5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

日本書紀紀年法がついに解明されました[part2]

1 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/26(日) 15:45:42
日本書紀紀年法は、応神元年を西暦三九〇年と位置付けて、以下の式に
表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統十一年までの
一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって並列構造になっています。
このように考えますと、日本書紀紀年法をきれいに説明することができますが、二〇〇三年に、
研究成果を発表したところ、古代史研究家、ならびに、一般からの反応があまりありません。
賛成意見、反対意見、どちらでも構いませんし、また、異論があれば、お聞かせください。


2 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/26(日) 15:48:46
「日本書紀紀年法がついに解明されました」の続きです。
日本書紀紀年法についての議論を続けてまいりましょう。

3 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:55:18
こういう場合、>>1には前スレへのリンクを貼るべきでは?

4 :質問のいらつめ:2006/02/26(日) 15:58:05
Part 2でも、有意義な質問をいたしたいと思います。日本国の古代の歴史が、明らかになるとよいですね。

5 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:59:01
『古代文化』が危ないです。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006012000034&genre=M1&area=K10

6 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 16:01:18
>>5
任天堂も70億も病院に寄付する金あるんなら一部でもこういうところに
出せばいいのにねえ

7 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/26(日) 16:07:06
>>3さん
「前スレへのリンクを貼る」とはどういうことなのでしょうか。
また、どのようにしたら、「前スレへのリンクを貼」れるのでしょうか。
恐縮ではございますが、どなたか、教えていただけませんでしょうか。

8 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 16:20:59
>>7
日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/

このように普通に前スレのタイトルとアドレスを書き込めばいい。

9 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:01:01
>>1
三国史記、三国遺事の年紀に関してはどうお考えですか。

10 :前スレコピペ:2006/02/26(日) 18:54:57
略歴に答えられたスレ主さんの、前スレ993のコピペです
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
拙著の略歴をご覧いただけばわかりますように、わたくしの最終学歴は、
日本女子大学文学部史学科卒(1986年卒)で、中世英国史を専攻いたしました。
日本赤十字社の国際部で国際救援事業(ヨーロッパ・極東地域担当)に携わっておりましたが、
1996年に退社後、日本史の研究を始めました。
>>1で述べた日本書紀紀年法についての研究成果は、一昨年、史学会にて研究報告させていただいており、
『史学雑誌』第113編12号に論旨は掲載されております。
また、拙論数編は、『東アジアの古代文化』という雑誌にて採用となっております。
博士号(論文博士)の取得を考えておりますが、日本書紀紀年法を専門とされる研究者が、ほとんどおられないことから、
難しい状況にあり、困っております。どなたか、日本書紀紀年法で博士号(論文博士)を取得できるような大学を
ご存知でございましたなら、お教えいただきたいと思います。

→どなたか、スレ主さんの願いに愛の手を!!

11 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:56:43
三国史記は、日食があったとかの天候記事が多いから、
天文学で検証出来そうなもんだけど、どうなんだろ?

12 :日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:10:27
>>7-8
さらにいえば、次スレを立てて議論を継続する意志があるのなら、前スレが
950を越えたあたりで早めに次スレを立てて、前スレにも次スレへのリンクを
貼るのが作法です。

13 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 00:43:23
>>10
とりあえず大化前代の古代史を扱っている人がいる大学を探すことでしょうな。
あと論文博士は近い将来なくす方向って話も聞くから急いだほうがいいかも。
それと今度どこかの学会とかで報告するときには、このスレでの告知よろしく。

14 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 09:50:44
>>9さん
『三国史記』や『三国遺事』は、12世紀、13世紀の成立ですが、
「旧三国史」があったこと、また、『日本書紀』に見える百済三史などの存在を考えますと、
信憑性を認めてよいのではないかと考えております。しかしながら、すべて正しいわけではないようですので、
史料批判が、必要なのではないかと思います。

15 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 10:04:34
>>前スレコピペさん
ご親切ありがたく存じます。
日本書紀紀年法についての博士論文を書きましても、これを審査する研究者がおられないという
理由で、研究者の方々や大学から断られてしまう現状にあります。
そこで、拙著や拙論にて少しづつ研究成果を発表しているのですが、
できれば、これ一冊を読めば、日本書紀紀年法のすべてがわかるというような概説書を、
博士論文として発表したいと考えております。
日本史研究の役に立つのではないかと考えているのですが、難しい状況です。

16 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 10:11:23
>>11さん
天文学から『日本書紀』の記述の信憑性や年月日の問題を研究されておられる研究者の方々が、
いらっしゃるようです。『三国史記』に対しても研究されているのかはわかりませんが、
記述の信憑性を確かめるのには、有効なアプローチかもしれません。

17 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 10:19:21
>>12さん
作法を存じておりませんで、ご不便をおかけすることになってしまい、
申し訳ございませんでした。
以下の前スレッドのアドレスを、書き込みごとに、なるべく表記することによって、
対処いたしたいと思います。

日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/


18 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 10:33:41
>>13さん
ご親切に、アドヴァイスをいただきまして、ありがたく存じます。
>>15で述べましたように、たとえ大化前代の古代史を扱っておられても、
日本書紀紀年法を研究対象になさっておられませんと、断られてしまいます。
これまでも、いくつかの大学に論文審査をお願いいたしましたが、同じ理由で、
難しいとのご返答でした。
日本書紀紀年法を研究対象となさっておられる研究者を探すことは、難しいことです。

日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/

19 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 10:41:07
なんか物凄い勘違いしてるデスよ
前スレリンクは毎回書き込まなくていいよ

20 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 10:57:37
>>18
ほかの継続しているスレッドをご覧いただければわかると思いますが、
前スレッドのアドレスは後継スレッドの>>1で1回だけ書き込みしておけば
OKですよ。

21 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 12:42:02
>>19さん、>>20さん
ちゃんねる2の作法を存じあげませんで、>>1で前スレッドのアドレスを書かなかったのです。
ご指摘を受けまして、なるべく書き込むごとに、前スレッドのアドレスを記すことで対処いたしたいと思いました。


22 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 12:49:30
前スレッド996さん
前スレッドでのご質問にお答えいたしたいと思います。
>>14で述べましたように、『三国史記』や『三国遺事』は、12世紀、
13世紀の成立ですが、ある程度の信憑性は認めることはできると思います
(もちろん史料批判も必要です)。

日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/

23 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 12:53:24
前スレッド997さん
史学会での研究報告の概略は、『史学雑誌』113編12号に掲載されており、内容は、
>>1で述べたものと、ほとんどかわりません。

24 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 12:56:07
前スレッド998さん
「石上麻呂が怪しい」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。

25 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 13:07:53
新羅本紀に卑弥呼が出てたりしますが
あれは本当なんでしょうかね。
2,3世紀に倭の襲来があったり

26 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 13:08:30
前スレッド999さん
わたくしは、小林恵子氏のような歴史作家になるつもりはありません。
わたくしのスタンスは、小林氏とはまったく違います。
小林氏の作品には、反日的な傾向があるように思えます。
わたくしは、自国の歴史を尊重しております。
また、歴史作家は奇想天外なフィクションをまじえて書けばよいわけですが、
わたくしは、研究者として、学問的、学術的に史実を論証してゆきたいと考えております。

日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/

27 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 13:17:56
前スレッド太国さん
「女賊は貴女のことではありません。役者に見立てた神功の話への批評です。」
の「女賊」というのは、いったい、どこに出てくるのでしょうか。
また、わたくしの神功皇后複数説は、神功皇后を役者に見立てているわけではありません。
卑弥呼や台与が実在していたと考えられるように。
史学は、フィクションではなく、ノンフィクションが研究対象です。

日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/

28 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 13:21:01
困ったことになりましたね

29 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 13:27:59
>>25さん
『三国史記』「新羅本紀」の阿達羅尼師今王の二十(173)年条に、
倭の女王卑弥呼が使者を遣わしたとみえることにつきましては、
『魏志』倭人伝の「卑弥呼(日皇女)」、先代「卑弥呼」、もしくは、
数代前の「卑弥呼」のことではないかと考えられます。
いわゆる「倭国大乱」の終息期になりますので、この時期に、新羅と倭の間に
何らかの外交交渉があったのではないかと、推論いたしております。

30 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 13:32:07
>>28さん
具体的に、いったい何が「困ったこと」なのでしょうか。
日本書紀紀年法のことでしょうか?
困ったことの内容が、わかりませんと、対応のしようがありません。

31 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 13:51:30
>>29
卑弥呼は固有名詞ではなく一般名詞だとお考えなのですね。

32 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 13:53:41
>>1さん
2chあまり知らないようだけど
もしかして2ch専用ブラウザとか使ってない?

33 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 13:54:23
>>18
貴方と似たようなことをやっている人あるいは貴方が投稿するような雑誌に投稿している人の所属or出身大学を片っ端から当たってみれば?

34 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 14:13:54
阿達羅代の卑弥乎は年代が干支一巡ズレてるだけじゃない?

35 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/27(月) 14:21:34
スレ主さん

卑弥呼=代名詞
可能性ありでしょ!
それも、二人の卑弥呼!
一人は二世紀後半
そしてもう一人は、皆さんご存知の卑弥呼
姉妹かな?

36 :太国:2006/02/27(月) 14:58:27
もうこれは黒蜥蜴?ww

37 :太国:2006/02/27(月) 15:17:04
>>27 前スレの >965 の件です。


38 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 15:49:51
>>31さん
「卑弥呼」は、固有名詞ではなく一般名詞と考えております。
1)未婚であったこと、2)政治は「男弟」に任せていたこと、
3)宮室の奥深くにあって見る者稀であったこと、4)鬼道(祖先崇拝?)に通じていたことから、
神祇祭祀を掌る斎宮のような地位であったと推論いたしております。
おそらく、「卑弥呼」とは、「日皇女(ひみこ)」、「日女子(ひめこ)」、
「姫子(ひめこ)」などの一般名詞を、卑字で表記したものではないでしょうか。

39 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 15:52:18
>>32さん
おっしゃられる通りで、2chについてあまり知りません。
「2ch専用ブラウザ」とは何でしょうか。

40 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 16:05:49
>>33さん
アドヴァイスありがたく存じます。
わたくしと似たような研究をなさっておられる研究者や一般の方がおられないのが問題なのです。
日本書紀紀年法につきましては、明治以降「紀年論争」など活発な議論がありましたが、
万人を納得させるような説がなかったことから、現在では、大学で日本書紀紀年法を
専門に研究されておられるような方々がいらっしゃられないのが現状です。
また、日本書紀紀年法の研究のうちでも、しん緯暦運説の一蔀年数の問題
(1260年説と1320年説)など、部分的な課題に研究が特化されている傾向にあります。




41 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 16:13:19
>>34さん
173年に120年をプラスいたしますと、293年になります。
293年は、たしかに神功紀の扱っている時代に入ります(神功紀:201〜389年)。
293年に、台与から「卑弥呼(一般名詞)」への代替わりがあったとも考えられます。
293年の意味について考えてみたいと思います。

42 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:15:34
>>39
2ちゃんねる及び類似型の掲示板を閲覧・書き込みする為に特化したブラウザです。
日本史板は人多過ぎで普通のブラウザで見れなくなることもないし、
他の板・スレを利用しないならば導入する必要はないと思います。

もし興味があれば
http://pc7.2ch.net/software/
で「ブラウザ」で検索してみて該当するスレを覗いてみてください。

43 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:18:59
卑弥呼は年已長大だ

これは倍歴じゃなくてホントに長大だった


新羅側の外交記事は卑弥呼が即位したばかりの頃

つまり卑弥呼もまた台与と同じように少女だったのだ

44 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 16:20:56
>>35プラムさん
「卑弥呼」は一般名詞であるとわたくしも考えます。
>>38>>41でも述べましたが、「卑弥呼」は称号であり、
神功皇后の時代(2世紀末から4世紀末)には、
数代の「卑弥呼」があったのではないかと推論することができます。
ちなみに、わたくしは、第一代の「卑弥呼」は成務天皇ではなかったかと考えております。

45 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:22:20
>>39
IEなどのWebブラウザで2chを見ているのなら、
さぞ見にくいことでしょう。

この頁などを参考にして試してはいかがですか
ttp://ringonoki.net/tool/2ch/1-2ch.html

46 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 16:30:02
太国さん
「女賊」が「黒蜥蜴」なわけですね。
「黒蜥蜴」こそ劇の世界の登場人物ですので、神功皇后を「役者に見立て」ていらっしゃるのは、
太国さんの方なのではないでしょうか。
わたくしは、歴史はノンフィクションの世界と考えておりますので、
神功皇后を役者には見立てておりません。

47 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:41:05
173で遣使

250頃で死亡

卑弥呼は凶年80歳異常だ”””””

48 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 16:48:27
>>42さん
アドヴァイスありがたく存じます。
このスレッドに対応するだけで手一杯で、他のスレッドに書き込む余裕がありません。
もう少し時間的に余裕がでてまいりましたならば、専用ブラウザを利用してみたいと思います。

49 :質問のいらつめ:2006/02/27(月) 16:55:16
本日、突然に、前スレが、ドレスと共に消えてしまいました。これでは、前スレを参照できなくなりますので、議論が混乱してしまいそうです。どなたか、消えてしまった理由や復興の方法をお教えいただけないでしょうか。

50 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 16:56:25
>>43さん
卑弥呼(『魏志』倭人伝に云う「卑弥呼」)が、173年から247年頃まで存命であった可能性は、
43さんがおっしゃられるように、「卑弥呼」となったのが幼少の頃であったと想定いたしますと、
成り立ちます。一方で、「卑弥呼」の代替わりがあったとも考えられます。
本当はどうであったのかは、史料に残っていない以上、判断の難しい問題です。


51 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 17:00:43
古事記の崩年干支によると仲哀天皇は362年没。
応神天皇即位が390年。
この間約30年が神功皇后時代ということになりますが、
応神天皇没が394年で、応神は僅か4年の治世?

そして仁徳天皇が427年没。
応神天皇が仲哀没直後の新羅征討後に
生まれたとしたら、没年は30歳ほどの若死ということになる。
ということは応神の四子という仁徳天皇は即位したときは
十代前半の少年だった可能性が高い。
しかしし即位直後からばしば朝鮮出兵を繰り返している。

やっぱ古事記崩年干支は出鱈目なのか?

52 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 17:01:41
わたくしも、本日、前スレッドの内容が消えてしまっていることに気づきました。
続きのスレッドを立ててわずか2日で、前スレッドの内容が消えてしまっては、
不便があります。
2chの運営者は、気に食わないスレッドは消去するのでしょうか。

53 :51:2006/02/27(月) 17:02:49
>そして仁徳天皇が427年没

これは間違いました無視してください

54 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 17:08:41
>>51さん
応神天皇以降の古事記崩年干支には、信憑性が認められると考えられます。
>>1で述べた「プラス・マイナス120年構想」は、古事記崩年干支によって、
構成されているからです。すなわち、応神元(390)年から雄略五(461)年
までの72年間に120年分の紀年が加算されており、これらの120年分の紀年は、
古事記崩年干支の年代以降を「延長紀年」と捉えることによって算出することができるからです。
問題は、仲哀天皇の崩年干支にあると思います。

55 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 17:11:27
>>51さん
仁徳天皇の崩年干支は、427年で正しいはずです。間違えではないと思います。

56 :51:2006/02/27(月) 17:33:29
>>54
>>1の説明だけではよくわからないのですが、
複数の皇統が並立していたということ?

応神治世はたった四年間ということで良いのでしょうか?

>>55
文脈上不要な一文だったということです。

57 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 17:44:00
>>49>>52

2ちゃんねるビューア(有料)が必要です。ここを読んで下さい。


ttp://2ch.tora3.net/ 

   

58 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:10:15
http://up.arelink.net/up50/src/are0441.bin

ほれ

59 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:32:40
「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。
そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』
と言ってやる。(笑)。だけど、アイツ働かないからな(笑)」
【「正論」2003年号1月号81ページ 憲法集会での辛淑玉の発言】
                               ↑
                       救いようのないバカ(嘲笑

★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、
日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していた。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準のレベルに差があった、
などということはありえない。古代においては、日本列島もカラ半島南部も『倭人の世界』だったのであり、
同じ倭人どうしが交流していたのだ。朝鮮人は、古代日本とは何の関係もないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)ではない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、古代カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郷(現在のソウルの東方地域)に
住んでいた少数部族であるが、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に難民となって南下し、
日本領=シラキに移住したのである。後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、
王権を簒奪して志良岐を乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
朝鮮民族は、けして韓人(カラビト)ではない。 もちろん、倭人=日本人でもない。
辛淑玉は、日本人と朝鮮人を同族だと思いたいようだが、残念でした、何の関係もありません(笑


60 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:39:39
>>49>>52

58さんのアップローダーに上がっているのがいつ頃消えるかはわかりませんが
前スレッドが必要なのなら早めに保存しておいた方がいいと思います。


61 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:50:00
>>49,52
本当によくわかってないようだから、あえて親切心を出します。
今後はなにか2ちゃんねるを利用する上でわからないことがあれば、初心者板
http://etc3.2ch.net/qa/
の質問スレなどで質問してみてください。
例えばここ↓
初心者が安心して質問できるスレッド 247
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/qa/1141032997/

で、前スレが参照できない件ですが、1000まで行ったスレ(もちろん他にもいろいろなケースがあります)はいわゆる「DAT落ち」といって普通の手段では参照できなくなる状態になります。
参照するためには57の人が示しているように金を払ったり、あるいはにくちゃんねるなどを利用すれば参照は出来るようになります。
あまり知らない状態で変なこと、例えば運営側の陰謀などという言は慎むべきでしょう。
スレによっては叩かれたり煽られたりバカにされたりする原因になります。

で42では書き忘れたこと思い出しました。
2ちゃんねる専用ブラウザを利用すると、一度取得したスレをローカルに保存できます。
つまり自分で削除したり、DAT落ちなのに再取得などを行わない限り、いつでも参照可能となります。
またアンカーにマウスのポインタなどをあてるとポップアップで参照先のレスが見えるなどの利点もあります。
42ではああ書きましたが、たとえ利用するのがこのスレだけでも2ちゃんねる専用ブラウザを使う価値はあるかもしれません。

62 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 19:48:34
>>51さん
日本書紀紀年法では、5世紀は、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)の4本の「年代列」によって多列・並列構造となっております。
これらの「年代列」は重なる場合がありますので、51さんがおっしゃられるように、
「複数の皇統が並立していた」という表現もできるかもしれません。
並立構造の原因については既に試案があり(たぶんかなり蓋然性が高いのではと考えております)、
研究成果を発表したいと考えております。
応神天皇の治世は、4年ということになります。しかしながら、どうやら古事記崩年干支は、
天皇が崩された年代ではなく、譲位された年代であるようです。


63 :太国:2006/02/27(月) 19:51:44
>>46
一般名詞はまあいいとして、卑弥呼が多数いたらもう探偵小説のようで映画演劇
をやっているように見受けられますよ。
極端に20人も同名でいれば、これは怪人二十面相の世界のようです。
これじゃぁうまくないですよ。
>>44
卑弥呼は九州にあった国の女王であり、畿内の天皇にはなりえません。
それは九州行幸した天皇はいますけどね、成務天皇が卑弥呼だというのは
推理のし過ぎだと想いますが。

64 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 19:52:37
>>57さん
ご親切に、過去スレッドを閲覧する方法を教えていただきまして、
ありがたく存じます。
妹の「質問のいらつめ」が早速に登録いたしておりました。

65 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 19:57:21
>>58さん
ご親切にも、アップローダーというものにのっております前スレッドのアドレスを、
表示してくださいまして、ありがたく存じます。

66 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:57:22
日本書紀紀年法がついに解明されました
http://makimo.to/2ch/academy4_history/1132/1132131322.html

67 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 20:07:10
>>60さん
ご親切に、アップローダーというものにのっているアドレスは、
いつ消えてしまうかわからないということを教えていただきまして、
ありがたく存じます。早速、前スレッドを保存しておきました。

68 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 20:14:35
>>61さん
前スレッドが、削除になってしまいましたことの原因と対処法を、
懇切ご丁寧にご説明いただきまして、ありがたく存じます。
前スレッドは、早々と「DAT落ち」になってしまったわけですね。
それから、運営者の陰謀説を唱えてしまいましたこと、古代史研究に没頭して、
近頃、疑い深い性格になってしまっていると自省しております。


69 :質問のいらつめ:2006/02/27(月) 20:18:26
>>61さん
 ご親切にも、2ちゃんねる専用ブラウザついて丁寧にご説明くださいまして、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。早々に、登録してみました。むつかしそうですので、これから、使い方を覚えてゆきたいと思います。

70 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 20:24:49
>>63太国さん
太国さんは、『魏志』倭人伝の卑弥呼と台与は九州の女王で、
畿内には天皇があったと解釈されておられるようですが、それでは、
卑弥呼と対立していた「狗奴国」の王家が、天皇家ということなのでしょうか。
それから、わたくしは、神功皇后問題を映画演劇のようには考えておりません。
卑弥呼、台与、それから、応神天皇の母后という少なからず3人の実在の女性が、
「神功皇后」として『日本書紀』においては扱われていると推論しております。
神功皇后複数説は、常識的な説であり、別段に、奇想天外な説ではないと思います。

71 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/27(月) 20:27:52
>>66さん
前スレッドのアドレスを表示してくださいまして、ありがたく存じます。
>>58さんのアップローダーとは、別のアドレスのようですね。

72 :太国:2006/02/27(月) 21:36:46
>>70 >>44
卑弥呼は女王国の文字通り女王ですよ。
成務天皇、若帯日子は男性ですよ。だから卑弥呼ではないんですよ。
天皇で女性なのは推古天皇が始めてなんですよ。

73 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:41:25
卑弥呼は個人名だよ。女王のね。
じゃなかったら他に王名が出てくるわけがない。

74 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:48:27
日本列島で初めての天皇は天武です。
畿内の応神は天皇じゃありません。
卑弥呼は九州福岡の人間です。
壱与も福岡の人間です。
どちらも天皇じゃありません。

75 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:52:45
成務は武内宿禰を天皇化した架空人物じゃないの
続日本紀に「若帯日子の姓が国諱に触れるからやめさせた」、
とあるのはどう考えるべきかな?

76 :太国:2006/02/28(火) 07:56:03
天皇に姓があるのかい?無かったと思ったが?

77 :質問のいらつめ:2006/02/28(火) 09:29:52
))74さん
 天武天皇を、日本列島(本州?)における最初の天皇であるとしますと、仲哀天皇や神功皇后の熊襲平定のお話は、どのように理解したらよいのでしょうか。それとも、天皇という称号を最初に用いたのは天武天皇である、とおっしゃりたかったのでしょうか。

78 :太国:2006/02/28(火) 09:35:08
>>74
應神は天皇である。天武が、始めての天皇ではない。

79 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 09:38:31
>>72、76太国さん
前スレッドの945でも、少し述べましたが、以下の理由によって、
卑弥呼は、成務天皇に投影されている推論することができます。

1)成務天皇には、配偶者がおらず、斎宮のような存在であったと想定できる。
2)成務天皇と武内宿禰との関係は、卑弥呼と「男弟」の関係を投影していると考えることができる。
3)『続日本紀』には、奉幣するのに、成務天皇陵と神功天皇陵を間違えたという記述が見える。
4)成務天皇と神功天皇の陵は、「狭城盾列陵」というまったく同じ名である。
5)雄略紀に「稚足姫皇女」を斎宮としたという記述が見える。

これらの理由から、成務天皇が女性であったとする仮説は成り立つ余地はあると思います。
また、天皇には姓はあったのかという問題ですが、『隋書』や『旧唐書』には「阿毎」とあり、
『宋史』の引く「応年代記」には「王」とあったようです。
いつごろからにか、天皇家には姓がないということになったわけですので、
天皇の姓については、研究が必要であると思います。


80 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 09:51:02
>>73さん
「卑弥呼」と「台与」というふたりの女王の名がでてくることは、
台与が神祇祭祀を掌る「卑弥呼」(称号)ではなかったということに起因していると、
わたくしは考えております。
「卑弥呼」は「天照大神を祭る皇女」という意味ですので、宮室奥深くにあって、
見る者稀であった『魏志』倭人伝の卑弥呼は「卑弥呼」ですが、台与は、
黄どうを仮授されるなど自ら軍を率いたのではないかと想定できるような人物です。
この意味で、「神功皇后」には、台与の性格がより強く反映されていることになります。
したがいまして、>>79でも述べましたように、卑弥呼は、むしろ成務天皇に反映されていると、
推論したのです。


81 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 09:57:30
>>74さん
「天皇」という号が成立したのが、天武朝の頃であると考えられます。
したがいまして、天武天皇より前の歴代「天皇」は、「天皇」と号されていたわけではないのです。
後に「天皇」と号されるようになる立場や地位はあったと、想定することはできますが、
「天皇」の定義は、紆余曲折したようですので、この辺の整理が難しいと言えるでしょう。

82 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 10:02:34
>>75さん
>>79>>80にて述べましたように、わたくしは、卑弥呼は成務天皇に投影されていると考えております。
『続日本紀』において「若帯日子」が改姓させられたと見えることは、
むしろ、このような成務天皇の歴史的背景を踏まえてのことであったとも、
推論することができます。

83 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 10:03:35
皆さんおはようございます
>>77
やはり『神武』が最初の天皇かと
それ以前は『帝/ミカド』

卑弥呼は、神(太陽神)と帝の間に位置し、帝すら平伏す事の出来る存在
その信仰行為にやがて権力が結び付き 帝も超える
最高位権力者に

84 :太国:2006/02/28(火) 10:09:23
配偶者? 弟財郎女じゃぁないんですか?
稚足彦は「彦」の字からして男性ですよ。推古まで女性天皇はいません。
神功は皇后であり、天皇ではなく、古史古伝も天皇にしてるのがありますが、
即位しておらず、摂政にて止まります。
その 5)からの稚足姫の使用例から成務を女性とは、まだまだ云えません。
古事記によれば、速秋津日子、速秋津比賣は同名でも男女別々になっています。
3)はご陵はでかく似たものどうしの傾向ありますから、誤認もあるでしょう。
仁徳陵と履中陵は隣接していて、そこに常住してる方らは間違えませんが、
一般の方らは、間違えることは多少なりともありえます。
誤認の可能性は男女取替えからではないでしょう。私、昔二陵へ行きました。
ご陵が隣接してればその名も同一的になりましょう。二陵はいまも百舌の名が
付いてませんでしたか?
姓の話有難う御座います、

85 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 10:48:50
>>80
卑弥呼以前に朝献した倭王帥升はどうなるの?
そもそも文献的に3世紀の、倭国乱(と言われる)の平定後に共立された女王以外を指す例はあるのですか?
私は寡聞にして知りません。
また倭人伝に倭国の官名が記述されてることを考えれば、卑弥呼を称号、少なくとも天皇や可汗などのように王位を示す称号とは同列には語れない。
無理が多すぎると思います。

結局のところ、記紀の記述から卑弥呼や壹与の痕跡を見つけ出すのは、ほぼ不可能だと思います。
むしろ、例えば古田氏が卑弥呼を甕依姫に比定したように風土記などの方が可能性はあるのでは?

86 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 12:36:46
プラムさん
「天皇」の号が成立する以前におきましては、帝だけではなく「すめらみこと」、
「おおきみ」などがあり、「大王(おおきみ)」などは、研究史上かなり有力視されています。
また、日本では独裁を嫌いますので、卑弥呼の権限につきましては、一考の余地があります。
わたくしは、やはり神祇祭祀権者と執政権者は分離していたのではないかと推論いたしております。

87 :質問のいらつめ:2006/02/28(火) 12:37:18
>>83 のプラムさん
ご意見をお聞かせくださいまして、ありがとうございました。ところで、プラムさんがおっしゃる『神武天皇』とは、何世紀頃に生きておられた方とお考えなのでしょうか?

88 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 12:39:47
>>85
その前に、帥升が何故『固有名詞』と考えるの?
倭国王の称号も、
複数の王(代表)『帥升一団』の中心的人物が貰った称号だろう!

89 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 12:46:38
>>87さん

★倭国王『武』と考え、五世紀末です。
最初の『日本建国』者であり初めての『天皇』
中国正史『宋書』も、この時から『倭国』伝になっています。
初めて国(一国一都)として認められた

90 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 12:55:23
太国さん
『日本書紀』では成務天皇には配偶者がおりませんが、『古事記』には、
ご指摘のとおり「弟財郎女」という配偶者がおります。
わたくしは、「弟財郎女(おとたからのいらつめ)」という女性こそが、成務天皇のことではないかと推論いたしております。
7世紀の「神功皇后」ともいえる斉明天皇の御名は、宝皇女(たからのひめみこ)です。
仁徳天皇と履中天皇の御陵の名は「百舌」を含んで似ておりますが、まったくは一致してはおりません。
一方、成務天皇と神功皇后の御陵の名は、まったく同じです。
また、「聖」の問題で、仁徳天皇と履中天皇とは混同されたのではないかと、
先に述べましたが、このような両帝の御陵の名の近似は、むしろ混同説を補強していることになるのではないでしょうか。
天皇の姓につきましては、ご研究の参考となれば幸いです。


91 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 13:00:00
スレ主さん

「すめらみこと」「おおきみ」「みかど」
全て「み」が付きます
面白いですね!

ところで、
「王が平伏す」
この行為に注目しております。
「みこ」や「ひみこ」「かみ」も、そうですね

92 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 13:03:46
>>85さん
日本書紀紀年法の構造から、倭国王「帥升」は、崇神天皇のことであり、
即位は西暦91年と考えております。『魏志』倭人伝にも記載がありますように、
170年代頃に「倭国大乱」となりますが、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后の頃、
すなわち、「卑弥呼」の擁立を通して、大乱は収まっていったのではないでしょうか。

93 :質問のいらつめ:2006/02/28(火) 13:05:06
>>89のプラムさん、ならびに、皆さま方
 プラムさんは、倭国王=天皇と捉えていらっしゃるようですね。ところで、この問題を考えるにあたっては、古代の日本国の統治体制を明らかにしてゆく必要があるように思えるのですが、いかがでしょうか。

94 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 13:18:10
>>91プラムさん
「み」とは何か、ということでしょうか。様々な解釈ができそうです。
単純に尊敬を表す接頭語かもしれませんが、これですと「きみ」や「かみ」の「み」は、
説明がつきません。『魏志』倭人伝の投馬国の官の名に「彌彌(みみ)」や「彌彌那利(みみなり)」
と見えますので、何か意味があるのかもしれません。
プラムさんは、卑弥呼は「王が平伏す」るような存在とお考えのようですが、
斎宮が天照大神を祭りながらも、政治の中心の京都から遠く離れた辺境の伊勢にあったように、
神祇祭祀的権威は、政治とは結びつかなかったと考えますが、いかがでしょうか。



95 :太国:2006/02/28(火) 13:39:47
昔、新諸国物語の「百面童子」という映画があり面白かったな。
主役の人物に敵がかかろうとすると、面が変わり他人のようにな〜る。
まさに多面一人だ。w

なんだか昨今、投影映画のようにこのスレは移行しているように思えるのだが?
そのような方はそろそろ目を覚ますべきでしょう。w

96 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 13:51:57
後戻りできない感じ

97 :74:2006/02/28(火) 13:58:50
>77 いらつめさん

以下、仮説を多数含みます。

畿内王権は九州王朝のやわらかな配下にあったと思います。
真人・朝臣などの姓が、九州王朝から畿内の大王に与えられていた節があります。
しかし3世紀末からの極東三百年戦争に疲弊した九州王朝のもとで
畿内王権の地位は逆転していったようです。
663年の白村江戦のとき、畿内王権が出した船団は、九州王朝側の
命にそむいて、結局出撃いないようであります。
極東戦責任者、唐の劉仁願はこの間に叱責されて四川省に左遷=配流され、
白村江戦以降、新羅は半島を統一し、九州は唐の羈縻(きび)政策により
都護府の下部組織、都督府を置かれて、属国化します(うまくいきませんでしたが)。
九州王朝の属国化に危機を感じて沸き起こった騒乱が、壬申の乱です。
天武が九州王朝をおよそ平定した後、九州王朝の公文書が発見されます。
この中に「仲哀天皇や神功皇后の熊襲平定」の原資料があったと思います。
これは九州王朝の古代の王の戦記から盗用したものです。
この九州王朝の公文書が発見されたために、乏しい資料で書かれた古事記は封印され、
あらたに日本書紀が作られました。

98 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 14:10:22
>>96さん
「後戻りできない感じ」とは、具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか。


99 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 14:18:38
スレ主さん

それはかなり後世の事
卑弥呼が太陽を操り天候を左右し、鏡の前にて天の声を伝える
そんなパフォーマンスが
民や王臣に多大な影響を与えるのでは
そして
最後の仕上に、中華王朝のバックアップ!
これにて国内政権は、我が手中も同然です。

「記紀」の記録に、仲哀帝のボロローン暗殺事件が如実に語っております。
神功皇后は、新羅ではなくその先の「後漢或は魏王朝」への朝見を臭わせた一文かと!
仲哀帝とは、『不屬女王』の祖では?
ちょっと先走りました。
イケナイ!

100 :74:2006/02/28(火) 14:34:03
>77 いらつめさん

「天皇」については、研究家さんが>81でご指摘のとおりです。
天武が初めて天皇を号したので、それ以前に天皇はおりません。
ただし九州王朝では兄弟統治をする習慣があり、兄王を「法皇」
と呼称していたようです。

天武の少し前までは、畿内王権が本州や九州の元号を決めた
ことはありません。九州王朝の王が本州九州四国の元号を決めており、
都督府が置かれた瞬間は、唐の元号に置き変えられたことでしょう。
ただし、それも隋代以降の話で、三国(魏)時代までは、漢や魏の
元号を使っていたわけで、列島側で元号制定をしていないと思います。

101 :質問のいらつめ:2006/02/28(火) 15:11:59
>>97の74さん
 大変詳しくご説をお示しくださりまして、ありがとうございます。
74さんは、『古事記』は、畿内王朝の史書であって、『日本書紀』は、九州王朝の公文書であるとお考えのようです。しかしながら、仲哀天皇と神功皇后の記事は、いづれにも記載があるのですが、
これは、どのように理解したらよろしいのでしょうか。

102 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 15:43:14
九州王朝wなどまともに相手にしてはいけませんよ
スルー推奨です

103 :太国:2006/02/28(火) 16:06:37
九州王朝はあったんですよ。スルーだどと?これはシカトしろの意味ですか?

104 :74:2006/02/28(火) 16:31:31
>101 いらつめさん

記紀のどちらも、九州王朝を滅ぼした畿内王権の作です。

105 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 16:51:49
>>95太国さん
このスレッドは、まったく映画のようではありません。
むしろ、日本古代史の実相、すなわち、ノンフィクションを追求するための議論の場であるといえます。
『日本書紀』の編年や記述には、現実離れしたものがあるからこそ、様々な仮説を立てて、
議論することが必要なのです。


106 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 16:59:22
>>99プラムさん
日本古代史におきましては、たしかに中国歴代王朝との協力関係や確執・対抗関係といった要素は、
見逃せません。中国歴代王朝のバックアップを期待した政権もあったでしょうし、また、
中国歴代王朝と対抗した政権もあったことでしょう。
日本は島国ですが、他の地域と没交渉であったわけではありませんので、
大陸との関係を研究することは、大事なことであると思います。

107 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 17:01:30
>>102さん
「九州王朝」なるものの定義が問題であると思います。


108 :質問のいらつめ:2006/02/28(火) 17:02:02
>>104の74さん
 天武天皇が九州王朝を平定した、ということは、74さんの説の文脈から考えますと、
唐の都督府による支配から九州を解き放ったのが、天武天皇であった、
ということになるのでしょうか。

109 :太国:2006/02/28(火) 17:08:02
だけど、卑弥呼成務説は奇抜に過ぎます。まあこういうスレだからいいですが、
博士号の論文の中にそういう説を入れますと、私的な思いですが、
まずハネられると危惧しますな。女王国が畿内だ九州だと割れてますが、
どちらか一方が間違いでしょうが、こんなことは上の学者連でも二分されて
いることから、どっちの説で博士号を狙おうと、いっこうに構わんですがね。
成務=卑弥呼説じゃぁどう論文を書こうとも失格になると考察しますがねぇ?w
もっと極端を言えば、論文上にUFO説を書き込んだり、心霊説やカルト的な
ものを強く打ち出して述べれば、まず通らないことは貴女も分かるんじゃないか
と思いますが・・・?その説はまだスレ上だけにしておいたほうが身の為ですよ。

110 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 17:20:10
成務が卑弥呼だとすると、神功皇后が壹与になるのかい?
あと92に対するレスですが、どうも言いたいことが伝わってないようです。
もともとの趣旨は「『卑弥呼』が王権あるいはそれに類する地位の称号であり、代々の『卑弥呼』がいた」という主張はムリがありすぎるということです。
何しろ3世紀に倭国乱を受け共立されて女王となった「卑弥呼」以外の記録がないわけですから。
そして卑弥呼以外の王には「卑弥呼」なる称号は使われてないのです。
帥升が誰に比定されるか?壹与が誰に比定されるかというのとは無関係です。

111 :74:2006/02/28(火) 17:29:32
>107 研究家さん
私見ですが、連続した元号と、安定した王位継承、
周辺諸国から認められた地位を備えた
九州にある国家のことを指しています。
(欲を言えば、度量衡の統一や通貨の発行があれば
さらに王朝として立派だったですが)

>108 いらつめさん
はっきりとは分かりません。
突厥を平定していった唐は、勃興してきた吐蕃に西方を
奪われ、唐の安西四鎮は廃止になるという危機的状況であり、
極東においては、高句麗滅亡をもってその最大目的は終了しました。
新羅の攻撃によってたびたび移転した安東都護府は、唐にとって
もうどうでもよく、安西都護府だけが重要になってきました。
軍事的主力を対吐蕃の安西都護府に移した時期にあって、
安東都護符の下部組織=筑紫都督府などはさして重要ではありません。
しかもこの時期は、半世紀権力を握った則天武后(皇后即位655〜死去705)
が政治を決めています。大胆な判断もありえたでしょう。
つまり
都督府は自ら撤収したのか、九州王朝の在来勢力に潰されたのか、
天武が追放したのか、私には分かりませんが、以上のような状況でした。

112 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 17:33:14
>>111
> 都督府は自ら撤収したのか、九州王朝の在来勢力に潰されたのか、
> 天武が追放したのか、私には分かりませんが、以上のような状況でした。

都督府は倭国最大の勢力を誇り唐に恭順の姿勢を見せた天武朝に委ねられたんじゃないの?

113 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 17:51:52
天武天皇はともかく敗戦時に唐、新羅の占領を受け入れた高市皇子や栗隈王は歴代から
はずされてしまっています。卑弥呼の時代も魏の紀年銘鏡を出す定型化古墳をそこまで
引き上げて考えるかあるいはそれ以前の前漢、後漢の時代の鏡が倭国内で珍重され盛んに
コピー鏡や擬古鏡が弥生後期につくられたと思われることからまだまだ流動的です。

114 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 18:09:15
>>110
卑弥呼共立を三世紀とする理由は?

115 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 18:12:51
>>114
じゃあ2c後半から3c前半にしとくよ。
それでいい?

116 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 18:39:40
>>太国さん
『日本書紀』の編年が、非現実的であり、そのままでは学問的信憑性を確保できなかったことから、
日本書紀紀年法という日本書紀研究の一領域が形成されてきたのです。
日本書紀紀年法の構造上、卑弥呼が成務天皇に投影されているという結論に達したので、
博士論文にも、そのように書きました。きちんと論証したつもりですが、このスレッドで、
太国さんをはじめとして、ずいぶんと批判を受けてしまっておりますので、もう一度熟考して、もっと完璧に、
卑弥呼が成務天皇に投影されていること論じるために、加筆修正いたしたいと考えております。
しかしながら、まずは、論文審査をしてくださる大学を探すのが先決です。

117 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 18:47:08
>>116
卑弥呼の在位年代と成務の在位年代がおおよそ重なったとしても、それは要するに別の地域のそれぞれの王だったということの証明なのでは?

118 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 18:49:06
>>115
そういう問題では?

170〜220年では
人の寿命がそっくり入ってしまいますから!

119 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 18:50:02
>>110さん
『魏志』倭人伝は、卑弥呼の宗女の台与が継承したとありますが、
両者は、その権能において性格の違いがあります。卑弥呼は、宮室奥深くにおり、
魏からの使者が卑弥呼に謁見していたかどうかもわかりません。一方、張政は、
台与に黄どうを仮授しており、台与は政治や軍事に携わっていたのではないかと推論できます。
すなわち、卑弥呼は神祇祭祀権を、台与は執政権をもっていたと考えられます。この意味で、
「神功皇后」は、台与の性格をより強く反映していることになります。
『三国史記』「新羅本紀」には173年に「卑弥呼」からの使者があったと記載しています。
『魏志』倭人伝にのみ「卑弥呼」の名が見えるわけではないのです。
いかがでしょうか。

120 :74:2006/02/28(火) 18:50:23
>112
天武は九州の地で都督に着任し、行政をした証拠が見えません。
おそらく九州王朝の王=薩野馬が、都督に据えられたことでしょう。

121 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:04:19
>>120
唐の将軍が駐屯してなかった?
その後、天武朝の下部組織になったわけで別に天武が九州に着任する必要もないと思いますけど?

>>118
別に霊帝の初年に共立されたわけじゃないでしょ?
光和年間(178〜183)に倭国乱がおこり、歴年攻伐のあと共立されたわけでその年代は3cに近いんじゃないの?
そうすると190年頃の共立でもその死亡時期までおよそ50年。
共立されたのが幼少の頃なら別に変じゃないんじゃないの?
なにしろ寿命が8,90年だったらしいしw

122 :74:2006/02/28(火) 19:08:04
>121
都督は属国の王をあてがいますが
都督府には都督が着任する決まりになっています。
畿内には、都督府がなかったようであります。
天武が福岡県の都督府で行政をしていた証拠は一切ありません。


123 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 19:12:13
>>121

新羅本紀173年に卑弥呼の文字が見える限り、いきなり切り捨てる訳にはいかないでしょう。

124 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:13:30
>>122
筑紫に都督府があり、唐の将軍が赴任。
近畿の天武は恭順。
時を経て唐は都督府を解体して引き上げ。
天武は一貫して近畿、筑紫は近畿の名実ともに支配下に。
じゃないの?

125 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:19:35
>>123
新羅本紀の間違いでしょ。
男王の時代→光和年間に倭国乱→共立。
173年に女王が存在するというのはほぼありえん。

126 :74:2006/02/28(火) 19:32:31
>124
唐の将軍が都督になることはあるのですか?


127 :太国:2006/02/28(火) 19:36:09
>>116
論の成立、不成立のことはさておき、博士号取得をがんばってください。


128 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:41:47
>>126
熊津都督府は劉何とかという将軍じゃなかったかな?
筑紫には配下を何度か派遣してたと思ったが……
ちょっとうろ覚え、スマン。

129 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 19:49:23
>>111の74さん
それでは、畿内王権との系譜的関係はどのようにお考えでしょうか。
『隋書』には、「竹斯国」という名が見えますが、「竹斯国」が、
74さんのおっしゃられる「九州王朝」なのでしょうか。

130 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 19:53:27
>>113さん
中国史書にも日本の史書にも、どこにも九州に唐の都督府が置かれたとは記されておりません。
まずもって、中国側の史料に無いことは重要です。仮に、都督府が本当に置かれていたのなら、
中国史書は、喜んで記載したでしょう。

131 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 19:59:28
>>117さん
たしかに日本古代は、ゆるい連邦制のようなものですので、別々の地域の、
それぞれの王であったというご指摘は、あるかもしれません。
しかしながら、『日本書紀』が、成務天皇として扱っている人物には、斎宮的な要素があるのです。
在位期間の問題も重要ですが、成務天皇の性格も重要です。


132 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/28(火) 20:00:32
>>125

光和年間の倭国乱が正しくて、新羅本紀173年が間違いとする理由は?

133 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:03:58
>128
たしかに、劉仁願は熊津都督府鎮将でした。
劉仁軌は熊津都督府の検校だったようです。
ズバリ「都督」だったのかどうか、私もわかりません。

あらすじとして、
>124のストーリーは「大いにありえる」と思います。

134 :日本書紀紀年法研究家:2006/02/28(火) 20:05:04
太国さん
激励をいただきまして、ありがたく存じます。
博士号が取得できるよう、努力してまいりたいと思います。
論文審査をしてくださる大学が見つかるとよいのですが。

135 :74:2006/02/28(火) 20:13:35
>129 研究家さん
両者の王統・皇統・親戚関係などはよく知りません。
後の畿内王権の発祥が、天照の孫=ニニギの、
さらにまた子孫の神武であると記紀に伝承されていますね。
きっとそうだからそう記録したのでしょう。
米国と英国、中南米諸国とポルトガル・スペインのような
関係があったのではないでしょうか?

「竹斯国」を考察したことはありません。いわゆる「筑紫」
の意味だと思いますが、九州王朝との関連は知りません。
皆さんのほうがお詳しいと思います。

136 :51:2006/02/28(火) 20:20:18
ふと思ったんだが、新羅本紀に出てくる3世紀以前の倭って
出雲のことでは?地理的にも近いし

137 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/28(火) 20:21:38
結局は、卑弥呼の即位は183年で、中国漢朝に貢献したのは184年で、その後新羅への
就任の挨拶は185年となります。
新羅本紀の173年は十二支一巡つまり12年のずれがあります。

138 :太国:2006/02/28(火) 20:30:11
参考に、成務の時代はだいたい200年代後半です。

139 :質問のいらつめ:2006/02/28(火) 20:38:57
>>111の74さん
74さんは、筑紫の国に唐の都督府が設置されていたとお考えのようですが、
その存在を示すような根拠はあるのでしょうか。

140 :74:2006/02/28(火) 21:17:38
>139
決定的な証拠はありません。

かつて倭の五王のうち2人が都督になっています。
 451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
 478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

日本書紀天智天皇六年に、「筑紫都督府」が出てきます。
福岡の太宰府政庁跡には「都督府古址」があります。

671年、唐の捕虜になっていた筑紫君薩野馬が8年抑留ののち
唐の郭務宗に連行されて帰国しますが、帰国した後の身分
がはっきりしません。8年間の「更生教育」の末、都督に据えられた
と想像するしか、私の頭の中では選択肢がありません。
安東都護符が廃止されたのは758年ですが、筑紫都督府が廃止
された記録はどこにもありません。

141 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:19:28
使持節ってナニ

142 :サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/28(火) 21:23:10
成務天皇の年代は345年春から351年秋までで、確定です。

143 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:23:21
( ´,_ゝ`)

144 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:31:56
安東将軍使持節都督「@倭A新羅B任那C加羅D秦韓E慕韓」六国諸軍事



145 :太国:2006/02/28(火) 21:35:20
成務即位は250年を過ぎたあたりになります。

146 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:36:43
推古天皇も共立されたんです(><)

147 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:48:48
安東将軍使持節都督「@倭A新羅B任那C加羅D秦韓E慕韓」六国諸軍事

                        ‖

安東将軍使持節「都督倭、都督新羅、都督任那、都督加羅、都督秦韓、都督慕韓」六国諸軍事


都督は六国の固有名詞に掛かっているので都督倭・新羅・と
・で倭にしか掛かって無いように区切るのはマツガイ!

148 :74:2006/02/28(火) 21:51:30
>147
すいません、手近なところからのコピペです。ご指摘のとおりです。

149 :日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:03:38
それに同意するのは如何なモノか

150 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/01(水) 09:25:44
>>51さん
出雲については、巻一神代紀上に天穂日命についての分註に「是出雲臣。土師連等祖也。」と見え、
神別氏族として、『日本書紀』で最も早くに名のあがっている氏族ですし、
崇神紀や垂仁紀など、3世紀以前に位置してくると想定できる天皇紀にも出雲についての記述が見えますし、
さらに、考古学的にも、銅鐸や銅剣などが発見されておりますので、弥生時代について考察するにあたり、出雲は重要であると思います。
しかしながら、倭=出雲というように完全には一致しないのではないかと考えますが、いかがでしょうか。

151 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 09:33:34
銅剣銅矛=倭国=九州
平方銅剣=倭種の国=出雲・瀬戸内海勢力
銅鐸=日本=大和

152 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/01(水) 09:43:28
>>135>>140の74さん
都督につきまして、根拠をお示しくださいまして恐れ入ります。
さて、倭の五王の爵号の都督と唐の「きび政策」の行政府としての都督は、異なるものです。
倭の五王の時代、中国大陸は南北朝時代で、南朝歴代王朝が実際に征服地に都督府を置いて、
長官を派遣したり現地人を任命していたわけではありません。倭の五王に贈られた爵号は、
実体の無いいわば遥授であり、南朝歴代が自らの権威付けのために行った政策という性格のものです。
一方、唐の「きび政策」は、征服地に唐の行政府を敷くものですので、統治機構としての実態があります。
中国史書には、百済都督を置いたことは記されておりますが、倭に都督が置かれたとは見えません。
天智六年条の「筑紫都督府」は、畿内の大和朝廷が置いた都督府であると考えることができます。
稲荷山古墳出土鉄刀銘文や江田船山古墳出土鉄刀銘文には、「典曹人」という中国の官職名が出てまいりますが、
これは、日本の朝廷が、中国(蜀)の官職名を借用していただけで、日本の行政機関の名称です。


153 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 09:47:49
都督倭、  =筑紫都督府=大宰府
都督新羅、
都督任那、=任那日本府
都督加羅、
都督秦韓、
都督慕韓

154 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/01(水) 09:51:52
>>137>>142のサガミハラハラさん
卑弥呼の即位が183年で、成務天皇の在位期間が、345年春から351秋である根拠は、
どのようなものなのでしょうか。二倍暦説を唱えていらっしゃるサガミハラハラさんは、
おそらく二倍暦で算出されたのではないかとは思いますが。

155 :質問のいらつめ:2006/03/01(水) 10:01:29
>>74さん並びに皆さま方
白村江の戦いの後に、九州(筑紫)地方が、唐の支配組織に組み入れられた
という説を強く唱えておられますが、仮に、このようなことが事実である
としますと、水城周辺などで、何らかの戦闘の痕跡が残されていると
思われます。考古学の発掘調査などで、こうした痕跡は発見されているのでしょうか。
それとも、無血開城の形で唐の支配に屈したのでしょうか。

156 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 12:02:44
>>155
戦闘はなかったと思うよ。
九州の王が半島で捕まってるので無条件降伏したんじゃないかな?
ただし綿密な検証を経ているわけではないのでこうだと言い張るつもりはないです。

157 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/01(水) 13:02:32
>>156さん
日本(九州地域も含めて)は、唐・新羅に無条件降伏などしてはおりません。
中国の史書や半島の史書のどこにも、白村江の戦いで日本が無条件降伏したとは記されておりません。
白村江で敗北したのは百済に赴いた百済救援軍です。したがいまして、もちろん、唐の都督府は九州に置かれていません。
白村江の戦いの後には、唐と新羅の矛先は、高句麗に向かっております。
仮に、日本に都督府が置かれていたのならば、中国史書は、それを必ず明記したはずです。
白村江の戦いの後に、唐・新羅が日本へ触手を伸ばして侵攻しようとしても、
無理だったというのが史実ではないでしょうか。


158 :74:2006/03/01(水) 15:20:16
>152>156  研究家さん

適切なご説明ありがとうございます。
白村江戦のあと、唐が同盟していた新羅に寝返られて完敗し、
半島からたたき出されます。この間、安東都護符は8回移転し、
唐の中央政府との連絡も、そうとう怪しい状態です。
唐の百済鎮将の劉仁願は668年に雲南省に配流される始末です。
倭に都督府を置いたと中国史書に記載されていないのは当然です。

対馬に郭務宗率いる2千人の船団がきたときも、唐の国書を用意
できませんでした。国書がなくては「正式な都督命名」はできない
のです。畿内王権側に筑紫都督府を設置した記載が、一切出てこな
のはまことに不審なことです。畿内王権以外の権力によって作られた
と考えるべきでしょう。しかしこの時代、「爵号だけの都督」は終わって
おり、統治機構としての都督府の時代となっていましたのに、「都督府
古址」が福岡県に現存している以上、畿内の記録も無いことから、
唐の中央政府の認可を待たずに都督府を置いたと考えたほうが合理的です。

また、郭務宗ら2千人の船団は、新羅に完敗して逃げてきたともいえます。
威風堂々と戦勝国の将が上陸したのではありません。やや腰を低くして
九州王朝を懐柔したと考えられます。しかし、九州王朝が唐軍に抵抗できない
のも明らかです。九州王朝の天子=薩夜麻を捕虜にし、8年間抑留した
のですから。当然ながら、九州本土に抵抗の意思が無いことを確認して、
郭務宗は上陸していることでしょう。

159 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/01(水) 16:03:08
>>158、74さん
74さんのお説は面白いとは思います。しかしながら、都督府が九州に置かれたという点には賛同できません。
唐・新羅が、百済に侵攻した第一の理由は高句麗平定のためです。
太宗が、649年に高句麗遠征に失敗して陣中にて亡くなりますと、
次帝の高宗は、太宗が成し遂げることのできなかった高句麗平定を成功させることで、
名実ともに、唐の天子としての地位を固めようといたします。
歴代皇帝による高句麗遠征が陸路を用いて直接高句麗に攻め入って失敗していることから、
高宗は、まずは百済を平定して、高句麗を挟撃しようとしたのです。
したがいまして、白村江の戦いの後、唐の目は、当然、高句麗に向いていたはずです。
また、強敵の高句麗をそのままにして、倭に攻め入ることは軍事戦略的に見ても考えられないことです。
白村江の戦いから5年後の668年に唐・新羅によって高句麗は滅びますが、このころになってきますと、
冊封体制下に新羅を位置付けようとする唐への反発から、唐と新羅の同盟には亀裂が入ってきます。
やがて、新羅は唐を半島から追い出すことになるのですが、このような経緯によって、
結局、九州に都督府を置くことはできなかったと考えられます。



160 :74:2006/03/01(水) 16:11:22
>155 いらつめさん
九州内の戦闘はなかったと思います。
唐の郭務宗らは、九州王朝を懐柔して、負傷者の治療とともに、対新羅戦に
備えさせたと思います。半島を囲むようにして山城を作ったのではないでしょうか?
山城に詳しいかた、いかがでしょうか?

2千人の軍人の中には、倭人・百済人・唐人がいたことでしょう。捕虜として新羅人も
攣れて来たかもしれません。「唐軍が2千人来た」のではないと思います。
そして郭務宗は、唐の国書も用意できなかった。配流された劉仁願の権威もないまま、
都護府の支援もないまま、郭務宗として現場の勝手な判断をするしかないので、
苦しい交渉を強いられたことでしょう。戦傷者の治療や船の修理、山城築城が
精一杯だったことでしょう。一方畿内王権は、近江経由で新羅と密通していたように
思います。郭務宗上陸直後に天智が亡くなって、畿内王権による列島統一を画策
したのが天武だったと思います。

161 :74:2006/03/01(水) 16:25:56
>159 研究家さん
畿内王権が都督府設置を隠す理由などありません。しかしその記録はありません。
また、大和朝廷で、なんら体系としての制度なくしていきなり「都督府」を作り
しかも記録に残さないのはおかしいことです。また、中国と国交をしている国が
都督府を設置したらお咎めをうけるでしょう。

しかし現実に都督府古址は残っております。唐の郭務宗は国書も用意できない
状態で、中国の国史には記載はできないでしょう。安東都護府はとの連絡すら
怪しいと思います。

162 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 18:05:32
>>161
都督府は倭側の自称じゃない?
倭王の居城にして安東大将軍の幕府。
それをいつまでそう呼んでいたが知らないが、そういう時代があった。
戦後に唐側が設置したわけではない。
その辺でどうですか?

