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江戸時代の天皇様について

1 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 15:56:24
単なる神道の祭主だったの?

2 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 15:57:36
2ゲット

3 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:54:53
おお!勇者よ!

4 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:02:40
王様の最初の台詞こんなんだったよな?

5 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:04:49
団塊のみなさん、時間ですよ

6 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:08:13
文読む月日重ねつつ

7 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:38:17
幕末には800万石の将軍が、天皇のご機嫌を損ねないようにビクビクしていた。

8 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:46:09
いつか決めるぜ稲妻シュート!

9 :日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:12:43
ウルトラマンはウルトラの☆からきたケロ
天皇は天王星からきたケロ
天王星では住民はみんな天皇ケロヨ

10 :日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:21:19
天帝を守護するよろし、おたあ!

11 :日本@名無史さん:2006/05/12(金) 15:08:15
んんん 天帝というと島原の乱の旗を連想してしまった

12 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:12:08
照る照る坊主売って暮らしていたらしい

13 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 16:49:15
>>12
坊主で商売なんて天皇家らしいや


14 :日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:38:12
神の子孫とハッタリかますくせに日照りとか疫病に対して何も役立たずの天皇

テルテル坊主がアマテラスのチカラかよ

15 :日本@名無史さん:2006/05/14(日) 11:38:42
そないなことありません。
天朝公認の願力著しい大師達が祈祷を行っています

16 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 21:50:16
北辰一刀流
北辰とは天帝、地上では天皇のことである。
すなわち千葉周作は天子様を崇拝していた!

17 :日本@名無史さん:2006/05/22(月) 22:00:10
>>16
北辰を一刀するわけね
孝明天皇は毒殺じゃなくって一刀されたのか

18 :日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:28:05
光格天皇や後水尾天皇は政治介入しましたよね


19 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 11:48:30
江戸時代の天皇の服残ってるけど
背中に北斗七星が刺繍してあるんだよね

20 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:21:21
後西天皇は剣術の達人だったそうですが
何流だったのかな?

21 :後西天皇:2006/06/04(日) 19:31:01
後の付く帝にはそっくりな生涯を送られた方が前におられ、同じご境遇だというので偲んで後の文字が付けられたのに対し、後西様に限っては違うようだ。

西という天皇は前にいないのである。

22 :後西天皇:2006/06/04(日) 19:32:54
徳川の圧迫で帝のご生母の実家が窮乏し、帝の妹姫らを身売りし、伊達政宗が銀二十貫で求めた一人を倅忠宗の側室にした。
この腹から後の綱宗が誕生する。帝は彼が従弟にあたると判り、伝奏役の姉小路公知を奥州へ下向させた。


23 :後西天皇:2006/06/04(日) 19:35:06
これが徳川のCIAともいうべき柳生探索方に察知され、伊達の叛乱を恐れた幕府が、
飯田橋堀改築工事資金として膨大な資金を吐き出させてから綱宗は閉門処分で馬込に生涯閉じこめ。


24 :後西天皇:2006/06/04(日) 19:35:48
「徳川家に対して不穏な企をなす者は帝にてもかくのごとし」と、
仙洞御所に竹矢来を張るのでは費用が大変だからと、今の京御所、御苑に鳥小屋の如き牢舎を作って幽閉した。ここを凝華洞と呼ぶ。

25 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:36:19
伊達家といえばエスパニアと同盟して
幕府打倒を画策していた潘ではないか!

26 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:39:03
>>24
その写真見たことある。
あそこに入れられていたのがまさか帝!?
江戸時代の罪人がよく入れられて運ばれる鳥籠

27 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:40:24
これは封印された歴史だ

28 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:41:41
当時の将軍は誰だ?
秀忠か家光あたりか?

29 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 20:09:01
>>21

西院帝
でぐぐれや。

30 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 20:21:15
最近はデムパwwヘ√レvv〜(゚∀゚)─wwヘ√レvv〜─ !!がはやりなのですかwww?


31 :後西天皇:2006/06/04(日) 20:28:08
幽閉の身の帝は、江戸城を朝廷、閣老を公家と言い出した徳川綱吉に対し、
水戸光圀差し入れの筆墨で23年にわたって六国史を書き纏められた。

32 :後西天皇:2006/06/04(日) 20:31:52
「近頃は京にては大きな鳥駕篭にて雀をかう」と後西帝幽閉の悲惨な有様をもじって書かれた「京雀」

33 :後西天皇:2006/06/04(日) 20:33:06
23年にも及ぶ後西帝救済のために皇子は江戸へ出てきて上野寛永山へ入られたが、後西様は寒い京の冬、
貞享二年二月二十二日崩御。せっかく救出せんと江戸入りして寛永山に入って僧になられた親王様は落胆したと思われる。


34 :凝華洞:2006/06/04(日) 20:39:52
「桂宮邸趾」の史蹟の日蔭に、
「後西院天皇の仙洞凝華洞趾」
 棒杭みたいな標識があった。
 北向きの陰湿な地面にかつて存在した凝華洞とは何なのか?
 歴代の帝は退位後は仙洞御所へ入らせ給う慣しなのに、この帝のみが畳十四、五枚
の狭隘な、「凝華洞」に入れられ給うた謎はなんであるのか。

35 :揉み消しを計った:2006/06/04(日) 20:41:46
「凝華洞」とは、恐れ多くも京所司代牧野佐渡守が、二十七歳の帝を退位させ十歳の
霊元帝を御位につけた後、二十二年の長きに渡って幽屏(ゆうへい)し奉った獄舎だ
ったのである。
『京すずめ』が書かれた寛文五年は、御退位後三年目ゆえ、作者は、先帝救出の悲願
から。
「あみ張りの御小屋」と、竹矢来を張られた状況を、謎かけのように書いたものであ
ろう。
 もちろん京所司代は躍気になって揉み消しを計ったらしい。


36 :売国奴綱吉:2006/06/04(日) 20:52:10
現在係争中の竹島というのは、明治以前は「竹島」という名前ではなく、
「松島」と呼ばれていた。明治以前の竹島とは、いわゆる鬱陵島のこと。
この鬱陵島に関しては、五代将軍・綱吉の時代に、朝鮮領だと認めたという経緯がある。
鬱陵島が朝鮮領になってしまったことに対して不満を持つ日本人もいたが、
さまざまな資料から見て、その南にある松島は明らかに日本領で、
これについてはまったく問題ないところだった。
ところが明治以後、近代国家として領土を確定する際に、
日本は「松島」を日本領として正式に認定したのだが、
そのときあろうことか「松島」に「竹島」という名前をつけてしまった。
要するに、本来自分の領土であると思っていたかつての日本名竹島(鬱陵島)が
朝鮮領になってしまった悔しさを紛らわすために、
「松島」に「竹島」と名付けてしまった。
そこからすべての問題が生じてくるわけだ。


37 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 21:18:06
109代明正女帝と117代後桜町女帝はどうなの?

38 :紫衣事件:2006/06/04(日) 21:28:34
幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府、3代将軍・徳川家光は、1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、
京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。


39 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 21:28:34
>>31-35
あまりにひどい仕打ち。
帝崩御には幕府による毒殺説が当時からささやかれていますが

40 :後水尾天皇:2006/06/04(日) 21:29:46
江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件である。
江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる。後水尾天皇はこの事件をきっかけに退位を決意したとも考えられており、
朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立であった。

41 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 21:33:03
あの鳥籠の中に24年間いれられて
気も狂わず執筆活動を続けた帝もすごいね

42 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 21:36:47
>>31
水戸のご老公だけは
帝に同情的だったんですね

43 :後西天皇:2006/06/04(日) 21:38:28
「明治になってから歴代天皇に院号をつけるのは廃止になったのに、なぜか人皇百十
一代後西帝御一方だけに、後西院天皇と院号がつくのかと、宮内庁にも色々御伺いし
調べて貰ったが、一切不明である。

44 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 21:40:43
西院とは?

45 :後西天皇:2006/06/04(日) 21:40:52
後西さまは何故に、そうした目にあわれたかとなるが、一言にしていえば、
「謀叛の帝」しかも史上ただ御一方の、挫折された例だからであろう。
 天皇さまで時の体制を倒さんとされた方は、あえて後西さまだけではなく、清和帝
の御子陽成さまも旗上げなされかけたが、藤原氏に終われ山奥深く身を匿され木地師
の祖となり、「後醍醐帝」も、その当時、やぎゅう者と呼ばれていた大柳生小柳生俘
囚郷の者らをたよられ、笠置山に旗を立てられたが、やがて北条氏を打ち滅ぼされた。
 が後西さまだけは不運にも失敗なされ、捕らえられ他への見せしめに竹矢来の中に
入れられ、

46 :後西天皇:2006/06/04(日) 21:41:53
徳川体制は幕末まで、
「天皇さまと申せ公儀へ弓引かんとなさるにおいては、かくのごとき目にあいまするぞ」
 恫喝のために、洞の跡を故意に残していたのは酷にすぎる。


47 :後西天皇:2006/06/04(日) 21:44:26
明治維新となって体制が変わった時、本来ならば後西さまの事も明るみに出て、凝
華洞趾の棒杭も撤去せられるべきだった。
 処が、講談で有名な大岡越前守忠相が、出版統制令と共に、「ご当家(徳川)に益
なきの書は一切無用のこと」を発令した為に、京所司代土岐丹後守が、恐れ多くも御
所内の後西さま一件書類をも没取焼却した。
 よって、明治から大正に変わっても、何故、後西さまにだけ、「院」を徳川家の命
令で付け御所に伝わってきたか、皆目不明の儘うやむやになった。


48 :吉良上野介:2006/06/04(日) 21:52:02
吉良上野介が若い頃、侍従に任官した吉良は上洛して関白藤原光年とともに後水尾帝の御愛子後西帝を京の擬華洞という名の芳屋へ閉じこめてしまうほど の凄腕なのである。

49 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 22:50:13
「後西院天皇」が正しい。

50 :済州島の出身:2006/06/05(月) 19:25:57
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。


51 :生母が朝鮮系:2006/06/05(月) 19:29:16
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせい

52 :天皇教:2006/06/05(月) 19:39:49
「天皇さまがいつの世も体制側にあったよう、誤り伝えられてきた歴史常識に対し、
そういう事はなく天皇さまといえど庶民同様、時には体制側に苛められ給い、よって
民草はお尽くし申し上げる事に意義を感じ、無宗教だといわれる吾々日本人は、勿体
ないが天皇教のような信仰を故に心に秘めているのだ」


53 :禁中方御条目・禁裏向御方式:2006/06/05(月) 20:46:36
禁中方御条目・禁裏向御方式(きんちゆうかたごぢょうもく,きんりむきごほうしき)・公家諸法度ともいう。
江戸幕府が天皇・公家に対する統制を確立するため金地院崇伝に起草を命じ,定めた法令である。1615年(慶長20)7月17日,大御所家康・二代将軍秀忠・二条関白昭実の連署をもって公布された。
漢文体の17条の法度で,この法度によって天皇の行動を直接規制する基本方針を確立した。
内容は,天子諸芸能を初め,三公・門跡らの座次,三公・摂関の任免,養子,武家の官位の除外改元,廷臣の衣服,諸家昇進の次第,廷臣の刑罰より紫衣上人の号など諸般にわたり,厳しく規制を加えている。
すでに,幕府は1613年(慶長18)6月16日に公家衆御条目・勅許紫衣法度を発布していたが,禁中並公家諸法度によって,天皇の権能は改元・叙位・任官など,きわめて形式的なものとなった。
その後の朝幕関係は,すべてこの法度を基準として処理された。江戸時代を通じて条文はまったく改訂されなかった。

54 :徳川和子の入内:2006/06/05(月) 20:49:54
元和6(1620)年、将軍秀忠の女子徳川和子(後の東福門院)は後水尾天皇の女御となって入内する。
徳川女子の入内計画は家康の意志に基づくものであるが、家康はいかなる目的と構想のもとに、この対朝廷政策を推し進めようとしていたのであろうか。

55 :和宮、降嫁:2006/06/05(月) 20:51:54
万延元(1860)年4月19日、朝幕関係悪化の修復を狙い、公武合体を目指す江戸幕府は、公式に孝明天皇の妹・和宮に将軍家茂の妻として降嫁するよう申し出ました。
家茂と和宮は同い年で、年齢的には問題はなかったものの、和宮には有栖川宮熾仁親王という許婚がいることから孝明天皇はじめ朝廷の人々は反対していました。
しかし、侍従の岩倉具視らの計らいにより、攘夷を実行するという約束と引き換えの形で、2年後に、和宮は家茂に嫁ぎました。
 幸いにも夫婦仲はよかったそうですが、和宮は降嫁から5年目の慶応2年7月に家茂に先立たれる運命にありました。 



56 :分断統治:2006/06/05(月) 20:54:52
幕府は天皇に(地位の割りには)薄く報い、最高位の公家である五摂家には厚く報い、
下級貴族に薄く報いるという分断統治を敷きました。公家の団結を防いだのです。


57 :宝暦事件:2006/06/05(月) 20:57:04
宝暦事件とは、1758年に、京都で公家たちに尊王論を説いていた朱子学者
で神道家の「竹内式部(たけのうちしきぶ)」が追放された事件です。江戸
幕府による尊王論弾圧事件の一つで「ほうりゃくじけん」とも読みます。

竹内式部は、垂加神道にもとづき、「日本書紀」などを若手の公卿たちに
講義していましたが、その内容には、朝廷の政権回復の心構えを説いて、
幕府を非難する一面もありました。そして、式部の教えに共鳴し、それを
天皇に進講する公卿も現れました。

こうした動きに対し、前関白の一条道香(いちじょうみちか)は、朝幕関係
の悪化をおそれ、公卿たちを謹慎させました。また、式部は京都所司代に
告発され、翌年、重追放となりました。



58 :「およつ御寮人」事件:2006/06/05(月) 21:02:36
「およつ御寮人」は、大納言四辻公遠(よつつじきんとう)の娘で女官(典侍)だった。後水尾天皇の寵愛を受け、すでに皇子賀茂宮(かものみや 没年5歳より逆算すると1618年生まれとなるようだ)を儲けていることが明らかになった。
女官が皇子女を産むことは御所では普通のことで、驚くべきことではない。
事件となったのは、産んだのが男子であったこと、秀忠の正室お江与の方(和子の母)が男女関係に厳格だったことが挙げられよう。
 翌元和5年5月に秀忠が上洛。上洛中の6月2日におよつ御寮人は皇女梅宮(うめのみや 文智女王、奈良円照寺開基)を出産。秀忠は参内したが入内には触れず、
在京最後の9月18日に前大納言万里小路充房(までのこうじあつふさ)を丹波篠山へ、権中納言四辻季継(すえつぐ)・左中将高倉嗣良(つぐよし)を豊後府内へ配流とし、その他若干の公家を処罰した。


59 :後光明天皇毒殺説:2006/06/05(月) 21:30:19
後光明(ごこうみょう)天皇は寛永20年(1643)10月21日に第110代の天皇として即位している。11歳であった。父君は後水尾上皇、母は参議園基任(もととう)の娘藤原光子。
 死因は天然痘とされている。22歳という若さでの崩御だった。毒殺説の根源は幕府儒者で、8代将軍吉宗の侍講も務めた室鳩巣(むろきゅうそう)が記した「鳩巣小説」である。
 天皇の病状が悪化したため、関東から医師を参上させ、薬をすすめたが天皇はこれを拒んだという。しかし、京都所司代が強くすすめたので、やむなく服用されたところ容態が急変した。


60 :歴史の本 > 徳川将軍と天皇:2006/06/05(月) 21:35:51
将軍と天皇の関係というのは、日本史上の大問題であり、江戸時代に限っても、多くの学説が存在します。山本氏は徳川家=江戸幕府こそが王権であるという、結構ラディカルな議論を展開しておりますので、今谷明『武家と天皇』など、他の学説と比べてみると面白いでしょう。
意見の違いを見極め、どの意見が最も正解に近そうであるか、そして自分なりの新しい意見を生み出せないか、そういったことを考えるのも歴史研究の醍醐味と言えます。


61 :四百万石と四万石:2006/06/05(月) 21:52:52
三代家光の時、御所の蔵入りと称される所領は、徳川は四百万石もあるのにたった四万石だった。
これでは文武百官から白丁や雑仕婦まで多数召し抱えている御所は苦しい。だから後水尾帝が「徳川の家もまだ前将軍が元気なのに、家康の遺言なりとそなたに三代目の家督を譲ったのは目出度いことである。

その祝着の裾分けに山城一国二十万国を御所にどうだ」と、帝にいきなり云われ、家光はうなづいてしまった。しかし幕閣では二十万国など出す気はなく、その話しは握り潰した。
しかし約束遂行を責める五月蠅い後水尾帝を上皇にしてしまい、徳川和子の産んだ七歳の姫を明正女帝と徳川の権力でしてしまった。



62 :倒幕の院宣:2006/06/05(月) 21:54:40
上皇は「違勅」の非をならし、倒幕の院宣を次々と出した。
これを受けて各地で、
「天皇様のため、御所のため」と倒幕を掲げて立ち上がったのが島原の乱であり、由井正雪の乱、菊水勤皇党、伊達騒動の真因なのである。
討幕運動は幕末まで無かった、と云うのは嘘で、火薬の原料の硝石さえ入手出来れば幕府に対抗出来たのである。


63 :日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:48:04
真実は幕府の恐怖政治によって闇に葬られた

64 :皇女 和宮:2006/06/06(火) 22:36:23
和宮は仁孝天皇と橋本経子と言う高級女官との間に、1846年に生まれました。生まれる直前に父帝は亡くなり、腹違いの兄が孝明天皇となっておりました。和宮より16歳年上です。 孝明天皇は、和宮を妹と言うよりは、まるで我が子のように可愛がっていたようです。
兄弟姉妹は多かったのですが、幼くして次々と亡くなっておりました。

和宮は少し足が不自由でしたが、6歳の時に、有栖川宮熾仁(たるひと)親王との間に婚約が整いました。この親王殿下は写真で見ますと、武士のような精悍な顔立ちをしています。
和宮15歳の時、幕府から朝廷に対して、「将軍家茂へ和宮の降嫁を請う」、と言う執拗な申し出がありました。天下争乱と危うくなった幕府体制を縁組で乗り越えようと言う分けです。

これには、孝明天皇も難色を示しました。和宮もイヤがりました。しかし、天皇も度重なる圧力に抗しきれず、又、和宮も兄の苦しい立場を思い、ついに承諾するに至りました。
和宮も可哀想ですが、実は、将軍家茂にも婚約者が居たのです。勿論、これは白紙に戻されました。こちらの姫君だって和宮同様に辛い立場です。


65 :150億円:2006/06/06(火) 22:36:57
1861年、お輿入れの長い行列(50km)は、中仙道を江戸へ下って行きました。
東海道ではなく中仙道にしたのは、この縁組の反対派が、和宮奪回を企んでいると言う噂もあり、より危険性の少ない中仙道にしたのです。

空前絶後、総費用は今のお金にして150億円。絵はありますが、写真を見た事はありません。家茂も和宮も病弱だったらしいですが、同い年の二人には夫婦愛が芽生え仲睦まじく、とりわけ、家茂は宮を理解し大事にしたようです。


66 :官軍の大総督は、かっての婚約者:2006/06/06(火) 22:38:09
1868年正月3日、官軍と幕府軍の雌雄を決したとも言える「鳥羽伏見の戦い」、が勃発します。幕府軍は数の上では遥かに上回っていましたが、完敗でした。 こうして、官軍の錦の御旗は益々輝く事になります。

静寛院(和宮)は、徳川家存続の嘆願状を書いて、何度も朝廷に送ります。皮肉な事に、 官軍の大総督は、かっての婚約者、有栖川宮熾仁親王でした。


67 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 18:26:39
幕府てあきらかに天皇のことを隠そうとしてるよね

68 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:16:42
大奥、天皇は江戸幕府の二大タブー。

69 :日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:22:02
江戸幕府の大罪

一、本当の国主を監禁幽閉し、自分がなり変わった。
一、人々からしぼりとった税がもとの国費の三分の一を将軍のハーレムに浪費した。

一、迫りくる欧米列強の情報を耳にしながらも
ただ手をこまねいていた。

70 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 10:26:52
上野お山が庶民に大人気になったのは
寛永寺に宮様が入ってからなんだな
これが

71 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 10:29:51
>>70
違う。

なんか電波の多いスレだなw

72 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 10:40:17
>>71
違うくない。

こういう冷やかしがなければすばらしいスレだな。

73 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 15:50:32
上野が庶民の観光地になったのは明治以降だよ
それ以前は飛鳥山のほうが名所

74 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 17:19:13
>>73
まーたいい加減な嘘を書くな!こら!
なんでも明治以降、明治政府の捏造にすれば
無知な大衆をだませると思うなデーブ

75 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 18:34:55
>寛永寺
東京都台東区上野にある天台宗の寺。山号は東叡山。院号は円頓院。1625年(
寛永2)天海が幕府の命により創建。比叡山が京都の鬼門(北東)にあたるのに対
して,寛永寺は江戸の鬼門にあたり東叡山と号して,江戸城鎮護と国家安穏長
久を祈願した。将軍家のほかに御三家や諸大名が諸堂宇を寄進して,一山36坊
の大伽藍が出現した。43年の天海の死後,公海が2世住職となり,さらに47年(
正保4)に後水尾天皇の第3皇子守澄法親王が入山し,55年(明暦1)に輪王寺宮と号
して以後,代々の輪王寺宮が寛永寺住職となった。歴代の輪王寺宮は日光門主
・天台座主となって,関東のみならず全国の天台宗寺院を統轄するに至り,幕府
の宗教政策を支えた。一山の大伽藍はおもに寺領によって維持された。46年(正
保3)に武蔵国豊島郡の田端・中里など7ヵ村に2100石の朱印地が寄進され,以後,
芝の増上寺とともに将軍(家光,家綱,綱吉,吉宗,家治,家斉,家定)の菩提所
としての御霊屋料が寄進され,1718年(享保3)からは三之輪・町屋や徳丸・四つ葉
村などにつごう約1万2000石の大名なみの寺領が与えられ,それは明治維新まで
続いた。1868年(明治1)5月15日彰義隊の戦いで堂舎の大半を失ってしまったが,
五重塔・開山堂・清水観音堂などが現存し,その後再興された根本中堂などがあ
る。境内の大部分が73年上野公園となって以来,博物館・美術館・動物園などの
設立もあって,市民に親しまれてきた。            高埜 利彦

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.


