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日本書紀紀年法がついに解明されました[part3]

1 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 09:37:15
日本書紀紀年法は、応神元年を西暦三九〇年と位置付けて、以下の式に
表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統十一年までの
一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって並列構造になっています。
このように考えますと、日本書紀紀年法をきれいに説明することができますが、二〇〇三年に、
研究成果を発表したところ、古代史研究家、ならびに、一般からの反応があまりありません。
賛成意見、反対意見、どちらでも構いませんし、また、異論があれば、お聞かせください。

  日本書紀紀年法がついに解明されました[part2]
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140936342
  日本書紀紀年法がついに解明されました
  http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322


2 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 09:40:20
「日本書紀紀年法がついに解明されました[part2]」が、
512kを超えているとの理由で、
書き込みすることができなくなりましたので、パート3を立てました。


3 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 09:51:49
>>974さん(日本書紀紀年法がついに解明されました[part2])
『「古事記」と「日本書紀」の謎』での『日本書紀』の成立過程をめぐる
門脇氏の見解を要約していただきまして、ありがたく思います。
私の考えでは、720(養老四)年に成立した『日本紀』の段階で、
「プラス・マイナス120年構想」は既に設定されており、740年代になって
藤原仲麻呂によって『日本紀』が改編されて『日本書紀』が成立した際に、
他の紀年構想が新たに加えられたという経緯を描くことができます。

4 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 09:55:48
>>977さん(日本書紀紀年法がついに解明されました[part2])
「奴」は「の」であるという発想は面白いと思います。
私は、「奴」は、「に」ではないかとも考えておりましたが、
「の」である可能性もあるのでしょう。

5 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 10:52:58

よせばいいのに

6 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 12:36:48
>>5さん
パート2の>>986で、書き込みができなくなるという問題が発生したため、
パート3を立てました。
議論の途中で、スレッドを終えることは、よくないと考えたからです。
また、日本書紀紀年法については、まだまだ議論すべき課題があります。

7 :太国語録法研究家:2006/04/21(金) 12:53:53
はじめまして。
太国氏の語録を研究してて、法則を発見しました。
妬み(A列)、自惚れ(B列)、自己陶酔(C列)、
無知(D列)などの、複数の「列」によって並列構造になっています。

8 :日本@名無史さん:2006/04/21(金) 14:07:09
太国さんにやってもらいたいことがあります
日付の干支の分布調査です
とりあえず
・神武紀から仁徳紀
・履中紀から安康紀
・雄略紀から天智六年
・天智七年から持統
の四区分でまとめて下さい
二倍暦紀年法の確立に必要な作業なので
なにとぞよろしくお願いします


9 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 14:34:35
>>7太国語録法研究家さん
私の日本書紀紀年法の多列構造論を人物分析に応用したはじめての
画期的な研究ではないかと思いました。
今後とも、様々な分野の研究に応用してみてください。




10 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/21(金) 14:39:02
>>8さん
パート3には、まだ、太国さんは、登場していないようです。
もうしばらく、太国さんの登場を待つことにしましょう。
太国さんの二倍暦説と私の多列構造論のどちらに理があるのか、
パート3でも、ぜひ、論争を続けてまいりたいと思います。

11 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 07:42:58
2倍どころか3倍まであるのが古代史の真実

12 :太国:2006/04/22(土) 08:09:14
>>11
妥当な考察です。日本書紀紀年法研究家さんは、前スレ末あたりで閏がなっちゃ
いないことを結論づけていましたが、どこかに合理的になる論があろうと思い
ます。彼女は主張しますが、たかが120年構想を紀の編纂者が行う利害大なる
特段の理由が薄いのです。120年増やしたって意味がないし、辛酉革命とかの
理由と云ったって、ならば蘇我氏を誅した大化の時点のほうが斑鳩宮造営年より
よっぽどふさわしい。私はその構想とやらは、やはり彼女の妄想だと思いますよ。

13 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 08:10:45
図書館で何気なく借りた聖徳太子の本が>>1の本だった
これから読むよ

14 :太国:2006/04/22(土) 08:21:27
>>979(前スレ) 訂正

誤)宣化世は3倍暦でなく2倍年暦を使っていたような気配
正)安閑世は3倍暦でなく2倍年暦を使っていたような気配

宣化世に関しては検討してみます。こうなりますと、繼體世と安閑世は連続で
2倍年暦を使用していたようだの感を強くしています。

>>8
その干支の統計のことは貴殿でも出来るのに、何故それがしにやれとおっしゃる
のでしょうか? いい発案ですがね?

15 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 09:25:50
>>12>>14太国さん
太国さん、パート3に、いよいよご登場なさいましたね。
「プラス・マイナス120年構想」においては、>>1で述べたように、
紀年数が120年プラスされているだけではなく、マイナスもされています。
私は、「120年」という数字の意義は、三善清行の「革命勘文」によく表されているのでは
ないかと思います。太国さんは、「革命勘文」をお読みになったことはあるでしょうか。
もし、まだお読みになっておられなければ、ぜひ、ご一読いただきたいと思います。
「120年」は、易緯のじょう玄注の「四六二六相乗」として、でてまいります。
すなわち、政治倫理思想上、重要な天数であったのです。
清行は、「革命勘文」で、一生懸命『日本書紀』の紀年数を120年と240年に区切ろうと、
努力しております(間違ってはおりますが)。
平安前期までは、「120年」が日本書紀紀年法において、
重要な役割を果たしているという伝承があったのではないでしょうか。

16 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 09:33:04
>>13さん
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎 −交差する飛鳥時代と奈良時代』は、
応神列(A列)と雄略列(B列)が、実年代に対して120年ズレており、
このズレをアプローチとすれば、聖徳太子や法隆寺をめぐってこれまで謎とされてきた問題点や、
研究史上の論争点に、論理的、合理的説明ができるようになってくるという
内容です。
ぜひ、御一読いただき、ご批判、ご批評をお寄せください。

17 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 09:37:05
目で見るな気配を読め

18 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 09:40:16
>>11さん
私は、日本古代において、普通暦の1年を2年や3年に数える慣習があったという
可能性に対しては否定しているわけではありません。
問題としていることは、日本書紀紀年法が、二倍暦や三倍暦で説明できえるのか、
という点です。このスレッドは、紀年法関連のスレッドですので、
ぜひ、>>11さんも、二倍暦や三倍暦で日本書紀紀年法を説明できるとお考えでしたならば、
ご見解を披瀝してみてください。

19 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 09:43:49
>>17さん
「目で見るな気配を読め」とはどのような意味でしょうか?
私に対して、おっしゃられているのでしょうか?
パソコンの画面は、気配では読めないと思いますが。


20 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 09:59:49
>普通暦の1年を2年や3年に数える慣習があったという
>可能性に対しては否定しているわけではありません。

そう云う問題と云うより、日本書紀の編集方針が
普通歴の底本があるにも関わらず二倍、三倍に換算し直して記述した
と云う話

21 :太国:2006/04/22(土) 10:20:18
>>15
>政治倫理思想上、重要な天数

日本書紀紀年法研究家さん、このような重要なものをですよ、舎人親王とその
取り巻きが120年とかの引き伸ばして謀議製作することは、彼らが天に唾を吐く
ような捏造を行ったことになり、その倫理とやらにも背く行為ということに
なるではありませんか? つまり天に違背する不倫理な天数になってしまいます。
そういう編纂はなおさら日本書紀品位にとってネガティブであり、ならばそんな
書物を作らないで、彼らは寝ていたほうがプラスじゃぁないですかな?

22 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 12:37:13
>>20さん
二倍暦や三倍暦で編纂されていた史書があって、これを原典として『日本紀』(『日本書紀』)が成立した
と考えますと、閏の問題が認識されてくることになります。
一年を二年や三年に分割いたしますと、6ヶ月、もしくは、4ヶ月ごとに閏を考えねばなりません。
二倍暦や三倍暦の閏と『日本紀』(『日本書紀』)の閏(元嘉暦・儀鳳暦にもとづく閏)との整合が、
問題となってくるのです。
太国さんは、この問題について論理的説明を試みておられるようですけれど、
まだ、仮説を提起できない段階のようです。>>20さんは、いかがでしょうか。


23 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 12:49:16
>>21太国さん
「120年」という数字を用いた構想を『日本書紀』に内包させることによって、
世の中が徳化されることを願ったのではないでしょうか。
すなわち、政治倫理思想が重要であるからこそ、日本書紀紀年法に120年構造が
構築されているのであると思います。
また、応神元年から雄略五年までの間において、120年分の紀年が加算されている理由は、
120年という数字の問題だけではなく、五世紀史が関連していると推論いたしております。


24 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 13:02:40
>>21

ただの観念論だね。実証が何もない。寝言は寝て言え

25 :太国:2006/04/22(土) 14:11:05
>>23
中国の歴史に負けたくないように古くしたいのなら、1万年ばかり紀元前に
遡った年を初代天皇即位にすればいいが、たかが120年ではそういう理由では
ないことになるし、天皇の権威を高めるために天皇の代数を増やすんなら、欠史
八代くらいの数でなく、例えば古史古伝の記述からのウガヤフキアヘズ朝70数代
をもってくればいいし、それでも足りないならその方法を廃し、さもなければ
付加して萬世一系の1万代あたりを捏造すれば、えらく朝廷の権威が増すという
ものだがそれもやっていないし、8代の間と間に架空の天皇を挟みこんで倍に
すれば天皇の長寿も半分になり納得のゴマかしが可能になるもののそういうふう
でもないようだし、120年追加するよりは代数追加かこの挟み込みのほうが捏造
にはこの上ないふうに感じるが、それでもない。
120年で、元明以降にどれだけ日本国民が徳化される現実の利益もあるようには
見えないし、どう転んでもどでかい利害の益を取り込む数字には思えない。
だから、そういう構想を舎人親王らがやる必要もないようだし、120年の無理
なる操作はやることのないノンメリットそのものなのである。


26 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 15:12:50
舎人は大炊王のおやぢだっけ?
舎人は編纂には直接関係ないと見たがどうか?

27 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 15:33:09
>>25太国さん
中国の歴史に負けたくないという理由でしたならば、
中国の歴史書は、『呂氏春秋』や『史記』など、確かにかなり古いものがあり、
この点においては、日本の史書は勝ち目がありません。
そこで、いかにも日本らしいと思うのですが、「プラス・マイナス120年構想」など、
史書を政治倫理思想を内包する複雑な数学的構造物として構築することで、
これに対抗しようとしたと考えることはできます。

28 :太国語録法研究家:2006/04/22(土) 15:33:33
>>25
>>26
自作自演。

こいつがトリップつけないのは、
しょっちゅう名無史で書き込んでいるから、
いちいち半角英数字を入れるのが面倒くさいのでしょうねw

29 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 15:37:41
>>26さん
たしかに『続日本紀』に舎人親王の名が見えるために、『日本紀』の編纂には、
舎人親王がかかわったとされています。
しかしながら、舎人親王が本当にかかわっていたのか、また、どの程度かかわっていたのか、
これについては、まったくわかっておりません。
むしろ、『日本紀』の史書としての性格や構成からは、藤原不比等がかなり
関与している可能性が高いのではないかと思います。


30 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/22(土) 15:40:23
>>28太国語録法研究家さん
さすがに、太国語録法研究家さんということだけはありまして、
鋭い洞察力です。


31 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:30:03
暦はさっぱり解らんから後は知らんぞ
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-4-2.htm

32 :太国:2006/04/22(土) 17:06:50
>>31 さん なかなかいい資料で感謝します。
それですと倭の五王が当時の各天皇に当ててます。この説は誤りです。
他のところは合っているものもありおるやも知れませんな?

33 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/22(土) 18:02:27
>>29日本書紀紀年法研究家さん
同感です。
不比等(史)っていうくらいだから歴史に精通してたんですね。
彼のライバルである石上麻呂についてはどう考えますか?

34 :太国語録法研究家:2006/04/22(土) 18:07:02
33は偽者です。
おそらく太国でしょう。

35 :太国:2006/04/22(土) 18:12:55
おまえら何時もバカやってんな、いい加減にしたらどうにニダ?

36 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/22(土) 18:23:43
>>34太国語録法研究家
正解、さすがですねw

37 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 18:24:40
>>35
バカはおまえだ。
おまえが日本書紀紀年法研究家さんに、
ボコボコにやられる姿は最高に楽しい。

38 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 18:27:23
ニセ者大杉。氏ねよ厨ども。

39 :太国:2006/04/22(土) 19:24:23
>>31さん
その資料の解説者は思い込みが激しく、「最初から結論ありき」で警戒しないと
いけませんな。読んでみると、何故引き伸ばしたかの理由がないようです。
権威筋である天文家をとたんにもって来て論述しています。
必ずしも権威筋が正論だとは限りません。その威力に屈服して正解などと思う
ことは失敗への入り口です。

40 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 19:52:18
>>39
神代文字やマヤ暦を出したオマエが何をえらそうにwww

41 :太国:2006/04/22(土) 20:04:08
おヌしほどでもないわ

42 :↑泣いてるのかい?:2006/04/22(土) 20:14:52


     www



43 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/22(土) 20:15:36
とりあえず私は記紀の上で二倍暦は間違いだと考える

44 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:16:43
↑太国↓必死だな!www

45 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:17:26
ウンコスレット一覧

46 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:18:29
おーい、神代文字クン。
>>8さんの質問はスルーかい?www

47 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:18:29
太国って可愛いよねwww

48 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/22(土) 20:25:18
>>46
ぢつは古事記と日本書紀で一件だけ日付の干支が一致するモノがあるんじゃ
そこが糸口になるかも知れんなw

49 :太国:2006/04/22(土) 20:31:09
>>46
>>8さんの質問には答えられません。
僕にはそこまでの知識がありません。

50 :8:2006/04/22(土) 20:33:49
知識なくてもいいんです
岩波文庫日本書紀とこれの誤植(?)を修正すればいいんですから。

51 :太国:2006/04/22(土) 20:34:06
やっぱり僕はダメな男です。
これからは小国という名も通り越して、
微小国と名乗りたいぐらいです。

52 :太国:2006/04/22(土) 20:34:18
偽者が勝手にやり取りするんじゃない↑

53 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:35:37
はい次のバカーどうぞ〜

54 :太国:2006/04/22(土) 20:37:30
>>50
修正の仕方もわかりません。
その前に自分のハゲを治す事の方が大事です。

55 :ムキムキマン:2006/04/22(土) 20:42:32
腕周り68センチメートルだが、やるか?

56 :太国:2006/04/22(土) 20:44:02
>>55
勝ちました。
私は腕周り69センチメートルです。

57 :太国:2006/04/22(土) 20:44:28
そんな奴ほっといて、俺とやらないか?

58 :太国:2006/04/22(土) 20:46:10
>>57
いやです。
ハゲがうつります。

59 :8:2006/04/22(土) 20:47:00
>>8本物の太国さん
ホントにハゲだったんですか…
若くないようですので諦観したほうがカッコイイですよ


60 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/22(土) 20:48:57
古事記は偽書であろう

61 :太国:2006/04/22(土) 20:49:00
>>59
ありがとう。
もう永遠に治らない業病だと思ってます(涙

62 :8:2006/04/22(土) 20:52:16
失礼>>59のアンカー間違った>>54

63 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:52:35
桃太郎と浦島太郎を必死に解読中、結果はおって報告します!

64 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/22(土) 20:54:11
浦島太郎が桃太郎の温羅である

65 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 21:30:22
これで年代問題は解決
http://nippon-shinwa.com/nihon.html

66 :太国:2006/04/22(土) 21:44:25
>>65
神武即位の実年が西紀元年だということはありうるな?
ふっと、想ったことはあった・・・?

67 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:16:57
>>66
君はさぁ、まず日本語を正しく書きなさい。
「想ったことはあった・・・? 」の最後の「?」は、
65さんに聞いてるのか?
それとも自分の意見なのか?

読みづらくて仕方ない。


68 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:23:18
太国クン、ボロボロだな!www

69 :日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:36:53

2倍だの3倍だのと言うのは極めて近代的な発想だと思う

たとえば(不定時法の)子の刻だの、午の刻だのと言うのを
むりくり現代の時法にあわせて何時何分何秒と表示しようとするような
無理を感じる

70 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 07:57:30
>>69
基本的にはオレもそう思う。
2倍歴はともかく3倍歴はかなり疑問。
散々マヤの何とか歴を持ち出しているが、あれは自転周期の積み重ねで周期が出来上がってる。
だから1年の2分の1とか3分の1とかになっていない。ようするに公転周期とリンクしてない。
ただし公倍数とか持ち出せばその限りではないが。
一方、3倍歴とやらは何故か、正確にではないとしても、公転周期とリンクしてる。
ただし太国氏を擁護するとしたら、3倍歴の1年が3周すれば365日になると明言はしてないので「三倍歴」は単に言葉の問題ということも言えるかもしれない。

71 :太国:2006/04/23(日) 08:06:04
>>70
3倍暦を否定するとタケウチノキネスの長寿がまだ長すぎのように思う。
2倍暦のみだと、余が考えるには150歳前後に落ち着くことがま〜ず結論だ。
2倍暦と3倍暦の併用だとすれば、おそらく100〜125歳位になり、数代に
仕えたことと現今の記録を念頭に入れて相当な数字だと考える。

72 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 08:34:04
>>71
別に煽るわけじゃないが、3倍歴じゃなくて4倍歴だったらおかしくなるのか?
あるいは2倍歴とあなたが考えてる部分が3倍歴であるかもしれない可能性は?
こういう疑問に答えられるの?

73 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 08:39:47
一応、言っとくけど70と72はいつものヤツね。
3倍歴の可能性自体は否定しないけど、72の疑問に関してはどうなの?
どうも適用の仕方が恣意的に過ぎる気がする。
単にそう考えた方が年齢を上手く説明できるというのでは説得力があまりないんじゃないかな?

74 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/23(日) 09:11:40
>>33太国さん
ニセ者の太国語録法研究家さんにならないでください。
よいご質問でしたので、あやうく騙されるところでした。
さて、>>33のご質問の石上麿につきましては、『日本紀』の成立した720(養老四)年の
少し前に没しています。しかしながら、『日本紀』の内容からは、
編纂に何らかの影響を与えていたのではないか、と推論することができます。

75 :三光作戦:2006/04/23(日) 09:25:02

日中戦争時、抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、強圧的に拡大して
満州と中国との国境とした万里の長城線一帯を無人化する作戦を実施した。
指定地域内の住人を総て強制収容所に移住させ、ゲリラと住人との接触を断ち
ゲリラ出没地域での耕作を一切禁止するというものである。
その過程において、首を切り落とすなどして殺害した農民は8万1千人、
拷問のため施設送りの後処刑した者4万6千人。合計127000人を殺害した。
集落によっては村民が殆ど皆殺しになった所もある。
人囲いと言われる強制収容所は粗末なもので、宿舎は無く、移住させられた住民は露地に藁を敷き、露天で寝るしかなかった。
宿舎としてのバラックや要壁などは住民の手で作らされた。
農期には収容所近くの耕地で農作業を強制された。
収容所の環境は劣悪で、満足な食料、薬もなく、病気や飢えで何万もの人が命を落とした。

表題の三光とは、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすと言う意味である。

幾つか例を挙げると

豊潤県潘家峪では一度に1230人が虐殺された。
密雲西白連峪では、全村落を破壊し、最後に破壊から偶然逃れていた一軒を発見し、そこに居た70歳重体老人を家ごと焼殺、幼児2名を銃殺。
王廠溝、南大門一帯では、580人を逮捕し、380人を虐殺し、残り200人を強制労働の為、東北へ送り、内80%が死亡。
石柱子村では、村民700人中300人を虐殺。
興隆県秋木林、大莫峪では、全130戸から180人の青年壮年男を逮捕し、虐殺。寡婦の村とする。
興隆県ではその一帯に多数の寡婦の村が出来た。
更に寡婦の村を襲撃し、逮捕した者で使えそうな者を日本兵の慰め者にし、残りは処刑した。
興隆県では、人口16万人が戦後、10万人に減少していた。
大帽峪の村人など120人を後手に縛り、虐殺。
引っ立てて来た魯家峪住人を一人ずつ目隠しをして井戸の前に座らせ、
日本刀で首を跳ね飛ばしては井戸の中に放り込んだ。


76 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/23(日) 09:31:25
>>33>>34>>36からは、トリップの付いている太国語録法研究家は、
太国さんのことであることになります。したがいまして、トリップの付いていない太国語録法研究家が、
本物の太国語録法研究家さんであることになります。
しかしながら、この推理ですと、>>43の二倍暦に否定的な書き込みは、太国さんの書き込み
ということになり、二倍暦支持者の太国さんのスタンスと矛盾しています。
いったい、どうなっているのでしょうか。

77 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 09:35:28
どうやら、太国氏は>>72>>73両氏の疑問に対して、
神代文字で答えようとしてるのだろう。
ただ、パソコンの言語設定に神代文字がない事に気付き、
髪の毛が6本抜けてしまったのだろう。


78 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/23(日) 09:45:01
>>71太国さん
「武内宿禰」の長寿には、別の意味があると考えられます。


79 :太国:2006/04/23(日) 15:26:39
>>73さん
2倍暦に3倍暦を付加すると竹内縮年の長寿が現今での記録内に入りこむ
からその併用を打ち出したのではなく、この板の「2倍暦の真実」のスレの
>>657 のことを研究していたところ、これは3倍暦があったんではないか?
という可能性を見つけ、これを主張して併用が竹内縮年の長寿がほどよくなる事
もついでに分かって来たという次第です。双方併用の付加をして結果がよくなる事
>>71 で書き込みましたが、便宜上そう説明しただけで、実際
はその前に理由があったわけなんですよ。だから、恣意的ではないんです。
その「2倍暦の真実」の >>650>>482 を読んでくれれば、それがしの
主張がなおさら分かると思います。

80 :太国:2006/04/23(日) 15:29:12
すみません。>> と不等号を2個つけましたが、ここのスレの数字では
ありません。訂正します。「2倍暦の真実」のほうです。

81 :太国:2006/04/23(日) 15:34:18
>>72さん
変則のn倍暦とかいうのも可能性に留まりますが、否定までは行って
いません。実際変則でマヤ文明はツォルキン暦を260日でやって
いますからね。ただそれがわが国の古代でもn倍暦(n=4)があったか
どうかまでは考慮しておらず、疑問のうちです。

82 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 18:10:11
>>79->>81

お願いだから、言いたい事を1つのレスにまとめてくれないか?

83 :太国:2006/04/23(日) 19:36:20
>>82
あとで訂正があるときは、2回になるのが必然です。でないと誤のままで
うまくありません。

84 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/23(日) 19:49:14
>>太国さん
神武紀から成務紀までの間の歴代天皇13代には、いずれも非現実的数字の紀年数が配布されています。
太国さんは、偶然13代までのすべての天皇は長寿であったと考えておられるのでしょうか。
二倍暦や三倍暦による説明ですと、歴代天皇の在位年数や享年の数字は正確に伝承されていたと、
想定しておられるのではないかと思います。
このように考えますと、現実に、年代を遡れば遡るほど天皇は長寿であって、年代が下がると、
短命になるということになってしまいます。
人間の寿命が、時代とともに、だんだんと短命になるということは、考え難いと思いますが、
この点は、いかがお考えでしょうか。


85 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/23(日) 19:55:01
>>75さん
スレ違いであると思います。
また、このような反日プロパガンダのようなコピペは、書き込まないでください。

86 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:06:49
寿命も3で割れよ

87 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:12:27
それもおかしいな

88 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:19:08
2倍歴でも3倍歴でも”1年”=”12ヶ月”だけは動かないってのもなあ。

89 :太国:2006/04/23(日) 20:40:37
>>84
だから現代と寿命はそんなに変わらんですよ。ただし、竹内縮年だけは数代に
仕えたと云われてますから、100歳超過は考えられると思いますが、150歳は
生きていないでしょう。2倍暦と3倍暦で紀の記述の1/2あるいは1/3の歳に落ち
つきます。偽者で誤解しましたか?即位日等の数字は間違いないと思います。
以下のとおり・・・数字は即位の日を意味します。

   神武 1
          2 垂仁
   安寧 3
   懿徳 4
          5 成務

   孝安 7
   綏靖 8
   孝昭 9
          I 神功
          11 景行 仲哀
孝靈 開化 12
          13 崇神
   孝元 14

これは神武から神功までの関係数です。
上を見るといかに整然と即位日が形成されているのが目に映るでしょう?
孝靈と仲哀はおのおのが張り出しています。大相撲の番付の張出横綱のように
です。神功の〇数字の10は例外であり日でなく月を意味し、摂政皇太后にお立ち
になったときの数字です。天皇ではありませんからこうなっているようです。
6の数字だけありません。おそらくは日本武尊としたいのですが即位も立太子
でもないので空位の数字になっているようです。
應神はこの配置が均衡が崩れるようで神功までです。天皇でない神功を外しても
6と10のない状態で、一応は形の崩れはないと云えます。

90 :太国:2006/04/23(日) 21:16:59
>>89
應神以降は以下のとおりです。即位日の数字です。

應神 履中 □□ 1    1 顕宗
      反正 2    2 崇峻
      仁徳 3    3 敏達
              4 繼體
              5 仁賢 欽明 用明

              7 安閑
              8 推古
              9 □□
              I←−−−−−−(推古立后)
              11 武烈

      雄略 13
      安康 14
      清寧 15

10の〇数字のみ立后の日付で代役になっており、推古は即位日のとこれとで重複
になっています。□□は、そこに天皇名が入ればさらに整然とするのが分かって
きます。すると向かって左の□□は允恭になり、右のそれは宣化であることが
うなづけるのです。それで、前スレで説明したとおり、
允恭即位は12/1であり、宣化即位は12/9であることが判明するのです。
ところが実際は宣化の先帝(安閑)が12/17崩御だから、崩御以前の即位となり
おかしいこととなります。それで紀の編纂者は困ってしまい、やむをえず日のみ
を削り12月即位のみ記述したのです。12/17の日付と釣り合わせるには
9+15=24 で 12/24 とすべきでしょう。半月が当時の1ヶ月とすればの
説明です。詳しくは当板の「2倍暦の真実」のスレの>650をご覧ください。

91 :太国:2006/04/23(日) 21:19:27
>>90 の図表はいささか曲がってしまいました。タテにまっすぐ揃っていると
みなしてご覧下さい。すみません。

92 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:25:02
2倍暦の真実」スレのリンク貼ってよ

93 :太国:2006/04/23(日) 22:36:52
>>90
12の数字が無いではないかとおっしゃる方がおられましたら、Kとして
推古の即位の月数字が充当になります。
>>92
それがしはそういうことは得意でない。今は500番少し手前にあるから探せ。

94 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:49:34
>>89
なんで

     ↓      ↓
―――――――――――――――――
   神武 1
          2 垂仁
   安寧 3
   懿徳 4
          5 成務

   孝安 7
   綏靖 8
   孝昭 9
          I 神功
          11 景行 仲哀
孝靈 開化 12
          13 崇神
   孝元 14
―――――――――――――――――
     ↑      ↑

2列に書き分けてるの?

95 :太国:2006/04/23(日) 22:51:25
>>94
向かって左が神武と欠史八代間の天皇で、崇神以降が右で〜す。

96 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:53:43
ほうほう

97 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:55:15
これだな?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1109975096/l50

98 :太国:2006/04/23(日) 22:56:45
>>97 有難う。やったことあんまりないので・・・。

99 :日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:05:42
このスレの>650というのは、

崇神世の出来事を詳細に検討した時、16日という日付が4回も出てくるのです。
これは何を意味しているのか・・・?
神武と欠史八代までは2倍年暦は確実のところ、その間は14日までで15日がなく
崇神以降は28日までで29〜31日の日付はないことは先述のとおりです。
一ヵ月を分断して半月を1ヶ月でやっていたとすれば、後半の初日は15日か16日
かのいずれではないか? と睨んでました。16日が4回もあるということは、
月後半の初日が16日のほうだろうと推論致しました。だから後半のほうは
15日〜28日ではなく16日〜28日というやり方だったのでしょう。こう考えたとき
例で現代では12時を倍の24時制でも表す如く、当時は16日が同月の1日を遠回し
的に暗黙のうちに意味し、決めていたということです。
例えば。2/16の御間城姫立后では、神武以来初めての16日施行でもあり、天皇に
非ずの後背的意味の皇后の出来事で、遠回しでの2/1を表現したのだと思います。

崇神10年 7/24  四方へ派遣の詔
同 10年 9/9   四方へ命らを派遣
同 10年 9/27  武埴安彦の謀反を察知する

これを眺めたとき、7/24は7/9の遠回し的日付で、この7/9は下段の9/9と
日のほうが一致し、ともに四方派遣の類似記事ですから、派遣日をその詔の
あった27日(9日)と同一日に選んだのではないでしょうか?
えらく納得できそうです。28日を現今の2ヶ月分にて暦を編んでいたようです。

100 :太国:2006/04/23(日) 23:11:24
>>99
さらにご親切有難うぞんじます。
なお、>650 のそれは訂正が >652 にあります。以下のとおりです。

誤)27日(9日)
正)24日(9日)

お休みなさい。zzz・・・・・

101 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 07:15:38
36 名前:日本書紀紀年法研究家[yuko-kur@zpost.plala.or.jp] 投稿日:2005/11/20(日) 16:02:42
『古事記』には、歴代天皇15代にのみ崩年が干支で記載してあります。
これらの崩年干支と『日本書紀』の編年との間には、

『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支年

という等式が成り立っています。
この等式を仁徳天皇に適用してみますと、
仁徳天皇の皇子のいざほわけ皇子(後の履中天皇)の立太子年は仁徳三十一年、
仁徳天皇の崩年干支は西暦四二七年(丁卯年)となりますので、
西暦四二七年は仁徳三十一年であることになります。
仁徳三十一年を西暦四二七年と設定して、仁徳元年を求めれば、西暦三九七年になります。
また、応神天皇の崩年干支は西暦三九四年(甲午年)ですが、これに空位年の2年を加えて
仁徳元年を求めれば、これも三九七年となります。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

これ使えるの仁徳の時だけじゃねぇ?

102 :太国:2006/04/24(月) 08:04:57
>>90の続き 舒明以降

1 持統
2 元正
3 斉明 天智
4 舒明
5 弘文

 (空)

13 天武←−−−−−−(13=27−14  2/27即位   28日の末日の半分が14)
14 孝徳
15 皇極

17 文武 元明

このへんころから崩れて来るのでしょうか? 狭間の16のみ無いようです。
16は無理か・・・?
末桁の 6 に準じて 6数が慣例となって不使用なんですかねぇ?

103 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 08:38:09
>>89太国さん
日本書紀紀年法を二倍暦や三倍暦によって説明するのであるのならば、
基本的に、歴代天皇の在位年数と享年を正確に記録した『日本書紀』の原典になる史書が、
あったと想定しなくてはなりません。
『日本書紀』では、特に仁徳紀以前の天皇紀において非現実的な在位年数や享年が設定されています。
仁徳紀以前とそれ以降では、このような違いがありますが、暦法は二倍暦や三倍暦のままで、
変りは無いとお考えなのでしょうか(研究史上においては、二倍暦説などは、
仁徳紀以前の紀年問題を説明するために唱えられています)。
また、天皇即位日の数字についての太国さんのご見解は、興味深いものがあります。
これらの数字には、意味があるのかもしれません(ただし、二倍暦や三倍暦ではなく別の論理)。

104 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 08:54:17
>>101さん
允恭天皇にも使えます。『日本書紀』では、允恭天皇の皇太子の木梨軽皇子の立太子は、
允恭二十三年のこととしています。一方、允恭天皇の『古事記』崩年干支は、454年です。
そこで、以下の等式が成立します。

  木梨軽皇子の立太子年の允恭二十三年=454+1年(踰年称元法)

 允恭二十三年を455年と考えれば、「允恭五年=437年」という允恭列(C列)の基準年を、
求めることができます。「仁徳元年=397年」は、仁徳列(D列)の基準年ですので、
この法則を用いることによって、>>1で述べた允恭列(C列)と仁徳列(D列)を求めることができるのです。
応神列(A列)と雄略列(B列)は、海外資料との年代対比によっても求めることができますので、
これで、すべての「年代列」がそろうことになります。

105 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 10:24:13
#19允恭23が455だと
#19允恭05で437
#19允恭01は433


んで#18反正の崩年干支年は437?


んじゃ允恭01-433〜允恭04-436はナンだ?
この年間の天皇は反正だったと言う意味か?


つまり23年-4年で、允恭は在位19年と云う意味か?

106 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/24(月) 12:28:38
>>74日本書紀紀年法研究家さん
物部の書といわれる旧事紀は通説にあるように
日本書紀から引用したのではなく共通の原資料が
あったと推論していますが、これはどうでしょうか?

107 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 12:34:16
>>105さん
反正天皇の崩年干支は437年ですので、反正天皇の在位期間(確定紀年)は、
433年から437年までの5年間と考えねばなりません。
したがいまして、允恭元(433)年から允恭五(437)年までは、
「延長紀年」となります。
そして、允恭六(438)年から允恭二十二年(454)までの
17年間が「確定紀年」となり、さらに、允恭二十三(455)年から允恭四十二(474)年
までは「延長紀年」となります。
したがいまして、允恭紀に配布されている紀年数の42年は、以下のように、
整理することができます。

 5年(允恭元〜5:延長紀年)+17年(允恭6〜22:確定紀年)
 +20(允恭23〜42:延長紀年)=42

108 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/24(月) 12:39:02
>>76
スレッドの趣旨に反する書き込みは控えてはいかがw

109 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 12:44:59
>>106太国語録法研究家さん
『先代旧事本紀』が、『日本書紀』と共通する原典から、
引用している可能性はあると思います。
『先代旧事本紀』には、『日本書紀』に見えない物部氏関連の記述も見えますので、
物部氏の伝承をまとめたような史書があったとも想定することができます。
『先代旧事本紀』は、その物部氏の史書から引用しており、『日本書紀』もまた、
その史書から引用したと考えることもできます。
いずれにいたしましても、私も、『先代旧事本紀』と『日本書紀』との関連について関心があり、
詳しく調べてみようと考えております。

110 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 12:47:31
>>108太国語録法研究家さん
お言葉ですが、スレ主としたしましては、学術的議論を行うためには、
誰がどの説を唱えているのかを、はっきりさせなくてはなりません。


111 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 13:05:45
>>101にて、私のメールアドレスが公開されてしまいまして、
大量の迷惑メールが届くようになってしまいました。
そのほとんど全てが女性からで、私を男性と間違えています。
拙著の著者名、そして、拙著のいくつかの略歴の欄には私の顔写真が掲載されておりますので、
なぜ、私が男性と間違えられているのかわかりません。
このスレッドを見て、迷惑メールを送りつける方々がおりましたならば、
止めていただきたいと思います。


112 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 13:40:20
>>107
前半の延長紀年の真意は何?
二朝並立か?

113 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 13:44:54
>>111
ぶっちゃけ「間違えて公開したあなたが悪い」というのが
デヂタル時代の常識であり、セキュリティの常識でもありますので
早急にアドレスを変更することをお勧めします。

114 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 13:55:19
どうせスパムだろ┐(´ー`)┌ヤレヤレ

115 :太国:2006/04/24(月) 15:14:14
>>103
そのとおり、原典になる史書はあったと思います。非現実的というのが
おっしゃるとおり、仁徳以前が通り相場なので、それがしは履中即位の前年の
399年以前が2倍暦でやっていたんだろうと直感していたわけで、これだと神武の
即位が前130年に相当してくるわけです。ところが繼體世を調べましたところ、
月後半の日付がまるっきり無く、それで仁徳以降でも2倍暦様なやり方をやって
いたんではなかろうか? と、こう考えを改めるようになったものです。
さらに安閑崩御と宣化即位の日付の矛盾から、なおさらそうらしいと思いを強く
しております。2倍、3倍暦等を行っていたとすれば、数字のほうは間違いない
と考えますし、>>89 >>90 >>102 を眺めれば、古代においていかに数字が重宝
に用いられていたかが感服できます事から誤魔化してはいないと思うわけです。

116 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 16:00:39
>>112さん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』では、允恭元年から五年までを、
「確定紀年」と考えました。しかしながら、研究を進めた結果、
「延長紀年」であると考えたほうが、合理的なのではないかと推論いたしました。
私は、「延長紀年」は、神祇祭祀を担う立場の「天皇」としての在位を表すと、
考えておりますので、允恭天皇の前半の「延長紀年」は、いわば「稚児帝」を意味するという
仮説を提起させていただきたいと思います。

117 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 16:07:52
スレ主としての責任から、パート1の途中までは、書き込む際にE−mailの欄に、
私のE−mailアドレスを記入しておりました。
これが、>>101のように、公開することができるようになっているとは、思ってもおりませんでした。
私が、自ら公開したわけではありませんが、たしかにセキュリティについての認識があまかったと
思います。


118 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/24(月) 16:19:39
>>115太国さん
宣化紀まで二倍暦でしたならば、時代が下がるほどに、
在位年数や寿命が短くなるという問題が生じると思います。
清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇、安閑天皇、宣化天皇の在位年数は、
いずれも、わずか数年になります。
また、太国さんは、『古事記』も二倍暦であるとお考えなのでしょうか。

119 :日本@名無史さん:2006/04/24(月) 19:35:46
>>108
君は、俺が考えた名前にトリップつけて、
このスレで調子こいてのさばるのはいいけれど、
太国並みに扱われたくなければ止めろ。

120 :太国:2006/04/24(月) 21:03:11
>>118
数年ということは起こりうると思います。観たところ、2倍暦であるとして
清寧はこの実年だと在位2年、顕宗が1年、仁賢が5年、武烈が4年、安閑が2年
宣化が1年ばかりですか? まあそんなにおかしくないと思考します。
ところが、3倍暦でやると即位の翌年崩御、即位のその年崩御等とかが重なり、
これではおかしいに見え、このへんの世では使用してないと考えています。
古事記は余の家の奥のどこかに入り込んで出てこないので、新冊を買おうかなと
困っています。たしか2種類あったんですがねぇ?w

121 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/25(火) 08:12:23
このスレッドには、謀略的な書き込みが時々あるようです。
私も、拙著を実名で発表しているにもかかわらず、男性と間違われました。
近頃、やっと「ねかま」の意味もわかりました。
私は、「ねかま」ではなく、本当に女性です。
また、>>119さんのように、>>119さん(「太国語録法研究家」)の考えた名にトリップを付けて
書き込む「太国語録法研究家さんのニセ者」もいるようです。
ちなみに、私の名の「日本書紀紀年法研究家」については、トリップが付いているのも、
付いていないのも、どちらも私の書き込みで、ニセ者ではありませんのでご安心ください。


122 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/25(火) 08:23:29
>>120太国さん
偶然、在位年数が短い天皇や長い天皇が続いたことは、まったくありえないとまでは、
言い切れませんので、この点につきましては、ひとまずは、措いておきたいと思います。
『古事記』にも歴代天皇の在位年数や享年が記されている場合があります。
しかしながら、『日本書紀』と『古事記』の間には、歴代天皇の在位年数や享年の数字が、
異なっています。この点については、二倍暦では、どのようにお考えでしょうか。
ぜひに、『古事記』と対比なさる必要があると思います。

123 :太国:2006/04/25(火) 08:29:38
古事記の後に日本書紀が成ったのだから、後者が前者を訂正したと観ております。
宣化崩御が2月のところ10月説があるので、説明可能な一時的3倍暦世があっ
たのか? とにかく疑問は残ってはいますが、短期在位の続くころの3倍暦は
まず殆どなさそうです。検討してみます。

124 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/25(火) 12:33:01
>>123太国さん
『日本書紀』が『古事記』を訂正したというご見解ですが、何を根拠として、
訂正を行ったとお考えなのでしょうか。
『日本書紀』と『古事記』の両史書は、グランド・プランにもとづいておりますので、
同じ頃に成立したのではないかと、私は考えております。
したがいまして、両史書における歴代天皇の享年(宝算)の違いには、
数学的意味があるのではないかと、推論いたしております。

125 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 13:09:06
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-01.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-02.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-03.htm
男系派の妄言完全論破
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-01.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-02.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-03.htm
男系派の妄言完全論破
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-01.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-02.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-03.htm
男系派の妄言完全論破
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-01.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-02.htm
http://mu-cha.hp.infoseek.co.jp/go-go-emperor-03.htm
男系派の妄言完全論破

126 :太国:2006/04/25(火) 16:20:54
>>124
訂正を行わないのであれば、古事記の記述と同じことを紀に書けばいいわけ
ですよ。それを翻して異なる記述になっているという事は、よっぽど後をとる紀
に書いたほうに自信があったということです。だから訂正したという事ですよ。
すでに出来上がっているものよりもっといいものを作りたいの心理で、過去と
なる古事記より反省検討を加えて、さらに正確を追求しようととの心構えです。

127 :日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:21:46
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128 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/25(火) 17:39:53
>>126太国さん
太国さんのご見解ですと、『日本書紀』の原典となる史書があって、
その史書には、かなりの信憑性を認めることができたというわけですね。
一方、『古事記』の原典となった史書のほうは、信憑性に欠ける内容であったというわけですね。
たとえ信憑性に欠ける内容であったとしても、年代観としては、やはり二倍暦を用いていたと、
お考えでしょうか。



129 :太国:2006/04/25(火) 18:22:23
>>128
古事記の原典と日本書紀の原典とは、交錯というか重複というか、双方同一文書
も兼ねていろいろあったでしょう。だからこれは原則ですが、あまりにも異るのが
天皇の記録の年月日等ですからそう考察するわけであり、他方面の記述
に関してはどうなるか知れません。紀は多数の古書を「ある文に曰く・・・」的
なる掲載をしていますから、こういうやつはっどっちが正なのか否なのかは、記紀
を較べてそれに応じて判断するべきでしょう。
それに記が2倍暦で紀が3倍だとか、そういうことは推量の域を出ませんので
そこまでは決められませんよ。

130 :きとら:2006/04/25(火) 21:52:01
 ひとつ思いついたのですが、
 重出記事、類似重出記事がありますね。
 同じ記事、似たような記事が違う年紀に記述されています。
 干支を幾運か繰り上げたり、別の天皇の同一年紀に繰り上げたり。
 
 これらはある年列に特有のものでしょうか?
 年列には関係なく見られるものでしょうか?
 
 偏在する傾向があるとしますと、
 編纂過程解明の手がかりの一つになると思います。

131 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 06:01:50
>>116
概念における稚児帝ということなら允恭の宝算78歳があったとしても矛盾ないと思います
つまり、古事記の宝算は紀年法を構成するための記号であり実際の年齢を示す数値ではない
と考えられるからです。

132 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/26(水) 09:20:11
>>129太国さん
仮に、『日本書紀』の原典となった史書が、太国さんがおっしゃれれるように二倍暦
を用いていたのであるならば、以下の矛盾点を見つけました。
まず、『日本書紀』は二倍暦の数字によって歴代天皇の在位年数と宝算が記されていると、
想定してみましょう。数字を二分の1すれば、実際の在位年数や宝算が求められることになります。

すい靖二十五年条:安寧天皇の立太子の時の年齢=10.5歳(二倍暦21歳)
安寧三十八年条:安寧天皇の崩御時の年齢=28.5歳(二倍暦57歳)
安寧天皇の在位年数19年(二倍暦38年)

安寧天皇の享年の28.5年から在位年数の19年を引けば、即位時の年齢が求められることになりますが、
これは9.5歳となります。安寧天皇の即位時の年齢は9.5歳で、
それよりも前の立太子時の年齢は10.5歳となってしまっています。
これは、どのようにお考えでしょうか。

133 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/26(水) 09:30:34
>>130きとらさん
「重出記事、類似重出記事」については、複数の「年代列」が重なっているために、
発生している場合もありますし、また、他の理由に拠る場合もあると考えられます。
ひとつひとつの事例について、それが、どのような理由によって発生しているのか、
検証しなくてはならないでしょう。
たしかに、「重出記事、類似重出記事」の問題は、編纂解明の手がかりになると私も思います。

134 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/26(水) 09:36:01
>>131さん
私も、『日本書紀』と『古事記』に設定されてある歴代天皇の宝算には、
紀年法上の役割があると考えております。
拙論「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」にて、
一試案を提起させていただいております。もし、興味がございましたならば、
ぜひ、御一読ください。

135 :太国:2006/04/26(水) 10:35:53
>>132
仁徳崩御手前が総て2倍年暦だったとすればの仮定の上で(今は否定的ですが)
逆算しますと(向かって左が紀による年代、右は仮定が正とした時の実年代)

安寧誕生 前577年→前89年
同立太子 前557年→前79年
同 即位 前548年→前74年
同 崩御 前511年→前56年

享年33歳余で在位年数19年、立太子の年齢10歳、即位時の年齢15歳。

136 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/26(水) 12:44:24
>>135太国さん
『日本書紀』では、安寧天皇の享年は57歳と明記されておりますので、
二分の一と考えますと、28.5歳となります。なぜ、33歳となるのでしょうか。

137 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 13:20:32
倍歴区間はALL3倍歴の可能性が出てきた

138 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 13:34:32
         綏靖25 綏靖33 安寧元 安寧38
立太子21歳説  21   29    30    67
崩御58歳説    12   20    21    58

綏靖25年と安寧元年における安寧の年齢が
一致するのには理由があると考えられます。
日本書紀紀年法研究家さんの説でいうと立太子=即位なので、
安寧元年は綏靖25年と同年上に存在する並列紀年なのでしょう。

綏靖25年1月 安寧立太子21歳
綏靖33年7月 安寧即位

ということなので当年称元法と再構成すると

         綏靖25
         安寧元 安寧38
立太子21歳説  21   58

これで整合性が保てます。

          綏靖12.5 綏靖16.5 安寧0.5 安寧19
立太子10.5歳説  10.5   14.5    15    33.5
崩御29歳説     12    10     10.5   29

          綏靖12.5
          安寧0.5              安寧19
立太子10.5歳説  10.5               29

二倍暦でも同じです

139 :太国:2006/04/26(水) 14:13:01
>>136
さすが専門家で、こういう矛盾を知っておられるとは大したもんです。
うちらは研究はやってますが、まだ、こういう紀の不審点までは知悉して
ませんでした。こちらは年表と睨めっこだったのでちょっと驚いています。
云えることは、紀でさえも完全ではないわけです。八咫鏡でも疵があるという話
ですから・・・。
>>138さんがこれに答えてくれました。感謝致します。
日本書紀紀年法研究家さん、>138さんの解説は説得力あると思います。

>>137さん、だいぶ真に近いと思います。そこまで感づいておられるならば、
言いますと、結論、断定とまでは今しばらくですが、新たな私説としては

神武〜仁徳 3倍年暦
履中〜宣化 2倍年暦
欽明〜   現今に近い通常暦

ではないかと考察しています。

これですと、

神武即位 西紀110年
崇神即位 西紀300年 ←−−−−−(オーミワで覚える)

との結論が出ます。崇神のほうはピタリと末尾2桁が00となります。


140 :太国:2006/04/26(水) 14:26:08
当時は20歳前の15歳位で成人だったでしょうから、若年での即位、立太子は
おおいにありうると観ております。安徳天皇は生まれてすぐ立太子で、即位が
2歳だそうですな。

141 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 14:26:15
仁徳の途中からと17履中18反正19允恭は純粋2倍歴区間と思っていたが

寧ろその方が不自然だ

142 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 14:31:50
オマエラは廃人だぁあああああ

おーーーーーーーーーーーーー

143 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 14:35:49
安寧って58崩御で良いの?

144 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 14:42:25
あぁ解った

145 :太国:2006/04/26(水) 14:45:02
>>143
3倍年暦ですと22歳崩御になりますね。立太子が7歳、即位が10歳。

146 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 15:15:04
イヤ

>>138
>崩御58歳説は

崩御は57歳じゃないかなぁーっと

147 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 15:47:28
長すぎる寿命と長すぎる在位を解く三倍歴にあると思うが
即位時の年齢まで単純に求めると寧ろ不自然だ

在位中の記事のない期間の抹消が先の悪寒

148 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/26(水) 16:41:44
>>137さん
すべて三倍暦ですと、日本古代においては、歴代天皇は短命で、
稚児帝であったということになります。稚児帝であった可能性はありますが、
短命であったと考えることは難しいように思います。

149 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/26(水) 16:45:48
>>138さん
二倍暦説、三倍暦説では、歴代天皇の在位年数(紀年数)、享年のすべてが、二倍、
三倍されていると想定しなくてはなりません。享年だけ二倍や三倍されていて、
在位年数は、そのままというのでは、なおさらに不整合が生じてしまいます。
また、>>146さんも指摘されているように、安寧天皇の享年は57歳です。

150 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/26(水) 16:54:39
>>139>>140>>145太国さん
私が日本書紀紀年法の専門家であるから、矛盾に気付いたのではなく、
二倍暦で考えると矛盾してしまうのです。
また、>>145にて、太国さんは三倍暦では整合するとおっしゃいますが、
これですと、次帝のい徳天皇は、安寧天皇10歳の時に、5歳で立太子されていることになります。
太国さんは、この矛盾をどのように説明なさるでしょうか。
私は、『日本書紀』に見える非現実的数字は、二倍暦や三倍暦ではなく、紀年法構想の論理において、
設定されている数字であると考えたほうが、合理的ではないかと思います。



151 :太国:2006/04/26(水) 18:02:08
>>150
おっしゃっていることはわかりました。>>139はまだ仮説です。
検討してみましょう。確かに矛盾ですな。鋭いですねぇ。
何とも言えませんが、途中に通常暦があるのやも知れません。
この前の即位日の数字が整然としていることから、古代では数字が重要視され
ていたことは否めません。
とりあえずで、ありうるかどうか分かりませんが、
その安寧即位日〜孝昭即位日は特殊なのかと思考したことがあります。以下の通り
安寧即位 3日
懿徳即位 4日
孝昭即位 9日
この数字を逆読みすればコヨミと読めますので、その意味は変則での一般的暦
ではなかったか? と考えております。
それに紀では5月と6月の日付が、調べれば分かりますが、殆ど少ししかない
のです。とくに5月はひどいのです。とりあえず概算で5月を見ますと

崇神は0、垂仁は0、景行は2、成務は0、仲哀は0、神功は1、應神は0、
仁徳は3、履中は0、反正は0、允恭は0、安康は0、雄略は1、清寧は1、
顕宗は0、仁賢は0、武烈は0、繼體は0、安閑は1、宣化は1

と多数の日付の記述の中でこんなに5月は少ないんですよ。そして欽明に
なると4、敏達が5、用明と崇峻はまた0(在位年数少なくその為か?)、
推古は7、舒明は1、皇極は8 とだいたい適量数になります。
なぜか?3倍年暦だと5月が1月になるから、5月が来ると戻して1月と為したた
んだと思考してるんです。そして神武即位〜欠史八代間でも5月というのは殆ど
無いんです。しかし、目に見えるものでは綏靖崩御の5/10で、5月はこれ一つ
じゃないかな?と思います。ということは、そのへんは5月を一般暦の通例で
使用してたんじゃないのか?とも考えています。崩御日の5月(崩御自体は
たまたま起こったんですが)から、これから当分の間は一般暦だぞとの宣言日付
なのかなと思考するものです。日付の記述の少ない八代間での5月の記述は貴重
なものです。


152 :きとら:2006/04/26(水) 18:16:25
 『日本書紀』には元嘉歴と儀鳳暦が使用されている。
 
 『古事記』ではどうなってますか?

153 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 18:32:36
>>138
他の天皇の代で旨く行けば使えるね、コレ

154 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:28:05
宝算年差と安閑の在位期間が当年称元法で9年あることから
安寧の宝算57歳は58歳に改めました。

155 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:37:16
>>152
推定材料は推古の崩年干支しかない
古事記は元嘉暦でないのかも

156 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:39:54
韓国人の先祖は、韓人(からびと)ではない。
韓人は倭人だった。つまり、日本人の同族だ。韓人は日本語を話していた。
韓人とは、任那人=百済人、そして志良岐人のことである。
彼らは日本語を話していた。
古代のカラ半島東北部に住んでいた濊人(ワイ人)こそが、韓国人の先祖なのだ。
濊人が話していた濊語(ワイ語)が、現在の韓国語の元になったのである。

だから、日本語と韓国語はぜんぜん違う言語なのだ。
ワイ人が志良岐を乗っ取って建国したのが新羅。
建国者の金奈勿は、新羅が高句麗の属国してた頃に新羅の北方のワイ郷から、
さらに多くのワイ人を呼んで、新羅に移住させた。
相対的に新羅先住民だった倭人の人口比率は下がっていき、ワイ人が多数派となった。
こうして、新羅(元は志良岐=シラキ)はワイ化が進んでいった。
5世紀初めには、完全なワイ人国家になってしまった。


157 :太国:2006/04/26(水) 21:16:46
全国の皆さん、>>150 の日本書紀紀年法研究家さんの鋭い指摘により、>>151
の考察から >>139 は修正が必要であるとのことが分かりました。
その結果検討を加えたところ、最終結果として次のとおりになりましたので、
興味あると思い、実年代としてここに公表します。以下のとおり

神武即位 西紀66年
崇神即位 西紀300年
神功摂政 西紀400年(應神立太子も同400年、神功が年の前半、應神が後半)

修正は他にもあることが判明してます。
またおかしければ教えて下さい。さらなる再考を致します。

158 :日本@名無史さん:2006/04/26(水) 23:36:37
>全国の皆さん

まぁ間違いではないだろうが、
ちょっと大げさだなwww

159 :太国:2006/04/27(木) 09:06:05
365倍暦を肯定している書がある。それは何か?w 『西遊記』だよ。w
これによると、小説ではあるが、天上界と地上界の時間の関係について言及して
いる。どういうことかと言うと、
天上の1日は地上の1年であり、天上界でのんびりと過ごしていた孫行者が
あるとき地上の水簾洞へ戻ったところ超長年月が経過していた。
神武以前の暦はこんなのだったんではないか?