163 :74:2006/03/01(水) 19:27:23
>162
唐側からの要請でなければ、敗戦国の人間が「自称都督府」を置くなど、
不遜な越権行為だと思います。


164 :日本@名無史さん:2006/03/01(水) 21:07:21
>>163
いや、そのずっと前の話。
4cの話。倭王武以前からの時代。
安東将軍・使持節都督・六国諸軍事・開府儀同三司を求めてたりしてた。
使持節都督の幕府は都督府なんじゃないの?

165 :74:2006/03/01(水) 21:16:28
>164
その時代の官位爵号としての都督は、きび政策の官庁体系としての
都督府とは関係ないと思います。
>152で研究家さんが指摘されたとおりだと思います。詳しい方の
情報が欲しいですね。

166 :前スレのおさらい:2006/03/02(木) 02:15:39
前スレは、こんな書き出しからはじまりました
***************************************

日本書紀紀年法がついに解明されました


1 名前: 日本書紀紀年法研究家 2005/11/16(水) 17:55:22

日本書紀紀年法は、応神元年を西暦三九〇年と位置付けて、以下の式に
表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統十一年までの
一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって並列構造になっています。
このように考えますと、日本書紀紀年法をきれいに説明することができますが、二〇〇三年に、
研究成果を発表したところ、古代史研究家、ならびに、一般からの反応があまりありません。
賛成意見、反対意見、どちらでも構いませんし、また、異論があれば、お聞かせください。

***************************************


167 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/02(木) 10:56:32
>>161>>163>>165の74さん
問題は天智称制六年条の「筑紫都督府」とは何かにあるように思います。
日本でも、唐の行政府の名称を用いることがありますので、天智六年条の「筑紫都督府」が、
唐側の「都督府」であるのか、日本側の「都督府」であるのかがわからないのです。
>>152>>159で述べましたように、唐側の「都督府」であったことは、まず、ありえません。
それでは、日本側の「都督府」であったのかといいますと、74さんもご指摘されておられるように、
これにも、問題があります。
わたくしは、「筑紫都督府」は、以下の理由によって日本の「都督府」と考えております。
1)天智称制六(667)年は、唐・新羅軍による高句麗制圧の時期であり、
筑紫に唐の「都督府」を置く十分な理由がありません。
2)天智称制六年条には、「都督府」についての記述の前に、天智天皇(称制)が、
倭京(大和畿内)に行幸したと見えます。この時期に、天智天皇(称制)は長津宮から畿内大和に戻っていたと考えられ、
筑紫に日本側の「都督府」を置いて、後事を託したと推論することができます。
3)唐の制度では、ただしくは「都護府」ですので、「都督府」という名称は、『日本書紀』の編纂期に、
その機能を考慮して考え出された名称と推論することができます。

168 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/02(木) 11:11:07
>>162さん
安東都護府は、高句麗平定後に平壌に設置されます。
唐の関心は、中国南北朝が統一されて隋朝が成立して以来、一貫して高句麗に向けられています。
これは、中国王朝に隣接する高句麗が唐の冊封体制に入ることを拒否し続けたためで、
隋王朝が短命であったことや、唐帝国の礎を築いた太宗が陣中で亡くなったことの原因が、
高句麗にあったからです。
唐が極東地域に進出したのは高句麗を除くためですので、日本を間接支配しようとはしたかもしれませんが、
「都護府」を置いて直接支配しようとしたとは考えられません。


169 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/02(木) 11:19:10
>>前スレのおさらいさん
日本書紀紀年法がテーマのスレッドの話題が、都督府問題などにズレているとのご指摘と
拝察いたします。
もちろん、日本書紀紀年法について語らねばならないのですが、日本書紀紀年法は、
実は様々な問題とリンケージしています。例えば、天智元年から天智六年までは、
天智天皇は、即位されていないにもかかわらず紀年が立てられています。
その理由にも、定説はありません。
そこで、このスレッドでは、『日本書紀』が扱っている時代に起こった様々な歴史的事象について、
議論いたしたいと考えております。

170 :74:2006/03/02(木) 13:14:32
>167−168 研究家さん
安東都護府は、高句麗滅亡も90年間廃止されませんでした。
高句麗滅亡後に消滅したように表現されるのは、誤りです。
唐の敵対して敗北した九州王朝に都督府が置かれるのは当然なのです。
しかし、唐中央政府との通信がままならず、大義名分上は唐の国書により
正式な都督府設置にならなかった可能性があります。また、武則天(則天武后)
が政治を握っていた時期ですから、武韋の禍時代の失政は闇に葬られた
可能性もあります。
繰り返しますが、畿内王権が筑紫都督府を設置したなら、隠す必要などさらさら
なく、堂々と記録に残せばよいことです。

171 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/02(木) 17:22:59
>>170の74さん
安東都護府が廃止されたとは述べておりません。
>>162さんが、実体の無い「安東大将軍」という称号と、実体のある「安東都護府」とを、
混同されているようでしたので、「安東都護府」は、高句麗滅亡後にその首都に置かれた唐の行政府であると、
>>168にて説明しただけなのです。
74さんは、誤読されたのだと思います。
また、天智六年条に「筑紫都督府」と見えますように、畿内王権の筑紫都督府として、
堂々と記録に残しています。まったく隠してなどおりません。

172 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:53:38
確かにありますね。

しかし依然としてその成立の経緯は不明なわけで、素性が怪しすぎるのは
間違いないw

173 :74:2006/03/02(木) 19:16:12
>171 研究家さん
畿内王権の記録として、筑紫都督府の設置ならびにそこで行なった行政など、
一切が記録されていないのです。都督府の上位組織として都護府がありkます。
この時代に極東にあった都護府は、唐の安東都護府のみです。いったいこれを
どう説明されますか?しかも663年に、白村江戦で日本列島側は唐に惨敗して
おります。そんな時期に唐に無断で「都督府設置」などありえましょうか?
昭和21年占領下の日本が、米国に無断で「米軍極東支部」を設置したり
できますか?

174 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 08:21:47
新羅の鶏林都護府と比較すると面白いぞ

175 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/03(金) 10:23:09
>>173の74さん
「都護府」と「都督府」につきましては、わたくしの勘違いでしたので、お詫びして訂正いたします。
さて、「筑紫都督府」についてですが、天智六年条は、以下のような内容です。

百済鎮将劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聡等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聡等罷帰。以小山下伊吉連博徳。大乙下笠臣諸石為送使。

この一文において、まず、熊津都督府の劉仁願が、法聡を遣わして、日本人の境部連石積などを筑紫都督府まで
送ってきたことがわけります。そして、注目していただきたいのは、「司馬法聡等罷帰。以小山下伊吉連博徳。大乙下笠臣諸石為送使。」
の文章です。筑紫都督府は、法聡が熊津都督府に帰るのに、小山下伊吉連博徳と大乙下笠臣諸石を送使としています。「小山下」と「大乙下」は、
明らかに日本の冠位です。仮に、筑紫都督府が中国側の行政府であったならば、冠位は中国の冠位であったはずです。
このことに、明瞭に、筑紫都督府が日本の行政府であることが示されています。
また、白村江の戦いを第二次世界大戦になぞらえることには問題であると思います。
第二次世界大戦においては、日本は紛争当事国でしたが、白村江の戦いでは違います。
紛争当事国は、唐、新羅、百済であり、日本は援軍を派遣したのみなのです。


176 :74:2006/03/03(金) 13:20:36
>175 研究家さん
筑紫都督府は唐軍の意向で、九州王朝側の人間が運営しているわけ
ですから、都督以下は列島側の官位でもかまわないわけです。
九州王朝の官位を記紀に記載するときは、畿内王権の官位に差し替えて
記載したでしょう。記紀の記載が、すべて真実なのではなく、畿内王権の
都合の良いように書いてあるのは良くご存知でしょう。ご指摘の点は、
まさにそういった内容であると思います。真実は具体的にどうだったのか、
私の考えがまとまっておりませんので、身のある回答が出来なくて
申し訳ありません。
白村江戦で百済と倭は一体となって戦いましたので、倭軍は傍観して
いたのではなく、唐と戦った当事者そのものです。特に鉄の利権確保が
大きかったのだと思います。用も無いのに軍隊を派遣して、百済とともに
唐と戦う義理も必要もありません。明らかに倭は敗戦国でした。

177 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/03(金) 15:18:01
>>176の74さん
唐・新羅は、高句麗制圧のための足がかりとして、百済を制圧・確保するために、
半島に進出したという唐の目的を、どうぞ、考えください。
反対に、質問させていただけば、仮に、唐が筑紫に唐側の都督府を置いたのであるならば、それでは、
なぜ、中国側の史料には、「筑紫都督府」の名がまったく見えないのでしょうか。
わたくしも、百済地域には日本の大きな権益があったと考えております。『隋書』百済伝には、
倭人(日本人)が住んでいたとありますので。しかしながら、仮に、倭(日本)が百済と一体となって戦っていた
と認識していたとしても、唐・新羅は、百済一国と戦っていると認識していたはずです。
語弊はありますが、高句麗制圧のためには、むしろ倭(日本)問題にかかわっている暇はなかったと想定できます。
74さんの論理ですと、白村江の戦い(663年)のすぐ後に、「熊津都督府」が置かれた百済に加えて、
「鶏林大督府」が置かれた新羅も敗戦国になってしまいます。




178 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 16:23:51
>177 研究家さん
後漢の衰退により、半島は約四百年間争いが絶えませんでした。
半島各国はめまぐるしく合従連衡していましたが、高句麗と組んだ
倭は当然唐の敵であり、どちらでも良いのではありません。さらに、
同盟したはずの新羅が、寝返りを打って半島から唐軍を追放する
にいたっては、国を失った高句麗の部族の動きも不穏なうえ、
新羅に逃げ込んで国の復興運動に全精力を傾け、新羅もこれを
支援します。新羅と高句麗残党の制圧も(極東のみで申せば)
重要課題です。のんびりと半島に都督府をおいて平定に安堵して
いる暇などありません。ここは九州に都督府を置いて拠点とすべし
というのが当然の成り行きでしょう。ただし唐の中央政府はこんな
事態を、業を煮やして見ています。則天武后の言葉ひとつで、
唐の判断は左右したことでしょう。

すでに>160と>170で触れましたが(160はいらつめさんへのレス)、
唐側に倭都督府の正式記録は存在しません。ただし「筑紫」都督府
という呼称は、畿内王権が後付けした呼び名だったかもしれません。
地名であったことは、他の都督府をみても明らかですが。ご指摘の
各「都督府」は唐が勝っているとき、占領しているときに設置してい
ます。高句麗の遺臣と新羅が組んで高句麗復興運動と唐軍排斥戦争
をやっている以上、半島に対峙した敗戦国の地に軍事拠点=都督府
を置くのは当然なのだと、私は思います。


179 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 17:37:50
>>178

三国史記 新羅本紀から

642年8月 百済の将軍弁忠が、兵を率いて大耶城を攻撃し、これを陥落させた。
        都督のイサンの品釈およびその配下の舎知の竹竹や龍石などが、この戦いで戦死した。

648年3月 百済の将軍義直が、西部国境地帯に侵入し、腰車城など10余城を陥落させた。
        王は、このことを憂えて、押督州都督のユシンに命じ、その対策をはからせた。

658年3月 王は□□□(読めないので空白にしました) 地方が、まっかつとつながっており、
        人心が不安定であるため、京をやめて州とし、都督を置いて、鎮護させた。


新羅は、唐に関係なく独自に都督を置いているみたいですけども、これはどうお考えでしょうか?










180 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/03(金) 17:46:40
>>178さん
「倭王武上表文」には、倭(日本)の強敵は高句麗であったと記されておりますように、
また、欽明紀にも、百済と同盟して高句麗を撃ったとありますように、倭(日本)は、
必ずしも、高句麗と結んでいたわけではありません。白村江の戦いの時も、仮に、
高句麗が倭と同盟していたのならば、高句麗は参戦していたのではないでしょうか。
また、>>159でも述べましたように、唐にとって、敵は、軍事的・地政学的に倭と高句麗の
どちらでもよいという状況ではありませんでした。
海の存在は、造船技術の発達していなかった時代におきましては、防壁の意味を持ちます。
中国にとって、陸続きの高句麗は、海を隔てた倭よりも、よほどやっかいな存在であったはずです。
また、半島よりも倭が都督府を置くのに適していたというお考えも、
倭が唐の敵であった百済を支援していたという事実から、無理なご推測であると思います。
このことは、九州も含めた西日本一帯に、倭(日本)は、唐からの攻撃に備えて、
大急ぎで水城などのお城を築造していることによっても、わかります。
中国は、どうやって敵地の筑紫に都督府を設置することができるのでしょうか。

181 :74:2006/03/03(金) 18:07:52
>179さん
何という都督府をどういう環境で誰が設置したのでしょうか、新羅本紀の
信頼性を良く知りません。

>180 研究家さん
半島諸国は歴代相手を変えて、合従連衡しています。一般論で2つの国が
敵対・同盟などといえません。そのときどうだったかというのが問題です。
ある瞬間、唐は新羅と組んで、高句麗は百済と倭と組んだわけです。
そして後者は負けました。新羅は唐に寝返りをうって、高句麗の遺臣と組み
ました。
半島・列島の国はしばしば海洋国家的側面があります。倭人は古来より
海から半島へ上陸しています。海は今日でいう道路のようなものであり、
障壁ではありません。
九州王朝が敗北し、唐軍が九州王朝の王を捕虜として連行、上陸して、
どうして都督府がつくれないのでしょうか。作る必要もつくる能力も権限も
あります。ないのは唐中央政府の国書だけです。

182 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/03(金) 19:57:20
>>179さん
「都督府」という名称をめぐりまして、この名称が中国だけではなく、
ほかの国々でも行政府の名称として一般的に用いられていたこと示す事例を挙げておられ、
鋭いご指摘であると思いました。わたくしは、これらの事例からも、「筑紫都督府」は、
九州に置かれた倭(日本)の行政機関(後の大宰府)と考えます。

183 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/03(金) 20:18:12
74さん
半島諸国が烏合衆参していたことは、あたりまえです。
九州王朝の王とは、「さちやま」のことと推定されているようですが、
「さちやま」は中国側から王としては扱われておりません。
「さちやま」が倭王であったならば、中国史書は得意にそのように記したことでしょう。
むしろ、天智天皇(称制)は、天智六年に畿内に戻ることによって、中国側による天智捕縛の機会を、
失わせたのではないかと推論いたしております。高句麗を制圧する寸前の中国には、
畿内まで天智天皇(称制)を追うことは難しかったでしょうから。
戦争とは、軍事的に勝利したからといって、すべてが勝った側の思う通りにはならないものです。
戦後の情勢の如何によって対立構造は変化します。戦争とは単純ではないのです。
わたくしは、中国には、日本に中国の都督府を作る必要も、能力も、さらには権限もなかったと考えます。
わたくしは、4000年といわれる中国の歴史には敬意を払いますが、史実は史実として、
解明すべきであると思います。


184 :51:2006/03/03(金) 20:40:44
>>1さん
『日本書紀の真実』を図書館で借りてきました。
買わなくてすいません。
これから読んでみます

写真見ましたが美人なのでびっくりしましたw

185 :74:2006/03/03(金) 20:58:59
>182−183 研究家さん
三国史記の信憑性について、私の意見はありません。
ずいぶん後の時代に、新羅内部で都督号が使われるようになった
と認識しています。それは7世紀の都督府とはまったく無関係でしょう。
日本列島で畿内王権があの時代、都督府を設置することは不可能です。

倭の敗北のあと、畿内王権は列島を統一して、皇統一元史観を
打ち出します。中国でもこの皇統一元史観を「日本国の正当な歴史」
として認定してくれました。九州王朝のくさぐさな記録は中国側に
採用されなくなりました。それでも旧唐書にはその片鱗が残っています。
畿内王権は九州王朝は我が前身であるとでも言い張ったのでしょう。
畿内王権によって、敗北の王薩夜麻は、賊扱いとされたようです。
しかし当時の歪んだ大義名分によって、今日の真実を見る目を塞いでは
なりません。

これ以上論じても平行線ですので、ここでおわりにしますが、研究家さん、
いらつめさん、そのほかの皆さん、お付き合いをありがとうございました。
研究家さんにお望みの大学が見つかり、御説が発展していくことを願っています。


186 :五一:2006/03/03(金) 21:09:53
高城 修三という人の『紀年を解読する』
というのも借りました
読み比べてみるとおもしろそうです

187 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/04(土) 10:09:17
>>184>>186の51さん
拙著をご一読いただけるとのこと、恐れ入ります。ぜひ、ご感想、ご意見をお聞かせください。
高城修三さんの『紀年を解読する』は、戦後において日本書紀紀年法を扱った数少ない研究のひとつです。
高城氏は、二倍暦を用いて紀年問題を解明されようとなさっておられますので、
わたくしとは研究アプローチが異なりますが、これまでの諸説も紹介されており、
大変有意義なご本であると思います。
それから、美人であると褒めていただきまして、うれしく存じます。

188 :質問のいらつめ:2006/03/04(土) 18:36:01
>>74さん
こちらこそ、74さんが、ご参加くださり、大変、
おもしろい議論をさせていただいたものと思っております。
本当に、ありがとうございました。
議論は、白村江の戦いの後に唐軍に九州が占領されたのか、否か、という
問題の見解の違いによって、行き詰ってしまいましたが、九州の古代史に
つきましては、まだまだ判らないことが多く、議論も尽きないことと思います。
これからも、関連する話題がありましたら、是非、このスレにご参加くださいませ。

189 :74:2006/03/04(土) 23:11:39
>188 いらつめさん
いらつめさんと研究家さんの交流が、このスレの品位を高く保っています。
まことに稀有な良スレだと思います。私としてももっと紀年にすり合わせた
議論をすべきだったと反省しています。そうした議論に参加できるように
努力したいと思います。研究家さん、いらつめさん、ありがとうございました。

190 :日本@名無史さん:2006/03/05(日) 18:15:35
銅鐸から説明しないと日本古代史解明は無理でしょう。
普通は8世紀の記紀からの接木になってしまう。
九州〜長野まで620個から出土している銅鐸は
一部の絵画銅鐸には農耕を明確に示しており
存在だけで弥生時代の水田稲作渡来人の進出地域がわかる。
そして、
銅鐸の地域でも畿内・三遠などというのは
中期〜後期の銅鐸の出る後進地域ということになり、
古い鋳型の出る北部九州や大量埋納の出雲が先進地域だった
という方言周圏論のような当たり前の伝播ということになる。

ところが、
畿内では銅鐸祭祀が3世紀が終わり4世紀になると
突如巨大前方後円墳が築かれる。
奴隷制をとらない限り不可能な規模・数量です。

これは前代からの断絶を示しており、
基本的に畿内〜関東は弥生時代以降は
渡来人の群雄割拠時代と考えたほうが自然です。
逆に九州は金印以来の王朝が続いたことは
中国史書に書いてある。
大宰府の遺物3つからC14でAD530年近辺の
年代がもう20年も前に出ている
ということは・・・・



191 :五一:2006/03/05(日) 18:28:34
>>1
まだ読書途中ですが、
頭が悪いためか完全には理解出来ません
数学的に確率論的に偶然の一致と見なせるものなのか、
編纂者がそこまで複雑な計算をしていたのか、
ちょっと判断がつきません。

倭の五王に関して
武の上表文にある祖禰を普通は先祖と訳していると思うんですが、
禰が人名というのは少数説ですね。
讃と賛が別人というのも意外な説です

192 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/06(月) 10:20:44
>>190さん
銅鐸の問題につきましては、わたくしも大変関心を持っています。
銅鐸や銅鉾の分布には、畿内に「銅鐸文化圏」や九州に「銅鉾文化圏」と呼称しえるような傾向が、
見られます。銅鐸がなぜ、弥生時代終末期に消滅したのかは、研究史上の謎です(『日本書紀』には、銅鐸はでてきません)。
しかしながら、銅鐸が消滅して大規模古墳が築造されたからといって、「渡来人の群雄割拠」や「奴隷制」の時代と
考えてしまうことには、問題があると思います。
前方後円墳は、日本独自の墳丘ですので、渡来人が築いたと考えるには無理があります。
また、墳墓の築造には徴兵の意味がありました。高句麗好太王碑文や倭王武上表文などによって示される4〜5世紀は、
半島で大きな戦役のあったような時代です。奴隷制ではなく徴兵の問題であると思います。
いかがでしょうか。

193 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/06(月) 10:39:30
>>191の五一さん
五一さんの頭が悪いのではなく、わたくしの説明が下手なのだと思います。
「プラス・マイナス120年構想」は複雑ではありません。
「プラス・マイナス120年構想」の「プラス構想」のみを説明してみましょう。
まず、『日本書紀』では、応神元年が390年で雄略五年が461年と設定されています。
そこで、390年から461年までの間に実際に経過していた年数を数えてみていただきたいと思います。
これは72年となるでしょう。
一方、応神紀の41年、空位年の2年、仁徳紀の87年、履中紀の6年、反正紀の1年、
允恭紀の42年、安康紀の3年、雄略紀の雄略五年までの5年という紀年数を合計してみてください。
合計紀年数は192年となるでしょう(41+2+87+6+5+1+42+3+5=192)。
応神元年から雄略五年までの間は、実際には72年しか経過していないのに、
この間、『日本書紀』は192年もの紀年数を配布していることになります。
換言すれば、実際の経過年数の72年に120年分の紀年が加算されていることになります(72+120=192)。
少しでも、わからないところがありましたならば、ぜひ、ご質問ください。

194 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/06(月) 10:56:53
>>191の五一さん
それから、三善清行の「革命勘文」によれは、120年という数字が重要視されていたことがわかります。
後漢の大学者じょう玄の易緯の注の「四六二六相乗(240・120)」を天数とみる解釈にもとづいて、
120年が、日本書紀紀年法の重要な構成要素であることは、朝廷知識人の間では、
認識されていたと考えられるのです(三善清行は、適用方法は間違っておりましたが)。
また、「倭の五王」の比定問題につきましては再検証しております。「祖禰」は『梁書』の「彌」のことであると考えました。
さらに、「賛」と「讃」につきましては別人説は成り立ちますが、同一人物であると考えたほうが、
『古事記』崩年干支との整合を保つ解釈ができることから、訂正を願わなければならないとも考えております。
拙著を発表した頃の研究段階において、きちんと論証しきれていなかった点をご指摘しておられ、鋭いご質問をいただいたと思っております。

195 :日本@名無史さん:2006/03/06(月) 12:35:54
前方後円墳が日本独自の墓かというと
半島にあるわけです。
特に北部の全部積石の前方後円墳が
有力なわけです。
畿内より古い前方後円墳の
徳島の萩原1号墳がその系列なわけです。

さらに、
5世紀の前方後円墳が
土師器とは技術的に異なる須恵器を
伴出するということは、
やはり渡来でしょう。

196 :太国:2006/03/06(月) 15:20:34
まあ、とにかく倭の五王を当時の天皇と決めて各年を定めた論は失敗だな。
なぜか?それは五王は各天皇じゃぁないからだよ。だからそれから出発して時間
を順次定めて行くのは間違っちゃうわけさ。

197 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/07(火) 14:51:17
>>1
例え分かっても「記紀」自体出鱈目多数だから意味がないのでは?w
史料とか文献からでは森が微かに見えるだけで枝は絶対見れないですよ。

裕子タン先生はじめここの住人は、
柔軟性のある脳の持ち主が多いみたいなので、
教えてあげたいなあ、一般人が知り得ない”真実”をね。

あ、裕子タン先生は”博士号”が目的だから関係ないかw

あと、トンデモ本とかデンパとか言われてるが、
真実の近くまで来ている人もいるので侮れないですよw
例えば八切止夫氏とかね。でも全部じゃなく極稀にですがw
どの説がは教えれないですがw

まあここは読物スレとして今後も楽しませてもらいますよw

198 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/07(火) 18:31:57
>>195さん
わたくしの記憶違いかもしれませんが、ステップロード沿いにあるスキタイ系と考えられている積石塚があり、
>>195さんがおっしゃられている「積石の前方後円墳」とは、これらの墳墓のことなのではないでしょうか。
これは、日本の前方後円墳との類似を指摘する研究がありますが、たしか、まだ確論となっていたわけではなかったかと思います。
また、半島に前方後円墳があるとしたならば、旧百済地方には穂積氏の陵墓と考えられる前方後円墳があるとする研究があります。
さらに、「渡来系」の定義にも問題があるのではないかと思います。弥生人は全員渡来系になってしまいます。

199 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/07(火) 18:37:07
太国さん
倭の五王と『日本書紀』の天皇が異なるとする考えは、一致していることを示す史料がないわけですので、
太国をはじめ多くの方々が、そのように考えるのは当然と言えば当然であるかもしれません。
しかしながら、一致していることを示すような研究成果を提示できれば、
太国さんは、倭の五王が『日本書紀』の天皇に比定できることに賛同してくださるのでしょうか。

200 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/07(火) 18:49:22
>>197の羽之さん
『日本書紀』や『古事記』には付会が多く、確かに、でたらめに見えてしまいます。
しかしながら、わたくしは、僅かに見える森から枝の姿を捉えようとしているのです。
これは、面白い研究です。
たしかに、博士号を取得したいとは思っておりますが、最も大切なことは、
日本書紀紀年法のせっかくに解けている部分を日本古代史や関連分野の多くの研究者や一般の方々に、
利用していただくことと考えております。そのためには、まず、拙論が正しいことを示さなければならず、
批判にも答えねばなりません。その一環として、このスレッドを立てました。
また、”とんでも説”は、案外、真実に近い場合もありますので、羽之さんのおっしゃれる”真実”を、
機会がありましたなら、ぜひに、披瀝していただきたいと思います。

201 :太国:2006/03/07(火) 22:01:44
>>199
正確な資料とか相当な合理的根拠等、出て来ますれば再考しますが?
博士号をお取りになってからでも、もう一度初心に戻って検討をお勧めします。
倭の五王は各天皇ではないと思ってまして、確かだと考えますので・・・。
貴女の論は先に申し上げましたとおり、分かりにくくてあまり論評したり
する予定はありません。
ただ言いたいことは、何故かまでは回答しにくいですが、神功摂政は先述の
とおりで、ほぼ300年前後だと観ています。

202 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:22:57
もう天皇陵発掘しかないよ
新たな金石文探すしか
日本の古墳に墓誌とかってあんの?

203 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 08:21:26
天武天皇の「内安殿」か、飛鳥京跡に大型建物跡

奈良県明日香村の飛鳥京跡で、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや、672〜694年)の
「内安殿」とみられる大型建物跡が出土したと、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。
この発掘で、天武・持統両天皇の居所だった内裏の中枢部の全容が判明した。
また、下層からは舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636年)の一部とみられる大型建物跡も初めて確認された。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060307-00000013-yom-soci


204 :日本@名無史さん:2006/03/08(水) 09:37:01
>>202
女系天皇制を支持し将来的に宮内庁ごと廃止に追い込めば
30年後くらいに発掘できるかも

205 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/08(水) 10:50:42
太国さん
アドヴァイスしていただきまして、ありがたく思います。
太国さんがおっしゃられる、唯一の神功皇后が300年頃に実在していたというお考えは、
わたくしの神功皇后複数説と矛盾しているものではありません。それは、神功皇后複数説は、
日本書紀紀年法において、神功紀が201年から389年までの189年間を扱っていることから、
189年間の間にあった卑弥呼、台与などの女性を「神功皇后」に充てているだけで、
『日本書紀』に記される事蹟の持ち主は、300年頃に実在した女性であったもよいからです。
言い換えれば、神功複数説の「神功皇后」は編年上の「神功皇后」で、太国さんのお説の「神功皇后」は、
事蹟上の「神功皇后」であることになります。


206 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/08(水) 10:58:43
>>202さん、>>204さん
天皇陵に指定されている古墳から天皇の墓誌が発見されましたら、
それこそ「世紀の発見」ということになるでしょう。6世紀代になりますと、
例えば、隣国の百済では、武寧王墓から墓誌が発見されて『日本書紀』の記述が、
正しかったことが示されています。
しかしながら、天皇陵の発掘が難しいというのが、現状です。
まずは、墓誌が発見できそうな皇子や諸王の陵墓と考えられている古墳から発掘するというのも、
一案ではないかと思います。

207 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/08(水) 11:00:32
>>203さん
大変興味深い建造物が発掘されたと思っております。
諸説がでてきそうですね。

208 :太国:2006/03/08(水) 22:21:22
>>205
貴女は、神功皇后は卑弥呼であると思っているんでしょうか?

209 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/09(木) 09:22:47
>>208の太国さん
日本書紀紀年法の構造において、神功紀は201年から389年までの189年間を扱っておりますので、
『魏志』倭人伝において、230年代から240年代にかけて実在していたと考えられる「卑弥呼」は、
必然的に「神功皇后」であることになります。しかしながら、宮室奥深くにあって見る者稀であった「卑弥呼」と、
『日本書紀』の行動的な「神功皇后」とは、性格が異っています。
したがいまして、紀年法上、「卑弥呼」は「神功皇后」ということになりますが、『日本書紀』は、
「卑弥呼」をむしろ成務天皇に投影させているのではないかと推論いたしております。
一方、『日本書紀』の記す事績を持つ人物が太国さんのおっしゃる300年頃の女性である可能性は、
もちろんあるでしょう。

210 :太国:2006/03/09(木) 09:32:40
卑弥呼は鬼道をやっていたそうですが、神功皇后がそんなことに関わっていたと
いう記述が記紀とかの文献にありますか?
鬼道を古神道だと言ってしまえばそれまでですが、伝に鬼道となっているところ
をみると類似性はあることは分かってますが、一般の古神道の捉え方に付加して
あるいは変化して、の「鬼」と名づけられるくらいの何者かがほしいものです。
それがなければ、別人とみるのが穏当だと思いますよ。

211 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/09(木) 12:39:05
>>210の太国さん
>>209でも述べましたように、紀年法上の「神功皇后」と事蹟上の「神功皇后」は異なりますので、
卑弥呼と神功皇后の性格が異なることはあたりまえです。事蹟上の「神功皇后」はむしろ台与ではないかと思います。
また、「鬼道」ですが、これがどのようなものであったのかにつきましては諸説がありますが、
わたくしは、「鬼」が中国では霊を意味する場合がありますので、祖霊を祭るものではなかったかと、
推論いたしております。


212 :太国:2006/03/09(木) 21:05:37
仏教教学で「法身の仏」と「応身の仏」等という仏への見方がありますが、
貴女の諸説もなんだかこれに似通った感じがしますなぁ?
具体性が曇っている様に見受けられるんですが?如何ですか、そう思いませんか?

213 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/10(金) 10:26:03
太国さん
わたくしといたしましては、日本書紀紀年法を明快に解き明かしていると思っております。
それは、数学的にきちんと説明ができるからです。
このスレッドでわたくしの唱えている諸説は、日本書紀紀年法の構造と関連があり、わたくしとしては、
根拠を示しているつもりでした。しかしながら、日本書紀紀年法とは直接関連のないような個々別々の話題をめぐって、
自説を示してきましたので、じょうずに表現できていなかったのではないかと反省しております。
「具体性に曇っている」との太国さんのお言葉は、もっとものことと受け止めております。

214 :太国:2006/03/10(金) 11:15:22
推理も推理小説にならないようにやるのはおおいに結構だと思考します。
 魏志倭人伝は「偽史倭人伝」とも読める。これは陳寿が故意に日本の歴史を
 邪馬台国(あるいは邪馬壹国)という国を在るかのように偽造して記述したの
 ではないだろうか?だから卑弥呼は神功皇后に取り付けて何らかの目的により
 造った偽書が魏志倭人伝であると認められる。
などというような推理をとことん突き進んでもって行ったりしてはいないか?
ということを考えないといかんと思います。
推理もいいですが、ブレーキをかけて推理の展開がオーバーしてはいないか?と
ストップをかけないと上のような説に至ってしまうのです。
よくよく振り出しへ車をバックさせないと、失敗が待っていますよ。
私も、若かりし過去に大失敗の妄想を幾度もやって恥ずかしい思いをして
いますから〜、じっくりお説を吟味検討なさったほうがよろしいと思いますが?
論理が一致していても、やはり間違っているんではないのか?と安心せずに
客観的に考えて下さい。他説者はその他説できちんと説明できると主張してます。

215 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/10(金) 13:18:21
太国さん
『魏志』倭人伝の記述は曖昧であり、問題点もあると、わたくしも考えております。
曖昧であることには、以下のようないくつかの理由を想定することができます。

1)倭に派遣された「悌しゅん」と「張政」の復命報告書が、既に曖昧であった。
2)「悌しゅん」の派遣時と「張政」の派遣時において、倭の国内事情に変化があったにもかかわらず、
  陳寿が変化を無視して記述した。
3)陳寿が『魏志』倭人伝を記述するにあたって参考とした『魏略』などの史料に既に曖昧な点があった。
4)陳寿が『魏志』倭人伝を執筆した時期は晋の時代であるので、極東平定にかかわった司馬氏の業績を大きくみせるために、
  過大な記述とした。

わたくしとしても、このようなあらゆる可能性を考慮しながら、
最も蓋然性の高い説明をすることができる仮説はどのようなものであるのかを熟考しながら、
仮説を提起させていただいているつもりなのです。

216 :太国:2006/03/11(土) 08:08:48
さすが博士号を狙っている方です。わたしも知らない語句を聞いて勉強させて
いただきました。ただ足についてないので、忘れてしまうかなぁと思います。
推理して色々考え、まあこれはいいわけですが、車を運転していて、道を探す
時に、地図を見たりカーナビを使いと目的地に至るやり方はそれなりにあるわけ
ですが推理の後に進路の「疑惑」を持ち、まあここまではまだいいですが、その
「疑惑」から出発して飛行機で飛ぶような論をやってしまうと、これがまずい〜
うまくないわけなんですよ。
成務天皇は卑弥呼とは考えることは早計だと考えます。即位は250年あたりです。

217 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/11(土) 09:51:29
太国さん
わたくしは、車を運転したことがありませんので、よくわかりませんが、
推論を立てて論証を試みていて「疑惑」を持った場合には、引き返します。
「疑惑」から出発して飛行機で飛ぶようなことはありません。
よく自説に拘ってしまって、無理やり自説を通そうとする方がいらっしゃいますが、
引き返すことも大事なことだと思っております。
太国さんや皆様方のお説に蓋然性や説得力があると考えるに至りましたなら、わたくしは、
自説を訂正、もしくは、撤回するつもりです。

218 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/11(土) 11:21:35
最初に断っておきますが俺が言えるのは○△×!w


天智天皇=天命開別天皇=天命を別に開いた天皇=易姓革命○
天智天皇=新羅王武烈+百済王豊璋△


裕子タン先生は鹿島氏の「倭と日本建国史」を読んだことある?
P262〜271の「暦法と干支紀年法の相違」の感想をどうぞ。
あ、断っておきますが氏の書は誤解釈が多々あるので、
あくまで発想の参考程度ですがねw


とりあえず前スレ読んだところまで(219)w
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/129
根拠とか馬鹿の一つ覚えみたいなどこかwのノータリンなことを言わないようにw

「例1http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132813737/93

まあ、あなたは同志とお見受けするから分かってると思いますがw

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/184
>聖徳太子は王様ですらありません。○

219 :日本@名無史さん:2006/03/11(土) 12:10:51
太国はDQNだから相手しなくていいよ。まともなぎ議論できないから。九州王朝スレでさえ迷惑がられているし。

220 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/11(土) 15:50:49
>>218の羽之さん
羽之さんのお説は面白いとは思います。ただし×はどのようなお説なのでしょうか。
鹿島氏の『倭と日本建国史』は所持しておりませんし、また、読んだことがありません。
したがいまして、「暦法と干支紀年法の相違」について感想を述べることができません。
機会がありましたならば、読んでみたいと思います。
また、わたくしは、あらゆる政治活動、政治思想、イディオロギーから離れて、
公正、公平、中立の立場で、日本古代史の研究につとめております。
わたくしは、自らの研究成果をひたすら提起しているだけです。

221 :太国:2006/03/11(土) 15:57:37
>>219
君はQQ車を要請したい畿内病者だろう。w

222 :太国:2006/03/11(土) 21:18:17
>>217
那珂さんは神功に関して、何故120年紀の編纂者が繰り上げたと言っているの
ですか?中国の古さに負けたくはないから編纂者が伸ばしたと言う理由ですか?
ところで、同博士は神功皇后を卑弥呼だと主張してるわけですか?

223 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/12(日) 09:47:24
太国さん
『日本書紀』の編年の通りにそのまま神功元年を求めますと、西暦201年となり、
神功紀と応神紀に見える百済王の即位年や薨年から神功紀の年代を求めますと4世紀後半となることから、
那珂通世博士は「上代年紀考」(一八九七年)という論文のなかで、「…二周甲の前に移して、其の干支のみは、
百済の原書に合せ置かれたるならん。」と述べています。
すなわち、史実としての神功皇后は4世紀後半の人ですが、編年上の操作として120年(二周甲)繰り上げたと唱えられたのです。
また、中国の歴史の古さに負けたくなかったからではないかという問題は、紀年の延長問題ではなく
(紀年は延長されていても、せいぜい紀元前660年ですので)、神代から神武東征までの間に経過したという、
1,792,470年という数字に関して、江戸時代の儒者・新井白石などによって唱えられています。
また、那珂博士は、史実としての神功皇后の実在は4世紀後半と考えておりますので、
卑弥呼であるとは見なしておりません。


224 :日本@名無史さん:2006/03/12(日) 10:44:49
>>221
池沼に言われてもなw
スレ主はこんなDQNも相手にしてやって偉いよw

225 :太国:2006/03/12(日) 11:04:53
名無しじゃぁ役に立つまい。うぬの古手半もつけられないでの寝言は聞き飽きた。
QQ病院でも、うぬじゃぁあきれて顔も見たくないと言われるだろう?w
早く畿内病を治療するんだな。

研究家さん、編者が明確なる120年繰上げた理由がないと那珂さんの一人歩き
ということになります。


226 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/12(日) 20:03:37
>>224さん
日本書紀や日本書紀紀年法に関連した学問的な質問でしたならば、どのような質問にもお答えしたいと思います。
このスレッドでは、学問的な議論をしましょう。

227 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/12(日) 20:20:11
>>225の太国さん
那珂博士は、本来は4世紀代に位置するべき神功紀を、編年上、120年繰り上げて3世紀代に位置付けたとだけ唱えた説です。
同じく120年に注目しながらも、那珂博士とわたくしの説は、まったく異なるものです。
わたくしの「プラス・マイナス120年構想」においては、神功紀は以下の式に表されるような紀年構造となっています。

 69年(神功紀の紀年数)−189年(神功紀の扱う期間:201〜389年)=−120

太国さんは、神功紀に配布されている紀年数が69年であること、そして、神功元年は、
編年上は西暦201年に位置付けられていることはご存知だと思います。
それでは、巻九神功紀に続く巻十応神紀の応神元年は、実年代で何年に相当するのかといいますと、
これは、応神三年条の百済の阿花王の即位、応神八年の直支王の来日、応神十六年条の阿花王の薨去の年代を、
『三国史記』において求めますと、応神3年=392年、応神八年=397年、
応神16年=405年となり、いずれの等式から応神元年を求めても応神元年は390年となります。
したがいまして、神功紀の神功末(69)年は389年であることになるのです。
このように考えますと、神功紀は201年から389年までの189年間を扱っていることがわかります。
189年から69年を引けば、ちょうど120年になるのです。

228 :太国:2006/03/12(日) 20:31:14
紀からの201年と69年は熟知してます。私も自己の年表がボロボロになるくらい
頭をひねったものです。百済関係はまだ研究不足の状態です。
あちらの年数関係も、記紀と同様に互い違いの箇所があるんじゃないですかな?
それがひっかかりますね。應神即位は300〜350年の間と観ています。

229 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/13(月) 10:34:51
>>228の太国さん
『日本書紀』の編年では、雄略五年は461年となることも太国さんはご存知だと思います。
応神元年を390年と考えて、雄略五(461)年までの経過年数を数えてみれば、これは72年となるでしょう。
そして、太国さんは、応神紀の紀年数が41年、仁徳天皇即位までの空位の紀年数が2年、仁徳紀の紀年数が87年、
履中紀の紀年数が6年、反正紀の紀年数が5年、允恭天皇の即位までの空位の紀年数が1年、
允恭紀の紀年数が42年、安康紀の紀年数が3年、雄略五年までの紀年数が5年であることも、
ご存知であると思います。41+2+87+6+5+1+42+3+5=192となるでしょう。
そこで、応神元年から雄略五年までの間の実際に経過した年数と紀年数との関係を考えてみましょう。
以下の等式が、成り立っていることになります。

 192(紀年数の合計)−72(実際の経過年数)=+120

>>227をご覧いただきたいと思います。
神功紀では、実際に経過した年数に紀年数が120年足りなく(−120)、
応神元年から雄略五年までの間は、今度は紀年数が120年加算されている(+120)ことになるのです。
このような日本書紀紀年法の構造を「プラス・マイナス120年構想」と名づけました。
わたくしの説は、数学的に、きちんと証明できるのです。

230 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/13(月) 11:04:39
>>220
>羽之さんのお説は面白いとは思います。

ん?俺は一言も説は提示していませんよ?w
書き込みに対し○△×で”教えてあげる”と言っているのですw

231 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/13(月) 11:06:17
知識の比喩でいうとこんな感じですかなw

一般人=偽地図渡されて違う場所へ
裕子タン先生及び住人=ヒント付き地図渡されるが辿りつけず
俺=迷わず目的地へ

一般人=天道説
裕子タン先生及び住人=地動説
俺=宇宙は現在膨張している

裕子タン先生は浜田秀雄氏の「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」は知っていますか?
邪馬台国論はおいといてwおすすめですよ。
どこかは言えませんが1ヶ所正しい解読をしています。

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/294
>仁徳天皇陵は、雄略天皇陵である可能性が出てまいります。△

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/413
>671年のころは、九州王朝はまだあった△

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/432
>神武は九州の王家の傍系×

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/582
>貴方は、『記&紀』の「万世一系」や712年や720年の成立を信じて疑わないのですか?○

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/597
>彼の実名がお判りですか?

あなたは古代天皇の”当時”の実名を知っていますか?w

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/635

232 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/13(月) 12:28:14
羽之さん
○△×は羽之さんのお説ではなく、鹿島氏や浜田氏の説というわけですね。
おそらく羽之さんの目的地は、鹿島氏や浜田氏が提起された目的地なのでしょう。
わたくしの目的地は、日本書紀紀年法の構造を明らかにすることです。
そして、そこから、日本古代史についての再考してゆこうと考えております。
ちなみに、このスレッドに書き込まれる方々がわたくしの説に対して賛同してくださっているわけではなく、
むしろ、批判を受けているのではないかと思っています。

233 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/13(月) 12:39:32
>>232
>おそらく羽之さんの目的地は、鹿島氏や浜田氏が提起された目的地なのでしょう。

ちょっと言わんとすることがわかりにくいのですが、目的なんかないですよw
ただ”知っている”ことを教えてあげましょうってことですw

234 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/13(月) 12:46:55
ああわかりました。こっちに答えた方がいいか。

>○△×は羽之さんのお説ではなく、鹿島氏や浜田氏の説というわけですね。

違いますよ。”真実”です。
だから鹿島氏や浜田氏も間違ってると書いてるじゃないですかw

235 :日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:52:52
確信した正解を具体的に

236 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/13(月) 12:59:05
いい例をあげましょう。

鹿島氏は大化改新と新羅史ひどんの乱の類似から
天智天皇を新羅王武烈+百済王豊璋とした、
とここまでは良いとして、じゃあ本当の”天智天皇”は誰か?
記紀からは絶対わからないでしょう?
だって大化改新は新羅史ひどんの乱の翻訳なんだから。
推測はできますがね。

でも俺は”知っている”んですよw 

237 :日本@名無史さん:2006/03/13(月) 13:01:02
応神天皇だろw

238 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/13(月) 13:01:40
>>235
それは勘弁して下さいw
教えるのもギリギリなところなんでw

239 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/13(月) 13:04:53
>>237
ハズレw

まあ、最大のヒントをあげましょう。
鹿島氏のその説が書いてる本に近い人物をあげています。
がその人からさらに発想の転換をしないと”真実”には絶対辿りつけませんw

240 :質問のいらつめ:2006/03/13(月) 13:20:25
>>231の羽之さん
 地球が宇宙の中心であって、太陽がそのまわりを回転しているのか(天動説)
それとも、太陽の周りを地球が回転しているのか(地動説)、この宇宙観の違い
から論者の立場を捉えているのは、面白い発想と思います。近代天文学の結論は、
地動説がただしいということになったのですが、それでは、羽之さんの宇宙膨張論
は、まだ現代の天文学が立証していませんので、説のひとつに過ぎない
ということなのでしょうか。

241 :日本@名無史さん:2006/03/13(月) 13:27:13
本当の天智天皇とは持統や大友たちの父である人物という意味だよね?


242 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/13(月) 16:04:54
羽之さん
>>235さんもおっしゃられているように、お説を正確に提起していただけませんと、
「ただ”知っている”ことを教えてあげましょうってことですw 」とおっしゃられても、
その内容につきまして、雲を掴むようであっては、わたくしも、また、このスレッドを読まれたり、
書き込まれたりする方々にも、何のことやらさっぱりわからないと思います。
羽之さんがお説を披瀝してくださいましたなら、疑問があれば、質問もできましょうし、また、
反論を試みることもできます。

243 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/13(月) 16:08:09
>>241さん
『日本書紀』は、まったくの出鱈目とおっしゃる方々もおられますが、
わたくしは、ある程度は史実にもとづいていると考えております。
天智天皇は、持統天皇や大友皇子たちのお父様であると考えております。

244 :太国:2006/03/13(月) 16:10:38
>>229
小難しいながら、だんだん貴女の云うことは分かってきました。
ただ120の数字の一致はしていますが、そういうんなら、私もやっていて
そんなことはありますよ。ただまだ実年の裏付けまでに至っていないので
やらんだけですが。紀の提示の数字はよく知っています。
とにかく、その理論は百済関係の数字が極めて正確になっているとすれば
確かに貴女のお説は真実味が増しますが、それを真と勝手に決め込んでやって
行きますと、まあ失敗ですな。それに通説なんて参考程度で正解と観ないほうが
よろしいと思います。通説だからといってもまだまだ信用できません。
それから、120年の増減を紀の編纂者がやったのか? という疑問が沸いて
来ます。記の宝算を無視、変更して、紀の編纂者とその取り巻きが紀に
各年代の記述をしてるということは、彼らが記の記述を間違いと確信していて、
改正あるいは修正したと考察しています。それだけ舎人親王らは紀に記載の
数字に強い自信があったんですよ。一国を代表する書にするんですから
いかさまは過失的に間違ったとかはあるとしても、やっていないはずでしょう。
ですから、紀の各年の増減操作は何らかの理由があって舎人親王らが隠して
やるほどのことではありません。
次に倭の五王を当時の各天皇と定めて年の数字を決めて行くのも間違いです。
それは五王が各天皇に非ずということにあります。同一として双方の数字を
定めて行くと、帯に短し襷に長しで未来永劫合うことはないはずです。
もしそれが合うというのならば、衣服の繕いの如くだからそうなるわけで、
表面的の一致というだけで無意味、これも失敗そのものです。
当然、卑弥呼が神功皇后というのもおかしいわけであり、各他説も無理やり合わ
せたの観があります。双方が同一人物ならまず名前が一致していて、壹与とか
上下の親子の系統までほぼ名前が一致するはずですよ。五王のほうも「武」
だけが「幼武」の雄略の名の一字しか合ってなく、他の王なんぞは全く合致して
ないわけで、これは偶然一字が一致しただけで五王と当時の各天皇が別人で
あることを強く物語っています。


245 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/13(月) 19:52:25
太国さん
わたくしの説を、少しづつながらもご理解いただけてまいりましたこと、うれしく思います。
わたくしの説は、応神元年が390年であるという定説を踏まえますと、論理的に極めて説得力のある説です。
また、わたくしは、『日本書紀』の編年と『古事記』の崩年干支はグランド・プランにもとづいて、
相互補完関係にあると推論しています。それは、日本書紀紀年法の構造は、崩年干支によって解くことができるからです。
また、『日本書紀』の歴代天皇の宝算と『古事記』の歴代天皇の宝算が異なることも、
グランド・プランにもとづく設定と考えています。
太国さんは、『日本書紀』の歴代天皇の宝算が現実離れしていることを、
二倍暦で説明されようとなさっておられると推測いたしますが、わたくしは、「宝算年差」という考えで、
説明を試みています。「宝算年差」につきましては試論の段階ですが、追ってご説明させていただきたいと
思っております。

246 :太国:2006/03/13(月) 21:03:57
羽之殿 みどもらよりも自信がおありのようなので、貴下の紀年論を聴こう。

247 :太国:2006/03/13(月) 23:05:00
研究家さん、舎人親王らは太安万侶らと組んで数字のパズルのようなことを
紀に代入して各年等の数字を操作したなどということは考え過ぎですよ。
井沢元彦さんの出世作の推理小説(作品名忘れましたが)でもこういうのが
ありました。探偵小説や推理小説ではそういうことはOKでそっちのほうでは
面白くて良作品を生みますが、現実の史実では、無いとは云いませんが、
まずそういう、紀を彼らがパズル化して真の実年を文底秘沈式に隠して
紀の中に蔵入りさせておくなどということはオーバーでまず無いと思います。
舎人親王らは素直に自信をもって、記の宝算を鞍替えし、無視してひっくり返し、
立太子、即位、崩御等の数字を記述したと考察します。
当然ストレートでは天皇の寿命が長すぎで現代人が一見すれば嘘に見えますが
そうではなく2倍暦のみでで寿命がほぼ合理的圏内に射程されます。

248 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 04:31:18
二倍暦が適用できる地域は邪馬台国の勢力圏内である
北九州西部に限られると言われているが本当だろうか

249 :太国:2006/03/14(火) 07:34:46
魏志倭人伝等にそんな限定使用の記述があるのかね?w
限られはしないよ。日本国中調べ通したわけではない筈だ。

250 :日本@名無史さん:2006/03/14(火) 08:43:56
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
天智は舒明の弟塞城、古事記でいうと中津王だ

蘇我宗家=上宮王家
蘇我入鹿=山背大兄
葛城皇子=蘇我入鹿
舒明天皇=余豊
中大兄皇子=塞上

251 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/14(火) 09:26:29
>>247の太国さん
太国さんは、しん緯暦運説と日本書紀紀年法との関連については、どのようにお考えでしょうか。
パズル的発想は、政治倫理思想にもとづいているのではないかと、わたくしは推論いたしております。

252 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/14(火) 09:29:57
>>250さん
飛鳥・白鳳時代について考える場合、蘇我氏の位置付けは重要な問題です。
お説は面白いと思いますが、どのような論拠にもとづいておられるのでしょうか。

253 :太国:2006/03/14(火) 16:58:34
>>251
私は干支での研究はご無沙汰でしたが、辛酉を強調する讖緯説くらいはまあ
聴いてはいます。w
私は伴信友を国学者として尊敬してますが、那珂さん同様双方の云う讖緯説に
は首肯できないところがあって、神武即位に当てるこの説は成立しない
と観ています。601年の斑鳩宮の件での辛酉を編纂者が年月延長のため使用
して1蔀分の計算による前660年を決めたとしてるようですが、そんならば、
当時の推古天皇の即位の592年の壬子からやるのが筋じゃぁないんですか?
同宮とかよりも推古天皇即位のほうが重大ではないんでしょうか?
だから即位の数年後としたハンパ年にですよ、そんな前660年まで引き伸ばす
なんていうのは、いかさまをやるにしては〜宮造り年とかでは基準、根拠が薄弱
すぎの年なんではないでしょうか?601年に即位すればよかったじゃないですか?
延長をやるため欠史8代を代入させたというのも、これまたおかしいと思考
します。だって各天皇の寿命が馬っ鹿みたいに長く、いかさまをやるにしては
バレバレすぎますよ。わからぬ(もっと短い)寿命で記述する筈でしょうが?
とっさ判定の〜昨日ですか? 日米野球のおかしな判定をニュースとかで
知りましたが、利害がでかいといかさまをやる可能性が出て来ます。あれは
とっさだったからか、一瞬での結論の判定結果ですかな・・・?
しかしじっくり紀を編纂するんですから、とっさの誤魔化しでおしまいにしよう
ではバレバレになるように、記述を後世に残してちょんぼを分からなくするには
あまりにも当時の天皇の寿命が長すぎると分かってまずいじゃあないですか?一瞬
ではないですよ。8代間にその2倍の代数の天皇を創作して記述すればなおゴマが
隠匿できるんじゃないかと考えますが?〜いかさまならの仮定での上です。それで
讖緯説は記紀の超長寿等からの年の疑問を二氏が都合よく間に合わせ一見合理的
にさせてああこれだ〜と真実の様にに直感しちゃったのか?かように考察推理した
伴信友と那珂さんの結論付けは推定も多く、かように多角的に不合理な論を持って
来れば、舎人親王らが讖緯思想で計算し前660年を創作したとするのは、大きく疑問
が残るものだと思考します。


254 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/14(火) 18:22:09
>>253太国さん
わたくしは、推古九年から一蔀1260年を遡って、神武元年を紀元前660年に定めたと考えております。
太国さんは、三善清行の「革命勘文」をご存知だと思いますが、しん緯暦運説の一蔀説は、
「革命勘文」に由来しています。
このなかで、清行は、じょう玄の易緯の注を引いて、一蔀の年数を示していますが、もうひとつ、
「四六二六相乗」、すなわち、240年と120年が重要な天数であることも述べています。
『日本書紀』は、単にパズルとして出鱈目の数学を用いているのではなく、
政治倫理思想としての易緯(緯書)を応用していると推論することができます。
緯書は、儒教思想のなかでも、特に為政者の徳や不徳の問題を扱っております。
『日本書紀』という史書には、一蔀の1260年や四六二六相乗の240年や120年という数字を織り込むことによって、
政治倫理が確立されることへの願いが込められているのではないでしょうか。

255 :太国:2006/03/14(火) 20:10:03
那珂さんらは神武即位から逆算して行き、1260年分引き下げて推古9年を求めて
同9年を基点の年と結論し、早計に決めこんだんじゃあないですか? 逆に
基点の推古9年が、ある重要な意味を持つ年であることが明々白々と楽に知れて
いて、そこから算出したら前660年が出てきたというならば、これはある程度首肯
出来る論になりましょうが、ま〜ずその出所は前者のほうだと思いますよ。
それに先述しましたが、推古9年の601年に前660年の神武即位に匹敵する国家的
大事件というか大ニュースなるものがあったのかということを考えてみますと、
その年は斑鳩宮を造ったとか任那に人間を送ってですか? 同国を助けたとか
のことくらいで、神武即位に比肩できる出来事は見当たらんように感じます。
推古即位の592年から讖緯方式の計算が出来て、神武即位がうまい数字で出て来て
論がスムーズに説明可能なのならば、それは若干有力な説明になるということは
云えるでしょうが・・・? 壬子だって「子」は十二支の始まりの意味になり、
この592年でさえ合わせるには、ベストではなくともベターになりうる歳では
ないでしょうか?