76 :日本@名無史さん:2006/06/15(木) 19:59:59
>高埜 利彦
いい学者だ、この人は。
な、天オタ君w



77 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 12:02:26
>飛鳥山
東京都北区の小丘陵。武蔵野台地東縁が荒川低地に接する崖上にあり,北東側
直下に JR 京浜東北線王子駅がある。地名は元亨年間(1321‐24)に豪族豊島氏
が居城の守護神として熊野の飛鳥明神をここに勧請したことに由来する。
標高は27mにすぎないが,台地末端の急崖上から荒川低地を眼下に見下ろし,晴
れた日には遠く筑波山や日光連山まで見通せた。
徳川8代将軍吉宗は,当時旗本野間氏の所領であったこの地を石神井(しやくじ
い)川のすぐ北の王子権現に寄進し,1000本をこえる桜を植えて一般に公開した
ため,上野,向島と並ぶ桜の名所となり,紅葉の滝野川とともに江戸の郊外行
楽地として親しまれた。
1873年,東京府の五大公園の一つとなり,上野と並ぶ春の行楽地で,運動会な
どにも利用される。面積約4.4ha。               井内 昇

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.


78 :日本@名無史さん:2006/06/17(土) 12:21:20
>尊号一件

天皇の顔、丸つぶれだなw

79 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:54:37
>>76


80 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:57:12
>>76
相変わらず浅薄な知識ではやとちりな解釈をして
恥をさらしているよデーブ君、苦笑

81 :キムパチ:2006/06/18(日) 00:59:51
先生は情けない!

82 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 06:40:07
>>75
東武天皇万歳!!

因みに日光に行く東武線はこれからついた名。

寛永寺の法親王は輪王寺門跡門主も兼ねていたんだよね。


83 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 17:15:39
上野のお山のにぎわいからしても
宮様はよほど庶民に親しまれていたんだね

84 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 18:47:44
馬鹿か?
花見だろ

85 :日本@名無史さん:2006/06/18(日) 19:21:36
今も昔も京都は憧れの都だからね。

86 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 22:26:31
たとえば一休とんち話しは江戸時代中期の成立ですが
じつは天皇の血をひくとんち小僧が
足利将軍を智恵で打ち負かす話しは

足利将軍=徳川将軍
一休=庶民、天皇

という図式が込められていると見てよい。
時の幕政批判をするのはご法度であるから
室町や南北朝の人物に置き換えて
風刺するのは当時の常套手段。

87 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 22:32:31
武力では圧倒的な力をもつ将軍が
武力をもたない一休に智恵で打ち負かされる話しは
経済文化力において
武士階級を打ち負かしつつあった町人たちの自負の表れであろう。
そして彼らのシンボルは武士階級の将軍に対して
天皇であったのである。

88 :日本@名無史さん:2006/06/20(火) 22:58:31
朝敵となること。
将軍家が最も恐れたこと。

89 :日本@名無史さん:2006/06/21(水) 01:23:01
朝敵って朝鮮の敵の事?

90 :日本@名無史さん:2006/06/21(水) 16:08:56
江戸時代に自分の子供に対し「麻呂」「幾麿」と呼ぶ風習は一般にもあったのでしょうか?
そして、その風習はどんな人達の間で使われていたのでしょうか?

91 :朝敵:2006/06/24(土) 19:48:22
「逆賊」などと同じで、各々の時代において、天皇親政を当時のイデオロ
ギーとして掲げた者が政治的(時には軍事的)対立者の政治的抹殺を謀っ
て唱えた言葉。多くの場合唱えた側からの殺害対象とされた。
官軍を主張する側が有力な場合には、いかなる経緯があろうともこの呼称
で呼ばれたものは当時の日本の政治上「悪」とされた

平安時代に関東地方において「新皇」を名乗った平将門一党や、
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇によって開始された建武の新政から離反し
た足利尊氏、江戸時代末期には1864(元治元)の八月十八日の政変で失脚
した長州藩は、禁門の変で京都御所に発砲した事により朝敵となり、
幕府による長州征伐を受けて二次にわたる幕長戦争が起こる。
王政復古により15代将軍徳川慶喜が朝敵とされると、慶喜は上野寛永寺
に謹慎する。戊辰戦争においては幕府側勢力がこの名で呼ばれ、
中心的勢力とみなされた会津藩は新政府軍から集中攻撃を浴びた。
親王同士が対立した場合などにも相互に朝敵と呼び合う場合があり、
正統性の主張や殺害予告であるとみなされる。



92 :日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:15:44
承久の乱は?

93 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 01:34:38
江戸町民にとって、視野にあるのはせいぜい「公方様」
「ミカド」なんて、生涯の中で一度も意識されることなどないだろう。


94 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 06:50:03
ミヤコが京都だってことを知ってた人はどのくらいいたの?

95 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 07:29:56
後西天皇の第六皇子、公弁法親王って、上野寛永寺と日光輪王寺の門主を
兼ねながら、結構生臭い奴だな。
綱吉治世下では、彼に媚を売り、月光院に勢威があった頃は、彼女にへつらい、
逆にたしなめられる体たらく。

96 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 08:35:48
輪王寺宮はしょせん徳川将軍家の墓番。幕府の人質。
天台座主といっても、皇族ゆえの名誉職。
功徳や修行を積んだ名僧とは大違い。

97 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 09:43:43
>>96
無知すぎる

98 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 10:07:53
知ってるか?
後水尾って、別に幕府の横暴に業を煮やして退位したんじゃないんだぜ。
淋病が原因。
家斉並みの多淫だった後水尾は、宮中に遊女を招くだけでは飽き足らず、
お忍びで市井の遊郭に出たせいもあって、淋病に苦しんでいた。
侍医・通仙院の勧める灸治療も、玉体の身ではかなわず、早朝の行水という
お勤めも身体に毒。
性病治療専念のため、退位を望んでいたところへ、幕府への抗議という格好の名目が
転がり込んできただけ。

99 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 10:51:58
>>96
生類憐れみの令に見られる綱吉の苛政に一言の諫言もなく、
呼ばれれば、綱吉に従って、牧野成貞や柳沢吉保の邸にも赴く。
一万石を超える宛がい扶持。過分の墓守料を貰っては頭もあがるまいて。

100 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 11:28:10
京都に残っていれば食うや食わずの穀潰し扱い
江戸に下れば大名生活ができるんだからな

101 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 12:14:33

曲解ばかりの印象操作で中身が無い。


102 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 12:15:41
>>99
自作自演乙


103 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 12:46:47
>>101
誰のことを言ってる知らないが、
俺のソースは、「日野資勝卿記」。
後水尾の乱行は、岩波講座の中にある桜井秀「宮廷の文化と生活」
にも記述されている。

104 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 15:23:23
反論するなら論拠を示せよな。
無知だ、曲解だ、印象操作だ・・・などとワンフレーズのコメントこそ、
中身なし。どうせ独りのカキコだろうが。

105 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 23:01:51
>桜井秀 

それソースじゃ無いよ


106 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 23:57:17
>>105
おまえ馬鹿だな。
「俺のソースは・・・」と「後水尾の乱行は・・・」
とはセンテンスが違うだろ!

それにソースとは原典とは限らない。そのものに触れられる機会は
限られてるし、おまえみたいに読み下せない奴も多いから。
無断でベタベタとコピベする奴がこのスレにもいるようだが、
ネタ本を明らかにする方がまだマシさ。

107 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:54:33
1780年に刊行された「都名所図会」は、現在も数多く出される京都本の元祖で、
大ベストセラーになった。この後、「江戸名所図会」などの図会本が次々と
出版されていった。

108 :日本@名無史さん:2006/06/26(月) 02:02:04
江戸時代は、「天皇様」より「天子様」の方がピッタリ来る。
「天皇様」って、なんか皇室ファンの婆ァの言い草。

109 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 08:51:45
公方様と天子様じゃどっちがネームバリューが会ったんだろうなぁ。
公方様だろうなぁ。
鳴り物停止令も公方様のほうが期間が長いしなぁ。

110 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 12:44:15
公方様を知らなくて天子様を知っている人は皆無に近いだろうが
公方様は知っていても天子様を知らない人は結構いただろう

111 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 17:05:54
天子様なんて名称は普通に庶民の間でも使われてますが何か?

必死すぎですね

112 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 17:17:02
まぁ浄土真宗なんかは「聖徳皇」(天皇一族を尊べ)

なんて教えを普通に信徒に普及させていたしな。


113 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:21:31
「聖徳皇」が天皇一族を尊べという教え?
初めて聞いた。

114 :日本@名無史さん:2006/06/29(木) 23:02:28
「公方」も「天子」も江戸や京など一部を除いて、
一般庶民の日常生活には無縁の存在でくちにする機会もない。
つーか
一般に使われていたなどとは、時代劇の見すぎ。
知っていても、あからさまに口にするのは憚られた。
彼らの念頭にあるのは、せいぜい「ご領主様」か「お代官様」


115 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 02:09:10
>>114
とっくに否定されまくりの網野史観の信奉者みたいですね



116 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 02:42:04
>>112-113
聖徳皇に繋がる朝家を大切にしましょうってのでしょ


117 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 10:46:00
東北、北陸、中国四国、九州の農民は、
天子様を知らなかっただろうな。

118 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 10:55:23
天子様と宮様って違うの?


119 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 11:24:42
似たようなもんだろ

120 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 19:43:04
>>117
妄想は自由ですよ。
九州には南朝時代の親王直轄政治に関する逸話や反幕府の影響で天皇賛美が多かった地域

一揆なんかで天皇持ち上げ幕府批判とかザラにある。
地域の歴史を知ってるなら九州中国地域は普通は入れない。
あと北陸も石川県あたりは除かないと説得力を無くすよ


121 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 19:48:33
>>75
>>82
東武天皇の即位式って正当な形式なのかな?


122 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 20:43:27
>>115
>114のどこが網野史観の信奉者といえるのか?
そもそも網野史観をどう捉えているのか?疑問だな。
「聖徳皇」を牽強付会する説(説なんて呼べる代物じゃなく・・・笑止)
といい、なんかこのスレ、聞きかじりでカキコしているヤツ大杉(笑)

>>120
「江戸時代の〜」というこのスレのテーマからみると、パースペクティブが
ズレている。
仮に、江戸中期以降と時期を限定してみても、
勤皇倒幕のデマゴーグに踊らされたたものでなく、
庶民の純粋な恋闕の情から湧いた一揆なんて、
どの地方にせよ、果たしてあるのか?

123 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 20:50:07
>>122
勝手に自分で創り出した命題を自分で崩しても意味無いのに
「そもそも」「仮に」なんて論理と論旨が飛んでしまってる
            
                もっとがんばりましょう

124 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 21:05:03
>>123
網野史観って何か?わかってないヤツに、その捉え方を問うのに
「そもそも」って接続詞使っただけ。
あまりの根拠薄弱を慮って、「仮に」って解釈つけてやっただけ。

・・・でないなら、もっと具体的な根拠示せよな。

125 :日本@名無史さん:2006/06/30(金) 21:54:09
>>117
当時は関東のほうが文化的周辺地ですから。
佐治曰く熊襲が割歩するクソ僻地で文化程度が極めて低かった。

126 :「後」:2006/07/01(土) 16:45:33
天皇の名前についてる「後」は(後桜町天皇など)どういう意味でつけてるんですか?
まあ欧州でいう「2世」みたいなもんだ。
直後じゃないけどな。 04/01/31 15:04

あやかりたいなあって意味で。 04/01/31 19:44

「後」と付けるのは、その人の名声&威光にあやかって付けている。
と聞いた記憶があります。例えば「後」醍醐天皇は平安時代の醍醐天皇が
天皇親政で成果を挙げたのにあやかって。後継者を「後」村上天皇に
したもの平安時代の醍醐天皇ー村上天皇の流れにあやかってのはず。05/01/07 20:56:20


127 :幕末の天皇 講談社:2006/07/01(土) 16:55:02
徳川幕府の成立以来、後水尾帝と幕府の確執などのごとく禁中公
家諸法度や京都所司代などでがんじがらめに抑圧され、貶められ
た筈の朝廷が、なぜ幕末頃には幕府から開国の勅許を求められる
ほどに権威が高まったのか? かねてよりこのことが私には不思
議でしたが、この本で疑問が解けました。幕府丸抱えの生きたひ
な飾り同様だった京都朝廷が、徐々に徐々に権威を付けていき、
最後は王政復古に至るまでになった過程がよく分かります。
それにしても松平定信は、自分の将軍教育が将来の幕府崩壊に
つながるとは夢にも思わなかったでしょうね。


128 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 17:06:02
天皇様っていいかたがあったのか?
関西の庶民には
”天皇さん”
って言い方はわりとある。
それは 大仏さんとか大黒さんとか恵比寿さんと天神さんとか
神仏を”さん”づけで呼ぶのと同じノリなんだろうけど。
いつごろ定着したんだろう

129 :皇国史観:2006/07/01(土) 17:10:36
近代天皇制イデオロギーの根幹を成す皇国史観は、薩長土肥の明治政府によって
悪質なプロパガンダに利用されましたが、その本質は「西日本=善玉、東日本=悪玉」
という構図にあります。それは、日本史が朝廷を中心とした近畿とそれに反抗して来た
関東との対立抗争の歴史だったからです。

 皇国史観で忠臣またはよく言われる人物で西日本と関係が深い人物には、中臣鎌足、
和気清麻呂、坂上田村麻呂、日野資朝・俊朝、名和長年、楠木正成・正行、豊臣秀吉、
大石内蔵助、吉田松蔭、桂小五郎、高杉晋作、坂本竜馬、大久保利通などがいます。
 それに対して、皇国史観で逆賊あるいは良く言われない人物で東日本と関係が深い
人物には、平将門、源頼朝、北条政子、北条義時、北条高時、足利尊氏、徳川家康、
柳沢吉保、近藤勇、土方歳三、小栗忠順、松平容保、河井継之助などがいます。

 高慢な西国人(西日本人)がつくった明治政府は、皇国史観によって、我々東国の
先人達を悪人として宣伝し、国民にそう吹き込みました。我々東国人(東日本人)も、
いつのまにかそれに洗脳され、郷土の偉人達を悪人だと思い込まされて来ました。
 これは我々東国人(東日本人)を侮辱するものに他なりません。
これを読んだあなたが東国人(東日本人)であるならば、こんなデタラメな
いんちきプロパガンダを、絶対に信じてはいけません。

 戊辰戦争の頃、清水港に漂着した幕府軍戦死者の遺体収容を官軍が禁じ、
そのまま晒しておくようにと命じたとのこと。会津城下じゃ、本当に晒した
のですよね。一ヶ月くらいでしたっけ。
 しかし、身内の屍が、犬に食われカラスにつつかれ、朽ち果てていくのを毎日見る
のは、どんな思いでしょう?


130 :世界@名無史さん:2006/07/01(土) 17:33:29

なるほど、天子様が天皇に代わって日本がぶっつぶれはじめたって事だ。。。

131 :世界@名無史さん:2006/07/01(土) 17:38:47

俺も明治政府が大嫌い!

明治以降日本は腐った!!

俺は東京在住だけど、会津は大好きだ!







132 :水戸光圀:2006/07/01(土) 17:45:02
俺の意見では、水戸光圀、こいつの罪は相当重いんでないか?
御三家の一つでありながら、後に幕藩体制のシソー的基盤を
揺らがせる安っぽい宋学経由の名分論にかぶれ、天皇中心の
歴史書を書き、多くの幕臣を混乱させた。しかし、言い換えれば、
テンノー制イデオロギーの成立には外来儒教思想の宋学が入って
いるわけで、情けねぇよなぁ。

あと、平田篤胤。こいつは国家神道の源流の一つだが、こいつの著作の
種本はイエズス会士のマテオリッチの宗教書(既にバレバレ)。
この本からキリスト教の絶対神の記述をそっくりそのまま剽窃して、
天皇に当てはめた。って、どこが日本古来の思想だっつーの?

てことで、近世に形作られた天皇制思想は、虚言と妄想で固められた
人工的産物。こんなん馬鹿正直に有難がってる関西人は哀れだが、
まぁ勝手にやっとくれ、俺は知らん。


133 :会津戦争:2006/07/01(土) 18:04:10
明治新政府は会津戦争における戦死者の埋葬をなかなか許可せず、
長期間に渡って戦死者の死体を放置させるといった冷酷な弾圧が
続いた。西南戦争では、多くの旧会津藩士が新政府軍に参加した。
薩摩への敵愾心がぬきんでて強かったために他地域出身者より使いや
すかったのだという。
長州藩兵、薩摩藩兵が会津若松城下で略奪や虐殺行為を行った。
会津藩兵の死体から陰部を切り取って口に含ませ放置したり、
薩摩藩兵が食人行為を行ったという記録まである。その凄惨さは、
新政府軍側の土佐藩兵や従軍僧侶が日記に批判的に書き記すほどで
あった。これらの非人道的行為に対する民衆の恨みは後世まで引き
継がれ、さらに、山県有朋を筆頭に、長州閥が明治期を通じて会津
出身者を『朝敵風情が』と見下し、学問や官僚の世界に進んだ会津藩
出身者の登用について、ことごとく妨害工作を行った。
こうしたこともあって、未だに会津の人々には山口県人、鹿児島県
人に対するわだかまりの念があるという。会津若松市内の旅館では
、山口県人や鹿児島県人の観光客に対して宿泊拒否をするところが
最近まであったという。会津の人が山口県人や鹿児島県人と結婚すること
に反対する風潮は現在でもあるという。1986年には長州藩のお膝元で
ある山口県萩市が会津若松市に対して、会津戦争の和解と友好都市
締結を申し入れたが、会津若松市側はこれを断った。2006年現在で
も、市民にとって単に『戦争』と言えば太平洋戦争ではなく会津戦争
を指すことが多く、特に高年層ほどその傾向は高い。


134 :会津戦争と会津若松の虐殺 :2006/07/01(土) 18:05:34
1868.8.23 星亮一『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書、2001年)
@「官軍」(薩摩、長州、土佐、肥前などの軍)
A若松城下、抵抗する会津兵はもとより、武士、町人百姓、老若男女の別なく、
町のなかにいた者は見境なく斬られ、打ち殺された。
攻める者は血を見ると、怪鬼のように快感を覚えて、人影を見れば撃ち
まくった。恐怖で立ちすくむ女児の後ろから阿修羅の刃が襲った。
「賊軍の死骸には手を付けるな」の命令、会津藩士とその家族、従軍した
農民など総数3千の遺体が埋葬を禁じられ、遺体が城下や山野に放置された。
『会津戊辰戦史』の「敵軍の暴掠」 家財の分捕り、大標札を立て、
薩長分捕り、長州分捕り、家財道具を勝ってに売りまくって現金を稼いだ。
男女老若を殺戮し、強姦を公然のこととし、陣所下宿に市井人の妻娘
を捕らえて来て侍妾となし、分捕りたる衣食酒肴に豪奢をきわめた。
郡山周辺の農村から弾薬や食料運搬のため大量の人夫が徴発され、
彼らも略奪に加わった。人夫は陣地の構築作業などにあたり、
最前線で官軍を誘導する斥候の役も強制された。
田島では芸州藩と肥前藩の兵が近在の村々から現金、米、味噌、蝋燭など
を調達、村役人に借用証書を渡したが、購入という名の略奪だった。
芸州と肥前の兵約百名が田島に残り、日々乱行を重ね、家々から家財道具
を分捕り、人足に荷物を作らせ、今市まで運送させた。 旧会津藩士たち
とその家族は下北半島や青森に強制移住させられ、開拓生活のなかで多
くの餓死、病死者がでた。 明治社会から会津人は賊軍として差別された。
B王政復古に反対した朝敵、賊軍の家族と城下の住民 (内戦における敵方住民)
C勝った者が正義、勝てば官軍。国家の軍隊、天皇の軍隊、正義の軍隊が朝敵・
賊軍を征伐、何をしても許される。


135 :石高はたったの1万石:2006/07/01(土) 18:11:08
江戸時代の京都は天子さま、お公家衆のおいやす(おられる)日本で一番雅風
情のある町でしたが、上は天子さまから下は庶民まで、生活するには大変厳
しい町だったようです。江戸幕府は天皇家、公家衆を押さえ込む政治を基本
としていた為、天皇が幕府より献上されていた石高はたったの1万石(家光の
時代より2万石となる)、徳川幕府は800万石、加賀は100万石等で大名から比
べると石高は極端に低く、日々の生活も大変ご苦労されていたようです。
公家にいたってはもっと厳しく近衛家で2800石、他の公家衆は200-800石程
でした、そのため公家衆は内職として、西園寺家の琵琶/冷泉家の歌/五条家
の相撲、行司の勧進元などで収入を補っていたとの事です。

幕府経済は江戸、商人経済の中心は大阪と、京都は物資、お金の流れから
取り残された状態でした。

136 :藤田覚『幕末の天皇』講談社:2006/07/01(土) 18:51:01
上皇に「光格天皇」とおくっただけなのに、人々はなぜ「天皇」号が出て
びっくりしたのだろうか。その理由はふたつほどある。江戸時代、天皇の
ことを通常は「主上」「禁裏(裡)」などと称し、天皇という語は馴染み
のない呼称だったことがひとつの理由である。また試みに、江戸時代の公
家名簿、朝廷の職員録ともいうべき『雲上明覧』の安政四(1857)年版を
開いてみると、はじめの方のページの上段の欄に歴代天皇が載せられている。
初代神武天皇から第六十二代村上天皇までは「……天皇」と記されているが、
第六十三代の冷泉院から第百十九代の後桃園院(光格天皇の先代)までは
「……院」という院号で、第百二十代の光格天皇からまた「……天皇」
となっている。すなわち、村上天皇(在位は天慶九(946)年〜康保四(967)
年以来、五十七代約九百年のあいだ「天皇」号は中絶していたのである。
八百七十五年ものあいだ眠りこんでいた古代の遺物のような「天皇」号の
復活だったから、人々がびっくりしたのである。


137 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:26:18
>>129
水戸学のような思想は明治では無く江戸時代から有るんだけど。


138 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:31:59
水戸学なんだから江戸期からにきまってんじゃん
あっても広まらず幕末にテロリストの暴虐の免罪符に「天誅」が使われるようになり
天皇のために俺たちは火付け・強姦・殺人をやってるとの理由付けに用いられたのが水戸学

139 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:37:55
>>136
武家なんかの記録の大半は「天子」と書いて有る。
〇〇院が通常だが、天皇の名称も無くなった訳では無いよ。


140 :the Imperial research舎 ◆HU9pAYchd. :2006/07/01(土) 21:10:12
>>138
無知すぎる
『日本史研究319』同『近世日本の国家権力と宗教』
東京大学出版会19893.藤田覚「寛政期の朝廷と幕府」
「天皇から読みとく日本」扶桑社
高埜利彦「江戸幕府の朝廷支配」
『この国の生いたち』PHP 『 幕末の天皇 』講談社選書
福済物語・鮫御役所日記
『歴史学研究599』19894.同「近世朝幕関係の転換」『歴史評論500』19915.同『幕末の天皇』講談社 19946.
大口勇次郎「国家意識と天皇」
『幕藩制国家の政治史的研究』校倉書房
『日本通史第15巻』岩波       
この辺りを読みなさい。団塊サヨにも馴染みでしょ?


