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【江上】騎馬民族説は今。。。vol.5【波夫】

1 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:04:23
☆前スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.4【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1135934774/

騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!               江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm
第208回 新春講演会「騎馬民族は来なかった」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm
第209回 特別講演会 「古代日本の馬文化   『江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を考える』 」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku209.htm
是か否か「騎馬民族征服王朝説」
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub19.html

2 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:05:51
☆過去スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/ 〜981
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.2【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1096735827/
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.3【波夫】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1120222213/

☆過去スレミラー
1 http://2ch.pop.tc/log/06/02/19/0331/1068492251.html
2 http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html
3 http://makimo.to/2ch/academy4_history/1120/1120222213.html

3 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:06:53
vol.1キャッシュ
http://64.233.179.104/search?hl=ja&q=cache%3A2ch.pop.tc%2Flog%2F06%2F02%2F19%2F0331%2F1068492251.html&lr=

4 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:08:31
古墳時代の外航船が出土・大阪の蔀屋北遺跡
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20041103AT1G0202F02112004.html
http://makimo.to/2ch/academy3_history/1096/1096735827.html#196
 準構造船は丸太の内側をくりぬいた丸木舟を船底に使い、・・・
復元した場合、船の全長は10メートル前後と推測される。

「大王のひつぎ」実験航海
ttp://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/001/da_001_04042901.htm
科学する邪馬台国  古代の船と航海ルート
ttp://inoues.net/science/war.html
おおさか考古学百景 第5部「統一への鼓動」 (5) 船形埴輪の発見
ttp://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/koukogaku/koukogaku051201.html
線刻画で古代船団 出石町の袴狭遺跡
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/WebStudio-copy.htm
千代・能美遺跡 7 準構造船について
ttp://www.ishikawa-maibun.or.jp/maibun/hakkutu_2000/sendai/sendainomi_2000.htm
造船技術
ttp://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/2-3.htm


クビライが日本侵攻のための造船命令を発したのは1279年で、40m級の超大型船は元冠船と考えてよい。
ttp://www.sci.nagoya-u.ac.jp/kouhou/06/p16_17.html

5 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:12:58
>>1 >>2

前スレvol.4は容量オーバーでdat落ち

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.4【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1135934774/ 〜982
ERROR:このスレッドは512kを超えているので書けません!

6 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 13:45:12
前スレ>>982
>全く関係の無い国家に、その子孫である、というような事をいうのはよくあったでしょう。

相手国の王朝が外来者の子孫であることを言っている「国書」の例があったら教えてくれ。

>例えば新羅を建国したのは、天皇家だ、と語ってる奴もいたわけだし。

国書でそれを言っている例があるのだろうね。いまは国書の話をしているのだが。

>具体例を示していただけますか?

ほんの一例を挙げれば、映画にもなった「陰陽師」(おんみょうじ)というのが
あるだろう。あの読み方は「陰」を「om」として受け入れた名残なのだ。

7 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 18:04:33
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 ◆◆

3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、楽浪郡を攻撃して滅ぼしたため、
これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の
東部地方に住んでいたが、356年に倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)
が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。


8 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:51:57
>>2
追加

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.4【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1135934774/

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.4【波夫】
http://makimo.to/2ch/academy4_history/1135/1135934774.html

9 :日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:52:39
連投age

>広島牛ちゃん
『文明の生態史観はいま』、図書館行く時間なくてまだ見れてない。

10 :日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:16:42
3月32日

11 :白馬青牛:2006/03/32(土) 01:40:46
>>9
梅棹氏の江上説への批判は、去勢や搾乳文化の欠落を問題点にして
おられる。問題を遊牧民文化にすり替えておられるようで。
江上氏と同じくツングースによる国家形成では共通するのであるが。
確かにツングース(満洲・アムール系)は、高句麗・渤海・女真・挹婁・
オホーツク文化人等水軍・海賊的要素が強い。
加藤晋平氏は、オホーツク文化人が豚を連れて北海道に殖民した事と、
ヴァイキングが植民地に豚等の家畜を連れて渡ったて行った事に共通点が
あるとされ、梅棹氏は、濊・貊系漁撈ツングースの南下、「高句麗・百済・
倭を同じ原理で作られたツングース諸国家群で、西洋のノルマン・
コンクェストと対比される極東水域でのツングース・コンクェストと
される(日本の海洋民、未来社刊、P40)。
南方系文化の江南・日本列島・朝鮮南部、つまり広い意味での越系文化圏で
ポリス的殖民群は出来ても、国家形成となると北方民族による力が大きい。

12 :日本@名無史さん:2006/03/32(土) 16:46:07
白村江の戦いは、中華世界と扶余世界(ツングース世界)の対決だった。


13 :日本@名無史さん:2006/03/32(土) 21:29:45
>>12
ありえん

14 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 08:13:58
新羅もツングース系でしょ、支配者は。

15 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:10:19
倭はツングースじゃないし、支配者は。

16 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 18:50:34
>>14
>新羅もツングース系でしょ、支配者は。

金官のときに新羅が扶余の強い影響を受けたという意味ではその通り
だと思う。(それ以前はわからないが)
そのことは、新羅が金官とほぼ同時に北方式木郭墓を 作り始めることから分かる。
ところが新羅は徐々に新羅式の特色を表して行く のである。
新羅は「扶余から独立した」、あるいは扶余によって民族形成の契機を与えられた、
と言えるのではないか。

日本書紀に新羅の使いが装束を中国風に変えたことを、倭がなじる記述がある。
もともと別の装束であったのなら、なじるいわれはない。
扶余世界にはなにか共通の表象があったのではないか。
新羅は「扶余世界からの裏切り者」だったと思う。



17 :日本@名無史さん:2006/04/02(日) 23:15:03
>>16
三輪王朝に須恵器が出てないし、扶余参画説は無理だろう。

18 :白馬青牛:2006/04/03(月) 00:24:07
新羅は、支配者がツングースかどうか断定できん。
ツングース系高句麗、百済とも違う、東アジアの中でも特異な存在で
あるスキタイ系積石式木槨等、遊牧民的、西方的文化要素を持って
おった。秦人(チベット・ビルマ系羌族か?)の移住も含め謎が多い。
新羅は、扶余系と違う可能性が強いと思う。

19 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 03:00:57
で?具体的に此処にいらっしゃる方々は現在の朝鮮族のルーツが何だと思ってらっしゃる?
まさか三国が同じ民族だったとは私は思わないんだけど

20 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 08:48:01
>>18
同じ形式の木郭墓を作ったということの解釈はいろいろできる。
表面的に扶余への従属を表したのかもしれないし、一時的に扶余の支配者を受け入れて
後に追放したのかもしれない。
支配者の系統はともかく、少なくとも一時的に扶余世界に属した、ということを言った。

>>17
三輪王朝体制に参画したからと言って、その本拠は三輪以外の大和周辺、あるいは大和以外
であってよい。

21 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:09:54
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 ◆◆

3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、漢人が支配する楽浪郡を
攻撃して滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の
東部地方に住んでいたが、356年に倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)
が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。




22 :日本@名無史さん:2006/04/03(月) 23:41:36
騎馬民族が九州王朝を撃滅して東進し邪馬台国を乗っ取った。

23 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 00:28:53

いいよ、いいよ
ビリビリ痺れてきちゃう

24 :白馬青牛:2006/04/04(火) 00:56:04
>>20
新羅は、高句麗、百済よりも濃厚なスキタイ直系文化で、江上氏は、
アルタイ以西との深い繋がりを指摘された。
新羅の金冠等も直線的で、遊牧的内陸文化。百済は曲線的で、沿海州や
オホーツク文化人の土器文化も曲線文的であり、ツングース的漁撈民文化と
異質な存在であると思う。新羅は内陸民的要素が強いのか、倭人との
戦闘でも海が苦手で、籠城や騎馬による追撃等内陸戦闘を重視しておった
と思える。後の新羅が海洋国家として発展するのは、百済・高句麗・濊等の
住民を吸収してからではないのかと。新羅・高麗支配者も海辺の漁民を
軽蔑する傾向にあったと思える。朝鮮で、漁民や動物を屠殺する賤視された
集団が契丹に味方し、倭寇という海賊勢力となったのも興味深い。
結局朝鮮は、海洋より内陸国家の要素が強くなったとも云える。
新羅の地は、後に慶州y氏等トルコ系回鶻人が帰化したり、更に韓国人の
HLAの「B13ーDR7」(西日本人に多いB52ーDR15以西)が
モンゴル起源の問題も含め、西方的であることも面白い。

25 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:46:54
>>20
>三輪王朝体制に参画したからと言って、その本拠は三輪以外の大和周辺、あるいは大和以外
>であってよい。

だから、宇治で見つかった4世紀後半の須恵器が証拠になるかといえば、
けっしてそうはならないだろう。
山城国だし、秦氏だと俺は思う。

26 :日本@名無史さん:2006/04/04(火) 23:55:35
>>18・白馬青牛氏
>秦人(チベット・ビルマ系羌族か?)の移住も含め謎が多い。

これは指摘する人がほとんどいないのですが、
韓国の国立慶州博物館に、新羅時代の装飾宝剣という韓国の国宝?があります。
なぜかHPが閉鎖されてて、写真紹介できないのが残念ですが、
この宝剣に「三つ巴」の図柄が描かれてます。

三つ巴とは秦氏が創建した八幡神社の神紋ですね?
で、この装飾宝剣と同系のものが、
カザフスタンからも出土してると、慶州博物館のHPは言ってます。
カザフといえば弓月国ですね。
私は「弓月君・秦氏」を証明する事になると思うのですが、どう思われますか?

27 :白馬青牛:2006/04/05(水) 02:09:30
>>26
「國立慶州博物館」の日本語版を持っておるので調べたところ、
嵌玉金装宝剣、慶州、鶏林路14号の上部に「三つ巴」の図柄が描かれて
ますね。赤色で真ん中や区切りは金色。剣の中央ははハート型。
カザフスタンの出土は、ヌルマンベト出土、青銅短剣に巴的文様が
ありますが、他はよく知らんので断言出来ません。韓国は遊牧文化に
乏しいので、トルキスタンの弓月国から「弓月・秦氏」を証明するのは
難しいのですが、韓国人とカザフ人、(モンゴル中・西部も含め)の
容貌が似ておるのは、シベリア抑留者のよく言われることです。
両者の角ばった容貌からも伺えます。カザフ的な快活で智謀に長ける
性格が韓人に何処まで流入したか解りませんが。しかし高句麗・百済よりも
遊牧民的性質、新羅人の内陸的性格は、勿論ですが、東ユーラシアよりも
西ユーラシア的であると思えます。

28 :日本@名無史さん:2006/04/05(水) 18:45:55
>>12
【和漢共栄時代から三民戦争時代へ・カラ半島の古代史】

3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、楽浪郡を攻撃して
滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、
そして、356年に志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)が、
カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力との関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本を侵略した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開していた地域だったのである。


29 :26:2006/04/05(水) 22:32:07
>>27
ありがとうございました。

30 :日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:31:15
三国志面白いぜ!


NHKドイツ語講座


古い歌(ジンギスハーン♪)


ドイツ語だったんだね!


ワァはっはっはっ・・・・

今日聞いて好きになったWWW

31 :日本@名無史さん:2006/04/08(土) 23:16:05
【和漢共栄時代から三民戦争時代へ・カラ半島の古代史】

3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、楽浪郡を攻撃して
滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、
そして、356年に志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)が、
カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力との関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本を侵略した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開していた地域だったのである。


32 :江上波平:2006/04/09(日) 08:28:09
信濃で去勢された馬の遺跡が見つかったというが、それは例外であった、日本で馬の去勢が行われていなかったのは事実。
騎馬民族が征服したのに、馬の去勢も出来ていないのはおかしくないですか?

それにこの「騎馬民族征服説」って、言い出した江上波男も間違いを認めて、撤回してたよね。
まだ信じている人がいるんだ。
ふーん。

言い出した江上波男も間違いを認めた「騎馬民族征服説」を支持している根拠は何なの?

その前に、当時の造船技術では朝鮮半島から日本に馬を輸送するのは不可能。
元寇の時のフビライでも海を経由して馬を運べなくて、モンゴル兵は徒歩で戦っている。
蒙古襲来絵詞でもモンゴル兵は徒歩で、日本兵は馬に乗っている。

『元寇の時代にも馬を輸送出来なかったのに、元寇より約1000年も前に馬を輸送するのは不可能。
よって、騎馬民族は来なかったと思います。
しかし、騎馬文化は来た。』
『』内は晩年の江上波男の結論だ。参考までに。

33 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 08:30:47
言い出した江上波男も間違いを認めた「騎馬民族征服説」!!!(爆笑)

白馬青牛 さんに質問。
言い出した江上波男も間違いを認めた「騎馬民族征服説」を支持している根拠は何なの?(笑)

34 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 08:34:23
亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13が、縄文人のHLAの1つなら、
朝鮮人は、沖縄人やアイヌ人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に、1人か2人しかいなく、非常にマイナーな存在。


朝鮮人が縄文系に見えるなら、精神病院に行ったほうがいいよ。


韓国人には、
琉球系縄文人=沖縄系縄文人の遺伝子が約17%しかなく、
アイヌ系縄文人の遺伝子が約1%しかなく、
非常に、マイナーな遺伝子。


縄文人のmtDNAは琉球人によく見られるタイプのmtDNAとして現れるが、
意外な事に、韓国人の方が縄文人のmtDNAが本州日本人より僅かに多い。
その分、本州日本人(伊東市)にはアイヌのmtDNAが入ってくる。
アイヌは東日本までは確実に南下したようだ。

http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm


35 :YAP?:2006/04/09(日) 11:56:01
江上氏の根本的な間違いは、日本人の中に見られる「北方系」の諸要素の列島渡来時期を
当時の考古学者や史学者の定説〜通説に従った結果だと思われる。

弥生時代に稲作が開始され、それは当然江南起源(半島を経由すれば更に遅れて日本に
入ったことになる)であるとすれば、日本人の「北方系要素」を持ち込んだのは、(縄文人
でないとすれば)「古墳時代」に想定せざるを得ない。
弥生時代が、紀元前2世紀か3世紀に開始されたと考えれば、騎馬民族説は、それなりに説得力が
あったのだろう。

36 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 12:20:37
当時とは違い、今は科学も進歩して、稲作が開始されたのは、縄文時代前期と判明した。
今では朝鮮半島よりも早くに稲作が始まっていたという説さえある。
当時では考えられない説だ。
江上波夫も今、生きていれば「騎馬民族征服説」なんてとんでも説なんて唱えなかったのかもな。



37 :YAP?:2006/04/09(日) 15:48:37
それでも「古墳時代大量移民説」とでも言うような説は
かなり多くの人が信じているようだが。

弥生時代が前10世紀に開始されたということで、その人口爆発を一回想定すれば、
後代の大量移住の過程は不要のはずだが。

38 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:11:12
>>34
朝鮮半島の最初の住人は縄文人のはずだがな。

なぜなら15000年ほど前まで日本列島とつながっているし、
最も寒い地域でも月平均気温が-10℃以上。
朝鮮半島のほとんどの地域が北海道よりも暖かいのである。
つまり一重まぶたや北方モンゴロイドが生まれるような場所ではない。

古モンゴロイドからプレ中央モンゴロイドに変化したのがプレ朝鮮人。

そこに北方モンゴロイドや華北のシニーデが後に流入して
現代朝鮮人となる。

だから朝鮮人の容貌は中央モンゴロイドと北方モンゴロイドの
中間的な様相を帯びているのである。

39 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:57:26
>>37

>その人口爆発を一回想定
想定?
具体的にどのような条件で人口爆発したんだ?
人口が増えるのは、ある条件が必要だろう。

>後代の大量移住の過程は不要のはず
どうして不要なのか詳しく説明してくれ。


40 :日本@名無史さん:2006/04/09(日) 22:55:07
>>26>>27
新羅の支配者や支配階級は鮮卑とも言われているが鮮卑はテュルク語族であったと
言われている。おそらく鮮卑は弓月国の末裔だったのではないかと思う
彼等弓月国の末裔のテュルク語族は秦帝国に仕えていたが漢帝国になると
楽浪郡や帯方郡に移住させられたのだろう。そして高句麗が楽浪郡を
攻撃すると彼等は辰韓に逃れてきたのだろう。その過程において沃沮と
混血したに違いない。沃沮の風習は現代朝鮮人の風習に酷似している
しかし同じワイ系部族の高句麗語と新羅語が全く似ていないのがそれを
証明している

>>39
紀元前8世紀から長江文明を持った江南人が800年以上もいればそれなりに
人口も増えるだろう。俺はむしろ紀元前1世紀から紀元1世紀の間に伝えられた
小麦に注目している。小麦は中国から伝わったとされているが小麦を伝えたのは
はたして中国人だったのか?だとしたらその栽培方法とかも伝授できたのだろうか?
むしろ米と同様、小麦の栽培のノウハウを持った民族集団が日本(というよりは倭国)に
来たと考えるのが妥当だろう。その民族集団はワイ系部族集団の濊族ではなかったかと
見ている(ちなみに東北や関東には同じワイ系部族の狛族が移住したのだろう)
ただ彼等は征服したと見るのではなく日本に渡来人として渡来してきたのではないだろうか
そして邪馬台国とその後継者の大和朝廷の混血政策によりGm遺伝子と日本書紀や古事記にのみ
その痕跡を残して倭人に同化したのだろう


41 :白馬青牛:2006/04/09(日) 23:10:22
>>3233
佐原氏の受け売りの去勢か。去勢は、牧畜搾乳文化とトルコ・モンゴル系
遊牧民が日本で征服王朝を建てたのであれば該当する問題じゃ。
まず江上氏自身が否定発言した資料を出しんさい。
>>3537
弥生期の北方系諸要素とは何か?考古学者や史学者の定説〜通説?
抽象的で意味をなさん文を書くのう。
>「古墳時代大量移民説」をかなり多くの人が信じている?あんた自身が
弥生北方ポンチョ説を信仰しとるゆえに、他者の考えを信仰と受け取る
脳内狂信観念論の妄想者じゃと思える。気候寒冷化による世界的民族移動、
疫病、結核菌等に具体的な反論もせず、学界・定説・信仰とスローガンで
空虚な言を弄しても意味がない。
>>38
>朝鮮半島のほとんどが北海道より暖かい?ソウルでも北海道南部並みに
寒いのに。北朝鮮はもっと寒いのにか。大陸性の気候も判らんのか。
北海道で、月平均気温で−10℃以下にさがる地域はどの程度あるんか。
以下の妄想人種論に答えてもしょうがない。

42 :白馬青牛:2006/04/10(月) 00:02:06
>>40
鮮卑は、大興安嶺地方で概ねモンゴル系であろう。言語もフランスの
ペリオやバサン、ハンガリーのリゲティも古代モンゴル語説。日本でも
江上波夫氏や田村実造氏もモンゴル語族説。
沃沮の風習と、現代の朝鮮人の風習に酷似しているのはどの部分か?
Gm遺伝子は、松本秀雄によると縄文期のもの。st遺伝子がアイヌ人や
琉球人でも多い。特に琉球人は本土日本人よりも多い。新モンゴロイドと
古モンゴロイドの区別も出来ん。縄文期でもかなり古く列島に渡来した
集団の遺伝子と云うしかない。

43 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 07:32:31
白馬青牛 さんに質問。

1、言い出した江上波男も間違いを認めた「騎馬民族征服説」を支持している根拠は何なの?(笑)

2、『元寇の時代にも馬を輸送出来なかったのに、元寇より約1000年も前に馬を輸送するのは不可能。
よって、騎馬民族は来なかったと思います。
しかし、騎馬文化は来た。』
と晩年の江上波男の結論したんだけど、どうやって朝鮮半島から馬を輸送したと思う?
俺は馬の輸送は不可能だと思うな(笑)


44 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 10:03:52
>>41

へー。
ソウルでも北海道南部並みに寒くて、北朝鮮はもっと寒いのか。
じゃあ、朝鮮半島で稲作は不可能だな。
やっぱり、日本では朝鮮半島よりも早い時期に稲作を行っていたと確信がもてたよ。
貴重な情報ありがとう。

あと、騎馬文化は来たが、騎馬民族は移動して来てないよ。
早く悟るべきだ。
水を嫌がる騎馬民族は、あの対馬海峡の西水道を越えることはできない。
対馬海峡の西水道を渡る事が出来る船は作れない。

白馬青牛 さんに訊ねるが
水を嫌う騎馬民族が、具体的に対馬海峡の西水道をどうやって渡ったのか?

45 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 10:47:27
>>41

ケッペンの気候図見れば>>41のウソが一発で分かる。
白馬青牛はウソツキだな。

http://www7.ocn.ne.jp/~w246/kyouzai001.htm


46 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:09:53
>>41

そもそも騎馬民族とは何なのか?
遊牧騎馬民族という言い方はあるが、騎馬民族という言い方は普通せず、
騎馬民族という言葉自体が“江上の造語”であると思われる。

江上の著書を見る限り、騎馬民族とはほぼ遊牧民族のことであるらしい。
しかし、騎馬民族征服説で想定されている東北アジアの騎馬民族というのはどうやら高句麗のようなツングース系の民族であるらしい。
だが、ツングース系の民族は農耕を主体とした民族であって遊牧民ではない。
まさしく矛盾している。

江上はろくに調べもせずに、騎馬に乗った民族が日本を征服したとすれば解りやすいと考えてこのような結論に至ったようである。

まあ、学界では死んだも同然の「騎馬民族征服説」を信じている人間は勉強不足なだけだけど。


47 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:42:56
騎馬民族って何なの?
誰か定義してよ。

個人的に遊牧民族は存在したけど、騎馬民族なんか存在しないと思うからさ。

できれば、遊牧民族と騎馬民族の違いも詳しく定義してほしいな。

48 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:47:04
江上も騎馬民族についてはろくに調べていないよ。
江上が言うには、「純粋な農耕民族であっても、騎馬民族的な文化を受容することで、騎馬民族になる!」と考えられている。
つまりバカみたいだが「騎馬民族とは、純粋な農耕民族以外のすべての民族である!」という定義している。

ちなみに、「カントリー娘。」の「りんね」は、裸馬(はだかうま)に乗れる、
すなわち、騎馬民族的な文化を受容しているわけですから、
江上氏の考え方に従えば、「りんねは騎馬民族である!」ということになります。(笑)





49 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:53:29
私は、北方系の民族がやってきたことの可能性は非常に高いと思いますが、彼らが武力によって倭人を征服したという説は疑問です。
では先ず、両者の戦力を分析してみましょう。
騎馬民族は船に乗り(馬同伴で)やってきましたから、当時の航海術から考えて、渡ってきた人数は多くても数百人でしょう。
もっとも、騎馬民族が航海術を持っていたこと自体が不可解ですが。

当時の倭国(ここでは、壱岐・対馬から北九州一体と考えることにする)に、戦力となる青年男子がどのくらいいたかは不明ですが、1万人は超えていたでしょう。

また、騎馬民族は当時の倭人には、まだ普及していなかったとされる鉄製の武器を多く使用していたと考えられているようです。
しかし、倭人も狩猟に弓矢・投げやり(黒曜石製など)を使って、人間よりも遥かに素早い、あるいは強力な獣たちを捕まえていたことが知られています。

鉄器と黒曜石などの石器とどちらが殺傷力が有ったかというと、当時の鉄器がどれほど鋭利な物であったか分かりませんので、これも不明です
鉄器の方が消耗度が少なかった(長持ちした)ことは十分考えられます。
黒曜石製の石器は、鮭の皮を容易に切るだけの鋭利さを持つ)。

50 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:55:49
>>49の続き

船でやってきた騎馬民族が、持参できる武器の量と倭人たちが所有していた量とでは、倭人たちが遥かに優っていたと考えられます。
したがって、戦力的には、倭人の方が優っていたと考えるべきでしょう。
では、そんな状況下で騎馬民族が倭人を武力征服するためには、奇襲しか有り得ません。
ところが、奇襲と言うのは、土地カンがなければ、不可能です。
したがって、それ以前の長い期間に、数多くの下見を行い襲撃する場所を決定しておかなければなりません。
つまり、何度も、騎馬民族の誰かが、隠密に倭国へやってこなくてはなりません。

当時、倭国の勢力が朝鮮半島の南部にまで及んでいたことや、朝鮮半島全体の力関係から考えて、
騎馬民族が倭国を武力によって征服することは、不可能だったと考えられます。


51 :騎馬民族夜這(よばい)説:2006/04/10(月) 12:01:33
2、3世紀の倭国を北方騎馬民族が武力によって征服することが、不可能いう話をしました。
では、騎馬民族が倭国を支配するための現実的な方法を考察してみましょう。

それは「夜這い」です!!

もっとも現実的な方法は、倭国の片隅に、頭を下げて住まわせてもらい、
毎夜せっせと、倭人の権力者の家に「夜這い」をかけることです。
そうして、50年、100年と混血を繰り返しながら、倭国の中枢に近付いていきます。
そして、要領よく振舞えば、いつの日か、トップに立つことができたでしょう。

しかし、もうこの時には、騎馬民族の血は、非常に薄くなっていたはずです。
したがって、騎馬民族が倭人を征服したのではなく、騎馬民族系の倭人が政権を握ったと考えるべきでしょう。
その時期は、一般に「倭国大乱」と呼ばれていた頃かもしれませんし、卑弥呼死後の内乱期かもしれません。
(それ以外の時期である可能性も同程度に有り得る。)







52 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 12:08:36
騎馬民族!(笑)


53 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 12:13:02
『騎馬民族は来た!?来ない?!〈激論〉江上波夫vs佐原真』の中で佐原氏も言われていましたが
「騎馬民族征服王朝」説という名称そのものが、誤解のもとになったのではないでしょうか。
「征服」という言葉から、力ずくで支配者になったものだと考えていましたが、江上さんはそういうことではなと本の中で発言しています。

江上さんもおっしゃってますが、「征服」はなく「同化」したのだと。
つまり、>>51の方の言うように、倭国の権力者と血縁関係を繰り返して、権力の中枢を握ったと、江上さんは言っています。

まず、「征服」という表現は不適切だと思いますし、「騎馬民族」という曖昧模糊とした用語を使わず、はっきり「扶余」とすべきだったと思います。

54 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 12:15:33
>>49-50は、常識的なのに――元軍の矢不足――、
ネタとはいえ次の投稿で朝日新聞並みに明後日の方向へ
スイング・バイするのが読んでいて痛い。

55 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 12:16:59
「検証 騎馬民族国家説」(同書pp.48-53)から、その見出しを紹介しておきます。


(1)騎馬民族国家説は科学的理論になっていない
(2)「騎馬民族」などは存在しない
(3)騎兵は万能の軍隊ではない
(4)旧式の人類学理論にもとづいた騎馬民族国家説は現実性が薄い

(1)では、「騎馬民族」に対する明確な定義がされていないこと。
(2)では、そんな「騎馬民族」を持ち出さなくても日本古代社会の発展は十分に説明できることが説かれており、
(3)(4)は見出し通りの内容になっています

56 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:10:46
>>32
>騎馬民族が征服したのに、馬の去勢も出来ていないのはおかしくないですか?

長野県などの馬牧場遺跡に関連する古墳の発掘から、馬牧場が渡来人集団に
よって運営されたことは明らかである。もし半島に去勢の習慣があったのなら、
その技術はこの渡来人集団が列島に持ち込んだのは確実である。
よって「日本で馬の去勢が行われていなかったのは事実」ならば、その理由は
もともと半島にも去勢の習慣がなかったか、それとも日本に持ち込まれた後
二次的に消滅したかのいずれかしかあり得ない。
したがって「去勢説」はまったく無意味。

>その前に、当時の造船技術では朝鮮半島から日本に馬を輸送するのは不可能。

日本書紀に、日本から百済などに数十頭単位で馬を送った話が何カ所かある。
海峡は一方通行なのか?

57 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:14:20
>>32
>蒙古襲来絵詞でもモンゴル兵は徒歩で、日本兵は馬に乗っている。

いいかげんなことを言ってはいけない。モンゴル軍も指揮官級は馬に乗って
いる。絵詞にちゃんと描いてある。

>『』内は晩年の江上波男の結論だ。参考までに。

出典は?
「扶余族が任那を支配し、次いで日本を支配した」という江上説の根幹は
始めから終わりまで全くぶれていない。
というか、現在では発掘によって一般に認められている扶余の任那支配を
30年前に予言した、先見の明の栄誉は江上にある。当時、他の学者が
どんなことを言っていたか、調べて見ればよい。

58 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:17:05
>>53

『騎馬民族は来た!?来ない?!〈激論〉江上波夫vs佐原真』では、江上さんの晩年に行われた対談ですので、
江上さんも騎馬民族“征服”説から「騎馬民族“同化”説」に移行していった時期だと思います。

最初は江上さんも日本は本当に騎馬民族に征服されたと思っていたのですよ。
さすがに晩年は征服説は間違ったと認めて、「騎馬民族“同化”説」に変えています。
江上説は最終的には「扶余族同化説」となっています。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/503-0501225-4561540

59 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:17:39
>>35
>日本人の「北方系要素」を持ち込んだのは、(縄文人 でないとすれば)
>「古墳時代」に想定せざるを得ない。

「北方系」を一回に限ることはない。縄文人も古モンゴルという意味で
北方系だし、弥生人もまた北方系の要素を持っていたであろう。
さらにその上に、扶余の支配がかぶさったのだ。
そして扶余の人口割合は必ずしも大きくなかっただろう。例えば中国を
支配した満洲族は人口割合が低かったから、ほとんど遺伝的なものを中国人に
残さなかった、あるいは残したとしても北京などに局地的に残した。扶余の
残り方もこれと同じ状況を含めて考える必要がある。

60 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:22:41
>>53
>「騎馬民族」という曖昧模糊とした用語を使わず、はっきり「扶余」とすべきだったと
>思います。

それはまったくその通りだと思う。しかし、騎馬民族という「用語」を否定すれば
「扶余」まで否定できる、という反対派の論理もまた、おかしなものだ。



61 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:30:34
>>56

日本で馬の去勢が行われていなかったのは常識だろう。
自分で少し調べればわかることだ。

明治時代、日本の去勢されていない馬をみて西洋人達が驚いたいう話は有名だ。

戦国時代、馬の去勢は一般的でなかったため、軍馬には去勢していない牡馬が使われていた。
日本の去勢されていないために性格は荒く扱いにくいという文献が鎌倉時代から残っている。

長野県で見つかった遺跡はあくまで例外だろう。
朝鮮半島から住んだ人が一時的にやっていただけだろう。
去勢する習慣は日本には普及していない。

例えば、日本にキリスト教の教会の遺跡が見つかったとしたら、
日本人はキリスト教徒に征服されたのか?
日本のキリスト教は普及したのか?
答えは“否”だ。


62 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:38:24
>>56

>「日本で馬の去勢が行われていなかったのは事実」ならば
>その理由は もともと半島にも去勢の習慣がなかったか、
>それとも日本に持ち込まれた後、二次的に消滅したかのいずれかしかあり得ない。

>>51があり得ないの断言できるのか疑問だが・・・。
1732年まで朝鮮半島に去勢の習慣は一般化していなかった。
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/kibalist.html

中国では秦始皇帝の墓を調べる限り、軍馬は去勢されていた。




63 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:44:42
>>56

>数十頭単位で馬を送った話が何カ所かある

数十頭単位で馬を送って、2〜3世紀の倭国を征服することは出来ない。
数十頭単位では話にならない。

>>57
モンゴル騎兵というのは下っ端の一般兵まで馬に乗っている。
そして戦争中に馬が傷付けば、馬を乗り換えて再び戦う。
最低でも5頭の馬を戦場に連れて行く。

元寇では海があったため、モンゴル軍も指揮官級が乗る馬しか輸送できなかったということだ。
そして、馬に乗っていないモンゴル兵は騎兵ではない。
歩兵だ。
これでは「騎馬民族征服説」ではなくなる。


64 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 13:50:37
>>57

俺は>>32ではないが、
江上は晩年には征服説は間違ったと認めて、「騎馬民族“同化”説」に変えたのは有名話だよ。
『騎馬民族は来た!?来ない?!〈激論〉江上波夫vs佐原真』でも、そのような内容を言っているし、
「日本古代史事典」にも書いてあったぞ。

65 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 14:28:40
江上の造語、騎馬民族(笑)
遊牧民族のことだろ!!

66 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 14:44:44
>>53
>>60

確かにそうだな。
「騎馬民族って何だ?定義してみろ!」ってなるもんな。
「扶余族同化説」なら、まだ可能性はあるかな?と思うが、
騎馬民族征服説は「宇宙人地球征服説」みたいな感じて、曖昧なイメージが払拭できない。

具体的に、どこから上陸して、どのルートを通って、どこを占領したの?って思う。
その前に、日本の山川森や瀬戸内海がある地理条件で騎兵が動けたのかも疑問。
モンゴル兵もヨーロッパを攻めた時に、平地が続くまでは攻めていったが
森林地帯まで到着すると撤退したもんな。

67 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 15:06:41
>>59

>中国を支配した満洲族は人口割合が低かったから、ほとんど遺伝的なものを中国人に残さなかった
>あるいは残したとしても北京などに局地的に残した。

では、日本を征服した扶余族は遺伝的なものを京都など局地的に残したのか?

68 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 15:38:20
残してない。夫余とは別種。

◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度

西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人

69 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 19:48:57
>>56
>日本で馬の去勢が行われていなかったのは常識だろう。

だれもそれを否定していない。そのことを騎馬民族説否定の根拠に
使うのが無意味、と言っているのだ。

>長野県で見つかった遺跡はあくまで例外だろう。
>朝鮮半島から住んだ人が一時的にやっていただけだろう。

長野県の古代馬牧場で去勢が行われた証拠があるとはだれも言って
いない。「去勢が半島まで来ていたのなら彼等が日本に持ち込んだのは
確実だ」と言っているのだ。

>去勢する習慣は日本には普及していない。

去勢説は、日本に持ち込まれたものが必ず普及し、しかも永続する、という
前提に立っている。しかしそんなことは決して言えないのだ。
古代牧場に去勢が持ち込まれたのが確実ならば、その後の日本列島に去勢が
ないことが、普及や永続が必然でないことの証拠ではないか。
また逆に、>>62 の言うように半島にも去勢がなかったのなら、馬が持ち
こまれても日本列島に去勢がないのは当然なのだ。
「意味がない」という意味がわかったかな。


70 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 19:51:17
>>57
>数十頭単位で馬を送って、2〜3世紀の倭国を征服することは出来ない。

コルテスのアステカ征服のとき、1万人のアステカ軍を潰走させたのは、
たった10騎のスペイン騎兵の突撃だった。
戦術の有効性は相対的なものだ。相手が騎馬戦術処女ならば騎兵の威力は
悪魔的になるのだ。

>モンゴル騎兵というのは下っ端の一般兵まで馬に乗っている。

だれがモンゴルの話をしている?扶余の話ではないのか?
そして扶余ならば、扶余の軍隊はモンゴルのような全軍騎乗ではない。
広開土王碑に「歩騎五万」とあるように、 歩騎連合である。
日本の中世の軍隊や、一般的な中国の軍隊と同じだ。
ただ、その相手となる同時代の倭、すなわち三輪王朝時代の倭が、全く騎兵
を持たず、武器も鉄青銅併用、防具も未発達という、扶余との「戦術格差」
が問題なのである。

71 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 19:52:49

>>64
征服だろうが、同化だろうが、言葉はどうでもよい。
私が言いたいのは、とりあえず「倭の五王は扶余である」と言うことだ。
そこへ行くまでの過程が、派手な征服戦争であったか、それとも平和的な
乗っ取りであったかの違いに過ぎない。そして私も、多々羅浜の戦い的な
派手な戦争があったとは考えていない。

例えば山田長政はシャムの王位をねらえる地位まで昇った。毒殺によって
実現はしなかったが、そこまで行けたのは、日本人の戦闘技術を認められて
内部的に取り立てられたのである。
それがあるとき「禅譲」によって王位についたとすると、後の人はこれを
「日本人がシャムを支配した」とか「征服した」とかいうだろう。
一つのヒントである。

72 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 20:04:32
>>70

>1万人のアステカ軍を潰走させたのは、 たった10騎のスペイン騎兵の突撃

お前はバカか。そんな迷信を信じているのか(笑)
バカは話にならないな。

コルテスは後続のスペイン人や原住民の同盟軍と軍を建て直し、1521年春テノチティトランへ進撃を開始した。
その数はおよそ5万兵とも言われている。
トスカラ族の協力で建造しテスカカ湖で組み立てた小帆船による水軍は湖の上から攻撃しテノチティトランへの補給を絶った。
5月からの75日にもおよぶ包囲攻撃、激しい市街戦でテノティチトランは徹底的に破壊され陥落しました。
このときヨーロッパからもたらされた伝染病「天然痘」が流行し、モンテスマの後継者の皇帝クイトラワックも天然痘で死亡した。

つまり、勝因は「スペイン人や原住民の同盟軍5万人」と「天然痘」だということだ。

常識的に考えて、10騎のスペイン騎兵で征服できるわけないだろ!
少しでも調べてから書き込め!
マナーは守ってくれよ。
2chはレベルが低いと思われるぞ。

73 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 20:14:38
>>69>>70>>71

お前、典型的なバカだろう(笑)

>1万人のアステカ軍を潰走させたのは、 たった10騎のスペイン騎兵の突撃
>山田長政は禅譲でシャムの王位をねらえる地位まで昇った

すごい物事を疑わないタイプの人間なんだな。
ある意味、洗脳されているね。
本気で山田長政はがシャムの王様になれる可能性があったと思う?
御伽噺だよね。

その純真な心をいつまでも忘れないでね。
いつまでも信じる心をなくしちゃダメだよ。

1、10騎のスペイン騎兵で南米大陸を征服した。
2、山田長政はがシャムの王様になれた。
3、倭の五王は扶余族で、日本を征服した。

うんうん。全部、正しいよ。
イソップ物語みたいな絵本作家にもなれるよ(笑)

74 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 20:16:04
>>70
>>71

もっと勉強してから出直してこい!!

75 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:10:42
よいねよいね
いい流れ
ガンガン盛り上げて

76 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:46:10
>>70-71
電波キタ-√レv(゚∀゚)w√レ-!!

77 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:51:42
>>76
彼じゃないのだよ
本物の電波は今宵登場するであろう
そう!
あのお方

78 :白馬青牛:2006/04/10(月) 22:56:59
>>45
わしが嘘つきとはねえ。気候図と気温は違う。大陸性と云うたのに。
http://www.erina.or.jp/Jp/Asia/kiko.htm
に、1月平壌−6,1℃。札幌−4℃。ソウル−2,5℃と出ておるが、
北朝鮮北部山地ではもっと寒い。
>>43444648
ツングースが、騎馬民族というより水界民であることは既に述べておろう。
相変わらずワザとらしいことをするのう。牛馬の輸送も船を使ったことは
伊予忽那島の例では後世となるか。じゃが百済が大和王朝に献上した馬を
海を渡らず運ぶ方法でもあるんか?学界という閉鎖村の権威を借りてしか
モノを言えんとは。しかもツングースが農耕主体という勉強不足のオチが
ついておる。江上氏は戦前モンゴルで調査され、ろくに調べなかった?
断定出来るということは、あんたはモンゴルに行って調べたんか?
(笑)を繰り返し、低脳ヒステリー症候群であるのは哀れとも思うが、
ワザとらしい質問やあんたの自爆する無知を公表しとるんで面白い。
次の捏造に期待しとこう。


79 :日本@名無史さん:2006/04/10(月) 23:10:15
久しぶりに来たら、なんだか荒れてるね。

武力による征服説は無理だろう。
4世紀初めは、江上さんの言ったように牧歌的弥生時代ではないし。
もう、九州から関東までマキムク政権の範中だし。
なら71さんの言う簒奪説はどうかと言うと、これも無理だね。
まぁ、今のところはだけど。

80 :白馬青牛:2006/04/10(月) 23:56:18
>>50
倭人は漢人に生口(奴隷)を献上する属国に過ぎん。
>>5864
江上氏は、同化説に移行?>1の「是か否か騎馬民族説征服王朝説」に
ある『日本民族の起源』は読んだか?征服地で同化する要素を述べられて
おられるし、著作集や対談でも同じく。晩年に考え方が変わった訳でも
あるまい。
>>68
別種というと扶余と同族ということか?HLAの年推定については、
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
のB52−DR15の年代は、新し過ぎると思うが、朝鮮で賤民視された
屠殺者売春婦の集団である「楊水尺」を想定し、彼等の起源がモンゴル系の
契丹やツングース系靺鞨にあり、高麗政府に反抗し契丹軍や倭寇に加わり
西日本へ移住したと解釈してもよい。瀬戸内水軍の伝説からも妥当である。
じゃが、大量民族移動期の古墳期にもたらされたと思うんじゃが。
弥生期となると可能性は低い。山陽地方も弥生期は、低顔の縄文・弥生
在来民や現在低顔の江南民型じゃ。古墳期以降に高顔の北方新モンゴロイド
型が多くなった。B44−DR13は、近畿・北陸〜出羽や東海に多いが、
朝鮮では、北朝鮮のハフロタイプの反映である中国朝鮮族よりも南の韓人に
多いことから、ツングース以前の古アジア系ニブヒ・ギリヤーク族と
南の韓人との関連もあろう。弥生期を想定するなら、南韓の影響から、
この遺伝子の方が妥当であると思う。

81 :白馬青牛:2006/04/11(火) 00:36:30
>>70
モンゴル高原においても、古代の匈奴は沂南画像石に描かれておるように
歩騎混合。
それと疫病は、崇神天皇期の記述から、家畜の病気に免疫のない
在来民に多くの死者を出したと、反騎馬民族説・江南の漁撈稲作民
日本征服王朝説で縄文文明・江南文明至上主義者?前回スレの「気候変動の
文明史」等で採り上げた安田善憲氏も指摘されておられる。
疫病も戦力かも知れん。
元広島大におられた安田氏の牧畜民を疫病神とする考えは同意出来んが、
安田氏は卑怯者ではない。佐原氏の江上説に対し「根絶するのは
社会的責任だ」と言う思想的狂信性?態度も批判しておられる。
節度を持っておられる方。

82 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 07:14:47
白馬青牛 さんに質問。

1、「騎馬民族征服説」を支持している根拠は何なの?(笑)

2、どうやって朝鮮半島から馬を輸送したと思う? 戦争するのに日本書紀に書かれているように数十頭単位でピストン輸送を繰り返した?

3、騎馬民族って何なの?定義してよ。
個人的に遊牧民族は存在したけど、騎馬民族なんか存在しないと思うからさ。
できれば、遊牧民族と騎馬民族の違いも詳しく定義してほしいな。


83 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 11:03:09
ざっと読んだ、10頭でアステカ征服チョーウケル〜〜〜〜〜〜w

84 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 11:19:15
在日と似てんじゃね?勝手に住みついて
裏社会でそこそこ地位を確立
表舞台で活躍する為には成りすましが得策、勿論日本人に。
基本、アウトローそれが彼らの生きる道。

85 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 13:37:57
>>72
>つまり、勝因は「スペイン人や原住民の同盟軍5万人」と「天然痘」だと

それは後の話だ。私が言っているのはコルテスのスペイン軍と、アステカ軍
とが始めて戦った、タバスコの戦いのことである。
このとき、アステカ軍は1万人以上、スペイン軍は500人強だった。
アステカ軍が突撃し、スペイン軍の13丁の小銃が火を吹いてインディアンを
驚かせたが、射つのに時間がかかる火縄銃では突撃を止めるに至らず、白兵戦
になった。そうなれば数が物を言うから、スペイン軍は危なかった。

そのとき、10騎のスペイン騎兵が突撃し、アステカ軍は潰走した。
10騎では少なすぎてお気に召さないかも知れないが、スペイン軍は全部で
16頭の馬しか持って来ていなかったのだ。
そしてこの戦勝がインディアンの間にスペイン人不敗の観念を植え付けたことが、
後の作戦に有利に働いて、君の言っているような事態も生じたのである。

>常識的に考えて、10騎のスペイン騎兵で征服できるわけないだろ!

常識ではそうだろう。しかし事実はしばしば、常識とは異なるのである。
マナーを守って、少しでも調べてから書き込んで欲しい。
でないと2chのレベルが低いと思われる。


86 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 13:43:33
>>73
>本気で山田長政はがシャムの王様になれる可能性があったと思う?

山田長政の話は「平和的征服」のモデルを示したのだが、成就しなかった
モデルではご不満だろうから、次ぎに成就したモデルを示そう。
それはバイキングのシチリア王国である。

シチリアに上陸したバイキング集団は、はじめアラブ系の王に傭兵として仕えた。
そして戦功によって領地を下賜され、「シチリア公国」を建てた。
これはあくまでアラブ系王国の枠内の公国である。
そしてこの公国の権威が王国内で徐々に上がって、あるとき遂に
シチリア全体の王権を禅譲されるのである。

バイキングというと角付き兜でなぐり込むイメージが強いが、このような
「平和的征服」のほうがむしろ多かったのである。そしてシチリアの
バイキング集団の軌跡は、あるところまではシャムの日本人たちの軌跡と
重なるのである。

87 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 13:48:02
バイキングの話は決して騎馬民族説と無関係ではない。なぜなら江上説では
バイキングもまた「騎馬民族」の範疇に入っているからである。

ところで、忘れていた。
騎兵10騎で勝てるわけないと言う話は、馬の海上輸送の話から出たのだった。
私が「馬数十頭を百済などに送った話が日本書紀にある」と言ったところ、
君が「数十頭で倭を征服することはできない」と言ったのだ。
ということは、「数十頭なら馬の海上輸送はできる」と認めたことに
なるのかな?

それと「去勢」の話はどうなった?
去勢説が反対説の根拠として無意味であることがわかったのか?

88 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 21:54:58
>>85-87
電波キタ-√レv(゚∀゚)w√レ-!!

89 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:57:27
>>85-87

お前は純粋バカだな。

武田の騎馬隊とか長篠の戦いの鉄砲3段打ちとか信じているタイプだろ?
歴史にロマンを感じるのは結構だが、現実を考えろよ。

例えば、歴史上、馬10頭の突撃で1万の兵に勝った例がいくつある?
朝鮮から海を渡って攻めてきて、
1、朝鮮軍が日本軍を馬10頭の突撃で敗走させる。
2、天然痘などの朝鮮人にはおなじみだが、日本人には珍しい疫病が流行り日本軍はドンドン死ぬ。
3、日本人が裏切り、朝鮮人に味方する。
4、朝鮮人による日本征服完了。

以上の4点が、2・3世紀の日本列島で起こったと思うのか?
現実的に考えろ!

90 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:09:56
>>85

10騎のスペイン騎兵が突撃し、アステカ軍は敗走した理由は、
原住民のインディアンが馬を見たことがなかったからだ。

日本では縄文時代の貝塚から馬・牛の骨が出土している。
縄文時代から馬は日本に住んでいた。
弥生時代にも馬がいた。
2・3世紀の日本人にとって馬は珍しい動物ではなかった。

従って、コルテスのスペイン軍の事例は当てはまらない。
あなたは戦争の特殊な事例を持ち出して、ムリヤリ日本もそうだったと当てはめようとするが、
それは例外だということを覚えておくべきだ。

日本人は2・3世紀に朝鮮軍が攻めてくるまでに馬を見たことがなかったのか?
答えは「日本人は馬を見たことがある。」だ。

91 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:13:57
>>86

すごい物事を疑わないタイプの人間なんだな。
ある意味、日教組の教育に洗脳されているね。

平和的征服で山田長政はがシャムの王様になれたんだね。
うんうん。全部、正しいよ。
イソップ物語みたいな絵本作家にもなれるよ(笑)
御伽噺だよね。

その純真な心をいつまでも忘れないでね。
いつまでも信じる心をなくしちゃダメだよ。

92 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:16:09
>>86>>87

脳内妄想はいくらでもしてくれ。

妄想ではないというなら、あなたが妄想するような征服があったという証拠はあるか?

93 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:24:44
>>85

16世紀のスペインとアステカは地理的にも遠く、文化レベルも離れていた。
スペイン兵は鉄砲を持っていた。

16世紀の日本は信長が活躍していた。
いうなれば、織田信長軍団がアステカを攻めるようなものだ。

文化レベルがかけ離れている。


地理的にも文化レベルも近い朝鮮半島と日本の状況に当てはめる方が無理がある。
初めて馬を見た原住民に鉄砲を撃てば勝てるだろう。

それとも、あなたは2・3世紀の朝鮮軍は鉄砲を持っていたと言うのか?

94 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:25:54
>>85-87
日本を征服した2世紀の朝鮮人は鉄砲を持っていた!
電波キタ-√レv(゚∀゚)w√レ-!!

95 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:31:49
>>85
16世紀のスペインが鉄砲を撃って、メキシコの原住民を征服した例を
2世紀の日本と朝鮮に当てはめるな!

それとも、あなたは2・3世紀の朝鮮軍は鉄砲を持っていたと言うのか?

96 :日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:54:45
>>85

>>85に質問】
(質問1)16世紀に織田信長が鉄砲と馬16頭を持って、メキシコの原住民を攻めたら征服できたと思うか?

(質問2)16世紀にスペインが鉄砲と馬16頭を持って、メキシコの原住民を攻めたら征服できたと思うか?

>>85はどう思うだろうか?

質問2の答えは歴史が証明しているよね。

97 :白馬青牛:2006/04/12(水) 00:02:53
>>82
また(笑)か。どうでもええが、1,2についてはわしの書いた文から
読み取れば良いとして、遊牧民と騎馬民族の違いの定義か。
http://www.orient-matsudo.com/ogawa.html
の、「遊牧民と騎馬民」にあるようアラブ系は駱駝遊牧民で騎馬要素は
薄い。華北の黄土台地の漢人も羊飼育の牧畜民とも言える。満洲よりも
牧畜要素も強く、戦前、漢人馬賊がモンゴル人の包を襲い掠奪したように
騎馬を軍事力として利用しておった。騎馬民族の概念は、西洋人の概念が
反映しておる。トルコ・モンゴル・ツングースの北方民族が、農耕都市
文明で征服王朝を打ち立てたこと、ツングースは(馴鹿飼育民を別として)
概ね遊牧民では無いが、韃靼(タタール)種族、満洲を東韃靼地方と言う。
戦前日本の満洲・中国政策に批判的であったエドガー・スノー氏が、
『極東戦線』(筑摩書房)の「第1部満洲・征服者の出生地」で、
「P13、高句麗ツングースは対馬海峡を越え日本に定住し大和人と
呼ばれた。P19、日本人はタタールの血をもつ満洲人的素質を交えた
人種であって、その高句麗的特徴は今日もいちじるしい。」とされるのも、
日本人は、中国系よりもタタール・ツラン種との認識が明治期のベルツ
博士以降、西洋でも強かったのであろう。

98 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 00:52:58
>>90
日本書紀読みなはれ

99 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 03:47:07
まぁ俺も流石に、馬十頭の話を持ち出して、騎馬で征服した!というのは無理があると思う。
だからこそ「徐々に同化した」という保険を残しているのだろう。

所で違う話になるが、朝鮮民族は扶余の末裔なのか、という議論もある。
扶余は高句麗を立てた後、その一派が南下し、馬韓を征服し、百済を立てた。
百済と高句麗が扶余の別種であるというのは、唐書などにも記されており、事実である可能性は高い。
ただ百済は支配層と被支配層が異なる国家であり、また新羅も高句麗や百済の支配層、つまり扶余とは別民族だった。
現在の韓国語は新羅語の直系の子孫であると見なされており、また一部に残されている扶余の名残も、百済の上層部が
扶余だったということで説明すればはっきりとする。また統一新羅が立った後、高句麗は滅び、百済も滅び、扶余は靺鞨や突厥に逃げ込んだ。
一部は日本に渡ってきた。このことからも、現在の朝鮮民族は扶余の後継では無いと思う。或いは残っているとしても僅かではないだろうか。

100 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 07:44:47
白馬青牛 さんに質問。

1、「騎馬民族征服説」を支持している根拠は何なの?(笑)

2、どうやって朝鮮半島から馬を輸送したと思う? 戦争するのに日本書紀に書かれているように数十頭単位でピストン輸送を繰り返した?

読み取れではなくて、きちんと説明しなよ。
俺が論破してやるからよ。

101 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 07:59:53
エドガー・スノーはその著作には基本的誤りおよびアジア人、日本人への蔑視など差別的な言辞も散見されている。
特に『アジアの戦争(The Battle for Asia)』(1941年)においては日中戦争における日本兵を差別的に取り上げ、
いわゆる「南京事件」において「日本軍により4万2千人が殺された」、「10歳から70歳までの者はすべて強姦された」などといった過激な描写を行い、
米英における日本人への憎悪を駆り立てた。
いわゆる「南京大虐殺」の元ネタはこの本ではないか、と指摘する声もある。

本ネタにエドガー・スノーなんぞを持ち出すなんて、白馬青牛の底が見えたな。
学界で論文を発表する際に、エドガー・スノーなどを引用すれば、一気に信頼を失う。
やっぱり白馬青牛は2chという「井の中のカワズ」で満足してなよ(笑)

あろ>>97の遊牧民と騎馬民族の違いなんて、全く説明になってないよ。
まずは文章の書き方から勉強し直しだね(笑)

夏目漱石も言ってたよ。
「俺は猿にでも理解できる文章を書いているつもりだ!」
難しい単語や言い回しを多用したからって、それが良い文章になるとは限らないからね。
文章を書く姿勢から見直した方がいいよ。

2chで「俺は白馬青牛にでも理解できる文章を書いているつもりだ!」って言われないように頑張ってね。


102 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 09:59:00
>>1粛慎がそうか?
 秋田県辺りに住み着いて「金(コン)」姓を名乗ったのかも?

103 :YAP?:2006/04/12(水) 16:08:45
おそレスだが、39氏に

「人口爆発」は、弥生時代の開始時期が、前10世紀になったことで
ほとんど必要性はなくなったのだが、「古墳時代」の人口爆発/増加を
重視する(「騎馬民族説」信奉者に多い)論者に対して、「弥生時代早・前期」
の一回を「仮定」すれば十分ではないか?といいたかっただけだ。

私は日本人の北方系要素の大半は、「弥生時代開始期」に北方遼河流域から
渡来した「倭人」が持ち込んだものとして説明できるという立場を採っている。

104 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:02:19
>>73
>本気で山田長政はがシャムの王様になれる可能性があったと思う?

なんで可能性がないと考えるのか。山田長政はアユタヤ王朝のナンバー3
の位を与えられたのだ。ナンバー3の位置にある人物が王朝随一の軍隊を
支配しているのだから、その気があればクーデターで王位を奪えた。
長政にはその気があったかどうかはまた別の話だ。

なお、山田長政架空説もあるが、これは王朝ナンバー3になった日本人
首領(Aとする)が、幕府に手紙を書いたりした山田長政と自称する人物
と、同一人である証拠がない、ということに過ぎない。
Aが実在したことはタイ語、オランダ語の資料があるのだ。

105 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:06:17
>>89
>例えば、歴史上、馬10頭の突撃で1万の兵に勝った例がいくつある?

10騎のスペイン騎兵が1万人のアステカ軍を潰走させたのは「常識で
あり得ない」とか「迷信だ」というから、それが事実であることを示して
やれば、今度は「例がいくつある?」か。忙しいな。
逐次撤退、戦線縮小はしかたがないとして、ちゃんとけじめをつけてから
やって欲しいものだ。
まあそれはいいとして。

私がタバスコの戦いの話をしたのは、騎馬戦術処女の歩兵に対して騎兵の
威力が絶大であることの例として話したのだ。こんな状況がそう一般的に
あるわけではない。そして4世紀初頭の扶余と倭が戦ったとすれば、まさに
これに匹敵する状況であった、ということだ。

>以上の4点が、2・3世紀の日本列島で起こったと思うのか?

すじがきは他にいくらでもある。

106 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:09:13
>>90
>10騎のスペイン騎兵が突撃し、アステカ軍は敗走した理由は、
>原住民のインディアンが馬を見たことがなかったからだ。

想像力が貧しいな。アステカに馬がいなくても、馬に相当する大型家畜は
いただろう。
馬そのものが恐いのではない。騎兵戦術が恐いのだ。
馬、人、武器、これらが一体となって有機的に働くことが恐いのだ。
だから、ごく少数の使役馬がいても騎兵戦術はなかった倭においても、
状況はそれほど変わらない。

>>92
>あなたが妄想するような征服があったという証拠はあるか?