256 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/14(火) 21:02:12
>>225太国さん
601年に120年をプラスいたしますと養老五年の721年になります。
この年は『続日本紀』において『日本紀』が成立したとされる養老四(720)年の翌年です。
721年は辛酉年ですので、研究史上、601(推古九)年の辛酉年と関連がある可能性が指摘されています。
また、721年は元明太上天皇が崩御されて、皇太子・首皇子(後の聖武天皇)が朝堂において、
執政権者としての地位を確立した年代でもあります。
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎 −交差する飛鳥時代と奈良時代』では、奈良時代の歴史的事象が、用明紀、崇峻紀、
推古紀に投影されていることを論じました。
推古九年条の皇太子の厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩宮を興したという記述は、
『日本書紀』の成立期である奈良時代の政治史と関連しているのではないかと推論することができます。

257 :太国:2006/03/14(火) 21:39:40
貴女もやっている私もやっているということなんですよ〜。w
貴女の場合は120年ごとの追加計算であり那珂説に近いんでしょうが、
私だって×××年的追加計算はまあ紀年研究とは似てはいますが、古神道からの
某研究でして、やはり貴女のように国家的出来事とか、それに準じる重要なこと
が各追加年ごとに見え隠れする研究です。種々の理由で表沙汰にはせずの保留
ですが、言える事はそういうやり方は貴女だけじゃぁないということですよ。
ほかにもまだまだやってる方がいると思います。
その721年ですが厳格には1年紀の成立にずれていて、宝くじからすれば1等
当選ではありません。残念賞の部類です。それでもですよ、721年ではなく
逆の−1年の719年ならば貴女の説はまだ言い訳が利きましょうが?
何となれば、成立の前年ですからその年に重大出来事があれば把握できますから
舎人親王らのイカサマはやることが可能ということになります。しかし、
721年では1年未来のことですから、721年に国家的悪ニュースでもあれば
120年(+1)の循環追加に汚染を招くネガテイブのものとなります。
ですので721年のほうは貴女の説の後押しにはならないと思いますが・・・?
実際、舎人さんらが文書偽造的イカサマはパズル的でもやっていないと思います。
私は、神武天皇即位はB.C.150年からb.c.100年の間と観ております。

258 :太国:2006/03/14(火) 21:46:36
後章の文はわかりずらかったと思いますので、もう一度追加しますが、
未来ですからよほどの卜占の達人でもない限り1年後でも舎人さんらには
何が起こるかとまどい、分からんわけなんですよ。
だから1年後に、もしも大不吉なことがあれば120年追加追加の中身の思惑
は外してしまうおそれあることが彼らにもわかるでしょうから、
運良く行けば大吉事ありしめしめですが、凶事ならば120年加算構想は
おじゃんなわけです。だから721年ではまずいわけなんですよ。

259 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/15(水) 09:02:29
>>257・258太国さん
紀年の加算問題は、多くの研究者が扱っていることは存じております。例えば、
空白年次を紀年の延長と考え、これを引いた数字が史実としての歴代天皇の在位年数であるといった説や、
それこそ二倍暦説にもとづいて紀年数が二倍されているなどの諸説があります。
そこで、わたくしの説のオリジナリティーのひとつとなる120年問題ですが、
わたくしは、721年に『日本紀』が成立した後に、740年代に改編されて『日本書紀』が成立した
と考えております。すなわち、『日本書紀』成立時において、721年は未来ではなく過去であったと思います。

260 :太国:2006/03/15(水) 09:24:12
>>259
そうなりますと、貴女は721年に続日本紀が成立して740年代に日本書紀が成立
したという論になり、おかしくはありませんか?
だったら、続日本紀を日本書紀と名を改め、日本書紀を続日本紀とせにゃぁ
「続」の文字からして主客転倒となってしまい矛盾です。
前スレでも女性歌人の方が書き込んで、紀の720年成立説を歌の中に文底秘沈式
に真の成立年が隠されているとかで否定しているのが、確かあったと思い
ますが、貴女の説もそうなりますとこの女性歌人の説に似てくるということに
なって来ますが、そういうことを肯定されるわけですな?
なぜ、舎人親王が740年代になるよう紀の成立年を+20余にしてないんですか?

261 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/15(水) 13:23:01
>>260太国さん
>>259にて、うっかり『日本紀』の成立を721年と誤記してしまいましたので、
誤解をもたらしてしまったのではないかと思います。正しくは『日本紀』の成立は養老四(720)年です。
お詫びして訂正いたします。720年に成立したのは、『続日本紀』ではなく『日本紀』ということになります。
『日本紀』が720年に成立して、『日本書紀』は740年代に改編されて成立したと推論いたしております。

262 :太国:2006/03/15(水) 15:56:18
わかりました。現今においても出版日と実際の刊行日は違いがあるわけで
書店に出る本の内容が各新聞に発売とかかれても、現実に書店に置かれるのは
数日経過した後であることからそういう可能性はあると再考します。
2月号は1ヵ月前に書店に出回ったりしていますから、前後のずれはありうるで
しょう?私もそんな経験があります。
いいですか、601年(推古9年)には革命など日本に起きていないではないで
すか?これでは、那珂さんらの主張する讖緯説などは首肯できませんが・・・?

263 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/15(水) 17:11:57
>>262太国さん
百済観音について扱ったわたくしの近著が発売となりましたが、発刊日は4月です。
しかしながら、『日本紀』と『日本書紀』の関係は、発売日と発刊日の違いに譬えることはできません。
それは、発売日と発刊日が異なっていても本の内容は同じですが、『日本紀』と『日本書紀』とは、
編年も含めて内容が異なっているからです。
「革命」という用語の定義が問題ですが、601(推古九)年に、日本で政変はあったかもしれません。
しかしながら、『日本書紀』は、むしろ皇太子・首皇子(聖武天皇)が執政権者としての立場を固めたことを重視して、
601(推古九)年を第二蔀の首の年としていると推論することができます。
『日本紀』は、首皇子が善政を行うことを願って編纂されたのでしょう。

264 :太国:2006/03/15(水) 19:43:22
舎人親王らがこっそりとある理由で現実の各天皇の即位年等にいかさまを加え、
それから神武即位を定めたんだろうとするならば、むしろ604年の憲法十七条の
制定の歳のほうが、よっぽど601年の斑鳩宮を造った歳より基点の年にするには
向いているんではないでしょうかね?
604年はなんでも九星という陰陽道ですか? これの基点なっている年だと伺って
おりますが? この年は甲子に当たり、この年を一白水星の中宮と定めて上元と
為し出発年とする、九星の基点の歳になるんだそうじゃないですか?
そこから遡って、舎人親王らは神武即位を紀元前の甲子の某年と定めたほうが
別に革命だとか即位等がなくても、基準年にするには頃合の歳ではないですか?
と私は考えますが? 601年の史実が特筆すべきことが宮造り程度しかなければ
那珂さんの主張するこの説は、604年の私見の改定案よりかげりがあるとしか
言いようがありません。

265 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:44:09
和国の国号は、義和と関係があるのだろう。

書経・堯
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/yao1.htm



266 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/16(木) 09:13:09
>>264太国さん
憲法十七条が制定されたとされる604(推古12)年に120年を足しますと724年になりますが、
724は、聖武天皇即位の年です。すなわち、推古12年条に十七条憲法の制定についての記述が見えることには、
意味があるのです。
それでは、なぜ、601(推古9)年のほうを紀元年を定める第二蔀の首の年として重視したのかというご質問があるかと思います。
これは、『日本書紀』は、聖徳太子の例にも示されますように、執政者は天皇ではなく皇太子であるという認識があったからではないかと、
考えられます。
また、120年の問題は、「プラス・マイナス120年構想」において、並列する4本の「年代列」のうち、
応神列(A列)と雄略列(B列)の実年代に対する位置付けが120年ズレていることに、大きく関係しています。

267 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/16(木) 09:20:35
>>267さん
「倭」は、今日では、一般的に「わ」と訓じられておりますが、
「漢委奴国王」の事例に示されますように、「い」と訓じられていたとも考えられます。
たぶんに、弥生時代には卑弥呼や台与などの女王があったことからの発想であり、面白いお説とは思いますが、
卑弥呼には子がなかったように、女王には豊穣・多産の女神としての側面は、なかったのではないかと思います。
従いまして、和(倭)と義和とに関連を求めることは難しいと考えられます。

268 :太国:2006/03/16(木) 09:53:59
基点の601年が軟弱な状態では、そのように色々派生してくる年の方に、多少
なりとも骨のある出来事があったとしてもうなづけないですねぇ。
大黒柱が細くて他の柱群がそれより太く強力というのは何としても無理に付加
させた合理性であり、非合理以外の何者でもないと思考しますが・・・?
まだ××列とかいうお説はまだ理解できてませんので、今後考察してみます。
結論を言いますと、やはり那珂さんの讖緯説は砂上の楼閣であるようで、
かような説を学会が公認してるとすれば、まだまだ他の面でも、例えば女王国の
畿内説の件とか倭の五王のこととか〜学会の言うことは信用ができません。
先述しましたが、貴女の説も倭の五王を当時の各天皇であるという論に立脚して
百済等の文献の照合から紀のいう各年月を確定したのであれば、もう真にこれは
うまくないと云えます。貴女も気付いてるでしょうが、アマタラシヒコですか?
アマタラシホコですか?この例のようにこいつが漢字の複数で書かれている等
というのが日本の場合多いのに五王名はわずか皆1文字ずつの構成であり、
各天皇には当然単名というのは無いはずですから、ならば双方は別人ということ
が容易に観てとれ、そういう説はうまくないんではないか?と肌に感じられます。
その上で真の紀年の決め方は、倭の五王からの天皇関係の年月の関連を無にして
連結性なしに論を行うことだと強く思考します。

269 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 10:51:45
>>240
え?互いの銀河は遠ざかっていることは確認されているのでは?w

>>241
もう10回>>236を読みなさいw
「>持統や大友たち」も新羅史の翻訳人物だから
人物比定しても意味がないって言ってるんですよw

そうだなあ、あくまで極端な例え話ですが、本当の天智天皇=小泉総理
新羅王武列=盧泰愚、記紀の天智天皇=盧泰愚

さて、今なら情報化社会で教科書にこんなこと書いても嘘とわかるが、
古代、しかも出鱈目に創作された記紀から人物特定できますか?ってこと

>>242
うんうん、当たり前の感想ですね。そう思うのは当然です。
でも、何回も言ってるように文献からでは絶対真実は解き明かせない!
だからそこから解析して説を説いて下さいというのはナンセンスなんですよ。
俺の言ってることは”真実”と信じてもらうしかないですねw
世の中には自分の常識を超える事象があるんですよw

270 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 10:53:37
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/577
>私は、ただ一点「史実の(追求)解明を目指すのみ」です。

万葉集だけでは絶対無理ですよ。しかもどの史料も勝者であれ敗者であれ、
編者の都合の良いように細工してあるんだからw
一つの史料に重きを置いたらその世界観の発想でしか推理できない。

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/644
>推古は在位していなかった。○

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/649
>『日本書紀』の編纂時において、
>両帝が混同されてしまったからではないか
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/686

そういう考えじゃなく編纂者(勝者)の立場で推理していかないとw
簡単にいうと全て”前王朝(別系統)といかに自然に繋げるか”ってことw
勿論、新羅史も百済史もねwもうひとつこれが一番重要だが唐の存在もね。
あと創作天皇の存在もwそしてこの4国をパズル的に考えないとね♥

271 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 10:56:24
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/655

も〜もたろさん ももたろ〜さん♪ 

昔話も一種の史料。これ”真実”。

さて、猿犬雉はどれに当て嵌まるかな?w

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/718×

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/779×

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/789
>義経=チンギスハーン△

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322/933×

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140936342/157×
>>158が正解

272 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 10:58:20
訂正
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140936342/157×
>>158の”考え方”が正解

真実はもっと複雑w

273 :太国:2006/03/16(木) 11:06:28
羽之さん 何が何だか分からんです。理解しやすい書き込みで願いたい。

274 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 11:28:56
>>273
簡単じゃないですかw
俺の言ってるのは”真実”ですから「なんで?どうして?」
とかナンセンスと言ってるんですよw

そんでもってハッキリは教えれない(生命の危険があるのでw)が
○△×で教えてあげるということw
そこから、まあ△×の場合は違う推理をしなさいということw

275 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 12:03:35
お薬ちゃんと飲んでますか?

276 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/16(木) 12:08:45
太国さん
対外的に漢字一文字を用いることは、日本だけに限ったことではなく、
『三国史記』と中国史書を比べてみていただけばわかりますように、
一般的に行われていたと考えられます。
わが国では、5世紀代では漢字一文字を対外的に倭王の名を表すのに用い、
7世紀では、これを止めてしまったのではないでしょうか。
したがいまして、倭の五王を歴代天皇に比定できないということはないと思います。

277 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 12:12:42
釈迦三尊像の光背銘を見ても、皇室と無関係であり、
倭の五王が各種将軍・大将軍号を名乗ったのに、
天皇は一度も名乗っていないのは、異なる王権の別人だから。

278 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 12:18:18
>>275
はいはい、本当の天智天皇の正体を言えてからそういう書き込みをしてねw

279 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/16(木) 12:19:24
>>269>>272>>274の羽之さん
わたくしは、『日本書紀』と『古事記』を具に検証して、仮説を立てております。
それが、羽之さんのおっしゃられる”真実”と異なるものであったとしても、
わたくしの仮説の是々非々は、研究者や一般の方々を含めた読者の方々が判断なさることになるでしょう。
もちろん、反論や批判もあるでしょうけれども、わたくしの説に、論理性と蓋然性を認めてくださる方々もおられるはずです。
「生命の危険があるのでw」とおっしゃいますが、日本古代史につきましては、きちんと議論すべき問題であると考えております。
それには、仮説が提起されていなくてはなりません。
むしろ、”とんでも説”と思われようとも、羽之さんは、羽之さんが”真実”と考える説を、
発表すべきであると思います。

280 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 12:21:54
まあ、一般人の反応はこんなもんだろうなあ。
教えるの勿体無いからもう消えますわ。

無駄な研究しといてくださいw

281 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/16(木) 12:24:10
>>279
だからそんな大そうな目的なんかないですってw

違うよって思って教えてあげただけですw

282 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/16(木) 12:27:48
>>277さん
『日本書紀』でも、理想的為政者として万機摂政の皇太子の聖徳太子を賞揚しておりますように、
『日本書紀』は、執政者を天皇として位置付けていない傾向にあります。
わたくしは、この問題が倭の五王問題と関連していると考えております。
例えば、『魏志』倭人伝では、卑弥呼には「男弟」があり、政治は「男弟」が担っていたとあります。
五世紀の倭の五王たちの爵号に適う立場は、むしろ「男弟」なのではないでしょうか。

283 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 12:35:00
天皇に兄王・弟王がいないことからも、
別な王権であることが確実。

284 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 12:48:41
>羽之
桓檀古記や契丹古伝等のいわゆる古史古伝に類する
近代の創作物であり偽史偽書

285 :質問のいらつめ:2006/03/16(木) 13:40:19
>>269の羽之さん
 羽之さんのおっしゃるとおり、確かに、光線を使った天体観測の結果、
宇宙の膨張説は裏付けられていました。ごめんなさい。いまだに判明
していないのは、宇宙は膨張し続けるのか、それとも、再び収縮に向か
うのか、ということの方でした。
 羽之さんに本当に申したいことは、ご自身が、あたかも歴史の絶対的な
決定者のように思っていらっしゃる、ということです。実際には、歴史の
研究において事実を見極めますことは、観測できる天文学以上に難しい作業
となります。寄るべき史料は乏しく、また、同じ史料を用いても解釈も論者に
よって大きく分かれてしまいます。ですから、お互いに自説が絶対正しいと
主張して譲りませんと、地動説と宇宙膨張論の両者が正しいように、全く異
なる歴史が並立してしまうことになりましょう。事実を完全に解き明かすこと
は不可能であっても、議論を通してささやかなりとも事実に近づくことはでき
るかもしれません。ぜひ、より謙虚になって、もう一度、ご自分の主張を慎重
に検討なさってみてください。どんなに信じていることでも疑問を持つことを
忘れてしまいますと、それ以上に成長するも、発展することもできなってしま
うかもしれないのですから。

286 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/16(木) 15:17:43
>>283さん
天皇に兄王・弟王がいないとは、どういう意味でしょうか。
『隋書』倭国伝の「兄以天日以弟」と関連のあることなのでしょうか。


287 :太国:2006/03/16(木) 16:15:47
>>276 最下段
そうだと、未来永劫一致しませんよ。一致しても付会的で非合理なる合理に
終始します。墓穴を掘って失敗になりますな。
これは推定ですが、五王は単名で一見中国の人が使用する感じですから、
九州でもかなり中国に近い場所でしかも大陸、対馬等〜北九州〜畿内へ至る間の
一帯から一寸離れた地域に五王の九州王朝があったと考えています。
当時日本には畿内の大和朝廷と九州の女王国系の九州王朝と、さらにこの五王に
よる第二の九州王朝が、三本鼎立の状態で存在していた事が真なのであります。
最も短命だったのが五王朝でありました。

288 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 17:44:02
【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。


289 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 18:17:30
第一次百済は、乾馬国とも呼ばれたようだな。






290 :日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:56:40
スレ主さん、こいつは相手しないでいいです。
コピペ荒らしです。アクセス禁止か削除依頼出していいです。

291 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/17(金) 09:35:47
>>287太国さん
日本書紀紀年法の構造的観点から、倭の五王について、蓋然性の高い説明ができましたならば、
太国さんは、『日本書紀』が倭の五王を無視しているわけではないということを認めてくださるのでしょうか。
倭の五王の爵号や高句麗好太王碑文などから、倭の五王の国は、かなりの勢力範囲があったと考えられます。
兵士を集めるのには、戸数が必要ですので。
このような大きな勢力範囲を有していた倭の五王の国(すなわち倭国)の記録が、
『日本書紀』に収載されていないとは、わたくしには考えられないのです。日本書紀紀年法では、
5世紀を4本の「年代列」において扱っており、むしろ、詳細に伝えようとしていたのではないかと推論いたしております。

292 :太国:2006/03/17(金) 09:48:50
貴女の云うことが次第に分かってきましたが、全部には至っておりません。
A列とやらが西紀390年を基点としていることは、紀の皇紀930年と数字が
反転ひとつで似合うので覚えやすいですが、B列の461年とやらは、何故
この年を基点としたんですか?まさか貴女が120年合わせるのに好都合で
持ってきた年月ではないでしょうから?
大陸の碑にあればの話ですが、465年でも466年でも碑の文字が存在
すると仮定すれば、そっちを選んでも構わんことになりますので?
C列とやら以降はまだ考察してません。

293 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/17(金) 09:53:56
>>290さん
たとえ、どのような説であろうとも、言論の自由はあります。
わたくしは、面白いお説と思いました。古代における極東アジアの状況は、
まだまだわかっておりませんので。
アクセス禁止や削除依頼はよくないことであると思います。アクセス禁止や削除してしまいますと、
議論できなくなります。仮説があってこそ議論はできるのです。
290さんは、反論なさるべきでしょう。

294 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/17(金) 10:09:25
>>292太国さん
雄略列(B列)において、雄略五年の461年が基点(「基準年」)となる理由は以下によります。

応神紀と雄略紀に挟まれた仁徳紀、履中紀、反正紀、允恭紀、安康紀には、
海外資料との年代比較において、実年代を確かめられるような記述はありません。
雄略紀の雄略五年条となって、ようやく確実に実年代を確かめることができる記述が出てくるのです。
その記述とは、百済武寧王の出生についての伝承です。百済武寧王墓から墓誌が出土しており、
武寧王の出生は、考古学的にも確認されています。おそらく、5世紀後半以降、
武寧王の出生年はよく知られていたのではないかと思います。そこで、『日本書紀』は、
雄略列(B列)の基点(「基準年」)として「雄略五年=461年」と設定したのでしょう。
ちなみに、雄略列(B列)は、神武元年を紀元前660年、持統11年を697年に位置付ける
日本書紀の編年と一致しています。

295 :太国:2006/03/17(金) 15:50:32
B列は應神より後代年に依拠しているから、いささか信憑性が出てきますな。
だから461年の史実の証というのは一応うなづけると観たいですが?
ただそれが、何故基点となるのか? 疑問ですねぇ?
もっと基点とすべく、何かが無いとこれは肯定まで至れませんが?
た〜だ120年になるからといっても、まだ不透明さがうんとのこります。
その年だと120年となるからと、飛びついてこれだと決めるのは早計ですが?

296 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 17:24:27
>>293
いやこいつは同じことを古代史関係スレにコピペしまくっています。しかも連続でもしてます。
実際は文献的にも考古学的にも全く根拠のない説なので、それをただし、批判を試みたこともあります。何回か。
ところが、元が本当に全く根拠のない代物なので、そうすると、反論はできず、変わりに、話をそらし、
そういうこと言うお前は朝鮮人だろと決めつけ、聞くに耐えない罵詈雑言を書き散らします。
他の古代史関係スレを見ればわかりますが。
要するに、日本が古来から朝鮮半島の影響を受けたわけがなく、逆に朝鮮の国家は倭人のものだと決めつける、いわゆる嫌韓厨に過ぎません。

297 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 17:55:40
朝鮮人は韓人(カラビト。半島南部の倭人)ではない。
カラ半島北部に住んでいたワイ人(穢人)である。

【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。


298 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 17:59:05
韓人は日本民族の同胞だが、朝鮮人はワイ人なので、日本民族とは無関係だ。
単なる異民族にすぎない。

韓人は、カラ言葉(日本語の一種)を話していたが、
朝鮮人が話している言葉は、現代ワイ語である。

朝鮮語=ワイ語



299 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:04:08
ほら、このようにコピペが繰り返されます。
しかも主張だけで、根拠が明記されません。
こういうのが典型的荒らし行為であり、相手しない方がいいですよ、とした所以です。

300 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:07:36
大和朝廷の使節団が、日本領=任那を通って帯方郡に向かうと、
やがて、任那と帯方郡の<国境地帯>に出る。
そこで、大和の使節団は、国境地帯をパトロールする帯方郡所属の騎馬軍団と
遭遇する。
駒(コマ=馬)に乗った将兵を見て、
大和人は「この国は、駒(コマ)が多い。コマの国だな」と思った。
帯方郡が「コマのクニ」と呼ばれるようになったのは、そういう理由からなのだ。
後に、コマに「高麗」の字を当て、高句麗のことをコマと呼ぶようになったが、
もともと、コマとは楽浪郡=帯方郡のことなのである。




301 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:10:05

>>299 ←この者には、ワイ人の匂いがする。臭い・・・。





302 :日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:14:15
>>300
ただの妄想だろ。文献的根拠は全くないし。あれば出してみろ。


漏れはユダヤ人ですが何か。

303 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 09:19:07
>>295太国さん
基点(「基準年」)が、「雄略五年=461年」となるのは、「プラス・マイナス120年構想」の説明として、
>>193>>229でも述べましたように、応神元年の390年から雄略五年の461年までが、
一区切りとなっているからです。そこで、便宜上、雄略列における紀年と実年代との対称関係の基準を示すために、
「雄略五年=461年」という式を用いました。

304 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 09:26:50
>>296・299さん
コピペをなさる方のお説には、まったく根拠がないとは言い切れない気がいたします。
それは、『隋書』百済伝には百済には、倭人が住んでいたと記してありますし、新羅の始祖問題、任那問題など、
半島における倭人の存在を示すような史料があるからです。おそらく、このような史料から、仮説を立てられたのではないでしょうか。
日本列島と半島との関係は複雑ですので、公平にみて、コピペをなさる方のお説は仮説の一つとして、
議論の対象にはなると思います。

305 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 09:30:13
>>300>>301さん
このスレッド上で、国際紛争が起こらないことを祈ります。
ジュネーブ条約は守りましょう。

306 :太国:2006/03/18(土) 09:32:04
なぜ一区切りになるのか? そこを聴きたいわけです。
ただ、120年になるからそこを基点に致しますでは根拠が薄弱です。
それだけでは舎人親王らの構想というより、「貴方の構想」にとどまるだけです。

307 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 09:34:31
>>302さん
ユダヤ人の方が日本史に興味を持たれることをうれしく思います。
文献的根拠は、まったく無いとは言い切れないようですので、302さんは、
コピペをなさる方のお説に史料批判や反論を試みられてはいかがでしょうか。
どのような議論となるのか興味があります。

308 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 09:58:19
>>304
>>300とか史料にない捏造、妄想ですよ
甘過ぎます
百済に倭人がいたことと、百済が倭人の国と言うことは別です
倭にも韓人がいましたが、倭は韓人の国ですか?
百済建国時には倭は関係ないです
倭と百済の関係は4世紀後半からです
任那にしてもこれは伽耶であり、倭と関係深いのは事実ですが、倭の領土という根拠はありません
新羅も古い神話的王が倭の外来王としても、文化が倭とかなり異なり、新羅自体が倭人の国と言うのは無茶です
こう反論しても、無視してコピペ貼りまくり荒らしを続けるだけで議論にならないのです。

309 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 10:16:34
>>306太国さん
>>294でも述べましたように、応神紀と雄略紀に挟まれた仁徳紀、履中紀、反正紀、
允恭紀、安康紀には海外資料と比較することによって実年代を求めることのできる記述は、
一切ありません。雄略五年条となって、ようやく、実年代を求めることのできる記述が見られるようになるのです。
したがいまして、『日本書紀』におきまして雄略五年条は、一区切りとなる重要な年代と設定されていると考えることができます。
換言すれば、仁徳紀、履中紀、反正紀、允恭紀、安康紀に実年代を確定できる記述が見えないことに、
紀年が並列・多列構造となっていることが示されていることになります。

310 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 10:31:47
>>308さん
本来、308さんとの議論は、コピペをなさる方が行うべきであると思います。
わたくしは、日本古代史研究を進めているなかで、文献史料には、
コピペをなさる方のお説を強ち否定できないような内容のものがあることに気付いたからです。
例えば、百済の建国には倭人は関連しておりませんが、王妃の弟が王位を継承したという伝承があります。
コピペをなさる方のお説の「第二次百済」とは、このことではないかとも思ったのです。
古代においては、国民国家体系が成立しているわけではありませんので、近隣諸国間の関係は複雑です。
ヨーロッパでも、王位継承戦争が頻発しましたように。
様々な仮説が提起されてくることは当然のことです。
いずれにいたしましても、コピペをなさる方が議論を拒んでしまっていては、議論になりませんので、
コピペをなさる方の反応を待ちましょう。

311 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:48:17
その第2次百済建国に倭が関わった根拠がない
スレ主さん荒らしに甘過ぎ

312 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:19:51
つーかスレ主が張ったんじゃねーの?

313 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 13:17:25
>>311さん
ヨーロッパ史を概観してみますと、王室間の婚姻関係に起因したような王位継承戦争が頻発しています。
王室間の婚姻関係にもとづいて発生した歴史的事象に対しまして、例えば、英仏間の100年戦争などの研究のように、
冷静にその史実を見つめて、実証主義的な研究がなされています。
さて、極東におきましてもヨーロッパ史と大差なく、倭の五王たちの爵号問題に示されますように、
領土問題が絶えなかったことは事実です。
近現代史の経緯から、半島諸国史を論じるにあたって感情的になる傾向にあるのですが、
史実を無かったことにしてしまうよりも、史実を客観的に分析することが大切であると考えます。
ヨーロッパ史なみの研究が必要な時期に来ているのではないかと思います。
わたくしが、最も心配していることは、”とんでも説”であろうとも誰にでも自説を主張する権利はあり、
その仮説自体を抹消してもよいという考えは、歴史研究の統制に繋がることです。
自説が抹消される対象となってしまった研究者の気持ちも理解してあげてください。

314 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 13:22:05
>>312さん
コピペを行っているのはわたくしではありません。
わたくしよりも、もっと半島史に詳しい方であると思います。

315 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 13:24:29
何の裏づけも無い妄想は学説たりえないが

316 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 13:28:54
あのデタラメぶりで半島史に詳しい??それはないでしょ
スレ主とは思いませんが

317 :太国:2006/03/18(土) 16:05:25
研究家さん。貴女の区切りの方法では、今後その仁徳〜安康世の間にどこからか
年を指し示す新史料が出て来れば、今度はその年が区切りの年という事も成立し
多分に浮動的となっておかしいことになってしまう。幸い、貴女にとっては
それが出て来ないからいいですが、このような区切りの方法ではご都合の
浮動小数点方式の算出であり、まったく役に立たない。
出てきますと、120年はいずれか(おそらくはマイナス)へ増減になり、
120年構想は崩れることになる。

318 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 16:43:58
>>308

○韓人=倭人

×韓人=朝鮮人



○ワイ人=朝鮮人


319 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:05:36
論語正義云九夷者、一玄菟、二楽浪、三高麗、四満飾、
五鳬臾、六素家、七東屠、八倭人、九天鄙
海東安弘記云九韓者、一日本、二中華、三呉越、四乇`羅
五鷹遊、六靺鞨、七丹國、八女真、九穢貊


320 :太国:2006/03/18(土) 17:17:09
邪馬壹 ⇔ 邪馬一

321 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:21:39
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。


322 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:22:11
馬韓の邪馬国が邪馬台国の本拠地

323 :太国:2006/03/18(土) 17:24:45
>>322
その線はない。女王国は九州だ。決定的。

324 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 17:29:46
字句の一致は偶然では有り得ない

325 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 18:27:57
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。

彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。


326 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 19:35:51
>>315さん
”とんでも説”であろうとなかろうと、自由に自説を述べることができることが、
「掲示板」というもののよさであるのではないでしょうか。
コピペの方のお説は、特段、特定の民族や個人を誹謗中傷したものでもないと思います。

327 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 19:41:59
>>316さん
わたくしは、『日本書紀』や『古事記』と関連してくる半島史については勉強していますが、
半島史は専門ではありません。コピペの方は、半島の民族構成などについて、
よく存じている方なのではないかと憶推しただけです。

328 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 19:47:45
>>317太国さん
仁徳紀から安康紀までの紀年の編成がどのようになっているのか、もう解明が済んでいます。
現在、拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』よりも、
5世紀代について、さらにわかり易い拙稿を準備しております。
刊行を引き受けてくださる出版社さえあれば、早々に発表いたしたいと考えております。
わたくしの説が正しいかどうかは、研究者や一般の方々など読者の皆様が判断してくださることでしょう。

329 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 19:52:59
>>318さん
318さんがコピペの方なのでしょうか。それとも、コピペの方のお説に賛同されているのでしょうか。
仮に、コピペの方のお説に賛同されておられるのでしたならば、
コピペの方の援軍ということでしょう。

330 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 19:55:10
>>326
批判すると、反論ではなく、勝手に朝鮮人呼ばわりされ、朝鮮蔑視発言が出て来ることがありますよ。
他のスレ見て下さい。
甘過ぎます。

331 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 19:56:46
>>319さん
書き込まれた一文の出典は、いずれでしょうか。
わたくしは、九夷に「倭人」とあり、九韓に「日本」とあることに、むしろ興味惹かれます。

332 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 20:04:01
>>321>>325さん
321・325さんを「コピペさん」とお呼びいたしましょう。
同じ内容のものをコピペし続けるのではなく、このスレッドにて、
コピペさんに対して提起されている疑問に、例えば、出典を挙げるなど、個々別々、
きちんとお答えいただきたくお願い申し上げます。


333 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 20:08:31
>>322・324さん
「邪馬」は、「やま」という発音を表音で漢字にて記したものと考えられます。
日本にも「やま」はいたるところにありますので、
「邪馬」と「邪馬台国」の「邪馬」だけでは、根拠に薄いと考えられます。

334 :太国:2006/03/18(土) 20:10:48
>>328
済んでるという解明は、貴女の一人歩きだと思いますよ。
最初から云いますが、どこがうまくないのか?

1)倭の五王を各天皇と結論して、五王の年月の記録を各天皇の年月の記録
  として、編年をしてはいなかったか?
2)卑弥呼を神功皇后と結論して 1)と同様のことをやらなかったか?
3)那珂博士の讖緯説により、イカサマ舎人親王らが神武即位年月を故意に
  先延ばしを目論んだという仮設を鵜呑みにして論を進展させてないか?
4)論に矛盾が出てきて、それを回避するために神功皇后を多数人説と
  して推量して合理と為し、それから論を進展させてはいなかったか?

まだありましょうが、うまくないと思います。

335 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 20:18:04
>>329
それ同一ですよ。他スレで続き書かれます。しかも朝鮮蔑視発言が出て来ることがありますよ。
甘過ぎます。


336 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 20:27:52
>>326さん
いずれの国々も「すねに傷」といいましょうか、自国史において都合の悪い出来事はあります。
自国の歴史も他国の歴史も、研究しているうちに、自国や他国に不利な見解を述べてしまうことはあります。
歴史研究で、大切なことは、史実はどうであったのかという点にあるかと思うのですが、
どの国も面子や国民感情などが介在してきて、感情的対立が発生したり、
学問から離れた発言が飛び出してしまうことがあります。
日本古代史を研究していましても、このことを、いつも難しい問題であると感じております。

337 :太国:2006/03/18(土) 20:36:58
研究家さん。もう一度原点からやることを切望します。
まず。倭の五王が天皇に非ずと知るべきです。以後、幸多からんことを。

338 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 20:37:56
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50

日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50

日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50

日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50

日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50
日本人は自分達の過去の行為を誤魔化す為に朝鮮を誹謗しているにすぎない!!
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1142152345/l50


339 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 20:40:43
>>326・335さん
現在、日本人の方が、よほど逆差別を受けていると感じていると思います。
朝鮮蔑視発言の背景には、逆差別への苛立ちがあります。
>>326・335さんが、朝鮮の方であるのかどうかはわかりませんが、
日本人の苛立ちをご理解いただきたいと思います。
このスレッドを、自由、かつ、学術的な議論の場といたしたいと考えておりますので、
どのような書き込みがありましょうとも、大目にみていただきたいと思います。
アクセス不可や削除の要請という対処方法では、感情的に、なおさらこじれてしまいますので。

340 :326,335:2006/03/18(土) 20:50:26
日本人ですけど

>朝鮮蔑視発言の背景には、逆差別への苛立ちがあります。
それも理解するが、
朝鮮人差別や朝鮮蔑視発言を肯定するの?
>>338
はわざと煽りの目的で貼られたと思います。

341 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 21:02:27
太国さん
>>334にてご指摘の点にお答えいたしたいと思います。

1)の倭の五王の遣使年月日については、日本書紀紀年法では、
5世紀代を4本の「年代列」において扱っておりますので、
『日本書紀』の編年と遣使年との不整合は解決できます。
2)の神功紀についても、西暦201年から389年までを扱っておりますので、
卑弥呼のみを神功皇后として扱っているわけではありません。
3)しん緯暦運説は、那珂博士の説というよりは、三善清行の「革命勘文」にみえる易緯の注が、
原典です。朝廷知識人の間では日本書紀紀年法としん緯暦運説とが、関連しているであろうことは、
認識されていたと考えられます。「革命勘文」において、清行は、一生懸命、
紀年を120年と240年に区切っています。
4)神功紀では、「189−69=120」というきれいな式が成り立ちますので、
まったく論理は破綻しておりません。

また、>>337につきましては、「倭の五王は天皇にあらず」、というご指摘は、
ある意味では、そのとおりであると思います。ただし、別々の王朝があったという意味ではなく、
わたくしは、別の理由を想定しております。


342 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/18(土) 21:17:09
>>340さん
わたくしも日本人です。
わたくしは、朝鮮人差別や朝鮮蔑視発言を肯定するつもりはありません。
しかしながら、歴史研究においても、しばしば感情的対立が発生する原因は、
朝鮮の方が考えている以上に、日本人は朝鮮や朝鮮人を恐れていることにあるのではないかと考えております。
それは、>>338に示されますように、朝鮮の方があまりに強烈な反日感情を持っているからです。
340さんの発言は、反日活動と勘違いされてしまうのです。


343 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:18:30
まあ、とりあえず紀年とはあまり関係ないので脱線は程々に。

344 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:24:49
>>340さんの発言は、反日活動と勘違いされてしまうのです。

被害妄想というか、嫌韓厨のネット右翼の確信犯的行動ですよ。
差別や蔑視発言、排外主義に反対してるだけですが。
また >>338 はわざと朝鮮人憎悪を煽る目的で貼られたと思いますがね。



345 :日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:32:41
嫌韓ネット右翼の”とんでも説”コピペを擁護して、
>340が「反日活動」とは理解できん。言い過ぎ。


346 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 07:22:18
>>331
三国遺事

347 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 09:20:33
>>343さん
日本書紀紀年法について議論してゆくことが、このスレッドの目的ですので、
議論を半島問題から戻さねばならないのですが、>>344さんや>>345さんのようなご意見もあり、
半島古代史問題が、現在の政治問題に結びつき易いことを痛感いたしております。



348 :太国:2006/03/19(日) 09:25:07
研究家さん。もう倭の五王の中国関係の記事での年云々記事は、各天皇に
連結させずに別個と考えて、それを脇において考察すべきです。無関係ですから。
那珂さんの説も大国柱の601年が軟弱の様子から、当然棄却すべきです。
>>328 買ったですよ。w

349 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 09:29:29
>>344さん
344さんは、340さんと338さんの書き込みは、むしろ、「嫌韓厨のネット右翼」
の立場から書き込まれたと考えておられるわけですね。

350 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 09:46:23
>>345さん
コピペさんの件をめぐって、わたくしが申したかったことは、コピペさんのお説をアクセス不可、
削除しようとすることは、言論の自由に照らして大変よくないことであるということです。
誰にでも、どのような説であろうとも、それを発表する権利はあります。
その説の是々非々は、その説が発表されていなくては、検証することはできません。
このスレッドでも、様々な書き込みがありますが、わたくしは、一度も削除を求めたことはありません。
自分の説にとって都合の悪い説が出れば、それを削除して無かったことにしてもよいという考えには同意できないからです。
反論、反証することによって対処することが、学問の発展において大事であると考えます。


351 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 09:47:48
>>346さん
出典は『三国遺事』ですね。教えていただきましてありがたく思います。

352 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 10:05:47
太国さん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』をご購読いただいたとのこと、
ありがたく思います。
拙著よりも、現在準備しております5世紀代に考察対象を絞った拙稿のほうがわかり易く、
わたくしの説に対する読者皆様、そして太国さんのご理解に役に立つとは思いますが、
問題は、刊行をお引き受けいただける出版社があるかどうかです。
こちらの拙稿では、倭の五王と天皇との関連の問題を大きく扱っております。

また、一蔀周期年数説につきましては、1260年説と1320年説とがあって、
議論が続いておりました。現在でも多くの研究者の方々が一蔀周期年数の研究をなさっておられます。
日本書紀紀年法につきましては、むしろ、一蔀周期年数についての研究の方が盛んです。
これらの研究において1260年説が有力ですので、601年は決して軟弱ではないのです。

353 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:06:47
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。


354 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 13:10:16
>>353コピペさん
コピペさんのお説は、批判されているようですが、いくつかの点におきましては、
強ち否定されえないところもあるようですので、
以下の質問をさせていただきたいと思います。

1)高句麗が滅ぼしたのは楽浪郡です。「亡命政権」の第一次百済は、
帯方郡と楽浪郡のどちらの漢人・倭人によって建国されたのでしょうか。
2)「漢人」は、日本が「東海姫氏国」と呼称されていたことに関連があるのでしょうか。
姫氏は、周の王姓ですので。
3)『三国遺事』では、夷として倭人、韓として日本が見えますが、
倭人と日本人について、なぜ、夷と韓という違いを認識されているのでしょうか。また、
これは、『魏志』倭人伝に見える狗奴韓国問題と関連があるのでしょうか。
4)『魏志』には、「百斉国」という百済の前身と考えられる国名が見えますが、
これは315年に第一次百済によって滅ぼされたのでしょうか。「百斉国」は、
倭人の国であったのでしょうか。



355 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:35:12
★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。



356 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:40:06
九州、四国、佐渡島が本州と陸続きだったらな。

357 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:42:41
魏志倭人伝は、280年頃に成立したとされているが
原本がない。写本のみが存在する。
後世に写本が書かれた時に、4世紀以降の情報が書き加えられた可能性が
考えられる。




358 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:47:50
スレ主さん、コピペ厨はまともな議論しないと思うよ。
スレ主さんは、古代史専門だから分かると思うけど、彼らの主張は三国史記の記事には相容れないし、
日本側文献にも中国文献にもない捏造ですが。
315年に第2次百済云々など、三国史記では王の交代は無いし、全く裏付けないでしょ。
スレ主さんも言うように東夷伝に馬韓の伯済国が3世紀にありますし、
考古学的にも3世紀に漢城ソウルの風納土城がやあり、百済が成立し、その勢力が継続発展することが判明してます。考古学的にも漢城百済前半期は倭との関係を示す証拠はありませんよ。
また日本側文献に載る百済記事も、日本と百済の直接的関係は360年代からで、これは実は考古学資料とも整合性がありますが、それ以前はありません。
百済が倭との同盟など関係が深かったのは事実ですが、彼らはそれを拡大して歴史を捏造してます。まともに取り合う相手ではありませんよ。
実際コピペへの疑問に答えず、またコピペしているだけじゃないですか。

359 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:57:40
>三国史記ではその年に王の交代は無いが。

「その年」が意味不明(W
どの年だよ(W
どこで王朝の交代だよ。場所も不明。
いつの、どこの話をしているのやら。
日本語が不自由な異民族がウロついているようだ(W

三国史記を重宝がっている時点でアウトだな(笑


360 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:58:39
自作自演ですよ、レスするのが証拠です。

361 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:00:28
百済のような小国が、なぜ300年以上に渡って、
高句麗帝国との戦争を続けることが可能だったのか?
この疑問に、朝鮮人工作員が答えることは絶対にないであろう。

★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。




362 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:04:01
315年に出来たとか言うのは第2次じゃなく第1次か。いずれにしてもそんな文献証拠はないが。
また345年の近肖古王即位に倭が関与した証拠も三国史記にも日本側文献にもない。近肖古王時代に倭との関係が始まる記事はあるが、第2次百済云々は捏造ですね。

363 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:06:00
百済のような小国が、なぜ300年以上に渡って、
高句麗帝国との戦争を続けることが可能だったのか?
この疑問に、朝鮮人工作員が答えることは絶対にないであろう。

★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。


364 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:09:44
>>359
藻前らの言う第1次百済が315年とか、345年の第2次百済が倭が作ったという作り話だよ。
日本語が分からんのはお前だよw
三国史記を問題視するならそういう歴史があったと主張する根拠出せば?


365 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:12:23
百済が倭と同盟してたのは否定してないがな。
ただし百済は中国南朝の後押しがあったこと忘れてないか?

366 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:13:55
百済のような小国が、なぜ300年以上に渡って、
高句麗帝国との戦争を続けることが可能だったのか?
この疑問に、朝鮮人工作員が答えることは絶対にないであろう。

★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。


367 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:27:19
スレ主さん、議論しようとしてもこういうふうになります。もとは学究的で理知的なスレ主さんに分かってもらおうと、彼らの正体や誤りを伝えようとしたのですが、それが彼らの気にさわったようです。
彼らは、純粋に学問的に歴史的に間違いを正しても、まともな議論にならず、朝鮮人の工作員だろうとか言われてしまうのです。悲しいかな。
彼らは、単なる嫌韓のネット右翼ということを理解して下さい。

368 :太国:2006/03/19(日) 15:33:32
研究家さんが優しいので居座っちゃったみたい。w 困ったね。
一つの文を1回だけにしてもらいたいね。同じ文が数回続くのは迷惑。

369 :日本@名無史さん:2006/03/19(日) 15:43:08
九州、四国、佐渡島が本州と陸続きだったらいいのにな。

370 :太国:2006/03/19(日) 16:03:02
>>341 3) 4)
鄭玄という方の説が >>352 の1320年とかいう奴ですか?
どういうものなんですか? 1260年とどう違うんですかな?
1320年とやらは、あの貴女の本に解説ありますか?
きれいな数字だからといって真とは限りません。
貴女はきれいに見えるからその数字に陶酔してしまっており、判断を間違えて
しまっているのです。早く酔いから覚めるべきです。
数字の適合による一致なぞは、いろいろな研究者もおそらくあるであろうし、
きれいとかにとらわれては長く抜け出せません。そこは墓穴ですよ。

371 :太国:2006/03/19(日) 16:28:49
研究家さん。貴女は伴信友、那珂博士らの説の呪縛にはまっています。
早く目を覚まさないと一生その間違った説から抜け出せません。
601年の時には斑鳩宮の建築位しかたいそうな史実がないのに、これはおかしい
と気がつかないで120年の数字の魔力に魅せられてしまって、もはや結論を早く
決めすぎて、他に真があることを省みない状態に陥ってしまっているのです。
彼らのいう讖緯説は奇麗事であり、一見合理的に見えて非合理が目につく
騙されやすいものです。その意味は博士らが故意に騙してる訳ではないんですが、
他の学者までも飛びつきたくなる代物で真とは程遠く、用心すべきですよ。

372 :質問のいらつめ:2006/03/19(日) 16:45:58
>>366のこぴぺさん
 コピペさが、あまりに熱心にご自分の意見を読んでもらおうと、コピぺばかり
なさるものですから、スレに参加していらっしゃる方々が、辟易してしまわれて
いるようです。せっかくの仮説ですのに、このような押し付けがましい方法です
と、逆効果となって、学問的に論ずるに足りない説と見なされてしまうかもしれ
ません。どうか、ご自分の説を大切になさってください。

373 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 16:55:33
>>357さん
『日本書紀』や『古事記』にも原本がないように、印刷技術が登場するまではいずれの国でも、
史書は書写されておりました。そこで、伝統的には一文一句誤り無く書写することが常とされております。
もし仮に、357さんがおっしゃられるように後の世に当時の状況を踏まえて加筆されていたのなら、
いずれの史書も同じような内容となったことでしょう。すなわち、『魏志』倭人伝、『宋書』、『隋書』などなど、
最も近々の状況を大きく反映した同じような内容となっていたはずです。
現実には、中国正史はそれぞれ、異なる内容となっていることに、書写の際には、
加筆修正されていないことが示されているのではないでしょうか。

374 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 17:01:24
>>358さん〜>>367さん
358さんから367さんまで、皆様「日本史@名無史」さんですので、
誰がどの意見を述べておられているのかがわかりませんので、コメントすることができません。
>>360さんは、自作自演説まで提起されておられます。
これでは、”藪の中”ですね。

375 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/19(日) 17:23:40
太国さん
1320年説については、拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』では扱っておりませんが、
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎 −交差する飛鳥時代と奈良時代』では論じております(38〜45ページ)。
わざわざ『日本書紀の真実』をご購読いただきましたのに、扱っておりませんで、恐縮いたしております。
さて、一蔀周期年数につきましては、三善清行、伴信友、石原正明は1320年と考えておりましたし、
久米邦武氏、田中卓氏、佐藤均氏なども1320年説を唱えられております。
これに対して、那珂氏はもちろんのこと、黒板勝美氏、丸山次郎氏、所功氏、岡田芳朗氏、中村章八氏などが、
1260年説を唱えられております。
東洋史、日本史の両面から、一蔀年数についての研究がなされておりますが、
じょう玄注が「三七相乗じ、二十一元を一蔀となす」とありますので、
21(3×7)×60=1260が正しいのではないかと考えられます。
601(推古九)年が第二蔀の首の年代であることには、きちんと根拠があるのです。

376 :358、367他:2006/03/19(日) 18:44:02
スレ主さん、358他ですが、私はコピペを批判したり、スレ主さんに彼らについての注意をレスしたりしましたが、当然ながらコピペたちは別人です。
コピペは他の古代史スレに貼られまくっており、ネット右翼と呼ばれる組織的な確信犯でしょう。
彼らはコピペ荒らしの過程で、日本人の朝鮮に対する憎悪を煽るため、故意に>>338のようなコピペも挿入するのは常套手段です。掲示板上でよく行われています。
なお全てが自作自演とするのは根拠のない発言であり、濡れ衣ですよ。
理性的なスレ主さんは分かっていると思いますが。
ところで一つ質問ですが、スレ主さんが復元された王の在位年は、単に、書紀編纂時の本来的資料でそう考えられていたという意味の年紀なのか、あるいは歴史的事実としてもその復元のはずだ、と思っているのか、どちらでしょう?
また朝鮮の三国史記についても、中国文献で高句麗は古くまで対応すると思いますが、新羅や百済は4世紀中頃以前は書紀と同様に年紀が延長されていると思いますが、いかがでしょう?


377 :太国:2006/03/19(日) 20:19:41
>>375
601年には首皇子は生まれていないですから、逆幽霊年代になりますよ?

378 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/19(日) 21:48:36
>>285
メンドイから自己レスコピペw


何回同じこと言わせるんだよw
あんたらが文献から推理して提示してる
”説”とかの次元の話じゃないってのw
反論なんてされても意味無いってのw
あんたらみたいに”答え”を求めて議論してるわけじゃないのにw
だって俺は”答え”を知ってるんだからw
そこらの専門家か素人歴史研究家とかと思ってるんだろうなw
まあ人は自分の経験知識の事象しか理解できないから無理もないことだが。
ふむ、真実を知ることは時にストレスを生むなあw
週刊誌の出鱈目に呆れる芸能人の気持ちと似ているかw

379 :太国:2006/03/19(日) 22:01:40
>>378
論なしじゃぁなぁ〜。無答流か〜?w

380 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/19(日) 22:11:38
お、大国さん。じゃあちょっと遊びましょうかw

大化の改新とひどんの乱の類似についてどう思う?w
もし偶然と思うなら話はそこで終わりだけどw

381 :太国:2006/03/19(日) 23:06:01
その二つの件は僕の研究の範囲外。ただ紀年にかかわる可能性あるから、
裏取りでいずれ研究対象にいれたい。アリランさんは研究家さんが詳しいよ。

382 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/19(日) 23:52:56
>>381
”本気”で真実に近づきたいなら、認めることから始めることをすすめるよw

大化の改新は前王朝と繋げるためのものだよ。
最後に信じてくれることを願ってこれでおわりにします。
がんばって研究してね。

383 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 02:44:23
羽之の正体
(1)図書頭
(2)オリエント学会員
(3)眞子様

384 :太国:2006/03/20(月) 08:09:14
羽之さんよ。貴殿は>>382の大化の改新云々の1行しか論がなく何故だかが無い。
これじゃぁ、まだ意図意味が不明。

385 :太国:2006/03/20(月) 08:17:02
>>378
羽生さんよ〜。豪語もいいが、あんたは真の『卜』は未知悉だろう?
あっしもあんたの知らんことは多々あるが、答えを知っている等
おもい上がりがはなはだしすぎるぞ。多々の論をのべてから言ってくれ。

386 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 09:00:30
>>376>>358他さん
ニックネームで書き込んでいただいてないと、皆様「日本@名無史」となってしまいまして、
どれとどれが、同一人物の書き込みであるのかがわからなくなってしまいました。
失礼いたしました。匿名であることが、掲示板のよさでもあるのですが、
このように誰の書き込みであるのか、はっきりしたほうがよい場合には、
疑心暗鬼になってしまいます。
さて、ご質問の「書紀編纂時の本来的資料でそう考えられていたという意味の年紀なのか、
あるいは歴史的事実としてもその復元のはずだ、と思っているのか」についてですが、
歴史的事実としての復元であると考えてはおりますが、断言できるまでには至っておりません。
銘文を刻まれている考古学的資料がいくつかありますが、これだけでは、十分ではなく、
さらに多くの考古学的発見があって、それと日本書紀紀年法とが整合してくるようになれば、
歴史的事実の復元であると言うことができるようになるのではないかと考えております。

387 :太国:2006/03/20(月) 09:14:43
>>385 羽之さん、失礼した。以下のとおり、
誤) あっしもあんたの知らんことは多々あるが
正) あっしもあんたより知らんことは色々多々あるが

388 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 09:16:57
>>377・381太国さん
太国さんは、日本史掲示板にしばしば登場するといういわゆる「朝鮮工作員」なのでしょうか。
太国さんは、「日本書紀紀年法研究家」というわたくしのニックネームを、
「研究家」と略されていると推察いたしますが、もしかしましたら、謀略を用いて、
「日本書紀紀年法研究家」というニックネームは、「日本書紀紀年法」と
「研究家」という二人の人物によって用いられているという偽情報を流しておられるのではないでしょうか。
「日本書紀紀年法研究家」はわたくし一人のニックネームです。
拙著に載る略歴のとおりです。このスレッドでの「日本書紀紀年法研究家」の名の書き込みは、
すべてわたくし一人の書き込みです。
わたくしは、アリランについては、まったく存じておりません。アリランの何たるかも知りません。
それは、わたくしが、生粋の日本人だからです。
かってに、アリランに詳しいなどと嘘をつくのは止めていただきたいと思います。
読者の皆様が誤解します。
また、601(推古九)年につきましては、『日本書紀』では、奈良時代の歴史的事象が、
飛鳥時代を扱う天皇紀の記述に投影されているという意味です。

389 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 09:19:06
>>388
とりあえず鳥をつけなはれ

390 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 09:33:21
「質問のいらつめ」の名前で別人を装うのもやめた方がいい

391 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 09:34:07
>>378羽之さん
羽之さんのおっしゃられる「あんたら」とは、どなたのことなのでしょうか。
このスレッドに書き込まれる皆様は、それぞれ個々別々の仮説をお持ちのようです。
それとも、グループで研究なさっておられる方々が書き込んでいらっしゃるのでしょうか。
また、文面から羽之さんは、何らかの伝承をご存知なのではないかとも考えます。
しかしながら、その伝承にも様々な側面があるのではないかと思います。
伝承にも、精緻な検証を加えれば、別の”真実”が見えてくるのかもしれないのですから。

392 :太国:2006/03/20(月) 09:34:24
>>388
わかりました。スレを読む皆さん、彼女はそれを知らないそうです。
訂正します。
日本書紀紀年法研究家さん。貴女のコテハンはちょっと長いので入力
が面倒なんです。「研究家」の略称がおいやなら使いませんが?
なら、以後言い方を変えますよ。疲れますねぇ。
私は朝鮮工作員ではありません。

393 :困ったいらつめ:2006/03/20(月) 09:34:48
>>378の羽之さん
 おそらく、羽之さんは、十代のお若い方なのではないかと思います。
この年頃ですと、とかくに何か絶対的な思考に染まりやすく、自分の
信じることに一途になってしう傾向にあるからです。ナチス・ドイツの
ヒトラー・ユーゲントや文化大革命に際しての紅衛兵を思い浮かべて
みてください。ひたむきさは、時にして、自分自身のみならず、他者を
も破滅に導いたり、不幸に陥れたりすることがあるのです。
 ところで、私は、羽之さんの説を全面的に否定しているのではあり
ません。自分の説を他の人に納得してもらうには、それなりの準備が
必要であることを申したいのです。羽之さんのように、個人的に
”知っている”のみでは、学説の根拠とはなりません。羽之さんも、
他の人から同じように”知っている”からと言われても、おそらく
それをそのまま信じはしないでしょう。自分に盲従しなさい、と言わ
れて、盲従するような人は、めったにはいません。羽之さんは、十分
な根拠を提示していないのですから、自分の説を他の人々が信じない
からといって、冷笑してはなりませんし、愚弄してもならないのです。
むしろ、一生懸命に自説を証明する努力をなさるべきではないのでし
ょうか。

394 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 09:39:10
>>389さん
「とりあえず鳥をつけなはれ 」とは、どのような意味でしょうか。
たぶん隠語であると考えますが、わたくしにはわかりません。

395 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 09:47:59
>>390さん
「質問のいらつめ」、「困ったいらつめ」はわたくしの妹です。
読者の皆様は、半信半疑に思われるかもしれませんので、証拠を提示しなければなりません。
わたくしの略歴は拙著に載っているとおりですが、妹は政治学・国際政治の研究者です。
妹は、日本史については専門外ですが、わたくしのスレットに書き込むことを楽しみにしております。


396 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 09:57:30
>>392太国さん
言い方ではなく、嘘をつくのは止めてくださいと申し上げているのです。
言い方どころか、確実に嘘ではないでしょうか。
アリランとは、たしか朝鮮の歌なのではないかと思いますが、わたくしは日本人ですので、
アリランについてまったく知らないのです。
また、わたくしのニックネーム(コテハン?)の「日本書紀紀年法研究家」が長いのでしたならば、
「研究家」と略されても結構です。

397 :太国:2006/03/20(月) 10:09:53
貴女もくどいですねぇ。だから訂正文を入れたでしょうが?
半島史に詳しいんでしょ、 貴女は?
となれば、歌は確かに知らないかも知れませんが、歌名、歌詞等で半島史を知って
いるという象徴的代弁にはなるでしょうがねぇ?違いますか?
だからそういう言い方をしたんですよ。
厳格に言えばそれは貴女の言うとおりになりますがね・・・?
世の中そういう言い方はいたる処にあるでしょうが?
××界のボスを天皇の語を付けて言う人はうんといますよ。だけど厳格に天皇
ではないですよ。貴女はその〜融通の利かない方なのですかな?
金メダルをとった荒川選手だって女王といわれますよ。しかし真の英女王のよう
なクイーンじゃあないでしょうが?違いますか?