141 :日本@名無史さん:2006/07/02(日) 12:42:57
>勤皇倒幕のデマゴーグに踊らされたたものでなく、
>庶民の純粋な恋闕の情から湧いた一揆なんて、

そんな事言ってるのか?勝手に設定してないか?
尊皇の為じゃ無くても、幕府への不満に天皇を利用する事は幾らでも有るんだが
例えば東照宮大権現の御輿の葬式をあげて、天照皇大神の御輿を掲げる表現方法で
不満を表したりとか、別に“純粋な恋闕の情”とか関係無く政権への不満に使われてるぞ。


142 :日本@名無史さん:2006/07/02(日) 12:46:37
序でに>>114のどこが網野史観の信奉者といえるのか?

>「一般庶民の日常生活」
他にも「百姓(百姓とは必ずしも農民の事では無い)とは××だ」
とかの文言をネットで議論していて使う奴って、
取り敢えず岩波の日本社会の歴史を上中下と読めとか言いだすのをよく見ますよ。


143 :日本@名無史さん:2006/07/03(月) 16:45:00
高埜も藤田もマルクス主義者だよなw

144 :日本@名無史さん:2006/07/03(月) 23:48:55
サヨは無知過ぎ。
井沢先生の御書を読みなさい。

145 :日本@名無史さん:2006/07/03(月) 23:58:33
井沢って小説家クズレの人?

146 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 00:02:23
井沢・・・ねえ。
ギャグなんだろうけど、笑っちまうw

147 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 00:05:16
秋田県立大および偽皇室のオウム殺人犯罪容疑
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/soc/1137727591/416-423

2 名前:藤本しゅういち :2006/06/22(木) 13:54:13 ID:r/NLr5NA0
ヤバイ!!教員の●盗もうとして捕まっちまったよ!! 誰か助けて!!もうショック!!
http://school5.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1151149645/

255 :非公開@個人情報保護のため :2006/06/15(木) 06:59:11
小説救急車殺人企画事件を考える
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/truck/1109449154/463-469

275 :↑しつこいキチガイ女め :2006/06/13(火) 17:08:16 ID:???
ヒットマンではなく 直接してやる。覚悟しろや。】ヒットマン ププ
http://www.akita-pu.ac.jp/bioresource/b_aisatsu.html

311 名前:実名攻撃大好きKITTY :2006/06/24(土) 19:13:31 ID:zgdswjAI0
それ俺の親友。マジショック…

188 名前:最低人類0号 :2006/06/22(木) 01:01:05 ID:2CWmvqaB
お前のせいで私の人生終わったよ。 このまま柵のついた窓がある病院で一生を終えるなんてイヤだ。
http://www.akita-pu.ac.jp/bioresource/dbe/rural/staff.html

176 :学籍番号:774 氏名:_____:2006/06/27(火) 15:34:50 ID:nPFLGkCv
●●殺人大学は、人の殺し方や死体の処理の仕方を教えている。

957 :学籍番号:774 氏名:_____:2006/06/26(月) 01:02:44 ID:8gqYcyr7
(括弧内補足:入学者激減により)来年度の収入見込みは絶望的であるがこのような状況化においても
学生の募集を続けていることは、学生の将来を無視した、学長の自己中心的な判断だと言える

601 名前:名無しさん@ゴーゴーゴーゴー! :2006/06/26(月) 16:17:18 ID:ZaBaB4mj
まぁ、警視庁が動き出したってのは事実でしょ 事実出ないことをブログにのせる奴はいないし


148 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 09:00:14
江戸時代の天子様
檻に入れられた哀れな一生・・・

149 :日本@名無史さん:2006/07/05(水) 19:17:37
>>86>>87
江戸時代の工商の人たちが天子様を慕っていたことは
よくわかりました。
日本橋付近の大店のほとんども上方からの出展ですしね。

農民はやはり幕府にがっちり抑えられていたのでしょうか

150 :日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:29:41
自己スレ乙!
で商人が天皇に結び付く理由を合理的に説明してよ。

151 :日本@名無史さん:2006/07/05(水) 23:23:55
尊王、勤皇が反幕勢力のスローガンとして利用されていた・・・なんて
ことさら力説するまでもない周知の事実。
それより、庶民や町民が「天皇を慕っていた」なんて情緒的なことを、
根拠も示さず決めつける風潮がこのスレにあるのが、笑える。



152 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 00:41:27
江戸時代の川柳・狂歌を見れば、当時の庶民の天皇観がよくわかる。
さんざんコケにされていたぜ。


153 :弓削道鏡:2006/07/07(金) 19:32:04
弓削道鏡といえば奈良時代、称徳天皇(女帝、孝謙天皇の重祚)
に取り入りその愛人となり、ついには自らが天皇になろうとした怪僧であり、
巨根の持ち主でもあったという俗説が有名だ。
(ロシアの怪僧ラスプーチンと似ている?)。
江戸時代の川柳に、
  道鏡は座ると膝が三つ出来
  道鏡に根まで入れろと詔(みことのり)
  道鏡に崩御崩御と称徳言い    などが謳われている。


154 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 19:46:10
>>149
今どき、工商なんて言葉は死語だろw
で、町人が天皇を慕ってたというソースは?

>日本橋付近の大店のほとんども上方からの出展ですしね。
出展は出店のことかな?
で、どの店が、天皇を慕っていたの?


155 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 20:44:42
内職しながら貧窮にあえぐ天皇や貴族たちを
裕福な商人たちは無視していました

お情けで内職は与えても金を恵んではやりませんでした

156 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 20:56:53
歌舞伎では後醍醐天皇を嘲笑する内容のものもあった。

しかし徳川将軍を嘲笑するものは全然なかった。

朝廷が軽く見られていたのは事実だろうが当時の町人の批評精神は
所詮安全圏からのものでしかなかったというのもまた真実だろう。

本物の批評精神があれば打首獄門を恐れずに徳川家を批評していた筈。

157 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 21:17:33

「よっ、征夷大将軍!(仕事せーよ、バカ殿が)」


158 :弓削道鏡:2006/07/07(金) 22:19:53
称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系
の皇統が復活した事から、天智天皇系の皇位継承を正当化する
ために天皇と道鏡を不当に貶めているのではという指摘もある。


159 :弓削道鏡:2006/07/07(金) 22:21:17
看病禅師として内道場に出仕し、天平宝字5年(761年)、
保良宮において孝謙天皇(女帝・後の称徳天皇)の病気を治し
て以後重んじられた。藤原仲麻呂の乱の後、763年に少僧都に任じられ、
765年(天平神護元)に太政大臣禅師、翌年には法王となり、
仏教の理念に基づいた政策を推進した。
豊前国(大分県)の宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託が
くだったが、和気清麻呂が勅使として参向し、以前の神託を否定し、
即位計画は破綻して皇位が護られた。770年に称徳天皇が病死すると、
道鏡は下野国の(現・栃木県)薬師寺別当に左遷され、ここで没した。
宝亀3年4月7日(772年)、都に道鏡死去の報が届いた。

160 :日本の悪人を記せ:2006/07/07(金) 22:28:09
小学校の歴史の時間に「日本の悪人を記せ」という問いがあり、
答えに道鏡と書くと二重丸であったという。このように道鏡ほど
長い間に渡って為政者によって都合良く利用された人物もまた希
である。

161 :日本三大悪人 :2006/07/07(金) 22:43:27
足利尊氏、平将門、弓削道鏡

162 :坂口安吾「道鏡」:2006/07/07(金) 22:47:26
坂口安吾は、戦後まもなく「道鏡」(「改造」昭和二十二年一月)を発表した。
それまで、道鏡が孝謙女帝に接近したのは道鏡が皇位を狙っていたからだと
見なされてきたのを、安吾はこの作品によって、道鏡にはただ一途な愛情し
かなく、皇位など狙う気持ちはなかったとし、孝謙の道鏡への愛情もまた尊
敬の念に満ちていたとして、二人の性を肯定的に解放的に描き出した。
戦時中、国を傾ける逆賊として忌避されてきた道鏡と孝謙は、この作品以降、
純情な愛のもとに結ばれた二人として、好意的に受け止められるようになっ
たと言われる。

163 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 23:11:02
>>150
住友・三井

164 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 23:17:31
>>156
歌舞伎を調べたが、そのわりには楠木正成を讃えたり、
天皇親政の為に働いた人達を正義のように扱ってますね。
因みに、嘲うのは検索され無かった。


165 :大意:2006/07/07(金) 23:51:59
>>153
道鏡は「巨根(立派なイチモツ)」で女帝を惑乱
道鏡に「根元まで入れろ」と天皇が命令あそばされた。
称徳女帝は、道鏡に「死ぬ!死ぬ!」と身悶え?して言った。


166 :日本@名無史さん:2006/07/07(金) 23:58:45
大森彦七は、歌舞伎・浄瑠璃・謡曲もあるね、
忠臣蔵も、勅使接待が始まりじゃん。

167 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 00:05:58
まあ、儒教というか上下秩序や名分を強調する朱子学を
幕府がイデオロギーとした時点で、
名目上、将軍の上級君主として天皇が存在することを
意識させるようになっていくわけだから、
幕府は将来自らを転覆させる装置を作ってしまったのと
同じようなもんかもね。

168 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 08:46:30
庶民といってもピンから切りまであるだろうけど
識字層は、天皇の存在自体はけっこう知ってたんじゃないの
伊勢参りをした奴、忠臣蔵を知ってた奴、百人一首や湖月抄を読んだ奴(ここらへんは
限定されるだろうが)などは少なくとも知ってただろう
もっとも、単に「そういう地位についている人がいる」という認識が漠然とあっただけで
それ以上の感情は特になかったんだろうが



169 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 18:35:36
伊勢参りはバカンス
伊勢参りをする人達のほとんどが仏教徒で宗教的色彩はない
現代でも熱心な学会員が伊勢参りをしたりするがそこに天皇なんて意識はない

忠臣蔵で天皇なんか意識しない

坊さんばかりで神道が邪魔者であるかのように排除された百人一首
字が読めることが必要で、昼間の明るい時間に遊ぶ余裕のある限られた人の遊び
遊びの中で札の天皇たちは記号でしかなく叩くように札を取ることが天皇の肖像を叩く行為でも誰も疑問にしない

天皇は京の町で下層民として日々をしのいでいた
優秀な公家は自らの才で収入を得、天皇程度養える状態なのにそれをしていない
天皇は知っている人は知っている
でも天皇は尊敬もされていないし人々の興味も集まっていない

170 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 18:50:19
栗山せんぽうっていう国学者が、天皇がスキャンダルなことやバカなこと
してるからいま没落してる、自己責任だ的なこと書きまくってたな。南朝の
北畠親房も神皇正統記で倒幕のさきがけになった後鳥羽をけなしまくって
た。江戸時代天皇が軽視されるのもその流れからだろうけどいつのあたりから
けなされ始めたのだろうか?

171 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 20:22:25
>>169
百人一首が戦時中に批判されたのは天皇の肖像が札が積まれたりしたとき
他の肖像の下に置かれたり天皇の札が折れたり破れたり燃やされたりと道具として扱われること
そもそも天皇の肖像を遊び道具にするなというものであり
あなたの指摘する叩く行為は肖像が読み札なので勘違いしている
しかし天皇が崇拝されていないことは貴族が内職で天皇の肖像を遊び道具にするぐらいなので
民衆だけでなく貴族からも崇拝されていないことが伺える

172 :お宮詣り:2006/07/08(土) 20:29:34
伊勢皇大神宮は昔から「宮」がつくから誰も何も考えず、明治神宮ができてから
「宮」は、初めて畏れ多い存在と一変した。しかし元来が、社と宮とはまったく違う
のである。
 かしこくも御所におかせられても皇位継承の御方には「宮号」はおつけにならない。
もっとも拝む方にしても「社」はカラ神つまり韓国系のカラ神さまであって「宮」と
つくのは、反韓国系つまり海洋渡来の黒潮による日本原住民のものとされ、それゆえ、
一般の原住民の末孫は、それゆえ「お宮詣り」とはいっても、決して「お社詣り」と
は今でも言わないのである。


173 :伊勢大祭は中国道教:2006/07/08(土) 20:31:32
今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢
力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。


174 :祭祀は天皇が直轄:2006/07/08(土) 20:42:59
古来より神宮の祭祀は天皇が直轄するものであり、天皇の名代として未婚の皇女が齊宮(齊王)として祭祀に奉仕していた。「壬申の乱」
において伊勢神宮は大海人皇子(天武天皇)に加勢したため天武天皇は恩義にむくい、以後伊勢神宮を正式に天皇家の守護社とした。また
長らく途絶えていた齊宮も復活し、20年毎に社殿を建て替えるという式年遷宮(しきねんせんぐう)の制度も定めた。これは一部戦国時代
の混乱期には中断されるが、天武天皇の后、持統天皇が7世紀末に第1回目の遷宮を行なって以来現在まで続いており、直近では平成5年に
第61回の式年遷宮がおこなわれた。


175 :宇佐神宮の謎:2006/07/08(土) 20:45:40
宇佐神宮は宇佐で最も有名な観光場所なので、今更紹介することもないだろうと思うが、地元の人でも案外知らないことが多いので、ここでは宇佐神宮の持つ謎をいくつか紹介しておく。
宇佐神宮が、全国4万あまりの八幡宮の総本山であり、伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟であることは、広く知られている。地元の人には、その広大さが分かりづらいが、鎌倉の鶴岡八幡宮にしろ、
明治神宮にしろ、宇佐神宮を見なれた目には案外小さなものに思える。
では、なぜこんな田舎に、これほどの規模のものがあるのか。また、全国八幡宮の総本山となった理由は何か。これは考えてみれば不思議なことであって、なぜこれほどの影響力を持ち得たのか、
ということを説明したものには、未だお目にかかったことはない。

176 :宇佐神宮の謎:2006/07/08(土) 20:47:02
称徳天皇は弓削道鏡を天皇に就かせようとし、宇佐神宮に御神託を求める使いを和気清麻呂に命じた。八幡神のお告げは
「皇室の血統でない者に位を授けてはならない」というものだった。有名な「宇佐八幡神託事件」である。
清麻呂はなぜ宇佐神宮まで足を運ばなければならなかったのか。奈良の近くには伊勢神宮がある。ただ「神宮」とのみ言う場合、これは伊勢神宮を指す。
なぜなら、伊勢神宮こそ最高神アマテラスオオミカミを祀っている神社だからだ。
ところが、清麻呂は伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かう。万世一系が途絶えるかもしれないというお国の一大事であったはずである。

177 :小泉首相および閣僚の伊勢神宮参拝に抗議:2006/07/08(土) 20:56:15
小泉純一郎首相および6閣僚は、1月4日、伊勢神宮に参拝した。私たちは、これまでくり返し抗議してきたにもかかわらず、今年も行われた伊勢神宮参拝に対して強く抗議するものである。
首相が、旧大日本帝国憲法のいう「万世一系ノ天皇」の私的な祭祀施設であり、現に一宗教法人である伊勢神宮に「参拝」し、同神宮庁において年頭の記者会見を行うことは、
憲法第20条が定める「政教分離」の原則に反し、同神宮に国が特典を与えるものと言わざるを得ない。
かつて、日本が、天皇の名による戦争と植民地支配によって、アジア・太平洋地域の人々に言語に絶する苦難を与えたとき、その精神的支柱となったのは国家神道であり、そこにおいて伊勢神宮は靖国神社と並んで決定的な役割を果たした。
日本国憲法は、国家神道が軍国主義を支えてきたことの反省として、
政教分離の原則を掲げたのである。
 ここで、国の機関である首相が、こうした経緯を知りつつ伊勢神宮に参拝することは、同神宮を再び国の宗教施設とし、憲法によって明確に否定されたはずの国家神道を再興しようとする意図を持つものと受け取らざるを得ない。
政府が天皇を神格化し、権威あるものとして、靖国神社や伊勢神宮と結びつくことは、きわめて危険であり、日本の将来を誤らせるものとなるであろう。
 私たちは、首相および閣僚の伊勢神宮参拝に、再び強く抗議すると共に、今後いかなる形においても国家神道の復活を目指すような行為の行われることのないよう要請するものである。


178 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 21:00:40
>>171
公家にとっての天皇は役職上の上司であって崇拝の対象とはならない

天皇に仕えていても満足に生活さえできないのなら天皇は公家にとっては大事な存在でなくなる
天皇が止めてくれと懇願しても公家たちが官位を勝手気ままに売りまくり自分の懐に入れていたのも
天皇よりもそこから生まれる官位の方が価値があるから



179 :下級公家:2006/07/08(土) 21:30:45
朝廷は江戸時代のほぼ全期間という長い間、政治活動を禁じられてきた。
その為、上級公家には人材が払底していたが、長い間貧乏な暮しをして来
た下級公家には燃える情熱と才能を持った者が多く出た。
但し、彼らの多くは用心棒兼参謀の様な志士を雇っており、
彼らの事績の何処までが彼らの才能による物かは断定出来ない。


180 :公家衆の内職:2006/07/08(土) 21:36:58
公家衆は内職として、
西園寺家の琵琶/冷泉家の歌/五条家の相撲、
行司の勧進元などで収入を補っていたとの事です。


181 :公家さんの暮らし:2006/07/08(土) 21:40:35
江戸時代。
京にくらすお公家さんの暮らしほど、悲惨なものはなかったという。
何しろ…ろくな給料もなけりゃ、勿論ボーナスなんか、ない。
もともとろくな仕事をしていないのだから、入るべきものも入ってこないのが当たり前だわナ。
プライドだけは高いから、「くわねど高楊枝」で自分から生活の構造改革をやろうはずもない。

見るに見かねたのは…近所に住んどる町屋の方々。すなわち庶民と言われる人々だった。

「しょうがないなぁ。これでも差し上げまひょか」
と、持ち寄る食料を、
「うむ」
と高飛車に受け取ったのか、
「いつもすんまへんなぁ」
と、とりあえず礼ぐらいは言ったのか。

とにもかくにも
「しょうがないなぁ」
が都人の口癖になっていたのではなかろうかと、徳川300年の歴史を振り返ると、そう思えてならない。

だから、明治天皇も、あれだけ張り切って討幕戦争にかけたのかなぁ。
いい加減、自分の実力で稼がないと。自分の食費ぐらいは。とか思ったのかも。


182 :やっと生きていただけであった公家:2006/07/08(土) 21:46:54
話を幕末に戻しましょう。日米修好通商条約の締結のため幕府が朝
廷に勅許を求めた場面です。これが幕府自ら政策決定権を放棄したことに等し
いことは先に述べた通りですが、同時にやっと生きていただけであった公家に
活動する機会を与えたことにもなりました。攘夷派の親玉水戸斉昭など開国反
対派の諸大名や尊王思想を奉じる志士たちは、勅許がおりないよう朝廷にしき
りに運動しました。長州も既に三条実美、姉小路公知らの下級公家と密かに手
を結び、攘夷運動を行っていました。

  勅許を得るには、まず公家を通さねばなりません。たとえ将軍でも、いき
なり天皇に面会などできない朝廷の構造がありました。修好通商条約はこの段
階でひっかかりました。このような重大な件であるから、諸公の意見をよく聞
いて、再度慎重に審議するよう回答されました。態の良い門前払いです。ハリ
スには勅許を得るため六十日の猶予をもらっています。幕府の使者は繰り返し
奏上を依頼しました。しかし攘夷論者をバックにした公家は手強くこれをはね
つけました。岩倉具視をはじめとする下級公家八十八人が、外交を幕府に任す
ことに反対して、幕府の意を受けた関白・九条尚忠の家にデモをかけるという
前代未聞の騒ぎまで起きました。まあ、この時代は前代未聞だらけですけど。


183 :江戸時代の天皇:2006/07/08(土) 22:51:43
後光明天皇 幕府が差し向けた医者による毒殺説有り。
桜町天皇 聖徳太子の再来。譲位した途端にあぼーん。
桃園天皇 カルト信者で崩御の四日前まで日記を執筆。追号の候補に後称光院。
仁孝天皇 便所へ逝く際に倒れてあぼーん。
孝明天皇 昔から毒殺説有り。

江戸時代の天皇でぁゃしぃのはこんなところかな?