4世紀に関するあらゆる説には証拠がない。だから謎の4世紀なのだ。
征服に関する証拠がないというなら、逆に三輪王朝が騎馬戦術を有する金官
を海を渡って攻めて、これを服属させたという従来のすじがきも証拠がない
夢物語だ。

107 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:11:33
>>93
>スペイン兵は鉄砲を持っていた。

鉄砲はそれほど役に立たなかった、という話をしたのだ。
射手は13人しかいなかった。そして火縄銃の発射速度は1分間に2発程度
である。これでどうやって1万人の突撃を食い止めるのか?

>>95
>>それとも、あなたは2・3世紀の朝鮮軍は鉄砲を持っていたと言うのか?

鉄砲の話は上記。そして、2世紀とか2・3世紀とか流行っているが、なんの
話をしているのか。伽耶に扶余が来たのは3世紀末。だから征服があったと
すればそれは4世紀以降のことだ。

108 :日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:40:05
清朝を建てたヌルハチは、
10数騎、または数10騎で明を攻めて清朝を建てたらしいが、
日本はそんなに弱くない。

簒奪したというなら、何天皇なのかはっきり言ったら?

109 :白馬青牛:2006/04/13(木) 00:30:20
>>100101
俺が論破してやると言う虚勢から始まるんか。じゃが今回は面白い。
前半でエドガー・スノーの批判をして、基本的誤り、差別的と前提条件を
つける左翼的と思われる言と、逆にナショナリズムを調味料とし、自らの
思想の閉鎖性、思想の多様性は容認出来んと統制共産主義国家の思想統制を
正当化した馬鹿げた論調から、後半は自らの思想の閉鎖性を棚にあげ、
「井の中の蛙」と云うワザとらしいオチをつけておる。論文という
他者から批判を想定せん文の自己満足が最上として、難しい単語・文章の
書き方を勉強せよ等と馬鹿を演じ、自ら支離滅裂な文章を書き、
トボケルのは面白い。酒の肴になるよ。第三弾に期待しよう。

110 :白馬青牛:2006/04/13(木) 01:00:50
>>103
>人口爆発が、弥生期の開始時期が、前10世紀になったことでと、
自己満足の「前提条件」を付け、騎馬民族信奉者は新興宗教が如く罵倒し、
自分を優位に置く、工作活動や虚勢はやめた方がよいと思う。
日本の北方的要素の大半が渡来倭人により弥生開始期に持ち込まれたと
云う根拠も書かず、説明出来る立場と云う曖昧な言では。
まだ、冗談で書く、101の方が真っ当と思える。

111 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:00:00
エドガー・スノー(笑)
ププッ。
レベル低いな ┐(´д`)┌

期待して開いたけど、>>109が必死にエドガー・スノーを弁護しているのに笑えた。

騎馬民族征服説も“なんちゃって説”だけど、エドガー・スノーレベルもっと“なんちゃって”だよ。

もっとマシな本を読んだら  ┐(´д`)┌

112 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:06:24
スペインが馬10頭の突撃で1万の兵に勝ったから、

朝鮮半島から来た騎馬民族も馬10頭で日本を征服できた(笑)

このスレ本当にレベル低いな〜。

馬10頭で日本を征服はネタ???

本気???

どっち???

多分、原始時代の日本を馬10頭で攻めても征服するのは無理だと思うよ。

やっぱりネタなのかな?

113 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:44:47
先住民王権の中枢を破壊する=ごく少数の不意打ちで出来る

定着=後続部隊が続々

コンキスタドーレスも後続部隊が無ければ定着までは無理だったろうし、
本国が彼らの独立諸侯化をすぐさま押さえ込むことをしているし、
そうしなかったら彼らはインカ皇女を娶って現地化していたろう。
ラテンアメリカ「独立」後に、努力して後続移民導入、先住民族抹殺「白色化」しなかったら、
スペイン語圏にならなかったかもしれない。

114 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 14:35:20
>>108
満洲軍が十数騎という話ははじめて聞いた。
満洲八旗というがもともとは四旗だった。一旗は7500人だから3万人。
全部が騎兵ではないだろうから騎兵は数千ないし1万騎というところではないか?

>簒奪したというなら、何天皇なのかはっきり言ったら?

「河内王朝は扶余だ」とはっきり言っている。

115 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 15:22:45
誰か>>99に反応してやってくれ(´;ω;`)

>>114
満州族は元は八旗じゃなくて四旗だったの?
たしか以前、日本の八が多様されるのは、その影響だ、とか言ってる奴がいたけど。

116 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:49:41
★★ 謎の民族カラビトの正体 ★★

古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。
シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、
古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。
つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を
組織的に展開しているが、これはデタラメなのである。
古代日本に移住したのは、カラ半島に住んでいた倭人=カラビト(韓人)であり、彼らは日本民族
だったのである。
カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。


117 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:36:41
>>114
武力説はないとはっきり言えばいいよ。
そうしないと、「どうやって馬を連れて日本を攻めてくるんだ?」
って人が、いくらでも湧いてくるから。
そのたびにアステカがどうこうで説明するのも疲れるだろうし。

118 :日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:41:04
騎馬の扶余説より、船に乗って天下った神話トンデモのがまだマシ

119 :白馬青牛:2006/04/14(金) 00:19:01
>>111
今回は駄作じゃのう。出来が悪りいわい。わしが、エドガー・スノー氏の
考えに全面的に賛同しとる訳はないが弁護とはねえ。それだけではつまらん
わいのう。「なんちゃって説」と表現するより、日本の低脳ナショナリスト
気取りと、同類の韓国人ナシュナリストを重ね合わせ日本人を馬鹿にする
論を容認する自虐史観は非国民ニダ。と言うか、共産主義的左翼
リベラリストの佐原眞氏のように、騎馬民族説は侵略史観・差別史観
そのものと、云うた方が面白いのに。偏狭ナシュナリストを演じるだけでは
芸がないよ。

120 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:34:49
119>>
人の意見に反論するとき普通に言えないの?
捏造、罵倒、共産主義的、偏狭…

いくら知識があっても信じる気になれないよ…
歴史を語るならもうちょっと考えてくんないかな?

121 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 00:35:32
>>119
でした

122 :白馬青牛:2006/04/14(金) 01:39:05
>>120
ナショナリストと書くのを笑い過ぎて、ナシュナリストと書いて
仕舞うたが、お笑いで楽しんでおるのは>111氏の方で、わしはそれを
相手にして楽しんでおるだけじゃし。お笑いネタにはお笑いで返すのが
当たり前のこと。わしに対してじゃのうて111氏に言えばよい。
信じる気、云々とか、わしは狂信的な新興宗教の教祖じゃない。あなた
自身が、数多い情報の中から判断すべきことじゃ。思想にとらわれず、
不都合な情報を遮断するよりも、様々なデータ・見解を考慮する事で、
空想で無く、より広い視野で現実的に解釈することも出来る。その方が
事物の認識の誤差も少ない。そこから得られた知識は、あなた自身の
物じゃ。
それでも矛盾点があれば、再度得た、あらゆる知識から組み直せば良い。
そこから歴史を語れるんじゃないんかのう。

123 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 14:49:17
麻原や江上などキチガイ教祖を今もなお崇拝するオカルチックな犯罪予備軍が
世間一般でどのように見られているのか?ってことも少しは意識しろ
どーせ教祖様との一心同体が夢なんだろ?ヒジョウニにキモしw


124 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:46:31
>>123
こんなところにいたのかね、太国くん。
病院に帰りたまえ。

125 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:09:47
■好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致

 古代日本の朝鮮半島進出を記録した好太王碑(中国吉林省)の最古の拓本が中国で発見され、
倭(日本)との関係を示す記述が、旧日本陸軍が入手した拓本と一致することが、中国社会科学院
の徐建新教授(日本古代史)の研究で分かった。
これによって、1970年代以降論争が続いてきた、旧陸軍が碑文の内容を書き換えたとする
「碑文改竄説」は成立しないことが確定的となった。

 好太王碑には、「391年以来、倭が海を渡って、百済や新羅を破り、臣民とした」とする記述がある。
この碑文の拓本を、1883年に旧日本陸軍参謀本部の酒匂景信が入手。参謀本部が、4世紀に日本
が朝鮮半島を支配していたと解読した。

 戦後になって酒匂の拓本の信頼性が疑われ、李進煕・和光大名誉教授が1972年、「近代日本
の半島進出を正当化するため、都合のいいように旧陸軍が改変した」と主張。日本、中国、韓国、
北朝鮮4か国の研究者の間で大論争となった。その後、改竄を否定する有力な説も出たが、実物
の検証が困難な状況で、決着には至ってなかった。

 東アジア各国に散在する約50種の拓本を実際に確認する作業を続けていた徐教授は一昨年、
それまで最古とされていた酒匂の拓本より古い1881年作成の拓本を、北京のオークションで発見。
酒匂拓本とともにパソコンに取り込んで比較したところ、意図的な書き換えの痕跡はないことが
判明した。その成果は今年、『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。


126 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:11:01
徐教授は「これで、皇国史観からも、軍の関与を証明するための研究からも脱却し、好太王碑
が4〜5世紀の東アジア史を解明する純粋な歴史資料として位置づけられるだろう」と自らの研究の
意義を強調した。

 ただ、碑文の解釈については、倭を打ち破った好太王の業績を誇張するために、倭を実際よりも
強大な勢力として記述したとの説が強く、改竄が否定されても古代の日本が朝鮮半島を支配して
いたかどうかの問題を決着させることにはならない。

 吉村武彦・明治大教授(古代史)は、「拓本には信憑性があり、長年の論争に終止符が打たれた
と言える。パソコンの画像で比較するという10年前には考えられなかった手法で、IT時代ならでは
の成果だ」と評価する。

 一方、李名誉教授は「拓本に付随する書き付けの記述を、製作年代の根拠にしているが、本物か
どうか疑問が残る。まだ疑惑が払拭されたわけではない。」と反論している。

補足:
好太王碑 
広開土王碑ともいう。現在の中国東北部から朝鮮半島北部を統治した高句麗(紀元前後〜668年)
の好太王を顕彰するため、没後2年の414年、吉林省集安市に建立された。高さ6.2bで東アジア
最大の墓碑。
王の戦績など約1800字が刻まれている。1880年に中国(清)の役人が発見した。近くにある古墳群
とともに世界遺産に登録されている。

ソース:読売新聞2006/04/14 朝刊19面


127 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:12:50
>>白馬青牛氏
大変な博識に、いつも感嘆しております。
秦氏の三つ巴紋の事でレスいただいた者です。

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1066237353/249-#tag265
この「銅鐸について語ろうスレ」の249が私なのですが、
古代史界にメガトン級爆弾を落としたつもりでおりますw
銅鐸については、何なのか見解が出てないし、
私のような素人でも何を言おうが勝手ですしね。
もし、興味がお有りでしたら何なりと書き込んでください。

128 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:35:17
>>117
「平和的征服」と私が言った言葉にだまされてはいけない。
山田長政にせよ、シチリアのバイキングにせよ、ちゃんと武力の裏付けが
ある。むしろ武力が他に優れているからこそ、派手な多多羅浜の戦いを
することなく入り込むことができたのである。
扶余が「平和的征服」を行ったとしても、やはり騎馬戦術の裏付けは
あっただろう。

ご心配はありがたいが、「馬をどうやって連れて来るの?」という人には
「では日本書紀の数十頭の馬はどうやって百済に運んだのか?」と言って
おけば済むのである。

129 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:45:27
>>127
博識???
誰が?w

130 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:13:51
何故、朝鮮民族の話になると、誰も構ってくれないんだろう。。(苦笑
朝鮮民族は、扶余なのか、扶余でないのか、結論を言うと、
私は扶余では無いと思う。

131 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:30:33
>>42
鮮卑がテュルク系であるというのはかの陳舜臣氏も言っており
全く可能性がないとは言えないだろう。もしかしたらテュルク系住民が
モンゴルと混血して鮮卑となったのかもしれない

それにしても白馬青牛氏といいコルテスがアステカを数騎で征服したと言ってる人といい
何を根拠に倭人=長江文明人を弱いと判断しているのかわからない。倭人を
「稲作をする体に刺青をした南方系の遅れた人々」だなどと中華もしくは欧米的な
価値観で語ってるとすれば倭人に対するとんだ差別観以外の何物でもない
漢帝国を作った劉邦も楚の帝王だった項羽も元は長江文明人だし倭人国家だった
呉や越は周との交流もあり高度な文明を享受していた。それに呉も越も馬小屋が
あったように騎馬戦術を熟知していた。呉越が滅んだあと呉人や越人の何人かは
倭に亡命しただろうしその時に騎馬戦術を学んだ可能性だってある
余談だが高句麗は扶余と倭人の混血だという説がある。倭人が持っていた卵生神話が
あるからである。倭人勢力が扶余についたからこそ高句麗は建国できたという説も
成り立つのではないだろうか。それとは逆に倭では扶余が倭人に同化した事により
倭人が持っていた卯生神話などがなくなったのだろう

132 :日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:49:41
>>84
麦を日本にもたらしたのは彼らだろうし高句麗や百済の側につくために
柵封体制から脱却したのだからそんなマイナスなイメージでとるのはどうかと
彼らが日本に来たから中華文明に呑み込まれる事なく国風文化を発展させる事が
できたのであろう

>>99>>130
扶余は高句麗や百済はそうであろうが新羅は前にも述べたように扶余ではない
朝鮮の歴史書「三国史記」にも新羅は高句麗や百済とは別の言葉を話してたとある
しかも高句麗の遺民は唐が高句麗を滅ぼした後強制移住をさせられている
つまり朝鮮民族の祖先は新羅人。その後は漢民族・モンゴル・女真族の侵入を受けて
その影響を受けたので高句麗人とは全くの異質な存在になってるのは想像に難くない
それなのになぜ「ウリの祖先は高句麗ニダ」と言って高麗神社に参拝する韓国人(在日含む)の
神経が理解できない。しかも日本人の嫌韓感情を植えつけたのは高句麗や百済の亡命者
実際高句麗の亡命者は大和朝廷に対して「新羅を滅ぼしてくれ」と懇願をしている
彼らが先住民を含む民衆に対しても反新羅感情を起こさせるための入れ知恵をしていたのは
間違いないだろう(もちろん上代日本人と同族の百済や高句麗を滅ぼされた事への
怨念もあったのも言うまでもないが)
ちなみに韓国の反日もこうした背景があるではないか?自分の憧れの高句麗や百済が
蛮族国家の日本で花開いているという嫉妬と自分が滅ぼした高句麗や百済と
同族という憎しみが混ざってあのような反日に結びついているのだろう
反日嫌韓は日帝の植民地支配でもWC2002の韓国の醜態が原因ではない気がする
もっと根は深いものがあるように思える

133 :白馬青牛:2006/04/15(土) 00:14:49
>>127
銅鐸については、詳しく興味を持って調べてないので、よう解りません。
>129氏が言われる通り、無知で勉強不足です。祖形が中国の編鐘に
あるのか、小銅鐸が朝鮮のものと類似しており影響を受けたのか、描かれた
文様や図形についても、類似が中国・朝鮮・東南アジア・東北アジアに
あるのか、日本の系統が、どの地域と関連するのか答える知識が無いのが、
現状です。
>>131
陳舜臣氏は、トルコ系が征服地においても柔軟で、モンゴル系が遊牧至上
主義と民族的性格で語っておられるが、モンゴル系鮮卑族の発祥地の
大興安嶺東部の農耕を伴う地帯の風土条件、モンゴル高原において、
トルコ語族がモンゴル語化した歴史も考慮されるとよい。
倭人=長江文明とは考えんが、後の中華思想中心地は長江であろう。
浙江地域の頑迷な朱子学・攘夷思想・現代でも反日の江沢民氏も含め。
楚は、苗系で華北から移住したと考えられる焼畑狩猟民で、安田善憲氏が
長江文明人に加えるのは、水稲農耕民化した平地苗の生活様式からで
あろう。弱い越系と違い、苗族が強いのは、明・清代の武勲、明を裏切った
朝鮮軍とは違い、清軍を悩ました事等、実績もある。中国戦国期の呉越の
馬は、騎馬では無く、馬に牽かせる戦車じゃ。騎馬戦術を採用したのは
華北の趙。卵生神話は、古代の殷も含め東南アジアから満洲族にもある。

134 :白馬青牛 ◆E5HvYasUsI :2006/04/15(土) 15:25:28
でむぱ

135 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:35:01
韓国人が、国定歴史教書を使って、トンデモない歴史捏造を展開している。

【韓国 国定歴史教科書】
http://members.tripod.com/textbook_korea/fr_2.htm

【帰化人(渡来人)の活躍】
http://members.tripod.com/textbook_korea/3_4.html#3_4_5_1

韓人(カラビト)は半島南部の倭人であり、日本民族の同族なんだが。
韓国人は、古代日本に移住したカラビトを韓国人=朝鮮人だと思い込んでいるようだ。


136 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:36:14
■日本書紀 応神天皇紀■

治世37年春2月1日、阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして
縫工女(きぬぬひめ)を求めさせた。
阿知使主らは高麗国を経由して呉に行こうと考えたが高麗からの道が分からず、
道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の二人を
道案内として使わした。
これによって呉に行く事が出来、呉王に縫女(ぬいめ)の兄媛、弟姫、呉織(くれはとり)、
穴織(あなはとり)の四人を与えた。

>阿知使主らは高麗国を経由して呉に行こうと考えたが高麗からの道が分からず、
>道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は久礼波(くれは)、久礼志(くれし)の二人を
>道案内として使わした。

応神天皇の時代、日本と高句麗は敵対関係にあった。
したがって、ここに登場する高麗(コマ)とは、高句麗ではない。
コマとは、百済のことである。

コマ国は、古末国・古満国・乾馬国・駒国・狛国、いろんな表記があるが、
百済と書いてコマと読んだ時期もあった。315年から346年頃までは、百済の読みは
コマだった。
基本的に、コマ国とは、日本領・任那の北部地方、つまり楽浪郡=帯方郡を意味する。
高句麗は、コマではないのだ。
314年以降、高句麗が旧帯方郡を支配するようになってから、百済の北方をコマと
呼ぶようになったが、もともと「コマ」とは帯方郡のことである。
百済を当初、コマと呼んだのは、314年の高句麗による攻撃で帯方郡が滅びた時、任那に亡命した
帯方郡の漢人・倭人(いわゆるコマ人=狛人)たちが、大和朝廷の支援を受けて百済を建てたから。


137 :日本@名無史さん:2006/04/15(土) 21:26:44
>>131
>コルテスがアステカを数騎で征服したと言ってる人

私はコルテスがタバスコの戦いで10騎で10000人を潰走させた、
と言ったのだ。「数騎」で「征服」したとは言っていない。
人の言葉を歪曲しないで貰いたい。

>何を根拠に倭人=長江文明人を弱いと判断しているのかわからない。

私は民族性とかを言っているのではない。
4世紀初頭において扶余(金官)との間に、軍事的な発展段階の格差
があった、と言っているのである。

それと、倭が強かった、と言う人は単純に倭と任那の面積や人口を比較
するが、それは国民国家的な考え方である。4世紀初頭において、統一的
な倭國など存在しなかった。なるほど前方後円墳がほぼ全国を覆って
いたが、それはまた、各地の豪族がそれだけの独立性を有していること
の証明でもある。侵入者は目の前の一人の豪族を相手にすれば良かったの
である。それならば戦いは1000人程度の規模であろう。

138 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 00:05:23
>>137
なるほど。
で、日本のどこを侵略したとお考えかな?

139 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 00:51:04
>>137
>なるほど前方後円墳がほぼ全国を覆っていたが、
>それはまた、各地の豪族がそれだけの独立性を有していること
>の証明でもある。

論理矛盾。
前方後円墳は配下の証拠。

140 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 01:12:54
>>133
呉越が戦車を使っていたのは知っている。だから馬の特性とかも熟知していたので
騎兵の戦い方もそれなりにわかっていただろうという意味で書いたのだが
あと卵生神話はこれを見る限り満州族では見当たらないのだが
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H305C100.HTM
仮にあるとしたらツングースは倭人と混血したのではないか?
倭人が満州にいたという中国の史記もあるくらいだ
余談だが日本の場合は箱舟神話の神話を持った部族(南方系縄文人)が主体だったので
卵生神話がなかったのだと思う。ちなみに卵生神話の面影のようなものは
あるようである

>>137
>人の言葉を歪曲しないで貰いたい
これは素直に謝る。すまなかった
ただ
>侵入者は目の前の一人の豪族を相手にすれば良かったの
>である。それならば戦いは1000人程度の規模であろう。
こんな話は俺のしる限り聞いた事がない。古事記にも日本書紀でも
聞いた事がないのだが。もしその根拠があるならソースも含めて
教えていただきたい

あと蛇足になるが祈年祭では御供物の中に鹿角があり、鹿トーテムを持つ
扶余との関連もありそうで興味深い
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/saidan.html
ただ犠牲の祭が無いところを見るとやはりワイ族=扶余族は王権成立には
協力はしたが征服して王朝を立てたという結論には達するのは無理があるだろう

141 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 02:23:28
>>24

日本に来た渡来系には、大きく2種類あったと思われる。
縄文人が日本を占拠していた時期に、朝鮮半島から渡来したもの。B52−DR2、弥生人である。
特徴として、頬骨が発達している。
すでに、弥生人が西日本を占拠していたころに
朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、新しく関西周辺に入ってきた渡来人
B44−DR13である。
顔の特徴は頬骨が前者の弥生人程発達してなく、蚕型の輪郭をしている。
関西周辺から入り、秋田方面、東海方面へと広がっていった。
やはり西日本は弥生人がすでに占拠していたため、西日本にはあまり入りこめず西に行くほど頻度は低くなる。

現代朝鮮人・関西周辺人・中国地方人は同じ新モンゴロイド系だが、
関西周辺人だけ、ぶっちぎりで現代朝鮮人に近い、
現代朝鮮人と同一の血を持つ集団が、弥生時代から古墳時代頃に関西周辺にだけ土着したという証拠である。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりで朝鮮人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より


142 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 05:55:05
>>141 フィリピンパブでモテるのが縄文系だなw

143 :がいやまん:2006/04/16(日) 11:40:05
>>141
漢4郡/楽浪・帯方vs残余の東夷といった対立構造が天孫vs地祇となるのかもしれ
ない。


144 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 11:42:44
★★任那の真実★★

任那問題・・。これは重要な問題である。
下記のサイトの文をよく読んで、考えよう。
日本古代史について研究するとき、カラ半島南部諸国=志良岐・任那・百済との関係を
考えるのは当然であるが、それに加えて、半島中部の駒国(コマ。すなわち楽浪郡)と
古代日本の関係がどうであったかも研究する必要がある。
また、日本-駒国の関係に、中国北朝=魏が与えた影響、その魏の政治情況が、
古代日本と任那の関係にどのような影響を及ぼしたのかも研究しなければならない。
魏が、公孫度領=楽浪郡を攻め滅ぼしたことがきっかけで、任那は古代日本(崇神天皇)に
助けを求め、日本領となった事実。日本がその任那を通じて魏と交流した事実、
これらの事実をふまえた上で、日本列島とカラ半島の古代史を研究することで、
古代における日本とカラ諸国の関係が、どういう形であったかが見えてくるはずである。

■任那問題と古代日朝関係■
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/0415b.html
■好太王碑 最古の拓本発見■
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1145111903/l50


145 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 11:51:52
>>142
仮面ライダーカブト→天道総司は縄文系。
天道総司を演じる水嶋ヒロは、典型的な縄文系美男子。

仮面ライダーカブトHP <キャスト紹介>
http://www.tv-asahi.co.jp/kabuto/04_cast/index.html

わき役・加賀美新=佐藤祐基は弥生系(越人系)の顔だな。


146 :日本@名無史さん:2006/04/16(日) 12:12:54
>朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、新しく関西周辺に入ってきた渡来人
>B44−DR13である。


馬鹿じゃないの?w

B44-DR13の頻度は、

東海地方が10%超、西日本で6〜7%、朝鮮南部で5%、中国朝鮮族で3.5%

と、北上する毎に減少していくんだよ。

つまりB44-DR13は列島が半島とつながっていた15000年以上前に、
東海・近畿地方を中心として広がっていた縄文人のハプロタイプ
という事が知恵遅れでもない限り、いともカンタンに分かるのである。

147 :白馬青牛:2006/04/16(日) 23:52:54
>>140
卵生神話の分布は、東南アジア・ニューギニア・オセアニア・インド・
チベット・東南シベリアのサハ(ヤクート)西洋のフィンランド・
エストニアにも及ぶ。佐口透氏によるとアルタイ系民族で獣祖型は、
トルコ系に多くモンゴル系でも見られるが、朝鮮や日本には見られない。
感生(精)型はモンゴル・ツングース族に多く、日本でも見られる。
佐口氏は、卵生・感生・獣祖型が民族固有のものかは疑問で、自然環境の
影響を受けているとされる。草原乾燥地帯、森林湿潤地帯と様々な環境で
違ってくるのであろう。
下に紹介された佐原氏の引用に、「一般庶民の犠牲の実例をいくら並べても
騎馬民族説とは関係ありません」と自説を優位にしようと勝手な前提条件を
付けた姑息な手段じゃ。天皇家の儀式・祭礼の記述の時代は、675年
天武天皇の肉食禁止令よりも後の時代で、それを無視しとる。
延喜式のお供え物は、魚介類・海草の海産物多く、農作物は少ないと
網野善彦氏は云うておられたが、農耕民代表、肉食嫌いの佐原氏は、
漁撈の問題も無視されとる。

148 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 10:25:33
夫余とは別種。朝鮮半島を突き抜けて定着していない。


◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度

西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人

149 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 13:29:00
>>139
>論理矛盾。 前方後円墳は配下の証拠。
>>140
>こんな話は俺のしる限り聞いた事がない。

前方後円墳はピラミッドと同様に、モニュメントを兼ねた墓だと
思うが、ほんとうに中央集権の統一国家なら、エジプトやアステカ
と同じように、王だけがモニュメントを作ればよいのだ。

前方後円墳のように、全国の全ての豪族が分に応じてモニュメントを
作り、そのなかには大王のそれとほぼ同規模のものもあるという、
「民主的」なモニュメントは珍しい。これは古墳時代の体制が豪族の
寄り合い所帯であった証拠である。

このような体制に、統一軍が存在したとは考えられない。
4世紀の半島における倭の軍事行動は大豪族の私兵であろうと説く
学者がいるのも、上記のような見方を反映しているだろう。

150 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 15:17:43
>>149
同じ規格の古墳を造るなど、共有意識があったなら当然結束も容易でしょ
異敵が隣りの領地に侵入してきた!こりゃータダ事でじゃないぞ!
一気に包囲し叩きましょうよ、右君、左君、って思うじゃないか?
それに、軍事レベルに大きな差があったとも思えないし優劣はつけられないでしょ。
3韓征伐が行われたからといって、半島の軍時が日本よりも遅れていたとは思わないし。
なにより朝鮮出兵や元寇よりも遥か昔の古代に玄海灘をえての軍事征服にイマイチ実感がわかないよ。



151 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 19:11:43
>>150
>一気に包囲し叩きましょうよ、右君、左君、って思うじゃないか?

バイキングが始めてフランスに侵入したときに起こったことは実に
参考になる。そのときのフランスは一応、フランク王国だ。しかし
各地で略奪を繰り返すバイキング集団に対して、フランク王が統一軍を
催してぶっつぶす、ということはなかった。フランク王はただ金を渡して
退散を願っただけだった。

また領主の貴族達が右君、左君、じゃなかったドロワ君、ゴーシュ君と連係
して一気に包囲することもなかった。彼等はそれぞれ、独自に対応しただけ
だったのだ。遂にキリスト教会が仲介して、フランク王の臣下になるという
形でバイキングに土地を与えて、ようやく納まったのである。

>軍事レベルに大きな差があったとも思えないし

三輪王朝の倭は依然として吉野が里レベルからたいして進歩していなかった。
これに対して扶余は武器はすべて鉄製、防具として鎖かたびら式や鉄板製
の鎧(古墳時代の鎧の原型)と、鉄板製の兜を持ち、おまけに騎兵戦術を
持っていた。大きな差がないとはとうてい言えない。

>なにより朝鮮出兵や元寇よりも遥か昔の古代に玄海灘をえての軍事征服に
>イマイチ実感がわかないよ。

それを言うなら上記のような差を乗り越えて、三輪王朝が4世紀中葉に、
玄海灘を越えて金官を軍事征服したというのは、もっと実感が湧かない。

152 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 20:02:03
>>151
だから日本のどこを攻めたとお考えかな?

153 :日本@名無史さん:2006/04/17(月) 20:04:25
>>151
確か鉄製武具って、半島では可耶からしか見つかってないし
出土量のそれも日本の方が多い


154 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 01:11:37
最近の青牛くん元気ないね
それとも大人になったのか

155 :白馬青牛:2006/04/18(火) 02:04:48
>>154
元気がないと言うより、>148のように、人種厨のつまらん繰り返しが
多いので、うんざりしとる。モンゴル人と同種なら単一の標識で無く、
モンゴル人と韓国人に共通するB13−DR7も含め、全体的に考察せんと
いけん。徳永氏自体が、韓国人に比べ日本人がモンゴル人に近いとは、
一言も云うておられんのに捏造する。突き抜けて定着せんとなると当時
飛行機でもあったと想定しとるんかと云うてもよいが、他板、他スレにも
書くことが多いので、このスレで、いちいち低脳弥生ポンチョ人種厨を
相手にするほどの暇はない。じゃが、暇つぶしの相手にはなるわいのう。
暇な時には、馬鹿にして楽しむよ。

156 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 11:09:00
>>152
多多羅浜式の戦闘はなかった、と考えているのだから、どこであってもよい。

>>153
>出土量のそれも日本の方が多い

ただし日本のほうが時代が新しい。

>確か鉄製武具って、半島では可耶からしか見つかってないし

伽耶の話をしているのだから伽耶から出れば十分ではないか。




157 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 12:40:34
夫余とは全くの別種。朝鮮半島は突き抜けて定着していない。


◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度

西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人

158 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 12:57:26
>>156
>どこであってもよい

どこか言わなきゃ。
どこにも馬具が集中して出てないのだから、どこでもないという意味だね。
それは侵略がなかったという事になるんだが。

159 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 13:44:39
侵略×
帰化申請、結果待ち○

160 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 13:53:18
大草原を疾走する蒼い狼の子らが
お船にゆ〜らゆ〜らりと大海を渡り日本征服だ? 
普通に考えられネーー

161 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 16:59:13
>>156
主に当時の鉄鉱山は半島南部に密集していたわけで、その付近にあった伽耶(倭人も)
当然、採掘していたであろうことは容易に想像できるわけで
武器や甲冑をつくるなりし、産業や交易にと活かしもしただろうし
儲け話にはいつの世もあるわけで、そうすると製造・製法も売買出来たんじゃないか?
と普通に考えられるわけでして。。。

。。でも、ぶっちゃけ、見てくれだけで造れるモンばかりだと思う、精密機械じゃあるまいしね・・w

162 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 20:19:19
       ________∩_∩
     /   ノ ヽ (  ノ⊂ ̄))) ̄⊃
     /|ヽ  (_ノ  ._ ̄  0'ヽ 0'
    / |ノ  .)    (_)  ヽ  i (   広島の草は美味だわ
 ∋ノ |  /――、__  ./(∩∩)  
      / /| ヽ__ノ   | / ./     
    | ( | ( ’’’    | ( /
    |__ヽ.L_ヽ        Lヽ_ヽ
''" ""''"" "'''''" ""''"" ''" ""''"" ''" ""''"" ''" ""''"" "'''.

163 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 21:44:24
>>158
戦争があれば馬具が集中して出るのか?
では騎馬戦術の本場、高句麗で馬兜がいままでに何個出ていると思う?

>>160
扶余が大草原で蒼き狼か。古典的だな。

164 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 21:52:56
>>156
日本の方が多いということは、主な供給先は倭だったということ
百済や新羅が鉄製武具で装甲していたとは考えられない
>伽耶の話をしているのだから伽耶から出れば十分ではないか。
扶余は馬韓も征服したのだろ?

165 :日本@名無史さん:2006/04/18(火) 22:06:58
>>163
戦争と言う事でなく、
日本のどこかを征服したのなら、
特定の地域から馬具が沢山出るはずだ。

166 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 09:50:29
>>164
>百済や新羅が鉄製武具で装甲していたとは考えられない

関係するのは伽耶と倭だから、百済や新羅はさしあたりどうでもよい。

>扶余は馬韓も征服したのだろ?

百済の扶余王朝のことかな?
私は百済の武装のことについて知らないので、知っていたら教えて欲しい。

>>165
>特定の地域から馬具が沢山出るはずだ。

特定でなくても、5世紀になれば全国各地から馬具が出る。

167 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 13:04:30
>>166
>関係するのは伽耶と倭だから、百済や新羅はさしあたりどうでもよい。
倭が支配下に置いたのは百済と新羅、戦ったのは高句麗
>百済の扶余王朝のことかな?
扶余は馬韓を征服し百済を立てた
征服地である百済から武具が見つからないのはおかしい
つまり扶余は決して鉄製武具のみに頼って征服したわけではない

168 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 15:57:05
新羅本紀なんかみると海戦を得意とする倭人らの討伐がいかに無謀である
かということがよく分かる、それどころか簡単に攻め込まれ四苦八苦四苦
している様子が伺える。

バイキングに攻め込まれれ白旗は上げなかったが
やられるがままの状態であったアングロサクソン人とダブってしまう。

169 :日本@名無史さん:2006/04/19(水) 17:28:55
>>166
>特定でなくても、5世紀になれば全国各地から馬具が出る。

全国各地から、散漫として出るというのは文化受容の証拠でしょう?

170 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 10:12:28
>167
>>征服地である百済から武具が見つからないのはおかしい

見つからなければ鉄製武具がなかったのか。そんなことは言えない。
高句麗も金官の扶余と似た武器、武装だったが、これらは一つとして
高句麗から出土していない。ではなんでわかるかと言うと高句麗には
壁画古墳があるからだ。

つまり遺物が出る、出ないというのは全く副葬の習慣次第のだ。
伽耶、倭では幸いにも武器、武装を副葬する習慣があった、ということに過ぎない。
それ以外の場所に、例えば戦場に落ちていたとしたら、鉄は貴重品だから
たちまちリサイクルされただろう。

ただし、百済はどんな武装だったかと言えば、私はどうも伽耶、倭のような
鉄板製だったとは思えない。百済はもっと楽浪郡/中国の影響を受けた
のではないかと思う。

>つまり扶余は決して鉄製武具のみに頼って征服したわけではない

その通り。もう一つの要素はほかならぬ騎馬戦術だった。

171 :日本@名無史さん:2006/04/20(木) 21:28:19
>>170
なかったとは言わないが百済の古墳群などから見つからない、現時点で出土しないということは
必然的にその量が無かったということ 或いは鉄で武装していなかった

>高句麗には壁画古墳があるからだ。
壁画から武装を推測するというのもあれだが、一説には高句麗の鉄甲騎馬はその色が茶色に着色されており有機系の武装だったとも言われる
鉄であったかどうかは不明 出土して裏付けられる

>その通り。もう一つの要素はほかならぬ騎馬戦術だった。
つまり扶余は鉄製武具の文化を持っていたとはいえない
幾ら騎馬に優れていても鉄で武装した倭の兵士なら絶対数が多いので対応可能
所詮は馬は機動力ではないか

172 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 09:43:51
>>171
>現時点で出土しないということは必然的にその量が無かったということ

だから、武器、武装を墓に副葬する習慣がなければいくら沢山あっても「出土」は
しない、と言っているのだ。百済の王墓は日常品を副葬するが武器、武装を副葬
しなかった。

>壁画から武装を推測するというのもあれだが、

高句麗の古墳の壁画に描かれた武装とよく似たものが伽耶から出土するから、
逆に高句麗の武装が推定されるのである。

>つまり扶余は鉄製武具の文化を持っていたとはいえない

扶余の場合は具体的な出土品によって鉄製武器、武装を持っていたことが
証明されるのである。
吉林省楡樹の扶余遺跡と、伽耶の大成洞(金官)その他の遺跡の出土品がそれ
である。
扶余はこの鉄製武装と騎馬戦術とを結合させた装甲騎馬戦術を持っていた。
それは高句麗も同じ(古墳壁画から推定)。
これが、4世紀前半の倭との戦術格差である。

173 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 13:41:26
青牛くんはなんで日本が騎馬民族に征服されたと信じているのかな?

その理由を知りたいな。

先生が間違いを指摘してあげるよ。

待っているよ。

174 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 18:38:22
重装備で武装した勇ましい騎馬軍団!キコキコお船でご出陣!
んなアホなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

175 ::2006/04/21(金) 18:41:04
そのお船何人乗り?w

176 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 19:24:22
青銅の武器に木製鎧の三輪王朝軍団が、人海戦術(?)で装甲騎兵の金官を征服!
勇ましいな〜〜〜〜

177 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 19:48:36
扶余と大和は友好関係にあり、鉄の交易をしていた。
それだけ。
征服だどうだ以前の話。
異民族が接した時、すぐ戦争になったと考えるのは、
小心者の発想。

178 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:46:37
>>147
仮に卵生神話が倭人との混血でないとしても倭人が満州にいた事は
中国の史書でも明らかだし、彼らが北方系民族と混血したという可能性だってある
現に上代日本語と高句麗語は数詞において共通点があるが、それと同時に
ビルマ系言語との共通点も見られる。(残念ながらソースを失念してしまったのだが)
ツングースが北方系民族と倭人の混血であるというのを
否定する根拠にはならないとは思うが。ちなみに韓国にも獣祖神話はあるのだが(檀君神話など)

>>151
鉄器はいずれも倭人の物だろう。実際倭人国家だった越は鉄剣を持っていた。
越が滅びたあと越の倭人が日本に来ただろうし、その時鉄製の兵器を携帯していのだろう
そして北九州や半島南部で鉄を採掘して鉄製兵器を生産していたと推測するのが
妥当ではないか?それに倭人は小型の木製の弩も持っていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A9
上陸して来てたがが数騎の騎兵など蜂の巣にされるのがオチである。また、倭人が
統一国家を作っていないというのも疑わしい。邪馬台国は卑弥呼の下で
連邦制的な統一政権を作っているしそれが大和朝廷へと発展している
(九州王朝説もあるが、ここではスレ違いなので省略する)
だから倭の五王が統一政権の王だという根拠ならいくらでもある
それに騎馬民族がどこかの豪族を攻撃したというなら記紀にも中国の文献にも
あるはずであるが、そんな話は聞いたことがないし根拠もなくどこかの豪族を
騎馬民族が攻めたというのは歴史を語る上で禁句ではないか?
第一扶余が軍事強国になったのは扶余族や狛族が国家(扶余や高句麗)を
建国してからである。また扶余はこの頃鮮卑に攻撃されで日本遠征どころじゃ
なかっただろう。やはりBC1世紀に扶余の祖先であるワイ系部族集団の
ワイ族が麦を持って倭に渡来人として来たというのが妥当のように感じる


179 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 23:36:16
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1125596156/l50#tag46

ここの「たろ ◆tBxG.1TWD6 」ってコテをなんとかしてくれ。

180 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 23:46:54
郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史
コテ205

181 :白馬青牛:2006/04/22(土) 00:16:50
>>173
まず、騎馬民族の定義じゃが、モンゴル系の初期の柔然やモンゴル部族の
祖とされる室韋はどうか?また沿海州から北海道へ殖民し、海獣猟・漁撈を
生活の糧とし、蝦夷に圧迫を加えたオホーツク文化人は騎馬民族か?
あなたは、どう定義付けしとるんか?ほいで、わしは、何度も云うが、
ツングース系の騎馬要素よりも漁撈・海賊的要素を重視しとる。
>>178
倭人が満洲におったと云うのは、『後漢書』鮮卑伝にある、鮮卑が倭人を
撃ち、泰水のほとりに住まわせた倭人奴隷民のことか?
日本語とチベット・ビルマ語系類似説は、西田龍雄氏が云われたことか?
檀君神話の「熊」説話は、北ユーラシアからアメリカ大陸に及ぶが、
獣祖神話(トルコ・モンゴル系狼祖神話等)は、アルタイ系諸民族の
神話に色々な型があり、三品彰英氏が指摘し獣祖・感生・卵生型と分類
されたもので、ツングース系は、内陸アジア的犬・鹿や扶余の諸加の
家畜トーテムと、極東森林地帯の虎・熊トーテムも含んでおる。
それと倭人と越が同種との認識しとるが、わしは、倭や韓が広義の
越文化圏であることは認めるが、同種族とは考えておらん。

182 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:16:39
>>181
遡れば皆エチオピア人、いやチンパンジー、いやミトコンry
文化圏が同じ、はいはいコレ重要〜 人種は二のつぎね。

アメリカ見てみピンキリ星条旗のもとドンパチやっとるだろ
当時を考えてみ神のお告げでたちまちひれ伏す連中だろ
それだけで一つになれるな。


183 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 19:13:33
子供の頃、きばみんぞくと聞くと、牙の生えた民族だと
いつも思ってたなw

やっぱ俺と同じ香具師いる?

184 :太国:2006/04/22(土) 19:27:15
そんなもん知らんがな

185 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:29:55
百戦錬磨!勇猛果敢な北方騎馬軍団ここに参上! お船でキコキコいざ漂流〜〜
ブゲラッチョwwwww

186 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:34:14
>>151
>鉄器はいずれも倭人の物だろう。

伽耶から、単に鉄製の武器、武装が出るのではない。
扶余本国とつながりのある鉄製の武器、武装が出るのである。

>上陸して来てたがが数騎の騎兵など蜂の巣にされるのがオチである。

騎兵がそんなに無力なら、5世紀の倭はなんで、直営の馬牧場まで
作って騎馬化に狂奔したのか?

>だから倭の五王が統一政権の王だという根拠ならいくらでもある

私は「倭の五王は扶余である」「河内王朝は扶余による簒奪王朝である」
と言っているのだから、それが統一政権であっても一向に構わない。
問題なのは三輪王朝である。なぜなら任那との特殊な関係ができたのは
三輪王朝のときだから。

187 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:35:56
>それに騎馬民族がどこかの豪族を攻撃したというなら記紀にも中国の文献
>にもあるはずであるが、そんな話は聞いたことがない

「中国の文献」は公平にして無欠の学術論文ではない。そのときの王朝に
とって関心のあることしか書いてない。
現に同じ頃に起こった好太王と倭との、あの重要な戦いは、いかなる
「中国の文献」にも載っていないではないか。

>また扶余はこの頃鮮卑に攻撃されで日本遠征どころじゃなかっただろう。

3世紀末に鮮卑に滅ぼされた扶余が沃阻に逃れ、その一部がさらに任那に
至って金官を建てた。これが何年か後に倭に入った、と言っているのだ。
「入った」と言ったのは、必ずしも戦争を経なかったかも知れないからだ。

>やはりBC1世紀に扶余の祖先であるワイ系部族集団の
>ワイ族が麦を持って倭に渡来人として来たというのが妥当のように感じる

そういうことがあっても別に構わないよ。それより400年も後の話を
しているのだから。

188 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:38:53
騎馬民族説はアホスカタン説とも言う

189 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:25:26
>>172
変な話だな 百済も高句麗も支配層は扶余だ
何故吉林省の扶余と任那の扶余が(任那を扶余が支配したというのがイマイチわからんが考古的に確定してるのか?それに任那=加羅というわけでもあるまい)
武具を副葬する習慣を持ちながら何故百済と高句麗は副葬しない?出土しないことの言い訳でしかないだろう
>高句麗の古墳の壁画に描かれた武装とよく似たものが伽耶から出土するから、
当時の武具なんて大部分が中華のcopyだ ある程度北方系の特色が見られるとしても皆圧倒的先進国である中華を模倣するに過ぎない
環頭大刀も短甲も細かな分類で系統立てているに過ぎない 鉄甲騎馬が北方だけというのも幻想だ
そして何度も言うが高句麗の壁画に関して言えば「茶色」なのだ 鉄であると決まったわけではない

190 :白馬青牛:2006/04/23(日) 01:18:01
>>182
何を云うとるんか、無知なわしには、意味が解らんわい。
人種厨とは思えるが、人種厨は、同じ文を何回も書き込むしか脳がない
ので、わし以上に低脳であることには違いない。

191 :白豚ナイト:2006/04/23(日) 06:14:06
>>190
大和帝国はキチ鮮卑が征服したに違いない! 
と、この期に及んでもまーだ思ってるの?
なぜそう思うのか言ってミソ
先生が間違いを指摘してあげから、待っているよw


192 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 07:02:35
>>190
飽きもせずに牛クンの相手をして下さっている方々が、そのジンシュですよw
まともな人間あるいは真面目に議論をしたいと思って来る人間はまずいません、

例えるなら、受け売り大将の鼻歌にステップふんで踊る阿呆に観る阿呆でしょうw
洩れは高揚したい時に寄らせてもらってますw

193 :三光作戦:2006/04/23(日) 10:25:50

日中戦争時、抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、強圧的に拡大して
満州と中国との国境とした万里の長城線一帯を無人化する作戦を実施した。
指定地域内の住人を総て強制収容所に移住させ、ゲリラと住人との接触を断ち
ゲリラ出没地域での耕作を一切禁止するというものである。
その過程において、首を切り落とすなどして殺害した農民は8万1千人、
拷問のため施設送りの後処刑した者4万6千人。合計127000人を殺害した。
集落によっては村民が殆ど皆殺しになった所もある。
人囲いと言われる強制収容所は粗末なもので、宿舎は無く、移住させられた住民は露地に藁を敷き、露天で寝るしかなかった。
宿舎としてのバラックや要壁などは住民の手で作らされた。
農期には収容所近くの耕地で農作業を強制された。
収容所の環境は劣悪で、満足な食料、薬もなく、病気や飢えで何万もの人が命を落とした。

表題の三光とは、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすと言う意味である。

幾つか例を挙げると

豊潤県潘家峪では一度に1230人が虐殺された。
密雲西白連峪では、全村落を破壊し、最後に破壊から偶然逃れていた一軒を発見し、そこに居た70歳重体老人を家ごと焼殺、幼児2名を銃殺。
王廠溝、南大門一帯では、580人を逮捕し、380人を虐殺し、残り200人を強制労働の為、東北へ送り、内80%が死亡。
石柱子村では、村民700人中300人を虐殺。
興隆県秋木林、大莫峪では、全130戸から180人の青年壮年男を逮捕し、虐殺。寡婦の村とする。
興隆県ではその一帯に多数の寡婦の村が出来た。
更に寡婦の村を襲撃し、逮捕した者で使えそうな者を日本兵の慰め者にし、残りは処刑した。
興隆県では、人口16万人が戦後、10万人に減少していた。
大帽峪の村人など120人を後手に縛り、虐殺。
引っ立てて来た魯家峪住人を一人ずつ目隠しをして井戸の前に座らせ、
日本刀で首を跳ね飛ばしては井戸の中に放り込んだ。


194 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 10:28:19
>>192
そうやって煽ってるくせにw

195 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 10:29:27
↑捏造乙w

196 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 11:55:08
>>195
>>193に対してね

197 :YAP?:2006/04/23(日) 12:32:09
三光作戦?

国共内戦時に、国民党軍と、共産党軍が、お互いに一般の人民をそれぞれ
搾取・掠奪した後、自分の都合で日本軍のせいにしたあの「三光作戦」の
ことか?

ちゃんと勉強すれば、「三光作戦」などというのは日本語の語彙ではなく、
何かあればすぐに「屠城」や「清野(郷)」を歴史的に繰り返してきた
中国人の専売特許だということぐらいわかるだろうに。

まあ、193氏が中国人であるなら、そう書かないと、本人や家族の命に
かかわるかもしれないから、理解出来なくも無いが。

198 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 12:35:58
青牛くんを虐めちゃだめだよ
皆で仲良く育てていこうよ

199 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 18:21:55
>>186
>問題なのは三輪王朝である。なぜなら任那との特殊な関係ができたのは
>三輪王朝のときだから

須恵器が出てないのだから無理だろう。
何度も同じ事を言わなければいけないな…

200 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:25:50
>>189
>何故吉林省の扶余と任那の扶余が武具を副葬する習慣を持ちながら
>何故百済と高句麗は副葬しない?

それは百済と高句麗は何故木郭墓を作らないのか?というのと同類の
質問だ。こればかりは墓を作るほうの好みだから、当方ではいかんとも
し難い。結局のところ、歴史はルールではないのだ。

>当時の武具なんて大部分が中華のcopyだ 

いわゆる「蒙古鉢形冑」という、細い鉄板を円周方向につないで
てっぺんにドームを載せた騎兵用の兜は、吉林省の扶余遺跡から伽耶
を経て、日本の各地の古墳で出る「ま庇付き兜」につながっているわけ
だが、あんなへんてこな兜は中国では用いられていない。

>鉄甲騎馬が北方だけというのも幻想だ

もちろん、形式は別として中国や鮮卑にもあっただろう。私が言っている
のは、伽耶がそれを持っている時点で日本にはなかった、ということだ。
あらかじめ言っておけば、「ま庇付き兜」は5世紀以降である。




201 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:28:15
>そして何度も言うが高句麗の壁画に関して言えば「茶色」なのだ

私が持っている図版は「白色」に描いてあるけどね。白色というのは
西欧の騎士の武装と同様な、鉄の磨かれた色を表しているのだろう。
文献は「伽耶と古代アジア」新人物往来社。

>それに任那=加羅というわけでもあるまい

任那は狗耶韓国/金官を表す狭義と、伽耶諸国ぜんたいを表す広義と
二通りに用いられる(日本書紀でも同様)。私も両方に用いている
からケースバイケースで解釈されたい。
伽耶は「任那」という言葉が韓国がらみで問題があるので、どちらか
といえば広義の任那に替えて使われているようだ。

202 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:39:43
>>199
なにも征服があったときめつけているわけではない。
金官と三輪王朝との間に「特殊な関係」があったことは伽耶の出土物が
示している。
また広開土王碑も任那加羅と倭が一体であったことを暗示している。この
時点で一体化するにはそれ以前から「特殊な関係」になければならない。
そのことを言っている。

203 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 21:02:06
>>202
だから、これも繰り返すけど、
扶余と大和は鉄の交易を通じて、
非常に良い関係であった。
お互いに征服や簒奪などない。

204 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:41:21
騎馬民族じゃなくても征服名じゃなくてもいいんだけど、大陸からの支配者が日本に流入して
天皇になったという根拠はなにかあるの?

205 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 00:45:20
>>204
ないから荒れてんだよ
幻を追ってるんだな

206 :白馬青牛:2006/04/24(月) 01:46:30
>>193
日本軍の中国民衆に対する蛮行、つまり殺、焼、盗は、申し訳ないと
思います。隠蔽体質は、日本人の誇りとして恥ずかしいと思います。が、
しかし中国国府軍が自国民に与えた蛮行もあります。詳しくは、
お国自慢板「郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史」でわしは、事例を挙げて
述べております。ここでは、スレ違いじゃと思います。

207 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 09:36:06
>>203
だから、単なる貿易関係は「特殊な関係」ではない。
単なる貿易関係ならば任那と倭が一体化する必要はない。

208 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 11:42:31
>>207
>単なる貿易関係

どうしてだ。
高句麗対策としてお互いが有効な関係、
つまり同盟だろう。

209 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 17:17:38
>>207
なーに簡単簡単
従属国→植民地→倭地、近代史より簡略だよ当時はね。

210 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 18:55:46
>>207
どう見るかは事由だが、
http://inoues.net/korea/fukusendo_new2002a.jpg

この程度の貧弱な集団墓地を作ってた連中が、
なぜ世界最大墳墓を作ってた河内王朝へと豹変できるのだ?
無理があるとは思わないか?

211 :210:2006/04/24(月) 19:10:24
事由を「自由」に訂正。

212 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 19:36:38
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/ttalk/267000/20060424114587064065649200.jpg
   ↑↑↑↑↑↑↑↑
田舎臭い人間達が空想する騎馬民族のイメージ!







・・・・・がリアルな現実はこんなもんでしょう!!
   ↓↓↓↓↓↓↓↓
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/ttalk/267000/20060424114587093784057500.jpg






213 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:32:16
久方にワロタ

214 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:42:02
>>210
数は力なり、国家形成においての順路って知ってる?
単集落から多集落集合帯へ、多集落集合帯の集合体の〜・・
と最終的に1つへと纏っていく、つまり文化・富・権力
が大きくなればそれは可能ってことでほ。

215 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:57:44
>>209
倭地から来た渡来系氏族らが天皇に付き従い文化繁栄をもたらたこと
古代日本の国家形成に大いに役立ったことは認めるよ

でも、少なくとも現朝鮮人は全然関係ナッシングだねw

216 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:36:06
>>214
>数は力なり

大和の事だねw

217 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:46:31
清朝を建てたヌルハチは、
10数騎、または数10騎で明を攻めて清朝を建てた。

当時の日本(倭人)はそれほどに弱い。


218 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:55:17
朝鮮半島南部に住んでいたのは倭人じゃないの?

その後、北方から騎馬・遊牧民族が朝鮮半島を南下して、高句麗・新羅などを建てた。

だから、ソニンや和田あき子など、セイシュウ島出身の韓国系は、日本人の顔が似ている。

騎馬民族出身の韓国人は、目がつりあがり、どちらかと言うとモンゴル人に似ている。

やっぱり騎馬・遊牧民族なんだなと思うが、どうだろうか?

219 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:37:25
>>218 朝鮮に遊牧民族の痕跡、伝統などどこにあるのか?牛乳を飲んだり、チーズ
を食っていたりしたのか。羊飼いではなくて豚飼いが居たのだろう。


220 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:39:50
セイシュウ島って…

221 :がいやまん:2006/04/25(火) 08:00:07
チェジュ島のことだんべ。

222 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 10:55:55
>>217
>清朝を建てたヌルハチは、 10数騎、または数10騎で明を攻めて清朝を建てた。

ヌルハチの軍は「10数騎、または数10騎」ではなく、数千騎だと思うが、
少数者が巨大な「文化・富・権力」を倒した例としては適切だね。

>>210
>この程度の貧弱な集団墓地を作ってた連中が、
>なぜ世界最大墳墓を作ってた河内王朝へと豹変できるのだ?

ぜんぜん無理だとは思わない。例えば蘇我氏を考えて見よう。
蘇我氏は渡来系だと言われる。そしてその蘇我氏は大王家を
乗っ取る一歩手前まで行った。いやすでに大王であったという説もある。
クーデターで失敗したが、もし成功していたら渡来系の王朝ができたはずだ。
そのもとの國は半島で「貧弱な集団墓地」を作っていただろう。






223 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:19:13
三光大虐殺については、1980年代、1990年代になってから、虐殺の生き残りの証人に対する大規模な聞き取り調査と捕虜になった複数の日本兵の供述調書により、その実態がほぼ明らかになっている。
被害者の実数は、証人が生き残っていた場合に限られ、
しかも、一度に十人以上殺された事例のみの集計なので、実際はもっと多いだろう。
自供や証言に基づく実地調査でも、多数の遺骨が出て来ている。
虐殺を命じる旧日本軍の命令書も出て来ている。

46000人を処刑した拷問施設のあった水泉溝の死体捨て場では、
今でも白骨が地面からにょきにょきと突き出したり、ごろごろしている。


224 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:55:51
>>222
なぜ蘇我氏が失敗したかも言わなきゃな。

225 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 13:38:52
>>222
蘇我は波斯人(ペルシャ)であった可能性が極めて高い。
ペルシャ人はチンギス・ハーンにも重用されたぐらい非常に優秀だ。
その蘇我でさえ、権力を取れなかった。

同じ渡来系だからって扶余ごとき馬糞と一緒にするな。
しかも、たった一人の扶余人の渡来も証明できないで何を言ってるのだ?