398 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 10:17:19
トリップは太国に付けてもらいたい

399 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/20(月) 10:57:21
しょうがないなあw もう、ほんとに最後。

>>385
>答えを知っている等
>おもい上がりがはなはだしすぎるぞ。
>>391
>何らかの伝承をご存知なのではないかとも考えます。

そういう次元のレヴェルの話じゃないと何回言ったらw
はっきりと言ってやるよ。あなたたちが求めている
”史実”、言葉遊びじゃなく文字通り「日本がWBCで韓国を負かした」
と同じ次元の本当の出来事を”知っている”んですよ。
>>393のようなレスは見当違いw
史料から導かれた”学説”は俺になんの意味もなさない。
間違ってる史料で語ってるんだから。
少なくとも”大化の改新”の歴史的真実を知っているんだから。
だから根拠なんか出せないんですよ。
でも信じてもらえる”たった一つの方法”はあるんだけど、
それは掲示板とかで言えることじゃないんで、
まあ、いくら言っても平行線。電波DQN扱いが正解w
こうやって”真実”は闇の彼方へ。そして、ある一部の人だけに伝わっていく・・・

400 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 11:19:40
羽之というHNは「契丹古伝」選者「耶律”羽之”」から取ってんでしょ?
とりあえず「契丹古伝」について語ってみたら?

401 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 11:30:12
>>394
「鳥」はトリップのことだわな。

402 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/20(月) 11:32:50
それは洒落ですよw

>史料から導かれた”学説”は俺になんの意味もなさない。
>間違ってる史料で語ってるんだから。
>少なくとも”大化の改新”の歴史的真実を知っているんだから。
>だから根拠なんか出せないんですよ。

うーんとね、簡単に言うと史料とかから導いて語ってるわけじゃないんで、
ただ”知っている”だけなんですよ。だから根拠とか出せない。
出鱈目の「記紀」からはどうやっても説明できないでしょ?w
でも、全部出鱈目と言ってるわけじゃない。天皇の名前とかはあってる、
というか後世のおくりなはね。当時の”実名”とは違うけど。
簡単に比喩すれば芸能人の本名を知ってると同じかなw

403 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/20(月) 11:36:56
>>400
そうだね、一つ教えると、前記の浜田氏のインド史の章で解析してる
イザナギ・イザナミはほぼ正解かな。

404 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 11:42:23
義和?

405 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 12:27:47
>>397太国さん
わたくしは、『日本書紀』と『古事記』に関連する範囲において、
半島史を勉強しています。したがいまして、半島の慣習、言語、伝統などについては無知です。
アリランの歌詞は、まったく知りません。
問題は、曖昧な比喩は、誤解を招くということです。
おそらく、太国さんの>>381の書き込みを読まれた方々の多くは、わたくしを朝鮮人と勘違いすることでしょう。
わたくしが朝鮮人であるかのような偽情報を流されますと、これまで、いくつかの研究成果を発表しておりますが、
これらが、反日の一環として利用されてしまうのではないかと、心配しておりましす。

406 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 12:30:03
>>398さん
トリップとは、どのような意味でしょうか。

407 :日本書紀紀年法研究家:2006/03/20(月) 12:39:24
>>399>>400>>402羽之さん
たぶん、羽之さんが知っておられるという”大化の改新の歴史的真実”や天皇の実名を公表されて、
それに信憑性があったといたしましても、その事象や伝承に対しては様々な解釈ができるのではないか、
と考えられます。


408 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 12:41:50
>>406
▲練習▼テスト▲test▼《初心者向解説付》Part106
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/qa/1142642904/
ここの1を見れ。

409 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/20(月) 12:42:31
#1234abcd

名前欄に「日本書紀紀年法研究家#1234abcd」と書くと出る 羽之 ◆God.sPqZzk
                                          ↑のこと

410 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/20(月) 12:48:07
>>407
そうですよ、だから意味がないことを私はしているんですよw
ただ、このスレを見つけてちょっと話そうかなと思っただけですw
絶対信じてもらえないのを分かっててねw
それに全国民に”真実”を知らせるとかそんなこと思ってないですから。
ちょっと真実の方向へ導いてあげようとか、そんな感じです。

411 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 13:01:04
あんた一般人じゃないの?

412 :羽之 ◆God.sPqZzk :2006/03/20(月) 13:14:49
そうですよ、”特殊”なねw

413 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 13:42:45
でも今は民間人だろ

414 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/20(月) 14:54:31
>>408さん
トラップの付け方につきまして、教えていただきましてありがたく思います。
早速に、トラップを付けてみました。

415 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/20(月) 14:59:01
>>409さん
トラップの付け方につきまして、教えていただきましてありがたく思います。
早速に、トラップを付けてみました。>>414のようなトラップが付きました。

416 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/20(月) 15:09:31
このスレッドは、日本書紀紀年法について、純粋に学問的議論を目的として立てております。
聖徳太子の十七条憲法にもありますように、人にはそれぞれ立場があるでしょうし、また、
党派のある方もおられるかもしれません。昔から、人間社会は難しいものです。
歴史を研究しておりますと、つくづく、このように感じます。
しかしながら、それに拘っていては、学問の発展はありません。
どうぞ、皆様、このスレッドを議論の場として活用するにあたり、
学問的な議論のみを心がけてゆくようにいたしましょう。
どのような仮説も、また、どのような反論や批判も、感情的ではない限り歓迎です。




417 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 17:04:11
百済のような小国が、なぜ300年以上に渡って、
高句麗帝国との戦争を続けることが可能だったのか?
この疑問に、朝鮮人工作員が答えることは絶対にないであろう。
答えてみよ!

★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。


418 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 18:37:32
よくおわかりになりましたね。
高句麗がいうように、百済、新羅は日本の臣民だったのです。
そのため、倭は繰り返し大軍をおくり高句麗とたたかったのです。

419 :日本@名無史さん:2006/03/20(月) 19:16:44
>>365
南朝とはどこか?
名前を述べよ。

どこかの南朝が高句麗と戦ったという話は初耳だが・・。




420 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 00:18:06
南朝って東晋、劉宋以下その他だが。そんなことも知らないのかよw
あとな、誰も南朝自体が高句麗と直接戦ってたとは言ってないが。よく読めよな。日本語わからないのかな?
先に言っておくが、日本語わからないような椰子にチョンとか言われたくないから。
言ってるのは、南朝と百済が密接な関係だったという事実だが。事実上、百済に対しての支援になっている。
そのこと中国文献や考古学資料から明らかなわけだ。
漢城の遺物なんか見たら分かるが、倭系のものなど微々たるものだ。古墳の内容も全く異なるし、これを倭人の国だとか、悪い冗談だな。ネタだろ?
それに比べて中国文物はかなり多いがな。
無知みたいだがよく調べておくように。宿題だ。

それともう一つ、百済と「馬韓」諸国は区別するように。
その意味がわからない?
そうか、それも宿題にしよう。

421 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/21(火) 09:52:37
>>418さん
418さんもコピペさんの仮説に賛同されておられるようですね。
「高句麗好太王碑文」、倭の五王の爵号、倭王武上表文などの資料を勘案いたしますと、
コピペさんや418さんがおっしゃられる仮説には、強ち否定しきれないところがあると、
わたくしも考えております。
このことからも、コピペさんの提起された仮説は、削除する必要はないと考えました。
おそらく、高句麗との間に大きな利害対立はあったのではないかと推論することはできます。

422 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/21(火) 10:05:00
中国南北朝時代において、南朝歴朝が劣勢であったことから、百済王や倭王に対して爵号を贈ったことは、
南朝歴朝が極東地域の支持を取り付けるためであったとも考えられています。
魏志倭人伝の時代の魏呉の争いと似ているのかもしれません。
また、>>420さんが、漢城の遺物について中国文物はかなり多いと述べておられますが、
それは当然で、問題は、熊津などの南部地域なのではないかと思います。
倭人の国であったと断定することはできませんが、倭と半島南部との歴史的関連は、
もっと検証してみるべきであると思います。

423 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 13:31:54
馬韓西海中人は全身に刺青あり
背が低く、韓と言語が同じではない
(魏志馬韓伝)

↑これって倭人に近い人たちじゃなーの?

424 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 17:57:37
>>420
>漢城の遺物なんか見たら分かるが、倭系のものなど微々たるものだ。

アホ!
ワイ人発見!(笑
漢城は、その名を見ても分かるように漢人が建設した都市だ。
漢文化の遺物が多いのは当たり前。





425 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 18:03:41
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。

【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。

古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。

■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm




426 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 18:12:29
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1042657913/396
どうですか?

427 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 19:32:46
なんで、日本人が、大和朝廷が作った人工国家=百済の文化を羨むんだ?(笑
_____________________________________
韓国人がアホな歴史教育をしているようだ。

【歴史教育、幼稚園から実施】

教育人的資源部(訳注:日本の文部科学省に相当)は、幼児の時から正しい歴史意識を
身に付けさせるために、多様でおもしろい活動を素材とした『幼児のための歴史教育活動
資料』を発刊し、全国8300余りの国・公・私立幼稚園に無料配布するほか、保育施設など
で出力して活用するようにホームページ( www.moe.go.kr )にも掲載することにしたと、16日
発表した。
この資料は、幼児期発達に相応しくておもしろい10編の時代的歴史エピソードと、33種類
の多様な活動で構成されており、歴史に対する幼児たちの関心と好奇心を引くことが期待
される。
「苦難の中の希望、日帝強占期」編では、日帝時代に民族に希望を与えた孫基禎翁(下記
関連サイトご参照の話が紹介されており、「韓国の文化の誇り、百済」編には、日本が羨ん
だ百済文化が紹介されている。
また、「我が国の領土、独島」編は、幼児たちが独島に対する親近感と我が国の領土を大
切にする心を持つように構成されており、朝鮮戦争と平和、申師任堂(訳注:李氏朝鮮時代
の女性文人。下記関連スレご参照)、権慄将軍(訳注:文禄・慶長の役の時の将軍)、慶州、
古朝鮮(訳注:檀君の建国した国のこと)などのテーマも入っている。
教育人的資源部では、この資料が幼児教育現場で有効に活用されるようにするため、2月
に全国16道・直轄市の教育庁幼児教育担当講師要員400人余りを対象に研修を実施する予定だ。

▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006.01.16 20:21)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&newssetid=746&articleid=2006011620210117447


428 :日本@名無史さん:2006/03/21(火) 19:52:25
なんで、日本人が、大和朝廷が作った人工国家=百済の文化を羨むんだ?(笑
_____________________________________
韓国人がアホな歴史教育をしているようだ。

【歴史教育、幼稚園から実施】『日本が羨んだ百済文化』 ←無知にもほどがあるよ(苦笑

教育人的資源部(訳注:日本の文部科学省に相当)は、幼児の時から正しい歴史意識を
身に付けさせるために、多様でおもしろい活動を素材とした『幼児のための歴史教育活動
資料』を発刊し、全国8300余りの国・公・私立幼稚園に無料配布するほか、保育施設など
で出力して活用するようにホームページ( www.moe.go.kr )にも掲載することにしたと、16日
発表した。
この資料は、幼児期発達に相応しくておもしろい10編の時代的歴史エピソードと、33種類
の多様な活動で構成されており、歴史に対する幼児たちの関心と好奇心を引くことが期待
される。
「苦難の中の希望、日帝強占期」編では、日帝時代に民族に希望を与えた孫基禎翁(下記
関連サイトご参照の話が紹介されており、「韓国の文化の誇り、百済」編には、日本が羨ん
だ百済文化が紹介されている。
また、「我が国の領土、独島」編は、幼児たちが独島に対する親近感と我が国の領土を大
切にする心を持つように構成されており、朝鮮戦争と平和、申師任堂(訳注:李氏朝鮮時代
の女性文人。下記関連スレご参照)、権慄将軍(訳注:文禄・慶長の役の時の将軍)、慶州、
古朝鮮(訳注:檀君の建国した国のこと)などのテーマも入っている。
教育人的資源部では、この資料が幼児教育現場で有効に活用されるようにするため、2月
に全国16道・直轄市の教育庁幼児教育担当講師要員400人余りを対象に研修を実施する予定だ。

▽ソース:Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006.01.16 20:21)
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&newssetid=746&articleid=2006011620210117447

429 :太国:2006/03/21(火) 23:33:51
日本書紀紀年法研究家さん
なかなか忙しくて、他の書をも読んでいる為貴女の書を精読する暇がとれません。
文中のZ列上に「へ」の字を逆さにしたようなマークがついていますが、
何か理由があるんですか?

430 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 09:15:31
>>423さん
馬韓の西海中ですと黄海になりますので、違うのではないかと思います。


431 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 09:25:13
>>424さん
424さんは、>>422で漢城の遺物について述べたことを補ってくださっており、
ありがたく思います。多くの史料からは、半島は、中国と日本の間にあって、
かなり複雑な歴史を辿ったと推論することができます。いずれの国々の歴史も、程度の差こそあれ、
複雑な経緯があったようですので、文献的、考古学的に半島史が明らかとなることは、
日本史の研究にも役立つものとなることでしょう。



432 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 09:39:26
>>425さん
『山海経』と日本神話との関連を推理した面白いお説ではあると思います。
日本を「扶桑国」であると考える説もあったようですので。
ただし、1)「義和」の「和」は「か」と発音されて「わ」ではないこと、
2)「倭」から「和」に改号されたという記録は無いこと、3)「和」が「やまと」と訓じられるのであるならば、
『日本書紀』では、国名を「やまと」と訓じる場合は、「日本(やまと)」と「倭(やまと)」であり、
「和」を国名とする事例が無いこと、4)「義和」は10個の太陽を支配する支配神ですが、
日本神話では太陽神一柱そのものが女神であること、など、
大きな違いがあるのではないかと思います。いかがでしょうか。

433 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 09:45:04
>>426さん
わたくしも、応神天皇の皇子の稚野毛二派皇子から継体天皇へと繋がる系譜と
忍坂大仲姫との関連には注目しています。
「隅田八幡宮明鏡銘文」が、この問題と関連しているのではないかと考えております。

434 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 09:55:21
>>427>>428さん
いずれの国々でも、自国に都合のよいように歴史教育を行う傾向にあります。
それはそれで、ある程度はしかたのないことであるとは考えますが、
虚偽を教えることと、他国が行う歴史議論に対して干渉してくることは、
大きな問題であると考えております。
歴史研究の発展には、学問的に自由に史実を探求することが必要であるからです。

435 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 10:01:13
>>429太国さん
A列からD列までは、『日本書紀』の編年に内包されている「年代列」ですが、
Z列は『古事記』の「崩年干支」を表しています。
そこで、アルファベットのZの文字種を変えて区別したのです。

436 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 10:13:15
>>430
倭人でないにしろその人たちは非韓人系の海人族といったところでしょうか?

437 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 12:54:42
>>436さん
海人族であるのかどうかはわかりませんが、3世紀頃には、黄海に点在する島々には、様々な民族・部族が、
海洋民族、あるいは、移動中の経由地として居住していたのではないでしょうか。

438 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 17:15:56
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。

【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。

古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。

■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm

■山海経 ◆ 動物記■
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/2648/sengai/p01.htm


439 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 18:53:34
>>424
おい、倭の遺物はどうした?
また中国系遺物は多いといっても、大多数は在地の百済の遺物だが。
阿呆は藻前。
名前だけで中国人が建設したとか言えない。
>>422
日本書紀紀年法研究家さん、
熊津などの南部地域も同じ傾向ですが。
なお「馬韓」は倭系遺物が多いですし、前方後円墳も5世紀後半から6世紀前半にありますが、在地の遺物が大多数ですし、前方後円墳も一部です。
逆に百済の支配が馬韓南部に及ぶと6世紀半ば前方後円墳が無くなります。
前方後円墳は百済支配領域にはありません。百済が100%倭人の国とか、訳のわからない妄想ですよ。

440 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:00:27
熊津期の武寧王陵の遺物や構造を見れば、倭とも交流があるのが分かりますが,中国との関係がより濃厚なことがわかります。


441 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 19:42:48
>>439さん
439さんがご指摘されている5世紀後半から6世紀前半にかけて「馬韓」から倭系の遺物が出土したり、
前方後円墳が築造されており、6世紀後半になると築造されなくなるという考古学的状況は、
倭の五王の爵号などの資料とも整合しているような気がいたします。
継体天皇による百済四縣の割譲問題や任那の滅亡問題などが関連しているのでしょうか。
しかしながら、『隋書』百済伝には、倭人が百済地域にも居住していると記されておりますので、
7世紀以降となっても、倭と百済との間には、何らかの関連はあったのではないでしょうか。
それが、どのようなレベルのものであったのか、検証すべき課題であると思います。

442 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/22(水) 19:44:16
>>440さん
倭との交流や中国との関連について、具体的にどのような遺物があるのでしょうか。



443 :日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:48:57
★ 倭寇の正体は朝鮮人だ!! ★

韓国朝鮮人は、
「日本の海賊=倭寇が、過去に何度も韓国を侵略し、我々韓国人に多大な被害を与えた!」と、
主張して、日本人をよく非難する。
しかし、韓国人のこういった主張は大ウソなのである。倭寇の正体は韓国人=朝鮮人なのだ。
韓国朝鮮人は、金氏新羅の時代から活発に海賊活動を行っていた。
そして、朝鮮海賊にとって、第一のターゲットは、常に日本人であった。
我々日本人こそが真の被害者であり、韓国朝鮮人は加害者なのである。韓国朝鮮人は侵略者なのだ。
新羅時代、朝鮮海賊が対馬海峡や九州西岸海域に出没し、日本人を襲って殺傷する事件が多発した。
大和朝廷は、大宰府の水軍に対し、海上警備の強化を命じた。大宰府の取り締まりが厳しくなった結果、
朝鮮海賊は「商売アガッタリ」状態になった。そのため、しかたなく、朝鮮海賊は自分たちの国の人間を
襲うようになった。
この時、彼らは朝鮮人らしく悪ヂエを発揮して、新羅王府の取り締まりから身を守るため、
自分たちが朝鮮人である事を隠し、日本人に偽装した。
「オレたちは倭人だぞォ!」と、アピールしながら海賊活動を展開したのだ。
これが倭寇の正体なのである。倭寇とは朝鮮海賊のことなのだ。

★きままに歴史 『元寇と高麗』★
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm


444 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/22(水) 23:31:01
>>1 主さんへ
※いつぞやは“カマッテ”くれてありがとう。
御礼にコレ置いてきます。
『煮るなり焼なり御自由に』
【晋安帝時有倭王賛賛死立弟彌彌死立子済済死立子興興死立弟武斉建元中除武(使)持節(都)督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事鎮高祖即位進武号征東(大)将軍】
……梁書 倭傳……

じっくり考えると興味深い事が書いて有ります。

445 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/23(木) 09:41:50
>>443さん
話題が倭寇のこととなりますと、スレ違いとなるようですが、
お説は強ち否定しきれないところがあって、面白く読ませていただきました。
歴史を概観してみますと、ある時期では加害者であり、ある時期には被害者である場合があります。
問題は、自国に都合のよい時期や事象のみを取り上げて、相手国を非難することがよくあることです。
通史的に見れば、どうであったのかにも目を向ける必要があると思います。
また、どのような行為が他国の感情を傷つけることになるのか、などの研究も大切でしょう。
例えば、「侵略の定義に関する決議」が採択されたのは1974年で、ようやく、
各国は、どのような状況が侵略行為に相当するのかを、認識するようになったのです。

446 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/23(木) 09:50:45
>>444プラムさん
『梁書』倭伝ですね。実は、拙著『日本書紀の真実 ー紀年論を解く』にて、
『梁書』と『宋書』の記述内容の違いについて論じています。
『宋書』には「讃」の弟である次王を「珍」と記していますが、『梁書』では「彌」となっており、
この違いには、何らかの歴史的事象が関連しているのではないかと推論したからです。
たぶん、プラムさんは、この相違が、わたくしの研究に役立つとお考えになってくださったのでしょう。
ありがたく思います。
『梁書』倭伝の問題については、研究を深めてまいりたいと思います。

447 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/23(木) 10:27:39
>>446 主さん おはようです。

>彌
※鋭いですね

>宋書・梁書
※『2ちゃんの誤読王』が言うのも変ですが
陳壽・范曄のカキコした(倭人伝・倭伝)を、巷に溢れる翻訳本と同じ様に解釈されていたら
後の史書ならびに、梁書『彌』の疑問は間違いなく一生判らないでしょう。

後は主さんの器量次第です。

PS
私と主さんは、同じ年代かな?

448 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/23(木) 11:03:32
もう少し独り言

梁書にカキコされてる『彌』 この存在が、後の(壬申)に繋がり、“カクムソウ”が黙って帰国した要因になるとは…………


あくまで『誤読王プラム』の独り言ですので
お邪魔しました。

449 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/23(木) 12:38:34
>>447>>448プラムさん
わたくしは、「珍」と「彌」は別王と考えておりますが、おそらくプラムさんも、
このように解釈されているのではないでしょうか。
しかしながら、なぜ、「彌」の問題が7世紀後半の郭むそうの問題と関わってくるのか、
わたくしにはわかりません。ただし「彌」が、研究すべき課題であることはわかります。

PS
わたくしの年齢は、拙著の著者略歴をご覧になればわかります。

450 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/23(木) 12:48:51
主さん

珍と彌が別人なら
倭の五王は『倭の六王』になりますね!

彌とは………。

451 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/23(木) 13:04:00
主さんは
どうしてあの二人は『天智や天武』と言う 諡号になったか、考えられた事があるでしょうか?
今、私はそれを考えています。


でも、“脳みそ”が足らないせいかサッパリです。

452 :日本@名無史さん:2006/03/23(木) 13:46:28
>>1の理論だと天智末年と天武元年(壬申)に紀年法的境界が見受けられる
諡号は紂王と武王に擬せられているという見方があるが
当時日本に伝わった周逸書に天智玉の注はあったのか?

453 :日本@名無史さん:2006/03/23(木) 13:52:53
>451
「天武」は則天武后から取ったんじゃないんですか?

454 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/23(木) 14:21:03
>>453
では『天智』は?

この二人
何かを対比させる為に付けられたような……
そんな感じ方をしてみる今日です。

>>1 主さん
私より二歳若いですね。

『彌』ですが 参考になればと思い
意味解釈⇒遠くにある丸いもの

455 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/23(木) 16:30:11
>>450>>451>>454プラムさん
「彌」とは、謎の人物のようですね。
天智天皇と天武天皇のし号問題とも関連があるのでしょうか。
両者のし号には、「天」という文字が含まれておりますので、
「智」と「武」の違いに意味を持たせているとも考えられます。
また、>>454にて、「遠くにある丸いもの」といいますと、太陽か月でしょうか。


456 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/23(木) 16:36:27
>>452さん
「1>>の理論だと天智末年と天武元年(壬申)に紀年法的境界が見受けられる 」
というご指摘をいただきましたが、その通りです。
日本書紀紀年法において、壬申(672)年は、重要な区切りの年代となります。
区切りであることの意味は、壬申の乱や天智天皇、天武天皇をめぐる様々な問題を含め、
大きな研究課題であると考えております。

457 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/23(木) 16:39:34
>>453さん
天智天皇、天武天皇の時代は、たしかに時期的に唐王朝では、則天武后が権力を掌握してゆく時代ですが、
女性の名から取ったということは、少し考え難い気がいたします。

458 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/23(木) 17:02:47
主さんでしたら

【立弟彌彌死】を
どのように翻訳されますか?

459 :日本@名無史さん:2006/03/23(木) 18:25:49
諡号の成立は記紀の成立よりずっと後じゃないの?

460 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 09:03:01
>>458プラムさん
【立弟彌彌死】は、「弟の彌が立った。彌が死して…」と訳しますが、
他の解釈も成り立つのでしょうか。

461 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 09:11:59
>>459さん
諡号は、諡号の成立期までは伝わっていた事蹟などを踏まえて付けられたのではないか、
と考えられます。
問題は、歴代天皇に対して贈られた諡号は、いったい、
どのような理由にもとづいているのか、という点にあります。理由を研究することによって、
日本古代史が明らかとなってくる場合もあるかもしれません。

462 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/24(金) 10:11:52
>>460 主さんおはようです
まず、梁書に対する諸問題云々は『無い』という前提のもとに…

※『弟の彌』という解釈は、私も同じです。
その時
@彌は弟自身
A彌は弟の身内(嫁)
という解釈が出来ますが、主さんは如何でしょうか?
因みに私はAで『彌は珍の嫁』と考えます。
※何故か?は(彌の解釈からくるものですが)

『彌』=ある女性に対する称号(呼び方)ではないか?

これから裏付け作業が残っいますが、一つの考え方の参考事例として

463 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 12:48:10
>>461
オレもそう思わないでもない。
ただ一部の特徴的な天皇の諡号、例えば神武とか崇神、応神や継体などは、記紀の記述からでも十分名づけられると思う。
ので、必ずしも記紀で伝えられてない伝承を基にして諡号が付けられたとまでは言えないのではないかとも思う。

ところでなんで諡号は基本2字なんでしょうね?
中華の皇帝の諡号は基本1字なのに。
中華に遠慮したのでしょうか?
だとすると「日、出ずる処の天子」は撤回したということなのでしょうか?
遣隋使とか遣唐使などを派遣してたわけだし。
それとも独自性を出したのか?
それにしては中華の古典から選んでるわけでその可能性は低いだろうし。

464 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 12:57:46
>>462プラムさん
プラムさんは、@とAの解釈を提起されておられ、@は、通常の解釈で、
Aが問題にあるかと思います。
わたくしも、「彌」は女性ではないかと考えたことがあります。
しかしながら、『梁書』には、「済」は「彌」の子と見えますが、
『宋書』には、「珍」と「済」との間の系譜的関連が記されておりません。
「済」が「珍」と「彌」の子であるのならば、なぜ『宋書』は、
「済」を「珍」の子と記さなかったのか疑問と言えます。

465 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 13:07:24
>>463さん
たしかにご指摘のとおり、日本の諡号と中国の諡号の命名法は異なっているのではないか、
と考えられます。
なぜ、命名法が異なるのかという問題については、理由のひとつとして、
2文字の好字を尊ぶ考えがあったからではないでしょうか。
例えば、風土記の編纂の際に、和銅六年の官命に郡郷名に好字を用い、
かつ、二文字で表記することとあります。

466 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 13:14:26
>>465
なるほど、風土記のヤツがありましたね。
一種の文化大革命みたいなもんか。
あくまで可能性ではあるけど。

倭の五王の時代の文化とも決別したということなのかな?
遣隋使や遣唐使を派遣してた割には変な気がするが。
記紀の編纂時代や和銅六年辺りはもう国風文化の時代になってるのかな?
ちょっとその辺の時代背景がうろ覚えだわ。

467 :太国:2006/03/24(金) 14:13:56
倭の五王が各々1字で中国風に見える名ということは、五王朝の場が九州でも
比較的中国に近い地域にあって、中国の影響を多分に大きく受け易かった位置
に所在したということを物語っている。
となると、それは北九州のあたりで、対馬等から北九州を経由し畿内への道筋
から一寸外れた地域にあったと思える。その筋道のあたりに五王朝の場があったの
のならば、記紀に五王朝の記事が少ないながらも書かれる筈だと観るわけである。

468 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 14:24:21
一字の理由は諱だから

469 :日本@名無史さん:2006/03/24(金) 14:41:06
武烈や崇峻の烈(列)や峻は宮を置いた場所から取っている

470 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 15:37:16
>>466さん
対外的にどのように称するのかをめぐって変遷があることは、面白いと思っております。
3世紀の魏志倭人伝の時代には、「卑弥呼」や「台与」など表音文字にて、
そのまま和語を用いているようですし、倭の五王の時代には漢字一文字、
そして、7世紀初頭は「多利思比孤」という、これもまた表音文字と考えられる表記です。
8世紀になりますと、日本から齎された歴史書に準じているようです。
また、国風文化は、菅原道真によって遣唐使が廃止されてからですので、もう少し後の時代となります。
日本の独自性がどの程度熟成していたのか、また、中国文明の影響などを程度受けていたのかは、
研究課題と言えるでしょう。

471 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 15:40:19
>>467太国さん
百済王も対外的には漢字一文字を用いておりますので、わたくしは、
中国南朝に使を遣わす場合には、漢字一文字という慣習があったのではないかと推論いたしております。
地理的な遠近は、あまり関係が無いと考えます。

472 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 15:47:45
>>468さん
漢字一文字は諱でしょうか。『日本書紀』には漢字一文字の諱は見えません。
5世紀に作られたと考えられる稲荷山古墳出土鉄刀の銘文には、「わかたける」と見えますので、
やはり、諱ではない気がいたします。また、諱という概念がどのように用いられていたのかも問題でしょう。
漢字一文字は、国内的には用いられておらず、対外的に用いられていたのではないでしょうか。

473 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/24(金) 15:50:40
>>469さん
たしかに、ご指摘の可能性はあるかと思います。


474 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/24(金) 16:53:41
>>1 主さん

天皇の発生は何時からと?

475 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/25(土) 09:37:04
>>474プラムさん
「天皇」という号の発生と、「天皇」という号として表現されるようになった地位の発生の問題があり、
ご質問に何とお答えしてよいのか、わかりません。
さらに、「天皇」の定義は、成立以来一定不変であったのか、
という「天皇」という号の定義の問題もあります。
「天皇」という号は、7世紀後半に成立したと考えてられておりますが、まだまだ
多くの課題があります。

476 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 18:22:28
書紀ではなく古事記についてなので申し訳ありませんが古代史研究についての勝手な感想なので無視してください。
稗田阿礼が暗誦していたものを太安万侶が書き記したとされています。
一人の人間の頭の中にあった事柄を研究するのは史学ではなく精神心理学ではないでしょうか。
稗田阿礼が暗誦していたものは彼の創作でないとしても誰かが稗田阿礼に物語を覚え込ませたわけですし
何処かに創作者がいるはずです。
古事記はその創作者の世界観・人生観・宗教観・女性観などに基づいてつくられているわけです。
であれば創作者のプロファイリングにより事実とそれに対する創作者の捉え方や記述方を解明することが必要ではないでしょうか。
創作者は常に天皇のそばに在り事績を大まかにでも確認できたのか、それとも情報収集を担当する者なのか、一体何を基に創作したのかも解明しなければなりません。
でなければたった一人の人間の妄想により日本の古代史が創られてしまいます。
古事記が書紀の基を担うのなら記紀の信憑性は稗田阿礼の人間性にあります。
10%の真実に90%の嘘では参考資料以下になってしまいます。

477 :日本@名無史さん:2006/03/25(土) 19:02:23
>>476
古事記は日本書紀の基とはなってないよ。
ある意味、紀の方が記よりも古い。
これは記が長い間、表に出なかったと言う意味ではなくて、大雑把な言い方になるが、表記などで紀が古い資料をそのまま使ってるっぽいのに対して記は新しい表現に改めたりしてるらしい。

478 :太国:2006/03/25(土) 20:29:37
>>44
日本書紀紀年法研究家さん
貴女は確か成務天皇が卑弥呼であろうというようなことをおっしゃって
いましたね。しかしですよ、成務天皇の生まれた同じ日に武内宿禰も生まれ
ていたと紀にあったようですから、成務天皇が卑弥呼だというのならば、
当日武内宿禰と卑弥呼が男女として同日誕生ということになったとなりますが、
それで、卑弥呼は景行14年あたりに生まれたことになってきましょうが、
貴女は卑弥呼の誕生年をそのように考えているんですか?

479 :プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/25(土) 21:44:29
記紀編纂以前に、記紀の基ネタとなる『帝紀や旧辞』が存在していた。

と、いう様な想像は出来ないだろうか?

480 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/26(日) 09:50:43
>>476
日本書紀紀年法の構造的観点から、『日本書紀』と『古事記』はグランドプランに
もとづいて編纂されたのではないかと、考えられます。
それは、>>1で述べたように複数の「年代列」は、『古事記』の崩年干支によって、
その「基準年」を求めることができるからです。
『古事記』が独立してあったわけではありませんので、476さんのおっしゃられる
「創作者の捉え方や記述法」は、『日本書紀』との関連を踏まえながら解明しなければならない問題となります。

481 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/26(日) 09:52:50
>>477さん
日本書紀紀年法の観点からは、『日本書紀』と『古事記』は、
ほぼ同時代に並行して編纂されていたのではないかと考えられます。

482 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/26(日) 09:56:56
>>478太国さん
卑弥呼の誕生年は、2世紀後半と考えております。
日本書紀紀年法において景行紀は2世紀後半に位置してきます。
また、双子につきましては、例えば、日本武尊は双子ですが、
童女の姿になっていたという記述があったはずです。

483 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/26(日) 10:00:56
>>480プラムさん
わたくしは、『日本書紀』や『古事記』の原典となる史書は存在していたと考えております。
『帝紀』や『旧辞』につきましては、拙著『「記紀」はいかにして成立したか 「天」の史書と「地」の史書』
で論じております。すなわち、「日本式紀伝体」があったのではないかという仮説を
提起させていただいております。
ご興味がございましたなら、ぜひ、ご一読くださいませ。

484 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 12:45:04
◆◆『2ちゃんねる』と朝鮮総連 ◆◆

在日朝鮮人が、戦後の日本で組織的なスパイ活動を展開していることは、
国際政治に詳しい人々の間では、常識として知られている事実だ。
スパイ活動の中心的役割を果たしているのは、もちろん朝鮮総連と韓国民団である。
とくに朝鮮総連は、情報収集と宣伝工作活動のために、インターネット上でいくつもの
掲示板を運営している。それらの掲示板の中で最大規模のものが、皆さんもご存知の、
あの『2ちゃんねる』である。
『2ちゃんねる』は、とうぜん防衛庁や公安調査庁から監視されているのだが、
ここで気になる事がある。それは、『2ちゃんねる』の管理スタッフは、防衛庁や公安などの
国家機関が、『2ちゃんねる』が朝鮮総連の運営するウェブサイトであることに気づいていると
いう事を、知っているのかという事だ。
『2ちゃんねる』の管理人たち、つまり、朝鮮総連=インターネット工作班の朝鮮人たちが、
自分たちが日本国家当局から監視されている事を承知の上で、『2ちゃんねる』で反日宣伝工作を
展開しているとしたら、「いいコンジョウしている」と言えるだろう。
Xデーが来たら彼らは終わりだが、その日が来るまでは『2ちゃんねる』上で反日宣伝工作を続けて
いくつもりなのだろう。逆に言えば、『2ちゃんねる』が運営されている間は、
朝鮮総連はまだ大丈夫である。しかし、朝鮮総連が日本当局に潰される時になれば、
『2ちゃんねる』は何の予告もなしに、ある日、とつぜん閉鎖されるであろう。


485 :驚いたいらつめ:2006/03/26(日) 16:20:09
>>484さん並びに皆様方
 朝鮮総連が、『2ちゃんねる』を運営しているとは、全く知りませんでした。
貴重な情報をお知らせくださいまして、ありがとうございます。しかしながら、
書き込みの中には、北朝鮮や韓国に批判的な内容も多く、こうした掲示板の
運営が、はたしてかの国の利益になるのか、判断はしかねます。この情報は、
信じてもよろしいのでしょうか。『2ちゃんねる』は、広く国民が、様々な
問題について議論をする場として、重要な役割を果たしてきたと思います。
もし、この情報が真実であって、掲示板が閉鎖されることになりますならば、
日本国民自身が運営する掲示板が必要になるのではないか、と思います。
どなたか、ご意見をいただけましたら幸いと存じます。

486 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/26(日) 16:28:11
>>484さん
『2ちゃんねる』を朝鮮総連が運営しているということが、もし、事実なのであれば、
本当に驚きです。
わたくしは、『ちゃんねる2』と朝鮮総連の関連を知らないでスレッドを立ててしまいました。
おそらく、わたくしのスレッドを含め多くのスレッドは、単に日本史に興味のあるという理由で立てられていると考えられますが、
掲示板の運営自体が朝鮮総連によって行われていることは問題です。
言われてみますと、反日的な書き込みが多かったような気がいたします。
もし、>>484さんの書き込まれた内容が事実であるのならば、
このような重大な問題をお知らせくださいましたことを、ありがたく思います。

487 :日本@名無史さん:2006/03/26(日) 17:08:32
>>485->>486
明らかにネット卯夜のコピペ。こんなの本気にしても意味無し。別に朝
鮮総連が運営してようが、数々の議論が滞りなく行われてるわけだし。


488 :日本@名無史さん:2006/03/27(月) 00:16:44
永田だな

489 :太国:2006/03/27(月) 09:37:15
>>482
成務を卑弥呼として、卑弥呼が襲名のようになっているというのならば、
まだ超長寿の数代に仕えた武内宿禰のほうが理にかなっているように見えちゃい
ますがねぇ?
それに、ミマキイリヒコとミマキヒメのほうが双方名前が同名のようであり、
こっちのほうが、つまり崇神のほうがミマキヒメが代役で卑弥呼だろうという
ほうがなお、おかしく見えないんですがねぇ?

490 :日本@名無史さん:2006/03/27(月) 09:44:50
http://life7.2ch.net/utu/

491 :太国:2006/03/27(月) 09:57:34
>>490
余は >>489 の話は、成務であろうと武内縮年、崇神と同皇后であろうと
卑弥呼ではないと考察している。妥当だろう?
卑弥呼は畿内の大和朝廷とは無関係、全く別の九州のお姫様だょ。

492 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/28(火) 13:26:47
トリップ変えれば〜?

493 : ◆16/YXRFBRM :2006/03/28(火) 14:06:51
仁徳末年以前の儀鳳暦期間の紀年(A列)は再考の必要性があるが
何か考えてる?

494 :太国:2006/03/28(火) 15:21:42
どうも小難しくて分かりにくい。また「日本書紀の真実」を振り出しに戻して
若いページのところを少々読んでいる。A列とやらが西紀390年を基準にして
いるわけであるが、これは百済王関係の年数から採用してるのでしょうが、
同関係の記事が結局倭の五王の年数の記録を基底として歴代の天皇と合わせ、
そこから西紀390年を基準にしたとなれば、これはうまくないこととなる。
前にも言ったが、倭の五王は当時の各天皇ではないので、双方をくっつけて
できた基準年だから、しょっぱなから崩れちゃうことになる。
さらに卑弥呼は神功皇后ではなく女王国は九州に所在したものであり、この両者
をくっつけて実年代を策定したのならば上と同様、別人の年数を一致させて
しまったのだから、やっぱり崩れることになる。
卑弥呼が神功皇后ならば、魏志倭人伝の中に足中津彦とか品陀別等とかの名前が
あってもよさそうだが無いし、壹与とかもぴったり相対する名も紀にはないよう
であるし、全くと言ってよいほど合致がない。当然別人だからである。
よって、真の実年代は、倭の五王と卑弥呼を完全に切り離してから策定するのが
本物だということになるのである。

495 :日本@名無史さん:2006/03/29(水) 07:27:30
私たちの血管には半日と 嫌日という赤血球が歩き回って!!
それが私たち韓国人の精神だろう!!
いつかは日本列島を征腹してそのまま返すつもりの!!

半日は韓国を発展するようにする.
半日は韓国スポーツを発展させる.
半日によって韓国野球が日本を 2番(回)勝つほどの実力になった.
WBC大会を通じて半日の数字が 90%越したことは良い収獲だった.
韓国人の政治,外交的半日は歴史のためだが..
スポーツの半日はIchiroのためだ..

WBC大会の最大の収獲は全世界に半日だけ増加させた
WBC大会を通じてアジアの日本に対するイメージがもっと悪くなった

半日教育をまた財政費しなければならない.
半日が必ず悪事ではない. - 結果はいつも良かった.
スポーツに引き継いで経済面で
三星電子の 'ソニ?を勝とう'
半導体 ' 日本を勝とう'
朝鮮(船舶) '日本を勝とう'
LCD '日本を勝とう'
鉄鋼 ' 日本を勝とう'.........

半日精神が暮してある限り敗北はない

日本人の最後 1人になるその日まで... 韓国の半日は永遠だろう.
日本が滅亡するその日まで私たちは仇を討つ.

ここの日本人を見れば半日の価値もない
ただ嫌日感情だけ生ずるだけ



496 :日本@名無史さん:2006/03/29(水) 11:46:14
日本語の初心者がいるようです。まあ、スルーしましょ。

497 :日本@名無史さん:2006/03/29(水) 17:23:35
◆◆『2ちゃんねる』と朝鮮総連 ◆◆

在日朝鮮人が、戦後の日本で組織的なスパイ活動を展開していることは、
国際政治に詳しい人々の間では、常識として知られている事実だ。
スパイ活動の中心的役割を果たしているのは、もちろん朝鮮総連と韓国民団である。
とくに朝鮮総連は、情報収集と宣伝工作活動のために、インターネット上でいくつもの
掲示板を運営している。それらの掲示板の中で最大規模のものが、皆さんもご存知の、
あの『2ちゃんねる』である。
『2ちゃんねる』は、とうぜん防衛庁や公安調査庁から監視されているのだが、
ここで気になる事がある。それは、『2ちゃんねる』の管理スタッフは、防衛庁や公安などの
国家機関が、『2ちゃんねる』が朝鮮総連の運営するウェブサイトであることに気づいていると
いう事を、知っているのかという事だ。
『2ちゃんねる』の管理人たち、つまり、朝鮮総連=インターネット工作班の朝鮮人たちが、
自分たちが日本国家当局から監視されている事を承知の上で、『2ちゃんねる』で反日宣伝工作を
展開しているとしたら、「いいコンジョウしている」と言えるだろう。
Xデーが来たら彼らは終わりだが、その日が来るまでは『2ちゃんねる』上で反日宣伝工作を続けて
いくつもりなのだろう。逆に言えば、『2ちゃんねる』が運営されている間は、
朝鮮総連はまだ大丈夫である。しかし、朝鮮総連が日本当局に潰される時になれば、
『2ちゃんねる』は何の予告もなしに、ある日、とつぜん閉鎖されるであろう。


498 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 17:07:56
★★韓流ブームは存在しない★★

最近、日本マスコミが妙なデマを宣伝している。
いわく「日本は今、空前の韓流ブームだ。韓国のテレビドラマや映画が大人気で、『冬のソナタ』の
主演俳優、ペ・ヨンジュンのことを日本女性がヨン様と呼んで熱狂している」
だが、こういった話は全て大嘘である。韓流ブームなどというものは存在しない。
現在、韓流ブームと呼ばれている<騒動>は、韓国政府が広告会社=電通に金を払って演出している幻
(まぼろし)であり、ヤラセにすぎない。
韓国政府・電通・マスコミの組織的な宣伝工作によって作られた『バカ騒ぎ』が、韓流ブームの
正体なのだ。
韓国ドラマ『冬のソナタ』は、日本人にぜんぜん人気がない。主演俳優のペ・ヨンジュンのことを
「ヨン様」と呼んでいるのは、電通の影響下にあるマスコミと在日韓国人(朝鮮人)だけなのである。
そして、ペ・ヨンジュンを追いかけまわしている年配女性グループは、全員が在日韓国人であり、
韓国民団に動員された女性たちなのだ。もちろん、彼女たちには韓国民団から金が支払われている。
在日韓国人の中年女性たちにとっては良いアルバイトである。
現在、日本の書店には、『冬のソナタ』やその他の韓国ドラマ・映画の関連本が置かれているが、
これらの本の出版費用は、全て韓国政府から出ているのである。しかし、やはり売れていない。
この事実は、日本人が韓国文化に「まったく関心がない」ことを証明している。
では、なぜ韓国政府は電通に金を払ってまで、ヤラセの韓流ブームを捏造しているのだろうか。
それは、近い将来、北朝鮮の体制が崩壊したときに、半島の統一費用を、日本に負担して欲しいから
である。つまり、日本にタカりたいがために「日本人は韓国と韓国人が好きなのだ」という、
デマを宣伝しているのだ。これが、『韓流ブーム』と呼ばれているものの実態なのである。

ちなみに、韓流を捏造している電通の会長=成田豊は、半島のソウル生まれの帰化韓国人である。


499 :太国:2006/03/30(木) 17:44:55
日本書紀紀年法研究家さん
「日本書紀の真実」の初めのほうを再度読み直しさせてもらいましたが、1回目
よりはだいぶ云わんとしている意味がわかるようになりました。
120年のズレに対しては定説になったくらいですから、なるほどこの説にとびつく
のも成る程とわかって来ました。私としてはその120年とやらには、興味が
わくところまでは行きましたが、いまのところ何とも? というのが、現在の私
の見解です。つまり、否定的ですが、絶対否定とまでは言うべきものでは行ってい
ないです。考え方ですが、紀の編者が120年ばかり先延ばしする利害が大なる理由
が見えてこないので、今のところはやはり賛成はできにくいのです。
これからもいろいろとご教授ください。もう一点お尋ねですが、これは以前に
不完全ながら論議したかも知れません。私は老齢であり、すぐ忘れる精神状態
なので質問が重複しているようならば、念のためということでお許し下さい。
お話しましたように、私は倭の五王が当時の各天皇ではないと確信している者
です。それで、著書の24頁の表3<神功紀に所見される百済王関連記事>
の百済の文献等による「西暦年」の数字とやらは、基底に倭の五王を各天皇として
五王の活動が大陸の記録にあることから、その記録から各天皇に、年代をあてはめ
たりして行って算出された数字なのでしょうか?
もしそうならば、前にも意見を云いましたが、五王は天皇ではないと私は観てい
ますので、これによる紀年策定はうまくないと申しあげるのです。しかし、そうで
なく、まるっきり五王さらには卑弥呼とかとは別個に、それらと独立して算出
された数字ならば、これは真に近く、ここの数字は生きてくるのであります。

500 :日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:53:46
崇神天皇は、任那を建国したから
「初国知らす清めら御子人」なんだろう。






501 ::2006/03/31(金) 13:38:37
いいえ。ただ、畿内で新領土を拡張しただけです。

502 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 18:08:04
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 ◆◆

3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、漢人が支配する楽浪郡を
攻撃して滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の
東部地方に住んでいたが、356年に倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)
が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。


503 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 18:12:07
>>500
おっしゃる通りです。
任那という地名は、崇神天皇の名前に由来しています。

任那とは「皇孫(スメミマ)の名」という意味です。


504 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/31(金) 19:48:01
>>484さんの書き込みを気にしておりまして、ちゃんねる2の運営について疑念を感じたため、
ここ数日、スレッドへの書き込みはお休みさせていただいておりました。
しかしながら、このスレッドに書き込んでいらっしゃる方々がおられるにもかかわらず、
いつまでもほっておくわけにもまいりませんので、多少疑問に思いながらも、スレッドへの対応を
再開いたしたいと思います。
また、どなたか、>>484さんのご指摘の真偽をご存知でしたならば、教えていただきたいと思います。



505 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/31(金) 20:01:44
>>489>>491>>494>>499太国さん
ご質問いただきましたのに、>>504にて述べた理由によって、ご返答が遅れてしまいまして申し訳ございません。
拙著『日本書紀の真実』で論じました「プラス・マイナス120年構想」を構成する応神列(A列)、
雄略列(B列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)の基準年は、『日本書紀』の編年と『古事記』の崩年干支のみで、
再構築することができます。すなわち、倭の五王の遣使などの年代を考慮しなくとも、
日本書紀紀年法がどのようになっているのかは、わかるのです。
この意味で、太国さんがおっしゃる「百済の文献等による「西暦年」の数字とやらは、基底に倭の五王を各天皇として
五王の活動が大陸の記録にあることから、その記録から各天皇に、年代をあてはめ
たりして行って算出された数字」であるのかというご質問に対しての答えは、否となります。
基本的には、『日本書紀』と『古事記』とが連携してことによって日本書紀紀年法が構築されていると言うことができます。


506 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/31(金) 20:12:49
>>492贋物の日本書紀紀年法研究家さん
トラップを付けることで、同一トラップの付いている書き込みは同一の人物によるものであると識別できるという方法は、
492の贋物さんがわたくしのトラップと同じトラップをそのまま名前の後に付けて作っているように、
まったく効果が無いことがわかりました。
このスレッドでは、>>492の贋物さんを抜かして、「日本書紀紀年法研究家」とあるのは、
いまのところは、すべてわたくしの書き込みですが、今後、もしまた贋物さんが登場しましたら、
贋物であることを指摘させていただきたく思います。


507 :太国:2006/03/31(金) 22:06:09
>>505
回答有難う存じます。ならば合って居るかもしれません?
最初の条件はクリアしています。この点はokです。
念のために、さらにお尋ねします。
その表3の西暦年は、*1とうしろのページの註5(p190)から百済の文献と
神功紀とからわかってくるんでしょうが、それがどのように実年代として西暦
375年と計算するんでしょうか?他に基準とした何かがあるはずですが?
すなわち、24頁の10行目の
>『三国史記』『百済本紀』においてそれぞれ求めると・・・
この求め方は具体的にどのように375年と算出するんでしょうか?

508 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/32(土) 10:23:41
>>507太国さん
表3の西暦年は、註5などで示しましたように、『三国史記』「百済本紀」との年代対比から求めました。
そこで、『三国史記』の絶対年代(西暦)は、どのようになっているのかが問題になるかと思います。
『三国史記』は、年号ではなく「××王の何年」、「○○王の何年」というような年代表記において編年されています。
そこで、『三国史記』の絶対年代(西暦)に関しては、中国史書の年号と対比させることによって求められます。
『三国史記』には、中国歴代王朝との外交関連の記述がありますので、一箇所でも確実に「××王の何年」や「○○王の何年」が、
中国の年号の何年に相当するのかがわかれば、
『三国史記』のすべての年紀の西暦は求めることができるのです。
近肖古王三十年冬十一月条に「王薨」と見え、近肖古王三十年が西暦375年に相当することから、
近肖古王の薨去についての記述の見える神功摂政五十五年条は、
375年であることがわかるのです。


509 :りんたろう:2006/03/32(土) 10:50:19
日本書紀紀年法研究家さん

書紀が並列構造であることを、紀年から論理的に解明された考察は
高く評価されるべきだと思っています。
書紀の内容分析からも、私見では「並列構造」とすると納得できる
場面が多いと思っています。

そこで、
並列構造の起点となっている天皇には、どのような意味を
感じていらっしゃるのでしょうか?


510 :太国:2006/03/32(土) 11:05:31
>>508
そういうのならば375年等の数字は信憑性はあると思いますが、再考してみます。
次に、日本は中国の易姓革命の国柄ではないのに。舎人親王らが辛亥革命とやら
を持ち出して、神武即位の年定めを行うとは考えにくいと思考しています。
神武即位の時の前段階での王朝が畿内にあって倒して革命を起こしたなどとは
記述もないようだし、とにかく神武即位は革命でないと思います。
中国の歴史に負けたくないから引き伸ばしたでは、延長の数字が少ないと思うし
隠すのにボロが見え見えです。

511 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/32(土) 13:31:05
>>509りんたろうさん
拙論を評価してくださいまして、たいへんうれしく思っております。
さて、並列構造の起点となる応神天皇、仁徳天皇、允恭天皇、雄略天皇につきましては、
「プラス・マイナス120年構想」のプラス部分を構成する主要な天皇であると考えております。
『日本書紀』と『古事記』の編纂期におきまして、おそらくは、実在が確実視でき、また、
人物比定についても異伝や異論が少ない天皇であったため、起点、すなわち、
「基準年」として設定したのではないかと、推論いたしております。

512 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/03/32(土) 13:47:14
>>510太国さん
神武即位が王朝交代といった意味での革命ではないことは、
神武は皇太子であったと記されていることによっても示されています。
わたくしは、むしろ、「天皇」の定義や「天皇」と「皇太子」のどちらが執政権を持っていたのか、
という問題などが、辛酉革命問題にはあるような気がいたします。
日本では「辛酉革命」の意味を王朝交代といった大規模なものではなく、
朝廷内の狭い範囲の争いにも適用させて考えていたのではないかと思います。
いずれにいたしましても、日本書紀紀年法では、しん緯暦運説が応用されておりますので、
神武元年については、やはり、一蔀年数との関連はあるのではないかと、考えられます。

513 :りんたろう:2006/04/02(日) 11:51:57
>>511
率直な回答、ありがとうございます。
少し、踏み込んで、お伺いします。

「起点とした理由」をどう考察するか?
この視点が、貴殿の研究成果の影響力を左右するように思います。

>>おそらくは、実在が確実視でき、また、
人物比定についても異伝や異論が少ない天皇であったため、起点に・・<<

との回答でしたが、「実在性が確実視できる?」だけでは
いかにも不十分な考察だと思います。
「紀年技術論」だけで、並列の背景としたのでは、
最終的に並列は直列として完成させる「動機の推察」を
放置したままになるのではないでしょうか?