184 :殺された皇族:2006/07/08(土) 22:53:35
殺された皇族(追い詰められての自害も含む)
天皇⇒安康、崇峻、弘文、淳仁、安徳
命 ⇒五瀬、手研耳、武埴安、狭穂彦
皇子⇒大碓、麛坂、忍熊、大山守、隼総別、住吉仲、大草香
   磐坂市辺押磐、美馬、木梨軽、境黒彦、八釣白彦、磐城
   星川稚宮、穴穂部、宅部、古人大兄、有馬、大津、早良
親王⇒伊予、尊良、護良、恒良、能久
王 ⇒蒲見別、眉輪、山背大兄(一族)、長屋、桑田、膳夫、黄文
葛木、鈎取、和気、塩焼、道祖、他戸、以仁、尊秀、教尊
円胤、義仁、義有、自天、日尊


185 :塩焼王:2006/07/08(土) 23:00:38
742年、女官との不適切な関係により、伊豆に流罪となった。
但し、この事件の背景には恭仁京遷都や義弟・安積親王への皇位継承
などを巡っての義父・聖武天皇との政治的な対立の可能性も指摘されている。

186 :塩焼王:2006/07/08(土) 23:06:09
745年に許されて帰京する
764年、皮肉にもかつて塩焼王の皇位継承を阻んだその
藤原仲麻呂(恵美押勝)に擁立されて天皇となるべく
反乱(藤原仲麻呂の乱)を起こすが、
間もなく鎮圧されて琵琶湖畔で処刑された。

187 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 23:14:00
>>169
空想の域が凄いな
事実は伊勢の御師が布教しお札に毎朝、お勤めしていた市民


188 :塩焼王:2006/07/08(土) 23:15:24
天武の方の皇妃と皇子・皇女の図書いてて、
「塩焼王」っていう人見つけた。
近辺にいた友達と爆笑。

今この時代に「塩焼」っていう名前付けたらどうなるのかなー、
なんていうしょーもない話もしたりもした。


189 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 23:17:48
古くさいサヨの唯物史観と珍説ばかり


190 :塩焼王:2006/07/08(土) 23:18:09
天武天皇の孫に

塩焼王 というのを発見。

ハイセンスなネーミングだ笑



191 :長屋王:2006/07/08(土) 23:39:21
天武天皇の孫に

長屋王 というのを発見。

ハイセンスなネーミングだ笑


192 :白壁王:2006/07/08(土) 23:45:30
天智天皇の孫に

白壁王 というのを発見。

ハイセンスなネーミングだ笑


193 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 01:29:18
>>177
「私たち・・・」とは誰のこと?
ウヨとかサヨとか、今どきステロ化した陳腐な批評はさておき、
大多数の国民感情から遊離したドグマの羅列には辟易する。
かといって、やっと捜し出した少数の例外で、天皇を持ち上げる説にも
うんざり。


194 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 09:57:03
>>169
「天皇が尊敬されていたかどうか」なんて別に問題にしていない

伊勢参りをすれば、天皇の祖先であること自体は一応は意識したはずだし
忠臣蔵なら「勅使」のことを意識したはずだし
百人一首みれば天皇が存在することを意識しただろう、という程度

もちろんそれ以上のものではなかっただろうけどな。

>>170
前半と後半で話が飛躍していないか?
前半と後半には「流れ」のつながりはないだろう。
前半は、「不徳の天皇もいた。そういう場合は報いを受けて没落する」という論理が
存在しえたということであり、後半は政治・経済的な地位、勢力の話だろう。
前半は、最近出た東北大系の先生の本(題名忘れたが「神国思想うんぬん」だったか)でも指摘されていたな。

195 :相続争い:2006/07/09(日) 10:14:43
天皇家では、初代の神武天皇に次ぐ2代目から早くも相続争いが始まり、
先妻(皇后)の子供の兄2人と後妻の末弟が争い、長兄は殺され、
次兄は政治を離れ神に仕え、後妻の子が2代目の天皇になった。
通常、殺されるのは、皇太子やその地位につく可能性のある親王だけでなく、
これを支持する天皇、皇后(母親である側室を含む)、その皇太子候補を支持
する皇族や官人が目標となり、逆に、これら被害を受けそうな人が身を守る
ために、加害者となる場合も少なくない。
 相続しそうな皇族をすべて殺してしまい、後継者がいなくなったので
、血筋のありそうな者を捜すために役人を地方に派遣したら、当の本人はそ
れを知ると、素早く山の中に隠れて姿を消してしまったという話もある。
天皇の跡継ぎになると、殺害される危険性が急増するからだという。
こういうことにも関連し、天皇家というものは途中何度かの断絶や、
南北朝時代のような複数王朝の存在を主張する学説もあるようだ。


196 :不徳の程度:2006/07/09(日) 10:16:23
王朝の常として、相続争いとともに婚姻関係も一つの問題であろう。
衰滅寸前だった吉野の南朝は例外として、天皇は多くの側室をかかえ
ており、皇后、中宮、妃、夫人、女御(ニョゴ)、嬪(ヒン)などと、
その出身や、出産した子供の地位により母親は格付けされ、後宮には、
天皇の異母姉妹、姪、叔母、それに先帝の側室などもはいっていた。
そのような公然たる"不倫"は男帝だけではなく、日本歴史上数少ない
女帝にも見られる。側室が最も多い天皇は26人だが、これは前記の、
宮廷内で相当の地位を持つものの人数で、"お手付"(オテツキ)
を含めれば、この数は何割増あるいは何倍にもなるかもしれない。
妃や女御として認められている女性でも、「父母未詳」「母不詳」
と記載されている人は多数に上っている。
 天皇家は「『殺戮』(サツリク・殺害のこと)と『不倫』の家
系と言えるかもしれないが、王朝というものは、どこの国でも似た
ようなもので、むしろ日本の天皇家は権力の座を占めていた期間は
短いので、世界の王朝の一般水準から言えば、その不徳の程度はむ
しろ低い方に入るようにも思われる。


197 :権力・権威を持ったのは:2006/07/09(日) 10:30:23
現在の日本の天皇制は明治初年にできたもの、という見解は歴史学者の中
にも少なくないようだが、天皇が元首らしい権力・権威を持ったのは、
7世紀後半から10世紀の律令制度が解体に向かった300年余を除けば、
19世紀後半から、先の大戦の終了時までの7〜80年と言われる。

198 :不徳の程度:2006/07/09(日) 10:34:05
天皇制を残したのは、マッカーサーの日本占領統治政策の一手段に
過ぎないことは周知の事実であろう。民主主義国に君主は無用であり、
有害なことも常識である。特に日本のように、自由主義・民主主義の
歴史の浅い国ではその弊害は大きい。いずれにしても天皇制を残した
のは一時的措置であって、最高裁長官を勤めた元東大法学部教授・横田喜三郎は、
天皇制を厳しく批判した著書を発刊しており、愚昧な子供が生まれる
危険性についてさえ言及している。
東大法学部教授・宮沢俊義(憲法学)も、象徴天皇制は"過渡的手段"
で、民主主義が共和制なのは当然である、と書いている。


199 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 10:44:28
>>198
>最高裁長官を勤めた元東大法学部教授・横田喜三郎は、
>天皇制を厳しく批判した著書を発刊しており、

最高裁長官になろうというときに、天皇制批判の本を
みずから廃刊にして昭和天皇から任命を受けた変節漢のこと?

200 :大嘗祭の本質:2006/07/09(日) 10:44:45
天皇には「善政」を行なう義務はない。むしろ下々が天皇のために奴隷となるのが当り前なのであって、逆に天皇が下々のために奉仕するなど、言語道断である。全ての土地は天皇のもの、全ての人民も天皇のもの。
全ては天皇が千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで「支配」する対象でしかない。それが律令制であり、近代天皇制である。
旧約聖書の神は人間に「万物を治めよ」と指令した。この世界を「管理」するのが人間の義務である。人間は神の最高傑作たるこの世界を統治する権限を与えられた。それゆえ神の御心に叶うように、世界を管理せねばならない。
だが反面、アマテラスはニニギノミコトに「豊饒」と「征服」を指令した。葦原の中つ国は、そして世界は支配と搾取との対象なのである。先住民族の駆逐も自然破壊も何のその。これが「天壌無窮の統治」の姿である。……そこが天皇制最大の問題なのである。
それを日本人は未だ克服していない。なぜ克服しなければならないのか、それさえも分かっていない(教えられていない)のである。いや、自分達が克服すべきものが何なのか、そんなものがあった事さえ知らないのである。


201 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 10:50:06
克服すべきは赤い頭

202 :かつてはリベラルな法学者:2006/07/09(日) 10:51:42
横田 喜三郎(よこた きさぶろう、
1896年(明治29年)8月6日-1993年(平成5年)2月17日)は、
愛知県出身の国際法学者。第3代最高裁判所長官。法学博士。
1965年(昭和40年)11月3日、勲一等旭日大綬章受章。
かつてはマルクス主義の読書会に参加するなどリベラルな
法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。
東京裁判の法的な不備を認めながらも、裁判自体については
肯定的評価を与えていた。

203 :戦争犯罪論:2006/07/09(日) 10:57:10
47年3月に横田喜三郎東大法学部国際法主任教授は,
『戦争犯罪論』を上梓した。ハーバード大学のグリュック教授が、
46年2月に雑誌に寄稿した「ニュウルンベルグ裁判と侵略戦争」
という論文の,ほとんど受け売りに近い内容である。

「゛平和に対する罪″は,形式的な法の技術的な立場からすると,
いくらかの不備や弱点はあるが,実質的な,法の精神的な立場から
すると,やはり゛戦争犯罪″としての性質を有することがあきらか
にされた。これを処罰することは,十分な理由がある」
(『戦争犯罪論』、横田喜三郎、138頁)

204 :満州事変と国際連盟:2006/07/09(日) 11:01:09
東京帝国大学法学部教授・横田喜三郎は満州事変を「中国側が仕掛けたものであ
り、自衛力の行使である」とする政府の主張にはいち早く疑問を呈した。横田は「関東
軍の謀略ではないか」と事変の真相を見破っており、十月五日『帝国大学新聞』に「満
州事変と国際連盟」という論文を発表した。

205 :世論に脅えて逃走した帝大の売国教授:2006/07/09(日) 11:04:59
横田教授の批判に対して、右翼団体や右翼新聞『日本』から激しい非
難、攻撃が加えられた。
『日本』は十月三十日で、「世論に脅えて逃走した帝大の売国教授、
毒筆の主、横田喜三郎上満へ、当局礼弾の声喧し」「売国言論を引用、支那猛烈に逆宣伝、学府に
巣食ふ国賊を葬れ、と憂国の士極度に憤慨」の大見出しをつけ、横田教授を非難した。
 いわく。「国内における紛争は一切水に流して、挙国一致を以て此の空前の大困難
に当らねばならぬのであるにも拘わらず、国立帝大教授ともあろう公人が浅薄なる根
拠と明らかに不逞の意図に立ってわが皇軍の行動へ奇怪なる云為を及ぼす事は許
し難い反逆の大罪である」
 横田教授の宅には「国賊」「売国奴」「不逞国賊、覚悟しろ」などの脅迫状や非難の手紙、
ハガキが多数舞い込んだ。

206 :占領軍に媚び諂い:2006/07/09(日) 11:13:33
横田は法の真理を放擲し一心不乱に占領軍に媚び諂い自己保身を図ったのである。

さらに横田は何を血迷ったのか、国際社会は一九二八年の不戦条約以来、
国際連盟規約や国際連合憲章などの度重なる戦争の違法化によって今
や戦争は非合法化されたので非合法の事態に適用すべき法がある筈が
ない、などとデタラメな暴言を吐き、東大の国際法学科から戦争法研
究を追放してしまったのである。この横田の悪業によって垂れ流され
た害毒は、ペストのごとく猛威を振るって日本人を蝕み、戦後日本を
瀕死の重態に陥らせている。横田の嘘学問に汚染された東大学生が霞
ヶ関の高級官僚となり、或いは永田町の政治家となり、或いは各大学
の教授となって国民に接した結果、東京裁判は法と正義に基づく裁判
でその判決は紛れもない真実であるという歴史の見方いわゆる東京裁
判史観が国民の間に広く蔓延してしまい、日本人としての誇りや愛国
精神を著しく衰退させてしまった。


207 :勲一等旭日大綬章受章:2006/07/09(日) 11:16:31
横田喜三郎って散々天皇制批判の論文書き散らしながら
勲章もらえるとなると一転して陛下に頭下げた男だよなw


208 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 11:18:26
「江戸時代の〜」っつうテーマ、どこへ逝ったんだろうねえ?
スレ違い、板違い!?

209 :抜群の世渡り:2006/07/09(日) 11:27:24
横田の東大的な体質は、その処世術によく現れている。
GHQの占領政策のなかでうまく泳ぎ回り、戦後の民主主義、
平和主義を上手に利用して地位を高めた。そこにあったのは単
なる処世術である。
たとえばサンフランシスコ講和条約に関しては、最初は全面講
和を唱えていたが、旗色が悪くなるとみるや、単独講和に宗旨
変えした。日英安保条約についても、反対から護憲安保論、
日米安保合憲論へと、時宜に応じて要領よく態度を変えた。
その論理は底が浅かったが、当時は知識人が混乱のきわみにあり、
一見すれば横田の単純明快な論理は受けた。処世の術として、
横田は学者タイプとして振舞っていたので信用もあり、
法曹界で力を持つにいたった。
抜群の世渡りで横田は栄達を重ね、法制局長官、最高裁長官に任命
され、勲一等旭日桐花大綬章、文化勲章までもらっている。

210 :江戸時代の天皇一覧:2006/07/09(日) 11:35:03
後陽成天皇
後水尾天皇
明正天皇
後光明天皇
後西天皇
霊元天皇
東山天皇
中御門天皇
桜町天皇
桃園天皇
後桜町天皇
後桃園天皇
光格天皇
仁孝天皇
孝明天皇
東福門院


211 :禁中並公家諸法度:2006/07/09(日) 11:42:03
主な法文
一 天子御芸能の事、第一御学問也。(第1条)
一 摂家たりと雖も、其の器用無きは三公摂関に任ぜられるべからず。況んや其の外をや。(第4条)
一 器用の御仁躰、年老に及ぶと雖も、三公摂関、辞表有るべからず。但し、辞表有りと雖も、再任有るべき事。(第5条)
一 武家の官位は、公家当官の外たるべき事。(第7条)
一 改元は、漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。(第8条)
一 関白、伝奏並に奉行職事等申渡す儀、堂上地下の輩相背くに於ては流罪となすべき事。(第11条)
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(第16条)


212 :禁中並公家諸法度:2006/07/09(日) 11:42:54
禁中並公家諸法度はある意味、画期的な法である。
それは、天皇につき、良きに付け悪しきに付け定められた初の法だか
らである。

それまでは、武家の法律にも、大宝律令にすら天皇という項目はない。
それに対し、天皇(天子)について初めて定められた法である。
それまで、法で天子が明記されてなかったので、天子は法を越える存
在であった。しかし、これによって法の枠組みの中に入れられてしま
ったのである。


213 :禁中並公家諸法度:2006/07/09(日) 11:46:58
摂家(関白・三公)に朝廷統制の主導権を持たせて
武家伝奏(公家から二人選ばれて朝廷と幕府をつなぐ窓口となる)を通じて操作しようとした
幕府は天皇・朝廷がみずから権力をふるったり他大名に利用されぬように
天皇や公家の行動を規制する体制を取った

和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させたのを機に
朝廷に残されてきた機能も幕府の承諾を必要とすることにした

幕府による全国支配に役立てた

1629年に後水尾天皇は紫衣事件(天皇が紫衣着用を勅許したことを問題にして沢庵を処罰)をきっかけに
幕府の動意を求めずに譲位した

つぎの天皇が秀忠の孫である明正天皇となることもあり譲位を追認

摂家と武家転奏に厳重な朝廷統制を命じた

門跡を朝廷の一員とみなして統制した


214 :姿の見えない天皇:2006/07/09(日) 11:51:31
◎姿の見えない天皇

江戸時代の天皇は姿が見えない→他の時代の天皇とは対照的

☆例外:後水尾天皇…紫衣事件で有名

 大多数の教科書に江戸時代、後水尾天皇以外に一人も描かれていない。

 理由@近世の天皇・朝廷に関する研究が戦後数十年にわたって停滞。

   A幕藩体制のなかに、限られた役割を果たす存在として位置づけられた。

215 :朝幕関係の破綻:2006/07/09(日) 11:56:18
○朝廷秩序の弛緩
・宝暦期(1751~64)から、朝廷秩序が弛緩
@上下関係の乱れが見られるようになる A禁裏小番の懈怠
・朝廷にとって最も深刻な問題は、公家の財政窮乏
 →公家は家職を活用して収入をはかる。
 ○宝暦事件
竹内式部の影響を受けた徳大寺らが、桃園天皇に『日本書紀』を進講。
But.『日本書紀』は天皇の学問としてあってはならなかった。
→前関白の一条兼香は、神書購読の停止を要求。
→摂家たちは、竹内式部・徳大寺らの処分を決定。
 ○尊号一件

光格天皇は実父の閑院宮への太上天皇号宣下を望んだ。

→幕府の老中松平定信は尊号宣下に反対。

理由:大上天皇号は天皇の地位についた者が冠せられる尊号だから。

But.朝廷は、幕府の返答を無視して尊号宣下を強行。

→松平定信は尊号宣下不許可を命じ、武家伝奏・儀奏の全員を処分。

☆このことで、1世紀以上続いた幕府と朝廷の協調体制は終わりを告げた。

216 :朝廷権威の浮上:2006/07/09(日) 11:57:26
19世紀、内憂…領主財政の窮乏、一揆・村方騒動の発生。

     外患…外国船による圧力が海岸に迫ってきた。

⇒弱体化した幕府は、朝廷権威を必要とし、朝廷の要求にこたえざるを得ない。

光格天皇は朝廷復古を望み、朝勤行幸再興と天皇号再興の許可を求める。    →幕府は許可。

 ☆光格天皇の朝廷復古の意図と、幕府もまた朝廷権威を借りようとする意図から、朝廷権威は浮上。

1800年以降幕末にかけて、天皇・朝廷の権威はさらに浮上し、幕府と朝廷の地位は逆転することとなった。



217 :おかゆと漬け物:2006/07/09(日) 12:25:39
天皇一族にも輝かしい(頑張って贅沢をした)時期もあったのは疑いないが、
戦国時代には生活自体に困窮し、三代にわたり、おかゆと漬け物を毎日恵ん
でくれた京都の住民によって辛うじて生きのびたり、即位の儀式は践祚
(センソ・天皇の位をつぐこと)後20年以上たって、やっと行なった天皇
もいる。
 明治初年、福沢諭吉が日本国民について「藩あるを知りて国あるを知らず」
と言ったことは有名だが、当時、京都の住民さえ天皇を知らない――顔を見
たことがないという意味ではなく、そういう制度の存在自体を知らないとい
う意味である。まして天皇とは何の関係もない地方においてはなおさらで、
だからこそ、駕籠(カゴ)しかない時代に、また財政窮迫の折にも拘らず、
明治政府は天皇を駕籠に乗せて日本中を引張り廻して国民に紹介し(?)、
「そもそも天皇様とは、いかにおえらいお方か」と宣伝して歩いたのである。


218 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 13:10:59
天皇が、皇位に就いていない実父に太上天皇の尊号を贈ることは、
後堀河天皇が、守貞親王に「後高倉院」の尊号を贈り、
後花園天皇が、貞成親王に「後崇光院」を贈号した先例があり、
しかもこの事実は、議奏中山愛親の裏づけ調査をもとに所司代に
申し渡し済みだったので、松平定信も承知のはず。
それを強硬に阻止したのは、定信の不遜。
反対の真意は、将軍家斉が前将軍でもない一橋治済に大御所の号を贈り、
西の丸へ迎え入れようとしたのを阻止するため。
もともとこの尊号一件は、治済側が朝廷に入れ智恵したものとされている。