226 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 14:48:48
伽揶は「韓国史の失われたアトランティス」
小説家・崔仁浩、『第4の帝国』発刊

韓国の古代史の秘密を追跡し、興味深い小説を発表してきた小説家の崔仁浩(チェ・インホ/61)氏が、
忘れられた伽揶の歴史を小説に再構成した3冊組の長編『第4の帝国』(余白社)を発表した
朝鮮日報連載小説の『失われた王国』(百済)をはじめ、『帝王の門』(高句麗)、『海神』(統一新羅)につながる
韓半島(朝鮮半島)古代王朝シリーズの完結編。地方のある新聞に連載した原稿を約800枚削り、
500〜600枚ほど新たに書き足して本として出版した。

崔氏は伽揶を「韓国史の失われたアトランティス」と言う。古代王国の中で一番先に舞台から消え去り、
その実体は謎としてベールに包まれているとのこと。彼は秘密を解くカギとして
1990年に金海13号古墳で出土した6点の巴形銅器に注目する。
「古代日本の天皇の墓でだけ発掘されていたこの銅器が金海から出たということは、伽揶と日本の支配勢力間の密接な関係を証明しています。
日本は伽揶地域に進出し、韓半島を治めたという任那日本府説を主張するが、私の小説が追跡して下した結論は、むしろ伽揶の民が日本に渡って
古代王朝を立てたということです」と強調した。崔氏は今回の小説を書くため九州地域はもちろん、沖繩やインドまで広範囲にわたり現地調査・資料収集を行ったという。

崔氏は「伽揶史を取り上げた『第4の帝国』を最後に、今後は韓国の歴史小説を書きません」と宣言した。
「キリストについて書いてみるつもりです。大体の構想は終わり、9月にエルサレムやパレスチナなどで現地調査に行く予定です。
金壽煥(キム・スファン)枢機卿も手伝ってくださると約束してくれました。

朝鮮日報

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/25/20060425000002.html

>「私の小説が追跡して下した結論は、むしろ伽揶の民が日本に渡って古代王朝を立てたということです」

小説が追跡して、、、Σ( ゚Д゚)ハッ つまり脳内妄想ってことですか?

227 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 14:57:19
前方後円墳の起源は韓国にあるとして、その例証もろくにあげずして、ひたすら信じているキチガイと同等ですね。

228 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 15:00:38
>>223
古代史研究・騎馬民族説と関係のない書き込みは違反行為である。公的秩序の
違反はどの国でも許されない。謝罪の上、二度と繰り返さないことを誓約するように。

229 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 15:11:39
日本のものより200年も古い同型古墳が伽揶付近に多数存在。その間(200年内)日本が伽揶地域に進出、韓半島を治めた任那日本府説の存在をほぼ証明。

どこか間違ってる?

230 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 15:14:12
>>229あれま!
古い→新しいに訂正

231 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 15:26:41
>>229
伽耶付近ではない。半島西南部に現在までに11基発見されている。
これらは5世紀以降のもので、扶余征服説からすれば列島を支配した
後の逆進出であるから、なんら矛盾しない。
その立場からは任那日本府も肯定される。
つまり任那日本府は扶余王朝の本体が列島に移った後の半島事務所である。

232 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 15:44:08
>>229
古代朝鮮において日本の豪族なり有力者が当地に影響を及ぼしたか
支配していたとみるのが普通でしょう。
どのような支配体制だったのか?それは小説で補うしかありませんがw

233 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 15:46:58
>>231

>>これらは5世紀以降のもので、扶余征服説からすれば列島を支配した
後の逆進出であるから、なんら矛盾しない。

はやく証明しないと、誰も相手してなくなりますよ。



234 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:05:54
>>231
倭系と思われる人骨、大刀や環頭大刀なども副葬されていたいたことを考えると、列島からの影響どころか、はっきり言ってしまえば半島に倭人の支配層がいたということだろう
これは揺ぎようのない事実といえる、否定は出来まい。

235 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:33:16
>>222

>蘇我氏は渡来系だと言われる

日本書紀の蘇我氏の記述に関しては、藤原氏によって相当に捏造されているとされている。

蘇我氏は渡来系ではないという研究結果もある。

逆に、藤原氏(中臣氏)が渡来系だったという意見もある。

従って、あなたの説は説得力がない。

もし、藤原氏(中臣氏)が渡来系だったならば、長年に渡って渡来系が日本を実質的に支配していたということだ。

私が言いたいのは、“蘇我氏は渡来系”と断定できる史料はないとうことだ。

まして意図的に蘇我氏を貶めている日本書紀なども信用できないということだ。

236 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:42:06
金官・扶余の「王墓」と言われてる集団墓地の「貧弱さ」を見れば、
中原を制したかった騎馬民族・扶余が、負けて半島奥地まで逃げ延びてきて、
倭人の地域にかくまってもらったって感じだね。

237 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:47:33
騎馬民族征服説またの名のすっ呆け爺の妄想ロマン飛行ともいう ゲラ

238 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:51:59
まぁ、たった一人でいいから、
扶余人が日本に来たと証明してから、
どうだこうだ言うべきだろうな。
それが無理な以上、こんな説は消えてなくなるだろうな。

239 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:54:24


蘇我氏も、大王家も、物部氏も朝鮮族だった訳だが・・・


240 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:55:50
はいはいニダニダ

241 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:59:14
ペーペーの渡来系氏族がいつから勇猛果敢な征服者騎馬民族になったんだ!
な!教えてくれよ朝鮮人!w

242 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:01:14
やっぱりウンコスレットはいつ来ても臭いね

243 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:06:20
>>231
>つまり任那日本府は扶余王朝の本体が列島に移った後の半島事務所である。

あれ?
5世紀初頭まで扶余の王家は半島にあったんじゃなかったの?
もう、無茶苦茶w

244 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:06:24
朝鮮人に支配されたことが悔しくて認められないのかそれとも、
隠そうとしているチョン工なのかwwww

245 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:08:01
支配した事が証明されなくて悔しくて泣いてるチョン工なのかwwww


246 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:09:27

皇軍が中国でした残虐非道な虐殺のことが話題に上ると
直ぐ、中国人が内戦で沢山殺し合ったことを引き合いに出し、
日本軍がした虐殺は何でもないと言う印象を与えようとする天皇信者がいるが、
泥棒に遭った家には泥棒に入って良いと言う論理だね。
火事場泥棒の様な人だね。
そう言う輩がいる内は、日本は国際的に決して尊敬される国には成れないし、常任理事国にもなれない。
天皇狂信者は日本の国益を著しく損ねている。


247 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:11:03
なーんだ。
ただ天皇家にルサンチマン持ってるクソサヨだったのか…


248 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 18:14:24
そろそろ〆てもいいじゃね?このプースカ説

249 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:03:46
>>226
>キリストについて書いてみるつもりです。

韓国人だと書くのだろうなw

250 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:10:33
【白馬罵倒】広島人騎馬民族説は今。。。【電波青牛】

251 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:38:35
>>246
虐殺などなんでもないではなく
虐殺などなかっただよ、アホ
それに天皇が何で出てくるんだ?
ヲマエ日教組教育によって洗脳されて今でも
洗脳されたままのロボットか、半島系カルトの信者だろうw

252 :白馬青牛:2006/04/26(水) 00:05:15
相変わらず罵倒スレになっとるのう。
嫌韓厨や洗脳された政治的右派左派の思想厨のカルト信者が
ギャンギャン喚いとる。
これが今の日本人の民度かと思うと情けない。
まあ、最後にwを付けるんは概ね低脳じゃろう。


253 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:42:06
>>252 白馬青牛氏

扶余が河内王朝を作ったって説、
正直言ってどうでしょうか?

254 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 01:21:02
正直いってハッタリでしょうw

255 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 01:45:33
>>252
いちいちツマラン反応する牛くんを見たくはなかった、、、
何かにとり憑からたかのように淡々とそして堂々とその洗脳具合を
皆に披露していて欲しかった、ボクはそんな牛くんが壊れるのを
黙って見過ごすワケにはいかない。
そこで、騎馬民族が日本を征服したと思う最大の理由を聞きたい。
何時ものようにキモくて意味不明な説明待ってるよ。

256 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 10:12:43
>>243
>つまり任那日本府は扶余王朝の本体が列島に移った後の半島事務所である。

>あれ? 5世紀初頭まで扶余の王家は半島にあったんじゃなかったの?
>もう、無茶苦茶w

5世紀初頭以前に「任那日本府」と呼ばれるものが存在したと言いたいのかな?
それは何に書いてあるの?



257 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 11:07:17
>>256
書いてなくても伽耶から畿内系青銅器が出るのだろ。
その頃からだろうな。


258 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 13:49:17
>>257
それは4世紀前半のことだが、そのころから「任那日本府」があったと
言う学者はたぶん一人もいないだろうな。
もちろん日本書紀にも書いてない。

5世紀初頭に金海地域の扶余王朝がなくなり、それ以後に任那日本府が
できたと考えるのは無茶苦茶でもなんでもない。

259 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 13:57:39
蘇我が渡来系と言われ、藤原が渡来系と言う人もこのスレにいるように、
日本には渡来系の豪族が多く、しかもそのなかには豪族中でも最も枢要の地位に
ついたものが複数いる。
ところで「渡来系」という言葉でなんとなく納得しているが、彼等とてれっきと
した「国外勢力」であることを忘れてはいけない。

彼等が征服によらず平和的に入り込んだとすれば、倭国の体制は外に向かって
開かれた体制であったということになる。そして、新羅系、百済系、高句麗系
と言われる高位の豪族がいるのであれば、当然、扶余系の高位豪族もいてよい。
なぜなら金官は倭国ともっとも関係の深い國だったからである。
むしろ扶余系と言われる高位の豪族がいないことが、かえって怪しいのである。

そして渡来系と言われる蘇我が簒奪一歩手前まで行った(客観的に簒奪の可能性が
あったからこそ殺された)ということは、それ以前にもそのような渡来系の豪族に
よる簒奪の試みがあって、これは成就したかもしれない、という可能性を示唆して
いるのである。

260 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 14:17:14
だから須恵器も出てないのに、可能性ばかりを言ってても仕方ないだろうに…

261 :がいやまん:2006/04/26(水) 14:49:18
白馬青年さん
シロコゴロフ説を裏付けるようなキリスト教関係の情報がありました。ご参考まで。
「ハプログループDは日本人(>40%) 、チベット人(>50%)限定と
いってもいいだろう。彼らは往時ユーラシアステップの東部におり、
北東に向かって日本、南に向かってチベット山岳地帯に移動。
日本語はウラルアルタイ系、フィンランド、ハンガリー、トルコ、
アルタイ、モンゴル、満州・ツングース、古朝鮮、シベリア北部系、
更に古くはバスク諸語と共通する。ハプログループDとハプログループ
C(豪州原住民、マオリ、ポリネシア、モンゴル、ブリャート、エベンキ等)
は往時共通言語を持っていた。」 続く


262 :がいやまん:2006/04/26(水) 14:50:47
「Hg (O)というのは中国人であり、
これが長年日本人、チベット人と混血し、先々で言語習慣に影響を与えた。
日本人はチベット人よりも、モンゴル、ブリャート、コリャーク
(オホーツク)により多く曝されている。日本の原住民はアイヌ人で、
そこに外来の日本人が到来ということであるのかもしれない。
ハプログループDの重要な出来事は古代における日本人のスマトラ、
マレーへの商活動進出である。スマトラではハプログループDが10%と大きい。
マレーでは5%未満とR1aと同じ程度で、F、C、Mも同様、Kはやや多い。
ボルネオでは5%未満、これはウイグル、アルタイ、モンゴル、キルギス、
ウズベク、シベリアエスキモーと同程度。」
http://www.logon.org/english/s/p265.html



263 :がいやまん:2006/04/26(水) 14:59:41
アイヌ人との置き換わりというのは弥生時代のこと、モンゴル・ブリャート
の到来とは古墳時代のこと、つまり、夫余、百済と違うかなー。
アイヌと置き換わったのは山海経の倭人か。

264 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 15:59:13
>>263
弥生期に呉越の江南風俗と半島文化を列島に持ち込んだのは恐らく倭種でありましょう。
古墳期においては半島の有力豪族をはじめ先進的な、製鉄・鍛冶・建築・農作の技術移民
やまた避難民の大量受け入れなど。 大筋で当たっているかも知れません。

265 :YAP?:2006/04/26(水) 16:36:39
要するに「三光作戦」というのは、中国共産党が、
貧農を煽動して、地主や富農を襲撃して、(その蓄えた食糧を)
食い尽くす、(その持ち物を)使い尽す、ついでに掠奪するといった
「三光」と作戦と、国府軍側の「殺し尽す、奪い尽くす、焼き尽くす」
(これは共産党側がそう定義するので国府側とは異なる)「三光作戦」の
内、ついに大陸を制圧した共産党側が、次に台湾を手中に収めるために
国府側の「悪行(業)」を「日本軍のものだ」ということにしたものだ。

それに従って日本の左翼や、無智な輩が、「三光作戦」を日本軍がやったと
大騒ぎしているのが真相だ。
勿論戦争だから、日本軍もそれなりの戦時罪行為は行っただろうが、まあ、敵の
スパイの人肉を食わせるような連中(井崗山の紅軍が真平に度胸試しに国民党側の
スパイか何かの肉を食わせたのは有名だな)には、到底及びもつかないよ。

証言についてだが、中国人のそれは全くアテにならない。
なんといっても、「紅五類」「黒五類」といった階級/階層差別が激しい
国社会にあって、共産党側に殺された(国府側の)中国人被害者の家族は
真相は知っていても、「反革命」の側から、「日本軍の被害者」になると
いうことは、「黒五類」の身分から開放されることだ。

また、日本人捕虜の発言も収容当時のそれは、命を助かるためなら、なんでも
認めただろうよ。ま、まともな日本人兵士の証言は僅かであり、それも
基本的には、捕虜や便衣兵の処刑という所だろう。

誰かが言ったようにすれ違いなのでもうこの件については書き込まない。

266 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:22:32
ちょっと解説すると、「三光」の「光」は「〜つくす」という意味であるが
そのもとは「吃光」から出ている。これは御馳走を食べつくしてお皿まで
舐めた、だからお皿が光る、という意味である。日本語にこんな発想はない。

267 :がいやまん:2006/04/26(水) 19:24:53
誤訳↓

>日本人はチベット人よりも、モンゴル、ブリャート、コリャーク
>(オホーツク)により多く曝されている。日本の原住民はアイヌ人で、
>そこに外来の日本人が到来ということであるのかもしれない。

正しくは↓

日本人はチベット人よりHgC率が高いが、これは多分日本人がモンゴル、
ブリャート、コリャークに曝されたからだろう。しかし、アイヌが先住で、そこに後から
日本人が侵入してきて、アイヌ人の持っていたHgC率を引き継いだこともこうした
高いHgC率の要因かもしれない。

漏れの注釈:

つまり、日本人は渡来民族という認識、つまりこれは弥生日本人のことのようだ。
つまり、HgDは弥生人と認識されている。これは漏れの持論と同じだ。漏れは
支石墓がHgDの考古学的マーカー、古墳はブリャート・モンゴルの考古学的
マーカーだと思うんだ。

268 :がいやまん:2006/04/26(水) 19:46:05
20,000年も前から超先進的な細石刃文化を携え列島に渡り、マンモスを狩り、
黒曜石、ヒスイ文化を築き、九州に出向いて稲作文化を吸収した縄文人は
アイヌとなったのか。そして渡来したHgD人が日本人であったとは。

269 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:39:36
へ?

270 :がいやまん:2006/04/26(水) 21:31:33
YAP?さんより以前いただいた貴重な情報によれは、日本人は
C: 15%、D (D2以外の)+E: 15% 、D2: 15%-20%、O2b* 10%、O2b1: 20%、
O3 (O3e以外)、O3e 15%~20%ということであった。つまり、
中国系とされるO50%、弥生日本D35%、太平洋系C15%となる。確か、中堀さんが
Dは山岳僻地とか言っていたようだった。アイヌだったかな。しかしOを全部中国
というのも乱暴だな。無責任だがよくわからん。これで寝る。


271 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 22:02:45
>>187>>202
つまり貴殿は扶余が制服したのではなく扶余が渡来人として
入ったというのだな。そして土着の豪族と騎兵戦術で制圧したと言うわけか
しかし>>225にもあるように後発の豪族で百済系とされる蘇我氏は秦氏と同じペルシャ系であった説が
有力だと言われてるし、坂上田村麻呂もペルシャ系だった言われてるから必ずしも
扶余系とは限らないと思うが

>>215
日本人は南北縄文人と倭人、扶余の混血でありその中核は倭人と扶余
朝鮮人は南北縄文人、倭人、扶余、鮮卑、漢人、モンゴル人、満州人の
混血でその中核は倭人と鮮卑だった。全くの別族同士といえよう

>>265
その通り。しかも日本軍が処刑した捕虜は便衣兵で便衣兵はハーグ陸戦協定や
ジュネーブ協定の捕虜待遇対象外だった。だから当時の国際戦争放棄上は
問題なかったのである。さらに(国府軍や共産軍の自作自演による)三光作戦の
ソースは2chでも悪名高い某大手新聞社の記者が日中国交正常化前の
中国を取材した際に中国側の説明を裏も取らずに鵜呑みにした記事と
共産軍の捕虜収容所で洗脳された日本軍将兵の証言である(ちなみに
この将兵の一人は当初親中反日的な意見を述べていたが後に共産軍の
残虐行為や共産軍の軍事裁判のデタラメぶりを証言している)
とても信頼できるソースとは言いがたい。しかも洗脳であった証拠に
日本人戦犯は無罪とされ、元収容所の所長はなぜ共産党が彼等を無罪にしたのか
わかったと証言している。無論日本軍将兵による残虐行為はなかったとは言わないが
せいぜい憲兵の目を盗んで殺人や強姦をしたという類の物がほとんどだった
(これ自体日本軍が組織的に虐殺を命じていなかったという証拠なのだが)
以後三光作戦を述べるレスは明らかにスレ違いだから該当スレでやって貰いたい

272 :白馬青牛:2006/04/26(水) 23:42:36
>>253
扶余が河内王朝を作った説は、ありうるとは思う。気候寒冷化による
北方民族の世界的民族移動期であり、崇神天皇期の疫病流行もあった。
それらの事例を江南系漁撈稲作民征服王朝説で、反騎馬民族説、長江、
縄文派の安田善憲氏は、日本における北朝としておられるが。
>>261
がいやまんさん、チベット系とありますが、高原のチベット人でしょうか。
あるいは羌系やヒマラヤ系を含めたものでしょうか。チベット系は地域に
より、文化的に搾乳習慣を持つ集団と非搾乳集団もおりますし、文化系統は
複雑です。そして支石墓は縄文形質の人達なので、弥生期の渡来系とは思え
ません。
>>271
ペルシャ系が有力と言う説は知らんよ。朝鮮人と別種族と強調したい
ようじゃが、人種と云うより歴史的に形成された民族の違いが大きいで
あろう。太原の収容所で思想的に中共化された方でなくとも、我が軍の
行為を批判された方もおられる。日本軍と中共軍を全体的に較べると
中共軍の方が、規律正しい部隊であったんじゃないか。我が軍の強姦は、
全体から見るとわずかじゃが、証拠隠滅の為、強姦したうえ殺した中国人
女性の住まいを焼き払う行為もあった。しかし概ね合意のうえの情交が
多かったろう。これは処女でない既婚の女性とまぐわっても良いが、
中国では、財産でもある未婚の処女を犯すのは筋に外れる。
その憲兵が、強姦したりして一般兵士よりも一番質が悪いんじゃが。
軍から虐殺を命じられても、兵士の判断で逃げる敵を見逃した例も多い。
戦闘体験者から直接聞いておらん世代の者が多くなったもんじゃ。

273 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 23:43:28
>>259
だからゴチャゴチャ言ってないで、
何天皇が扶余なのか、はっきり言えば?

274 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:09:32

朝鮮人が天皇制を作った事実、

南京大虐殺の事実、

三光大虐殺の事実、

都合が悪い歴史上の事実を総て否定するんだね、天皇狂信者はw

事実を否定して一体誰を騙そうとしているんだい?
自分自身も騙せやしないだろw
史実を否定しようとしても、天につば吐き掛けるようなものだぜ。



275 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:56:10
>>274


だ   ま   れ   チ   ョ   ン  
   



276 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 01:01:30
ここは2ちゃんの宝石箱ですな

変態
電波
ホロン部
ウヨ

277 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 01:25:19
ブサヨも入れてあげないとカワイス

278 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 14:09:20
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4404031955/ref=pd_bxgy_img_2/503-6793003-6215957
面白そう。高いけどw

これとは別に、
百済から来た寺大工などだが、
その名前を調べると、寺工・太良未(だらみた)、
鑪盤博士・将徳白昧淳(しょうとくはくまいじゅん)、
瓦博士・麻奈文奴(まなもんぬ)、
陽貴文(ようきもん)などなど、
それぞれ、「だらみた」=中世ペルシャ語で「寺工」、
「しょうとくはくまいじゅん」=露盤受け、
「まなもんぬ」=屋根葺き、
「ようきもん」=丸瓦、の意味になるという。 
つまりペルシャの専門職の名前を帯びた人々であることがわかるのだ。
おそらくペルシャ人であったであろう。

こういう説はこれからもどんどん出てくるだろうが、
扶余が天皇になったなんて話は、これからどんどん消えていくだろう。


279 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 14:19:46
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/bugat/bugat.htm

突厥…
飛鳥の亀石のルーツか?
ということは亀石はチンコか?


280 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 14:27:33
>>260
>だから須恵器も出てないのに、可能性ばかりを言ってても仕方ないだろうに…

渡来人なら必ず出土品から出身地がわかるのか。
例えば秦氏がある。秦氏の先祖は伝承の通りならば中国人である。しかし最近では
新羅出身という説が強いようである。要するに確定していない。
このように確定していないということ自体が、出自を示す決定的な証拠が出土
しないことの証明ではないか。扶余にだけ求めても無理。

>>271
>つまり貴殿は扶余が制服したのではなく扶余が渡来人として
>入ったというのだな。そして土着の豪族と騎兵戦術で制圧したと言うわけか

すぐに多多羅浜式上陸作戦の話になるから、入り方はそればかりではないという
例証を示したのだ。「土着の豪族」というのも、武力侵攻の場合も直ちに統一
された中央の軍隊との戦いにはならないということを言ったのだ。

>>273
>だからゴチャゴチャ言ってないで、 何天皇が扶余なのか、はっきり言えば?

何回も言った。倭の五王は扶余である。

281 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 14:33:59
>>280の上。

何もないのに空想してても仕方ないだろ。
騎馬民族説は否定されたのでなく、
証明しようがないから馬鹿馬鹿しくて誰も言わなくなったのだ。


282 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 18:08:44
>>280
ホイジャ〜ホイジャ〜倭の五王を扶余にしてくれヤッサ〜!
と神頼みでもするこったな!!wwwww

283 :エガミ:2006/04/27(木) 18:21:35
シニンニクチナシ、ゴメンナサイ。

284 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 18:27:28
(´・ω・`)しゃべるな氏ね

285 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 18:45:21
>>280
逆にあなたに聞きたい。
扶余の王家は新羅に吸収されたというのが事実なのでは?
それより扶余の一般人はどうなった?
これが倭人に連れられ日本に来た可能性があるな。
じゃ、在地の倭人たちとうまくやれたか?
無理だったのではないか。
言っても肉食北方民族だ。
皮膚感覚として肌が合わなかったのではないか。

つまり俺はあなたと正反対で、
被差別民=扶余説なんだ。
キーワードは牛殺しだ。


286 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:11:40
>>285
新羅に吸収された金官の王家は5世紀以降に釜山地域に生じたもので、
金海地域にあって5世紀初頭に消滅した扶余王朝とは別物だ。
金官の一般人(倭系)もその後に新羅に吸収されて韓民族になっていった
だろう。

皮膚感覚と言ったって、仏教に影響されて肉食を捨てた後世の日本人を
持ってきてもだめ。
だいたい、あんなばかでかい墓を築く古代人の感覚は現在の我々には
理解できないではないか。

287 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:22:00
古代半島人と被差別民は違うな


288 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:27:41
http://72.14.203.104/search?q=cache:8PhXkWSTc8oJ:www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/25-2/itoh.pdf+%E6%89%B6%E4%BD%99+%E7%89%9B+%E6%AE%BA&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=4

page5
牛殺祭神は外来の要素が強いように思われる。

5世紀初頭の扶余なんぞ、
騎馬戦術を覚えた大和の敵ではない。
影の薄い屁みたいな民族だ。
もっとも騎馬戦術自体がそんなに大した事もないのだが。
いつまで扶余が倭の五王になったなんぞとホルホルした夢見てるのだ?
夢見るのは勝手だが、被差別民になった可能性も同時に考えてみろ。

289 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:28:52
倭の騎馬戦術は六世紀以降だろ

290 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:45:58
>>289
4世紀の伽耶から畿内系青銅器が出るのなら、
倭が半島で騎馬戦術に触れてたのは当たり前。


291 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:49:41
文化の受容

292 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:52:31
>>291
その通り。
日本において、馬具が、極地的でなく、
各地に散漫として出土するのがその証拠。

293 :白馬青牛:2006/04/27(木) 22:53:08
>>278
斉明五年(659)三月十日の吐火羅人や翌年の七月十六日のトカラ人の
波斯(ペルシャ)達阿等ゾロアスター教徒のペルシャ人が渡来した記述や
飛鳥の猿石等の石造物や正倉院の瑠璃杯、特に飛鳥寺を考慮すると、
蘇我氏との関連は強かったろうが、それだけで渡来系の主力であった
ことにならんよ。松本清張氏は、百済人味摩之もペルシャ系であろうと。
まあ、百済人を名乗った中にもペルシャ系はおったろう。
>>285
口を出すようじゃが、肉食北方民族とは何か?肉食が大部分というのは、
イヌイット等の極北集団の民族?日本の縄文人でも内陸は狩猟より採集民と
言えようが、海岸に住んだ集団は魚だけでなく、草食動物も多く食べて
おったよ。ほいで、牛殺しは、江南〜東南アジアに住んでおる
焼畑狩猟民の苗族や農耕民のタイ系の民族にもあるよ。

294 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:57:34
>>293
牛殺祭神の事です。
牛と言ってもあなたの事ではありませんがw

295 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:09:24
>>293
法隆寺からソグド文字の護摩木や、
マニ教の経典が見つかってますね。
やはりペルシャは渡来系の主力ではないでしょうか?

296 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:15:21
遠い遠いペルシャが渡来系の主力なら
明日は火星人が渡来する

297 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:22:23
>>296
そんな島国的発想だから何も分からないんだ。
http://inoues.net/ruins/niizawasenduka_museum.html

5世紀の、このペルシャ的出土品をどう説明する?

298 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:27:54
物資の流通
流れ流れて運ばれてきた〜♪

299 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:34:37
記紀の波斯人の記述以前に、
考古学的にペルシャ人が来日してたと仮定していいかも。

がいやまんさんの得意分野かな?w

300 :白馬青牛:2006/04/27(木) 23:44:40
>>294
牛殺祭神も含めて云うとるんよ。タイ系のマオナン(毛難)族も、
毎年正月29日、30日に行われる分龍節に牛を殺して三界公という
神を祭る。
>>295
例えば仏教の経典が見つかったので、インドか大乗仏教が伝播した
中央アジア系が多いとは云えません。

301 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:52:58
>>300

倭人伝には一応、牛馬なしなんでしょ?
実際は別として…
で、その牛殺祭神をする人達が、
後にどういう扱いを受けたのかという話です。
被差別部落民になったのではないのでしょうか?


302 :白馬青牛:2006/04/28(金) 00:22:12
>>301
牛殺祭神する人達は、被差別部落民と関連出来るかは難しい。
肉食禁止令と民間の習俗とは違う。
牛を殺して食す習慣は、江戸期に中国地方でも安芸、備後、石見
にもあり、西日本は今でも牛肉の消費率が多いんではないか。

303 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 00:30:06
>>302
うーん…w
西日本の今の牛肉の消費率を出されても、
分かったような分からんようなw

私は長年、同和地域の近くに住んでて、
差別という意味でなく、いったいこの問題は何だろうと思ってました。

やはり牛殺祭神する渡来系だと思います、私は。
で、歴史的にもっと身近なのは扶余でしょう。

304 :白馬青牛:2006/04/28(金) 00:55:38
>>303
西日本の牛肉消費率が高いのは、近江藩が将軍家に牛肉を献上した
歴史的、文化的要因など、地域によって分布の違いも文化類型を
考察する上で必要なことじゃと思いますよ。牛を殺して漢神を祭るのは、
渡来人と言う言い方も出来るのですが、狩猟儀礼、農耕儀礼についても
鹿や猪を生贄にして、神に捧げるのは『今昔物語』の風祭にもあります。
被差別民も起源にも様々な要因があります。また中世後期の武士の起源と
被差別民も極めて近い集団と言えるでしょう。古代に起源があるとは、
思えんのです。

305 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 01:20:08
まあ牛殺しが近所にいたら引っ越すがな

306 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 01:27:38
すいません池袋の地主ですが:大山先生を馬鹿にしないでください。
彼は私の親父世代の空手の町道場主ですが?
いつもくたびれた牛を虐殺してました。

307 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 04:24:08
田地開拓のため、野生動物が減って、おかずちょびっと酒食の穀物だけで、小柄な体で、田植えに勤勉に働け、
というふうな教育、文化に、時を経るごとに、日本社会がそうなったのだと思います。
インドも古代は牛をいけにえにして食べていたのが、人口増加によって菜食(乳製品利用は残った)牛殺禁制になったのでしょう。

308 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 04:25:16
田地開拓のため、野生動物が減ったため、おかずちょびっとで主食の穀物中心に食いつなげ、小柄な体で、田植えに勤勉に働け、
というふうな教育、文化に、時を経るごとに、日本社会がそうなったのだと思います。
インドも古代は牛をいけにえにして食べていたのが、人口増加によって菜食(乳製品利用は残った)牛殺禁制になったのでしょう。


309 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 04:28:21
王氏の先祖が騎馬民族高句麗人のはずの高麗王朝も仏教になって肉食文化放棄しましたね。モンゴルに支配されて復活しましたが。

310 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 04:34:49
1:騎馬民族という概念がアヤフヤ。
2:百済の支配層が扶余というのは、高句麗に圧迫されていた時期の作為である可能性が大きい。
自らを高句麗と対等に位置づけたかった。
3:個々の軍事的勝利と、本格的な定着・支配とは別のこと。
4:文化は3代で完全に変化する。
5:系譜も偽造されうる。


311 :がいやまん:2006/04/28(金) 11:16:06
>>279
白馬青年さん、ご指摘のとおりですね。
縄文晩期の北西九州縄文人は多分対岸の半島南西部の支石墓文化を取り入れたの
でしょう。これは弥生の初めに稲作を取り入れたのと同じ動きでしょう。一方、HgDという
のはHgEと近い関係にあり、HgEはインド南西に地中海コムギ文化をもたらした可能性が
強い。HgEとHgDはどこかでつながっていたはずですが、それは非常にスパンの大きな
ものであり、支石墓・ドルメンのような関係と見たいわけです。支石墓は遼寧でBC1500年
頃に出現するそうですが、それ以前にはコーカサスの黒海西岸・グルジア地方でBC2000年よりやや古いか、マイコープ文化というのがあり、そこで極めて濃密に見られ
ます。その後途切れるが、ユーラシアのどこかに移動の痕跡があるのではないかと思う
のですが。いずれにせよ半島南西部で長期にわたり留まった後に既に支石墓を捨て
甕棺などとなって九州北西部に浸透してくるということもあるのではないかと。

312 :がいやまん:2006/04/28(金) 12:03:17
話を牛に変えますが、タガール文化というアルタイ地方の文化は月支同様
冒頓単于によって消滅するそうです。しかし、この文化には牛と、千木を持つ
建物の描かれたボヤールスカヤ線刻画というのがあります。形質的には
アファナシエフ同様のコーカソイドということですが、これがトカラ人を含む
月支と共に冒頓単于に服従した後、秦氏集団として来日し松尾大社、唐松
神社に松<Modu-shanyui、つまり、偉大なる冒頓王の名を残したのでしょう。

313 :がいやまん:2006/04/28(金) 12:14:25
漏れが、小河墓遺跡に見たものは千木の原型と見られる両角の牛の角、ピノキオ
のような蘭稜王、天狗、ナマハゲ面のプロトタイプ、スサノオの原型である家畜の
生剥ぎ葬、木棺を覆うかつお木、二の型持ち柱の原型と思しき棺の前後の杭など
であった。漏れは、これらがアルタイ、遼寧、半島に拡散、家畜は夫余、日本の
トカラ列島(建日ワケ国>狗奴国>神武)へとつながると考えている。今重要なのは
トカラ列島の牛、羊のDNAサンプルと小河墓のそれの比較だ。

314 :がいやまん:2006/04/28(金) 12:17:53
もちろん小河墓、楼蘭出土遺体のより詳細なDNA鑑定が望ましいことはいうまでも
ない。

315 :がいやまん:2006/04/28(金) 12:29:28
タガール文化ボヤールスカヤ岩盤線刻画 千木、牛、羊に注意
http://www.archeologia.ru/Library/Image/1e8daa7a4998/large/pic65

316 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 13:54:32
扶余が差別用語であるかのような印象を与えようとやっきになっている
人が多いが、そんなことを考える人は727年の渤海国王から日本国大王
への国書を見てみるとよい。その書き出しに曰く:

「武藝啓、山河異域、國土不同、延聽風猷、但増傾仰、伏惟大王天朝受命、
日本開基、奕葉重光、本枝百世、武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、
有扶餘之遺俗、・・」

私なりに意訳すれば:
「武芸(渤海国王)が申し上げます。渤海と日本は領域が異なり、ただ遥かに
風の便りを聞いて尊敬の念を増すばかりでありました。謹んで拝察すれば、
大王の朝廷は天命を受けて日本の国家を創始し、そのお世継ぎもまたますます
権威を増しておられます。本家分家とも代を重ねて栄え、わたくし武芸も不肖
ながら列国と張り合って、多くの蛮族を統治しております。また高句麗の旧領
を回復して、扶余の伝統を守っております。」

この文章は自らの扶余の血統を誇りにし、同時に相手もまた自分と同じ扶余で
あると言う認識に立たなければ書けない。
天皇家もまた、扶余が差別用語であればこの国書を読んでかんかんに怒って
追い返しただろうが、その反対に大いに喜んで使節を歓待したのである。
つまり、両国の王は「扶余」というアイデンティティを共有したのである。

317 :がいやまん:2006/04/28(金) 14:05:45
タガール時代のことのようであるが次のような情報がある。

「BC5-3世紀、アルタイはスキタイ文化第3段階に入り、パジリク
芸術が栄える。この時代はいくつかの文化が集成されている。
BC6世紀、ミディアの圧力により、スキタイ、サク諸民族は近東を
離れモンゴリアからドナウ河に至るステップに分散する。BC5世紀、
中国史書には長城の北、北西に月支が登場するが、これがアルタイに
近東に特徴的な形式、様式をもたらしたようだ。


318 :がいやまん:2006/04/28(金) 14:07:12
その、史書によれば、白色で髪の毛は淡い褐色の民族、北方ボマ人がおり、
サヤンアルタイ山脈北麓に住んで、「遊牧生活を」おくり、
「針葉樹林山岳地帯に居住することを好み、馬を放牧し、木造の家屋を建てる。
ログハウス壁組みを樹皮の屋根で覆う。」とのこと。当該時代のシベリアの歴史
文化に関する著名な専門家の一人、M.P.Gryaznyyの「シベリア
スキタイ型文化、芸術の形成においてサヤン・アルタイ民族の方が
スキタイ自体よりも多くの寄与をしている」という意見に留意したい。


319 :がいやまん:2006/04/28(金) 14:07:48
漏れは、ボヤルスカヤ線刻画の千木の家屋は↓
「針葉樹林山岳地帯に居住することを好み、馬を放牧し、木造の家屋を建てる。
ログハウス壁組みを樹皮の屋根で覆う。」
これではないかと考える。このログハウスと千木は、唐古・鍵遺跡にはないもので
伊勢神宮とか、出雲大社とか飛鳥以降に渡来系が日本に伝えたのではなかろうか
と考えている。



320 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 14:16:35
>>316
天皇家は、自分たちが扶余と言えない、
または書物に書けないどういう理由があったの?

321 :がいやまん:2006/04/28(金) 14:22:08
漏れは、天武、後醍醐のように吉野に籠るパターンにシベリアスキタイの山岳性向
が見られるのではないかと思う。南朝までの天皇の流水文は今エベンキ共和国の
国章に採用されている。

322 :がいやまん:2006/04/28(金) 14:23:07
スマソ、菊水であった。

323 :がいやまん:2006/04/28(金) 14:47:02
記紀を見る限り、渡来系と見られる月読命、スサノオ、カグツチ(冶金集団か)などは
神統譜において格下げされている。弥生初期の北部九州においても縄文人が主動的
に技術導入を行っている。また徐福などは東海の神に呼び出され、始皇帝からの貢献
を強要されている。騎馬民族の侵入というのは半島どまりであり、列島においては常に
難民のような形で到来したものであったのだろう。たまには渡来系が極めて天皇の座に
接近したことはあろうが、実際においてはありえなかったと思われる。

324 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 15:02:29
あれま私スレ化してるやん、これじゃあ過疎るかもよ。


325 :がいやまん:2006/04/28(金) 15:07:19
漏れは、たたき台を述べただけで、関心がなければ無視して、本線を進んでほしい。
ただ、黙っていると良くないと思っただけのことさ。あ、ちょっとお使いにいってくる。

326 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 15:15:01
あいよ、それなら小分けにするより纏めてスレった方がイイと思うよ。

327 :がいやまん:2006/04/28(金) 15:42:48
サンクス、こんな話がまとまるかよ。

328 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 16:12:26
だ か ら 

要 約 し ろ と は 言 っ て な い

連 投 す る な と い っ て る の

分 か り ま し た か ?

329 :がいやまん:2006/04/28(金) 16:36:31
わかりました。が、 >>312 松尾神社の件で一つ許せ、
「大山咋神については、『古事記』に「亦の名は山末之大主神。此の神は
近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」
と記されており、古事記が編纂されたころには有力な神とされていたこと
がわかる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%A4%A7%E7%A4%BE
松尾に坐して、鳴鏑を用つ神・・・つまり鳴鏑で父を射殺させたかの有名な
冒頓単于そのものではないか。つまり、大山くいとはこんなもんなんだよ。




330 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 17:16:44
>>329
秦氏集団が一度に数万規模の人々を引き連れて日本に渡ってきた可能性は非常に高いらしい
が、あの中国風味の秦国を察するに匈奴の冒頓単于ではちとムリがあるんじゃない?
秦氏集団が多種部族の共同体というなら否定は出来きないけど。共通項は鳴鏑だけでしょ?

331 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 17:34:57
>>316
渤海の前身であると言われている高句麗が日本と敵対関係にあったころ
ズバリ日本の大王はいったい何処の誰なんでしょう?
それか渤海は高句麗遺民が建てた国では無かったということでしょうか?
そのまま信じてしまうとなおさらに疑問続出。

ともかく唐と新羅にサンドイッチであった渤海が
日本へ使者を送っている意味を重要視すべきだと思いますね。
新羅と友好を保てている状態であっても所詮はシラギであり信用に足らず
と思っていたのが当時の日本でしょう、態々事を荒立てるようなマネを
日本側からはしなかった、といわれても納得してしまいます。

332 :がいやまん:2006/04/28(金) 17:51:41
>>330

飛鳥時代の大宰府あたりの入国審査官というのがあまり程度が高くなく、先祖が秦、呉
であれば誰でもオッケー、朝廷も似たようなものだったんじゃないの。呉なんていうのは
高麗かもしれないし。その辺のことはよくわかりませんがね。

333 :がいやまん:2006/04/28(金) 18:07:20
↑松尾大社の写真の中にある石柱、ステラともいいますが
http://www.y-morimoto.com/jinja22/matsuo.html
これがアルタイ・モンゴリアのものです。大山くいというのは
ここから来ているんでしょう。匈奴関係者かもしれないし、
匈奴の影響下にあった月支、トカラその他の人間が関与したのかも。

334 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 19:44:20
>>328
連投は彼の特徴だから今後も辞めないだろうな。
それさえなけりゃ彼は良コテなんだけど。
(広島自慢の変態と違って)

335 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 19:53:09
>>331
同族であれば争うはずがないという考えがそもそも間違い。
同族であっても主導権争いということがある。
むしろそれがあるのが普通である。

古代ギリシャで、アテネとスパルタはオリンピックの年を除いて常に
争っていたが、ペルシャが攻めて来れば同盟して外敵に当たった。
同じように、高句麗と倭は敵対しているときが多かったが、隋、唐が
強勢になったときは高句麗は倭と同盟しようとした。


336 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 19:54:33
さて、私が提起した騎馬民族被差別論ですが、
日本でも動物を殺してました。
でもそれは「初物」として神に捧げてたのでしょう。
諏訪大社などにもそういう習慣が残ってたようです。

ただ、渡来系の牛殺祭神は、
殺す事でトランス状態になるようなものではなかったかと思います。
今日ではブードゥー教にもみられますね。

こういう人達を倭人が素直に受け入れたとは思えません。
「う…キモ!」と言って差別したでしょう。

扶余はこうして被差別民の本流になって行きました。


337 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 20:46:53
扶余による征服なんてありえないが
騎乗できる身分が被差別民のわけない。

信濃は高句麗人の宝庫だけど、平安末〜戦国の名門・村上氏なんてのは高句麗系でしょ。

338 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 20:49:49
>>337
私が言ってるのは扶余の一般人の事です。

339 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 21:06:24
>>330
秦氏はやはり弓月国でしょう。
http://inoues.net/korea/newsiragi3.jpg
白馬青牛氏に以前、聞いたのですが、
ようやく探せました。
この装飾宝剣の三つ巴ですが、八幡神社の神紋と同じですね。
カザフスタンにもこれと同じものがあるそうです。


340 :白馬青牛:2006/04/29(土) 01:22:36
>>311
支石墓は九州北西部に入り、縄文形質で、甕棺は、北九州東部から入って、
形質的には、北方新モンゴロイド型です。甕棺は、朝鮮では南部の倭人が
おった弁韓地域にもありますが、今のところ他地域では確認出来ません。
原型は華北の子供を葬る為の棺じゃったんでしょう。
倭人は、漢人に生口(奴隷)を献上した隷属民でしたが、韓人は『魏志』
韓伝によると反乱を起こしてます。中華文明に対する隷属度は、韓より
倭の方が強かったのでしょう。後の歴史とは逆です。
>>336
諏訪大社は、鹿首を捧げておるが、渡来系がトランスになったと言うのは、
どういう根拠ですか。
>>339
カザフのは、規則的な三つ巴ではなく、バラバラです。
どこまで影響したかは、難しい問題です。

341 :249 ◆GPDV33Riho :2006/04/29(土) 01:43:53
>>340
>渡来系がトランスになったと言うのは、どういう根拠ですか。

古代人だからです。
現代人の感覚で見てはいけないと思います。

>カザフのは、規則的な三つ巴ではなく、バラバラです。
>どこまで影響したかは、難しい問題です。

バラバラであろうが関係ありません。
江上さんの師、佐伯好郎氏が言うように、
弓月国がキリスト教国なら、
三つ巴の意味は「三位一体」だと思います。


342 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 01:45:16
あ〜すいません。
249 ◆GPDV33Rihoというのは別の板でした。

343 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 09:54:38
広島牛ちゃんへ

軍スレの俺じゃないよ。
〜師団とか、全然わかんねーし。
再び、蝦夷スレで妄想始めるのやめようw

344 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 10:54:06
>> 320
>天皇家は、自分たちが扶余と言えない、
>または書物に書けないどういう理由があったの?

じぶんの出自を誇るよりも、それ以前の王朝からの連続性を重んじるほうを
選んだということだろう。
つまり河内王朝は簒奪王朝だということだ。

345 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 11:28:41
韓国人なんて何の根拠もなく、天皇を韓国人だと主張してる。
これは大陸の人の習性かもしれないね。

346 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 12:18:48
>>344
随分としおらしい簒奪者ですね。

347 :がいやまん:2006/04/29(土) 13:12:11
>>345
朝鮮という立派な国があったが、漢と争ってその4郡となった。一方三韓は後に
ほとんど日本に入って日本人となる流民がいた。日本の天皇はその中から生じた
のに違いないということだと思う。ところが、日本は3000年も前から弥生文化を受け
入れており、三韓からの渡来の遅かった連中が既に農業地帯に勢力を築いていた
先着の民族とは婚姻関係を結び、臣下の地位を得るということでしか生きられなか
ったということだろう。いずれにせよ韓国人、つまり、漢の圧政下にあった朝鮮人が
日本に入ってきたという記録は全くない。日本に入ってきたのは日本人だったと
いってもいいのではなかろうか。その遺伝子パターンは日本以外にはないのだから。

348 :がいやまん:2006/04/29(土) 13:17:21
韓国人は来なかったが、中国系、北方系は大勢入り込んだようだ。でも、ほとんどは
僻地に回されたり、山の中に追い込まれたのであろう。

349 :がいやまん:2006/04/29(土) 14:00:02
日本に来た流民は豪族に収まったケースもあるようだが、韓国に残った連中が
後の朝鮮統一に寄与して王族となる。だから、韓国人が日本人も騎馬民族系の
侵入を受けるなどという史観には同調しやすいのだろう。しかし、騎馬民族が海峡を
渡れないことは馬鹿でも知っているのでそれはいっていないようだ。だから騎馬民族系
が出世して天皇になったのではないかと思っているのだろう。
それと、この騎馬民族系を根っからの朝鮮人だと取り違えているようだ。実際混血が
進んでそうなったのかもしれないが、基本的には日本人同様無文土器朝鮮人とでも
いうべき基層の民族があったはずなんだが。

350 :がいやまん:2006/04/29(土) 14:10:35
前置きが長くなったが、新羅のスキタイ芸術、河西回廊方面の芸術の国際的意義が
全くといって好いくらい世界的に認められていない。これは新羅を韓国土着というように
世界に向けて発信するからそうなったのだ。歴史学者はもっと謙虚になり、大事なことは
正しい歴史観を国民に教えなくてはならない。日本は地理的に韓国の風下にあり、韓国の
先にはされに中国があり、世界に向けて発信するには二重苦、三重苦のハンディーを負
っている。が、2chの若い学者の方々にとってはそれだけやりがいのある分野といえるの
ではなかろうか。

351 :がいやまん:2006/04/29(土) 16:37:09
さて、連投批判を気にせずにいいたいことをいえば、半島経由でスキタイ、月支(トカラ)
といった重要な民族が渡来している可能性が強いこと、宮崎・大隈近辺、トカラ列島、
にトカラ独立国があった可能性があることである。日向に漂着したトカラ人を斎明天皇
が送り届けていること、同島には羊、牛、馬など家畜が多いことがある。考えられる
ことは冒頓単于によって東西に離散した月支はその後も接触を保って大月支国と
馬韓月支国の間でシルクロードの公益権を確保していたのではないかということで
ある。あんなイヤリングだの、弥勒菩薩だのがやすやすと手に入るわけはないのだ。

352 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 17:08:57
>>272
その日中戦争の話はなかなか興味深くて参考になる。今度お国自慢板のスレに
行って貴殿のレスを見てみようと思う。俺は何も嫌韓だから日本人と朝鮮人は
別族だと言っているのではない。DNAや古代日本語と古代朝鮮語の違いから
そう言ってるわけだが。日本人も朝鮮人も元の祖先は倭人と縄文人、
それに安本美典氏が言う古極東アジア語族(縄文人の祖先)だったから
それまでは同族だったのだろう。しかし北方系民族の南下によりそれぞれの
部族との混血により別族へとなっていった。そして朝鮮では別族になった以降も
漢人、モンゴル人、満州人との混血により今では完全な別族と化したと
言いたかったわけであるが

>>280
当時は豪族同士が私兵を連合させて統一軍隊を結成していた。建国当時の
アメリカに酷似しているから統一軍隊がなかったというのはいくらなんでも
ありえないだろう

353 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 17:33:01
352の続き
>>293>>300>>304
古代日本にも牛殺や肉食があったのは否定はしない。例えば犬食
倭人は犬食の習慣があったのは弥生時代の遺跡の発掘調査でも明らかである
しかし天武天皇の肉食禁止令により表立った犬食は日本ではなくなったが
それでも犬食は武士の間ではあったし戦後まで犬食の習慣が残っていた
だから牛殺と牛食があったとしても(ただし表立ってではないが)おかしくはない
ただ扶余の一派が牛殺祭神の習慣を守って被差別民に転落した可能性は
否定はできないと思うが。それにしても被差別民と言えば縄文人の末裔と
言われてただけにこの逆説はとても興味深い。ちなみに皇室と被差別民は
今でこそ部落解放団体によって貴賎ありだなどと非難の対象とされているが
後白河上皇と遊女乙前との人間的な情交もあったと沖浦和光氏も述べているところを
見ると被差別民が扶余だったとしてもおかしくはない。同じ扶余の血を引く者同士
なのだから扶余の一派(おそらく倭人との混血を拒否した勢力)が
被差別民になったとしても驚く事でもなかろう

>>316
倭人と混血した扶余は差別されなかった(倭王朝のしきたりに従ったから)が
倭人と混血を拒否した扶余は国家仏教の普及に伴い牛殺が問題視され
差別階級に転落したのだろう。扶余を奴隷にしていた高句麗のケースもあるから
扶余系部族が同じ部族を被差別階級に転落させたとしてもなんら驚く事でもない

>>299
秦氏や蘇我氏がペルシャ人だとしても不思議ではないだろうに。秦王朝は
ペルシャ人であったという説もある。秦王朝の末裔が漢の楽浪郡設置や
高句麗の建国に伴い扶余と共に朝鮮半島経由で日本に来た可能性はある
彼等は大月国やスキタイとも関係があったのだろう。騎馬民族文化を
東アジア地域にもたらしたのは彼等かもしれない。ちなみに稲荷神社の
氏神は秦氏の氏神だといわれている。九尾狐神話は彼等がインドから
持ってきたのだろう

354 :がいやまん:2006/04/29(土) 17:42:58
>>272 白馬青牛さん
>>261
>がいやまんさん、チベット系とありますが、高原のチベット人でしょうか。
>あるいは羌系やヒマラヤ系を含めたものでしょうか。チベット系は地域に
>より、文化的に搾乳習慣を持つ集団と非搾乳集団もおりますし、文化系統は
>複雑です。そして支石墓は縄文形質の人達なので、弥生期の渡来系とは思え
>ません。

例のキリスト教の記事ですが、非常に一般的で細かいことは触れていません。



355 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 19:12:16
だいたい、伽耶の馬具が日本から出ると言っても、
その伽耶から畿内系青銅器なども出てるし、
大和が騎馬文化を受容したのは間違いないでしょう。
そうすると、扶余が日本に来た証拠というのは、
牛殺祭神しかないのではないでしょうか?
>>353氏が言うように、
肉食禁止令が出ても、彼らは肉を食べ、動物を殺し続けたでしょう。
皮革という貴重なもの生産する役目があったからだと思います。
間違いなく、扶余は被差別民の本流になったと思います。


356 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 22:54:41
電波が飛び交っております

357 :白馬青牛:2006/04/29(土) 23:54:36
>>341
在来系はトランスにならず、渡来系だけがトランスとなったんですか?
と質問したんじゃが答えが古代人だからです。では在来系は古代人では
無いんですか?言うことです。そこで現代人の感覚云々は関係ないで
しょう。カザフの出土品の巴が不規則的であり、わしは三つ巴とは
言うとりません。広島人の佐伯好郎氏云々は、
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-egami.html
に江上氏に影響を与えたように書いてありますが、そのへんは解らんので
何とも言えません。
>>343
ほう、違うたんか。そりゃあ失礼したが、相変わらず人を妄想扱いか。

358 :白馬青牛:2006/04/30(日) 00:43:49
>>352
お国自慢板では、わしは「205」を名乗っておる。DNAで日本人と
朝鮮人がさほど違うとは思えんが。
http://homepage.mac.com/azayano/Personal10.html
に、「縄文・弥生人ともに相同なハプロタイプを最も多く共有するのは、
本土日本人以外では、朝鮮・遼寧省・山東省といった日本に近い地域の
人々であった。」「渡来弥生人が比較的狭い地域から日本に流入し」
「縄文人はこれらの集団に加えて雲南省やブリヤートといった中国周辺に
あたる地域の集団とも共通のハプロタイプを持っており、弥生人と際立った
対照を見せている。」と篠田謙一氏は云われる。民族性は歴史的要因で
人種論じゃないよ。わしゃ、日本人は縄文人・倭人的要素を持つ
古墳期の渡来人であって、古墳渡来人要素を持つ縄文人や倭人では無いと
思うとる。禁令が出ても多くの人達は肉食しておったじゃろう。法は
建前で。犬食は、中世の遺跡でもあるよ。広島県福山市の草戸千軒。
被差別民は、伝染病者の隔離等、社会的問題もあり、様々な要因が
あるので、明解な答えは出せん。

359 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 01:18:47
青牛さん。
佐伯好郎は江上さんの師です。
秦氏は「原始キリスト教徒」だと言いました。

気持ちいいですね、昔の学者さんは。
まぁ秦氏のハタは朝鮮語のパダ(海)だと言った学者に比べればですけど。

秦氏が海を超えたので、朝鮮語のパダ(海)を名乗ったのなら、
海を越えて来る以前に、秦氏には名前がなかったのか?と、
幼稚園児でも論破できそうなアホ学者ですねwww

360 :白馬青牛:2006/04/30(日) 01:29:42
>352は、間違えたわい。
http://homepage.mac.com/azsyano/Personal10.html
じゃった。

361 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 01:33:13
佐伯は九州にはほとんどいない苗字です。
大分だけでしょう。大分は本州文化圏に近いですので

362 :白馬青牛:2006/04/30(日) 01:48:23
>358の間違うておったんは、>360で出た。
>>359
秦氏は、ハタに意味があるよりも、秦人の秦を表したものじゃと
思います。

363 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 01:59:11
昔の学者は議論する相手もなく批判してくれる相手もなく
独りよがりの理論ばかりで暴走しまくり。
銅矛文化圏が銅鐸文化圏を滅ぼしたと
信じきってるようなヘボでも学者ができた時代。

子供だましの特撮映画取ってる時代よりずっと前の話だから仕方ないか
たぶんIQ70くらいだったんじゃないかな?
昔の学者はw

364 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 02:48:34
学者とIQは無関係。特に文系の場合。
意外にIQ高い人間のほうが、人文科学・社会科学ではトンデモを連発する。
理論ばかりが先行して、事実を見ないため。

365 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 05:07:07
>>353
> 後白河上皇と遊女乙前との人間的な情交もあったと沖浦和光氏も述べているところを
>見ると被差別民が扶余だったとしてもおかしくはない。同じ扶余の血を引く者同士
>なのだから

えっ? それって、皇室が扶余だったってこと?



366 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 06:45:31
そもそも3世紀かそこらの時代に舟に馬乗せてどうやって日本に来たんだと。
そのへんからツッコミたくなる。

367 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:08:02
扶余は日本に来てた。
関西の某都市の地名に残ってる。
「余(あまり)○」ではなく、「余(よ)○」と言う。
そしてかなり大きな被差別部落になってる。
俺の睨んだ通りだ。


368 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:48:55
というか、これは差別ではなく、
日本の被差別の歴史について語ってるのだから、
名前出してもいいかな。
ここは日本の皮革産業の大元締めだったとも聞いた事ある。
姫路の余部です。

369 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:58:19
姫路って極道多いよね。

370 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 10:38:46
>>366
禿同

371 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 14:32:23
>>346
>随分としおらしい簒奪者ですね。

古代において、建国神話は単なる物語ではない。王朝の統治権の由来を
説明するための、公式な歴史である。
さて、統治権の由来を、みずからの「この世ならぬ」出自に求めるのは、
よくあるパターンである。神武天皇の祖も、高天原から日向の高千穂に
天降ったことになっている。

この神話のどこにも、地上の特定の部族である「扶余」が入り込む余地
はない。
同じ「天つ神」である大和の「にぎはやひ」が「天つ磐船」で天降った
ことにして、天孫族が渡来系であることを「ほのめかす」のがせいぜい
のところである。
「扶余」を宣伝しない理由がわかったかな?