514 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:03:31
>>512
ご意見伺いたくレスします。
突然ですが、いわゆる前方後円墳について、私は須弥山世界観ではないかと思ってます。
http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/newmon/betusekai/uchu.html
もちろん前方後円墳は仏教伝来以前の話なのですが、
このような死生観が日本に古くから伝わってたのではないかと思います。
これですと、謎とされてる古墳の左右の造り出しの部分も、日天・月天だと解けます。
さらに仁徳天皇陵の3重の堀も、堀自体は海を現すとしても、
土手の部分がそれぞれ金輪・水輪・風輪を意味するのではないかと想います。
須弥山世界観は古代インドで大きく展開されたらしく、
スメール山とは高尚な山という意味で、
日本の天皇のスメラミコトと意味が通じてるのではないかと思います。

515 :太国:2006/04/02(日) 13:14:40
>>514
仁徳天皇陵を造り終わるまでに佛伝は無かったんじゃないかい?
佛伝 538年  仁徳天皇を葬ったのはは紀の記述をとれば399年

516 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:36:20
>>515
だから仏典は伝わってませんが、須弥山的死生観は伝わってたのではないかと…

517 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/02(日) 14:06:39
>>513りんたろうさん
「応神元年=390年」、「仁徳元年=397年」、「允恭5年=437年」、「雄略5年=461年」という起点は、
日本書紀紀年法の構造解明の過程において、必然的にはっきりと対称関係が認識されてきた年紀であるために、「基準年」として設定いたしました。
そこで、『日本書紀』と『古事記』の編纂期においても、これらの年紀が起点として設定されていたと考えました。
しかしながら、「基準年」は、紀年と実年代との1対1の関係が、4箇所に構築されていることのみを意味しているわけですので、
紀年と実年代との対称関係がズレていなければ、履中天皇であろうと、安康天皇であろうと構わないことになります。
ただし、日本書紀紀年法を研究しておりますと、どうも、起点となっていない歴代天皇には、
倭の五王比定問題などとも関連して人物比定などに問題があるようです。
そこで、最も問題の少ない歴代天皇が起点となったのではないかと推論いたしました。
並列を直列にした「動機の推察」については、研究を続けておりますが、
5世紀という時代を背景とした動機と、8世紀の編纂期を背景とした動機の両方面からの研究アプローチが
必要なのではないかと考えております。

518 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:09:10
伊藤博文は日本で最初にカーセックスをして
明治天皇に怒られたらしい。

519 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/02(日) 14:13:27
>>514さん
大変面白いお説であると思いました。特に、機能がよくわかっていない造り出しが、
日天・月天であるという仮説には興味がございます。
わたくしは、前方後円墳は、方墳と円墳を繋げたもので、方墳地域と円墳地域とが国家として統合する過程において、
象徴的な役割を担うように考え出された形状と推論いたしています。
しかしながら、須弥山発想が加味されていったと考えることはできます。


520 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/02(日) 14:21:46
>>515太国さん
日本書紀紀年法の構造は並列構造ですので、仁徳天皇の在位は、仁徳列(D列)として
397年から483年に設定されています。
百済武寧王(461〜523年)の王墓の装飾が仏教の影響を受けているとの
5世紀後半になりますと、本邦にも非公式に仏教は伝わっていたと推論することはできます。
>>514さんのお説には、興味深い点もあるように思います。


521 :太国:2006/04/02(日) 17:36:24
非公式じゃぁ、仁徳天皇陵を佛式で構築はしないと想うなぁ。

522 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 18:50:32
514です。日本書紀紀年法研究家さん、ありがとうございます。
>>521
私が貼り付けたHPが仏教の解説だったので、
少々分かりにくいかと思いますが、
須弥山世界観は「仏教にも」取り入れられた世界観という意味です。
ヒンドゥー教やマニ教にも取り入れられてるようです。
私は円墳や方墳、そして四隅突出墳、果ては銅鐸まで須弥山世界観で解けると思ってます。w

523 :太国:2006/04/02(日) 19:28:06
だいたい、ああいうのはどこでも丸か四角かそのあわせた型かそういうのに
おさまるんじゃぁないの?

524 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:34:48
西洋からの天文学が来る以前のアジア全般の世界観ですから、
頂上の有頂天に比重を置いたものが円墳、
山に比重を置いたものが方墳、
四天王に比重を置いたものが四隅突出、
須弥山全体を現そうとしたものが前期前方後円墳、
で、月や太陽も越える高山という当時最新の論を現そうとして、
造り出しがついた後期前方後円墳になったと思ってます。
須弥山はコップ状の山ですので、銅鐸は須弥山そのままの形だと思います。

525 :太国:2006/04/02(日) 20:44:22
非公式の仏教伝来に、こと細かいご陵建造の理念などはありすぎで、そうならば
記紀に公式的に仁徳陵建造前までに流入した記述があろうと考えますが?
ないと思いますよ。
だいたい、仏教の埋葬建造はパゴダ形式のもの(仏塔)じゃぁないんですか?
そういう格好にはならないんじゃありませんか?
仏像、経文が後で、仏式建築が先というのも考えにくいですが?

526 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:37:32
>515
卑弥呼の時代、中国では仏教が盛んでした。
6世紀の畿内王権に伝わったとき、畿内王権は
播磨の国が外国だったくらいですから、
とっくに伝わっていた九州倭国の話とくらべると
ちぐはぐです。

527 :514:2006/04/02(日) 22:39:20
>>525
その「流入した」という意味ですが、
仏典が渡来したという意味ではなく、
何ほどかの理念が伝わってたという意味なんです。

>仏教の埋葬建造はパゴダ形式のもの(仏塔)じゃぁないんですか?

仏塔・ストゥーパは須弥山です。
前方後円墳は須弥山を水平に表現したものだと考えてます。
銅鐸まで須弥山だと思ってる私は変人だと思いますがw


528 :太国:2006/04/02(日) 22:43:33
まあ銅鐸は形状において似てるとは云えるだろうが,佛伝とは別で、偶然似て
いるというだけのことでしょう?
水平っていったら、上野の山以下に感じてしまいますが?

529 :514:2006/04/02(日) 22:55:30
銅鐸が祭祀に使われたのなら、全部の銅鐸に叩いた痕跡があってもよさそうなのですが、
ほとんどないという事なので、私は銅鐸は葬儀に使われたと思ってます。
意味は後の古墳と同じ須弥山です。
銅鐸時代が終わって古墳時代になったと言っても、
表現方法が変わっただけで、基本的には同じ世界観・死生観が続いてたと思ってます。

530 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/03(月) 10:03:46
>>521>>523>>525>>528太国さん
わたくしは、須弥山思想について詳しくありませんのでよくわかりませんが、
514さんの>>522でご説明されている点を踏まえますと、仏教、ヒンドゥー教、マニ教などにも
取り入れられた思想のようですので、かなり早い段階に将来していたのかもしれません。
三角縁神獣鏡にも三方三神のかわりに三仏を表したものがあるようですので。
須弥山思想は、あるいは神道にまで応用されていたとも推論できるかもしれません。
墳形には、何かの思想的、宗教的背景があると考えられますが、研究史上、それが何であるのか、
よくわかっておらず諸説があります。銅鐸の問題も含めて、古代人の宗教観を今日推し量ることは、
難しいようです。

531 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/03(月) 10:13:30
>>522>>524>>527>>529514さん
前方後円墳の墳丘の形状と銅鐸の思想的背景を世界観・死生観の「表現方法」の変遷と捉えておられるお説は、
興味深いものがあります。
弥生時代の研究において、銅鐸は、なぜ、消滅してしまったのか、という大きな問題があります。
わたくしは、鏡を祭具とする神祇信仰の台頭とは無関係ではないのではないかと、推論いたしております。
514さんは、どのような理由で、そして、どのような契機で、銅鐸が古墳に変わったとお考えでしょうか。




532 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 12:33:33
日本書紀紀年法研究家さんへ

あなたが非常に真面目で、しかもきちんとスレを管理している優れた論者であり人格者であることは文面から忍ばれます。
ですのであえて話題違いですが、質問にお答えいたします。
>>484などは、有名なコピペで、古代史関連はおろかハングル板、ニュース速報板など、少しでも関係がありそうなところにばら撒かれる
いわばスパムメールのようなものです。
真偽に関しては、これはもう全く根も葉もない中傷です。
ちなみに2chの管理人ひろゆきや運営についての詳細は
「2ちゃんねる宣言〜疾走するメディア〜」という本が出ています。
このあたりを参考にされるのがよろしいでしょう。
またトリップについてですが、これも本物とコピペの違いは2ちゃねらーにとっては一目瞭然ですので
お気になさらないことをお勧めします。

2chに限らず(まあ2chは特に多いが)悪意ある偽情報や一定の思想に基づいた断定的書き込みが目立つのが
編集者や出版社というフィルターを通さずに発言できるインターネットの負の部分でもあります。
そういったものをいかに見分け、スルーできるかも、利用者に課せられた責務なのかもしれません。
ある意味玉石混交どころか、瓦石混交がネット情報の現状です。

スレ主さんは、2chもネットも失礼ながら初心者ではないかと見受けられます。
しかしその中で誠実な態度で議論を展開されようとする姿勢に共感いたしましたので
あえて話題違いと知りつつ書き込みました。
最後に管理人ひろゆきの至言を引いておきます。
「嘘を嘘と見分けられない人には、掲示板利用は難しい」

御本も購入させていただきました。現在購読中です。
これからもこれにめげずに頑張って下さい。

533 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/03(月) 13:06:52
>>532さん
気になっておりました>>484のコピペにつきまして、いろいろと教えていただきまして、
ありがたく思います。
ご察しの通り、2ちゃんねるの初心者です。にもかかわらず、日本書紀紀年法については議論が必要との考えから、
スレッドを立ててしまいまして、書き込まれる皆様に、ご不便と、ご迷惑をおかけいたしており、申し訳なく思っております。
>>532さんがおっしゃられるとおり、書き込みには虚虚実実があるようですので、
書き込みの真偽などを見極める目を養ってまいりたいと思います。
また、拙著をご購読くださっておられるとのこと、大変うれしく存じます。
ぜひに、ご批判、ならびに、ご質問などをお寄せいただきたくお願い申し上げます。


534 :太国:2006/04/03(月) 15:49:32
>>529
銅鐸は一見してインド等に多いパゴダの形状にいささか似ているように想う。
だが、これが仏説等の天地観からの須弥山から出来上がったとするのは早計に
過ぎる。非公開仏伝により仁徳陵造作のアイデアに同山が採用されたというのは
考えにくい。確かに、叩いた痕跡がどの銅鐸にも無いとすれば、葬儀に使ったと
の主張は充分ありえる説である。
ところで、玄奘三蔵が唐を出立して艱難辛苦を味わいながら天竺へ行き、十数年?
を経てリターンにて印度の経典を唐に持ち帰ったわけであるが、西遊記によれば、
唐から天竺までのその距離は十萬八千里の道程であるとの物語となっている。
まあ、これは空想小説とはいえ、相互の距離は筆舌にできないくらいの長距離で
ある。それで、これ以上の十万八千里以上の距離と考えたくなるのが、日本から
唐を経て天竺までの里程である。かように大変な道のりを経て印度から日本へ
仏伝が行われたのであるから、538年前に非公式での仏伝があったとするならば、
西遊記での大雷音寺へのお土産の托鉢用の鉢のごとく、正式仏伝での仏像、経典
でない非公式にふさわしい内容のものであったと考えるのが至当に思える。
こう考察したとき、その内容の物が葬式用の建築設計図等と観るというのは、
可能性としてはかなり薄いと判断したい。
だいたい、先述の通り死ぬ思いをしての天竺への旅であるから、大陸から畿内
まで、内容の物を搬送することだって、大変な苦労だったはずである。これだけ
でも、非公式伝来があったのか? という考えはとても難しく成立しにくい。
だから、銅鐸が仏説の須弥山からの形で出来ているというのはまずありえない。

535 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 17:47:29
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 ◆◆

3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、漢人が支配する楽浪郡を
攻撃して滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の
東部地方に住んでいたが、356年に倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)
が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。




536 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:16:24
どうも、中国社会科学院の高句麗研究では
新羅の建国者が倭人だったことを
認定しだしているみたいですね。

任那日本府だけではなくて新羅も倭人系・・。



537 :514:2006/04/03(月) 19:30:12
>>531
>どのような理由で、そして、どのような契機で、銅鐸が古墳に変わったとお考えでしょうか。

やはり、鉄器を持ってきた人達に支配されたのかもしれませんね。
ニギハヤヒか少し後の神武か…

>>534
>銅鐸が仏説の須弥山からの形で出来ているというのはまずありえない。

うーん、やはり私が仏教のHPを紹介したので少し時間軸を勘違いされてるみたいですね。
仏説が銅鐸に影響を与えたと言うのではありません。
須弥山世界観は、まだ地球が丸いとさえ知らなかった時代の、古代人の素朴な世界観です。
シュメールの天体図から古代インドで発展したと聞いた事あるので、
かなり古くからあるみたいです。
それが後にヒンドゥーにも仏教にも取り入れられたという事です。





538 :514:2006/04/03(月) 19:57:34
連カキすいません。
http://www.asukanet.gr.jp/n-ken/a-image/syumisen.jpg
たとえば飛鳥時代のこういうものは須弥山とされてます。


http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/bell04a.png
これなどは、銅鐸の周りににある丸いものを星とみなせば、
この筒状のものは、私には「山」にしかみえないのです。

539 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 20:24:00
>>536
あれは誤訳だよ。



540 :太国:2006/04/03(月) 20:24:10
>>538
飛鳥時代は佛伝538年の後であるから、すでに仏教思想が畿内に拡がっていたこと
は確かであるから、その石の積み上げた物が須弥山とみなされる事はありうる話
である。しかし、仁徳陵を造った時代はもっと古く、そのころは仏教は伝来されて
なく、仮に非公式伝来があったと主張しても、仏教建築がどうのこうのとかいう、
ご陵に顕現化するまでの強力なものが伝来されたとはとても考察できない。


541 :514:2006/04/03(月) 22:26:38
>>540
太国さんは仏教伝来にこだわっておられるようですね。
前方後円墳に造り出しがつけられた理由を、
私は「太陽や月をも越える高山」という大陸で進化した須弥山世界観が入ってきたからだといいました。
その入り方とは、太国さんが言われるような仏教伝来を待たずとも、
古墳時代の渡来人からの情報で充分だったと思ってます。

銅鐸は中国がルーツらしいですが、
中国から銅鐸を持った渡来人が来たのであれ、
または文化受容であれ、この時に須弥山世界観も入ってきたと思ってます。

542 :太国:2006/04/03(月) 23:01:24
そうなれば、縄文式土器も弥生式土器もあちらさん伝来だということが肯定でき、
埴輪も土偶も何から何まで向こうからの伝来ということが、ああそうです という
ことで成立してしまう。それに貴方の言い分なら、その仏教の宇宙観が仏教
のみの狭小のものでなく、もっと普遍的で当時どこにも転がっている宇宙の観方
だという事になり、どんなのでもあちらからの論理が成立しかつ日本独自の論理
という事も云えることになり、外来を持ってくるまでもなく日本産も成立する。
貴方の論理ならば、四角形の底辺をもつエジプトやマヤ等のピラミッドも須弥山
という論理で構築されたということになり、世界中の大墓はみんな貴方の論理で
片付いてしまう。そんなことがありえようか?おかしいだろうが?
だから、貴方のいう論理は甘い見方であり、否として厳しく解すべきであり、そう
いうのは成り立たんとするのが、正常な論理でなのである。

543 :514:2006/04/03(月) 23:08:42
>>542
前方後円墳の形の謎、造り出しの謎、そして3重の堀がある仁徳天皇陵の意味は、
須弥山世界観でしか永遠に解けないと、私は自負してます。


544 :太国:2006/04/03(月) 23:22:14
円と方形とは初等的な幾何学で論じられるものであり、世界各地で悠久の
太古から現在未来まで、いつでもどこでも使用するものであり、印度の墓
とかにある程度似てくる事は偶然で十二分に起こりうることなのである。
だから、前方後円墳が印度からというよりも日本独自で造ったものであり、
数歩譲って半島などでも似たのがあろうけど、半島産までは否定はでき
にくいことは認容するが、印度まで拡げる根拠のものではない。
3重の堀というのは、荒らされないようにしたまでのことであって、
それが、何か重大な秘密とか謎を隠しているとか深く考える必要はなく、
侵入できにくくしたまでのことである。君は考え過ぎなのである。
寝るぞ、まだ言いたいことあれば書き込んでおけ。明日以降回答する。

545 :514:2006/04/03(月) 23:39:11
これはまいったなw
古代の人達は何民族であれ、今の天文学を知る由もありません。
アジアでは、この世界の真ん中に絶壁状の高山(須弥山)があり、
死後、その頂上(有頂天)に行きたいという素朴な思想を持ってただけだと思います。
それが色んな宗教に取り入れられ、そこから色んな文化が発展しただけだと思います。
その文化とは銅鐸や古墳(高塚)、塔(ストゥーパ)、曼荼羅等があるのだと思います。
私も寝ます。

546 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 23:40:10
判定、これは太国氏の勝ち。
つーかスレと関係なさ杉。
考古板に仁徳稜スレがあるからそっちでやりなはれ >514

547 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 00:16:40
判定、これは514氏の勝ち。
つーかスレと関係なさ杉。
考古板に仁徳稜スレがあるからそっちでやりなはれ >太国

548 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 04:59:50
というか崇神天皇の時に
対立候補だった邪馬台国(吉備?)に勝ったというのが本当のところでしょう?

だからこそ、初めての天皇らしい天皇になったんだと思う。

549 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 06:58:31
仁徳陵の堀は江戸時代に整備されたもの

550 :太国:2006/04/04(火) 08:00:16
514殿 スレ違いの苦情が出てるので、その論はこれを最後としたいが、

>今の天文学を知る由もありません。

ということは、逆に考えればだ、<仁徳世のころの人達は、未来に起こる仏伝
を知る由もありません。> ということになるのだ。
貴殿の非公式の伝来云々というのは、貴殿の説が仏伝において過去未来が逆で
成立しないため、無理にも成立させようとした上での、仁徳当時の印度と畿内
との非連結性を(君の口の力で)牽強付会させた非成立論と云うほかはない。

551 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/04(火) 09:49:41
>>537514さん
514さんは、銅鐸の消滅を鉄器を持つ人々による支配とお考えのようですが、
祭具を変更したとは、考えられませんでしょうか。
わたくしは、銅鐸地域が、古墳時代に鏡地域になっているようですので、
祭具の変更の可能性を考えています。銅鐸消滅の時期は、『魏志』倭人伝において、
倭諸国が卑弥呼や台与を擁立したとされる時期となるのではないかと思います(卑弥呼は鏡を好んだとあります)。
征服であったのならば、それは、2世紀後半の倭国大乱の時期となるのではないでしょうか。
また、銅鐸の消滅や前方後円墳の起源問題は、日本書紀紀年法とまったく無関係ではありませんので、
ぜひ、議論を続けていただきたくお願い申し上げます。

552 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/04(火) 10:04:05
太国さん
514さんは、須弥山思想を仏教に拘らず、人類の普遍的死生観の問題として考えておられるようです。
須弥山思想が独立してあって、仏教もこの思想を取り入れた宗教の一つであるという解釈です。
仁徳天皇陵は、5世紀後半の築造ですので、仏教伝来年より前になりますが、
隣国の百済には、東晋の時代に仏教は既に伝わっております。
仮に、仏教が本邦に伝わっていなくとも、須弥山思想のみは、単独で伝わっていた可能性はあるのではないかと思います。
また、日本古来の死生観が須弥山思想に近かったという推論もできるかもしれませんが、
「紀・記神話」ですと、黄泉の国ですので、古代の人々は、案外、須弥山思想に憧れを持ったとも考えられます。
それから、前方後円墳と大規模前方後円墳の発祥の思想的背景は、
別々に検証しなければならない仮題であるのかもしれません。

553 :太国:2006/04/04(火) 10:56:58
日本書紀紀年法研究家さん 514さん
お許しが出ましたので、翻して論を述べますが、
もし、須弥山思想とやらで仁徳陵を造成したとの主張ならば、御陵の円形の所は
今度建築される東京の墨田区に出来る新東京タワーのように天高く聳えるように
建造されてる筈です。そこまで至らなくても、新東京タワーの半分の高さだとか
1/4の高さくらいに出来て、はじめて須弥山を表現したことになるんではありま
せんか?聖書のバベルの塔の様に、ああいう感じで御陵の核心部分が高く高く
建造されていなくてはなりません。現地に行って仁徳陵を見ましたが、そんな
高くはなっていませんでしたよ。むしろ逆に平たい感じじゃぁないんですか?
とても須弥山を表現したようには見えませんでしたが?
太古の出雲大社のほうがよっぽど、下津岩根に宮柱太しく高天原に千木高知りて
の高き建造物に見えますがねぇ。

554 :太国:2006/04/04(火) 12:00:35
日本書紀紀年法研究家さん
A列の基点に390年の應神元年をとり、B列を461年の雄略5年にとり、
落差が120年で干支の2周として確定的にされてますが、雄略5年よりも
雄略元年の457年か、即位はその前年で雄略0年としての456年にB列の基点を
定めないと、120年の段差は貴女の恣意が入り込んでいるということになり、
意味をなさないと思いますが、いかがでしょうか?
456年、457年に百済関係の記述が見つからなくても、記述のある461年から元年
の逆算はできるわけですから、不審に思いますが・・・?
元年という年で應神も雄略もそろうわけだし、そうならないのならば、
120年は恣意で決められた数字ということになるんじゃありませんか?

555 :514:2006/04/04(火) 13:50:09
>>551
私は鉄の民による征服なんて言いましたが、実際はそんな血みどろな感じではなく、
神武東征の話などは、記紀編纂時の西域系渡来人の影響が大きいと思ってます。
話の骨格がアレキサンダー大王の話とそっくりだと指摘する人も多いですね。

>>553
前方後円墳の台形自体が山で、左右の造り出し(月・太陽)を超え、
円=有頂天があるという事です。
須弥山の意味合いを持たせて「水平軸」で表したと思います。
月や太陽を越える高山など、今の大林組でも作れません。

ただ、人間の目線から見ればこんもりした山に見えますが、
それは蓬莱山の意味合いも持たせたのかもしれませんね。
つまり縦横両方に意味を持たせたのかもしれません。

556 :太国:2006/04/04(火) 15:34:27
水平軸で表したというのは無理にでも自己の主張を肯定するための恣意的論理
であり、到底首肯はできない。
須弥山が破綻したから今度は蓬莱山に肩代わりでは、あきらめがわるい。
そんなことを言うと、西遊記の銀角大王とその部下の話が想起される。
水平なんてはまるで銀角の使う三山圧頂の法ではないか?w
最初は孫悟空の肩上に須弥山が乗るかの如きであるし、蓬莱山なんて、孫悟空
が銀角の部下をだまして「蓬莱山から来た道士だ。」と言ってからかう類を
思わせ、極めて現実的主張から遠のいている。w

557 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/04(火) 16:02:35
>>553>>554太国さん
太国さんは、どなたかにお許しをいただかないと、スレッドに書き込みができないのでしょうか。
さて、須弥山思想問題は、3世紀後半から大規模な前方後円墳が築造されるようになったことと、
関連していると考えられますが、わたくしは、前方後円墳の大規模化の契機を説明する一案として、
514さんのお説は面白いと考えました。
また、「応神五年=461年」が重要であることは、『日本書紀』において、応神紀と雄略紀に挟まれた仁徳紀、
履中紀、反正紀、允恭紀、安康紀には海外資料と比較することによって実年代を求めることができる記述が無いのですが、
雄略紀の雄略五年条となって、漸く確実に実年代を求めることができる記述が出てくることです。
雄略五年条は、このような点から、日本書紀紀年法におきまして鍵となる年紀として、
位置付けられていると考えることができます。

558 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/04(火) 16:10:12
>>555514さん
西域系渡来人の文化的影響については、日本古代史を考えるうえで、重要なのではないかと、
わたくしも考えております。文化の伝播や相互交流は、今日考えられている以上に、
あったのではないかと思います。
514さんの世界史的観点からのお説は、面白いと思っております。
日本の独自性と文化交流との融合から、墳丘の形状と関連して、
どのような死生観が醸成されてきていたのかは、興味深い課題です。

559 :514:2006/04/04(火) 19:11:55
>>556
破綻したと言うのなら、別の説をあなたが提示し、
こうこうこういう理由でこっちの説の方が正しいと言ってもらえなければ納得できません。
もちろん、造り出しまで含めた前方後円墳の形についての説でお願いします。

あなたは自分の目線で見て円の部分が高くなってないとおかしいと>>553で言われました。
当時は技術的に難しいので「高さを水平軸に表す発想」を持ったのだと思います。
これなら月や太陽まで表せますから。


560 :太国:2006/04/04(火) 19:21:11
技術的に難しいということはどうしてわかったのか?
記紀にでも高層建築が困難であるとの記述が仁徳紀以前あたる個所にあるのか?
先述のとおり、太古に高層敵出雲大社の建築ができていたという。
君の説とは一見して背反しているようだが、如何?

561 :太国:2006/04/04(火) 19:26:17
技術的に困難ならば、水平にせずとも霊吉の小須弥山の大きさに模して
たとえば20mくらいの高さにまでも落として建造できるんではないのか?
その位ならば古代でもそろそろやれるだろうが?何も水平を選択する事は不要だ。
>560 誤)高層敵     正)高層的

562 :514:2006/04/04(火) 19:33:41
>技術的に難しいということはどうしてわかったのか?

スメル山(須弥山)は絶壁状の高山です。
これを立体的に作るのはかなり難しいと思います。
ゆるやかな山というならまた別でしょうが。

563 :太国:2006/04/04(火) 19:39:03
仮にだ、数歩譲って水平であったとしよう。ふさわしいのは円のところで
なく、方形の所が似合うだろう。須弥山に象るならばこの方形を
直線的陸上競技でのトラックのようにすれば最も須弥山の形状を現せるの
ではないか? と思考できる。となると上空から観察した場合、マッチ棒
の木製の軸がべら棒に長くしてタテ直線の距離幅が8850mくらいにまでに
延長させた様な形状になる筈だが、まあ大負けにしてもその1/10とかで
885m位にでもなったならば、これは君の主張のとおり須弥山を象って
いるではないか? とあっしでもそう思うが、事実はそんなに長くはなく
とても須弥山に見える長さではない。以上、水平の成立の主張は0に近い。

564 :太国:2006/04/04(火) 19:46:00
>>562
登るんではなく建造するんだから、20m位の高さなら足場を組んで建造は当時
でもできるはずだろうが。

565 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:46:47
松岡正剛のウェブサイトに、『長江文明の発見』という本の紹介がされています。
興味のある方は、ぜひ覗いてみてください。
長江文明は、日本文明の源流である可能性が高いのです。
日本人の先祖の一つである「弥生人」は、長江下流域から日本列島へ渡ってきたのかもしれない。


■松岡正剛の千夜千冊 徐朝龍=著【長江文明の発見】■
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0331.html

■【長江文明の発見】: 紀伊國屋書店BookWeb紀伊國屋書店■
http://www.bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4043552017.html - 21k -
『長江文明の発見』 by 徐朝竜 角川書店 本体価:\648.


566 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:48:21
◆◆ 長江文明の発見 (徐朝龍著)◆◆

巴という一族がいた。
殷王朝が全盛を誇っていた頃だから、紀元前12世紀前後のことで、長江中流にいて殷に平気で歯向かっていた。
その後も春秋戦国期まで大役をはたした。この巴族のことは、あまり知られていない。漢水流域にいて龍蛇を
トーテムとした伏羲族と、三峡にいて白虎をトーテムとした廩君族とを統合して生じた部族らしく、かなりの
呪術的部族集団としての力を誇っていた。『山海経』にも出てくる。
やがて巴は「鼈霊」という治水技術に強い謎の集団とドッキングして、開明王朝というものをつくった。
最近の中国歴史学ではこれ以降を「巴蜀文化」とよんでいる。
この巴蜀文化は「巴蜀文字」という独自の文字をもっていた。文字というより絵文字、あるいは図標文字ふうの
『図語』とでもいうべきもので、印章や武器や楽器に記した。単独符号が100種ほど、複合記述が200種ほど確認
されている。黄河の中原地方で生まれ育った甲骨文字や金文や漢字とはまったく違うものである。
その違いを拡大解釈すれば、長江中流域には漢字文化圏とはちがった文字文化圏があったということになる。
僕は、この巴蜀文字の話題が出はじめたころから、ずっと関心をもっているのだが、よくわからず放ってあった。
そこへ徐中舒という中国の学者が「巴蜀文字は幻の夏文字の名残りなのではないか」という驚くべき意見を出した
というニュースが伝わってきた。
これは聞きずてならない。が、どうもそれ以上の詳細はわからなかった。そんなときに読んだのが本書であった。
眼が洗われ、鱗が落ちた。
著者の徐朝龍さんは四川連合大学出身で、まさに巴蜀文化の中心に学んだ歴史考古学者である。
親日家でもあって、来日して京都大学で文学博士号をとったあとは国際日本文化センターで助教授をしていた。
(ここには夏剛や張競をはじめ、いつも痛快なアジア系の研究者が来ている)。
で、そのころ「長江文明学術調査団」が結成され、4年にわたる研究を経て、その成果が発表された。
それを書き直したのが本書である。


567 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:53:36
(続き・・)
このところ長江文明についてはずっと議論が沸騰していた。どういう議論かといえば、中国文明の起源は黄河文明だと
言われてきたのだが、その黄河をはるかに凌ぐアジア最長の長江に古代文明が発祥しなかったはずがない。
きっとあるはずだという仮説と、いや、そんなことは幻想にすぎない、資料もあまりに断片的だ、過大評価しすぎて
いるという論争である。すでに屈家嶺遺跡、彭頭山遺跡、河姆渡遺跡などの発掘で、長江にいくつもの文化の痕跡が
あることはわかっていた。ただ、それが文明というほどの大きなものだったかどうかが疑問視されていた。
しかし、1990年代に入ってからの発掘成果は、長江に稲作文化が萌芽していただろうということを決定的に告示した。
これらの文明の萌芽は、今ではまとめて「良渚文化」とよばれている。そこでは稲作社会だけではなく、おそらく高度な
玉器産業が栄えていた。その玉器産業をみると、「天円地方」という形をとっている。都市国家のようなものもあったと
見られる。
ただ、良渚文化は紀元前2000年頃に突然に崩壊している。いろいろ理由が憶測されるところだが、おそらくが
大洪水に見舞われた。同時期、良渚文化と密接な関係をもっていた山東の龍山文化も壊滅的な打撃を受けた。これは黄河文明の
主宰者や担い手にとってはチャンスである。良渚文化と龍山文化の連合体は、ここで黄河文明の支配力に屈し、
取りこまれていった。どうもそういう大きな出来事がおこっていたようなのだ。
この大洪水後の抗争を暗示する話がいくつか残っている。ひとつは、黄河流域の部族連合を代表する黄帝が、山東半島の
東夷部族の首長たちおよび南方部族の蚩尤(しゆう)たちと、琢鹿(たくろく)というところで戦って、これに勝利して
帝王になったという話である。もうひとつは、長江流域の建国の父であり、洪水神でもあった禹が天下を統めるために
会盟を行なったのだが、その場所は黄河流域ではなくて長江下流の会稽ではなかったかということを暗示する物語の数々である。
実は、このような可能性については白川静さんがはやくから独自の構想で予想していた。ぼくも白川仮説を信じて、
勝手に長江洪水神話の全体像を夢想していたのでもあった。









568 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:54:58
(続き・・2)
ともかくも、中国の文明の黎明を告げる問題の核心が長江流域にあるらしいことは、確実なのである。
しかし、長江をめぐるいくつもの文化の栄枯盛衰が、大きく「長江文明」とよばれるには、甲骨文字とは別の『長江文字』とでも
いうべき文字の実在が、エジプトの象形文字、メソポタミアの楔形文字のごとくに確認されなければならない。それがいっこうに
出てこないのだ。と、いうわけで、ここに突如としてクローズアップされてきたのが「巴蜀文字」だということになる。
むろんまだ文字としては"解読"されていないのだが、徐さんの仮説によると、次のようなことではないかということになる。
まだ大雑把なものだ。
およそ5300年前に長江下流に登場した良渚文化は稲作都市文明を形成していた。その後、1000年ほどの繁栄ののち、
大洪水に見舞われてこの文化は崩壊したが、その一部は北上して黄河中流域に入った。ここに融合誕生したのが夏王朝である。
夏王朝は当初から政治的な混乱をかかえ、ついには支配下にあった東夷后翠(こうげい)部族に倒された。そこで残党は北西に逃れ、
さらに転じて四川盆地に入って土着文化と習合した。これが「三星堆文化」である。


569 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:57:06
(続き・・3)
このプロセスのあいだで、当初の良渚文化に芽生えた「図語」のような図標文字は、さまざまな習合をへて北方の黄河中流域に
持ち込まれ、いったんは夏王朝の文字となり、そこで甲骨文字とぶつかった。ここでぼくの名付ける『文字戦争』が起こる。
良渚文字は強い文字に敗退して変化をとげ、これが巴一族や蜀一族によって工夫され、いわゆる「巴蜀文字」になっていったの
ではないか。徐さんはそういう流れを想定したのである。
はっきりしないことは多い。けれども長江流域に古代文字文化の隆盛ないしは前文字文化の繁栄があっただろうことは、
ありうることではないかと思われる。
もっとも本書は、そのような「巴蜀文字」に関する推理だけではなく、長江に関するさまざまな遺跡例を紹介し、
そこから読みとれる最大限の仮説が列挙されている。石家河文化に芽生えた巨大城壁都市のこと、屈家嶺文化の黒陶文化のこと、
洞庭湖をめぐる古代都市国家群、三星堆文化にひそむ高度な土器文化などを扱って、興奮させられる。
われわれは黄河文明に加担しすぎていた。中国文明はそれだけでは語れない。だいたい中国は北と南では別の国なのだ。
古来、南稲北粟、南糸北皮、南巣北穴、南船北馬、南道北儒、南頓北漸などと言われてきたのは、そのことである。
服装ですら、北が右衽(右前)であるのに対して、南は左衽(左前)なのである。
日本の社会文化を語るのにも長江がもっと見えてくる必要がある。長江、かつて揚子江と呼ばれたその大河の波涛は日本列島の
歴史を包んでいる。
__________________________
この長江文明が「日本文明」の源流ではないか。


570 :514:2006/04/04(火) 20:04:00
>>563
あなたは何でも四角定規に考えすぎだと思います。
有頂天である「円」も、
山である「台形」も、
月・太陽である造り出し「小さな円」も、
分かりやすく強調する形にしたのだと思います。

で、あなたの前方後円墳についての仮説をお願いします。

571 :太国:2006/04/04(火) 20:22:16
あっしはそれの専門家じゃぁないよ。君は一般の方に納得行かせる論を主張
することを望む。
>570においては、知れたことよ。
円と方形が幾何学でも初等の部類に属する図形であり、採用するには困難性のない
容易な形ををしている。君も>技術的に困難だ との言を発したが、わかるか?
先帝昭和天皇の御陵も円形ではないか?何も高次関数曲線を採用するなどという
ことは、数学者の墓ならそれはありうるが、w 一般には天皇でさえもそんな
難しい形状のなど採用するわけはないのである。その双方の図形を使用したまで
のことだ。君は「神々の指紋」などという類の書を読みすぎているんではない
のか?それは建造にあたって夏至の位置はどっちだとか北斗に象ったやり方とか
を絶対否定しているわけではないが、素直に単純明快な両者の図形を使用したまで
のことだよ。仏伝後ならば先述のとおり、須弥山に象ることはありうることだ。

572 :514:2006/04/04(火) 20:57:58
>その双方の図形を使用したまでのことだ。

双方の図形を使用したまでというのは、
円墳○と方墳□を合わせたと言う考古学界の見解と、だいたい同じという事ですね?
なら四角が台形になっていく事と、後に造り出しが付く意味が分からないので、
今まで謎とされてたわけですね?
それに対して私は自説を述べたわけですが。


573 :太国:2006/04/04(火) 21:07:42
>>572
さっきも言ったとおり、みどもはそれの専門家じゃぁないよ。
一般人的に君の論を聴いていて、ありえることじゃぁないからそこの所を
指摘したまでのことよ。当時の御陵建造者が小難しい伝来もしていない仏説的
で創作をすることは皆無に等しいと言っているわけだよ。
君にはさっきと似た話をするが、「ムー誌」の読みすぎ人間なんじゃないのか?

574 :514:2006/04/04(火) 21:15:04
仏教伝来にまだ拘ってるのですね。
須弥山世界観は仏教だけじゃないし、
何も小難しくないと言ってるのに…
もう、あなたにレスはしないし、あなたも私にしないでください。

575 :太国:2006/04/04(火) 21:20:06
はい、はい、はい。w

576 :日本@名無史さん:2006/04/05(水) 00:10:11
死後の霊魂が籠もる場所が円部、それを祭る場所が方部でしょ。

577 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/05(水) 09:55:22
太国さんと514さんが、前方後円墳の形状の思想的背景をめぐって論争されているようですが、
『日本書紀』や『古事記』などの史書に前方後円墳の意義や思想的背景についての記述がありませんので、
これを確かめるためには、仮説を立ててみて、検証してみるしか方法はありません。
仮説のひとつとして提起された514さんのお説は、反証や、これを完全に否定する文献史料や考古学的証拠が発見されない限りにおいて、
前方後円墳の形状を説明する仮説のひとつとして、検証を続ける必要のあるお説であると思います。

578 :太国:2006/04/05(水) 10:24:19
日本書紀紀年法研究家さん
514氏は須弥山説が世界のいたる処に存在する話とかで、わが日本も仁徳前から
普遍的に同山説があったとかいう論でしたが、日本に仁徳前にそういう須弥山説
がまかり通っていたという話は聞いたことがありません。
記紀にも仁徳前にはそんな記述はなかったと思いますので、514氏の恣意的な論
だと思考してしまいます。もちろん飛鳥時代あたりは佛伝の後であり、その説
での建造ということは充分ありうると考えています。

579 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/05(水) 13:01:00
>>578太国さん
須弥山思想はいつ日本に伝わったのかという問題は難しい課題です。
太国さんは、仏教と同じ頃と想定されているようですので、仮に、仏教とともに伝わったと仮定いたしましても、
百済武寧王墓の装飾などには、すでに仏教美術の影響が見られます。
武寧王は仁徳天皇とほぼ同時代の人物ですので、わが国と百済との文化的交流を考えますと、
仏教美術や思想が5世紀後半までに将来していなかったとは、言い切れないと思いますが、いかがでしょうか。

580 :514:2006/04/05(水) 14:32:31
仏教をいったん抜いて考えるため、須弥山という言葉を控え、スメール山と言い換えます。

いざなぎ・いざなみの話は、神社の注連縄が蛇を表してる事からも、
古代インドの蛇神ナーガとナーギにルーツがあると思えますし、
言語学でも、大野晋さんの「ドラヴィダ語説」などもあり、
古代インドと日本は深いかかわりがあったのは確かだと思います。

なら、古代にスメール山世界観が伝わってても何も不思議ではないし、
銅鐸を「尖った山・スメール」に見る事も充分できると思います。
古代人は縁に星までつけて、筒が「山」だと言ってくれてるではないかというのが私の意見です。




581 :太国:2006/04/05(水) 14:43:07
>>579
應神の御世、ウジノワキイラツコや大雀命に阿直岐や王仁がですよ、来て仏説を
一定以上説明させれば、そういうのは奇話で記紀に載るんじゃないですあか?
須弥山式墓地の建造の設計図を渡すなんて、これから皇位に登る太子候補生らに
こっそり伝えるなんて太子候補生らにとっては縁起でもないじゃありませんか?
太子らの死に場所をですよ百済王がそういうときに派遣者に同設計図等を渡し
日本に伝えるなんて考えにくいでしょうし、いささか無礼だと思いますが?
だから、そういう論説はしっかりした資料等がなく、頭脳労働のみで滲み出て
きた、盲説としか言いようがないのですが?

582 :日本@名無史さん:2006/04/05(水) 17:12:05
>>580
門外漢からの横レスですが、何も蛇だから印度の神ってわけじゃないでしょう
。中国には蛇に似てる「龍」もいますし「ジョカ」なんかの話もあります。

583 :514:2006/04/05(水) 18:48:53
>>582
伏犠(ふっき)と女咼(じょか)の事ですね?
呼び名が違うだけで同じ事だと思います。
日本のいざなぎ・いざなみはインドの呼び名の方に近いので、
インドからのルートで入ってきたと思ってます。


584 :日本@名無史さん:2006/04/05(水) 18:57:44
★日の本の大和の国★

なまよみの甲斐の国、うち寄する駿河の国と、こちごちの国のみ中ゆ、出で立てる、
富士の高嶺は、天雲も、い行きはばかり、飛ぶ鳥も飛びも上らず、燃ゆる火を雪もち消ち、
降る雪を火もち消ちつつ、言ひも得ず、名付けも知らず、くすしくも、います神かも、
せの海と名付けてあるも、その山のつつめる海ぞ、富士川と人の渡るも、
その山の水のたぎちぞ、『日の本の大和の国』の鎮めとも、います神かも、宝ともなれる山かも、
駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも

『日の本の大和の国』
これが語源。


585 :日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:06:38
>>581
資料がないから仮説しかないと言ってるんじゃないか
当たり前だろそんなこと!
おまえ生きてて楽しいのか?w

586 :太国:2006/04/05(水) 21:18:09
>>585
君は514氏か〜?だとしたら、もうレスしないと(>>574で)言ってたはずだが?
お前様の言い分が認容されると、地球上のいつでもどこでも須弥山〜スメル山説
が成立してしまうことになる。なんでも肯定となってよろしくない。
今後はそういうのは止めて、一定の資料とか調べて相当な根拠がありと整って
から論説を展開したらどうだな?おぉ〜証拠的なものがあればなおいいぞ。
そうなると説得力が出てくる。それ無しじゃぁ「ムー誌」にでもたのんで記事
にしてもらったらとかになる。w  どうだな?w
ただ一つ、スメロギとスメルを言霊的に主張しているのは、神道的には効果が
ある論の可能性はあるかも知れない。言語の類似性は参考になる場合がある。
その二語はすでに共通の意味合いがあることを、言霊的に主張した神道関係者
だったか? すでにいたのを覚えている。
言霊的論説は多いに結構と言いたいが、学術的には肯定してもらいにくいもので
神道を論説する場合とかはいいだろうが、仏説とかまでもまだいいが、
非合理的ではやはりうまくない。その佛伝の手前に日本に仏教的な素地が出来上が
っているとかの論がまずいわけであ〜る。
514氏でないなら、聞き流しただけにしてくれ。以上

587 :514:2006/04/05(水) 21:53:32
>日本書紀紀年法研究家さん。

ネットの世界には確実に頭の変な人がいますので、
そういう人に出会った場合はスルーに限りますよ。

588 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/06(木) 10:00:34
太国さん
>>577でも述べましたように、歴史研究におきましては文献史料や考古学資料が無い場合もあります。
したがいまして、仮説を立ててみるしかありません。
514さんは、研究アプローチとして、当然の方法を採っておられるのです。
このスレッドのよいところは、誰でも自由に仮説を提起できることです。

589 :太国:2006/04/06(木) 10:59:45
日本書紀紀年法研究家さん
514氏の説とは時代の前後の矛盾あり、かつ佛伝後ころの人間がタイムマシンに
乗って時間が上代へさかのぼり、その過去の時代に仏説をばら撒いて再度
タイムマシンに乗って自分の時代に戻る的で、ま〜ずありえん仮説なわけなんで
すよ。ありえんとなると、今度は当時世界中でどこにでもあった考えで成立
するなどと逃げ口上敵成立論を言い出すから、あきらめがわるいとみどもは
彼に説得しているわけです。
将棋で、盤面の最下段目で王が即詰めだよと教えると、勝手にさらにその最下段
の下に9段しかないのに10段目を増設して王は詰まない、11段以上が将棋世界に
設営できるぞとか主張して9×9=81マスを恣意的に90マスとかそれ以上に
自分勝手に増やしているような人物で、否定的にすべきものです。

ついでに質問しますが、「日本書紀」と「日本紀」との記述等の、目立ってかつ
重要な相違とはいかなることなんでしょうか?

590 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/06(木) 16:11:36
>>589太国さん
仏教伝来がいつ頃であったのかという点につきまして、五三八年、もしくは、
五五二年と考えますと、たしかに、太国さんがおっしゃられるようにタイムマシンになってしまうと思います。
しかしながら、私宅仏教としては、もっと早い段階に仏教は将来していたと考えることができます。
おそらく、514さんは、仏教伝来、もしくは、須弥山思想の伝来は、
3世紀から5世紀前半までの間には、既にあったのではないかと、想定されておられるのではないでしょうか。
太国さんと514さんは、仏教伝来(須弥山思想)の伝来の時期をめぐって、見解が食い違っておりますので、
議論が平行線をたどってしまっているのではないかと思います。

また、『日本書紀』と『日本紀』との間の重要な相違は、編年であろうと考えられます。


591 :太国:2006/04/06(木) 16:54:11
>>590 いろいろと回答有難う存じます。
もう1点お尋ねしますが、A列とやらで應神390年を基点設定にしていることは
分かりましたが、失礼ながら小難しいため少しずつ読んだりはしていますが、
とりあえず、先に質問でお聞きしたいですが、
そうなりますと、仁徳即位と履中即位は実年代の最終的結論としては何年と何年
とに決まったわけですか?前者は433年ですか?そして後者は何年なんでしょう?

592 :太国:2006/04/06(木) 17:01:25
>>591 訂正
誤)應神390年  正)應神即位の西紀390年

593 :514:2006/04/06(木) 19:45:42
>>590
そもそも日本に来た仏教とは何か?という大きい問題もありますね。
西域系渡来人との関わりが大きいでしょうねぇ。
4世紀の大阪・羽曳野の古墳からペルシャのグラスが出てたりしますしね。

私は分かりやすい説明のために>>514で仏教図を紹介したのですが、
死生観の伝来なら、経典の伝播に頼らずとも、
それ以前の「人の渡来」でも充分説明できるし、
だいたい経典が渡来しなければ死生観がなかったなんて、
古代人に対して失礼な感覚だと思います。
山を崇めるのは縄文時代からあったみたいですしね。


594 :514:2006/04/06(木) 20:17:18
失礼しました、羽曳野は違いました。
橿原市新沢千塚126号墳出土の5世紀でした。

595 :514:2006/04/06(木) 22:37:04
何度もすいません。

すっかり忘れてましたw
古墳時代の神獣鏡ですが、あれが須弥山です。
中央に山があり、神獣がおり、円盤状ですから。
思想の伝播かどうかは異論もあるでしょうが。


596 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/07(金) 16:02:03
>>591>>592太国さん
仁徳元年は西暦397年、履中元年は西暦427年です。
仁徳紀の紀年も履中紀の紀年も、仁徳列(D列)上において求めることができます。

597 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/07(金) 16:09:22
>>593>>595514さん
東晋の時代に、西域僧によって仏教は百済にもたらされていたそうですので、
百済から日本にも西域文化は伝わっていたと推論することはできます。
514さんが、西域系渡来人の影響についてお考えになることには、一理あるように思います。

598 :太国:2006/04/07(金) 18:13:28
>>596
それらの数字を一見して私が考えまするに、
いいですか、應神元年が390年で仁徳元年が397年ですと、その差は

397−390=7  ということになりますが、

これですと、應神の時世が1桁で7年ということになります。
どうですか? おかしいと思いませんか?
そんなに應神の世が、10年にも満たないくらい少ないものでしょうか?
要するに少なすぎませんか? ということを言いたいのです。
その7年間に百済の王仁からの千字文等の伝来や、天皇淡路島等行幸、
ウジノワキイラツコの立太子、タケウチノキネスの筑紫派遣、および崩御等々
その他の記紀の記述を考えるにあまりにも短い應神統治の時代ではないですか?
これはどっかに間違いがあるということを疑うとかはありません。
貴女が、どうやら同一時代に複数即位的な考察で紀年を定めたとか、うっすら
主張していたように思いましたが? そんなことを考えているんでしょうか?
ならば、貴女の説はうまくないですね。複数なんてありえんですよ。
そういう意味の「天に二日あり」は否定すべきで、譲れませんね。


599 :514:2006/04/08(土) 00:14:45
>>576
>死後の霊魂が籠もる場所が円部、それを祭る場所が方部でしょ。

神社の本殿・拝殿の2重構造の原型かもしれませんね。
古代は、古墳自体が神殿の役割があったのかもしれませんね?


600 :トム:2006/04/08(土) 00:24:42
研究者さま、「国宝・百済観音は誰なのか?」読みました。
おもしろかったです。おもしろすぎて3時間で一気に読めました。
やはり、天智天皇・天武天皇・持統天皇あたりの時期は、平安時代の人である
紫式部からみても重要な時代だったんでしょうね。日本国ができた時期として
大変な変動の時期だったんでしょう。竹取物語がこんなに含意に富むなら、
源氏物語も深い含意があるのでは?と思えてきます。
ところで、ネット上で、
「日本書紀の讖緯説が問いかける二つの問題」
という記事を見つけました。参考になるかもとおもいリンクします。
http://web.archive.org/web/20000421090518/http://www.people.or.jp/~nobumasa/kudara.html

601 :通りすがりA:2006/04/08(土) 00:43:29
日本書紀の編集者達は資料を集めた後、編集会議を行った。

・辛酉革命説でBC660年とすることは決定事項している。
・架空の人物と話を積み上げるのは骨が折れるので、実際の伝承にある
 人物と話でもって構成し、在位年数を水増ししよう。
・どの天皇在位をどの程度水増しするかが問題だ。
・中国史書にはやっかいなことに女王が239年から266年存在しているが、
 手元の伝承資料では女性の天皇は存在しない。
 しかし倭王はすべて過去の天皇でなければならないので、伝承中で
 もっとも有名な"気長足姫"をこの女王にあてよう。
 中国史書では2人も存在しているけれど"気長足姫"ひとりで頑張って
 もらおう。

百済記からすると"気長足姫"の子である誉田天皇の活躍年代は390年代なので、
母である"気長足姫"の実年代は390年あたりで終わっていたことだろう。
すると、区切りよく120年分を誉田天皇即位までに水増して遡らせれば、
"気長足姫"を239-266をカバーする時期に活動させられるじゃないか。

「では、どこから120年分の調整を始めましょう?」
「あまり近いところから調整するのは余りにあからさまなので、
大泊瀬幼武天皇の崩御までは調整なしで行こう。」

ということで編集方針は決まった。


602 :太国:2006/04/08(土) 08:16:12
>>601
君の考えた小説なり。w

603 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/08(土) 09:34:38
>>598太国さん
応神天皇の在位は「確定紀年」において7年となります。
しかしながら「延長紀年」として34年が加えられて、応神紀の紀年数の合計は41年となります。
応神7年以降の記述は、応神紀の「延長紀年」をめぐる記述となります。
また、日本書紀紀年法は並列・多列構造ですので、歴代天皇の在位期間は重なりますが、
「確定紀年」は重なりません。「延長紀年」によって、在位期間が重なってくるのです。
それが、どのような意味を持つのか、さまざまな仮説を立てることができます。
現在、試案として、なぜ、並列・多列構造となっているのか、その理由について研究成果をまとめており、
発表いたしたいと考えております。

604 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/08(土) 09:40:50
>>599514さん
神社の本殿と拝殿の二重構造という514さんのお考えは、大変、面白いと思います。
例えば、初期仏教寺院の心柱の心礎から、馬具や甲冑などが出土しており、
古墳からの出土物と変わりないという指摘があります。
仏教も含め、宗教や思想上の古墳の形状の役割は、興味深い課題です。

605 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/08(土) 09:59:33
>>600トムさん
拙著『国宝・百済観音は誰なのか?』を御一読、ならびに、評価してくださいまして、
大変うれしく思っております。
『日本書紀』から『竹取物語』を見てみれば、日本古代史の多くの謎が解けてくると
言うことができるでしょう。
また、わたくしは、日本書紀紀年法は、しん緯暦運説の影響を受けていると推論しております。
ご紹介くださいました記事は、参考になるかもしれませんので、一読させていただこうと、
考えております。

606 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/08(土) 10:14:28
>>601通りすがりAさん
通りすがりのAさんは、「プラス・マイナス120年構想」をよく理解してくださっておられるようで、
うれしく思います。
しかしながら、通りすがりのAさんの120年を水増しとする考えは、再考の余地があると考えます。
それは、120年水増しするのならば、応神列(A列)、允恭列(B列)、仁徳列(D列)の3本の「延長紀年」は、
平均して40年であってもよいのですが、これらの「延長紀年」は34年、25年、57年となっており、
「延長紀年」にも意味があるようであるからです。
応神元年から雄略五年までに加算されてある120年を水増しと考えるのか、それとも、歴史的事象の反映と考えるのかによって、
「プラス・マイナス120年構想」の解釈はずいぶんと違ってくるものとなるでしょう。
わたくしは、歴史的事象の反映と考えております。いかがでしょうか。


607 :太国:2006/04/08(土) 10:55:49
同じ畿内に重複即位があれば、記紀に明確な記述が必ずされるはずです。
それに、そういうことになれば、南北朝の如くになり、滅多やたらに畿内に乱
が起こり歴史的大事件となり、事態の収拾は後代までかかりましょう。
そのような大変な混乱になるべき事を記紀の編纂者が見逃すことはありえぬこと
ですので、記載がないという現実は、そういう重複即位など事実として
無かったことを意味することになります。

608 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/08(土) 15:56:15
>>607太国さん
重複即位ではなく、たとえば、上皇と天皇の問題や、神祇祭祀権と執政権の問題などによって説明することはできますし、
日本書紀紀年法が並列・多列構造であることを説明するためのさまざまな仮説を、提起することができます。

609 :通りすがりA:2006/04/08(土) 21:54:22
>>606
スレ主さんは、"雄略五年"を基準年にされているようですが、
私には雄略在位年も調整を受けているように思えます。
つまり雄略五年も120年の調整の範囲内で調整基準年ではないと。

雄略14年に呉国の使いと漢織、呉織、衣縫の来朝の記事がありますが、
これが宋書倭国伝に長い上表文で"目立つ"武の478年の朝貢に由来する
記事ではないかと思うのです。

ところが雄略14年は469年か470年であり卑弥呼と神功紀のように中国
史書が示す年(477年か478年)にあわせていません。武の朝貢などは
"女王"の存在ほどには天皇系図に対し致命的でないと判断して無視
しているのかも知れませんが、中途半端な年にこの記述があります。
雄略22年にもってくるか、記事そのものをなくしてくれればすっきり
します。

一方、この雄略14年を478年とした場合は、興の462年の朝貢の後に
雄略の即位年(464年か465年)が来ますので、中国史書に合わせる努力
としては、こちらの方が478年=雄略22年として割り当てるよりも
優秀です。
逆に461年の百済・昆伎君の話が雄略即位前の話になってしまい、
これはこれで困ったことになりますが。

日本書紀が雄略紀から書き始められたという説を信じれば、
・当初の雄略即位年は、卑弥呼同様に中国史書を基準にとって
 (464年か465年)に設定されていた。
・後にさらに上代の記述を進めて調整が累積した。
・雄略紀と接合したいけれど、もう倭の五王の比定などお手上げ状態になっていた。
・それではと百済資料基準で調整しなおしたら、雄略即位年が動いちゃった。
・雄略14年呉の使者来朝の記事は、元の14年に設定した理由が忘れ去られて
 22年に調整されず、14年のままで残ってしまった。
と妄想ができます。

610 :太国:2006/04/08(土) 22:36:49
雄略天皇は倭の五王の一人に非ず。

611 :通りすがりA:2006/04/08(土) 22:57:53
雄略が実際に倭の五王の一人であるかどうかは問題ではなく、
「中国史書のように有力な記録に倭王とあるものは天皇でなければならない」
というのが、万世一系の皇統を記述することが日本書紀の編集者に負わされた
課題だと思うのですが。


612 :通りすがりA:2006/04/08(土) 23:00:30
日本語が変なので書き直し。

雄略が実際に倭の五王の一人であるかどうかは問題ではなく、
「中国史書のように有力な記録に倭王とあるものは天皇でなければならない」
というのが、万世一系の皇統を記述することを命じられた日本書紀の編集者
にとって重要な課題だと思うのですが。

613 :514:2006/04/09(日) 06:51:57
研究家さんが>>531で言われた、銅鐸の消滅、そして神祇信仰の台頭の話ですが、
私は何となくの考えで鉄族の征服などと答えてしまいましたが、今はこう思います。

一般に、聞く銅鐸→眺め見る銅鐸→仰ぎ見る銅鐸になったといわれてるそうですが、
私は何度も言うように、銅鐸を彼らが信仰していた高山だと仮定してます。

で、その仰ぎ見てた人たちに対して、
自分たちは天から眺める事が出来る、つまり天孫・天つ神であると説明できる人達が来た。
その天から眺めた「証拠」に鏡があったんじゃないでしょうか?