160 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 09:34:55
>>151>>157>>159太国さん
太国さんが>>157で修正された年表は、二陪暦と三倍暦のどちらにもとづいているのでしょうか。
神武元年の年代が上がっている点からは、三倍暦を二倍暦に修正したと考えられますが、
論理的にどのような点を変えたことによって、神武元年の年代が上がったのかを
述べていただきませんと、批評、批判を行うことができません。
また、>>151での日付の5月と6月についての考察は、面白いと思いました。
5月と6月の日付の記述の多い推古天皇と皇極天皇は女帝であることや、
敏達天皇、推古天皇、皇極天皇は、神祇祭祀を重視していた天皇であることなど、
いくつかの理由が、仮説として提起できるかもしれません。


161 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 09:46:33
>>152きとらさん
『古事記』は、無紀年であり、編年は無いとされています。
しかしながら、『古事記』崩年干支には、日付が見える場合があります。
『古事記』にも編年はあると考えてよいでしょう。
これらの僅か日付が、元嘉暦によるものか、儀鳳暦に拠るものかは、
研究史上未詳です。
日付を用いていることは、暦が用いられていることを示していますので、
暦法の専門家の方々に、ぜひ、『古事記』に用いられている暦を解明して
いただきたいものです。


162 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 09:51:06
>>154さん
当年称元法は、歴代天皇の在位年数を計算する場合に用いられます。
享年の計算には、用いられないと思います。
むしろ、数え年であるのか、無いのかによって1年の差が出ます。

163 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 09:58:21
>>155さん
>>161にて、『古事記』にも暦が用いられていると述べましたが、
よく日付をみてみますと、月朔干支が付いているのは推古天皇崩年の「癸丑」しかありません。
元嘉暦であるのか儀鳳暦であるのかの判断材料は、一つしかないことになります。
>>155さんは、なぜ、「元嘉暦ではないかも」とお考えになったのでしょうか。


164 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 10:02:52
>>156さん
半島の民族構成と、それが、半島史にどのような影響を与えていたのかは、
興味深い問題です。

165 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:26:44
話を整理する為に・・・

崩御年直線の傾きが3である

と再提起する

166 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:30:46
生年直線は傾き1.35程度の期間がある

167 :太国:2006/04/27(木) 11:19:26
欠史八代間は2倍暦3倍暦と等倍暦(通常暦)混合をやっていたんではないか?
との思いをするようになりました。日本書紀紀年法研究家さんの厳しいご指摘で
矛盾を知り、それが正解ではないかなと考えを修正しています。
3倍暦の使用については以下のことを古代はやっていたと思われます。

1月 10日      1月 20日
2月 10日      2月 20日
3月 10日      3月 10日
4月 10日      4月 10日
5月 10日      5月 0
6月 10日      6月 0
7月 10日      7月 10日
8月 10日      8月 10日
9月 10日      9月 10日
10月 10日      10月 10日
11月 10日      11月 10日
12月 10日      12月 10日

想定として、上の向かって左の方式で1年が120日の現今の4ヶ月とし、これを
右のように改定して行っていたということです。5月と6月の日がなく、
1月2月のほうを増やしているのです。こうしますと紀の日付の統計とかなり
適合してきます。 >>157 の件は後刻に・・・。

168 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 12:48:43
>>165さん
「崩御年直線の傾き」とは、どのような論理にもとづくものなのでしょうか。
それがわかりませんと、傾きが3であるという165さんのお説の意味が、
わかりません。
165さんは、話を整理しているのではなく、意味不明な書き込みによって学術的議論を混乱させているだけです。

169 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 12:51:46
>>166さん
>>166は、165さんの書き込みでしょうか。
このスレッドにおけるこれまでの議論において「崩御年直線の傾き」などというものは、
いっさいでてきておりません。意味不明です。きちんと、ご説明いただきたいと思います。

170 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 12:53:39
>>167太国さん
二倍暦、三倍暦、通常暦の混合でしたならば、どの天皇紀がどの暦であるのかを、
お示しいただきたいと思います。

171 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 15:09:31
1.76

172 :太国:2006/04/27(木) 15:12:07
>>167
表の右のは厳格ではなく、5月等は遠回しの日付として使っていたとも考えられ
ます。以下の方法が3倍年暦の原則の理屈なわけです。

1月−−−→1月
2月−−−→2月
3月−−−→3月
4月−−−→4月
5月−−−→1月
6月−−−→2月
7月−−−→3月
8月−−−→4月
9月−−−→1月
10月−−−→2月
11月−−−→3月
12月−−−→4月

とくに5月が1月とみなすやり方を採っていたようで、次いで6月がその方法に
準じて2月、7月以降も5月6月ほどではないが、みなす方式で各月に当て、
現今での1年が3倍年暦の当時は3年分であったということになるわけです。

173 :太国:2006/04/27(木) 15:14:28
>>172  2段目
表の右のは    は、>167の表のことです。

174 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 15:20:16
>>171
>>171の書き込みは>>165さんの書き込みと拝察いたしますが、
エンプティ・ダンプティな書き込みは止めていただきたいと思います。
数字を提起されているかぎり、数式があるはずです。
論理的根拠となる数式を示していただきたいと思います。

175 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 15:24:32
>>172>>173太国さん
>>172にて、太国さんが示された図にもとづきましと、5月、6月、7月、
8月、9月、10月、11月、12月は、それぞれ、1〜4月までに置き換えられて
しまうことにあり、5月のみ月日が少ないという太国さんの論拠が崩れてしまうことになりますが、
いかがでしょうか。

176 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 15:34:40
解明されたら、何かいいことあるの?

177 :太国:2006/04/27(木) 15:52:25
>>175
だから、当時1という数字を好んで使っていたわけですよ。若い数字が好まれ
ていたわけでしょう。次いで6月が少ないのは2月の2が1に準じて気に入られ
ていたんでしょう。7月以降も全部ではないがその傾向を引きずっていたわけで、
5月6月ほどでもないわけですよ。
マンション、アパートの部屋も101号室、102号室〜と行きますが、104号室は
ない建物が多くこれと似ているわけです。この場合は4数を不吉と観ている方が
現在の日本で多いからでしょう。当時も不吉というんではないかも知れぬが、
新規の意味でか若い数字を多用していたんでしょう。

見て下さい。以下のことは、貴女もすでに気付いておられると思います。

綏靖立太子 皇紀42年 1月3日
安寧 即位 皇紀113年  7月3日

これの月日のところだけを見てその差をとれば 7−1=6 で丁度6ヶ月の
半年なんですよ。これが紀を見て私が紀年に興味をもった始まりなんです。
今これを想い起こして云えることは、半年の差だから後をとってる安寧世は1年
が半年分の2倍年暦法を使っていたのではないのか?ということです。

178 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 16:06:08
傾きが3ってのは要するに3倍歴のことでは?
y=axでy=現在の1年、x=当時の1年、a=その係数。
1.47はわからんなあ。

179 :太国:2006/04/27(木) 16:28:46
>>177 から
開化天皇の名は「若日本根子大日日尊」ですが、若いの文字に日と日という二つ
の「日」のつく名になっています。何故このような名なんでしょうか?
二つということから若い数字と2倍暦を連想するのであります。
開化の世も2倍年暦ではなかったか?と・・・。そこで >>151 の三天皇の
即位日を思い出して下さい。コヨミの字が3日4日9日に対応しているわけ
ですが、これを代数でみますと
3代 綏靖 3日
4代 安寧 4日
5代 孝昭 9日
となって、孝昭の場合は綏靖と安寧と違い代数と即位日が一致していません。
一致してるのは二つの日なわけです。開化の大日日尊の名の二つの日の意味とは
ここの二つの一致を示唆したものではないか? と私は考えました。
そこでコヨミの数字は秘密になっていて、代数の943のことではないかと
想いを進めたわけです。つまり、結論は3代、4代、9代は2倍暦を使用して
おり、神武と八代間の他は例外を除き3倍暦を用いたという結論となりました。
開化の9数は1桁数の中で最も「老」の数字なわけです。そこで9→5なる若め
の数字を志向させたんだと思います。

180 :太国:2006/04/27(木) 16:32:03
>>179 訂正 追加
連続三天皇の代数は+1になっています。
1倍暦(等倍暦)があるわけの示唆です。

181 :太国:2006/04/27(木) 17:24:10
>>179 >>180
あれあれあれっと? なぜ代数が1多いのか?w それはこういうことです。
1倍暦(等倍暦)の黙示なわけです。
年表を眺めていたところ、妙な個所を見つけたのです。
それは綏靖世に安寧と懿徳の両天皇が生まれていることです。ちょっと変では
ありませんか?そんなことが >>136 の疑問と関わっているのかも知れませんが?
神武〜欠史八代においては一つの天皇の時世に、天皇となるべき皇子がお二方も
生まれるということはまるで無いはずで、それ以降の天皇の世でも当分の間は
ないようだということです。つまり一代の天皇世に、天皇になる皇子はお一方
なのが通例ではありませんか? それがお二方が生まれているわけなんです。
大略、以下のような順の時系列です。

神武崩御→綏靖即位→安寧誕生→懿徳誕生→綏靖崩御→安寧即位

この異変からいろいろ考察を巡らした結果、綏靖の世は等倍暦を使用してたの
ではないか? と思うようになりました。先の2代の筈の綏靖が+1の3代として
(4代〜の代数も+1に増加)即位日と代数の数字が一致してくることを含めて
です。見て下さい。懿徳の「懿」の文字を・・・。
ヘンが邪馬壹国で有名な『壹』字であり、ツクリの上部分が『次』(2の意味)
の字になっています。何故、この天皇にこういう号を名付けたのかは不知
ですが、これは安寧世が2倍暦のところ、当時で現今となる綏靖世は1倍暦なる
等倍暦を使用していたんであろうと? 「次」は安寧世の2倍暦の黙示の様です。
これと一寸相対する号が「仁徳」です。「仁」の文字のツクリの『二』は、次世
の履中からが2倍暦世に入るとの示唆ではなかったか? そういうことです。

182 :太国:2006/04/27(木) 17:40:13
>>181 から
という検討の上で
神武と「孝」の字の付く天皇の世は3倍暦で、綏靖世は等倍暦、
安寧と懿徳世及び開化世は代数がコヨミの数字(ただし前者と中者は+1数)を
観て2倍暦だったと考察します。そうなりますと神武即位は西紀66年です。

183 :日本@名無史さん:2006/04/27(木) 17:46:59
>>179
> 二つということから若い数字と2倍暦を連想するのであります。

これはよしといた方が……
日が三つ続く名前がなかったから3倍歴なんてありえないというくらい変だぞ?

184 :太国:2006/04/27(木) 19:28:05
欠史八代は史実が少ないのでどうしようもないですな。そこまであれば
なおさら納得に行くでしょうがね?w


185 :太国:2006/04/27(木) 19:51:06
>>183さん
今回の論は、まだ断定ではありません。これでも問題がないわけではありません。
けっこう、スムーズに説明できるように思えるという段階です。
これはどうですか?

ミマツ(三間津)孝昭〜3倍暦〜(孝元まで)
ミマキ(三間期)崇神〜3倍暦〜(仁徳まで)

186 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 20:53:30
>>176さん
日本書紀紀年法を解明したことは、日本古代史を明かとするために役立ちます。
これまで、『日本書紀』のどの条が、実年代で何年に位置するのかがわからなかったわけですが、
多列・並列構造にあることがわかれば、実年代を求めることができるようになります。

187 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 21:16:38
>>177>>188太国さん
太国さんは、立太子と即位を同義と考えておられるのでしょうか。
私は、『日本書紀』では、立太子と即位を同義と見なしている場合があると推論しております。
いずれにいたしましても、ちょうど6ヶ月間隔となるのが、
綏靖から安寧への皇位継承の年月日だけでは、あまりに根拠に薄いと思います。
同じ理屈を、>>188で述べておられる三倍暦に適用させますと、4ヶ月間隔で即位や立太子がなければなりません。
>>177でおっしゃられていることと、>>188でおっしゃられていることが矛盾していると思います。

188 :太国:2006/04/27(木) 21:21:57
>>183さん
大日日尊は日数の大になる意味の御名だとすれば、年を意味してくると考えられ
ますが、如何ですか?だから、これが二つの「大きな日々」→2年のことになりま
せんかな?
それに何故開化天皇のみ、即位の月が意表を突く2桁の11月なんだと考えた事は
ありませんか?2倍年暦なら理解出来ます。というのは、1年が現今の半年だから
7月が第二の1月であり、11月は5月に相当して来るのです。
それで >>167 >>172 の論理から5月を回避して11月にあてたんだと思います。
即位は11/12ながら、5/12なのであります。

189 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 21:23:51
>>178さん
「崩御年直線の傾き」など存在するわけはないのではないでしょうか。
統計学に拠るとでもいうのでしょうか。
議論を混乱させるための>>165さんの単なる詭弁ではないかと思います。

190 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/27(木) 21:30:20
太国さん
1から3までの数字が好んで用いられているというのは、
基本的に成り立たないお説であると思います。
八月や九月の日付は結構ありますので、
五月のみを避けたということはないと考えられます。

191 :太国:2006/04/27(木) 21:39:38
日本書紀紀年法研究家さん
自ら5月の統計をとってみたらいかがですか?その心細いほど少ないのに
驚くはずです。 >>151
現に、マンション、アパートだって101号室、102号室、103号室、105号室・・・
で4の数字を避けているじゃぁありませんか? 古代の当時もそういうことで
素抜き数字での非使用をふんだんに行っていた事を否定は出来ないと思いますが?

192 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/28(金) 08:31:55
>>191太国さん
太国さんの論理ですとは、5月の日付が少ないという理由は、
三倍暦が用いられていたからであるということになります。
しかしながら、三倍暦によって編纂された原典をもとに『日本書紀』を編年する際の
整理法は、一月を三分して割り振っていったとしか考えられません。
例えば、垂仁十五年条には、二月と八月の記述がありますので。
この三分整理法ですと、5月の記事は、たとえ避ける数字であったとしても、翌年条の1月や
11月に移動させる性質のものではないことになります。1月のうちのどこに位置しているのかによって、
何月かが決まってくることになります。
この点は、いかがお考えでしょうか。

193 :太国:2006/04/28(金) 11:03:09
>192
おっしゃっている意味が完全にわかりません。その年で移動できるでしょう?
翌年にもっていくことは不必要だと思いますが・・・?今回の私論ですと、
垂仁15年は327年後半に相当します。それに今回の論でもまだ不完全なところが
あるのです。日本武尊が釣り合わんのですよ。前々の論の考察でもこれです。
尊は天皇ではないから、紀に引いた何らかの原書にやり方が違うとか誤があると
かで合わんのだと考察しています。本日多忙なので書き込みはしないか夜更けに
なります。いろいろ指摘して下さい。検討します。ご免。

194 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/28(金) 13:02:18
>>193太国さん
太国さんの論は、基本的には、二倍暦や三倍暦によって編年された『日本書紀』の
原典となるような史書があって、その史書の編年にもとづいて『日本書紀』は編年された
というものであろうと拝察いたします。
したがいまして、この考えですと、通常暦での1年が、『日本書紀』においては、2年、3年というように、
延ばされていると想定されます。
そこで、垂仁十五年条の例に示されますように、二月と八月などの月日は、
どのようにして決められたのかという点が問題となってきます。
『日本書紀』では、1年(1紀年)が、6月(二倍暦)や4月(三倍暦)までの月日のみによって、
構成されているわけではないからです。
そこで、通常暦の1月もまた、二分もしくは、三分されていると考えられることになるのです。
私の質問は、垂仁十五年が実年代で何年に位置してくるのかといった質問ではなく、
例えば、垂仁十五条に八月があることは、太国さんの論理構成においては、
どのように説明されてくることになるのか、という質問なのです。

195 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 14:03:35
崩御年直線の傾きってのは安本美典?

196 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/28(金) 15:53:11
>>195
私も、「崩御年直線の傾き」は、安本氏が統計学によって、
歴代天皇の平均在位年数を算出される際に、用いた関数かなにかではないかと考え、
確認しようとしたのですが、安本氏のご本が見当たらず、確認できませんでした。
「崩御年直線の傾き」について書き込まれた方は、その後、なにも書き込まれておられませんので、
どなたか、「崩御年直線の傾き」についてご存知の方はおられないでしょうか。

197 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 19:44:05
>>188
> 大日日尊は日数の大になる意味の御名だとすれば、年を意味してくると考えられ
> ますが、如何ですか?だから、これが二つの「大きな日々」→2年のことになりま
> せんかな?

少なくとも私にはそう思えません。
とはいえ他に考えがあるわけではないですし、現段階ではあなたの心象以上のモノではないと思いますのでこの件に関しましてはこれで。

198 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/28(金) 20:47:48
>>197さん
太国さんのお説は、論理一貫しておらず、矛盾に満ちています。
太国さんのお説にしたがえば、三倍暦を用いてある天皇紀の天皇の名前は
「大日日日尊」にならねばなりません。

199 :日本@名無史さん:2006/04/28(金) 22:26:25
http://inoues.net/club/amagi_kouenkai.html

ここの真ん中あたりに、
安本氏の説が大まかに書かれてるみたいですが、
参考になりますかね?

200 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 00:14:21
話は戻るけど、日本書紀紀年法研究家の考えってさぁ

書紀年代 経過年 実年代 経過年
-96〜200 297年 091〜202 112年 崇神〜仲哀

これで良かった筈だと思うけど


じゃあ崇神の古事記崩年干支の戊寅って何を表してると思ってるの?

崇神は138年没だと古事記ライターは訴えたかったとか?

201 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 05:57:02
>>163
日本書紀は三月丁未朔癸丑日つまり三月七日
古事記は三月十五日癸丑日つまり己亥朔癸丑日
月と日付の干支は一致し、月朔干支が違うことになります。
日本書紀のこの部分を元嘉暦であるとすると
古事記は「元嘉暦ではないかも」と考えるわけです。

もちろん推古紀の三十年から三十六年の間に存在する
月朔干支の不一致に関する問題を考慮するなら別ですが。

202 :太国:2006/04/29(土) 09:40:44
>>197
貴方の主張では何ゆえ否定されるのか、その理由が全く無い。だからこっちは
反省検討するのに何の益にもならない。
貴方の言い方ならば、
貴方は開化世での2倍暦を否定してるので、3倍暦か等倍暦、n倍暦あるいは
日本書紀紀年法研究家さん系の讖緯説方式か、他の暦法か、それとも無暦の
蛮族の世だったかのいずれかだということになるわけだ。
貴方と同じ言い回しで、無論で私も〜

少なくとも私にはそう思いません。〜だ。

203 :太国:2006/04/29(土) 09:55:17
>>198
「日」が三つ付く御名の天皇は、それはいませんがねぇ。
開化の飛び石2倍暦に関して、
宣化の「化」は開化の「化」と同字であり、「宣」の字はウカンムリの中に
「二」を分断した「日」があり、大日日尊(二日)と号が似通う感があります。
そして、「日日」字の一段級を外れるような「日月」のある欽明の号からして、
宣化世は2倍暦で欽明世は一線を区画し等倍暦の世だろうと私は見ております。
日素鳥居の謎は、開化の「開」字の鳥居を「日」字と交換することではないかと
策定しています。「開」→「間」になるわけで、後者の文字には「日」が三つ
ありますね。>>185 のとおりです。孝昭も崇神以降も3倍暦との想定です。

204 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/29(土) 10:14:47
>>199さん
「崩御年直線の傾き」につきまして、ご親切に安本氏の数理歴史学についての
著作の紹介文などをご提示いただきましてありがたく思います。
しかしながら、ご提示いただきました文章には、「崩御年直線の傾き」などという用語は、
見えませんでした。
この用語は、>>165さんにしかわからない用語なのではないでしょうか。

205 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/29(土) 10:44:46
>>200さん
「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」
において提起させていただきました仮説についてのご質問と拝察いたします。
『日本書紀』と『古事記』の間には、以下の式が成り立っています。

「日本書紀のA天皇の皇太子の立太子年=古事記のA天皇の崩年干支」

この法則にしたがいますと、
「活目皇子の立太子年の崇神四十八年=138年」となります。
崇神四十八年を138年と想定すれば、崇神元年は91年となります。
崇神元年を91年と設定して、応神三年(応神天皇の立太子)の年代を、
『日本書紀』に配布されている紀年数にしたがって求めますと、390年となります。
390年は、応神列(A列)における応神元年の年代となります。
このことから、「立太子」と「即位」が同義として扱われていることになります。
崇神天皇の古事記崩年干支の戊寅年は、重要な役割を果たしているのです。

206 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/29(土) 10:50:39
>>201さん
元嘉暦ではないとしたならば、儀鳳暦である可能性はあるのでしょうか。
もしくは、月朔干支が、推古天皇の崩年干支と整合する暦はあるのでしょうか。


207 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/29(土) 10:58:43
>>203太国さん
それでは、用いられている漢字に「日」や「月」の造りや辺が、
まったく含まれていない。もしくは、一つのみの歴代天皇は、
普通暦、二倍暦、三倍暦のいずれによって編年されているのでしょうか。

208 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 11:14:36
>>202
なにか勘違いしてるようだが2倍歴とか3倍歴を否定してるわけじゃないですよ。
名前に「日」が二つ並んでるのは2倍歴を連想させるというその行為自体に対して(゚Д゚)ハァ?と言ってるだけだよ。
それに183での「大きな日々」をイコール「年」とするのも……
なんで「月」という単位を飛ばすの?

まあこの辺でといった癖にレスするのもなんですが、
『「日」の字が名前に二つ並んでるのは2倍歴の名残』
とあなたは主張してるわけではないんでしょ?
あくまで印象としてそう思えたという程度なんじゃないんですか?

209 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 11:20:48
あと「日」が二つ並んだ名前についてあえて考察するなら、その主張するところは「期間の長さ」だと思います。
国家の「君が代は千代に八千代に」の「千代に八千代に」と同じような意味あいの寿ぎを表してるのではないのでしょうか?

そもそも「日日」で2倍年歴になんらかの関連があるのなら、その前提として1倍年歴の概念が、つまり通常の年歴の概念がなければ成り立たないと思いますがいかがでしょう?

210 :太国:2006/04/29(土) 14:35:41
>>208
否定してないそうだから聞くが、では開化世は2倍とい3倍のどっちなんだ?
論がないんじゃ、はぁ?どころじゃぁないだろう?え〜?w
はぁ〜 はぁ〜?だよ。ww

211 :太国:2006/04/29(土) 14:55:15
>>207
各天皇に関してもうすでに先に解説したではありませんか?
貴女の指摘によって修正したほうが今の私の主張ですよ。
貴女の知りたい垂仁世の日付の統計が下のとおりです。月がどうの〜?
貴女の主張で、ここの月後半の殆ど0に近い記述はどう解釈してるん
ですか?

1日 2    11日 2    21日
2日 5    12日 1    22日
3日 1    13日      23日 1
4日      14日 1    24日
5日 2    15日      25日
6日 2    16日      26日
7日 2    17日      27日
8日 2    18日      28日
9日 1    19日      29日
10日 4    20日      30日

わずか23日の日付のみの1個だけですよ。通常の考察ならば2倍暦等を
やっていたんではないか?との思いを抱きますがねぇ。
1ヶ月が2週間に見えるんで、私は当初は2倍暦かと考えましたが、
今では3倍暦だと再考しています。11日〜14日の数字は垂仁世の始まる
即位のころと、末期の崩御ころにのみの使用であり、いわば同世の端と
端のみが中旬の数字なんです。だから上旬の遠回しの数字が中旬の数字
ではないかと考えている訳です。なると3倍暦の想いがよぎるんですよ。

212 :太国:2006/04/29(土) 15:02:05
>>209
通常を等倍暦とみなして、綏靖世がそうだろうと考えています。
だから前提の世が存在します。

213 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 17:06:44
http://www.dai3gen.net/yamatoto.htm
この項を読んで『大日日』には別の読み方があるんじゃないかと思った

214 :太国:2006/04/29(土) 17:23:02
>>211
この表を眺めて想うには、4日と13日が欠けているわけですが、末尾になる14日
と23日の日付をそれぞれマイナス10と引くと、その欠けた空白へ数字を挿入出来
ることになり、1日〜13日の日付までの数字で埋まります。
何らかの意図をもって行われた日付群の感を深くしますし、マイナス10日とは、
1ヶ月が10日にて実施されていたのではないのか? と考えてしまいますね。

215 :太国:2006/04/29(土) 17:38:59
>>213
大日日尊の「日日」は神日本磐余日子火火出見尊の神武天皇の「火火」の字と
呼応させているんではないでしょうか?
ただ「火」の字は day の意味ではないですから、呼応させてはいるものの別枠を
言いたいのかと考えます。開化世は2倍暦と思いますが、神武世は3倍暦と考え
ておりますので・・・。神武の「火火」は「火」が1(ヒ)数を意味するかと
思い、「火火」は11のことではないかなぁと想ったりしています。そうなり
ますと11日は3倍暦の月での2月目(一ヶ月が10日分)を示唆し、結局3倍暦
なる意味の尊名なのかと想像してしまいます。まぁ、否定者は多いでしょう?w


216 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/29(土) 18:03:57
火火出見はホホデミと読む

217 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 18:51:50
>>215
いや、大日日は春日(かすが)と読むのではと言いたいのだが…

218 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/29(土) 20:00:13
>>209さん
「日」が期間(在位期間?)の長さを示すのでしたならば、
日並皇子(草壁皇子)については、どのように説明なされますか?

219 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/29(土) 20:06:12
>>211太国さん
私が、質問させていただきたかったことは、日付ではなく月についてです。
初歩的質問をさせていただきますが、『日本書紀』の原典となったと考えられる
二倍暦や三倍暦で編年された原典においては、月はどのように扱われていたのでしょうか。
例えば、二倍暦ですと、1月〜6月までしか月が無かったのか、
それとも、普通暦での半月が1月で、1月から12月まであったのでしょうか。


220 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/29(土) 20:08:17
>>216太国語録法研究家さん
トリップの付いている「太国語録法研究家」さんは、
たしか、ニセ者であると思いました。

221 :太国:2006/04/29(土) 20:08:35
>>217
ははぁ、そうなんですか? 、開化天皇の宮を春日宮というわけですが、
そーかなぁー?
春日宮から云えることは、大日日尊の「日」二つでさらに大の字からして、御名
は夏のことを黙示してるんじゃぁありませんか? 二つもあれば超暑いです。
>>188 から、5月となれば紀では夏扱いですのでピッタリです。やはり開化世は
は2倍暦だったんではないかと、ますますそう感じます。
それで開化紀に即位が冬11月とありますが、実は夏の5月だよというくらまし文
のようでよ。

222 :太国:2006/04/29(土) 20:22:42
>>219
日本書紀紀年法研究家さん、私はこの道は専門家ではなく克明に調べ尽くした
プロフェショナルの学会にまで出席できる貴女ほどの凄腕ではありません。
細かいところを完全に綿密に検討でき尽くしている男ではないですので、今後の
解明に待つ他はありません。ただこうではないか? と思うことは、各天皇の治世
で2倍、3倍暦のもとに個性的にいささか異なる暦法をやっていたんではないかと
考えています。日葉酢姫の件 >>192 は、以下の事例のようなことでしょう?
よく調べましたね。

皇紀2329年1月3日 荷田春満 生
皇紀2396年7月2日 荷田春満 没

再考してみましょう。

223 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 20:29:34
>>210
さあ、どうでしょうね?
いずれにしろ名前の付け方と暦の制度の間には関連性はないと思います。
解釈その他に飛躍がありすぎると思います。しかも方向がずれまくりな飛躍だと思います。
が、太国さんが関連性があると思ってるならそれでいいです。
私には納得できないというだけです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
この件に関してはこれで本当に打ち止めにしたいと思います。
太国さんがレスするのはとめませんが。
ちなみに読んでは行くつもりですので、納得できるレスがあればその旨をレスしますが、納得できなければそのままスルーさせていただきます。
悪しからず。

>>212
通常の年歴を知っていながら2倍年歴、時には3倍年歴を使用していたとお考えなのでしょうか?

>>218
209はなんか誤解されそうな文章でしたね。
要は実体のない願望なりが込められた名前だったのではないかという一案に過ぎません。
例えば自分の子に幸せな人生を送りますようにという願いを込めて「幸子」と名づけるような類の。

で日並皇子は、その例で言えば、日に並ぶ(=天皇とほぼ同じ)皇子であれ、というような願いが込められていたのではないでしょうか?
他にも解釈はいくらでも可能だと思いますが。例えば「日が並ぶほど(永くあれ)」とかね。

224 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 20:33:24
>>219
たしか以前の太国さんのレスでは「1年=12ヶ月」は動かなかったと思います。
月が何日間であるかだけが変動するということだったと思います。
例えば2倍年歴では1ヶ月が15日、3倍年歴では1ヶ月が10日という風に。
もし違ってたらすいません。>日本書紀紀年法研究家さん、太国さん

225 :太国:2006/04/29(土) 20:37:27
>>223
言いたいことを云って、さっさと逃亡か〜?w
君は水陸両用と地中に潜れ宇宙旅行可能な、判然としないバットマンではないか。
鳥か獣かも何の生物かも判然とせず、能書き沢山言ってエスペープする人間か〜?
非常にこすいぞ。

226 :太国:2006/04/29(土) 20:41:14
>>224さん
そこんところは研究中です。各治世で個性的に等倍2倍3倍暦を運用してたんでは
ないでしょうか?統計をとると異なる個所があるみたいです。

227 :太国:2006/04/29(土) 20:48:40
>>225
誤)エスペープ    正)エスケープ

228 :日本@名無史さん:2006/04/29(土) 23:57:36
応神41=05+36
空位02=02+0
仁徳87=31+56
履中06=06+
反正05=05+
空位01=01+0
允恭42=14+28
安康03=03+
雄略05=05
――――――――
合計192=72+120
――――――――
書紀年=実年+水増し延長年



日本書紀研究家の話の理解はこれで良いのか?

229 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 00:13:42
あぁー允恭は
允恭42=延長5+実17+延長20だったな

230 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 00:57:22
それと

応神元年=西暦三九〇年(応神列<A列>)
仁徳元年=西暦三九七年(仁徳列<D列>)
允恭五年=西暦四三七年(允恭列<C列>)
雄略五年=西暦四六一年(雄略列<B列>)

ってさぁ、何で順にA列、B列、C列、D列になってないの

231 :太国:2006/04/30(日) 01:23:36
今日も〜世の髪の毛は37本抜けた…

232 :太国:2006/04/30(日) 01:39:10
全日本ハゲ連盟総会が、今年も高輪プリンスホテル・鳳凰の間であった。
もちろん世も参加したが、ハゲしい議論のすえ、
研究家さんの説が応用されてたのには驚いた!

つまり、日本のハゲを、
いたいけなハゲ(A列)、
憎みきれないハゲ(B列)、
往生際の悪いハゲ(C列)、
ザ・ハゲ!(D列)、
など複数の「ハゲ列」によって並列構造に分類してた。

世は、もちろん往生際の悪いハゲ(C列)である…

233 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/04/30(日) 02:54:46
鋭い意見だと思います

234 :太国:2006/04/30(日) 07:55:38
>>231 >>232 ニセ者です。余にあらず。

235 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 09:49:37
>>222太国さん
太国さんのお考えですと、『日本書紀』の原典となった史書に用いられていた二倍暦や三倍暦は、
天文暦のような正確な暦法ではなかったということですね。
『魏略』の逸文に「其俗不知正歳四時、但記春耕秋収、為年紀」と見えることからは、たとえ、
二倍暦や三倍暦があったとしても、それは天文暦ではなかったのではないか
と考えられますので、この点では、太国さんのおっしゃられていることには、一理あります。
しかしながら、『日本書紀』においては、元嘉暦と儀鳳暦が用いられておりますので、
二倍暦や三倍暦を天文暦と考えてしまうと、不整合を来してくることになるのです。
私は、太国さんのおっしゃられる二倍暦や三倍暦というお考えは、まずは、「二倍紀年法」、「三倍紀年法」
として整理したほうがよいのではないかと思います。

236 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 09:58:05
>>223さん
日並皇子の「日並」につきましては、私も、「日」の意義を考慮した名前であろうと
推論いたしております。>>218での私の質問は、「日」は二倍暦とは関係ないことの反例を
示したものです。

237 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 10:03:10
>>224さん
太国さんのお説による「1年」と月との関係を、お知らせくださいまして、
ありがたく思います。
太国さんに早速確認してみることにしましょう。

238 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 10:06:32
太国さん
>>224さんは、太国さんのお説における「1年」と月との関係を、
以下のようにまとめてくださいました。

「1年=12ヶ月」
月が何日間であるかだけが変動する。
例えば2倍年歴では1ヶ月が15日、3倍年歴では1ヶ月が10日。

これで、よろしいのでしょうか。


239 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 10:09:49
太国さん
>>226にて、研究中とおっしゃられているようですので、>>224さんにお知らせいただいた
お説の内容は、再検討中ということでございますね。

240 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 10:25:40
>>228さん
『日本書紀の真実』で提起させていただいた「192=72+120」の内訳は、
その後、研究を進めた結果、少し変更いたしました。したがいまして、以下のようになります。

応神41=07+34
空位02=00+02
仁徳87=31+56
履中06=06+
反正05=05+
空位01=00+01
允恭42=17+25
安康03=02+01
雄略05=05
――――――――
合計192=72+120
――――――――

応神元年が390年で雄略五年が461年ですので、120年分の紀年が加算されていることは、
はっきりしているのですが、>>228さんが>>228で書き込まれている数字との違いは、
空位年は「延長紀年」として解釈すべきと考えて、「確定紀年」と「延長紀年」とに
整理していることです。

241 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 10:36:37
>>229>>230さん
允恭列(C列)の「延長紀年」と「確定紀年」の数字は、>>229の数字のとおりです。
「何で順にA列、B列、C列、D列になってないの 」につきましては、
まず、応神列(A列)と雄略列(B列)が基本年代列であり、允恭列(C列)と仁徳列(D列)は、
4世紀末から5世紀後半にかけてという限定した期間にのみ適用される「年代列」であることが、
その理由となっています。
また、允恭列(C列)と仁徳列(D列)のうち、仁徳列(D列)が仁徳87年の483年というもっとも下がった年代
にまで至っていたからです。
そして、2002年に論文で、日本書紀紀年法の多列・並列構造について、はじめて発表した時に、
すでにこれらの名称を用いておりましたので、後の論文・著作において、変更してしまいますと、
読者の方々が混乱されるのではないかと考えました。

242 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 10:38:45
>>231〜233
ニセ者さんたちのご登場ですね。

243 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 10:47:24
>>240
計算あってないだろ

244 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 11:59:59
仁徳列上に履中、反正が居るってのもオカシイ感じだよな

245 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:14:14
>>205

> この法則にしたがいますと、
> 「活目皇子の立太子年の崇神四十八年=138年」となります。
> 崇神四十八年を138年と想定すれば、崇神元年は91年となります。
> 崇神元年を91年と設定して、応神三年(応神天皇の立太子)の年代を、
> 『日本書紀』に配布されている紀年数にしたがって求めますと、390年となります。



>応神三年(応神天皇の立太子)の年代を、

これって応神三年じゃなくて神功三年でしょ?
それと崇神元年=西暦91年から直接応神元年の西暦390年ってどう求められるの?

246 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 12:50:08
>>243さん
「仁徳87=31+56」ではなく、「仁徳87=30+57」でした。
お詫びして訂正いたします。

247 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 12:59:23
>>244さん
私も、『日本書紀の真実 −紀年論を解く』を発表した研究段階におきましては、
履中天皇と反正天皇の紀年は仁徳列には属していないと考えておりました。
しかしながら、以下の点から、現在では仁徳紀(D列)であると推論しております。

仁徳列(D列)上では、仁徳元年は397年ですので、次帝の履中天皇の立太子の記述の見える仁徳三十年は、
仁徳天皇の古事記崩年干支の427年と考えることができます。
427年を履中元年と設定いたしますと履中末年の履中6年は432年壬申年となり、
履中天皇の古事記崩年干支と一致します。また、反正末年の反正五年も四三七年丁丑年と一致します。

履中天皇と反正天皇の紀年は、仁徳列(D列)上に考えますと、
古事記崩年干支ときちんと整合することになるのです。

248 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 13:05:46
>>245さん
「神功三年」を「応神三年」と書き間違えてしまいました。
お詫びして訂正いたします。
また、崇神元年を西暦91年と設定いたしますと、

 68(崇神紀)+99(垂仁紀)+60(景行紀)+60(成務紀)+
 1年(空位年)+9(仲哀紀)+3(神功元年〜3年)

という『日本書紀』において歴代天皇に配布されている紀年数によって、
神功三年は、390年に位置してくることになります。

249 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 13:26:38
>3(神功元年〜3年)

なにこれ

250 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 14:18:00
西暦91年って実年代ででしょ?

そこになんで崇神〜仲哀の日本書紀の天皇在位を足した上で
神功元年〜3年の3年を足して
91年の基準点から足して数えて390年になるから正しいとか言うの?


251 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 16:12:59
>>249さん
「3(神功元年〜3年)」は、神功元年から神功三年までの3年という意味です。
そして、神功三年条には、誉田別皇子(後の応神天皇)の立太子についての記述が見えます。
>>248でも述べましたように、以下の式において、崇神元年を西暦91年と考えてみましょう。

 68(崇神紀)+99(垂仁紀)+60(景行紀)+60(成務紀)+
 1年(空位年)+9(仲哀紀)+3(神功元年〜3年)

すると、神功三年の応神天皇立太子の年代は、西暦390年となります。
西暦390年は、応神列(A列)において応神元年の実年代ですので、
応神天皇については、立太子年と即位年が西暦390年ということで一致してきます。
履中天皇につきましても、>>247にて述べましたように、立太子を即位と考えると、
仁徳紀(D列)について、合理的な説明を行うことができるようになります。

252 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/04/30(日) 16:20:23
>>250さん
少なからず、崇神紀から応神紀にいたるまでの紀年法を説明する一試案として、
提起することができます。これまで、崇神紀以降の紀年において、
非現実的数字が見えることは、神武元年を紀元前660年に位置付けるためであると
考えられてきましたが、むしろ、神功三年を390年に到達させるために設定された
数字であるとも推論することができるようになります。
正しいか、正しくないかにつきましては、私が判断する性質の問題ではないと思います。
私は、単に試論を提起させていただいているだけですので。
>>250さんをはじめとして、多くの方々から批判や反論をいただきたいと思っております。

253 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:26:46
ナニソレ?神功の在位は3年だったとかそう云う事?

━━━━━━━━━
崇神68=47+11
垂仁99=
景行60=
成務60=
空位01=00+01
仲哀09=
――――――――
小計297= +
━━━━━━━━━
神功69=189-120
━━━━━━━━━
応神41=07+34
空位02=00+02
仁徳87=30+57
履中06=06+
反正05=05+
空位01=00+01
允恭42=17+25
安康03=02+01
雄略05=05
――――――――
小計192=72+120
━━━━━━━━━

何を言ってるのか良く解らないので、先ずこの崇神からの確定紀年と延長紀年からやってよ

254 :太国:2006/04/30(日) 16:35:13
>>224 >>239
崇神世は、日付の統計が >>211 の垂仁世のように月後半が殆ど無い状態に似ず、
だいたい均等であるから月後半の日付も通常的に使用されている。だから同じ
3倍暦の世でも暦の運用法が個性的に違うようである。
崇神世の暦法は日付の数字を見るにかなり込み入っており、これが真の崇神世の
暦法の理解の妨げになっているようである。そこでそれがしは以下のように
同世の暦法がなされていたと観てこれを掲げる。

1月 14日間(1日〜14日)
2月 14日間(15日〜28日)
3月 15日間(1日〜15日)
4月 13日間(16日〜28日)
5月
6月
7月 14日間(1日〜14日)
8月 10日間(1日〜10日)
9月 10日間(11日〜20日)
10月 8日間(21日〜28日)
11月 10日間(1日〜10日)
12月 10日間(11日〜20日)

以上118日であるが、もしかしたら日数の不足分を7月か12月にあてがい120日
と為すか?だから12/22までだとか閏日が貯まれば12/23にするとか、そのへんで
あろう。これで崇神紀の記述の日付をあてがうと、殆ど全部適合する。
合わないのは崇神10年の7/24と9/9,9/27それに崩御の12/5のみのようである。
前者の三つの日付については >>99 にその理由を説明してある。
コピペされた方に感謝します。崩御は忌避のため8/5を4ヶ月ずらして移動させ
たのであろう? 120日余ばかりが当時の1年であり、×3で365日とできる。

255 :太国:2006/04/30(日) 16:50:06
>>254
説明を抜かしてしまった個所があるので、以下のとおり、
崇神7年の大物主神の祭祀日は、武田祐吉校註の日本書紀では11/13になっており、
ITで調べたのにもやはり11/13になっている。しかし神典の紀には11/8の記述が
あり、それがしは専門家でないので干支の件に何らかの誤があったのかと思う
が、後者の 11/8 が正ではないかと観ている。
崩御日の移動らしき件については確定的ではないが、8月だと適合するのでは
ないか?と思考した結果の説である。

256 :太国:2006/04/30(日) 16:58:35
>>254 訂正 下から2段目
誤)8/5を4ヶ月ずらして    正)8/5へ4ヶ月ずらして

御間城姫(『間』字に)の立后 2/16 は、崇神世からは欠史八代までに使用
しなかった月後半を使用するぞとの宣言をした日だとの考察をしている。
以前は、崇神世は2倍暦かと思っていましたが、今は3倍暦だと考えています。

257 :太国:2006/04/30(日) 17:03:21
>>256 訂正
誤)(『間』字に)      正)(『間』の字に注意)

258 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 20:52:02
>>太国
おまえ、このスレで何回訂正してるんだ?www
思いつきはいかんよ、ハゲ君。

259 :太国:2006/04/30(日) 21:02:12
じゃぁ、数えろ。

260 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 22:55:48
>>259
そんな無駄レスしてる時間があるのなら、
自分の説をまとめたら?


261 :日本@名無史さん:2006/04/30(日) 23:18:44
私にはいっこうに理解できません。
この日本書紀紀年法を詳しく解説したホームページとかないでしょうか?

262 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:41:01
>>261
本を買えよ!

…と、まだ買ってない俺が言うのなんだが。
近いうちに買います!

263 :太国:2006/05/01(月) 08:11:24
>>260
すでに書きこんだと思うが? ほらっ

神武    3倍
綏靖    等倍
安寧 懿徳 2倍
孝昭〜孝元 3倍
開化    2倍
崇神〜仁徳 3倍
履中〜宣化 2倍
欽明〜〜  等倍

264 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 10:00:44
>>253さん
日本書紀紀年法は、「プラス・マイナス120年構想」などのいくつかの構想から構築されています。
「プラス・マイナス120年構想」は、神功元年の201年から雄略五年までの紀年に設定されている構想で、
崇神元年から神功三年までは、仮に「天皇即位=立太子構想」とも呼べるような、
別の構想が設定されています。この構想は、崇神元年の西暦91年から、
神功三年の西暦390年までをカバーしていますので、神功紀の201年から389年までは、
「プラス・マイナス120年構想」と「天皇即位=立太子構想」の両構想によって、
扱われていることになります。
私は、2つの構想が重なる原因は、「プラス・マイナス120年構想」では、神功紀では、
実際に経過した年数に、120年分の紀年が足りていないからではないかと考えております。
また、「天皇即位=立太子構想」においては、歴代天皇の宝算年差によって求められる在位期間が
「確定紀年」で、配布されている紀年数によって求められる在位期間が「延長紀年」となります。

265 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 10:14:38
>>254>>255>>263太国さん
>>254>>255>>263にてご披瀝いただいた太国さんのお説について、
初歩的質問をさせていただきますが、神武元年1月が、通常暦の1月と一致するように
設定されているのでしょうか。
また、>>222にて「プロフェショナルの学会にまで出席できる貴女ほどの凄腕ではありません。」
とのことですが(褒められているのでしょうか。私は凄腕ではありません。手弱女です)
史学会は、一年に一度報告会があって、史学会の会員ならば誰でも出席できたはずです。
会員資格も会費を納めていれば、誰でも入会できます。
報告会での報告者になることが、難しいことであるのかどうかはわかりませんが、
少なからず、出席や質問することはできます。

266 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 10:28:50
>>261さん
「プラス・マイナス120年構想」は、『日本書紀の真実−紀年論を解く』で、
「天皇即位=立太子構想」は、「『紀』・『記』間の歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」
にて扱っています。
これらをまとめた日本書紀紀年法の概説書をまとめておりますが、まだまだ研究段階で、
加筆修正が必要なこともあって、刊行にいたっておりません。
ホームページの開設という方法もあるかと思いますが、所謂「コンピューター音痴」の私には、
どのようにしたらホームページを作ることができるのかわかりません。
また、研究助成費は私のような個人の研究家には支給されませんし、スポンサーもおりません。
現時点にては、既刊本を読んでいただくしかないことを、申し訳なく思います。

267 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 11:14:08
神功治世69年+仲哀末〜垂仁初229年=298年

(崇神治世68年+垂仁初〜仲哀末229年=297年)+神功治世2年=299年


おかしいな

268 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 11:17:11
計算が合わないじゃないか

私が間違ってるのか、日本書紀研究家が間違ってるのか

269 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 11:46:28
書紀の神功治世と崇神治世が1年違いの近さと云う事を利用したトリック理論じゃないのか

270 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:03:20
> トリック理論
正解

271 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:04:20
それと崇神が138年没だと

成務は175年没
仲哀は182年没で良いんだよな

272 :太国:2006/05/01(月) 12:43:11
全国の皆さ〜ん。
研究家さんに「初歩的質問」をされ、答え切れない余でありま〜す。
もう、毛という毛は全部抜け落ちてしまいました〜。
この先、何が抜けるのか不安な余でありま〜す!


273 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 13:01:24
>>267さん
崇神元年を西暦91年に位置付けますと、以下のようになります。

 崇神紀(91〜158年)
 垂仁紀(159〜257年)
 景行紀(258〜317年)
 成務紀(318〜377年)
 空位年(378年)
 仲哀紀(379〜387年)
 神功元年から三年(388〜390年)

 いかがでしょうか。

274 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 13:05:16
>>268さん、>>269さん、>>270さん
>>273に、崇神元(91)年から神功三(390)年までの内訳を示しました。
ご確認ください。たぶん、間違っていないと思います。

275 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 13:15:53
>>271さん
「宝算年差の法則」において、成務天皇と仲哀天皇の『古事記』崩年干支の「乙卯」
と「壬戌」のみは、課題として残りました。
そこで、一桁の「乙」と「壬」のみに信憑性を認めて、
一桁の5から2までと捉えて、仲哀天皇の在位期間を8年と計算して202年を
仲哀天皇の末年と考えました。このように想定しますと、『古事記』では、
神功皇后の段を設けておりませんので、203年は応神天皇の即位年として
考えることができます。
一方、203年は『日本書紀』の編年のとおりですと、神功三年の誉田別皇子の立太子年となります。
203年と390年という2つの年代において、「天皇即位=立太子」という構想が成り立っていることになります。

276 :政治的利用:2006/05/01(月) 13:30:32
従来、米国は、自国の安全保障上問題がある北朝鮮の核問題を重視し、拉致問題は軽視して来たが、
ここへ来て、米議会が公聴会に横田さんを証人喚問したり、大統領が会ったりしたのは、
六カ国協議が暗礁に乗りあげたので、拉致問題までも利用して北朝鮮に圧力を掛けようとする米国の思惑を示している。


277 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 13:55:17
>>206
暦法の計算方法が分かりませんので何ともいえませんが、
推古天皇崩年干支は太安萬侶の墓誌と書式で関連性を感じますので
こちらも合わせて考慮すべきかと思われます。
あるいは用明崇峻の崩御月が記紀で一致することを利用して
崩御日の干支も記紀で一致すると仮定して
月朔を己亥、癸巳と推定するのもいいかもしれません。


278 :太国:2006/05/01(月) 14:22:57
>>272
ニセ者です。
>>265
日本書紀紀年法研究家さん。ただいまのところは紀の日付のにらめっこでの考察
ですから、そこまで考えが行っていませんが、現今とは異なるんでしょうな?
そう思います。それに凄腕というのは肉体的意味を言っているのではなく、
研究の腕前が素晴らしいということです。ただ卑弥呼が成務とかいうのは、今後
はお止めになることをお勧めします。

279 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 14:32:14
仲哀〜景行に立太子=即位の法則を適用しない理由は?

280 :太国:2006/05/01(月) 14:38:40
全国の皆さ〜ん。
研究家さんからの初歩的質問に苦慮してる大国で〜す。
答えが浮かびませ〜ん・・・?
答えがないのに出てくるなと言われそうですが、
とりあえず出てきました〜!

>>232で出てた説に、新しい列を加えてください〜!
余は「目立ちたがりのハゲ(E列)」で〜す。

281 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 14:39:29
>そこで、一桁の「乙」と「壬」のみに信憑性を認めて、

こう云う他の古事記没年干支の利用の仕方の場合と一貫性のない使い方して良いの?

282 :太国:2006/05/01(月) 15:03:43
今度は垂仁世の暦法に関しての考察です。( >>211 参照 )
紀の記述が不足しているようで、ある程度の推定があります。以下のとおり

1月 10日間(1日〜10日)
2月 10日間(1日〜10日)
3月 10日間(1日〜10日)
4月 10日間(1日〜10日)
5月
6月
7月 14日間(1日〜14日)
8月 14日間(1日〜14日)
9月 14日間(1日〜14日)
10月 14日間(1日〜14日)
11月 14日間(1日〜14日)
12月 10日間(1日〜10日)

垂仁世の場合は、垂仁4年の 9/23 のみ合いませんが、これについては
「2倍年暦の真実」に解説があります。( >>97 をクリックしてみて下さい。)
垂仁世は4月の日付の記述がないのです。4月〜6月までの3ヶ月の記述が0
なんです。だからこの世は、3ヶ月間を忌避してたのか? との疑念が残ります。
4月の記述のない天皇世も紀にはあります。たとえば成務と應神世がそれです。
このため4月は日付は有ったがたまたま事件とすべきものがなかったのか、崇神世
の5月6月の欠落と同様に4月も欠落なのか? と迷う次第であります。
とりあえず、5月6月のみの欠落が正とした場合の考察で上の表を掲げました。
計120日での3倍暦法です。×3と閏で現今の1年に相当します。
4月の件でまだ完全ではありません。もう一つの例外になるかな? として
タジマモリの帰朝(3/12)がありますが、崩御後の景行元年でして、景行世に
算入すべき日付ではないのか? と思ったりしています。

283 :太国:2006/05/01(月) 15:07:25
>>282
>>97 から、これの>657を見てください。9/23 の解釈があります。

284 :国太:2006/05/01(月) 15:08:25
>>大国兄さん。
偽大国のほとんどは僕でした。
すいませんでした。
これからは国太と名乗ります。
兄さんを応援しようと、兄さんになりきり頑張ってきましたが、
結果的に兄さんの毛を、じゃなくて足を引っ張ってしまいました。
研究家さんと論争しても勝ち目がないのに、兄さんは頑張ってるのですね。
その姿こそ、わが一族の誇りです…(涙

285 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 15:45:16
>>政治的利用さん
本来は「スレ違い」なのですが、北朝鮮拉致問題について書き込まれておられるということは、
政治的利用さんは、私が日本赤十字社時代に、北朝鮮による日本人拉致問題をも担当していたことを
ご存知なのでしょうか。
現在、ようやくに米国政府が拉致問題に関心を寄せるようになったことを、
私は、たいへんよろこばしく思っているおります。

286 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 15:56:57
>>277さん
私も、暦法の計算方法までは、わかりませんので、暦法の専門家のかたに、
教えを請わねばなりません。
太安萬侶の没年の頃は、儀鳳暦が用いられていたと思いますが、
太安萬侶の墓誌の暦法には、いずれが用いられているのでしょうか。


287 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 16:10:21
>>278太国さん
太国さんの神武紀三倍暦説では、神武元年の1月1日が普通暦の1月1日となるのか、
神武元年は日本書紀紀年法の紀元となりますので、興味があります。
また、成務天皇が卑弥呼をモデルにしているという仮説は、陵墓の名前が、
神功皇后の陵墓とまったく同じであるなど、根拠があって示している説ですので、
反論や批判がありましょうとも、そうとうの反証、反例が提示されない限り、
一試論として、やはり提起させていただきたいと思います。

288 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 16:14:30
>>279さん
「天皇即位=立太子」は、すべての歴代天皇に適用されているわけではないようです。
最も重要な人物は、応神天皇です。「天皇即位=立太子構想」は、基本的には、
応神天皇のために考案されたと考えられます。

289 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 16:19:51
>>280ニセ者の「太国」さん
本物の「太国」さんが、少しかわいそうな気もいたしますが、
面白い応用研究であると思います。E列を発見されたとは、驚きです。


290 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 16:38:17
>>281さん
281さんのご指摘のとおり、一桁の「乙」の195年と「壬」の202年の問題は、
私の説の弱いところです。
しかしながら、このように想定いたしますと、これまで、『日本書紀』における錯簡、矛盾と
考えられていた日本武尊と仲哀天皇の親子が年代的に繋がらないという問題が、
解決することになります。すなわち、
歴代天皇(崇神〜成務)の宝算年差によって求められる「確定崇神列」においては、
景行元年は西暦152年となります。
景行元年を152年と考えれば、日本武尊が薨じた景行四十三年は、西暦194年となります。
したがいまして、「日本武尊の薨年(194)⇒仲哀天皇の即位年(195)」となり、
日本武尊と仲哀天皇をめぐる研究史上の問題点が解決することになります。
ただし、一試案の段階ですので、ご批判をいただきたいと思います。

291 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 16:52:05
>>282>>283太国さん
10日と14日という4日の差は、いったいどのような理由にもとづくのでしょうか。


292 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/01(月) 16:56:09
>>284国太さん
ほほえましい兄弟愛ですね。
しかしながら、誰かの「ニセ者」になって勝手な書き込みをすることはよくないことです。
本物さんが迷惑してしまいますので。

293 :太国:2006/05/01(月) 17:11:20
>>291
10日は3倍暦の主体的数字で、14日は2倍暦のイメージを残存させたのでしょう。
当時、1ヶ月が28日だったようですので・・・、。

294 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 21:13:18
景行元年はどうやって求めた?

295 :太国:2006/05/01(月) 21:47:45
紀の記述の垂仁99年の次の年にその記述があり、垂仁即位100年の3/12に
タジマモリの記述があります。その年は景行元年です。
それがしの実年代の計算では、西紀356年です。

296 :太国:2006/05/01(月) 22:06:12
>>294
>>290 の件でしたか? 失礼しました。>>282 のことかと思いました。

297 :太国:2006/05/01(月) 22:12:06
>>293 訂正
誤)当時     正)綏靖世とか等倍暦で

298 :国太:2006/05/01(月) 23:26:21
太国兄さん…
また訂正ですか。

お母さんが泣いてますよ!