372 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 15:22:23
>>371
渤海の使者を受け入れたからと言って、
彼らの言う事に納得したわけではなかろう。
仮に納得してても、崇神天皇時代の四道将軍の面影をみたのかもしれない。

373 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:23:23
てか、渤海国書のどこが日本=扶余なんだ?

374 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:33:52
>>371
いやだからニギハヤヒは土着化していたのかもしれないし、海の向こうの
似たような場所から先祖が渡来してきたとするなら感覚的には土着でしょ。
ただ水平線の向こうから流れ着いてらしいよ、ってだけで。

同じように渡来系扶余との自覚があったならばフヨのフくらいは記さられて
いてよさそうなものだが、その時すでにフヨ人という自覚がなかった、
というよりも、倭人であり日本人という感覚になってたのだと思うな。

扶余伝々の必要性がそもそも全く無かった、と考えれば少しは納得かもね。


375 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 17:11:17
仮にそうでも
ミシェル・ウィーに片思いする渤、いや韓国ってなもんだろ?
その本性は朝鮮嫌いのアメリカ人だがなw

376 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 18:57:50
「扶余」ホーショー君を国運を賭けて支援したけどな。
ボロ負けしたけど。

377 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 19:07:07
>>349
>騎馬民族が海峡を 渡れないことは馬鹿でも知っているのでそれは
>いっていないようだ。

古典的反対説だ。

第一に扶余はモンゴルと同じ意味での「騎馬民族」ではない。
第二に金官の一般民は航海に馴れた倭系加羅人だったから、扶余はこれを使役する
ことができた。(元が高句麗人、江南人を造船、航海に使ったのと同じ)
第三に扶余は草原の民ではなく河の民であった。(扶余の遺跡は松花江沿いにある
ことを想起せよ)
第四に当時、海峡を越えて馬を運べたことは日本書紀からわかる。

378 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 19:17:50
>>373
>てか、渤海国書のどこが日本=扶余なんだ?

てかてか、「本枝百世」とあるだろう。
「本枝」を漢和辞典で引いて見よ。「本家と分家」と出ている。
渤海王は謙遜して相手(日本)を扶余の本家、じぶんを分家と見て、
「本家も分家も栄えて目出たいことです」と言っているのだ。

379 :がいやまん:2006/04/30(日) 19:41:11
白馬青年さん

カザフスタンのハプログループDが17%という異常な高率という情報があり
ました。カザフ(キルギス)の人種構成にはイラン系スキタイ文化サカ族が
寄与しているとのこと。冒頓単于に取り込まれたサカ、トカラ系の月支が
新羅に入ったということが考えられます。つきましたはカザフスタンにおいて
新羅出土のスキタイ系に似たものが出土したサイトの名称をもう一度お聞き
いたしたく、なにとぞよろしくお願いします。(漢書東夷伝夫余の体格、家畜、
音楽的習性、黄金指向から、スキタイ系はオルドスから夫余、百済、新羅へと
渡ってきたものと考えます。)

380 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 19:59:23
>>377
だから扶余=被差別民説は、
地域も職種も判明しかかってるのにスルーですか?

381 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 20:29:55
>>378
>てかてか、「本枝百世」とあるだろう。

てかてかてか、なんでそこだけ主語が「日本+渤海」やねん。
「日本開基」「奕葉重光」と釣り合いがとれんぞ。

382 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 20:55:56
騎馬民族が騎馬戦術に長けた強い民族なら日本責める前に中国や他の大陸責めるだろ。
何万ぐらいの軍隊が舟に馬乗せて来たんだ?無理でしょ、3世紀かそこらでは。
それに江上さんの騎馬民族征服王朝説を支持している学者はいるの?
あと江上さんは天皇も日本人も騎馬民族の末裔だと言ってるのに、どうして
皇居の松の間で天皇陛下から文化勲章もらったんだ?江上さん天皇制廃止派でしょうに(・ω・)

383 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 21:32:45
司馬遼太郎は馬のいなかったヤマトなど五百騎ほどあれば十分攻略できたはずだといっていた。

384 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 22:19:49
>>358
しかしGm遺伝子を見ると若干では違うように感じるが
民族性が歴史的要因であるという意見には同意
日本人は古墳渡来人要素と縄文・倭人的要素を二つ(三つか?)持つ
モンゴロイドだと思う。倭人の末裔と言われる中国のぺー族は家を建てる時、その骨組みが
完成すると大工やらが家の頂上に上って金銭や餅を人々に投げたり
山葵を食べる風習があるがこれは日本でも同じ。一方、アムール川にいる
ツングースのナナイ族は魚肉を生で食べる風習があるがこれも日本と同じだと思う

>>365
皇室は扶余と倭人の混血だよ。同じ扶余の血を引くから親近感があったのだろう
ちなみに扶余が日本に来たというのは適切ではない。正確にはワイ系部族集団の
ワイ族が日本にBC1世紀から来たというのが適切だと思う。古墳時代人は
このワイ族なのだろう。そしてワイ族が後の扶余となる。ちなみに
東北に移住したのは鳥トーテムを持つハク族かコマ族であろう

>>377
扶余というよりもワイ系部族集団が河の民で航海技術を持ってたことは否定しない
(ナナイ族のケースもある)
ただそれが征服したとか豪族と戦ったとなれば話は別だが

>>382
江上氏が天皇制廃止派だったとは知らなかった
まぁ山田洋次氏のように左派系の人士が文化勲章を貰ったというケースもあるのだから
そんなに目くじら立てる程でもないとは思うが

385 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 22:42:42
>>384
>皇室は扶余と倭人の混血だよ。

根拠は?

386 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 22:59:31
そもそも、日本は大規模な騎兵戦術を駆使するには、不向きな地勢。
五胡十六国時代のような、重装騎兵戦術が功を奏する可能性はまず無い。

後の時代の、はるかに洗練された戦略・戦術を駆使する元寇でさえ、
騎馬民族としての特性を生かした戦い方はできなかった。いわんや・・

387 :白馬青牛:2006/05/01(月) 00:23:21
>>379
サイトでは、ありません。書物からのものです。>339に出ておる
鶏林路一四号墳出土装飾宝剣や、他の出土品や古墳の形態は、東アジア的
ではなく、南ロシア・コーカサス北部〜南シベリア・アルタイ地方の
スキタイ・サカ系の古墳群と類似しており、西域経由であろうことは、
江上波夫氏や斉藤忠氏、由水常雄氏等が指摘されたものからの引用です。
>>384
Gm型では、新旧モンゴロイドの区別が出来んのが問題点じゃと思う。
雲南のペー(白)族は、搾乳文化を持つ牧畜民要素が強い羌系の民族で、
倭人の末裔とは云い難い。日本との共通性は多いと思うが。
魚肉を生で食べる習慣は、東北アジアに広く分布しており、日本と近いで
あろうことはその通り。航海技術もアムールのオホーツク文化人は、
北海道へ殖民しておる。ツングースは水辺民で内陸の遊牧民とは違う。
江上氏の著書を読んでも、天皇制廃止派とは思えんが?
http://www.orient-matudo.com/seturituphoto.html
にも三笠宮崇仁殿下と共に江上氏も写っておられますが、「江上波夫
文化勲章記念、シルクロード立体展実行委員会」の名誉顧問は三笠宮崇仁
殿下がされ、その立体展の本『人間・江上波夫』に「江上波夫教授 
万歳!」と「賛」で、三笠宮崇仁殿下は、述べられておられます。

388 :白馬青牛:2006/05/01(月) 00:31:34
>387は、また間違えた。ローマ字を打つのは、よう間違える。
http://www.orient-matsudo.com/seturituphoto.html
じゃった。

389 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:45:52
江上説を支持する人は3世紀ごろにどうやって舟に馬乗せて来たんだという質問に必ずといっていいぐらい無視するよな。

390 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:13:59
>>389江上支持ではなく
古代人よりちょっぴりIQが高いと自負している俺ならこうする。
数隻の船に幾人かで乗り、子馬を抱きかかえて九州に上陸
許可を貰いうけ九州辺りの高原地帯で放牧・繁殖。後は適所で使うだけえ。
てか使える場所って超少なそうw

391 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:30:36
>>388 チビ禿江上バロスwwwwww

392 :がいやまん:2006/05/01(月) 02:01:45
>>387

非常にクリアです。ありがとうございました。今、カラオケの独占を解除して
帰還したところです。





393 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 02:37:59
騎馬民族説では、倭の五王と言うのは既に扶余ということになってるわけだが、
彼らが拠点に置いた河内で大古墳が建設されてる頃、
大和周辺ではそれ以前のような規模でなくても、
少なくとも明らかに王族クラスの墳墓というのは建設されてないだろ?
扶余が倭に侵攻してまず河内を制圧してそこを本拠にしたとしても、
その時点ではまだ大和の倭勢力は残ってるんだから、
大和では、規模は小さくなったとしても王墓は建設され続けないとおかしいだろ。
そして倭王の上表文は扶余が出してたことになるが、大和にまだ倭の中心が残ってるのに、
自らを倭王と名乗るのはおかしいことになる。
扶余が河内に続き、大和も攻略して、その後から河内に古墳群を建設したと考えるのも
疑問だ。なぜそのまま大和を本拠に、そこに古墳を築かないのか?

394 :がいやまん:2006/05/01(月) 11:01:25
>>387
白馬青年さん

ご教示ありました線を辿って行くと
http://www.mahoron.fks.ed.jp/kiyou/2001_6_2.htm
に出会いました。騎馬民族のクシャーン朝の文化が伝来したということなのでしょうか。
http://www.hum.fukuoka-u.ac.jp/his/momosaki/
「世界最古の仏像・ガンダーラ仏は、騎馬民族のクシャーン朝で誕生し、シルクロードを
東に向かい、4世紀の中国に伝わります。それは南下した遊牧民族と漢民族が興亡を
繰り返す民族大移動=五胡十六国時代のさなかでした。鎧冑に身を固め、矛や弓矢や
刀剣をおびた重装騎馬武人が激突する果てなき暴力の連鎖、その中から姿を現す
中国最古の仏像群。 濃い顔のガンダーラ仏が神仙風の中国仏に変貌し、敦煌の石窟
が開鑿される時代。
 朝鮮半島や日本に騎馬文化が伝わったのは、まさにこうした時代でした。
そしてやや遅れて、仏教が伝わり、やがて武人の文化と仏教文化は、わかちがたく
結びついていきます。」

395 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:09:29
>>394
www…がいやまんさん。

あの人は「白馬青年」ではなく、青牛ですw
白馬に乗った青年が、
広島弁で「おどりゃ〜!」なんて言う姿を想像すると、
腹抱えて笑ってしまいますw

396 :がいやまん:2006/05/01(月) 13:02:21
白馬青牛さん

ハンドルネームを読み間違えておりました。失礼の段お許しください。

>>395
ご指摘ありがとうございました。

397 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 13:02:35
古事記や神皇正統記には、騎馬系の記述は見られんなぁ

398 :がいやまん:2006/05/01(月) 17:58:23
http://www.sakai.zaq.ne.jp/roman/amagi.htm
この地名の布陣は騎馬民族の陣形を思い出させる。神功が大和を制圧したのか。
仲哀と神功で九州を制圧したのか。どうも、漏れは、大和の陣形を九州に移したの
ではという気がする。皆さんはどう思われますか?

399 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 19:18:33
>>381
>なんでそこだけ主語が「日本+渤海」やねん。

それならば「本枝百世」とは天皇家の内部の本家分家のことか?

>>382
>騎馬民族が騎馬戦術に長けた強い民族なら日本責める前に中国や
>他の大陸責めるだろ。

大陸には「騎馬戦術に長けた強い民族」は他にいくらでもいる。
なにもわざわざ苦労することはない。コルテスもヨーロッパでは並みの
騎士だろうが、アステカ相手なら征服者になれた。

>>383
>ワイ族が日本にBC1世紀から来たというのが適切だと思う。

ワイ族のことを扶余だというのは、高句麗人のことを朝鮮民族だと言う
のと同じ、本末転倒の間違いである。
ワイ族は扶余、および弥生人に共通する一要素ではあろうが、扶余そのもの
ではない。

400 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 19:18:50
>>395
ワロタ
よく気付いたなw

401 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 19:22:08
>>386
>日本は大規模な騎兵戦術を駆使するには、不向きな地勢。

「大規模な」というところに、古典的な「騎馬民族」のイメージを
こめているのだろうが、扶余はそれとは異なることは以前にも言った。
扶余の騎兵戦術はあくまで「普通の騎兵」である。

そして「普通の騎兵」の威力は戦場として選ばれた比較的狭い地域の
内部で発揮されるのだから、國ぜんたいの地勢は大きな要素ではない。
馬は最終的な戦場まで、なんとかして持っていけばよいのである。

日本の地勢を問題にするのなら、扶余の本國である満洲東部の地勢は
どうなのか?

>>393
>そして倭王の上表文は扶余が出してたことになるが、大和にまだ倭
>の中心が残ってるのに

大和の勢力は河内王朝に服属したのであって、二つの王朝が並立したの
ではない。そして服属してもその勢力に応じて前方後円墳を築くことは、
全国同じである。
河内王朝が河内に前方後円墳を築いたのは、河内が彼等の「直轄領」だから
である。しかし墓を河内に築いても、宮廷は大和に持つ場合が多かった。
日本書紀を読んで見ればわかる。

402 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 20:18:18
>>401
だから播州の皮革民説はどうなんだと聞いているのだが。
こちとら危ない橋を渡ったつもりで書いたのだが…
正直、ビビってるのだがw


403 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 21:46:45
あなたがた江上信者は、
皇室ゆかりの土地に「余(よ)」に関する地名があれば、
大喜びで天皇=扶余の証明だと騒ぐだろうな。
それが、皮革関係の土地で見出され、
風習も、牛殺や川辺に住むとか類似点があったとたんに
「黙る」というのは、それこそ「差別」ではないのか?

404 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 22:05:55
http://www.hyohiren.or.jp/member/kumiai/nikawa.html

これは、WEBに公開してるものなので、紹介してもいいだろう。
あなたが大好きな扶余に関する地名が出てくる。
いっとくが、俺は人権板の連中ような、隠微に差別を楽しむ人間ではない。
あんなの最低だ。
あなたが扶余の事をいろいろ教えてくれた。
たまたま見つけたのだ。


405 :白馬青牛:2006/05/01(月) 23:47:27
>>394
そうです。小乗仏教や北アジアのシャマニズム、イランのゾロアスター
教も、神官やシャーマンという神と人間の中間、仲介者が、両者の交流を
可能にしますが、大乗仏教では、個人が直接(シャーマンや神官を頼まず)
仏に頼めるというわけです。個人主義・現実主義的な遊牧民の心を掴み、
その中央アジアで遊牧民化したクシャン系仏教(大乗仏教)が、我が国に
伝来したのです。中央アジアで戒律が薄くなり、日本へ伝来し、
郷土広島の浄土真宗に至っては戒律が意味をなさぬように成りました。
ウエーバーやベラー等西洋人のいうプロテスタンティズムと浄土真宗の
近代性、個人主義精神云々は別として、武家文化の禅と個人主義精神との
関連は、鎌倉文化の宋学は、江南系なので農耕民的、自己解脱的、求道的な
理想主義要素が強いのかとも考えられます。
西洋では、ローマ教皇が地上における代理人であるのがカトリックで
しょうが、プロテスタントは聖書によって直接、神に接すると言うことで、
カトリックの神父とプロテスタントの牧師は役割が違うように思います。
古代からずれて仕舞いました。

406 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 01:52:55
>>401 後半部分。

そういうのはちょっと認め難いな。
もし騎馬民族説が正しいとしても、
権力は共同政権を途中からクーデターで簒奪したケース以外は想定しづらい。
騎馬民族が、征服国の中心部以外に巨大古墳築いたケースなんてあるのか?
伽耶では、既にある古墳潰してまで墳墓築いてるだろ。
そういう輩が、大和制圧したのに、
そこではなく遠く離れた場所に古墳群作るとは思えない。

407 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 04:43:44
>>406
>もし騎馬民族説が正しいとしても、
>権力は共同政権を途中からクーデターで簒奪したケース以外は想定しづらい。

そのケースではなぜいけないの?

> 大和制圧したのに、そこではなく遠く離れた場所に古墳群作るとは思えない

だから、宮廷は大和に作った、と言っている。それで十分ではないか。

408 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 05:10:31
>>407
充分ではない。
俺が提出した「騎馬民族・扶余=播州皮革生産者説」をクリアー出来ないようだな。

ものすごい説だろ?
スタイリッシュでワイルドな説だろ?w


409 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 06:07:40
九州とか近畿で馬面・馬甲馬冑、出てきてたっけ。

410 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 07:03:17
騎馬民族が扶余系であれなんであれもし騎馬民族が来たんなら、どうして1910年の日韓併合のときに韓国の人たちは喜んばなかったの?
むしろ日本人が朝鮮の血を受け継いでいるなら喜んでいいはずだろ。
だから騎馬民族征服王朝説はありえないのだよ。
3世紀ごろの造船技術で船に馬乗せて日本に来れるはずがない!


411 :がいやまん:2006/05/02(火) 08:15:30
>>405
ヒストリアン的大局把握ですね。引用された広島の弊害をもっと極端に出したのが
四国において御大師さんが狐を駆逐して狸の独占としたといわれる八十八ヶ所
の霊場建設に始まる全島の真言化であったかなーと思います。関東にも各所に
霊場ネットワークがありますが、広いものですからそれによってなんらかが影響を
受けるということはないのですが、四国の場合には民謡などの音楽、氏子集団、
山岳信仰、民芸品などの出だしが他地域と比較して遅れていると思います。
列島全体を見渡しても奈良、平安に始まった仏教による重苦しい中世化が、明治の
過激な廃仏毀釈とまるで焚書坑儒、文化大革命のような感じがあります。スラブ
の神の木像をドニエプルに投げ捨ててキリスト教を受容したまさにその地点で
黙示録のニガヨモギ・チェルノブイリの事故が発生したのも因果めいた感じがします。

412 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:47:40
>>403
「余部」(あまるべ、あまりべ、訛ってあまるめ)というのは、大化改新で
50戸を単位として「里」としたときに、50戸に満たない小集落をその
ように呼んだものだ。

「過部」と書く場合もあることでわかるように、「あまる」という和語が
先にあって、その意味を「余」で表したものだ。決して「余」という漢字
が先にあったのではない。

413 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 13:05:10
>>412
それなら、皇室ゆかりの土地も、「あまる」という和語が
先にあって、その意味を「余」で表したものかもしれないね。

414 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 13:56:12
何故、余が「あまる」と宛がわれたのか
その人々は後から来た「あまりもの」だから。

415 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 14:11:27
>>412
「あまる」なら関係ありません。
「よ」です。

そのまま扶余の事だろう?

416 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 15:06:58
>>414
>何故、余が「あまる」と宛がわれたのか

「余」に「あまる」と宛てたのではない。「あまる」の意味を漢字「余」で
表したのだ。だから「過」でも代替できたわけ。

50戸ごとに「里」にまとめて行って、例えば20戸余ったらそれが
「余戸」だったのだ。
単なる事務的なものだから「皇室ゆかりの土地」であろうがなかろうが
同じことだし、全国各地にある。

417 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 15:17:31
>>414
だから「あまる」でないって。
余部(よべ)だ。

418 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 15:28:01
>>416
君は屁りくつ王か?w

419 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 15:44:29
>>416
余が「あまる」と宛がわれた
=余に「あまる」と言う意味を与えるた
=「あまる」という和語に「余」を宛がった
意味は同じ、つまり反復してるだけやんw

420 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 15:50:46
ウザいなぁ、もう。
少しは自分で調べてみろw
http://www02.so-net.ne.jp/~nakaiya/histjyob.html

421 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 16:25:18
なるほどね、マンネの騎馬民族征服説は正直秋田ね。
余り者民族が渡ってきて倭人にキモッ!がられたり
ニョロニョロと王権中枢に入り込んだり
どっちかってーと、そんな説ギボンネw

422 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 17:22:45
>ニョロニョロと王権中枢に入り込んだり

影のザイチキ実力者みたいなもんだろ、池田大作w
もしコイツが簒奪者だったら・・・(((( ;゚Д゚))))ガクブル

423 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 17:28:06
というわけで、
長年、議論されてきた江上・騎馬民族(扶余)征服王朝説は、
播州皮革産出民説という、何とも例えようのない説になったわけだがw
どう例えていいかは……分からん。


424 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 18:37:49
江上説ボロボロだなw

425 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 19:12:44
412が言ってる話は、読みが先で、漢字自体は後から当てはめたという事。

秦氏の『秦』は『はた(はだ)』の当て字。
漢氏の『漢』は『あや』の当て字。

>>359
解かる?

426 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 19:20:49
>>425
?
余部(よべ)の話は?

427 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 19:32:28
>>399
>それならば「本枝百世」とは天皇家の内部の本家分家のことか?

そう思われます。



428 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:08:37
簒奪説クンは出てこれないのかな。
あれだけ河内王朝は扶余だと言ってて、
被差別の話になると出てこないのは差別だな。

429 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:41:30
http://www.vzhyogo.com/vzevent/dentou/himejisirokawa/rekisirokawa.html
「神功皇后三韓征伐の際、連れ戻した者の中に熟皮術に長けるものあり。始め但馬
の円山川にて試製せしも水質適さず。依って南下し播磨に入り市川にて試みたるに
良好なる成績を顕したり、故に之れを師として其の技術を伝習したる高木村民にして
姫路革の名を以って世に著はれたるなり」

430 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:43:49
>>424
おっしゃるとおりで、ここの人は学問として成り立たない江上説を支持しているんだよ。
こんなヘンテコな学説支持しているは私が知ってるのでは水野祐くらいなもん。
あとはみんなアンチ

431 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:45:19
>>424
おっしゃるとおりで、ここの人は学問として成り立たない江上説を支持しているんだよ。
こんなヘンテコな学説支持しているは私が知ってるのでは水野祐くらいなもん。
あとはみんなアンチ




432 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:45:53
ここに余部がある。
もう決定だな。

河内王朝のどこが扶余による征服王朝なんだよ。

今まで、こういう問題に目を瞑ってきた古代史界全体の問題だな。

433 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:01:02
>>423
>播州皮革産出民説という、何とも例えようのない説
キングオブ電波

434 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:03:12
http://www.castle7.com/白なめし革細工について/歴史.htm

 >白鞣の歴史は古く、四・五世紀頃にはすでに作られていました。

らしいです。
おーい、簒奪説くん…
何とか言いなさい。

435 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:06:24
>>433
どこが電波なんだ?

余部についてはスル〜か?
俺は江上説を真正面から否定できる証拠を見つけた文化勲章候補者だ。

436 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:26:05

騎馬民族・扶余は被差別民になってた…

これは歴史のロマンだ。

437 :白馬青牛:2006/05/02(火) 23:50:02
>>411
広島の浄土真宗は、弊害では無く、家に神棚を置かず、病人が出ても
祈祷に頼らず、間引きをせぬ等は、近代性に貢献をもたらしたと
思うのです。逆に伝統的文化の喪失とも言えます。四国に影響の強い
真言宗は、密教的要素もあり、平安期の要素も強い。逆に古代からの儀礼、
様式も継続された要素も強いでしょう。
>>412
わしは、漢字が先にあったと思う。ハタでは無く秦人の「秦」。
コシ(高志)では無く越人の「越」に意味があろう。日本人が言語の
通じん、中国人に説明する時、「秦」「越」等、共通の意思疎通としては
漢字を使う方が良い。北陸の越(蛇)族(高志八俣の遠呂智、八岐大蛇)
は、高志よりも国際的な「越」とする方が良い。
>>430
学問として成り立つ説があれば比較して言えばよいものを、
具体的な論拠もなくヘンテコな学説で成り立たないと前提条件を付け、
前提条件から自己の意見を正当化するとは。真っ当な意見を述べるのを
自らの価値観で否定する偏狭主義者と自身を規定しておるんか?のう。


438 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:53:22
あなたが大好きな扶余の定住場所も特定されて良かったな。
あなたは扶余が大好きだったんだろ?
じゃ、皮革産業について熱く語れよ。
それとも天皇家を扶余にしたかっただけの、クソサヨだったの?

439 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:07:49
>>437
姓を賜ひて波陁(ハタ)と曰ふ
今の秦の字の訓なり

『はた』が先って事だ。波陁とも使われてたのが証拠。

うずまさ⇒禹豆麻佐、太秦

440 :白馬青牛:2006/05/03(水) 00:12:43
>>438
ありゃ、今度は、クソサヨと言う洗脳カルト思想厨者が出てきた
わい。ウヨ、サヨも関係あるまいに。歴史を思想の道具にしたいん
かのう。韓国5000年の歴史との妄想に対抗して、縄文文明?
とやらは、1万何千年であるといいたいんか?勝手に我が国の
歴史を捏造したいんか?捏造するのは、日本人の性質と愚弄したい
んかのう。そうなるとあんたは、売国奴というわけか?

441 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:21:53
半万年キタコレちーん
うわっははははははははははっ!哂

442 :白馬青牛:2006/05/03(水) 00:43:27
>>439
訓や読みでは根拠にならんよ。日本の狭い範囲で訓読みを正当とするんか?
漢人が日本の文献の秦や越を見た場合は、秦人や越人を考えるであろう。
幅広い解釈で検討せにゃあいけんよ。

443 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:53:07
>>442
一言でいえば粉飾詐欺だよw
漢字が遅れて来たんから、秦も漢も当て字に過ぎない。

444 :白馬青牛:2006/05/03(水) 01:20:16
>>443
当て字に過ぎまいのであれば、魏志辰韓伝の「名國為邦 弓為弧 賊為寇
行酒為行觴 相呼皆為徒 有似秦人」つまり國を邦と言い、弓を弧と言い、
賊を寇と言い、酒宴を行觴と言い、皆が呼び合うときは、徒と言い、
秦人の言葉と似ている。現在でも秦語の邦や、寇等残っておる。
これらを当て字と断定するのは如何なものか。辰韓が粉飾詐欺をしたと
いう根拠はあるんか?日本だけの狭い視野で語っても妄想になるだけじゃ。

445 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 01:25:09
粉飾詐欺=日本の秦造の系譜

つか、最近また元気になったねw

446 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 01:50:38
>>358
日本人と韓国人のDNAもそれほど変わらないというのにも同意だが
数詞など言語からしてみれば日本人と韓国人は同族とは思えないし
DNAも完全には一致はしないのだが
民族性が人種より歴史的要因があるという意見には同意
確かにペー族を初め雲南のチベット・ビルマ語族にはチベット系の
遊牧文化を多少残してる部族もいるがタイとビルマに住む同じ
チベットビルマ語族のカレン族は稲作や高床式住居など倭人を思わせる
生活をしているし、同語族系でインドに住むナガ族は刺青の風習を持っている
おそらく雲南を始め長江周辺は古タイ族が住んでいたがそこにチベット系の羌族が
南下してきて古タイ族と混血したのだろう。その際一方は遊牧文化の名残を残し
もう一方はそれすら無くして稲作民族となった。その稲作文化を持った部族が
ビルマ系部族となり一方はタイやビルマに移住して、一方はタイ族と共に
倭族を結成したのではないか。安本美典氏は弥生人をビルマ系江南語族と
しているが正確にはタイ系ビルマ語族なんだろう。面白い事に中国の学者は
最近(存在したかどうかは別にして)夏王朝を雲南から来たビルマ系タイ人の国としている
http://www.esri.jp:8080/~nobu/asia/alubum/2003/kakku.htm
さらに倭族=ビルマ系、タイ系ではないかとするソースはここにもある
http://homepage1.nifty.com/mamoruokada/konmei.html
ついでに言うとチベット・ビルマ語と日本語の文法は同じSOVだそうである
もっとも文法は全て同じと言うわけではなく日本語の文法の一部はアルタイ語とも
同じである
http://www.esri.jp/~nobu/asia/shiryou/minzoku/min11.htm

447 :446の続き:2006/05/03(水) 02:12:36
訂正
×>>358
>>387
あと江上氏は反天皇制はなかったのか。三笠宮殿下とも親しくてるようだし
では>>382のソースは一体・・・?

>>385
こちらも訂正。皇室は扶余ではなく扶余と同じワイ系部族のワイ族の豪族と
倭人の王の混血だろう。大嘗祭を見ればわかると思うが大嘗祭には
北方系儀式と南方系農耕儀礼、南島系儀式がそれぞれ取り入れられている
これらはおそらくそれらの血が流れていなければ取り入れないだろう
また皇室の祖先と言われる邪馬台国の卑弥呼の鬼道は北方系シャーマンと
南方系の農耕儀礼がミックスしたような儀式だし卑弥呼は刺青はしていない
ようだったしね

>>399
扶余も高句麗も元は同じワイ系部族集団でありその一派がワイ族だと
言ったのだが。まさか前スレを含めて「ワイ族は朝鮮人の祖先でフヨ族じゃ
ないよーんw」とかいうコピペを信じているのかね?

>>401>>407
扶余が簒奪したとは考えられない。第一それをやろうとして蘇我氏は
大化の改新で滅ぼされたのではなかったか?それに日本は中国や朝鮮とは
違い易姓革命がない国だという事実も無視している

>>408
今まで被差別民と言えば縄文人の末裔のような事を網野善彦氏や
佐治芳彦氏らが唱えていたようではあるが実際は扶余だったと言う事か
ま、確かに弥生系と並んで日本列島のマジョリティーを占める縄文人が
被差別になるのはどうもおかしいとは思ったが。しかし同じ扶余系でも
高句麗や百済からの亡命者は関東で土地を得てそこの管理人を命じられたり
朝廷の高官となり、中には天皇の后妃となった者もいるのに皮肉な話ではある

448 :438:2006/05/03(水) 07:17:57
>>440
青牛さん、あなたに言ったんじゃないよ。
あなた反応しすぎw

449 :がいやまん:2006/05/03(水) 10:27:44
>>437
>>411
神棚を置かないとは徹底していますね。プロテスタント的なわけだ。
真言はシンバルのようなものや、読経の音楽性に古代の息吹を感じます。
空海の修行したとされる場所が役の行者と一致するところもあります。
真言と門徒で住民を分け合っているのは全国的なのかもしれませんが
特に四国などは典型的なようですね。

450 :YAP?:2006/05/03(水) 11:18:15
扶余の語義が、「鹿」であることはほぼ間違いないと思われるが
、日本の神話体系、特に研吾苦心倭や支配者階級の神話と思われるものに
「鹿」の影が見えないのは、騎馬民族説論者はどう説明するのか?

江上氏のように変幻自在に、騎馬民族の定義や性格を変えたりせずに、
説明してほしいものだが。

451 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 11:29:53
>>429

>>368 >>403 >>404 >>412

この流れは興味深いな、ちょっと。

「(扶)余部」ね。

452 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:23:38
>>450
鹿は日本神話(どの神話かはわからないが)でも出ているらしい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AB
なんでも鹿の死体や血を捧げる儀式が神話にあったとか。また鹿を神の使いと
位置付けている神社として春日大社や鹿島神宮などが上げられている
しかし神話でも神道でも主な扱いとはされてはいない(どちらかと言えば附属的な扱い)
鹿信仰は渡来人がもたらしたものかもしれない。その渡来人がワイ系部族集団の一派なのだろう

453 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:37:29
倭人の南方への民族移動の開始
ttp://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/7.htm

454 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 13:18:13
>>415
>「あまる」なら関係ありません。 「よ」です。 そのまま扶余の事だろう?

残念ながら関係はある。「余」を「よ」と読む場合は、後世にかっこうを
つけて漢字を音読みした可能性を考えなければならない。
その点で、愛媛県松山市の「余土」は実に面白い。
http://www.e-catv.ne.jp/qch/mati/ygyo.html
を見ると、余土(よど)地区の由来について次のように書いている。
「律令国家時代、50戸に満たない小集落を「余戸郷(あまりべのさと)」
と呼んでいたことが地区名の由来。明治以降の村名、余土は、余戸が転じ
たものである。」

一方でこの近くの鉄道の駅名は「余戸」と書いて「ようご」と読ませて
いるのである。以上から、次のことがわかる。
すなわち古くからの「余戸」(あまりべ)が明治期になって「よご」と
「よど」の二通りに音読み、あるいは重箱読みされ、後者はさらに
「余土」と、漢字まで変えられたのである。

これがわかって見ると、滋賀県の余呉(よご)町も怪しい。
地名で新説を立てるには、インターネットでいいから、ちょっとでも
調べてからのほうがいいよ。
因みに「余戸」と「余部」は同じで、いずれも「あまるべ」または「あまりべ」。

455 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 15:49:53
>>454

それはどうだろうか。
京都の綾部が漢(あや)氏ゆかりの地名だし、
余部(よべ)なら余(よ)ゆかりの地名なのではないだろうか?
部とある以上、部民の名前だろう。

456 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:57:09
扶余を意味する余部(よべ)なのに、
みんな余部(あまるべ)のイメージで捉えてたので、
誰も気が付かなかっただけなんじゃないかな。

457 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 19:28:03
>>455
>>456
「余部、あまりべ」でぐぐってごらん。全国各地の、「あまりべ」と読む「余部」
がたくさん出てくるよ。
そういえば、昭和61年に、山陰線の列車が強風にあおられて転落した事故も
余部(あまりべ)鉄橋だった・・・

458 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 20:23:34
>>457
だから「扶余(ふよ)」または「余(よ)」と呼ばれてたらしいので、
「あまり」なら関係ないと思います。
一応、余(よ)というのは播州姫路にしかないみたいですね。

459 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 22:26:17
http://blhrri.org/kenkyu/burakushi/burakushi_27_3.htm
>三条余部などの住民が米屋などを襲った。

「よべ」か「あまるべ」「あまべ」かは分からない。
「あまり」という和語に余をあてたという、
上のほうのレスは正解かもね。

460 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:07:21
結局、こう言う事なんじゃないの?
つまり半島で、扶余はとっくに倭人に隷属してた。
で倭人は彼らを「あまり者」と呼んでた。
後、彼らの漢字読みの「余」を「あまり」という和語にあてた。
その和語でもって、倭人の小集落まで余部(あまりべ)と呼ばれるようになった。

461 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:38:10
江上説ボロボロだなw

462 :白馬青牛:2006/05/04(木) 00:54:33
>>446447
日本人と韓国人は概ね近として、全く同一とは思わん。韓人には樺太の
ニブヒ・ギリヤーク的要素も考慮する必要もある。
まあ、雲南はスキタイ文化と稲作文化の混合じゃし。
江上氏は、「天皇の祭祀陵だから埋蔵文化財ではない、手をつけては
いかん、というのはおかしいが、埋蔵文化財だからといって、天皇が祭祀
することが出来ないようにして仕舞うのも許されないことだと思う。
これは、あくまで国民全体の能力をもって、国民全体の責任において
なされなければならない。この埋蔵文化財という側面と、天皇家の祭祀の
対象である陵墓という側面を両立させるべきだと思うのです。一方によって
一方を抹殺してはならない」とされる。江上氏が、反天皇制であれば、
天皇家の祭祀のことまで考えんよ。
弥生系と共に縄文人はマジョリテーを占める?小山修三氏によると、
縄文晩期の人口は約7万6千、弥生期約60万、古墳期約540万人と
あり、人口増加率では、説明出来ん。

463 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 01:31:47
>>462
韓人がニウブやギリヤーク的要素があるという事は安本氏がいう
古極東アジア語族は存在したかもしれない。それは縄文人も同じだからだ
その江上氏の発言がおそらく反天皇制と誤認されたのだろう
縄文人は西日本ではマジョリティーではなかったかもしれないが
東日本ではマジョリティーを占めていたのは事実だ。ちなみに同和地区は
関東より関西の方が多いらしい

464 :白馬青牛:2006/05/04(木) 01:47:39
>>449
浄土真宗王国の広島と違い、真言・天台両宗の分布では、四国、特に阿波・
徳島県は60%以上で多いですね。岡山や関東も40%台を示し、
多いのですが、安芸門徒(広島)に備前法華(岡山)と言われるよう、
岡山は日蓮宗も多く、関東と似ておるのかも知れません。一方浄土真宗は、
北陸にも多いでしょう。
>>460
扶余が倭人に隷属していたと言う根拠が解らん。
倭人は、漢人の隷属奴隷民に過ぎんのに、倭人を強う見せたいんは、
江南長江文明至上主義者か、あるいは北方弥生人南方習俗ポンチョ厨か、
何れにしても南方民族派であろう。

465 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 07:52:13
>>464
江南やポンチョはどうでもいいですw
「余」といわれた扶余について、
もし日本に来てたら、という話をしてます。
江上さんが言うように支配側ではなく、
まったく逆なのではないかと…
じゃ、金官伽耶で4世紀中に大和に隷属してたのではないかなと。

そういう話です。

466 :がいやまん:2006/05/04(木) 10:12:15
>>450
YAP?さん、また失礼します。
記紀神話では鹿の影が薄い。しかし、地名、伝承、銅鐸には実に濃厚。
他にも、鹿踊り、鹿を保護する神社、極め付きは鹿の角が無数に保管されていた
志賀島でしょう。こんなに鹿の角を集めるのは現在ではヤクートかな。
地名の鹿は男鹿半島、牡鹿半島、そしてその辺から南下したとされる鹿島神宮、
香取神宮も関係するかな。特に春日大社は鹿島から来たとされるので鹿文化が
日本を一周した感じがします。さて、入国地点のような志賀島の香椎宮とか、その近辺
の伊都国の平原古墳などの配置にはユーラシアで世界樹、ないしは、鹿柱とされる
ものを神殿の前におくアルタイ・バイカル東部の傾向が読み取れ、秋田の天日宮では
はっきりと石積ケレクスルが読み取れます。いわゆる天孫の下に置かれたフツヌシなどの
フツというのがモンゴル語のクト、霊威ということかもしれません。

467 :がいやまん:2006/05/04(木) 10:57:14
白馬青牛さんのシロコゴロフ説の受け売りですが、他方キリスト教関係
のウェブでも、HgCは中国南部、東南アジア方面から北上して米大陸
にまで入っているようであり、ツングースなどもこれに属しその起源は
湖南省辺りかとするのがシロコゴロフ説のようですが、漏れは、北上する
以前に河姆渡文明などの稲作文明の影響下にあったのではないかと
考えます。それは稲作と鹿が一年という生産周期であるからで、北上した
ツングースが寒帯気候に適合したのはこの生産周期への適合がスムース
に行ったのではないかということです。他方九州で停滞していた稲作文化を
東日本に拡大する上でこの牧畜文化担架者が大いなる役割、銅鐸による
季節変動の節目の祭りなどをもたらしたのではないかとも考えられます。
銅鐸とか高地性集落は稲作の盛んであった地方であり、それ以外の生業
の地方においては鹿関連の祭りが多かったのかな戸の感じもしますが。

468 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 11:04:15
余の辞書に不可能という言葉はない。
そうか! ナポレオンも扶余だったんだ!
簒奪もしてるし・・

469 :がいやまん:2006/05/04(木) 11:08:44
そういう文化の後に渡来したのが天孫族であり、案外、天山族であるのかもしれま
せん。私はこれがHgDではないかと思っているんです。しかし、この集団には若干の
中央アジアのコーカソイド系も混じっていた。大彦とか、坂上田村麻呂とか蝦夷征討
にまわされたのはそうした連中かなとも思われます。チベットのシャーマニズムの
服装と修験道の山伏にアルタイのシャーマンの名残があるような気がします。

470 :がいやまん:2006/05/04(木) 11:42:28
チベットの山伏についてはこんなのがある↓
http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_images/tibet3_6.jpg
他にドンピシャがあったのだが、今ググッている。

471 :がいやまん:2006/05/04(木) 11:44:31
話は変わるが、後期の袈裟襷文銅鐸の鰭を思い出す。
http://www.kaze-travel.co.jp/tibet/tibet_images/tibet3_5s.jpg

472 :がいやまん:2006/05/04(木) 11:50:56
これも山伏に似ている↓
http://www11.plala.or.jp/minzokugakuin/page244.html
ごしゃかれそうだからもうやめる。

473 :334:2006/05/04(木) 12:22:26
予想通りの展開

474 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 12:24:05
>>470
なんだか、太秦のマダラ神に似てるね。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/usima10.jpg

475 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 12:25:21
がいやまんさん少し落ち着こうよー
漏れも結構連投するタイプだから
人の事いえるタイプじゃないけれど

連投すると、人の書き込みを消して
自説広める効果はあるけど、それは
他人にとっては迷惑でもあるんだよねー


476 :がいやまん:2006/05/04(木) 12:34:09
>>474
大秦国のミトラ神と太秦のマダラ神は関係ありましょうか。
>>475
人の書き込みを消すとは過大評価、被害妄想と違うか。少なくとも漏れは
絶対ウジウジはしていないよなー。

477 :がいやまん:2006/05/04(木) 12:39:53
大秦国のミトラ祭儀ですが、
「内部は暗く,祭儀の時のみランプや松明(たいまつ)で照明された。内陣の奥にある
祭壇には,〈牛を環る神ミトラス〉の図(浮彫,壁画,丸彫など)が安置されていたが,
その他の神像も発見されている。」
なんだかよく似ています。

478 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 12:44:26
空気読めない人だなw

479 :がいやまん:2006/05/04(木) 12:51:16
馬鹿もん、いいぱなしがいいんだよ。そこに真実だ出るんだ。

480 :がいやまん:2006/05/04(木) 12:59:17
馬鹿で思い出したが、夫余には馬加、牛加なんてあったらしい。あいつは馬加、牛加
で人間を評価したのかな。

481 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 13:07:06


NHK

偉大なる旅人 ・ 鄭和
七度に及ぶ大航海

▽コロンブスより先に米大陸か ▽乗り組の生き残りがアフリカで生きていた。
南米砂浜にも中国人の服装をした姿見たと歴史に刻まれている。

船舶技術が中国は発達していた。

後に、西洋人侵略が始まり北から攻めるモンゴル騎馬民族の進出により

大航海断念


第一部見たかった。(-.-;)

482 :YAP?:2006/05/04(木) 14:06:07
「扶余」buyuが、満洲・ツングース語系の語彙で「鹿」の意味であり、
かつ、「鹿山」(扶余山)に興った種族名(おそらく部族連合体の名称?)
であることはまず間違いないだろう。

一方、日本語の「鹿」に相当する語彙は、おそらく「しか」sikaではなく、
「か」(「鹿ノ子」などの複合語に表れる「か」)kaということになる。
倭人語→日本語と、扶余系言語で、この重要な語彙である「鹿」という語彙を
共有していないのは、種族としての扶余と倭人が同一ではないことを意味する
可能性が高い。

中国正史では、鮮卑が「鮮卑山」に興り、「烏丸」が「烏丸山」に興り、
いずれもその山名が種族名と一致しており、(契丹の同様の説話は怪しいが)
扶余が「鹿山」に興り、その種族名が鮮卑・烏丸同様に山名と一致している
ことから考えると、倭人も北方遼河流域の出自とすれば、同様「倭山」に興り、
その山名と種族名が一致すると考えるべきであろう。

そこで、史料としては、はなはだ後代のものではあるが、『三国史記』高句麗
本紀の国祖王宮の時に、次代の王となった遂成が「倭山」で田猟したという
記事が注目される。
この高句麗本紀では、「倭山」は、国祖王の時にしか見えず、しかも、遂成の叛意と
からんで登場する。「倭山」という地名にもかかわらず「倭人」〜「倭」との関わりが
一切、触れられていないが、日本列島進入前に倭人の部族連合体が結集し、その
種族名の起源になったとすれば、この高句麗の領土に後に含まれることになった「倭山」
こそが、「倭」の祭祀同盟〜部族連合の発祥地と考えるべきだろう。

483 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 16:00:24
>>465
「戸」ではなく「部」だと言う。「あまり」ではなく「よ」だと言う。
この条件に合うものとしてはさしあたり姫路市の余部(よべ)がある。
「余戸」(よご、よど)で証明したように、余部(よべ)もまた後世の
音読みであることはまず間違いなかろう。

しかし百歩譲って姫路の余部が「扶余部」であるとしよう。
この地名が、扶余が差別された賎民であることを示すと言う。
一方で「額田部、蘇我部、大伴部」などの部名がある。これらは王族、豪族の
名に「部」がついていることにおいて(仮想の)「扶余部」と同じである。
それならば額田氏、蘇我氏、大伴氏は差別された賎民なのか。

否であろう。上記の部名は、それぞれの王族、豪族の「私有民」集団、
ないしその居住地である。これらの部名があることは、それらの王族、豪族
が私有民を持てる身分であったことを示しているのである。

(仮想の)「扶余部」とてこれと同じであろう。
かくして地名と差別とに託して「扶余」の名をおとしめようとする試みは、
かえってその高貴と有力とを証明するに終わったのである。
嗚呼。

484 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 16:36:56
>>483
支配集団か被支配集団かの違いだからな。
どういう社会的身分だったかの違いだ。
被支配集団として来たのなら、
異分子集団として周囲の差別対象になるのも当然だろう。

485 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 16:49:28
兵庫県姫路市、大阪府堺市、京都府亀岡市、(愛知県西春日井郡)
にあるね。<余部>という地名は。他にはないようだ。

<余戸>は愛媛県松山市、鳥取県に鳥取市・倉吉市・他1。

<余呉>は滋賀県伊香郡。


486 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 17:11:57
>>483
松山の余土は明治以降の名らしいね。

姫路の場合は、江戸時代も余部(よべ)村だ。
それ以前は知らないが、おそらく同じだろう。
http://www.mlit.go.jp/river/jiten/nihon_kawa/86064/86064-1_p1.html

差別というが、あの地に来た当初は差別でもなかったろう。
多分、殺生禁止以降だろうな。

差別というのはあなたの心にあるのだろうな。
おとしめるなんて言ってるのだから。
あれほど天皇=扶余を説明する時には頑張ってたのに…

487 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 17:29:48
河内王朝を扶余が簒奪したというなら、
河内にある余部が扶余の地なのかな?
簒奪と言っても、ある程度の人数の部民が来たろうから、
そう言う事になるよな。
でも違うぞ。
4月から堺市に編入されたが、
あそこは「あまべ」だ。

488 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:14:06
>>484
>支配集団か被支配集団かの違いだからな。

意味不明。もしも「扶余部」と言う部民がいるのなら、その部民を支配している、
というか私有している「扶余」という豪族がいることになる、と言っているのだ
が、理解できないかな。

>姫路の場合は、江戸時代も余部(よべ)村だ。

江戸時代でも後世には違いない。地名や人名には美化欲求が働くのだ。
「あまり」というのは「あまりもの」の語感があるから、変えられる
ものなら変えたくなるのは当然。音読みするのは手軽な方法だ。
ただし、「余戸」の「よご」「よど」は多いのに、「余部」の「よべ」が
少ないのは「よべ」じたい、響きがよくないからだろう。「夜這い」の
連想があるから。

>差別というのはあなたの心にあるのだろうな。 おとしめるなんて言ってるのだから。

扶余は被差別民だと最初に言ったやつは扶余を「おとしめた」のではないのか?
現在、差別があるのかどうかは議論していない。

>>487
>河内にある余部が扶余の地なのかな?

私の説では河内はとうぜん、扶余の領地だが、「余部」が「あまべ」ならそれは
「あまりべ」の転訛だから、単なる律令制の名残だ。
それにわざわざ音読みから訓読みになるのは説明がつかないではないか。

489 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:20:37
ごめん。
>姫路の場合は、江戸時代も余部(よべ)村だ。
以降のコメントは
>>486 だった。


490 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:29:01
★魏志倭人伝に登場する国々★

倭奴国=ワのクニ=大和国

旧奴国=クィのクニ=紀国

 奴国=ヌのクニ=根国(出雲国)


491 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:29:17
しつこい男だな〜w

支配集団というか、倭人に牛なめしの技術を教えたのが扶余なんだろう。
http://www.hyota.com/r_3.html

>それにわざわざ音読みから訓読みになるのは説明がつかないではないか。
だから河内の余部は関係ない。
河内が扶余の土地だと言う何の証拠もない。
というか何もないのに夢見過ぎ。

>扶余は被差別民だと最初に言ったやつは扶余を「おとしめた」のではないのか?
最初に言ったのは俺だ。
地名も風習も、これ以上、扶余的な所はないと思ったからそう言った。
部落民ならおとしめたという事になるのか?
そういう言い方が差別だと言ってるんだ。
あなたは扶余のファソだったんだろ?
それとも天皇家を外来系に貶めたかっただけかな?

492 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:30:50
百済は、扶余とは何の関係もないっしょ。
扶余=高句麗と敵対関係にあったのが百済と大和。
百済王族の姓は「余氏」だが、これ「多氏」と関係ありそうだね。
余氏も「オホ氏」と読むんじゃないかな。「ヨ氏」じゃなくて「オホ氏」と。

数多という日本語の古語があるが、数多(アマタ)は、余るの根語であるアマに
形容的接尾語のタを付けた言葉だという。数多=多くの=沢山のという意味。

アマ+タ=アマタ

つまり、数多は余多なのだ。古代日本語では、余(あまる)という言葉には
「多い」という意味が含まれていたらしい。
多氏は神武天皇の子孫だという伝承がある。
百済王家=余氏は、多氏の分家じゃないかな。

■日本の苗字7000傑
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm

あっ、余豊璋が多氏の娘と結婚してる!!


493 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:36:47
百済は、扶余とは何の関係もないっしょ。
扶余=高句麗と敵対関係にあったのが百済と大和。
百済王族の姓は「余氏」だが、これ「多氏」と関係ありそうだね。
余氏も「オホ氏」と読むんじゃないかな。「ヨ氏」じゃなくて「オホ氏」と。

数多という日本語の古語があるが、数多(アマタ)は、余るの根語であるアマに
形容的接尾語のタを付けた言葉だという。数多=多くの=沢山のという意味。

アマ+タ=アマタ

つまり、数多は余多なのだ。古代日本語では、余(あまる)という言葉には
「多い」という意味が含まれていたらしい。
多氏は神武天皇の子孫だという伝承がある。
百済王家=余氏は、多氏の分家じゃないかな。

■日本の苗字7000傑
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222.htm

あっ、余豊璋が多氏の娘と結婚してる!!


494 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:50:35
>江戸時代でも後世には違いない。地名や人名には美化欲求が働くのだ。
>「あまり」というのは「あまりもの」の語感があるから、変えられる
>ものなら変えたくなるのは当然。音読みするのは手軽な方法だ。
>ただし、「余戸」の「よご」「よど」は多いのに、「余部」の「よべ」が
>少ないのは「よべ」じたい、響きがよくないからだろう。「夜這い」の
>連想があるから。

江戸時代に「あまべ」が「よべ」に変わった証拠はない。
夜這いの連想があるなら、「よべ」を変えればよかったじゃんw
「よべ」という地名が少ないというか、ほとんどないのは、
来日した扶余が少なかったから。

495 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 20:14:40
扶余は日本に移住してないだろ。





496 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:21:32
>>464
倭人が漢人の奴隷民であったというのはいくらなんでも膨張であろう
倭人と同じ倭族の越人の越は一時は江南はもとより山東半島沿岸までも
その領土とした(楚に滅ぼされてしまったが)
そんな民が漢人の奴隷民であるはずがないのだが

>>482
確かに鹿のツングース語にあたるpuyoという言葉は日本語にはないが
鹿信仰があるのは事実。おそらく日本に渡来したワイ族の数は弥生人である
倭人よりは少なかったのだろう。だからこそ彼等は生き残るために倭王朝や
倭の民衆に取り入ったのだ。タイの国王に華僑が女性を側室として差し出して
タイでの生き残りを図ったようにワイ族もそうしたのであろう
そうして倭人と同化したのだろう。言葉は残らなかったが信仰は残ったのだ
高句麗に倭山という山があったのは興味深い。おそらく高句麗人と言うより
高句麗を作ったハク族やコマ族はワイ系部族と倭人の混血かもしれない
百済も倭人勢力によってワイ系部族が王となった。それに対して
倭では倭人勢力が既に基盤を作ったのでワイ系部族は倭人勢力に
取り入ったのだろう

497 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:32:28
>>493
百済の都は扶余だろ。唐に滅ぼされた時の百済の城があった場所。
その上で王家の姓が「余」だから。
墓誌銘に「百済辰朝の人」と記し、
中国の史書には
「高句麗と共に源を扶余に出ず」と、
自ら語ったことを記されてるから。

倭の都には扶余etcの、明らかに扶余を想起させる地名が残ってないわな。
扶余王朝が存在したのなら、河内あたりにあって当然と思われるが。

498 :白馬青牛:2006/05/04(木) 23:05:45
>>463
ニブヒ・ギリヤーク族は、新モンゴロイドで、縄文人は古モンゴロイドで
あり、両者には違いがある。東日本では渡来系6縄文系4ぐらいかのう。
同和地区が東日本に少ないのは、社会の隔離者(盲者等)を殺して
淘汰したことも考慮すべきであろう。東北日本の寒冷地帯では、飢饉により
村落が崩壊し、老婆の死体を五百文で売買し、人肉を食う等、社会の余剰
キャパシテイに受け入れるほどの余裕は無く、生まれた嬰児は、
間引きをして(窒息死させるケースが多いのか?殺害方法は様々であろう)
殺すしかない。こういう社会では、独立自営農になるより、有力豪農の
農奴になって保護を求めるより外にない。東日本の親方小方、縦型社会は、
そのような過程で成立したのであろう。
>>465
扶余の玉匣と倭の玉璧では格が違うよ。漢の隷属奴隷民の倭が、
格上の扶余を隷属化したという根拠が解らんよ。

499 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 23:13:25
毎度高齢の東北叩きキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!

500 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 23:41:20
>>498
>扶余の玉匣と倭の玉璧では格が違うよ。

何世紀の話なのでしょう?

4世紀〜5世紀に扶余が日本に来てたとしても、
播州で皮革を産出してた人達なのではないかという話です。
それが何故、江上さんが言うように、
河内王朝を建てれるほど強靭な部族に飛躍するのでしょうか。
何も証拠がありません。
皮革民なら証拠らしきものもありますが。

501 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 23:45:39
>>498
倭人が漢に生口を献上したという記録は何回あるのですか?
1、2回程度なら奴隷民ですか?
今は中国の娘が日本人に性的奉仕をしてますが、
もちろん、中国は、日本の隷属民ですね。

502 :白馬青牛:2006/05/05(金) 00:19:45
>>467472
シロコゴルフ氏は、バイカル地方・シベリア・朝鮮を古アジア系、
原ツングースを中原・長江以北とされるので、湖北省以北となります。
北上途中の東部モンゴル、西満洲の熱河・遼河の紅山文化との関係も
難しいところです。エーバー・ハルト説でもツングースは河北・山東から
満洲へ移住し、日本や朝鮮へ影響を与え、一方山東南部・江南の越文化は、
日本や朝鮮南部に影響を与えておると言うことでしょう。
ギャロン(嘉戎)人は、高原のチベット人より、羌系に近いようです。
漢人と蔵人の中間地帯の羌系は、青海・四川西部・チベット東部の
カム地方に多くおりますね。
>>496
わしは、何度も言うが、『魏志』倭人伝にも記されておるように、
生口(奴隷)を献上した隷属民じゃし、『漢委奴国王』の金印も、
漢人から見ると半植民地人扱いの隷属奴隷民。
陸続きでありながら雲南の滇国、支配者はタイ系よるもスキタイ系
牧畜文化を持つ羌系であろうは、『滇王之印』には漢の字が無いので
直属隷属奴隷民ではない。現在の中共が、日本人は我々の奴隷民とするのも
これらの根拠からじゃろう。じゃが我々は、縄文人や弥生の倭人は先祖の
ごく一部分に過ぎん。古墳期の大量移住の血脈が多くを占める。
中国を支配した胡族と同類の北方民族が日本へ移住したので、奴隷民の
倭人と同一視して貰いとうはないよのう。

503 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:25:29
>>502
>わしは、何度も言うが、『魏志』倭人伝にも記されておるように、
>生口(奴隷)を献上した隷属民じゃし

毎年ですか?
何回、そういう記述があるのですか?

