は扶余系だろうが。鮮卑じゃないだろ。
狛人は倭人系だろうが。







967 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 19:30:09
>>965
三輪王朝から韓式土器が出てるが数は少ない。
韓式土器といっても半島のどのあたりの物か知らないが、
扶余は関係ないだろう。

アメノヒボコだが、瓢公ゆかりのタバナ国が丹波だったとしたら、
一応、説明がつくけどね。出石に帰ってるしね。

968 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 22:54:45
>>965
>倭人陣営は扶余(ワイ)の王を倭国の王として擁立した可能性はあるな

なら簒奪じゃないかw

扶余は三輪王朝に参画なんてしてない。
参画してれば、馬具はともかく、
須恵器がもっと早い段階で纒向で見つかるはずだ。

969 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 23:39:28
>>966
俺は>>948で沃沮は鮮卑と混血したのだと書いたのだが
それに狛族は扶余系であるのは明らかなのだが
つーかなぜ興奮しているのだ?

>>947-948
だから俺は三輪王朝時代に扶余が来たのでなく倭国大乱の時に倭人陣営が
扶余の女を女王として擁立したという話をしたのだが
まぁ三輪王朝云々と書いたので紛らわしくなってしまったようだ
反省する

970 :日本@名無史さん:2006/03/27(月) 14:04:37
>>941
ん〜、手持ちの辞書では確認できなかった。。
これについては調べておきます。
>>942
名称は、必ずしも借音で表現するわけではないのです。
例えば日向や大和など、古地名は寧ろ借音は多くなく、百済の地名に関しては他国の史書(日本書紀、周書)などのほうが参考になります。
例えば百済の首都は「熊津」或いは「熊川」と三国史記に記されていますが、周書や日本書紀を参考にする限りでは「komnari」と呼ばれていたとされています。
ワカタケルに関して言えば、人名であり、漢字の意味そのものを考慮しなかったと考えられ、或いは、鉄剣に銘文を刻んだのは張安と呼ばれる中国人であり、
銘文を刻む際に借音でヤマト語を表記したに過ぎません。檐魯に関して言えば、「檐」には(1)屋根の下端で、建物の外壁から張り出した部分。風雨や日光をよける。
という意味があり、中国の建築様式などにも「蜜檐式」とあることから、単なる建造物を示し、それが転じて「宗族に分け与えた地」となったのでしょう。
何よりも、実際に「tamuro」に音借するのであれば、わざわざ檐魯などというややこしい字を当てる必要なんてありません。「多武呂」で十分でしょう。或いは「陀武呂」でも何でも。
普通音節ごとに借音するものです。

971 :日本@名無史さん:2006/03/27(月) 20:46:28
>>970
>檐魯に関して言えば、「檐」には(1)屋根の下端で、

そして「魯」は「おろか、うすのろ」という意味だがこれはどうするの?

>何よりも、実際に「tamuro」に音借するのであれば、(中略)
>「多武呂」で十分でしょう。(中略)普通音節ごとに借音するものです。

半島では古くから漢字の−n終わりを−mとして受け入れたのだ。
日本語でも古代にはそうだった。源氏物語にもその痕跡がある。
(ただし子音は表せないから「−む」「−み」と表す)

だから 「檐魯」は本来は「tan-lo またはtan-lu」だが、それを「tam-lo」と
発音した、あるいはそのような音の言葉を表すのに使った、と推定されるのだ。
(百済語にもlとrの区別がなかったとすれば「tam-ro」)

しかしそれを倭語で表そうとすれば、倭語は開音節語だから-mをその通りには
表現できない、どうしても「たむろ」すなわち「tamuro」となってしまうのである。

972 :日本@名無史さん:2006/03/27(月) 20:49:15
私は「状況証拠」と言ったが、あのページに書かれている状況証拠はなにも
「檐魯」ばかりではない。なかでも気になるのはやはり渤海国王の国書の
「本枝百世」だ。「本枝」とは「本家と分家」の意味だ。