299 :日本@名無史さん:2006/05/01(月) 23:56:46
>>286
有坂氏の高松塚の本の最後のところに考察がありますが
安萬侶の墓誌は儀鳳暦ではないようですね。

300 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 02:07:27
そろそろあの懐かしのフレーズ
「太国の母でございます」が登場しそうなふいんきだなwww


301 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 02:50:12
父も見てみたいw

302 :◆0xJkz6R2oQ :2006/05/02(火) 08:50:51
>>301
呼びましたか?
研究家さん、皆さん、はじめまして。
太国の父です。

筑波山で山伏をしてます。
GWは稼ぎ時です。
今、山頂にあるネットカフェ「ザ・ほら貝」からパソコンを打ってます。

大国…がんばれよ!
どうせ論争に負けるのだから。

303 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 09:23:14
>>299
顓頊暦

304 :太国:2006/05/02(火) 09:33:33
>>302
2倍暦、3倍暦を信じていない方なのか? 讖緯説者かな?
景行世の暦を調べてみたが、下旬の記述が全く無いようだ。以下のとおり

1日 3    11日 4    21日
2日 1    12日 2    22日
3日 4    13日 1    23日
4日 4    14日      24日
5日 3    15日 1    25日
6日      16日 2    26日
7日 5    17日      27日
8日      18日      28日
9日      19日 1    29日
10日      20日 1    30日

景行世は5月6月の日付が少しある。

305 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 09:40:46
>>293太国さん
「当時、1ヶ月が28日だったようですので・・・、。 」の1ヶ月とは、
普通暦の1ヶ月のことであると思いますが、それでは、「当時」とは、
いつのことなのでしょうか。

306 :太国:2006/05/02(火) 09:46:05
>>305
それは誤です。>>297 のとおりです。

307 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 09:52:56
>>294さん
景行元年は、歴代天皇について、

「古事記における享年−日本書紀における享年=実際の在位年数(宝算年差)」

という式が成り立つと仮定して求めました。宝算年差は、崇神天皇が48年、
垂仁天皇が13年、景行天皇が31年、成務天皇が−12年となります。
崇神即位年を西暦91年に位置付けて、これらの宝算年差を踰年称元法にもとづいて、
加えてゆくと、景行元年は、西暦152年となります。

308 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 10:07:06
>>298国太さん、>>302太国さんのお父様
こちらこそ、はじめまして。
太国さんは、このスレッドにてご自説の二倍暦・三倍暦説を披瀝され、一生懸命に
ご議論なさっておられます。


309 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 10:15:40
あーあ、やっちゃったね。
せっかく盛り上がってたスレッドなのに、
あんたのレスで台無しだよ。
なんでここで、そんなレスしかできないわけ?
空気読めないの?
だから君は駄目な奴だって言われてるんだよ。
わかってるの?
それにしても、もったいないなあ、
せっかくここまで育ったスレッドなのに。
ここまででおしまいかよ。
まあ、しかしやっちゃったものをしょうがない。
これからはもうちょっとマシなレスするように心がけろよ。
頼むぜ。

310 :太国:2006/05/02(火) 10:25:24
>>304
景行世は下旬の記述がまるっきり無いことから、各月毎に上旬、中旬を交互に
使い分けている(1ヶ月が各10日分)暦法だったんではないか? とするのが
考えやすいが、これが真かどうか当てはめてみると、なかなかどうして合わない
のである。各月の旬の結果は、次表のとおり

1月 上旬
2月 上旬 中旬
3月 上旬 中旬
4月 上旬 中旬
5月 上旬
6月 上旬 中旬
7月 上旬 中旬
8月 上旬 中旬
9月 上旬 中旬
10月 上旬 中旬
11月 上旬
12月 上旬

これを眺めると2月〜10月迄の月の中では6月のみ中旬がなく、6月の記述は
あるにはあるが、この様な中旬の欠がある。という事は6月上旬の記述は他月の
鞍替えのものなのであろう? だからこの景行世も5月は無かったのではないか?
との考察に至る。ならば、6月の記述もそれに準じたものかも知れないのだ。

311 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 10:27:34
>>299さん
有坂氏の『古代史を解く鍵』の「第八章 太安万侶墓誌の年月日をめぐって」ですね。
有坂氏によると、太安万侶墓誌の日付は、儀鳳暦でも元嘉暦でもないことになります。
そこで、>>303さんが「顓頊暦」とおっしゃられております。
しかしながら、顓頊暦という暦法が、どのようなものであるのか、私にはわかりません。
日本では、8世紀に用いられていたと考えられる暦は、通説では、元嘉暦、儀鳳暦、大衍暦であったはずです。
顓頊暦が、どのような暦であるのか、>>303さんにうかがってみることにしましょう。

312 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 10:29:18
>>303さん
顓頊暦とは、どのような暦なのでしょうか。

313 :太国:2006/05/02(火) 10:30:10
>>310 訂正
誤)6月のみ中旬がなく、6月の記述は〜(中略)〜6月上旬の記述は
正)5月のみ中旬がなく、5月の記述は〜(中略)〜5月上旬の記述は

314 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 10:37:55
>>304太国さん
>>302は、太国さんのお父様からの書き込みです。
内容が、山伏をなさる太国さんをお父様が、ご挨拶なさっておられるものでしたので、
>>308のような書き込みをいたしました。
どなたかのジョークであったのですね。

315 :◆h1A8iHzIDo :2006/05/02(火) 10:43:23
>>314 研究家さん。
>>309こそ空気を読めない人ですので、お気になさらずに。

>>304 太国
父親の私にレスしてどうだと言うのだw

316 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 10:50:02
>>304>>306>>310>>313太国さん
普通暦における一月の3分の1ほどの日数が、三倍暦では1月と計算されているかと思います。
それでは、三倍暦での1月(約10日)において、30日まである日付は、
どのようにして設定されたのでしょうか。

317 :太国:2006/05/02(火) 11:00:05
>>316
30日の日付は確か、敏達天皇の世が初聞だと思います。ですので、同天皇世は
等倍暦になっているな? と考えていました。今もその説をとっています。
手前の世まではどうやら28日まででやっていたと想い、これならば、
>>254 の崇神世の2月、4月、10月のような形式でしょう。

318 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 11:00:59
>>309さん
このスレッドは曲がりなりにも学術的議論になっていると思います。
スレッドに書き込まれる方々のお父上やお母上、ご兄弟、ご姉妹が、
激励の書き込みを行ってはいけないということ、また、それに応対してはいけない
ということはありませんので。

319 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 11:02:41
>>317太国さん
では、三倍暦での1月(約10日)において、28日まである日付は、
どのようにして設定されたのでしょうか。

320 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 11:17:17
>>312
日本書紀成立の研究 友田吉之助
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9834074689

321 :太国:2006/05/02(火) 11:25:03
>>319
敏達の前の、宣化世までの各世をすべて調べたところ、28日までの日付しかなく
29日、30日の日付は見当たらないんです。だから28日の範囲の日付で各天皇世
の暦が形成されていたようだと考察したわけです。

322 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/02(火) 11:35:31
>>大国兄さん
父さんと同じトリップつけるよ…

なんだか兄さんが、研究家さんに負ける姿が快感になってきた…(涙
弟の僕が快感なんだから、【全国の皆さん】も快感なんだろうな…w

おっと笑ってはいけない、僕は泣きキャラだった…

323 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/05/02(火) 12:03:45
哀れ、オリジナル

324 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:17:41
中国式の暦が無いと農作業に不便じゃない?
倍暦では暦の役目を果たさない

325 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:26:45
盾列古墳の築造年代は成務神功と一致する必要はないとお考えでしょうか?

326 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:28:25
>>307
91+48+13+31-12=171じゃねぇーか


馬鹿にでも解るように説明スロ

327 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 14:08:02
>>323
哀れな偽者

328 :太国:2006/05/02(火) 16:24:25
>>304 >>310
景行世は、崇神、垂仁世とは異なった暦法と思われる。以下のようであろう。

1月 7日間(1日〜7日)
2月 12日間(1日〜12日)
3月 12日間(1日〜12日)
4月 12日間(1日〜12日)
5月
6月
7月 16日間(1日〜16日)
8月 16日間(1日〜16日)
9月 14日間(1日〜14日)
10日 14日間(1日〜14日)
11月 7日間(1日〜7日)
12月 7日間(1日〜7日)

計117日であるが、もしかしたら1月が7日間でなく1日〜10日の10日間だっ
たかも知れない。これだと計120日になり、閏を入れて 3×120=360 での
3倍年暦と考えられる。とにかく日付の資料がさらに多ければはっきりするので
あるがやむを得ない。表を見てお分かりと思うが1月が、垂仁世迄の暦の感じ
からして日数が少ないのでは? との疑念が浮かぶであろうが、この天皇は7とか
11の数に凝っていたようで、1月よりも7月のほうを年の始めの月としたかっ
たらしい。それで1月を重視せず7月の日数の記述が多い。それに日を見ると最大
日付で7月が16日、8月が15日、10月が13日となっていることから、9月が14日
と推理して上表の日数を修正しさらに同様に記述から4月を11日、3月を12日と
して1月か11月あたりを10日としていたような気配がするが何とも? である。

329 :太国:2006/05/02(火) 16:43:19
>>328 続き
景行紀の日付には5月6月の分の記述が少しあるわけだが、景行52年の5/4とは
播磨の姫の崩御日であり、まず忌避による他の月からの移動の数字であろう?
7/4ではなかったろうか? 同18年の5/1と6/3と6/16の日付は、天皇の九州行幸
(旅行)の記事で長く連続で月々にまたがることから、7月8月と記述する慣行
をここでは取りやめて繰上げ、欠番の5月6月での日付にストレート記載を
したのだと考察している。景行18年に関する記述は多く、行幸の記事で埋ま
っている。それで、5月6月の欠番暦法から、これだとこの三つの記事は当然、
二ヶ月遅れに見える7月8月のこととなるのだ。

330 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 17:28:15
>>320さん
「顓頊暦」について、友田吉之助氏の『日本書紀成立の研究』にあるとのご指摘をいただき、
ありがたく思います。『日本書紀成立の研究』は蔵書しておりましたので、「顓頊暦」があったことを思い出しました。

顓頊暦とは四分暦の一種で、西紀前三六六年を以って紀元年とし、この年に正月甲寅朔旦立春という基準的な
状態があったとし、これより前後に四分法によって日月を数える暦法のことですね。

友田氏は、奈良時代には元嘉暦や儀鳳暦のほかに四分暦が用いられていたらしく、
「文忌寸禰麻呂墓誌」などの暦日は、顓頊暦を変形したような四分暦による暦日であろう、
推論なされています。ただし、「太安萬侶墓誌」については考察されていません。
>>320さんは、「太安萬侶墓誌」の暦日が四分暦を用いていると確認されたのでしょうか。


331 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 17:38:11
>>321>>328>>329太国さん
私の質問のしかたが、よくないからなのかもしれませんが、すなわち、お訊ねしたいことは、
以下の点です。
太国さんのお説ですと、三倍暦においては、一月の三分の1の日数(28日ですと約9日)によって、
1ヶ月が構成されることになります。そこで、その1ヶ月に見える日付に9日より後の日付がある場合には、
その日付は、どのようにして、設定されたのかという点です。
また、神武元年という紀元年には、三倍暦では、どのような基準が設定されているのかという点です。
例えば、顓頊暦では西紀前三六六年を以って紀元年とし、この年に正月甲寅朔旦立春という基準的な
状態が設定されているように、三倍暦でも基準が必要なのではないでしょうか。

332 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 17:46:02
>>324さん
『魏略』逸文に「其俗不知正歳四時、但記春耕秋収、為年紀」と見えることからは、たとえ、
天文暦はなく、春と秋とをもって年を数えていたようです。古代人は、春に耕し、秋に収穫という
おおざっぱな感覚を持っていたようです。

333 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 17:52:52
>>325さん
必ずしも一致する必要はないと考えております。
すなわち、成務陵と神功陵の2つの古墳がありますが、もとより、これらの陵墓が、
本当に成務陵や神功陵に比定されえるのか、という問題があります。
『日本書紀』が、陵墓の名をまったく同じに明記しているということが、
示唆に富む重要な点であると考えております。

334 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 17:58:52
>>326さん
成務天皇の宝算年差は「−12」ですので、>>326さんが、12を引き算して
しまわれたことはもっともなことです。しかしながら、マイナスには別の意味があって、
91+48+13+31+12=194年となります。
成務天皇の数字がマイナスであることについては、「プラス・マイナス120年構想」でも、
マイナスが神功紀の部分であるように、女性を意味しているのではないかと、
推論いたしております。

335 :太国:2006/05/02(火) 18:51:02
>>331 日本書紀紀年法研究家さん
とりあえず、日付の件は解説の中での例を出してください。

基準はあるでしょう?しかし欠史八代より手前は紀の記述少なく、まだはっきり
しないですね。なにか新たな資料等が現れれば別ですがね。
マヤ暦にも基準がありますから・・・。 前3113年8月11日
このように神武あたりでもこういう基準が分かればこんなに苦労はしないですよ。

336 :太国:2006/05/02(火) 18:57:52
とりあえずは、神武元年でよいんではありませんか?w
先述どおり 西紀66年 を算出してます。

337 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 19:45:55
>>335>>336太国さん
「解説」とは、何の解説でしょうか。
よくわかりませんが、それでは、以下の例について、具体的にお答えいただきたくお願い申し上げます。
>>304にて太国さんは、景行紀には、16日という日付が2つあると整理されております。
そこで、その一つの景行四十年の七月十六日は、太国さんの三倍暦説で景行元年1月1日と考えている西暦年月日から、
普通暦に換算して何年目の何月何日目とお考えなのでしょうか。

338 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:01:31
>>330
可能性はあると思います。
それ以上はわかりません。

339 :太国:2006/05/02(火) 20:06:13
>>337
だから、景行15年の2月末日あたりでしょう。ただ閏がどこに入るか分かり
ませんな?

340 :太国:2006/05/02(火) 20:22:09
>>339
ちょっと間違ったみたいです。景行14年の2月末日です。
閏日があるでしょうからズレるでしょう。どのくらいかは・・ちょっと?ですね。
紀の四季は考察しないとの考えです。

341 :日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:40:43
顕宗天皇と武烈天皇の陵墓も同名だから二人は同一人物か?

342 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 20:43:50
>>338さん
太安萬侶墓誌と推古天皇『古事記』崩年干支の「三月十五日癸丑」について、
顓頊暦を変形したような四分暦による暦日であるかどうかを調べてみることは、
大変興味深い研究になるのではないかと思います。
友田氏の『日本書紀成立の研究』は、紀年法について考えるに際して、
示唆に富んでおり(特に、四分暦は干支紀年法と結びついている珍しい暦です)、
参考になり、私も四分暦については、もっと学ぶ必要があるとは感じています。
しかしながら、暦計算は、複雑、かつ、面倒ですので、暦法を専門としていなければ、
なかなか手をつけることができない分野です。
現時点では、現在取り組んでいるいくつかのテーマで手が一杯で、
私には暦法にまで研究をひろげるだけの余力も暇もありません。
>>338さんは、暦法の研究をなされておられる研究者の方でしょうか。
ぜひとも、この分野についてご研究なされてはいかがでしょうか。

343 :太国:2006/05/02(火) 20:51:32
>>341さん
日本書紀紀年法研究家さんは陵墓名の一致でもうイコール説に傾いてしまう
困ったさんなんです。いろいろとブレーキ牽引をしてあげて下さい。

344 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 20:53:59
>>339>>340太国さん
「四季は考察しないとの考え」とのことですが、『日本書紀』では、月の前に
春夏秋冬を記しております(例えば、「秋七月」、「夏六月」など)。
これは、どのようにお考えでしょうか。

345 :太国:2006/05/02(火) 21:07:56
>>344
それは >>221 に書きこんだとおりです。編纂者側が分かりやすいようにと、後
の編纂時に付加したんではないですかな? >221の開化のことを想って下さい。
それに >>340 で別説も考えられます。
景行天皇が7月が好きだとしてその月の11日を元旦に決めてしまえば、
それの2月末日の件は6ヶ月と10日ばかり先送りになりますので、そうなり
ますと、貴女の質問の7/16は2月から動いて9月7日ころの計算になります。
それがしの計算では、どちらにしろその実年代は西紀369年相当です。

346 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 21:08:43
>>341さん
顕宗天皇と武烈天皇が同一人物であると確言することはできません。
しかしながら、以下の点には留意する必要があります。
『古事記』は顕宗天皇の在位年数を8年とし、『日本書紀』は
これを3年と記しており、顕宗天皇の在位年数は、両書において異なります。
『日本書紀』の武烈天皇の在位年数は8年ですので、『古事記』の顕宗天皇の
在位年数と一致しています。
さらに、『古事記』が天皇の在位年数を記すことは珍しく、顕宗天皇、武烈天皇、
敏達天皇、崇峻天皇、推古天皇の5帝のみです。このうちの2帝が顕宗天皇と
武烈天皇です。
したがいまして、皇極・斉明天皇のように顕宗天皇が重祚されて武烈天皇となった可能性は、
無きにしも非ずと考えております。

347 :太国:2006/05/02(火) 21:13:08
>>345
7/11が景行の即位の日で、この件において実年(1年=365日方式)での
6月7月間の(10日と11日での)分断です。
そういう意味では2倍暦の感覚を残しているような気もしますな。

348 :太国:2006/05/02(火) 21:23:40
>>346
日本書紀紀年法研究家さん、顕宗と武烈が重祚の可能性あるなどと主張したら何
から何までもう=になってしまいますよ。10人、20人が=の可能性ありという内容
になり、これでは明智小五郎が向かえ討つ怪人20面相さながらの探偵小説の
世界です。そんな説はすぐお捨てになって下さい。笑われますから。

349 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/02(火) 21:27:26
>>345>>346太国さん
困ったさんとは、太国さんのことで、「二倍暦・三倍暦説の困ったさん」
であると思います。
春夏秋冬につきましても、「編纂者側が分かりやすいようにと」とおっしゃられますが、
反対に、混乱をまねくのではないでしょうか。史書として失格してしまいます。
三倍暦ですと、限りなく四季と月との関係がズレてゆき、
真夏が「冬」になったり、真冬が「夏」になったりするのですから
(また、天皇の和風諡号が暗示するのならば、「足仲彦」や「誉田」などは、
何月の即位を暗示しているのでしょうか)。
それから、天皇の好みにしたがって元旦の日付が決まるというお考えですと、
どのように辻褄の合わない状況でも、それは好みであったからという理由で、
説明されてしまうことになります。
これでは、困った太国さんのお説は二倍暦説・三倍暦説にはなりません。
二倍暦や三倍暦とおっしゃられる限りは、論理的な一貫性がなければなりません。
お好み暦説は「とんでも説」であると思います。

350 :太国:2006/05/02(火) 21:37:37
>>349
崇神〜景行の3代の統計の日付表をもう見たでしょう。
ご三方の世はおのおの表の内容の数字の傾向が状態違うじゃぁない
ですか?だから当時は天皇世が変われば暦のやり方ご違っていたという
ことになりますよ。となれば、天皇の判断等で暦法が任意にできますよ。
それは確かにめちゃくちゃはやらんでしょうから、まさか1ヶ月を
100年にしようなどという極端はないでしょう。

351 :太国:2006/05/02(火) 21:46:21
>>350
訂正  誤)暦のやり方ご    正)暦のやり方が

原書に四季の記載がなければ、等倍暦の世の編纂者側が月の数字を
等倍暦のつもりで親切に春とか夏とか付加していって、それが皮肉
にもそれ以前の真の暦法を知る妨げになったと考えることができますが。

352 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/03(水) 06:17:27
兄さん…また訂正ですか。

うっ(涙

それと兄さん。
レスのたびに、
「俺、研究家さんに勝ってると思うか?」と
携帯メールで聞いてくるのやめてもらえますか。

弟の僕から「兄さんは負けている」なんて言えないし!(号泣

353 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 07:32:10
>>342
私はインチキ系の歴史読み物が専らなので
真面目な研究は難しいと思います。

354 :太国:2006/05/03(水) 08:27:31
>>344
日本書紀の各天皇の記事を眺めると、月日のところの月には必ずと言ってよい
ほど、「春〇月」だとか「夏□月」とかで四季のひとつが入っています。
しかし各天皇の即位あたりの冒頭ころに春とか秋とか月の前に書きこめば、あと
は書かなくてもわかるのに、何から何までこの四季の字を載せている。
もう分かったよと言いたいくらいなのに〜とことん止めもせず、月の字の上に
この四字のいずれかを乗せて記述がなされている。
他の古書はどうだか知らぬが、現今の各方面の書には幾ばかりか月日等の手前に
この四季の語を代入はされてはいるが、ここまで徹底して文面に春○月とか
いちいち書いているライターはまぁいないはずだ。なのに日本書紀はこのことに
徹している。疑問に想わないか? 何でこんなに四季の四語を挿入せねばなら
ないのか? いろいろ考察してみたが、親方日の丸を思うが、日本書紀という
のは、今で言えば官庁で使う格式ばった書類のようなもので、おそらく行った事
はないが学会の研究報告の書面のようなもので、書式が一定の規格というか規則
というか、ルールに則っての書き方を礼式のことで重んじていたのであろう。
大相撲や柔道での土俵、畳上での双方の礼の必ず行う(外国より日本に多いので
はないか?)やり方のように、当時の天皇に見せる最重要の部類に属する書で
あるからして、一応の充足があってかつ不必要であろうと、そこは朝廷に呈上
するキチンと格好を整える書であるからして、上からのお叱りを避ける為からか
格式ばった基調の書式を厳格に保持しての記載がされたのだと思う。
これが皮肉にも後世に正確に伝承されなくなった起因ではないだろうか?
すなわち、編纂当時は等倍暦であり、紀の原書が四季語を入れてないのに、朝廷
の決まりの文面で書かねばならぬ関係上月の冠に、規定なんだろうが四季の字を
無理にでも入れて書いて行ったために、それより古代の別倍暦の四季と当然合わ
なくなるのが当たり前であり、この書きこみが論争、八幡の迷路に化す大元に
なったのではないだろうか? と余は思考するのものである。

355 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/03(水) 08:46:11
兄さん…

すごい長文書いたんだね(涙

縦読みするのかい?

356 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 08:55:23
>>351
> 弟橘豊日命坐池辺宮治天下参歳
これは古事記用明天皇のはじめの部分ですが
なぜ無視するのですか?

また日本書紀の敏達天皇の出生年が書かれた箇所を教えてください。

357 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 08:56:23
>>356>>351>>346の誤りです

358 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/05/03(水) 09:28:19
>>355
あんた須弥山の人か…キモイなw

359 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/03(水) 09:43:07
>>358
共有コテだw

360 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 09:57:55
>>334
西暦152年はどうやって出たの?

361 :太国語録法研究家 ◆FUTOmfgpWM :2006/05/03(水) 10:07:07
>>359
そうか、了解した。

362 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 10:10:08
>>350>>351>>354太国さん
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇それぞれ、1月の日数がまちまちとなっており、
それが、歴代天皇の恣意的判断にもとづくのであるのならば、二倍暦や三倍暦ではなく、
「独裁暦」ですね。
しかも1ヶ月が、短くて7日、長くて16日では、もはや暦として認識することすら難しいのではないでしょうか。
このような出鱈目な日数に1ヶ月が設定できるのであるのならば、
天皇には強大な権力があったと想定せねばなりません。
私には、天皇にこのような権力があったとはとうてい思えません。
太国さんは、日本古代の天皇の権能について、どのようにお考えなのでしょうか。
また、天皇が空位となっている年代の暦は誰が判断したのでしょうか。



363 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 10:17:41
>>353さん
>>353さんは、友田氏の研究などについても、かなりお詳しいようでしたので、
暦法の研究をなさっておられるのではないかと思いました。
暦計算は複雑ですので、専門外の人間が計算しますと、間違え易いように思いますので、
情報工学や情報科学を専門とされている方にコンピューターを使って、
計算していただいたほうが、早いのかもしれません。


364 :太国:2006/05/03(水) 10:32:12
>>362
古代に関しては、現今のしきたりとか常識とかいうものはいったん捨てて考え
ねばいけませんよ。現代の日本では刀剣の持ち歩きは銃刀法違反で出来ませんが、
江戸時代の武士はころをさして歩いていたわけで、あちらの時代にものごとを
合わせて考察しないと、ありえないということで否定して失敗しますよ。
貴女はまだ民主主義の現代的立場を首位とした考えで頭が埋まっている様です
からそう言ってますが、そんなんでは古代の事の理解には至ることは出来ません。
一見荒唐無稽のようなことでも、太古では常識との可能性を捨て切るわけには
行きません。神武、崇神世とかのころは民主主義ではないんですよ。
7日とかいうと滑稽でありえぬようですが、現代的考えは横に追いやるべきで
ありそんな月定めをしていたと思います。新たな心構えで古代と向き合うべき
です。7日で1ヶ月というと驚きですがね。w 表からはそう見えますな。
雄略天皇、武烈天皇などは恐怖的な人物の感があり、独裁的だったと否定は
できないですよ。これらの天皇は権力が強大だったと、行動の凄さから理解が
得られますね。空位の数年はその先帝の暦を便宜的に継続して使用して
いたと思考します。ただし、神功皇后摂政時からは日付の統計を見た限りでは
新規の暦法に切り替えていたんではないか? との立場でいます。

365 :太国:2006/05/03(水) 10:34:55
>>364 訂正 4段目
誤)武士はころをさして   正)武士はこれをさして

366 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/03(水) 10:39:39
兄さん…
研究家さんの「独裁暦」という言葉に慌てたんだね。
兄さんにグサッと突き刺さったんだね。
文章が支離滅裂な兄さんも好きだよ(涙

367 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 10:47:21
>>354
四節の表記は元の資料のままか、紀の編者が付け足したのかどちらだと思われますか?
いずれにしろ紀の編者は2倍歴(3倍歴)を知らなかったか、あるいは隠そうとしたかのどちらかになると思いますがどうでしょう?


ちなみに参考になるかどうかはわかりませんが、以下は三国志の例です。
三国志において、見落としがあるかもしれませんが、帝紀では四節+月の表記がなされますが列伝では月のみであります。
ただし帝紀でも既に同年同節の表記が既にあればその限りではないようです。
例:ある年の正月の記事のあとに同年2月の記事があった場合は正月の前には春をつけるが2月の前につけない。

これは四節は天の運行であり、すなわち天子に関連するものであるという思想がバックボーンにあるのではないかと愚考します。

368 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 10:56:36
>>362
後の天皇による改元なんかの例もありますし、改月なのかもしれません。
今日は気分がいいから新しい月にしようとか、昨日嫌なことがあったので今日から新しい月にしようみたいにね。
12回改月したら1年経過、みたいなw
まあ以上は冗談ですが、小月大月みたいに何か決まりがあったのかもしれませんが不明としか言いようがないですね。
ただ紀に現れる月日の数字だけでこの月は9日まであったとか15日まであったとするのはいささか根拠としては薄い気がします。

369 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 11:03:57
>>356さん
ご指摘をいただきましたことを、ありがたく思います。
おそらく、『日本書紀の真実 −紀年論を解く』の表5(ページ36〜37)の
間違えのご指摘と拝察いたします。
まず、表5では、用明天皇の在位年数の3年が落ちておりました。お詫びして訂正いたします。
>>346の顕宗天皇と武烈天皇をめぐる問題からは、これらの六帝のうち、顕宗天皇のみ『日本書紀』と
『古事記』の間で在位年数が違っており、『古事記』の顕宗天皇の在位年数は、『日本書紀』の武烈天皇の
在位年数と同じであるということです。)
また、敏達天皇の出生年については、記述はなく、享年(宝算)も算出されません。
表5では、敏達天皇の宝算の欄は空欄になります。
表5は便利であるために、歴代天皇の在位年数や享年を確認するために用いておりましたので、
>>346のような間違えを犯してしまいました。
きちんとチェックしたつもりでしたので、ご指摘を受けるまで気付きませんでした。
>>356さんには、ご指摘いただきましたこと、感謝申し上げます。
もし、仮に重版になることがありましたならば、出版社にお願いして訂正していただこうと
考えております。
この場を借りまして、『日本書紀の真実』の読者の皆様に、お詫びして訂正させていただきたいと
思います。

370 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 11:18:03
東アジアの古代文化120号の95ページのことです。

371 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 11:20:57
紀元・暦法を集めるスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044889496/

ここもあわせて読んでるのだが、暦法は素人には難しいね。まったく。

372 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 11:22:09
>>364・365太国さん
確かに、現在よりも、古代の方が、独裁政権は成り立ち易かったとは思います。
民主主義を保障する制度や法律がありませんから。
しかしながら、古代において為政者が独裁的権力を振るうことができたと考えることにも問題
があると思います。
例えば、儒教などは、朱子学などに代表されますように、独裁者が立っても、
これに盲従することをよしとしてしまうようなところがあります。
しかしながら、儒教は、本来は、「経(たて)」と「緯(よこ)」という2つの理念によって
成り立っています。四書五経の「経書」のほかに、「緯書」があって、これは、
君主が不徳であり、独裁によって人々を苦しめている場合には、天変地異などによって、
その不徳を天下に示し、君主の更迭を可能にするという考えにもとづいて編まれた書物です。
日本書紀紀年法に応用されている「易緯」は、もちろん「緯書」のひとつです。
すなわち、日本古代においては、人々は独裁ではなく、よき統治を望んでいたのです。
私は、『日本書紀』について、このような人々の願いが込められた史書であると
考えております。
したがいまして、『日本書紀』に「独裁暦」が用いられていることはないと思います。



373 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 11:25:56
景行元年は、西暦152年となります。景行元年は、西暦152年となります。景行元年は、西暦152年となります。

374 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 11:37:33
>>368さん
太国さんのお説ですと、1ヶ月の日数に2倍以上の差が生じてしまいます。
もし、太国さんがおっしゃられるように、月の日数が7日から16日程度
でしたならば、頻繁に行われる改月を地方には、どのように知らせたのでしょうか。
例えば、大和朝廷で改月を行っても、7日以内に連絡が届くような地方は、
限られていたのではないでしょうか。例えば、『魏志』倭人伝に記載される日数は、
「10日」や「20日」などとなっています。
これでは、地方の人々は、いったい今が何月であるのか、わからなくなってしまいます。
太国さんは、天皇に強大な権力を想定されていますが、7日で滞りなく改月の勅が届くとしたならば、
ほんとうに、小さな範囲が天皇の支配地域ということになるでしょう。

375 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 11:43:13
>>370さん
『日本書紀の真実 −紀年論を解く』で用いました表を、『東アジアの古代文化』120号
の拙論で、そのまま用いてしまいました。
したがいまして、「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」の表2
も、お詫びして訂正いたします。
正しくは>>369での訂正のとおりです。

376 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 11:51:58
>>373さん
>>373さんは、「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」にて
提起させていただいた景行元年が西暦152年となるという仮説(>>307参照)に
ご賛同くださっておられるのでしょうか。
それとも、批判されておられるのでしょうか。

377 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:07:04
>>374
下3行に関して。
朝廷内だけで意味のあるものだった。
その程度のものだったと仮定すればいいのではないでしょうか?
そもそも暦が天体の運行と関連しないものであれば、農業に従事する人々にとって必要のないものであったと思います。
太国さんはその辺はどう考えてるのでしょうか?知りたいところです。

あとちょっと遡りますが気になったので。
>>349
> 三倍暦ですと、限りなく四季と月との関係がズレてゆき、
> 真夏が「冬」になったり、真冬が「夏」になったりするのですから

これは問題ないと思います。
そもそも四季と四節は別物であろうからです。
東西南北が五行思想だったかに基づく方角の区分であるように、春夏秋冬は1年の区分であるからです。
それは正月が春であるように現代の季節感とは同一に考えてはいけないのではないでしょうか?
ましてや倭人は四節を知らなかったのですから、四節と気候を結びつける習慣はなかったと見ても問題ありません。

まあ以上2点とも屁理屈の類ですがw

378 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:12:13
>>376
2chにおいて373のような仕方のレスは、たいていの場合、晒しの意図を有しています。
おそらく批判、というかバカにしてるのでしょう。

379 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 12:24:59
>>375
敏達63歳というのはあなたの勘違いということでOK?

380 :太国:2006/05/03(水) 15:23:52
>>372 日本書紀紀年法研究家さん
貴女は文面をストレートに解釈しすぎですよ。半島史にくわしいことを
それがしが遠回しにアリランの語を用いたら一直線に解釈してしまうし、
凄腕の意味を、研究をよく知悉し博学でその知識を有効に使用していることを
肉体的筋力のことと決めつけちゃうし、今回の天皇の恣意的判断とか狭小解釈
に終始しているし、もう少し文意を汲み取ってもらいたいです。それは拙者も
分かりにくい書き込みと訂正の多用で理解しずらくしていることはあいすまん
とは思っていますが・・・。
その恣意的判断というのは天皇以外に取り巻きの重臣と占星的暦に通じる部下
だとかを含んで云っているわけなんですよ。上御一人のみで必ずしも暦法の
決定をやったんではないと思いますよ。だから八百万の神の神庭会議に準じて
の、議論の上での暦法採用の判断でしょうよ。

381 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 15:30:40
>>359国太さん
「共有コテ」とは、何でしょうか。


382 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 15:35:36
>>377さん
太国さんのお説を擁護なさっておられるようですが、やはり屁理屈であると
思います。
太国さんのお説ですと、10日あまりで1ヶ月が経過したことになってしまいます。
このため、普通暦で3ヶ月(約90日)が経過したならば、「春三月」ですが、
太国さんの三倍暦(独裁暦)ですと「秋九月」になるのですから。

383 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 15:40:03
>>378さん
ばかにされていることは、残念に思います。
私の説において、どこが批判の対象となる点であるのか、具体的にご指摘いただければよいのですが。

384 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 15:41:16
>>379さん
私の勘違いということでOKです。

385 :太国:2006/05/03(水) 15:42:48
>>374 日本書紀紀年法研究家さん
月の狂いが溜まったって、閏日を入れれば狂いが微小になるじゃないですか?
伝聞しない旨おっしゃっていますが、ならばどうですか?卑弥呼の記事は紀に
ほとんど0に近い状態ではありませんか?紀に記述がないということは、
卑弥呼が九州の女王であり九州の伝聞が当時朝廷に殆ど流入して来ないために
紀に記録できなかったということですよ。それで、当然貴女のおっしゃる
成務=卑弥呼   という等式の成立する余地は全く無いと云えますし、貴女は
卑弥呼=神功   との主張のようですが、これも禁断にすべきイコール説の
うまくない温床であり、すべて誤と判断し捨て去るべきです。

386 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 15:47:10
>>380太国さん
私には文面をストレートに解釈するきらいはあるかもしれませんが、
いずれにいたしましても、おおよそ10日ごとに改月をしていては、
地方への改月の伝達は不可能です。この点は、どのようにご説明なさいますか。
>>377さんのように、朝廷においてのみ暦は用いられたとお考えでしょうか。

387 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 15:48:11
>>382
別に擁護してないですw
基本的に太国さんの論の立て方に対しては懐疑的ですよ。
飛躍のし過ぎ、もしくは仕方が恣意的だと感じております。
述語の使い方もいい加減ですしw

ただ四節と季節のズレはあっても別に問題とはならないと思います。
理由は377の通りです。

388 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 15:51:49
>>385太国さん
「延喜式」に見える大和と地方との往復日数を踏まえても、10日以内に伝聞できる
範囲は限られると思います。しかも、伝わった月が何日後まで使えるのかが、
わからなければ、地方の人々は、ほんとうに、困ったさんになってしまいます。

389 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 15:57:09
>>387さん
三倍暦においては月と春夏秋冬が整合していなくとも、構わないということですね。
では、地方への改月の伝達についても、387さんは、>>377にて述べておられるように、
暦は朝廷においてのみ用いられたとお考えなのでしょうか。
>>386>>388にて述べましたように、私は、恣意的改月は、
統治において混乱をもたらす以外なにものでもなかったように思います。

390 :太国:2006/05/03(水) 15:57:42
>>386
なにも九州まで暦の伝達なんぞ、親切に当時の朝廷はやっちゃぁいないですよ。
それは現代ではやらなければ大批判ををされますがねぇ。w
せいぜい畿内一帯で終わりでしょうが? 貴女はまだ現今の民主主義の概念が
頭にしみ込み過ぎてるんですよ、当時の古代史を考える上ではうまくないです。
いったんそれを横に追いやって考えるようにして下さい。

391 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 16:03:24
>>389
3倍歴に限りません。2倍歴でも通常歴でも同じです。
春夏秋冬は季節を意味するものではなく、1年を四等分して順番にその時期に当てはめただけですから。

392 :太国:2006/05/03(水) 16:08:04
>>391
なるほど、それが真かも知れないね。

393 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 17:33:27
>>376
西暦152年はどうやって出たの?


394 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 17:43:54
倭の五王や好太王碑の記事から、仁徳が四・五世紀の交、神功・応神が
四世紀末となる。その五代前の崇神は世代的に三世紀中頃となるが、
これは卑弥呼や臺與に対応する百襲姫や豊鍬入姫の時代とも合致する。
すると九代前は世代的に紀元前後一世紀の交となり、このころが神武即位である。
となると帥升は孝昭くらいか。


395 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 19:35:43
>>390>>392
太国さんは、たしか九州王朝論者であられたかと思います。
太国さんが、一生懸命唱えておられた二倍暦や三倍暦説(独裁暦説)は、
その九州王朝ではなく、畿内の天皇が用いていたとお考えなわけですね。
私は、そもそも、三倍暦(独裁暦)などというものは、太国さんの想像、妄想の産物であると
思います。
「『紀』・『記』」神話でも、すさのおの尊は、よく統治することができなくて、
根の国へ追放されたりもしています。崇神天皇も苦労しています。
昔の人は、独裁的人物に盲従していたということはありません。
また、為政者が、独裁的権力をふるってきたわけではありません。
今日でも、どこぞの独裁国の国民は、独裁者に盲従しているようですけれど、日本は違います。
独裁者を嫌い、独裁的権力を掌握しようとする者に、厳しい目を向けてきたことに、
日本という国のよき国柄を見ることができると思います。

396 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 19:42:07
>>391さん
それでは、なぜ、1年を四等分する必要があったのでしょうか。

397 :太国:2006/05/03(水) 19:43:11
>>395
>>380 で説明したとおり、ストレートの独裁などという事は主張していません。

398 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 19:50:47
>>393さん
景行元年は、>>307でも述べましたように、歴代天皇について、

「古事記における享年−日本書紀における享年=実際の在位年数(宝算年差)」

という式が成り立つと仮定して求めました。宝算年差は、崇神天皇が48年、
垂仁天皇が13年、景行天皇が31年、成務天皇が−12年となります。
崇神即位年を西暦91年に位置付けて(崇神元年が西暦91年に位置付けられることは
>>205をご参照ください)、これらの宝算年差を踰年称元法にもとづいて、
加えてゆくと、景行元年は、西暦152年となります。

399 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 19:53:36
>>394さん
>>205で述べました理由に拠って、崇神元年は西暦91年と考えられます。
倭国王帥升は、崇神天皇のことであると思います。

400 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/03(水) 20:04:02
>>397太国さん
天皇一人で決めようと、群臣と図って決めようとも、理論的根拠をもたない暦が
用いられているということには変りありません。
そのような暦が施行されて、不便を被っている国民に対しての配慮が無いという意味において、
独裁暦であると言っているのです。
太国さんは、埴輪の起源をご存知でしょうか。昔、貴人が亡くなると、古墳のまわりに
殉葬者が埋められました。殉死しなければならない人々を哀れに思った垂仁天皇は、
このような慣習を止めさせて、かわりに土で人形を造って、これを古墳のまわりに立てました。
為政者には、統治される側の国民の立場に立った思考が必要であると思います。

401 :太国:2006/05/03(水) 20:15:00
>>400
その位は面倒をみたのでしょう。しかし交通不便な当時にどこまで
色々な面で配慮ができたかどうか、それは疑問です。
1ヶ月が7日間ということで住民に届かないというなら、1ヶ月が30日間
だと九州、エゾ地まで暦法が徹底できるとおっしゃるんですか?
7日間のたかが4倍余ではないですか? 徹底したければ1ヶ月を30日間
どころか、300日とかに増加させなければ無理ではないでしょうか?
それでも当時では暦法の徹底にはTVもITもない時代なのに、これでもまだ
まだ不足と思いますが、如何ですか?つまり等倍暦での 1ヶ月=30日間
でも暦法の徹底は当時ま〜ず無理だということですよ。

402 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 20:28:14
>>396
五行思想。
春夏秋冬、青赤白黒、東南西北……etc.
などそれぞれ関連しあってます。
何故「4」なのかまでは説明できませんが「4等分」に関しては基礎にこういう考えがあるためと思われます。

403 :日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:46:34
>>ハゲ
九州王朝って、考古学的に認められてね〜じゃんw

404 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/04(木) 10:07:10
>>401太国さん
「具注暦」のように、暦は、幕末までは朝廷において編まれ、配布されるものとなっていました。
しかしながら、それは、恣意的に途中で改月されるものではなく、陰陽寮などにおいて前もって
天文暦にしたがって1年分が作られて、配布されたわけです。
前もって1年分の暦日が作られていますので、配布にかかる所要日数を考慮する必要はありません。
したがいまして、日本中、どこにおいても向こう1年間は、何月何日であるのか誰でも知ることができ、
安心して用いることができたのです。
暦は、為政者の権勢の誇示や自己満足のためにあるのではなく、国民の利便のためにあります。
6日〜16日ぐらいの間隔で、恣意的に改月されるような独裁暦があったはずはなく、
独裁暦は、現実を無視した太国さんの想像の産物以外何ものでもないと思います。
人間はそこまで愚かではないですので。

405 :太国:2006/05/04(木) 10:22:48
>>404
そんじゃ、何で表から下旬がうんと少ないの? 崇神は若干あるけどね。他は
雀の涙くらいの量に見えるよ?w 成務だって、記述が少ないけれども
まるっきる無いんだよ。な〜ぜ? 以下のようにね。

1日 1    11日 1    21日
2日      12日      22日
3日      13日      23日
4日      14日      24日
5日 1    15日      25日
6日 1    16日      26日
7日 1    17日      27日
8日      18日      28日
9日      19日      29日
10日 1    20日      30日


406 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/04(木) 10:28:51
>>402さん
太国さんの「独裁暦」においては、1ヶ月はわずか6日〜16日ほどの日数づつです。
これを四等分する必要があるでしょうか。6日ですと、春夏秋冬は1.5日づつという
ことになります。太国さんのお説には、三倍暦(独裁暦)で編年された原典が仮にあったとしたならば、
『日本書紀』に再編する際に、これらの日付をどのように普通暦の日付に設定していったのかという疑問があります。
例えば、三倍暦(独裁暦)の5月4日(1ヶ月6日)を普通暦(1ヶ月30日)になおしますと、
普通暦の4/6の範囲に位置付けねばなりません。これは、21日〜25日の間の
日付になってきます。どのような基準によって21日〜25日までの間の
どの日と決めることができたのか、疑問です。


407 :太国:2006/05/04(木) 10:35:19
>>406
これから出かけるので、そこはあとで考えましょう?
欠史八代の数少ない記事をみても1ヶ月は14日までしかないんですよ。
あとの15日〜30日はどうなったんですかねぇ?
これだけでも2倍暦等があったと云われても、なるほどとおっしゃる方は多い
と思いますよ。この件、おかしく疑問に思いませんか、貴女は?

408 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/04(木) 10:40:19
>>405太国さん
太国さんの三倍暦(独裁暦)説は、たしか欽明紀以前は、三倍暦が用いられていた
というものであったかと思います。
欽明紀以前の日付には、中旬や下旬の日付はいくらでもあります。
もともと記述の少ない成務紀のようなご自分に都合のよい天皇紀の事例のみを提示するのではなく、
理論的根拠や暦計算の数式の提示を心がけていただきたいと思います。

409 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 11:01:50
>>406
4等分するのは月ではなく年ですが?

> 太国さんのお説には、三倍暦(独裁暦)で編年された原典が仮にあったとしたならば、
> 『日本書紀』に再編する際に、これらの日付をどのように普通暦の日付に設定していったのかという疑問があります。

書紀の編者は2倍歴あるいは3倍歴を認識してなかった。
だからそのまま書写した。
これに尽きると思います。

これで何か問題あるのでしょうか?
だいたい書紀の編者が2倍歴3倍歴を認識してたら、当然年数もそれに準じて換算されるはずです。
年数がそのようになっていないのは、まさに編者は2倍歴3倍歴の存在を知らなかった証拠に他なりません。


まあこれらを私自身が完全に信じてる訳ではありませんが、太国さんの論が正しいと仮定すればw理論的にはこうなるはずです。


>>407
2日を1日と数えていた可能性はどうして排除できるのでしょうか?

というよう戯言は置いといて、実際問題として月の後半の日付が見られないというのは偶然という言葉では片付けられないのではないでしょうか?
いわゆる欠史八代の日付が月が30日近くまである暦の中で生きている人間が捏造したのだとしたら不自然極まりありません。
また上記の理由から紀の編者は2倍歴3倍歴の存在を認識していたと思えませんから、当時の制度に合わせて捏造したという可能性もほとんどありえないと思います。
やはり15日以内の周期の元に暮らしていた時期があり、その記録が何らかの形で残っていたと見るべきではないでしょうか?
それがただちに2倍歴3倍歴の証明になるとは断言できませんが。

410 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/04(木) 13:29:11
>>409さん
たしかに、三倍暦(独裁暦)があったと仮定しますと、四等分するのは月ではなく普通暦での120日程度である点は、
私の誤解と認めます。
それでも、4分するだけの意義を認めることはできません(しかも太国さんの独裁暦では、
きれいに等分できません)。
私は、日本人は、太国さんのおっしゃるような「独裁暦」を用いるほど愚かではないと思います。
古今東西、朝廷(政府)の重要な役割は、人々の間に発生した訴訟や犯罪を取り締まることにあります。
例えば、裁判でも、法律にのっとり公平・公正な判決が必要とされるように、
朝廷(政府)は、人々の信頼にあたいしていなければなりません。
朝令暮改のように恣意的に改月を行うような朝廷(政府)を誰が信用するでしょうか。
また、>>409にて、そこまで、「そのまま書写した」おっしゃられるのであるならば、神武元年以降を扱う、
二倍暦・三倍暦(独裁暦)によってきちんと編年された歴史書があったとお考えなわけですね。
たしか太国さんのお説ですと、神武元年は1世紀頃になるのではなかったかと思います。
その時代から、わが国では月日まで暦法をきちんと使って記した歴史書があったとお考えなわけですね。
そのような、早い段階から史書が編纂されていたならば、よろこばしいことです。


411 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/04(木) 14:12:47
>>409さん
>>410にての反論にさらに付け加えさせていただけば、仮に、
神武元年以降の出来事を暦法を用いてしっかり記した原典が残っていたと仮定いたしますと、
神武天皇以降の歴代天皇の朝廷には歴史的記録を担当する専門の役所があったと想定せねばなりません。
例えば、神武四十二年の「春正月壬子朔甲寅(1月3日)」から神武七十六年の「春三月甲午朔甲辰(3月11日)
までの間記事がありません。すなわち、歴史的事件を記す役所がありながら約11年間(34年の3分の1)
まったく何も記録していなかったことになります。
その役所は、相当暇であったのか、もしくは、サボっていたと考えざるを得ません。
また、中旬、下旬の日付が無いとおっしゃいますが、神武即位前紀に9月24日、神武四年条に2月23日、
孝安元年条に1月27日、崇神四年条に10月23日、崇神八年条に12月20日、崇神十年条に7月24日と9月27日、
崇神十一年条に4月28日、垂仁四年条に9月23日、景行十九年条に9月20日、仲哀八年条に1月21日、仲哀九年条に2月22日
など、下旬の日付の事例は、枚挙に暇ありません。


412 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/04(木) 14:19:01
>>402さん
五行思想では、四色ではなく五徳をあらわす五色です。
いくつかの説はありますが、例えば、五徳終始説では
木をあらわす青、火をあらわす赤、土をあらわす黄、金をあらわす皇、
水をあらわす黒です。


413 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 14:53:55
>>411
私もそう思いますけどね。
例えば起居注のような詳細な記録が残ってたと考えるのは、正直可能性が低いでしょう。
諸葛亮でさえ史官を置かなかったことを批判されるむきもあったのですから。
ただもう一度読んでほしいのですけど

> まあこれらを私自身が完全に信じてる訳ではありませんが、
> 太国さんの論が正しいと仮定すればw理論的にはこうなるはずです。

ということです。
要するに太国さんがいつも怒るようになんらかを主張してるわけではないのです。

>>412
話題になってるのが春夏秋冬でしたので土用の分を抜いてしまったので誤解されるようなレスになってしまいましたことはお詫びします。
ただ色々なモノを区分する思想のバックボーンに五行思想があり春夏秋冬という区分がそれに基づいたモノであり、気候とは直接関係ないことはご理解いただけましたでしょうか?
もっともこうした区分は天体の動きと関連があるのも事実です。
私の主張wの通りですと、元の意味を失った飾り以上のモノではないということになりますかな。

414 :太国:2006/05/04(木) 14:59:47
>>406
それがしへの質問ではないようで、その内容がよく把握できないので >>402さん
へまかせます。ただそれがしは独裁暦などという日本書紀紀年法研究家さんの
新造語は彼女の勝手気ままな解釈からのものなので、論に応じるには無意味
そのものです。彼女の頭は現代の慣習を古代にあて滲ませた、民主的という古代
と全然無関係のレンズで古代暦を見て批判しているので全く役には立ちません。
>>408 欽明紀以前ではなく、宣化紀以前です。
>>410 4等分がどうのこうのと云っておられるようですが、マヤ暦(ツォルキン
暦などは1年が260日暦の変形で等分などのやり方ではないですから、宣化以前
の古代で日本や他国に別個なる不等分の手法があってもおかしくはありません。
>>411 下旬の記事などはそんなものでしょう。上旬などはその数倍以上に
あるようですよ。それに孝安即位の1/27は別本があって、1/7だそうじゃない
ですか?となりますと、欠史八代間は1日〜14日しか記述がなく、15日〜30日
の月後半の記述は0と同等です。これを見ても1ヶ月が14日までの2倍暦等が
正しい見方だと、それがしはこの文証で結論付けますよ。

415 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 16:11:05
>>414
欠史八代等の日付の記述の件ですが、元資料に四節表記があるなら既に中国式の暦の概念が入ってきてると思います。
仮にその元資料が起居注のような同時代史料であったなら、2倍歴3倍歴は成り立たないと思うのですがどうでしょう?
そういった述語だけ取り入れて通常の年歴、時代によって多少異なるでしょうが、を取り入れないなんてことがあるでしょうか?
ちょっと疑問に思います。
四節の表記だけは通常年歴を使用してからの後付けだとのお考えでしょうか?

416 :太国:2006/05/04(木) 17:08:31
>>415   >>354 で申したように
後付けの可能性は充分あると思います。>>221 で、開化天皇の宮名からとその
御名の疑問からです。「天に二日なし」の天皇に何故二つの「日」がその御名
となっているのか? これは即位の冬11月と正反対の夏→5月の半年ズレの
意味を秘めているんじゃないのか?とおおいに想っているわけです。すなわち
天に輝く日の意味でなく、暦を数える大きくなった 日数→年 の謎と思いました。
それで開化世は2倍暦だろうと考えているんです。
>>377 >>391さんの主張も充分あり得ますが? そこんところは何とも? です。

417 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 17:43:55
>>416
まあ当たり前ですが、不明なところは不明ということですね。
一応了解です。

418 :日本@名無史さん:2006/05/04(木) 18:16:12
天武は博打好きだったらしいから日付はサイコロで決めたと考えられます

419 :太国:2006/05/05(金) 08:11:03
景行世の次。成務世は記述が少ないので、どのような暦法だったかははっきり
は分からないが、やはり上旬の記事に傾いているようである。すなわち(>>405)

1月 上旬
2月 上旬
3月 上旬
4月 
5月
6月     中旬
7月
8月
9月 上旬
10月
11月 上旬
12月

成務世は1個6月があるが、これは天皇崩御の記述である。

420 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/05(金) 09:33:44
>>413さん
太国さんのお説は、史官があって、きちんとした記録が採られていたと想定しなくては成り立ちません。
しかしながら、>>413さんも、ご自分でおっしゃられているように、史官があった
可能性は極めて低いと考えられます。
したがいまして、太国さんのお説は成り立ち難いと思います。
また、春夏秋冬につきましては、『日本書紀』が編年体の歴史書であることを
踏まえますと、やはり、季節に関係しているのではないかと思います。

421 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/05(金) 09:47:58
>>414>>419太国さん
現在「民主主義」という言葉で表現されている独裁防止という考えが、
古代において人類が持っていなかったのかというとそうではありません。
古代ギリシャの「陶片追放」などがよく知られているように、独裁者が出現してしまうことを
どのようにして防ぐのかという問題は、人類史上、つねに認識されてきた課題です。
私が言いたかったことは、日本も例外ではないということです。例えば、『魏志』倭人伝に卑弥呼の没後、
「男王」が立ちますが、結局、皆この王様に従わず国内に混乱が発生します。
王様は、そんなにたやすく独裁的権力を行使することはできなかったのです。
古代においても、現在においても変りは無いのです。
王になったならば、いかなる権力も行使できると想定してしまう太国さんは、考えが甘いと思います。
恣意的に改月を行うような為政者は、やがて追放されてしまったことでしょう。

422 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/05(金) 09:52:04
>>418さん
天智天皇は、律儀に漏刻という水時計をつくって皆に時間を知らせました。
天武天皇は、博打のサイコロで日付を決めたのであるのならば、
兄弟でずいぶんと性格が違ったようですね。

423 :太国:2006/05/05(金) 10:04:32
>>421
貴方の考えは明治以降に通用するものなんですよ。江戸幕府以前は日本に
民主主義はないのです。古代史を考えるに当たっては民主主義は不要で結構
です。貴女はデモクラシーという古代にないものを古代に混入して古代史を
論議してるからおかしいわけですよ。それに拙者は独裁などという、狭小な
言い分で古代史を論じてはおりません。これは貴女が拙者に勝手に糊塗
した新造語であって、私論ではありません、

424 :太国:2006/05/05(金) 11:22:26
>>419
成務の世も下旬の記述がない。崩御以外は上旬の記述である。どうやら、ここの
世も上旬主体の3倍暦であった感が濃厚である。2倍暦だとタケウチノギネスの
年齢がいささかまだ多い数字に傾く。よって3倍暦だと観ている。これだと
前後の天皇世の3倍暦と勘案して、数代に仕えたタケウチノキネスの年齢は97歳
との計算結果となった。まことに妥当な数字に思える。
>>421 日本書紀起年法研究家さん
貴女の考えだと、日本の古代の天皇は民主主義的に物事を定めなければなら
ないと言っているようにしか見えません。これはどう考えてもおかしな意見です。
日本史においては民主主義は明治以降に論ずるものであり、古代が近代政治に
則って事をせねばならぬなどどの主張は、時系列の前後が逆転している発想で
ありっこない歴史見解であり、ただちにそういう考えは廃棄すべきです。
日本古代において民主主義に朝廷が行事を執り行なっていたなどということは、
須弥山思想が仏伝の手前に日本にありで仁徳陵構築の背景になっている主張を
誰かさんがこのスレで主張していたと同様であり、当時の西欧のデモクラシーが
紀に載るころの大和朝廷にすでに伝来されているというように云う貴女の主張は
起こりうるべき事ではないと断ずるものであります。

425 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/06(土) 02:08:40
兄さん…
>当時の西欧のデモクラシーが
>紀に載るころの大和朝廷にすでに伝来されているというように云う

「ように云う」というのは兄さんの主観です。
弟として恥ずかしいです…

兄さん…
GWぐらい、どこかに行ったらどうですか?
お母さんも泣いてますよ(涙

426 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 07:03:14
>>422
元々、原典には三国史記のように月のみで日はなかったと推定する場合
史書を構成する要素の一つとして日付を付加する必要性が生まれ
何らかの手段によって一日から十五日に集中するような
決定方法を取ったと考えなければいけません
また何らかの理由により意図的な日付の付加も見出せます

博打に関して御方大野の父にあたる某皇子(おそらく草壁の弟)
がその地位まで賭けた例があります

427 :太国:2006/05/06(土) 07:34:24
仲哀世の記述を見ると月後半の記述がわりかしあるが、それは旅行関係のもの
ばかりであることが紀を読めばわかる。
つまり、出来事が当日限り的で終結になるようなものは、総てが月前半での記述
でということなのであり、その日のみで終わらない、とりわけ連続の月に跨る
必要性ある記述は、(月前半を含みながら)月後半の記述に事が行っている。
穴門よりのタケウチノキネスの復湊の記事もこれに準じたものである。
これはどういうことなのか? 連続記事を神武即位から成務世までに少ない5月等
の記述の欠を容認してそこをとばして書いて行けば1〜2ヶ月分位の旅行期間の
増加の誤差が一目瞭然的に出てしまい、誤計算や誤解を招くおそれが多分に起こる
ことから連続月の跨りの不可分的の記事は翌々月等に当てるはずを取りやめ、月
後半に記述して連続性の分断の感を防いだのれあろうと推察する。
ということは、各月等に及ばない独立的な出来事は月前半の当時の通常の記述
方式にして、そうでない月連続になる従属的長期なお互いに接着性ある出来事は
月の(14日か)15日に来れば翌月行きを止め、そのまま16日以降の記録としたと
観ている。要するに長いものは容易に日数の計算がやれるように配慮して
いたのではないかと思う。これでもいろいろ疑問が出てくるが、その解答は率直
には行かないが、やはりそのへんが月後半に記述が行く根源ではないのか?