504 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:42:09
>>502
>古墳期の大量移住の血脈が多くを占める。

だから扶余は河内王朝を作ったとお考えなのかな?
証拠を示していただきたい。

505 :白馬青牛:2006/05/05(金) 00:47:51
>>499
毎度東北叩き?被害妄想かのう。
>>500501
歴史に証拠?を求めるのも可笑しいが、皮革民を古代に起源がありと
断定出来るもんがない。被差別民の発祥は中世・近世の社会変化も
考慮すべきであろう。姑娘(クーニャン)が、日本男性に性的奉仕
しょうが、日本女性が、欧米人に肉体を提供し、また旧植民地の台湾人や
韓国人が、日本女性と性的関係を結び、復讐したと爽快感を覚えるんかは
解らんが、それらは日本女性が性的奉仕をする奴隷民となるんか?
我が国の女性を愚弄するにもほどがあろう。

506 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:48:19
>>502
だからシロコゴルフ氏だ、エーバー・ハルトだ、ギャロン(嘉戎)人だ、
チンコがくさいだどうでもいいんだ。
扶余ってのが河内王朝を作ったかどうか聞いてんだ!


507 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:52:31
>皮革民を古代に起源がありと 断定出来るもんがない

日本で鎧が作られ始めてた5世紀には、
皮革は確実にあったでしょう。

508 :503:2006/05/05(金) 00:56:15
>>505
だから私の質問に答えてませんが?

509 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:04:05
瑞龍寺山山頂墳の鏡も200年程度の伝世鏡なのかな・・・

510 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:09:59
>>502
>古墳期の大量移住の血脈が多くを占める。

何を根拠に大量なの?


511 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:15:24
>>510
>何を根拠に大量なの?

寒冷化だそうだぜwww



512 :501:2006/05/05(金) 01:21:32
>>505

はぁ?
金目当てで、自分から奉仕しに来る中国娘のことですが?
何わけわからん事言ってるの?

513 :白馬青牛:2006/05/05(金) 01:23:13
>>506
感情論はどうでもええわい。ほいで下ネタを付けるとは、やれんのう。
わしゃあ、扶余と断定したことはないよ。
>>507
皮革民が現在の被差別民と同じと言えるんか。しかも中世でも、
賤視される対象である傀儡師や遊行僧等自由に移住出来るが、農奴民は
自由等あるまい。一方的に視るのでは無く様々な視点から判断されよ。
>>508
『魏志』倭人伝の景初二年十二月男生口(奴隷)四人・女生口六人や
最後の文、男女生口三十人は読んどらんか?あなたが、毎年と言うかぎり
毎年奴隷を献上した国か民族があったと言うことか。ほう、毎年奴隷を
献上する国があったんなら、そりゃあどこの国かわしが聞きたい。実例を
挙げて貰いたいもんじゃのう。

514 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:04:34
>>513

>ほう、毎年奴隷を
>献上する国があったんなら、そりゃあどこの国かわしが聞きたい。実例を
>挙げて貰いたいもんじゃのう。

これでよろしいか?

● 朝鮮国王は清の皇帝によって任命されること。
● 朝鮮国内で起こった事件の委細については、すべて皇帝に報告しなければならないこと。
● 清の使節に対して、国王はソウル城門の外まで出迎えなければならないこと。
● 朝鮮国王の地位は、清国廷臣の下にあること。
● 朝鮮政府には、貨幣の鋳造権がないこと。

細かく定められた貢品以外に、
毎年、牛三千頭、馬三千頭、各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた。
http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/heisiho.html
http://toron.pepper.jp/jp/syndrome/keysen/kinshi.html

・忠烈王元年(1274)十月、処女を元に献上する時期が近づいていたので、
国中で結婚が禁止された。『高麗史』
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm

515 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 05:02:33
>>486
>扶余は被差別民だと最初に言ったやつは扶余を「おとしめた」のではないのか?
>最初に言ったのは俺だ。

そうか。あなたが最初に「扶余は被差別民だ。」と言ったのだな。
「被差別」という言葉そのものが扶余をおとしめているではないか。

>それとも天皇家を外来系に貶めたかっただけかな?

なんで天皇家を外来系だとか、扶余だとか言ったら、「貶めた」ことになる
のか、さっぱり分からない。それこそあなたが心の中で扶余を「差別」して
いるからではないか?
例えば英国王はノルマン系だ、と言ったらそれは英国王を貶めたことに
なるのか?

516 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 05:05:13
>>497
>扶余王朝が存在したのなら、河内あたりにあって当然と思われるが。

金官の故地にも残っていないが。

>>500
>4世紀〜5世紀に扶余が日本に来てたとしても、
>播州で皮革を産出してた人達なのではないかという話です。

その証拠が「余部」だと言うのだろうが、それがさっぱりわからない。
もし「余部」=「扶余部」という部民がいたのであれば、それは扶余氏
に奉仕した集団なのだ。「大伴部」が大伴氏に奉仕した集団であるのと
同じ。部民そのものが扶余氏や大伴氏なのではない。

>>494
>「よべ」という地名が少ないというか、ほとんどないのは、
>来日した扶余が少なかったから。

だから姫路に一つあれば、それは確実に「扶余部」だと言うのだな?
扶余部があれば、扶余部そのものは扶余ではないが、その部民を所有した
「扶余氏」という豪族がいたことになる。
姫路も扶余の領地であったことを証明してくれてありがとう。

517 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 05:13:58
騎馬民族は、民族の遺伝子に、血の近いモノが交尾することは、よい子が出来ないことを知っている。
よって、朝鮮・韓国では、法律で同じ地方の同姓の者の結婚を禁止していたくらいだ。
他方、日本民族は、庶民も、皇族も、昔から近親結婚をしていた。
日本と朝鮮は、民族の根本が異質な感じですよ。

518 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 06:11:02
皇室の祖先神は熊でもないし、三国の大卵でもないよ。
記紀に稲作、機織りはあっても、放牧、搾乳はなし。

519 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 07:11:54
>>515
>>516
>姫路も扶余の領地であったことを証明してくれてありがとう。

ごまかすな。
なにが姫路「も」だ。
河内が扶余の領地だった事を証明してみろ。

520 :がいやまん:2006/05/05(金) 08:44:57
漏れは江上さん貴重な論題ありがとう-ご冥福を祈ります-であるが、
扶余は夫余から来た地名と思っている。既に百済の地で地名になって
しまってるんだから、百済、新羅では何らかの別名になっているのでは
ないか。曹操に討たれた烏桓の中に入ってはいないかな。どうでしょう。
ちなみに烏桓というのはチャイニーズ風に読めば和邇となるので念のため。

521 :がいやまん:2006/05/05(金) 08:56:54
別スレでこんなことを書いたんだが、
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1066237353/menu:395
漏れは、松尾大社の裏山を冒頓山、この辺のオオヤマズミは鳴鏑で父親を
殺させ、漢を隷属させた冒頓単于、比叡山もこれを祭る。祀るのは琵琶湖大橋
付近の烏丸半島、京都の烏丸通りに名を残す烏桓、和邇川というのもこれだろう。
こんなことを考えている。あの辺の鏡神社、伊勢遺跡などが怪しいなー。

522 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 11:30:53
佐原真氏著「騎馬民族は来なかった」NHKブックスで、
いわゆる「騎馬民族制服王朝説」は仮説として、戦後の「贖罪意識」として、1948年に
出されたものと言っている。その仮説が、日本の庶民に一時支持されたのは、朝鮮民族に対する日本民族の植民地政策に対する
贖罪意識が強く作用していたと言い切っている。
そして今、その仮説を支持する歴史学者は、日本の学会に誰一人いないとも言っている。
思想の別なく、つまり、右翼左翼の別なく、「騎馬民族制服王朝説仮説」を支持する者はいないのに、
いわゆる「チョン天皇」との意識が日本の庶民に残っているのは、誰の仕業だろう。
日教組の仕業か・・・・・・

523 :がいやまん:2006/05/05(金) 11:36:49
受益面から考えれば聞くだけ野暮な話ではないか。しかし、これで馬鹿を増長させ
国際社会から取り残されるのはさておき、今後の遺伝子による先祖探しなどに
多大な障害となっているのも事実でないかと思う。

524 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 11:40:47
欧州諸国の王族の数多ある相互婚姻の歴史と、天皇家と、いわゆる朝鮮半島の王族との婚姻の歴史を比べれば、
比較にならないくらい、日本と朝鮮半島の婚姻は制限されている。
これは、海という障壁があるにしても、少なすぎます。
その原因は、日本の文化が沿海性農耕民族文化であり、朝鮮が騎馬民族文化であるとの、
根本的な違いがあるからだと思われる。
民族には、民族のリズムというものがあるが、朝鮮は、騎乗のリズムである三拍子です。
日本民族のリズムは、農耕の四拍子です。中国の漢民族も、四拍子です。


525 :がいやまん:2006/05/05(金) 11:43:11
英国にせよ、東地中海沿岸にせよ、ロシアにせよ舟による侵略はあったが
騎馬による侵略は陸続きでない場合にはないよなー。半島が陸続きで、
列島はそうでないのをすりかえているんだ。馬鹿でもわかるよなー。

526 :がいやまん:2006/05/05(金) 11:48:40
よしんば騎馬民族が上陸しても、馬はなく、山また山。転業せざるを得ない。
社会的に優位に立てたとしてもせいぜい職業軍人、畜産業。ところが畜産業は
あまり人気がないどころか・・・

527 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 11:56:56
白川静・立命館大学名誉教授は、日本の皇室は中国の殷の文化だと言っている。
殷が周に征服される過程中に、日本列島に逃げてきたのが日本の皇族の先祖との考えです。
殷は、元々は山東半島の根本が出自の民族で、日本民族と同じ、沿海性農耕民族です。
白川静氏は、日本の皇族の儀式や習慣や、「近親結婚」の有無の問題などで、
殷と日本の類似性を指摘している。

528 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 12:32:06
↓こうすりゃ秀逸レスなのに・・・

英国にせよ、東地中海沿岸にせよ、ロシアにせよ舟による侵略はあったが
騎馬による侵略は陸続きでない場合にはないよなー。半島が陸続きで、
列島はそうでないのをすりかえているんだ。馬鹿でもわかるよなー。

よしんば騎馬民族が上陸しても、馬はなく、山また山。転業せざるを得ない。
社会的に優位に立てたとしてもせいぜい職業軍人、畜産業。ところが畜産業は
あまり人気がないどころか・・・

529 :圭角:2006/05/05(金) 12:36:15
私も白川静先生を崇拝している者の一人です。説得力が他の学者さんとは
全然違いますねえ。お二人つまり白川先生とご本家の対談対論はなかったのでしょうか。
ところで、杉山氏という京都大学の五十半ばの教授先生が日経新聞から出版した
逆説のユーラシアと題する本がありますね。
 それを読むと、中国の漢以前の時代から匈奴の勢力は朝鮮半島を覆っていた
と書いてあったので、本当だろうかと思って、史記の匈奴列伝で確認したら、
匈奴は穢貌・朝鮮と接していたと書いてあったので、殷が周に征服される折に
逃げてきたとすれば、騎馬文化には既に馴染んでいた人々であって、さらには
朝鮮半島で楽浪郡と接していた匈奴からも、進化した騎馬文化を取り入れて
発展させていたと考えて自然でしょう。

530 :がいやまん:2006/05/05(金) 12:41:05
>>528
そういたします。

531 :圭角:2006/05/05(金) 12:48:08
連投で恐縮ですが、倭人伝の草木繁茂して行くに前人が見えぬような日本の
多湿多雨の山国において、半島から渡ってきた騎馬民族が跳梁跋扈したとする
情景はどうしても思い浮かびません。
 騎馬民族説が正しいのであれば、蒙古襲来において、いかに台風が来ようとも
二度も失敗したでしょうかね。高麗軍兵が多かったにせよ、高麗も高句麗ひいては
古の遊牧騎馬民族の血を引いていますし、まして元の騎馬文化は完成度の高いもの
でありましたから、そのように思う次第です。
 

532 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:02:39
>>519
>ごまかすな。

まったくごまかしていない。

●姫路に余部という地名があり、「よべ」と読む。
●この「余部」は「扶余部」を意味する。
●「扶余部」とは扶余氏に奉仕する部民である。
●したがって姫路のあたりには部民「扶余部」を所有する豪族「扶余氏」がいた。
●したがって姫路のあたりには扶余氏の領地があった。

以上のどこが「ごまかし」なのか、具体的に指摘して欲しい。

533 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:32:38

●この「余部」は「扶余部」を意味する。

???????????????????????????????????

534 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:24:54
>>498
その東北はもとより沖縄を除く日本では農奴は存在はしなかったのだが
それに貴殿の東北史観は江戸時代の物であり古代の物ではないのだが
縄文人は南方系(古モンゴロイド)と北方系(新モンゴロイド)が
混血をして縄文人となったのだろう

>>502
たった一回生口を魏に送っただけで奴隷民扱いするのはどうか
その生口だって奴隷ではなく、倭国大乱の捕虜説や中国からの留学生説すらある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%8F%A3
生口を魏に送ったからといって即奴隷民扱いするのはどうかと思う



535 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 16:01:33
>>516
>金官の故地にも残っていないが。
「金官伽耶」という地名自体がそれだ。
“金官”というのは、「北方民族が統治し居城している都の」という意味だ。

>>516
類例が少ないからこれまで見過ごされてきたという可能性がある。
外地から連行されてきた民の居住地の表現として、
そのように呼ばれてたのだろう。
<=あまりべ>の音読みから生じたのなら、他に同じ地名が存在しててしかるべきだ。
ところが実際、「余部(よべ)」という地名は、他にはない。
他にはない例外的な存在が、古からついてる地名で、
かつ従事するところのその職域において、
明らかに外来民由来だと思わせる客観証拠がある。
これだけの状況証拠があれば十分だろう。

536 :白馬青牛:2006/05/05(金) 16:09:43
>>514
なんじゃ、嫌韓サイトじゃないか。あんたの情報源は。
ホンタイジ(太宗)軍に降伏し属国になった時のことか。
『大清実録』の黄金百両、白銀千両や獣皮、紙、布類等であるが、
牛馬それぞれ3千の資料は知らん。しかも根拠とするんが、黄文雄氏では
ねえ。戦で女も徴発するんは、何も朝鮮に限ったことじゃない。
>>534
日本では、農奴が存在しない?その根拠はあるんか。東北史観と
レッテルを貼られても困るよ。蝦夷の俘奴は奴隷じゃないんか。
縄文人は、古い形質を持っておった古モンゴロイドということ。
『魏志』では二回。男生口四人、女生口六人。と男女生口三十人。
倭人のそれが捕虜の可能性はあるね。東南アジアの稲作民、漁撈民が
山地の焼畑民を奴隷狩りして、他国に売り、中国へも奴隷を貢納しとる。

537 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 16:14:23
日本の天皇家には、「姓」がないよね。
ところが高句麗王にも百済王にも「姓」がある。
このことはどう説明されてんの?
騎馬民族説的には。
同じ扶余に出自したというなら、
「姓」もまた保持してて当然だと思われるのだが。

538 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 17:08:35
部落ってもともと異民族が起源でしょ。
韓国にも白丁という被差別民がいるんだけど、
日本の部落同様、屠殺業とかを営んでて、外来民由来だと見る向きもある。
日本では江戸時代に身分制度の下で生まれたと解説されてるけど、
実際には餌取などの表現で、古代からずっと存在してた。
その起源は素直に半島民だと考えればしっくりくる。
神功皇后三韓征伐で連行してきたという歴史記述があるし、
秀吉朝鮮出兵時にも大量に連行してきたことは言うまでもない。
朝鮮通信使の最初の3回は「回答兼刷還使」という使節で、
連行された朝鮮人を連れ戻すのが目的だった。
(ほとんどの被連行者は日本残留を希望したが)
じゃ、日本のような身内意識の強い村社会で、
彼らはどこでどうやって暮らしてたの?
と考えれば、素直に部落の存在に行き着いてしまう。
歴史的に半島から連行されてきた民が居住する場所が部落だったんだろ。
当然、百済滅亡後の倭への流入遺民もまた、部落化したことだろう。

539 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 17:46:31
>>525
>英国にせよ、東地中海沿岸にせよ、ロシアにせよ舟による侵略はあったが
>騎馬による侵略は陸続きでない場合にはないよなー。

「英国にせよ、ないよなー」というのは、ひょっとしてノルマンジー公
ウィリアムの英国征服のこと?
それならウィリアムの征服軍には1500ないし2000騎の騎兵がいて、
騎兵の数でハロルド軍を圧倒したのだが・・

540 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 18:02:13
>>535
>かつ従事するところのその職域において、
>明らかに外来民由来だと思わせる客観証拠がある。

専門職域を持つ部ならその職域の名をつける。「馬飼部」とか「錦織部」とかだ。
「蘇我部」「大伴部」など、豪族の名を冠するのは、その豪族に一般的サービス
を提供する部民である。(たぶん農奴を含むだろう。)
だから「扶余部」というのがもしあったら、それは革なめしなどやるのでなく、
扶余氏という豪族に一般的に奉仕する部民なのだ。
その部民じしんが扶余族である可能性は少ない。土地の倭人とか、戦争捕虜
とか、あるいは扶余自身が連れてきた被支配民族(倭系伽耶人)などだろう。

541 :がいやまん:2006/05/05(金) 19:39:19
>>539
バイキングの頃のこと。元寇の時代とは違う。

542 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 19:47:22
>>540
余(よ)部と言う地名がほぼ姫路にしかないのだが、
それは日本に来た扶余がごく少数の部民だからだろう。
その少数がどうして河内王朝を建てたと説明できるのだ?

俺は扶余の日本における居住先をほぼ特定できたと思ってる。

今度はあなたが、扶余が河内王朝を建てたと証明する番だ。


543 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 19:55:03
>>540
>だから「扶余部」というのがもしあったら、それは革なめしなどやるのでなく、
>扶余氏という豪族に一般的に奉仕する部民なのだ

牛皮なめし自体が渡来系技術だ。
扶余は牛殺をしてたのだろ?
で革をなめしてたのだろ?
川べりに住んでたのだろ?

544 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 20:03:51
それと今は消えてる余部という地名にも注目しなければな。
京都の三条余部だ。
革をなめしてた地域だろう。
この余部が「あまりべ」なのか「よべ」なのかは知らない。



545 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 20:11:21
>>536キョウハハヤイオデマシデスネw
俘囚は傭兵

546 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 20:47:24
>>542
遂に決着がついた。姫路の余部も「あまるべ」と「よべ」の両方があったのだ。
今は一つの区になって「よべ」しかないけどね。
次のページに下記の文章がある。
http://glin.jp/frm/21900.html
<引用>
◆姫路市のこと

 東京堂出版刊『市町村名変遷辞典 三訂版』によれば、昭和21年3月1日「合体」
とあります。揖保郡余部(あまるべ)村がその時に合体、飾磨郡余部(よべ)村は
昭和29年7月1日編入とも。
<引用おわり>

このように近接して「あまるべ」と「よべ」があるということは、「よべ」の
成り立ちを説明してくれる。
かくて「扶余被差別民説」の最後のよりどころも(以下略)

547 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 20:53:17
>>541
あなたの誤りを正してあげただけだ。
それに、「バイキング」と「ノルマン人」を混同しないように。

548 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 21:16:07
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yanagin/tenji2-k1.html

この京都最大と言われた余部村は「よべ」か「あまべ」かどっちだろう。
どなたか知りませんか?

549 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 21:50:32
>>540
被支配民族(倭系伽耶人)が日本に連行されてくるわけないだろ。
何の目的で連行するんだ?
連行するからには、彼らが持つ特別な技術が必要だからだ。
秀吉が連行したのは陶工だったが、
それは日本にはない技術もってる連中だった。
その起源についてある種の類推がなされてる集団の職種が
牛皮なめしなら、その技術をもった民は明らかに倭人ではない。
そんなことは論理的に当たり前のことではないのか?

また、部名に職種名ではなく豪族名となってるなら、
それは職域集団ではなく部族名であると言う見方に立ってるが、
そうした類型には例外があってしかるべきだと俺は考える。
なぜなら強制連行の対象部民の居住地をどう呼称するのかという問題が解決されないからだ。
そこを彼らが奉ずるところの豪族なき部民として扱ったと見ることが可能だ。
すなわち、「扶余氏の被支配民」だが、余氏自体は倭の軍門に下っているから、
部民を率いることは許されない。職種についても、特別限定されてはいなかったが、
遊牧民系の技術を有してたことから必然的に牛皮なめしの得意分野に落ち着いていったのだろう。

>>546
そんなことは切り札にはならない。元の起源が「よべ」で、
そこから訓読みが派生したと考えることだって可能だ。
例えば京都の綾部は元は漢部で、「かんべ」と発音されてたこともある。
しかしその起源たるや、「漢氏」の「あや」だ。

それより何より、誰か>>537の答えられる奴はいないのか?
素朴な疑問だが、核心を衝く問題提起だ。
なぜ天皇家には姓がないのか?
騎馬民族説上は、倭の扶余が本家で、百済が分家になってる。
そして百済は倭に王子を人質に出すなど、明らかに格下の存在だ。
分家の王に姓があって、本家に姓がないなどあり得ない。

550 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 22:04:39
「余戸」の通説を疑う          (高橋氏)
 「余戸(あまるべ・あまりべ)」は、大化の改新後の律令制度で50戸を「里」とした際、それに満たなかった
小集落をいうとするのが通説だが、日本全国の「余戸」がすべてそれで説明できるのか、高橋氏は疑義
を呈する。舞鶴の余戸はむしろ「海人」とのつながりが深く、凡海(おふしあま)郷は海人たちの住み着い
たところであった。
沖合いの冠島、別名「老島(オシマ)」  (高橋聰子氏)
は「オフシアマ」の約まった形であり、そこに鎮座する老人島神社は海部の祖神を祭っているとされる。
現在でも、6月1日、漁師たちが船で競って冠島に参り、幟を奉納する「雄島まいり」の神事が行われ
るが、それら海との深いつながりを考えた上で、舞鶴の余戸はむしろ「海人戸」なのではないかと、
高橋氏はいう。
ttp://chimei.hp.infoseek.co.jp/tushin11.html

 「あ」の項で、尼崎(あまがさき)の地名にふれていなかったので、ここでふれておきたい。摂津の
国尼崎は、和名抄の余戸郷(あま、あまりべ)にある地名である。もとは「海士崎(あまがさき)」と
書いていたようで、文字どおり大阪湾に突き出た、「余り」あるいは「付け足し」のような場所で
あったことからつけられた地名である。もちろん、そういう場所が海士や海女の作業に適したこと
は言うまでもなく、「海士崎」の字が当てられたのである。その後、なぜ「尼」という字が当てられたか、
いきさつは不明である。
ttp://www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/chimei_09.html


どうも「あまる」の語源はもっと複雑に見ないといけないと感じている。
時期が怪しい。大化の改新の時期だからな。一番怪しい頃合だ。
その頃についた「余部」などは、本当に「あまるべ」かどうか分かったもんじゃない。
「よべ」が起源で、あとから「あまるべ」と読んだ可能性が高い。

尼崎だって、元は「(扶)余が崎(よが崎)」なんじゃないか?

551 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 22:14:41
発表1
 高橋聡子氏:舞鶴の「余部(あまるべ)」は「海人部(あまべ)」か

【高橋氏発表要旨】

 舞鶴市中地区の国道27号線沿いに大字余部上、余部下がある。

 余戸、余部、余目という地名は各地にあり、大化の改新後の戸令で村落を50戸で1里(郷)とし、残余の戸が
生じた場合に余戸と称したことによる、といわれている。

舞鶴の余部について、吉田金彦氏の「アマは海人の地だったことを示している」(『京都の地名を歩く』京都新聞
出版センター 2003年5月)という説はかなり的を射ていると思われた。やや内陸的な現在の余部地区を含む
『和名抄』(10世紀)の「余戸郷」は、東西に大きく湾入する舞鶴湾の中央に張り出した地域一帯を占めていた。
それはどうみても「余った戸」というものではない。
 舞鶴は縄文時代の丸木舟はじめ海との関わり深い土地柄である。古代に「あまるべ」と称していた地域を
「海人部」との関連で考えてみたい。
ttp://chimei.hp.infoseek.co.jp/tushin10.html

>>548
「あまるべ」だねそれ。
ttp://map.yahoo.co.jp/address/26/26206/index.html?kana=1

552 :白馬青牛:2006/05/05(金) 22:17:10
>>545
わしゃあ、延暦六年の俘奴(蝦夷の奴隷)買いことを言うとるんじゃ。
>>517
忘れとった。概ね北、中央ユーラシアには同姓不婚が広がったおるが、
ゾロアスター教は、近親婚を功徳として行う習慣があるとゾロアスター教の
古代日本への影響を指摘された伊藤義教氏は「中世ペルジャ語では
クウェードーダブといいますが、父が自分の娘である妻の追悼文を書いて
います。」
松本清張氏は、「日本へも渡来したイラン系吐火羅人は、地名からすると
トカレスタン地方で、トカラレスタン地方の王の娘は、父子通婚して
王妃になった。」とされる。
近親婚は我が日本や新羅、高麗期の朝鮮でも行われた。
新羅王室では同姓婚三十八例。うち六親等までの近親婚は十六例。
高麗王家では王妃二十二人が同姓。李朝時代の儒教の影響で、「不娶同姓」
が民間にまで普及したと言うことじゃろう。

553 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 22:19:47
また、元から「あまるべ」と読んだとしても、
「あまる」の語源が「海人」だと見れば、
そこから渡来人の居住地っぽいのを類推できる。

「余部」=「海人部」だし、
「余戸」=「海人戸」だ。

それを後から里に満たない小集落の呼称だと解釈しただけではあるまいか?

554 :日本@名無史さん:2006/05/05(金) 23:19:09
Wiki英語版だと、Egami Namioの説に基づいて日本史が語られています。

A millennium earlier, the Japanese archipelago had been inhabited by the hunter-gatherer Jomon people mostly or solely consisting of ancestors of Ainu
(presumably Malayo-Polynesian peoples). In centuries prior to the beginning of the Yamato period,
elements of Northeast Asian, Chinese, and Korean civilizations had been introduced to the Japanese archipelago in waves of migration, them becoming the dominant population
and driving the Malayo-Polynesian culture(s) to remoter parts of the archipelago. Rather certainly, they were the main ancestors of Yamato clans and culture.
This view was popularized in Japan by Egami Namio's theory of a powerful horse-riding race from the north who brought about the dramatic change from Jomon to Yayoi culture
(Yayoi period being the era that immediately preceded Kofun period). Archeological evidence indicates contacts between the mainland (China and southern Korea)
and Japan from a very early period, and its continuation also at least in the Kofun period. The rice-growing, politically fragmented Yayoi culture evolved to more centralized,
patriarchal, militaristic Kofun period and Yamato society.
[要約]
誇大の日本人はポリネシアン民族みたいだったけど、中国文明と韓国文明の影響のおかげで、文化を持つようになりました。


http://en.wikipedia.org/wiki/Yamato_period

Egami Namioの仮説は疑問点が多いですと指摘しているのですが、コリアンが英語の情報源を出さない限り認めない一点張りで困っています。
なにか良い情報源をご存知の人いませんか?





555 :平民バカ:2006/05/05(金) 23:51:50
オハイオ=おはよう説ですか?
何でアマベと表記する際に海部でも天部 でも甘部でもいいのにわざわざ余部『あまるべ』にする必要が…
考古学者、電波多すぎ。

556 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:05:13
江上のスカタン!
死ね、一億回死ね

557 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:05:55
>>555
元が「あまべ」なのか「よべ」なのかで違うだろうが、
どちらにせよ最初にあるのは音だよ。
そこに漢字が宛てられて、
その後に別の読みに転じたりする。
それが改新後の戸令の流れで、
「余」で表記するようになったとかだろ。

558 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:18:48
そもそも扶余語の鹿(プヨ)が始まりなんでしょう?
それを扶余の余に意味持たせて勘ぐるのはどうみても
強引な説。

559 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:32:46
>>558
扶余王族の姓が「扶余」ないし、「余」なんだよ。
たとえば武寧王の中国語名は「余隆」だ。


560 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:37:15
吉田清治の著書「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」(三一書房1983)の「慰安婦狩り」の問題が
世界に与えた影響と、江上波夫の「騎馬民族制服王朝説仮説」が世界に与えた影響は同じようなものだ。

おかしな人間は困ったものだ。  

561 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:46:16
いとこは、四親等ですよ。いかに朝鮮半島では近親婚が少なかったことを逆に立証している人が、このスレッドにおりますねえ。
エジプト等の農耕民族は、父と娘が近親婚していますが、騎馬民族は、羊などの動物の「専門家」ですから、
近親婚は避けているのですよね。人間も羊と同じく、近親婚をすると、奇形児などが産まれることを知っているのですよ。

562 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 01:04:58
>>546
はぁ?
揖保郡余部(あまるべ)村と飾磨郡余部(よべ)村は別なのでしょ?
ますます余部(よべ)村が扶余に思えてきますね。

563 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 01:28:58
>>551
>「あまるべ」だねそれ。

教えていただいた亀岡ではなく、
日本最大の被差別部落である京都市内の「崇仁」の古称が、
余部らしいのです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yanagin/tenji2-k1.html
「あまるべ」か「よべ」かご存知ないですか?


564 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 01:53:47
ん?崇仁ではないのか…?
わからない。

まぁとにかく、京都最大のえた村であった「余部村」が、
「あまるべ」か「よべ」かご存知ないですか?

565 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:03:12
>>560
賛成。おっしゃるとおり
ここの人たちは江上説が正しいけとを前提にしてるが、目を覚ましてほしい。
江上さんは戦後古事記や日本書記が歴史的事実でないといって天皇そのものの正統性万世一系を否定し、その転覆を正統化して騎馬民族征服王朝説を考案したんだぞ。
日本書記などの紀記に虚偽なことが示されていたとしても、それをもって歴史が間違いだったってことではない。
いくら戦前平泉史学の皇国史観が行き過ぎたにしろ、戦後の江上説や直木孝次郎の王朝交替説はいい加減にもほどがある。
万世一系で繋いできたから今日の女系問題が、ふじょうしてきたのに、それを否定するのなら、天皇制廃止派なのだろう。

566 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:09:26
>>563
「あまべ」のようだな。「天部」ないし「余部」と表記する。

どうも「あまべ」という言葉は、
単に大化の改新における律令制施行上の都合からたまたま生じたものだけでなく、
被差別部落と密接に絡んでるようだ。

八切止夫作品集
1054 古代史入門  6
ttp://rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1054
ttp://rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1057
 しかし、それなりの研究もしているから、「民族と歴史」の33Pからを、ついで
に引用する。
(雑戸と非人とに関係して、考えてみるべきものは、「あまべ」といふものがある。
京都の三条通からは南、加茂川からは東に当つて「あまべ」という一つの部落があり
ます。字では「天部」又は「余部」とも書きまして、もとは皮田とも越多とも言はれ
て居りました。これは昔の「余部」という名称を継いで居るからでありませう。「余
戸」といふ地名は、奈良朝時代の地誌や、平安朝頃の郷村名を書いたものによく出て
居りまして、全国各地あつたのであります。今も諸国に其の名が残って居ります。一
体どういふのかと申すに、先輩の間に種々の説がありまして、普通には余つた家即ち
一郷をなすには多過ぎるし、さりとて其の余つたのも独立の一郷とするにはたらぬか
ら、それで余戸というものにしたと云うのでありますが、恐らく農民以外の雑多の職
業に従事する雑戸であらうと思います。

567 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:11:01
 「雑色」の仕事は、八坂神社に属し洛中の死屍の始末、祇園祭りの
道路清掃、平常は沓、弓などの製造をしていた「犬神人(いぬじにん)
(つるめそとも言う)」と同じ様なものだと考えればいいだろう。
 しかし特定の『部』の職能民の集落『郷』にも入らない人に『余部
(あまべ)』という帰化人がおり、清掃、皮細工をしたとある。また、
もともと『部落』に属さない「山人(山窩)」、「浮浪人」「うかれ
びと」「浮かれ女(め)=遊女」「乞児(ほかい)びと」「遊芸人」
「河原者」「傀儡子(くぐつ)=人形遣い」など、定住しない者も多
かったようである。
ttp://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/10/index.html

568 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:19:08
大阪府堺市美原区にも、
余部、北余部、南余部etc・・・
「余部」の地名があるが、
これも「あまべ」と読むようで、
ここは同和系の街ではないようだ。


569 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:22:31
>>566
サンクス!

「あまべ」だ「よべ」だ、気にしなくてもいいんですね。
牛革なめし民・扶余=エタ説…もう決定ですね。

おやすみなさい。

570 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 03:00:51
京都の崇○って、部落の総本山みたいなとこだからな。
その古名が「余部(あまべ)」なのか・・・。

571 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 04:17:21
「余部」という地名は、大化の改新後の律令制度で50戸を「里」とした際、
それに満たなかった小集落を「余戸郷(あまりべのさと)」と呼んだことが起源と考えられており、
余戸、余部、余目、という地名は各地にある。
読み方には(あまべ)(あまるべ)(あまりべ)(よご)(ようご)(よど)(よべ)など多岐にわたっている。
ただ、その起源については、ことに被差別部落地域と交差する領域においてはタブーが存在したためか、
今までは深く考察されてなかったと見られる。
・たとえば明らかに50戸以上の集落なのに、「里」の単位から除外されたのは、
その民が地域からの排除対象だったためである可能性がある点などだ。
・次に、元の当て字が「海人」に由来するところの「海人部(あまべ)」の音韻であったものが、
後世に「余部」と当て字され、それが(あまべ)(あまりべ)などと読まれるようになった例などもあり得よう。
・さらには、元は「(扶)余部」(よべ)だったものが、いつの間にか訓混じり読みで(あまべ)(あまりべ)
になってしまったものも十分あり得るのではないかと推察される。

こうしたいくつもの起源を有する「余部」が「律令制度上の都合で生じた地名」との解釈から、
味噌も糞も一緒くたにされて、その由来が歴史の波間に消えて行った可能性がある。
当てられた漢字にせよ、その読みにせよ、歴史的に変化してきた可能性があり、
その解釈についての確実な解答はまだないと思われる。
よって、「余部」と言われる地名の中に「(扶)余部」が混じっていたとしても何ら不思議ではない。

京都・崇仁「天部」又は「余部」(あまべ)
姫路・余部(よべ)
愛媛県松山市・余戸(あまりべ)→(よご)(ようご)、(よど)→余土(よど)
舞鶴・余戸(あまるべ)「海人戸」?
滋賀・余呉(よご)
尼崎:「海士崎(あまがさき)」<余崎?>

*参考
京都・綾部(あやべ)
・渡来人の漢氏(あやし)一族が養蚕業の職業集団が定住したことでついた地名。
漢部(あやべ)<→漢部(かんべ)>→綾部(あやべ)

572 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 05:01:39
日本に連行された人々は5万人から6万人に達したといわれる。
ttp://www.mofat.go.kr/pdffiles/2_2_4ssc.pdf
文禄・慶長の役で日本に連れてこられた朝鮮人の数は、数万名とされているが、それらの帰国のために再開
された朝鮮通信使(これを特に回答兼刷還使という)に従い帰国した者は、3500名を記録するに過ぎない
のである。徳川幕府の態度は終始一貫して帰国の意思のある者の帰国は妨げないという態度であり、
朝鮮人が多く存在していた各藩もおおむね協力的で、帰国は本人の意思次第であったが、刷還使の報告書
には「面会者は多いが帰国を願い出るものは少ない」と記している。(
ttp://ryutusijou_kenkyukai.at.infoseek.co.jp/rekisi1.htm
多くの強制連行者のうち、姜[シ+亢]のように帰国できた人は4000人を越えていない。
陶工、医者、印刷工、石工、学者、農民、女性たちの居住地は唐人町と名づけられた。(中略)戦後37年、
唐津にに到着した朝鮮通信使一行は、「文禄・慶長の役」で捕虜になった同胞が多いのを目撃している。
『名護屋から一息(朝鮮の30里、12キロ)のある村に人家が数百戸あり、この村は高麗村といい、
彼らは沙器を焼いて生業としている』(「癸未東槎日記」)
(中略)
1636年の朝鮮通信使が帰国の途中、通訳官康遇聖は捕虜となった同胞の刷還(調査して連れ帰る)に
関する諭告(お触れ)をもって唐津に行ったが、帰国希望を申し出る者はなく、全員が腰を据えて製陶
に励んでいたという。
ttp://ryutusijou_kenkyukai.at.infoseek.co.jp/rekisi1.htm#karairi/index.html

573 :がいやまん:2006/05/06(土) 08:21:11
>>547
サンクス。また頼む。

574 :がいやまん:2006/05/06(土) 08:38:12
>>554
>This view was popularized in Japan by Egami Namio's theory of a powerful horse-riding >race from the north who brought about the dramatic change from Jomon to Yayoi >culture
北方からの強力な騎馬民族が縄文文化からカヨイ文化への劇的変化をもたらした
とする江上波夫の説により、日本ではこの見解が普及している。

江上さんはこんなことはいっていないと思う。このWikiは日本人に対するチャレンジだな。

575 :がいやまん:2006/05/06(土) 09:22:23
>>554
なんだか江上説の英語訳がほしいようだが、何に使用するのかを聞きたい。



576 :がいやまん:2006/05/06(土) 10:18:09
あの中国でさえ本当の中国人が政権を取ったということはほとんどなく、
ほとんどは北方民族が政権の座にあった。それよりも北方民族に近い
朝鮮半島で北方民族の支配が皆無で高句麗、三韓支配者を朝鮮民族
とし、(新羅ダッカイ王などはタナバ国などというが)、日本を朝鮮民族が
支配したなどとするのは、高句麗、中国の史実に全く反している。そんなことを
江上説の一部を使用して補強しようというのなら、それは全くの徒労だと思う。

577 :がいやまん:2006/05/06(土) 10:43:17
後漢書六夷韓伝では馬韓についてこう述べている。
「その人々の体は皆大柄で、美しい髪を持ち、衣服は清潔である。
刑律は峻厳である。その国は倭に近く、故に入れ墨をしている者が非常
に多い。
初め、朝鮮王準が衛満に破れると、その残りの部下数千人を率いて逃走
して海に入り、馬韓を攻めてこれを破り、自立して韓王となった。
準の子孫が滅んで絶えると、馬韓の人間がまた自立して辰王となった。
建武二十年(44)、韓人の廉斯の人蘇馬ィ(そばし)らが楽浪郡に
やって来て貢物を献じた。(※廉斯は邑の名である。)
光武帝は蘇馬ィを漢の廉斯邑君に封じ、楽浪郡に属させ、四季に朝謁
させた。」
体は皆大柄で、美しい髪を持ちというのは月支人で、斎明のころ百済から
亡命してきた白人のようなものだったのだろう。そこに朝鮮が逃げ込んだが
馬韓の人間、つまり、月支系がまた辰王となるとある。つまり、朝鮮とは
漢の言うように四郡にされた楽浪、帯方方面に中心があり、後に高句麗
の下に置かれ、三韓は月支であったがかなりのものは倭国に亡命したと
いうのが本当ではないか。


578 :がいやまん:2006/05/06(土) 12:17:46
天皇が桓武の后が韓国人だといってみたり、天皇家が中国系だなどとする話もあるが、
最近の遺伝子人類系統によれば日本人は約2万年前にアルタイ方面においてチベット
系から分離したものと、中国南部から来たものが共存するようだ。つまり、天皇家が
どこかから来るような風土ではないということだ。もちろん人間の上下関係とか、国と
行った広域のシステムがはっきりしない限り、天皇どころの話ではないが。
しかし、有史時代に入って世界において一貫として民族の独立を保ってきた国は
ほとんどない。逆に独立性を失った回数においては中国、朝鮮は世界的にも珍しい
のではなかろうか。

579 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 14:09:28
>>574
>騎馬民族が縄文文化からカヨイ文化への劇的変化をもたらした

この時点で既に間違えてるだろ。
縄文から弥生の変化に騎馬文化は関係ない。

580 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 16:05:33
イングリッシュティーチャーのおいらが来ましたよ
訳して注文してやっからEHの影が薄くなるような説ドシドシキモンヌ


581 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 17:58:47
七支刀の記述もすごいですな。

日本が百済の家臣だった証拠になってる。

[http://en.wikipedia.org/wiki/Chiljido]

Kim Sok-hyong, a Korean historian, notes that the sword uses the term "koo", translated as "enfeoffed lord",
to refer to the Wa king which meant that the Wa king was subservient to the Baekje ruler. [11].
Ueda Masaaki, a Japanese historian, also notes that the use of the character "koo" and the commanding tone
of the inscription suggests that the sword is being given to a vassal lord.

However, most Japanese historians believed that the sword verified the invasion of Korea during the reign of Jingu
(if one adds the requisite 120 years to dates in the Nihon Shoki).
They also interpret the inscription of the sword to be a "respectful presentation" to the emperor which indicates the vassalage of the Baekje king.

582 :白馬青牛:2006/05/06(土) 22:44:08
>>561
四親等以内と前提条件を付けるんか。まあええわい。坂元義種氏の朝鮮に
おける婚姻習俗によると高麗王家の近親婚で同姓である父の兄弟の娘が
12例ある。『旧唐書』『新唐書』の新羅伝は読んだんか?新羅の
近親同姓婚の記述があるのに、可笑しなことを言う。
内陸アジアの遊牧狩猟民に氏族外婚制が一般的であるが、アムール流域に
なるとツングース系ユカギールや古アジア系、アイヌ人等氏族外婚制を
持たない民族も多くなる。遊牧民に同族婚が多くないが、特定の婚姻氏族
との結合が多く、繰り返し婚姻を重ねると近親婚と変わりないんじゃ
ないか。レヴィ=ストロース氏は、近親姦禁忌や外婚制を氏族間の
配偶者の交換、共同体間の統合を期すものと解釈されており、
西アジアの乾燥地帯で生まれたゾロアスター教の近親同族婚も含め、
「動物の専門家」、遊牧の生態から外婚制を採るというのも説得力に
欠ける。それと以前にも書いたが、兄が死ぬと弟が兄嫁を妻とする、
レヴィレート婚は、古代イスラエルから内陸アジアの遊牧民や満洲の扶余
も、その習俗があったが、我が国では「嫂直し」とか称され民間で広く
行われた。これは当事者の死亡によって、その縁組が解消されたとは、
みなされず故人の共同体成員で補充されるという観方であろう。

583 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 23:20:48
>>567
>特定の『部』の職能民の集落『郷』にも入らない人に
>『余部 (あまべ)』という帰化人がおり、清掃、皮細工をしたとある

扶余でしょうね。
これは何も根拠はありませんが、
「よ」が「よつ」「よっつ」という呼称になったかもしれませんね。

584 :がいやまん:2006/05/07(日) 08:44:04
>>581
旨の字は亀旨峰がクジボンというと言うように覚えているんだが、コオとはちょっと
無理だろうな。これでもって倭王が百済の家来なんてのを国際的に伝播すると
各国の日本学者の嘲笑を買うことだろう。問題なのは善意の第三者がこれを日本
の一般的意見とみなすことだ。話は変わるが、世界の常識から
しても考えられないのは倭王が百済の家臣であるという考えだが、ここに九州王朝
説的に結びつけて考えてみると、仲哀が敵としていた南部九州には百済の傀儡というか
倭国とは独立した琉球王朝のような存在があったという空想もできる。もう、こうなると
空想の世界なんだけど、タギシミミという殺された神武の嫡男のタギシ、タケシワケ、
タケシウチの命になんか関係はないのかという疑問が浮かぶ。

585 :がいやまん:2006/05/07(日) 08:53:41
連投恐縮。タギシミミを殺された熊襲は一変して狗奴国、馬韓と同盟、邪馬台国
制圧に乗り出す。仲哀はこれこそ天下の一大事とばかり熊襲征伐に乗り出すが、
神功が国際謀略にはまり、というか、家系的に狗奴国とつながっていたのか、三韓
出兵の名の下に仲哀軍の標的を高句麗に変えてしまう。これってどう。

586 :がいやまん:2006/05/07(日) 09:15:41
息長の本貫、近江と肥前に密約があったことをうかがわせるのは↓
「527年又は528年に磐井は兵を挙げ、肥前国・肥後国・豊前国・豊後国を制圧する
とともに、倭国政府と半島諸国(高句麗・百済・新羅・任那)間の交通路となる海路を
封鎖した。これにより近江毛野の軍は半島への渡海を阻まれた。このとき磐井は
近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」
と言っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1



587 :YAP?:2006/05/07(日) 13:21:17
「扶余被差別民起源説」は、行き過ぎだと感じていたが、
音韻論や語彙の問題を考えると全く無理とも言い切れないような
気がしてきた。
扶余が濊(ワイ/カイ)系部族の1つとも、或は濊が、扶余系部族の
1つとも中国の史書は記録しているが、「穢」と「濊」も大体同音で
おそらく同義だろう。

とすれば、「穢多」は「濊多」とも表記され得ることとなる。

ただ、漢字には同音・同義の語が多く、この手の論法を進めると、
「倭」も「汚」と同義同音ということになりかねない・・・。

588 :YAP?:2006/05/07(日) 13:33:37
新羅金氏が、同姓婚を繰り返していたのは有名であり、
王の生母や正室を宗主国である中国に届ける時に、王家の
「金氏」を使うわけには行かないので、「貞氏」とか適当に
でっち上げて報告したのは、有名だ。

こういった新羅の近親婚振りをみると、同姓不婚を守った
鮮卑や匈奴が、新羅の支配階級を為したというのも嘘っぽい
説だと思う。

北魏では、漢化政策の一法として、漢人風の「姓」を鮮卑の
族人に与えたが、このとき、本来鮮卑の同氏族が別姓を与え
られることが多かったが、これらの諸氏間では「百世通婚せず」
とされたことは有名だ。

589 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:40:30
磐井は筑紫君という称号から見て、筑紫の実質的な支配者であったと
思われる。ヤマト王権との関係は、いわば江戸時代の幕府と大名のような
関係である。朝鮮半島を間近に控えて、筑紫は交易の窓口として大きな利益
を上げていたと推測できる。

さて、様々な史料から、当時、磐井のような地方の支配者は(おそらく)
若年時にヤマト政権に出仕していたことがおぼろげながら判っている。
磐井が近江毛野に向けた「同じ釜の飯を食った仲」という言葉もそのこと
を示唆している。

北九州地方最大の古墳である岩戸山古墳(福岡県八女市)は、磐井の墓で
あるとされている。反逆者の墓にはとても似合わない立派な墓であり、
磐井を巡る謎の一つとされている。筑後国風土記逸文によれば、
磐井は生前から自らの墓を築造していたとのことである。


だそうです

590 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:48:39
磐井というのはもしや肥前筑後の土蜘蛛征伐をした
大屋田彦から分かれた
日下部氏(孝霊天皇の子孫)じゃないかな?
漏れは高天原は近江だと思ってるので「同じ釜の飯」も
説得力を感じる。

591 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 14:03:07
おぼろげだが、磐井が近江近辺でヤマト政権に使えて
いたということが色々な資料から推測できる。
ということはこの少し前5世紀には中央から地方へ司令官を派遣する
幕府大名の関係(高天原政策w)は確立していたと思う。

磐井が大和と一蓮托生だった豊前に逃亡した意味もわかるし、
九州西部の前方後円墳が後期のものしかないのもわかる。

592 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 14:14:56
同姓婚の怖さをわかってくれる人がいたか・・・
日本も源氏とか藤原とかの同姓婚がえらい多いんだがな
特に皇族

593 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:30:31
>>587
音韻よりも、
牛皮なめしの技術が、当然ながら渡来系といわれてるし、
その通りだと思う。
それと何よりも部民名。


594 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:32:07
366 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2006/05/06(土) 21:08:42 ID:8GQfWpYN
>>349
人類学的なパースペクティブを簡単に説明。

縄文人はバイカル湖周辺に発生した旧モンゴロイドで、シベリアを経て日本列島に渡来。
弥生人は長江の下流域から渡来。民族的には呉、越で江南系。しかし江北との地理的なせめぎ合いの中で北方系
民族との混血がある程度進んでいたものと見られる。
即ち弥生人は旧モンゴロイド(江南)と新モンゴロイド(江北)の混血。

朝鮮半島にもともと定住していたのは日本列島から渡った縄文人。
そこへ弥生人が、長江の下流域から北九州一円(半島南部含む)へ渡来。
このことから、古代の北九州一円(半島南部含む)における定住者の間に、大きな人種的差異はなかったものと考えられる。

現在ある日本人と朝鮮人との間の人種的な差異は、その後の半島におけるツングース系民族(純・新モンゴロイ
ド)の侵入、移入による混血が原因。

東亜+でこんなん見つけた

595 :白馬青牛:2006/05/08(月) 02:02:54
>>592
同姓婚の怖さとは何かのう?羌系のイ族を含め、四川、雲南に多い
チベット系の「交差いとこ婚」の場合は、自分の父の姉妹の娘たちは
良いが、自分の兄弟の娘との通婚は禁じられる。外婚制を前提としても、
血が濃くはなるであろう。このような交換婚の問題もふくめ、外婚制、
近婚制を考慮したい。

596 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 18:58:54
>>594

なんかさ〜 俺は日本人が嫌いな在日だけど 2ちゃんって下品でつまんなくね??
ウソばっか書いてるし(特に韓国・朝鮮民族に対する民族差別)
日本人と朝鮮人は違う民族とかウソ言っているけど、日韓同祖論とか言うじゃん
結局、日本人と韓国人は同じ民族だっつーの

金もっているのが権力を制す
あたりまえだろ

韓国系の高額納税者調べてみろよ マスコミや電通の資金源を調べてみろよ
金を持ってない日本人ニートがいくら騒いだって無視するに決まってるだろ
女も金と権力持ってるほうになびくよ

日本人処女だけで10人以上とやったことある在日の俺から見ると
貧乏日本人は素人童貞・バカ・カスの集まり(藁)

在日が日本を裏で支配する日は近いな(藁


597 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 19:30:37
>>596
差別されてるんじゃなくて
嫌われてるだ、アホ
そうか、日本の裏社会はお前等が仕切ってるのはよくわかった

598 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 20:12:27
>>596
チョンって江南に反応するんだなぁ、細目の原因はツングースだからガチでファビョリーナだからかね?w
そういや家に来ていた糞のくみ取り屋さんは朝鮮人だったぞw


599 :ちんこまん:2006/05/08(月) 20:56:39
この説はもう。。。死んでいる

600 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 20:59:08
朝鮮人は形質的に日本人と最もよく似た民族である。同じく黄色人種(モンゴロイド)に属し、皮膚は黄色、毛および
瞳(ひとみ)は暗色で、特有な偏平な顔と、ひいでた頬(ほお)骨と、あまり高くない鼻の持主で、蒙古皺襞(しゅうへき)
のために、つり上がったような目を有するものが多い。身長は大部分が世界諸民族のうちでの中の下を示し、
小部分が中に入る。そこで大部分が中の下、小部分が小の身長の日本人よりも、大きいことになる。頭部は大部分
が短頭、小部分が超短頭に属する。日本人は大部分が短頭、小部分が中頭であるから、朝鮮人のほうが短頭の
程度が強いということになる。頭高は、世界中で最も高頭の部に入る。頭が前後に短くて高いために、後頭部の円味
をかき、横から見れば偏平なのが多く、また他の周辺民族よりも頭の左右にゆがみのあるものの出現率が高い。

601 :600:2006/05/08(月) 21:00:17
頭髪はモンゴロイド共通の性質として、かたく真直である。朝鮮人の頭髪以外の体の発毛状態ことにあごひげと
口ひげや陰毛は、日本人と比較すれば一般にうすく、アポクリン腺の発達が不良なので、腋臭(わきが)は日本人
よりも少ないとされる。南北に長い朝鮮半島は、南と北、北はさらに山脈でへだてられて東の日本海側と、西の
黄海側とに分けることができるが、この地理的区分にしたがって、住民の形質にも若干の差異が見られる。大ざっぱ
にいって、朝鮮人の身長は北部で高く南部で低い。頭形は南北両端で著しい短頭を示し、中部から北西黄海沿岸
にかけては、比較的に中頭のほうに近づいている。中国人とは関係が密ではないが、朝鮮地方型の中では
平安南道、 黄海南・北道の頭形が最も華北型に近い。済州島は最南にありながら、北方の咸鏡北道、咸鏡南道
とともに満州人 に近い。同島が長期間、元の占領下にあった歴史的事実を考えれば興味が深い。以上で明らか
なように、朝鮮人は日本人、満州人の両方に最も関係が密であって、両民族をつなぐ橋の役目をしている。
しかし朝鮮人は漢民族の 華北型とは案外に密接せず、後者とは、日本人のほうがむしろ縁が深い。
ABO式血液型の調査結果によれば、O型27.9%、A型32.3%、B型29.5%、AB型10.3%を示し、日本人とくらべてA型
が少なく、B型が多い。民族指数(A+AB)/(B+AB)は、蒙古、満州、北朝鮮、中部朝鮮、南朝鮮、九州と地理的に
南下するにしたがい、それぞれ0.75、0.91、0.99、1.05、1.25、1.62としだいに大きくなる。朝鮮人のMN式、Q式、および
E式血液型はほとんど日本人に大差がない。生体測定で、特別の地位を示す済州島資料はABO式血液型において
も、また北朝鮮型を呈する。指紋調査の結果では、各型の出現頻度(ひんど)が、日本人と蒙古・満州人との中間を
朝鮮人は示し、その北方は蒙古・満州人に、南方は日本人に近似する傾向を示している。(世界大百科事典/平凡社)

602 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 04:06:30
>>596

>日本人処女だけで10人以上とやったことある在日の俺から見ると

10人以上の処女とやったのか?
だから、在日朝鮮人はキモいんだよ!!
処女10人とやるなんて、逆にヒクね。
なんで処女に限定すんの?

普通の会話に「10人以上の処女とやった」なんて出てきたら、普通にキモイ。
“こいつキモー”と思うな。
在日朝鮮人のキミに繰り返すけど、なんで処女に限定すんの?
俺も10人以上とやっているが、処女は2人だ。

在日は10人以上の処女とやってんのか?
だから、在日はキモイんだよ。
改めて、在日はキモイと思った瞬間だったよ。



603 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 04:10:50
>>596

大学で、朝鮮人の留学生が“昔、高麗が中国軍に戦争で勝った時に、殺した中国の将軍の肝(キモ)を食べた。”
と誇らしげに言っていて、
周りの日本人はドン引きしてたことを思い出したよ。

その後、その朝鮮人留学生は続けた。
“どうして。血は神聖なものだろ?だから、殺した人間の肝臓を食べるのは当たり前じゃないか!”

朝鮮人の感覚としては“血は神聖なもの”らしいね。
日本人の感覚は“血は穢れているもの”なんだよ。
改めて、日本人と朝鮮人は違う民族だと直感したね。
理屈ではなく、感覚で違う民族だと感じたよ。
日本人は農耕民族。
朝鮮人は遊牧民族。
だから、考え方が違って当然だな。

朝鮮人の感覚としては“血は神聖なもの”らしいね。
だから、処女を好むのか?
処女10人とやったとか気持ち悪いんだよ!!

異民族朝鮮人は日本から出て行け!!