219 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 13:33:09
>姿の見えない天皇
何も江戸時代に限ったことではない。
むしろその姿が顕在化した時期の方が異例。
特に南北朝以降、政治の表舞台から去ってからは、明治維新まで姿が見えない。
因みに、最近の教科書では紫衣事件すら取り上げない傾向にあり(あの扶桑社ですら)、
後水尾など登場しない。せいぜい幕末の孝明ぐらい。

220 :尊号一件:2006/07/09(日) 13:34:57
第119代光格天皇は閑院宮典仁親王の子であったが、
後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって即位
した。父よりも位が上になってしまったので、実父典仁親王に対して太上天
皇(上皇)の尊号を送ろうとした。
1788年(天明8年)に公家の中山愛親らが幕府に通達すると、老中松平定信
は皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例の無い事態として反対する。
朝廷では徳川時代以前の古例を持ち出し、朱子学を正当とする定信と対抗し、
朝幕間の学問的論争に発展する。勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、
朝廷は尊号一件から手を引いた。定信は中山愛親、正親町公明らの公家に
処分を下し、また九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した。

221 :尊号一件:2006/07/09(日) 13:36:16
同時期に幕府内では11代将軍徳川家斉が実父の一橋治済に対して
「大御所」の尊号を贈ろうとしていた。定信は朝廷に対して尊号
を拒否している手前、将軍に対しても同様に拒否をせざるをえな
くなり、結果家斉の機嫌を損ね、事件後に松平定信が失脚、
辞職する遠因となる。

だが、碩学の定信が「皇位についていない人間に皇号を贈
る先例」の存在を本当に知らなかったとは考えにくい。

222 :綱渡りがつづいた:2006/07/09(日) 13:41:22
江戸時代を通じて、「皇位」(正確には「院位」というべきか)
の継承は綱渡りがつづいた。明正や後桜町のような女帝をたてて
凌ぎさえした。第119代の後桃園院は1779年、後嗣を決めな
いまま急逝したことから、その死は隠された。急遽、それまでの天
皇家の血筋、血脈としては遠い傍流であった閑院宮という宮家から、
わずか9歳の祐宮(さちみや)を、後桃園院に養子縁組みさせる
ことで継承することで問題をクリアーした。「皇統を絶やさない」
ために如何に努力してきたかが分かる。


223 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 13:48:24
だから尊号事件の真因は、一橋VS田安の怨念にある。
一橋治済の策謀で田安家から出され、将軍になりそこねた定信の遺恨。
治済に踊らされ、いい気になったところを定信に押さえつけられた。

先例を定信が知っていたかどうかなど、枝葉の問題。

224 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 14:00:29
松平定信は先例を知っていた。
閑院宮典仁の弟で、定信とも親戚の関白鷹司輔平に
先例が口実とはなり得ない旨、書き送っている。
ハナから認める意志はなかった。
高山彦九郎は九州で抗議の自害。但しこの男、尊王家といわれるが、
当時奇人扱いされていた。

225 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 14:24:25
家宣時代の閑院宮創立――その狙いどおり、後桃園の後の皇統の断絶を救った。
・・・と、言いたいところだが、
新井白石の本当の狙いは、親幕派の宮家を立て、皇族の分断をはかったもの。
また宮家創立に反対した霊元院の思惑もナマ臭い。

226 :松平 定信:2006/07/09(日) 17:18:39
御三卿の1つである田安徳川家に生まれる。父は田安宗武。
幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄・治察が病弱かつ凡庸
だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川
家治の後を継ぐことになるかも知れない人物とまで目されていた。
しかし田沼意次による田沼政治が行われていた当時から、田沼政治を
「賄賂政治」として批判したため、田沼意次によって存在を疎まれていた。
田沼の権勢を恐れた一橋家の当主であった一橋治済によって、1774年に、
徳川家康・弟の末裔である久松松平家・庶流の一つ陸奥国白河藩主・松平
定邦の養子とされてしまった。

一時期は将軍世子とまでいわれた定信は、このことにより田沼意次を激
しく憎み、後に田沼暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入
りを狙って、田沼に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話伝説である。


227 :松平 定信:2006/07/09(日) 17:27:18
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき

228 :田沼意次と松平定信:2006/07/09(日) 17:31:29
田沼は商業を活用し、松平は農業中心の政治で、前者は汚職、
わいろの政治家、後者は清廉潔白な政治家だったそうですが、
今日の研究では逆転した見方が考えられていますよね。
つまり、田沼は時代を先取りした優れた政治家で、
松平は何もわかっていなかったのではないかと。


229 :混浴を禁じたのは:2006/07/09(日) 17:34:52
入浴で江戸時代中期までは
混浴だったんです!その混浴を禁じたのは寛政の改革を行なった
松平定信なんです!1791年33歳の時です!しかし、改革はそう簡単ではなく、
民衆が守る事はありませんでした!これが守られてきたのは、
明治の文明開花の時期でこのときに軽犯罪法違反となりました!
今では、公衆浴場法施行細則で禁じられています!といっても、
温泉地などの共同浴場は混浴フリーなので、混浴できる所もあります!


230 :定信の権力基盤:2006/07/09(日) 18:06:55
表面的には将軍補佐役という絶対権力を握ったかに見える定信でしたが、
実際にはそれは一橋家や御三家の同意と協力の下に勝ち得た地位であるだ
けに、その権力基盤はかなり脆弱でした。つまり、その権力基盤を保ち続
けるためには、一橋家に代表される譜代勢力の信頼を失うわけには行か
なかったからです。

享保の改革の前夜、吉宗は、譜代勢力の信頼を集めるために、
様々なパーフォーマンスを行う必要があったこと刃先に紹介したとおりです。
しかし、彼の時には、直接の対象となっていたのは、前代の遺産である無能
な老中達でしたから、彼らが満足する程度の形式さえ整えてやれば、
後はかなり自由に活動することができました。

これに対して、定信が満足させなければならないのは、一橋治済というきわ
めて老獪な政治家です。彼を満足させるためには、あらゆることについて、
彼の意見を斟酌してやる必要があります。したがって、定信政権では、
政策は、幕閣で決められるのではありません。事前に、まず一橋家や御
三家に根回しをして、その同意を得てから、ようやく将軍に上奏し、
允許を得るという羽目に陥ったのです。

 定信の政治については、合議制的だという説と、専制的だという説の
二つがあります。が、話は単純で、御三家等との関係では合議制的であり、
幕閣においては専制君主だったのです。


231 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:06:19
まあ太平記なんかが大衆文学として語られていたわけですから
隠れ天皇ファンは多かったでしょう。

寛政といえばかの高山君も
じつは太平記を読んで熱烈な天皇ファンになった一人。

232 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:06:54
>>230
甲斐素直の説の、まんまコピペだぜ。

233 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:30:04
>>231
尊氏のほうが人気じゃん
明治政府が正成を定義し直した
後醍醐は逆賊だったろ

ということでそれについて反論を長々と語れや>>231

234 :天皇は君主ではなく公務員である:2006/07/09(日) 20:33:15
(以下、『法哲学講義』(東京大学出版会、2002)19章より)
---
天皇は立憲君主でない。なぜならば、「立憲君主制下の君主は、形式的にはなお統治権や元首
性を保持しつつ、実際の政治を国民代表に委ねているのだが、天皇はそうした権限を保持して
いないからである。」「「国王は君臨すれども統治せず」というのが立憲君主制であるが、天
皇はもはや「国王」ではなくそれゆえ「君臨」していない」。「象徴天皇制をしばしばイギリ
スの立憲君主制の対応物だとする議論があるが、これはやはり正確ではないのである。」 
では、象徴天皇とはいかなる存在なのか。
「法的に見て天皇は、君主として国民の上位には立っていない、むしろ、「固有権」を持たず
 国民主権に服しているのであるから、国民相互間の名誉毀損以上の保護を受ける必要はないし
 畏敬の対象とはなりえない。この点で、たとえば皇室典範が「陛下」などといった秦の始皇帝
 にまつわる敬称を規定しているのは、奇怪という他ないだろう。」
「ヨーロッパの立憲君主や実権ある大統領ですら受けていない特別扱いを、象徴天皇が受ける法
 的根拠はないのである。そしてここでも、日本の「伝統」…や、象徴天皇をめぐる「国民意識」
 ないし既成事実が引き合いに出されてはならない。それらが前提にしている、「神聖な天皇」の
 否定の上に戦後日本の再出発があり憲法があるのだからである」。
「象徴天皇の「尊厳」とは、結局「ドイツ連邦大統領以下的」な機関のそれなのである。そのよう
 なものとして、象徴天皇は日本国憲法が「発明」した、世界にただ一つの特異な公務員としてある。
 この、「世界にただ一つの特異な公務員」という視点こそが、象徴天皇にまつわる神秘主義から、
 われわれが解放される決定的なカギなのである。」
---
長文の読めないDQN諸兄のために1行でまとめると、

「天皇は君主ではなく公務員である」

そして、こと国家公務員の採用に関して、門地・性別等の条件を課す事は即ち、
法の下の平等を統治の大原則とする、日本の国是に唾吐く、反日的行為そのもの
である事であることは、愛国者諸兄には今更言うまでもないだろう。

男系派 = 反日分子

235 :俺のジイサン:2006/07/09(日) 20:38:12
俺のジイサンは酷い人だった。
自分のために多くの人が死んでいくのに「あっそう」と興味ない。
飢えた人を目の前に、取り上げた食料を無表情で貪る。
たとえば自分のせいでみんなが焼き尽くされようとも
たとえば自分のせいでみんなが住処を失おうとも
極端な例えで自分のせいで原爆が落とされたり国が滅びようとも
「あっそう」と責任も同情も感じない。人ではない人でなしだった。
そんなジイサンの血を引く俺は知能が低く醜い顔をしている。
弟からED治療をしろと言われるが、お前こそDV治療をしろと言いたい。
ああ、昭和天皇陛下のような立派な方が祖父ならと思わずにはいられない。

236 :倫理的だと勤まらない:2006/07/09(日) 20:41:17
日本史やってる人は知ってると思うが殺人を任務とする兵士は倫理的だと勤まらない。
日本人同士合戦で首を取り合い無抵抗の捕虜に残虐行為をするのは何時の時代でもどの民族でも同じ。
人間の頭を銃で撃ち抜き「やったぜ」と言える人間を養成しなければ強い軍隊にならない。
良心にさいなまれ敵を殺せないような普通の心の人間ばかりでは負ける。
日本史上と世界史上で明治から昭和の日本軍だけは良心的だったなんて日本史板では通用しない。


237 :落ち武者狩り:2006/07/09(日) 20:42:07
日本史上で戦死のほとんどが決着後の落ち武者狩り。
負けて逃げる側の兵を襲い首を切り落とし装備を奪う。
世界中人間に共通のものがあって当たり前。
日本人だけが人間じゃないかのように言うのは他国から笑われる。
日本人が日本人に対して行なった日本史上の残虐行為を貴方も知っているでしょう。


238 :天皇は君主ではなく公務員である:2006/07/09(日) 20:49:30
>>234
現在の天皇が公務員なら
江戸時代の天皇はニート
後西天皇はひきこもり

239 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 20:53:35
別スレでほざけッ!このボケッ!!

240 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 21:23:11
まあ高山君は極端な例だが
行動はしなくても心情的には
天皇ファンてけっこういたと思うよ。

241 :高山彦九郎記念館:2006/07/09(日) 21:26:57
高山彦九郎は、戦前までは国定教科書の中で林子平・蒲生君平とともに
「寛政の三奇人」として広く知られ、日本近代国家成立と軌を一にし、
天皇制国家発揚の人物と理解されていた。
そして、その行動の内実はよく知られることなく今日に至っている。
また、「奇人」という意味の理解に誤解を受けやすい。「奇」とは
評価・尊敬すべき人物に対しての意味であり、道を冬くした人物と
見るべきである。
http://msk.gr.jp/hikokurou/

242 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 21:36:41
天皇は江戸幕府に半ば封印されたものの一つですが
他に江戸幕府に封印されたものとしてキリスト教などがあります。
しかし、キリスト教徒は隠れキリシタンとして
江戸時代にも脈々と受け継がれていました。

これと同じように農村や町人の中にも隠れ天皇派として
深く朝廷を崇敬する人達がいたはずです。

高山氏に太平記を聞かせたのもこのような人達だったのではないかと
推察しています。

243 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 21:41:32
聞くところによると
通行の自由が厳しく制限されていた江戸時代にも
朝廷の許可を得た一部の職種には諸国往来の自由という
この時代にあってはスペシャルな特権を得ていたといいます。
彼らこそ諸国の朝廷派を結ぶ使者だったのかもしれません。

244 :日本@名無史さん:2006/07/09(日) 21:56:38
>しかし、キリスト教徒は隠れキリシタンとして
江戸時代にも脈々と受け継がれていました。

信仰だからでしょ。殉教もいとわないほど強固な。

>これと同じように農村や町人の中にも隠れ天皇派として
深く朝廷を崇敬する人達がいたはずです。
 
当時の庶民にそこまで志操を固くさせる、なにものがあったのか?
「太平記」・・・?
云われているような尊王の書ではありません。
実際、後醍醐などは痛烈に批判されている


245 :日本@名無史さん:2006/07/10(月) 03:43:48
>>212
諸法度は天子を定めて無い

天子の行動について縛りをいれただこのもの。


246 :日本@名無史さん:2006/07/10(月) 03:55:30
江戸時代の神道は最強。
江戸後期には家の祭祀を神道に改宗した家が9割なんて地域がアチコチに出来た
明治政府が仏教僧の要請で国家神道化て、神職の葬儀が禁止されたり教道職が廃止されたりとなって、
仏教式に再びなおされたが、廃仏なんかま江戸後期の方が多かったりもする。


247 :日本@名無史さん:2006/07/10(月) 22:51:13
霊元上皇〈法皇)―一条兼輝・兼香―綱吉―吉宗
            VS
東山天皇―中御門天皇―近衛基熈・家熈―家宣―尾張継友

248 :日本@名無史さん:2006/07/11(火) 11:11:44
>>245
>>212で、あってるんじゃないの?
何が不満なの?

249 :日本@名無史さん:2006/07/11(火) 13:37:37
元号制定権をにぎっていたのは江戸幕府

250 :日本@名無史さん:2006/07/11(火) 16:32:06
伊勢参りでは、外宮のほうが人気があったんだよな
内宮は天照だけど、外宮はなんだっけな、豊受大神宮だっけ?

251 :日本@名無史さん:2006/07/11(火) 16:45:54
太平記は天皇に批判的な部分が多いね

252 :日本@名無史さん:2006/07/12(水) 05:28:21
>>249
無知だと理解した。だから曲解に騙されるのか
>>250
デタラメです。それに何、明治からの神格理論を・・・
>>251
天皇?読めよ。朝だろ


253 :the Imperial research舎 ◆HU9pAYchd. :2006/07/12(水) 17:58:27
北畠親房の『紹運篇』は「大日本は神国なり。」「唯此の国のみ昔より譲りのまゝに天日嗣を
うけ給つることたうとき事なるべし。さればもろこしの大宋の太宗皇帝はうらやみ給けるとぞ
書伝に見えたり、日本を神国と云伝えたることはこれにてはかりしるべし。」
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/08/post_da18.html

太宗が日本の王制についてたずねると、 然は答えた。
「わが国の天皇は一姓伝継であり、臣下もみな世襲です。革命は、一度もありません」
 太宗は驚嘆し、宰相をかえりみて、羨望の言葉を漏らした。
「日本は島国の未開人だとばかり思っていたのに、王統は一姓伝継で、臣下もみな世襲とは!
 中国のいにしえの理想の道を実現しているのは、われらではなく、なんと、彼ら日本人の
ほうではないか」
 太宗は関係各省庁に命じて、 然の五台山参詣の便宜を図らせた。そして 然に、国家が
僧侶に与える最高の栄誉である「紫衣」と、「法済大師」の称号、印刷されたばかりの
『大蔵経』五千四十七巻などを与えた。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/chonen.html


254 :日本@名無史さん:2006/07/14(金) 23:39:07
泉秀樹著『天皇の四十七士』
赤穂事件と朝廷VS幕府とのカラミが窺い知れて、面白いよ。

255 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 01:00:48
>>252
内宮参拝者が外宮参拝者を上回るようになったのは昭和30年代
それまではずっと外宮>内宮だった
伊勢参りって外宮の御師が広めたものだからね

256 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 01:19:44
>>255に禿同
新幹線開通以前、
内宮への参拝者より外宮のそれの方が多かったのは常識。
デタラメとか無知とか言うヤツこそ、すぐバレる嘘をコク。



257 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 01:47:58
でも元号制定権を幕府が握っていたというのは、正確じゃないな。
享保改元までの一時期、幕府側が主導していたのは事実のようだけど。

258 :世界@名無史さん:2006/07/15(土) 16:29:06


明治維新後明治政府は各県に「人民告諭(こくゆ)」をだして国民に天皇に

ついて教えた。それは、国民が天皇を知らなかったためである。

明治政府が天皇を日本全国に教えて歩いたってわけです。



259 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:48:29
>>250
曲解しすぎだな。
そんなもの南北朝の終わりや徳川時代にも似たような配布は行われとるんだが。
昭和戦後にも全く同じこと行われとるんだが。何かあるとするんだよ。未来の人も同じ事言うかもね。
他にも徳川が皇室と婚姻を結んだ時や法親王を招聘した時なをかもね。
江戸時代の瓦版なんかには天皇題材も多数ある。
お札降りの時には、天命とばかりにええじゃないかの歌詞に「ええじゃないかええじゃないかええじゃないか尊皇攘夷もええじゃないか」と入れてる。


260 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:44:39
>>259
あなただけの持論でしかなく世間ではあなたもあなたの持論も居場所がない

261 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 17:50:20
>>260
自己レス乙
あなただけの持論でしかなく世間ではあなたもあなたの持論も居場所がない


262 :元神領民:2006/07/15(土) 18:59:05
>>255-256自作自演っぽいな〜
配布されたお札は「天照皇大神」
あと地元民以外は外宮も内宮も両方参拝が普通。
地元民は何回も行くのだから奥まで歩かずにすませただけ。
そもそも個別の参拝者なんて正式な記録で数えだしたのなんて近代。
>>257
改元を要求した一例を主導とは言わない。拒否もあった。


263 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 20:03:46
『西鶴織留』は冒頭いきなり「神武以来・・・」で始まるし
京の「畏きあたり」や「宮御門跡」なんて言葉も出てくる
町人文化の典型みたいな西鶴でさえこれなんだからね
江戸時代の人が天皇の存在を知らないなんてことあり得ない

264 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 20:21:48
町人なんて日本人の極一部
日本史の最低限の知識がないのは???
嫌でも学校で習うだろ

265 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 20:31:49
>>262
近代に至ってからしかデータがないのなら、それで比較するほかあるまい。
1930年の比較では、皇国史観全盛の時代背景にも関わらず、外宮600万に対して
内宮150万・・・この開きは思いつきのように>>262がカキコした理由では、
到底納得できないものだ。
まして天皇崇拝なんて心にもない江戸時代の庶民・農民は五穀の神である豊受大神を
むしろ有り難がったのだろうよ。

幕府主導の改元は享保に限ったものではない。
吉宗就位で改元されたように、家綱就位後、慶安から承応に改元され、
綱吉就位後、延宝から天和に改元されている。
逆に朝廷の意向が拒否された例として、霊元即位時に寛文のまま改元を許されなかった
例がある。
享保までの改元が幕府主導であったとは、江戸時代の朝幕関係の研究で著名な
久保貴子女史も指摘している。

266 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 20:52:16
>>264
そりゃ、農民レベルでは、天皇どころか将軍の存在すら知らない奴だって
多かっただろうよ
今だって天皇の存在を知らない(学校で習っても頭に残ってない)一般人もいるかも知れないしな

267 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 22:20:13
結論としては

江戸時代は、民衆レベルでは、

町人で文字が読めて西鶴とか古典文学に接した者とか、伊勢参りで天照大神について聞いた者とか、
一定範囲の人間は、「天皇という人がいる」程度のことは(崇拝とかいう心情とは無関係に)知っていたし、
特に畿内の者は知っていた比率が高かっただろうし、それ以外の日本の大多数の者は知らなかった

ってことでOK?