428 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/06(土) 10:35:08
>>423>>424>>427太国さん
太国さんは、「天皇」の定義をどのようにお考えでしょうか。
神祇祭祀権者が「天皇」として定義されるようになり、
これが、「天皇」が存続した理由であると私は考えております。
暦を定めることは、本来は政治とは関連ありませんが、為政者が恣意的に改月
できるとなりますと、政治問題化したのではないかと思います。
太国さんは、もう少し想像力をふくらませて、恣意的改月が10日づつほどで行われ
1ヶ月がどのくらい続くかわからない場合の人々の不便を考えてみてください。
国民の不満の矛先は、天皇に向いてしまうことになるでしょう。
独裁者の末路が哀れである理由は、国民に嫌われるからです。
独裁者自らの恣意的決定が、国民すべてに迷惑をかけていることに、
独裁者はとかく気付かぬものです。
わが国では、天皇と政治が切り離されてきましたのは、天皇と政治とが結びつきますと、
天皇家が滅ぶからです。天皇を政治から遠ざけたことは、昔の人々の智恵です。

また、下旬の記述のない成務紀のほうがむしろ例外であると思います。
仮に、卑弥呼が成務天皇に投影されているのならば、
神祇祭祀権者であった卑弥呼には、政治的事蹟が無いのですから、もとより
成務紀には記述が少ないのです。

429 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/06(土) 10:56:00
>>425国太さん
今日、デモクラシーという言葉で表現されている圧政の成立を防ぎ、
独裁者の更迭を可能とするような政治制度をめぐっては、
たしかに、議会制民主主義、選挙制度、オンブズマン制度など、今日、
多くの国々で採用されている政治制度や法制度は、たしかに西欧で発展してきたものです。
しかしながら、理念としては、人類史上、早い段階から存在していたものです。
理念を具体化させるよう、それぞれの国々には、それぞれ独自の、固有の制度があったはずです。
このように考えますと、国太さんのお兄様の太国さんのおっしゃられることは、
まさに、主観であり、理念の存在をも無視していると思います。

430 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/06(土) 11:03:15
>>426さん
某皇子が、博打によってその地位まで失っても、他の人々は迷惑しません。
「身から出た錆」という言葉がありますように、地位を失って不名誉であるのは、
某皇子本人だけだからです。
しかしながら、日付は違います。日付が博打で恣意的に勝手に決められてしまいますと、
国民すべてに迷惑がかかります。
したがいまして、天武天皇が博打で日付を決めたということは、まず、
無かったかと思います。

431 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 11:03:25
質問なんですが、「太歳甲申」って普通の干支にあてはめてよろしいの
でしょうか?

432 :太国:2006/05/06(土) 11:10:30
>>428
それがしは民主主義政治を論議のためにここのスレに来ているわけではあり
ませんので、天皇の定義云々は論外ですのでここには述べません。等倍暦の
1ヶ月30日だって人民には浸透するとは限りませんよ。ある程度はそういうこと
を当時は考察、検討していたかのしれませんが、畿内だけならそれでこと足り
ます。よもや足りなければ1ヶ月、月の数字が上がっても、一般に伝達する時に
すでに暦が変わっているのを言えばいいだけのことであり、重大な困惑には
ならんと思います。そこまで浸透するのを突き詰めるならば1ヶ月を300日でやら
なければ、日本国内に完璧には不届きの状態はなくならんでしょうがね?
貴女はまだ探偵映画の脚本書きに熱中しているようで、イコール論の駄目駄目さ
に気付くのが、もう20年かかるのかな〜?と心配してるんですよ。

433 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 11:32:23
>>430
現行使用している暦をサイコロで決めるわけではないので
史書上の不確定な過去の日付などを恣意的に決定したとして
何か問題になるとは思えません。
そもそも記紀の紀年法自体が讖緯的理由によって事実ではない
偽装紀年構造をとっている方が問題だと思います。

434 :日本@名無史さん:2006/05/06(土) 11:49:45
太国は追い詰められて反論できなくなると
>貴女はまだ探偵映画の脚本書きに熱中しているようで・・・
とかの罵詈雑言に逃げる。
だから邪馬台国関連、しかも九州王朝、九州説、畿内説などの
お互い主張の違う論者すべてから嫌われ、自らの居場所を無くしてきた。
ここでもまた同じことを繰り返しているようなので、あまりにひどいと>>1が思うのなら
「出て行け」といってやればよろしい。

435 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/06(土) 18:27:20
>>432太国さん
日本古代に暦の配布が仮にあったとしたならば、一ヶ月(30日)前ではなく、
後の「具注暦」のように一年前に予め、次の年の1年分の暦を配布したのではないかと
私は考えております。
また、もし、仮に、太国さんのおっしゃられるようなやり方で改月が行われていたのならば、
その暦は、独裁体制が敷かれていなければ施行することができないような暦でしょう。
太国さんのお説からは、どうしてもグロテスクな体制が想定されてきてしまいますので、
これは、違うのではないかと私は述べているだけです。
また、>>434さんもおっしゃられておりますように、罵詈雑言は止めてください。
私は、脚本を書いておりません。脚本家ではありませんので。
私は日本古代史の研究家ですので、様々なアプローチから検証してみて、
仮説として成り立つ考えを提起させていただいているのです。

436 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/06(土) 18:39:30
>>433さん
三倍暦を用いていた欽明紀より前の歴史を記録する史書があったと仮定しますと、
天武天皇の時代に、これを普通暦に改める際に、日付をサイコロで決めたということは
ありえるかもしれません。
「吉備大臣物語」にも双六の賽というものがでてまいりまして、吉備大臣の危難を
救ったりしますので。
しかしながら、先にも述べましたように、三倍暦の史書を普通暦の史書に改めたという仮説が
成り立つためには、神武紀から宣化紀までを扱う三倍暦を用いて編年された
史書があったという前提条件がクリアされていなくてはなりません。

437 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/06(土) 18:44:07
>>434さん
太国さんの罵詈雑言につきまして、対処法をアドヴァイスいただきまして、
ありがたく思います。

438 :太国:2006/05/06(土) 19:22:09
いよいよ、このスレは、『不史議の国の有素』の状態になってきたようだ。
それを助長しているのは >>434氏ではないだろうか?

439 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/06(土) 23:09:45
兄さん…
『不史議の国の有素』って…

むしろ「全国の皆さん」は、兄さんの事を不思議がってると思うよ(涙

440 :太国:2006/05/06(土) 23:41:04
>>434さん
貴方は彼女の 成務=卑弥呼 をどのように思っているんだろう?
まさか肯定してるわけがあるまい。駄目じゃないか? 彼女に矯正役を飲ませ
てやらんにゃぁ〜、え〜?
彼女は妄想の迷宮に入り込んで、静かなナイトメアの状態でいるんだよ。
相当、彼女は重症ではないか? と想わないかね?
自己の紀年の研究に失敗ではないか?との疑念がまるでなく今まで来てしまって
彼女は強信の脳内なんですよ。紀年の自説を信じ過ぎてしまったからなんですよ。
「そうだわ? もしかしたら、あたしの説は間違っているのではないかしら?」
とのバックミラーを見向きもしないで吟味検討機能が麻痺しちゃってるんですよ。
もう本当になおらないかもしれない「困ったさん」なんです。
過去の敗論でくやしいのはわかりますが、それがしを突くより、彼女の妄想病を
消滅させるアドバイスを彼女にしてやってください。

441 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 00:01:05
>>436
三倍暦の史書はあり得ないと思われます、
どのような理由があって三倍暦の史書の存在を仮定しているのでしょうか?

こちらとしては「月のみ日なしの史書」が存在する場合の話なので
三倍暦の史書の存在は関係ありません。

442 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/07(日) 00:14:13
兄さん…
どうしたんだ。
「全国の皆さん」も、兄さんの負けだと思ってるよ。

兄さん…
思い切って母さんの胸に飛び込んで、
「僕、議論に負けたよ〜!」って叫べばいいじゃないか、兄さん!

母さんは優しく言うだろう。
「おまえは議論に勝った事ないんだから気にするな」って…

443 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 01:22:25
>>441
> 三倍暦の史書はあり得ないと思われます、
> どのような理由があって三倍暦の史書の存在を仮定しているのでしょうか?

そもそも研究家さんは3倍歴自体に否定的な方です。
また436でも3倍歴によって記された史書などは存在しがたい旨述べられてると思いますが?

私の見たところ両者噛み合ってない感じw
あなたは
「書紀の、あるいはその元資料となったものの編集段階において日付の記録がなかったのでサイコロ等で適当に決めた」
と主張してる、あるいはそんな感じだったのではないかと一案を提示している。
(でいいですよね?)

それに対して研究家さんはその前からの一連の流れで、
「実際に施行している最中にその月の日数を恣意的に決める。そんな事はありえない」
と言ってる訳で、あなたのレスの趣旨とごっちゃになってしまったのであろうと思われます。
つまり「あなたがサイコロで以って実際に施行中の月の日数を決めてると主張してる」と。

全然違ってたらゴメン。

444 :太国:2006/05/07(日) 08:17:26
>>441
当時の歴代天皇の著しい長寿の記録だよ。特にタケウチノキネスの超長寿の
記述に貴殿は何と答えるのかね?3倍暦を否定して、何か合理的解決の論が
あるのかね?ただ単に引き伸ばしたじゃ理由にはならんよ。その引き伸ばしの
特段に納得できうる利害大なる動機がなくては納得するにはもの足りぬよ。
余の計算で、3倍暦では彼は97歳の計算になった。数代に仕えたのだそうだから
この数字は合理的だと考察するがね。2倍暦じゃぁ140歳余になっちゃったん
だよ。これでは世論は信用すまいが。神武紀に日本は179萬余年の歳月が経って
いる記述がある。この記事から、讖緯説で言い出した120年位の引き伸ばし
なんてやる意味がうすい。その歳月が本当かウソかいずれにしろだよ。
どちらにしろ179萬余年もの記述があれば、なにも120年の引き伸ばしなどしない
で構わんわけさ。辛亥革命にあわせるよりも大化の改新にあわせたほうが決まり
がいいのにそんなんでもない。結局179萬余年の引き伸ばしはあるかもだが?
120年とかの引き伸ばしに大利害を埋める意味合いが認められない。
結局2倍、3倍暦の考察に頭内が行ってしまうことになる。

445 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 10:11:10
>>443
(いいよ)

446 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/07(日) 10:21:41
>>438太国さん
「プラス・マイナス120年構想」など、日本書紀紀年法の構造が、
数学的に構築されているという私の説に対しまして、多くの方々から賛同をいただいております。
それは、「数学的強制理解」という言葉があるように、数式として、きちんと成立しているからです。
太国さんが、私の多列・並列構造論に対して、私を非難されているのか、もしくは、
太国さんの三倍暦説への私の批判に対して、非難されているのか、わかりませんが、
いずれにいたしましても、私は、リアリストですので、歴史的事実を探求するという
姿勢で、研究を行っています。
「不思議の国」の世界に迷い込んで、妄想の中にあるのは、太国さんであると思います。

447 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/07(日) 10:35:29
>>439・442国太さん
国太さんのおっしゃられるとおり、国太さんのお兄様の太国さんは、
「不思議の国」に迷い込んでおられるようです。
きっと、太国さんの三倍暦説は、「ハートの女王」が使っているのでしょう。
それから、太国さんは、「きちがい帽子屋さん」になっているようです。

448 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/07(日) 10:50:08
>>443さん
日付とサイコロの件につきましては、443さんもご指摘しておられるように、
仮に三倍暦が施行されていた場合における日付(改月)の問題(太国さんの説)と、
三倍暦の史書を普通暦に改編する際の日付の問題(「日本@名無史」さんの説)
という2つの異なる問題を、混同してしまい、
要領を得ない書き込みを行ってしまったと反省いたしております。
太国さんのお説には、矛盾や不整合が多く、また、独裁体制を想定しなければならないという難点、
「日本@名無史」さんのお説には、三倍暦で編年した歴史書がきちんと存在
していなければならないという難点があり、両説ともに成り立ち難いと思います。

449 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/07(日) 10:57:03
>>441さん
『日本書紀』の原典となるような史書があって、それには、月のみしか記載がなかったと
お考えなわけですね。それでは、月のみであったとしても、月の「大」と「小」は、
どのようにして決められてあったと想定されますでしょうか。
例えば、月末の日付が、30日か31日かによって月が変りますので、
月末においては、日が問題になるのではないかと思います。

450 :太国:2006/05/07(日) 11:03:12
>>446 え〜?

 成務=卑弥呼

も賛同されているんですか〜? んなわけないでしょう。はやく、こんな妄想に
お気付きになって捨て、出発点に帰還しないと一生真の紀年論は無になります。

でかい利害がなければ編纂者側は、そんな猪口才なまねなどせず、ストレート
なる記述を行いますよ。そんな疲れる強制などはする必要もなく、早く編纂
するためにもそんな回りくどい120年のイカサマ構想などは面倒臭くてやって
くたびれもうけになるなど何の益にもならんし、やらんですよ。
もっとも紀のお手本の各古書に何らかの疑問があれば、後世の人間に誤解に
ならぬような方法での手は打ってはいるでしょうよ。しかし貴女のいう120年
なんとかは、未来の自分達が必ずと言っていい位撹乱してしまう作業ですから
そういう迷惑行為は編纂者側は採用するはずがありませんよ。

451 :太国:2006/05/07(日) 11:31:14
ん名訳無いでしょう?
このスレは西洋のデモクラシー化した、まさに「不史議の国の有栖」の様相
を呈しています。日本書紀紀年法研究家さん 成務=卑弥呼
から進展して 成務=卑弥呼=ハートの女王 などと云わないようして下さいよ。
貴女は、西欧の近代民主主義という色メガネで当時の古代を見ていて、
いろいろとそれがしと朝廷を批判してますが、それではいつまで経っても古代
の真実を把握することは不可能です。

452 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/07(日) 12:22:59
兄さん…
自分から民主主義のことを持ち出しながら、
民主主義のことを論じたいわけではないと言い出し、
また民主主義を持ち出したんですね(涙

有素・有栖って「アリス」の事だったのかい、兄さん…

兄さんは、まず変換や改行を、きちんとしてから書き込むべきだよ。
「ん名訳無いでしょう」を
「ん、名訳(めいやく)無いでしょう」かと思ったよ、兄さん…(号泣

453 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/07(日) 12:47:53
>>450>>451太国さん
私は、三倍暦は無かったと考えております。
したがいまして、「成務=卑弥呼=ハートの女王」という図式が成り立つとは、
一言も申しておりません。
太国さんの三倍暦説は、天文暦のように一貫した法則(計算式)にもとづいて
暦が編まれたと考えるには、日付に不整合を来すため、6日から16日という
日数の間で恣意的に改月されたという「とんでも説」です。
仮に、このような暦が使われていたとしたならば、それは、「ハートの女王」によって、
使われていたに違いない、すなわち、太国さんの想像・妄想の産物に違いないと
言っているのです。
また、私の説について、太国さんがどこを気に食わないとお考えであるのか、やっとわかりました。
太国さんは、成務天皇には卑弥呼が投影されているという点が、どうしても
お嫌なのでしょう。
しかしながら、成務天皇には、卑弥呼が投影されているという仮説は成り立つ余地があります。

454 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 12:49:53
3倍歴は机上の空論としては面白いのかもしれんが、実施の段階では全然実用的ではないね。
太国さんは主権者が3倍暦を施行した目的を那辺にありと考えてるんだろうか?
「理由はわからないけど書紀を読み取る限り3倍歴は実際に施行されたのだ」という主張なのだろうか?

また2倍歴に関しても三国志の注、魏略からのだっけか?、を読む限りにおいては、とても導き出せない気がする。
あれを素直に読めば倭人は1年を春夏秋冬の4つの節に分けないで、春の耕す時期と秋の収穫の時期の二つに分けているだけとしかとれないんだがな。
正歳四節の正歳の方に注目すれば、あるいはそうなのかな?
ただ春耕秋収が節になってるってことは既に社会が農業と深くかかわりがあることを意味してるわけで、
その時点で公転周期を1年と認識しないと上手くいかなくなるんじゃないかな?
生活のリズムは1年だけど、歳だけは昔からの習慣かどうか知らないけども1年に2回取るという社会だったという主張なのだろうか?

455 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:00:53
>>448
> 三倍暦の史書を普通暦に改編する際の日付の問題(「日本@名無史」さんの説)
これは誰の説ですか?
太国の文字はNGワード登録にしているので
レスにこの文字が入っている場合見落とすことがあります

>>449
実際その史書には『甲子年七月中』『辛亥年七月中』
というよな形で記載されていたと想定しています。
このような月のみしかなかった場合の話なので
暦法的に月の「大月」も「小月」も考慮する必要はありません。
暦法だけが月を決める基準ではないからです。

456 :日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:55:07
>>1は成務について卑弥呼を男性化した架空の天皇と位置付けていますが…

成務は武内宿禰を天皇化した架空の人物です
古事記の崩年干支と宝算は建内宿禰のもなのです!

457 :太国:2006/05/07(日) 15:33:39
>>453 日本書紀紀年法研究家さん >>454さん
以下の表をどう考えるんだい? これは欠史八代の日付の統計だ。まぁひとつ位
は抜けてるかも知れぬが、その中身をよく見て欲しい。

1日 3    11日 4    21日
2日 2    12日 3    22日
3日 3    13日 3    23日
4日 3    14日 7    24日
5日 6    15日      25日
6日 3    16日      26日
7日 2    17日      27日
8日 3    18日      28日
9日 3    19日      29日
10日 1    20日      30日

これを眺めると15日〜30日の日付がまるで片禿山のように無い。確かに孝安即位
が 1/27 との記述があるが、別本では 1/7 だそうである。このように日付群の
それ以外が全部1日〜14日の日付で埋まっていることを考えれば、同即位は
後者の 1/7 だとの断を下したい。これを見てストレートに物事を考えれば、当時
は1ヶ月が14日の2倍暦等を実施していたとの感を免れない。 >>454さん、
これでも2倍暦等はやってなかったと否定するのか?否定するならば、この
左寄りの数表は他に何を物語っているというのかね?答えてほしいよ。

458 :太国:2006/05/07(日) 22:24:24
>>456
成務を架空の人物とせねばならない最大の理由とは、いったい何なのか?
それが無いと貴殿の架空小説ならぬ空想小説だということになるが?
とりわけ武内宿禰は数代に仕えたという超長寿者という話だ。その永寿者のほう
が天皇だったとは、どういうことからなのか?

459 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/08(月) 08:08:52
>>454さん
太国さんのおっしゃる三倍暦については、私も実施不可能な暦であると思っております。
また、454さんがご指摘なさっておられるように、公転周期が1年という認識の問題は、
重要であると考えられます。昔の人々も春夏秋冬がめぐって1年と認識していたのでしょうから。
太国さんは、6世紀前半の宣化紀までが三倍暦と考えているようですが、三角縁神獣鏡や
七支刀の銘文に見える元号や稲荷山古墳出土鉄剣銘文の干支紀年などは、遅くとも3世紀後半以降は
普通暦での1年が1年として認識されていたことを示していると思います。

460 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/08(月) 08:23:05
>>455さん
>>448につきましては
「日本@名無史」さんの説とは、>>418さんのお説です。
また、「NGワード登録」とは、何でしょうか。

>>449につきましては
たとえ、『甲子年七月中』『辛亥年七月中』 とのみ表記してあっても、
「大月」と「小月」の問題はあったはずです。普通暦での31日に起こった歴史的事件については、
その月の出来事となるのか、翌月の出来事となるのかが問題となったはずであるからです。
すなわち、月の表記があるのであるならば、1年の日数は、何らかの基準にしたがって、
12ヶ月に振り分けられていると考えられます。
他にどのように月を決める規準があるのでしょうか。

461 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/08(月) 08:35:17
>>456さん
武内宿禰は、成務天皇と同じ日に生まれ、大臣となって成務天皇を輔弼しています。
したがいまして、成務天皇は武内宿禰を天皇化した人物であるという仮説は、
一案として、興味深いものがあります。
しかしながら、私は、成務天皇と大臣・武内宿禰との関係は、
卑弥呼(神祇祭祀)と男弟(政治)の関係の投影なのではないかと考えております。

462 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/08(月) 08:47:34
>>457太国さん
欠史八代は、歴史的事象と言えるような事蹟についての記事が無いこと、
記事の分量が少ないことから、「欠史」と称されている歴代天皇のことです。
すなわち、即位、遷宮、立太子、崩御、陵墓への埋葬といった事柄に関して、
それぞれ数行程度で記されているのみです。
これらの事柄は、歴史的事件のように日付が重要視されるような事柄ではありません。
それでも、孝安天皇のように下旬の日付もあります。
欠史八代の日付をもって、二倍暦・三倍暦があったとする主張は、根拠が薄いのではないかと
と思います。

463 :太国:2006/05/08(月) 09:12:57
>>462
歴史的分量が少ないから1代分のところ、まとめて8代分で計数してるんですよ。
じゃぁ、あなたの論に従って、1歩譲って >>457 は下表のように書き換えた。

1日 3    11日 4    21日
2日 2    12日 3    22日
3日 3    13日 3    23日
4日 3    14日 7    24日
5日 6    15日      25日
6日 3    16日      26日
7日 1    17日      27日 1
8日 3    18日      28日
9日 3    19日      29日
10日 1    20日      30日

これを見て、日本書紀紀年法研究家さん、まだまだw 表の右側がお寂しいと
思いませんか?w 1/7説本と 1/27説本の双方のいずれか真なのか? の考察を
考えれば 1/7 だったと云わざるを得ないのが >>457 の表が物語っている内容
だと考えるのが至当と、そう行き着く結論なのですがねぇ。ww
ははぁ〜、たった1つだよ〜? 変だねぇ?

464 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/08(月) 12:27:36
>>463太国さん
それでは、二倍暦、もしくは、三倍暦を用いて編纂されていた『日本書紀』
の原典となるような史書が存在していたとお考えなわけですね、
その史書では、欠史八代は、実年代(西暦)において何年に位置してくるのでしょうか。

465 :太国:2006/05/08(月) 14:54:53
>>464 日本書紀紀年法研究家さん
貴女のおっしゃる要求は不可能な要求じゃぁないですか? そんな史書が見つ
かって拙者が保有しているのが内外に分かれば新聞の1面を飾っていいニュース
であり、もっと早く事は解決してるかも知れないでしょうが?
今回の表の質問に関して、貴女は苦し紛れの答弁をしているとしか思えません。
だから、そんな不可能で無理な要求をしてくるんだとあきれています。
>>459 で3倍暦は不可能だと勝手に決め込んでいますが、この前も例をあげまし
たように、マヤのツォルキン暦法は変則倍暦であり、3倍暦よりもやりにくい
ように拙者は感じるのですが、同文明のあった頃の中南米ではさかんに使用され
ていたわけであり、これこそ「不可能」の主張をする貴女の言い分は、貴女自身の
恣意的主張であり、とても容認できるものではありません。
さらに、いまだ 成務=卑弥呼 という等式を本気で信じている貴女の脳の加減
が、真に正常でないのではないか? と、コントロールの麻痺している状態なんで
はないのかと、多いに危惧し心配しております。早く眼をさまして欲しいです。

466 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 15:14:43
>>460
>>416は、編纂段階において日の欠いた史料を元に適当な日を付加する手段として
サイコロを使ったのではないか。という意味です。

1太陽年は冬至から次の冬至までであり、本来この日は新嘗祭を行う日でありますから
この日(冬至つまり十一月下卯日)を1年の基準にしたと考えられます。

467 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/08(月) 15:43:28
>>465太国さん
太国さん、太国さんのお説は、『日本書紀』の原典となるような史書が、
遅くとも『日本書紀』の編纂期までは存在していたと想定しなければ成り立たない説なのですよ。
私は、太国さんが、その史書を保有しているかいないかを質問しているわけではありません。
どうして、いつも質問の内容を、すり替えたり誤魔化したりするのでしょうか。
太国さんは、三倍暦説を唱えておられるのでしたなら、三倍暦において、
欠史八代が実年代で、どのくらいの年代に位置するのであるかぐらいは、
当然、計算されておられるでしょう。自説にはいつも自信がおありのようですので。
計算もできていなくては、三倍暦説を唱える資格は無いと思います。

468 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/08(月) 15:48:53
>>466さん
466さんは、三倍暦説を唱えておられるというわけではないのですね。
日の欠いた史料を元に適当な日を付加する手段としてサイコロを使った
のならば、なぜ、『日本書紀』には、月だけで日の欠いたままの記述が
あるのでしょうか。
私は、『日本書紀』に見える日付には、やはり根拠があるように思います。
三倍暦で編年された史書など、無かったはずですので。

469 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 16:27:25
>468
「日付には根拠がある」ということに関しては同感です。

日本書紀は段階的に編纂されたんですよね?
日本書紀の編纂時に集められた諸書の中にはサイコロ日付付加史書(天武謹製)と
非サイコロ日付付加史書の二種類以上の史料があったと想定することができます。

470 :太国:2006/05/08(月) 17:36:19
>>467
計算はできてますよ。だから

神武即位 66年
綏靖即位 93年
崇神即位 300年
神功摂政 400年
應神即位 423年
繼體即位 523年

と、ざっと上のとおりです。はい! おかしければ言って下さい。何とかします。
>>459 七支刀なんぞは別の刀じゃぁないですか? そんなんで比定やって確定
してたんでは合うわけがないですよ。こんなんでは、学会の決めた年なぞは
どうやらあやしいもんだと考えるべきです。だいたい 倭の五王=当時の各天皇
などと云って年月が決まるんじゃ滅茶苦茶であり、信ずるのはこれでは一寸足が
ブレーキ・ペダルの上ですな。
=説は  神武=崇神=應神  だとか  平成=平城  だとか言って
いるようなものでありw、これでは頭の検査を早急に実施せねばなりません。
= に乗じてはまずいまずいですよ。すぐそんな説は遺棄すべきです。

471 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:06:24
太国の母でございます。
このたびは、息子がこのような罵倒糞レス荒らしを投稿してしまい、
皆様には大変ご迷惑をおかけしております。
深くお詫び申し上げます。
息子は幼い頃に父親を亡くし、
そのショックで内気な子供で、そのうえハゲになってしまいました。
しかも2倍や3倍がどうしたとか、何やら変な宗教にはまったらしく
そのせいか、小中学校ではいじめにあっていたのです。
この年になるまで、恋人はおろか友達さえもいないようで、
大変心配しておりましたが、
この2ちゃんねるというサイトを知って以来、
息子も少し明るくなったようです。
「今日日本史板でね、研究家のドキュソがさあ...」
と、とても楽しそうに夕食の時に話してくれるのです。
どうぞ皆様、息子を暖かく迎えてやってくださいまし。
本当は良い子なんです。
よろしくお願い申し上げます。

太国の母より

472 :太国:2006/05/08(月) 21:19:19
日本書紀紀年法研究家さん
>>471 の奴は貴女を「DQN」とか言っていますよ。あっしはそういうことは
家では言ってませんよ。誤解ないようの願います。

473 :国太 ◆GPDV33Riho :2006/05/08(月) 21:59:18
>>471は僕じゃないですよ…

せっかくもっと面白いキャラ用意してたのに残念だ…

474 :太国:2006/05/08(月) 22:14:52
何だろう?

475 :日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:36:58
太国って毎日2chに貼りついてるくせに
こんな有名コピペも知らんかったのか?

ほらよ「コピペ大辞典(仮)」
ttp://maruheso.at.infoseek.co.jp/codic/list1.html

476 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/09(火) 09:59:04
>>470太国さん
太国さんは、西暦66年から6世紀初頭までの歴史を三倍暦や二倍暦できちんと記した歴史書が
あったと想定されておられるわけですので、朝廷には史官が置かれ続けていたと
想定しなければならないことになります。
しかしながら、『日本書紀』は条の間隔が、何十年も飛んでいることがありますので、
史官は、そうとう暇であったのか、もしくは、サボっていたと想定せねばならないことは
先にも述べました。太国さんのお説は、現実問題として成り立ち難いと思います。
また、「学会」という表現は、「学界」、もしくは、「研究史上」と改めたほうが
よいかと思います。「学会」といいますと、説の是々非々を決定できるような
史学関連の機関が存在しているかのような印象を与えます(そのような機関は存在していません)。
学閥はあるのかもしれませんが、定説は、特定の機関によって決められるものではなく、
研究者個々人の説のうち、蓋然性が高く説得力のある説が、しだいに定説となってゆくからです。
また、特定の宗教団体と間違われるような表現です。

477 :太国:2006/05/09(火) 10:29:06
>>476
ここは学術関連のスレですから、宗教団体の学会さんとはよもや間違えることは
皆無で心配する必要はありません。宗教に関われば、そのときに説明すればいい
ことですよ。貴女は古代は民主的wに政治が執り行なわれとような論議で、これ
こそ古代社会の誤解につながる色メガネ的考察で、困りましたなあ〜と言いたく
なります。1ヶ月が短いから住民に迷惑がかかるから、そんな暦法を採用するの
はおかしいとかの反論でしたが、ならば貴女の主張する120年云々の論は、同じ
古代でも神武〜崇神〜・・・〜欽明世ころよりは後代ですが、現今の住民つまり
今の平成の世の人間が撹乱されて誤解するという迷惑行為をしていたという主張
ということに近く、貴女は古代の片方は迷惑行為を駄目だ旨の反論をして、片や
自説になる古代の紀編纂者のやる迷惑行為は当然であるということになり、
これは自語相違に近似して矛盾に近い論法ではないかと考える次第であります。

478 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/09(火) 12:39:04
>>477
「プラス・マイナス120年構想」による多列・並列構造は、たしかに、
その原則が伝わっていない今日においては、迷惑な構想と認識されるでしょう。
紀年論という学術分野が成立するほどの混乱をもたらしたのですから。
しかしながら、原則が伝わっていたと想定すればどうでしょうか。
そして、多列・並列構造において、もっともよく4世紀末から5世紀にかけての歴史が
きれいに表現できているとしたのならば。
きっと多列・並列構造は、迷惑どころか便利であると認識されていたはずです。


479 :太国:2006/05/09(火) 14:15:18
>>478
便利なのは貴女と学界とかこれ専門の研究家連でしょうが。一般人がすぐ
分からなければ便利どころか放り出したくなるものでしょう。それがしでさえ
貴女の論は小難しくて理解しにくいものなんですよ。一般の方々だってスーッ
と理解ができる暦法ではないと考えますよ?
だから、そんな分かりにくい貴女の主張する120年云々の暦法は、現代人にとって
は混迷でストレートに使用できるものでないから、不便この上なく、120年等の
突合せとかをやるという編纂者側は、貴女のいう(現今と編纂時の)住民に多大な
迷惑をかける撹乱行為になるべきものであります。つまり貴女は自語相違的批判を
やっているということになるわけです。

480 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/09(火) 15:50:43
>>479太国さん
日本書紀紀年法の多列・並列構造は、難しいものではありません。
表や図で表現いたしますと、わかりやすいので、表示、図示できないのが残念です。
しかしながら、栄枯盛衰の世界史をみても、また、現代の国内外の情勢をみてもわかりますように
一国の歴史は単純ではありません。日本古代史も単純ではなく、
複雑な状況を表現するためには、多少複雑な構造が必要となります。
多列・並列構造は、わかり易い、便利な構想であると私は思います。

481 :太国:2006/05/09(火) 16:36:55
>>480
2倍、3倍暦のほうがよっぽど分かりがいいと思いますがねぇ。私は
>>457 >>463 の表、及び今まで掲げた表の内容から考えて、2倍、3倍暦等
でのものが正解だと思いますなぁ。ただ、それがしの説も修正の可能性は当然
あるやも知れません。>>470 の数字はおそらくこれが正ではないかな?との
今の段階で主張している内容です。貴女の正しい批判で一度は修正しました。
感謝しておりますし、>>470 の数字はそれがしと貴女の合作的数表と言って
過言ではありません。とにかくおかしければ指摘願います。その場合は
さらに再考しますからよろしく・・・。


482 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 16:39:36
わかりやすいわかりにくいは決定的なものにはならないと思うけどな。

483 :太国:2006/05/09(火) 16:45:19
>>482
それでは >>457 の表の、オール左で傾いている数字の理由は何なんだね?
なぜなんだい? それを聞きたいものだよ。

484 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:02:40
>>483
そこに欠史八代の年代を出されてもね。
欠史八代の時代と研究家さんの主張するプラスマイナス120年構想で操作されてる年代はイコールなの?
欠史八代の時代はプラスマイナス120年構想で操作されてる年代より以前であり影響を受けてないと思ってたんだが違うのかな?

485 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 17:12:39
なんか483のレスに引っ張られて変なレスになった。
欠史八代に関しては(場合によってはそれ以降、どこまでかは知らんが)2倍歴だった可能性があるというのは別に反論しないよ。
同時代記録周辺の問題に関しては疑問な点も多いけどね。

オレが言ってるのは書紀をただ読んでるだけではプラスマイナス120年構想も2倍歴3倍歴混在もどちらも一読してわかるようなものじゃないということ。
乱暴な言い方をすれば両方ともわかりづらいという点においては同じということ。

486 :太国:2006/05/09(火) 17:13:52
>>484
研究での主張が各々違うんだから、一緒、同じになることは偶然以外はありえ
ないですよ。合作と言ったのは、彼女にそれがしへの明白な間違いを指摘されて、
なるほどと思い修正すべき方向に行き、これだとおかしな個所が無いだろうと
出した結論が >>470 の数字なわけですよ。

それで、さっきの >>457 の表の全部左に数字が寄っているのは2倍暦等でない
としたら、何なの? どういうふうに説明できるんですか?

487 :太国:2006/05/09(火) 17:16:48
>>485
簡単ですよ。ある、これだと思われる年から、1/2とか1/3とかに詰めていけば
いいだけのことですよ。彼女のよりも易しいと思いますがねぇ?

488 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 19:01:14
>>487
でもそんなのは、紀年法研究家さんのように、
画期的なんて評価は得ないだろうね。


489 :太国:2006/05/09(火) 19:08:44
>>488
画期的評価なら、臥海の定説にまで引っ張られて新聞をかざるよ。

490 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 19:29:48
>>489
つーか、おまえ一日中このスレにへばりついてるんなら、
何か画期的な研究してみれや、カスが。

491 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/09(火) 19:33:07
>>481>>483>>486>>487太国さん
>>482さんがおっしゃられるように、わかりやすいか否かは関係ありません。
学問的に大切なことは、説が正しいか否かですので。
太国さんは、「プラス・マイナス120年構想」の多列・並列構造のところで、
すでに、小難しいとおっしゃられておられるのなら、崇神元(91)年から応神元(390)
年までの間に築かれている「天皇即位=立太子構想」、さらには欠史八代に設定されている構想
にいたっては、ちんぷんかんぷんでしょう。
太国さんも、世の中には複雑な構造のものがあることを、ご理解なさるべきであると思います。
また、私も、せっかく日本書紀紀年法の構造を解明いたしましたのに、
なぜ、新聞が記事にしてくださらないのか不思議に思っています。
新聞社の方々は、太国さんのように、私の説を理解されていないのではないかと
心配しております。

492 :太国:2006/05/09(火) 20:00:05
>>491
わかりにくいなら、住民が使う事の出来ない暦になって住民が困ってしまい
ますよ。だから、貴女は自語相違だと言っているわけですよ。

493 :太国:2006/05/09(火) 20:03:19
>>490
お前に言われなくても研究室で研究に励んでるよ。
笑わせるな。w

494 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 20:03:57
倉西説はよくあるトンデモだから

495 :太国:2006/05/09(火) 20:09:10
>>491
ほら〜、貴女に対して >>494さんが批判をしてきてますよ。
貴女が女性だから 成務=卑弥呼 などと主張しても、遠慮して黙って
いたんですよ。これがみどものような野郎だったら、手厳しくデムパ
扱いをされてうんと嘲笑されますよ。ブレーキを忘れてはなりませんな。

496 :助太刀のいらつめ:2006/05/09(火) 20:28:14
>>494さん
 トンデモ説とは、何らの根拠もなく、筆者の主観のみに頼って提示さ
れたような説のことを申すものです。しかるに、倉西説は、江戸時代以
来の紀年法研究をも踏まえて、国内外の文献資料や数式に基づきまして
日本書紀の紀年構造を明らかにしたものでありまして、決してトンデモ
説に分類されるような学説ではありません。
トンデモ説であるなんて、とんでもない!と妹のいらつめから申しあげ
る次第です。

497 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 20:34:27
>>493
>研究室で研究に励んでるよ。

初歩的質問にふらついてるお前が?www
このスレで何回訂正してんだよwww

498 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 20:38:24
>>493
研究室って自宅の一室かい?w
そういうのを引きこもりって言うのだよw

499 :太国:2006/05/09(火) 20:40:54
下記的w?研究だとさ。余はとっくにやってるよ。見損なうな。www

 丸秘

500 :太国:2006/05/09(火) 20:43:16
>>496 助太刀のいらつめさん
貴女(女性ですな?)も 成務=卑弥呼 を信じているのですか?

501 :太国:2006/05/09(火) 20:45:18
>.497
だから、数えろ。うぬもその質問は2回目だろう。何回聴くんだ?www

502 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:20:43
>>501
数えたよ。
8回…プッ

503 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:40:45
>>500
卑弥呼が誰か分かったら大ニュースなんだよ、ハゲ!

504 :太国:2006/05/09(火) 21:56:41
>>503
じゃぁ、卑弥呼は誰なんだ?
>>502
余に何回敗論したんだ?アンコール・倭ッ都か?www 須弥山か?w
それより、お前様も枝葉末節のことばかり強調する暇があるんなら、紀年の本題
について説明でもやれ!

505 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:10:28
>>504
君に敗退したやつなんていないよ。
君の暇さ加減にみんなあきれてるだけ。
一日中、PCの前にいるやつを相手にできないからねw

506 :太国:2006/05/09(火) 22:14:32
>>505
1日中だと?ならばお前は、なおPCに貼り付けだということか?www
それより、紀年について書き込め。何も論なしか〜?倍4でもいいぞう。www

507 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:17:45
太国。
狂って行く自分に気がつけよ。
手遅れになるぞ。

508 :日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:20:06
>>506
煽りに構って無駄なレス増やすなよ。
スルーしとけ。

509 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/09(火) 22:23:50
あ〜ぁ、また荒れてる…

みんなひどいじゃないか!
大国兄さんの事を、
一日中、研究室にこもってる提灯アンコウだとか、
引きこもりの禿げた鬼オコゼだとか…(涙

ん?
だれも言ってない?
失礼しました。

510 :太国:2006/05/09(火) 22:39:46
>>507 >>508 忠告感謝!
以下は仲哀世の紀の日付の統計だ。参考にされたい。ここで丸数字は旅行の記事
である。14日前にも旅行の記事は勿論あるが、印象を強くするため、15日以降は
このようにした。( )は閏月での日の数字である。

1日 1    11日 2    21日 @
2日      12日      22日 @
3日 2    13日      23日
4日 1(1) 14日 1    24日
5日 4    15日 @    25日 @
6日 2    16日      26日
7日      17日 @    27日
8日      18日      28日
9日      19日      29日
10日 2    20日 @     30日

上表を見ると、15〜30日までのは総て旅行の関係記事である。このように
長期旅行とかで連続で、次のそのまた次の月々へまたがっていくことから、
先述の5月等の欠落からの後の月への飛ばし記述は、後世の誤解が多くなり
すぎるとかの懸念からこれを取りやめ、次の月回しになる日付を当月扱いの
殆ど使用しない月後半の数字を使用、採用して記述をしたと推量している。

511 :494:2006/05/09(火) 22:59:29
>496
トンデモ説の定義は
「筆者の主観のみに頼って提示されたような」
という、あなたの考えに同意します。


512 :494:2006/05/09(火) 23:05:55
倉西説の主観が大きく反映されるのは儀鳳暦以前の紀年なんだよ
わかるかな?

513 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 09:24:57
>>492太国さん
紀年法と暦法は違います。太国さんは、紀年法と暦法を混同されていると思います。
『日本書紀』に用いられている暦法は、元嘉暦と儀鳳暦です。
元嘉暦は、雄略元(457)年以降、実際に用いられていた可能性があります。
儀鳳暦は持統四年以降、元嘉暦と併用して実際に用いられたと考えられます。
神武元年〜安康三年までは儀鳳暦で暦日が記載されてはいますが、
儀鳳暦は、7世紀に成立した暦法ですので、実際には用いられていたわけではありません。
457年以前については、暦法が用いられていたのか、否かも含めて、わかっていません。
日本書紀紀年法は、編年の構造問題ですので、暦法とはリンケージしません。
多列・並列構造は、紀年法であって暦法ではありません。

514 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 09:39:07
>>494>>512さん
私の説をとんでも説とおっしゃられるのであれば、>>1で述べました以下の式を、
ご自分で計算なされたらよいと思います。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

私の多列・並列構造説を、私の氏姓を以って「倉西説」と命名してくださって光栄に存じますが、
これらの式を計算していただけましたなら、494さんは、倉西説が、数学的に成り立っていることを
きっと認めてくださるでしょう。
また、>>512につきましては、494さんのおっしゃられる「儀鳳暦以前の紀年」とは、
持統四年以前の紀年ということでしょうか。

515 :助太刀のいらつめ:2006/05/10(水) 09:51:29
>>500の太国さん
 私は、日本古代史の専門家ではありませんし、ましてや、日本書紀の紀年法
によく通じているわけでもありません。しかしながら、紀年の構造を並列構造
と捉えますと、これまで指摘されてまいりました日本書紀の記述の矛盾点の幾
つかを氷解することができる、ということは、認めざるをえないように思われ
るのです。つまるところ、この仮説には、説明力と解決力がありましたので、微力ながら
助太刀をいたしたのです。もちろん、反証される可能性もありますが、学説と
して、真剣に議論してしかるべきものと思うのです。
 さて、ご質問の成務天皇=卑弥呼説への私なりの返答ですが、紀年の構造
上においてこのような捉え方は、むげには否定できないものと思います。その
一方で、古代の政治のあり方を見てみますと、祭政分離の形態や複数の王家を
もつ形態、さらには共同統治など、様々な形態を見出すことが出来ます。統治
の形態について近代以降の固定観念にとらわれていますと、古代の政治の本当
の姿は見失われてしまうのではないか、と危惧されるのです。仮に、複数の人
物が統治に携わっていたと想定しますと、成務天皇の事跡には、複数の人物の
行為が含まれているかも知れません。日本古代の統治形態の研究がすすんでこ
そ、様々な疑問が解けてくるのではないか、と考えられるのですが、いかがで
しょうか。


516 :太国:2006/05/10(水) 09:55:35
>>513 >>514
まあ、いずれにしろ他列・並列では当時の住民も現代の住民も理解がストレート
にいかぬ代物ではないですか?それこそ実用に不向きであり、どちらの住民も
使おうとはしないでしょうよ。もっとも貴女と学界は使うでしょうがね。w
つまり、貴女は住民に伝達しにくいものを編纂者側が構想をねっていたという
ことになり、2倍、3倍暦よりも小難しく自語相違しているということです。

517 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 10:00:10
>>510太国さん
仲哀紀に下旬の記述が多いことを、長期旅行で説明することには、あまりに無理があると思います。
長期旅行(親征)は、仲哀天皇に限ったことではなく、景行紀や神功紀などにも見られます。
反証や反例が出てまいりますと、恣意的改月や旅行など、すべて
主観的に辻褄を合わせようとなさる太国さんは、そのうち、三倍暦どころか、
何倍暦でも成り立つと主張なさるのではないでしょうか。

518 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 10:08:20
>>516太国さん
>>513をよく読んでいただきたいと思います。
倉西説の多列・並列構造は、暦法ではありませんので、実用されていたわけではありません。
『日本書紀』の編纂段階で、4世紀末から5世紀にかけての歴史的経緯を、
多列・並列構造において表現すれば、よく歴史的状況を伝えることができるとする判断から
このような構造が、設定されることになったと考えることができます。


519 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 10:11:13
>>518にて、「実用されていたわけではありません」と述べましたが、
年の表現として実用されていたとも考えることができますので、
お詫びして訂正いたします。

520 :太国:2006/05/10(水) 10:12:50
>>515 助太刀のいらつめさん
成務=卑弥呼 などというのは 神武=崇神=應神 とか、未来に必ず現れると
思ってしまうデムパどもの 平成=平城 を主張しているのとおおむね同類で
あり、厳しく相容れぬものの最たるものだと言っても過言ではありませんよ。
こんな説を主張するということは、日本書紀紀年法研究家さんの論理がどこかで
狂いが生じているからであり、ブレーキをかけずにあの方はアクセルのみ
に終始して行っているんですよ。こういう発想を頭に思い浮かべたならば、ああ
これはそれまでの論理のどこかに失敗があるんだと覚って引返しをしないと、
もうおじゃんですよ。行き着く所まで行き着いて、最後まで正論だと強く思考
して、失敗しているのに後(バック・ミラー)を振りかえよう見ようなどと
しなくなってしまうんですよ。まことにこれでは頭を検査してもらわなければ
ならず、重症に近いようだと危惧しているところです。
それがしも、過去にこんな大失敗をして反省してるんですよ。あの人を今のうち
に手を打たないと、死ぬまでこんなイコール論に齧りついて the end でっす。

521 :太国:2006/05/10(水) 11:36:03
>>517
景行紀だって、月後半の記述は旅行関係の記事のときですよ。調べてごらん
なさい。神功紀だって崩御関係以外(記述は少ないですが→)旅行のときです。
そのホムダワケ命の角鹿関連記事は2/17で、やはり月後半は旅行の記述です。
論より文証です。

522 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 12:55:04
>>521太国さん
崇神十年10月22日、崇神十一年4月28日は、どのようにご説明なさいますか。
崇神天皇は、ご旅行におでかけしてはおりません。

523 :反論するいらつめ:2006/05/10(水) 13:18:08
>>520の太国さん
 確かに、同一人物説と申しますものは、えてして、まゆつばな説が多い
ものです。しかしながら、倉西説が主張しております同一人物説とは、
=で結ばれる完全なる人物の一致、というよりも、ある天皇の記事
の中には、別の人物の事績が含まれている、もしくは、投影している
可能性がある、ということなのです。いわば、部分的な重なりがある、
とでも申したほうが、適切であるかもしれません。むしろ、太国さんの
かたくなな否定の態度のほうが、心配になってしまいます。

524 :太国:2006/05/10(水) 14:48:36
>>522 日本書紀紀年法研究家さん
貴女はすーぐ、狭小解釈しておとぼけじゃないの?
旅行という意味は遠方に行ったり帰ってきたりを含んで言っているんですよ。
その二つとも遠方に行き帰りの関連記事じゃぁありませんか。10/22は四道将軍
を遠方へ派遣する記事であり、なにも遊覧に行くわけではなくても旅じゃぁ
ありませんか。ついで4/28の記事だって、蝦夷をやつけた旅から帰ってきて
その話を天皇に説明したわけで旅と一連不可分の記事であります。貴女の指摘は
いよいよ私論を裏づけたことになりましたよ。やはり当時2倍、3倍暦をやって
いたとの感をますます深くしましたな。

525 :太国:2006/05/10(水) 14:59:50
>>523 反論するいらつめさん
学界て答弁するくらいの方々が、そんなファンタジックなことを肯定してるよう
ではあきまへんよ。そんなんならどんな記事でも、誰かさんが主張すればOKで
どんな論理でもまかり通ってしまい境がつきません。何でも成立する玉虫色解釈
の説明で、きわめて流動的過ぎます。学説を論じる場では、そういう「不史議の
国のアリス」のような研究のやり方で、これにに酔っていては困りましたなぁ〜
との苦情を言うべきものですよ。学界は投影映画じゃぁありませんから〜。

526 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 15:48:36
>>524太国さん
下旬の日付の記事は、四道将軍に関連しておりますが、崇神天皇ご自身は、
一歩も大和から動いておりません。すなわち、天皇の旅行中には、
改月が行われないという太国さんのお説は成り立ちません。

527 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 15:51:05
>>525太国さん
反論するいらつめは、私の妹です。私と混同しないでいただきたいと思います。


528 :反論するいらつめ:2006/05/10(水) 16:08:09
>>525の太国さん
 学説として重要なこととは、その説を用いることによりまして、これまで
解くことができなかった疑問や矛盾を説明できる、ということであると思い
ます。姉の説であります多列並列構造を前提としまして、日本書紀を読み直
してみますと、何故歴代天皇が人並みはずれて長寿であったり、系譜の混乱
が生じているのか、理解することが出来るのです。従いまして、「何でも成
立する」玉虫色の説明でも、流動的でもなく、内外史料に基づいて算定され
た基準年を持つ複数の年代列によって固定された、きわめて明晰な学説であ
ると言えるのではないでしょうか。「不思議の国のアリス」の作者の本
業は、なんと、数学者であったように・・・!


529 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/10(水) 18:04:56
>>525
大国兄さん…
また不思議の国のアリスを持ち出したんだね…
前回のように、有素や有栖でなく、
今度はちゃんとカタカナでアリスと書いてくれてたんだね…(涙

やれば出来るんじゃないか、兄さん!(号泣…

でも不思議が「不史議」になってるね。
本当に兄さんは不思議な人だ…(涙


530 :太国:2006/05/10(水) 18:11:39
>>526 >>527 日本書紀紀年法研究家さん
それがしは貴女の妹君と混同はしていません。初めて話し合うので、女性か否か
を念のためうかがった次第です。
貴女は逃げ口上に終始していて、呆れるばかりです。天皇は四道将軍に特務を
帯びさせて外来を行わせたわけですから、事は重大です。当然天皇の手足に相当
する役割です。天皇の行幸に準じているものであり、天皇ご自身に限定しての
解釈に絞るのは貴女の恣意的な意見ですよ。
>>528 反論するいらつめさん
2倍、3倍暦だって古代天皇や武内縮年の人並みはずれた長寿を見事に説明でき
ますよ。>>457 または >>463 の、欠史八代の記事のほぼ全部左寄りなのを
貴女は何と説明されるのですか?

531 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 18:51:09
太国ってさぁ。
例えばピカソの「泣く女」や「ゲルニカ」を見て、
目と鼻の位置が変だ!って延々と言うタイプ?

532 :太国:2006/05/10(水) 19:22:18
>>531さん どうも〜
あの〜延々と言いたくないのですが、彼女の論のとりわけまずい点を指摘して
るんですが、覚醒しないんでその回数が多くなってしまってるんです。

533 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:06:35
>>532
君は一言も二言も多いんだよ。
紀年法と暦法は違うと何度も言っておられる。
君が理解出来ないだけだろうが。

534 :太国:2006/05/10(水) 20:43:56
>>533
何度だ?

535 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:54:31
>>525
>学界は投影映画じゃぁありませんから〜。

投影ってまた変換ミス?
まぁいいけど、君は何学会所属の人?