604 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 18:49:22
春ですな

605 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 19:25:05
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3
>男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした

アメノヒボコの話は、日本における地域性といい、
扶余と微妙に関連してる気がするなぁ。
アメノヒボコが扶余だというわけではないが…


606 :がいやまん:2006/05/09(火) 19:47:20
微妙に関係とは絶妙な表現だな。単純な構成ではなかっただろうことは察せられる。
その誤認逮捕では、秦の法匪のような官僚主義者、牛の蓄殺へのヒンズーの
ようなタブー、オルドス、遼寧の青銅器技術をもったもの、製鉄技術を持ったもの等が
いたものと考えられるが、数世紀にわたる流浪の旅路の果てで権力者にはへりくだった
のであろう。琵琶湖東北、東南では古い世代の夫余系に遭遇し、片言が通じたのかもし
れない。東国に走ったものも相当出たであろう。朝廷に忠実なものは出石に落ち着いた
と思われる。京都の太秦周辺で隠然と勢力を伸ばすのもいたであろう。

607 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:31:40
アメノヒボコと秦氏を関連付ける人もいたような記憶がある。
日本における扶余の統治を、
同じ渡来系の秦氏に任せたのかもしれないな。

608 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:53:00
>>603

騎馬民族である朝鮮人の感覚としては“血は神聖なもの”ってのは当然だろう。

我々の農耕民族である日本人の感覚は“血は穢れているもの”ってのは普通だ。


日本人は農耕民族。
朝鮮人は遊牧民族。



609 :白馬青牛:2006/05/10(水) 00:13:02
>>596
金と権力に溺れるんが、何の誇りになるんか?守銭奴が。
奴隷根性にはあきれるわい。
>>603608
敵兵の肝を喰うのは、薩摩人の「ひえもんとり」等、日本でもあった。
他スレにも書いたが、人肉食の例は、我が国でも多い。
じゃが何で引くんかのう。わりゃ臆病者か。
ほいで、ワレはスッポンの生き血を飲まんのか?鶏や鯉に至るまで、
血は利用出来る。我々が殺生した生き物を、無駄なく喰うんが、
供養になるんじゃ。それをワレは、命を失った人間や生き物に対し、
何じゃ、穢れじゃぬかしあがる。それでも日本人かいの。恥を知れいや。
最近のガキゃは、生き物を金さえ出しゃ、自分の胃袋を満足させる物
ぐらいに、思うとりあがる。
まあ、日本人は、農耕民というより海産物が豊富なので、海洋民では
無いとして、海辺魚食民と言う表現が合うと思う。朝鮮人は、搾乳文化に
乏しく、遊牧民要素も薄い。

610 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 00:38:10
おーいおっさん!
とっくに
自演ド
なんだけど?
今頃何逝ってんだかぁ?

611 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:34:46
>>609

私は鹿児島生まれ、鹿児島育ちのものですが、
白馬青牛さんが、「ひえもんとり」について誤解しているようなので、正しいひえもんとりについて説明します。

現在、広く誤認されている「ひえもんとり」は里見弓享が実父の有島武が実際に見た話として小説に書いたものが広まっているとされています。
薩摩の「ひえもんとり」という習俗を指しているように思われますが、
これは死刑囚の身体から生肝その他を争って素手で取り出し合うというもので、食するというわけではありません。

また、取り出した肝は薬として利用していました。
従って、決して食べていたのではありません。

白馬青牛さんの書き方では、「ひえもんとり」後、肝を食べていたように誤認してしまいます。
鹿児島人として大変憤りを感じます。
間違った俗説をまるで真実のように書くのはやめて下さい。


612 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:43:35
>>609

白馬青牛は精神的に病んでいるのか?
それとも変人か???

確かに、飢饉になれば人間が人間を食うという行為が、世界各地であるのは周知の事実。
最近、報告された例としては、旧ソ連崩壊直前に売られている映像がある。
ただし、これらはかなり特殊な状況下で起こるものであって(戦場や飢饉など)、日常的ではない。

倫理的なハードルがとっても低く、日常的に人間を食す文化があるのは中国だけという説がわりと有力ですね。

もっとも、中国というのは常に過大な人口を抱えており、常に飢餓状態であったから、そういう文化が形成されたんじゃないかと個人的に思ったりもする。

それよりも、世界中で日常的に人間を食べていたと思っている「白馬青牛」は精神病院に行った方がいいよ。
即、入院決定だと思うよ。


613 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:51:40
>>609

朝鮮人が殺した中国の将軍の肝(キモ)を食べて、 “血は神聖なもの”って感じることと、

日本人がスッポンの生き血を飲むのは、全然違うことだと思う。

俺は生粋の日本人だが、血は汚いものだと感じるな。

空手三段で普通の人よりも血が出る環境にいたと思うし、臆病者と呼ばれたことはないが、血は汚いものだと感じるな。



614 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:56:16
>>612

中国では親孝行のために自分の体の肉を切り取って親に食わせるのが、最高の徳行として時の朝廷に顕彰されています。
清を来訪した外国人や文化人の記録を読みますと、死罪になった人間の流れる血に、群衆が群がって饅頭を血に浸して食べたりする光景が、普通に見られたとか。
食人に対する禁忌が、全くないわけではないけれども、日本や欧米とはかなり異質だという気がしますね。


615 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:56:23
馬鹿がいますねえ。自明なることを知らないのか・・・・・
朝鮮韓国は、自他共に認める、騎馬民族の文化を持つ国・民族ですよ。


616 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:12:14
>>609

>殺した生き物を、無駄なく喰うんが、供養になるんじゃ。
>それをワレは、命を失った人間や生き物に対し、何じゃ、穢れじゃぬかしあがる。

白馬青牛は在日朝鮮人で、世界中で食人文化があったと信じているらしい。
そして、血は汚いと言った日本人を「恥を知れい!!」とののしり、
スッポンの生き血を飲んで再利用することが、スッポンの供養になると力説している。



617 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:14:36
>>609

>殺した生き物を、無駄なく喰うんが、供養になるんじゃ。
>それをワレは、命を失った人間や生き物に対し、何じゃ、穢れじゃぬかしあがる。 恥を知れいや。

在日朝鮮人の白馬青牛に聞くが、
朝鮮人が殺した中国の将軍の肝(キモ)を食べて、 “血は神聖なもの”って感じることは、供養になるのか?

618 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:16:19
清は、騎馬民族の文化だろう。


619 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:17:33
白馬青牛に質問するヤツがバカ。

620 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:48:50
>>609

>朝鮮人は、搾乳文化に乏しく、遊牧民要素も薄い

白馬青牛に質問するが、
朝鮮・韓国は、騎馬民族ではない。
朝鮮・韓国は騎馬民族の文化を持つ民族ではない。
と白馬青牛は言うが、その根拠は何だ?


621 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 13:01:38
血は神聖なものと感じるのが異常だろう。
血は汚いもんだ!!

殺した他人の肝臓を食べなんて狂気の沙汰だ。

それを肯定している白馬青牛も異常・気持ち悪い。

622 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 13:02:34
>>594

なんかさ〜 俺は日本人が嫌いな在日だけど 2ちゃんって下品でつまんなくね??
ウソばっか書いてるし(特に韓国・朝鮮民族に対する民族差別)
日本人と朝鮮人は違う民族とかウソ言っているけど、日韓同祖論とか言うじゃん
結局、日本人と韓国人は同じ民族だっつーの

金もっているのが権力を制す
あたりまえだろ

韓国系の高額納税者調べてみろよ マスコミや電通の資金源を調べてみろよ
金を持ってない日本人ニートがいくら騒いだって無視するに決まってるだろ
女も金と権力持ってるほうになびくよ

日本人処女だけで10人以上とやったことある在日の俺から見ると
貧乏日本人は素人童貞・バカ・カスの集まり(藁)

在日が日本を裏で支配する日は近いな(藁

623 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 13:23:20
ザイ玉砕か?ウヨ自演か?どちらにしても糞スレオワタナw

624 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 15:52:08
日本と漢民族は、沿海性農耕民族。
韓国・朝鮮は、騎馬民族。

625 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 16:51:39
>>624 モンゴルが騎馬民族です。

適当ですな

626 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:03:05
>>625
万里の長城の外は、騎馬民族だ。
お前は、馬鹿だなあ。

627 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:00:24

朝鮮人が殺した中国の将軍の肝(キモ)を食べて、 “血は神聖なもの”って感じたことは事実だ。

梅原猛も同じことを言っていた。

628 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:07:23
>>622 同じ民族にしては容貌、言語風俗が違いすぎないか?


629 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:27:58
        ,,.---v―---、_
     ,.イ" | / / / /〜`'''ー-、      日本人はな、お互い様やねん。
    //〜`ヾ、;;;;ソ'''''''''ヾ、   ,.ヽ ヽ
   /:,:'       ,....  ゞ 彡 彡、ノ )相手に一回譲ってもうたら、今度は自分が譲るねん。
   !/  〜`ー'",..- ...   〉     ! ( そうやって、うまいこと回っていくねんけど、
    i   ̄〜`        !  彡  |ノ      『あの人ら』は違う。
   ,i ,.- 、 ゝ " '" 〜 〜`  ヾ ,,--、 |  一回譲ったら、つけこんできて、
  /         _    ヾ"r∂|;!  こっちはずっと譲らなあかん羽目になる。
  ヾ` '⌒` ;::   "〜 〜` 彡  r ノ/   それでも『あの人ら』は平気なんや。
   i    ノ           _,,.:'カドたてんとことおもて譲り合うのは日本人同士だけにしとき。
   ヽ ノ"( 、_,..:ー'"ヽ、 : : :   ,i /     そうせんと、『あの人ら』につけこまれて、
   ヽ、 ,. :: ::  ヽ      ノ:|ラ:)`ヽ、   『ひさしを貸して母屋を盗られて』日本が
     ヽ、`''''"""''''" '  ,,..-'" //   \-、     のうなってしまうからな。

     「嫌われることばかりをしてる人を嫌うのは、差別やない。
   差別、差別と印籠のように突き出してくる人間こそ 卑怯者の差別者なんよ。」


630 :白馬青牛:2006/05/10(水) 22:38:45
>>611
鹿児島人作家の海音寺潮五郎氏の、西南戦争遺聞、「ひえもんとり」にも
出ておりますが、取り得たキモは、干してかため、病人が出た時、削って
服用した。また西南戦争時、官軍の密偵が処刑され死に際が見事だった為、
それを聞いた薩摩の西郷軍の城下士族が、「あやかりとうごわす」と
処刑場で、密偵の死骸の胴体をかき探し「誰か来て取って行ったな」と
云う話ですが、薬用であれ食人に違いありません。
それと『守城の人、明治人柴五郎大将の生涯』に西南戦争時、
「従軍の軍夫達が人肉を嗜食していた。これは食糧というより胆試しで、
九州人の間には古くからずっとその習慣があった。」とありこの場合は、
保存して薬とするよりも、直接食うたのでしょう。
わしは他スレの「天皇家って何処から来たの?3」の362にも、
食人を野蛮と決め付けてはいけんと云うとるはずです。それをわしに対し
憤慨する云うんは、あなた自身に薩摩を中国・台湾・琉球等と同列に
扱うなと云う、これらの地域に対する侮蔑感があるのでは。食人は、
中国の越文化圏や東南アジア、オセアニアに分布してますが、薩摩の
習俗も日本だけでなく、これらの地域と比較検討して、わしに対し意見を
言うて貰いたかったのです。

631 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:43:25
白馬青牛自身に広島を東北・関東・九州等と同列に
扱うなと云う、これらの地域に対する侮蔑感があるのでは。

632 :白馬青牛:2006/05/10(水) 23:13:18
>>611
それに、食人習慣は、飢饉、胆試し、儀礼的行為と様々な要因があります。
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20060331
にも、様々な例が出ておりますが、最後の自文化絶対主義という
原理主義カルト教になっては、ならんと思います。
>>612
日常的に、食人文化があるのは、中国だけと云う根拠を他地域の食人習慣と
比較して具体的に書けや。現在の政治思想から、現代の反日国家は昔から
野蛮とするんは、儒教朱子学の影響を受けた中華思想かのう。
あんたあ、嫌中・嫌韓サイトの情報が真実と信仰する妄想カルト教信者か?
それらを信仰する精神異常者に精神病院行きを薦められてものう。

633 :白馬青牛:2006/05/10(水) 23:58:55
>>613614616617
戯言を云うとるのう。嫌韓カルト教に入信せんと在日か。狂信者は
可笑しなことを云うのう。
>>620
何回も同じ事を云わせるのう。遊牧・牧畜と騎馬習俗は一致せん。
満洲族は、搾乳文化はないが、モンゴルの騎馬文化の影響を受ける。
ツングース系地域で文化変容した部分があり、朝鮮や日本では、更に
文化変容があろう。遊牧民の直接的文化流入に乏しいということじゃ。
>>631
地域文化に違いがあるのは云うまでもない。広島の真宗的思惟方法と
九州の儒教的、東シナ海文化圏とは違う。わしは文化領域の違いを
云うたまでで、それを一括して侮蔑感とされてものう。
確かに社会組織で東国が後進・封建的隷属農奴縦社会で、
西日本の民主的横社会とは違う。九州も封建的社会の要素もあるが、
古層に西日本的横社会があり、交易の歴史から現実的判断を重視し、
東国の文化領域に加えることも出来ん。それらの違いや文化領域を、
あんたの推測で、侮蔑感と判断されてものう。

634 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:06:02
食人とか気持ち悪い話をするな!!

お前は普通の感覚がないのか?

それとも、感覚が麻痺してるのか?

気持ち悪いやつ。

635 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 05:03:52
騎馬民族かどうかということは騎馬民族の定義次第だ。江上はノルマン人等を騎馬
民族に入れているのだから。

それは別として、江上が騎馬民族の特徴として挙げていたことに、宗教的・祭祀的
に対して実利的・実際的であることがある。
これに即して言えば、朝鮮が儒教文化に沈潜していた江戸時代に日本がすでに資本
主義的商業社会を築いていたこと、ものつくりを尊ぶ文化があること、などは
これに該当しよう。
日本には農耕民族的なところと江上の言う騎馬民族的なところが混在していると
思う。

636 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 05:12:10
神功記はじつに面白い。この筋書きをそのまま信じるかどうかで別れるね。

岩波版日本書紀の註によれば、神功皇后は応神の母ではなくて、后である
可能性が強いという。
そうであれば、応神は直系ではなく入り婿であり、しかもその出自が全く
わからないことになるのだ。

637 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 06:50:06
>>636
面白そうじゃん。
どういう理由で后である可能性が強いのだ?

638 :がいやまん:2006/05/11(木) 07:37:38
「日本書紀・古事記の記述では神功皇后が朝鮮半島出兵(三韓征伐)の帰路に
応神天皇を出産した地とされ、これにちなんで「産み」に通じる「宇美」という地名
がつけられたといわれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%BE%8E%E7%94%BA
応神天皇は福岡県人ということと違うの?

639 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:48:48
>>638

WIKIなんかをソースに挙げられても、誰でも編纂できる百科事典なんて信用できない。

俺が今からその記述を改ざんしてやろうか?

640 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:55:20
>>639
WIKIがソースではなく「日本書紀・古事記の記述では」とがいやまんさんは言ってる。

641 :がいやまん:2006/05/11(木) 13:09:53
そうです。そうです。
改ざんといえば神功皇后の話のほうにオーバーなのが多い。その陰で応神の
出生についてはフォーカスが抜けていのですが、宇美は由緒ある場所がらで、
倭人伝でも異常な扱いをしている。神武が向かったという岡の水門にも近い。
高貴なお家柄の可能性は強いのでは。

642 :がいやまん:2006/05/11(木) 13:18:28
連投ごめん。韓国人が七支刀の件で百済が倭王にヘコヘこするのが頭にきているのは
よくわかる。だからといってそれをうそと決め付けるのは不自然。百済王が朝鮮王なら
それはありえない屈辱的なことであるのはわかるが、百済は実際先発が五月雨式に
日本に流れ込んでいる、北方ナラ林文化の一部であり、朝鮮王ではないからこそ倭国を
東方の神の国とする認識を持っていると考えるのがいいのと違うかな。どうでしょう。

643 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:29:09
>>640

俺は639ではないが、日本書紀は信用できないが、特に応神天皇の記述に関しては、信用はできない。
「産気付いたから、腹に石を巻いて出産を遅らせた。」という記述もあるが、石を腹に巻いても出産は遅れない。
『日本書紀』によれば、仲哀天皇が2月5日に亡くなってからぴったり十月十日後の12月14日に応神天皇が生まれたとされている。
人間が胎内にいる期間は十月十日であるとう俗説があるが、正確な人間の妊娠期間は、統計的には280日±17日である。
正確には陰暦で計算しても十月十日にはならない。
従って、応神天皇がどこで産まれたかも謎だろう。
そして、わざわざ宇瀰で生まれたと強調するのも怪しい。
日本書紀に他の天皇、例えば、成務天皇がどこで生まれたか記述していない。
応神天皇だけが特別に記述されている。
もしかしたら、朝鮮半島で生まれたのに、日本書紀ではウソの記述をしているかもしれない。
わざわざ「宇瀰で産まれた」と書いてあるということは、宇瀰で生まれていない可能性も高い。


644 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:42:10
また、日本書紀では「応神天皇の父親は仲哀天皇」と書いてあるが、これはウソだろう。
『日本書紀』によれば、仲哀天皇が2月5日に亡くなってからぴったり十月十日後の12月14日に応神天皇が生まれたとされている。
では、仲哀天皇は死んだ(殺された)その日に、神功皇后と種付けをしたのか?
仮に、仲哀天皇は死んだ(殺された)2月5日に、神功皇后とSEXをしたと仮定しても、
普通の人間なら11月15日前後になる。
それをわざわざ死んでからぴったり十月十日後の12月14日に応神天皇が生まれたとされているのは怪しい。
俺は神功皇后は仲哀天皇は死んだ(殺された)後に、誰か(武内宿禰)とSEXして妊娠した可能性が高いと思っている。

真実は謎だが、日本書紀の記述を鵜呑みにするのは危険だということを言いたかったのだ。
中国や韓国が歴史の捏造を平気でやっているように、当時の日本(特に藤原氏)が歴史の捏造をやっていたと思う。

余談だが、中国ではYAHOO!で「天安門事件」「文化大革命」という単語では検索できないようになっている。
すなわち中国の歴史では天安門事件・文化大革命は存在しなかったことになっている。

645 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:57:48
>>644

それを言うなら、仲哀天皇も実在性の低い天皇だよ。

まず仲哀天皇の父親が実在性のほとんどない日本武尊だからね。
存在していない人間からどうやって生まれるの?

そんで『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。
『日本書紀』にも52歳と書いてあるけど、
記紀から逆算すると、仲哀天皇は父親の日本武尊の死んでから36年経過した後に生まれたこととなり矛盾するよね。
すでに死んでいる人間が父親なんてありえない。



646 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:00:34

応神天皇は親父もおじいちゃんも母親も架空の人物である可能性があるワケか。

応神天皇は実在したんだよね?

647 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:02:22
一呼吸置こうよ。
実は応神って宇沙都比古の系譜だよ、田舎ざむら、、いや氏族の出。
神功皇后が応神を婿養子として迎え入れた理由は、彼が金属技術や諸技術を
匠に利用し天下に名を馳せていたから、辛島や秦が大いに働けたのは
彼のおかげであり、他の渡来族からも絶大な信望を集めていた。




とか逝ってみるテスト。

648 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:05:50
神功皇后は、幼児から聡明で、極めて美人であった。
そのため父・気長宿祢王が、「本当におれの子か?」と、いぶかしがるほどであったという。
また、彼女は釣りの名人でもあった。
飯粒でアユを釣ったり、酒をまいてタイを捕ったことはよく知られている。

仲哀(ちゅうあい)天皇二年(193)一月、神功皇后は二十四歳で仲哀天皇の皇后になった。
仲哀天皇も容姿端麗で、身丈十尺というから、身長は約三メートル。
仲哀天皇は、父・日本武尊(やまとたけるのみこと)の供養をするために、白鳥をたくさん飼っていた。

「白鳥が好きなのねー」すると越(こし。北陸)の太守が、白鳥を捕まえて仲哀天皇に献上してきた。
「ありがたいのう」仲哀天皇は喜んだが、
彼の異母弟・葦髪蒲見別王(あしかみのかみわけおう)が、「白鳥だって、焼いたら黒鳥になるだろう」と、変なことをつぶやいたので、
「貴様のほうが黒くなれ!」と、焼き殺してやった。


649 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:08:06
三月、仲哀天皇は熊襲が貢物を献上しなくなったため、これを討つことにした。
仲哀天皇八年(199)一月に筑紫に入り、橿日宮(かしいのみや。香椎宮。福岡県福岡市)に居した。

「大王様が参られた!」
北九州の豪族たちは戦わずに降参した。
岡(おか。福岡県北九州市・中間市付近)県主の先祖・熊鰐(わに)という豪族などは、鳥好き仲哀天皇と魚好き神功皇后にこびて、鳥池と魚池まで造って接待したという。

仲哀天皇は熊襲征討を占うため、高台で琴を弾き、神がかりを行った。
神は、神功皇后にとりつき、その口を借りてしゃべり始めた。
『熊襲は貧乏な国である! そんな小国を攻めて何になろう!
それよりも、海の向こうに見える国、新羅を攻めよ!
新羅は富国ぞ! 金銀財宝が山とあるぞよ!
攻めれば新羅は戦わずして降伏し、熊襲もすぐになびくであろう!』



650 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:09:30
仲哀天皇は海を見た。
海はどこまでも果てしなく青く、どこにも陸は見当たらなかった。
「海の向こうに国が見えるだとぉ。何もないじゃないか!
高台から見ても何も見えないのに、そんなものあるはずがない!
どこの神がついたか知らないが、ウソ付きな神だなっ」

神は反論した。
『ウソではない! 我が言を信じなければいい!
新羅はこの皇后が身ごもっている子が平定するであろう!』
仲哀天皇は不機嫌になった。琴を押しのけて、弾くのを止めてしまった。
側近・武内宿祢(たけしうちのすくね)が勧めた。
「お弾き続けくださいませ」
仕方なく、仲哀天皇は琴を弾き続けた。

651 :仲哀天皇密室殺人事件:2006/05/11(木) 14:11:10
しばらくして、琴の音は聞こえなくなった。
「どうなさいました?」
神功皇后が声をかけても返事がない。
武内宿祢が火をともしてみたところ、仲哀天皇は既に事切れていた。
「大王は、お隠れなさいました」
仲哀九年(200)二月のことだという。
享年五十二歳。

あなたはこの仲哀天皇が架空の人物だと思いますか?


652 :がいやまん:2006/05/11(木) 14:16:30
いやー、盛り上がったナー。 >>643 >>644 は住吉神社伝承の神功不倫説だろう。
国家元首が不倫したなんて不敬罪もいいとこだ。が、漏れとしては七支刀の倭王は
倭王昔、つまり、丹波の国から新羅の王となった脱解の姓、、
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/kyeongju2_014.htm
これの倭国名は「おいと(老人)」
http://www.geocities.jp/k_saito_site/kasagun6.htm#okitusimaj1
つまり、応神は若狭湾の出身、あるいは、その両親のいずれかがその辺の出身で
あったのではないかという仮説も持っている。


653 :がいやまん:2006/05/11(木) 14:21:44
>>651
記紀を作っているうちに現在のサスペンス作家になったような気分になり、思わせぶり
の書き方をしたんじゃないかとかんぐりたくなるような場面であることは確か。

654 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:29:33
神功皇后は、仲哀天皇が神のお告げに反発して死んだことが気になり、
武内宿祢に琴を弾かせ、中臣烏賊津(なかとみのいかつ)を審神者(さにわ。神託読解者)として、再度、神がかりを行った。
「改めてお尋ね申し上げます。先日、新羅征討をお勧めになられた神様は、いったいどこの神様であらせられますか?」

まもなく、神は再来した。
『我は天照大神(あまてらすおおみかみ。伊勢神宮の祭神。日の神)じゃ〜。
それから、表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)、
つまり住吉(すみよし)三神(住吉大社の祭神。海の神)もおるぞよ〜。
新羅を得ようと思うなら、天神地祇(てんじんちぎ)を祭り、我が御魂を船に乗せて攻め込むのじゃ〜!」

神功皇后は肥前松浦(まつら。長崎県松浦市)にて最後の占いを行った。
釣り占いである。
「新羅征討が成功するのであれば、魚よ、これに食いつけ!」
そう叫んで、飯粒のついた釣り針を川に投げ入れたところ、アユが釣れた。
神功皇后は確信した。
「神々は我々に味方した! 必ずや、新羅征討は成功するであろう!」



655 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:31:32
このとき、神功皇后は妊娠していた。臨月を迎えていた。力んだせいか、危うく出産しかけてしまった。
そこで、またに石をはさんで懸命に我慢した。
(凱旋してからお産しよう)
そう誓ったのであろう。

征討軍の大船団は、大挙して新羅へと向かった。
魚たちもみな征討軍に味方し、船をかついで先導した。
風は絶えず順風で、波は常に朝鮮半島に向かって流れていた。

そのため、新羅では津波、高波になった。
国の半分まで、水浸しになってしまった。
新羅の国王は恐れおののいた。
「いったい何が起こったんだ! これはどういうことだ!?」
「神々の軍隊が攻め寄せてくるとのことです!」
「なんだと! 神々の軍隊だと! そんなものに勝てるわけないではないか!」

新羅の国王は降伏した。
神功皇后は、国王を捕らえて馬飼にした(一説に殺害したという)。
帰国後、神功皇后は筑紫の宇美(うみ。福岡県宇美町)で皇子を出産した。
誉田別尊(ほんたわけのみこと・ほむたわけのみこと)、つまり、伝十五代・応神(おうじん)天皇である。



656 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:36:12
仲哀天皇の死は突然である。
『古事記』では琴を弾いている最中に亡くなり、
『日本書紀』では神の言葉にそむいて熊襲を攻めたたたりで発病、その翌日に急死したとされている。
このことは、彼が不自然な死に方をしたことを物語っているものであろう。

では、「不自然な死」とは、なにか?
すぐに思い付くのは「暗殺」である。
仲哀天皇は、何者かに殺されたのだと考えるのが順当であろう。

では、なぜ殺されたのか?
これは時期から見て、新羅征討に反対したからであろう。

では、誰に殺されたのか?
私は、先に白鳥を送ってきた北陸地方の有力者「越の太守」ではないかとにらんでいる。
仲哀天皇は、なぜか「越の太守」を恐れていた。
仲哀天皇と神功皇后は、西征の前にも、まるでおうかがいを立てるかのように「越の太守」に会いにいっている。
「越の太守」は神功皇后を通じて仲哀天皇に新羅征討を勧めたが、反対されたため彼を殺し、新羅征討を行ったのではあるまいか?

天皇が恐れた「越の太守」は二代のうちに破滅してしまったのであろうか?
答えはノーである。
いったい「越の太守」とは何者なのであろうか?


657 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:40:53
仲哀天皇を殺し、神功皇后を操って新羅征討を行った「越の太守」とは、新羅の王子・天日槍(あまのひぼこ)なのである。

『古事記』によれば、天日槍は応神天皇の時代に、逃げた女房・阿加留姫(あかるひめ)を追いかけて来日したとされている。
(『日本書紀』では崇神天皇の時代)。
天日槍は初め、阿加留姫の住んでいる難波(なにわ。大阪市。住吉大社がある)に上陸しようとしたが、渡りの神に邪魔されたため、
多遅摩(たじま。兵庫県但馬地方)に回ってそこにいついた。

渡りの神とは、阿加留姫の「別の亭主」に違いない。
「別の亭主」とは誰か?
当時、近畿地方で勢力を誇っていた「原大和朝廷」の大王位継承者の一人・足仲彦尊(あしなかつひこのみこと)、後の仲哀天皇である。
つまり、阿加留姫とは、神功皇后というわけだ。
『日本書紀』には、神功皇后は天日槍の子孫と書いてあるが、実際は彼の妻だったと見ている。


658 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:42:50
「別の亭主」の存在を知った天日槍は怒り狂った。
「フタマタかけていたのか!」
何とか神功皇后を取り戻す手段を考えた。
敵は原大和朝廷の王位継承者である。これに対抗するには、自分も力をつけるより他になかった。
天日槍は勢力を拡張した。
山陰を駆け出しに、瞬く間に北陸地方を平定、角鹿(敦賀)に居を構え、誉田別神(ほんたわけのかみ・ほむたわけのかみ)と名乗った。

その頃、原大和朝廷では、足仲彦尊が異母弟と大王位を争っていた。
天日槍は王位継承争いに介入、足仲彦尊に味方し、仲哀天皇の即位に協力してやったのである。
仲哀天皇は天日槍に感謝した。お礼に角鹿に出向いた。そして、神功皇后を角鹿にとどめたまま、西征に赴いた。

天日槍は喜んだ。
ダンナの居ぬ間に神功皇后を我がものにした。
結果、神功皇后は子を宿した。
去来紗別尊(いざさわけのみこと)である。
彼は元服した後、誉田別尊と名乗るようになった。
つまり、後の応神天皇になったのである。



659 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:45:42
これで神功皇后がまたに石をはさんだ理由もお分かりであろう。
彼女は本当の父が誰かということを疑われないよう、出産時期をごまかすという偽装工作を行ったわけである。

神功皇后は秘密を宿したまま、熊襲征討を目指す仲哀天皇のいる九州に向かった。
天日槍も、大軍を率いて彼女についていったものと思われる。
天日槍のところには、朝鮮半島の情勢が、逐一伝えられていたことであろう。
高句麗の南進も、新羅と百済の危機も、知っていたことと思われる。
「やはり新羅は私が治めなければならない。私が王位につかなければ、祖国は高句麗に滅ぼされてしまう!」
そのために、新羅救援を画策したわけである。

ところが、仲哀天皇は、救援出兵に反対した。
なぜか神功皇后が腹を膨らませていたことにも、余計に腹が立ったのであろう。
聞き入れようとしなかった。
仲哀天皇を殺害したのである。
直接手を下したのは、武内宿祢であろうか? 
私は武内宿祢は、加羅の有力者だと見ている。


660 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:46:37
天日槍の新羅救援は成功した。
危機を免れた百済も感謝し、神功皇后に七支刀(しちしとう)を贈った。
帰国した神功皇后は、応神天皇を出産、東征して畿内の原大和朝廷の残存勢力を一掃し、新大和朝廷を創立した。

661 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 14:49:01
「私は倭人だ」
「私は百済人だ」
「私は新羅人だ」
「私は高句麗人だ」
「私は加羅人だ」
 そんなことは昔はどうでもいいことであった。
 国境は流動的であり、何人かは曖昧(あいまい)であり、すべてのものが混在していたのである。

 日本の歴史家は言う。
「古代、倭は朝鮮南部を支配していた!」
 韓国の歴史家は言い返す。
「いや、百済こそ九州北部を支配していた!」

 意味のない論争である。終わりなき水掛け論である。
 なぜならどちらの言い分も正しいからである。
 古代、日本は朝鮮を支配し、朝鮮もまた日本を支配していたのである。

日 本 = 倭
  韓 国 = 百済+新羅+任那(加羅)
  北朝鮮 = 高句麗

 こういった区分はウソである。本当は、

  日本+韓国+北朝鮮 ≒ 倭+百済+新羅+任那(加羅)+高句麗

 としか区切りようがないはずである。



662 :質問です。:2006/05/11(木) 14:52:45
>>661

では、質問します。

1.穂積押山(ほづみのおしやま)は百済に何をしにいったのか?
2.大伴金村は百済に何をしてほしかったのか?
3.なぜ金村は百済にあっさりと任那四県を割譲したのか?
4.なぜ継体(けいたい)天皇は大和ではなく河内で即位したのか?
5.なぜ継体天皇は大和に入るまで二十年の歳月を要したのか?
6.継体天皇の正体は何者なのか?
7.なぜ大伴氏は大阪湾近辺に勢力を持ったのか?
8.なぜ大伴氏には百済との交渉役が多いのか?
9.なぜ『記紀』には金村の没年が記されていないのか?
10.なぜ仏教は欽明天皇の時代に百済の聖明王(せいめいおう。聖王。ソンワン)によって伝えられたのか?


663 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 18:22:27
>>661
 >意味のない論争である。終わりなき水掛け論である。
 >なぜならどちらの言い分も正しいからである。
 >古代、日本は朝鮮を支配し、朝鮮もまた日本を支配していたのである。

何言ってんだ?w
朝鮮が日本を支配してた証拠なんてどこにあるんだ?w

664 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 18:58:55
玄海灘を渡っただけ「朝鮮」と決め付けるのどうかと思うよ
単に馬鹿デカイ大河を渡った一勢力と考えれば良いだけだよ。



665 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:08:20
「私は倭人だ」
「私は百済人だ」
「私は新羅人だ」
「私は高句麗人だ」
「私は加羅人だ」
そんなことは昔はどうでもいいことであった。

騎馬民族はどこいったよ?w

666 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:53:38
>>637
間違えた。応神の両親の仲哀と神功がどちらも架空なのに応神妃の仲姫は
系譜の伝承があるから、応神は入り婿だ、というのだった。何箇所かに分けて
書いてあるが、そのうちの一つを引用する。

「応神の系図を仔細に検討すると、景行−五百城入彦−品陀真若の子の仲姫
を応神が娶った、という古い形が存在したと考えられるが、この場合、応神は
外から入って皇統をついだことになる。かかる観点に立つとき、応神天皇は
四世紀中葉−五世紀初頭の対朝鮮経営の中で出現した一つの新しい王朝の始祖
であり、旧辞または記紀は、その故にこれを神秘化したのではないかという
発想が生じてくる。」

667 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:09:52
>>663

>朝鮮が日本を支配してた証拠なんてどこにあるんだ?

朝鮮出身の人間が日本を支配してたと思われる証拠はたくさんある。

有名なのは、蘇我氏が渡来系と言われている。
さらに、藤原氏こそが渡来系と言っている学者もいる。

応神天皇の父親は朝鮮民族だという説もある。
継体天皇も朝鮮人だという説もある。
初代神武天皇も朝鮮人だという説もある。

100%言えるのは、継体天皇の代で一度、天皇家は途切れているよね。

668 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:18:06
>>667
「説もある」で喜ぶなよ。

>継体天皇の代で一度、天皇家は途切れているよね。

何で?
昔の天皇なんて、各地の豪族に種を残してるだろ。
男系が神武につながる人物なんて沢山いたよ。
何で途切れたって言えるのだ?
それより、扶余が被差別民だと判明してから、
扶余の事をすっかり言わなくなったね?w


669 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:21:01
>>667
そういえば、天皇が扶余だという「説もあった」よなw

670 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:39:43
有名なのは、蘇我氏が渡来系と言われている。
さらに、藤原氏こそが渡来系と言っている学者もいる。

応神天皇の父親は朝鮮民族だという説もある。
継体天皇も朝鮮人だという説もある。
初代神武天皇も朝鮮人だという説もある。

この理屈なら平田篤胤の説もある。
で日本は世界の棟梁だな。

671 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:47:12
妄想世界に突っ走るお方がいるようで、痛々しいから一言。
完全な歴史なんてありませんよ、100%と断言している時点で思考停止確定です。

672 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:48:45
韓国古代史歴史地図
http://post.baidu.com/f?kz=99204596


673 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 21:54:16
はい、金達寿・金達寿。

674 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 00:35:33
まっ昼間からトンチンカンな事をマルチしてる奴ってニートか工作員でガチだろう。

675 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 02:07:41

土日出勤の仕事だったかもしれないじゃん。

676 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 02:34:17
倭の後継王朝を自称した日本が、かつて朝鮮半島南部のどこかの領域を支配、
もしくは属国視していたとする「王朝の記憶」(捏造であれ何であれ)が
存在するのに対して、
加羅諸国や百済を征服して(当然、旧支配層の何割かは確実に新羅の支配層
に残っただろうと思うのだが)成立した統一新羅に、かつて倭の領域のどこかを支配、
もしくは属国視していたという「王朝の記憶」がほとんど全く残されていないよう
なのはどうしてなのだろう。

677 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 03:32:34
>>676

どうして旧支配層の何割かは確実に新羅の支配層に残ったと断言できるのか?

678 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 04:00:17
いやほら金庾信のこととかあるし。
百済は分からないけども。全部倭に逃げたってのも考えにくいかなと。


679 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 08:31:13
>>611
>100%言えるのは、継体天皇の代で一度、天皇家は途切れているよね。

応神天皇の代で切れていることも約99%言える。

>>676
そのことを最もよく説明するのは、かつて半島でそれらの領域を支配していた
王朝が日本に移った、という考え方だ。

>>668 >>669
なんどでも誇りを持って言おう。曰く:
倭の五王は扶余である。

680 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 08:41:16
古墳建設に動員されるパワーは、もし、侵略戦争に投入される場合は、それなりの
規模を持つ。国防能力をもったものである。倭の五王の時代、極東最大のパワーは
河内の付近からどこにも移動をしていない。その頃は古代の夫余族等は既に実体の
ないもので、百済においては地名となっていたのではなかろうか。

681 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 08:45:16
誇りをもって断言したところで妄想は妄想

682 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 08:53:37
>>679
誇りを持ってるのなら、被差別民・扶余について熱く語れ!

683 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 12:26:49
>>そのことを最もよく説明するのは、かつて半島でそれらの領域を支配していた
王朝が日本に移った、という考え方だ。

朝鮮半島に本拠を置き領土を持っていた倭人が同時期
玄海灘を跨いで列島に領土を持っていたとは限らない、寧ろ持ってい方が都合が良い
だって倭人は半島から渡ってきたと見るのが妥当だからね、もともと半島は「倭人のテリトリー」って考え方さ。
古墳期にその辺の繋がりから加勢した、そう勢力を押し戻した列島勢力と考えればしっくりくるだろ。


684 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 12:52:19
日本で倭は圧倒的最大勢力、後は追随ヘボ勢力、これ基本中の基本。
汚ったねー工作やって圧倒的最大勢力の倭王をケツ抱え上げるのが関の山www

685 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 13:40:09
>>679
倭の五王が扶余でも朝鮮人とは無関係〜
誇らしい。

686 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 17:37:55
弥生人と「渡来人」とは、違うがな

687 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 18:02:06
>>667 >>679
>継体天皇の代で一度、天皇家は途切れているよね。
継体で切れてる可能性はほとんどない。
もし切れてたら、その後、天皇制が安泰に維持されてるはずがない。
その時点で易姓革命の前例が出来て、その後何度も同じことが繰り返されてたはずだ。
今でも女帝容認問題で、臣籍降下した旧皇族の復帰問題が持ち出されるが、
反対論が根強い。当時、応神から何代も離れた継体への反発が強かったのは当然だ。
でも、継体が前例になってからは、皇統継続のための傍流天皇が繰り返されてる。

>応神天皇の代で切れていることも約99%言える。
応神については、これは騎馬民族説だから話は別。このスレのテーマだから。

>かつて半島でそれらの領域を支配していた王朝が日本に移った
移ったも何も、百済の扶余王朝は確固として残っておる。百済滅亡の日までな。

>>680
>その頃は古代の夫余族等は既に実体のないもので、百済においては地名となっていたのではなかろうか。
倭国生まれの武寧王の墓は立派なもんだろ。
何を根拠に実態がないといっているのか?
「百済王が倭の支配下にあった」という意味なら間違いではないが。

武寧王陵(宗山里古墳群) ttp://inoues.net/korea/buneiou.html

 五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を結び、日本に人質を送って
いた。ところが雄略天皇二年、人質であった池津媛は不義を犯したことをとがめられて処刑
された。このことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の蓋鹵王(こうろおう)
(加須利君かすりのきみ)は、その弟軍君(こにきし)(昆支こにき)を日本におくることにした。
そのとき、王は軍君の要望にこたえて側室の一人を与えたが、彼女はすでに懐妊し、
産み月も近かった。王は、途中で男の子が生まれたなら、ただちにその子を送り返すように
といった。軍君が筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、側室は男児を産み落とした。
島で生まれたので男児は「島君せまきし」と名づけられ、百済に送り返された。この男児は
成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。ttp://www.yoyokaku.com/sub7-21.htm

688 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 18:03:48
>>683
>だって倭人は半島から渡ってきたと見るのが妥当
逆だよ。中国大陸から渡ってきた弥生人が半島にも進出したというのが実態。
朝鮮半島のような寒い場所には、もともと農耕民族は住んでない。
農業に適してないからな。

「韓国人のルーツは中国中北部の農耕民族」
ttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/05/11/20040511000078.html
また、韓国人と日本人が遺伝的に近いということは、2300年余前、日本列島に定着した弥生民族が
韓半島に移住したことを示す遺伝的証拠と見ることができると説明した。

日本人の来由
ttp://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/

689 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:04:41
>>680
>古墳建設に動員されるパワーは、もし、侵略戦争に投入される場合は、
>それなりの 規模を持つ。国防能力をもったものである。

コルテスに征服されたときのアステカのピラミッドや城市はもっとすごかった。
動員力だけでは語れない。

>倭の五王の時代、極東最大のパワーは 河内の付近からどこにも移動をしていない。

その「極東最大のパワー」そのものが扶余王朝だから、移動する必要はない。

>>682
>誇りを持ってるのなら、被差別民・扶余について熱く語れ!

汚い誹謗中傷は誇りを持って無視すればよい。

690 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:09:14
>>683
>朝鮮半島に本拠を置き領土を持っていた倭人が同時期
>玄海灘を跨いで列島に領土を持っていたとは限らない

金官で伽耶地域を支配していた扶余王朝の主体が日本に移った。移動後も半島南部
の支配権は手離さなかった、ということを言っている。(それが倭王武の上表文に
表れている。)
ノルマンジー半島に公国を持っていたウィリアムが英国を征服して王朝の主体が
英島に移ってもノルマンジーの領地は手離さず、それが後にフランス逆進出の
足場になったのと同じ。

>>687
>応神については、これは騎馬民族説だから話は別。このスレのテーマだから。

応神は外来勢力(いわゆる騎馬民族)か、九州の豪族か、いずれかである。
もちろん私の意見は前者だが。

691 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:32:28
>>690
まぁ考古的史料0なんだけどねえ。木郭墓出てないんだろ?(笑

692 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 20:59:01
>>689

コルテスについて

騎馬民族征服説支持者は、コルテスを例に挙げて、
3万の歩兵は数10頭の騎馬で征服できると言う。
事実、コルテスが数10頭の騎馬の突撃で3万の歩兵を破ったと。

しかし、コルテスは信長と同時代の人間で、鉄砲を持っていた。
さらに天然痘を流行らせて、例えるならドイツ軍と同じような天然痘という細菌兵器を持っていたことになる。

さらに、17世紀のヨーロッパと原住民が住んでいた南米では文明の格差が大きい。
従って、コルテスを例に挙げることが間違い。

「17世紀のヨーロッパと原住民が住んでいた南米を攻める」
ことと
「5世紀の朝鮮が5世紀の倭を攻める」ことは
比較できるものではない。


仮に16世紀の日本の軍隊(信長の軍隊)が天然痘という細菌兵器を持って、5世紀の倭を攻めたなら征服できると断言できる。
しかし、5世紀の朝鮮が5世紀の倭を攻めても、征服はできない。

693 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 21:02:57
>>689

コルテスは鉄砲と天然痘を持ってたじゃん。
天然痘は細菌兵器みたいなもんだよ。
比較する方が間違いだ。


694 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 21:38:47
>>692
戦国自衛隊じゃないんだからさ、
もうちょっと常識で考えような。

扶余なんて、馬から下りたらただの人なんだから。
中世の文明人と土人との戦いの話を持ってきたって意味ないだろ。

こういうところが騎馬民族説論者の思考の欠陥だな。
ノルマンジーの航海術と扶余のそれとだってまるで違うからな。
じゃ、モンゴルはなぜ日本を征服できなかったのか?という話だ。

695 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:05:03
>>689
>汚い誹謗中傷は誇りを持って無視すればよい。

おまえ、ふざけるな。
扶余と被差別民の類似する風習、地名で反論できなかっただろ。
何が汚いだよ。

ここまでいけば宗教だな。


696 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:18:57
>>689
君はよくイギリスの例を出すけど、そんな例を出されてもねぇ。
イギリスは今でも地域対立があるよね。
ウェールズやスコットランドとイングランドは
スポーツの大会でも別々に参加してくるよね。
何でだろ?

武力で作った国は必ずそういう弊害が残るのさ。

日本のどこにそういう地域対立があるの?


697 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:38:33
沖縄

698 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:23:30
>>694

文章とは難しいものだな。
俺は騎馬民族の征服は不可能だと言っているのに伝わらなかったのか。
コルテスの南米征服を比較対象に出すのが間違っている。

コルテスは鉄砲も持っていたし、天然痘という細菌兵器も持っていた。
そして、「原住民のインデアン」VS「17世紀のスペイン」では文明の差がありすぎる。
日本の16世紀の軍隊(織田信長)が鉄砲と細菌兵器を持って、南米の原住民を攻めれば征服できる。
コルテスの場合、それくらい文明の格差があると言いたかったのだ。
従って、騎馬民族征服説の証拠にコルテスを例に出すのが間違っている。

699 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:29:13
オオミワはんは、ジンムはんより先や

奈良県のある地域では、地元にある神武天皇の橿原神宮より三輪山にある大神(オオミワ)神社を尊崇している、と本に書いてありました。
なぜなら大神はんは元々この地(奈良県・・というか奈良盆地)の神様であって、神武はんはその後やって来た、いわば「よそ者」だったからです。

では、大神はん(大三輪はん)とは何か。
大神はんは大物主(オオモノヌシ)と言われ、大国主命(オオクニヌシノミコト)の別名とされています。
古代奈良県は出雲の勢力範囲であり、民衆は新しい王様(神武天皇)より自分達の古くからの王様を懐かしんでいるのかもしれません。



700 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:21:55
>>698
ただのアンカーミスだよ。
コルテス馬鹿(>>689)にレスしたつもりで間違えてただけのこと。

701 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 06:21:33
>>697
沖縄は国際的スポーツ大会で「沖縄」として参加してるのだなwww

702 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 10:13:43
皇室とオオミワはんは赤の他人だから系譜が繋がっていない。
三輪王朝・河内王朝・継体王朝は同族だから系譜が繋がっている。
それだけのことだ。

703 :がいやまん:2006/05/13(土) 11:55:10
三輪山祭祀
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.html
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen22.html
皇室とは無関係であり、崇神皇居跡地には犬小屋程度の大きさの天皇社というのが
路傍にあるだけだが、これを除いては一切の天皇関係はない。ただし、イスキヨリ姫
を初めとする姫については全国の姫を集めたようにやたらと祀られている。よほど
姫の好きな神主さんだったんと違うかね。

704 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:25:24
琉球王朝

705 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 13:30:42
追跡、ネタフリやってるそこの藻前、ピエロだなw

706 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:37:22
>>596
>>594のどこに韓国人や朝鮮人への差別が書かれてるのかがわからない
それに裏社会を牛耳るのがそんなに誇らしい事か?
映画「ゴッドファーザー」はイタリア系住民から「イタリア系マフィアが
アメリカの裏社会を牛耳っていると思い込ませる恥知らずの映画」と
イタリア系アメリカ人は批判するがこの在日韓国人には
そうした恥の概念がないのだろう。白馬青牛氏の言うように金に溺れたと
いうより金に使われてる金の奴隷以外の何者でもない

>>594
この説を結構裏付ける話がある。長江文明国だった呉は周の太子の息子が
始祖と言われてるが周は実はアルタイ語系部族の国だったのではないかと
言うのである。このころの華北はモンゴル系、チュルク系、ツングース系
チベット系がおり、これらの部族の混血と長江の先住民であるタイ族との
混血が後の漢民族になったと言われている。つまり呉はアルタイ語族と
ビルマ語族(チベット語族とタイ語族の混血)、タイ語族、苗族(ミャオ族)の
混血国家だったのかもしれない。また楚についてもその可能性を
指摘するソースもある
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_1.htm
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_3.htm
おそらく倭国大乱は呉・越・楚系の部族間の戦争だったのだろう
そのうちアルタイ語の血を引くと言われる呉系や楚系の部族がいたから
北方系のDNAや北方系の風習に出ているのだろう。ちなみに扶余や
高句麗もこの呉人や楚人とツングース語族の混血ではないかとされるソースもある
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_4.htm
もっともツングースは周の時代にも華北に来ていた可能性はあるから
呉人や越人がそのまま扶余や高句麗になった可能性も否定は出来ない
なお、日本人と韓国人が人種的に分離したのは
ツングースではなく新羅にいたテュルク系部族が原因と俺は見ている

707 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:46:40
>>691
>木郭墓出てないんだろ?

扶余である高句麗、百済でも出てない。高句麗は積み石塚、百済は石室または
磚室付き墳丘墓。

>>692
>コルテスが数10頭の騎馬の突撃で3万の歩兵を破ったと。

人の書いたことを歪曲してはいけない。
私が言ったのはコルテスの初戦であるタバスコの戦いで、「10騎」の騎兵で
「1万人」以上のタバスコ兵を潰走させた、ということだ。

>しかし、コルテスは信長と同時代の人間で、鉄砲を持っていた。

一分間に2、3発しか撃てない火縄銃の十数丁でなにほどの役に立つのか。
火縄銃を千丁単位で集中使用したのは信長の日本が世界最初なのだ。

>17世紀のヨーロッパと原住民が住んでいた南米では文明の格差が大きい。

コルテスの遠征には実際に戦った兵士の手記があるが、彼等はそれほど原住民を
軽視していないよ。原住民の武器もスペイン人の7割ぐらいの威力がある、と
言っている。騎兵でさえ、終わりの段階では決定的ではなかった。事実、7騎
の騎兵を含むスペインの小部隊がアステカ軍につかまって全滅されている。

708 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:49:19
それではコルテスはなぜアステカ帝国を征服できたか。一つには精神的なもの
だろう。個人的な勇気に加えて、組織力や戦略がアステカ人より優れていた。
しかしそれも数百人対数万人の戦いとなると通用しない。

コルテスの成功の原因は、なんと言ってもアステカの属国であった複数の國を
味方に付けたことである。このことで戦いは数百人対数万人ではなく、数万人
対数万人になった。これなくしては成功はおぼつかなかった。

それでも神功(実は応神)の東征にもこのような状況はあったか。それについて
日本書紀が教えてくれる。神功の軍は抵抗らしい抵抗も受けず、畿内周辺まで
進軍している。その途中の豪族が協力したか、あるいは少なくとも中立を保たな
ければ、こんなことはあり得ない。

709 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:52:06
これらの豪族も、三輪王朝が巨大古墳を築くときには人夫を供出しただろう。
つまり平時において古墳造りに役だった動員力も、戦時において役立つとは
限らない。なぜなら間接支配されている豪族はどちらに付くかというフリーハンド
を有するからだ。「騎馬民族」に付いたほうが有利だと思えば付いただろう。

中央の一国が周辺や地方の半独立国を間接支配する、という支配形態が、古代
日本とアステカ帝国において、よく似ている。応神の東征とコルテスを比較する
意味はここにもある。

>>695
>地名で反論できなかっただろ。

反論できない? 汚い誹謗中傷を誇りを持って無視しただけだ。

>ここまでいけば宗教だな。

そっちこそヒサベツ教ではないか?

710 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:54:21
>>696
>イギリスは今でも地域対立があるよね。
>ウェールズやスコットランドとイングランドは

較べるならイングランド一国と倭とを較べるべきだ。なぜならノルマン公は
イングランドの王位を要求したのだから。そしてウェールズやスコットランドは
新羅や百済、あるいは列島の蝦夷などの周辺諸国にあたるだろう。
征服後のイングランド内部にも勿論、最初はノルマンとアングロサクソンの
対立があった。しかし長い抗争の過程で、主に通婚によって両方の貴族が融合
して、現在の英国貴族階級ができた。だから現在は大きな対立はない。
このあたりは日本の古代史の参考になるだろう。

711 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:56:12
>>690
だから半島に点在していた倭人ではなく、つまりは弥生人ではない
トライ人である扶余系移民じゃなく「遺民の王w」が雑民引き連れて列島に
侵入してきたと言いたいの?w
でなんでそいつらが列島を平らげたて言いきれるの?
主体が倭じゃお気に召さない?w

それから
ノルマンジーを比較対照としているけど、英国の主体あくまでアングロ・サクソンだよ
調べてみなyo、つまりは日本における「倭」だw

・・・まあ比較すること時代無意味だけどねw

712 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 15:11:15
自分に都合の良い歴史を創り上げるために、イロンナ時代にワ〜プ
整合性を求めたり。
自分の立ち位置に都合の良い言説であれば、他との符合がなくとも
事実だと認定「したがる」アホを最近よく見かけます。

713 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 15:44:59
>>632
もし日本でも食人の習慣があるはずなら縄文時代や弥生時代になんらかの
痕跡(遺骨など)があるはずだがそんな話は聞いた事がない
ひえもんどりはむしろ憤怒からくる食人(そのソースは失念してしまったが)
からくるものだったのだろう。実際そのブログには食人をしたという猟奇的な
人物の話はしているがそれがあったのなら古来からあるはずである。しかし
古来から食人の習慣が日本にあったという話は聞いた事がない
実際記録でも日本における食人があったというのは飢餓や憤怒等による
非常事態のみである
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
ちなみにひえもんどりは薩摩では常時行われてたという話も聞いた事がない

714 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 15:48:25
>>706ので書き忘れたが
苗族系のヤオ族が日本に越人の一派であったと言われているが
ヤオ族は犬信仰がありこれは日本の犬神信仰の原点となった可能性が高い
さらにペルシャ人である秦氏が持ってきた狐崇拝とも混合して
稲荷信仰に繋がったのであろう

715 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 16:46:13
「私は倭人だ」
「私は百済人だ」
「私は新羅人だ」
「私は高句麗人だ」
「私は加羅人だ」
「皮革産業は扶余人だ」

716 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 16:48:59
〜世紀 皮 革 産 業 革 命 を 齎 し た 扶 余 人

717 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 17:29:19
>>709
>汚い誹謗中傷を誇りを持って無視しただけだ。

日本における扶余の痕跡が被差別民にしかない。
これが事実だ。
河内で見つけ出してみろ。
反論できないのに、
まだ扶余簒奪説で天皇家を「誹謗中傷」してるのはおまえだ。

いい加減にしろ。

718 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:15:12
>>707
>>708

なるほど。
コルテスは騎馬・鉄砲・天然痘という細菌兵器を持っていったのに、そこまで苦戦したのか?
17世紀のスペインでも、原住民のインデアン相手に、そこまで苦戦するとはな・・・。
改めて、「5世紀の朝鮮が5世紀の倭を征服する」ことは 不可能だと確信したよ。

>コルテスはなぜアステカ帝国を征服できたか。一つには精神的なもの
>個人的な勇気に加えて、組織力や戦略がアステカ人より優れていた

あなたは、コルテスが南米の原住民を征服できた理由として、
「個人的な勇気が優れていた」「組織力や戦略がアステカ人より優れていた」というが、
私はそうは思わない。

私は「天然痘という細菌兵器」の威力が大きいと思う。
まず、天然痘の流行によって、アステカの人口が激減した。
さらに、最後の篭城戦でアステカの王が天然痘にかかり死亡する。
王が天然痘で死んだことがきっかけで、原住民は篭城をやめ降伏する。

結局は、「原住民のインデアン」VS「17世紀のスペイン」では文明の差がありすぎたことが大きい。
コルテスは騎馬・鉄砲・天然痘という細菌兵器を持っていた。

繰り返すが、日本の16世紀の軍隊(織田信長)が鉄砲と細菌兵器を持って、南米の原住民を攻めれば征服できる。
コルテスの南米原住民征服の場合、それくらい文明の格差があると言いたかったのだ。
従って、騎馬民族征服説の証拠にコルテスの例を比較に出すのが間違っている。


719 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:48:53
雑賀衆や三好一族が行っても南米の原住民を攻めれば征服できるということね。

720 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:11:33
>>707
では君はそれを合理的に説明する必要があるな。
金官を扶余が征服したのは吉林省地域の「木殻墓」が発見されたからである。
故に扶余がこの地域に来たと推測しているに過ぎない。(余談だが新羅は鮮卑に征服されたという。新羅でも木殻墓は出るようだ)
高句麗と百済はお互いに強く反目しあっていたし、民族的な同質性をお互いに感じていたとは思われない。新羅に関してはそもそも扶余ではない。
そうであるなら、何を根拠に倭に扶余が来たというのか?任那には古くより倭人が定住しており、鉄を取っていたとの記述がある。


721 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:49:35
>>720
「木殻墓」というのを知らないので、まずそれを説明してくれ。

>>711
>ノルマンジーを比較対照としているけど、

ノルマンジーではない。それは地名。人間はノルマン人だ。
(ただし私も誤記した。ノルマン公ではなくノルマンジー公(ウィリアム)だ。)

>英国の主体あくまでアングロ・サクソンだよ

別にそれを否定してはいない。イングランドの貴族がノルマンとアングロサクソンの
貴族が融合した、いわゆる「アングロノルマン」と呼ばれる集団であること、それ故に
イングランドの内部には君の言うような対立はないことを言ったのだ。
スコットランドとかアイルランドとの対立はノルマン朝が成立して以後の侵略に由来
するから、それと比較すべきは河内王朝が成立した後の蝦夷などとの対立なのだ。


722 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:55:02
>>721
木郭墓ねw

723 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:22:06
>>707
アステカ原住民から見れば、
鉄砲持ったスペイン人は宇宙人みたいなもんだよ。

日本だって黒船が4隻来ただけで震え上がっただろ。
文明のレベルの違いを一目見ただけで分かったからだ。

その違いと扶余・倭の違いなど比べるべくもない。
当時の倭は、騎馬戦術に長けてはいなかったが、
馬自体は日本列島にもいたし、朝鮮半島にも既にいた。
大規模の飼育管理してなかっただけのことだ。

まったくかけはなれた事例を持ち出しても意味がない。

724 :白馬青牛:2006/05/13(土) 23:07:57
>>706
シロコゴルフ説やエーバーハルト説では、ツングースの原郷は河北や
山東で越文化圏と隣合っており、その可能性はある。
>>713
縄文人の食人については、モース博士が指摘される。
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030314morse.html
に、大森貝塚や熊本の例が出ておる。飢饉や憤怒の要素もあるが、
儀礼的行為であることも否定出来ん。要因は複合的にあろう。
現代の薩摩でひえもんとりのは聞かんのは当然のこと。海音寺氏は、
干した胆が、「少年時代までは、ぼくの家にもあった。弟と妹が飲まされた
のをおぼえている。」と書いておられるので、もう昔の話と云う事
じゃろう。

725 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 01:26:06
>>721
ケルトを追いやるアングロサクソン、の地にまるで倭寇のように
攻め入るバイキング、と同じくしてフランスに入ったバイキング
のノルマン人は、実は皮革工員だった!というオチでは?