268 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 00:03:49
>>264
江戸時代の大阪、加賀、名古屋、京、江戸など大都市圏の識字率は7割以上。
かなり偏狭の農村部でも3割は有った。
>>265
その戦前の600万の内8割は地元の人間が毎週のように何回も通った結果なんだがな。
明治〜昭和にかけての神道を勘違いしてる皇道者=伊勢神宮参拝なんてのは無く、管理された地元の神社に行くよう命じられた。
その思想からもう主観が入り、あんたらの主観から願望的な曲解に繋がるのには違和感が有る。
一つの町に一つの神社政策。昭和初期に東海地方以外に伊勢神宮(内外その他の宮含め)に参拝者は少数。
それに今は少なくなったが、必死に民衆と支配者と分けたがる学者が持ち出す程のもんじゃ無い。
外宮の講でも天皇やアマテラスその為の神事を教えていた。そもそも御師は相互に就いてる
そもそも君などが思ってるように分けて考えられてはいなかった。神宮内や周辺にも祭られ語られるてる。
はるか昔の度会氏による伊勢神道の五部書にも天皇との関係が載ってるし、あんたの言う“いわゆる”外宮の御師が天照皇大神のお札を配り尊皇に寄与したりもした。
ちなみに外宮でも勿論、天皇に繋がる神話は教えてる。
明治には禁止に成ったが、江戸時代の伊勢講では教えていた。


269 :the Imperial research舎 ◆HU9pAYchd. :2006/07/17(月) 01:53:42
まぁ宣教師オルガンティノの言うように昔の日本人は如来を見ても皇祖天照大神
を思い浮かべるらしいからな。(宣教師の憂欝)。
「この国の土人」たちは「大日如来」の姿に「インド仏の面影よりも、大日?貴[おほひるめむち]」
すなわち天照大神の面影を見ている。
『奉教人の死』(新潮文庫)等に所收
早稻田大學文學部專任講師■岡田 俊之輔  (多少読みやすく改)
安土桃山時代、布教のために来日したイエズス会の宣教師「オルガンティノ神父」は
「どうかすると、憂鬱の底に沈」み、一日も早く「この国(日本)を去りたいと思う事がある」。
教えを広めるのに失敗した訳ではない。
「信徒も近頃では、何万かを数える程になった」し、「首府のまん中にも」カトリックの「寺院が聳えている」。
また「この国の風景は美し」く、「氣候もまず温和」で、人々の「気質は親しみ易い所がある」。
それなのに「この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたい」と思ふ。
故郷のリスボンでなくともよい、「支那でも、沙室[シヤム]でも、印度でも」構わぬと思ふくらいだから、
単に「懷郷の悲しみ」に驅られているのではない。それならば何故「憂鬱」になるのか。

(理由はキリスト教の神デウスも土人となるからです)。
この辺りの宗教観は芥川龍之介の「神神の微笑」を読みましょう。


270 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 16:41:48
農村の神社の祭りなんかで農民が応神天皇の名を入れて神事を奉じてたとか普通にある
また各寺院への勅使が行く時にも街中で迎え入れてる
他にも、本願寺の法主の裏方に皇族が来た時には宗派を挙げて全国の信徒に権威を見せ付けるように伝えられてる
因みに西本願寺は尊皇運動を支えていた
一部と思ってるのは戦後左派の教育による貴方の想像で、民衆を無知認定しているにすぎない
>>267
だからさ、なんか飛躍しすぎなんだよね
>>268
尊皇思想が激しい明治後期〜昭和にかけて神宮参拝は年々低下して戦後のGHQによる教育前でも神宮全体で30万程度。戦前でも同じぐらい
尊皇思想が少ない平成の世が一番、参拝者数が多いんだよな


271 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:19:06
ま、伊勢信仰と天皇信仰は全くの別問題なんだがな・・・

272 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:27:16
>>268 >>270
識字率が3割って義務教育前の明治時代人より高いのかよ

皇国史観の嘘やでっち上げは馬鹿を増やすんだな

273 :世界@名無史さん:2006/07/17(月) 17:39:11

江戸時代の庶民の殆どが天皇の存在を知らなかった。


明治維新後明治政府は各県に「人民告諭(こくゆ)」をだして国民に天皇に

ついて教えた。それは、国民が天皇を知らなかったから!!!

明治政府が天皇の存在を日本全国に教えて歩いたってわけです。

明治政府による日本国民の奴隷化政策。

天皇は神。国民は神の奴隷。黙って死ぬまで働け!!!

死ねといわれたら喜んで死ね!!!と

明治政府に洗脳教育されて天皇の存在を日本国民は始めてしる。






274 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:39:58
江戸時代の識字率は、男が4割、女が1割
平均2割5分ってところかな

275 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 18:00:30
>>273
曲解を必死すぎだな。
そんなもの南北朝の終わりや徳川時代にも似たような配布は行われとるんだが。
昭和戦後にも全く同じこと行われとるんだが。何かあるとするんだよ。未来の人も同じ事言うかもね。
他にも徳川が皇室と婚姻を結んだ時や法親王を招聘した時なをかもね。
江戸時代の瓦版なんかには天皇題材も多数ある。
お札降りの時には、天命とばかりにええじゃないかの歌詞に「ええじゃないかええじゃないかええじゃないか尊皇攘夷もええじゃないか」と入れてる。


276 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 18:08:34
>>272
なんで江戸時代の識字率が皇国史観?
もうね、君の史観が偏向しまくってるのが丸分かり。
馬鹿すぎますよ
江戸時代・識字率で調べろよ
高いから。
>>274
もっと高いぞ。

277 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 18:35:58
>>276
おいおい>>272の文意でその返しは誤読だよ

278 :日本@名無史さん:2006/07/17(月) 19:04:13
んーでも明治の識字率をしらべたら1900年時点で90%以上と有ったから、明治が3割未満なんてのは嘘だろ。
江戸時代も検索したら通説から都市や時代ごとに色々な意見があるが左派系の教授でも識字率はかなり高いですよ。
それに昔、右派系と言われた人なんかが江戸時代を暗黒時代みたいに言ってる例もありましたしね。


279 :日本@名無史さん:2006/07/18(火) 10:33:28
>>275
マルチもいいが、ソースを出せ。

それに尊皇攘夷は、もともとは幕府の政策。

280 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 09:10:16
江戸時代の識字率は
平均で、男が約4割、女が1割
これでも他国より高かったけれどな。
でも、オランダには負けていた。

281 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 09:56:52
前に私が観た資料には男女合わせた平均で5割と載っていましたね


282 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 14:26:32
>>281
なんていう資料?史料じゃなくて資料なの?

283 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 15:33:38
平均で5割?男女の平均か?
ありえんぇだろそりゃ。
男が8割くらい行って、明治より上になるぞ?

284 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 21:34:39
>>283
おまえマジで言ってんのか?
検索してみろよ。
www.wako.ac.jp/icc/icceduweb/fukasa

因みにここでは79

285 :日本@名無史さん:2006/07/19(水) 22:42:35
>>268
俺は>256=265だが、>250、>255とは無関係。
アンカーつけて反論するなら、勝手な憶測はやめて、
書き込んだ内容についてだけ、反論してもらいたい。

で・・・1930年の外宮参拝者600万のうち8割が地元民という、
その8割の算出根拠をぜひ知りたいもんだな。
神宮司庁でもそんな数字は把握していない。算定できる訳がない。

それに途中で論旨がズレてないか。
参拝者数でみるかぎり、内宮<外宮は事実。
ジコ中な価値観持ち込んで、暴走してるのはキミの方だ。


286 :日本@名無史さん:2006/07/20(木) 02:54:40
>285
何、興奮してんの?
必死すぎますよ


287 :日本@名無史さん:2006/07/20(木) 10:24:46
>参拝者数でみるかぎり、内宮<外宮は事実

そうなんだよね。それがお伊勢参りの特徴だな。
伊勢参りは、実態としては、ほとんど皇室とは縁がないんだよね。

288 :日本@名無史さん:2006/07/20(木) 10:26:24
江戸時代の識字率は、男が4割、女が1割
これで、世界有数の高識字率

289 :日本@名無史さん:2006/07/20(木) 14:52:53
だいたい、伊勢参りと天皇を結びつけるところに無理があるw

290 :日本@名無史さん:2006/07/20(木) 23:07:21
外宮だからっ馬鹿?
尊皇広めたのは外宮御師なんだが
>>289
外宮だろうがなんだれうが伊勢講ではアマテラスと皇室について教えてますが
関係ないとのソースは?


291 :日本@名無史さん:2006/07/21(金) 09:48:08
識字率識字率っていうけれど、そもそも識字率の定義が曖昧。
自分の名前さえ書ければ識字率なのか、文章を書けないと
いけないのか、書けないけど読むことはできるっていうのは
どうなのか、というような問題を詰めずに適当にいってる
ことが多いよ。研究者でも。

例えば網野さんの本とかで挙がってるのもいい加減な数字だし。

292 :日本@名無史さん:2006/07/21(金) 09:53:17
伊勢参りと尊王はあんまり関係ないね
尊王は幕府の政策だったし

293 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 22:03:39
識字率は「よみ」ができる人の率

294 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 22:17:31
>>263
すばらしい!実際に自分で江戸時代の古典にあたり
見つけられたのですね。
古典は当時を今にダイレクトに伝える一級歴史資料ですからね。

何時も繰り返しステレオタイプの台詞を繰り返す
否定派の裏付けゼロ、誰が書いた文章の丸のみ
とは時限が違いますね。

295 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 22:22:12
>>244
認識が甘い!
天皇はいつの時代にも批判はされている。
天皇は西洋的な絶対神ではないし、なかったから。

批判はしながらもその中に流れる
心情的尊皇を感じられないならば
太平記をまともに読んでないからだろ

296 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 23:13:15
>>294>>295
いつからこのスレは、別板のような天皇スレになったのかな?
否定派とか肯定派とか、バイアスがかかった視点で
ナデ斬りにするナンセンス。
君の言う「否定派」の中には、天皇制支持者もいる。
ただ時代を読めない愚かさを笑っているだけ。

江戸時代の庶民階級は、たとえ天皇の存在を知っていても、
強い思想的な裏づけを持つシンパやアンチはいなかったろう。
但し、ここでいう庶民とは落語に出てくる「八さん、熊さん」
レベルの一般大衆であって、マイノリティのあれこれを指摘されても困る。

太平記をどう読むか?おのれの価値観を押しつけるなよな。
丹念に読んだのなら、俺が示唆した後醍醐批判の一説がどんな内容だか
一例でいいから挙げてみい。

297 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 23:34:56
思想的な裏付けだとか言ってる時点で
時代を読めてないのはおぬしであろう。

太平記の読み方は押し付けでない。心情的天皇派なのは公然の事実。
自分の勉強不足を棚にあげ人に教えてもらおうという浅ましい真似はやめなさい。

298 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 23:38:15
296は勝手に相手の虚像を作りあげて
その自分が作った虚像と戦っている奇妙な人。

言っておくが俺はその虚像にのっかる気はない。

299 :日本@名無史さん:2006/07/22(土) 23:46:36
>思想的な裏付けだとか言ってる時点で
時代を読めてないのはおぬしであろう・・・なぜ?
俺がつけた留保、ちゃんと読んだ?

>心情的天皇派なのは公然の事実・・・「心情的天皇派」ってなんだ?
「公然の事実」・・・まるで審問官だな。

後醍醐批判の一説は、チミに教えを乞うて、言ったのではないわい。


300 :日本@名無史さん:2006/07/23(日) 19:32:26
まァ、われわれが「太平記」をどう読むか?はそれぞれの勝手。
問題は江戸時代の「太平記読み」が武士や庶民にどう伝え、
相手がどう受け取ったかだろう。
朱子学よりむしろ「太平記」の影響を重視する研究者がいる一方で、
それは江戸初期までの話、以後は数ある軍記物のOne of Themとしてしか
評価しない向きもある。
ただ、いずれの場合も、天皇崇拝の思想的支柱になったと云う説は
あまり聞かないなァ。
議論の余地を残すテーマを、あたかも既定の事実のように主張すのは
お互い良くない。

301 :日本@名無史さん:2006/07/23(日) 20:23:19
今、BS朝日で「京の宮中絵巻・晴れやかなる御所」と題して
京都御所と仙洞御所を2時間に亘ってやってるよ


302 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 19:25:39
たとえば江戸時代の文学には
王朝時代の和歌の教養を基にした
本歌取りのような技法が用いられており
このように書かれた文章は王朝時代の教養がなければとけない。

これは当時の知識層の王朝文学への憧れとともに
彼らが心情的隠れ朝廷派であった可能性を示唆しているといえよう。

303 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 19:59:22
たとえば今も庶民に親しまれている
水戸のご老公は徳川家の人であると同時に
大の尊皇家であった。

水戸のご老公の諸国漫遊の伝説成立の背景には
心情的尊皇派が意外に多かったことを示唆していると言えよう。

304 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 20:08:58
商人は完全に隠れ尊皇派が多数を占めた。

三井、鴻池、など名だたる商家は皆上方出身。

305 :江戸っ子:2006/07/24(月) 20:12:03
おっと、宮様のいる上野のお山にでも
遊びに行くかっ!

306 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 21:35:13
今陰陽師2テレビでやってるけど役者が演じる天皇や貴族は喋り方が馬鹿っぽいし下品。
たいていのドラマでは天皇や貴族は馬鹿っぽいイメージで演出する。
世間が天皇や貴族に持つイメージが演出に現れるんだろうが
陰陽師を現代人が見ているから天皇を崇拝しているって言う人が後世に現れるのかな?


307 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 21:41:35
陰陽師って日本的な存在かと思ったら
風水とか八卦とか仙術とか中国的なのね

308 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 23:19:27
東山天皇や関白近衛基熈は、刃傷事件で切腹させられた浅野長矩に同情的
だったんだって。
傍観した柳原、高野ら勅使となった武家伝奏どもを叱責したほど。
なんせ上野介は後水尾〜霊元時代に、幕府の威光を嵩に虎の威を借る狐そのもの。

対して、紀伊家との繋がりで上野介とも所縁の伏見宮や前関白一条兼輝は
複雑な心境だったろうね。




309 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 23:56:58
別に浅野が尊王家だったわけでも無いのにな

>>305
江戸時代、上野で遊ぶってことは陰間茶屋で遊ぶと同義語なんだよね

310 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 23:57:27
陰陽道といえば・・・天和3年に陰陽頭・土御門泰福が
朝廷から諸国陰陽師支配に任じられながら、
翌天和4年には、幕府が渋川春海を天文方に任命し、
朝廷(陰陽頭)の編暦権を奪ってしまった。
土御門三位はさぞや口惜しかったろうが、
もともとこの人、野宮定縁、中御門資熈、正親町公通、
一条兼輝らと同じ垂加神道の流れを組む者。
いずれも朝威回復をめざす霊元上皇派で、
幕府との協調を重視する東山帝・近衛基熈派と敵対していた。
この対立の構図は綱吉から家宣を経て、吉宗政権時代まで続く。



311 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 00:09:27
>>309
浅野長矩は(大石良雄も)尊王家でしたよ。
反幕を下地にしたのちの尊王とは違いますが。

312 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 00:30:51
吉良のほうが尊王家だよ
浅野とかいう田舎大名、まして大石某とかいう女狂いはただの無知な馬鹿

313 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 00:40:03
>>312
吉良が尊王家???
ぜひソースを知りたいですね。


314 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 00:44:06
>>310
土御門家ってそもそも臣籍降下した皇別家なのは有名


315 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 06:49:44
吉良は有職故実に通じている
浅野や大石は何も知らず、朝廷と何をしたというわけでもなく、尊王家と言う証拠も無い
せいぜい戦前に捏造された物語に出てくる妄想

316 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 07:12:27
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工?

317 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 07:29:49
浅野も吉良も大石も特に尊皇家ではないよ。
当時は尊皇家であるかどうかなんて何も意味も価値も無い。
彼らの目は常に公儀=幕府に向けられていた。


318 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 07:57:19
そもそも吉良は足利一門だしな。

319 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 08:38:36

小泉純一郎首相が昭和天皇を「あの人」呼ばわりした件
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1153482387/l50

320 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 11:45:38
江戸時代に尊王の精神が満ち溢れてたと思い込んでる馬鹿が1人いるな。
尊王と勤王の区別もつかんのだろうw

321 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 16:09:10
江戸時代の天皇は駕籠の鳥。
父親に会うための行幸もできなかった。

322 :吉良が運動して十歳の新帝を立て:2006/07/25(火) 22:01:01
吉良が運動して十歳の新帝を立て、仙洞御所に竹矢来を張るには費用が勿体
ないからと、見せしめに今の京御苑に鳥小屋のようなのを建て、
廃帝を幽閉してのけた。が、皇国史観では真相は発表出来ず隠された儘、
今もそのままなのである。
「徳川家に野心を抱くごとき振舞いあるにおいては、何様であっても、
かくの如しなり」と意気揚々と戻ってきた吉良を柳沢は招き労い、
砂田重秀の発案を当人の口から聞かせた。


323 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 22:07:32
それに義憤を覚えた浅野は吉良に斬りつけた
そして浅野の意志を継いで吉良に天誅を下した大石もまさに忠臣中の忠臣

324 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 22:27:05
「尊王」「勤皇」の違い?・・・言葉遊びはやめましょう。
浅野長矩は祖父長直が、御所造営に禄高相応を超える尽力をし、
朱子学を批判して幕府に処罰された尊王思想家山鹿素行を領内に庇護している。
長矩自身も少年時代に内蔵助とともに素行の薫陶を受けている。
ちなみに山鹿流陣太鼓(討ち入りに用いられたという説は眉唾だが)は、
浅野家の家宝となった。
また内蔵助の大叔父には近衛基熈の家宰進藤長富がいて、内蔵助の3代前の
良信は近衛前久の女婿なんだと。
当時は尊王=反幕府ではないし、思想は必ずしも功利を求めるものではない。

325 :日本@名無史さん:2006/07/25(火) 23:43:25
天下普請で大名が幕府の歓心を買うために石高以上の負担を自主的に申し出るのはよくある話。
公家の家臣と姻戚関係があると尊皇の志と言うのも無理がある。公家と婚姻関係がある大名は結構要るけど彼らがみんな尊皇の志か?ということになる。
山鹿素行も匿ったのではなくて幕府から預けられたのだ。
何の根拠も無いのに一部の事象だけ特別視するのは間違っています。

326 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 00:06:25
庇護といっても、実際は赤穂へ配流になったんだけどね。
でも、たしかに赤穂浅野家と山鹿素行の結びつきは有名だな。
浅野が吉良に斬りつけたのも、後光明・後西・霊元天皇間の皇位継承問題に吉良が介入したことを
以前から怒っていたからという説や、いや、それはカビの生えた話で、
ホントは、東山天皇の後をめぐる朝廷内の対立に吉良が介入したからという説やらいろいろ。
前者では「元禄快挙別録」があるそうな。
ただ、いずれも尊王家の浅野が、幕府の権勢をバックに朝廷をレイプした吉良に義憤を抱いていた
という解釈が根っこにあるようだ。


327 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 00:23:21
>>325
東山天皇や近衛関白が刃傷事件や討ち入りにどう反応したかは記録に残っています。
朝廷・公家と大名とのよくある縁結び?それだけでそこまで肩入れするだろうか?
幕府に処罰された罪人なら、牢に押し込めても支障ない。
なのに長直〜長矩が素行を厚遇し、師事し、思想的に影響を受けたことは事実。
素行が許されて江戸に戻った後も、長矩と弟の長広が素行に誓書を送っています。
何の根拠もない?・・・一般論で憶測を書いているのはあなたの方でしょう。

328 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 00:48:06
>>325
言い忘れましたが・・・
大石良雄は公家の家臣と姻戚関係があるだけではありません。
よく読んでくださいね。近衛家そのものと姻戚関係があったのです。
つまり後陽成天皇との絡みで、天皇家とも関係があった。
そうした背景からくる自負というか誇りみたいなものを、小藩の一介の
陪臣なだけに、大石が意識して持っていたと考えるのは、当然でしょう。


329 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 00:51:49
紫依事件の沢庵も配流先で厚遇されていたが?
加藤清正や福島正則の息子たちも配流先で厚遇されていたけど配流先は反徳川親豊臣大名だったの?w
東山天皇や近衛が関心があったのは浅野や大石ではなく吉良。別の人間に吉良が斬られても同じ反応を示したであろうことは明白。
井沢かコヴァか渡部かしらんが悪書ばかり読んでないでまともな本も読め。

330 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 00:59:23
公儀から預かった大事な罪人に死なれたらそれこそ一大事
お預けになる罪人は結構配流先でいい暮らしをしている

331 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 01:07:20
>井沢かコヴァか渡部かしらんが悪書・・・どれも読んでません。
>まともな本・・・あなたのいうまともとはどんなの?この件に関して・・・
沢庵、加藤、福島の息子・・・そもそも私が問題にしてるのは、思想的な影響のこと。
論点がズレてしまって、言いがかりの類ですね。




332 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 01:19:36
公儀から預かった大事な罪人に死なれたらそれこそ一大事 ・・・そんな掟はありません。
例を挙げれば・・・徳川忠長、松平政利はいずれもお預け先で自害していますが、
安藤重長、水野監物は何の咎めもありません。
死んでくれれば好都合でしょう。もし罰するとすれば、それは為にするもの。
初めからお預け先に幕府に悪意がある場合でしょう。

333 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 05:37:18
>良信は近衛前久の女婿なんだと。
>大石良雄は公家の家臣と姻戚関係があるだけではありません。
よく読んでくださいね。近衛家そのものと姻戚関係があったのです

初耳ですがソースは?前久の娘って3人いるけどそんな娘いないぞ

334 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 06:45:58
>>331
いえ、あなたが山鹿の取り扱いが特別だと言ったのでぜんぜん特別ではないという例を出しただけです。
論点をずらそうとしているのはあなたです。
公儀から預かった罪人が死ぬと幕府から検死役人が派遣されてあれやこれやと詮索されます。それだけでも大名にとってはかなりの負担です。

335 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 15:39:18
自作自演乙

義経は伊予の国へ行ったのか行ってないのかわかりましたか?
まだw?