536 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 21:04:54
>>529国太さん
私も、太国さんは、不思議な方であると思います。
太国さんには、私の現実的で合理的な説が、不思議の国のアリスの世界に見えてしまうようなのです。
国太さんは、心やさしい弟さんでいらっしゃるようですので、
時には厳しく、お兄様を導いてくださいませ。


537 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 21:11:45
>>530太国さん
朝廷には、通常、武官と文官がおります。将軍として地方に派遣されるのは武官です。
暦法などを担当したのは文官ですので、朝廷には、崇神天皇と文官が残っていたはずです。
崇神紀に見える下旬の日付があることを説明するための太国さんの仮説は、あまりに屁理屈
であると思います。
また、もう一度言わせていただきますと、暦法と紀年法は違います。

538 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 21:17:33
>>531さん
私も、そのように思います。
「プラス・マイナス120年構想」は、その構造がわかれば、
決して難しいものではなく、理解しやすいものです。
531さんがおっしゃられるように、「泣く女」や「ゲルニカ」の目と鼻の位置が、
なぜ、あのようになっているのか、その理論がわかれば、
ピカソの絵が理解できることに似ているとも言えるでしょう。

539 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/10(水) 21:25:14
>>533さん
533さんが、おっしゃられるように、太国さんが、暦法と紀年法との違いを
理解されていないのが問題なのです。
『日本書紀』に用いられている暦法は、元嘉暦と儀鳳暦であり、
紀年法は、日本書紀紀年法となるのです。
太国さんのおっしゃるように、二倍暦や三倍暦があったのならば、
なぜ、それをそのまま用いず、元嘉暦と儀鳳暦で暦日を記載したのでしょうか。

540 :太国:2006/05/11(木) 08:30:58
日本書紀紀年法研究家さん
>>533 はあっしのは一言二言多いそうだが、貴女の何度も言うことは多言回数
でも一言二言多くないそうなんだ?と首をかしげる論法なんですよ。また同じ
ことをあいつが言ってきたら、これは2回目だから「お前も二言目で多くなって
きたろうが」と言ってやりますよ。>>539 最下段 こっちが貴女に聞きたい位
ですよ。だいたいそんな二つの暦法を使えば編纂当時の住民には分かりずらく
不便このうえもないやり方ではないですか、だからそれを貴女に逆に聞いて
いるんですよ。二倍暦や三倍暦があったのならとか書き込んでいますが、
貴女の説によるところの等倍暦のみであったとしても?なぜ、そのまま用いず
その二つの難しい暦で暦日を記載したのか?という疑問ですよ。
だって、そうならば当時の紀を見て読む住民が不便で困る迷惑行為だし、現代
の日本国民も面倒臭くて分かりにくいわけで、貴女は私論の暦法を当時やって
いたことを住民に不行き届きで不便迷惑この上ない旨突いていましたが、これは
貴女の説でも言えることで自語相違的矛盾に満ちた論としか言えません。
貴女は武官文官とか理屈をつけていますが、こんなのは貴女の逃げ皇女なる論説
で朝廷は「貴女、文官のみでも暦法はやれます。」と呆れるに違いありません。

541 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/11(木) 09:46:33
>>540太国さん
私は、雄略元(457)年以降は、実用としては朝廷では元嘉暦が用いられていたのではないかと
考えております。
したがいまして、457年以前において、実用としての暦法があったのか否かが、
問題としてあります。研究史上、この問題に論理性と蓋然性が認められるような仮説は提起されておりません。
『日本書紀』の暦法が、元嘉暦と儀鳳暦によって構成されていることは、戦後になってから
ようやく判明しましたので、研究史が浅いのです。
二倍暦説や三倍暦説は、これを説明する一説のようでしたので、太国さんの説も含めて私も興味を持ちました。
しかしながら、太国さんのお説を拝読させていただいておりますと、どうも矛盾に満ちています。
友田吉之助氏などが唱える四分暦があったとする説のほうが、まだ、説明力があるのではないかと、
現在では考えております。
ちなみに、三倍暦ですと武内宿禰の享年のおよそ300歳という享年を説明することはできますが、
反対に、日本武尊の享年は10歳になってしまいます。

542 :太国:2006/05/11(木) 10:18:28
>>541 日本書紀紀年法研究家さん
日本武尊は天皇ではないので、記録が何か別ので独立していたかもしれませんよ。
そのままでは貴女のいうとおりですが、他はスムーズに説明できており、それ
のみ不釣合いだということは、天皇でない関係上、記録が不鮮明だとか独り歩き
的もので、紀の編纂時にわからずじまいで他の記録と合同記載により矛盾が出た
のではないかと思考しております。なお蝦夷とかの戦地に行くときは、7,8歳
くらいでもおかしくはないと思います。江戸城を築いたのは太田道灌という話
ですが、現実を突き詰め作ったのは当時の左官屋さん関係ということになります。
それと同様で、小学生1、2年生位の歳でも下の成人の家来が取り仕切って
連れて行かれて、それら家来が戦っているわけであり、中心人物がものを言える
5歳位の幼少でも天皇に復奏の際は家来に助言させて説明すればいいことであり、
こういうんならばおかしくはありません。実際、安徳天皇などが似た例です。
10歳以下でも、家来の付き添いさえいれば、今説明した戦争も伊勢参宮も説明は
可能ですし、オオウスとの葛藤も陰に家来の積極的かかわりがあれば説明に
なると思います。これは断定ではありません。しかしそういう事は言いえます。
現代的風習とかを捨てて考えるべきです。今は成人は20歳からですが、当時は
もう10〜15歳で成人でしょうし、子供も早くできているでしょう。
貴女は4分暦(可能性はあるでしょう)を提出してますが、3分暦だと1年が
120日で貴女の主張する120年と数字が合うわけですし、あとは閏で間に合わせ
られるということから、貴女の大好きな干支にも合致し纖緯説にも近くなり、
存在理由があったということになり、まことに好都合ではないでしょうか?w

543 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 11:35:26
ちょっと燃料投下(燃料にならないかもしれないけどw)

懿徳紀にありえない干支の記載がある。
それは元年九月の記事の丙子朔戊寅という日付。
朔が丙子で乙丑ということは49日ということになるから。
しかしその前月に注目してみると面白いことがわかる。
その前月に安寧天皇が陵に葬りまつられたという記事があるが、それが秋八月丙午朔。
丙午から丙子までは30日だが、丙午から乙丑まで19日しかないのだ。
ということは……




ただし同じ威徳紀の2年の記事に春正月甲戌朔戊寅と二月癸卯朔癸丑の二つの日付があり、こちらはちゃんと30日ある。
全体の整合性に関してよく検証はしてないが元年九月の日付はどこかで誤記があったのだろうね。

以上、もしかしたら干支に関する計算ミスで1くらいの誤差があるかもしれんが勘弁ね。

544 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 11:49:46
丙子の13日後に己丑があるからこれの誤記かな?

545 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/11(木) 12:42:33
>>542太国さん
私の専門は、日本書紀紀年法ですので、研究領域は「年」の構成法であると言えます。
四分暦とは、1年を四等分する暦ではありません。
四分暦は、干支紀年法とはリンケージしているようですので、私は興味を持っています。
ただし、四分暦が実用されていたのかどうかは、まだはっきりしていないのです。
また、「天皇」の年齢が低い場合があったのではないかと、私も考えております。
しかしながら、日本武尊は、仲哀天皇の父、すなわち、天皇の父ですので、
日本武尊のみ別の史書を参照したというお考えには同意できません。
それならば、臣下の武内宿禰のほうが、よほど、別の史料を参照したと考えられるでしょう。

546 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:54:56
>>545
日本武尊の事績こそ複数の人物のモノが反映されてるといわれてる人物。
だから書紀などの元史料と同一視できないというのは一理ある。
ただしそうすると景行紀の日本武尊関連の日付だけは2倍歴3倍歴の影響を受けてないという論になり、ちょっとご都合主義の謗りは免れない気もするけどね。

547 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/11(木) 12:59:21
>>543さん
興味深いご指摘であると思います。『日本書紀』の編纂過程において、
暦日がどのようにして決められていったのかを解くヒントとなるかもしれません。
543さんは、「乙丑」を「戊寅」と誤記なさっておられるようですが、
8月条に記載すべき記事を、9月条に記載したのでしょうか。
もしかしましたならば、どのような暦法が用いられていたかはわかりませんが、
干支表記された暦日が、記録されてあったのか、もしくは、決められたのではないかと、
推論することができます。

548 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:02:44
>>547
いや「乙丑」は「己丑」の誤記じゃないかと。
単に字形が似てるというだけですけど、前者だと当該日は49日だが、後者だとは14日になる。

549 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:13:19
あ、
> それは元年九月の記事の丙子朔戊寅という日付。
これのことかw
その通り、「戊寅」→「乙丑」です。すいません。

つまり八月は30日を待たず改月されてる。
朔表記を後世の付け足しと見れば、後世の改竄する際に見落とされた月15日制の名残りと見ることが出来る可能性がほんのわずかばかりあるのではなかろうか?
という与太話です。
何しろ2年の記事では春正月甲戌朔戊寅と二月癸卯朔癸丑の日数はちゃんと36日ですから。

550 :太国:2006/05/11(木) 14:56:52
>>545 日本書紀紀年法研究家さん
確かに、武内縮年をさしおいて日本武尊を別にするのは同意できないと言われ
るのはごもっともですが、何らかの理由で、景行天皇と日本武尊とは仲が悪かっ
た、というよりも、景行天皇かその親密なる取り巻きの中に幼少の日本武尊を
毛嫌いしていた面々がいて、次期即位の利害関係とかで葬りたい族がいたんでは
ありませんか?なにも幼少のの日本武尊を蝦夷等の辺地に追いやりたい意向が、
直接ではないですが記紀の記述から何かしら感じるのです。幾回も戦地に向かわ
せて死ねばしめたものだとかいう考えの奴が当時の朝廷の中に一部いたんでは
ないのか?と考えております。それはとたんに理由もなくバッサリでは悪が明白
で、そういうことはさすがに良くないから差し控えたんでしょうが、帰るのも
難しくなる辺境で蛮族にしてやられればこっちのものだとかの狡猾な考えで、
日本武尊を数回遠方へ旅立たせたのではないでしょうか?
こう考えますと、徳川幕府の譜代大名扱いだったのか武内縮年であり、日本武尊
は親藩大名のはずが嫌われ者の隠しレッテルでの遠方に行かす外様扱いの人物
だったということですよ。だからこの場合は武内縮年を指摘し、て日本武尊の
選択での別暦法の主張をご都合だとかで批評する必要はないと考えます。それに
小碓命の名を想い巡らすとき。「碓」は「臼」の意味であり、「臼」は「日」の
字を上から潰して破損した形状の文字であります。すなわち暦法の基底にあたる
「日」の押しつぶしの「臼」字の形の意味からして「日」字の2分割の黙示とも
見られ、開化、大日日尊の2倍の「日」と対照的であり、「日」の2分の1とは
結局、小臼なる小碓命は等倍とかの逆計算にしろとかの示唆にも感じるのです。

551 :太国:2006/05/11(木) 15:07:00
>>542 訂正  3分暦→3倍暦

552 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/11(木) 16:02:05
>>546さん
私も日本武尊には、それぞれ別の時代の人物像が投影されていると考えております。

また、太国さんは、下旬の暦日については、景行紀は別史料、崇神紀は旅行中といったぐあいに、
いかようにも屁理屈を考え出して説明しようとされておられるようですので、
546さんがおっしゃられるように、私も、太国さんの二倍暦・三倍暦説はご都合主義であると思います。

553 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/11(木) 16:17:59
>>549さん
「乙丑」問題を、月15日制の名残と見ることは、少し難しい気がいたします。

554 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/11(木) 16:24:49
>>550太国さん
遣唐使が、しばしば、日本武尊の状況と同じような状況が想定されていたことを踏まえますと、
たしかに景行天皇と日本武尊が険悪であった可能性はあります。
当時、難船する可能性が、たいへん高かったからです。
しかしながら、「臼」については、疑問です。
日本武尊について「臼」は日を崩した文字であるとのお説ですが、
それでは、「日本武尊」に「日」が含まれており、あたかも、「日」を
象徴しているかのような御名となっているのは、なぜでしょうか。

555 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 16:35:10
臼は象形。臼の形をかたどったもの。日とは関係ありません。
また日の字をあるをもって何らかの暦法と絡めるのは飛躍がありすぎです。
しかも小碓命であり小臼命ではありません。
太国さんはすべての犬が灰色に見える状態にあるとしか思えません。

556 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/11(木) 18:33:54
兄さん…
母さんから聞いたけど、研究家さんとの論争での、兄さんの基本戦略はこうだろ?

@出来るだけ多言、多レスにして、ボクシングで言うラッキーパンチを狙う。
A「不思議の国の有素」など、意味不明の言葉を連呼し、研究家さんを困惑させる。
B「ですな〜w」などを多用し、心に余裕があるように見せかけ、
 研究家さんと自分の知識が同等との印象を全国の皆さんに与える。
C頃合を見て、「この論争、そろそろ終わりにしたら?」との善意の第三者の登場を待つ。

兄さん…
特にCは日露戦争のポーツマス条約じやないんだからね(涙

557 :太国:2006/05/11(木) 19:14:38
>>554
若日本根子彦大日日尊にも、それは日本の字がついてますよ。それは日本国の
意味でしょう。日本武尊は小碓命の名と違い、賊が畏まって名付けを勧めたん
でしょう。天皇名とは名付け方が違うものです。
>>555
そのとおり、飛躍の感は拭えませんが、よもや?と思って参考にしてもらう為
の話です。決して、それが真とは決め付けておりませんので・・・。はいっ。

558 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 03:04:46
【買ってはいけない】日本史の悪書
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1107181175/

559 :太国:2006/05/12(金) 07:40:20
>>510 続き
次は、仲哀世の日付の旬表である。以下のとおり

1月 上旬 中旬 下旬
2月 上旬    下旬
3月 上旬 中旬 下旬
4月 上旬
5月
6月 上旬
7月 上旬
8月
9月 上旬
10月 上旬
11月         (閏11月 上旬)
12月    中旬

この表を見ても、また5月が無い。今まででも紀の記述は6月の少ないことを
説明したが、ここではあるにはある。調べてみたらなんと天皇の行幸中、つまり
旅行中の日付の記述であった。やはり何らかの理由があるようだ。
旅行中でも6月はいいとして5月は避けたのか? 皇后の旅行中でも、各月に
跨っておっても5月は無いのである。ここに当時の頃の暦法の秘密が見え隠れ
しているようである。まさに氷山の一角がみえてるように・・・。
どうやら2倍暦か3倍暦を使っていたと思える。まあ3倍暦のほうであろう。

560 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 08:16:06
>>510,559
日本語でおk……って煽りのレスは置いといて正直なにが言いたいのかわかんねえ。

あと直接は関係ないかもしれないがこれまでのあなたの主張を聞く限り2倍歴3倍歴で閏月なんてあらわれるとも思えんのだが?
今再びどういうモデルを想定しているのか改めて提示してほしい。
1年をどう設定していたのか?とか1年は何日なのか?とかその辺をきっちりと。

561 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 08:22:12
>>555さん
太国さんの「臼」説に反論していただきまして、ありがたく思います。
>>554にて、「臼」の問題について、太国さんに質問させていただきましたが、
まともな回答は期待できませんでしたので。
>>557にて、太国さんは、「臼」説がいいかげんであることを、
ご自身でお認めになっているようですね。

562 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 08:28:50
>>556国太さん
太国さんの基本戦略は、@〜Cのようなものであったのですね。
さすが弟さんは、お兄様のことをよくご存知なのですね。
太国さんには、二倍暦・三倍暦説にも基本的論理構成というものを
設定していただきたいと思います。

563 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 08:40:39
>>557太国さん
>>554にて、太国さんの「臼」説と日本武尊の「日」の文字があることの2点を
質問させていただきましたが、「臼」説については、>>555さんからのご質問に
対して>>557にて回答しておられるように、いいかげんな思いつきということで、
よろしいわけですね。
そして、日本武尊については、天皇名とは名づけ方が違うとおっしゃいますが、
日本武尊は景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父です。例えば、淳仁天皇は、
七五八(天平宝字二)年に、父の草壁皇子に「岡宮御宇天皇」という尊号を
贈っています。天皇の父は、天皇に準じるような立場と認識されていたと
考えられます。名づけ方に違いは無いと思います。


564 :太国:2006/05/12(金) 09:01:06
>>560
閏〜? そこまで分かれば苦労はしないよ。w
どんな暦だって半端がでるんだ。今の暦だってそうだ。
マヤのハアブ暦だって、連中はいやがってワイェブとかの余りの日で付け足し
ているんだ。どの暦法だって苦労してるだろ。

565 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 09:01:51
>>558さん
さまざまな理由から、【買ってはいけない】日本史の悪書というものがあるのですね。
さいわい私の本は、いずれも悪書には入っていないようで、ほっとしています。
私には、何の背景もありませんし、こつこつと研究して、論理的、合理的に
かなり蓋然性が高く説得力があると考えた仮説を提起させていただいているだけですので、
どうぞ、皆様、ご安心して一読していただきたいと思います。

566 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 09:06:24
>>560さん
太国さんには、何度も、二倍暦・三倍暦説の根拠となる理論を提示してくださいと
お願いしておりますが、なかなかお答えになっていただけません。
基本戦略というものを用いて、この点にかんしての議論を避けているようなのです。

567 :太国:2006/05/12(金) 09:08:55
>>563 日本書紀紀年法研究家さん
名前の付け方は同等ではないですよ。貴女はス〜ぐイコールとせねば
承知しない女性なんですか?人だけでなく人の名前の付け方まで
イコールでは非常にまず〜いです。困りましたなぁ〜。
120年どうのこうのとかいう貴女のお説は、編纂者側の構想というより、
貴女の恣意的構想だということがイコール多用論からさらにそうだと
想ってしまいます。

568 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 09:12:34
>>564太国さん
おそらく、太国さんの現研究段階は、『日本書紀』の暦日には、上旬の日付が
多い傾向にあるから、二倍暦や三倍暦が用いられていた可能性があるという
認識に留まっておられるのではないでしょうか。
次の段階、すなわち、それでは、二倍暦や三倍暦はどのような理論によって
構想、構築されているのか、といった点までは及んでいないのではないかと
思います。
次の段階に進むために、太国さんは、まず、二倍暦や三倍暦が太陽暦であるのか
太陰暦であるのかなど、暦法の種類から調べてみてはいかがでしょうか。

569 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 09:15:01
>>564
2倍歴、3倍歴は何をもって1年としてるのか?という質問なんだけどな。
普通歴は公転周期をもって1年としており、公転周期は自転周期の整数倍ではないからずれが生じる。
だからそれを調整するために閏日が必要になるわけだ。
閏月もそうしたズレを調整する為のもの。

2倍歴や3倍歴は公転周期を意識したものなのか?
まずここのところをはっきりしてくれ。

570 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 09:23:33
>>567太国さん
名前の付け方が、地位の高低において左右されていたと私も思います。
日本武尊は景行天皇の皇子であり、『古事記』では「太子」と冠されており、
さらに、仲哀天皇の父君であるから、日本武尊は天皇に近い地位にあったと
考えられるのです。「准太上天皇」となりましょう。
したがいまして、「日本武尊」の「日本」には、それ相当の意味があったはずです。

571 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 09:31:28
>>568
そうなんですよね。
2倍歴はまだわからんでもないんですよ。
夏至と冬至、あるいは秋分と春分を起点とすると考えれば、それは公転周期と関わってくるわけで閏日、あるいは閏月が必要になってくるわけです。
では3倍歴はなにをもって起点とするのかまったく不明なんですね。

一方、私の理解では太国さんの主張する3倍歴は基本的に12(月)*10(日)という構成になっている。
しかし月が10日っていうのは月の動きからは導き出せない。
あくまで自転周期の積み重ねであり、公転周期とのズレなんて考慮する必要性がない。
それなのに太国さんが3倍歴であろうと推測している年代に閏月が出てくる。
これはなんでだ?ということなのです。
つまり私が太国さんの主張を誤解しているのか?それとも太国さんの主張が矛盾してるのか?
それがよくわからなくなったのでもう一度どのようなモデルを想定してるのか提示してくださいといってるのです。

572 :太国:2006/05/12(金) 09:32:01
>>568 日本書紀紀年法研究家さん
貴女は旧説ばかりを持ち出したいらしいですなぁ?拙者はこれの専門家
じゃあないんですよ。神武即位とか崇神即位が真にいつごろなのか?
という事に特に興味があるわけなんですよ。それにそういうことは拙者の
後釜がいずれは出てきてやるべきものでしょうよ。
貴女のいう120年云々説も、当時の編纂者連がいかようなわけで、そのよう
な構想でのイカサマ記述の日本書紀をせねばならなかったか?という、
明確な理由がハッキリ具体的にあったんだと指し示されれば〜、う〜ん
なぁ〜るほどこれだ!と納得しますよ。そういう前提が見当たない状態
の上に、かような構想を積み上げても、それは砂上の楼閣然であり、
一見120の数字でご立派に見えても、幻想以外の何者でもないことになっ
てしまうわけですよ。貴女は120年のどうのこうのとかいう数字の発見が
まるで黄金分割の数字のように、貴重な gold 塊を直視し獲得したように
考え、大発見のごとくこれが真だと考えたんでしょうが、それは誤認で
あり、実のところは黄銅鉱であったということですよ。それが今の今でも
貴女はそれを山吹色の金塊だと喜んでいるわけなんですよ。
残念ながら、それは真鍮のほうだったと、眼を覚ますべきです。

573 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/12(金) 09:46:35
>>572
太国兄さん…

>拙者はこれの専門家じゃあないんですよ。

結局、兄さんは何の専門家なんだい?
うぅ…(朝から号泣)

574 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 09:46:39
さらにくどくなります。
1年は公転周期、1日は自転周期、月は月の満ち欠け周期から成り立っています。
(現代では必ずしもその限りではないようですが)
で公転周期は自転周期の整数倍ではありませんし、月の満ち欠け周期の整数倍ではありません。
ですから毎年ズレが出てくるわけで、それを調整するために閏日や閏月が必要になってくるわけです。

しかし太国さんが主張してる三倍歴は

月の満ち欠け周期は考慮されておらず日数が経過すると不定期に改月され、その改月が12回行われると1年となる。→1年の日数は不定である。

と主張してると私には思われるわけです。
しかしこれですと、とても閏月がでてくる余地はないと思われるのです。
私の理解が違うのでしょうか?
違うのであればどこが違うのか指摘してください。

575 :太国:2006/05/12(金) 10:14:10
>>569 >>571 >>574
そんなに明確に分かれば、事は早急に解決できるまでは行かないが、えらく前進
した論述になることは確かだ。こっちは多用で、さっきも言ったとおりこれの
専門家ではないんだ。興味があるのは二度言うが神武即位が真にいつだったのか
とか、それに類することを知ることなのさ。だからあっしの説が信じないんで
ない限りだが、あんたらがやってくれてもいい。そんなことまで手が回らんの
だよ。質問されてくる気持ちは多いにわかるがね。w
然しながら、1年は365日余ということで、5日余は未消化の残留品なるも
(365+α)−(5+α)=360  として

  360÷3=120

120は日本書紀紀年法研究家さんの大好きな数字で、かつ那珂さんらの讖緯説
関連の数字であることからして、当時の世にこれを採用してたとしても何ら
おかしくはなく、認容できうる数字である。つまり、3倍暦説は連中らの説と
一脈あい通ずることになるもので存在理由があ〜る。
これでもって1年を120日でやって行くと、現今の1年になる3年分で 5+α
の日が不足する。だからいずれは積もり積もってくるから、10日でやったか14日
でやったか28日、30日でやったか知らないが、当時の1ヶ月に負の余りが到達
した時点ころに、閏月とかで埋め合わせれば、立派に暦の運用にはな〜る。


576 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 11:13:05
>>565
これまであなたの仮説に古代史研究家などからの反応が
無かった理由をどうお考えですか?

577 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/12(金) 11:20:59
>>575
兄さん…
そうすると、兄さんは今まで「専門外」の事をずっと質問してきたという事だよね。
自分が質問する時には専門外であっても質問し、
自分が質問されると専門外だよ、ではダブル・スタンダードなんじゃないの?

ごめんね、兄さん。
生意気な事を言って…(涙

578 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 11:40:25
>>575
そもそもなんで公転周期を3等分する必要があるの?
また公転周期が念頭にありながら公転周期を1年と数えないのか不思議。
宗教的な理由というのがあるかもしれないのでまったくありえないとは言わないけど疑問だらけ。

あと前の方で改月は天皇が行ったというようなレスがあり、太国さんは同調されてたように思ったがそれは私の勘違い?

それから神武紀には月の後半の日付が散見されるけどあれはどうなの?
いわゆる欠史八代じゃないんでこれまで質問してなかったけど。

579 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 12:48:52
>>571>>574>>578さん
私も、二倍暦であるのならば、まだ、ありえるかもしれないと考えております。
しかしながら、太国さんの三倍暦は、どうしても何を基準にして1年の日数が決められ、また、
改月されているのか、わかりません。この点、571さんと、同じように私も考えております。
太国さんは、120年×3=360を1年とお考えのようですが、
「120」年という数字は、じょう玄の『易緯』の註に拠る天数ですので、『易緯』の註が、
いつごろわが国に招来していたのかという問題に関連してくることになります。
太国さんは、西暦66年を神武元年とお考えのようですので、そのころに『易緯』が
招来していなければならないことになります。後漢のじょう玄の生没年は、
西暦127〜200年ですので、西暦66年から「120年」を重視して暦が
編まれたとは、考え難いのではないかと思います。

580 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 12:53:31
>>572>>575太国さん
>>579にても述べましたが、「120」という数字は、『易緯』の註で、
この註を著した後漢の大学者のじょう玄の生没年を踏まえますと、
西暦66年から、「120」という数字をもって編まれた三倍暦があったとは、
考えられません。

581 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 12:57:53
>>573国太さん
三倍暦説を唱えておられる太国さんが、暦法の専門家ではないとおっしゃられてしまっては、
困ります。
国太さんが、お兄様をご心配なさるのは、もっとものことと思います。

582 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 13:07:51
>>581
国太さんに言及するのはさすがにどうかと。
国太さんはあなたに対するいらつめさんとは違い、本当の弟じゃないはずですからw
それともわかってやってるのかなあ?
もし万々一、国太さんが太国さんの本当に弟さんだとしたら謝罪はしますが賠償は(tbs

583 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 13:20:25
>>576さん
これまでの私の仮説とは、多列・並列構造を含む「プラス・マイナス120年構想」
のことでしょうか。それとも、既刊の拙著に対しての反応ということなのでしょうか。
「プラス・マイナス120年構想」につきましては、史学会大会で報告しております。
また、『日本書紀の真実 −紀年論を解く』、『「記紀」はいかにして成立したか 
「天」の史書と「地」の史書』、『聖徳太子と法隆寺の謎 交差する飛鳥時代と奈良時代』、
『国宝・百済観音は誰なのか? 実在したモデルとその素顔』のいずれも、
雑誌などの書評において扱っていただいております。『日本書紀の真実』は科学雑誌『ニュートン』にも
書評が掲載されていますし、『国宝・百済観音は誰なのか』は、今年3月に発売になりましたので、
『週刊文春』4月13日号や『サライ』10号、『ムー』6月号などに書評が掲載されておりますので、
ぜひに、ご覧になってください。
また、どなたかが、このスレッドにコピペしてくださいましたように、インターネット上にも書評があります。
576さんのおっしゃられる「古代史研究家など」とは、どのような方々なのでしょうか。
怪しげな背景のある悪書の著者でしたなら、私の仮説には興味が無く、何も反応なさらないでしょう。

584 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 13:34:22
>>582さん
ご心配なさらずに。ジョークにはジョークをもって、応えているだけです。
太国さんは、以前に、ご自身を高齢であると書き込まれておりました。
きっと、太国さんは、ご高齢の男性ではないかと思います。
したがいまして、国太さんと太国さんは本当のご兄弟ではないのでしょう。
しかしながら、国太さんは、太国さんのこれまでの議論における問題点を
鋭く指摘されているようなところがありました。
太国さんも、国太さんの意見を傾聴すべきであると思いましたので、
ジョークのつもりで、書き込みいたしました。

585 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 14:07:54
>>583
>>1にある「古代史研究家」とは>>1にある意味と同じつもりです

586 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 14:09:17
草壁皇子は大炊王の父ではなく叔父ですよね?

587 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 14:48:58
>>585さん
>>1は、私の書き込みですので、私は>>1において「古代史研究家、ならびに、
一般からの反応があまりありません」と書きましたのは、一般的な意味においてです。
新聞の一面に、「倉西裕子によって日本書記紀年法が解明されました!」と大きく扱われたわけではありませんので。
むしろ、私が問題視したことは、>>558>>576の書き込みが、仮に>>585さんの書き込みであるのならば、
あたかも、私の本が、「【買ってはいけない】日本史の悪書」であるかのような、
印象を与えていることです。
そして、その原因が、あたかも私にあるかのような言い方をなさっていることです。
「プラス。マイナス120年構想」は数学的に成り立ちますので、とんでも説ではありません。
また、悪書とされるような書物は、しばしば第三国の工作員や宗教的背景などを持つ
著者によって書かれたという指摘がありますが、私には、そのような気持ちの悪い
背景などありません。私は、個人的に研究しており、
その成果を仮説として提起させていただいているだけなのです。


588 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 15:00:10
>>586さん
>>563について、間違えをご指摘していただきまして、有難く存じます。
淳仁天皇は、叔父の草壁皇子には「岡宮御宇天皇」、そして、父の舎人親王には七五九(天平宝字三)年に
「崇道尽敬皇帝」を追尊されています。
すなわち、たとえ即位されていなくとも、天皇の父には高い地位が認められていたことになります。

589 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 15:00:48
>>584
よかった。マジレスかと思ってましたw
ところでここに一つ提案があります。
私は国太さんではありませんが、ここらで太国さんとの論争を一旦リセットされ論点を整理されてはどうでしょう?

研究家さんのプラスマイナス120年構想への有効な反論は、
1.120年を導き出した計算が間違ってることを証明する。
2.確定紀年とされてるところが間違ってることを証明する。
のどちらかしかないはずと私は考えます。

一方、太国さんの主張される2倍歴3倍歴では残念ながらプラスマイナス120年構想そのものに対しての有効な反論とはなりえていません。
論点が異なってるからです。
今後も太国さんとの論争を続けられるなら、
書紀の編者がどのような意図で編纂したかという問題

記述されている内容が史実としてどうであったかという問題
をきちんと分けて論ぜられるべきかと愚考します。
どうもその辺両者ごっちゃにして論争されてるように思えてなりません。
ついでに言っておくと史実としてどうであったかという問題については、私も研究家さんに対して否定的な見解を持つものもいくつかあります。
が、それはまた別の問題としてこのスレでは論点はまずは上で挙げた2点に絞られるべきと思いますがどうでしょう?
それとも紀年法を含む総合的な古代の姿を論じて生きたいのでしょうか?
後者であるならいらぬおせっかいはやめます。

590 :太国:2006/05/12(金) 15:40:37
>>578
だから、120日という数字が出てくるからだよ。日本書紀紀年法研究家さんの
大好きな数字と同じなんだから、何も彼女の専売特許じゃぁないし、>>579 とか
で主張している易のみ使う数字でもない。だから、こっちが逆に使って合理的
だという論法の言い訳になっている。それにこの前も話したが、マヤの
ツォルキン暦は1年の変則分割(260日暦)でやっている。変則分割があるのなら
現今での1年の等分分割の暦は充分ありうるところである。
神武即位前の日付は、5個ばかり月後半の数字がある。だから、当時は等倍暦
だったのかも知れんが、崇神世はもっと月後半の記述があるも3倍暦だとの
解説を先述したように充分2倍、3倍暦の可能性もある。(神武即位前ともなれ
ば、nの大なるn倍暦の可能性が強まると想う。理由は火々出見尊のとかの超
長寿を見ればなおさらだ。西遊記などは365倍暦だからな。)
問題はそういうのではなく、月後半の日付が猫の額ほどの量しかないばあいだ。
こういうのは、2倍、3倍年暦をやっていたんだろうと強く思っている。
>>589
なにもその二つに制限されるものではない。何なら、>>457>>463 の表の数
の左寄りはどのように説明されるのだ?ストレートなら、どう見ても2倍暦等
をやっていたんだろうとしか考えにくいぞ。

591 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 16:25:32
>>589さん
きれいに論点を整理してくださっておられ、ありがたく思います。
論点がズレていってしまっておりましたので。
「プラス・マイナス120年構想」につきまして、>>589さんのご提案の

1.120年を導き出した計算が間違ってることを証明する。
2.確定紀年とされてるところが間違ってることを証明する。

は、私も賛成です。私の望むところです。
ぜひ、1と2のいずれかで、私の説を論破してみていただきたいと思います。
また、紀年法の構造問題と史実としてはどうであったのか、という点につきましては、
まずは、紀年法の構造問題についての議論が先で、次の段階として史実の如何の問題があるのではないかと思います。
この意味においても、1と2は、スレッドを立てた目的にも適っておりますので、
ぜひに、反論していただきたいと思います。
また、2につきましては、「確定紀年」と「延長紀年」の区分として、
私は既に一案を提起させていただいておりますが、こうも考えられえるというような案
がありましたならば、ご提起していただきたいと思います。


592 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/12(金) 16:30:53
>>590太国さん
太国さんも、一旦、二倍暦説や三倍暦説につきましては措いておくことと
いたしまして、>>589さんが提起してくださいました

1.120年を導き出した計算が間違ってることを証明する。
2.確定紀年とされてるところが間違ってることを証明する。

の2つの方向から、私に対して反論を試みられたらいかがでしょうか。
多列・並列構造が正しいのか、二倍暦・三倍暦説が正しいのか、
ご自身の二倍暦・三倍暦説を主張されることも大切ですが、私の説を論破することも
また、必要だと思います。

593 :統合軍:2006/05/12(金) 17:02:04

日本書紀には
(日本書紀年265年)神功65年の「百濟枕流王薨=実年代385年」の記事の次の年に
(日本書紀年266年)神功66年の「晋武帝泰初二年=実年代266年」の記事が書いてる


つまり、どうして神功元年を書紀年に忠実に201年と設定したまま
神功65年の記事が385年であるとして、神功69年を389年とするのだろうか?

神功65年を120年シフト説を取るなら、元年も120年シフトであるべきだ

神功を卑弥呼なんかと位置付けたいのは日本書紀ライターの表向きの意図なんだから
201神功元年に拘ったら日本書紀ライターの意図通りの結論に誘導されているのである


即ち、中国史書引用箇所は、卑弥呼=神后を印象付ける為に引用している
Y(日本書紀年)=X(実年代西暦)記事に過ぎないのである

594 :太国:2006/05/12(金) 18:12:22
まあとにかく、卑弥呼は神功皇后ではない。すなわち

神功皇后≠卑弥呼≠天照大御神

なのである。いわんや 卑弥呼=成務 は「不史議の国のアリス」のような
投影映画的誤謬なのであり、早く映画の脚本書きは史学ではなくすべきである。

595 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/12(金) 18:34:35
>>584 研究家さん。
>太国さんは、以前に、ご自身を高齢であると書き込まれておりました。

え!?
太国さん…
失礼しました。そんなご年配の方だとは思いませんでした。
私の弟キャラも一新します。

改めまして、
>>594
太国爺ちゃん。
不史議の国のアリスや投影映画的誤謬。
また同じ事言ってる…

老眼鏡変えてみたら?

596 :統合軍:2006/05/12(金) 18:48:31
更には日本書紀年代461年の雄略五年に武寧王の生年記事があり
武寧王墓誌から実年代西暦461年に生まれた事が一致する事は
実年代西暦に措いて西暦461年に、雄略天皇治世5年である事を意味しない



そこから読み取るべきなのは、
実年代西暦461年に起きた出来事が、
日本書紀年代461年に記録されていると云う事実だけだ


日本書紀年266年の神功66年記事が、実年代の西暦266年記事に一致するのと同じ事だ
勿論これも実年代に措いて西暦266年=神功治世66年と云う訳ではない

597 :統合軍:2006/05/12(金) 18:51:49
>神功皇后≠卑弥呼≠天照大御神

全く同感である

作為的な神格統合や人格投影があっても
実年代を移動させる事は出来ない

598 :統合軍:2006/05/12(金) 19:19:03
古事記の崇神天皇没年干支が主張する戊寅とは西暦258年である



599 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 19:58:22
卑弥呼は山門の土蜘蛛・田油津媛

600 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:56:15
三世紀の大和(纏向)はまだ大国主らの時代

601 :通りすがり:2006/05/13(土) 00:07:32
同感です!!

>>594>>597

602 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:12:57
> 神功皇后≠卑弥呼≠天照大御神

これに関してはその通りだろうね。
ただ書紀が神功皇后=卑弥呼(壹与含む)と主張してるのは事実だよね?

603 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 05:20:33
「オレは長州力ではなく、間違いなく『長州小力』であると宣言してやってる訳だけど、
他人が長州力だと思って暮れると、やってる本人としては満更ではない?てへっ♪」

って感じでやってるのに


それを見て「あっーーー!長州力だぁ、スゲー」
みたいな

604 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 09:08:11
>>593統合軍さん
神功紀の紀年については、以下のように考えてください。
神功紀は、基本的に2本の「年代列」によって構成されています。
雄略列(B列)上では神功元(201)年〜神功69(269)年となり、
応神列(A列)上では神功元(321)年〜神功69(389)年となります。
したがいまして、『晋書』の見える神功66年条は雄略列(B列)上に実年代を
求めるべき紀年となりますので、266年となります。
そして、120年シフトされているのではなく、なぜ、このように2箇所に元年が
設定されているのかという点ですが、これは、神功紀に配布されている紀年数が69年
であるのに対して、201年から389年までが189年となり、差がちょうど
120年となるからです(189−69=120)。
江戸時代以来の紀年論において120年シフト説は、早くも本居宣長によって指摘されています。
しかしながら、「189−69=120」という式が成り立つことから、
シフト説ではなく、複数元年説のほうが、神功紀の紀年問題を
論理的、合理的に説明することができると思います。



605 :疑問のいらつめ:2006/05/13(土) 09:15:13
>>593の統合軍さん
 自ら軍をお名乗りになるうえには、どこかの国や機関に属しておられるので
しょうか。もし、正規の軍隊でない、のならば、統合軍さんは、私兵に過ぎな
いことになります。力とは、正当な目的と根拠がありませんと、単なる暴力と
なってしまいます。軍隊を名乗る限り、学術議論の場であっても、軍隊の名誉
にかけて、自らの立場を明らかにし、正々堂々と正面から戦っていただきたい
ものです。



606 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 09:29:50
>>594太国さん
『日本書紀』において、人物比定は、たしかに難しい問題です。
卑弥呼については、神功皇后にも、成務天皇にも投影されていることになりますが、
第一義的には成務天皇に投影されており、
一方、神功皇后は、第一義的には台与が投影されていると推論いたしております。
天照大神につきましては、難しい問題ですが、神祇祭祀を掌る卑弥呼のような性質は
認めることができるかもしれません。
歴史は、ノンフィクションです。「不思議の国のアリス」でも「投影映画的誤謬」
でもなく、私は複雑なものを複雑なままに解釈しようとしているだけです。

607 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 09:38:25
>>595国太さん
>>556にて国太さんがご指摘してくださいました太国さんの基本戦略は参考になりました。
「不思議の国のアリス」や「投影映画的誤謬」は、まさに
「A「不思議の国の有素」など、意味不明の言葉を連呼し、研究家さんを困惑させる。」
にあてはまると思いました。

608 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 09:46:33
>>596>>597>>598統合軍

>そこから読み取るべきなのは、
>実年代西暦461年に起きた出来事が、
>日本書紀年代461年に記録されていると云う事実だけだ

それでは、統合軍さんは、『日本書紀』では、西暦461年をどの天皇の何年と認識していたと
お考えでしょうか。
もしかしましたら、統合軍さんは「不思議の国のアリス」の世界のthe army of cards
ではないでしょうか?

609 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 09:56:26
>>599
卑弥呼が田油津媛であるのならば、神功皇后は、誰に比定されるのでしょうか。

610 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 09:59:03
>>600
「大国主らの時代」とは、どのような時代を想定なさっておられるのでしょうか。
豪族たちが割拠している時代?

611 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 10:07:58
>>602さん
『日本書紀』が、神功紀において卑弥呼や台与を扱っていることには、意味があると思います。
卑弥呼や台与についての記述があることによって、実年代が確認できることになりますので。
もし、神功紀に卑弥呼や台与の記述がなかったならば、
「プラス・マイナス120年構想」が設定されていることすら、認識することは
難しかったのではないかと思います。
神功紀には、3世紀の卑弥呼や台与と4世紀後半の百済王についての記述が見えることは、
これまで矛盾や錯簡と考えられてきましたが、日本書紀紀年法の構造を解くヒント
であったとも考えることができるでしょう。

612 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 10:12:08
>>603さん
同一人物説について、たとえ話を用いて、わかりやすくご説明なさってくださっているようですが、
状況は違うのではないかと思います。
卑弥呼や台与などは、自分は「小神功皇后」であると主張していたわけではありませんので。

613 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/13(土) 10:14:59
纒向遺跡から出土する東海系土器の多さを考えると、
すぐに東海征伐に行ったヤマトタケルを思い出し、
卑弥呼とは、ヤマトタケルの婚約者と言われる美夜受媛なのでは?
などとチラッと思った事がありますが、
何の根拠もないしダメですね、僕の意見なんて…(涙

614 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 10:43:36
>>611
(外国史書を見る)
卑弥呼や壹与はうちの系図にはねえなあ。
それっぽいのいねえかな?
推古天皇じゃ時代が違いすぎるし、……お、息長帯日売がいるなあ。
天皇じゃないけど紀を立てるか。
でもこれでもちょっと両者の年代がずれてるなあ。
しゃあねえ紀年をずらしてみよう。
つじつまが合わなくなっちまった……orz
毒を喰らわば皿まで、他の天皇の紀年もいじるか。

その結果、紀年が伸びたり縮んだりになってしまったとさ。
とこういうこと?
まあ神武即位とか倭の五王なんかとの兼ね合いでずらされたのもあるだろうが。

615 :太国:2006/05/13(土) 11:03:43
いよいよ、このスレも倉西女史脚本兼監督による投影映画化されるときがやって
来た? の感が出てきた。まことに喜んでいいのか困ってしまうのか〜w
嘆かわしい状況に進行してきており、ストップ化が全くなされていな〜い。ww
過去のTV忍者番組にもあったが、藤林長門守が百地三太夫であったという驚愕
な一人二役の最終展開があったのではなかったか? それと同様にこの監督さまは
 興王=木梨軽皇子=某天皇 の一人三役と さらに驚天動地の 成務=卑弥呼
の一人二役との5人三脚をわずか2人でやってのけるというスーパー忍術絵巻の
豪華版であり、これが臥海での銀幕か?と拙者は目が回っているこの頃である。



616 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:04:02
倉西さんが畿内王権一元史観を盲目的に信仰されている以上
無駄ですよ>太国さん

617 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 17:14:20
>>612
違うだろ

日本書紀を書いた側の政権が、神功皇后=長州小力を

卑弥呼、台与=長州力だと、読み違えてくれると嬉しくない訳ではないって事だよ




618 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 17:18:13
>畿内王権一元史観

全然駄目だな

邪馬台国は九州、崇拝天皇即位は卑弥呼死亡後

コレ

619 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/13(土) 17:45:56
卑弥呼=美夜受媛なら、研究家さんがいう成務の時代とピッタシ合うなぁ。
すこし自信がついてきた…w

620 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:52:48
>>617
>>618
邪馬台国九州説の人って、
いかにも頭が悪そうなレスするねw

621 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 19:40:41
>>613国太さん
国太さんは、実は考古学などにお詳しかったのですね。
日本書記紀年法の構造的観点からは、垂仁天皇や景行天皇の時代が纏向遺跡の時代と考えられ、
実年代では2世紀になります。したがいまして、国太さんがおっしゃられるように、
日本武尊の東海征伐と纏向遺跡出土の土器に東海系土器が多いことは、
関連があるかもしれません。景行紀に日本武尊についての記述があることは
何らかの歴史的事象を反映しているのかもしれませんので、興味深いお説であると思いました。

622 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 19:46:57
>>614さん
日本書紀紀年法においては、非現実的数字には意味があるます。
例えば、>>1をご覧いただきたいと思いますが、「プラス・マイナス120年構想」
などのように、いわば、計画的に数字が設定されているのです。
すなわち、いいかげんではないということです。
かなり数学がよくおできになる頭のよい人が日本書紀紀年法を構築したと考えられます。

623 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 19:57:52
>>615太国さん
私は、脚本家兼監督ではありません。
ノンフィクションが大好きです。歴史家は史実を探求しなければなりませんので。
ところで、太国さんが反論なさる内容を鑑みますと、太国さんは、特に同一人物説がお嫌いのようですが、
同一人物説を否定する最たる理由は、何なのでしょうか。

624 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 20:03:33
>>616さん
一国の歴史には、紆余曲折がありますので、私は畿内王権一元史観を盲目的に信仰している
わけではありません。おそらくは、ゆるい連邦国家であったと考えたほうが、
よいかもしれません。むしろ、連邦制ながらも曲がりなりにも一国家として
纏まっていたという状況に、日本書紀紀年法が複雑である原因を求めることが
できるのではないかとも考えております。

625 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 20:10:11
>>617さん
すなわち、4世紀に「神功皇后」があって、「日本書紀を書いた側の政権」が、
日本書紀の読者が4世紀の「神功皇后」を3世紀の卑弥呼や台与のことであると読み違えて
くれたのならば、嬉しいということでしょうか?

626 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/13(土) 20:12:38
>>618さん
邪馬台国は九州のどこに所在していたとお考えでしょうか。
また、『日本書紀』において、崇神紀が神功紀の前に位置していることには、
意味があると思います。

627 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:20:16
「嬉しい」と「嬉しくない訳じゃない」じゃ動機が違うよね

628 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:30:45
>>622
614はHOWではなくWHYです。
このような動機から編年をいじったのだろうという推測です。
年代の合わない幾つかの定点を結びつける為にいじったが、神武即位元年まで影響があるので困るので足した分はどこかで引いておこう。
単純に言えばそういうことではないのですか?
ただ動かせない年代等もあるので単純に在位を伸ばしたり引いたりではまた矛盾が生まれるので他天皇の年代にずらされたものがあるということなのではないのでしょうか?

>>623
私は太国さんではありませんが、基本的に反対の立場から述べさせてもらいますと、
書紀、または元資料の主張したいこと=史実とは必ずしも言えない
と考えるからです。
外交関連記事は特に。
書紀が主張するところを解読するとこうなるというところまでは同意できないでもないですが、そこから史実として、あるいは事実としてこうなのだという主張までは首肯できかねる部分が多いと思います。
そういうことです。

629 :太国:2006/05/13(土) 20:49:23
>>623 日本書紀紀年法研究家さん
イコール説 同一人説(例外は稀にはあろうが)はデムパの始まりです。
>>628さん
貴方の言っていることは分かります。だから修正の考えを捨てるわけには
行きません。神武即位66年説もまだ暫定であり、まだまだ動くと想っており
ます。たとえば私説ですと日本武尊の条が合いません。だから、どうやら別の
所に真があるか?と再考しております。他にもまだまだおかしい個所を保有して
いますので、今後も検討は欠かしません。それがしは誤りは早めに認めますし、
倉西女史のようにブレーキペダルが故障している頭脳ではないのであります。

630 :大西洋軍:2006/05/13(土) 22:20:03
西暦311年仲哀天皇生
西暦317年日本武尊死

631 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:33:04
>>609
そもそも神功皇后は奈良時代に創作された架空の人物です。
比定もなにもあるわけない

632 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/13(土) 22:37:01
>>629
太国爺ちゃん…

>それがしは誤りは早めに認めますし

誤りを指摘されまくって、その都度変えてきただけじゃないか…(涙

爺ちゃんは明日も朝一番から、
お茶をすすりながらこのスレにへばり付くんだろ?

パソコンが老後の趣味なのは分かるけど、
ボケ防止及びリハビリに利用しないでね…(涙

633 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:42:08
餘句、王須、餘暉、餘映≠肖古、貴須、辰斯、直支
を証明するしかないが難しいか

634 :太国:2006/05/13(土) 23:16:39
以下は神功世の日付表である。皇太后は天皇ではないので、仲哀世の暦を引き
ずってこれを使用いてはいなかったか? と色々考えてみたが、まず別では
なかったかとそう推察している。断定はできない。

1日 1    11日      21日
2日 1    12日      22日
3日 1    13日      23日
4日      14日      24日
5日      15日 1    25日
6日      16日      26日
7日 1    17日 2    27日
8日 2    18日      28日
9日      19日      29日
10日 1    20日      30

神功世には以前の世の記述と異なり、特筆せねばならぬ事がある。
神武〜仲哀紀まではほんの少しの例外を除き、はキチンと何年何月何日迄と書き
一応月日が特定できうるようになってはいたが、神功紀では神功39年の大陸通交
記事から日の記述が無くなり始め、月迄の不明確記述なのである。何故か?
浮かんでくるのが、初っ端の大陸通交記事なのである。つまり 神功39年〜
魏志に曰く、明帝の景初3年6月、倭の女王 大夫難升米等をして云々〜
の有名なこの一節から日の記述の無い状態が始まり、無の日の記事が継続する。
(神功39年〜同51年まで が日の記述が殆ど無い。)紀の編纂者連が各史書を照合
しても、ピタリと合理性ある日本と大陸間の記事の調和が出来ず苦悩したのだ。
やりくりしてこれだ!という数字を見つけることが出来なかったという事なのだ。
そうかと言って出鱈目記載は絶対起きてはならない。長考を重ねた
結果、もっとも安全にという事で以後日を削り月までの数字にしてこれをぼかし、
体裁を調えたということなのであろう。ということは神功39年の数字とは、これが
本当にその年起こったことなのかは大いに疑問が残るわけで、編纂者側は故意に
誤文をするつもりはさらさらなかったのだが、正解なる真の記述にも至れなかっ
たということであるのだ。とにかく神功39年の記述において、この年数は信用
するのをためらうべきである。

635 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 23:50:48
>>631
証拠は?

636 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/13(土) 23:56:47
>>634
ポリデント爺さん。

紀年法と暦法は違うと何度言ったらわかるんだ?


637 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:30:01
>624
おおそれは誤解です。
貴女が信仰しているのは

 「畿内王権が一貫して日本列島最高位=中心
 の王権だったとする日本列島史観」です。

 「畿内には王権が史上ひとつしかなかったとする史観」
 じゃありません。

こういう信仰を

 畿内王権一元史観 といいます。



638 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 07:06:18
>>637

あなたこそ「ばってん九州王権しみったれ史観」です。


 

639 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/14(日) 09:32:08
>>627さん
「日本書紀を書いた側の政権」読者が読み違えてくれたら「嬉しくないわけじゃない」
と考えた動機とは何であると627さんは、想定されておられるのでしょうか。


640 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/14(日) 09:58:18
>>628さん
私は、日本古代史において250年頃から390年頃までの経緯を解明することは、もっとも
難しいのではないかと考えております。
神功紀には「189−69=120」という構想が設定されておりますので、紀年数が
120年分足りないのですが、西暦91(崇神元)年から390年までの間には、「天皇即位=立太子構想」
という別の構想が設定されて神功紀をカバーしています。
あるいは、「天皇即位=立太子構想」に「WHY」を解く鍵があるのかもしれません。
「天皇即位=立太子構想」につきまして、もっと研究を続けてまいりたいと思っております。
また、私も、『日本書紀』の記述内容がすべて史実であるとは考えておりません。
私にできることは、日本書記紀年法と『日本書紀』の内容を踏まえて、
論理的に、可能性としてありえるような仮説を提起することです。
その仮説の是々非々は、研究者の方々をはじめとして読者の皆様が、評価してくださることでしょう。


641 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 10:05:05
私も、『日本書紀』の記述内容がすべて史実であるとは考えておりません

642 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/14(日) 10:14:00
>>629>>634太国さん
『日本書紀』におきまして、同一人物と考えられる事例は、もちろん僅かしかありません。
私が唱えている成務天皇には卑弥呼が投影されている、また、木梨軽皇子は雄略天皇のことである
という説は、太国さんのおっしゃられるまさに「例外」なのです。
「同一人物」と言うよりは、「人物像が投影されている」という表現のほうが、
よいのではないかと思います。
また、

>倉西女史のようにブレーキペダルが故障している頭脳

私の頭脳を故障しているブレーキペダルに譬えておられる太国さんは、
私を相当の頑固者とお考えのようですね。
一度唱えた説でも、私は間違っていた場合には、すくに、撤回、もしくは、修正いたします。
ただし、それは、間違っていた場合のみです。

643 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/14(日) 10:18:44
>>大西洋軍さん
>西暦311年仲哀天皇生
>西暦317年日本武尊死

仲哀天皇の出生と日本武尊の薨年が、それぞれ西暦311と西暦317年となる根拠を
示していただきたくお願い申し上げます。

644 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/14(日) 10:28:42
>>631さん
研究史上、神功皇后の実在・非実在論争があります。
神功紀には、3世紀の卑弥呼や台与についての記述と4世紀の百済王についての
記述が見えるわけですので、このような論争が起こったことは当然といえば当然です。
しかしながら、神功紀が201年から389年までを扱っていることがわかりましたので、
今後、議論は、「神功皇后」は卑弥呼や台与などの複数の人物像を投影している存在であるのか、
もしくは、631さんがおっしゃられるように架空の人物であるのか、といった点に移るべき
ではないかと思います。

645 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/14(日) 10:46:32
>>633さん
中国正史、『三国史記』、『日本書紀』を比べて、百済王の実在と在位を確認することは、
『日本書紀』において百済王の名の見える年紀に相当する実年代を調べるうえで、
有効なアプローチとなると思います。
餘句=肖古、王須=貴須、餘暉=辰斯、餘映=直支になるのではないでしょうか。

646 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/14(日) 10:56:45
>>637さん
大宰府が、「遠朝廷」と呼称されておりましたように、九州が半独立的立場で、
力を持った時期もあったかもしれません。しかしながら、あくまでも、それは、
半独立的立場であったと考えております。 
その意味において、637さんがおっしゃられるように、私は、「畿内王権が一貫して日本列島最高位=
中心 の王権だったとする日本列島史観」を持っているのかもしれません。
しかしながら、根拠無くこのように考えているわけではなく、『後漢書』に
「大倭王は、邪馬台に居す」と見え、『隋書』にも「竹斯(筑紫)より東は倭に附庸する」
と見えるからです。ゆるい連邦ながらも、曲がりなりにも統合していたのではないかと、
想定できるのです。

647 :太国:2006/05/14(日) 12:04:46
>>642
そんなんじゃぁ、例外にはならんですよ。イコール説の方はみんな誰でも例外
だと主張しますよぅ〜。貴女はそのうち 平成=平城 と言い出すんじゃないか
と危惧してるんですよ。ひどいもんですよ。早くそんな説を遺棄しないと、頭の
お薬を処方してもらわねばなりませんぞ。w
〜これが治らないと、今度は

小泊瀬稚鷦鷯尊=泊瀬部稚鷦鷯尊=大鷦鷦尊

などと、さらにイコールwwだとか言い出すんではないのか?と、「困ったさん」
言説に拍車がかかるかと、強く心配の心配を重ねております。

648 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:40:05
安殿=明仁

間違いない

649 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:21:27
▼紀年法
歴史上の一定の年(紀元)から年數を數へる方法。
たとへば西暦はキリストの誕生年を紀元にして、
それ以前とそれ以後に數へて行く紀年法である。
日本書紀では、神武天皇即位年を紀元にして、
天皇の在位年單位で數へて行く紀年法である。
神武天皇即位年は西暦紀元前660年に相當するとされ、
そこから通算して數へるものを皇紀と呼ぶ。

650 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:23:23
▼紀年多列構造論
紀年多列構造論にはA列・B列・C列・D列の四列がある。
A列は應神紀の百濟王家の記述を基準年にして析出された年代列。
B列は雄略紀の百濟王家の記述を基準年にして析出された年代列。
B列は從來の研究において基本となつてゐたもので、
これ以前の記述は虚構や間違ひなど不確實なものとされてきた。
C列は眞福寺本古事記の分註として記されてゐる
崩年干支(天皇の崩御年を干支で表したもの)の
反正天皇の末年を基準年にして析出された年代列。
D列は同じく分註崩年干支の應神天皇の末年を基準年にして析出された年代列。

651 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 16:31:26
 http://tanbarakuichi.hp.infoseek.co.jp/gakumon/bookreview/1.html

倉西氏の論證方法を簡單に説明すれば、
これまで紀年と實年代との不整合を解くに當たつて、
紀年と實年代との對照關係を單列的に見てゐたのに對して、
多列構造として把握したことである。
倉西氏の假説は紀年多列構造論と名づけることができよう。
具體的に言ふと、實年代とずれてゐる紀年の一部には
海外の史料・實年代と一致する部分があるのだが、
その部分の中に基準年を設けて、それに基づいた年代列を取り出す
(そのうちの一つはこれまでもそれに基づいて解釋されてゐた年代列と同じもの。
これまでは單列的に見られてゐたので年代列といふ概念はなかつたが)。
倉西氏は四列の年代列が取り出せることを發見し、
それらをそれぞれの基準によつて解釋することによつて、
百二十年の不整合を整合的なものに再構成することを試みたのである。
これによつて、應神天皇の時代に當たる四世紀後半からは實年代と整合する紀年が再構成され得ることになつた。

652 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 18:46:00
> ttp://tanbarakuichi.hp.infoseek.co.jp/gakumon/bookreview/1.html

個人の自由なんだろうが読みにくい文章だなw

> 本書の内容は理論篇と應用篇に分けることができるが、明快な理論篇に對して、
> 應用篇の「第二章 『紀年論』と『倭の五王』〜なぜ『紀年』は多列構造であるのか」は解釋の部分が大きくなつてゐるので、
> まづ紀年多列構造論に基づいて神功皇后以降の紀年と實年代との對照關係を確定してから、再考した方がよいのではないかと思はれる。

しかし、上の引用した文にはまさに同意。
応用篇はさておき、まずは理論篇の部分に関して論じてみてはどうであろうか?