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/sannkaku.jpg

鏡全般に言える事なのですが、この図柄なども、「天」から見た山(須弥山)を中心にした世界図としか思えません。

ならば天孫族とは鏡を入手しやすい日本の海洋民を想定してみる…

それこそが海洋人・日向だったのかもしれませんね。

614 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 08:55:36
>>609>>611>>612通りすがりのAさん
「プラス・マイナス120年構想」は、応神元年から雄略五年までの間を一区切りのスパンとして、
構想されています。雄略6年以降の紀年問題は、「プラス・マイナス120年構想」の枠外の問題として、
考えねばなりません(ただし、仁徳列(D列)は「延長紀年」によって仁徳87年の483年まで延びています)。
また、>>612で、通りすがりのAさんが、おっしゃられていることには、一理あります。
それは、『日本書紀』の「確定紀年」と『古事記』は、倭王を天皇と見なしていることです。
したがいまして、問題は、『日本書紀』の「延長紀年」の解釈です。

615 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 08:57:21
>>610太国さん
雄略天皇は、「倭の五王」のひとり、「興」であると推論することができます。

616 :太国:2006/04/09(日) 09:10:38
日本書紀紀年法研究家さん
その推論は間違いですよ。 >>611 >>612 の通りすがりAさんの主張は一応
可能性としてはあるやもしれません。私のほうで、通りすがりAさんのこの主張
を否定する根拠がないものですから・・・?ただそれは可能性の問題として
彼の言い分は生き残っていると言えます。彼は、その論が正であることを
何故なのか?できたら資料、文献等を出して説明できればgoodになっては来ます。
これが真なら、貴女が倭の五王の年数を入れ込んでの論は正なる可能性がまた
出てくるわけです。しかし今のところは双方とも可能性の許容までです。
私は、彼の論は違うとは思いますがね。


617 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 09:12:06
>>613514さん
銅鐸が大型化してくることに、須弥山思想の影響が見えるというわけですね。
>>552でも述べましたように、3世紀中ごろから前方後円墳も大型化してまいります。
大型化の思想的背景に何があったのでしょうか。
須弥山思想による説明は、魅力的です。
ただし、天孫族、これは、仮に、「空から眺める」であるのならば、
物部系統の人々ということになりますが、物部氏の祭具は、鏡ではないのではないかと考えられます。

618 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 09:19:34
>>616太国さん
倭の五王による遣使の年代と『古事記』崩年干支との間には、整合性があることは、
研究史上指摘されていることです。
したがいまして、『古事記』崩年干支によって求めた「基準年」によって構成される
並列・多列構造は、必然的に倭の五王の遣使年とも整合してくるのです。
「確定紀年」は、倭の五王の遣使年と『古事記』崩年干支の両者と整合していることになります。
換言すれば『日本書紀』は「確定紀年」において倭王を天皇として扱っていることになるのです。
このような意味において、通りすがりのAさんの主張には一理あると述べたまでです。

619 :太国:2006/04/09(日) 09:31:34
祖禰だって、記紀の武烈、雄略あたりから神代のほうへ遡って読んでいっても
らしき者が見当たらないし、だいたい名前があう者がどうやら誰もいない。
それに大陸側で何故五王に限定されねばならぬのか、たとえば武烈が五王の最後
の天皇ならば、五黄というより二十五王(武烈は25代)と言うべきだが、五人で
限定している。さらに先述の通り、これらは中国的単名であるし、記紀の天皇の
名とは「武」以外まるっきり合わない。かような事は五王が天皇家とはハッキリ
別物の王統で、比較的中国に近く、大陸→対馬等→北九州→畿内 への道筋から
一寸離れた場所に五王の国があったのだということを意味しているんです。

620 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 11:36:36
天孫族という変な言葉を使うのはやめようよ。






621 :立ち止まったA:2006/04/09(日) 12:08:30
通りすぎずに立ち止まりました。

スレ主さんや太国さんは
1. 日本書紀の雄略紀以降の方がそれ以前よりも先に書かれた。
 (用いられている暦が異なる)
2. 日本書紀の雄略紀以降とそれ以前とは書いている人が違う。
 (漢文の日本人くささの有無)
という主張の確からしさをどう思います?



622 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 12:36:18
>>619太国さん
「倭の五王」というのは、研究史上、便宜上、そのように通称されているだけです。
『宋書』や『梁書』の相違を考えれば、五王ではなく、六王にもなりますし、
七支刀銘文の倭王「旨」も倭王名と考えれば、七王にもなります。
わたくしは、日本書紀紀年法において、「確定紀年」と倭王たちの遣使年とが整合してくることから、
倭王は、やはり『日本書紀』において、天皇として扱われている人物に比定されえるのではないかと、
考えております。

623 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 12:40:50
>>620さん
たしかに、「天孫族」につきましては、その実体は、未詳であると、わたくしも思います。

624 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 12:54:17
>>621立ち止まったAさん
『日本書紀』では、雄略紀から元嘉暦が用いられています。
1.のご意見は、儀鳳暦が7世紀なか頃に唐朝において作られた暦であり、
持統四年条に、元嘉暦と儀鳳暦を併用するようにと見えることによるものでしょう。
すなわち、『日本書紀』では、儀鳳暦の部分が先に書かれていたという主張と拝察いたします。
わたくしは、元嘉暦が6世紀初頭において、中国歴朝においても、使われなくなった暦であることから、
元嘉暦の部分は、『日本書紀』の原典となるような元嘉暦で編年された史書にもとづくと、
推論いたしております。この意味で、雄略紀以降が先に書かれたと考えます。
2の問題も、素材論にかかわり、区分論において、安康紀と雄略紀の間に区分線
が引かれることの理由を、原典の存在に求めるのか、述作者の違いに求めるのかという、
2つの考えがあるかと思います。
わたくしは、原典の存在に、その原因を求めています。
拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』は、
立ち止まったAさんのご質問と関連した内容を扱っておりますので、
興味がございましたならば、ぜひ、ご一読していただきたいと思います。

625 :立ち止まったA:2006/04/09(日) 13:49:15
日本書紀紀年法研究家は、雄略紀以降の部分が原典という形でそれ以前の
紀よりも先に存在したというお考えですね。

では続けて

3. 日本書紀は万世一系の皇統を書き記すものである。
4. 中国史書のように有力な記録に倭王とあるものは天皇でなければならない。

という主張の確からしさをどう思います?


626 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 15:39:22
>>625立ち止まったAさん
3は、大変難しいご質問であると思います。
『日本書紀』においては易姓革命は見えません。初代神武天皇すら、皇太子として位置付けられているほどですので。
720(養老四)年に、『日本紀』として成立した際には、系図一巻があったそうですので、
編纂の意図としては、万世一系があったと思います。ただし、史実としてはどうであったのか、
という設問に対しましては、別に考えねばならない問題でしょう。
現時点において、わたくしには、万世一系であったとも、なかったとも確言することはできません。
4については、「天皇でなければならない」という表現の意図がよくわかりませんので、
ご質問の答えになっているか、わかりませんが、『日本書紀』は、紀年法の「確定紀年」において、
倭王を天皇と見なして扱っております。ただし、『宋書』に「珍」とあるのが、
『梁書』では「彌」となっているなど、中国史書にも混乱が見えます。

627 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 17:05:08
【芸能】深田恭子さんが妊娠3ヶ月できちゃった婚・・・3
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news7/1143822829/

628 :514:2006/04/09(日) 19:09:04
>>研究家さん、620さん
天孫族という言い方は撤回します。
天からの視点という事を考えたため、単純に発想してしまいました。

で前方後円墳の大型化の思想背景ですが、これも銅鐸と同じで、
大きな高山(須弥山)を作りたかったからだと思います。

なぜ銅鐸が消えたのか?と聞かれれば、やはり祭具の変更ですね。
つまり…
あの小さな鏡に、自分たちが仰ぎ見てた高山を中心とした大きな世界が描かれてたため、
「もはや作る必要がなくなった!」というのが、銅鐸が消えた最大の理由だと思います。

629 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/09(日) 19:29:52
>>628514さん
前方後円墳や銅鐸の大型化について、須弥山思想の影響があるのかもしれません。
しかしながら、鏡も大型化してまいります。これは、どのようにお考えでしょうか。


630 :太国:2006/04/09(日) 19:46:47
>>621
1,2 どちらも可能性はありえます。

631 :太国:2006/04/09(日) 19:56:46
>>629
鏡が鋲の形を鏡大にした感じならば、それは超長つまみの個所が須弥山に
似てきますので、須弥山説はありえる可能性が出てまいりましょうが、
出土のそれらは、せいぜいでべそのそうな位では、その説は否定的に観る
べきです。鋲ってほら、壁掲示板にポスター類をとめるのに使うあれです。
そういうのが須弥山からだというのなら、出べそもそうなってしまいます。

632 :514:2006/04/09(日) 20:33:35
>>629研究家さん。
鏡の大型化は少し調べてみます。

鏡が須弥山世界観であることを証明するものをお見せします。
BC5世紀の中国の鏡です。
私は須弥山世界観は、当初、海上に浮かぶ高山で、
シュメールからの影響と言いました。
http://www-ku.magma.ne.jp/~ark/f031-sengoku.jpg
この波状紋はシュメールからの影響で、
まさに海上に浮かんでます。
鏡は表面で顔を写すと同時に、裏面では心・思想を写す物です。

心が曇った人物には永遠に見えません。

633 :太国:2006/04/09(日) 21:18:02
>>622
まあせいぜい行っても七か八代くらいじゃぁないんですか?
二十五代にはほど遠いと思いますよ。
北九州のさっきの通り道筋から一寸外れた所に短期王朝なる倭の五王朝が
あったのだということです。ここだと記紀に五王が記事がなく、中国に近い
場所(たとえば長崎の出島の如く外来風が多くみられるはず)のため、中国が
よく使う単名だというのもうなずけるわけです。当然天皇ではないから名が
殆ど一致しないのも理が合っていますし、二十五代じゃなくても萬世一系の
天皇家ではないのでこれも五代分位で自然に説明が合います。
年代が合うような話(>>618)ですが、まずは無理してつぎはぎをやったり、
牽強付会のような状態の説だと思いますよ? 信用しないほうが身のためです。

634 :太国:2006/04/09(日) 21:23:39
>>633
誤) 記紀に五王の記事がなく、
正) 記紀に五王の記事がない理由が畿内から遠隔の為情報が入りにくいからで、
   納得できるし、

635 :514:2006/04/09(日) 22:05:42
私が>>632で紹介した鏡ですが、
面白い物を発見しました。
「波=海」の中に矢印のようなものが4本伸びてます。
東西南北でしょう。
なら、この鏡を天から見てみろという意味ですね。

636 :立ち止まったA:2006/04/09(日) 22:56:17
>>626日本書紀紀年法研究家さん
4.の「天皇でなければならない」の意図は、次の通りです。
中国史書のように人目につく資料に倭王と記載されている記事が、日本側記録
「日本書紀」の天皇にまったく割り当てできない・対応しない事態は困る、
という意識が日本書紀編集者にあった。

卑弥呼の記事に対応するため、神功紀や応神紀の百済関連記事の実年代を犠牲に
してまで神功を3世紀に配置していることは、上記意識の現われだと思うのです。

日本書紀では雄略紀までの記録の中に中国と思える"呉"との通交記事が3つ存在
しますが、これらは中国側の記録には該当記事がありません。
 応神37年 -- 306年 呉に縫工女を求め
 仁徳58年 -- 370年 呉国、高麗国が朝貢
 雄略14年 -- 470年 呉国の使いと共に漢織、呉織と衣縫
逆に5世紀までの卑弥呼関係以外の中国側の倭王関連記事は次の通りですが、
こちらも日本書紀には対応記事がありません。
 107年帥升 -- 景行(71年〜130年)紀に記事が欲しい
 (413年) -- 允恭(412年〜453年)に記事が欲しい
 421年讃
 425年讃
 430年
 438年珍
 443年済
 451年済
 460年 -- 雄略(456年〜479年)に記事が欲しい
 462年興
 477年武
 478年武
百済の記事からみて実年代と一致していると思える雄略紀ですら7-8年ずれています。
日本書紀編集者はこれらの対応付けをあきらめてしまったのでしょうか。

637 :太国:2006/04/09(日) 23:21:30
真の紀年に至るうちの一つの条件は、倭の五王を天皇と見立てての年策定は
間違いだから、係わりそうなのは少なくても用心しろということです。
五王は各天皇にはあらずなり。

638 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 00:47:51
>>637太国さん

日本書紀を編纂する人にとり、中国史書に倭王と名乗って登場する人間を
いずれかの天皇に割り当て不能な状態のまま放置することが許されたか
どうかという問題です。

現存の日本書紀をみる限り、卑弥呼関連以外の割り当て不能なものは、
不可能なものは仕方がないと、諦めたように見えますが、中途半端な
記事を応神・仁徳・雄略紀に残しているのが気になるということです。

639 :立ち止まったA:2006/04/10(月) 00:49:06
>>638は立ち止まったAです。


640 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/10(月) 08:15:31
>>632514さん
BC5世紀の中国の鏡には、たしかに須弥山思想の影響があるようです。
わたくしは、鏡には、あらゆる宗教の祭具として、用いられる性格があるのではないかと考えます。
日本で出土する鏡には、凸面となっているものがあり、光を反射させることが、
目的ではなかったか、との指摘があります。
鏡は、祭具として、多様な観念を具現化するものであったのではないでしょうか。

641 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/10(月) 08:40:13
>>633太国さん
>>618で述べた、倭の五王の遣使年と『古事記』崩年干支は整合するという指摘は、
明治時代の『日本書紀』の編年の復元・修正案をめぐる論争過程で、認識されてきたものです。
これは、倭の五王の遣使年と崩年干支を年表上に比べてみればわかりますように、
誰が比べても結果は同じです。説ではなく、事実ですので、信用するもしないもないのです。。
応神元(390)年から雄略五(461)年までの間に実際に経過した72年に、
応神元年から雄略五年までの紀年数の合計は192年で、その差は120年ですが、
この120年は、「延長紀年」の合計と合致しているのです。
換言すれば、「確定紀年」には、信憑性があることになるのです。
そして、「確定紀年」は、崩年干支にもとづいておりますので、倭の五王の遣使年との整合には、
着目せねばなりません。


642 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/10(月) 08:58:10
>>636立ち止まったAさん
日本書紀紀年法は、多列・並列構造ですので、中国との通交記事は、
以下のように考えることができます。

1)応神37年は、応神列(A列)上において426年となり、これは、
  『宋書』において、425年と記録されている「讃」の遣使のことと考えられます。
2)仁徳58年は、仁徳列(D列)上において454年となり、これは、
  「済=允恭天皇」の崩時の「興」の遣使のことと考えられます。
3)雄略6年にも、中国通交記事が見えますが、これは、雄略列(B列)上において、
  462年となりますので、「興」の遣使年と一致します。
4)雄略14年は、雄略列(B列)上において470年ですが、これについては、
  中国側史料には見えません。

 日本書紀紀年法が、多列・並列構造であることを踏まえれば、
『日本書紀』に見えるこれらの中国通交記事のうち、雄略14年のみを抜かして、
中国側史料と整合してきます。
 ただし、雄略14年のみは、不明ですので、考えてみたいと思います。

643 :太国:2006/04/10(月) 09:15:52
一見合ってるようで、それは間違っていることは堅い。
こねくり回してれば少しばかりは接近があり、それだと思っていろいろと
年を定めていって、途中矛盾が出てくるはずだからそこで失敗と思って回避し
元へ戻ればいいものの、そこでなんらかの勝手な推論か牽強付会をやるように
なり、これが正しいと結論して整合があるとかになっていると思いますよ。
五王は天皇じゃないから、いくら当てはめてもあっちが出っ張りこっちが引っ
こむわけで、そこで窮屈なつぎはぎをやって無理をする。このような凹凸等で何度
でも合いにくいのは、五王と各天皇とが別人だということの証拠なんですがねぇ。
無理な整合とかを信用してそれらの年で論を構築すれば、砂上の楼閣の運命です。
五王は天皇にあらず。

644 :立ち止まったA:2006/04/10(月) 12:02:36
>>641日本書紀紀年法研究家さん

私も同意する神功紀の120年繰り上げは、中国史書の年代
(239年)に一致させるために神功39年を配置しています。
つまり中国史書の年代に日本書紀を合わせています。

同じ方針であれば、日本書紀記事の操作していない紀年
 応神37年 -- 306年 永興3年光熙元年
 仁徳58年 -- 370年 太和5年
 雄略14年 -- 470年 泰始5年
が、中国史書側の(日本書紀編集者が重要と判断した)記事
に対応しないといけないはずです。
対応しない中国史書の記事は重要でなければ、日本書紀の
編集者は無視することもできたのです。倭国王初見の107年
を含め多くの記事が無視されているのですから。

中国史書に合わしていないのであれば、中国史書と対応しない
のを承知で記載したいほど重要な応神や仁徳らの事績が存在
したと考えられます。
しかし、前後の記事に影響を与えていない通交記事を、わざ
わざ37年とか58年のような延長されたらしい在位年に配置せず
とも、その重要な事績伝承本来の在位年に記載した方が
日本書記紀年が抱える矛盾が少なくなります。

つまり応神37年が426年で、しかも確定紀年からして426年が
応神の事績ではありえないなら、わざわざ応神紀に載せなく
ても、その426年当時の天皇のところに載せれば済む話だと
いうことです。

645 :立ち止まったA:2006/04/10(月) 12:08:33
中国とは直接関係がないですが

>仁徳58年 -- 370年 太和5年
>雄略14年 -- 470年 泰始5年

を見ていると七支刀の論争を連想します。

646 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/10(月) 19:45:49
>>643太国さん
日本書紀紀年法の並列・多列構造における「確定紀年」、倭の五王の遣使年、
『古事記』崩年干支の3つの年代の関係は、すっきりとしたものです。
また、数学的にも整合しています。
おそらく、太国さんは、倭の五王は、天皇ではないと信じ込んでおられるので、
議論が平行線をたどってしまうことになるのでしょう。
倭の五王が『日本書紀』において、天皇として扱われている可能性を少しでも考えてみてはいかがでしょうか。

647 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/10(月) 19:54:50
>>644・645立ち止まったAさん
「プラス・マイナス120年構想」のマイナス部分となる神功紀では、
120年の問題が表出しておりますが、プラス部分は、並列・多列構造になっており、
120年問題は、表出しておりません。
一本の年表を多列・並列構造に並べ替えてみて、「確定紀年」と「延長紀年」に区別して、
ようやくに倭の五王の遣使年を「確定紀年」上に、求めることができるわけです。
なぜ、表出しないようにしてあるのか、その意味について、もう少し考えてみたいと思います。
また、立ち止まったAさんの>>645でのご指摘は、非常に興味深いものです。
>>642で述べた雄略14年問題を説明する可能性があるからです。
しかしながら、中国との通交の記述は、これらのほかに雄略8年条と雄略12年条にも見えるという
問題があります。

648 :立ち止まったA:2006/04/10(月) 20:34:11
>中国との通交の記述は、これらのほかに雄略8年条と雄略12年条にも見えるという
問題があります。

お恥ずかしい。見落としています。
 雄略8年 -- 464年 大明8年,永光元年,景和元年
 雄略12年 -- 468年 泰始4年 あれ?470年は泰始6年か
いずれも中国史書にはない通交記事があります。

中国への朝貢記事はもう比定不可能な状態なので、応神・仁徳・雄略紀に
ここからここまでの間に倭王が何回か朝貢していたよ、だからこの間の
天皇を倭王と思ってね、という期待をこめて適当に配置しておく!終了!
と編集者が諦めたか。



649 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 20:56:34
太国さんは書紀の編者はいわゆる倭の五王は天皇家とは無関係というスタンスだったと主張してるの?

650 :立ち止まったA:2006/04/10(月) 20:56:52
トンデモ説なら次のように逝けます。

日本書紀は百済人が書いていた。
 仁徳58年 -- 370年 太和5年
は百済紀の紀年が1年ずれていたとして、高句麗の国王を敗死させて
晋に初朝貢した記念カキコを日本書紀に埋め込んだのだった。

651 :太国:2006/04/10(月) 21:23:11
>>649
それは何ともだ?紀の編纂者が双方をひっかけないとまでは云わないが、
どれはどっちだかわからん?
倭の五王は当時の各天皇ではない。しかし君らが天皇だと誤認したのと同様
編纂者が誤認したということはありうる。ただうちらよりは編纂前の書本を
多大にか持っていただろうから、五王でないと確認していたとも云える。
云えることは、編纂者が五王は天皇だを誤認してたことを考え、それで紀年を
組むのに五王を使うのは大いにやぶへびというか?まあ自分から八幡の
藪知らずに入り込むような愚かなことなわけだ。
合っている、整合してるだとかなどとなってても信じてはまずい。
ハッキリ、云っておく、五王は天皇にあらず。

652 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:46:03
>>651
いや、オレはどちらかというと、倭王は天皇にあらずという立場だよ?
しかし書紀の建前が日本の王権は唯一天皇家のみである以上、それらを糊塗する必要があると考えた蓋然性は高い。
明記はしないが暗示はする、その為に紀年をいじったと考えても不思議ではないんじゃないか?

653 :太国:2006/04/10(月) 22:13:29
>>652
糊塗したとなれば故意的であり、編纂者は五王が天皇ではないことを知悉して
いたことになる。そこまで故意にやってはいないと思う。
江戸時代だって朝廷と徳川幕府と両立してても将軍を天皇に糊塗はしていまい。
それは貴殿の考えすぎと思う。しかし編纂者が過失とか疑問等をもち、混迷して
こうだろう?といろいろ考えてやむをえず的に編纂した可能性は多分にあろうか?
そのへんがいじったということになり、後世のうちらは尚も苦労するわけだ。w

654 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 22:17:55
並列だの多列だの解かんねぇーからグラフ書いてうpしろ

655 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 23:00:07
>>太国

あんたは>>591で、
>失礼ながら小難しいため少しずつ読んだりはしていますが、

と言ってるが、その後、紀年法研究家さんの説を理解できてるの?
出来ないで小出しにしてるんなら、ウザいからいい加減に消えろ。




656 :太国:2006/04/10(月) 23:29:53
じゃ、お前はできたのか?

657 :太国:2006/04/10(月) 23:32:14
どうせうぬは 五王=天皇 なんだろうが?w
無コテハンでこすいと思わないのか? 有コテだったんじゃないのか? 

658 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 23:38:55
つーか紀年法研究家が小出しにしてんだろ

御前ら自分の主張をサイトに全部上げろ、表とグラフも付けろ

たりぃーんだよ

659 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 00:21:15
>>657
IDが出ない板で何をくだらない詮索してるんだ?
おまえが詮索するなら俺もする。
連続レスの特徴からして654も658もお前だろ?

660 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 00:39:41
>>659
654と685はオレだ!

間違えんなヴァカ

661 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 00:42:44
みなしゃん落ち着いて下しゃい(><)

662 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:03:20
>>660
おまえは太国だな。

663 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 07:10:06
とりあえずここは先生が本を宣伝するスレなんだらか買えよ

664 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 08:24:24
>>648立ち止まったAさん
応神紀と仁徳紀は、多列・並列構造で説明できますので、問題は雄略紀であると思います。
雄略8年、雄略12年、雄略14年の中国との通交記事は、中国側史料には見えません。
したがいまして、これらは、『日本書紀』の原典となったような日本側史料のみに記載されていたのではないか、
と推論することができます(『宋書』や『梁書』に載る通交の年代は、462(雄略6)年から飛んで次が478(雄略22)年ですので)。
もしかしましたら、日本からの遣使に対しての答礼使についての記載が中国側史料にはないのかもしれません。

665 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 08:35:07
>>651太国さん
倭の五王の時代には、「天皇」という号はありません。
その意味で、たしかに、倭王は天皇ではありません。倭王は、皇太子や皇子であったかもしれないのですから。
それでは、『日本書紀』と『古事記』の編纂期となる7世紀末から8世紀初頭にかけて、
「天皇」という号の定義はどのようなものであったのでしょうか。
実は、これが、よくわかっていないのです。
わたくしは、拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』で、
ひとつの見解を提起しておりますが、まだ定説となるほどオーソライズされているわけではありません。
「天皇」という号が成立していたことがわかっても、その定義の問題は、研究史上、看過されてきたように思います。

666 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 08:40:40
>>652さん
日本書紀紀年法の構造を踏まえれば、『日本書紀』は、倭王を天皇として扱っています。
したがいまして、『日本書紀』は倭の五王の存在を糊塗しようとしていたわけではないと考えられます。

667 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 08:51:57
>>666
でも名前を書いてないでしょう?倭武とか倭讃などの。
糊塗の目的は五王の存在ではなく、別の王権であることにあるのではないかなと思うわけです。

668 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 08:54:09
>>654さん
グラフを用いれば一目瞭然ですのが、グラフは長くなりますので、書き込むことができないのではないかと思います。
そこで、拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』の47ページから50ページまでの
表T−1をご覧いただけば、おおよそ多列・並列構造がどのようなものであるのかが、
わかるかと思います。
ただし、拙著の発表後、研究を続けた結果、履中紀、反対紀、空位年は、
仁徳列(D列)上に、実年代を求めたほうが、『古事記』崩年干支と整合することがわかりました。
現在、表T−1に修正を加えて、テーマを5世紀の問題に絞った研究成果の発表を試みておりますが、
出版社が刊行を引き受けてくださるかどうかが、問題です。

669 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 09:15:36
>>658さん〜>>663さん
小出しにしているとのご批判は、甘んじて受けます。
このスレッドでの説明不足は、ひとえに私の責任です。
グラフは、応神元(390)年から仁徳87(483)年まで、並列する年表形式で表示しませんと、
かえって、混乱してしまうものとなります。
抽象的には、4本の年表が、並列しているとお考えになっていただければ、
わかりやすいのではないかと思います。
また、このスレッドは拙著を宣伝をするためではなく、>>1で述べた日本書紀紀年法の構造について、
多くの研究者や一般の皆様からのご批判、ご批評をいただきたいと考えたからです。
また、議論を通して、かりに、蓋然性、合理性を認めていただければ、日本古代史や日本書紀研究に
役立てていただきたいと思っております。
日本書紀紀年法の構造が明らかとなっていて、『日本書紀』の各々の紀年に対応する実年代が
求め易くなっていること自体、多くの方々はご存知ではないのではないでしょうか。

670 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 09:18:44
>>667さん
なぜ、漢字一文字の名を用いたのかわかりません。
百済でも、中国に遣使を行う際には、対外的に漢字一文字の名を用いています。
私は、対外的に、中国に遣使を行う際には、儀礼的に、
漢字一文字の名を用いていたのではないかと推論いたしております。

671 :太国:2006/04/11(火) 09:25:54
>>667
五王でない別の王権っていうのはどういうんだ?邪馬〇国か〜?

672 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:25:55
>>670
それじゃあ説明にならない気がしますけど?
仮に対外的に使ったとして何故それを史書に記さなかったのでしょう?
また時代は下りますが多利思北狐などはどうなるのでしょう?

673 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:31:23
>>671
文意が明確ではなかったかな?
五王でない別の王権は天皇家です。
五王と天皇が別の王権であることを糊塗するため、事績だけをぱくったのではないか?
その影響を受けて紀年をずらす必要も出たのではないかということです。

674 :太国:2006/04/11(火) 09:32:08
>>670
儀礼的にそういうことをする有名な前例があるんですかねぇ?それだと
百済っていうのは当時2個以上の複数での姓が殆どだったんかしら?
半島の方は現今は単一姓が殆どだよねぇ〜?

675 :太国:2006/04/11(火) 09:37:24
>>673
>五王と天皇とが別の王権であることを糊塗するため、〜
これだと糊塗というより剥離するためで、逆じゃないのん?
先述のとおり、編纂者側でも五王と天皇とかの判別で混迷してたのか?
とも云えないわけではない。こうだろうとやって間違えたとかだな?

676 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:39:58
>>674
姓が複数?
名前を対外的と対内的とで使い分けていたということではなくて?
意味がよくわかんないなあ?
あと現在の半島の例を挙げても制度とか変わってるわけだし意味無いんじゃない?

677 :太国:2006/04/11(火) 09:44:58
>>676
その複数っていうのは、半島のことは詳しくないので、中国で言えば
諸葛孔明とか万里氏とか欧陽さんとか、役者じゃ孫悟空の六小齢童のことよ。

678 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:46:29
>>675
剥離は同一のものを分けることですよ?
Aの事績をBの事績として扱うことによってAの存在はBの存在に塗りつぶされてしまう訳ですから、糊塗で正しいと思うのですが?

> 先述のとおり、編纂者側でも五王と天皇とかの判別で混迷してたのか?

その可能性もあるかも知れないです。
ただいつの時点でかはわかりませんが、五王と天皇をすり合わせる意図をもって紀年を操作した人はいたということではないでしょうか?
研究家さんの主張どおりであるならば。

679 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:47:54
>>677

ますますわかりませんが2字姓の事ですか?
それは成立過程はともかく単に姓に2文字以上使われているというだけで複数の姓とは言えないと思いますが?

680 :太国:2006/04/11(火) 09:49:41
>>679
じゃぁ「諸葛」っていう名は複数の姓じゃないというのか?

681 :太国:2006/04/11(火) 09:52:14
>>678
>五欧と天皇とが別の王権
ここの「別」というのは別けるとか別れるとかの意味だろうが?
一緒という意味なのか?

682 :太国:2006/04/11(火) 09:52:58
王の字まちがっちゃった。ご免。

683 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:57:05
>>680
普通言わないと思いますよ?
「諸葛」って一つの姓ですよ?
もともとは別の「葛」姓と区別するために「諸」をつけたという説がありますが、「諸」姓と「葛」姓を併せ持ってるというわけではありません。

684 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 10:05:43
>>681
ちょっと日本語が不自由すぎはしませんか?
それともオレが不正確な日本語を、あるいは文章をものしてるのか?

私が言ってるのは例えばブッシュ大統領の事績を主語だけ小泉総理にしてしまったというようなことです。
そうすれば他の記録にアメリカあるいはブッシュ大統領と出てきても、名前は違うけど実は日本の小泉総理の事なんだと強弁することは可能になるわけです。
説得力があるかないかは別にして。

685 :太国:2006/04/11(火) 10:28:06
>>683
万里さんは?

686 :太国:2006/04/11(火) 10:41:07
>>683
「諸葛」がひとつの姓だというのは分かりきったことだが、万里さんとか
 を含めて、2個の漢字の姓だということは一目瞭然でしょうが?
まさか「諸葛』という横に長い1字の漢字があったとは極めて考えにくい
と思いますが?そういうときに単名の多い中国から考えて、倭の五王は
中国の影響を受けやすい長崎の出島の如く、北九州のある場所に王国等が
あったと考えるのが至当だと思いますが?畿内の天皇につける名には
似ても似つかぬように聞こえる名ですよ。確かに『武』の1字のみは合い
ますがねぇ。その王国等とやらは、大陸から畿内へ至る道筋のあたりに
あったというよりか、北九州でも一寸離れた所に位置してたと考察します。

687 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 11:31:14
>>686
> 「諸葛」がひとつの姓だというのは分かりきったことだが、万里さんとか
>  を含めて、2個の漢字の姓だということは一目瞭然でしょうが?
> まさか「諸葛』という横に長い1字の漢字があったとは極めて考えにくい
> と思いますが?

正直、何を問題視されてるのかまったくわかりません。
例えば公孫は複数の姓だとおっしゃるのでしょうか?
「2字姓」と「複数の姓」とは日本語においてはまったく別の概念です。
そもそも何故複数の姓などというのを持ち出したのでしょうか?

> そういうときに単名の多い中国から考えて

名と姓と何でもかんでもごっちゃにして言わないでください。
述語の用い方が適当すぎます。
こんがらがるだけです。

それと他人のレスをきちんと読んでますか?理解されてますか?
倭武や倭讃などの名は書紀にまったく見受けられないので、天皇の名ではなく別の王朝の王の名だと思ってると言ってるのですが?
しかし書紀の建前上、日本の王権は唯一天皇のみであるから、そのことを消す為に五王の事績を天皇の事績とする必要があった。
何しろ五王の事績は他国の、それも既に成立してる史書なので日本側が消すことは出来ないのですから。


688 :立ち止まったA:2006/04/11(火) 12:21:04
>>664 日本書紀紀年法研究家さん

>応神紀と仁徳紀は、多列・並列構造で説明できますので、

説明できていないと思います。
 応神37年が426年で、確定紀年からして426年が応神の事績ではなく、
 仁徳58年が454年で、確定紀年からして454年が仁徳の事績ではないなら、
わざわざ応神紀・仁徳紀に載せなくても、確定紀年が対応する天皇の
ところに(本来のyy天皇xx年に)載せれば済む話だということです。

日本書紀の素の紀年である306年(応神37年)、370年(仁徳58年)の事件で
なく、かつ、応神・仁徳の事績でもないものを、
日本書紀紀年法研究家さんがそれぞれの遣使をした倭王に比定する天皇
の確定紀年上に配置せず、応神紀・仁徳紀の延長紀年上に配置する理由
は何だと思いますか。

689 :太国:2006/04/11(火) 15:50:40
>>687
江戸時代の将軍の事績は消えているのか?南北朝の両帝並立で片方が無かったこと
になっているのか?そういうんだったら君の言い分は充分ありうることだが、
現実には上の二件はそうはなってはいないし、鎌倉幕府だって無にはされては
いない。少々君の考え過ぎのようだな?
一回、故意なるイカサマがあると、あそこも八百長だろう?ここも自己に多大
に有利な記述したんだろうとか、堰止めができずに蟻穴の如く信用性が薄れて
くるのだ。なるば紀の殆どが信用できないと云われても仕方がないことになろう。
そうなると、紀は古史古伝と同類項の書に格落ちとなるのだ。そうはならんぞ。
君の考え過ぎがついには疑念と生長してしまって、ついに以下の文と大きく違え
るまでおかしくなったんだよ。

紀の欽明天皇の条に

「帝王本記に多に文字あり。撰集れる人しましまかはることを經、後の人習ひ
 讀みて、意を以ちてケズり改め、傳へ寫すこと既に多なり。遂にたがひまよふ
 ことを致し、前と後と次を失い、いろねいろとかたたがひなり。
 今は古今を考へあなぐりてその真正に帰す。一往に識り難きは、また一に
 よりて撰みて、その異なることを注詳せり。他は皆これに效へ。」

690 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 16:20:45
>>672さん
なぜ、漢字一文字の名を、まったく『日本書紀』に記さなかったのか、という問題は、
『三国史記』「百済本紀」では漢字一文字の百済王名が中国側史料の引用文には見えることから、
日本独自の問題であると考えることができます。
現時点において、わたくしも、これが正しいといえるような見解を示すことができませんが、
8世紀において、漢字二文字を尊重するといった考えがあったからなのではないかと、
一応、推論いたしております。例えば、地名を好字二文字に改めさせたりしておりますので。
『日本書紀』や『古事記』の編纂期には、漢字一文字は嫌われていたのではないでしょうか。



691 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 16:26:58
>>674太国さん
>>690でも、また、それ以前にも述べましたように、『日本書紀』や『古事記』の編纂期においては、
奇数よりも偶数の漢字表記が好まれていたからであると考えられます。
元号も2文字か4文字ですし、地名も2文字に改めています。

692 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 16:35:24
>>678さん
5世紀において、倭の五王のほかに、天皇という存在があったのならば、
太国さんのように、別王朝と捉える考えもありましょうし、また、
推古朝の推古天皇と万機摂政皇太子との関係、もしくは、後の上皇と天皇の関係といったような、
様々な関係において説明することができるのではないでしょうか。

693 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 16:44:38
>>684さん
『宋書』や『梁書』には、倭の五王の系譜が記されています。
確かに、『日本書紀』や『古事記』の編纂期において、人物比定の問題は、
あったのではないかと、私も考えます。しかしながら、その範囲は、別王朝とまでは
言えないものではなかったか、と推論いたしております。
せいぜい、親子や兄弟姉妹までであったのではないでしょうか。
例えば、履中天皇と反正天皇の兄弟の人物比定の混乱などが可能性として挙げられます。

694 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/11(火) 16:58:47
>>688立ち止まったAさん
応神37(426)年の遣使は「讃」、仁徳58(454)年の遣使は「興」になります。
少なからず、仁徳58年の「興」については、『宋書』において、「済死 世子興 遣使貢献」と表現されている遣使のことで、
この時、「興」=木梨軽皇子は、即位されていませんし、廃嫡されてしまいます。
したがいまして、「興」=木梨軽皇子の事蹟として位置付けるべき紀年が無いことになります。
454年は、允恭列の「確定紀年」の允恭22年に相当しますが、允恭22年条にこの記述を載せますと、
允恭天皇の事蹟と間違われてしまいますので、仁徳天皇の「延長紀年」となる仁徳58年条に記載したと推理することができます。
したがいまして、応神37(426)年についても、同じような理由があったのではないかと、
想定することができます。いかがでしょうか。

695 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 18:30:53
>>668
じゃあ表T−1をうp

696 :立ち止まったA:2006/04/11(火) 18:42:56
>>694日本書紀紀年法研究家さん

うろ覚えですが日本書紀紀年法研究家さんは「日本書紀の真実―紀年論を解く」の中で
 仁徳延長紀年(仁徳U)は雄略
 応神延長紀年(応神U)は菟道稚郎子
と推論されていて、>>615でも
>雄略天皇は、「倭の五王」のひとり、「興」であると推論することができます。
となっています。「興」=木梨軽皇子に変更すると「武」は雄略に変わりますか。

私には
>中国への朝貢記事はもう比定不可能な状態なので、応神・仁徳・雄略紀に
>ここからここまでの間に倭王が何回か朝貢していたよ、だからこの間の
>天皇を倭王と思ってね、という期待をこめて適当に配置しておく!終了!
と編集者がこの件のつじつま合わせを諦めたように思えます。

応神37年の記事内容そのものは、高麗の道案内が付いている点など413年の
高句麗が倭を伴うという朝貢記事に対応するに相応しいものに思えますが、
応神紀で306年に配置されていてはどうしようもありません。

697 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 18:45:59
>>689
> 江戸時代の将軍の事績は消えているのか?南北朝の両帝並立で片方が無かったこと
> になっているのか?そういうんだったら君の言い分は充分ありうることだが、
> 現実には上の二件はそうはなってはいないし、鎌倉幕府だって無にはされては
> いない。少々君の考え過ぎのようだな?

江戸時代の将軍も天皇も史書においてなかったことにされてないし。
南北朝もそう。例が的外れすぎ。
記紀においては九州王朝は、仮にあったとしたらですが、なかったことになってます。
はっきり言ってあなたの言わんとしてることがさっぱりわかりません。
紀には倭の五王の痕跡などまったくないという主張なのでしょうか?


>>690
ちょっと的外れすぎな気がします。
これは1字名を嫌い2字名を好んだとかそういう問題ではなく、外国の史料に出てくる名前が一切記載されていないという問題なのです。
例えば帥升や壹与などの名は書紀に載ってたのでしょうか?
卑弥呼は載ってたかな?

>>692
私の先入観として九州王朝があるものですから、別王朝という予断を持ってしまうのは否めません。
多分に懐疑的なものにはなりつつはありますが。
ただ
> 推古朝の推古天皇と万機摂政皇太子との関係、もしくは、後の上皇と天皇の関係といったような
というのはどうでしょう?
少なくとも片方の存在をなかったことにするようなことをするでしょうか?

698 :太国:2006/04/11(火) 19:49:34
>>697
君はとぼけるのが日常時のようだな? >>687 での2字姓と複数の姓とは違う
などとすり抜けようったって、そうはいかん。そのようなたぶらかし答弁に
だまされはしないぞ。確かに2字姓と複数の姓とは違う。俺はそんなことを
細かくどうのこうのと言いたくはないが、そこまで言うならば修正して言おう。
2字姓という所を「2字以上の姓」と読め。
複数とは自然数の場合2以上の数だからな。言葉のトリックのようなことを
ぬかして、肩すかしをしようったって駄目だぞ。回答したようで回答したこと
にはなっていない。もっと前向きに1字、2じ以上の姓に関して考えろ。

次のおとぼけは >>697 だ。的が外れすぎというのも、なかなか欺瞞的で看過
し難い。ふざけてるのかと言いたくなる。
「王朝」の語を「幕府」と付加すれば、朝廷が幕府王朝を消したような状況が
当時の文書に有名(幽冥)界の閻魔王の前での孫悟空が猿籍を消したような墨水痕
が付いていたなどとと同様な話は聞いた事がない。そんなことがあれば前代未聞
であり、君はそういう空想小説を読むような話をおとぼけを多分に交え話て
ここでピエロ様に披露しているのに過ぎないわけである。ww
南北朝も同様だ。俺の論は君の妄説にブレーキをかける的を射ているものだ。
俺が的をいているのに、君がその矢を独断で的から抜いて「あ〜外れてる。」と
外れた場所に勝手に矢を突き刺してとぼけた弁明をしているにすぎない。
君の論は自説を曲げられても押し通す斉天大王wの孫悟空か〜?ww 「王」で
他人の「口」を無理にも消し自分の正「耳」を三猿のように塞ぎ隠すんじゃないぞ。

699 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:00:42
>>698
上段。
だから何が言いたいの?
姓に2字以上使われてたらなんなの?
ちなみに単に2字姓のことについてなら現在でも韓国や北朝鮮にいます。

それと言葉でコミュニケーションが行われている以上、より正確な言葉遣いを心がけることは当然だと思いますが?

下段。

> 紀には倭の五王の痕跡などまったくないという主張なのでしょうか?
なの?

700 :太国:2006/04/11(火) 21:27:27
>>699
あいかわらず、とぼけるのは →∞ だな。
だから何言いたいの? とか ? を待つまでもないだろうが。
もうその話はしたではないか。五王は単一名だから、当時の日本の古代人には
なさそうな大陸的名だろうから、日本でも比較的大陸に近い場所に五王朝の場
があったろうと言っているんだよ。歴代の天皇の名、たとえばホムダワケとか
オオサザキとか1字の単名で呼ぶ名はなさそうだし、数歩譲ってそんな五王名
を天皇につけるくらいなら記紀に大五天皇が陸から号名をもらいましたとかの
記述があって然りなのにそれがないということだ。何故か?とな。
そのように多角的に考察を踏まえ、倭の五王は当時の各天皇ではないんだよと
強く説明してるんだよ。2度と、だから何だとか言うなよ。
それに、これ以上話をするならコテハンをつけろ。ないと非常に疲れるのだ。
それにもう君の論は破綻を来たしている。だからそれ以上論を積み重ねても、基底
が妄説では出鱈目の上塗り山で空想小説にでもしたらどうだ?ww

701 :太国:2006/04/11(火) 21:29:14
誤 大五天皇       正 五天皇

702 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:13:24
>>700
> そのように多角的に考察を踏まえ、倭の五王は当時の各天皇ではないんだよと
> 強く説明してるんだよ。2度と、だから何だとか言うなよ。

いや、オレもそう思うって何度も書いてると思うんだが?
1字名がどうのこうのというのが理由ではないけど。
何が気に入らないの?

で、その上で聞いてるわけだが?
> 紀には倭の五王の痕跡などまったくないという主張なのでしょうか?
と。

703 :514:2006/04/11(火) 22:58:20
賑やかですねw
研究家さん、および皆さん。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1066237353/254-#tag254
ここで私の銅鐸=須弥山説を展開してますので、
暇な人は見に来てください。
このスレの249が私です。

704 :太国:2006/04/11(火) 23:04:32
>>702
だって、お前さんだろう?2字姓と複数姓が意味が違うとか言ってたのは?
君にはさっきも言ったが、まるで美猴王が十王主管の冥府の閻魔帳を墨で塗り
消したとかいうような、破天荒の2×五王物語を字で行く両腹射たい、へそが湯
を沸かすような説をだ、堂々ととどまることも知らず、文紀伊猿の叫び声の如く
能書きをいっぱい垂れ込んで、『間違いでした。』とか誤説を認めない損誤空
のような空想っ小説を大流して法螺吹鳴し、ノウノウとしているのは?www
先ずはそれらの説が間違いでしたと認めてから他のことを聴くのが筋だろうが?

705 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 07:42:39
>>704
あいかわらず口が悪いね。

> だって、お前さんだろう?2字姓と複数姓が意味が違うとか言ってたのは?

少なくとも現在における日本語としては明らかに意味が違うと思いますが?
それとも学会では普遍的に使われるタームなの?それなら不勉強を謝るにやぶさかではありませんが。

それと私は

「外国史書に出てくる倭の五王は天皇ではない可能性が高いと思ってる」

という立場ですが、それが間違ってるというの?

706 :太国:2006/04/12(水) 08:15:26
>>705
2字姓と言っているのは、お前さんに合わせて2字以上の姓を言ったんだよ。
西遊記だって、陳とか孫とか猪とか沙とかほぼ単一名が多いだろうと言って
いるわけだよ。それは場合によっては意味の違うこともあろうが、そんなことは
これにおいてはあんまり関係があるとはいえない。毛沢東も周恩来もケ小平も
みな姓が単名で2字ではない。かような傾向があるから五王朝は大陸に近い場に
あったと主張してるのだ。となると、北九州のどこかだな。中国の皇帝だって
やはり、玄宗とか神宗とか煬帝とか、みな五王のように単一名だろうがね。

アマタリシヒコだとかホムダワケだとか単一の漢字で表現できるのか?
これらは姓ではないだろうが、(天皇に姓はないそうだからな)準じてね・・・

だから2字の姓と複数の姓がよもや違ったとしても、それが何だと言うわけだ。
どのように違い、それが例えば讃王とホムダワケとかと別と明確に判別
できるところ姓の意味合いが違うという君の主張が俺の主張をどう阻むのか?
それを具体的に言ったらどうだ?意味合いが違う事はあってもこれにおいては
判別の意味において関係ないと思うがねぇ〜?w
「 」はもうすでに幾回も説明したろうが。

707 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 08:30:44
>>706
北魏の拓抜氏(字が違ったかな?)なんかは日本よりはるかに近いですが?
まあ漢族ではありませんけどね。
支那風の名前を持ってることを根拠にするのはわからないでもないですが、姓の字数を根拠に地域を推定するのはかなりムリがあると思いますよ。

あと1字姓に関しては新の王莽の時にたしか1字姓を奨励する政策を取ったはずです。
もともと1字姓が多かったであろうし、新以後も2字姓がなくなったわけではないけどね。

708 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 08:56:30
>>695さん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』の表T−1につきまして、
応神列(A列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)には、「確定紀年」と「延長紀年」の区別があり、
これらの区別も日本書紀紀年法の多列・並列構造上、重要です。

709 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 09:12:29
>>696立ち止まったAさん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』では、応神列(A列)の「延長紀年」は、
「応神天皇U」=菟道稚郎子の在位を表すと推論いたしておりますが、「仁徳U」というのは、
出てまいりません。

同拙著で、「興」は、雄略天皇のことであると推論してもおりますが、「興」=雄略天皇=木梨軽皇子
であると考えております。すなわち、木梨軽皇子は、一旦廃嫡されるものの、雄略天皇として、
返り咲いていることになります。

雄略紀の中国通交記事については、適当に配置したのか、史実であるのか、
中国側史料に遣使記事が見えませんので、何ともいえませんが、日本側史料に記録があったとも、
考えることもできます。

応神37年は、『宋書』の「讃」の425年の遣使に対応していると考えております。
立ち止まったAさんには、日本書紀紀年法が、多列・並列構造であることに、
ご賛同いただいていないようですので、おそらく、議論が平行線をたどってしまうことになります。

710 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 09:23:13
>>697さん
>>697さんのご指摘で、奇妙なことに気が付きました。
それは、『日本書紀』では、帥升、卑弥呼、台与、など「倭王」クラスの人物の名は出てまいりませんが、
難升米など、家臣クラスの人物の名は出てくることです。
したがいまして、『日本書紀』の編纂方針として、「倭王」の名を記載しない、というようなものがあったのではないでしょうか。
仮に、別王朝であることを示すために「倭王」の名を記さなかったのならば、
家臣の名も記さなかったはずです。
わたくしは、むしろ、「倭王」の名を記さないという編纂方針が採られた理由について、
考えるべきであると思います。

711 :太国:2006/04/12(水) 09:23:58
>>707
名前の字数で完全に決めているわけだはない。傍証の一つだ。多少は役にたつ。
貴殿は倭の五王の単一名性を、日本式に近く中国様式に似てないと思うのか?
どうかね?

712 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 09:34:45
太国さん、>>707さん
新の時代に王莽が漢字一文字を奨励したのであるのならば、
政策の如何によって、名、元号、地名などの文字数が変わることはありえます。
このスレッドで問題となっておりますことは、倭の五王の名が漢字一文字であり、
それらが、『日本書紀』に見えないことです。
>>710で述べましたように、『日本書紀』には、中国側史料において「帥升」、「卑弥呼」、「台与」など、
「王」としての立場にあったと想定される人物たちの名のみ見えないことになります。
このことについては、どのようにお考えでしょうか。

713 :太国:2006/04/12(水) 10:06:40
>>712 >>710
日本書紀のどのへんに「難升米」の記述がありますか?
多分神功紀の個所だと思いますが?神功何年でしょうか?
短くて結構です。原文を載せてほしいです。

714 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 10:15:17
神功39年

715 :太国:2006/04/12(水) 11:25:05
>>714 thank you

日本書紀紀年法研究家さん やはり迷っていたんですよ。編纂者はね。
困っちゃって消極記述したんでしょう。間違いよりましだといことでしょう
かね? はっきり全部書いてもし失敗したら・・・?との回避でしょうな?
この39年の条をひさしぶりに見て想い出しました。そうでしたな・・・ぁ〜。
ここらへんの編纂者側の心理の推察とここの記述から言える事は、やっぱりと
私は卑弥呼は神功皇后にあらずとの直感を、さらに強めましたということです。
>>691
西遊記を見ると、十大冥王には殆どが2字の王名になっていますので、
中国では単一名が好まれ、2字名は必ずしもとは言えないが忌み気に入らぬほう
の回避したいものだったんではないでしょうか? 冥府じゃぁ嫌がりますよ。
秦広王とか閻魔王とか・・・・・だいたい2字の王名ですから〜。

716 :太国:2006/04/12(水) 11:28:10
>>705 >>704
倭の五王は1字名、冥府の十王はほぼ2字名。

717 :立ち止まったA:2006/04/12(水) 11:47:19
>>709日本書紀紀年法研究家さん

>「興」=雄略天皇=木梨軽皇子
>木梨軽皇子は、一旦廃嫡されるものの、雄略天皇として、 返り咲いている

記紀の紀年や記紀登場人物の親子兄弟関係を疑うレベルではなく、それぞれの記事を持った
別人物として記載されている人物を同一人物として扱うというのは、
多列・並列構造といった問題ではなく、記紀記載の事件の信憑性を軽視しているのです。

雄略から応神元年までに紀年が120年延長されていて、それが延長期間中の天皇の在位年の長い
人達(応神・仁徳・允恭)のところで、120年の大部分かすべてが調整されていると考えることは
在位の短い天皇では調整余地がないことから合理的ですが、さらに進んで各天皇の調整年を
求めて得た結果の推定紀年が、朝貢記事に合わないからと記紀の別人物を同一人物にみなすと
いうのは無茶です。

木梨軽皇子が大泊瀬幼武皇子と名を変えて登場しなければならない特別な理由がありますか。

718 :太国:2006/04/12(水) 11:52:51
日本書紀紀年法研究家さんはそれが最もうまくないところです。
たとえば成務が卑弥呼などというのは、ブレーキがかかっていないという事です。

719 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 11:56:34
>>710,712

何故なのでしょうか?
対外的に用いた、外国には通りのいい名前を伏せる理由が正直言って私には思い浮かびません。
編纂時期には中華式の名前を用いたことがあることを認めるのは天皇の権威を汚すという思想でもあったのでしょうか?
そういえば五王の後の王では多利思北狐と名乗ったりしてましたね。
何かあったのでしょうか?
また常陸国風土記には倭武天皇なんていう表記がありましたね。
あれはどう考えるべきなのでしょうか?

>>太国さん
あれは実は万葉仮名のように訓読みするものなのです。
という可能性も考えられなくもないですが、ちょっとソースはないですねw
第一に中華式の名前と考えるのが普通だと私も思いますよ。

あと

> 中国では単一名が好まれ、2字名は必ずしもとは言えないが忌み気に入らぬほう
の回避したいものだったんではないでしょうか?

の件ですが、人名にふさわしくないとは思われていたというのには賛同しますが、
忌み嫌われていたとまでは言えないのではないでしょうか?

例えば晋の皇帝は司馬氏です。
南朝斉の始祖の名は道成ですし、陳の始祖の名は覇先です。
有名な唐の太宗の名は世民です。
ですから忌み嫌われていたまでは言いすぎかと。

また閻魔大王や秦広王などはあれは音訳ではなかったでしょうか?
いずれにしろ人名と同列に考えるのはどうかと。
揚げ足取りのようで恐縮ですが。

720 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:02:30
あ、あと皇帝の諡なんかは通常1字ですが、東漢の光武帝、蜀漢の昭烈帝、北魏の孝文帝など2字の諡もしばしば見受けられます。
2字以上は、単に規格外というだけで必ずしもマイナスのイメージはなかったのではないでしょうか?