336 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 22:27:15
>>333
大石良信の妻、進藤利英の姉が近衛前久の胤だそうです。
ソースは「大石家外戚枝葉伝」

>>334
「あなたが山鹿の取り扱いが特別だと言ったので・・・」
そんなこと一言も言ってませんよ。
「厚遇した」「牢に押し込めても支障はない」とは書きましたが、
厚遇された配流者が他にいることも、逆に座敷牢や囲い屋敷に幽閉された
配流者がいることも、もちろん知っています。
「論点がズレている」と言ったのは、素行に師事し、その思想的影響を受けた
という主題から外れたところで、議論しようとしているからです。

「一大事」から「かなりの負担」・・・ずいぶんトーンダウンしてますね。


337 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 23:07:16
かなり怪しいソースですな。
沢庵の配流先でも多くの者が師事しています。
一大事は沢庵、素行らの文化人。あなたが流人の範囲を広げたので言葉を変えたのです。どうでもいい流人ならそれこそあなたが素行にすべきと言った矢来を廻らせた施設にでも押し込めておけばいいのです。
ところであなたが主張した浅野勤皇の志士説こそ全く根拠が無いですね。
大石の話もかなり怪しい家系図しかソースが無いみたいだし。
赤穂藩が山鹿流の軍学に強く影響されていたのは有名です。赤穂城の悪趣味な縄張りも山鹿流軍学によるものですし。
ましてや山鹿は幕府の批判はしていません。彼の思想が尊皇思想と結びついて倒幕思想家のように言われるのは後世の成り行きです。だから素行の弟子が全て反幕勤皇の志と決め付けるのは全く間違っているのです。

338 :日本@名無史さん:2006/07/26(水) 23:54:24
あのね。独善と曲解もほどほどに。
人にソースを訊き、出せば怪しいと断じる。自分のソースは何一つ提示せず。
>あなたが流人の範囲を広げたので・・・・
 広げたのは、私が先ではありません。
>あなたが素行にすべきと言った・・・
 「あなたがいった」「あなたがいった」・・・って連呼してるけど、
 冷静になりましょう。そんなこと一言も言ってません。
>山鹿は幕府の批判はしていません。彼の思想が尊皇思想と結びついて
 倒幕思想家のように言われるのは後世の成り行きです・・・
 見当はずれな言いがかり。だから私もはっきりと、彼らは尊王=反幕じゃないって
>>311>>324で断言してるでしょう。
>浅野勤皇の志士説こそ全く根拠が無いですね
 あなたが指摘しているのは、周辺部分だけ。核心の尊王思想の影響を受けていない
 と断定する反証の提示がまったくないですね。
>一大事は沢庵、素行らの文化人・・・
 この断定も不思議だなあ。なぜです?

なんか疲れちゃうなあ。言ってもいないことに勝手に突っ込み入れられても。 

339 :日本@名無史さん:2006/07/27(木) 00:14:22
疲れるのはこちらですよ。
>>327
>幕府に処罰された罪人なら、牢に押し込めても支障ない。

私は史料提示を要求した人とは別なんですが、出された史料に対してごく一般的な評価をしただけです。
あなたもご存知でしょうけど家系図はかなり眉唾な史料で他の史料による裏づけがないと参考程度の価値しか持たないものです。特に史料の数量が膨大な近世では。

>核心の尊王思想の影響を受けていないと断定する反証の提示がまったくない
ある可能性を指摘するのは簡単ですが何のを証明するのは容易ではない。詭弁家が相手を叩くのによく「無いと言うならない証拠を出せ」と言うのと同じですね。数学じゃないんだから無いなんて証明できるわけが無いでしょう。
例えると「地球以外に生命が存在しない証拠を出せ」と言うのと同じです。
あなたが浅野が勤皇思想の持ち主だと断言するなら彼がどういう勤皇発言なり行動をとったのか示してください。
前にも書きましたが天下普請で大名が自主的に石高以上の負担を申し出るのはよくあったことです。

340 :日本@名無史さん:2006/07/27(木) 00:18:21
わたしも尊王=反幕とは思っていませんが、浅野や大石が当時の人間としては奇特なほど尊皇の意識を持っていたと言うことに納得ができないのです。
彼らは当時としては平凡な天皇観、尊皇意識を持っていたと思うのですが。

341 :日本@名無史さん:2006/07/27(木) 10:31:26
まさに自作自演がよくわかるね。現役学部生w

342 :日本@名無史さん:2006/07/27(木) 13:39:47
30分じゃ間隔が短いぞw
age,sageの区別ができてないぞw
しっかり自演自作しろ、がんばれよ!

343 :日本@名無史さん:2006/07/27(木) 18:22:00
自作自演ではありません
339書き込みの後、書き忘れたことを追加しただけ
自分勝手な妄想に浸って優越感に浸るのは低学歴の悲しい性

344 :日本@名無史さん:2006/07/28(金) 19:44:06
>>309
ものごとの一面だけをとりあげて
それが全てのように語るのはよくないですな。

上野のお山は普通にも庶民たちに親しまれていましたよ。
庶民に親しまれるようになったのは
宮様が寛永寺に入られるようになってから。

345 :日本@名無史さん:2006/07/28(金) 19:47:05
ちなみに論争になっている
吉良天誅説は当時からいわれていた説であり
実際にそのような面があったであろう可能性はわりと高いのである。

346 :元禄十四年三月十四日:2006/07/28(金) 20:07:36
元禄十四年三月十四日。京よりの勅使接待最期の日だった。
観能が始まる直前に、浅野は呼ばれた。
大老詰めの御側用人部屋へと御坊主に案内され、
何事ならんと敷居で平伏していると、「其の方を見込んでの頼みじゃ」
と柳沢吉保に言われた。「はあッ......」浅野はただ畏まった。
「本日を逸する訳にはゆかぬ。手段は選ばぬ。
其の方は抜刀しても咎めはせぬから、
吉良上野介めに乱心させ鯉口を切らせるようせい。
よいか一切他言は無用ぞ」との藪から棒の命令。
何故にか聞き返そうとした時には、もう柳沢吉保は立ち上がって
背を向けていた。だから浅野は、介添えの家来に告げる暇もなく
松の廊下で吉良を見つけて、「待て....」と扇子で突いたが睨み
返され「これではならじ」と、相手を挑発するために脇差の先で
額を突いたり肩へ軽く斬りつけて挑んでみたのである。

しかし賢い吉良は、その手に乗ってこなかった。騒ぎを知らされ、
さては失敗とみてとった柳沢は観能の席から腹心の大目付仙石を呼び、
即座に浅野の口封じを命令した。検分役を仙石が付けて出したのは、
即刻始末させた浅野の首を持ち帰らせるだけのものだった。
本当の刃傷ならば、身辺整理をして覚悟してきているから、
一突きにグサリと刺すのが普通である。


347 :首と胴が別れてしまう:2006/07/28(金) 20:10:24
やにわに体当たりみたいにして相手を仕止めるのが、武士たる者の心得
である。千代田城刃傷は前後四回記録されているが、皆相手を仆し自分
も大番組の者に滅多斬りにされて即死。浅野のごとく背後から組み付か
れても未だもがき暴れて、未練たらしく、「武士の情けじゃ、そこ離せ」
などと憐れっぽいことを言ったような例は全然ない。

もう一息で、堪りかねて吉良が刀の柄に手をかける、と見て取っていたか
ら叫んだとしか考えられぬ。つまり、何の理由や説明も無しに上からの命
令で、浅野は吉良へ仕掛けさせられたが未遂で失敗。
柳沢は情け容赦なく約束を破って直ぐ監禁。二時間後に呼び出され、
首と胴が別れてしまう。

348 :口封じに始末:2006/07/28(金) 20:12:52
前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、
それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで
田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、
用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠
の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされ
たものらしい。早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである。


349 :皇運招胤録:2006/07/28(金) 20:21:24
事の起こりは、箱根から東は金本位制で一両が四分、一分が四朱。
が、西は九州まで貨幣は銀本位制で何匁となっていた。
つまり江戸では金はカネだが、三島から先ではそうではなかったせいである。
人皇第百十一代後西帝の生母が仙台伊達綱宗の生母と実の姉妹と判明。
伝奏姉小路を使者に出したのは、王政復古の叛乱予備ではあるまいかと、
柳生よりの探索報告で、足利の血統で京では顔の利く吉良が上洛して諸
事処理した。そして、「帝不徳にして地震あり諸民苦しみ、よって退位
を求めた為なり」と『皇運招胤録』ではしている。

350 :論功行賞:2006/07/28(金) 20:23:46
論功行賞として京所司代小笠原備後守は加増されて老中職。
京町奉行松前伊豆守も江戸南町奉行、そして砂田重秀は勘定奉行
にと皆出世。『角川日本史辞典』の江戸期役職表を見ても一目で
判るような大栄転をした。しかし吉良だけは高家という特殊な家
柄ゆえか現ナマの小判の分け前は貰ったが、ただそれだけて゜
止まった。大目付への役替えも空手形となった。

351 :喧嘩両成敗で自滅させる:2006/07/28(金) 20:25:22
「わしはおりる。隠居して米沢へ行く」と言い出したのである。
今で言えば合法的であっても偽金作りの一味である。
これを元禄の怪物柳沢が放っておく訳はない。
「江戸を避けて上方での鋳造が、うっかり吉良の口から漏れ、
天下に広まっては御政道の為にならぬ。自滅させ処分する良き方法は?」
と眉をひそめると、今は老中の小笠原が、当たりに注意してから、
誰もが納得する方法として、「吉良殿は御長男が上杉十五万石の当主、
娘御は御三家紀伊様へ縁づかれておられる。よって誰か田舎大名をそそ
のかして、喧嘩両成敗で自滅させるしかござりますまい」と進言した。


352 :にっこり大きくうなずきあった:2006/07/28(金) 20:32:45
「今になって自分だけ抜けると言い出しても、表向きには圧力は掛けられま
せぬ。此方の手は汚さずに誰かに大義名分のつく....尤もらしい始末のやり
方はござりませぬか」と砂田も賛成した。そして江戸南町奉行松前の方へ顔
を向けると即座に、「ならば恰好なのが居りまする。本所材木座火番の節、
何時も自分が陣頭指揮をとるのが評判で、今は神田橋御門火消しの大役を拝
しておりまする浅野内匠頭でござる」
「町奉行松前伊豆守の申すは可。火事好きとは喧嘩早い者とも世人は見ま
しょう。来る三月の勅使接待役につけ、吉良殿を後見にすればよろしゅう
ございましょう」と小笠原も賛成し、

「我らが居合わさぬ好機を見計らい吉良殿を挑発するよう、大老の口から
申付けなされば、たかが三万五千石の小大名め感激し、仰せの通りにすぐ
さま勇み立って実行に移りましょう」と答えた。一同もにっこり大きくう
なずきあった。


353 :親王様:2006/07/28(金) 20:38:50
父後西帝を御苑北隅の茅屋へ幽閉した吉良上野介を、
親王様は怨仇のごとく恨んでおられた故、赤穂浪士に対してまだ誰も
批判がましいことを言うのは遠慮していた時、
「牡丹の花のごときもので義士である」と賛辞を送っている。



354 :親王様は知る由もなかったろう:2006/07/28(金) 20:39:52
(まさか綱吉側近の柳沢吉保が小笠原豊後守や松前伊豆守、
仙石伯耆守を使っての京での小判改鋳の秘密をばらされては困るから、
吉良の口封じのため、ヤラセの討ち入りであったとは、
親王様は知る由もなかったろう)快挙なりと仰せられたと、
故三田村鳶魚の「上野の宮様」に出ている。



355 :親王様の勘違い:2006/07/28(金) 20:48:28
吉良が毎年京へ行っていたのは、小判改鋳を言いつけた堺のえびす町の中村
内蔵介が、横領した小判で祇園の一力茶屋を借り切ってのだだら遊び(豪遊)
や、金蒔絵の盃を作らせ配ったり、小唄を流行させれば、女房は女房で、
嵐山で今で言うファツションショー(衣装比べ・何時の世も泡銭を持てば
馬鹿は何処にもいる)を始めだしての乱痴気騒ぎの監視のためである。
が、親王様は父後西様を見張るための上洛と勘違いして憎んでおられたの
だろう。

356 :上野寛永山:2006/07/28(金) 20:50:15
23年にも及ぶ後西帝救済のために皇子は江戸へ出てきて上野寛永山
へ入られたが、後西様は寒い京の冬、貞享二年二月二十二日崩御。
せっかく救出せんと江戸入りして寛永山に入って僧になられた親王様
は落胆したと思われる。


357 :日本@名無史さん:2006/07/28(金) 20:51:18
>>344
江戸時代、上野は連れ込み宿や陰間茶屋が軒を並べる歓楽街。
上野で遊ぶということは今でいえば新宿2丁目で遊ぶというようなもの。

358 :日本@名無史さん:2006/07/28(金) 21:32:29
こぴぺうざい


359 :日本@名無史さん:2006/07/28(金) 21:44:05
浅野が勤皇家なわけないだろうw
勤皇家なら勅使がが関係する儀式の日にダンピラ振り回すか?
ただの基地外

360 :浅野内匠頭は統合失調(精神分裂症):2006/07/28(金) 22:04:14
浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷に及んだ事件だが今から10年程前
に東北大学の心療内科の先生方と話した際に、浅野内匠頭の幼少の
頃からの行動がおかしいとの文献と刃傷について話題になった。
まず、吉良が烏帽子から斬られたとのことであるが、あの被り物は
鉄で編んでおり、斬りつけても大怪我を追わせられない。
もし殺そうと思えば刺したはずである。また江戸での奇行が多いこ
とから、松の廊下で「幻聴」が聞こえて刃傷に及んだとの結論で話
をしたことがある。最近、精神医学者も精神医学から見た忠臣蔵で
も「統合失調(精神分裂症)」との意見を寄せている。
ただ、分からないのが、そういう城主をなぜ命をかけて仇を討った
かが疑問として残るが・・・・?


361 :浅野乱心説:2006/07/28(金) 22:19:43
事件後、浅野内匠頭は極めて冷静な態度である。
幕府の取り調べにもキチンと答えている。落ち着いた態度で食事も摂り、
酒やタバコも欲しいと言っている。こんなに落ち着き払った人間が、
乱心なわけがない!

しかし、井沢氏の前掲書の中で現代の精神科医が浅野の様子を「診断」
した意見が紹介されています。
この、落ち着き払った所こそ、「乱心」の何よりの証拠だ、というのです。
殿中で刀を抜けば、その身は切腹・お家は断絶が当たり前。まともな神経
の人間なら、顔色が青ざめ、食事も咽を通らなくなる。しかも取り調べへ
の態度こそ冷静なものの、陳述は筋が通っていない。
自分は「遺恨があって吉良殿に刃傷に及んだ」と言っていながら、
「吉良のどこが強欲・悪辣で職務放棄だから、世のために斬ったのだ」
とは説明していません。
さらに「遺言」もおかしなもの。妻や弟もいるのに、用人:片岡源吾右
衛門に宛てて、「こんなことになって、さぞ不審に思うだろうねえ」と
いう内容。
「家を潰したのは忍びない」とか「吉良の強欲は腹に据えかねた」など
という釈明が一切ありません。どうも、「自分がしでかしたことの重大
性が分かっていない」らしい。
このあたりが、現代精神医学から見た浅野乱心説の論拠となっています。


362 :吉良上野介は無実、冤罪:2006/07/28(金) 22:24:57
元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士四十七士が本所松坂町吉良邸に討
ち入った日、として知られています。実際は14日深夜から15日未明だね。
太陽暦では1703年1月31日にあたるらしい。両国駅からちょっと行った先に
「吉良邸跡」っていうのを見つけることができます。
さて歴史上のこの「赤穂事件」の真相については様々な説が言われています。
が、まーくが一番信用できると思ったのが、歴史作家:井沢元彦.氏の説。
『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』という小説中のストーリーで現代人が
忠臣蔵の謎を解いています。F[04.05.17]参照。ポイントを紹介しましょう。

1 江戸時代のような伝統・閉鎖社会では礼儀作法は簡単に変わらない
2 間違った作法を教えれば、浅野だけでなく吉良の責任問題(切腹)に
よって吉良が意地悪をしようがない

3 塩の製法技術に決定的な違いなどない
4 渡した賄賂が少なかった、という確認もできない。指導謝礼は裏金ではなく、浅野家の帳簿に残るはずの公金。
5 大石も「吉良が強欲に賄賂を求めた」という非難をしていない
よって吉良が不満を覚えたとする根拠がない

6 浅野内匠頭の「伯父or叔父」が先年乱心して全く同様な刃傷事件を起こしている
7 内匠頭自身も以前から神経症に悩まされている
点から、

→ 浅野内匠頭が乱心・錯乱して、全く恨みもない無関係な吉良上野介に斬りつけた。

取り押さえられた後、「俺は恨みがあってやったんだ」と口走ったが、
最近の同種の犯罪と同じで、吉良は全くの巻き添え被害者。
それどころか、加害者扱いされてる点では日本史上、最大の冤罪事件、
と言えるのでは。


363 :テロリズム:2006/07/28(金) 22:28:25
実際今裁判をやれば、吉良は無罪、浅野は殺人未遂で実刑判決が下
るだろう。にもかかわらずその吉良を集団で殺した赤穂浪士を未
だに手放しで礼賛する日本人には、テロリズムを非難する資格は
ない

364 :日本@名無史さん:2006/07/28(金) 22:28:29
内匠頭には「痞(つか)え」の持病があったと記録されている。
「痞え」は神経症の一種で、内匠頭の場合、一度「痞え」の発作が起こると、
顔の右側が引きつり、こめかみに青筋を立て、やがて全身をよじるような痙攣を繰り返したという。
http://www.timebooktown.jp/Service/clubs/00000000/f02/f02_09_03.asp



365 :「喧嘩両成敗」 には該当しない:2006/07/28(金) 22:38:28
殿中における刃傷事件というものは、過去にも例がありました。
そのいずれもが、刃傷を受けた側には不問としていました。
なぜならば、いずれの場合においても刃傷を受けた側は、即死または無抵抗で
一方的な刃傷であったからでした。

浅野内匠頭の場合においても、吉良上野介は無抵抗でした。
つまり綱吉の裁決は決して片びいきなものではなく、赤穂藩士の主張した
「喧嘩両成敗」 には該当しないものとなります。


366 :忠臣蔵は就職運動だった :2006/07/28(金) 22:56:49
忠臣蔵は就職運動だった
仇討ちをすることで自身の武士としての在り様を社会に示すことを
意図しており、その後の他家への就職活動を有利に進めようという
思惑まで働いていたと憶測することもできる。


367 :忠臣蔵は就職運動だった :2006/07/28(金) 22:57:24
「再仕官させてやる」とでも始めから甘言をもって釣られていたのか、
やがては死に場所になるそれぞれの屋敷へ、さながらまるで仕官しに行
くように勇んで行っている。到着してみて罪人扱いなのに大高源吾らは
(一杯喰った。柳沢にはめられた)と、はっとした。
覚悟をし、取りまいた儘でずっと監視し、弓鉄砲で囲んで見張りしている
のへ、「われらは死を承知の者、逃亡など致さぬ」と抗議している。

しかし、二十代の者は夢が捨てられず吉報が来るだろうとふざけ廻っていた。

368 :失業保険もなく:2006/07/28(金) 23:03:22
播州浅野家には300人近い家臣がいたが、
それらが一斉に失業することになるのだ。
失業保険などもなく、再就職も容易でない時代である。
浪人となった家臣たちは、その日から困窮してしまう。

369 :忠誠心の薄い民族:2006/07/28(金) 23:05:52
実のところ日本人は大変に忠誠心の薄い民族であり、
戦国時代に訪れた宣教師たちは、日本人のあまりの裏切りや寝
返りの多さに辟易していさえする。この時代、敵と言っても同
じ日本人だという感覚があり、主従関係も一方的なものではなく、
主君が自分の働きに充分応えてくれなければ家臣の方で主君を見限る、
ということが平然とおこなわれていた。

370 :忠誠心:5%:2006/07/28(金) 23:07:33
忠誠心:5%
面子:25%
討ち入りで忠誠の志士として名を売っておけば再就職 (仕官) すんなりできるだろうという計算:70%

ぐらいだったんじゃないでしょうか?


371 :餓死する浪人:2006/07/28(金) 23:08:36
忠臣蔵のころは江戸幕府が揺らぎだしていた時代で
仕官 (就職) できずに食い詰めて餓死する浪人が大勢いたそうです。

食い詰めるくらいならいっそ一か八か、と思っても不思議ではないはず。


372 :再就職運動に失敗した浪士を集め:2006/07/28(金) 23:15:01
内蔵助が主家再興運動に熱心であった理由は、
藩取潰しと共に失業してしまった藩士を食わせる為だった。
元禄時代には、武士社会は固定してしまっていて、
実に厳しい就職難の時代だったから、
主家再興でもしない限り失業武士は食う事ができなかった。
しかし、主家再興の望みが無くなったので、
再就職運動に失敗した浪士を集め、討入を決行したのである。

373 :集団テロ行為:2006/07/29(土) 10:09:32
赤穂浪士って
今で言うと反政府民兵組織による集団テロ行為だよな


374 :吉良側の証言:2006/07/29(土) 10:10:41
吉良側の生存者の証言があって,
襲撃のとき「ほくりほくり」という音が聞こえたそうだ.
その日, 家来たちは支度や片づけで疲れきり
酒も入って泥のように寝ていた.
実際は切り合いとかなくて, 赤穂鬼畜は寝てる吉良家臣の首を
機械的に落としてった.

中には16の少年もいて, ふとんに隠れ
ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル してるところを見つけて
面白半分, めった刺しで殺したそうだ.