> 1.120年を導き出した計算が間違ってることを証明する。
> 2.確定紀年とされてるところが間違ってることを証明する。

653 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 08:28:45
>>647太国さん
もし、私が何ら根拠なく同一人物説を唱えているのでしたならば、
私は、太国さんのおっしゃるとおり、「困ったさん」であると思います。
しかしながら、私は、根拠なく成務天皇には卑弥呼が投影されていると言っているわけではなく、
説を主張するだけの根拠もまた提示しているつもりです。例えば、成務天皇と神功皇后の御陵の名が
同じであることや、成務天皇には后妃がおらず女性であると想定されている可能性があるなど。

654 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 08:29:48
>>648さん
意味不明です。

655 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 08:46:34
>>649>>650>>651さん
私の説を、論証方法も含めてきれいに整理して紹介してくださいましてありがたく思います。
ただし、一点付け加えさせていただけば、D列(仁徳列)の基準年の算出方法は、
応神天皇の『古事記』崩年干支の394年に、2年の空位年を加えて「仁徳元年=397」年と
算出しただけではなく、以下の等式が成り立っていることによって求めました。

『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支年

この等式によりますと、『日本書紀』において仁徳天皇の皇子の去来穂別尊(後の履中天皇)
の立太子年の仁徳三十一年は、仁徳天皇の崩年干支の427年に相当することになり、
仁徳三十一年を西暦427年と考えれば、仁徳元年は西暦397年となります。
すなわち、応神天皇と仁徳天皇の『古事記』崩年干支のいずれから計算しても、
仁徳元年は397年となります。
『日本書紀』の立太子年と『古事記』の崩年干支との関連は、日本書紀紀年法において、
たいへん重要です。


656 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 08:53:46
平成18年は何年になるの?

657 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 08:59:01
>>652さん
652さんは、>>589さんですね。
「プラス・マイナス構想」の是々非々につきましての論点を再度ご提案いただきまして、
ありがたく思います。
そこで、

> 2.確定紀年とされてるところが間違ってることを証明する。

についてですが、「確定紀年」と「延長紀年」の境界線は、『古事記』崩年干支の年代となりますので、

2.『古事記』崩年干支にもとづいて想定されてくる歴代天皇の在位期間と
「確定紀年」とが整合しないことを証明する

するという設問でも、よいように思います。いかがでしょうか。

658 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 09:01:19
>>656さん
平成18年は皇紀で何年になるのかというご質問でしょうか?

659 :太国:2006/05/15(月) 10:16:22
>>653
御陵の名が同じとか成務に后妃がいない位じゃぁ 成務=卑弥呼なんかには
なりませんよ。w 成務が女性なら「若帯日女」とかいう名になっていますよ。
天照大御神の男神説と同類項で、全く学界に出席する方にはふさわしくない妄説
です。そんな説を強く信じてしまうのは、貴女のそれを考えた以前の紀年の
説の構築のどこかに重大な欠陥があるのを、貴女は見逃しているからであり、
自己のそれまでの説の吟味検討(←やっているんでしょうが)が不十分で
あって、大失敗していたということを物語っているのです。
それらのイコール説は妄想以外の何者でもありません。早く遺棄して振り出し
に戻り、やり直しを図るべきです。

660 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 11:50:14
二倍年暦もいいけど、むしろ干支を信用して組み立てた方がいいのでは?
享年の長すぎる天皇は60年差し引くという方法が単純でいいと思う。
例えば神武天皇127年だと、60年引いて享年67年みたいな。

661 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 12:35:39
>>659太国さん
>>652さんがご提案なさってくださっておりますように、以下の論点から、私の説に対して反論
なされたらいかがでしょうか。

> 1.120年を導き出した計算が間違ってることを証明する。
> 2.確定紀年とされてるところが間違ってることを証明する。

2.については、

2.『古事記』崩年干支にもとづいて想定されてくる歴代天皇の在位期間と
「確定紀年」とが整合しないことを証明する

という課題にも置き換えることができます。1と2について考えてみましたならば、
「貴女のそれを考えた以前の紀年の説の構築のどこかに重大な欠陥があるのを、
貴女は見逃しているからであり、 自己のそれまでの説の吟味検討
(←やっているんでしょうが)が不十分で あって、大失敗していたということを物語っているのです」
というご発言を、きっと撤回なさってくださると思います。
まずは、1から始めて、「プラス・マイナス120年構想」が数学的に間違っているか
いないか、計算なさってみてください。

662 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 12:43:25
>>660さん
60年引けばよいといのでは、単純すぎます。
日本書紀紀年法の構造は、単純ではありません。>>660さんも
まずは、>>652さんが、ご提案なされた

> 1.120年を導き出した計算が間違ってることを証明する。
> 2.確定紀年とされてるところが間違ってることを証明する。

というふたつの論点のうち、1の論点、すなわち、
以下の式に間違えがあるかないか、計算をして確かめてみてください。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

663 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/15(月) 13:17:36
繰り返してしまいますが、纒向遺跡の東海系土器の多さについては、やはり考えねばなりません。
ヤマトタケルの東海征伐は、実際は地域同士の和合だったと思います。
征伐された側の地域の土器が大量に纒向から出るのも変ですしね。
もっと言えば婚姻関係によって、東海系が大派閥になったのではないでしょうか?
「征伐」というのは、なにやら武勇伝がなければカッコつかないと考えた後世の人の思惑だと思います。
で、大和と東海地域の和合ですが、男王を立てると何かと揉めただろうし、
一時、東海系の女王を立てたと言う事だと思います。

僕が卑弥呼と見なしてるヤマトタケルの婚約者・美夜受媛(ミヤズヒメ)ですが、宮簀媛とも書かれてるみたいですね。
この名前で思い出されるのが、京都・宮津の天橋立にある 籠(この)神社です。
ここが何故に「元伊勢」になってるのか…

なにやら大きな流れが見えてきました。

研究家さんのおっしゃる成務天皇に卑弥呼が投影されてるという説…
僕は賛成します。
ヤマトタケルとミヤズヒメの二人が成務天皇に投影されてるかもしれませんね。

664 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/15(月) 14:39:12
連カキすいません。
>>663は少し、言葉足らずでした。
美夜受媛(ミヤズヒメ)は尾張の国の人ですが、
尾張には海部郡という地名があります。
天橋立・籠神社の宮司さんも代々、海部氏が勤めてるというのも、
やはり関係があると思います。


665 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 15:28:39
>>663>>664国太さん
国太さんの着想は、興味深いものがあります。
考古学的観点と日本書紀紀年法の観点の両観点から、2世紀において尾張と
大和との間に和合(統合)が成立したと推論することができることになります。
このような歴史的経緯が、景行紀や成務紀に投影されていると考えれば、
何となく、2世紀の姿が見えてきたような気になります。
また、私も、天橋立にある籠神社には興味があります。
数年前に籠神社を訪れました際に、宮司の海部様から国宝の系図も見せていただきました。
畿内にどのような連邦政権が成立していたのか、籠神社(元伊勢神社)について、
私も、研究してみなければと考えております。


666 :太国:2006/05/15(月) 15:52:28
>>661
そうしますと、その構想から 成務=卑弥呼  興=木梨軽皇子=某天皇
という等式が出たわけですか? いまは自己の研究での修正論の没頭しており、
暇が出来ておっしゃることがさらに理解容易となれば、手がけてもいいでしょう。
今は暇がありませんので、日本書紀紀年法研究家さんが独自で開発した論理で
ありますから、貴女ご自身で車の修理をやるような気分で欠陥をお探しになる事
です。それをなさろうとせずにイコール説の自論が正だと本気で思っておられ、
省みようとする気が全く無いのなら、それがしの警告を聴き入れず、上の等号を
主張続けるのならば、それがしはもう疲れるだけでなすすべもありませんし、
通行人が(議論の)踏み切り内に警音を無視して線路内に立ち入る行為と似た
ようなものであり、ただただそれがしは、(説、議論の上の)貴女の無謀を
嘆き悲しむものであります。それでも直行する気を捨てていないのなら、最後の
助言として、即精神科へ直行し入院したほうがよろしいかと存じます。(泣

667 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/15(月) 16:37:59
>>666太国さん
私の説が荒唐無稽ではないことは、このスレッドの多くの読者の皆様も、
認めてくださるでしょう。根拠ない仮説ではないのですから。
また、>>661の1の計算式は、計算なさいましたでしょうか。
計算されたのでしたならば、太国さんも、私の説の計算が合っていることは
認めてくださるでしょう。
すなわち、数学的に正しい判断を行っている私に対して、
「精神科へ直行して入院したほうがよろしい」とおっしゃられる太国さんは、
「1+1」の答えを「2」と答えた人に、精神科へ行くようにとおっしゃっているようなものです。


668 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 18:20:01
>>666
> 成務=卑弥呼  興=木梨軽皇子=某天皇

まず、これらの命題がFである根拠を示してください。

おそらく記紀に別人として記述されてるという答えが返ってくると思います。
しかし、この場合はそれではダメなのです。
何故なら、研究家さんは紀の記述姿勢・編纂姿勢そのものを踏まえた上で論ぜられてるからです。
ですからもし上の命題を否定するのならば、
・プラスマイナス120年構想は肯定、しかしその構想を念頭に書紀を解題してもそのような紀年は成立し得ないことを証明する。
・プラスマイナス120年構想が理論的に破綻してることを証明する。
このどちらかしかありえないと思います。
史実と史書の主張するところはまた別の問題ですから、卑弥呼や倭の五王はそもそも近畿天皇家とは関係ないという主張もこの場合意味を成しません。


あと、はっきり言って研究家さんのプラスマイナス120年構想を否定するのは、ある意味において太国さんの主張する2倍歴3倍歴論よりも容易なんですよ?
なぜなら検証が可能なのですから。

669 :太国:2006/05/15(月) 18:36:51
>>668さん
失礼かとは思いますがね。あなたも精神科へ行って診てもらったほうがいいよ。
Fっていうのはフィクション頭の英字ですか?
貴殿も  成務=卑弥呼  を本気で信じているのか?
これは論外のひどい結論だと思うよ。あなたの頭を疑うよ?

670 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 19:32:56
>>669
Fは論理学で言うところのFalse、すなわち偽です。
これは論理学の問題なのです。
三段論法で表せば研究家さんの主張するところはこうです。

大前提:プラスマイナス120年構想

小前提:操作・実践・展開

結論:成務=卑弥呼、興=木梨軽太子=某天皇

論理学上、結論を否定するためには大前提がFであること、もしくは小前提がFであることを証明しなければなりません。
それを怠って一足飛びに結論だけ否定しても意味ないのです。
論の立て方がなってません。
もし以上のことが理解できないのであるなら、残念ながら太国さんには学問をする上で基礎的な何かが、それも決定的な何かが欠けてるとみなさざるを得ません。
もう一度問います。
成務≠卑弥呼の根拠を上げてください。

また、研究家さんの主張は成務=卑弥呼ではなく投影されてる部分が多いということであったと思います。
その辺にも注意が必要です。

671 :太国:2006/05/15(月) 19:36:57
>>670
貴方は、至急精神科に入院手続きをとったほうがいい。
論外だよ。相手にならんね。

672 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 19:59:40
>>664
愛知県海部郡(現在は愛西市)在住者です。
この辺りは現在は海抜ゼロメートルの平野ですが江戸期までは大部分が海の中でした
そこに島が点々とある地域で津島湊を中心に海運で成り立つ商業都市だったそうです
それは津島の名からもお分かりかと思います。津(湊)島であり港島の意味になります。
古代においてこの辺りで人々が活動しているとすれば島々の海部郡ではなくすぐ近くの木曽川沿いでしょう。
木曽川と共に広がった尾張平野において古代の尾張国は現在よりもかなり奥地となり海部郡は当たらないと思われます。


673 :日本@名無史さん:2006/05/15(月) 20:13:30
大国はしばしばマヤ暦を持ち出しますが、「マヤ暦は一万年で一日の誤差しか
無い」という記述を以前読みました。さらにツォルキン暦は祭儀用で、生活用
にはハアブ暦という一年三百六十五日の暦があったそうです。
>ツォルキン暦は1年の変則分割(260日暦)でやっている。変則分割がある
>のなら 現今での1年の等分分割の暦は充分ありうるところである。
古い話題ですが、いささか浅学非才の身で批判を。あなたは「マヤ暦」を持ち
出して「二倍暦もありうる!」と声高に叫んでいるわけですが、日本人がマヤ
文明のような高度な数学技術を用いていたことはいまだかつて証明されており
ません。もしあなたが「マヤ暦」を用いた論を展開したいのなら、日本におい
てマヤなみの高度な数学技術が律令時代にあったということを証明してくださ
い。


674 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/15(月) 20:26:13
>>672
>古代の尾張国は現在よりもかなり奥地となり海部郡は当たらないと思われます。

そうでしたか。
籠神社の宮司・海部氏と、
熱田神宮の宮司・尾張氏は同じ家系図だと聞いた事ありますし、
ヤマトタケルからミヤズヒメに与えられた草薙剣は、
熱田神宮に入りましたね。

このミヤズヒメこそ卑弥呼ではないかと僕は思います。




675 :太国:2006/05/15(月) 20:28:42
>>673
2倍暦3倍暦くらいなら、各月のわりふりは難しい面があろうとは思いますが、
1年が1/2の2倍、あるいは1/3の3倍なんですから、理論的観念はそんなに
難しくありませんよ。それにマヤ暦が高度の計算システムでの構成はあるわけ
ですが、それが古代日本にあったことを強調してるんではないんですよ。
変則暦のほうが2倍、3倍暦よりは難しい面が多々あろうが、そういう暦が他国
にあるんだから、それより容易な倍暦があってもおかしくはないだろうと、こう
主張してるものですよ。あんたのは、ズレた要求だよ。

676 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/15(月) 23:01:57
>>太国爺さん。

しかし、いい加減にしないとね…
自分の意見と少しでも違う人に、
精神科に行け!じゃ、話にならない。

成務≠卑弥呼の根拠を示せないなら、
成務=卑弥呼(投影という意味)を否定できないじゃない。


677 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 03:07:31
俺様≠卑弥呼の根拠を示せないなら、
俺様=卑弥呼(投影という意味)を否定できないじゃない。


678 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 07:12:50
>>677
「俺様=あなた」は現代人なんだから、根拠を示せてるじゃん。w
君こそ精神科行きだなw

679 :太国:2006/05/16(火) 07:47:24
このスレは精神病院患者の集いのようになって来ている。どーしようもない。

680 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 08:51:16
>>668>>670さん
太国さんが私の説を否定するためにはどのような反論が必要であるのか、
論理学的に理路整然と整理してくださいまして、ありがたく思います。
また、>>668>>670さんが、私の説を本当によく理解してくださっておられることにも
驚きました。
通常、学説を立てる場合も反証を試みる場合も、どちらにおいても、しっかりとした論理構成が必要です。
>>668>>670さんは太国さんに対して、論理構成が必要であることをアドヴァイスしておりますのに、
太国さんが聞く耳をもたないことは残念なことです。

681 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 08:59:38
>>671>>679太国さん
仮に、「1+1の答えは?」という質問に対して、「2」と答えた人に「精神科へ行ったほうがよい」
と言うような人がおりましたならば、きっと、その人こそ「精神化へ行くべき」と皆が
心配することでしょう。

682 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 09:08:16
>>672さん
『先代旧事本紀』「天神本紀」に、「天背斗女命 尾張中嶋海部直等祖」と見えますが、
この海部直は、愛知県海部郡(現在の愛西市)の豪族のことではなく、木曽川沿いの地域の豪族
ということなのでしょうか。

683 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 09:24:53
>>674国太さん
『日本書紀』では、尾張連の始祖は、火明命となっており、これは、
籠神社の海部氏の系図の始祖と同じです。
籠神社と尾張との関連は、火明命を媒介としているのかもしれません。
また、草薙の剣につきまして、日本武尊は伊勢神宮で倭姫命から草薙の剣を授かり、
これを宮す媛のところに置いていったことから、熱田神宮にて祭られることになります。
宮す姫が卑弥呼であるという国太さんのお説においては、このような経緯は、
卑弥呼が倭諸国によって擁立される前の段階の出来事として想定されているのでしょうか。

684 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 11:46:03
>>680
どうも太国さんは、結論が正しいか正しくないかは別にして、論理的な思考を放棄されてるようで。

それはともかく。
成務=卑弥呼というのは誤解を招く命題のような気がします。
研究家さんの述べられるところは、
・成務の実年代が卑弥呼と同時期。
・神功は卑弥呼の事績が投影されている。
・神功皇后の陵は成務と同じ土地。
というプラスマイナス120年構想を内包すると仮定した場合の日本書紀が主張する「事実」を元に
・成務紀に卑弥呼の事績が投影されてる。
ということでいいですよね?

私は史実としては成務と卑弥呼は別人物であるという論者であります。
が、書紀が暗示的に主張するところとしては、上の事自体はにわかには否定しがたいものであるとも思っています。

ただし陵の事について言えば岩波の補注を読む限り、成務と神功の陵は別にあるようですので陵については決定的なものにはならないのではないでしょうか?

685 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 11:51:22
あと、成務紀を読んでて気がついたのですが、
五年秋九月の記事なんかはなんとなく卑弥呼を連想させなくもない気がしますw

686 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/16(火) 12:02:20
>>683 研究家さん。
まず、僕は岡田英弘氏が言うように、
明史日本伝の山城守信長や平秀吉にみられる、力の抜けるような記述を見れば、
それより千数百年前に書かれた魏志倭人伝の卑弥呼の話自体が、
果たして信頼足るべきものかと思ってます。
それでいて、研究家さんの言う成務=卑弥呼を、
まるで鬼の首を取ったように言う太国さんがおかしいと思うし、
もし、成務=卑弥呼であっても、ヤマトタケルやミヤズヒメで、
一応、話は紡げますよという意味で言いました。
こんなもの間違ってたってどうってこと事ありません。
卑弥呼の話自体が、研究家さんの説を否定できる根拠にすらならないでしょう。

それより、
「尾張に特徴的な土器は弥生中期の細頸壺・中期後葉の台付甕と
円窓付壺・後期のパレス壺などだが、従来いわれてきたS字甕は、
胎土を含め伊勢に中心があったことが指摘された。」
などという考古学界の見解は、何故、皇室の祖霊を祭る神宮が「伊勢」なのかという、
基本的疑念を説明してくれそうで面白いと思います。

687 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/16(火) 12:45:39
また言葉足らずでした。
>>686の下は、
纒向遺跡の東海系土器についての話です。

688 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 17:27:35
>>684>>685さん
成務天皇につきましても、論点を整理していただきまして、ありがたく思います。
>>684>>685さんにご指摘いただきました以下の諸点に、少し説明を加えさせていただきたいと思います。

>・成務の実年代が卑弥呼と同時期。・神功は卑弥呼の事績が投影されている。
>・神功皇后の陵は成務と同じ土地。

成務天皇と卑弥呼が同時期となる理由は、「プラス・マイナス120年構想」だけではなく、
「天皇即位=立太子構想」が、崇神元年を西暦91年と位置付けることによって成立
していることに拠ります。『日本書紀』と『古事記』の間には歴代天皇の宝算(享年)をめぐって、
数字に違いがあり、この年差を当該歴代天皇の在位年数と推論いたしました。
すると成務天皇の在位は2世紀末となり、卑弥呼が倭諸国によって擁立された時期に
近い時期が成務天皇の在位期間と想定されてくることになります。
また、成務5年9月条は、卑弥呼擁立を想起させると私も思います。

689 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 17:43:00
>>686>>687国太さん
『三国志』は、晋の時代に陳寿によって編まれた史書ですので、同時代史料として、
信頼性は高いとされています。おそらく、魏朝官府にあった記録や『魏略』などを参照しながら、
編纂されたのでしょう。
私は、>>684>>685さんのおっしゃられる「書紀が暗示的に主張するところ」という
考えは、大事なのではないかと思っております。2世紀や3世紀の歴史的事象が
『日本書紀』や『古事記』が編纂された8世紀初頭まで、きちんと伝承されていたとは、
考え難い気がいたします。すなわち、おおよその経緯は伝承されていたものの、
編年体のしっかりとした史書を編纂できるだけの記録があったどうかは疑問です。
そこで、『日本書紀』と『古事記』の編纂者は、おおよその経緯だけは、きちんと
伝えておこうと構想したことはありえます。そこで、曖昧さを残しながら、
暗示的に主張したのではないか考えられえるのです。

690 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 18:30:38
>>682
海部郡より上方に中島郡があります。
地図では津島の上にあたり古代には津島湊の流通や交通を利用する豪族が住むに適しているかもしれません。
何となくですが中島郡に住んでいた海部氏というのでしたらしっくりきます。
現在中島郡は平和町や祖父江町があり市町村合併で稲沢市に吸収されます。
ネットで調べるのでしたらそれらのキーワードで検索されるといいかも知れないです。

691 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 18:49:42
>>689
卑弥呼=神功皇后が書紀の明示的なであるのに対して、
卑弥呼=成務はプラスマイナス120年構想その他を踏まえた上で導き出される暗示的な主張、
という意味で「書紀が暗示的に主張するところ」という言葉を用いたのです。
それだけのことであり、
> 2世紀や3世紀の歴史的事象が
以下の事にまでは言及する意図は、文意には概ね同意しますがw、ないことは改めて付言しておきます。

なお付け加えさせてもらえば、
系図的にも生物学的にも成務と卑弥呼は合致しません。
よって卑弥呼は天皇家の系譜には現れないということを編者は認識していたであろうことは揺るがない=卑弥呼の王権と天皇家は別系統の王朝である。
陳腐な結論ではありましょうが、そういうことになると確信しております。

692 :太国:2006/05/16(火) 19:05:04
>>692
別系統の王朝  正解ですね。

693 :太国:2006/05/16(火) 19:06:21
>>692 訂正 → >>691 でした。

694 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 19:24:15
★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★

朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、
日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していた。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準のレベルに差があった、
などということはありえない。古代においては、日本列島もカラ半島南部も『倭人の世界』だったのであり、
同じ倭人どうしが交流していたのだ。朝鮮人は、古代日本とは何の関係もないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)ではない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、古代カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郷(現在のソウルの東方地域)に
住んでいた少数部族であるが、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に難民となって南下し、
日本領=シラキに移住したのである。後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、
王権を簒奪して志良岐を乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
高句麗に追われて難民化したワイ族を、志良岐王家が保護しシラキ居住を許可した、その恩を忘れ、
「恩をアダで返す」行為をしたわけである。ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
この事実を見ても、ワイ人(朝鮮人)が中国人からいかに嫌われていたかが分かるであろう。
朝鮮民族は、けして韓人(カラビト)ではない。 もちろん、倭人=日本人でもない。



695 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:09:04
★兵頭二十八ファンサイト★
http://sorceress.raindrop.jp/bbs/light.cgi?

◆兵頭二十八ファンサイトの管理人は朝鮮人◆

この『兵頭二十八ファンサイト』の管理人は、何者だろうか。
兵頭氏や自衛隊施設の写真を、掲示板=門弟帳に載せている。こういった写真を自由に入手できる
立場の人間らしいが、兵頭氏や自衛隊関係者は、写真が載せられている事実を知っているのか。
下の書き込みは、『兵頭二十八ファンサイト』掲示板:書き込みナンバー[2681]から。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうも、こんばんは。
4月、新学期のシーズン。
私の職場にも、何処ぞでの研修を終えた新卒社員が配属されてきます。
何故か教える役になったのですが、まったく、
「俺は俺より弱い奴には頭を下げねぇ」とか言うストロングスタイルな、私とは真逆な人間だったら
どうしましょう。
私は酒に逃避してしまいますよ。ところで、先日upした旅の手帖”沖縄”
集合写真を一枚追加したので、どうかよろしくお願いします。
写真下さった方、本当にありがとうございます。

自衛隊沖縄施設の写真(1)
http://sorceress.raindrop.jp/siryou/0603okinawa/0603okinawa.htm

自衛隊沖縄施設の写真(2)
http://sorceress.raindrop.jp/siryou/0603okinawa/0603okinawa.htm


696 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 21:04:25
>>690さん
中島郡を地図で確認してみました。尾張の海部郡の問題は、国太さんのお説と関連
しており、私が国太さんのお説に興味を持ったことから、質問させていただきました。
国太さんのお説との関連で、もうひとつご質問させていただけば、
中島郡と熱田神宮とは距離があるようなのですが、
中島郡と熱田神宮とを結びつけるような伝承、もしくは、史跡・遺跡はあるのでしょうか。

697 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 21:16:02
>>691さん
691さんは、「卑弥呼=神功皇后が書紀の明示的」な主張であるとおっしゃられ、
一方では、「卑弥呼は天皇家の系譜には現れない」とおっしゃられていることは、
矛盾していると思います。明示的に卑弥呼=神功皇后と見なしている『日本書紀』は、
神功皇后を開化天皇の曾孫として扱っております。
このことからは、卑弥呼=神功皇后は天皇家と別系統ということはないのではないかと考えられます。
卑弥呼と台与の関係も「宗女」とあるように、血統的に繋がりがあったと考えられます。

698 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 21:21:00
>>692>>693太国さん
>>691さんは、卑弥呼と天皇家は別系統と王朝と考えているようです。
太国さんの九州王朝説に近いことになりますが、太国さんは、
倭の五王は、九州王朝の王とお考えのようですが、卑弥呼もまた九州王朝の女王
とお考えなのでしょうか。

699 :太国:2006/05/16(火) 21:29:36
>>698 日本書紀紀年法研究家さん
そのとおりです。ただし同じ九州でも、倭の五王と卑弥呼の王朝は別物です。
前者が「邪馬臺国」、後者が「邪馬壹国」というのが真解なのです。
貴女に、2ちゃんで最初に開顕しました。

700 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 21:41:37
>>695さん
695さんの書き込みの意図は何でしょうか。
「兵頭二十八」とはどなたなのでしょうか。「兵頭二十八」のファンサイトの管理人が
朝鮮人であることをこのスレッドに書き込むことによって、私に何を知らせようと
しておられるのでしょうか。
私は生粋の日本人であり、反日史観の研究家ではありませんので、
朝鮮の方々が私の説を不愉快に思っているということを
知らせようとなさってくださっているのでしょうか。

701 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/16(火) 21:46:30
>>699太国さん
3世紀に卑弥呼の「邪馬壹国」があって、5世紀に倭の五王の「邪馬臺国」があったといたしますと、
「邪馬壹国」は5世紀には、どのように状態になっていたのでしょうか。
また、「邪馬臺国」は3世紀には、どのような状態であったのでしょうか。

702 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/16(火) 21:53:45
邪馬台国畿内論者の人が、卑弥呼と見なす事の多い倭姫命ですが、
この倭姫命がヤマトタケルに天叢雲剣=草薙剣を与え、
それをミヤズヒメが受けて熱田神宮に奉納したというは、
何やら示唆的ですね。
倭姫命が卑弥呼で、ミヤズヒメが台与のような…
尾張氏と同族の海部氏が宮司の籠神社に、
元初の豊(とよ)受大神があった事も関係あるのかなぁ。

うーん、僕には分からない。



703 :太国:2006/05/16(火) 22:01:41
>>701
>「邪馬壹国」は5世紀に、どのように状態になって
 それが本来の九州王朝で、畿内での文武朝のころまであったんですよ。
 だから5世紀にもその後身は継続していました。
>「邪馬臺国」は3世紀には、どのような状態で
 これは実年代と紀の記述がちがうので、私の現今の説で言うことになりま
 しょうが、そこまでの説明は出来ますが、とりあえずの説明として、だいたい
 畿内の應神世から雄略年代あたりもう少し長ければ武烈年代ころまで
 あった短期王朝です。それ以後は滅亡しました。

704 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:14:29
>>697
まず書紀では卑弥呼の事績を海外史書の引用などの形で神功紀に紛れさせています。
すなわち明示的であります。
一方、成務紀に卑弥呼の事績が投影されているというのは、プラスマイナス120年構想その他のフィルターを外さないと見出すことが出来ません。
すなわち暗示的であります。
これらは互いに矛盾しません。
また卑弥呼が系図的に現れないというのは成務と比較した場合です。
何故なら編者が認識してるところの卑弥呼の年代に比定される天皇は成務ですから。
卑弥呼は親の跡をついで王になったのではありませんし、女性でもあります。
成務とは系図的にも生物学的にも異なります。

>>698
一応、九州王朝説にはシンパシーを感じているものの、多分に懐疑的になっておりますw
ですから卑弥呼=九州王朝の祖説には現在たっておりません。
個人的な推測になりますが、卑弥呼を祖とする王統あるいは王権は比較的早い段階で滅びたのではないかとも思っております。
魏志倭人伝読む限り邪馬台国は列島において必ずしも絶対的な力を持ちえてなかったようですから。

705 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 22:17:06
あ、系図的という言葉は的確でなかったかもしれません。
世代の前後関係と言い直したほうがよいでしょうか?
もっともこれも的確でもないかもしれませんが^^;

706 :太国:2006/05/16(火) 22:18:14
成務天皇の世にはまだ卑弥呼は生まれていません。

707 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 05:24:43
自分の場合は以下の原則で、神武天皇の即位年を計算しました。

中国の史書と照合してみる。
記録されている干支や天体現象を信頼して計算してみる。
日本書紀と古事記で没年が一致している場合はそのまま採用する。
日本書紀と古事記で没年が異なる場合は、短い方を採用する。
天皇の享年が長すぎる場合
・在位期間と没年齢を入れ替えてみる。
・没年の干支が判ってる場合は60年差し引いてみる。
・2で割ってみる。

その結果、神武天皇の即位はBC60年辺りになりそうです。

708 :太国:2006/05/17(水) 08:04:59
いろいろ修正で研究を重ねましたが、神武即位は 西紀元年 と出ました。

709 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 08:42:02
↑強ち間違いでもない。倭の五王の記事や好太王碑から
応神・仁徳は5世紀をはさむ頃となる。その数代前が崇神だが、
1代25年くらいとすると3世紀中葉となり、卑弥呼や台与と重なる。
すなわちモモソ姫や豊鍬入姫のころと一致する。その9代前が
神武だが、これも25年で計算すると、まさしく西紀元年前後になる。

710 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 09:00:43
>>702国太さん
『魏志』倭人伝に拠りますと、卑弥呼と台与の役割が違うことに、私は注目しています。
卑弥呼は宮室奥深くで神祇を執り行い、台与は軍事行動に関わっていたと解釈
することができます。
成務天皇には卑弥呼の役割が投影され、神功皇后には台与の役割が投影されていると
推論することができます。
草薙の剣が軍事と関連した神器であると想定いたしますと、これが宮ず媛にわたったことには、
意味があるのかもしれません。
国太さんがおっしゃられるように、宮ず媛には台与の性格が投影されていると考えられます。

711 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 09:14:31
>>703太国さん
太国さんのお説ですと、5世紀に倭の五王を輩出することになる「邪馬臺国」は、
3世紀には無かったということでしょうか。
また、少なからず、太国さんの仮説としては、九州邪馬臺国・邪馬壹国説のほうが、
三倍暦説よりも、まだ成り立つ可能性があるようですが、倭の五王が九州にあったと
想定しますと、『宋書』の倭王武上表文の「東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国」
について、55ヶ国、66ヶ国、95ヶ国はそれぞれ、どこにあったとお考えでしょうか。

712 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 09:31:50
>>704>>705さん
稚足彦皇子(成務天皇)を皇子ではなく皇女であると想定いたしますと、系図に出てくる
ことになります。雄略紀に稚足皇女という稚足彦皇子を女性にしたような名の皇女が
でてまいりますが、この皇女は伊勢神宮の斎宮となっています。
成務天皇に后妃が無く、事蹟が少ないのは、神祇祭祀を執り行う斎宮のような
立場の女性であったからではないかと、推論することができます。
また、卑弥呼は倭諸国によって擁立されていますので、たしかに絶対的な力を
保持できたとは考え難いことになります。
しかしながら、卑弥呼の王等が滅んだのかどうかは、何とも言えないのではないでしょうか。
この問題は、わが国が、一国家としてどのように統合、成立したのかという難しい問題と
関連しているように思います。


713 :太国:2006/05/17(水) 09:39:14
>>709さん
倍暦の終点だろうと思っていた宣化世から修正検討を加え、神武世まで逆算して
行きましたところ、驚くなかれ、神武即位は西紀元年との計算結果を得ました。
各天皇世の日付等の統計表の傾向と相違等を吟味し、さらに日本書紀紀年法研究
家さんの鋭い指摘からの天皇らの生誕崩御他記事の内容も考察に加え、矛盾が
ないかどうか?調べ上げ、これだと矛盾が少ないんではないかというものから
各天皇世の倍暦法の相違をつき詰めて、最後に元年を得ました。

>>711 日本書紀紀年法研究家さん
ただ今の最新研究からの実年代ですと、3世紀は開化即位ころ〜景行即位あたり
と結論付けています。この時代では倭の五王朝はまだ存在していません。
その国々とは日本内のことですかな?そうならば当時(神功世〜雄略、武列世)
のころの内容を記述したものか、神武以前の記録ということで同以前の日本国内
の国々の状況のことになりますよ。

714 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 09:43:26
>>707さん
707さんの神武B.C60年説は、神武元年の660年から600年を繰り上げると史実としての
神武元年になるという、江戸時代に藤貞幹、明治時代に那珂通世氏などが唱えた古典的見解と
同じような結論となっています。
しかしながら、私は、日本書紀紀年法は、「プラス・マイナス120年構想」などの、
いくつかの構想が構築されており、数学的な構造物のようになっていると考えております。

715 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 09:48:54
>>709さん
709さんがおっしゃられる天皇の平均在位年数の25年は、明治時代に那珂通世氏などによって
唱えられ、ほぼ定説に近いとされていた数字ですが、
安本美典氏が10年説を唱えられているように、諸説があります。
また、天皇の平均在位年数という統計学を用いた研究アプローチは、
実際の在位年数とズレてしまう傾向にあるため、今日では、あまり有効な
アプローチとはされていません。

716 :太国:2006/05/17(水) 10:44:33
>>708 >>713
倉西女史の指摘により、神武〜開化が単一の倍暦では生誕関係にありえない矛盾
を知らされ、修正研究の結果、等倍を含む2倍、3倍暦を変更混成して使用して
いたろうとの結論に至ったのですが、それでは崇神以降は混成があまりない単一
方式に近い倍暦法を採用していたということには疑問を差し挟まなかったわけ
ですが、いろいろ調べてみますと、生誕関係の矛盾(例えば10歳以下で皇子を
作っているとか)がまだまだ残存していることを知り、同以降でもある程度三つ
混在の暦法をやっていたんではないのかと考えるようになりました。
それでその矛盾を解消する暦法の確定等をやり、いままでの思い違いも幾多確認
し、逆算を重ねて、その結果が 神武即位が西紀元年 となったものです。

717 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 13:23:07
>>712
> 稚足彦皇子(成務天皇)を皇子ではなく皇女であると想定いたします

何故そのような想定をしなければいけないのでしょうか?
本来女性であるのに男性とした理由は何故でしょうか?

> 雄略紀に稚足皇女という稚足彦皇子を女性にしたような名の皇女が
> でてまいりますが、この皇女は伊勢神宮の斎宮となっています。
> 成務天皇に后妃が無く、事蹟が少ないのは、神祇祭祀を執り行う斎宮のような
> 立場の女性であったからではないかと、推論することができます。

このような推論にはムリがありすぎます。
成務は卑弥弓呼である……この方がまだムリがないと思います。

718 :太国:2006/05/17(水) 14:52:03
記の神生みの文に、水戸神として
速秋津日子神、速秋津比賣神とある。このように日子比賣は男女の性別を
はっきりするための御名であるため、倉西女史の論はおかしいわけである。

719 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/17(水) 17:16:13
九州王朝などと言う人にお聞きしたいのですが、
纒向で3世紀初めに発祥した前方後円墳が、
3世紀中ごろに宮崎・西都原81号墳、
そして3世紀後半には福岡・那珂八幡古墳や、千葉・市原の神門4号墳などに
波及してる事実があります。
前方後円墳があるというのは、
やはり大和の強い影響下にあると考えられますので、
こういう問題を、どうクリアされるのでしょうか?
やはり卑弥呼は畿内王権から探るしかない気がします。

720 :太国:2006/05/17(水) 17:56:53
倉西女史の言い分が通るならば、狭穂彦と狭穂姫が同一人物だという論も
まかり通ってしまう。男女をはっきりするためヒコヒメがつくのだからプラス
がマイナスとか言っているのと同じで 1+1=2 のところ符号を変えても
同じだと、得意のイコールで両辺を結び
1+1=1−1  だとか言っているわけで、これは入院せねばならない一大事
である。至急倉、西女史は「これはおかしい」と気付かなければもうおしまいだ。

721 :太国:2006/05/17(水) 17:58:58
>>720 訂正 誤)至急倉、西女史    正)至急、倉西女史

722 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/17(水) 18:37:26
>>720
しつこいなぁ…
成務と卑弥呼は同一人物とは言っておられないだろうが…
同時代であり、イメージが投影されてると言っておられるんじゃないか。

それより俺の>>719に答えてよ。

723 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:41:31
>>719
以下、小説的想像を出ませんがw
邪馬台国で言えば女王国を中心とする勢力は倭国全域をカバーしていない。
むしろ狗奴国を中心とする勢力に対して劣勢だった為、外交でいち早く大陸と結ぶ必要だった。
だが国力的に次第に押され何らかの盟約を結んだ、例えば存続を許されたが権力は譲ったとかね。
まあ明確な根拠は出せませんから強弁する気はないですが、卑弥呼は天皇家内の人物ではないというのは動かせないと思います。

724 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 20:07:49
>>713>>716太国さん
神武即位が西暦元年となるということは、西暦紀元年との関連において興味深いものがありますが、
一倍暦・二倍暦・三倍暦がどのように適用されてそのような結論に至ったのかを、
ご説明いただけませんと、にわかには信じ難いお説であると思います。また、
>>711にて、55ヶ国、66ヶ国、95ヶ国はそれぞれどこにあったのかという
私の質問に、お答えいただきたくお願い申し上げます。



725 :太国:2006/05/17(水) 20:16:10
>>724 日本書紀紀年法研究家さん
長くなりますので、順次書き込むつもりです。国々がどこにあったかということ
はそれがしのテリトリーではありませんので、あとは貴女の研究にまかせます。
ただ、これの関連について言えることは、五王朝成立の前は王の先祖は無名の
方々で、それ以前は歴史上に出る活躍記事等はないほど落日であったはずです。
ただし神武以前には王の遠い先祖はかなりの者達で名を轟かしていたでしょう。

726 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 20:18:45
>>717さん
『日本書紀』の編纂過程においては、女帝・女性をどのように扱うのか、
という問題があったように思います。神功皇后につきましても、いくつかの史書には、
「神功天皇」、すなわち、天皇として扱っているものもあります。
また、飯豊青皇女の臨朝の問題もあります。
私は、『日本書紀』は、推古天皇を初の女帝として扱うという方針があったため、
その他の女性については、男子として扱ったり、皇后として扱ったり、政治に携わったとする
のみの記述に留めたり、といった具合に、「女帝」としては見なさなかったのではないかと、
推論いたしたいと思います。『魏志』倭人伝に拠れば、卑弥呼は限りなく「女帝」に近い存在
であったため、しかたなく男子「天皇」として扱ったとも考えられます。

727 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/17(水) 20:28:28
>>725太国さん
>>711にて、55ヶ国、66ヶ国、95ヶ国はそれぞれどこにあったのかという質問を
させていただきました目的は、具体的にどこにあったかを考えてみますと、
倭の五王の時代、倭王は畿内大和に居していたと想定されてくるからです。
太国さんは、倭の五王は九州にあったとおっしゃられておりますが、
『宋書』の「倭王武上表文」からは、やはり畿内大和と考えられます。
それから、私の指摘で、お説に修正されたということはうれしく存じますが、
一倍暦・二倍暦・三倍暦がどの天皇紀にどのように適用されているのかを、
まずは、ご提示いただきたくお願い申し上げます。


728 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:28:46
>>696
中島郡と熱田は現在の地図上では距離がありますが
この辺りは海抜ゼロメートル地帯の為、堤防や治水技術の発達していない古代には多くが海面下です。
現在の地図から海抜ゼロメートル地帯を消せば津島と熱田は海路で結ばれるらしいです。
熱田神宮も現在は内陸に位置していますが古代には直ぐ前に海があったそうです。
また古代に木曾三川(木曾・揖斐・長良川)のような大河は陸上の交通を妨げていたようで
橋梁もない時代には木曽川を渡るのではなく桑名〜津島を海路でつないだようです。
そのため桑名〜津島〜熱田の海路により距離の問題は船で解消されます。
古代には現代のように陸地に満遍なく人が住むのではなく住み良い地に人が集まり集落を造るので
熱田と津島は海路で結ばれた隣町のようなものかも知れません。
ただこの辺りでは古代の資料は乏しく地学的検証はできても史学的検証は難しいかと思います。
地元の意識も海部氏の認知度は皆無に等しく語られません。
織田家と縁が深く堀田邸や蜂須賀神社など戦国期の史跡に興味を奪われ郷土史もそちらがメインです。
海部氏の資料や史跡は案外手付かずで眠っているのかもしれません。



729 :韋駄天はふと考えた:2006/05/17(水) 20:34:45
豊臣秀吉は織田信長亡き後、実権を握ると廃刀令と称しては、全国各地の寺社や
地方豪族や部落単位の庄屋などを、片っ端から調べて回り、豊臣秀吉関連で表に
出ては都合の悪い文書を探し回っては、見つけ次第焼いて処分したそうだ。

特に最も探した文書が、織田信長と秀吉に関する都合の悪い文書と、秀吉と明智光秀に
関する都合の悪い文書、本能寺の変に関する都合の悪い文書などで、これらの文書は
見つけ次第、すぐに燃やして証拠隠滅を図ったという。
またこの証拠隠滅の事実を口外した者は、一族全員即座に処刑したという。
この証拠隠滅工作により、本能寺の変の真相や豊臣秀吉の出生と生い立ちは
すべて闇の中に消えてしまった。

こうして秀吉政権に都合の悪い文書は、国内からすべて消えてしまい、秀吉政権は安定
政権を確保したかに見えたが、武士や僧侶の間から密かに口から口へと伝えられて
それが豊臣秀吉政権崩壊へのきっかけとなった。

大和朝廷時代の全国各地に点在する国府もまた、大和朝廷に関する都合の悪い文書や
木簡が地方豪族や神社の屋敷内に残っていないかを調べて回り、見つけ次第焼却処分
していったので、古代日本の歴史を伝えるものは捏造書物である日本書紀ぐらいになり
古代日本の歴史は謎だらけとなってしまった。

この権力者にとって都合の悪い歴史や書物(書類)はすべて証拠隠滅する風習は、現在の
権力者にも引き継がれていて、主に政府、警察、司法、役所関係の書類で証拠隠滅の
ための破棄と偽造が多発している。

730 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:43:00
>>726
> 私は、『日本書紀』は、推古天皇を初の女帝として扱うという方針があったため、
> その他の女性については、男子として扱ったり、皇后として扱ったり、政治に携わったとする
> のみの記述に留めたり、といった具合に、「女帝」としては見なさなかったのではないかと、
> 推論いたしたいと思います。

推論するのは結構ですが、
> 『日本書紀』は、推古天皇を初の女帝として扱うという方針があった
についてそれなりの理由は示せるのでしょうか?
是非お聞きしたいものです。

731 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 20:47:08
そうそうついでに
成務=卑弥弓呼
が成り立たない理由もお教え願いたいところです。

732 :太国:2006/05/17(水) 20:52:46
>>727 日本書紀紀年法研究家さん
だから、国がどうのこうのとおっしゃっていたんですね。貴女が畿内に五王が
本当にいたと主張なさるならば、おやりになるといいでしょう。
ただ五王は畿内の天皇ではないから、前から幾回も説明してるとおり結果は
それがしには見え見えです。別人ですよ。五王が畿内に住んでるのならば、記紀
に朝廷と五王朝との双方の交渉、戦争,朝貢、風習等の記述がなければなり
ません。それが書かれていな〜い。これはどういうことを意味しているもの
なのか?遠方の九州に五王朝があったからこそ、向こうの情報が集まらないので
記事が書けなかったんですよ。だから記載が無いんです。


733 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/17(水) 21:52:18
>>732 ジジイ。
はぁ?
記述がないから九州に五王朝があったという論理以前に、
九州のどこに五王朝があったかをジジイが言わなきゃ。
五王が九州で亡くなったら、当然、古墳が造られただろうが、
それはどこよ?

734 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/17(水) 22:04:09
>>728
尾張は、纒向以前の「唐古・鍵遺跡」(弥生時代)にも、
沢山の土器を搬入してるので、極めて有力な地域です。
もっと注目されればいいですね。

735 :韋駄天はふと考えた:2006/05/17(水) 22:35:41
日本民族のルーツを知る手がかりとなる真実の歴史にフタをする集団
それが大和朝廷、天皇一族、宮内庁、天皇教信者(右翼)

真実の歴史を知りたい日本民族にとっては、大和朝廷も天皇一族も宮内庁もすべて
売国奴ということになる。

こんな売国奴集団を日本国の象徴として扱い、多額の税金で養っている日本人は
どれほどのバカ民族かが良くわかる。
こんなバカ民族日本人だからこそ、イギリス人の間接植民地にされて永遠に
搾取され続けるわけである。

736 :太国:2006/05/17(水) 22:42:05
それを売った領収書が証拠になろう。どこにあるんだ?

737 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/17(水) 23:27:02
>>736 ポリデントじじい。
アンカーをちゃんと打てよ。
誰のどのレスに言ってるんだ?

738 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 09:35:06
>>728さん
海部郡に鎮座する奥津社と籠神社との関連はどうでしょうか。
奥津社には三角縁神獣鏡が所蔵されていますが、籠神社にも前漢鏡が所蔵されています。
奥津社は、3〜4世紀頃に築造された古墳の上に建っているとのことで、周囲からは、
弥生時代末期の東海系土器も出土しているといいます。
一方、宮す姫陵と考えられている断夫山古墳や白鳥古墳が熱田にはあります。
これらの古墳は5〜6世紀に築造されたと考えられています。
古代において、海部郡と熱田の栄えた時期には間には、ズレがあるようです。
そのズレを埋める歴史的経緯を説明する必要があるのではないかと考えております。
地元には、このようなズレを説明するような何らかの伝承は残っておりますでしょうか。

739 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 09:58:41
い駄天はふと考えたさん
権力者にとって都合の悪い歴史や書物(書類)はすべて証拠隠滅する風習は、極めてよくないことです。
「焚書坑儒」という言葉があるように、歴史的に多くの権力者たちが、行ってきたことでしょう。
そして、多くの書物が失われてきたことでしょう。
『日本書紀』につきましても、隠匿や改竄、異本の廃棄があった可能性を否定はしません。
『日本紀』(日本書紀)の逸文や『宋史』に引く「王年代記」を見てみますと、現存『日本書紀』
とは異なる記述があります。「王年代記」は現存しておりませんし、『日本紀』(日本書紀)も、
異本が伝わっておらず、現存『日本書紀』の内容のもの一本しかありません。
しかしながら、私は、『日本書紀』に関しては、隠匿や改竄は少ない方なのではないかと考えております。
『日本書紀』は和しゅう漢文体で書かれておりますので、後の時代の知識人によって書かれた漢文体のように
整ってはおりません。白文の状態では、たいへん読み難い文章なのです。
このような読み難しさが幸いして、あまり、改竄が施されなかったのかもしれません。

740 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 10:12:03
>>730さん
『日本書紀』が推古天皇を初の女帝として扱うという方針を定めた理由については、
一案ですが、以下のように推論いたしておきたいと思います。
わが国に自国の歴史をまとめた史書が存在していなかったならば、
海外史料の『隋書』倭国伝のみからは、7世紀初頭は、「多利思比孤」という男性が
倭王であったことになってしまいます。
しかしながら、当時、斎宮のような女性が後の「天皇」の定義に適うような立場にあったと
想定いたしますと、『日本書紀』の編纂者は、女帝があったことをどうしても
記しておかなければならなかったことになります。そこで、推古天皇を初の女帝
ということで重く扱うことによって、7世紀初頭の状況を伝承しようとしたのではないかと
考えられます。
このように考えてみましたが、他にも別の理由が想定できるかもしれません。

741 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 10:17:51
>>732太国さん
太国さんは、倭の五王が九州にあったとおっしゃられるのであるのならば、
55ヶ国、66ヶ国、95ヶ国がそれぞれどこにあったのかという質問に
お答えいただきたいと思います。

742 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 10:27:03
>>韋駄天はふと考えたさん
私は、韋駄天はふと考えたさんの憤慨をごもっともであると思います。
私がこのスレッドを立てた理由のひとつは、せっかくに日本書紀紀年法を
解明いたしましたのに、マスコミなどがほとんど扱ってくださらず、
一般の日本人は、『日本書紀』の各々の年紀に相当する実年代がわかったことを
知らないという現状を憂慮したからです。
「真実の歴史を知りたい日本民族」のために、このスレッドを立てたのです。

743 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 10:37:45
>>736太国さん
「売国奴」ということに対して、おっしゃられているのでしょうか。
「売国奴」とは、自国の尊厳を傷つけ、不利な立場に陥れるような人々のことをいいます。
学術や芸術においても、自国のレベルを低下させたり、国民を盲目的状態にさせておこうと
画策する人々が売国奴なのです。

744 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/18(木) 12:26:23
http://kamnavi.jp/ym/yamakei.htm
これ面白いです。
海部・尾張家の系図に小登与命なんて人がいますw


745 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 12:38:04
>>744国太さん
国太さんが、>>702でもおっしゃられているように、
宮す姫の性格としては、台与に近いのではないでしょうか。
ただし、>>738でも指摘させていただきましたように、
海部郡の古墳には、台与との関連を示唆させるようなものがありますが、
熱田の古墳が5〜6世紀の築造であるという点が気にかかってしまいます。

746 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 18:38:39
>>738
728です。奥津社と籠神社について、行った事もなく知識もありません。
職場帰りか休日の土日にでも見てこようかと思います。
詳しく調べる為には神主さんなどに伺うのがいいのかもしれませんが
知識も度胸も乏しいため境内を散策して終わりかもしれません。
もし何かわかりましたら報告します。

あと、どなたか海部津島や熱田に詳しい方で738さんの問いに応えられる方が居られれば
私も知りたいので教えて下さい。

747 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/18(木) 20:14:40
>>746さん
746さんは、愛知県在住の方なのですね。
奥津社を散策に行かれるとのこと、ぜひに、ご報告いただきたくお願い申し上げます。
神社の縁起や由来などがわかれば、籠神社、熱田神社、そして、伊勢神宮を結ぶ接点が
見えてくるかもしれません。たのしみにしております。
また、津島には、津島神社、甚目寺、明安寺など7世紀に遡れるような寺社仏閣があり、
興味深い地域です。

748 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 21:02:31
結局、神武天皇とは唐古鍵遺跡の弥生時代に、
黒潮の民・日向族が伊勢方面から大和に入ったときの首長かもしれませんね。
香取神宮も、彼ら黒潮民の最終到達点だったのかもと思います。

749 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 22:11:57
・神武即位年は1世紀

・卑弥呼死亡後に崇神天皇即位年

・武内宿禰は実在

・日本書紀では垂仁条に書かれる天日槍記事が
 古事記では応神条に書かれる必然

・倭の五王は畿内の天皇

コレ

750 :征東大将軍:2006/05/19(金) 00:06:02
・卑弥呼遣使年である景初3年の実際の西暦年が西暦239年です
・アメノヒボコ来朝年の実際の西暦は西暦272年です
・応神天皇即位年の実際の西暦は西暦390年です


次に、日本書紀に措ける垂仁と応神の治世年間を確認しましょう

      日本書紀         古事記         実年代
垂仁、前29〜後70年                    271年〜
応神、後270〜後310年                   390年〜

さて、↑の表をよく見て考えてください

古事記の応神条には『過去』の事跡としてアヒノヒボコ来朝記事が記録されています

日本書紀には、今まさにアメノヒボコが来朝したとして
垂仁治世03年記事に記録しています。これが西暦272年です。

アメノヒボコが来朝説話の『昔』話が語られるのは古事記では応神条
『今』まさに渡来した事を伝える説話が日本書紀では垂仁条に書かれて居ます


もし仮に、西暦272年のアメノヒボコ来朝を、昔話として応神条で伝える古事記を無視して
「日本書紀年代での272年」の応神天皇治世年間に起きた実際の事跡として記録すれば

古事記が昔話として応神条で伝えるアメノヒボコ記事と、
日本書紀が正に272年に来朝したアメノヒボコ記事とで、決定的矛盾が露呈しますので
そんな事はもちろんトリック編集は使えないので、そうはなっていませんね。

そこで日本書紀では応神条に昔話を載せるでもなく、
リアルタイムな渡来記事として垂仁条に記録しています

751 :征東大将軍:2006/05/19(金) 00:07:49
では卑弥呼遣使はどうでしょか?卑弥呼遣使は古事記には記録されて居ません
そこで、卑弥呼遣使年の西暦239年を、正に日本書紀での239年に起こった事跡の
ように挿入しても一見区別が付かなくなります

これが日本書紀を作った人間の仕組んだトリックです


本来、卑弥呼の事跡を載せるならば、日本書紀239年記事には、
「その昔、倭の女王卑弥呼が〜」とでも書かなければならないのです

または西暦239年時の実際の天皇である開化天皇年間に
卑弥呼の記事を挿入しなければならないのです


しかし、日本書紀製作者達の方針は、日本書紀239年記事に措いて、
漢籍を引用し、「景初三年」と云う決定的一句を掲載する事により

日本書紀239年記事の絶対年代を、即ち西暦239年であるかの如く錯覚可能な様に演出しました

752 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 00:13:22
ヒミコを卑しい当て字で書き表す人間を俺は信用しません。

753 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 00:24:46
・伊勢貞宗、幕府政所執事、早雲の親戚。伊勢平家は西国武将にしては珍しくB民を&して轡から馬具や鎧も作れる技能もあるし行政と政略も抜群である。
・瀧川義太夫、瀧川左近の御年寄、連枝衆。強いと思うっていうか何でもできるし最強じゃね?
・佐久間信盛、これも最強の部類。ハンレイとオウセンを研究して実行結果、追放された悲運の武将。
またこれが本能寺に繋がるっと考察できるから。

この三人が同時期に中枢にいれば天下は思いのまま取れると思う。


754 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 01:29:16
      日本書紀     古事記      実年代       備考
開化、前157〜前98年             228年〜248年  卑弥呼239年遣使☆
崇神、前97〜前30年     〜258年   248年〜271年
垂仁、前29〜後70年★            271年〜304年  天日槍272年来朝★

神功、後201〜後269年☆          367年〜390年
応神、後270〜後310年   〜394年★   390年〜404年

                                      武寧王461年生年△
雄略、後457〜後479年△ 〜489年    477年〜499年   倭王武477年即位
武列、後499〜後506年            499年〜506年



武寧王記事も同じトリックだ

755 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 03:41:12
神武天皇の即位は辛酉年で、春正月の庚辰日、月齢は朔(新月)だった。
書紀の記述を信じる限り、神武即位年は、干支60年の倍数年の2月11日
で、なおかつ新月でなければならない。
これに該当する年号は、BC660年を除けば、BC60年か、AD1年しかない。
天文ソフトで調べてみ。

756 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 03:55:38
考慮しよう

757 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 05:36:18
書紀の編者が、上代の天皇記において、皇后を立てた年を記述し、続けて皇子が生まれた
事実だけを書き、皇子の誕生年を記述しないのは何故だか考えて見たんだけど、おそらく
天皇に複数の皇后候補がいて、天皇が彼女達と順に交合して、始めに懐妊した女性を皇后
にしているという事実を、春秋の筆法で言外に記そうとしているからではないかと思うんだが。
天皇家にしたら皇后が妊娠しない女性では困るが、そんな仕方で皇后を選んだと知られたく
なかったので、編者に書かせなかったと推測する。
この推測が正しければ、天皇が即位した年と、皇后を立てた年が一致しない理由を説明できるし、
皇子の誕生年と皇后を立てた年は、ほぼ同じだと解釈できることになる。

758 :太国:2006/05/19(金) 08:01:24
>>755
そうなると、それがしは神武即位を紀元元年と逆算で求めたが合っているな?