721 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 16:07:52
>>713>>715太国さん
>>714さんが、ご親切にもご指摘なさっておられるように、神功39年条に見えます。
中国側に「王」として認識されていた人物の中国側史料に見える名のみが、
『日本書紀』の記載には無いことになります。
したがいまして、倭の五王の名が『日本書紀』に見えないからといって、
これによって別王朝があったと考える必要はないのではないでしょうか。



722 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 16:10:30
>>714さん
ご親切にも、難米升の記載が神功39条にあることをご指摘いただきまして、ありがとうございます。

723 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 16:16:41
>>717立ち止まったAさん
私が、興=木梨軽皇子=雄略天皇と考えるのは、『宋書』に興が済の没時と
四六二年の2度遣使を行ったと記されていることに拠ります。
済は允恭天皇と考えられますので、一度目は四五四年頃です。そして、
多列・並列構造から、この年代は、木梨軽皇子の立太子の年代となります。
すなわち、「興」の2度の遣使は、一度目が太子・軽皇子として、二度目が、
雄略天皇として行ったと推論することができるのです。
すなわち、『宋書』の記述から、興=木梨軽皇子=雄略天皇という構図が導き出されてくるのです。

724 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/12(水) 16:24:13
>>719さん
「卑弥呼」と「多利思比孤」に関してましては、私は、これは人称固有名詞ではなく、
号ではなかったかと考えております。例えば、「日皇女・姫子(ひめこ)」や「太子彦」です。
しかしながら、倭の五王の漢字一文字については、現時点では、説得力のある仮説を提起することはできませんが、
>>719さんが、「倭武天皇」について、ご指摘されているように、固有名詞ではなかったと
考えることができるかもしれません。例えば、「神武」、「天武」、「文武」など、
いずれも「武」を含みます。

725 :立ち止まったA:2006/04/12(水) 17:45:02
>>723日本書紀紀年法研究家さん

>『宋書』の記述から、興=木梨軽皇子=雄略天皇という構図が導き出されてくる
>『宋書』に興が済の没時と四六二年の2度遣使を行った
>一度目は四五四年頃

とおっしゃいますが、宋書で454前後で倭国との"通交年が記されている"のは
・451年の済に対するものとみられる「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」
 を追加記事と「安東太将軍に進号」の記事
・460年の倭國遣使獻方物の記事
・462年の倭国王世子興を安東將軍に為す記事
で454年頃の興の遣使は見当たりません。興の2回は460年、462年とされています。

>>688以降の話の流れから推測すると、日本書紀紀年法研究家さんのお考えは
A1 仁徳58年(454年)は確定紀年で木梨軽皇子の治世だ。
A2 454年は「濟」に比定する允恭天皇の没後なので「興」の遣使時期だ。
A3 木梨軽皇子は「興」だ。

B1 462年は確定紀年で雄略天皇の治世だ。
B2 462年の「興」の遣使は雄略だ。

C1 木梨軽皇子が「興」で雄略天皇も「興」だ。
C2 木梨軽皇子 = 雄略天皇だ。

>>717で突っ込まれた
D1 宋書で「興」が454年頃と462年に遣使を行っていたから
 木梨軽皇子 = 「興」= 雄略天皇だ。

でも、454年頃の「興」の朝貢記事なんて宋書にない。
と進んでいるように思います。(A1もB1も確定紀年がまず先に立つ)

726 :太国:2006/04/12(水) 17:57:46
いかに混乱論だかもういい加減に目をさますべきですよ。
イコールとするからおかしくなるんですよ。その3人は各々別人ですからねぇ。
すなわち、以下が正解ですね。

興≠木梨軽皇子≠雄略天皇


727 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 18:36:30
>>724
> 「卑弥呼」と「多利思比孤」に関してましては、私は、これは人称固有名詞ではなく、
> 号ではなかったかと考えております。

これはちょっと首肯しえません。
たしかに後世の武家とか舞踊や芝居、相撲などの世界において名前の継承という文化が見られますので、古代においても絶対になかったとは言い切れませんが。
しかし卑弥呼においてはどうでしょう?
彼女の跡継ぎは壹与です。壹与が卑弥呼の名を継いだという史料は皆無です。

一応、神功皇后紀に名を隠して2王女の事績が記されているのは、国内の史料には両者ともに「卑弥呼」とあったので紀の編者が混同したと主張することも可能かと思いますが苦しすぎます。

728 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 08:36:55
>>725立ち止まったAさん
興の遣使についてですが、一回目の遣使が460年であったという記述は、どこに見えるのでしょうか。
『宋書』では、「済死 世子興 遣使貢献 世祖大明六年 詔曰 倭王世子興…」ですので、
一回目の遣使は、済の没時と考えられます。
済は允恭天皇のことですので、『古事記』崩年干支による允恭天皇の崩年は454年です。
したがいまして、454年、もしくは、455年頃に「興」は、遣使を行っていたと推論することができます。
允恭(C列)では、455年は、木梨軽皇子の立太子年ですので、「興」が木梨軽皇子である可能性が高いのです。
また、「興」が木梨軽皇子であるという説は、久米邦武氏や水野佑氏も唱えておられます。
一方、「興」の二回目の遣使年の四六二年は、雄略六年ですので、この時代の天皇は雄略天皇です。
したがいまして、「興」は雄略天皇のことであると考えることができます。

729 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 08:39:11
>>726太国さん
>>728でも述べましたように、興=木梨軽皇子=雄略天皇という等式は、
成り立つ余地があります。

730 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 08:48:02
>>727さん
『三国史記』「新羅本紀」には、阿達羅尼師今王の20年の173年の記述に、
「卑弥呼」と見えます。この卑弥呼と『魏志』倭人伝の卑弥呼が同一人物であるのならば、
卑弥呼は、ずいぶんと長生きであったことになります。史実として、
長生きであったと考えることもできますが、世代を異にしているとも推論することができます。
「卑弥呼」という号であったと想定したほうが、合理的に説明できるように思えます。
また、「卑弥呼」の後継者が、「卑弥呼」ではなく「台与」であることについては、
両者には、機能、性格上の違いがあることによると考えています。

731 :太国:2006/04/13(木) 09:08:33
>>729
日本書紀紀年法研究家さん それじゃぁ探偵小説ですよ。しっかりして下さい。
ご本を読ませてもらい、よく研究されてえるなあと、私も得るところ多く
役立たせてもらってますが、これだと末頁のほうは尻つぼみって言うか竜頭蛇尾
のようだなぁといささか落胆を隠せません。
貴女は自論のギクシャクされている個所があるため、長年研究していてイコール
理論だと自説がスムーズに説明できると想い、その様な = の空想にとびついて
しまったように考察してます。自論の不利な理屈がなかなか合理にならん時
こそ、ブレーキが必要なんですよ。進行方向と逆に向き原点の振り出し方向へ
戻らないからそんな空想小説しか可能性のない結論に至ってしまうんですよ。
あなたの理だと、竹内文献とか、または
  
神武=崇神=應神

などと同類のデンパ的構想と一緒のようにに進んでしまいますがね。


732 :太国:2006/04/13(木) 09:18:18
いいですか〜? 以下はあい似てませんか? これらはうまくないですよ。

神武=崇神=應神

倭の五王=当時の各天皇

神功皇后=卑弥呼=天照大御神

興=木梨軽皇子=雄略天皇

上の論はすばやく切り捨てないと、その副作用的効能が頭脳にしみ込んで
もうなかなか後戻り出来なくなるくらい捨てられなくなり、重症になって
治癒できなくなってしまうんですよ。早く副作用の害毒から自脳を守らなく
てはなりませんよ。今は貴女も抜けられないほど脳がひどい状態になってますよ。

733 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 09:23:38
>>730
60年ずれてるんじゃないの?

734 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 09:28:10
>>730
倭王死して混乱が起こり、それを治めるため共立されたのが卑弥呼です。
あなたの論は倭人伝の記述と矛盾します。
卑弥呼の前に、記録にないという意味で、女王無しです。
三国史記の誤謬でしょう。

735 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 09:28:50
宋書孝武帝本紀 大明4(460) 倭国貢献

736 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 09:37:46
元嘉7(430)の倭国王は讃ですか?

737 :立ち止まったA:2006/04/13(木) 10:27:00
>>728日本書紀紀年法研究家さん

>興の2回は460年、462年とされています。
"されています"は、いいかげんな表現できした。すみません。私の>>725の趣旨は↓の方です。
>宋書で454前後で倭国との"通交年が記されている"のは
以下はインターネットで検索したものですが、倭国伝の方の記された年は451年と462年です。
そして宋書の帝紀の方で記された年は451年,460年,462年です。

(宋書倭国伝)
(451年)(元嘉)二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
済死。世子興、遣使貢献。
(462年)世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。

(宋書文帝紀)
(451年)(元嘉)二十八年/秋七月甲辰、安東將軍倭王倭濟、進號安東大將軍。八月癸亥、梁鄒平、斬司馬順則。冬十月癸亥、高麗國遣使獻方物。

(宋書孝武帝紀)
(460年)(大明)四年/十二月乙未、上於華林園聽訟。辛丑、車駕幸廷尉寺、凡囚繋咸悉原遣。索虜遣使請和。丁未、車駕幸建康縣、原放獄囚。倭國遣使獻方物。
(462年)(大明)六年/三月庚寅、立第十三皇子子元爲邵陵王。壬寅、以倭國王世子興爲安東將軍。

日本書紀紀年法研究家さんは倭国伝の年が記されていない「済死。世子興、遣使貢献。」を
454年頃ではないかと推測されているようですが、帝紀と合わせて見れば、帝紀には記されない
454年頃の遣使を推測するよりも、帝紀に記された460年とみる方が私には素直に思えます。

帝紀の記事は460年に宋へ行った遣使が1年半弱滞在して462年に叙位を受けたとも考えられますが、
だから倭国伝の方だけにある「済死。世子興、遣使貢献。」の記事が別の遣使で、かつ、それが454年頃
だというのは無理があります。

738 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 13:27:42
「興」の二度の遣使に対しましては、かなり批判されているようですので、
反論させていただきますと、
二度目の462年の「興」の遣使について、『宋書』は、「興」について「新たに辺境を継いだ」と記しています。
すなわち、462年の「興」の遣使は、倭王就任の挨拶のような遣使であったと考えられます。
それでは、一度目は、どのような身分で、いつ、遣使を行ったのかが問題になります。
立ち止まったAさんは、460年とお考えのようですが、460年ですと、
2年後にどうして、倭王就任の挨拶を行う必要があるのでしょうか。しかも、
460年の記述には倭王名がありません。460年は允恭天皇の「延長紀年」にも含まれますので、
私は、むしろ、「済」=允恭天皇の遣使ではなかったかと考えたいと思います。

739 :立ち止まったA:2006/04/13(木) 14:16:20
>>738日本書紀紀年法研究家さん

批判対象は、木梨軽皇子=興=雄略天皇という説です。
「興」の遣使を問題にしているのは、日本書紀紀年法研究家さんが上記の二人の人物を
同一人物に見立てる根拠として「宋書」に興が済の没時と462年の2度遣使を行い、最初
のものは454年頃と主張されているからです。

>私は、むしろ、「済」=允恭天皇の遣使ではなかったかと考えたいと思います。

私は460年が「済」でも構いませんが、日本書紀紀年法研究家さんは済=允恭が460年まで
健在だと困りませんか。
雄略5年=461年は日本書紀紀年法研究家さん著「日本書紀の真実」の出発点なのですから。

740 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 16:20:13
>>739立ち止まったAさん
実は、済=允恭天皇は460年どころか、474年まで健在であったと推論いたしております。
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』の表T−1の允恭列(C列)をご覧いただけばわかりますように、
允恭天皇の「延長紀年」が、允恭42年の474年まで延びてきているのです。

741 :立ち止まったA:2006/04/13(木) 17:08:32
あまり追い詰めてはいけなかったのですね。ごめんなさい。

742 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 17:32:07
>>741立ち止まったAさん
『宋書』の倭王武上表文をよく読んでいただきたいと思います。
478年頃は、倭王武は、喪明けの時期であったと書かれています。
それでは、倭王武は誰の喪に服していたのでしょうか。それは、父の喪です。
礼において、喪は3年ですので、478年から3年を引けば475年です。
このため、武の父の済は、474年頃に薨じたと考えることができるのです。
私は中国側史料においては、倭王はすべて没後継承のように記述されていますが、
必ずしも、没後継承であったと考える必要はないのではないかと推論いたしております。
謂わば日本側史料である倭王武上表文のほうに、信憑性を認めるべきでしょう。
済=允恭天皇の「延長紀年」が允恭列(C列)において、474年まで延びていることは、
倭王武上表文からも認めることができるのです。
『日本書紀の真実 紀年論を解く』にて提起させていただきました多列・並列構造説は、
数学的にも整合しておりますので、決して荒唐無稽な説ではありません。

743 :立ち止まったA:2006/04/13(木) 19:42:58
>>742日本書紀紀年法研究家さん

相当、頭の混乱が進んでしまったようですが、
あなたが>>728で↓のように記しているように462年の興の遣使時にはもう済は死んでいます。
允恭の没年をずらしたいがために記事を変に読む必要はありません。応神や仁徳はその延長紀年の
末まで生きてはいないのでしょう。
しかも、あなたは"日本側資料"である古事記を持ち出して、允恭天皇の崩年は454年です、と主張しているのですよ。

>『宋書』では、「済死 世子興 遣使貢献 世祖大明六年 詔曰 倭王世子興…」ですので
>一回目の遣使は、済の没時と考えられます。
>済は允恭天皇のことですので、『古事記』崩年干支による允恭天皇の崩年は454年です。

744 :太国:2006/04/13(木) 19:43:03
もう、手遅れ・・・?

745 :立ち止まったA:2006/04/13(木) 19:46:15
これ以上進むと、せっかくの研究成果をご自分で破壊していくことになりませんんか。

746 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 19:57:22
今日まで帝紀の朝貢記事を知らなかったのは研究者としては
致命的に問題あり

747 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:36:46
宋書の記述に誤りがあると考えられます

748 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:38:37
★★ 謎の民族カラビトの正体 ★★

古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。
シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、
古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。
つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を
組織的に展開しているが、これはデタラメなのである。
古代日本に移住したのは、カラ半島に住んでいた倭人=カラビト(韓人)であり、彼らは日本民族
だったのである。
カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。


749 :太国:2006/04/13(木) 20:57:52
致命的なのは = だよ。

750 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:35:32
歴史作家として「同一人物説」を用いる行為自体は問題ない

751 :太国:2006/04/13(木) 21:50:46
同一はま〜ず外れさ。
成吉思汗スレによく書き込むが、可能性はイコールの中では例外か?
なんともだ?余もあれは、形式的にイコールのつもりでやってはいるが?
今のところ、〜保留さ。

752 :太国:2006/04/13(木) 21:52:38
>>750
ムー誌が懸賞を出すくらい待ってるよ。そこでやったら?

753 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 21:58:15
>>743・745立ち止まったAさん
このスレッドは、手弱女なれども、学術的な議論をするために立てさせていただきました。
私は、学術的に、きちんと論証したつもりですので、自説には自信を持っております。
それから、たとえどのような批判や非難がありましょうとも、議論することは大切なことです。
自らの説が破壊されるなどとおそれていては、真の学問の発展はありません。
これからも、議論を続けてまいりたいと思っております。
『古事記』崩年干支は、必ずしも当該天皇の崩年を示すのではなく、譲位を表している場合があります。
四五四年は、允恭天皇が譲位された年代です。
そもそも『宋書』の記述と『宋書』に収載される倭王武上表文の内容には矛盾があります。
この場合、宋の時代、もしくは、『宋書』の編纂期に憶推して書かれた文章よりも、
倭王武上表文のほうに信憑性を認めるべきではないかと考えたのです。
倭王武上表文の内容は、むしろ、多列・並列構造と整合するものであったのです。

754 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 22:05:36
>>746さん
大明四年の460(雄略四)年の記事が、確かに倭の五王の遣使記事をまとめた表から欠けていました。
しかしながら、致命的な問題であるとは思えません。
460年が加わることによって、私の説は崩壊するわけではなく、
むしろ補強されることになったからです。
致命的な問題とは、自説の論理構成が崩壊するような問題であると思います。

755 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 22:07:31
>>747さん
仮に『宋書』の記述に誤りがあるのであるならば、
それは倭王武上表文と矛盾する文章であると思います。

756 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 22:17:55
>>749>>751>>752太国さん
なぜ、太国さんは、同一人物説を間違っていると決めてかかるのか、理解に苦しみます。
研究史上、応神天皇と仁徳天皇を同一人物と捉えたり、同一人物説はいくらでもあります。
同一人物説は、それを主張する人々が、あたかも頭がおかしいと見なされるほど、
非合理的、非論理的な説でしょうか。
ギリシャの神々とローマの神々は、名は異なっていても同じ神である場合があります。
名前が異なるからといって、必ずしも、別人であると考える必要は無いのではないでしょうか。

757 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/13(木) 22:20:23
>>750さん
私は、歴史作家ではありません。大真面目に日本古代史の研究をしております。
同一人物説も、研究を重ねた結果、そのように考えますと、
最も蓋然性が高い説明ができることから、唱えているのです。

758 :太国:2006/04/13(木) 22:34:21
>>756
ま〜ずデンパ説になる。w

759 :太国:2006/04/13(木) 22:48:26
日本書紀紀年法研究家さん
>>489 の質問に対し >>490を見たと思いますが?
>>490 は貴女への警告ですよ。

760 :太国:2006/04/13(木) 22:50:30
>>490 は私でなく、一般の方からの書き込みのようです。

761 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 00:10:06
>>753日本書紀紀年法研究家さん
そうですか。まだ続けますか。
では、まず>>738から>>739の主題
日本書紀紀年法研究家さんが木梨軽皇子と雄略天皇を同一人物に見立てる根拠とした
「宋書」の興の2回の遣使(1:454年頃の済の没時と2:462年)の1回目はどこへ行った?
に戻りましょうか。
ちなみに>>738で"済の没時"と書いたのは私ではなく、あなたですよ。

宋書の帝紀の460年は無視して、倭国伝の「済死。世子興、遣使貢献。」を454年頃と主張しますか。
そして"死"と記述されているのは允恭から雄略への譲位だと主張しますか。
その場合、宋書倭国伝に、"讃死弟珍立"や"興死弟武立"とある記載も譲位と見なしますか。
それとも"済死。世子興"だけが、あなたがご存知の何か特別な理由により死ではなく
譲位と見なせると主張しますか。

762 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:14:55
>>太国
おまえ何なん?
何でこのスレに居ついてるの?
何でもいいから新しい事、謎とされる事を言えば?

そういう事言えば、デンパだトンデモだと言われるのが怖い、
くだらない小心者だろ、おまえ?

763 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:33:00
>>立ち止まったAさん。

あなたの自説をお聞きしたい。

764 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 08:25:12
>>758>>760太国さん
太国さん。>>758から>>760までの太国さんの書き込みは、学術的なものではなく、
残念なことに、誹謗中傷になっています。
明治時代の「紀年論争」を通して、応神紀以降の『古事記』崩年干支に相当する実年代が、
判明してきますと、研究者の間でも、感覚的に同じような時期に複数の天皇の在位があると、
認識されてくるようになってまいります。同一人物説の数々は、別段、非論理的な説として、
提起されてきた諸説ではないのです。
また、日本書紀紀年法においては、応神紀の応神元(390)年から483年までの間、
「年代列」は並列しておりますので、天皇の在位の重なりは、「確定紀年」と「延長紀年」
に原因していることも、はっきりしてまいりました。
「確定紀年」と「延長紀年」の重なり具合などを検証していった結果、
興=木梨軽皇子=雄略天皇という仮説を提起すべきであると考えるに至りました。

765 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 08:40:09
>>761立ち止まったAさん
日本書紀紀年法については、学術的に議論する必要があると思っております。
自説に対しての批判や批評は、私にとりまして、むしろ、よろこばしいことです。
>>738の「済の没時」は『宋書』に「済死。世子、興遣使。」とあることにもとづきます。
立ち止まったAさんは、これを460年のこととお考えでしたならば、
462(雄略六・大明二)年の興の遣使に対して、宋朝が、
「新嗣辺業」と述べていることを、どのように解釈なさりますか。


766 :太国:2006/04/14(金) 09:21:30
>762

イコール(始点)−−−−−−→デムパ説(終点)

よくこの表を考えるんだな。

767 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 09:44:29
>>765
>462(雄略六・大明二)年の興の遣使に対して、宋朝が、 「新嗣辺業」
「済死。世子、興遣使」に対して宋朝は「新たに辺業を嗣いだ興」に爵位を授けた。
ととれます。
460年に遣使して462年に爵位をもらったという解釈でも、
460年は済の遣使で462年から興の遣使という解釈でもいいのですが、
※「宋書に454年頃と462年に興の遣使があるので木梨軽皇子=興=雄略天皇」という
日本書紀紀年法研究家さんの主張にはなりません。

>>723から>>765で述べているあなたの説は、
・あなたの紀年法で木梨軽皇子の治世となっている454年頃に"済が没した(譲位した)ので"興=木梨軽皇子が宋へ朝貢した。
・462年に「新嗣辺業」で興が授爵された。
・474年頃に済=允恭が死んだ。
・477年か478年に父・済の喪が明けた興の弟・武(あなたの著書では清寧)が朝貢した。

●あなたが462年の「新嗣辺業」を強調するなら454年頃に興の1回目の遣使はありえませんよね。
→※の主張はおかしい。
●宋書では477年以前に興は没しています。>>761で出した疑問の繰り返しになりますが、
宋書倭国伝に、"讃死弟珍立"や"興死弟武立"とある記載も譲位と見なしますか。
それとも"済死。世子興"だけが、あなたがご存知の何か特別な理由により死ではなく
譲位と見なせると主張しますか。

768 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 09:51:48
>>763
私には説と呼べるような日本書紀の体系的な解釈はありません。
いろいろ考えたけれど、倭王の遣使記事とは整合性が取れなかったということです。

769 :太国:2006/04/14(金) 10:02:46
>>762 よ、>>766 の表をみたか?
そういうお前さんも、新しい事、謎とされる事を言えばいいではないか?
俺がやるより手っ取り早いだろうが?
お前さんもコテハンをつけたらどうだ?それとも何か〜?引っ込み思案なのか?w

日本書紀紀年法研究家さん
みどもの言ってる事は、キツイ語句かも知れませんが誹謗中傷ではありません。
誹謗のように聞こえるのは貴女への警告音ですし、中傷に聞こえるのは、決して
貴女に暴行傷害的なことを論説で言っているものではなく、医者の貴女への
手術のメスのようなものですから、双方身体に傷ができる痛手のような言動
だったかも知れませんが、それはやむにやまれずの治療のため出来る最小限の
傷なのです。このように警告、注意をもらってる時はいいですが、もうそれも
来なくなれば、末期的状況でプツンですよ。
イコール論を想起したときは、その前段階の論がえらく合致しているようで
それらが錯覚の間違いなのであり、遡って、合致してそうなその論を誤と判断、
切り捨て失敗と観て原点方向に戻り、再度研究のやり直しをしないと一巻の終り
ですよ。誹謗中傷に聞こえたものは、言い換えれば貴女への苦い薬ですよ。
再研究のし直しを勧めるものです。

770 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:21:06
>>太国
立ち止まったA さんと、紀年法研究家さんの論争は読んでて面白いが、
君はオジャマ虫。

何が医者だw
君は心療内科に行きなさいw


771 :太国:2006/04/14(金) 11:01:45
>>770
うぬもイコール賞賛者か〜? 完全デムパ。ww
イコール説は >>732 で、ひいきの君のお陀仏さらば。ww

772 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 12:52:25
>>767>>768立ち止まったAさん
>>737で、立ち止まったAさんが、倭王遣使記事について、原文を載せてくださっておられますので、
わかりやすいと思いますが、『宋書』には、「済」から「興」への倭王位の継承について、
「立」がありません。たとえ、460年が「興」による遣使であったとしても、
それは、倭王位を継承していない身分で遣使を行っていたことになります。
そして、「世子」、すなわち、皇位継承予定者が未即位という奇妙な状況を記した記述は、
『古事記』に見える、以下の一文です。

天皇崩之後、定木梨之軽皇子所知日継、未即位之間…。

『宋書』の「世子」に注目した研究に藤間生大氏の『倭の五王』があり、このなかで、
「興の場合は、立つがなく、すぐに使いを出している。これでは、王に「立」たないうちに、乃
至は追認されない形で、世子の身分で使いを出したことになる」と述べておられます。
『宋書』の「興」をめぐる記述は、木梨軽皇子をめぐる『古事記』の記述と整合しています。
「興」の第一回目の遣使が、454年であろうと460年であろうと「興」は、
木梨軽皇子のことである可能性が高いのです。
また、462年は雄略6年ですので、462年に第二回目の遣使を行った「興」は、
雄略天皇となります。

773 :太国:2006/04/14(金) 15:26:31
>>770
賢者はイコールに近寄らず。w

774 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 17:19:21
>>773
典型的アホのレス。

プッ…

775 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 18:59:40
僭越ながら>>1さんに忠告します。
2chでは、スレ主には議論正常化維持の義務があるとの暗黙の了解があります。
つまり必要ならば立ち入り禁止やスルーの呼びかけ(物理的な禁止の権限はないので)をせねばなりません。

ここが学問板である以上、自説根拠は当然学術的考察によらねばなりませんが
一部「宗教的観点」からそれを阻むものがいることも事実です。
彼らの顕著な特徴は「自分だけが真理に到達した。他のものは学者といえどもみな間違いである」との自意識過剰がぷんぷん匂うことです。


776 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:10:12
これはファンメンダリズムが進化論を絶対に認めないというのとまるで同じで
彼らはそもそも議論や意見交換を望んでおらず
ただ誰も認めない自らの優位性を誇示したいだけに過ぎません。
いや、誰も認めないからこそ文言が攻撃的になるのでしょう。

「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか21)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140100181/
に以下のようなレスがあります。

167 :太国 :2006/02/27(月) 10:38:14
余は古神道皇道派のはしくれだ。グループの頭領は畏れながら
「闇御一人様」と云われるお方なのじゃ。
その別名を「暗闇の大宮司さま」と呼ばれる。w

ここに提言します。
スレ主の権限において、太国氏の書き込みに対し諫言すべきです。
>>1さんが真に議論の場を守りたいのならば、やむなき事情であろうと考えます。

777 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 19:14:30
>>772日本書紀紀年法研究家さん

>「興」の第一回目の遣使が、454年であろうと460年であろうと「興」は、
今更"454年であろうと460年であろうと"などと言わないでください。

>>767の繰り返しになりますが、あなたのこれまでの主張は↓です。
・日本書紀・仁徳58年の呉国との通交記事は、あなたの確定紀年で454年になる。
・454年は允恭没年の直後で木梨軽皇子の治世になる。
・この記事は454年頃に木梨軽皇子が朝貢したことを示している。
・紀年はないが「宋書」に「済死。世子興、遣使貢献。」とあるのが、この454年頃の朝貢だ。
・その倭王は興だ。だから興 = 木梨軽皇子だ。

・宋書には462年にも興の記事がある。
・462年はあなたの確定紀年で雄略の治世だ。
・従って興 = 雄略だ。

・なんと宋書から判断すると雄略 = 興 = 木梨軽皇子だ!
(>>723)
>私が、興=木梨軽皇子=雄略天皇と考えるのは、『宋書』に興が済の没時と
>四六二年の2度遣使を行ったと記されていることに拠ります。
>済は允恭天皇と考えられますので、一度目は四五四年頃です。

●454年から460年に変わるとこれまでの主張がおかしくなりますよね。

●加えて、460年が「興」の1回目の遣使だとした場合、あなたの確定紀年は460年を木梨軽皇子の治世としていますか?あなたの確定紀年では460年は雄略ではありませんか。
興の1回目の遣使が454年頃じゃなくて460年が雄略なら、木梨軽皇子はお呼びじゃなくなりますよね。
あなたが雄略 = 興 = 木梨軽皇子と主張する根拠もなくなる。

そして、>>767で私が記した2つめ質問「宋書の死は譲位を意味するか、済だけ特別か」の回答が
『古事記』の「天皇崩之後、定木梨之軽皇子所知日継、未即位之間…。 」でしょうか。
ここには"天皇崩之後"と記されていて、私には"允恭がしっかり死んでいる"ように読め、譲位があった証拠には思えません。

778 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 19:19:52
日本書紀紀年法研究家さん
「日本書紀・仁徳58年の呉国との通交記事や応神37年の記事は、宋書に該当記事がないので
よく分かりませんね〜。」
とおさめれば、あなたの確定紀年を破壊することはないのですよ。


779 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:21:43
>>775,776
むしろスレ主という発想の方が2chに合わんよ。
そんな暗黙の了解、聞いたことねえ。

780 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 19:25:04
777 get。
888までは続けたくない。

781 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:25:52
2chはよく「便所の落書き」と揶揄されますが
もちろん落書きには一抹の真実が秘められていることは
ここで今更言わずとも、>>1さんならば先刻ご承知でしょう。
しかし本当に問題なのは2chというよりむしろインターネットそのものに
「精神を病んでいる者」からの直接の書き込みがあることです。
確実に逮捕されることが判っていながら爆破、殺人予告を書き込んだりするのも
一種の破滅願望の現われですし、本人に自覚がなくともすでに常軌を逸している内容のものも多く見受けられます。

私はこのような心の病について決して差別的な感情は抱いておりませんが
こと議論の場においてこういった書き込みを「意見」として取り上げると
確実に場は荒れ、収拾がつかなくなって訪れるものが減ります。
結果「病んだ者たち」だけがいつまでも居座るのです。

そのような結末はお望みではないでしょう。
一連の発言が「意見」なのか「妄言」なのか
>>1さんにはそれを判断し、かつ対処する義務があります。

当初より>>1さんの学識と人柄によって、良スレであったここが崩れていくのは非常に悲しいことです。
ご一考願えれば幸いです。

782 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 20:11:49
>>775>>776>>781さん
ご忠告ありがたく思います。
このスレッドを学問的、学術的なものに保とうと努力はしておりましたが、
学問的議論ではなく、徹底して、「自分だけが真理に到達した。他のものは学者といえどもみな間違いである」
という態度で、太国さんが、書き込みをなさるものですから、本当に困っておりました。

783 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 20:22:42
太国さん
このスレッドは、学術的議論の場です。
ご自分のご意見や御説を提起されるか、論拠のしっかりした反論や批判をなさること以外は、
書き込まないでください。
例えば>>773のように、太国さんは、ご自身が気に食わないと思う説に対して、
言葉によって攻撃しているだけとなっています。

784 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 20:35:05
>>777>>778>>780立ち止まったAさん
私は、「興」の一回目の遣使は454年頃と考えています。
しかしながら、中国側史料に460年に倭王による遣使があったとありますので、
460年にも遣使があったと想定せねばなりません。
そこで、460年に遣使があったのならば、それは、「興」か「済」のどちらかであろうと
考えました。もし仮に、「興」が460年の時点で、倭王位を継いでいたのならば、462年の詔は、
460年に出されていたことでしょう。462年になって、ようやく「新たに辺業を継いだ」と詔される
状況となっているわけですから、460年の時点で、「興」の立場は倭王ではありません。
このような曖昧な立場にあったのは、木梨軽皇子だけです。
したがいまして、460年は、「興」=木梨軽皇子の遣使であると考えることができます。
また、460年は、允恭列(C列)において允恭天皇の「延長紀年」にも含まれますので、
允恭天皇の遣使であるとも考えられます。
460年の遣使は、「興」であるとも「済」であるとも推論できることいなります。

785 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 20:52:33
>>784日本書紀紀年法研究家さん
既にお互いの文意が通じなくなっています。
やはりもう止めましょう。

786 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 20:58:14
>>778立ち止まったAさん
仁徳58年を仁徳列(D列)上にもとめれば、454年になり、
応神37年を応神列(A列)上にもとめれば、425年となります。
すなわち、『宋書』に該当する記事があるのです。
応神37年と仁徳58年の中国通交記事は、日本書紀紀年法が多列・
並列構造になっているという私の説の支証となっているのです。
立ち止まったAさんの目的は、無理やりにでも私の説を否定して、
このスレッドを閉鎖することなのでしょうか。
ここは、学問的議論の場です。
スレッドを閉じさせたいと思うのは自由ですが、このスレッドに書き込みたい、
または、読みたいと考えておられる人々もおられるはずですので、
立ち止まったAは、わがままであると思います。

787 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/14(金) 21:01:30
>>785立ち止まったAさん
文意は通じています。議論から逃げるために、私の書いた文章まで、
文意が通じていないと決め付けてしまうことはよくないことです。
どうしても、このスレッドを閉じさせたいのでしたならば、
「立ち止まったAさん」から「通りすがりのAさん」にお戻りになられて、
どうぞ立ち去ってくださいませ。

788 :立ち止まったA:2006/04/14(金) 21:16:41
日本書紀紀年法研究家さんは誤解なさっていますが、私は私とスレ主さんとの議論を止めよう
としているだけで、"スレッドを閉じさせたい"とは思っていませんし、スレッドを閉じさせる
力もありませんので、スレ主さんはご安心ください。

789 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:24:35
454年から462頃までの間は允恭天皇や木梨軽皇子以外の
倭王ではない人物が遣使したってことで良いんでないの?


790 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:53:03
倭の五王に合わせようと思ったけどすり合わせ切れませんでしたってことなのかな?

791 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:32:59
論破されたからって追い出すのはどうかと思うけど
出版関係で安易に自論を覆せないのでしょうね。

792 :太国:2006/04/14(金) 22:59:52
>>775 >>776 余のことだな?
古神道は宗教にあらず。なぜか?教義がない。無いものは宗教にはならない。
「宗」の一字であ〜る。学術論には他人の身分は関係な〜い。

日本書紀紀年法研究家さん >>776の言い分を聴いていたら正覚は永遠に無です。
みどもは貴女の主張する 成務=卑弥呼 の論説よりよっぽど気は確かですよ。
「太賢者」はイコール説を肩透かしします。w

793 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:24:01
>>791
太国さんですか?www
研究家さんは論破されてませんが何か?

794 :太国:2006/04/14(金) 23:26:29
>>782
日本書紀紀年法研究家さん

あっしは自分だけが正しいとかは言っておりません。
あの >>775 >>776 の妖仙は、態度がでかく、いつもあっしに自流の説を
論破されてくやしい思いをしている奴なのです。それを何とかデンパ説をも
許容してもあっしに逆襲しようとしてるんです。奴の別名を「負組王」と言って
いる者があっしのグループにいるのを聴き及んでいま〜す・・・。w

ところで、自分だけが正しいと言ってはいない証拠をお見せしましょう。
先日、このスレで神武即位を、確か前100年ころと申し上げましたが、間違い
なので、潔く撤回しま〜す。間違いのあった原因は単なる2倍年暦での計算を
正解としたのが失敗の始まりです。これは誤りですね。
真を正覚するには別物を役立たせねばならぬことを知悉したからです。
ここで、やり直しで言い直ししますが、あなたの主張する基本年の應神390年
は誤であると観るようになりました。100年前後は狂ってますよ。
いずれの機会に・・・・・。

795 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:00:20
論破されてくやしい思いをしている
論破されてくやしい思いをしている
論破されてくやしい思いをしている
論破されてくやしい思いをしている
論破されてくやしい思いをしている
論破されてくやしい思いをしている
論破されてくやしい思いをしている
論破されてくやしい思いをしている

796 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:02:10
>>794
蛆虫君。
去りたまえ。

797 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 01:43:25
巻 代 天皇 倭王   換算年代 古事記    日中
11 16 仁徳 讃即位 元年405          @413A421B425C430
        讃死亡  末年437=丁卯427死亡 
12 17 履中 珍即位 元年437          D438先・讃死、弟珍立
              末年440
〃 18 反正       元年440
        珍退位 末年442=壬申432珍退位 丁丑437珍死亡
13 19 允恭 済即位 元年443          E443済遣使貢献、安東F451G460
        済死亡 末年464=甲午454死亡
〃 20 安康 興即位 元年464          H462先・済死、世子興立I477
        興死亡 末年476
14 21 雄略 武即位 元年477          J478先・興死、弟武立/安東K479斉が倭王武を鎮東
              末年499=己巳489雄略記事終
15 22 清寧      *架空
〃 23 顕宗      *架空
〃 24 仁賢      *架空
16 25 武烈      元年499          L502梁が進号
        武死亡 末年506       


決った

798 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 01:46:31
>>794
神武はどの道、前1c〜後1cの期間だと思うな

799 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 02:28:08
>797
インディアンの酋長と大統領を列記して、並べてみても
あまり意味のあることじゃないな。

800 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 02:40:54
日本書紀の記年にズレがあるのと同じように
古事記の崩御干支も実年代とズレてる


丁度10年だ

801 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 05:27:18
太国が論破されて逃げ出したり逆に居直ったりするのは何度も見てきたが
こいつに論破されたやつなど見たことないけどなw

802 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 06:08:10
413 義煕 9年 是歳高句驪倭國及西南夷銅頭大帥並獻方物[晋書安帝紀]
396-418    晉安帝時有倭王讚遣使朝貢[梁書][南史]
421 永初 2年 詔曰倭讃遠誠宜甄可賜除授[南史]
            詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授[宋書東夷伝]
425 元嘉 2年 讃又遣司馬曹達奉表獻方物[宋書倭国伝]
427 仁徳列仁徳31年 仁徳崩御[古事記]去来穂別皇子立太子[日本書紀]
430 元嘉7年 倭國王遣使獻方物[宋書文帝紀]
432 履中2年 履中崩御[古事記]瑞歯別皇子立太子[日本書紀]
437 允恭列允恭5年 反正崩御[古事記]→反正殯、反正葬[日本書紀]
438 元嘉15年 夏4月…以倭國王珍爲安東將軍、是歳武都王河南國高麗國
          倭國扶南國林邑國並遣使獻方物[宋書文帝紀]
          ※反正允恭間空位1年[日本書紀]

803 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 06:09:34
439 允恭列允恭7年 冬12月…新室讌[日本書紀]
443 元嘉20年 是歳河西國高麗國百濟國倭國並遣使獻方物[宋書文帝紀]
          倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王[宋書東夷伝]
451 元嘉28年 安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍[宋書文帝紀]
          加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事
          安東將軍如故并除所上二十三人軍郡[宋書東夷伝]
          秋7月…安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍[宋書文帝紀]
454 允恭列允恭22年 允恭崩御[古事記]
455 允恭列允恭23年 木梨軽皇子立太子[日本書紀]
457 雄略列雄略元年
???        濟死世子興遣使貢獻[宋書東夷伝]
460 大明 4年 倭國遣使獻方物[宋書孝武帝紀]
462 大明 6年 倭国王世子興為安東将軍[宋書東夷伝]
471        今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時
          吾左治天下令作此百練利刀[稲荷山鉄剣]
474 允恭列允恭42年 朝日郎討伐[日本書紀]
477 昇明元年 冬11月倭國遣使獻方物[宋書順帝紀]
          興死弟武立 [宋書東夷伝]
478 昇明 2年 5月…倭國王武遣使獻方物以武爲安東大將軍[宋書順帝紀]
          以武為安東大将軍[宋書東夷伝]
478 雄略列雄略22年 白髪皇子立太子[日本書紀]
479 雄略列雄略23年
489        雄略崩御[古事記]

804 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 06:25:17

475 雄略列雄略19年 詔置穴穂部[日本書紀]
477 允恭列安康 3年 8月…安康崩御[日本書紀]
477 雄略列雄略元年 11月…雄略即位[日本書紀]

805 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 06:32:19
477 雄略列雄略元年 11月…雄略即位[日本書紀]×
477 允恭列雄略元年 11月…雄略即位[日本書紀]○

806 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 07:45:16
なんか・・・もう、痛々しいな>太国
家族は大変なんだろうなあ・・・

807 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 09:05:33
>>788立ち止まったAさん
立ち止まったAさんは、私との議論をお止めになりたいとお考えであることはわかりました。
このスレッドの書き込みが888になる前におやめになりたいとお考えであるようですので、
ご質問をしておかねばなりません。
仮に、460年の遣使が「興」によるものであるのならば、宋朝は、なぜ、
460年の時点で「興」に対して、462年の詔の「新たに辺業を継いだ」というような内容の詔を、
出さなかったのでしょうか。なぜ、2年後の462年の遣使となって、漸く倭王就任に言及した詔を出したのでしょうか。
この点につきまして、立ち止まったAさんは、どのようにお考えかお聞かせください。

808 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 09:11:55
>>789さん
日本書紀紀年法の多列・並列構造において、実は460年頃は、
最も史実を解明することが難しい時期にあたります。
それは、この時期、雄略列(B列)、允恭列(C列)の「延長紀年」と仁徳紀(D列)
の「延長紀年」とが並列しているのです。
したがいまして、仮に>>789さんのお説が、可能性としてありえるのであるならば、
その倭王は、仁徳天皇です。

809 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 09:16:29
>>790さん
790さんは、どなたのご意見に対して、「すり合わせ切れませんでした」とおっしゃられているのでしょうか。
もし、私の説に対してのご意見でしたならば、私の説は倭の五王の遣使年と整合しております。
そこで、ご批判、ご批評をいただきたいと考えております。

810 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 09:34:53
>>791さんの書き込みについて、ご意見申し上げます。
>>793さんもおっしゃってくださっておりますように、私の説は論破されていません。
これは、このスレッドの立ち止まったAさんと私との議論の部分を読んでいただけば、一目瞭然です。
しかしながら、>>791さんは、事実を曲げようとされました。
>>791のみを読んだ方なら、私が論破されていると勘違いしてしまうことでしょう。
このスレッドを立ててから、書き込みには、このような謀略的なものがあることに気付きました。
例えば、「日本書紀紀年法研究家」という私のみが用いている名は、
あたかもグループとして複数の人物によって用いられているかのように見せかけるなど。
そこで、私一人が「日本書紀紀年法研究家」であることを示すために、
トラップを付けるなどの対応が必要となりました。
そこで、どうぞ、皆様、書き込みを読まれる際には、その文章に悪意や謀略があるかどうか、
注意しながら読んでいただきたいと思います。

811 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 09:37:12
>>809
紀の編者が、です。
「本来、別々の王権である「倭王」と「天皇」のすり合わせを完遂しきれなかった」
これに尽きると思います。

あとちょっと戻りますが、734に対してはどうなのでしょう?
三国志に残る記述を信じる以上、170年に卑弥呼が出る幕などないように思えますが?
三国史記の誤謬以外の何物でもないのではないでしょうか?

812 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 09:38:17
>>810
ちなみにト「ラ」ップじゃなくト「リ」ップです。
まあ本筋とはまったく関係ないことではありますが。

813 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 09:54:09
>>791さんの書き込みについて、もう一つ言わせていただきますと、
「出版関係で安易に自論を覆せないのでしょうね。」というのは違います。
私は、拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』を発表した後、研究を進めて、
拙著には修正が必要であると考えるに至りました(研究者が自説に修正や改良を加えることは、
珍しいことではありません)。
しかしながら、私が、拙著には修正・改稿が必要であると出版社に対して申しましても、
改定版などを企画して、刊行を引き受けてくださるほど、出版社は親切ではないようです。
そこで、私は、前著の内容と重ならないような原稿を新たに書き起こして、
どうなるかまだわかりませんが、現在、その刊行を試みています。
また、このスレッドでも、議論を通して、研究成果をなるべく公表するようにして、
学問的貢献ができるよう努力しております。
研究者が、既刊の自説に拘りますことは、学問の発展を阻害してしまうことになります。


814 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:02:35
このスッドレは酷いトラップが一杯ですね><

815 : ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 10:04:10
トラップ公開
#13572468

816 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:04:51
>>813
日本書紀紀年法wikiでも作って、そこに全部書いてよ

出版なんかどうでもいい

817 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 10:10:33
>>792>>794太国さん
太国さんと>>775さんとの言い合いが少し酷いようですので、一言申し上げます。
まず、太国さんは、他者を「負組」と決め付ける権利は、誰にもないと考えてください。
自分勝手に基準を作って、それに当てはめれば、すべての人々を「負組」に分類することはできます。
近頃、よく言われております30歳以上、独身女性、子無しという条件からは、私も「負組」です。
しかしながら、別の条件では、必ずしも「負組」ではないはずです。
誰でも、「負組」などと言われますと、よい気持ちはしないものです。
このスレッドでは、学術的な議論をしてください。
学術的議論では、提起した説に、論理性、合理性、蓋然性が高いことが認められれば、それでよいわけで、
勝ち負けはありません。

818 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:13:14
>>817
本筋以外の煽りや罵倒はスルーするのが吉。
2ちゃんねるを利用する上での基本だと思います。
まああえて乗るのが楽しい板やスレもありますがw

819 :太国:2006/04/15(土) 10:29:42
>>798 さん
だいたい合ってます。片鱗は2倍年暦のスレに〜、少しですが理由が見えます。

820 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 10:32:08
>>797さんは>>800さんでしょうか。
『古事記』の崩年干支は、史実としての崩年よりも10年前に位置付けられていると、
想定されておられるわけですね。雄略天皇の『古事記』崩年干支の489年が、
『日本書紀』の雄略末年の479年の10年後であることとは、関連はあるのでしょうか。

821 :日本書紀紀年法研究家 ◆BjJDo8V/fA :2006/04/15(土) 10:46:40
>>811さん
私は、倭王と「天皇」のすりあわせは、できていたのではないかと考えております。
それは、「プラス・マイナス120年構想」を構築してあるからです。
いわゆる倭の五王の時代は、プラスの部分となりますが、この期間では、
応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)という複数の「年代列」
が並列しており、「確定紀年」によって、倭の五王が「天皇」として扱われているのです。
このことは、『日本書紀』と『古事記』の編纂者が、倭王たちを、「天皇」として扱っていることを、
示しています。

822 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/15(土) 10:54:37
>>815さん
>>815さんは、どうして私のトリップがわかったのでしょうか。
仮に、本人以外の他者が、トリップを知る方法があるのならば、
トリップを付ける意味はなくなります。
ちなみに、トリップを変えてみました。815さんは、私のトリップがわかるでしょうか。


823 :立ち直ったA:2006/04/15(土) 11:06:08
>>807日本書紀紀年法研究家さん
文意が通じているとおっしゃるのであれば、>>777の私の質問(●の文2つ)をもう一度読み直し
>>784に代わる適切な回答を返してください。

-----
しかし、細かな論理の誤差に目を奪われて相手の意見の誤りばかりを指摘していては
進歩がないということを思い出した。まず相手の意見を認める姿勢で逝ってみよう。

ということで、立ち直ったAです。
日本書紀紀年法研究家さんの主張を認める前提で"可能性のある"話を創作してみました。

まず始めに本件関係天皇の最初の人・允恭の雄朝津間稚子宿禰という号を抑えなければいけない。
記紀が天皇とする人物に"宿禰"というまるで有力豪族であるかのような号が贈られている点を
思い出そう。万世一系の皇統を記する日本書記にあるまじき名称である。
これは允恭という人の即位に至る経緯の怪しさを示すものである。

そして親の因果が子に報いというか允恭の怪しい行いの報いが子に出た。
そう木梨軽皇子という歪んだ人物を生んでしまったのだった。
まず木梨軽皇子は同母の妹を犯ってしまった。しかも処罰されたのは妹の方で木梨軽には咎めがない。
咎められないことにさらに増長した木梨軽は、453年あろうことか歴史上初めて父天皇を殺して位を
奪おうとした。允恭天皇は命からがら逃げ延び、允恭を支持する豪族のもとに身を潜めたが、帝位は
木梨軽に奪われてしまった。

当然、豪族達は木梨軽を真の天皇とは認めないが、その暴虐ぶりを恐れ異をとなえられないでいた。
豪族の反感をひしひしと感じる木梨軽はせめて南朝からの叙位は済ませておこうと454年に興を名乗り
遣使を行った。
しかし、この遣使には落とし穴があった。木梨軽の朝貢使節を迎えた宋朝では、朝貢使節が倭国王の
国書に過去に下した倭王の印璽が押されていないことから正統な使節であるか疑い、叙位を行わず、
記録に留めなかった。そう允恭は逃げ延びる際、倭王の印璽を隠したのだった。
しかし、この事件は人々の記憶に残り、古事記の允恭没年干支を誤らせることになった。


824 :立ち直ったA:2006/04/15(土) 11:06:59
同じく454年、木梨軽が遣使の失敗をまだ知らぬ頃、木梨軽の暴政に反発する勢力を糾合して允恭と
允恭の側に立った穴穂皇子が反撃を開始した。穴穂は木梨軽に対抗し自分が正統の王であると宣言した。
それは多くの豪族を巻き込んだ長く続く混乱の世の始まりとなる。
(逆襲の済)

激しい戦乱は武器の進歩ももたらし、穴穂矢・軽矢といった新兵器が両陣営から生み出された。
皇族の被害が続出する。反正天皇の皇女達はその宮を追われ、大草香皇子は妻を穴穂皇子に、妹は
木梨軽に奪われ、両陣営の争いの中で殺された。
人々はその行いに恐怖した。

いつ果てるとも知れぬ戦いも、やがて木梨軽の暴虐ぶりを徹底的に突いた穴穂側に有利進み、
木梨軽の有力な支持者であった物部大前宿禰の裏切りによって終末を迎えることになる。
敗れた木梨軽は姿を消した。死んだとも伊予へ落ちたとも言われる。


825 :立ち直ったA:2006/04/15(土) 11:07:33
だが事態は思わぬ方向に進む。456年穴穂が大草香皇子から奪った妻の連れ子・眉輪王に殺されたのである。
穴穂が殺されたことで弟皇子八釣白彦・坂合黒彦に即位の機会が巡ってきた。彼らにほんのわずかな覇気
があれば、即座に立って眉輪王を討ち、「我こそ王なり」と宣言していたはずだ。しかし、彼らは立たな
かった。自ら行動に出て主導権を握ることに逡巡し、我が身を守ることに汲々とした。
頼みの穴穂を失い、覇気のない八釣白彦・坂合黒彦といった子らを見限った允恭は、やむを得ず自ら再び
帝位に就こうとした。
しかしその時、弱った允恭系統から皇統を取り戻そうとする履中天皇の子・市辺押磐皇子が"ちょっと待った"
をかけた。允恭一族の無道ぶりに倦み疲れていた豪族達は市辺押磐皇子を歓迎した。

頼みの皇子を失った今、戦いはできない、と帝位をあきらめようとした允恭の前にあの男が帰ってきた。
「一体どの面下げて...」と小一時間は説教しようとした允恭に木梨軽が返す。
「親父。このままじゃアンタが拓いた皇統は絶えてしまうぜ。」痛いところを疲れた允恭は、しばし
躊躇った後、木梨軽と和解して市辺押磐皇子に当たることを決断した。
だが木梨軽は厚顔にも和解に条件を加えた。市辺押磐皇子に対する勝利後に父が裏切りにでないように、
他の後継候補つまり自分の兄弟である八釣白彦・坂合黒彦もあわせて始末するという条件である。

しかし木梨軽の名では市辺押磐皇子に勝てないとみた二人は、倭武命から考え出した"幼武"という名の
皇子を創造し、名を変えて木梨軽を再登場させた。
都合の良いことに、激しい戦乱・陰謀と裏切りの経験は、誰もが感動するほど美しかった木梨軽の人相
を逞しく荒々しい男の顔に変えていた。
(復活の木梨軽)

826 :立ち直ったA:2006/04/15(土) 11:09:11
允恭の兵を手に入れた幼武は、まず八釣白彦を血祭りにあげ、続けて眉輪王と彼に味方する葛城円大臣
と坂合黒彦を滅ぼし、勢力を強めていた市辺押磐皇子はだまし討ちによって消し去った。
有力皇族の始末を終えた幼武は457年即位する。

しかし戦乱の余韻はしばらく続き、幼武が興として再び遣使できたのは460年になってからであった。
今回の遣使では允恭から倭王印璽を継承しているため正式な国書をしたためることができたが、前回の
遣使のことで慎重になった宋朝は1年半ほど審議を続け462年にようやく興への叙位を行った。
安東将軍・倭国王「興」の誕生である。

幼武と名を変えた木梨軽であったが歪んだ性格は元のままで、治世3年娘の稚足姫に「暴行されて妊娠
した」という讒言が行われると、娘を疑い自殺に追い込む。さらに死んだ娘の腹を割き子供がいないか
確認したと伝わる。確かに幼武という名で呼ぼうと木梨軽という名で呼ぼうと暴虐な人物であったこと
は"間違いない"。

一方、巡る因果の元凶である允恭は474年に没するまで15年余りの静かな余生を送ることになる。

827 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/15(土) 11:18:20
>>816さん
私も、日本書紀紀年法について、これ一冊を読めば、よくわかるというような概説書が必要であると考えており、
まだ改稿が必要な状況ですが、既に一論文としてはまとめてあります。
論文博士号を取得するために書き進めてあったものですが、
刊行という形で発表したいと考えておりますことには、以下の理由があります。

1)かなりの分量となりますので、書籍の形のほうが、読者の皆様には読みやすいと思います。
2)日本書紀紀年法wikiですと、拙著を出版した出版社から、出版権の侵害と見なされる可能性があります。
  既刊の拙著の内容とあまり重ならないような原稿を起こすことは、たいへんです。
3)私のように個人で研究している者には、研究助成費などというものは支給されません。
  研究費は、出版という形で研究成果を発表して、その印税を充てるのがよいのではないかと考えております。

インターネットに研究成果をすべて公表して、アクセスされれば、誰でも、
研究成果を利用できるという方法も、ひとつの学問的貢献であると思いますので、
将来的には、そのような方法を採るかもしれませんが、現時点では、
出版、刊行という形での、発表を考えております。
  


828 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 11:27:16
>823-826
面白い!日本書紀紀年法研究家もこういうの書けよ

829 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/15(土) 11:47:37
>>823>>826立ち直ったAさん
>>823から>>826にかけてお書きになった文章を、たいへん面白く拝読させていただきました。
自説にもとづいてくださっておりましたので、荒唐無稽というよりは、ありえる展開として、
興味深いものがありました(あまりにビビッドな文章表現で、しばらく笑いが止まりませんでした)。
『日本書紀』は、政治倫理思想として、儒教的秩序を重視していたかもしれませんので、
仮に、立ち直ったAさんのお説が史実に近かったのならば、
父と子の相克といった歴史は、都合が悪かったとも考えることができます。
いずれにいたしましても、『日本書紀』を一読すれば、5世紀の皇位継承はかなり複雑であり、
また、物騒な事件もあったことがわかりますので、案外成り立つ余地はあるのかもしれません。
ちなみに、私は、立ち直ったAさんとは異なる展開の経緯を想定しております。
また、立ち直ったAさんの>>777でのご質問については、
どうも、適切ではない回答であったようですので、どのようなお答えがよいのか、
考えをまとめてから、お返事いたしたいと思います。

830 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/15(土) 11:53:18
>>828さん
私も、823〜826にかけて立ち直ったAさんが、お書きになった文章は、
面白いと思いました。同感です。
自説をもとにしていただいて、立ち直ったAさんに、
このようなストーリ性を持たせた読み物を書いていただけると、読者の皆様に、
5世紀が、どのような世紀であったのかを理解していただき易くなるのではないかと、
ふと思ってしまいました。

831 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/15(土) 13:39:54
>>823立ち直ったAさん
私は、以下のように推論しております

454年:「済」=允恭天皇から「興」=木梨軽皇子への倭王位の譲位。
     宋朝への「興」の遣使。
     木梨軽皇子のスキャンダルの発生。木梨軽皇子と穴穂皇子との間の戦争。
455年:群臣に擁立されて穴穂皇子が安康天皇として即位。
457年:安康天皇が、継子の眉弱王によって、滅ぼされる。
458年:「興」=木梨軽皇子の即位宣言(461年頃までの間、皇位継承候補者を次々に排除してゆきます)。     
460年:「倭王」を自称した「興」=木梨軽皇子の遣使。もしくは、譲位帝「済」=允恭天皇の遣使。
461年:ようやく、「興」木梨軽皇子は、国内的に「倭王」として認められる
462年:「興」=雄略天皇は宋朝に使を遣わす

 どうでしょうか。このような推論ですと、整合するのではないでしょうか。

832 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:40:55
韓国人が、国定歴史教書を使って、トンデモない歴史捏造を展開している。

【韓国 国定歴史教科書】
http://members.tripod.com/textbook_korea/fr_2.htm

【帰化人(渡来人)の活躍】
http://members.tripod.com/textbook_korea/3_4.html#3_4_5_1

韓人(カラビト)は半島南部の倭人であり、日本民族の同族なんだが。
韓国人は、古代日本に移住したカラビトを韓国人=朝鮮人だと思い込んでいるようだ。
古代日本に、韓国人は一人も移住していないんだが・・・。


833 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:41:25
■日本書紀 応神天皇紀■

治世37年春2月1日、阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして
縫工女(きぬぬひめ)を求めさせた。
阿知使主らは高麗国を経由して呉に行こうと考えたが高麗からの道が分からず、
道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の二人を
道案内として使わした。
これによって呉に行く事が出来、呉王に縫女(ぬいめ)の兄媛、弟姫、呉織(くれはとり)、
穴織(あなはとり)の四人を与えた。

>阿知使主らは高麗国を経由して呉に行こうと考えたが高麗からの道が分からず、
>道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の二人を
>道案内として使わした。

応神天皇の時代、日本と高句麗は敵対関係にあった。
したがって、ここに登場する高麗(コマ)とは、高句麗ではない。
コマとは、百済のことである。

コマ国は、古末国・古満国・乾馬国・駒国・狛国、いろんな表記があるが、
百済と書いてコマと読んだ時期もあった。315年から346年頃までは、百済の読みは
コマだった。
基本的に、コマ国とは、日本領・任那の北部地方、つまり楽浪郡=帯方郡を意味する。
高句麗は、コマではないのだ。
314年以降、高句麗が旧帯方郡を支配するようになってから、百済の北方をコマと
呼ぶようになったが、もともと「コマ」とは帯方郡のことである。
百済を当初、コマと呼んだのは、314年の高句麗による攻撃で帯方郡が滅びた時、任那に亡命した
帯方郡の漢人・倭人(いわゆるコマ人=狛人)たちが、大和朝廷の支援を受けて百済を建てたから。