>>711と同意で、比較自体意味があるとは思えなませんな。

726 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 01:26:34
>>707

1)アステカではスペイン人から広がった天然痘のため多くの人が死に、新王クイトラワックも在位80日で死んだ。

2)アステカの暴虐に反感を持っていた者たちが続々とコルテスに協力した。
アステカは長年、いけにえにする人間を確保するために他国に戦争を仕掛けて「人間狩り」をしていたのであった。
彼らはそれを「花の戦争」と呼んでいた。


3)1万を越えるタバスコ軍を相手に、500のスペイン軍はあまりに少なかったが、ここでたった10頭連れてきていた馬が大変な効を奏した。
襲い掛かってくる騎兵を、人々は“馬と人間が合体した怪物と勘違い”して、ひどくうろたえ逃げたのだ。

>>707に言いたいのだが、10頭の馬が1万を破ったのではない。
馬を見たことなかったタバスコ軍が“騎兵を馬と人間が合体した怪物と勘違い”して、勝手に逃げたのだ。
当時の倭が馬が存在していなくて、馬を見たことがないのならばありえるかもしれないが、
馬はそれほど珍しいものではなかったので、コルテスの例は当てはまらない。

727 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 01:32:47
なあ、そろそろ騎馬民族征服説はやめねぇ?
騎馬突撃が有効な野戦なんてちょっとしかないでしょ。
騎兵だから日本を征服できるなんて夢幻だよ。



728 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 01:36:54
まあアステカ人もアルパカやリャマに乗ったスペイン人見たら
怖くはないだろうな。

729 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 02:36:55
>>726

10頭の騎兵で、1万人の人間に勝つことは可能だ。
あの有名な前田慶次郎利益も8人で最上軍1万を敗走させている。
さらに原住民は今まで見たことのない馬を見て、恐怖心にかられている。
その心のスキをつけば、10頭の騎兵で1万人の人間を敗走させることはたやすいことだ。
原住民には騎兵がケンタウルスのような妖怪に見えたのかもしれない。
戦場では恐怖心を倍増させる。
事実、富士川の戦いでは平維盛軍5万が水鳥の羽音に驚き一戦も交えないで京都へ退散してしまった。
コルテスも馬を見たことがない原住民の心理を操り、騎兵がケンタウルスのような妖怪に見せたのだろう。

730 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 03:03:33
10頭の騎兵で1万人の人間に合戦を仕掛ける。

単純計算で1万÷10=1000人ということになる。

即ち、1人で1000人を相手しなければならない。

これならば話は簡単だ。

一騎当千の武将を10人集めればよい。

関羽・張飛・呂布・馬超・趙雲・許チョ・夏侯惇・張遼・典 韋・甘 寧の10人だ。

この10人で攻めれば、10頭の騎兵で、1万人の人間に勝つことは可能だ。

極端な話、この10人で攻めれば当時の日本など征服するのは簡単だ。

騎兵征服説など、それだけのことだ。

http://kakutei.cside.com/kakutei.site/sangoku/busyou.htm


731 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 03:12:35
もうネタスレにしかなって無いよな。
行けるところまで行こうぜ。
江上波夫も迷惑な堕説を残して行ったな。
宇宙人でも来たか、プラズマ現象でも起こったんじゃないの。

732 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 03:35:45
特異なケースを一般化させて語るのは何にせよ日本人の悪いくせだな。

733 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 07:21:54
騎馬民族が日本に来たのなら、日本各地に羊や山羊がいなければならないはず。だがいない。船に馬乗せるのも無理なのにましてや羊や山羊を乗せてこれるはずがない。

734 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 07:24:45
騎馬民族が日本に来たのなら、日本各地に羊や山羊がいなければならないはず。だがいない。船に馬乗せるのも無理なのにましてや羊や山羊を乗せてこれるはずがない。

735 :がいやまん:2006/05/14(日) 08:36:44
交易の形態として、マグロやカツオを売って、子馬とか子牛を対価として受け取って帰り、
これを育てて繁殖させ大もうけするというのは大いにありうるのではないか。

736 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 10:49:22
常識的に、

馬に乗れず、羊を飼えない遊牧民が三々五々渡来したとして、
強大な力を発揮できるとは到底思えない。
騎馬戦ができない騎馬民族など、牙を抜かれたライオンのようなものだ。

モンゴルや満族が大陸を支配した際には、確かに中華の伝統文化に従った。
しかし、それは、漢族の文化が非常に高度で成熟したものであったからだ。
もし、古代農耕社会に騎馬民族が大挙して押し寄せたとして、彼らは、
既存の倭の文化に配慮を示しただろうか?そうは思わない。
むしろ、天皇家につながる支配階級においては、かたくなに遊牧騎馬民族の
誇りを持ち続けたはずだ。現実に、モンゴルや満族においても皇室内ではそうだった。
ところが(もし騎馬民族が日本を征服していたとしたら)日本の天皇家は
余程民族の誇りが希薄だったのか、実にあっさりと民族文化を捨て去り、
骨の髄まで農耕民になりきってしまった事になる。
支配層が、民族の宗教や伝統を軽んじる事は少ない。ましてや、北方遊牧民の
信仰を捨て、鳥や太陽といった農耕民の信仰を受け入れる事はないだろう。

それから、騎馬民族は舟に弱い。モンゴル帝国しかり。草原の馬は、山岳地帯に弱い。
扶余は騎馬民族とはいえないが、遊牧していた。高句麗は、国家として海を渡った事がない。
しかも倭国との関係は、長期にわたり最悪だ。
倭人の農耕文化をひっくり返す程に多大な影響を与える程の力は無かったと思う。

737 :がいやまん:2006/05/14(日) 11:25:18
しかし、渤海の渡来振りは不審船あるいは潜水艇のような大胆さがある。連中は
ウスリー、アムール、松花江、鴨緑江の恐れを知らない船乗りだということを忘れ
てはならない。


738 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 11:45:11
とんでもなく難破ばかりしているが。

739 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:26:38
>773

北方の大河を渡る根性は確かにあったと思う。
でも、所詮は大陸、地続きとも言える。
日本海の荒波を越えるには、造船技術と巧みで熟練した航海術が必要となるはず。
それが得意だったのは、農耕漁労民。
というか、騎馬民族は草原での暮らしに拘りを持っていて、余程の大事件でもない限り、
敢えて怒濤の海を越え、農耕しようなどとは思わないと思う。
寒冷化の影響による玉突南下が言われるが、遊牧民は、基本的に大陸内移動をしたと思う。
敢えて荒波を超えたのは、舟に長けた連中だったと思う。

740 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:52:56
江上説支持派は騎馬民族征服王朝説を支持している学者を一人でもいいから挙げてみてくれ。
水野祐以外で

741 :YAP?:2006/05/14(日) 12:58:05
いや、1週間読まないうちに、えらく進行していて置き去りにされた気分だ。

まあ、感想など一つ二つ。

食人については、少なくとも、日本と中国・韓国朝鮮とは、質量とも相違が大きかった
というのが、正確な所ではないか?
あの魯迅が、人肉嗜食を題材にした小説『狂人日記』を書いた後、中国本土では、「人肉を
食うのは止めよう!」という運動が行われたというのは結構有名な話のように思う。
日本の左翼系評論家は、魯迅は、儒教の考え方が、「人肉を食らう」ような「悪い制度〜思想」
だったということを、風刺的に書いたものだとかいったそうだが、魯迅が、日本人読者向けに
日本語で『佐川君の日記』風に書いたもならともかくも、中国人読者を対象に、中国語で書いた
小説を、その様に読解されたというなら、彼に人肉食は止めよう!というキャンペーンを
兼ねた意図もあったと見るべきだろう。

まあ、隣国の李氏朝鮮でも、病の親にモモ肉を与えた子が、孝子として、表彰された事例が
結構多かったのもたしかだ。
しかし、同時代の日本で、「割股」して親矢主君に肉を提供したりして、「表彰」されたり、
「褒美」を与えられたりした例は、私は寡聞にして、全く知らない。

歴史的に「両脚羊」として、食材として人間もリスト入りしていた中国と日本は大違いだ。


742 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 13:05:55
もはやでむぱを生み出すだけの悪スレ

743 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 13:09:31
>>741
>1週間読まないうちに、えらく進行していて置き去りにされた気分だ。
二日読まないともう訳わかんなくなるよ。


744 :YAP?:2006/05/14(日) 13:10:57
更に感想を。

要するに古墳時代(中期?)に「騎馬民族」が渡来したというのは、
「戦闘能力を保持したままで騎兵集団が渡海して日本に入る」ことが、
無理であったということは諸兄が、みな一致する所だろう。

仮に騎馬民族的集団が日本列島に入るならば、日本側にその集団を
「主体的に受容する」権力が存在していたということになる。
即ち「征服」ではなく「帰化」荷よって騎馬民族が列島に入ったということだ。

倭や氏は、北方騎馬民族と共通した要素が日本列島に入ったことを認めているが、
その大部分は、「古墳時代」ではなく、弥生時代に北方からとらいした
「倭人」によるものが多く、又一部は、古墳時代以降の「帰化」による物だろうと
考えている。

弥生時代の開始を北方系民族の列島流入ではなく、長江流域からの稲作農耕民の
渡来を主流と考えることが、日本人の北方系要素の説明に、「古墳時代の騎馬民族
渡来・征服」を必要とする最大の原因ではないか?


745 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:00:40
>>739

ちなみに、元寇で活躍したのは、もっぱら江南船。
元が大量発注したいわゆる高麗船は、工法も古く、造船技術も優れてはいなかったため、
戦闘力にはならず、散々だった事も注目点。

746 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:46:41
コルテスの話を出して、アステカ軍が敗れた理由を「馬」を初めて見たことに対する恐怖心と説明するなら、
本来遊牧民であった扶余が海を越えて征服するという行為そのものが「恐怖」の対象になり得ると説明出来る気もするな。

747 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:49:56
アルタイ語系やチベット語系は江南や雲南にも移住していた(いる)。
彼らが漁労民とともに海を渡った可能性は無いのだろうか?

但し、彼らが騎馬民族であったとは思わない。すでに南の文化にドップリと
浸かっていたはずだし。

748 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:03:35
>>746

その扶余はどうやって海を越えたのだ?
当時の馬を船に乗せて海を越えることは不可能。
1000年後の元寇でも、指揮官が乗るだけの少数の馬しか輸送できなかった。

騎馬民族が「戦闘能力を保持したままで騎兵集団が渡海して日本に入る」ことは不可能。




749 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:15:28
韓国で一番売上があり、少年少女に読まれている「漫画朝鮮の歴史」がある。
「漫画朝鮮の歴史」では例によって高麗の軍人がヒーローで、元寇・日本征伐に高麗人が反対したにも関わらず
モンゴル(元)によって強行されたふうに描いてある。
あくまで朝鮮の歴史は他国を自らの意思で侵略していないと強調されている。
だがいざ侵攻の段になると高麗の将軍は有能に、元の将軍は無能に描かれている。
高麗の将軍が侵攻に際し的確な助言を行うが、
無能な元の将軍が言うことを聞かなかったために敗北したというふうに描かれている。
もちろん高麗の将軍は無能な元軍を尻目に大活躍をしている。

そして撤退に際しての高麗兵士の捨て台詞が、
「高麗の将軍の言うことを聞いていれば勝っていたのに」
お前らは自らの意思では侵略戦争に反対じゃなかったんかい!
朝鮮民族が日本人に負けたのは、元(モンゴル人)の将軍が無能だったからであって、
朝鮮民族は優秀だと書いている。

以上のことから韓国人自身の描いた通俗的な歴史書はあまり当てにはならんかと思われます。


750 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:21:23

ある学者は元寇でのモンゴル軍の敗因として、
「日本の地形的に、得意の騎馬突撃を展開する戦術が使えなかった。」
ことを挙げています。
平地の少ない日本に騎馬で攻めてきても、騎馬特性を活かすことは難しいかと思われます。

751 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:26:44
>>750

元寇で神風は吹かなかったらしいね。
文永の役では帰る途中で嵐にあったらしい。
弘安の役では上陸さえさせなかったから、嵐が来なくてもいずれ食料が尽きる。


752 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:29:48
>>707
>>729
>>730

10騎の騎馬隊が突撃してきました
こちらは1万人の歩兵がいます
あなたならどうする?
@弓で集中攻撃
A礫で集中攻撃
B槍襖で阻止
C騎馬をケンタウルスと勘違いして逃げる


753 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 15:59:16
>>707

モンゴル騎兵は下っ端の一般兵まで馬に乗っていた。
馬が傷付けば、馬を乗り換えて戦っていた。
チンギス・ハーンは戦場に20頭の馬を連れて行ったという。
また、モンゴル一般兵も最低でも5頭の馬を戦場に連れて行ったという。
つまり、モンゴル軍には人間の5倍以上の馬が存在したことになる。
これが騎兵の定義だ。
10頭の馬を連れて行ったからって、 騎兵にはならない。



754 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:24:45
>>748
いや、だからコルテスの話を出すのなら、扶余が恐怖の対象である「海」を超えて征服しようなんざ気にならない、と言ってるわけ。
つまり否定してるのね。俺も騎馬民族が戦闘力を維持したまま玄界灘を超えたとは思わん。

755 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:36:42
>>752
C

756 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:13:44
>>752

「ゲゲゲの鬼太郎」の著者の水木しげるならCだろうな。

757 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:22:04
>>724>>741
後に調べたがモース博士が言う通り日本にも食人の習慣があった
可能性は高い。というのも縄文時代に日本列島に渡来した南島諸語系部族の
中にはメラネシアから来た部族もいたからである(彼等が成人式の習慣や
アマテラス神話を持ってきたといわれる)。メラネシアの
ニューギニア島では今はどうだが知らないがかつては食人をやっていた
部族が多くいたからである。とはいっても常時食人をしていたのではなく
人が死ぬとその故人の供養のためにその故人を焼いてその肉をバナナの葉に
包んで食べたと言われている。となれば縄文人の一派の中には食人を
していた部族もいた可能性はある。しかしそれは白馬氏が言うように
儀式的なものであって中国や朝鮮みたいに食人を料理にしたりするものでは
なかったのは明らかである

>>747
江南に来たアルタイ語族や雲南に来たチベット語族は長江の先住民であり
長江文明の始祖であるタイ族と混血して一方は日本や朝鮮半島に海や陸路で
渡りもう一方は東南アジアに渡ったのだろう。農耕民・漁労民化しているのは
当然だろう。モンゴル帝国時代に雲南や四川に官吏として派遣された
モンゴル人はモンゴル帝国崩壊後は現地部族と混血して農耕民となっている
余談だがチベット語族とタイ語族の混血がビルマ系語族だと俺は思っている

758 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:36:19
>>751

そう。よく神風(嵐)のおかげで何とか日本が勝ったように言われているけど、
実際にはモンゴル式の戦い方が通用しなかった事が大きい。
モンゴル軍は船内に足止めされ、兵糧攻めにもあった。
その結果、栄養不足と病気で死んでいく兵士が続出、挙げ句の果てには神風が吹いて…
というのが真相だと思う。

騎兵は何の役にもたたんわけよ。

759 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 18:08:58
>>752
コルテス対アステカの件では、4. が正しい。

新大陸に牛馬も羊も存在しなかった。
「花の戦争」で捕らえられた犠牲者が人身御供にされたのも、供儀にできる家畜が
なかったためだ。心臓を太陽に捧げられた亡骸はピラミッドから投げ落とされ、下で
待ち構える者の栄養になった。つまり、中南米のピラミッドとは屠場だったのだ。

騎乗どころか牛馬すら見たことのなかったアステカの兵士は、騎乗した人間を人間
とは見ず、別種の存在と見て戦っていた。ところが、乗っていたスペイン人が落馬し、
慌てて乗りなおした。これを見たアステカ軍は恐慌に陥った。一体のものと見ていた
存在から人間が落ち、再び飲み込まれた。あるいは、人間が化け物に変身した。
化け物を前にしたアステカ軍は、それを正しく理解することができずに逃げ出したのだ。

760 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 18:20:35
日本においては、農耕民族と騎馬民族が壮絶な闘いを繰り広げた形跡がない。
馬にびっくらこいた倭人が逃げ出したという伝説も寡聞にして聞かない。

「征服」という言葉には何か、武力制圧のにおいを感じるね。
実際には移住民の「帰化」でしょう。

761 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:12:33
>>717
>扶余簒奪説で天皇家を「誹謗中傷」してるのはおまえだ。

扶余簒奪説がなんで天皇家を「誹謗中傷」することになるのか、わからない。
次の各ケースは天皇家を「誹謗中傷」することになるのか、教えてくれ。

1. 応神は簒奪者である唱えること。
2. 簒奪者たる応神の出自が九州の豪族であると唱えること。
3. 簒奪者たる応神の出自が金官の扶余であると唱えること。

762 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:17:29
>>759
まあ、コルテスの征服を技術的に分析してもしかたがない。原点にもどろう。
今回のコルテス談義は、古墳時代について>>680 が:

>古墳建設に動員されるパワーは、もし、侵略戦争に投入される場合は、
>それなりの 規模を持つ。

と言ったのに対して、私がアステカのピラミッドはもっとすごいがコルテスに
征服されたではないか、と言ったのが始まりだ。つまり、モニュメント建設の
動員力はただちに戦力ではない、という論点である。

ところで、私はコルテスの征服記を読みながら、非常に興味を持ったことが
あった。それはアステカ帝国の構造である。
アステカの中心はいまのメキシコシティである。アステカはそこにピラミッド
や壮大な城市を造り、その周辺を直接支配していた。

同時にアステカは大西洋岸に及ぶ広い範囲で、他の複数の国を属国として
間接支配していた。これらの属国はかなりの独立性を有するが、アステカに
税金や人身御供を納めていた。属国の言語・習俗は必ずしもアステカと同じ
ではなかったが、アステカと同じ様な宗教を信じ、同じ様なすこし小さい
ピラミッドを建てていた。

763 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:20:58
なぜ興味を持ったかというと、これがあまりにも古墳時代とそっくりだから
だ。ピラミッドを前方後円墳に入れ替えれば、そのまま古墳時代ではないか。
アステカは古墳時代を17世紀に現出して見せてくれたのだ。コルテスの
征服は図らずも、古墳時代において外部から有力な小集団が投入されたとき
に何が起こるかの実験となったのである。

なにが起こったか。属国はアステカに恭順の姿勢を取ったままコルテスと
交渉し、コルテスが信じるに足る力を持つと考えたときに、コルテスに
軍勢を差し出し、共同作戦を行ってアステカを攻めたのである。
これによって人数的に対等以上のバランスに持ち込めたことが、コルテスの
成功の最大要因であった。

同じことが応神の東征にも起こったのではないか。でなければ応神があれ
ほど簡単に畿内周辺まで進軍できるはずがない。日本書紀では応神を正統
にするために、大和の勢力を二王子のクーデター軍であるかのように
描いているが、もし応神が九州、金官などの勢力であるとすれば二王子軍
は逆に大和の王朝軍である。

つまり、応神の相手は大和王朝軍のみだったのであり、統一された連合軍など
存在しなかった。大和の巨大古墳は全国からの人夫供出で造られただろうが、
有力な対向者が現れれば地方豪族がそちらに付く可能性があり、その場合は
連合軍は存在しないのである。
古墳建設の動員力がすなわち戦力ではない、というゆえんである。

764 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:29:59
>>763

>アステカは古墳時代を17世紀に現出して見せてくれたのだ。コルテスの

エルナン・コルテス(Hernán Cortés, 1485年-1547年12月2日)はスペインのコンキスタドール。

コルテスは15世紀〜16世紀に生きた人間。
時代を200年間違えるとは、まだまだ勉強が足りないな。
というか、話にならない。
織田信長は江戸時代に生きていた!というのと同じだ。

765 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:32:30
>>763

>アステカは古墳時代を17世紀に現出して見せてくれたのだ。コルテスの

エルナン・コルテス(Hernán Cortés, 1485年-1547年12月2日)はスペインのコンキスタドール。

コルテスは15世紀〜16世紀に生きた人間。
時代を200年間違えるとは、まだまだ勉強が足りないな。
というか、話にならない。

坂本竜馬は平成生まれだ!というのと同じだ(笑)

766 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:46:59
>>762

>アステカのピラミッドはもっとすごいがコルテスに征服されたではないか
>モニュメント建設の動員力はただちに戦力ではない

「原住民のインデアン」VS「16世紀のスペイン」では文明の差がありすぎたことが大きい。
コルテスは騎馬・鉄砲・天然痘という細菌兵器を持っていた。

私は「天然痘という細菌兵器」の威力が大きいと思う。
まず、天然痘の流行によって、アステカの人口が激減した。
新王クイトラワックも在位80日で死んだ。
アステカの暴虐に反感を持っていた者たちが続々とコルテスに協力した。

日本の16世紀の軍隊(織田信長)が鉄砲と細菌兵器を持って、南米の原住民を攻めるのと同じだ。
コルテスの南米原住民征服の場合、それくらい文明の格差がある。

従って、騎馬民族征服説の証拠にコルテスの例を比較に出すのが間違っている。


767 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:57:17
>>763

>なぜ興味を持ったかというと、これがあまりにも古墳時代とそっくりだから

全然そっくりではない。
状況が全く違う。
16世紀のスペイン人が騎馬・鉄砲・天然痘という細菌兵器を装備して、原住民のインデアンを攻めるのが、古墳時代にそっくりなのか?

コルテスのアステカ征服に似ている状況を挙げるとするならば
16世紀の織田信長の軍隊が騎馬・鉄砲・疫病という細菌兵器を装備して、東南アジアを攻めるようなものだ。
文明の格差と距離から説明すると、これくらいの差はある。


768 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:10:30
>>763
応神って東征したのか?
どこで戦ったのだ?

扶余被差別民説から「逃げてて」何言ってんだ?w

769 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:18:03
>>763

同じことが応神の東征にも起こったのではないか。でなければ応神があれほど簡単に畿内周辺まで進軍できるはずがない

>>763が言いたい騎馬民族征服説は

騎馬民族は応神天皇のことで、朝鮮半島から攻めてきて、九州・四国・瀬戸内海の勢力も朝鮮半島の側に味方して、近畿地方まで攻め込んだってこと?

江上波夫が騎馬民族征服説とは違うよね。


770 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:19:21
>>763

江上の騎馬民族征服王朝説は、騎馬民族の文化が農耕民族の文化を駕していた、
あるいは歴然たる力の差があったと考えているところにそもそも問題があると思う。
大陸とはある程度の文化的落差があったとしても、少数の騎馬民族に制圧されるほど
脆弱な文化ではなかったはずだ。少なくとも、当時北方騎馬民族の文化が農耕民の文化を
はるかに凌駕するものであったとは思わない。

馬も持たず、手ぶらで乗り込んだ”少数の”騎馬文化に倭が平らげられる事は考えにくい。
少数の帰化人が有力な地位を占める事があったとしても、「征服」に至らないと思う。

771 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:45:15
>>763

>>763が今まで言ったことを要約すると

1、応神天皇は朝鮮半島に住んでいた扶余族である。
2、応神天皇は朝鮮半島から攻めてきたが、九州・四国・瀬戸内海の地方豪族は戦わずに降伏した。
3、敵勢力の大和は人数も多く苦戦したが、馬を見たことのない大和の勢力は騎兵をケンタウルスを勘違いして逃げ出した。
4、10人の馬に乗った騎馬民族は、1万人の歩兵に勝ったこともある。
5、こうして騎馬民族の扶余族は日本列島を征服を完了したのであった。

すごいトンデモ説だな。

まず指摘するが、馬は縄文時代から日本にいる。
そんなに珍しい生物ではない。
コルテスのアステカ征服のように“ケンタウルスと勘違いして逃げ出す”ことはない。
だから、10頭の馬で1万人の歩兵に勝つことは不可能だ。

772 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:48:12
>>763は余部について、
最初、「あまるべ」だなんだ言って反論してきて、
反論できなくなると、「誇りを持って無視する」なんて言ってるんだwww


773 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:50:27
5世紀の技術では騎馬民族が“戦闘能力を保持したまま”で騎兵集団が渡海することは不可能。
元寇のモンゴル軍でも “戦闘能力を保持したまま”騎兵集団が渡海して日本に入ることはできなかった。
つまり、戦争に必要な数の馬を朝鮮半島から九州に輸送することは不可能だということだ。
元寇でも指揮官が乗る馬しか輸送できていない。
一般兵は徒歩だった。
つまり、騎兵ではなく、歩兵だ。
13世紀の元寇にもできなかった馬の輸送が、どうして5世紀の朝鮮の騎馬民族ができるのか?
答えは「できない。」だろう。

774 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:54:58
>>762
>>763

騎兵の定義

モンゴル騎兵は下っ端の一般兵まで馬に乗っていた。
馬が傷付けば、馬を乗り換えて戦っていた。
チンギス・ハーンは戦場に20頭の馬を連れて行ったという。
また、モンゴル一般兵も最低でも5頭の馬を戦場に連れて行ったという。
つまり、モンゴル軍には人間の5倍以上の馬が存在したことになる。

>>763さんに指摘したいのだが、10頭の馬を連れて行ったからって、 騎兵にはならない。


775 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:57:26
余部という地名は山陰にあるなw


776 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:00:07
>>770
>>771
>>773

10頭の騎兵で、1万人の人間に勝つことは可能だ。
あの有名な前田慶次郎利益も8人で最上軍1万を敗走させている。
さらに原住民のインデアンは今まで見たことのない馬を見て、恐怖心にかられている。
その心のスキをつけば、10頭の騎兵で1万人の人間を敗走させることはたやすいことだ。
原住民には騎兵がケンタウルスのような妖怪に見えたのかもしれない。
戦場では恐怖心を倍増させる。
事実、富士川の戦いでは平維盛軍5万が水鳥の羽音に驚き一戦も交えないで京都へ退散してしまった。
コルテスも馬を見たことがない原住民の心理を操り、騎兵がケンタウルスのような妖怪に見せたのだろう。

10頭の騎兵で1万人の人間に合戦を仕掛ける。
単純計算で1万÷10=1000人ということになる。
即ち、1人で1000人を相手しなければならない。
これならば話は簡単だ。
一騎当千の武将を10人集めればよい。
関羽・張飛・呂布・馬超・趙雲・許チョ・夏侯惇・張遼・典 韋・甘 寧の10人だ。
この10人で攻めれば、10頭の騎兵で、1万人の人間に勝つことは可能だ。
極端な話、この10人で攻めれば当時の日本など征服するのは簡単ということだ。

騎兵征服説など、それだけのことだ。

777 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:01:37
>>775
「よべ」か?
500あたりから読んでくれ。
読まずにレスするな。

778 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:29:34
誰も指摘しないが、倭人にとって馬や牛はそれ程珍しい動物ではなかったはずだ。

(強いて言えば)倭人が江南以南に暮らしていた時代には、牛はそれ程珍しい存在ではなかったはずだし、
朝鮮半島南端に倭人がいた頃、朝鮮半島南部には普通に牛や馬が存在していた。(『三国志』)
大陸を北上しさ迷っている間には、多数の牛や馬や羊を目撃したはずだ。
大陸や半島との交易や交流、それから大陸への朝貢などの際に、牛や馬や羊を全く目撃しなかったという
事も考えにくい事だ。

少数の馬を目撃して倭人が逃げ惑うという事は、正直言って考えにくい。
(それよりも、馬は神経質な動物なので、船に乗って日本列島にたどり着く頃には、
ヨレヨレに弱っていて、恐怖の対象でも何でもなかったであろう。)

779 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:04:38
>>764
うっかり間違えた。
コルテスのアステカ征服は1510年代だ。
指摘してくれてありがとう。

>>768
神功/応神は九州を進発してまず播磨で対峙したがが、そのときは大和側が
勝手に撤退した。だから実質的には神武と同じように畿内で戦った。
日本書紀によればだが。

780 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:57:53
>>779
応神が、もし渡来系だとしても、
母の神功がアメノヒボコ系だし、秦氏だろう。

781 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:22:51
>>483
遅レスだけど百済の王族の姓は「扶余」なんだよねえ。
百済は一時期南扶余と名乗ったから扶余の後継であることに誇りか何かあったのかもしれない。高句麗は扶余の分派だというが、
もしかすると扶余の正統は百済にあったのかもしれんな。だとしたら金官や騎馬民族征服説でいう倭の扶余は一体何なのか、という気もするが。
金官を扶余が征服した、、、というが、それが確定した事実であるのなら(鮮卑が新羅を征服したとかいわれてるらしいが誰か詳しい人おせえて)
その扶余は百済の扶余とはまた違った集団だということになる。なんだかよくわからん。(笑 まぁとにかく百済の王族なんかは日本に帰化した後、
「百済王」とかいう姓を下賜してもらっとる奴もいたが「余」という姓も貰っていた。これは「扶余」の「余」だろう。「余部」という地名はその縁なのかもしれん。

782 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 07:32:08
>>781
高句麗は扶余系です。中国ではそう言われています。
朝鮮半島には、広く扶余系が拡大していました。
但し、百済は騎馬民族ではありません。
あの辺りは南方の血が混じりまくりです。
扶余の正統はあくまでも北だと思います。

783 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 10:32:00
>>768
>扶余被差別民説から「逃げてて」何言ってんだ?

よっぽど「扶余系被差別民」が居て欲しいらしいが、百歩譲ってそのような人達が
いたとしても、それが扶余系天皇を否定することにはならないだろう。
なぜなら、今では差別はないことになっているが、少なくとも少し前までは、
倭系とされる天皇族と、倭系の被差別民とが、両方存在したのだから。

>>774
>763さんに指摘したいのだが、10頭の馬を連れて行ったからって、 騎兵にはならない。

日本語大丈夫か? 兵士が馬に乗って武器を持っていれば、1騎だって騎兵だ。
あなたが言いたいのは、モンゴルのような全員が馬に乗った「騎馬軍団」には
ならない、という意味だろう。
で、私が言っているのは、扶余の軍隊は槍を持った装甲騎兵、弓を持った軽騎兵とを
含む、歩騎混成だと言うことだ。
だからモンゴルの騎馬軍団はさしあたり関係ない。

>>767
>なぜ興味を持ったかというと、これがあまりにも古墳時代とそっくりだから

>全然そっくりではない。 状況が全く違う。 16世紀のスペイン人が

文章をよく読んでくれ。
私が比較したのは古墳時代と、アステカ帝国の支配形態だ。
この比較に、さしあたりスペイン人は無関係。







784 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 10:40:56
>>783

半島南部の刺青集団は、歩兵に優れていいたそうです。但し倭人と思われ。

785 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 13:36:18
>>783の上

意味分かりません。
俺は一応、日本における扶余の定住地域も職種も特証明しました。
あなたは扶余が河内王朝を簒奪したことを証明できてませんね。

で、何が言いたいの?

786 :785:2006/05/15(月) 13:38:39
×特証明
○証明

787 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 14:13:33
何度も言うけど
自分に都合良い歴史を拾ってきては、他との符合がなくとも
事実だと認定「したがる」スカタンを最近よく見かけます
アステカやノルマンの事例を持ち出してもループするだけ
ネタレスに突っ走る気満々なら別だけど、そろそろ止めないか?

788 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 14:32:25
>>783

>コルテスのアステカ征服になぜ興味を持ったかというと、これがあまりにも古墳時代とそっくりだから
>ピラミッドを前方後円墳に入れ替えれば、そのまま古墳時代ではないか
>古墳時代は外部から有力な小集団が投入されたときに何が起こるかの実験となった
>モニュメント建設の動員力はただちに戦力ではない、という論点である
>私が比較したのは古墳時代とアステカ帝国の支配形態だ
>この比較に、さしあたりスペイン人(外部から有力な小集団)は無関係

あなたの言っていることは矛盾している。

>古墳時代は外部から有力な小集団が投入されたときに何が起こるかの実験となった
>この比較に、さしあたりスペイン人(外部から有力な小集団)は無関係

支配形態が似ていれば、「外部から投入される有力な小集団」はどんな集団でも無関係という。

1、5世紀の朝鮮半島の扶余族が、古墳時代の日本を攻める。
2、16世紀のスペイン人が騎馬・鉄砲・天然痘という細菌兵器を装備して、古墳時代の日本を攻める。
3、21世紀の日本がイージス艦・長距離ミサイル・戦車などの兵器を持って、古墳時代の日本を攻める。

あなたはそれでも「あまりにも古墳時代とそっくりだ。」と言うのか?
全然そっくりではない。
状況が全く違う。
16世紀のスペイン人が騎馬・鉄砲・天然痘という細菌兵器を装備して、原住民のインデアンを攻めるのが、古墳時代にそっくりなのか?

コルテスのアステカ征服に似ている状況を挙げるとするならば
16世紀の織田信長の軍隊が騎馬・鉄砲・疫病という細菌兵器を装備して、東南アジアを攻めるようなものだ。
文明の格差と距離から説明すると、これくらいの差はある。


789 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 15:17:35
100歩譲って簒奪王朝にしろ、それが扶余系によりものかどうかは?。
後漢書・三国志などから百済・新羅・伽耶に挟まれる形で倭(任那?)
が存在していたらしい、伽耶=任那ではなく、任那は伽耶として独立する際に、
伽耶連邦に参加した一国であったと考えるのが普通、で
伽耶勢力が九州(倭地)に入ったにしろ、同じ倭(任那?)主導で画策されたと考えるのが自然、で
九州勢力と結ぶなりし通じ、相対勢力(九州)の主を神輿として担ぎ上げた方が何かと手っ取り早い、し
失敗した時の事を考えたりすると、俺ならそうする。

790 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 15:53:41
>>788
>コルテスのアステカ征服になぜ興味を持ったかというと、これがあまりにも
>古墳時代とそっくりだから

これは私の文章ではないね。私は「興味を持った」対象がアステカ帝国の「構造」
であることがちゃんとわかるように書いている。
人の文章をねじ曲げて引用するのは最も避けるべきことだ。

で、先に進む前に、あなたはあなたはアステカ帝国の支配構造と、古墳時代の
支配構造とが似ていると言う私の意見(ここまではコルテスは無関係)について
どう思うのか?

791 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 15:57:09
>>790
訂正: 「あなたは」が重複した。

792 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 16:11:19
まあ応神なんてのは改竄しまくった筑紫の豪族だろう
半島で職人間狩りでもやって労働にでも当たらせたんだろ?
その当時も倭寇が大陸で人間狩りをやってたのは超有名だしな。

793 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 16:33:51
>>790

>で、先に進む前に、あなたはあなたはアステカ帝国の支配構造と、古墳時代の
>支配構造とが似ていると言う私の意見(ここまではコルテスは無関係)について
>どう思うのか?

あなたのアホみたいな質問に答えるのも、バカらしいが、

アステカ帝国と5世紀の日本が具体的にどの部分が似ているのか?
こんな曖昧な質問ではなく、もっと論点をしぼってくれ。
それに対して反論しよう。

これまでのあなたの意見からは「ピラミッドと古墳が似ているのだ。」としか読み取れない。

794 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 16:46:19
>>792
それはそれでデムパ

795 ::2006/05/15(月) 17:24:46
応神「アソコってばイロンナ椰子ワンサカいるらしいじゃん? 
   引き抜きにでも逝っとくか? 善は急げ駄な。。」

子分「ウイ〜」

応神「アホ王は適当に唆して俺っちに下らせろい
   雑魚民はワッパかけてイパーイ連れて来いよい
   舎弟が船で待機してっから、その指示によく従え!
   者ども さぁ逝ケェーーーーーーーーーーィ!!」

子分「ウイッウイ〜!」


。。。ゴメン、俺の中の応神さんはこれなんだよw

796 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 17:35:47
>>783
>日本語大丈夫か? 兵士が馬に乗って武器を持っていれば、1騎だって騎兵だ。

俺は>>774だが、お前はアホか?
そんな言葉遊びしてたら議論にならない。
話にならない。
俺はその前文で、騎兵を定義しただろう。
それを自分の都合のよい部分だけを抜粋して、「馬に乗っていれば騎兵だ。」なんてぬかすとは呆れるだけだ。


「騎兵の定義 」

モンゴル騎兵は下っ端の一般兵まで馬に乗っていた。
馬が傷付けば、馬を乗り換えて戦っていた。
チンギス・ハーンは戦場に20頭の馬を連れて行ったという。
また、モンゴル一般兵も最低でも5頭の馬を戦場に連れて行ったという。
つまり、モンゴル軍には人間の5倍以上の馬が存在したことになる。
>>763さんに指摘したいのだが、10頭の馬を連れて行ったからって、 騎兵にはならない。

これに対するお前の答えは
>日本語大丈夫か? 兵士が馬に乗って武器を持っていれば、1騎だって騎兵だ。

俺の「騎兵の定義」のどこに日本語のおかしい部分がある?
自分の都合のよい部分だけを抜粋して、「日本語大丈夫か?馬に乗っていれば騎兵だ。」
なんてぬかすとは呆れるだけだ。


797 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 19:12:51
>>783

>古墳時代は外部から有力な小集団が投入されたときに何が起こるかの実験となった
>この比較に、さしあたりスペイン人(外部から有力な小集団)は無関係

自分自身で「古墳時代は外部から有力な小集団が投入されたときに何が起こるかの実験となった」と言っているのに、
その外部から投入された集団が、どんな集団かは無関係ってのはおかしいだろう。

その投入された集団が、
1)5世紀の朝鮮半島の扶余族
2)16世紀のスペイン人で騎馬・鉄砲・天然痘という細菌兵器を装備
3)21世紀の日本でイージス艦・長距離ミサイル・戦車などの兵器を装備

アステカ帝国のように閉鎖された社会に、外部から集団が投入されたときに何が起こるか実験するならば
この(1)(2)(3)によって結果は変わってくる。

それ以前の問題で、アステカ帝国はスペインとの接触はほとんどなかったが、
古墳時代の日本は朝鮮半島とは接触があったからね。
前提条件が違うから実験にならないと思うんだが。

というか、ほとんどネタスレになってきているから、
「10人の騎兵は1万人の歩兵に勝ったこともあるから、日本は騎馬民族に征服されたのだ。」
とか言うのやめないか?

798 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:19:55
>>797
>その外部から投入された集団が、どんな集団かは無関係ってのはおかしいだろう。

だれがそんなことを言った?
私は「アステカ帝国と古墳時代の倭国の支配構造は似ている」という比較の
なかにはスペイン人と言う要素は無関係だ、と言ったのだ。
両者が似ていることを前提にしてはじめて、「有力な小集団」の影響の
論議ができるのだ。

もちろん、どんな小集団かは問題だ。しかし鉄砲だなんだの話をするのは
「抽象力不足」ののそしりを免れないだろう。
ここでは「有力かどうか、どのように、どの程度有力か」が問題なのだ。
それについてはぼちぼち述べよう。
(上記の私の「比較」は新しい見方だから、これを読んだ誰かが利用すると思うよ)

>>796
だから、君の「騎兵」の定義はよくわかった。
私は君の定義による「騎兵」が扶余とは関係ない、と言っているだけだ。

799 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:30:15
>>790
>>798

>で、先に進む前に、あなたはあなたはアステカ帝国の支配構造と、古墳時代の
>支配構造とが似ていると言う私の意見(ここまではコルテスは無関係)について
>どう思うのか?

あなたのアホみたいな質問に答えるのも、バカらしいが、

アステカ帝国と5世紀の日本が具体的にどの部分が似ているのか?
こんな曖昧な質問ではなく、もっと論点をしぼってくれ。
それに対して反論しよう。

これまでのあなたの意見からは「ピラミッドと古墳が似ているのだ。」としか読み取れない。

800 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:36:58
もうアステカとかどうでもいいよw
アステカと日本は違うだろうがw



801 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:44:39
しばらく見ない内にレベルが下がったな。
ほとんどネタスレ状態だな。

物語なら、「10人の騎兵は1万人の歩兵に勝ったこともある」し、
張飛1人で、100万人の曹操軍を撃退したこともあるんじゃない?

ただ、現実と物語の区別をしろよ!

「騎馬民族征服説」も江上波夫が作り出した物語だけどな!!


802 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:49:59
最近、青牛くん元気ないね。
仕事で忙しいのかな?
それとも、騎馬民族説は俗説って認めたのかな?

803 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:07:47
>>802
郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史 其の弐
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1144579367

804 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:18:49
なんだ騎馬民族説じゃなくそっちに興味移ったかw

805 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:23:09
>>804
前スレ205

郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1071589634/

806 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:25:15
ここから彼の伝説は始まったのだなw

205 :名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/02 01:08 ID:WhVN00Bz
昭和17年10月広島39師団(藤)は、宜昌を仙台13師団(鏡)と警備交代
16年の敵反攻で宜昌の13師団は、陥落寸前に陥り39師団が救援し喰い止めた。
13師団は野戦師団(2万5千人)で、39師団は警備師団(1万4千人)
宜昌は旅団長率いる2連隊(5大隊)で守備していた。これを広島231連隊は
連隊長指揮の2大隊と2中隊で守備し、兵力は2分の1以下に
兵力比も1中隊に対し敵1個師団、そして圧倒的な敵の火力下
1人で数10人を相手に戦う死闘を展開することになった。

攻撃なら、1人の勇士がいれば他の者はそれに従がって進むからまだいい。
防御戦は、兵1人1人の戦闘能力が勝敗を左右する。
いちいち細かい命令指示をまたずに、自信をもって戦闘行動の出来る能力が要求され
各個人が鍛えられた戦士でなければ、そこが弱点となって敵に抜かれる心配がある。
そして素質、広島部隊の資質である機敏さを発揮することになる。

807 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:35:37
日本の王権を「ノルマンディーを失ったノルマン王朝のイングランド」に擬して
語る人って昔から後を絶たないんだけど、その手の喩え話を持ち出すなら、デー
ン人を持ち出したっていいだろうって気がする。その場合、北欧のどの人々&地
域が東アジアのどの人々&地域に相当させれば話にオチが付くかは人によって違
ってくるだろうし(差しあたり私は、スカンジナビア=日本列島、ノルマンディ
ー=任那&百済、デーン人(バイキング)=倭人、というパターンを考えてみた)、
どの喩え方が適当か不適当かなんて言い出したらキリがないわけだけど、それを
言うならそもそも「ノルマンディーを失ったノルマン王朝のイングランド」の喩
えが無意味だったわけで、つまり何が言いたいかというと、イングランド王権の
成立史は日本の古代史の参考になりえるとする発想そのものが、実は英独仏中心
の西欧史に脳髄を毒された前世紀の遺物だということ。

808 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 23:42:37
>>790
>>798

>で、先に進む前に、あなたはあなたはアステカ帝国の支配構造と、古墳時代の
>支配構造とが似ていると言う私の意見(ここまではコルテスは無関係)について
>どう思うのか?

あなたのアホみたいな質問に答えるのも、バカらしいが、

アステカ帝国と5世紀の日本が具体的にどの部分が似ているのか?
こんな曖昧な質問ではなく、もっと論点をしぼってくれ。
それに対して反論しよう。

これまでのあなたの意見からは「ピラミッドと古墳が似ているのだ。」としか読み取れない。

809 :白馬青牛:2006/05/16(火) 00:27:45
「郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史」の方に、書いとったんで、
このスレはご無沙汰じゃったか。
>>807
梅棹忠夫氏は、『日本の海洋民』未来社刊で、P40「高句麗・百済・倭と
いうものが、同じ原理で作られたツングース諸国家群だと見たいわけです。
これは西洋のノルマン・コンクェストと対比されるべきもので、
極東水域でのツングース・コンクェスト。」
P58「ツングースは極東のゲルマンである、と見ているのです。(中略)
ツングースがゲルマン諸族とすれば、モンゴルはスラブ諸族だ。(中略)
しかも元というのは徹底的な大陸国家であって、海の原理は遂に加えられ
なかった。海の原理を持ったのはツングースのほうだった。」とされる。
わし自身は、スカンジナビア=満洲・沿海州のアムールランド
(川喜田二郎氏の命名)島国の英国=島国の日本。ケルト系原住民=
列島の蝦夷・倭人。ノルウェー系ヴァイキング=北海道へ殖民した
オホーツク文化人。地中海の海民=東シナ海の越文化人。
アングロ・サクソン、デーン人=高句麗・百済・西日本人。を想定
しょうか。西欧と極東では、歴史、風土条件が違うので、もちろん違いが
あるが。

810 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 01:22:01
どうでもいいけど
ケルト人=縄文人
アングロサクソン人=呉/越/楚/韓/秦/余人
アングロ人=倭人
諸ヴァイキング=該当なし
高句麗/百済人=ボートピープル
これだな。

811 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 04:57:38
>>676, 677

http://toron.pepper.jp/jp/kodai/to660/shujyou.html
>百済は滅亡したが、
>唐はかつての百済王族である彼(扶余隆)を起用し、
>百済旧領の支配の安定化を図ったわけである。

812 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 11:08:56
>>807
どうもあやふやだな。
先ずノルマン人と「デーン人(バイキング)」は確かに別だが、その元は同じだ。
つまり、バイキングと呼ばれるデーン人やノルウェー人がノルマンジーにやって来て
ゲルマン人やケルト系原住民等と混血して形成されたのがノルマン人だ。

それからノルマン人はイングランドを征服したがそれによってノルマンジーを失った
のではない。イングランドとノルマンジーを合わせた王国を作ったのだ。

813 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 14:14:05
>>808
>アステカ帝国と5世紀の日本が具体的にどの部分が似ているのか?

それについてはもう説明した。アステカの支配構造についてかいつまんで
説明した上で「ピラミッドを前方後円墳に入れ替えれば、そのまま古墳時代
ではないか。」と言っているのだから、説明のその他の部分は古墳時代に
もあてはまる、という意味であるのは明らかだ。

まあ、アステカを大和に入れ替えるのは当然だし、あと「人身御供」ぐらい
は省くけどね。

ところで、あなたが「ピラミッドと古墳は似ている、ぐらいにしか受け取れ
ない」と言っているのは、私の文章を正しく理解しているのである。
なぜなら、ピラミッドと前方後円墳は、外形的にはもとより似ていない。
だからあなたが「似ている」と受け取ったのは両者の「性格」に違いない
からだ。

では両者に共通する性格はなにか。
1. 祭祀設備と埋葬設備を兼ねている。
2. 支配国と被支配国の共通の宗教に関連している。
3. 支配國も被支配国も、ほぼ同じ形に造る。
4. その相対的な大きさが、ばくぜんと支配被支配関係を表している。

などが挙げられる。建造物についてのこのような共通性は、両者の支配体制
の相似を裏書きしているのである。

814 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 14:40:02
どうでもいいが、「騎馬民族」という事を忘れ去っているようだな。

馬牛を飼っているだけでは騎馬民族とは言えないし、半島出身なら「即騎馬民族」という事では
ないのだが…

815 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 14:49:31
なにこの殺伐とした空気はw

816 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 14:55:57
ヤブサメやってる関東東北の騎馬民だけだよ。
他は騎馬文化はもっとらん

817 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 15:14:46
>>816

鎌倉時代の馬は小さくて、現代人が乗りこなすのは難しいそうだ。
馬もすぐにへたばったというから、山川草木の日本列島で、どれだけ
騎馬兵(侍)が活躍したのかについては、少々疑問を持っている。

818 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 15:20:12
大宰府の道真を引いていたのも馬ではなく
牛だったということだ。

819 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 18:49:44
>>814
「騎馬民族」は忘れてもいいのだ。
江上ははっきりと「扶余」が日本を支配して天皇族になった、と言っている
のだから、扶余が「騎馬民族」の定義にあてはまるかどうかはどうでもよい
のである。

>>817
問題は古墳時代の馬だ。古墳時代の馬の大きさは、長野県の牧場遺跡の
ひずめの跡からわかる。それによれば蒙古馬と同じ「中型馬」だった。

820 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 18:59:51
天皇族って他人事のように、
天皇の子孫なんて1億はいるぞ。

821 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 19:29:56
★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、
日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していた。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準のレベルに差があった、
などということはありえない。古代においては、日本列島もカラ半島南部も『倭人の世界』だったのであり、
同じ倭人どうしが交流していたのだ。朝鮮人は、古代日本とは何の関係もないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)ではない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、古代カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郷(現在のソウルの東方地域)に
住んでいた少数部族であるが、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に難民となって南下し、
日本領=シラキに移住したのである。後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、
王権を簒奪して志良岐を乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
高句麗に追われて難民化したワイ族を、志良岐王家が保護しシラキ居住を許可した、その恩を忘れ、
「恩をアダで返す」行為をしたわけである。ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
この事実を見ても、ワイ人(朝鮮人)が中国人からいかに嫌われていたかが分かるであろう。
朝鮮民族は、けして韓人(カラビト)ではない。 もちろん、倭人=日本人でもない。



822 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 19:41:55
>>817
鎌倉時代の馬の事がなんでわかるんだ?
それ、現代の日本馬だろ。

823 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:38:11
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。
彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。


824 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:50:59
>>819
>江上ははっきりと「扶余」が日本を支配して天皇族になった、と言っている

東大教授で文化勲章受章者であろうが関係ない。
俺は、はっきりと言う。
「扶余」は日本に来て、穢多になった。

825 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:52:51
>>817

当時の馬は、小さかったんです。
よろい武者の鎧は重くてざっと20キロにもなり、馬も疲弊しやすかった。
それもあって、日本の戦は、騎馬戦が基本ではなくて、現代風に言えば「歩兵」が
大活躍をした。
それに引き換え、モンゴル軍は、下っ端に至るまで「騎兵」が普通だった。

で、何が言いたいかというと、山川草木の日本の地は、そもそも騎馬戦向きではなかったという事。

826 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:57:25
>>813
何を根拠に大和(または九州?)王権をアステカと比較するのかよくわからないが
アステカと大和で比較にすらならないのだが
アステカとは違い大和の祖先である倭人は呉越楚時代に馬や牛を見慣れており
その馬を使った戦車も持っていた。さらにアルタイ語族(ツングース?)と
交流もあり騎兵の戦い方を知っていたとも限らない
そもそもコルテスとの戦いでアステカは大敗したと言われてるが
アステカ軍はスペイン騎兵をアステカの神ケツアルコアトルと勘違いしたと
いう説もあるが倭人がそんな間違いをしたとは思えない
それに倭人の祖先の国の一つである楚はスキタイ文化圏のペルシャから
来たと言われる秦を滅ぼすのにも成功している。騎兵がいかに万能ではないかを
示す証拠の一つとも言えよう

>>814
ここに騎馬民族のリストがあるがおおよそ遊牧民や狩猟民の中で
騎乗の習慣のある部族の事を言うのだろう
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/kibalist.html

827 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:58:40
>>824
じゃあ、どの程度信憑性ある話か
発表してみろ。

828 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:00:43
>>819

その江上だが、『日本民族の源流』(95年、講談社学術文庫)の中で、
狗邪は加羅の事であり、すなわち任那の事でもあるが、三国時代にはすでに
倭の一部となっていた、とも述べている。

829 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:02:21
>>826
おいおい秦はスキタイか?
兵馬俑みるとどうみてもモンゴロイドにしかみえん。
チャイニーズは日本人と違い人形つくりは上手で
ソグド人なんかちゃんと特徴捉えて
作ってるぞw

そんなこんなで君の話はすべてが価値をなくす。

830 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:04:16
>>823は正しい。

ワイ人は日本に来ていない。
つーか、古代日本人と敵対関係にあったのがワイ人。
これが真実。



831 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:04:21
>>821
>>822

Wiki見てきたけど、欧米人は信じきってるよ、たぶん。

832 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:09:02
そもそもなぜなんのためにセンミンにしなければ
ならなかったか具体的な理由もほしい。
ワイ、穢だけではとても理由にはなりません。


833 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:13:19
>>819

江上は、任那が倭の一部だった事を認めていたようだが、
半島や大陸の古文書にある、弁韓や任那の事はどうする?

日本で活躍したのは、扶余だけか?

>>817

馬を倭人が積極的に仕入れてきたっていう事は、一切考えられないわけ?
当時の倭人だってモグリじゃないんだから、大陸や半島との交流は活発だよねぇ?
「馬って便利だよなぁ…」って思う事もあったんじゃないの?

ある時期馬がブームになったという可能性もあると睨んでいる。
対岸の人間が馬に乗っていたら、真似したいだろう。有力者なら。

834 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:16:43
先入観があって縄文人は原始人みたいな
イメージが日本人にはあるのだが実際そんなことは
ないと思う。縄文後期には相当な文明を気づき
海外との交易もしてる。


835 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:21:12
>>827
このスレの400あたりから読めよ、ボケッ!

836 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:27:55
>>834

三内丸山以来大分変化してきているよ。
特別展もかなり開催されたしね。

ただし、韓国人も中国人も、縄文時代は「原始時代」だと思っている人間が多い。
徐福伝説に凝ってる中国人の娘がいるんだけど「原始人に徐福が新しい技術を授けた」
みたいに解釈しているんだよねー。

縄文人文化も見るべきものが多いし、大陸との交流があったりして、山奥の原始人でなかったはずなのだが。

837 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:32:17
>>829

>チャイニーズは日本人と違い

誰だよ?その当時のチャイニーズと日本人て?