759 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 08:33:58
>>748さん
神武天皇が日向から大和に入るまでのルートは、日向⇒宇佐⇒岡田宮(遠賀郡芦屋岡湊)⇒
えの宮(厳島?)⇒吉備⇒畿内となっており、瀬戸内海を通過しています。
黒潮の民ですと、日向から四国の南沖の黒潮にのって伊勢方面に入るのではないでしょうか。
『日本書紀』には、天孫降臨神話も含めて、日向から南についての記述が無いことは、
気になります。

760 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 08:45:34
>>749さん
749さんは、1)神武即位年は1世紀、2)卑弥呼死亡後に崇神天皇即位年、3)武内宿禰は実在
4)日本書紀では垂仁条に書かれる天日槍記事が古事記では応神条に書かれる必然、
5)倭の五王は畿内の天皇、という5つの見解を挙げておられますが、このうち、
1)と2)は、私の見解とは、大きく異なっています。神武天皇即位の実年代につきましては、
神武天皇にはさまざまな時代の人物像が複合的に投影されていることから、一概に実年代を
確定できるものではありません。また、崇神天皇の即位年は西暦91年と考えられます。

761 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 09:06:36
>>750>>751征東大将軍さん
『日本書紀』では、神功紀がありますが、『古事記』には神功皇后の段がありません。
仲哀天皇の段から応神天皇の段へと繋がっています。したがいまして、
『古事記』は203年から394年までを応神天皇の段として扱っています。
一方、垂仁紀は崇神元年を西暦91年として考えると、
西暦159年から257年までを扱っています。『日本書紀』の垂仁紀は『古事記』の応神紀と
重なってくることになります。
天日鉾についての記述が『日本書紀』では垂仁紀に見え、『古事記』では応神天皇の段に見えることは、
このような理由にもとづくのではないかと、私は推論いたしております。
また、西暦239年の実際の天皇は、どのような根拠にもとづいて開化天皇であると
お考えなのでしょうか。

762 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 09:18:07
>>752さん
752さんは、『魏志』倭人伝の編纂者を信用しないとおっしゃられているのでしょうか。
それとも、「卑弥呼」という用語を用いたすべての人を信用しないとおっしゃられているのでしょうか。
『魏志』倭人伝においては「卑彌呼」と表記されております。たしかに、本来は
「日皇女」や「姫子」という意味なのでしょう。
しかしながら、学問上、原文を忠実に引用しなければなりませんので「卑」の文字になってしまいます。
勝手に変えることはできませんので。「卑弥呼」と書き表した人すべてを信用しないとおっしゃられるのでは、
研究者は皆困ってしまいます。

763 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 09:19:45
>>753さん
スレ違いであると思います。

764 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 09:26:14
>>754さん
754さんが、崇神天皇の『古事記』崩年干支の戊寅年を258年とされた根拠は
何でしょうか。
私は、『日本書紀』の巻順には意味があると考えます。
すなわち、巻五崇神紀が巻九神功紀の前に位置付けられていることには理由があるはずです。
巻九神功紀で、『魏志』倭人伝の時代を扱っておりますので、
崇神天皇の崩年干支は258年よりも前の年代になると思います。

765 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 09:32:10
>>755さん
興味深いご指摘であると思います。

766 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 09:36:09
>>757さん
『日本書紀』におきましては、皇后には、御子がいない場合がむしろ多いことを
考えますと、757さんのお説は成り立ち難いと思います。


767 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 09:42:04
>>758太国さん
>>755さんの神武即位年について、B.C.660年、B.C.60年、A.D1年のみしか、
『日本書紀』の神武天皇即位の暦日と一致する年代は無いというご指摘は、
太国さんにとりましては吉報であろうかと思いました。A.D1年を神武即位年と
お考えになっている太国さんのお説と合ってまりますので。
しかしながら、太国さんは、歴代天皇紀が、一倍暦、二倍暦、三倍暦のいずれを
用いているのかまど、A.D.1年となる根拠を提示する必要があると思います。

768 :征東大将軍:2006/05/19(金) 09:43:05
崇神紀が神功紀より前に位置付けられているのは
神功の実年代区間より崇神の実年代区間が古いからです

実年代では卑弥呼死亡前は開化天皇年間、
卑弥呼死亡後は崇神天皇年間です


日本書紀は倭人伝の挿入により
日本書紀年代と実年代の一致と云う錯誤を誘っているのです


日本書紀研究家さんはトリックに掛かって居ませんか?

応神390年即位の確信と、
神功記の実年代が卑弥呼の実年代であると云う『呪縛』を
両立させる為に無理な結論を導こうとしてませんか?

769 :征東大将軍:2006/05/19(金) 10:11:33
応神の古事記没年干支は甲午→394年
仲哀は            壬戌→362年
成務は            乙卯→355年

一般的にはこう云われて居ますし、
古事記が主張したい没年干支による崩御年はこれで良いと思います

では崇拝没年干支の戊寅はどうでしょう?

一般的には318年が多く通用していると思いますが
しかしこれは258年でなければ在りえないのです


古事記成務没年干支年の355年から
古事記応神没年干支年の394年までに39年経過

日本書紀では成務没年190年〜応神没年310年まで120年経過

古事記に対して日本書紀は3倍の年歴を経過しています


では、仮に古事記没年干支年を318年と考えましょう

古事記では崇神没年干支年318年〜355年で37年経過
日本書紀では崇神没年bc30年〜成務没年190年で219年経過

5.9倍です、古事記で100年過去へ戻ると、日本書紀で590年戻る割合です

武内宿禰がこの倍率区間のみに生きていれば
齢五百数十歳と様々な古籍に記されるところです。

でもそれらでの彼の年齢は三百歳前後です

770 :太国:2006/05/19(金) 10:50:02
日本書紀紀年法研究家さん 「2倍年暦真実」のスレへ少しずつ書き込んで行き
ますので、その都度そちらを順次読んで下さい。

771 :征東大将軍:2006/05/19(金) 11:35:59
つまり崇神の古事記没年干支の主張年が318年では近過ぎるのです

古事記では崇神没年干支年258年〜成務没年干支年355年で97年経過
日本書紀では崇神没年bc30年〜成務没年190年で219年経過で
この計算で云うと2.25倍でしょうか?


しかし、実はココも三倍経過区間の筈です

成務年間前後にもう一つの崩御年直線が存在して
多重化されているので


355-258=97、219/3で73、97-73で24なので

古事記の主張通りの理論値ならズレは24年で3倍に成るでしょう
古事記に振り回されず20年としても2.8倍程度ですので
三倍経過区間です


そうなれば武内宿禰もリアルな実年齢で存在可能です

772 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 13:24:51
>>768>>769征東大将軍さん
>>1にて述べましたように、以下の式が成り立つことを征東大将軍さんは、
どのようにお考えでしょうか。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

『日本書紀』は、神功紀の扱う実年代を西暦201年から西暦389年までの189年間と
設定していると考えるほうが、よほど、論理的、合理的であると思います。
『日本書紀』は、きちんと神功紀の扱う年代を明示していることになりますので。
日本書紀紀年法には、トリックなどありませんので、トリックに掛るということも
ありません。
また、『古事記』崩年干支において定説化されているのは、応神天皇以降の歴代天皇です。
仲哀天皇、成務天皇、崇神天皇については、定説はありません。


773 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 13:26:44
>>770太国さん
太国さんのお説につきましては、「二倍年暦真実」スレッドを
拝読させていただきたいと思います。

774 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 18:26:19
よく分からないので教えてほしいのですが、
太国さんは、西暦元年と神武即位年が合致したと、
非常にはしゃいでおられますが、これは凄い事なのでしょうか?
神武天皇とキリストの密接な関係を言いたいのでしょうか?


775 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 19:31:27
このスレ、久しぶりに覗いてみた。
倉西さんがトリップつけるなど2ちゃんねらーとして成長していて、微笑ましい。

ただし、依然としてスレタイおよび>>1の内容がデンパっぽい印象を与えてますね。
せっかくマトモな内容なのだから、次スレからは改善したほうがいいのでは?

776 :太国:2006/05/19(金) 19:34:46
>>774さん
それを裏づけるものが少ないながらある。神武天皇の兄弟のうち、御毛沼命は
常世の国に渡り、稲氷命は海原に渡ったという。エジプトといえば映画の「十戒」
で見たがモーゼの物語の国であり、当然キリストとは深い関係のある場である。
エジプトマヤを逆読みすれば、ヤマトフジエ(大和富士絵)となるのがえらく
気にかかるが、二つの文明はともに絵文字を持つ。まあそれはいいとして、
このエジプトから過去に菊花御紋章が見つかっており、エジプト展でも一般公開
されていた。これは厳粛な事実である。この事は何を意味するものなのか?
御毛沼命があちらへ渡航して、間に合うように、神武即位の年の儀式予定を
むこうで言い及んで、当時まもなくキリストが生まれたことになろうが、
外国と日本の行事関係が予定として決まってしまえば容易に合致しうる。


777 :774:2006/05/19(金) 19:46:51
>>776
あ、あの〜…
菊花御紋章というのはメソポタミアにもあったはずです。
だから何なんですか?
あなたが言う「むこう」というのはエジプトの事ですか?
どっちにしても神話板とかで話すべき内容かと・・・

778 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 19:49:37
>>775さん
私のような2ちゃんねる音痴でも、トリップを付けることができるようになりました。
成長を見守ってくださいまして、ありがたく思います。
>>1は、パート1とパート2とまったく同じ内容にしてしまいましたので、
パート4を立てる際には、改善したいと思います。

779 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/19(金) 19:52:18
>>776太国さん
東方の三賢人の一人は、御毛沼命であったのですね。

780 :征東大将軍:2006/05/19(金) 20:30:01
>>772
貴方のその式は成り立ちません、先ず

武寧王生年西暦461年-応神即位年西暦390年+1=72
日本書紀武寧王生年461年-日本書紀応神即位年270年+1=192
で、その差120年差と云う事ですが

実際の武寧王生年は允恭天皇年間の西暦461年であり
雄略天皇年間に西暦461年は存在しません


>>754を良く見てください

日本書紀での雄略年間は457〜479ですが
実年代区間では西暦477年〜499年です

武寧王生年は墓誌により西暦461年と確認されて居ますから

これを日本書紀に記録するなら本来は
西暦461年時の実際の天皇である允恭天皇年間に記事を挿入すべきか

日本書紀461年記事に措いて書くなら、せめて
「これより先、百済の武寧王が加羅島で〜」とでも書くべきなのです

実際の西暦年の記事を日本書紀年の移行させる卑弥呼記事と同じです

781 :征東大将軍:2006/05/19(金) 20:40:16
それにこう云うことも言えます

例えば

武烈天皇即位西暦499年-応神天皇即位西暦390年+1=110年
日本書紀武烈天皇即位499-日本書紀応神天皇即位270+1=230年

その差は120年です!!!うわぁースゴイ!120年理論が証明された!!!



イエ、何も凄くありません、

応神天皇日本書紀即位年270と実年代西暦390年の120年差が解消されるのが
499年が崩御年直線がY=Xが最初に成立する元年だからです


応神天皇即位年に措いて、書紀年代と実年代の差の120年が


何れかの年代から日本書紀年=実年代西暦と云う式が成立して
その差の120年が解消される訳ですから


「その時点での日本書紀年から、日本書紀応神即位年270年を引いた数」と
            ‖
「その時点での実年代西暦から、実年代応神即位390年を引いた数」の

差を求めれば『必ず120年』になります
何故なら最初の時点の応神即位年のズレが120年なだけだからです

782 :征東大将軍:2006/05/19(金) 21:25:21
>>754
にも在りますが
神功治世の書紀年代区間は201〜269、実年代区間では367年〜390年です

269-201+1=69、390-367+1=24

三倍差区間です


あなたは日本書紀神功治世年間69年に応神でのズレを反映させて
120年を足してるだけに過ぎないのです

それが貴方の云う189年の正体です

69年と
69年に120年足した189年の差を求めれば『必ず120年』に成ります

当たり前の話です



研究家さんはもう一度>>754を良く見てください
卑弥呼の遣使年は開化天皇年間です

これは西暦239年の卑弥呼遣使を当代の実際の天皇である開化天皇年間に書かずに
「日本書紀での239年」の神功に記録していて錯誤を誘う
日本書紀製作者達のトリック記事です

783 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 21:39:51
将軍様の120年のズレに関する解釈は非常に頷けますが
将軍様の提案する紀年法がイマイチ解りづらいです。
詳しくお願いします。

784 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 21:49:50
日の丸は、朝廷に貢献した大名などに下賜して有り難がらせて
またバカをやらすことに使われたもので、
いわば天皇家の象徴。
その朝廷は日本を征服支配した朝鮮人が作ったもの。
つまり、日の丸は、朝鮮人による日本支配の象徴なのである。


785 :太国:2006/05/19(金) 22:19:45
いまだ1回も支配された事がないんじゃなかった?むこうさんの併合はあったな。
スレ違いだね。

786 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:32:34
>>784
はぁ?
騎馬民族「扶余」の事ですか?
彼らは日本に来たようです。
でも支配者どころか、皮革民になって差別されてきたのですが。

787 :757:2006/05/19(金) 22:57:41
>>766
反論になってないです。綏靖天皇から雄略天皇まで皇后の子ですし。
とはいえ、懐妊したから皇后に立てたという仮説は訂正します。
おそらく天皇は、男子を産んだ妃を皇后に立てた、に変更します。
これによって天皇の即位年と皇后を立てた年にズレがある理由を説明できます。
また、皇后を立てた年が皇子の誕生年ということになります。

788 :日本@名無史さん:2006/05/19(金) 23:23:07
>>776

アッハッハッハッハッ!
こりゃ愉快だ!



789 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/19(金) 23:31:04
>>776
..........................?

爺ちゃん。

うぅぅ(星空を見上げながら号泣)

790 :征東大将軍:2006/05/19(金) 23:52:34
>>783
長々しいので一部だけ説明しますが、先ずは>>769の中段を良く見て下さい

> 古事記成務没年干支年の355年から
> 古事記応神没年干支年の394年までに39年経過
> 日本書紀では成務没年190年〜応神没年310年まで120年経過
> 古事記に対して日本書紀は3倍の年歴を経過しています

この事からこの年代では古事記に対して日本書紀は三倍の年歴、
つまり一次方程式?の比例定数が3であると主張している事が解り

日本書紀年代をY、古事記やその他の典籍の年代をxとすると
y=3x+bと成ります


これに応神天皇の日本書紀崩御年の310をyに、
応神天皇の実年代崩御年の西暦404年をxに代入すると

310=3*404+b
310=1212+b
b=-902

になり切片が-902である事が解り
y=3x-902と云う式が出来ますね?

では、この式に日本書紀での応神天皇即位年270年をyに代入してみましょう

270=3x-902
1172=3x
x=390.66666666666666666666666666667

これで応神天皇を実年代即位年が西暦390年である事が解ります

791 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 01:22:39
>>740
レスが遅くなってすみません。
でレスなんですが、……正直意味がよくわかりません。
推古を初の女帝にする意図、神功を天皇にしなかった意図、本来女性である成務を男性と記述した意図。
この3つの糸のつながりが見えてきません。
正直、自家撞着に陥ってるんじゃないでしょうか?
前提があって推論し、結論を導く。
少なくとも成務と卑弥呼を書紀の編者は同時代と認識していたというところまではわからなくもないです。
しかし、成務=卑弥呼=女性というのは結論であって、結論から逆進して推論を作り上げたが、その先はない。
結論を支える前提がないのです。結論から推論、そしてまた結論に戻るということをやってるようにしか見えません。

ところでなんか急に(?w)紀年関係のレスが増えてるようですので、この件はまたいずれにした方が良さそうに思います。
また落ち着いた時にでもレスをください。私も740をもう再読し言わんとしてるところをもう一度理解してみようと思います。

>>787
子が天皇になったから遡って皇后になったケースも多いと思うよ。
綏靖母とか景行母とか応神母とか。

792 :757:2006/05/20(土) 01:56:18
>子が天皇になったから遡って皇后になったケースも多い

文献的根拠はありますか?
仮に、天皇を産んだ妃を遡って皇后に立てたケースがあったとしても、
皇后を立てた年が皇子の誕生年である。
という私の仮説は変わりません。

793 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 02:18:29
>>792
文献的根拠と言えるかわかりませんが、記紀の説話を分析していけばそういう結論に落ち着きます。
全部が全部ではないかもしれませんが、少なくとも791で挙げた3例はそのような結論になると思います。
他にもなにかしら不自然な天皇位相続があった場合はその可能性は高いと思います。

また
> 皇后を立てた年が皇子の誕生年である。
についてですがあくまで書紀の編年で言えば、例えば以下のような例が見つかります。
綏靖誕生神武30年、母立皇后神武元年
安寧誕生綏靖5年、母立皇后綏靖2年
懿徳誕生綏靖29年、母立皇后安寧2年(懿徳誕生6年後)
孝昭誕生懿徳5年、母立皇后懿徳2年
立皇后年=太子誕生年とはなってないようです。
その仮説は成り立つのでしょうか?
ちょっと寝ぼけ眼でレスを追ってるので激しく誤解してるようだったらすいません。

794 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 04:50:43
>>790
正確には
a≒3.07692308
b≒902.307692
なので

y=270のとき
x≒380.9

あなたの理論は不成立です。

795 :征東大将軍:2006/05/20(土) 05:19:57
ちょっと閃きました

崇神の日本書紀崩御年の前30年
崇神の実年代崩御年を271年ではなく268年とし

y=3x+bに代入すると

-29=3*268+b
-29=804+b
b=-833

切片が-833として
y=3x-833

これに日本書紀年代yを代入して、開化、崇神、垂仁の実年代を求めると

      日本書紀     古事記      実年代       備考
開化、前157〜前98年             225年〜245年  卑弥呼239年遣使☆
崇神、前97〜前30年     〜258年   245年〜268年
垂仁、前29〜後70年★            268年〜301年  天日槍272年来朝★

271→268の3年分が全体に修正された事になり

>>749
・卑弥呼死亡後に崇神天皇即位年、ではなく即位年後に死亡と云う事になります

そして日本書紀の箸墓記事が記録されている前88年を代入すると
x=248.66666666666666666666666666667
となり計算違いが無ければ箸墓記事の実年代が西暦248年になります

さて、どうでしょうか

796 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 09:11:31
>>征東大将軍氏
>>790では切片が-902と言い、
>>795では切片が-833としてなら、
ある意味で、
太国氏のように無理やりあてはめたという感が否めないのだが。



797 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/20(土) 09:21:38
>>780>>781>>782征東大将軍さん
神武元年をB.C.660年、持統十一年をA.D.697年に位置付ける『日本書紀』の編年
において、461年は雄略五年です。征東大将軍さんは、勝手に雄略紀の実年代を477年以降にずらして、
雄略紀に461年が含まれないから、>>1で述べた私の説の式が間違っているとおっしゃられていることになり、
これは、屁理屈以外なにものでもありません。
また、>>781で征東大将軍さんが提示しれた以下の式が成り立つのは、あたりまえです。

>武烈天皇即位西暦499年-応神天皇即位西暦390年+1=110年
>日本書紀武烈天皇即位499-日本書紀応神天皇即位270+1=230年
>その差は120年です!!!うわぁースゴイ!120年理論が証明された!!!

神功紀において神功元年は201年と321年の2箇所に設定されています。
観念的には応神元年もまた、270年と390年に設定されています。390−270=120
ですので、征東大将軍さんが提起された上記の式が成り立つのです。
したがいまして、征東大将軍さんの以下の見解は間違えです。

>応神天皇日本書紀即位年270と実年代西暦390年の120年差が解消されるのが
>499年が崩御年直線がY=Xが最初に成立する元年だからです

また、「崩御年直線」という用語は、どなたが用いておられるのか以前から疑問でしたが、
これは東征大将軍さんが、用いておられたのですね。
「崩御年直線」などというものは存在していないと思いますが、いかがでしょうか。


798 :太国:2006/05/20(土) 09:22:28
>>796
どういう点が無理に当てはめたというのか? 君の説は無理がないわけか?
んじゃ、聴かせてkれ。

799 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/20(土) 09:29:31
>>784さん
日本の朝廷が朝鮮人によって作られたというのは、間違いです。
日本と朝鮮との間には、言語的、文化的にも大きな違いがあります(朝廷文化も違います)。
むしろ、古代において半島に日本人があったと考えた方が、日本古代史と朝鮮古代史を
合理的に説明することができます。

800 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/20(土) 09:38:24
>>785太国さん
太国さんの二倍暦・三倍暦説と私の多列・並列構造論をめぐって、太国さんとは、
議論を戦わせていただいておりますが、太国さんの

>いまだ1回も支配された事がないんじゃなかった?

というご意見については、私も、そのように考えます。
日本は、朝鮮に支配されたことはありません。

801 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/20(土) 09:59:15
>>757さん
応神天皇の皇后は仲姫ですが、皇太子に立てられた菟道稚郎子皇子の母の宅姫は
皇后に冊立されておりません。
雄略天皇の皇后は草香幡梭姫皇女ですが、次帝の清寧天皇の母の葛城韓姫は
皇后に冊立されておりません。
継体天皇の皇后は手白香皇女ですが、安閑天皇と宣化天皇の母の目子媛は
皇后に冊立されておりません。
欽明天皇の皇后は石姫皇女ですが、用明天皇の母の蘇我堅塩姫は皇后に
冊立されておりません。崇峻天皇と推古天皇も同じです。
このような事例から、757さんのお説は成り立ち難いと思います。
皇后は、むしろ斎宮的な性格を帯びていたのではないかと考えられます。

802 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 10:04:00
>>798
等倍、2倍、3倍をバラバラに組み合わせた結果、
神武即位を西暦元年に持ってきたというのを無理やりと言うのだ。

803 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/20(土) 10:08:19
>>790征東大将軍さん
>>794さんもご指摘されておられるように、征東大将軍さんのお説は成り立ち難いと思います。
ただし、征東大将軍さんの以下のご指摘のみは、120年問題から興味深いと思いました。

>日本書紀では成務没年190年〜応神没年310年まで120年経過

成務没年から応神没年までを120年と定めたことには意味があるのかもしれません。



804 :太国:2006/05/20(土) 10:14:13
>>802
もって来たんでなくて、逆算して行ったら元年に行ったんだよ。
最初に元年を的にして三種の暦を混ぜご飯としたんじゃぁないんだよ。
その証拠に先述で110年説、66年説とかが真じゃないかと提出したろうが。

805 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/20(土) 10:19:00
>>791さん
わが国が、一国家としてどのように成立したのか、紆余曲折があったと想定できますが、
倭諸国が一人の人物を王または女王に擁立して統合して成り立ったいう見方もできますし、
まや、神武天皇のように、政権を打ち立てることによって成り立ったとする見方もできるでしょう。
そもそも「天皇」の定義とは何か、というのは難しい問題です。
「天皇」の定義が難しいのですから、女帝の問題となりますとなおさらです。
私も、成務天皇、卑弥呼、神功皇后の問題につきましては、もう少し考えてみたいと思います。
また、>>801で述べましたように、子が天皇になったから遡って皇后になったケースは
多くありません。むしろ、他の条件によって皇后に冊立されていると考えられます。

806 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 10:25:43
>>804
だから西暦元年になった事が、何か意味あるのかと聞いたら、
あなたはキリストやモーセがエジプトで屁をこいたとか言ってるんじゃないか。
わけが分からない。

807 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/20(土) 10:28:10
>>795征東大将軍さん
征東大将軍さんが、

>崇神の実年代崩御年を271年ではなく268年

として、3年ずらした根拠は何でしょうか?
それから、「箸墓記事」とは、『日本書紀』のどの天皇紀の何年条のことでしょうか。

808 :征東大将軍:2006/05/20(土) 10:38:15
書紀年代 経過年 実年代 経過年
201〜269 069年 201〜389 189年 神功
270〜461 192年 390〜461 072年 応神〜雄略五年

いいですか?研究家さんが言ってる120年議論は
西暦461年だろうが西暦499年だろうが
西暦2000年だろうが西暦一万年だろうが120年なんですよ


仮に日本書紀が現在も書かれて居るとして
日本書紀2000年の欄あるなら、その実年代は西暦2000年です

その時、日本書紀応神元年270年〜日本書紀2000年までの経過年は1731年
実年代の経過年は応神即位西暦390年〜西暦2000年までの1611年です

この差がなんと120年に成ります。と


こんな120年議論に何の意味があるでしょうか?
X=Yであると指定する任意の年代と応神即位年のズレは常に120年です

それは応神即位年が書紀年代Yと実年代Xとの関係が
Y=X-120分ズレて居るだけの理由です

809 :征東大将軍:2006/05/20(土) 10:40:58
日本書紀201からの治世69年までの日本書紀経過年69年と
治世69年分に応神即位年時の120年足した数を189との差を120年だと訴えて
一体何の意味があるのでしょうか?

貴方は、日本書紀年での応神即位年時の
直線Y=Xと、直線Y=X-120を使っているから
書紀神功元年Y=201年の時にmXが201年と、321年になるだけです

321年はY=X-120線上なのですからこの2つのX座標のズレが120年なだけです、


両方とも傾き1ですから治世69年時には269年と389年に成ります
120年ズレて居るだけからです

傾き1と云う事は書紀で69年は実年代でも69年です

つまり貴方の云う実年代経過年189年とは
書紀年での69年分=実年代の69年分
これに応神次のズレ120年を足した189年です

貴方が神功元年時の書紀年代と実年代との関係をY=Xと措いて居るのですから、
常に120年差になるのは当然です

貴方が云う実年代経過年と書紀年代経過年の差が120年になるのは当たり前です

この事は、仮に神功の書紀治世が1万年と記録されて居たとしても、
その元年に措ける書紀年代と実年代の関係をY=Xと定義するなら

日本書紀年代経過年と実年代経過年との差は必ず120年になります

この様に「プラス・マイナス120年構想」に、120年差が生まれるのは
方程式上当然の事で、プラスマイナス120になってるからこう云う構想がある筈だと云うと論理を何ら肯定する意味はありません

810 :征東大将軍:2006/05/20(土) 10:45:41
>>796
研究家さん風の言葉で云うと年代列が

多重化されている区間あるとあるとでも云えば理解しやすいでしょうか?


切片の異なる傾き3の崩御年直線が2列存在すると考えてください
その多重区間は景行天皇年間を含む事も考えられますが
恐らくは成務天皇年間のみです

811 :征東大将軍:2006/05/20(土) 10:54:50
Y≠X年間に措ける古事記崩年干支年は崩御年直線上には存在しないので
古事記崩年干支年を純粋計算して傾きが3.07・・・であると云うのは誤りです

崩御年直線が取り得る傾きは整数のみです
そしてその傾きの最大値は武内宿禰記事からも解るように3です

812 :征東大将軍:2006/05/20(土) 11:13:23

因みに切片が-833の場合は書紀・前660年は西暦58年ですかね

前年の西暦57年には筑紫で漢委奴国王が金印を、
同年新羅では昔解脱が即位

筑紫、新羅、大和の三界征覇ですね

813 :太国:2006/05/20(土) 11:26:21
>>806
こんどエジプト展で出回ったら見て来いよ。現実に菊花御紋章が出ており展示
されて、入場者は見てるんだから、現証は少ないがあることになる。まあ、
全部の同展で展示されるもんでもないがね?それはお前の糞の臭いだろ。ww

814 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 11:40:18
>>785
朝鮮人に支配されたことは悔しくて認めたくないんだね。
分かる分かるその気持ちw

でも史実は認めなきゃ。
事実を認めて初めて進歩があるんだよ。


815 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 11:40:51
日本における菊花御紋章の使用はいつからだ?

816 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 11:59:06
>>814
そもそも朝鮮人なんてのが出来たのは少なくとも統一新羅以降。

817 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 12:14:41
>>813
だからそんなものメソポタミアのイシュタル門にもあるし、
結局、何が言いたいんだよ、入れ歯電波!

818 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 12:20:50
>>812
征東大将軍氏
>筑紫、新羅、大和の三界征覇ですね

誰がこの三界を制覇したの?

819 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 12:24:32
三国史記の年代なんて当てになるの?

820 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 13:02:20
新羅本紀は法興王・真興王のあたりから確実だが、
新羅では5c後半から築城や戦争の記録が重用視されているので
このあたりも信頼性有り。

百済本紀は漢籍などの断片的な史実を元にした創作の可能性が大きい


821 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 13:17:01
>>805
「多すぎ」というのは確かに言いすぎでしたね。
言いすぎというよりは誤りと言うべきですがw
「多すぎ」は撤回しますんでご容赦の程を。

822 :征東大将軍:2006/05/20(土) 13:24:32
切片-833で考えると、
切片-833の場合、書紀仲哀末200年の時に
x=344.33333333333333333333333333333

切片-902の時の書紀成務元年131年の時に
x=344.33333333333333333333333333333

と同期してx軸がスッキリしますね
成務以外で多重化される年代は景行ではなく、仲哀と云う事でしょうか

さてさて

823 :太国:2006/05/20(土) 14:08:33
>>817
じゃぁ、なおさら論が通るじゃないか?菊の御紋は天皇の紋なんだよ。
それともお前んとこの紋所か?ww それともケータイのデンパ写真で写し
たのか? それこそお前はホントに継体テン脳だな?ww

824 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 14:30:00
>>823
菊花紋はwikipediaによると
> 鎌倉時代、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用したのが始まり。
とあり、どうやら古来より天皇家に伝わったものではなく、遙か下った12cの一天皇の好みに端を発してるようだが?

825 :征東大将軍:2006/05/20(土) 14:36:44
もっと古い年代の方がイロイロ考えられて面白い

・朴氏初代〜3代までの年代
・昔氏解脱と神武の関係、
・金氏と天日槍、神功の関係、
・倭人絡みの襲撃、戦争、修好記事等
・173年での卑弥呼記事と、魏志での卑弥呼歳長大記事の関係
・天変地異(

826 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 14:39:09
>>825
> ・173年での卑弥呼記事と、魏志での卑弥呼歳長大記事の関係

これは新羅本紀のミスかウソかのどちらかであろう。

827 :太国:2006/05/20(土) 15:11:17
>>824
信憑性があるかわからんぞ? 実際あっちにあるからな? 疑ってよい。
俺のは疑う、むこうのは疑わないというのは(エジプトにあるんだから)勝手な
言い分だぞ。

828 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 16:01:10
>>827
この件に関しては824が初レスなのでそんな風に言われても困るよw
神武即位元年が西暦紀元が重なるにどんな意味を見出してるのか知らんが、天皇家とキリスト及びその勢力と関連があるという主張ならちゃんと根拠を挙げなさいよ。
それにエジプトに菊花紋があるからなんだというの?
事実として何らかの関連があると言ってるの?それとも書紀の編者らが何らかの知識を得て結び付けたと主張してるの?
途中からみてるせいかよくわからん。

829 :太国:2006/05/20(土) 16:12:15
>>828
そこまで分かるならだれでも信じているよ。数少ない論拠うを挙げたまでだよ。
自論の成立の余地のあることを言っているんだよ。俺だって自論が絶対正しい
とは言ってはいない。君の出したものは多いにけっこうだが、それだけでは
結論を出したくないということだよ。間違えるんでね〜。
愛用したのが始まりと言っているが、それは初見だと、そこの時までは確かだと
いうだけのことだよ。そんなことを言うなら、おまえさんも神武のころ菊花紋を
使用していないという根拠をあげろよ。
分かったわかったよ、途中までなら保留。

830 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 16:39:54
>>829
> そんなことを言うなら、おまえさんも神武のころ菊花紋を
> 使用していないという根拠をあげろよ。

そういうのは悪魔の証明といいます。
悪魔の証明を他人に迫るのは自分はバカですと言ってるようなものです。
っていうか後鳥羽上皇以前に菊花紋が使われていた証拠を太国さんが一例でも提示してみればよいのでは?
そっちの方が簡単な気がします。

それはそれとして聖徳太子の誕生譚をイエスに結びつける話もあるなw
太子は仏教の帰依者であるのになんでシッダルタに結びつくような話ではないんだろうな?
なんか不思議だ。

ところでエジプトの菊花紋ってなんなの?
一般に使われていた紋章なの?それとも特定の王家の紋章?
イエスあるいはキリスト教と縁のあるものなのか?
その辺はどうなの?

831 :太国:2006/05/20(土) 16:47:02
>>830
だから言っているじゃないか。そんなことを簡単に完全に立証なんかは俺だって
できっこない。ただ、自論が完全には否定されていないだろうということだよ。
つまり、成立の可能性を言ったまでのことだよ。それにまた〜。あの
悪魔の証明がどうのこうのを言い出したのか?疲れるからそんなこと持ってくん
のはいい加減にしろ。またあれかと言いたい。そんなの無しに言えよ。
馬鹿馬鹿しい。

832 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 16:51:51
まあキクという言葉自体が音読み(中国語)だからね
そんな古くからのものであるはずがない

833 :太国:2006/05/20(土) 16:53:55
>>832
はずはある。

834 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 17:46:36
>>831
別に立証なんて迫ってなんかないんだけどね。
神武即位紀元と西暦紀元が重なることが意味があるの?という誰かのレスに対して
エジプトの菊花紋がどうのこうのというレスがあったから、だからそれが何なの?という話なんだが。

> ただ、自論が完全には否定されていないだろうということだよ。

というが、菊花紋がエジプトのものだとしたらユダヤ教およびキリスト教にしたら敵対的な紋章なんじゃないの?
神武即位紀元と西暦紀元との関連で言えばあまりよろしくない関係であるといえるんじゃないの?
それに天皇家の菊花紋自体が、12cの一天皇(上皇)の好みが発端なのであればなおさら関係性を見出せないんだけど?
別に立証する必要はないからさあ、その辺をどう考えているのか教えてよ。

835 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 17:53:07
>>834
この太国爺さんは、それ以前に、
>エジプトマヤを逆読みすれば、ヤマトフジエ(大和富士絵)となるのがえらく
>気にかかるが
なんて言ってます。

な ん で エ ジ プ ト と マ ヤ が ひ っ つ い て、
そ れ で も っ て 逆 さ 読 み す る ん だ よ!

836 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:06:50
なんか邪馬台国がエジプトにあったって説みたいになってきているなw

837 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:09:40
>>835
MMRでももっとマシな理論展開だぞ?





ゴメン。あれもぜんぜんマシとは言えないw

838 :太国:2006/05/20(土) 18:17:31
>>834
発端云々、それは仮説でないか。そうだったらの話だろうが?
そうじゃなかったら、それ以前が発端だということだよ。w
勿論あっしのもまだ仮説だよん。w

839 :太国:2006/05/20(土) 18:20:53
>>835
じゃぁ、何でそれでもって太国と爺さんとをひっつけるんだよ?

840 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:31:18
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1109975096/l50#tag715
ここの706
>今は日本の経済は円の時代が続いているが、昭和20年代は「銭」の単位があった。
>当時拙者は銭でバター類を買った経験がある

アッハッハッハッハッ!

841 :日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:37:09
昭和24年はひどいインフレでしたね>太国爺さんへ

842 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/21(日) 09:50:16
>>808>>812征東大将軍さん
応神列(A列)と雄略列(B列)との間には、X=Y+120、もしくは、X=Y-120の関係が
成り立っていますので、何年に適用させようとも120年ズレることはあたりまえです。
>>1で述べたように、私の説においては「プラス・マイナス120年構想」の+−120年という考えは、
重要ですが、日本古代史研究にもっとも貢献できる点は、「応神元年=390年」、「雄略5年=461年」、
「允恭5年=437年」、「仁徳元年=397年」という基準年にもとづく「年代列」によって
日本書紀紀年法が多列・並列構造となっていることかもしれません。
すなわち、応神天皇以降の紀年は、実年代を求めることができるようになったのです。
また、「確定紀年」と「延長紀年」という重要な区別があることがわかったことも
大きな研究成果であると思っています。

843 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/21(日) 10:02:27
太国さん
太国さんのおっしゃられている菊花文は、十六花弁の菊花文なのでしょうか。

844 :征東大将軍:2006/05/21(日) 10:26:02
>>761
>一方、垂仁紀は崇神元年を西暦91年として考えると、
>西暦159年から257年までを扱っています。

研究家さんは何時から257年までを垂仁紀に扱うように
自説を変更したのか、そこから聞きたいですね

845 :征東大将軍:2006/05/21(日) 10:28:41
>>807
研究家さんが何故そのような質問をされるのかが解りません

貴方は箸墓が何を指すのか本当に知らないのか
知っているのに私を試しているのか一体何なんですか?

846 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 12:26:25
征東大将軍氏
そんな喧嘩腰な物言いはどうよ?
それより少しスレ違いだがお答えを。

>>812
>筑紫、新羅、大和の三界征覇ですね

誰がこの三界を制覇したの?

847 :征東大将軍:2006/05/21(日) 12:41:32
倭人(広義)が、とでも言えば良いでしょうか

848 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 13:17:37
倉西さんが議論のセオリーを守らないからといって
将軍様が破って良い理由にはなりませんよ

849 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/21(日) 15:47:21
>>844>>845征東大将軍さん
自説を変更したのではありません。
西暦201年から西暦389年までは「プラス・マイナス120年構想」において、
神功紀において扱われています。
しかしながら、>>640でも述べましたように、201年から389年までは、「天皇即位=立太子構想」
という別の構想が設定されています。
すなわち、神功紀には「189−69=120」となっておりますので、紀年数が 120年分足りないのですが、
西暦91(崇神元)年から390年までの間には、「天皇即位=立太子構想」
という別の構想が設定されていて神功紀の不足をカバーしています。
そして、「天皇即位=立太子構想」には、西暦91年を崇神元年に位置付ける2本の「年代列」
から構成されています。一本の「年代列」は『日本書紀』において配布されている紀年数をそのままに
加えていった「年代列」です(「崇神列」)。もう一本の「年代列」は歴代天皇の宝算の年差を
当該天皇の在位年数と考えて加えていった「年代列」です(「確定崇神列」)。
西暦159年から257年までとする垂仁天皇の在位期間は、「崇神列」上において求めた
在位期間となります。

850 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/21(日) 15:50:35
>>847征東大将軍さん
>>846さんのご質問にも、まともにお答えになっていないようですが、
箸墓古墳についての記述がいずれの天皇紀の何年条に見えるのかという
私の質問にもお答えいただきたいと思います。

851 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/21(日) 15:53:04
>>848さん
私は議論のセオリーを守っていないつもりはありません。
>>848さんは、具体的にどのような点において私がセオリーを守っていないと
お考えになっておられるのでしょうか。

852 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 15:58:35
>>849
> 「天皇即位=立太子構想」

これなんですが、どういうことだったでしょう?
ある天皇の即位元年は実は前天皇紀に載る立太子年であるということでしたっけ?
そうすると前天皇は皇太子を立てると上皇みたいなものになり、実質的には皇太子の執政だったということになるの?
それとも立太子記事以降は紀年が水増しされてるということだった?
今一度、改めて提示してくれると助かります。

853 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 16:21:03
>>847
つまり西暦57年、58年に、
倭人(広義)が筑紫、新羅、大和の三界征覇をしたのですね?


854 :征東大将軍:2006/05/21(日) 16:22:31
>>846への回答が十分か不十分かは
846での私への質問意図によるんじゃないでしょうか

846さんがこの件で何か追加質問があるならお答えしますから
どうぞ質問なさって下さい


>箸墓古墳についての記述がいずれの天皇紀の何年条に見えるのかという

日本書紀研究家さんは日本書紀研究家なのに
御自分で日本書紀を調べないのですか?

855 :征東大将軍:2006/05/21(日) 16:52:11
>>853
勿論、筑紫、新羅、大和を征覇と言っても
局所であってと言ってもその全領土を支配して居るとは考えられないですが

列島も半島も小国から歴史が始まる訳ですし
当該地域に同時期の倭人政権が3つあったとすれば
この時代が倭人の画期点・萌芽期として意味がある時代じゃないでしょうか


ですから新羅本紀が信用できるのか?と云う人も居ますが
漢委奴国王、昔氏解脱、倭人瓢公、神武天皇(切片-833)

が同時代性を持って並ぶ事で相互に信頼度を高め合ってるように感じられます

まぁ、日本書紀の上代の信頼度の問題や、
その日本書紀より数百年遅い三国史記ですから
「比定人物だけが居て、解脱も瓢公も神武も実在はしなかった筈だ」
と言う事も出来ますが

紀元前660年に設定されている神武即位が、
実年代算出でニアピンであるなら、
日本書紀は歴史的年代はそのままでは問題ありますが
歴史的事跡はそれ程在り得ない事を書いてる訳ではない
と考えられるんじゃないでしょうか


856 :日本@名無史さん:2006/05/21(日) 19:19:17
倭人(広義)の神格化したものは
スサノヲと考えても良いですか?

857 :征東大将軍:2006/05/21(日) 23:50:50
それと、神武〜開化までには別の切片を持つ崩御年直線が
用意されている可能性は否定しません

その場合は神武即位年は西暦58年より古くなりますよね

何か決定的なフラグが見つかって、その年を境に別の崩御年直線に切り替わる事が解るか、
或いは閃きや推測の検証実験から、今まで説明できなかった事が
その事で説明出来る様になる事で逆説的にその正しさが実証される等々・・・


何れにしろ、「全ての年代に措いて矛盾無く一様に説明出来るプラン」
と云うのは多くは無くて、既に人が解いてる箇所同士を統合して、
その理論、その過程、その結論が収束されて行く筈じゃないですかね。
ゴ-ル地点が同じである以上

それでパズルの最後の数ピースを誰が埋めるかの競争が始まってる、みたいな

もう既に最後に成るべきピースは誰かが握っていて、
その人自身では解けない別の箇所を、
他の誰かが埋めるまで待っている状況かもしれないです。

或いはカードゲームで序盤からキリ札を用意してる人間と
相手のキリ札が解らず、自分のカードが揃うのを待っている人間に
別れている状況かもしれないです。

また或いはこの分野全く関心の無かった人がフラっとやって来て
瞬間的に解いてしまうかもしれないです


そんな気がしませんかね

858 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 01:41:34
やっぱり干支だよ。日本書紀は60年水増しの傾向がある。
もう一つの傾向は、天皇の即位年と在位期間と存命期間が
しばしば混同されてることだな。
あと古事記による補正だな。古事記は二倍暦年の傾向が強いね。

859 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/22(月) 08:03:04
>>852さん
「天皇即位=立太子構想」とは、>>849でも述べましたように、西暦91年を
崇神元年と位置付けた「崇神列」と「確定崇神列」の2本の「年代列」によって
構成される構想です。「崇神列」では、『日本書紀』に配布されている紀年数を
崇神元年から応神天皇の立太子の記述の見える神功三年まで足してゆきます。
すると、神功三年は西暦390年となり、応神列(A列)における応神元年の390年と一致します。
「確定崇神列」では、『日本書紀』と『古事記』の歴代天皇の宝算の数字の違いによって
算出されてくる差を当該天皇の在位年数と考えて、これを応神元年まで足してゆきます
(『古事記』には神功天皇の段がありませんので、仲哀天皇の次帝を応神天皇と考えます)。
すると、応神元年は西暦203年となり、『日本書紀』の編年の神功三年の203年と一致します。
こうのように、応神天皇をめぐって、天皇即位=立太子という構図が203年と390年の二箇所で
成立している構想が、「天皇即位=立太子構想」です。
拙論「『紀』・「記」における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」で論じておりますので、
ご参照いただければ幸いです。

860 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/22(月) 08:11:50
>>854征東大将軍さん
箸墓については、崇神十年条に倭とと姫命のお墓としてでてまいります。
しかしながら、卑弥呼の墓と考えれば、神功48年、神功66年、神功69年頃
とも考えられます。征東大将軍さんは、箸墓築造を248年とおっしゃられておりましたので、
いずれの年紀のことであるのか疑問に思い質問させていただきました。

861 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/22(月) 08:23:40
>>857征東大将軍さん
857で征東大将軍さんがおっしゃられている「全ての年代に措いて矛盾無く一様に説明出来るプラン」こそ、
私の研究成果である「グランド・プラン」であると思います。
日本書紀紀年法は、「プラス・マイナス120年構想」や「天皇即位=立太子構想」などのいくつかの
構想によって成り立っていますが、以下の式が『日本書紀』と『古事記』の間に認められることが基本となっています。

『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支

この式を適用させますと、多列・並列構造であることや、崇神元年が91年となることがわかり、
日本書紀紀年法を構成する構想が見えてくることになるのです。

862 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 16:03:57
太国爺さんが「2倍年暦の真実」スレで、
勝利宣言しそうな勢いですが?w

863 :858:2006/05/22(月) 19:00:44
まず、神武天皇の即位年齢は51歳、在位期間は16年、享年67歳。
算定根拠は、紀では干支60年分が水増しされてるとの仮定に基づく。
水増しされてるのは在位期間と仮定する。
根拠は即位前に比べて、即位後の事跡が非常に少ないから。
また、記の享年137歳を2で割ると68.5歳になり、67歳に近い年齢が得られる。

864 :征東大将軍:2006/05/22(月) 19:03:54
さらっと見てきましたが年代観の大局は間違ってるは思いません
最後のピースを入れるのは太国かもしれませんね

研究家さんと遊んでる間に時計の針が随分進んでたんですね
私も神武〜開化に手を付けたいと思います


因みに研究家さんのグランドプランは根本的に間違っていると思います

865 :征東大将軍:2006/05/22(月) 19:21:56
研究家さんは >西暦91(崇神元)年< と云う事ですが
では崇神十年の実年代は西暦100年なんですか?

箸墓の実年代は西暦100年なんでしょうか?

そして卑弥呼死亡推定年代の西暦247〜248年と同期の書紀年代が
>神功48年、神功66年、神功69年頃

に成るんですか?なんですかこの幅は?

866 :858:2006/05/22(月) 20:04:14
綏靖天皇の即位年齢は16歳、在位期間は33年、享年49歳。
算定根拠は、立太子年の13歳は神武没年という仮定に基づく。
紀で、綏靖天皇の人となりについて、壮年までの描写しかないのは
壮年で没した為であろう。
また、幼い頃から気性が雄々しかったという記述は、自分たちを殺そうと
目論んだ、腹違いの兄を、ガクブルの次男に代わって討ったという事跡を
反映したものであろう。
在位期間と没年の干支は操作していないと仮定する。
記の享年45歳は、立太子年の13歳と在位期間の33年を加算して得られる
46年と、ほぼ一致する。

867 :征東大将軍:2006/05/22(月) 20:08:36
        日本書紀   古事記   算出実年代       備考
(切片-833)
開化、前157〜前98年         225年〜245年  卑弥呼西暦239年遣使
崇神、前97〜前30年   〜258年 245年〜268年  卑弥呼死亡年248年?
                                 書紀崇拝十年箸墓記事=西暦248年
                                  倭の女王、西暦266年遣使

(切片-902)
神功、後201〜後269年        367年〜390年 七支刀西暦369年作刀

868 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/22(月) 20:12:53
>>862さん
勝手で、一方的な勝利宣言は誰にでもできます。
学問的に大切なことは、その説に論理的、合理的説得力があるか否かです。
前にも述べましたように、定説とは、批判や反証を通して、徐々に形成されてくるものです。



869 :疑問に思ういらつめ:2006/05/22(月) 20:31:07
>>征東大将軍さん
 ”征東大将軍”という称号には、”東方を征す”という意味が込めら
れていると思われます。我が国日本の東の方は、太平洋の海原ですので
征東大将軍さんは、いったい、いづこにおられる方なのでしょうか?
 また、太国さんを援軍の頼みとしているところから推察しますと、何
らかの軍団を率いておられるとも見受けられます。征東大将軍さんは、
”軍団?”の力を背景にして、圧力で自らの独りよがりの学説を押し付け
ようとしているのでしょうか。強圧的な態度ではなく、学術議論による
勝負をお願いいたします。

870 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/22(月) 20:32:11
>>863>>866 858さん
858さんは、単純に干支一運を引けばよいというお説には、以下の疑問があります。

1)開化天皇、景行天皇、成務天皇の在位年数は60年ですが、
  これらの三帝の在位年数は0年なのでしょうか?
2)神武没年が、なぜ綏靖天皇の立太子年となるのでしょうか。神武紀では、
  綏靖天皇の立太子は神武42年条に見えます。神武末年は神武76年ですので、
  この34年の年差はどのようにお考えでしょうか。

871 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/22(月) 20:46:39
>>864>>865>>867征東大将軍さん
征東大将軍さんは、まずは、>>1、ならびに、>>859で述べた私の説の数式を
計算なさってみてください。
それから、私の説が間違っているか否か、発言なさってください。
また、私は箸墓の築造年代が崇神十年条に見えるのは、箸墓が前方後円墳を
表現しているからであると考えております。
この箸墓の築造年代の問題は、パート2でも議論となっていますので、パート2を
お読みになってください。
西暦248年は、神功48年ですが、卑弥呼の墳墓という意味で、3つの年紀を挙げました。
いずれにいたしましても、妹の疑問のいらつめも>>869にて述べておりますように、
集団的で、強圧的威圧によって、私の説を否定しようとなさることは、
止めていただきたいと思います。
このスレッドは、学術的な議論を冷静に行うためのスレッドです。

872 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 20:47:11
>>869
将軍様にコテハン名を変えろ。という意味ですか?

873 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 20:58:06
>>研究家さん
「天皇即位=立太子構想」についてのレスをありがとうございます。
今読んでみたのですが859と861は同じことを言ってるのでしょうか?
違うことを言ってるのでしょうか?
ちょっとわからなくなってしまいました。
もう一度、御本を読ませていただいて再確認したいのですが、実は手元にありません。
申し訳ない。
またどこかで見つけて読んでみることにします。

>>858さん
ちょっと確認してみました。
紀の編年によると
綏靖立太子:神武42年
↓35年
神武崩御:神武76年
綏靖崩御:(神武80年)
↓34年
綏靖崩御:(神武113年)
神武崩御翌年から数えれば38年。
近い数字っちゃあ数字だが誤差と片付けてしまうのは乱暴な気がします。

ただし紀には当芸志耳命を討った年、すなわち元年前年にも太歳記事がある。
この太歳記事から綏靖崩御までだと35年となる。
また紀には神武崩御後、喪中期間があったことを記すが、記にはない。
この喪中期間は3年。
記の綏靖の年齢にこの喪中期間の3年を足せば48となる。

ここからは小説的想像。
綏靖元年前年の太歳記事が実は当芸志耳命即位の記事の名残りだとしたら?
史実が神武崩御→(喪中3年)→当芸志耳命即位、同年綏靖叛乱→翌年綏靖即位と言う流れだったとしたら?
その為に記録の混乱、編者の思惑の違いなどがあったと仮定すれば、858さんの論も強ちありえないとは言い切れないのではないか?
そんな気もしないでもなくなってきたかも。

874 :征東大将軍:2006/05/22(月) 21:07:39
国太さんのより精度が良いと思ってるから援軍なんか要らないけど
でも国太さんはセンスあるよ人でしょ

>神功皇后≠卑弥呼≠天照大御神

真っ先にこれを理解してるからね
これを理解してる人間は考えを深めて行っても年代観を大きく外さない

さらに三倍経過区間がある事に気付いて、

その事から崇神の古事記崩年干支年の主張年を理解すれば
年代観が収束してくる

それにこの人は神武即位年をad1年で山張ってたんでしょ?

切片-833ではad58年だから神武〜開化までに手を入れれば
神武即位年はad58年よりもっと古くなるからね

まぁ、ad1年より古くなる事も考えられるけど
それでもad1年±60年ぐらいで収束する筈

カンニングなしで自分で計算し捲くってる筈
どの月日に記事があるかをカウントしようとしてる
人と違う視点と根性がある
脱線した時の軌道修正も早そう

古代史研究者の姿として真っ当だ

875 :太国:2006/05/22(月) 21:21:35
>>874
山は張っていないです。以前は神武即位を前130年と観ていましたが、これは
仁徳崩御以前を(すべて)2倍暦だと思って逆算し、その結果の値でした。
そしてこれが駄目とわかり、遺棄して3倍暦説等を含ませて行き、110年とか66
年説とか、非公開の他の説を考え、それらも誤と判断し、今回の手前で西紀3年
を得ましたが、1〜2日経過して、おやっ神武即位はもしかしたら西紀元年なの
ではないのか?2年の差だな。これはノートの表の計算に2年のミスがあるに
違いないとして調べ、別のことから神武即位を西紀元年と割り出したものです。

876 :858:2006/05/22(月) 21:23:01
>>870
>単純に干支一運を引けばよいというお説

私が干支を最も重視しているのは事実ですが、そんな単純な説ではありません。
立太子年齢も即位年齢も在位期間も享年も重視してるし、記年齢も考慮します。
1)についてはこれから述べる予定です。
2)むしろ重要なのは、綏靖が神武没年時に48歳だったという記述でしょう。
これは綏靖の記年齢45歳に喪中の3年を加算した数字と一致します。
紀の編者は、綏靖の記年齢45歳(+3年)と神武没年時の綏靖の年齢を
混同しているのです。ただそれだけの話です。

877 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 21:23:59
873をわかりやすくすると以下の通り。

紀において
神武42年綏靖(立太子年)〜神武76年(神武崩御年)の35年=当芸志耳命治世1年+綏靖治世34年
の式が成立する。
喪中期間の事を考慮すれば真の神武の崩御年は神武38年?