834 :太国:2006/04/15(土) 15:43:13
日本書紀紀年法研究家さん
貴女はもうイコール説という沼にはまってしまった論者で、もう救いようがない
あわれな状況です。思い出してみて下さい。
>>390>>395 を・・・・・。
>390さんは、質問のいらつめさんを貴女であろうと考え質問してましたが、
貴女は>395で、そうではない、私の妹だという旨の回答をしました。

これと同様なんですよ。いまは貴女が>390さんの考えのようだと仮定すれば、
>395は私の反論ようなことになるのです。
つまり

日本書紀紀年法研究家=質問のいらつめ

ということを貴女は否定したように

倭の五王=当時の各天皇

ということを、確信を持つ太賢者は否定するものです。
どうですか? 論理的に似てはいませんか〜?
早くイコールの妄説をミソギハライすべき時ですよ。

835 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 16:55:47
>>834
便所バエ君。
君、うるさいよ…

836 :太国 ↑:2006/04/15(土) 16:57:35
負け犬

837 ::2006/04/15(土) 17:07:39
クソ蝿w

838 :太国 ↑:2006/04/15(土) 17:12:49
イコール妄想

839 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 17:16:14
倭の五王が畿内の天皇だなんて、
義経=ジンギスカン説並の低俗説です。
同時代の有名人を片っ端から「=}で結びつける
ど素人の浅はかな考えに過ぎません。

840 :太国 ↑:2006/04/15(土) 17:17:31
正解

841 :西暦2500年の似非歴史学者:2006/04/15(土) 17:20:39
小沢一郎は小泉純一郎のことだった。
「一郎」が一致しているし、
自民党の議員であった証拠もある。
生年月日もたぶん間違って伝えられているが
同一であろう。
ゆえにこの二人は同一人物に間違いない。


842 :太国 ↑:2006/04/15(土) 17:21:38
いい譬えだね。

843 :太国 :2006/04/15(土) 17:25:27
僕も成吉思汗が義経だとかいうのは、あのスレでは面白おかしく、朕に
成り代わってしゃべっていたわけだが、ブレーキをかけるべき。
あれは小説的論でのお楽しみに終わるもの。


844 :立ち直ったA:2006/04/15(土) 18:17:22
>>831日本書紀紀年法研究家さん
日本書紀紀年法研究家さんの当初の主張通り457年以降は木梨軽の名前ではなく、大泊瀬幼武の名前
でいいのではないですか。

今読み返すと、>>824はひねりが足りないので訂正しますね。
激しい戦乱は武器の進歩をもたらし、穴穂矢・軽矢といった新兵器が両陣営から生み出された。
この軽矢こそは穴穂・允恭に対し支持基盤の劣る木梨軽をして、穴穂軍と対等に戦うことを許した
主因と言える。機動性に勝る軽矢を用いた木梨軽軍は、接近戦において容易に穴穂軍を圧倒した。

長引く戦いの中、皇族の被害が続出する。反正天皇の皇女達はその宮を追われ、大草香皇子は妻は
穴穂皇子に、妹は木梨軽に奪われ、両陣営の争いの中で殺された。
人々はその行いに恐怖した。

いつ果てるとも知れぬ戦いも、やがて木梨軽の暴虐ぶりを徹底的に突いた穴穂側に有利進み、木梨軽の
有力な支持者であった物部大前宿禰の裏切りによって終末を迎えることになる。
この裏切りには昔、同母兄妹相姦の罪で己のみ処罰された軽大娘皇女がかかわっていたとされる。
裏切りに驚く木梨軽に彼女がかけた言葉が一書に伝わっている。
「意外と、兄上もお甘いようで」
敗れた木梨軽は姿を消した。死んだとも伊予へ落ちたとも言われる。

>>826の終わり方もいま一つなので追加しますね。
怪しげな出自から即位し、暴君雄略=木梨軽を生み出して数多の有力皇族の死を招き、ひいては自らの
血筋を絶やして継体帝が即位する遠因を作り出した雄朝津間稚子宿禰に対し、淡海三船が漢風諡号を
定めた時、その号は允恭ではなく"因業"であったという。

845 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 09:59:25
>>834太国さん
質問のいらつめと私は姉妹です。
太国さんが、質問のいらつめを私のことと思われたのは、2ch掲示板では私が「日本書紀紀年法」、
妹が「質問のいらつめ」といういわば匿名を用いているからで、仮に、
実名を用いていましたなら、きっと間違われることはなかったでしょう。
このように、現在では、明らかに本人確認をすることが可能な実名というものがありますが、
古代においては、現在ほど、名に対しての意識が確立していたわけではありません。
複姓があったとも考えられていますので、一人の人物がいくつかの名を持っていたとも、
推論することができます。
このように、複数の名を持っていた場合には、同一人物である可能性とそうではない可能性の
両方が考えられます。
わたくしは、一つの仮説として、「興」=木梨軽皇子=雄略天皇という構図を提起させていただきました。
それは、このように考えますと、日本書紀紀年法、『古事記』の崩年干支、そして海外資料の相互の関係を、
矛盾無く説明できるからです。立ち直ったAさんは、>>823>>826で、私の木梨軽皇子=雄略天皇説に立脚して、
面白いストーリーをお考えつかれています。
立ち直ったAさんが、ストーリーを作ることができたように、
可能性としてあり得ることから、提起させていただいた試案なのです。

846 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 10:01:50
>>845にて、私の匿名は「日本書紀紀年法」ではなく、正しくは「日本書紀紀年法研究家」です。
お詫びして訂正いたします。

847 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 10:07:02
>>841西暦2500年の似非歴史学者さん
>>845にても、述べましたように、実名という本人確認ができる戸籍制度が存在している現代と、
戸籍制度が無く、名についての意識も確立していなかった古代とを、同列に扱うのは、
問題であると思います。

848 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 10:14:54
>>844立ち直ったAさん
立ち直ったAさんが、私の説に多少なりともご理解を示してくださったことを、
うれしく思います。
立ち直ったAさんは文才がおありのようで、>>844の訂正文も面白く、
拝読させていただきました。
私なんぞは、拙著のひとつは、書評にて、「文体が変」との評価を受けてしまいました。

849 :太国 :2006/04/16(日) 11:10:42
日本書紀紀年法研究家さん
貴女は 成務=卑弥呼 との論でしたな?
貴女が女性だから2ちゃんの連中は遠慮してとやかく言ってくる奴は今のところ
あんまりいないようですが、この論で貴女が男だったらデンパだと笑われますよ。
そこまで行きついても貴女は目が覚めないんですかねえ?
じゃあどうですか?貴女でない日本書紀紀年法研究家2というスレ人がここに
いたとして 神武=卑弥呼 だと主張したとしたら貴女は信じるほうなんですか?
それとも、笑ってそんなことはないと否定致しますか?
これなど完全デンパと言われますがねぇ〜。
否定の回答を貴女が選ぶんだったらいいですが〜そうなりますと 成務=卑弥呼
の論なども笑われるのに気付くはずですがねぇ?それとも肯定ですか?w

850 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 11:35:05
★★任那の真実★★

任那問題・・。これは重要な問題である。
下記のサイトの文をよく読んで、考えよう。
日本古代史について研究するとき、カラ半島南部諸国=志良岐・任那・百済との関係を
考えるのは当然であるが、それに加えて、半島中部の駒国(コマ。すなわち楽浪郡)と
古代日本の関係がどうであったかも研究する必要がある。
また、日本-駒国の関係に、中国北朝=魏が与えた影響、その魏の政治情況が、
古代日本と任那の関係にどのような影響を及ぼしたのかも研究しなければならない。
魏が、公孫度領=楽浪郡を攻め滅ぼしたことがきっかけで、任那は古代日本(崇神天皇)に
助けを求め、日本領となった事実。日本がその任那を通じて魏と交流した事実、
これらの事実をふまえた上で、日本列島とカラ半島の古代史を研究することで、
古代における日本とカラ諸国の関係が、どういう形であったかが見えてくるはずである。

■任那問題と古代日朝関係■
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/0415b.html
■好太王碑 最古の拓本発見■
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1145111903/l50


851 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 13:16:25
>>849太国さん
学術的議論においては、男性も女性もありません。大事なことは説の妥当性、論理性、蓋然性です。
日本古代史は、十分に解明されているわけではありません。
したがいまして、研究史上、同一人物説などは、よく唱えられるものとなっています。
例えば、『日本書紀』敏達四年条には、「押坂彦人大兄皇子」という皇子の名が出てまいりますが、
分註に「更名麻呂古皇子」とあります。『日本書紀』の原典となった史書のいずれかには、
「押坂彦人大兄皇子」とあり、また、いずれかには、「麻呂古皇子」とあったと想定してみましょう。
両者が同一人物であるということを示す記録があれば、名前は、まったく異なりますが、両者は同一人物であることがわかります。
しかしながら、両者が同一人物であることを示す記録が欠けていたのならば、
両者が同一人物と判断できない場合もあったかもしれません。
すると、押坂彦人大兄皇子」と「麻呂古皇子」は別人と見なされることになるでしょう。
『日本書紀』允恭紀では、「木梨軽皇子」と「大泊瀬稚武皇子」は別人としていますが、
同一人物であった可能性はあり、同一人物であったと考えると、『宋書』や日本書紀紀年法の構造などと、
整合してくるのです。
もし、私の論理に対して、女性だからといって、手加減をなさらないで、
どうぞ、男性の皆様も、反論、批判をお寄せください。

852 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 13:19:51
ウィキペディアの『百済史年表』の記事に、百済の言葉として
日本語が出てくる。

【後期‐泗?時代】
(中略・・・)

657年 百済、王の庶子41人を佐平の官に任命 ←佐平の官。塞の神(さへのカミ)と同じサヘ。

660年 唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす
663年 倭国の百済救援軍、白村江で唐軍に大敗

「佐平」は塞(さへ)と同じ意味だろう。守護・防衛を意味する日本語の古語だろ。
◆サエギル=塞きる=防ぐ=防衛

■百済史年表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8

やはり、百済人は日本民族だったようだ。


853 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 14:05:42
倉西の紀年法論は学術的とは言い難い数字遊び

854 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 14:45:59
ナニ女だったのか

855 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 14:52:12
ネカマです!><

856 :太国 :2006/04/16(日) 16:23:09
>>851
紀の言うとおり

木梨軽皇子≠大泊瀬稚武皇子

が正論なのです。だから
この別人という日本書紀の記述からして、貴女の論は紀と背反するものであり、
欽明2年3月の帝王本紀云々の記述の「真正である」の編者の記述と袂を分かつ
呆れたイコールシステムなる牽強付会の妄説なんです。
紀の云う「真正」なる上の不等式の不等号を等号にすり替えた貴女の整合説は
「不真正」そのものの独善的接着説なわけですよ。
名前というのは、通常は同一人物にならないようその判別のために名前の文字が
各々違うわけですよ。だから名前が違うのに同一人物ということも少ないながら
あることはあるんですが、それは特別な場合に限られるということなのです。
その特別の場合として有名なのが大名持神(オオナモチノカミ)とかで、色々
な名前をもっており、現代ではよくやるのがペンネーム、芸名とかニックネーム
とかあるわけですが、そういうことから甘い考えで記紀の記述名を拡大解釈して
イコールとする風潮が前からあることは確かです。それの典型的な間違いが

神武=崇神=應神

神功皇后=卑弥呼=天照大御神

なのですよ。ところが、優秀な学者、研究者でもこの失敗にとりつかれるのが
貴女もそうですが、大間違いの

倭の五王=当時の各天皇

という等式なんですがねぇ〜。w >>841 さんの警告はよく的を射た、貴女の
妄想部分を突く絶妙な譬え話なんですよ。これに耳を傾けないで原点方向に道を
引返さないと、もう貴女はアウトです。

857 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 16:30:07
>>853さん
数字というものが、日本古代思想、もしくは、東洋思想において、どのような意味を持っていたのか、
といった問題を考えてみれば、きっと853さんも、「学術的とは言い難い数字遊び」
とはおっしゃられなくなるのではないかと思います。
しん緯暦運説における一蔀年数や「四六二六相乗」の120年や240年といった天数は、
日本書紀紀年法に応用され、『日本書紀』において政治倫理思想としての役割を果たしています。

858 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 16:36:31
>>854さん
たしかに、「日本書紀紀年法研究家」という匿名ですと、女性か男性かはわからなかったと思います。
いくつか拙著が刊行されておりますので、著者名を見ていただけましたならば、
女性であることがわかります。


859 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 16:37:44
>>855さん
「ネカマ」とは、どのような意味でしょうか。

860 :日本書紀紀年法研究家 ◆0MU62edmiU :2006/04/16(日) 16:56:20
>>856太国さん
>>854さんが、私が女性であることを知らなかったように、女性だからといって、
手加減をしていただいているわけではないようです。
また、木梨軽皇子=雄略天皇が、太国さんのおっしゃられるまさに、「特別な場合」なのではないでしょうか。
例えば、「日本書紀紀年法研究家」という名は、いわば、私のペンネームのようなものですが、
「日本書紀紀年法研究家」と私は、同一人物です。
すなわち、2chの掲示板上では「日本書紀紀年法研究家」ですが、拙著では実名です。
2chの掲示板のみをご覧になっている方々は、私が女性であることすら知ることができなかったように、
「日本書紀紀年法研究家」と私を別人と考えてしまう可能性があります。
異なる史書に別の名で記載があた場合も、同一人物が別人と認識されてしまう場合はあるのです。

861 :太国 :2006/04/16(日) 17:03:40
日本書紀紀年法研究家さん
貴女は自説が整合とか主張していますが、そうなると上の件は紀と不整合となって
しまうんですよ。これはいったいどういうことでしょうか?
それは「整合してる」んではなく、貴女が「整合させてる」んですよ。それも
貴女の勝手気ままなもののわけなんですよ。そういうんでは、どれもこれも合う
に決まってますよ。まずは冷静になって原点振り出しからやり直すべきです。

862 :日本書紀紀年法研究家17225133:2006/04/16(日) 17:42:27
>>861太国さん
太国さんのおっしゃられる「上の件」とは、どのことでしょうか。
具体的にご指摘いただきたいと思います。

863 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/16(日) 17:46:39
>>862について
シャープを付けるのを忘れまして、
トリップの番号を公開することになってしまいました。
トリップを付ける意味があるのかわかりませんが、
トリップを変えてみました。

864 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 17:51:45
>>863
あなたぐらい自説を発表して、スレも賑わわせていると、「ニセ者」が出現す
る可能性が高いです。もし「ニセ者」にあなたの名誉を毀損するような事を書
かれたら自説発表&議論どころでは無くなります。そこらへんを斟酌しといて
ください。

865 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 19:56:56
http://tanbarakuichi.hp.infoseek.co.jp/gakumon/bookreview/1.html
 本書の内容は理論篇と應用篇に分けることができるが、
明快な理論篇に對して、應用篇の「第二章 『紀年論』と
『倭の五王』〜なぜ『紀年』は多列構造であるのか」は解釋の部分が大きくなつてゐるので、
まづ紀年多列構造論に基づいて神功皇后以降の紀年と實年代との對照關係を確定してから、
再考した方がよいのではないかと思はれる。紀年多列構造論は使へる假説なので、
若い研究者や歴史ファンはこの作業にチャレンジされてみてはいかがだらうか。
本書は紀年論のフィールドに斬新な假説を投じた一册であり、
もしかしたら劃期的と言へるものかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

僕にはよくわからないけど、
かなり評価されてますね、頑張ってください!

866 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 20:11:22
>>861便所の蝿さん。

君も劃期的といわれる何かをしてみなさい。

永遠に無理だろうな!www


867 :太国 :2006/04/16(日) 22:49:43
>>866 無名の負け犬君 何回くらい余に論破されたんかい?
古神道卜時者を舐めてはあかんぜ。とうに〜
俺はもう、神武即位がいつなのかは高天原の妙覚の境地なのだ。w

>>862 >>861のことは以下のことです。言葉足らずで失礼しました。

 >>851 『日本書紀』允恭紀では、「木梨軽皇子」と「大泊瀬稚武皇子」は
     別人としていますが

これがイコールとなれば、貴女は年表等が整合するという主張なんでしょう?

868 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:00:32
紀元前660年に神武天皇が即位、皇紀2600年、
日本はいつまで公式に嘘を続けるんだろな。。悲しい
 

869 :太国 :2006/04/16(日) 23:08:56
>>868
2倍暦等だったなら、嘘をついているものでもないんです。
当時は1年が今の半年だとかだったから、あのころでは真だったことになり
ます。現今の暦からでは1年をそのとおり1年として、古代の年を当て
はめれば私どもにとって便利であり、現時点からでの実年を知悉する必要
が要求されます。だから、前660年より手前であることは確かですな。

870 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:19:16
>>867
古神道なんて言うのなら銅鐸を解いてみたら?www
君には無理。

なぜなら君は便所蝿だからwwwwwwww

871 :太国 :2006/04/16(日) 23:23:05
銅鐸は余の研究外のもの。お前さんの蟻の脳みそで考えるんだな?w
そう言うお前の、教育の悪い親の顔をみてやりたいものだ。wwwww

872 :太国 :2006/04/16(日) 23:25:10
負け犬君は論陣をはらんのかい?
名無しの他に何もないのか? だろうな?wwwww その頭じゃぁ・・・

873 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:25:25
お前の言う古神道なんて屁以下なわけだねwwww

874 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:29:21
銅鐸を解けないで古神道ねぇ…

いい加減、消えろよお前。

875 :太国 :2006/04/16(日) 23:30:46
無冠の古神道の最高権威者とは俺のことだ。
俺は古神道の理論を統御する。俺の後ろには・・・・・

畏れながら、『闇御一人様』の厚い関係が横たわっているのだ。
おお〜、その名に栄誉と安寧あれ〜。


876 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:32:22
まぁこいつ(太国)が、キティだと証明されたわけだが…

877 :太国 :2006/04/16(日) 23:32:54
銅鐸なんかは、理論と直接関係はない外様ではないか。
笑わせるな。そういうハンパはうぬらの食事でなないか?
猫の餌のようにな〜〜。wwwwwwww

878 :太国:2006/04/16(日) 23:35:53
皆さん、ごめんなさい。
余が馬鹿だった…

879 :太国 :2006/04/16(日) 23:37:21
偽者か〜。そんなことをしないと勝てんのか?ww

880 :太国:2006/04/16(日) 23:38:36
日本書紀紀年法研究家さんが女性だという事で、
スケベ心で粘着してしまいました。
すいませんでした。

881 :太国 :2006/04/16(日) 23:40:13
勝てんだろうなぁ〜。偽者までやるとはなぁ〜。?
ははぁ、過去のこっぴどく論破されて悔しいわけか?ww
論を持って来い。

882 :太国:2006/04/16(日) 23:41:37
>>881
いい加減にしろよ、偽者!
論を持って来い。

883 :太国 :2006/04/16(日) 23:43:20
ニセをやるお前の親の顔を見たいものだ。 論がないのか? 
名を語る位だから、よほど悔しかったんだな?ぎりぎりしてるんだろう?

884 :太国:2006/04/16(日) 23:44:09
>>882
ニセをやるお前の親の顔を見たいものだ。 論がないのか? 
名を語る位だから、よほど悔しかったんだな?ぎりぎりしてるんだろう?

885 :太国 :2006/04/16(日) 23:45:26
いい加減にしろ!
俺が本物だ。

886 : ◆XFWiqLgIoY :2006/04/16(日) 23:47:38
また明日な。w

887 :太国 ◆EbhKa9Wi0A :2006/04/16(日) 23:49:51
トリップつけます。

888 : ◆jbkrUfoLcE :2006/04/17(月) 00:17:34
おやすみ

889 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 08:26:00
>>864さん
「ニセ物」が登場すると大変であることは、>>877から>>888までの具体的事例でよくわかりました。
アドヴァイスいただきまして、ありがたく思います。


890 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 08:33:18
>>865さん
日本書紀紀年法は多列・並列構造にあるという私の説が、評価を受けており、
多くの研究者や歴史ファンの皆様に利用、応用していただけるものであることを、
ご紹介いただきましてありがたく思います。

891 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 08:41:16
>>868さん
日本書紀紀年法には、政治倫理思想のしん緯暦運説が応用されており、
推古九(601)年から、一蔀年数の1260年を引いた年代となる紀元前660年に、
紀元年が設定されています。したがいまして、史実としての神武元年は、別の問題として考えねばなりません。
しかしながら、一蔀を二蔀や三蔀にすれば、もっと紀元年を遡らせることもできたのにもかかわらず、
紀元前6世紀頃に位置付けたことには、何らかの歴史的事象を反映した意味があったのかもしれません。


892 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 08:52:53
>>877>>888太国さんとニセ太国さん
>>864さんから、「ニセ者」がでてまいりますと、「自説発表&議論どころでは無くなります」
とのことで、トリップを付けることが重要であるとのアドヴァイスを受けましたが、
>>877>>888までの書き込みは、まさに、「ニセ者」問題のよい事例となりました。

893 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 09:04:50
かたや複数の人物を一人の人物にまとめ、かたや一人の人物を複数の人物に分散させる。
ちょっとムリがありすぎるように思えますが?

894 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 09:11:26
ん?列が多重・並列になってるからこそそうなってしまうのか?

895 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 12:32:59
>>893>>894さん
>>865さんが、拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』の書評のコピーを書き込んでくださっており、
その書評のなかにおいても指摘を受けておりますように、紀年が多列・並列構造であることがわかっても、
なぜ、そのような構造にする必要があったのか、という問題は残っていることになります。
拙著でも、いわば、「応用編」として仮説を提起させていただいておりますが、
まだまだ、研究が必要とされる領域であり、多くの研究者や歴史ファンの皆様にも、
考えてみてほしい課題です。
私が提起させていただいている同一人物説なども、現段階では、これを説明するための仮説のひとつに過ぎず、
このスレッドでも、私の説は、批評、批判、そして、非難すら受けています。
しかしながら、いわば、「たたき台」となるような仮説は必要であると考えております。

896 :太国:2006/04/17(月) 18:06:50
昨夜は荒れましたね。ニセ者混乱でした。

897 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 18:37:54
ウィキペディアの『百済史年表』の記事に、百済の言葉として
日本語が出てくる。

【後期‐泗?時代】
(中略・・・)

657年 百済、王の庶子41人を佐平の官に任命 ←佐平の官。塞の神(サヘのカミ)と同じサヘ。

660年 唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす
663年 倭国の百済救援軍、白村江で唐軍に大敗

「佐平」は塞(さへ)と同じ意味だろう。守護・防衛を意味する日本語の古語。
サヘの語源は、日本語古語の障ふ(サフ)だ。障ふの意味は、「妨げる」「防ぐ」。
現代語の「防衛」と、ほぼ同じ意味である。
◆サエギル=塞きる=防ぐ=防衛

■百済史年表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8

やはり、百済人は日本民族だったようだ。


898 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 19:32:50
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/kodai/22rongi.html

ここでも研究家さんの研究が利用されてますね。

899 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 20:18:21
>>896の太国さん
>>896の太国さんは、本物の太国さんなのでしょうか?
「ニセ者混乱」が発生しておりますので、できましたならば、
トリップを付けていただきたくお願い申し上げます。

900 :太国:2006/04/17(月) 20:19:16
日本書紀紀年法研究家さん
B列の461年(雄略5年)の数字は、それがしは信憑性が高いと観ていましたが、
腹の中ではまだまだ油断がならないと、ブレーキペダルの上に足をのせた状態で
いたんであります。461年以降では、わが国も半島、百済等のほうでも1年がほぼ
現今の暦と同じく365日方式でやっていたということになっているんでしょうか?
紀の繼體紀を調べましたところ、月の後半の日付が、20数個の記述のうちた唯一つ
繼體7年の百済太子の死(8/26)以外は全部が月前半の記述で埋め尽くされて
いるようです。このことは繼體世が、1ヶ月が半月分とする2倍暦法を採用して
いたんではないでしょうか?そうなりますと461年以降が全部、現今の365日方式
という説に誤りが出たことになり、雄略5年をその年として基準とする貴女の論は
根底から崩れることとなりますが?いかがでしょうか?教えて下さい。

901 :太国:2006/04/17(月) 20:21:26
>>896
は真の私です。偽者が出ましたら、一時休止にします。

902 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 20:26:10
>>897さん
言語学的に、古代に半島で用いられていた言葉と日本語との間に、
どのような親疎関係があるのかは、興味深い問題です。
可能性としてはありえるような気もいたしますし、研究してみる価値はあるかもしれません。

903 :太国:2006/04/17(月) 20:34:24
以前は私は仁徳崩御以前(紀では399年に相当)が2倍年暦だろうと考察
していたんであります。この論ですと神武即位が前130年と定まるん
ですが、繼體世がどうやら(>>900の説明参照)2倍年暦を用いて
いたようだとの疑念が出て、この論は間違いらしいと断を下しました。
同論ですと竹内宿禰が140余歳で、数代仕えていたとしてもまだ多すぎ
の感じが拭えませんでした。
まあ〜それからは原点方向に舞い戻りなのです。

904 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 20:35:54
>>898さん
私の説を応用なさっておられる研究があることをお知らせいただきまして、
うれしく思います。
この記事に載っている拙論は、拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』
を発表する前年に、雑誌に掲載された拙論で、日本書紀紀年法の多列・
並列構造のいわば概略のみを記した内容です。


905 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/17(月) 20:45:50
>>900>>903太国さん
私は、日本古代において二倍暦が用いられていたということを否定しているわけではありません。
もしかしましたら、二倍暦が用いられていたのではないかとも考えています。
問題は、日本書紀紀年法と二倍暦との関連です。
太国さんが、ご指摘されておられるように、確かに、二倍暦であったことを
反映しているような記事の配置はあるかもしれません。
しかしながら、日本書紀紀年法の構造としては、雄略紀以降は元嘉暦が用いられて
おりますように、基本的には1年1紀年なのではないかと推論いたしております。

906 :太国:2006/04/17(月) 20:55:25
>>905
雄略5年=461年が堅いというのは、どこかに誤りがあるんじゃぁ
ないでしょうか?貴女のせいではなく、学会の定説に何かしら失敗が
あると観ざるを得ません。
それがしは2倍3倍併用暦が真だと考えるようになりました。

907 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:00:03
>>906
2倍歴・3倍歴においても年・月・日という単位(名称は別として)を使用していたとお考えでしょうか?

908 :太国:2006/04/17(月) 21:06:58
>>907
それは使用していたでしょう。2倍年暦だと、たとえば1ヶ月が1日〜15日
とかです。とりわけ1日〜14日などを使用していたように見えます。

909 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:09:14
>>908
日は今と同じとして、月に当たる概念は例えば新月から満月で1セット、満月から新月で1セットってな感じ?

910 :太国:2006/04/17(月) 21:17:28
>>909
そういうことも考えましたよ。天体の月が関わっていたとは充分考えれれます。
どうやってたかまでは〜?ちょっと ? です。
>>900 から、繼體世の件は、例外が百済の記事だから、考えられることは、
日本が1年が半年分の2倍暦で、月後半の日付からして百済が1ヶ月を通常と
同様のフル使用で、1年が現今の如くほぼ等しく1年相当としての暦だったん
ではないか?ということです。

911 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 22:30:26
>>910
これ以上は2倍年歴のスレで聞いた方がいいのかな?
それはともかくアイディアの一つとして2倍年歴、3倍年歴はありだと思います。
ただ月の概念を導入するとどうもしっくり来ないような気がします。
単に年と日の間の単位でならわからないでもないですが。

また2倍年歴は春耕秋収を起点としたとして、3倍年歴は何を起点として”1年”を数えたのでしょうか?
そしてどちらも”12ヶ月”で”1年”と数えたのでしょうか?
現段階ではデータが少なすぎることもあるのでしょうが、疑問が多く残ります。

912 :太国:2006/04/17(月) 22:43:22
>>911
にわかに起点を率直に解明するのはまだまだですが、3倍暦を使用していたか
と思われる事例として
宣化紀の記述で、宣化天皇の崩御が2/10になっていますが、欽明紀では10月
だとの異説がしょっぱなのあたりの文にあるのです。どちらが正なのか?
3倍暦だと、2月は6月でもあり10月でもいいことになるのです。
言い回しが違うだけで、1年が3分の1の4ヶ月ですから2月は10月ということ
になります。だから宣化紀の記述と欽明紀の記述は、3倍暦を使っていたとすれば
どちらの記述も正解だったということなのです。
2倍暦のスレの、 >482以降に私の2倍暦、3倍暦の解釈を書き込んであります。

913 :太国:2006/04/17(月) 23:05:59
>>912
ITでは10月のところ11月になっているのがありましたが、誤植でしょう?
私の「日本書紀」の書は10月の記述ですし、「神典」でも10月になっています。
宣化紀の日付を調べますと、数少ないんですが8つばかりの記述のうち7つが
上旬であり、11/17の寿陵の記事のみ例外で中旬になっています。
1ヶ月が10日だったんでしょうね?例外はなんらかの理由で遠回しに中旬の日付
にしてあるんでしょう?10日だと1年が120日での12ヶ月で4ヶ月分になります。

914 :太国:2006/04/17(月) 23:16:11
>>913
どうもまだ矛盾がある説明だったかな?再考したい。

915 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/18(火) 08:29:56
>>906太国さん
「学会」とはいずれの学会のことでしょうか。
拙論「日本書紀における紀年の編成をめぐる一考察」で、私は、はじめて、多列構造論を提起させていただき、
ついで、拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』にて、多列構造論をさらに発展させました。
そこで、一昨年の11月には、史学会にて、日本書紀紀年法をテーマに研究報告をさせていただく機会にめぐまれました。
太国さんは、史学会での研究報告ことを以って、定説とおっしゃられていられるのでしょうか。
それとも、雄略五年=461年説は、定説となっておりますので、太国さんは、このことをおっしゃられておられるのでしょうか。


916 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/18(火) 08:39:07
太国さん
二倍暦説について質問させていただきます。
太国さんは、『日本書紀』は二倍暦にもとづいて編年されていると推論なさっおられるようですが、
それでは、二陪暦で編年されていた『日本書紀』の原典となるような史書があったと、お考えなのでしょうか。
『日本書紀』の編年が二倍暦にもとづいているといたしますと、
原典となった史書がなければならないのではないでしょうか。


917 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/18(火) 08:46:26
>>907>>909>>911さん
暦法は紀年法と関連してまいりますので、このスレッドでも議論対象範囲の話題です。
ちなみに、紀年とは「年」で、暦法は「年月日」と整理することができます。
この意味で、紀年法と暦法は違います。
『日本書紀』では、日本書紀紀年法という『日本書紀』独自の編年の法則がありますが、
暦法は、元嘉暦と儀鳳暦という2つの暦法が用いられています。
すなわち、「年」だけではなく、「年月日」まで問題にした場合、暦法が関連してくるのです。

918 :太国:2006/04/18(火) 09:49:24
>>915
当然宗教団体の学会さんでなく他のでもなく、日本の史学会のことです。
日本書紀紀年法研究家さんの基準年である461年=雄略5年説は、その史学会での
定説だからとして、間違いないと観てこの説を踏んでいるわけなんでしょう?
>>916
どうも 2倍暦の原典となった史書 の意味が具体性に欠けますので、貴女の
言っていることが、さらにどういうことなのか、>916からは分からんですが?
その原典が2倍暦なんですよとの書き込みからの史書なのか?それともそういう
ことは書かれていないが、2倍暦を匂わせる意味の原典なのか?他の意味か?
はっきり分かるわけもないです。ただどちらとしても、
紀の編纂時、その原書が多数あったわけで、その中に2倍暦の原典的史書が
あったと観てもおかしくはないでしょう。

919 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/18(火) 12:24:41
>>918太国さん
たしかに史学会は、日本で最も早くに設立された伝統ある歴史学会ですが、
史学会で定説を定めるということはありません。研究者の集まりですので。
学説においては、蓋然性、論理性の高い説が、おのずと定説として扱われてくるようです。
すなわち、明治時代に、実証主義史学が導入されて、議論されてきた結論として雄略元年=461年
という説が定説とされているのです。
1972年に韓国にて、伝武寧王墓が発掘調査されていますが、出土した墓誌も、
雄略五年=461年であることの支証となっています。
文献史学、考古学の両面から雄略五年=461年と考えてよいのではないでしょうか。
また、太国さんは、二倍暦につきましては、原典となる史書があったとお考えのようですので、
もうひとつ質問させていただけば、その史書は、いつ頃からの記録を収めたものであったのでしょうか。

920 :太国:2006/04/18(火) 12:54:49
>>919
いつ頃からということは、それはわかりませんな?
どうも紀を調べましたが、舒明世まではだいたい月の下旬の記述が目立って
少ないんですよ。だから、もしかしたら、驚きかも知れませんがね、舒明世
以前は2倍、3倍暦をやっていたんではないのか?と〜、461年=雄略5年定説
は崩れやしないかと疑問を持っているんですよ。
とにかく、それがしは紀の編纂者ではないので、うちわしか知りにくい原典の
史書とやらがいつ頃からかは分かるものではないです。しかし、上のことで
舒明以前は2倍または3倍暦の可能性が充分ありうると観てるんです。
舒明世の場合、30個弱ばかりの日付がありますが、このうち下旬の記事は4個で
あとは上旬中旬の日付です。ところが、皇極世になりますと、ものすごく下旬の
数字が急に沢山出てくるんです。だから皇極からは通常の1年が1年の暦だと
云えます。

921 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 13:02:32
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな
それはわかりませんな

922 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 13:11:19
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw
わからないやつが偉そうに言うなw

923 :太国:2006/04/18(火) 20:17:09
日本書紀紀年法研究家さん >>920 の件
この数日出てきた疑念を書き込んだものですが、舒明世の紀の日付の記述で
下旬が少ないことでこの天皇世も2倍暦を使っていたのか? との想いを
抱いたのですが、確かに少ないですが4個ということで、通常暦の可能性も
薄いような気はしましたが再検討をしてみたところ、どうやら通常暦の方が
正解であるとするべきだと考えに戻りました。というのは忘れていましたが、
推古崩御の年に紀に日食の記述があり、これは天文学的に合致しているという
結論が出ており、通常の暦が正解であると思い直しました。

けれども >>900 で論じたとおり、繼體世は日本内の記述なる20数個の日付は総て
が月前半の数字であり、月後半(16〜31日)の日付が唯の一つもないという事は
繼體世は2倍暦をやっていたと思うんですが・・・?

924 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 21:00:20
まぁなんだ。このスレの最高語録は…
>>769の太国 

みどもの言ってる事は、キツイ語句かも知れませんが誹謗中傷ではありません。
誹謗のように聞こえるのは貴女への警告音ですし、中傷に聞こえるのは、決して
貴女に暴行傷害的なことを論説で言っているものではなく、医者の貴女への
手術のメスのようなものですから、双方身体に傷ができる痛手のような言動
だったかも知れませんが、それはやむにやまれずの治療のため出来る最小限の
傷なのです。


何  様  な  ん  だ  こ  の  ハ  ゲ   は!

925 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 21:07:41
医者の貴女への 手術のメス・・・
やむにやまれずの治療・・・


お  ま  え  が  ハ  ゲ  を  治  療  し  ろ!

926 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/19(水) 09:32:50
>>920太国さん
そもそも二倍暦説といいますのは、仁徳天皇以前の天皇紀の紀年数が、非現実的な数字であったり、
歴代天皇の享年(宝算)が、長寿に過ぎるといった点から、これを説明する仮説として、
日本古代では、1年を2年と考えていたのではないか、
という発想が提起されるようになったのではないでしょうか。
『魏略』の逸文にも、二倍暦があったと考えられるような記述がありますので。
このように考えますと、仮に、『日本書紀』の原典となる史書があったのならば、
非現実的な紀年数や享年の見える天皇紀は、それらの史書にもとづいていると推論されてくることになります。
すなわち、神武紀から、すでに原典となる史書があったと考えられることになりますが、
この点は、いかがお考えでしょうか。


927 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/19(水) 09:35:18
>>924>>925さん
太国さんの譬え話が、当を得ていないことをご指摘いただきまして、
ありがたく思います。
私は、いたって健康ですので、手術を受ける必要が無いのです。

928 :太国:2006/04/19(水) 10:20:47
>>926
神武となりますと神代文字で書かれていたのか?との考えが浮かんできますが、
原典となる史書はあったでしょう。しかしそれが、純粋に暦専門の書なのか、
当時とそれ以前の歴史書を兼ねた暦の記述の書かとかいうことは、まるっきり
わからんわけですよ。古神道の派の中では暦は存在していたと主張する論者は
おります。学会では神代文字は新村某のためか否定的ですし、そういう古神道者
のいう暦の古書があったとは、出て来ない限り学会は認容しないでしょう。
繼體世の紀の日付のことからの考察ですが、>>900 に述べたように百済の太子
死亡の記事以外は全部といってよい位月前半の記述であり、月後半のそれは20数
個の中で無いわけなんです。このことは当時百済では1年が現今同様の1年の暦で
やっており、紀の編纂者側が月後半の記述がないことに不審を抱いたが、それを
解決する手がかりのないままにたまたま百済の文に月後半の記述あるの見つけ、
埋めあわせをやらずにいられず、1つ、当時の月後半の記述として挿入して間に
あわせをするのが適時と考え、それを書き込んだということになりましょうか?

929 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 11:34:21




神代文字 キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!








930 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 11:53:42
二倍暦を採用する古史古伝は存在しない

931 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/19(水) 13:06:02
>>928太国さん
太国さんの説ですと、神代文字という文字で書かれた二倍暦を用いた歴史書があったと
考えざるをえませんが、>>930さんもご指摘のように、二倍暦を採用する古史古伝は存在しないようです。
二倍暦があったといたしましても、二倍暦をもって編纂された歴史書があったということには、
無理があるように思います。
したがいまして、日本書紀紀年法は、二倍暦ではなく、別の理論で構成されていると考えられます。
私の多列構造論は、蓋然性、論理性の高い説であると思いますが、いかがでしょうか。

932 :太国:2006/04/19(水) 13:28:42
あひアヒ亜日阿比吾卑亞肥

933 :太国 ↑:2006/04/19(水) 13:57:53
ニセ者です。

934 :太国:2006/04/19(水) 14:53:57
↑ニセ者です。

935 :太国 ↑:2006/04/19(水) 15:05:06
 ニセ者          が出ましたので、日本書紀紀年法研究家さん
              〜後ほどに・・・・・。

936 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 21:49:01
>932-935


937 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:35:50
http://blog.goo.ne.jp/kitora-aska/ 
久しぶりに古代史の本、倉西裕子『「記紀」はいかにして成立したか』を読み通せた。
倉西氏の『日本書紀』紀年論に関する研究には意義があると思う。
しかしこの「記紀」成立に関する所説は到底支持できない。
通説では『書紀』は元正朝に舎人親王らの手によって完成された、とされている。
しかし、元正朝に完成したのは『日本紀』であり、
現行『日本書紀』はその後の改稿によるものである、という少数説がある。
倉西氏もそう考えている。なかなか柔軟な姿勢であると思う。
『書紀』に対してそのような柔軟な姿勢を持てるのなら、
『古事記』に対しても柔軟な姿勢を持つべきではなかろうか。
つまり、『古事記』は偽書ではないかと疑ってみるべきではなかろうか。
『日本書紀』は『日本紀』を改稿したもの、とする説よりは、
『古事記』は平安朝に多人長の手によって述作されたもの、とする説の方が遙かに説得力に富む。
しかし倉西氏は『古事記』に関しては特別な思い入れがあるようだ。
偽書説は初めから考慮の外、というより、感覚的に受け容れ難いらしい。
倉西氏の、『日本書紀』は“「天」の史書”、『古事記』は“「地」の史書”という意味付けは、
実証的な史料批判の帰結、というより、観念的な思弁の産物というべきだろう。
『古事記』は史書としては中途半端に終わっている。
官撰あるいは勅命による史書としてはあり得ない形である。
それに関して、倉西氏は腹案があるそうで、いずれ公表されることだろう。
関心はあるが、しかし、真実が明らかになるだろうという形の期待は持てない。
『古事記』が偽書なら(私はそう思っているが)、倉西氏のこの仕事も、将来の仕事も、
すべて根底から覆る(私はそう思っている)。残念なことである。
----------------------------------------------------------------------

こういうサイトにおける「言いっ放し」には、研究家さんも、当然、反論あるのでしょうね。


938 :太国:2006/04/19(水) 22:45:58
古史古伝は偽書だから仲間入りをさせたいわけだ。w
じゃぁ、真書はどれだい?

939 ::2006/04/19(水) 23:01:24
今まで泣いてたんだね、おかえり!

940 ::2006/04/19(水) 23:18:06
ワンワン

941 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 04:11:20
古事記は天武の書
日本紀は不比等の書
日本書紀は仲麻呂の書

942 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 07:07:02
古事記は律令体制がまだ確立に至らない
天武朝の思想が反映されているという考え方がありますので
序文はもとより本文も偽作書ではないと思われますが、
日本書紀同様に改題・改編・追記等がなされている可能性も
まったくないとは言いきれない

943 :太国:2006/04/20(木) 08:07:48
>>931
>二倍暦を採用する古史古伝は存在しないようです。・・・〜二倍暦をもって
>編纂された歴史書があったということには、無理があるように思います。

日本書紀紀年法研究家さん。貴女の論だと上の2行で、「存在」しないという
ことから、〜歴史書があったには無理ということですが、>>900 >>928
私が主張した繼體世の紀の日付の記述は、百済の1件を除いて本家日本の記述
は月後半がまるで無い即まるで→「存在」しないのですが、これですと当時は1年
が1年である通常暦があったとするには無理があるようには思いませんのですか?
この記事の考察から、日本は当時は1年が半年の2倍暦法を採用しており、
かたや半島の百済は8/26の日付から1月が1月の内容から1年が対等なる1年の
通常暦を使用していたと読み取れてしまうのですがねぇ〜?

944 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 09:11:47
>>937さん
拙著『「記紀」はいかにして成立したか 「天」の史書と「地」の史書』
についての書評のコピーを書き込んでくださいまして、ありがたく思います。
拙著で提起させていただいた仮説は、『日本書紀』が、どのような経緯で成立したのか、
それを合理的、論理的に説明するための一案です。
書評を書いてくださった方には、あまり評価されなかったようなのですが、
面白い問題点を提起させていただいたと思っております。
私は、『日本書紀』と『古事記』は、グランド・プランにもとづいて、
平行して編纂されていると推論いたしております。したがいまして、
『日本書紀』と『古事記』も同じ頃に成立していると考えられます。
日本書紀紀年法は、『古事記』の崩年干支がないと復元できないからです。
このような点から、『古事記』に信憑性を認めているのです。

945 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 09:18:23
>>941さん
『古事記』は、天武天皇の書というのは問題があるかと思いますが、
『日本紀』には藤原不比等、『日本書紀』には藤原仲麻呂が携わっていると、
私も考えております。
ちなみに、>>941さんは、私の説から、『日本書紀』は仲麻呂によって『日本紀』を改編して、
成立したとお考えなのでしょうか。それとも、別に、仲麻呂説を唱えておられる研究者の方がおられるのでしょうか。

946 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 09:26:49
>>942さん
>>944でも述べましたように、日本書紀紀年法の構造的観点からは、
『日本書紀』と『古事記』は、グランド・プランにもとづいています。
基本的には、同じような時期に成立していると考えられます。
しかしながら、>>942さんがおっしゃられるように、『古事記』にも、
改題、改編、追記があった可能性はあると思います。例えば、
『上古諸事』⇒『古事記』といった経緯も想定できるかもしれません。

947 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 09:29:52
> それとも、別に、仲麻呂説を唱えておられる研究者の方がおられるのでしょうか。
門脇禎二

948 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 09:31:01
>>943太国さん
太国さんは、むしろ継体紀において、二倍暦を採用している史書が原典として
用いられているとお考えなわけですね。しかしながら、継体紀の暦法は、元嘉暦です。
この点は、どのようにお考えでしょうか。

949 :太国:2006/04/20(木) 09:56:48
>>948
本当にその当時元嘉暦というえらい長めの分数を使う暦法が使われていたん
ですか?使っていたとすれば、そいつを月半分の運用に出来うるということは
云えませんか?それは推古の世には使っていたでしょうし、日食の件で紀の記述
から1年=1年方式の通常のやり方だったろうとは非常に堅い考えでしょうが。
実際、繼體世に明確に元嘉暦とやらが使われていたとかする資料があるんで
すか?讖緯説での辛亥革命の論を打ち出すよりも、蘇我氏をした大化元年を基点と
するほうがまだ革命らしく見えますが、そいつを基点としないで、斑鳩宮造営の
大事件でもない年を基点としているその論法は疑念を感じるのですが・・・?

950 :太国:2006/04/20(木) 09:59:44
>>949
誤) 蘇我氏をした大化元年を基点とするほうが
正) 蘇我氏を誅した大化元年を基点とするほうが

951 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 10:22:20
> 繼體世に明確に元嘉暦とやらが使われていたとかする資料があるんで
すか?

952 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 10:23:59
二倍暦では閏月はどうやって決めてたの?

953 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 10:38:42
>>947さん
門脇禎二氏のいずれの研究論文、もしくは、研究書でしょうか。
また、門脇氏の説は、『日本紀』から『日本書紀』に改編したのが、
藤原仲麻呂であるという説なのでしょうか。
それとも、『日本書紀』を編纂したのが、仲麻呂であるという説なのでしょうか。

954 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 10:49:31
>>949>>950太国さん
『日本書紀』において用いられている暦法についての研究は、以下のような論文・著作があります。

小川 清彦 「日本書紀の暦日に就いて」
内田 正男 「『日本書紀』の暦日について」
有坂 隆道 『古代史を解く鍵 −暦と高松塚古墳』

 暦日について研究史も含めますと、有坂氏の『古代史を解く鍵 −暦と高松塚古墳』が、
よみ易すく、また、詳しいと思いますので、ご参考になられたらよいのではないかと思います。

955 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 10:51:32
太国さん
>>952さんも、閏月の問題などをご指摘されておられますように、
太国さんのおっしゃられる「二倍暦」は、「二倍紀年法」なのではないでしょうか。

956 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 11:40:16

二倍暦など存在しない。貴重な人生を空費するな

957 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 12:01:58
> 納八妃雖有先後而此曰癸酉納者
> 據即天位占擇良日初拝後宮爲文
> 他皆放此(継体元年三月癸酉)

日付は占いで決めてんのかもw

958 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 12:07:48
>953
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4311410166.html
「古事記」と「日本書紀」の謎

今これを読んでいるのですが、そのようなことが書いてあります


959 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 13:29:23




太国アボ━━━(゚∀゚)━━━ン!!!!!







960 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 14:04:40
古事記は畿内文書・伝承だけで書き上げたもの。
日本書紀は九州王朝の書庫文書を入手後に書き直したもの。

961 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 15:40:46
>>957さん
『日本書紀』の日付は、何らかの史書の記録に正確な日付が載っており、これに従ったわけではなく、
『日本書紀』の編纂期において、占いなどで所謂吉日を撰んで、その日の出来事として記載しているということでしょうか。
そのようなケースもあったのではないかと思います。
しかしながら、私は、元嘉暦が用いられている雄略紀以降については、
『日本書紀』の原典となる元嘉暦を用いた史書があったのではないかと考えております。

962 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 15:43:58
>>958さん
958さんのご指摘の『「古事記」と「日本書紀」の謎』は、以前に読んだことがあります。
記憶を辿ってみて、そのようなことが書いてあったのか思い出せません。
藤原仲麻呂は、どのような形で、『日本書紀』の編纂に携わったと書いてあるのでしょうか。

963 :小国:2006/04/20(木) 15:46:10
太国って名前やめます…
太なんて名乗れるほどの知識もなく、
威張っていた僕が馬鹿でした。

本当にすいませんでいた、みなさん。

もう、僕は…(涙

964 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 15:48:42
太国さん
太国さんが、仮に、二倍暦説の研究をお続けになるのであるならば、
「二倍紀年法」の研究に変更するか、もしくは、日本書紀研究から離れて、
日本古代に一月を半月と数える二倍暦という暦の有無の研究に専念なさっては
いかがでしょうか。
まだ、古代史研究の領域としての可能性は残っています。

965 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 15:55:37
>>960さん
『日本書紀』と『古事記』の史書としての性格の違いは、興味深い研究課題です。
私も、一案として仮説を提起させていただいておりますが、
様々な仮説によって説明を試みてみることは、重要です。
『古事記』を畿内、『日本書紀』を所謂「九州王朝」の記録を含めたものというお説は、
一案として面白いと思います。

966 :太国:2006/04/20(木) 16:39:33
>>963さん どうも〜 仲良く行きましょう。
>>952さん
具体的にはわからんですが、日本書紀の日付の記述を調べると神武〜欽明の世の
間、29日30日31日が無いのです。敏達の世に初めて30日の日付が現れるのです。
だから、欽明以前は1日〜28日の丁度4週間を分割して2倍暦3倍暦のやり方を
用いていたのではないか?と思考するものであります。
そして、この29日以降の余りを1年分で貯まらせると29日分ばかりとなり、これ
を閏としたのかなあ?と思ってもいます。29日分は月齢には便利ですからねえ。

967 :太国:2006/04/20(木) 16:51:46
>>966
ところで重要日付と云えるものの中で不明で困る最たるものは、允恭と宣化天皇
の即位日ですな。双方の天皇とも12月即位ということは紀の記述から分かって
いるわけなんですが、日がいつだったか、まさか29日30日31日の日だったのかと
いう可能性?〜ありうることですが分からんわけなんですよ。

全国の古代史研究家の皆さん、どうすればその日付を特定できるのでしょうか?
解明された方はおられますか?はは〜ん、分からない ?困りましたなぁ。w
じゃぁ、拙者太国が教えてあげましょう。以下のとおり

允恭天皇は 12/1 です。
宣化天皇は 12/9 です。

968 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 19:31:08
>>963小国さん
もしかしましたら、「小国」さんは、「立ち直ったA」さんではないかと、推理いたしましたが、
いかがでしょうか。

969 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/20(木) 19:43:11
>>966>>968太国さん
太国さんの論理ですと、継体、安閑、宣化、欽明、敏達と非現実的ではない紀年数の天皇紀において、
二倍暦、三倍暦が用いられていることになります。これは、一般的に二倍暦論者とは反対の論理となるわけです。
すなわち、非現実的紀年数や宝算を説明するために、二倍暦説は主張されるようになってきたわけですから。
したがいまして、継体以降の歴代天皇の在位年数は、極めて短かったと想定されておられるわけですね。
また、閏についての解釈は、『日本書紀』の編年についてのご見解でしょうか、
それとも、日本古代に実際に二倍暦が使われていたと想定して、その二倍暦における閏の設定方法についてのご見解でしょうか。

970 :太国:2006/04/20(木) 19:58:57
>>969
繼體の日付は月後半の記述が百済の1つの例外のほか全部月前半の数字なので、
そうではないか?と想うわけです。しかし安閑〜敏達はなんとも?ですが、やはり
殆ど月後半のそれがありませんし、あっても2つまでのようです。
だから2倍暦3倍暦の可能性を否定しきれないわけです。
閏に関しては、それがしの即興で考えたことですので、参考に留まります。

971 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 20:29:06
即興で考えたこと
即興で考えたこと
即興で考えたこと
即興で考えたこと
即興で考えたこと
即興で考えたこと
即興で考えたこと
即興で考えたこと

972 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 20:51:34
>966
> 31日
陰暦に31日はない。二倍暦にはあるのか?

>967
日本書紀では安閑の崩御日は12/17であり
宣化の即位が12/9とはどういうことだ?



973 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 20:56:16
>>972さん。
グッジョブ!

太国。
答えろ、ハゲ!

974 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 21:02:55
>962
詳しく書いてないようです。
・「日本書紀」の書名の初出は律令の令の注釈書の「古記」の引用文で
 その「古記」の成立は天平十二年
・「日本書紀」は原型の「日本紀」に奈良時代からそれ以降の時代に
 追記されたもので、その論拠はある
・仲麻呂が大化改新などを書き込ませた

975 :太国:2006/04/20(木) 21:39:28
>>972
実用での2倍年暦では確認はとれていません。即興ですから、おかしければ
修正願いたい。

安閑崩御の数字に関しては、この板での「2倍年暦の真実」のスレの
>650 に理由が記述してあります。なおさら2倍暦、3倍暦の思いがしてくる
質問です。なお。>482から拙者の書き込みを読めばそれがしの言わんとすること
が分かると思います。

976 :太国:2006/04/20(木) 21:48:24
>>972さん 後半の質問はえらく重要でそれがしにとって役立つ質問
でした。紀の編纂者は感づいていたようです。矛盾のあることを・・・。
だから、困るんで即位日を抜かした記述をしたんですよ。

977 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 21:49:27
邪馬台国は、畿内にあったようだね。

倭奴国・・・・・・ワのクニ=大和

狗奴国・・・・・クィのクニ=木国

かもしれないね。
古代日本では、「の」を「ぬ」と発音した可能性がある。


978 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:31:19
>>975
>実用での2倍年暦では確認はとれていません。即興ですから、おかしければ
>修正願いたい。


ふ  ざ  け  る  な、  ズ  ル  ハ  ゲ!

979 :太国:2006/04/20(木) 22:39:58
>>972さん
今回のその後半の質問は、日本書紀の秘密を明かす鍵と思われる質問ですね?
重大な秘密の一端が、氷山の一角のように現出したように見えます。
どうやら、宣化世は3倍でなくて2倍年暦を使っていたような気配を強く感じ
るようになりました。誠に有難う存じます。

980 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:57:00
宣化即位日12/9の根拠はなんでしょうか?

981 :太国:2006/04/20(木) 23:28:36
これの新スレに書こうか考えていますが?
迷惑だから「2倍暦の真実」のほうに書きこむのがいいかなと考えています。
よければ、ご貴殿 ↑ を上げて下さい。ならば明日以降に書き込みますかと?

982 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 23:37:09
二倍暦は紀年法解明スレの品位が下がるから書き込まなくてよろしい

983 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 00:41:36

二倍暦など存在しない。貴重な人生を冗費するな

984 :太国:2006/04/21(金) 07:32:47
>>983さん
マヤ文明ではツォルキン暦(260日暦)というのがあります。180日暦ではない
ですが、これを参考にしますと2倍暦は可能性としてはありうることです。
貴方が存在しないなどいう話は独断すぎると思います。

985 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 07:46:45
古墳は須弥山ではないかと言ってた人に、
あれほどキチガイみたいに反対してたヤツが、

マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では
マヤ文明では



986 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 09:10:50
>>970>>975>>976>>979>>981>>984太国さん
太国さんの二倍暦説では、二倍暦説での2年が閏を算出するための1単位となっていることになります。
二倍暦は、2年を一単位とするもので、単純に2年目に閏が設定されるものであったのでしょうか。
『日本書紀』の閏は、元嘉暦、もしくは、儀鳳暦にもとづいて設定されています。
すなわち、太国さんの二倍暦説では、『日本書紀』の暦日における閏を説明することができないのです。
「二倍紀年法」ではなく、二倍暦という暦であるのならば、年月日や閏の計算も一定の法則にもとづいていなくてはなりません。
また、31日が無いということによって、1〜15日までを二倍暦で一月と数えていたのならば、
これを『日本書紀』の編年にあわせるためには、午前と午後を、それぞれ1日と見なさねばならないことになります。





501 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.02 2018/11/22 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)