この言葉は「(日本)大王、天朝の名を受け、日本の基を開き、エキヨウ
光重し(エキヨウは子孫のこと)」と「武芸(渤海王)忝なくも列国に
当たり、濫ての諸国を統べる」の間に出てくる。一般には前の、日本大王を
たたえる文章にくっつけるのだが、なんだか座りが悪い。

私はこの言葉は、日本国大王をたたえた後、じぶんのことを誇る文章になる、
その間のつなぎだと思う。つまり「本家がそうなら私ども分家の方では」という
意味ではないか。
渤海国王は天皇家を扶余の本家と見ていたのである。


973 :日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:42:45
渤海と日本(大和政権)との関係は200年にも及び、
延長7年(930年)まで37回もの使節が来朝しているらしいね。
関係が始まった8世紀頃から見て何百年も前の事なんて伝説程度だと思うけどなぁ。
渤海国王が日本との関係を「本家と分家」の関係と見てたとしても、
日本側には何の伝承もないし物証もない。

974 :日本@名無史さん:2006/03/28(火) 10:20:02
>>973
>何百年も前の事なんて伝説程度だと思うけどなぁ。

渤海使の第1回来朝から続日本紀が出るまで、70年しかたってない。
我々が現在、日中戦争のことを書くのに相当する。

>日本側には何の伝承もないし物証もない。

だから「状況証拠」なのだ。
渤海国王も、なにか根拠がなければこんなことを国書に書かないだろう。

なお、訂正する。 誤:天朝の名  正:天朝の命




975 :日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:20:40
>>974
いやいや、俺が言ってるのは扶余本家が来た可能性がある時期から何百年も経過してるという意味です。

976 :日本@名無史さん:2006/03/28(火) 16:04:22
>>975
それでもよろしい。
渤海国王が、「日本の大王家は扶余の本家である」という概念を持っていた、
という一つの「状況証拠」があることになる。
いくら伝説とは言え、現在の時点で言うのとは重さが違う。

977 :日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:18:11
>>976
たしかに今より重いかもしれないが、
伝説が「思い込み」となり史実になってた可能性が高い時代だろう。

978 :日本@名無史さん:2006/03/29(水) 14:18:35
>>977
ただ、そんな伝説を一方的に国書に書くだろうか。渤海国王にして見れば
これから日本と友好関係を結ぼうと言う国書である。相手の出自に係わる
「伝説」を国書に書いて、相手の心証を害したのでは目的を達しない。

例えば中国の皇帝が「除福の子孫たる日本国王よ」と書いたり、日本の
天皇が「源義経の子孫たる蒙古帝国皇帝よ」と書いたりするケースを考えて
見ればよかろう。

そんなことを国書に書けるのは、それが事実であるか、さもなければ相手も
同じ「伝説」を共有していることを、書き手が知っているか、いずれかの
場合に限られるのではあるまいか。

979 :日本@名無史さん:2006/03/29(水) 18:07:45
>>978
「除福の子孫たる日本国王よ」や「源義経の子孫たる蒙古帝国皇帝よ」なら、
自分たちより一段下という意味合いだから失礼に当たるけど、
渤海国王は日本が本家と言ってるんだから、
天皇の気持ちを害する意味合いではないよね。

980 :日本@名無史さん:2006/03/29(水) 19:56:27
>>979
もし天皇家がまったく扶余と関係ないのならやはり失礼だ。
その場合、天皇家がじぶんより扶余を上に見ているのならよいが、
そうとは限らないだろう。

981 :日本@名無史さん:2006/03/29(水) 21:33:11
>>980
天皇家はスサノオあたりを思い出して結構納得したのかもしれんw

スサノオと扶余が関係あるかはまた別だが。


982 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 13:12:51
>>978
そうかねぇ。穿った見方をせずとも、古代から箔をつけるために、全く関係の無い国家に、その子孫である、というような事をいうのはよくあったでしょう。
例えば新羅を建国したのは、天皇家だ、と語ってる奴もいたわけだし。

>半島では古くから漢字の−n終わりを−mとして受け入れたのだ。
>日本語でも古代にはそうだった。源氏物語にもその痕跡がある。

具体例を示していただけますか?
耽羅国「tamna」とかかな?
ただ耽羅は百済新羅の服属国として済州島にあったみたいだけど。

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