記では綏靖の享年45歳。
しかし喪中期間を除いているのでその分を計算するのを忘れたのであって、真の享年は48歳。

1行目の意図どおりわかり易くなったであろうか?
あくまで858さんのアイディアを借りてみました。
以上、今のところパズルの域は出ないかもしれませんがw

878 :858:2006/05/22(月) 21:37:19
安寧天皇の即位年齢は19歳。在位期間は38年、享年は57歳。
算定根拠は、在位期間と享年干支は操作していないという仮定に基づく。
記の享年49歳に基づくなら、安寧の即位年齢は10歳になる。
紀より享年の若い、記のほうが正しい可能性もある。
即位年齢が若ければ、相対的に在位期間が長くなってもおかしくないからだ。

879 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/22(月) 21:48:17
>>875
爺ちゃん…

当然、その説を史学会で発表してくれるんだろ?
大発見しながら学会に発表しないのは、
川口浩探検隊みたいだもんね…

880 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/22(月) 22:04:45
>>874
征東大将軍氏。
>国太さんはセンスあるよ人でしょ

ありがとう!
…って僕の事?www

881 :858:2006/05/22(月) 22:18:27
>>877
>真の神武の崩御年は神武38年?
それだと神武享年干支が合いません。

綏靖の立太子年13歳は神武没後と仮定するなら、綏靖の
神武没年時の年齢48歳=古事記の享年45歳+喪中3年と
一致するので、綏靖の享年48歳もあり得そうです。

882 :征東大将軍:2006/05/22(月) 22:22:26
あぁー、オメェーじゃなさそうだ

883 :征東大将軍:2006/05/22(月) 22:39:32
えぇー、例えば治世60年の天皇が記録されて居れば
その年代が三倍経過区間なら、実年代では20年ですし
二倍経過区間なら実年代では30年です


そこで三倍経過区間なら

・書紀の60年→各年1/3づつに圧縮されて実年代が20年になる
・書紀の60年→当代の天皇の実年代20年 + 「次代天皇年間への繰越40年。或いは只の水増し分」等と考える

等と大きく二つのケースが考えられます

後者の方が良く提示されるパタンです
研究家さんが云う延長記年の考え方も後者のパタンです

私も一応両方考えてましたので崩御年だけは合ってると云う意味で
崩御年直線と呼んでいましたが


>>867
の三倍経過年区間に設定した崇神天皇年間の計算で明らかなように、崇神天皇十年とは、
崇神天皇治世元年に設定した西暦245年を基準とした十年目の西暦254年ではなく


崇神天皇十年とは、崇神天皇治世元年に設定した西暦245年を基準とし、
各年を1/3づつ圧縮した西暦248年で在るべき事が、

248年(もしくは247年)に日本列島で起きた歴史的事件である卑弥呼死亡年と一致する事で決定的になった

このこの事は即ち、崇神天皇十年記事の箸墓の一文こそが、その書紀の意味的にも、漢籍の文献的にも、考古学的にも
日本書紀での数学的構造的にも、、まさしく卑弥呼死亡年西暦248年と一致する事を証明している


884 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 22:45:56
>>881
神武崩御と綏靖即位の間の4年はどこかに消えちゃわない?
神武崩御干支は神武の記録ではなく、綏靖の記録から逆算したとしたものとした方が都合よくない?

885 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/22(月) 22:55:37
>>882
何がオメェーだ。
言葉使いに気をつけろ。

俺が太国を煽ってるのは、
いい歳して言葉使いを知らないからだ。

886 :858:2006/05/22(月) 23:18:36
>>884
神武崩御、BC585-丙子-神武76年3月11日
綏靖即位、BC581-庚辰-綏靖01年01月08日
喪中は3年10ヶ月くらいでしょうか?

887 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 23:21:14
言葉を変えてみても結局は人を不愉快にさせるような見方しかできなくなってしまったな
 

888 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 23:25:04
>>886
紀によるとそんな感じですね。
当芸志耳命が討たれたのが冬11月。
太歳記事が当芸志耳命の即位の名残りだとしたら、もうちょっと短くなるんじゃないですかね?
3年から3年半くらい?

889 :征東大将軍:2006/05/22(月) 23:27:13
この事からは言える事は

例えば治世20年と書紀に記録されているA天皇が居たとして
治世11〜20年までは延長紀年だのと言って

次のB天皇の元年はA天皇の治世10年の次の年であるとして


A天皇の治世11〜20年からを切り捨てたり、B天皇の治世年間に組み入れたりする議論は


それが例え、やれ「立太子年」から算出しようが、やれ「確定紀年」だのと言おうが
全て誤りであることが

>>883の崇神十年=西暦248年から証明されている



つまり日本書紀研究家は、年代観だけでなく、記年算出法までがそもそも間違いなのだ

890 :858:2006/05/23(火) 00:11:49
懿徳天皇の即位年齢は27歳。在位期間は34年。享年は61歳。
算定根拠は、在位期間と享年干支は操作していないという仮定に基づく。
紀の編者は安寧11年を立太子年としているが、懿徳の誕生年と混同
していると仮定した(これは安寧天皇10歳即位説とも調和する)。
紀の享年77歳は、記と比べて32年もの隔たりがあり、あまり信用できない。
記の享年45歳だと即位年は11歳となるが、即位から四年後に子供が
生まれているので、これも信用できない。
余談ながら、記紀の享年を平均すると、77歳+45歳÷2人=61歳となる。

891 :858:2006/05/23(火) 00:52:21
孝昭天皇の即位年齢は31歳。在位期間は23年。享年は54歳。
算定根拠は、在位期間の干支60年分の水増しと、享年干支は
操作していないという仮定に基づく。

892 :征東大将軍:2006/05/23(火) 01:02:55
研究家さんにもう一つ

>>807
3年のズレは、神武即位元年の実年代が辛酉年である事を前提として
y=3x-842と設定された為に、崇神天皇の実年代崩御年268年との差、3年分
を誤差として許容したもの、つまり本来の純粋な論理的整合性より、
辛酉年=西暦61年を通る事を重視した説の為に生じている

この誤差を許容する事によって派生する書紀年代崇神元年(前97年)と、
卑弥呼死亡年、台与即位年が関係する西暦248年が合致する事で
その誤差の意味を更に正当化していた

この事で書紀崇神十年(前88)の箸墓被葬者を曖昧に解釈する事も可能だった


しかし、>>795に措いて
崇神天皇の実年代崩御年と、辛酉年である事を前提とした崩御年との
3年の誤差を認めず、誤差ゼロ年として計算を試みた

それでy=3x-833
その結果、箸墓の記事がある崇神天皇十年(前88年)での
実年代が西暦248年で一致する事

従来のy=3x-842では説明出来なかった崩御年直線の移動基準年が不明だったのが
これにより書紀年代200年・仲哀末年時にx=344.333333333となり、
次の崩御年直線y=3x-902時の書紀年代131年・成務元年にx=344.333333333と一致する事で

この年代の歴史的事跡との一致と、書紀の数学的構造の整合性の両面が担保された

箸墓の年代は>>795で確定したのだ

893 :征東大将軍:2006/05/23(火) 01:14:56
part1での>>16で紹介されてた

成務までと、仲哀からとで、書記の年代が区切れる事も
>>892と無関係じゃない筈

894 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 08:24:47
>>872さん
学術的議論のためのスレッドに、「征東大将軍」というコテハンはそぐわないとは思います。
しかしながら、他人に「なりすまし」て、ニセ者問題を引き起こすなど、
ルール違反を行わない限りにおいては、どのようなコテハンを付けようとも自由です。

895 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 08:40:49
>>873さん
>>859>>861につきましては、日本書紀紀年法を一貫するグランドプランがあって、それは、

『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支

という式にもとずいており、「プラス・マイナス120年構想」も「天皇即位=立太子構想」も
グランドプランに含まれているということです。
「天皇即位=立太子構想」につきましては、きちんと纏めたものは、まだ書籍にはなっていません。
『日本書紀の真実 −紀年論を解く』は、「プラス・マイナス120年構想」を扱っておりますので、
崇神元年が西暦91年に設定した2本の「年代列」によって構成される「天皇即位=立太子構想」につきましては、
現時点では、「『紀』・「記」における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」で論じているのみです。
「天皇即位=立太子構想」につきましても、いずれ、一冊の書籍の形にいたしまして、
読者の方々の便利に資するようにいたしたいと思っております。

896 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 08:48:45
まぁなんだ。
それだけ自分の見解を持ってるなら、
太国さんも大将軍さんも、史学会で発表すればいい。


897 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 09:00:08
>>874・882・883・889・892・893征東大将軍さん
太国さんと国太さんをお間違えになったようですね。
>>874の内容からは、国太さんではなくて、太国さんを褒めておられるようでしたので、
疑問に思っておりました。
さて、>>889につきましては、>>1でのべた「プラス・マイナス120年構想」の以下のプラスの部分の式、

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年

は、「延長紀年」という考えで捉えませんと、説明することができません。
『日本書紀』や『古事記』における非現実的数字は、「確定紀年」と「延長紀年」という考えにおいて、
論理的、合理的に説明できえるのではないかと、私は考えております。


898 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 09:13:33
>>875太国さん
試行錯誤を繰り返すこと、そして、自説に誤りがあった場合には、修正してゆくという姿勢は、
よいと思います。
太国さんは、二倍暦スレッドやこのスレッドで主張しておられるその二倍暦・三倍暦というお説を論文や書物にまとめて、
発表なされたらよいのではないでしょうか。論文などの文章にまとまっておりますと、
スレッドの途切れ途切れの短い書き込みよりも、論理構成がはっきりしてまいります。
また、国太さんや>>896さんが、提案しておられますように、史学会などの研究報告の場で、
報告されることも一案であると思います。

899 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 09:24:31
>>876>>878>>881 858さん
858さんは、歴代天皇一代一代それぞれ、個々別々の算出方法を適用されていると想定されておられるようですが、
『日本書紀』では、どのような理由によって、さまざまな算出方法を適用させることにしたとお考えでしょうか。


900 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 09:31:29
九州の古代神
http://www.geocities.jp/gotos_room/_geo_contents_/tane.html
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/kamado/index.htm

▲種子島宇宙センター大崎射場(大型ロケット発射場)を望む。
古代へ!宝満神社と玉依姫と稲作の秘密

まずはいっきに古代へと時代を遡ってみましょう。
種子島の南部に創建年代がわからないほど古くから
この地にご鎮座される宝満神社があります。
御祭神は玉依姫。その昔、18人の従者を連れて
種子島の地にやって来たという伝説が残る女神です。
この玉依姫が持参していたものが赤米で、
それが日本の稲作発祥の地と言われる由縁となりました。
宝満神社は今でもオセマチと呼ばれる神田を持ち、
4月にはお田植の神事が執り行われるそうです。
玉依姫が伝えた赤米、ルーツはインドネシアの品種に
遡れるそうで、種子島には3万年以上前の立切遺跡や
縄文晩期の長崎鼻遺跡、弥生時代中期の広田遺跡と、
考古学的にもとても重要な遺跡が残っています。
太古の昔から人間が定住していたという証拠ですね。
玉依姫は一体いつこの地に現れたのかを空想しながら
島内の遺跡や神社巡りをするのも楽しいかも。
玉依姫の神威が今も伝えられる種子島は
日本一収穫の早い米どころでもあるそうです。
宝満神社には人の手が入らない聖域が今も残り、
参道をたどると種子島最大の淡水湖である
宝満の池にたどり着きます。稲作に水は不可欠ですし、
玉依姫は水の女神でもあったのかもしれません。
余談ですが、種子島宇宙センターのロケット打上げ時には
宇宙開発事業団の方が成功祈念にお参りするそうです。

901 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 09:38:13
>>892征東大将軍さん
もし、日本書紀紀年法が、ひとつの数式をもって説明できえるのならば、
例外(誤差)があってはいけないのではないでしょうか。
また、「次の崩御年直線y=3x-902」とは何でしょうか。
>>898で述べましたが、征東大将軍さんも、その崩御年直線説を論文に纏められ、
史学会などの研究報告の場で報告されるべきであると思います。

902 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 09:42:25
次スレからは将軍様たちが自説を発表するスレと
倉西さんの説についての質疑応答及び検証等を行うスレの
二つに別けた方がいいね

903 :征東大将軍:2006/05/23(火) 12:06:12
>>897
研究家さんとは話が噛み合って無いようだが
>>889の20年が10年になる例は二倍歴区間での実年代がどうなるかの話だ

仁徳で云えばこう成る筈だ

先ず、
y=2x+b
―――――――――――――
yに仁徳元年日本書紀年代313を代入
xに応神末年実年代西暦404を代入

313=2*404+b
313=808+b
313-808=b
b=-495
切片が-495が確定

y=2x-495
―――――――――――――
xに仁徳の実年代崩御年437を代入
y=2*437-495
y=379
―――――――――――

313〜y〜379の時、y=2x-495の式で、404〜x〜437
379〜y〜399の時、x=437

これで仁徳天皇年間の実年代が確定

そして日本書紀の数学的構造と同年の歴史的事実の一致により
実年代西暦437年に没した仁徳天皇は倭王讃であると比定する

904 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 19:39:54
>>902さん、皆様
>>1で述べましたように、私は、本来的目的としては、私の多列・並列構造論について
質疑応答をさせていただくために、このスレッドを立てました。
しかしながら、日本書紀紀年法をめぐりましては、多くの説がありますので、
謂わば「道場破り」のように、太国さん、東征大将軍さん、858さんなどが、
私の説に対して、それぞれのお説で挑戦されてきたわけです。
問題は、「道場破り」を受け付けるか否かにあります。
このスレッドの読者の方々が、「道場破り」があったほうが、
日本書紀紀年法をめぐる研究の現状がわかりやすいとお考えであるのならば、
「道場破り」を受け付けたいと思います。しかしながら、議論に混乱を齎すようでしたならば、
「道場破り」は受け付けません。
次スレッドを立てる際の参考として、皆様のご意見をお聞かせいただきたいと思います。

905 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/23(火) 19:44:06
>>903征東大将軍さん
征東大将軍さんは、数式を用いておられるようですので、数式に用いている
記号について、ご説明いただきたいと思います。
Y、X、bなどの英数記号は、何を意味しているのでしょうか。
Yは、西暦年、Xは、歴代天皇の崩年(紀年)でしょうか。

906 :征東大将軍:2006/05/23(火) 21:51:41
>901
>また、「次の崩御年直線y=3x-902」とは何でしょうか。

研究家さんが云うと所の年代列とでも考えて下さい
要するに研究家さんが言うところの年代列が複数あると云う意味に当たるんでしょうか

この式の適用範囲はYの値が成務元年から応神末年までの日本書紀年です

―――――――――――――――
それと、私は今は他人の研究している説の
不自然なところを検証・修正している段階です

>>892の前段付いては他人の説、
後段の>>795の付いては私が修正した説です。

>>903の仁徳年間の式も私が修正したものです。

神武〜推古までの全区間の年代での検証・修正にまだまだ時間が必要ですし
今はまだ、そんな所で発表する段階ではないです

只、もっと早く全てを解く人が出るかもしれないです
今はそう云う段階に入っていると思います

―――――――――――――――
>例外(誤差)があってはいけないのではないでしょうか。
そうだと思います。>>795の動機にしてもそうです。
そう云う時は疑うべきですね。

但し法則的な特定年数差の誤差が記紀等の記述で認められる場合は、
或いは逆説的に確認される場合は、最終的にはその事自体を
記紀等が修正されるべき根拠とすべきだと思います

907 :征東大将軍:2006/05/23(火) 22:00:21
>>905
Yは日本書紀の記述を、そのままを神武即位BC660年とする西暦値です
(私はそもそも日本書紀での年代を『西暦』と呼ぶべきではないと思いますが)

Xは実年代、史実上の西暦値ですね
bは切片、2は比例定数です。(私は仁徳年間を2倍経過区間としているので)

y=ax+bです。
数学の時間を思い出して下さい

―――――――――――――――>>903
仁徳治世年間は二倍経過区間だと考えられます。
根拠は、三倍経過区間だとすると、古事記の崩御年差(427-394=33)と
日本書紀の崩御年差(399-313=86)ですから

三倍経過区間だとすると、古事記崩御年差の三倍の値が、
書紀の仁徳治世87年より大きくなってしまいます

これを解消する為に、私でない人が考えた説では、
仁徳年間は最初は、応神と同じ直線上の三倍区間(y=3x-902)であり
仁徳治世67年記事の書紀年代(Y)379年以降から二倍区間としていますが


私は仁徳元年書紀年代313年をYに、仁徳元年実年代西暦404年をXとして
二倍経過区間が始まると考えて、検証したのが>>903です

こう考えた方が、仁徳治世67〜87年記事の意味が通ると思います。

さて、どうでしょうか。

908 :日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:31:03
これはネットで説明する事には少し限界がありそうですねw

909 :太国:2006/05/23(火) 23:25:22
拙者は、仁徳世を3倍暦と感じたのは、等倍暦と観た允恭世があるからで、
仁徳世を2倍暦とすると、允恭天皇は寿命が長いきらいが増大するとかのこと
から、仁徳世を3倍と観ました。
長き允恭世を等倍と判断した理由は、28日付けの探湯の出来事に依ります。

910 :858:2006/05/24(水) 02:10:33
>>899
私は、紀の編者は、伝承に基づいて編纂しており、基本的に即位年や享年干支は
操作してないだろうと仮定しています(無論例外はあります)。
併せて記年齢の根拠も説明することを考えています。
小川清彦の研究によると、朔の干支は、年代の引き上げがない部分が元嘉暦に一致し、
引き上げ部分では、222個の朔の干支が全て、紀編纂当時の儀鳳暦に一致するそうです。
私には、紀年法に挑戦する人々が、何故干支と朔を無視できるのか判りません。
方程式で人間の人生を切り刻むことは出来ませんから、歴代天皇一人一人の事跡を
検証し、数字の入れ替えや水増しがないか調べて補正するしかないと考えます。
紀年法の解明は数学のようにスマートにはいかないということです。

911 :858:2006/05/24(水) 03:10:04
>>890について、より良い説明を思い付いたので訂正する。
懿徳天皇の即位年齢は33歳。在位期間は34年。享年は67歳。
算定根拠は、在位期間と享年干支は操作していないという仮定に基づく。
紀の編者は安寧11年に16歳で立太子としているが、安寧の治世年と懿徳の
立太子年齢と混同していると仮定し、安寧16年に11歳で立太子とする。
これなら、記の享年45歳は、立太子年齢11歳と在位期間の34年を単純に加算
したものと明快に説明できる。
紀の享年77歳との差=10年は、16歳-安寧11年=5年と、安寧16年-11歳=5年を
加算した数字と一致する。

912 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/24(水) 09:02:07
>>906>>907征東大将軍さん
征東大将軍さんは、「他人の研究している説の不自然なところを検証・修正している段階です 」
とのことですが、いったい、どなたの説を検証・修正なさっておられるのでしょうか。
>>892は、書き出しが、「研究家さんにもう一つ」となっていますが、>>892の前段は
>>807さんのお説であり、私の説ではありません。
また、東征大将軍さんが用いている数式については、Yにいくつかの区別があるのならば、
「Y1」、「Y2」などの区別を設けませんと、読者は混乱するかと思います。
あるときは、成務元年〜応神末年で、あるときは、「Yは日本書紀の記述を、
そのままを神武即位BC660年とする西暦値です 」では、誤解が生じるのではないでしょうか。
>>908さんもおっしゃられておりますように、短い切れ切れのスレッドの書き込みでは、
限界がありそうですので、東征大将軍さんは、その崩御年直線説を論文か著作にまとめる
べきであると思います。

913 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/24(水) 09:07:42
>>908さん
>>908さんのスレッドでは限界があるというご意見には同感です。
征東大将軍さんも太国さんも、ご自身のお説に自信があるようですので、
論文、著作、もしくは、研究発表のいずれかの方法で、
お説をまとめられるべきであると思います。
私もまた、今後も引き続き、なるべく研究成果は論文、著作にまとめて発表
いたしたいと考えております。

914 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/24(水) 09:14:18
>>909太国さん
仁徳紀が三倍暦を用いているのであるのならば、平均して三倍に伸ばされていても
よいはずですが、仁徳紀は後半で、仁徳六十七年条から仁徳八十七年条に飛んでいます。
この間約20年ですが(太国さんのお説ですと3/20年)、これは、
どのようにお考えでしょうか。

915 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/24(水) 09:28:44
>>910>>911 858さん
小川清彦氏のお説は、安康紀のあたりから元嘉暦が用いられているというものです。
有坂隆道氏は、いくつかの観点から、安康紀ではなく、雄略元年から元嘉暦が用いられている
と主張されています。有坂氏の見解に蓋然性を認めて、私も、雄略元年から
元嘉暦が用いられていると考えています。
そして、私の多列・並列構造論において、雄略元年から雄略列が適用されることになります。
暦法の変わり目は、「年代列」の変わり目とも一致しています。
858さんは、「何故干支と朔を無視できるのか判りません。」とおっしゃられますが、
雄略元年以降は問題は無いのです。
また、儀鳳暦が7世紀に成立している暦法であることが、
神武元年〜安康三年までの干支と朔に対して、関心が薄い原因となっています。

916 :太国:2006/05/24(水) 09:53:30
>>913 >>914 日本書紀紀年法研究家さん
自信までは行っていませんよ。何となれば、批判されても完璧に近く相手を
納得させる回答をこさえるまでには至っていないからです。それが出来れば
それは自信が強く出てくるでしょうが? まだまだですよ。それに著書の出版も
したいことはしたいですが、専門家の貴女と同等に近いほどの腕の持ち合わせ
は無いからやれんです。たとえば他の関連文献の知悉度も貴女ほどはまるで
ないし、その文献の批判、検討、吟味も熟達の域に行っていません。さらに
干支というのは面倒くさく、あんなところをいじくるのは、嫌いな料理を喰う
ようなもので、気がのらないんです。さらに天体の運行などと紀との突き合わせ
ももう頭が疲弊してやりたくないからです。それは自分も過去にエフェメリス
の古いのを入手して、古代とまでは行かなかったですが過去の天皇の誕生ホロ・
スコープ等を作成して研究したこともありますが、無用つまり得るところ0じゃ
ないですが?少なかったので、無用保留として、その研究から離れたものでした。
紀年の学識が貴女に遠く及ばんでは臥海に公表するなどと、大それた真似は自分
には不適格ということです。
そこの仁徳の条の飛びとは、先述しましたが、紀の應神39年からに於いて、以降
の記述に月までの記述のがえらく多くなり日の記述がすっぽかされている文に埋
まり始めるのです。應神39年の条は貴女なんかは空読みできるほどの箇所で
しょうが、日付の抜けは百済とか大陸とかの文献との照合が編纂者側でうまく
行かず、嘘は書けないので月までの記述にしておけば誤記を相当程度回避出来
うると考えて、日付の記述をやむを得ずしなかったという事と推定しております。
それと同様で、仁徳の条のそこの間が空いているということは、上のように
大陸との文献の照合においてか、他の誤記を恐れての記述できない何らかの理由
が認められたため、腫れ物を触るようなことを避ける想いでそこの記述を紀に
書き留めるのをやめたんではないか? と思考する次第であります。

917 :太国:2006/05/24(水) 11:42:41
仁徳世を2倍暦にしますと、先のとおり允恭の寿命が長すぎるきらいが出てきま
すが、さらに武内縮年の寿命が長すぎてくるのが、もっと目立ちますよ。
なので、同世は3倍暦でやっていたんだろうとの考えを強くしたのです。
ちなみに3倍ですと、武内宿年は110歳です。数代に仕えていた人でギリギリの
選択です。ほかの方法だとどこかに納得できない部分が出るでしょう。
この寿命だと、現代にも少ないですが、いるにはいますからねぇ〜。

918 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/24(水) 12:51:46
>>916>>917 太国さん
太国さんにしては、謙虚なことをおっしゃられておりますが、発表なさるにせよ、なさらないにせよ
一度、論文形式にまとめられてはいかがでしょうか。
論文形式に、考えをまとめてみますと、論理的欠点などのさまざまな問題が見えてくる場合があります。
また、仁徳紀が三倍暦であるというお考えについては、以下の質問をさせていただきたいと思います。

『日本書紀』において武内宿禰は、景行紀から仁徳紀にかけての人物と想定できます。
太国さんは、武内宿禰の存命期間の110年を実年代で何年から何年までと
考えておられるのでしょうか。

また、ちなみに、私も、『日本書紀』の文章すべてを暗記しているわけではありません。
このような記述が何々条にあったということを記憶している程度です。
漢文体の文章を空んじることは、至難の業です。
したがいまして、文章の内容に正確を要する場合には、『日本書紀』を確認するようにしています。

919 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 13:21:30
武内宿禰は景行14年〜仁徳55年らしいですが、研究家さんの構想だとこの間の実年代は何年間なのでしょうか?

920 :太国:2006/05/24(水) 14:35:30
>>918 日本書紀紀年法研究家さん
武内宿禰は

皇紀   見かけ 実年
743   83   299 誕生(景行世)、成務誕生
1027   367   409 没年(仁徳世)

見かけの皇紀と実年で、景行世は2倍暦と観てますので743の意味は743か744、
83は83か84でして、仁徳世は3倍暦としていますから1027はそれと1028,1029
367はそれと368,369のいずれかの年ということになります。

921 :太国:2006/05/24(水) 14:39:02
>>920
ズレましたが、向かって左側は見かけになる皇紀、真ん中は見かけの西紀、
向かって右側は実年代です。

922 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/24(水) 20:34:19
>>919さん
仮に、919さんがおっしゃられるように武内宿禰を景行14年から仁徳55年までの
人物と考えますと、まず、景行紀の紀年は、「天皇即位=立太子構想」によって実年代を求めなくてはなりません。
「天皇即位=立太子構想」は、「確定崇神列」と「崇神列」の2本の「年代列」によって
構成されていますので、景行14年は西暦271年(崇神列)、もしくは、
西暦165年(確定崇神列)の2箇所に位置付けられます。
仁徳55年は、「プラス・マイナス120年構想」の仁徳列(D列)上の451年に
位置付けられることになります。
崇神列の271年でも確定崇神列の165年でも、武内宿禰を一代の人物と考えることは、
難しいと言えます。そこで、私は、武内宿禰には、複数の人物が投影されていると推論
しております。

923 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 20:39:57
>>920>>921 太国さん
「皇紀」とは、神武元年の紀元前660年から数えた年代、
「実年」は西暦と拝察いたします。
しかしながら、真ん中の「見かけ」の意味がわかりません。
太国さんのおっしゃられる「見かけ」とはどのような基準にもとづいた年でしょうか。

924 :太国:2006/05/24(水) 20:45:19
>>923
言い方がよくなかったようで、あいすみません。
皇紀から660年引いた西紀年と言われているやつですよ。実年じゃなくていう
西紀のことですよ。

925 :太国:2006/05/25(木) 10:59:55
>>922
倉西女史はまだ甘い映画のような夢をみているようですね。
武内宿禰は個人を特定するための御名であり、号ではないでしょう。
号は武内宿禰大臣の「大臣」のほうですよ。だから複数もいるわけがないです。
難しいなら何らかの論理、説の欠陥があるわけで、考えを玉虫色の様な同時共在的
の甘すぎる方向に考えを行かすのではなく、もうそこの直前の部分の論理を遺棄
して戻って新たに他の論理を考えないと、空想映画的一人複役での現実には起こり
得ぬことを現実倒錯して認容しもうアウトですね。つまり女史の考え方は探偵映画
の怪人二十面相的「怪人複面相」であり、もうおかしくなってしまいます。
はやく目をさまして下さい。

926 :日本@名無史さん:2006/05/25(木) 12:38:24
ある人物の複数化というより説話等の架上・複写を考えたほうがいいな

927 :日本@名無史さん:2006/05/25(木) 12:39:56
倉西は都合が悪ければレスしなければ良いわけで
レスつけるのは都合が悪くない駄論だかではないか?

928 :日本@名無史さん:2006/05/25(木) 12:52:08
倉西ははっきり言えば甘えてるんだからピシピシ鍛えてやる必要がある
学界では相手にされない雑魚のクセに格下の電波に意気がるのが証拠だ

929 :日本@名無史さん:2006/05/25(木) 14:07:03
>>928
お前のような雑魚に?

930 :日本@名無史さん:2006/05/25(木) 14:29:26
結局は解明されてないわな・・・


931 :悲しいいらつめ:2006/05/25(木) 14:44:42
>>928さん
 ”雑魚”と呼ばれて、うれしい人はいません。犯罪や人の道にはずれ
るようなことをした場合には、確かに、犯人に対して罵詈雑言が浴びせ
られることはありましょうが、学問上の議論において、相手に対して、
何の根拠もなく”雑魚”と呼ぶのことは、まことに悲しいことです。
928さんこそ、他者の人格を尊重する、という社会の基本的な態度を、
努力して身につけていただきたいものです。見かねた妹のいらつめが
一言申し上げます。


932 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/25(木) 15:19:48
>>923は、「日本史@名無史」となっておりますが、私の書き込みです。

933 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/25(木) 15:27:20
>>924>>925太国さん
「見かけ」が「皇紀から660年引いた西紀年」であるのならば、
「見かけ」と「実年」は一致するかと思いますが、なぜ、一致していないのでしょうか。
また、私は「武内宿禰」は、号であるとは申しておりません。
「武内宿禰」には、複数の人物像が投影されていると考えられます。

>>925のようなご発言は、私が、>>1で述べた計算式を計算されてからおっしゃられてください。

934 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/25(木) 15:30:55
>>926さん
926さんがおっしゃられる「ある人物の複数化というより説話等の架上・複写」につきまして、
私は、むしろ、「時代の異なる複数の人物の単一説話化、もしくは、統合説話化」
なのではないかと考えております。

935 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/25(木) 15:38:49
>>927さん
>>927さんは、私の説に対して「駄論」とおっしゃられているのでしょうか。
仮に、927さんが、私の多列・並列構造説を「駄論」とおっしゃっておられるのならば、
927さんも、私が>>1で述べた計算式を計算なさってみてください。
「駄論」ではないことが、わかるはずです。


936 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/25(木) 15:52:31
>>928さん
私が、いったい何に甘えているというのでしょうか。
私には、バックアップしていただけるような組織的背景はありません。
また、私は、独身の女性ですので、頼る者などいないのです。
ひたすらに、自らの才能のみをたのみに、一生懸命に研究を続けているのです。
また、928さんは、私のことを「学界では相手にされない雑魚」とおっしゃられますが、
一昨年前の史学会大会では、「日本書記紀年法」をテーマに研究報告をさせていただいております。

937 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/25(木) 15:56:35
>>929さん
928さんが、私に対して誹謗中傷されていることに対して、
ご親切にも言い返してくださいまして、ありがたく思います。

938 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/25(木) 16:07:16
>>930さん
このスレッドのテーマを「日本書紀紀年法がついに解明されました」と
付けましたのは、多くの人々に、日本書紀紀年法が多列・並列構造であることを
知っていただくために、少しインパクトのあるテーマにしてみようと考えたからです。
もちろん、私の多列・並列構造説に対して、反論や批判があるでしょうから、
このスレッドで、学術的な質疑応答をさせていただこうとも構想いたしました。
テーマは、大げさな表現であったかもしれませんが、日本書紀紀年法が、
多列・並列構造であることがわかってくると、日本古代史の見晴らしは、
きっと、よくなるはずです。


939 :日本@名無史さん:2006/05/25(木) 16:32:06
>>934
応神朝にとって日本武尊と武内宿禰は同じくらい重要で象徴的な人物であった。
ということなんですかねえ。
応神朝と、仮に呼ぶべきものであったらですが。

940 :858:2006/05/25(木) 21:36:44
孝安天皇の即位年齢は35歳。在位期間は42年。享年は77歳。
算定根拠は、干支60年分の水増しと享年干支は操作していないと仮定。
立太子年齢20歳と在位期間42年を加算し、2倍すると124歳になり、
記年齢の123歳とほぼ一致する。

941 :858:2006/05/25(木) 22:23:55
孝霊天皇の即位年齢は37歳。在位期間は16年。享年は53歳。
算定根拠は、干支60年分の水増しと、享年干支は操作していないと仮定。
紀の編者は、即位年齢と享年を混同していると仮定する。
紀の享年53歳を2倍すると、記年齢の106歳になる。

942 :太国:2006/05/25(木) 22:30:17
>>933
だからそれは修正されてない西紀年のことですよ。言い方、表現の仕方がうまく
なかったようで誤解があったんでしょうが、貴女も修正されてない西紀年を
使用されているでしょう。それのことですよ。
貴女は臥海に出席されるくらいのお方ですから、そのー、「投影」の語は表現的
にピンボケに見えますので、他の言い回しをしないと臥海が映画祭みたくなって
しまいますので、臥海の権威力の上からも明確な他語の使用をお奨めします。
それとそれがしの>>925に適当でない箇所がありましたので、再度いうことに
なりましょうが、同時共在と言ったのは貴女のイコール説様のことであり、今回
のは武内宿禰の複数説はそういうんではなく、いわば駅伝競走での企業体名の
チームの下に同チームの各選手がバトンを渡して連携する競技のようで、
貴女はその企業体名を「武内宿禰」というものだ、そこの各選手が数駅を数人で
入れ替わっていくのが「武内宿禰」の名の下の現実のその名の大臣だと、こう
主張しているんでしょう?そう言うならば、「武内宿禰」は当時の個人名であり、
駅伝レースの企業体名ではないですよとそれがしは指摘してるわけです。

943 :今みつけた:2006/05/25(木) 23:09:00
>1のここがイカス。 >応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって並列構造になっています。

あとは読んでない。
読んでないが、イカス。

944 :858:2006/05/26(金) 01:57:09
>>891について、より良い説明を思い付いたので訂正する。
孝昭天皇の即位年齢は39歳。在位期間は23年。享年は62歳。
算定根拠は、在位期間の干支60年分の水増しと、享年干支は操作していないと仮定。
また、孝昭天皇が懿徳22年に、18歳で立太子されたという記述を、 懿徳18年と孝昭
の立太子年22歳を取り違えた結果、と仮定した。
孝昭天皇の、実際の喪中期間は1年だと思われるが、紀の編者が喪中3年という
伝承を編纂に当たって取り入れた為、計算が合わなくなっている。
立太子年齢22歳+在位期間23年×2+喪中期間3年=記年齢93歳となる。

945 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 08:20:26
>>939さん
『日本書紀』において、日本武尊、武内宿禰、厩戸皇子(聖徳太子)は、
天皇以外の人物として、重要な位置付けにあるように思います。
きっと、それには理由があったはずですので、『日本書紀』という史書の性格を
を明らかとするうえで、興味深い課題です。
また、応神朝につきましては、『日本書紀』と『古事記』の間で、想定期間に認識の違いがあります。

946 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 08:32:05
>>940・941 858さん
>>899にても、質問させていただきましたが、858さんは、『日本書紀』は、どのような理由によって、
歴代天皇それぞれに異なる計算式が用いて、わざわざ、在位年数や享年(宝算)が
非現実的数値となるように設定しているとお考えなのでしょうか。

947 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 08:47:15
>>942 太国さん
太国さんのおっしゃられる「修正されてない西紀年」は、
神武元年を紀元前660年、持統十一年を697年に位置付けた場合の西暦年のことではないようです。
どのような基準にもとづく「修正されてない西紀年」なのでしょうか。
また、「武内宿禰」につきましては、太国さんは、一個人であるとお考えのようですが、
私は、「武内宿禰」は大臣のような地位を意味するのでもなく、天皇家に近い、もしくは、
天皇家内部の時代を異にする複数の人物を付会させた名であると推論いたしております。
「投影」がよくない表現とのご指摘ですので、「付会」という表現を用いてみました。

948 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 08:54:23
>>943今みつけたさん
応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)によって、
『日本書紀』の応神紀以降の天皇紀の紀年に相当する実年代がわかります。
例えば、仁徳元年が西暦397年であるなど、
『日本書紀』の扱う歴代天皇紀の時代が見えてくることになります。


949 :太国:2006/05/26(金) 11:19:12
>>947 日本書紀紀年法研究家さん
あまり難しく考える必要ないです。通常使うのは修正前の西紀年と修正後のこれ
が実際の真であろうと考えて算出した西紀年の二つですから・・・。
だから修正前というのはそのまま遡ればB.C.660年に至る仮のはずの西紀年代で
すよ。後者は自説によって修正追求して得たA.D,1年等に至る西紀年代の数字列の
数字ですよ。ひねって言っているのではないです。貴女も使っているでしょう。
貴女はやはり駅伝レースのような考えのようですね。企業体名というよりは、
次の言い回しが適当でありましょう。つまり貴女は駅伝において、
「武内宿禰」をバトンのように考えており、走者はその名を使っている当時の
各人で、レースが時間年代の経過という譬えです。そしてその経過において
「武内宿禰」の名のバトンを時代のある人物(走者)に渡して(引き継いで)
「武内宿禰」は別の人物になって行くという、この名の使用人物の複数説という
うますぎる考えなんでしょう?本当にうますぎやしませんか?この説を・・・?
それは失敗ですね。逆戻りしようとしない貴女は仮の天上界を徘徊してるんで
すよ。ま〜だ目が覚めないんですかねぇ〜?困りましたなぁ〜。w


950 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 13:04:54
>>949 太国さん
太国さんは、>>920にて、以下のような年代を提起されています。

>皇紀   見かけ 実年
>743   83   299 誕生(景行世)、成務誕生
>1027   367   409 没年(仁徳世)

この数字について、あらためて、以下の質問をさせていただきたいと思います。

1)「皇紀」は、神武元年を紀元前660年に位置付けて数えた年代でしょうか。
2)「見かけ」は、>>949でおっしゃられている修正前と修正後のどちらの年代でしょうか。
3)「実年」は、西暦と考えてよろしいのでしょうか。

また、「武内宿禰」につきましては、駅伝レースには譬えられないのではないかと思います。
駅伝レースですとバトンは、次々に引き渡されてゆくことになりますが、
「武内宿禰」の場合は、付会されております人物は、”一時的”である場合もあるからです。
すなわち、約300年間切れることなく「武内宿禰」に付会される人物がいたとは、
限らないことになります。


951 :日本@名無史さん:2006/05/26(金) 13:30:04
>>946
記紀の編者は歴代天皇の年齢を操作していますが、伝承を反映させて操作していると
仮定しているからです。操作の目的は、神武天皇の即位年をBC660年にする為です。
動機までは判りません。辛亥革命説かもしれないし、単にそういう伝承があった
だけなのかもしれないし、天皇の勅命で逆らえなかったのかもしれません。
数式の一律な操作では、紀年齢は説明できても、記年齢までは説明不可能だと思います。
私のやり方なら両方とも説明できるのです。神武天皇を例に説明すると、
紀の127歳は、干支60年分を引いて、実年齢67歳と出ますし、
記の137歳は、喪中期間3年を引いて134歳、それを2で割って実年齢67歳と、
同じ結果が出るのです。記紀の編者の操作法の傾向も見えてきます。
紀の編者は以下の傾向があります。
・干支60年を水増しする。
・立太子年と治世年を入れ替える。
記の編者は以下の傾向があります。
・2倍年暦を使う
・立太子年と治世年を加算する
・喪中期間を加算する
年齢を操作するには、基になる資料があって初めて可能になります。
記紀で天皇の年齢が異なるのは、彼らが共に同じ資料を用いて、異なる操作を
しているからです。

952 :858:2006/05/26(金) 13:37:52
>>951のレスは自分です。

・立太子年と治世年を加算する→・立太子年齢と在位期間を加算する
・喪中期間を加算する→・喪中期間を加減する

に訂正します。

953 :太国:2006/05/26(金) 14:45:56
>>950 日本書紀紀年法研究家さん
1)そのとおり、これはそれがしがそうしたんではないわけで、前々から
  一般に名目上そういうことになっている皇紀のことです。だから
  周知のとおり神武即位がB.C.660年ということにされており、それが貴女も
  それがしもそんな筈がないとして、那珂博士らも含めてお互いが実年代を
  探しているわけですからねぇ。w
2)こいつは1)の皇紀からマイナス660とすれば、今度は名目上の西紀年が
  出るわけですから、それを言ったわけです。見かけですから、真になる実年
  代ではないわけです。勿論後代では数字は適合して来ますね。
3)実年としたのは、例の「2倍年暦の真実」のスレで結論した神武即位が
  紀元元年としたときのものであり、これだと武内宿禰が299−409年の間
  生存していたということになります。つまり 409−299=110(歳)の寿命
  だったという計算になるわけです。ギリギリの判断ですがね。
武内宿禰のごとく300歳位の寿命とかとりわけ仁徳以前の天皇の考えにくい長寿
から、2倍暦だったんではないか?との説がでたわけですし、これだけでは
まだまだ説明が出来ない不適合があるわけで、それがしが3倍暦をやってたん
だろう? とそういう説を持ち出したわけです。まあ他の方がすでに言い出して
おったんでしょうが・・・?

954 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 17:13:16
>>951>>952 858さん
神武元年を紀元前660年に位置付けるためであるのならば、
歴代天皇に対して一律に紀年数を加算していったほうが、効率的です。
ある天皇には、数式を用いて加算しており、ある天皇にはまったく加算していないという点に対して
論理的説明を与えることができなければ、858さんのお説は、成り立ち難いと思います。
すなわち、紀年を加算されている歴代天皇の取捨選択の意味付けが必要となるでしょう。

955 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 17:27:48
>>953太国さん
1)の「皇紀」、2)の「見かけ」、3)の「西暦」については、意味がわかりました。
2)の「見かけ」を二倍暦と三倍暦で縮めて、実年代として算出した年代が、
3)の「西暦」というわけですね。
それでは、なぜ、仁徳紀を三倍暦とお考えなのでしょうか。太国さんのお説ですと
仁徳天皇の崩年は409年ですが、その頃には、中国南朝との通交があり、
もうとっくに、元号などの概念が招来していたと考えられます。
二倍暦から一倍暦に移行したとおっしゃられるのでしたならば、まだしも、
二倍暦から三倍暦へ移行したとは、少し考え難しいように思います。
仮に、三倍暦に移行したのならば、その理由は何であったのでしょうか。

956 :858:2006/05/26(金) 17:56:05
954
例えば、〜天皇は長寿だったというような伝承に基づいて、天皇の
年齢の加算がなされているものと思われます。
紀の編者にとっては干支や朔を合せることが重要だったのでしょう。
記紀の年齢の違いを説明出来ないような方法論には欠陥があります。
あなたの方法論で、例えば記紀における神武天皇の没年齢の違いを
説明できますか?
紀だけ見ても天皇の実年齢は判らないのです。記も重要なのです。
結局一人一人の事跡をチェックして補正するしかないのです。

957 :日本@名無史さん:2006/05/26(金) 18:24:10
>>956
では武内宿禰について、あなたはどう思われますか?

958 :征東大将軍:2006/05/26(金) 18:44:16
二倍「暦」、三倍「暦」等と云う暦が歴史上使用されたと何故考える

959 :858:2006/05/26(金) 19:11:42
>>957
1人の実在した人物でしょう。景行から仁徳までの天皇(皇太子)に仕えた人で、
神功皇后より長寿だったのは確実だと考えます。

960 :日本@名無史さん:2006/05/26(金) 19:53:07
日本書紀と古事記は具体的にどう違うのですか?

日本書紀:神代〜持統天皇
古事記:神代〜推古天皇
なんだけど岩波文庫では

日本書紀:5巻
古事記:1巻
↑差がありすぎなんですけど

961 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 19:53:48
>>956 858さん
天皇の享年(宝算)につきましては、『日本書紀』と『古事記』の間において
数字が異なることから、「宝算年差の法則」という理論を考えました。
すなわち、「『古事記』におけるA天皇の宝算−『日本書紀』におけるA天皇の宝算=在位年数」
という数式に表される考えです。

962 :太国:2006/05/26(金) 19:57:05
>>955 日本書紀紀年法研究家さん
分かりにくい説明を重ね気苦労をかけたかと存じます。あいすみません。
3)の件、そのとおりです。仁徳天皇の実年での崩年は409年ではなく419年です。
その409年は武内宿禰の崩年です。雄略5年なる461年でさえどうやら怪しいもの
です。臥海の定説なんぞあてにはならないということですよ。中国南朝の通交
がどうのこうのとかいうことは、照合が紀の編纂者側でも月日の日の欠落から
して困難だったわけで無視の二字に尽きます。そういうのは最後の最後に考えれ
ばいいことであって、もっともっとしっかりした、当時に近い磐石の基本年を定
められてからでも遅くはありません。それで今の段階では保留とすべきことです。
なぜ3倍暦にしたかということが正確に分かればもう決まったようなものですが
ね。先述のとおり3倍暦でないと允恭天皇が長寿過ぎる嫌いがありますし、武内
宿禰の寿命も2倍暦では140歳余となり2倍暦は考えられないのです。マヤ暦
でさえも暦の変動はわりかしありますよ。神武即位の年から今の今まで変更なく
等倍暦で通していたと思いたくなるのは現代の経験不足なる若者的考えであり、
それこそおかしいと言わざるを得ない井の中の蛙的思い方ですよ。それに貴女に
とって120の数字が重要ならば、4ヶ月なる120がどうしてかは私が反問するべき
質問だと思いますがね。

963 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 20:07:05
>>960さん
『日本書紀』と『古事記』は、似て非なる史書です。
おもに、以下のような点が異なっています。

1)天皇の享年(宝算)、在位年数、崩年(『古事記』分註崩年干支)
2)神代紀の神様の名前
3)様式(『日本書紀』は編年体で、『古事記』無紀年)
4)巻数(『日本書紀』は30巻、『古事記』は上・中・下の3巻)
5)扱っている時代(『日本書紀』は持統天皇、『古事記』は推古天皇まで)
6)后妃・皇子・皇女の系譜関係
7)成立年代(『日本書紀』は養老四(720)年、『古事記』は和銅五(712)年)

おもにこのような点において、しばしば、両書は異なっていますが、歴代天皇の継承順など
また、共通している点も多々あります。
『日本書紀』と『古事記』が、似て非なる史書であることは、興味深い問題です。
似て非なる史書であることから、さまざまなことがわかってきます。
『「記紀」はいかにして成立したか 「天」の史書と「地」の史書』では、
両書の相違について論じましたので、ご一読いただければ参考になるかもしれません。

964 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/26(金) 20:14:50
>>962 太国さん
仮に、三倍暦があったのならば、なぜ、4世紀から5世紀になってから三倍暦を
用いることにしたのかという点は、太国さんもご自身でおっしゃられているように、
ネックになるのではないかと思います。
三角縁神獣鏡にも、「景初」や「正始」という年号が見えますので、
早ければ、3世紀中ごろより、すでに、一倍暦は伝わっていたと考えられます。
天文とも整合する便利な一倍暦に逆らって、三倍暦を4世紀末や5世紀になってから用いた
積極的な理由が見当たらない気がいたします。

965 :征東大将軍:2006/05/26(金) 20:18:33
古代に本当に、二倍暦、三倍暦などと云う暦が使われていたのなら
古事記はそれを1/2、1/3に尺を縮めたと言う事か?

そんな事はない、元来1/1スケールで書かれた原本を元に、古事記の没年干支は算出され、
日本書紀は1/1本を元に2倍増、3倍増に引き伸ばされたと考える方が筋が通ってる

更には日本書紀と1/1スケール原本の間にはもう1段階あっても良い筈だ


もともと1/1で想定されて居た物を倍率勘算しているに過ぎない

966 :日本@名無史さん:2006/05/26(金) 20:19:21
読めよ、本文と注の量が違う

967 :征東大将軍:2006/05/26(金) 20:20:26
武内宿禰を生かすなら、少なくとも景行〜仁徳までの当該区間を三倍区間にすれば良い

968 :征東大将軍:2006/05/26(金) 20:30:35
そもそも
>『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支年

の「法則」は既に允恭天皇の時点で破綻している


その上で

>『古事記』におけるA天皇の宝算−『日本書紀』におけるA天皇の宝算=在位年数」

まで出そうとする
では仲哀や神功は?

969 :太国:2006/05/26(金) 20:34:02
>>964 日本書紀紀年法研究家さん
そんないっぺんに現代のような合理的等倍暦を全部執り行うべきなどという考え
は、当時の日本が民主主義的見地に基づいて祭政等が行われていたというのと
似たような意味合いであり、貴女のはまさに時代錯誤的考察ですよ。刀をさす
のが現代に馴染まないから、刀をさして歩いていたとはとうてい信じられないと
言っているようなもので、貴女はまだまだ現代的感覚に浸りすぎて当時の古代を
色眼鏡的に見ているということですよ。積極的かどうかまでは至りませんかも
しれませんが、理由はあったでしょうし、それが見つからないということとは
別物ですよ。貴女だって実際の古代人をただの一度でも見たことがない筈です。
しかし古代人は真に見たことがなくても当時生きていたわけですよ。
マヤ暦なんぞもっと不審な暦法を沢山使用しています。だから、2倍、3倍の
変更なんかは、別におかしくはありませんよ。マヤ暦のイニシャル・シリーズの
長期暦の中でさえ短い7日間暦(Y文字といわれるもの)だってあるんですよ。
当時のころ、こんな変則暦を多様してる所があったからには、日本にだって
変則的暦法があっての運用は十分考えられます。

970 :日本@名無史さん:2006/05/26(金) 23:54:09
>>963
詳しい解説ありがとうございます
系譜関係まで微妙に違いがあることを知ってびっくりしました
ところで、この二つの書物の内で一人の日本人として読むべき書物はどちらなのでしょうか?
それとも二つともただの「史書」にすぎず「日本人として」読む様な代モノではないのでしょうか?

日本人の古今を通ずるアイデンティティを見いだすための書物を探しています。あればいいけど・・・

971 :征東大将軍:2006/05/27(土) 00:11:37
そんな宣長な貴方には古事記で神代まで読む事をお勧めします><

972 :858:2006/05/27(土) 05:34:08
『古事記』におけるA天皇の宝算−『日本書紀』におけるA天皇の宝算=在位年数

全く理解できません。マイナスになる天皇も多いし、仲哀天皇は崩年が同じです。
両者の間にはどんな法則もないと思います。
記紀の編者が採る操作法の傾向の違いがあるだけです。

973 :日本@名無史さん:2006/05/27(土) 05:34:36
確かに『古事記』の神代の現代文なら1日で読めるね。
日本人のアイデンティティーを見出せるかは分からんけど(w
全部現代文で読んで興味が湧いたら漢文に挑戦したり、
いろいろな事実を突き詰めたりすればいい。

974 :日本@名無史さん:2006/05/27(土) 07:04:42
仲哀と神功の宝算が記紀で一致する理由は
記紀編纂時期までに異説が存在しない程の新しい創作物だったから。
また神社で仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰らを
祭神としはじめた時代の上限は記紀編纂時期に近い。

975 :征東大将軍:2006/05/27(土) 07:18:14
それは違うようだ

976 :太国:2006/05/27(土) 07:45:14
>>972
そのとおり、法則は無いと思うね。

977 :太国:2006/05/27(土) 07:47:33
>>974
何を創作したと云うんだろ?

978 :日本@名無史さん:2006/05/27(土) 09:13:05
翹岐が応神のモデルである

979 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 09:39:29
>>968 征東大将軍さん
『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支年の「法則」は允恭天皇の時点で破綻していません。
これは、踰年称元法には、パターン1とパターン2があるからです。この法則は、
パターン1とパターン2のいずれかにおいて、成立します。パターン1とパターン2については、
『聖徳太子と法隆寺の謎 交差する飛鳥時代と奈良時代』で多少説明いたしましたのでご参照ください。
さて、允恭天皇の皇太子の木梨軽皇子の立太子年は允恭23年です。
そして、允恭天皇の『古事記』崩年干支は西暦四五四年です。
したがいまして、允恭22年=四五四年という等式が成り立つことになります。
一方、允恭五年に反正天皇の殯についての記述が見えます。そこで、允恭五年を反正天皇の
崩年干支の四三七年と考えますと、允恭五年=437年となります。
允恭22年を四五四年と設定して、允恭五年を求めれば、四三七年となります。

980 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 09:49:24
>>988 征東大将軍さん
>『古事記』におけるA天皇の宝算−『日本書紀』におけるA天皇の宝算=在位年数」

>まで出そうとする
>では仲哀や神功は?

これについても、お答えいたしますと、仲哀天皇と神功皇后の宝算年差は、
両者ともに「0」になります。「0」になることには、意味があると考えられますが、
現時点におきましては、憶測の域はでませんが、仲哀天皇については、
日本書紀紀年法の構造上においては、日本武尊と同一人物であると想定できること、
神功皇后については、卑弥呼や台与など複数の人物が付会されており、
特定の人物の史実としての在位ではないという理由にもとづくのではないかと考えております。
しかしながら、他の理由も考えられるのではないかとも思っております。


981 :征東大将軍:2006/05/27(土) 09:53:30
それじゃその式からは允恭元年が求まってないじゃん

つまり『真の允恭治世元年』の設定は、
前代天皇の古事記没年干支年から算出されているだけでしょ



982 :征東大将軍:2006/05/27(土) 10:02:21
崩年差に付いては一応研究家さんにココを見て感想を聞かせて貰おうか
http://www.geocities.jp/identaisi22000/kannninngu.html



983 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:06:36
>>969 太国さん
太国さんのおっしゃられる「二倍暦・三倍暦説」は、「独裁暦」でしたね。
一倍暦であろうと、二倍暦であろうと、三倍暦であろうと、どれを用いようとも独裁者の勝手というわけでしたね。
しかしながら、人類は、なぜ、指導者を必要としたのか、もしくは、どのような時に
指導者を必要としたのか、ということについて、太国さんはお考えになったことはあるでしょうか。
他国に攻められたり、国家が危機に瀕した時などに、極めて有能で、優秀な人物、
すなわち、頭の良い人物を指導者として撰ぶものです。
天文とも整合しないような暦法、いままで用いていた暦法よりも劣る暦法を採用するような
指導者は、愚か者とみなされて権威失墜してしまうと思います。国民がまとまりません。
江戸時代にも「主君押し込め」は、忠義とされておりましたように。
太国さんは、むしろ、独裁政権などというものは、歴史的に見て成り立ち難いことを
まずは、考えてみるべきであると思います。
独裁者の末路は哀れなものですので、日本において大昔からずっと独裁暦が
用いられ続けてきたことは、まず、ありえません。

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