古代の話するのに「日本人」とか「中国人」とか「朝鮮人」とかなしな。
当時そんな国名じゃないし。

838 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 21:46:52
>
すまん、とても全部読む気になれん。
ちょっと読んだけどそれだけでセンミン=扶余とは
おもえません。
誰か、要約してちょ

839 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:06:54
扶余は高句麗人で高句麗人の中に扶余がいるというだけの
話だろう。一部朝鮮の山間部にいたワイは近代的な
生活になじめず山地暮らしをする被差別民。
彼らの中から被差別民として倭にきた人もいただろう。
とても大和政権が高句麗の中から扶余だけ区別して
固定化した差別していたとはおもえんな。
余はそうおもうぞw

840 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:15:02
被差別民は別に固定的なもんじゃなかろう。

いずれにしても天皇家はじめ殆どの日本人に
北方モンゴロイドが混じるのは
顔みればわかる。
特に天皇家はきわめて純度の高い藤原氏の末裔でもある。




841 :白馬青牛:2006/05/16(火) 22:25:49
>>834836
梅原猛氏や安田善憲氏らがさかんに美化しておられるが、縄文は文明と
云えるんかのう。平均寿命も長かったという根拠が見つかったんか?
梅原氏や安田氏は、江南の長江文明の賛美者でもある。その長江文明は、
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/12-kaboto.htm
に、「脊椎骨の変形や増殖などの疾患」「生後間もない幼児を食うという
食人の習慣があり」等、安田氏の云われる桃源郷とは思えん。
縄文人、倭人、河姆渡の越文化人も、南方習俗であることに違いない。
江南・東南アジア・オセアニアの太平洋文化圏を含め、刺青、抜歯、食人、
首狩りの習慣・儀礼。共通項が多いが、桃源郷のような理想社会とする
のは、如何なものか。

842 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:26:36
>>838
牛皮なめしの技術が渡来系なんだ。
牛という動物自体、渡来人が連れてきたのだし。
じゃ、誰だろうって話。
牛殺し、皮をなめし、川べりに住んでた扶余が有力だよね。
しかも、日本の牛皮なめし発祥の地に、
扶余を意味する「余部(よべ)」という地名がある。
中世の京都にも、鴨川べりに、
「余(よ)」が訓読みの「あま」に転化したと思われる「余部(あまべ)」と言われる、
渡来系皮革民が住んでた。

843 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:35:56
>>841

縄文は戦がなかったと聞きましたが。
平和な印象は受ける。

844 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:36:26
>>841
別に桃源郷とは思ってないよ。
平均寿命の短さは幼児死亡率の高さ。
幼児でも分母の1にカウントされる。
一人0歳で死んで一人50まで生きても
平均寿命は25歳。
幼児死亡率の高さは出産医療の未熟さだけではなく
避妊術の未熟さもあったかもしれない。

それでも夫婦二人で4人子供生んで2人育てれば
ちゃんとした文化は根付く。
降ろしてそれもカウントしてたら
平均寿命相当下がってるだろう。

845 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:38:56
>>>84
それだけじゃ根拠薄い。
もしかすると、そういう扶余もいたかもしれんが、
とてもそれだけで千年差別される理由はない。


846 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:44:02
>>845
何の根拠もない「扶余・河内王朝簒奪説」より、数百倍根拠がある。w

847 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:55:16
>>845
アンカーぐらいまともに打てよw
差別された理由は、殺生禁止以降だろうな。

848 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:06:11
被差別民が中央にほど多い理由は、
朝廷への不満のはけ口として利用したためとも
考えられる。

849 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:11:48
元は民族対立だろ、大和朝廷が受け入れた渡来系などとのw、同化する中で形を変へていろんなもんに転化したんだろ。

850 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:21:15
これだけ、交通機関とメディアが発展した今でも
100k超える向こうはちょっと違う土地という意識があるのに
古代はもっと凄い偏見で違う土地の人をみてただろう。
当然方言も違う、文化も違う。そんなヤシらが
巨大な力と権力に結集しようとするのは
それよりもっと大きな
巨大権力に立ち向かうときしかないと思う。
当時であれば中国の圧力だったり、半島の資源だったり。
民族というより文化だったり経済的な対立が発端だな。

851 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:22:00
扶余が伽耶の地で、すでに倭人の隷属化にあったと考えたなら、
日本に来て被差別民になったのも納得できる。


852 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:31:13

もともと、倭には生口のような
アンダーカーストはあったわけで
その中に半島からつれてきたのがいても
おかしくはない。


853 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 00:22:45
>>825
日本馬が特別小さいわけじゃないよ。
それに戦場では、馬牧の中から選りすぐりの馬に騎乗したわけだし。経済力がないと無理だが。
8世紀後半、対蝦夷の朝廷軍はさらに重装騎兵。

藤原広嗣の乱、平将門の乱
いずれも少数の騎兵が活躍。歩兵集団は戦況が悪くなると直ぐ散っちゃう。
将門の従類(少数騎兵)と伴類(多数歩兵)みたいな。

>>816
やぶさめじゃなくて狩猟な。儀礼的な流鏑馬は都で発展したものだから。

854 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 00:26:20
混成地域には外部勢力は入りやすい、倭が旨いとこ積極展開したって感じか?
眠れる職人さんいらしゃーい、使える奴婢連れて鯉や!君のそれってエエよね
ネちょーらいちょーらい、パクーリとか普通にやってたんじゃね?うん宝石箱

855 :白馬青牛:2006/05/17(水) 01:13:40
>>844
平均寿命は、0歳からも含むので、確かに幼児死亡率が高い。
十五歳以上の人骨から考えたい。
http://www.ichiyomi.jp/rekisi/index4.html
に、おおむね三十歳強が死亡年齢であろう。

856 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 01:50:00
当時は国際法みたいなのはなく朝貢がその代わりみたいなものかな?
しかし、倭は法律は厳格でそれを犯すものは少ないとか
それなりの法治国家体制はあったと思うね。
もともと東洋人は個人では何もできないので無法者は少なかったかも
しかし集団になるとなにやらかすかわからん怖さもある。

857 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 07:25:58
>>850
>半島の資源だったり、

これあり得ると思っている。馬や牛なども含めて。

倭人が住んでいた半島南部は、鉄などを産出して牛を飼っていたらしい、三国志などによると。

その為、交流の活発だった弁韓地方(というか任那)を経由して、資源やら家畜やら
が入ってきた可能性は高いと正直思っている。

858 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 07:33:28
>>840

顔を見ただけでは遺伝子的な事は判らんらしいです。
例えばイギリス人とドイツ人は体格や顔つきが似ているように思いますが、
実際にはイタリア人とドイツ人の方が幾分近いらしいんです。
遺伝子にも優性と劣性があるでしょう?

って、昔読んだ「日本人新起源論」とかいう本に書いてあったように思います。

859 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 16:51:00
>>841
意図的に貶めてるだけだと思うが。
それをいうなら大陸から征服者としてやって来、平和的だったか野蛮的だったかは知らんが縄文人とミックスした
所謂倭人は縄文社会に無かった戦争という概念を持ち込み、騎馬民族征服説支持者によればその上で更に騎馬民族が
土着の倭人を「征服」したんだろうに。征服過程を記紀神話に基づくのなら平和だったとは言い難いだろう。
そもそも「首狩り」「抜歯」「食人」が縄文人にあったのかは知らんがそれが殊更に野蛮だとも思えん。現代的な価値観や
他文化から斜めに見ればそう思えるのかもしれんが文化というのは相対的に見るべきだろう。問題なのは縄文人が韓国人や
中国人が「原始人」と言うほど野蛮で愚かな人々だったのか、ということだが俺はそうは思わん。
だいたい、北方が優秀で南方が劣等なんてのは戦前の思想だと思うが。

860 :訂正:2006/05/17(水) 16:52:03
>>859
>文化というのは相対的に見るべきだろう。
ではなく
文化というのは相対的に見るべきじゃないだろう

861 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:18:11
>>826
>アステカとは違い大和の祖先である倭人は呉越楚時代に馬や牛を
>見慣れており

アステカも途中からは馬に馴れた。コルテスの騎兵の馬が一刀のもとに
首を落とされたこともあった。馬に馴れれば後は普通の騎兵対歩兵の
力関係があるだけだった。

>そもそもコルテスとの戦いでアステカは大敗したと言われてるが

コルテスが10騎の騎兵で1万人以上に勝ったのは最初のタバスコとの
戦いだ。アステカとは血みどろの戦いだった。コルテス軍が約半数の
人と馬を失って漸く逃れたこともある。

>アステカ軍はスペイン騎兵をアステカの神ケツアルコアトルと勘違いした

ケツァルコアトルと勘違いしたのはコルテス個人だ。その説の主唱者は
モンテスーマ皇帝だったが、反乱軍はそれを信じなかった。あるいは
信じたとしてもケツァルは殺すべきだと言う説を信じた。
だからこそ反乱軍はモンテスーマを殺してコルテスと戦ったのだ。



862 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:26:21
>騎兵がいかに万能ではないかを示す証拠の一つとも言えよう

上述のようにコルテスの騎兵は途中からは「超自然の怪物」ではなく
単なる騎兵であった。
しかしコルテスをかつぐ反アステカ国の人々にとっては、騎兵や鉄砲は
コルテスの力の「象徴」ではあっただろう。

しかし間違えていけないのは、「単なる騎兵」でも相手が騎兵を持たないときは
やはりそれなりの威力がある、ということだ。上記の敗戦でよれよれになった
コルテス軍がアステカの大軍に追いつかれたとき、コルテスを救ったのはやはり
騎兵の穿貫力であった。数騎の騎兵が大軍のなかを貫通してアステカ軍の将軍を
殺したのだ。

863 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:43:12
>>862
幾ら扶余征服説を世界史の希有な類例を根拠に納得させようと、
それこそ佐原氏を江上説の支持者が例えば馬の去勢云々や馬の
輸送の問題などで揚げ足を取っていると非難するのと同じだな。
どちらも陳腐。大体コルテス軍対アステカの例は、コルテスの勝利
自体が世界史的に見ても希だった。それを類に出しても誰も納得せ
んなあ。尤も誰も納得させたいんじゃないなら話は別だが。

864 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:48:14
>>849

俺もそう思う。政権内の民族抗争と言いましょうか、派閥争いと言いましょうか…


865 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:56:50
>>826
扶余が騎馬民族として生活していたのは、BC2C〜AD5Cか…。
この間に日本列島が制圧されていたら、文字通りの「騎馬民族」征服説になる訳だ。


866 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:00:47
>>865
というより扶余は六世紀には消滅してるわな。
いつから農耕をするようになったか知らんが。

867 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:52:54
>>866

扶余が6世紀に消滅するまでに、日本列島が扶余に征服された可能性ってある?


868 :白馬青牛:2006/05/17(水) 22:53:26
>>859
わしは、「天皇家って何処から来たの?3」の362でも野蛮と
決め付けてはならんと云うとる。
縄文や弥生の倭人、江南の長江文明を美化し、桃源郷、理想社会と考え、
老荘的、道教的、朱子学的中華思想による南方文明万歳は、相対的に
見ておるとは思えんよ。

869 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 00:53:23
白馬青牛の脳年齢は75歳!!

870 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 01:18:20
三波波夫でございます
水野波夫でございます

871 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 01:53:43
ざっと読んでみたけど、
当時の半島と日本の経済力の差ってどの程度だったんだろう
半島でも北のほうは寒さで稲を栽培できなかったみたいだし
そう思えば九州から西日本一帯で稲が栽培できる日本列島のほうが経済力で言えば
圧倒的だったんじゃないかと思うんだけどどうだろう
これは養える人口の差だから文化や技術的に多少遅れていても
国家間のパワーバランスでいえば稲作が普及したのに常に半島の諸国を圧倒していたとは考えられないのかな
仁徳天皇陵のような人手のかかる馬鹿でかいものは半島にはないみたいだし
素人考えだけど

872 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 02:09:04
稲作してたのが渡来人だけだという考えはあまりに
短絡的で子供だましであったとしか思えない。
もし、そういう遺跡データがあっても疑って掛かるべきである。
現代人の顔も多種多様ではないか
にもかかわらず従来の考古学者は稲作=渡来人という
ドグマに取り付かれてそれで国民に教育していたわけ。
漏れが権力者なら100年強制労働の刑に処す。


873 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 04:54:18
>>863
世界史は「世界史的に希な」例で動いていると、つくづく思う。

ギリシャのペルシャ戦争での勝利。
アレキサンドルの征服。
ローマ人の大帝国。
ノルマン人のイングランド征服。
ジンギスカンの大帝国。
満洲族の中国征服。
そして日本の日露戦争の勝利。

どれもその一つ一つは信じられないことばかりだ。

874 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 08:09:44
>>873
>日露戦争の勝利

造船技術が優れ、船は軽量で小回りが利いたと聞いた。

875 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 14:05:36
>>873
>満州族の中国征服

満州族は「馬上に天下を平らげた」誇り高き騎馬民族。
じゃぁ、日本の古代において騎馬民族ないしその末裔が天下を平らげた可能性は?

今だにどういう方法で征服したのか、想像もつかんがな。

876 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 14:43:18
>>873
どれもその一つ一つは信じられないことばかりと強烈に謳っているのは
当時も現代も詳細を知らない無知なヤシらだけだよ
一つ一つ緻密に検証したら偶然の勝利でもなんでもなく至当の結果
であり、歴史的事実だということに気付くはずだ。

877 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 19:30:43
>>875
この前からの書き込みを見ると、応仁が簒奪王朝の始祖であり、かつ九州の豪族
だという考え方にはあまり抵抗がないようだ。
では応仁はどうやって大和を征服したのか?
大和と九州では前方後円墳の大きさに現れる(とされる)動員力では比較にならない。

このように差のある九州の一豪族がどうやって大和王権を倒したのか?
これだって「想像もつかん」のではないか?

878 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 19:41:29
>>877
こらこら、工作すんな、チョン。
誰が抵抗がないだと

879 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 20:10:56
都合のいい箇所だけ取り上げるなよ、
親類と書いてあるだろうが。
応仁一族は九州でも征服者だろうが・・
東チョン工作員が多くってたまらん

880 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 22:11:52
>>869
肉体年齢が75歳で
脳年齢は7,5歳

881 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 00:55:20
>>877
仮に簒奪王朝と史書に残されていたとしても
当然多角的な見方や考え方が出来るから収拾つかん状態になるな。

ましてや記録にも残っていない
九州の一豪族がどうやって大和王権を倒したのか?
とか論外も論外「想像もつかん」のは当たり前や。

882 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 01:54:07
河内陵墓の嚆矢といえば津堂城山
津堂城山といえばハクチョウ埴輪
ハクチョウといえば九州……なわけない


883 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 10:32:40
ごめん、応神を応仁と書き間違えた。

>>879
>応仁一族は九州でも征服者だろうが・・

つまり応神も強力だったということか?
私は大和の巨大古墳が動員力、すなわち軍事力を表す、という意見に対して、
それなら4世紀後半の九州の古墳はまだ小さいから、軍事力は大和に及ばな
かっただろう、それなのにどうして大和を征服できたのか?
という単純なことを言っているのだ。

>ましてや記録にも残っていない

記録に残ってない、というが、この征服に相当するのは神功記の後半部分だ。
あなたはおとぎ話のような神功記のすじがきを信じるわけか

884 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 10:36:53
>>874
>造船技術が優れ、船は軽量で小回りが利いたと聞いた。

日露戦争も遠くなりにけりだな。
日露戦争のときの日本の主力艦が全て外国製だったことを知らないのか。

885 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 11:36:04
>>883
俺は879ではないが、
もし応神に渡来系の面影を見るとしたら、それは秦氏だろう。
神功がアメノヒボコ系だしね。
扶余は無理!
扶余の出番なし。

886 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:30:30
応神は東シナ海から玄海灘〜瀬戸内海
を牛耳った大大大海賊のクック船長だよ、
んで筑紫で内乱が勃発した時にならず者の大将から
「王」として改心し、飛び火した地域の平定を誓ったのさ、
それにより諸王に一目おかれ、下ったの王も多くいたとな。

887 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:41:01
神功の土蜘蛛征伐、熊襲征伐の伝承は九州各地にあるが?
万葉集、各地神社の伝承、記紀、
これが九州の一豪族の東征と考えるあたりが
無知、無神経以外の何者でもない。


888 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:46:50
>>883
強烈な先入観があるんだろう。

だから記述、伝承、すべての
都合のいい部分だけを自説に結ぶ付け
他を無視しようとする。

伝承すべてを信じるのはできないにしても
複数の文献等の資料に見られるものは
正しいとみないと、なんもみてないのと
同じになるだろうが。

889 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:52:44
総合的にみて
結論いうと応神は八幡・宇佐の豪族、半島の秦氏、辛島引き連れて
東征、しかしもともと彼らは畿内の豪族と親類でもある。
しかし、九州では全体からみると嫌われ者、侵略者
以外の何者でもなかった。


890 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 16:01:43
>>888

俺も彼と議論していて思ったが、あなたと同意見だ。
養老猛の「バカの壁」に書いてあったが、人間の脳ミソは自分の都合の良い情報は取り入れるが、
自分の都合の悪い情報は無意識の内の排除しようとするらしい。

彼には「応神天皇が朝鮮半島からの征服者」
「応神の兵力は少ないが、コルテスがアステカ帝国を10頭の騎兵で1万人の歩兵を破ったような奇跡を起した。」
「コルテスのアステカ征服のように、瀬戸内海・四国の豪族は戦わずに降伏して、応神(朝鮮勢力)の味方をした。」
「しかし、記録には残っていない。」
という強い思い込みがあるのだろう。

彼には何を言ってもムダだよ。

891 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 16:03:45
http://kamnavi.jp/ki/ooken.htm
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kisi.html
紀氏

892 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 16:45:35
>>885
>もし応神に渡来系の面影を見るとしたら、それは秦氏だろう。

そうすると河内王朝は新羅系、百済系、または楽浪郡系の簒奪王朝、と
いうことになるが、それでいいのかな?

893 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:00:46
890
>瀬戸内海・四国の豪族は戦わずに降伏して、応神(朝鮮勢力)の味方をした。

応神が戦わずして播磨まで進軍したことがそれを証明しているではないか。
「記録」信じるんだろ?

ただし、降伏しなくても局外中立を決め込むだけでもよい。

894 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:09:18
四国、瀬戸内地域は畿内政権の堅固な地盤だから、
抵抗なんて大それたことできるとは思えないな

895 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:23:08
崇神天皇は実在で崇神のときに瀬戸内、四国地方は
完全に畿内政権に組み込まれていたと考えます。
もともと、畿内から派遣された将軍で地豪ではないのですから
地元民の協力も得られないでしょう。



896 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:37:47
秦氏なんか所詮、渡来系の職人、法律家で政治的な実権はないでしょ

大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別(たけぬなかわわけ)、
吉備津彦命(きびつひこ)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)
の周辺豪族の影響力が大きかったとおもう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/四道将軍


897 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:43:52
崇神天皇10年(紀元前88年)
実際の年代がいつごろなのはわわかりませんが
彼らが実在し列島、特に本州全域に
及ぼした影響は大きい。
彼らの影響なくして応神も語れないはず

898 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:47:58
四道将軍以前すなわち崇神天皇前には
すでに畿内政権の堅固な基盤は確立していた
ということです。
あんな古代に四道将軍の遺跡を残した各地域が
連携とって創作ストーリーの口裏あわせを
したとは到底思えない。
それほど伝承、遺跡の効力は絶大である。

899 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:58:48
巨大な政権へと成長した崇神記であってもそれに従わない
勢力がいた、そのひとつに九州があることはほぼ間違いない。
土蜘蛛征伐の八幡の将軍大屋田彦命は
大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別(たけぬなかわわけ)の
血を引くとされる。
彼らは後に筑紫氏になる。

それとどうも紀氏あたりも崇神天皇に従ってなかった
可能性が高いと思う。
そこいらでどうも、九州の豪族と紀伊の豪族がくっついた
んじゃなかろうかと・・・

900 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 18:13:53
丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子、彦坐王の子。なお、
古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘
(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)
。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。

息長神功、景行天皇、息長神功、景行天皇、息長神功、景行天皇、息長神功、景行天皇

やはりここでも豊前八幡地域と近江京都周辺地域の関係が読み取れる。
簡単にいうと景行、神功、応神は畿内、特に近江の血を引く豪族で
九州征伐に向かった一族。かれらが秦、辛島を引き連れて凱旋した。

901 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 18:27:04
魏志倭人伝時代の倭人の風習からかけ離れた
奈良、平安初期までの中国風の風俗、言語の様変わりをみて
当時の中国人は筑紫の東はみな中国人に似ていると
述べたのだと思う。
秦氏の影響が大きかったのは事実だろう。

902 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 18:46:32
魏志倭人伝の倭(九州)は土蜘蛛・熊襲政権から
大和を中心とした畿内政権への過渡期を
捉えていたとう可能性がある。
(土蜘蛛と大和勢力の遺跡が別けて発掘されるわけではない)
リアルタイムでみていた中国人でさえ列島で何が起こってるか
把握できていなかった。

903 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 18:56:34
列島各地は応神以前は
ウホウホ言ってる猿が闊歩していた
という円谷プロダクション並みの子供だましを信じているから
そういう恐ろしいドグマから抜け出せなくなる。

騎馬民族説も所詮円谷の前の大日本帝国時代の話です。
ジュネーブ条約さえ知らない愚民の時代の説です。

904 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 19:13:44
秦氏は騎馬民族ではない。
当時まだ新鮮な民族という概念を持ち出し
天孫神話等と結びつけ東大教授が唱えたものだから
そのアカデミズムに愚民は妄信してしもうた・・

905 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:05:38
>>893

>応神が戦わずして播磨まで進軍したことがそれを証明しているではないか

自国内を進軍するのと、敵国内を進軍するのでは、前提条件が違う。
まず、前提条件として、応神天皇が朝鮮半島の勢力ということを証明しろよ。
記録は信じるよ。

あと、一度、「バカの壁」を読むことをオススメします。
自分の都合の良い情報だけを歪曲して受け入れ、自分に都合の悪い情報は排除していると、
ライブドア・偽メール問題の永田議員みたいになってしまうよ。


906 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:08:15
◆江上波夫×柳田國男
 「日本人のルーツ『騎馬民族説』を巡って」

「新潮45」 2006年6月号
ttp://book.shinchosha.co.jp/shincho45/

柳田は騎馬民族説に批判的で、
3〜4の疑問があり、
一つは、海峡を渡海する船への想像力の欠落を指摘。

907 :白馬青牛:2006/05/20(土) 00:37:43
>>906
柳田氏は、稲の道等、南方論者であろう。柳田氏の言われる黒潮ルートも
漂流ルートであり、『魏志』倭人伝のルートである航海の軸線から、
妥当とは考えられん。


908 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 00:46:26
http://www.yashinomi.to/semi/gif/pic-12.1.gif
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1135786435/l50
http://www.yashinomi.to/semi/yashidai1_05.html
黒潮文化圏も本州四国には及んでないとみるのが妥当か。


909 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 01:57:35
>>829
モンゴロイドだからペルシャ人ではないというのは誤り
小アジアのトルコ人はアルタイ語族のテュルク系部族だがどうみても
コーカソイドである。なぜなら、トルコ人はアラブ・ペルシャ・ギリシャ
スラブ系のコーカソイドと混血したからに他ならない。スキタイから
大月氏を経て中国大陸に到達したペルシャ人が現地のモンゴロイドと
混血してモンゴロイド化したとも限らない。さらに始皇帝は碧眼であったとも
言われている
http://www11.plala.or.jp/jins/newsletter2004-11.files/senryaku.htm

>>861-862
しかし結局そのアステカ軍も馬に慣れてコルテスを追い詰める程にまで
善戦しているのだから騎兵がいかに万能でないかをあなたは示したのではないか?
それに前にも書いたが倭人はアステカとは違い小型の弩(中国風ボーガン)を
持っており騎兵を狙撃する事ぐらいは可能だ。なぜなら倭人は農耕だけでなく
狩猟もしているからである。ついでに言うとアルタイ語族(ツングース?)とも
交流があったからもしかしたら騎兵との戦い方も知っていた可能性もある
それだけでも騎馬民族征服王朝は成り立ちようがないという事なのだろう

910 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 02:13:07
>>859
同意。そもそもその南方系民族が後に中華文明の基礎となる長江文明を
築いた事や、カンボジアのアンコールワット、インドネシア・バリ島の
ボロブドゥール遺跡、ミクロネシア連邦・ポナペ島のナン=マタール遺跡などを
作った事を無視して抜歯や首狩・食人・刺青を以って倭人・縄文人=南方から来た
稲作をしている野蛮人、北方系民族=高度な文明を持った文明人とするのは
明らかに欧米・中華的な差別主義の何者でもない。もちろん白馬青牛氏や
コルテスのケースを持ち出してる人はそうは思っていないだろうが
騎馬民族征服説を支持してる人の一部や、中国人、韓国人の中には
こう思っている人が多いのは事実。それなら欧米・中華的文化は
果たして高度なのだろうか?食人料理を作ったり、新大陸で伝染病を
撒き散らしたり、先住民の土地を奪ったり・・・
イタリア製ホラー映画「食人族」のラストでは人類学者が「白人と原住民、
真の野蛮人はどっちだ」と言うシーンがあるがそれは倭人と中国人、韓国人にも
言えることではないか?

911 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 02:26:05
倭人伝の倭人は基本的に下層階級としてしか
残らなかったと思う。
倭人伝はあれは苗字制度のない縄文時代から続く古代文明が終り
新たな日本文化が生まれる過渡期を記述したもの。
彼らの子孫はその後のヤマト政権の中枢にはならない。
中世世界でも中央で政権を取ることはない。
地方、九州においても守護地頭職にはついてない。
この後、近畿人、関東人を中心とした
日本という国が形成される。

912 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 13:54:02
>>889
>結論いうと応神は八幡・宇佐の豪族、半島の秦氏、辛島引き連れて
>東征、しかしもともと彼らは畿内の豪族と親類でもある。
>しかし、九州では全体からみると嫌われ者、侵略者以外の何者でもなかった。

なるほど、応神単独では大きな勢力ではないが、寄り集まった周辺の勢力を
併せて、大和を圧倒した、ということだな。
それこそ私が唱えていることだ。

畿内にある支配国は周辺や地方の被支配国からも労力を提供させて、他より
大きな古墳を築くことができた。
しかしいったん応神のような対抗勢力が現れれば被支配国はどっちにつくか
のフリーハンドを有するから、支配国の古墳を築いた動員力がそのまま
軍事力にはならないのだ。



913 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 19:11:09
>>904
>秦氏は騎馬民族ではない。

扶余もあなたがたの言う騎馬民族ではない。
江上の騎馬民族の定義はもっと広いものだ。

>>905
>自国内を進軍するのと、敵国内を進軍するのでは、前提条件が違う。

応神は九州の豪族、という話が出たからそれに沿って言ったのだ。
九州の豪族の反乱であれば畿内までの道程は敵地だ。

応神が正統、というのであれば、仲哀の九州親征に始まるすじがきを
信じなければならない。なぜなら、それが応神が九州にいることの
説明だからだ。1歳の応神がね。

914 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 19:14:51
>>909
>アステカ軍も馬に慣れてコルテスを追い詰める程にまで 善戦している
>のだから騎兵がいかに万能でないかをあなたは示したのではないか?

そのことは「馬に馴れれば後は普通の騎兵対歩兵の力関係があるだけだった」
とはっきり書いている。しかしそれは騎兵の重要性を否定したのではない。

前に触れたが、コルテスが兵力の半数以上を失った大敗戦を逃れて、平原で
追撃群に捕捉されたとき、コルテスは疲れ切った400人の兵と23頭の馬、
それに7丁の銃という兵力で、数千ないし1万人のアステカ軍を迎え打った。
コルテスは歩兵に陣形を組ませて防ぐ一方で、騎兵には敵の将校をねらう
ように命じた。そして長時間の戦闘の後、遂にアステカの司令官が騎兵に
殺されたことで戦闘は終わった。

このときコルテスが騎兵を持たず歩兵だけだったら、ついにはアステカ軍に
すりつぶされたであろう。

>倭人はアステカとは違い小型の弩(中国風ボーガン)を持っており

三輪王朝の時それがあったのか? 文献は?

915 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 22:16:18
>>912-914

で、扶余被差別民説は誇りを持ってスルーかい?w

916 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 22:17:38
かわいそうだから誰か答えてくれ↓

917 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 23:00:57
何度も言うが応神を渡来系にしたいなら、
母親の神功皇后がアメノヒボコ系なんで、秦氏しかない。
ただ、アメノヒボコと言っても新羅建国の時期の倭人勢力(タバナ国)だという説が強い。

とにかく扶余は無理。
扶余は、アメノヒボコに「牛殺しをなじられる男」に意味が投影されてる。

>>912-914さんは小説を書いてるだけ。

918 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:06:08
扶余→高朱蒙→沸流(神武=応神=山幸彦=葛城襲津彦=浦島太郎)
      →温ソ(百済建国者=海幸彦)



919 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 10:02:43
>>915
よっぽど「扶余系被差別民」が居て欲しいらしいが、百歩譲ってそのような人達が
いたとしても、それが扶余系天皇を否定することにはならないだろう。
なぜなら、今では差別はないことになっているが、少なくとも少し前までは、
倭系とされる天皇族と、倭系の被差別民とが、両方存在したのだから。

915 は以前に載せた上記の文章の意味がわからないらしい。

920 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 10:22:35
>>919
>百歩譲ってそのような人達が いたとしても

君は必死で「あまるべ」だと言い訳してたね。
で、途中で逃げたわけだ。

>扶余系天皇を否定することにはならないだろう。

何度も言ってる。
河内平野の地名でもいいし、遺跡でもいいから
扶余が河内王朝を建てたことを証明してみろ。

921 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 13:54:52
>>914
で、アステカを破ったコルテスの戦いを、同じ大陸系である扶余と倭に適合させるのがどれだけ愚かなのかわからんのか。(w
そもそも倭は半島南部でも活動していたしアステカの人々のように征服者と文明的に圧倒的な差があったわけでもなければ
馬を知らなかったわけでもあるまい。何を根拠に数十頭の馬で周辺豪族を味方に付け畿内の王朝を征服したと言うのか
で何度も聞いているのだが吉林の扶余が南下し、金管を征服したのは吉林のと同じ木郭墓が見つかったのだから、
そう「判断」しているのだろう。では何故倭に見つからず同じ扶余系であるはずの高句麗と百済にみつからんのか。あと新羅にも
木殻墓はあるようだが、新羅は扶余系ではあるまい。で、後に扶余、即ち騎馬民族ではない新羅が周辺の高句麗や
百済を圧倒しているのを見ると、騎馬民族(そもそも騎馬民族に属すると戦闘力が二倍になったりするのか?(笑 サイヤ人
でもあるまいし)が最強であったというのも疑問だな。

922 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 16:10:00
>>921
そういう類の話を彼に聞くと、
従来の在地の風習で墓を作ったと答えるんだ。
簒奪という事らしい。
これはヌエみたいな説なんだよw
ただ、扶余が日本で牛皮なめしの被差別民になったという話はクリアー出来ないみたいだ。
結局、扶余なんて、半島でとっくに倭人の隷属化にあったんだよ。

923 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 16:55:25
平安時代でも女真人が攻めてきて大慌て。(刀伊の禍)

924 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:16:37
>>911

じゃあなんで「倭国」を名乗り続けたの?
「私達は、倭国を打ち破りました。私達は別の民族です」と言って、
中国様から別の名前をいただけばよかった。

925 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:18:04
>>911
(続き)
つまり、「倭人」あるいは「倭国」というものが、無視できないほど大きな存在で
あった事にかわりは無いのでは?

926 :YAP?:2006/05/21(日) 17:34:10
中国王朝から、爵号を下賜される場合、「易姓革命」が行われたら、
通常前王朝と「同一国名」を称することはなかったはずだが?

つまり、「倭国」には易姓革命が無かったと考えるべきだろう。
もし、あったとするならば、「日本」という国号に変わった時点
だが、これは、日本側が改名したような可能性が強そうだ。

927 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:45:54
>>928
日本側が先に「日本」を使い始め、中国に対して「倭は雅じゃないので日本に変えたい。」
と申し出、それを則天武后が認めたようです。(『唐書』)

928 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:48:13
>>926でした。

929 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 19:52:26
>>920
>君は必死で「あまるべ」だと言い訳してたね。

君は音の「よべ」の方が先だった、と勝手に結論しただけだ。
それで「証明できた」と称しているのだ。
「あまるべ」が「よべ」や「よご」に変わったと証明できる例は複数あるが、
「よべ」が「あまるべ」に変わったと証明できる例はたった一つでもあるのか?

930 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 21:07:43
>>921
>アステカの人々のように征服者と文明的に圧倒的な差があったわけでもなければ

文明というならスペイン人はむしろアステカの都市文明に圧倒されたし、倭も
圧倒的な古墳を持っていた。
私が言っているのは戦闘技術の差だ。文明的に遅れている方が進んだ戦闘技術
を持っているのは世界史でしばしば見られることだ。

>何を根拠に数十頭の馬で

単に数十頭?の馬を持ち込んだというだけではない。それは装甲騎兵戦術の
サンプルであり、商品見本であり得た。その上に金官は鉄の供給という生命線
を握っていた。倭は貿易で鉄を買えた、とは言える。重要なのは金官が貿易で
短期的利益を取るか、それを制限して長期的利益(領土)を目指すかの選択権
を持っていたということだ。

931 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 21:10:11
>>921
>では何故(中略)同じ扶余系であるはずの高句麗と百済にみつからんのか。

こればっかりは高句麗と百済の扶余に聞いてみるしかない。高句麗と百済は
扶余と分かっているから大いばりでこのように言える。
前にも書いたが、木郭墓はスポーツのルールではないのだ。

>新羅にも 木殻墓はあるようだが、新羅は扶余系ではあるまい

と書くと新羅が以前から北方式木郭墓を作っていたと誤解されるが、そうではない。
新羅は金官で北方式木郭墓が作られ始めるのと同時にそれを作り始めるのだ。
ということは初期において新羅に扶余系の支配者が送り込まれたか、それとも
金官への服従を表すために進んでそれを採用したか、のいずれかだろう。

932 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 21:48:05
>>929
>「よべ」が「あまるべ」に変わったと証明できる例はたった一つでもあるのか?

京都にある日本最大の被差別部落の古称が「余部(あまべ)村」で、
渡来系皮革民・余部(あまべ)氏に由来してる事で充分だろう。
「よべ」が訓読みに転化したことが充分考えられるではないか。
逆に、この余部(あまべ)氏を誰と思うのかをあなたに聞きたい。

河内王朝が扶余に簒奪された証拠(地名または遺跡)を示せないで何を言ってるんだ?


933 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 21:55:21
>>929
おっと、ごまかされるところだった。

>「あまるべ」が「よべ」や「よご」に変わったと証明できる例は複数あるが、

「よご」に変わったのは証明できるが、
「よべ」に変わった例はないはずだ。
何故なら、「よべ」は播州にしかないからだ。


934 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:32:58
>>930

>文明的に遅れている方が進んだ戦闘技術を持っているのは世界史でしばしば見られることだ

スペインは鉄砲や騎馬隊を持っていた。
アステカは鉄砲も持っていない。あなたの説では馬も見たことなかったんだろ?
スペインの方が優れた戦闘技術を持っているではないか!!
あなたの言うことは矛盾だらけだな。


935 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:35:01
少なくともアマテラスは九州の古代神ではないと思う。

菅原信仰、天満宮は古代信仰ではない。
筑前の宝満信仰から満をとり天を頭につけたというのが真実だろう。
おそらく天皇という称号も対中国の天子外交のため編み出されたのです。
宇宙最高神アメノミナカタヌシと関係してるのではないか?
この神は政治的な意図で後付けされたものであり創造神だとおもう。
倭の政治は常に中国を意識している。
景行天皇の景行は魏志倭人伝、鏡などの
景初3年という文字を見て名付けた
可能性が高い。
三種の神器もおそらく対中国天子への対抗策。

宝満神、玉垂宮が九州のもっとも古いと思われる
古社としての謂われもそうですが、なによりこの
二つの神社は伝承が九州のみ?であり
小さい社まで含めると分布範囲が広く民間宗教的色合いが強いように思う。
政治的な意図を感じない。
九州の古代宗教に深く関係しているようである。

白日別、日下部、筑紫などの豪族ができた頃の
筑紫神社などは比較的新しい神社だと思われる。
出雲・大和の影響が九州に及んだまさにその時の神社ではないか?
チクシ、日下部は八幡宇佐の豪族の末裔という風に
九州ではなっております。
そしてこの筑紫神社のある場所、
忌部、記氏の拠点
基山である。
景行天皇が基山の地を名付けたとなってるがおそらく
紀氏に深く関係しここでイソタケル、シロヒワケ、
チクシの名称が新たにつけられた気がする。

936 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:41:27
>>930

>金官は鉄の供給という生命線を握っていた
>重要なのは金官が貿易で短期的利益を取るか
>それを制限して長期的利益(領土)を目指すかの選択権を持っていたということ

荒神谷遺跡から発掘された銅剣の約90%は日本で採れた銅で、
残りの9%は中国で採れた銅。
残りの1%(2本くらい)が朝鮮半島の銅だ。
銅剣を精巧したのはMADE IN JAPAN だ。
朝鮮半島から輸入したという証拠はあるのか?
本当に根拠のない説ばかりを言いやがって・・・。


>金官が貿易で短期的利益を取るかそれを制限して長期的利益(領土)を目指すかの選択権を持っていたということ
全部、あなたの妄想だろう?
証拠の文献は?



937 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 06:00:00
>>930
そもそも農耕民「文明的に」遅れていたのかね?
農耕民と騎馬民族(純粋にそう言い切れるものがあるとすればだが)との間には、
大きな文明的落差が存在したようには思えない?
古墳の規模なんかからして、倭国の方が国力大きそうなのだが。
それから、中国大陸各地の遺民がかなり住み着いていたようだが、彼らの文化程度は
高かったとして、騎馬民族というか遊牧民全体の文化水準まで同等にあったのか?

どうやって征服したのかよくわからん。
それに「征服」したのに、なぜ「易姓革命」が起こらない?
倭は相変わらず倭だし、自ら改名を思い立つまで一貫して「倭」だ。
中国側からも「日本国は倭の別種」と言われていた。

938 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 06:00:49
>別種
別称と言う事だと思う。

939 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 08:55:50
扶余王子、依羅は海を渡り、倭国を定めて王になったのだよ。

940 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 09:50:53
はぁ?歴史捏造はやめてね。
http://www.tecta.co.jp/gokuraku/abiosa.htm

依羅吾彦「よさみのあびこ」

941 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 10:36:56
>>932
>渡来系皮革民・余部(あまべ)氏に由来してる事で充分だろう。

余部氏などという「氏」はない。勝手に氏を作るな。

>>933
>おっと、ごまかされるところだった。
>「よご」に変わったのは証明できるが、「よべ」に変わった例はないはずだ。
>何故なら、「よべ」は播州にしかないからだ。

まさにその播州の揖保郡余部村がその例だ。
>>533ですでに紹介したが、労をいとわずもういちど紹介すれば、

http://glin.jp/frm/21900.html
<引用>
◆姫路市のこと

 東京堂出版刊『市町村名変遷辞典 三訂版』によれば、昭和21年3月1日「合体」
とあります。揖保郡余部(あまるべ)村がその時に合体、飾磨郡余部(よべ)村は
昭和29年7月1日編入とも。
<引用おわり>

この揖保郡余部(あまるべ)村が姫路市に編入されて余部(よべ)区になったのだ。

942 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 10:39:17
>>933
>スペインの方が優れた戦闘技術を持っているではないか!!
>あなたの言うことは矛盾だらけだな。

人の書いたことを良く読め。
スペイン人たちはアステカの石造要塞都市のあまりの壮大さに圧倒された。
つまりアステカの文明はある面ではヨーロッパを凌駕していた。
しかしスペイン人は戦闘技術ではアステカより優れていたのだ。

>>936
銅剣の話などしていない。
武器・武装の原料として銅に優って重用された鉄の話をしているのだ。
三輪王朝の古墳等から出る鉄材料の「鉄梃」は100%輸入品ではないか。

943 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 11:29:28
>>941
古代(4、5世紀という説もある)から、牛革なめしという文化のある地域に
余部(よべ)という地名があるという事実に対して、何の反論にもなってない。


余部氏といったのは間違いだ、訂正する。
>>567の帰化皮革民・余部(あまべ)はどうよ?

それと、河内の地から扶余の痕跡を、
地名でもいいし、遺跡でもいいから見つけ出してみろと言ってる。
がんばれ。

944 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 13:43:43
もう、堂々巡りだな。
ああいえばこういう、の状態が続いている。

945 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 14:07:40
>>937

「倭」から「日本」への改名は、「雅やかではない」という理由の他に、
朝鮮半島の諸国などに対して、自らを高めたいという外交な要求もあったようだ。

946 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 14:10:40
続いてないよ。
江戸時代も「よべ村」だといってるのに、
昭和21年に「あまるべ村」と「よべ村」が合体して…
なんて言われても、何が証明になるんだ?
飾磨郡「よべ村」は揖保郡「あまるべ村」とは別にあったと何度も言ってる。

947 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 18:43:28
余はアマ。
アマが余にも甘にもなる。

948 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 18:45:07
>>931
金官の扶余が、朝鮮半島東海岸ルートで半島南端にたどり着いた、
高句麗とは別の扶余なんだろ。
だから新羅と金官には木殻墓があるんだよ。
その扶余が倭に侵攻したら、日本にも木殻墓が存在しないとおかしい。
また、百済王は扶余とされてるが、
墓を見る限り、日本と南朝の影響が強く、
また木殻墓が存在しないことから、
制服王朝的性質の王朝ではないと思うが。

949 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:52:56
>>943
君は「よべ」が「あまるべ」に変わった、と言ったのだ。
もう一度聞くが、「よべ」が「あまるべ」に変わったと証明できる例が
たった一つでもよいが、あるのか?

>それと、河内の地から扶余の痕跡を、
>地名でもいいし、遺跡でもいいから見つけ出してみろと言ってる。
>がんばれ。

そんなことを言う前に、天皇家の出自自体が謎だ。
三輪、河内の地から地名でもいいし、遺跡でもいいし、天皇家
の出自を示すものを見つけだして見ろ。がんばれ。

>>946
>江戸時代も「よべ村」だといってるのに、

それは飾磨郡よべ村のことだが、江戸時代なんてのははるか後世だ。
律令時代からずっと「よべ」だったことを証明しなければならない。

950 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:54:34

>>936
>全部、あなたの妄想だろう? 証拠の文献は?

これは文献などと言う問題ではなく、常識で考えるべきことだ。
金官より以前に、有名な「韓、ワイ、倭争って之を取る」という時代が
あった。要するに伽耶の鉄は独占ではなかった。

この状態は考えにくいが、ある文献を読んで私はやや納得が行った。
それは、「鉄は楽浪郡の管理下にあった」ということである。
つまり韓、ワイ、倭は楽浪郡の認可を受けて鉄を取っていた、というのだ。

しかしその楽浪郡は滅び、その後に扶余が入って来て伽耶を支配した。
つまり伽耶の鉄は扶余が独占していた。
「選択権を握っていた」というのは「独占していた」の別の表現に
過ぎない。

951 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:58:33
>>949
天皇家の出自が謎なら、それは謎だ。(笑
それ以外は全て推測だ。(w

952 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:58:41
>>948
>高句麗とは別の扶余なんだろ。

別の扶余ではない。高句麗と百済を作った分家が出ていった後の本家だ。
扶余の墓について全てを通して言えるのは「一定のきまりはない」と
言うことだけだ。
木郭墓を保存した場合にのみ、墓によって証明できるのだ。

953 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 20:21:56
>>949
「よべ」が同じ皮革系の「あまべ」に転化したのだろうと言ったんだ。
京都の渡来系皮革民「あまべ」の事だよ。
よく読め。
で、君はこの渡来系皮革民「よべ」や「あまべ」を誰だと思うんだ?
これも前から聞いてるんだが。


954 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 22:50:37
>>949
>そんなことを言う前に、天皇家の出自自体が謎だ。
>三輪、河内の地から地名でもいいし、遺跡でもいいし、天皇家
>の出自を示すものを見つけだして見ろ。がんばれ。

一応、文献史学的には日向となってる。

扶余なんて全く出てこない。
これについてはどう思う?


955 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:05:07
>>950

>「鉄は楽浪郡の管理下にあった」ということである。
>つまり韓、ワイ、倭は楽浪郡の認可を受けて鉄を取っていた

オマエの脳内妄想の5世紀の話か?
相手にしてられないな。
自分の都合のいい情報だけを捏造しすぎ。

956 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 10:01:19
>>953
>「よべ」が同じ皮革系の「あまべ」に転化したのだろうと言ったんだ。

「よべ」が「あまるべ」に変わったことが証明できる例が一つでもあれば
そのような音から訓への転化の、少なくとも傍証になる。
もう一度聞くが、「よべ」から「あまるべ」に変わったと証明できる例が、
たった一つでも良いが、あるのか?

>>954
>一応、文献史学的には日向となってる。

日向に「天降った」のだ。天下りの出発地はどこかは書いてない。
「高天原だ」なんて言うなよ。

>>955
楽浪郡は5世紀か?

957 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 10:26:58
>>956
牛皮なめしという同じ文化を持つ余部「よべ」「あまべ」なら、
同じ部民と見ていいだろう?
漢部「あやべ」が「「かんべ」になり、綾部「あやべ」になったように。

渡来系というなら、当然、身近な半島を見るべきだろう。
じゃ、この余部は何だ?
扶余だよね?
どう思う?

958 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:13:21
南河内の余部(あまべ)は鋳物師の集落だった。

959 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 13:57:02
>>956
天下りの出発点なんてものは、そもそも無い
支配の正当性を確立するため「神」なるものが
天空神界からから舞い降りたのだ、と伝え聞かせたに過ぎない
例え出自が明確であっても高天原を頂点とする世界は
造られたはずだ、日向と明記されていても造られた。

神話や昔話を紐解こうとする徒労な輩がいるが
そもそも神話は神話であり歴史的根拠を問いただすだけの材料にはならない。

960 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 14:17:16
>>959

同意!

961 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 15:05:34
>>959
えらい!
あんたはどこの人だい?`

騎馬民族説、高天原鵜呑みにするヤシはどうしようもならん
左翼。
50台以上多い。

962 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 19:27:14
>>959
では聞くが、畿内にいた「にぎはやひ」が神武と同じ「天つ神」だというのは
どう解釈するのか?
敵方に「支配の正統性」もあるまい。

>神話や昔話を紐解こうとする徒労な輩がいるが
>そもそも神話は神話であり歴史的根拠を問いただすだけの材料にはならない。

神話を持ち出したのは君だ。
だから神話ではなく君も言うように、地名や遺跡で天皇家の出自がわかるのか?
と聞いている。

963 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:12:39
959じゃないが
こういう思想、概念を持ち出すものは左翼思想で
社会権力を常に悪と決めつけそれに対抗するものが
善であるという強烈な偏見と固定概念に取り憑かれた
馬鹿・悪魔が多いということを漏れは常に前提において
議論にも挑んでいる。
ただ科学的に分析することについては厭わない。
答えにはなってないが
駄文失礼しました

964 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:28:40
「天津神」だけれども起源がどこにあるか考えたことあるか?

多くの学者含めた愚民は「天津神」が神武当時から存在し
先住民のリーダー「国津神」から政権を暴力的に奪取し
その民衆を暴力的に征服したと多かれ少なかれ考えとる。

これがそもそも偏見と先入観、固定概念に凝り固まり!
その強烈な固定概念とは
左翼的な権力絶対悪、弥生・縄文絶対二元論みたいなものです。
そんなもん、遺跡のデータもなにもないただ記紀のみにそれっぽい
こと書いてあるだけの話、そんなヨタバナシ鵜呑みにするな!
またそういうヨタを頭の悪い、疑う事を知らない愚民に
吹聴する学者がまた許せない。
半島の「黒い山葡萄原人」みたいなものだろ、極端な話すると

無知、無神経は馬鹿の始まり。


965 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:35:45
しまいには何一つ信頼できるデータがない、断片的な
データを好きなように解釈し結論をだしているだけ。
それが信頼におけないデータであるという判断さえできない。

しかもそれと反するようなデータ、遺跡がでたら
またいい加減な仮説を立て言い逃れをする。

そもそも最初から有る”べき”結論は彼らには決まってるのであり
それを揺るがすようなデータは必ずいい加減な仮説で
反論しようとする。



966 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:48:47
>>957
>漢部「あやべ」が「かんべ」になり、

それ見ろ。訓読みのほうが先だった、と自分で言っているではないか。

もう一度聞く。「よべ」の方が先にあって、それが「あまるべ」に
変わったという例があるのか?

967 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 20:58:45
ちょとまてそういう話してると堂々巡りにならないか?
大局的に考えよう
なぜ筑豊には扶余を示す地名が見あたらないのですか?

968 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:03:03
天津神の象徴的存在がなぜ菅原道真なのですか?

969 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:56:32
神話は歴史ではないが、歴史を元に生み出された可能性は高い。

神話を信じるなだの信じろだのと、一体どっちなんだろうな?

の割には、最後は古事記にたどり着くのであった。

970 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:07:36
日本国の思想は
九州戦力とそれと対抗する
出雲大和を中心とした本州勢力いずれも
中国的宇宙観、世界観を
その各地域なりの解釈で
独自に発展したものだと思う。

だから各地の鏡の形状から宇宙観、世界観が微妙に違う
ことが伺える。

九州勢力に関しては
倭の思想は古墳記以降は概ね中国からの受け売りである。
近代的な概念による騎馬民族なる影響は
殆どうけてはない。
そしてそれは征服という形ではなく、渡来人の受け入れ
交易などを通じ基本的には在地勢力が主導権を
握っていたものと解釈できる。

しかし、出雲大和政権は
出雲神話始め記紀で半島高麗人の影響を
殊更強調しているのをみると
半島民族を経由し「中国的価値観」を受け入れていたと思わざるえない。
出雲大和政権に関しては中国ではなく高麗人の影響が極めて大きいものと
思われる。これは魏志倭人伝でも出雲大和が直接
中国と交易してない、にも関わらず中国的物産がすでに出雲大和にあります。
これはまさに、出雲大和政権が高麗と密接に関係していたことが伺える
一つ重要な証拠です。



971 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:17:35
>>966
小集落「あまるべ」は関係ないので、この際、無視しよう。
そんなの全国にあるし。

俺が言ってるのは、
牛皮なめしという同じ文化を持つ姫路の「よべ」と京都の「あまべ」だ。
同じ文化を持ってて、音読みであるか訓読みであるかは関係ないだろう?
この人達は渡来系だ。
じゃぁ誰だ?

972 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:20:37
>>967
>なぜ筑豊には扶余を示す地名が見あたらないのですか?

地名が全部、部民に由来してはいないからです。
日本の牛革なめし発祥の地である播州に「余部(よべ)」があります。
これは牛革なめしの文化が扶余である証拠だと思います。

973 :白馬青牛:2006/05/23(火) 23:24:36
忙しい間にだいぶ進んどるわい。
新羅のスキタイ系積石式木槨が扶余系とは云い難い。
高句麗や百済よりも新羅の文物は、北方的、遊牧民的文化が流入して
おるので。
あらゆる学問から検討すべきものを、神話学を否定してどうするんか。
神話は、各民族、文化の比較研究や、我が国、我が民族の魂でもある。
学習院大教授であった吉田敦彦氏の指摘される日本民族の行動様式も
現しておると思う。自己の狭い思想判断で特定の学問分野を先入観や
固定観念で根絶してはならんよ。

974 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:29:09
>>966
どちらが先でも、余部が扶余に関係していないと見るのは無理だわな。
何故なら百済王族が余氏と下賜されているから。寧ろ余部の土地名の由来は何とお考えで

975 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 04:52:29
>>972
●律令時代に生じた「余部(あまりべ)」がもともと差別につながりやすい制度
であった。
●皮なめしが被差別民の仕事であった。
この二つが結びついただけのことだ。

扶余に結びつけるなら律令時代に「よべ」と読む「余部」があったこと
をまず証明しなければ無理。

976 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:33:56
渡来系技術である牛革なめしが共通してるという意味で、
播州「よべ」と京都「あまべ」は同じ大陸系の部民であろう。
これは間違いないだろう。
>>974
「あまるべ」と「よべ」「あまべ」を分けて考えるべきだと思う。
「よべ」「あまべ」が差別に関わると言っても、
もっと後(中世)にそうなっただけだろう。

>>975
>律令時代に「よべ」と読む「余部」があったこと
>をまず証明しなければ無理

現時点では正直言って無理。
まぁ誰かが見つけてくれるかもしれんが。
しかし、極めて扶余に近い事は事実だ。
これを何故スルーしたがるのか。
反面、何も証拠がない扶余・河内王朝簒奪説を言いたがるのか。
君は大変偏った思想の持ち主だな。


977 :976:2006/05/24(水) 07:36:25
あぁ、すまん。
974氏は「関係していないと見るのは無理」と言ってるんだね。
勘違いでした、すいません。

978 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:43:28
それと言い忘れた。
今、江戸時代から続く「よべ」という地名がある。
これが律令時代の「あまるべ」であると、君が証明するほうが先だ。


979 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:46:23
蜀の王族の「舟形木棺」って具体的には何かご存知の方いますか?
日本との関連は全くありませんよね…?

980 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:33:49
>>976
>播州「よべ」と京都「あまべ」は同じ大陸系の部民であろう。

京都の「あまべ」は何故わざわざ訓読みになったかが説明できない。
それに京都の「あまべ」は平安時代の古地図で「余戸」と書いてある
という資料があるが、それでもいいのかな?
君は「−戸」は対象外だと言っていたような気がするので。

981 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 15:54:42
「三国志魏書〜烏丸鮮卑東夷伝」286年、子依罹(イリ)立つ。
再び慕容廆に敗れ衆数千を率いて海を越え倭人を定めて王となる。


982 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 16:02:55
神日本磐「余」彦
ミマキ「イリ」彦

983 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:00:27
>>980
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yanagin/tenji2-k1.html
中世の京都に「あまべ」と言われる渡来系皮革民がいた。
音読み、訓読みの話だが、
例えば、秦氏ゆかりの寺で太秦寺「たいしんじ」というのがあっても、
誰も不思議に思わない。
君は何故そんなにこだわるのかな?

984 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:25:46
崇神はすでに下地のあった大和の小さな豪族の元に
身を寄せたのだろうか?そして高麗・扶余にとって
縁起の良い数、四道に将軍を派遣した。
一躍、崇神は倭全土の王のなった。
そういうことだろうか。
出雲も高麗の流れをくむので4は縁起の良い数字

985 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:31:29
崇神、景行、仲哀、神功、応神
この辺は極めて重要だな。

986 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:37:45
倭は九州奴国を中心とした勢力と
出雲を中心とした二つの勢力があった。

そこに崇神(刀伊)がやってきて、畿内に居座った。
本州全土、四道に将軍を派遣し支配しようとした
だが九州では抵抗が大きく成功しなかった。
奴国から伊都に首都を移したが争いは絶えなかった。
四道将軍により統一された本州から
九州には幾度と無く軍隊が派遣された。


987 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:17:20
>>984-986
纒向遺跡に韓式土器がわずかに出てる程度じゃ無理ですね、その小説は。

988 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:36:26
>>987
しかし、四道将軍が派遣されたことについては否定はしてないな


989 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:43:27
>>988
東海勢力が主体になって、半島まで支配力を高めたという意味ではね。

990 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:51:43
おい、ここキーポイント。
崇神は大和を巨大政権にした、それは半島南部にまで及んだ。

991 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:00:53
魏志倭人伝によると倭は村を国と呼ぶ(小国分立の顕れ)
大倭を恐れる(大倭とは成立間もない崇神畿内政権)
崇神の支配地任那は倭人伝当時すでにある。

結論、崇神政権は倭人伝の前である。
結論、崇神政権は倭人伝の前である。
結論、崇神政権は倭人伝の前である。

992 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:11:24
なぜ、倭は高句麗くんだりまで軍を派遣しライバル意識を燃やしたか?
なぜ、畿内大和は百済支配層を受け入れたか?
なぜ、秦氏、辛島氏は一緒になり出身地新羅を攻めたか?

秦氏は新羅出身だが新羅には愛着はなかった。
そして、やはり崇神は百済系扶余なのではないか。

993 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:22:12
>>983
その京都の「あまべ」が、現在のところ一番古いと思われる表記で「余戸」と
書いた。「余部」ではない。
君は「戸」がつく「余戸」は除外する、「部」がつく「余部」が部民だと言って
いたのではないか?

994 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:23:43
>>992
だから纒向遺跡の東海系土器の多さを説明しろって。
韓式土器は、ごくわずかなんだから。
倭が半島も勢力下に入れたのだろうが。

何が扶余なんだw

995 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:26:10
>>993
だから、彼らは昔から京都にいたのではない。
まずは革なめしに適切な水を求めて播州に定着したのだろう。
そこから各地に派遣されたのだろう。
京都では中世だろうな。

996 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:35:54
はあ?
大倭だぞ、扶余崇神は任那を畿内大和に割譲し
移住したんだぞ、そんなよそ者が地元民に
韓式土器使えなんて指図できる立場か??

997 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:42:36
>>996
意味わからない。
崇神が扶余なんてどこの文献に書いてるんだ?
考古学的に考えろ。

998 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:45:05
東海系土器の胎土は伊勢だ。
だから皇室の祖先を祭る神宮が伊勢にあるんだ。
それだけ!

999 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:45:51
どっちにしても土器程度で崇神が扶余じゃないという
証拠には全くならん。

1000 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:47:13
>>999
馬鹿かおまえは!

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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