375 :哀れな老人を虐殺:2006/07/29(土) 10:13:34
反幕府テロ集団が哀れな老人を虐殺して、生首を掲げて江戸中を練り歩き、
庶民を恐怖のどん底に陥れ、江戸を混乱状態にした。

376 :無念じゃ:2006/07/29(土) 10:15:03
上野介
「ワシがなんで殺されなきゃならんのだ。ワシがなにをしたというのじゃ?
乱心した内匠頭に斬りつけられ傷を負った上にそちたち(赤穂藩)からはなんの
詫びもないどころか、大挙してワシの舘を寝込みに襲い、大事な家臣たちは
次々に理不尽にも斬られこうしてワシはそちたちに刃をむけられておる。
のう大石とやら、説明してくれい。なにゆえに・・・」
内蔵助
「問答無用!」・・・グサッ!
上野介
「む、無念じゃ・・・」


377 :吉良さんの墓に小便:2006/07/29(土) 10:18:15
今日日,赤穂が善,吉良が悪と未だ信じている人がおおいというのは,日本人の
民度の低さと思われかねない。
吉良に何らかの落ち度があったということは,少なくとも史料からは全く立証で
きないのに(浅野側の落ち度は枚挙にいとまなし),ここまで悪者扱いされたの
では吉良さんは浮かばれない。毎年この時期になると,吉良さんの墓に小便をす
る奴までいると聴いたことがある。


378 :マインドコントロール:2006/07/29(土) 10:23:08
上野介誕生から当然放送すべき。上野介幼年期の子役はむちゃくちゃなまでに
愛くるしい子供を起用すること。成人してからの俳優初登場まで、つまり上野介
の少年時代までだけでとにかく3ヶ月間ぐらいは持たせたい。
多くの日本人は、上野介を(我々と同じく血の通った)人間として見ていない
のではないか? だからあのようにむごたらしく殺害されても本来人間であれば
自然に感ずるべき哀れみの情さえ抱かず、それどころか「赤穂浪士よくやった!」
と嬉々として拍手喝采さえする始末だ。この状況、どうおもんぱかっても、オウム真理教
などの邪教と同じく、洗脳・マインドコントロールのたまものとしか言いようがない。


379 :細木数子:2006/07/29(土) 10:36:23
じゃ吉良上野介さん。ズバリ言うわよ!
アータね、名前変えないと毎年、毎年殺されちゃうわよ。
いやでしょ。一度しか言わないわよ!
良い名前考えてあるんだからさぁ。ドッコイさぁ。
『鈴木宗男』か『出川哲郎』どっちかお選びよ。



380 :吉良さん:2006/07/29(土) 10:37:36
吉良さん。

○斬られ損
○言われ損
○殺され損


381 :哀れなるは吉良じいさん :2006/07/29(土) 10:41:05
気の利かない上に癇癪持ちの浅野の乱心で斬られて
今度はそれを根に持った赤穂の家臣らに嬲り殺されて
しかも後世では完璧に悪人に仕立て上げられて

哀れなるは吉良じいさん


382 :井上ひさし氏が語る忠臣蔵中の悪役:2006/07/29(土) 10:49:34
井上ひさし氏は、米沢市の隣町の出身である。
米沢と吉良は血縁で深く繋がっていることから、
井上氏は幼時より忠臣蔵に関心を持たざるを得なかったという。
吉良上野介義央(よしひさ)の妻富子は米沢藩30万石上杉定勝
の4女で時の藩主綱勝は兄であった。

綱勝には跡継ぎが出来なかったので、義央と富子の間に生まれた
子供(綱勝の甥)綱憲を養子に迎え家系をつないだ。
綱憲を上杉家に出したため跡継ぎがいなくなった吉良家では、
綱憲の2男(義央の孫)義周(よしちか)を養子にして家系をつ
ないだ。

 このように吉良家と上杉家は一体化していたので、吉良義央が
悪役化されると共に上杉家も肩身の狭いものになる。
井上ひさし氏は忠臣蔵の映画がかからない所として、吉良町と米
沢市をあげ、さらに忠臣蔵という物語の世界で悪役視されている
所(家)を、「一に吉良、二に上杉、三、四、が無くて五に田村」
と述べる。


383 :井上ひさし氏が語る忠臣蔵中の悪役:2006/07/29(土) 10:50:38
五に田村と言われているのは、一関藩主田村右京太夫建顕の江戸屋敷
で浅野内匠頭が切腹したことに関わる。当時建顕は奏者番という役目
で殿中に務めており、下命により内匠頭を江戸屋敷に預かり沙汰を待
っていた。即日、切腹、お家断絶という命が下り、法にしたがって内
匠頭は田村屋敷で切腹したにすぎない。ところが、赤穂浪士ではなく
義士と言わねばならぬといった立場の人の中には、「大名を庭先で切
腹させたのはけしからん、それは田村の落ち度だ」と言うような人が
いるのである。忠臣蔵という物語を愛好するのは結構だが、たとえ五
番目位の軽いものであったとしても、理不尽な悪役視されたのではか
なわない。


384 :吉良上野介義央公:2006/07/29(土) 10:58:26
吉良上野介義央公が
地元では如何に名君であったか。川崎出身の父はここ愛知は吉良町華蔵寺を訪れた際そう感じた
と言う。悪役は吉良公で赤穂浪士等が英雄とされる価値観が正反対になったと。ここには義央公
を含む吉良家の名代がまつられている。公の功績は例えば黄金堤(こがねつづみ)。吉良を流れる
矢作古川が度々氾濫を起こすため堤防を造り上げた。その他の活躍は数知れず。斯様な名君が何
故に仇扱いされて討たれる運命となったのか。父曰く偏に浅野内匠頭が愚将であったと。如何に
吉良公に恨みがあろうとて殿中で刀剣を振り回すようなみっともないことを行って家や家臣を路
頭に迷わせた愚か者の仇討ちをしてやる必要が何処にある。地元の文士尾崎氏は如何に赤穂の四
十七浪士の行いが不条理であったかを嘆く。

385 :深夜の虐殺劇:2006/07/29(土) 11:01:47
正確には14日ではなく15日にはいった寅の刻(午前4時)ごろ、
完全武装の浪士たちが吉良邸内に押し入り、熟睡していた吉良家の者
たちを虐殺。浪士方には重傷者はおらず、吉良方では十七名の死者。
非戦闘員である十五歳と十七歳の茶坊主までもが殺されています。
この事件を「義挙」と呼ぶ人々の神経が、私には理解できません。
(杉浦日向子氏が1994年の「季刊歴史ピープル」の座談会で仰
っている「社長の殺人未遂を社員が遂行」に全面的に賛成!)

386 :尾ア士郎:2006/07/29(土) 11:04:05
小説『人生劇場』で名高い尾ア士郎は明治31年(1898)
吉良町横須賀に生まれました。大正末期から昭和にかけて文壇
で活躍した尾ア士郎は、吉良公や仁吉の生き方に深く傾倒し郷
土の風土と人情に深い郷愁を示したといわれています。
現在、尾ア士郎の生誕地には生誕地の碑が、福泉寺には墓と文
学碑があります。

387 :泉岳寺にある義士資料館:2006/07/29(土) 11:12:07
当時、事件後に押収された武器・防具などは現在、
東京・高輪の泉岳寺にある義士資料館にあるよ。
飛び道具の弓は、邸内でも取り回しやすいように半弓と
呼ばれる主に馬上用の小型のものを所持していたようだ。
現代で言えばカービン銃ってところかな。
中には長弓から改造されたものもあったようで、
現代のイメージだとソウドオフしたライフルか?
深夜の襲撃は用心棒の浪人連中の寝首をかくためで、
実際、吉良方戦死者のほとんどが寝入っているところを襲われ
て息絶えたとか。
赤穂方は振り回してもローソクが落ちることがない簡単な
ジャイロ機構を持つ行灯も装備していて、これは便利だと思った。
ちなみにこの行灯、壁などに下げられるようなフックも装備している。
現代的にはL型のライトって感じかな?
何人か刀のつかに木綿の布を巻いていたそうで、
これは滑らなくするための処理。
現代的に言えばラバーグリップ?とかそんな感じ。
実際に一度、義士資料館を見てみるのをオススメ。



388 :武家諸法度:2006/07/29(土) 12:17:26
「われこそは何々の某である」と名乗りを上げて吉良方が討って出てきた
とあるが、「・・・火事だ」と騙して開門させ、表門から九名、裏から六
名だけ乱入した赤穂浪士である。

本当にして水桶を抱え、駆け出していって斬られた者も居るくらいゆえ芝
居みたいに(遠からん者は音にも聞け、われこそは)と名乗って斬って出
た者など居る筈がない。それに武家諸法度とよぶ当時の武士道刑法を守り、
吉良方は誰も抜刀して斬り合いなどしていない。

389 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:19:59
現代の規範や倫理観で、過去を裁く愚かさ。

390 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:44:38
浅野贔屓な見方でなくても、
当時、慣例として大名を庭先で切腹させるのは異常。
芸州浅野本家の厳重抗議もあって、検分役の正使だった
大目付庄田安利が罷免され、小普請組に左遷させられた。

391 :田村家の記録:2006/07/29(土) 13:06:34
前代未聞のことだが江戸城内まで網冠せの唐丸駕籠が入れられ、
それまで坊主部屋に一人で監禁されていた浅野を乗せ、施錠したままで
田村邸へ直行。「折角白半紙で張った場所まで至急にと、
用意していたのに不用だった」との田村家の記録は、切腹どころか駕籠
の錠を開けられ、顔を出したところを、バッサリ背後から打ち首にされ
たものらしい。早く口封じに始末するために、さっさと済ませたのである。

392 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:12:24
>当時、慣例として大名を庭先で切腹させるのは異常。
それほど尊皇家であった将軍綱吉の怒りを買う行為だったと言うことだ。
通常の日ならもう少し変わっていただろう。

393 :忠臣蔵新聞:2006/07/29(土) 13:13:00
老中の秋元喬朝さんと若年寄の加藤明英さんの前で、大目付の庄田安利さんが「滞りなく
内匠頭さんの切腹を見届けました」と報告しました。
 目付の多門さんらが口をそろえて、内匠頭さんの切腹の場所について私たちは絶対に納得
できなかので、その様に申し出た。庄田さんは『さっき絵図面によって承知している』という。そ
のうえ言い争いになるので一通り意見をいって切腹も終わったが、ことのほか粗略の扱いにつ
き、一通り申し上げたが、夜も更け先刻より柳沢さんも退出せず待っているので、将軍に申し
上げるにはあまりにも遅くなるので明日登城して申し上げなさいということになった。

394 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:16:11
田村建顕は、外様なのに綱吉に気に入られ、奥詰・奏者番にのし上がった男。
当時の本家伊達綱村は柳沢の上屋敷が消失した時、突出した見舞い品を届け、
吉保の歓心を買おうとした。
伊達宗春も院使饗応役を無事勤めあげている。
伊達一門は優等生だったわけで、それだけすりより、ごますりに長けたところが、
顰蹙を買い、悪意の宣伝がされてるんじゃないか。
城中での取調べ中ならともかく、切腹の場に及んで浅野が何を叫ぼうが意味がない。
田村も庄田も綱吉や吉保の傀儡なんだから。

395 :これは上意だ:2006/07/29(土) 13:20:27
庄田は幕府からの上使として目付の大久保権左衛門、多門伝八郎らと
ともに田村邸を訪れ、将軍の意向を告げて浅野切腹の沙汰を宣告した。
しかし庄田の運命が狂い出すのはこのあたりからである。
大名・旗本の切腹は座敷が慣例でそれ以下の小者が庭先とされていた。
そのため田村家でも座敷で準備に取りかかったが、
庄田は「切腹の座は庭先に用意するように」と命じた。
これには副使として庄田に従っていた大久保や多門も反対し、
「浅野殿は殿中で大罪を犯したとはいえ、れっきとした5万石の
大名です。庭先の切腹など有り得ません」と強く詰め寄った。
しかし庄田は静かに「これは上意だ」とかえした。
「上意」(=将軍の命令)

396 :浅野切腹否定説:2006/07/29(土) 13:22:53
ここまで幕府が略式に、しかも急いで切腹を行なったために
「浅野切腹否定説」まで飛び出る始末。
これは田村邸に到着した浅野はその場で何者かによって暗殺された
というのである。そのため切腹したという既成事実を作るために切
腹を急いだという説。こうした説が出るまでに刃傷事件発生から切
腹までの時間は短かった。もちろん庄田は幕府、ことに老中や三奉
行たちの意向を忠実に果たしたまでのことであった。
こうして5万石の大名浅野内匠頭は田村邸の庭先で切腹した。


397 :責任転嫁:2006/07/29(土) 13:30:04
翌15日に浅野家本家の芸州広島藩浅野家から田村家に対して
「何故庭先で切腹させたのか」と厳しく抗議され、各方面から
も幕府の処置に対して抗議の声が寄せられるに至った。
こうなっては幕府としても黙っていることは出来なくなり、
あの処置は大目付の庄田下総守の手落ちであったということにして、
事件から4ヶ月後に幕府は庄田に対して「指図上意に叶わざる
故・・・」という理由で大目付を辞めさせられた。
今でもよくある事例だが、幕府は大きな組織の誤りの責任を実際
の当事者に被せて逃れてしまったのである。

398 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:39:37
綱吉が尊王家だからというより、大事な式日に殿中を血で汚されたってことで
面目丸つぶれ。面子にこだわったんじゃないか。
当時綱吉は吉保を使って、桂昌院への従一位贈呈を果たそうと、朝廷を懐柔しようと
さかんに工作中。今回は果たせなかったが、翌15年3月には一側室に過ぎなかった
桂昌院に異例の従一位という、ママへのプレゼント贈っている。

399 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:55:35
何で征夷大将軍を天皇家からもらうという形にこだわったの?
自分で自分にやりゃいいじゃん。
そうすれば天皇はただの京都の祭りの主催者に過ぎなくなる。

400 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:00:39
砂田重秀って、いったい誰?・・・萩原重秀のことか。
小笠原備後守、豊後守?・・・小笠原長重なら、ずっと佐渡守だけど。

三田村鳶魚って、後光明帝と後西帝に退位を迫った立役者として吉良を
想定し、浅野がその不敬に怒って吉良に斬りつけたんだという荒唐無稽な
俗説振りまいてるヤツだろ。

401 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:04:21
荻原重秀○
萩原重秀×

402 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:07:54
>>398
桂昌院は京都人だからいいんじゃないの。
徳川自体が京都系なんだから。

403 :吉良上野介を有名にし、恐れられた原因:2006/07/29(土) 17:21:04
「徳川家へ反抗なされば何様でもかくなるのである。見せしめとなさるが
よい」と若き日の吉良が思いきった前代未聞の暴挙をやってのけたので、
さすが豪気の後水尾帝もついに世をはかなんで延宝八年御崩御となる。
これが当時、吉良上野介を有名にし、恐れられた原因なのである。
その後吉良は「仏教興隆、神徒禁圧の大詔を出して頂くようにせい」と元
禄十四年に命じられると、(高家のため、江戸町奉行にも老中にも出世さ
せてもらえずのため)もう嫌気のさしていた吉良は、上洛したもののなす
処なく、京から戻って登城し、謝罪し、隠居願いを出した。
しかし柳沢は(御政道の裏向きを余りにも知悉している爺めをどうして野
放し出来ようか)と、最後の奉公納めとして、勅使饗応役を命じた。
そして言葉巧みに浅野内匠頭をたきつけて、吉良を憤らせ抜刀させようと
した。というのも、江戸時代というのは武士は矢鱈と刀を抜いてはいけな
いという定法があつたからである。


404 :桂昌院は済州島の出身:2006/07/29(土) 17:27:14
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。


405 :生母が朝鮮系:2006/07/29(土) 17:28:53
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせいである。


406 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 17:58:32
どうせ丸々コピペするなら、もっとまともなのをな。

407 :水戸光圀(1628〜1700):2006/07/29(土) 18:49:13
光圀六十七歳、歯のもげた口で息が洩れるのを笑いものにされ、なぶりになぶられ、
「権現さまの血をひく徳川一族であるのに、この綱吉を除外し京より迎え
た者を五代将軍にすえ、己が補佐の名目で天下の副将軍にでもなり、
政権を私せんとなせし悪党めの、この哀れな老残の姿を見て、みなの見せ
しめとなせ」と散々に嘲弄されたあげく、また網かけ駕に施錠され常陸太
田へ護送され、その六年後に光圀は竹矢来に囲まれた張り番された芽屋で
朽木ように死んでゆく。

 実子や孫はみな処分され血筋は絶えていたから、水戸藩史でも高松より
の綱条の子孫が代々の主君となったので、幕末までは黙殺される存在でし
かなかったのが本当の処なのである。


408 :水戸光圀(1628〜1700):2006/07/29(土) 18:53:24
上洛してきた水戸光圀が,
「自作の短歌の添削をお願いしたし」と、室尋子の実家近衛信尋
を通して後西廃帝へ申し出たことを,京所司代より通達されるや
柳生者は、「・・・・・これは険呑、用心せねばなるまい」と、
従来は交替で一人だった見張りを倍加して用心した。
しかし辻斬りをしたり博奕までうって放蕩三昧のくり返しで、
水戸二十三万石の当主となった獅子王の光圀は、柳生者の警戒な
ど物ともせず、
「筆墨がご不自由ではござりませぬか」と奈良墨百挺に筆百本、
料紙十束を献上。もちろん、柳生の家臣は後西廃帝への差入れゆえ、
京水戸屋敷よりの使者を待たせ、料紙の一枚まで算えて厳重に検査
をした。なのに光圀は、自作の添削の礼として京を出発する際には、
朱墨五十挺と料紙百束という大量な進物をし、念入りに真綿で作ら
せた道服をも幽閉の廃帝に臆面もなく献上をした。


409 :水戸光圀(1628〜1700):2006/07/29(土) 18:54:41
今に残る「日本書記」や「続日本紀」などの『六国史』は、
この料紙と筆墨をもって、

「近頃は江戸を朝廷とよび、江戸城の閣老共が公家と自称。
よって京より下向きの御所の者は、徳川家へ気兼して官位をひとま
ず返上。前大納言とか前参議と無位無官になって東くだり。
戻ってきて官位を旧に復するなど言語道断。この国にありては平安
の昔から、京こそ体制であって正しいのだ」
 
なす事もなく後西廃帝は死ぬまで口惜しさに古文書を整理して御染
筆なさったものである。
 が、水戸光圀は柳生俊方の報告によって,ますますもって徳川綱
吉に睨まれ嫌われる結果となっただが、本人は獅子とよばれる程の
横紙破りの者ゆえ、当時はまだ無頓着だった。


410 :済州島からよんだ伯父隆光:2006/07/29(土) 18:55:58
光圀が案じた通り、綱吉の生母は済州島からよんだ伯父隆光に大き
な寺を持たせた。そして仏経をもって国教を統一するため、邪魔に
なる神信心や拝火宗の祇信心の者らを転向させようとした。
 従来は一人で何年も勤めた寺社奉行を、宗門改革のため二人立て
三人立て四人も一緒に任命し幕政を混乱させた。それでも効果なし
とみてとると柳生俊方の献策で、神祇派の資金源となっている製革
業の弾圧を企てた。つまり「生類憐れみの令」はその目的のために
施行された法律だった。


411 :隠居閉門処分:2006/07/29(土) 19:01:28
「京所代小笠原や京奉行松前が、将軍家側用心柳沢吉保の送り込んで
きた吉良上野介と密談し、何かを策しているのが怪しい」と光圀は、
彼らの謀みが何かを探るため、貞享二年二月に後西さまが窮死された
後も京へは何度もいった。そして、
「京こそ体制である」との後西さまの意志を世に広めんと、湊川に楠
木正成の石碑もたてた。
 もちろん光圀の行動は、柳生俊方によって次々と江戸へ報告され続
けて行った。柳沢吉保は、
「あの方がいては吾らの企てが駄目になる」と将軍家の命令として隠
居閉門処分にした。そして一歩も常陸

太田より他出させぬよう跡目の綱条に言いつけ竹矢来で囲ませた。
番人をつけさせた。
 何故かといえば金をカネとみない銀貨幣制の京で、吉良上野介が柳
生に言われた通りに、従来の大判小判を強制的に通用禁止し集め蓄積
していたから、その秘密を匿し通すためであったらしい。



412 :大楠公をまつる湊川神社:2006/07/29(土) 19:16:29
ご墓所のかたわらに水戸光圀公(義公)の銅像があります。
光圀公は、水戸藩主を辞して西山荘に隠居された後も、大日本史の編纂
を行い、また大楠公をお慕いして墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し、
そのご盛徳を天下に顕彰されるなど、偉大なご事蹟をのこされました。
 此のご功績を追慕して御像の建設を発願し、昭和30年(1955年)7月
に完成しました。銅像の原型は、平櫛田中の作、かたわらの頌徳碑は、
徳富蘇峯の文となっています。

413 :前期と後期に分け:2006/07/29(土) 19:34:35
水戸学を百科事典で調べてみると、前期と後期に分けてありました。
前期の水戸学は、大日本史の編纂をとうしての尊王です。おそらく
水戸光圀が言ったものだと思いますが、日本の国王は将軍ではなく
て天皇としているのです。こんなことは江戸時代に、水戸光圀以外
の誰もいえなかったのではないでしょうか。そしてこの初期の水戸
学こそが、現在の日本人、もしくはそれ以降の日本の歴史に欠かす
ことの出来ない大きな影響を与えていると私は考えています。
普通、日本の国王は将軍じゃなくて天皇だ、というようなことを言
った藩は取り潰されてしまいますよね。いくら御三家である水戸藩
でもそう簡単に言っていいことではありません。しかし水戸光圀は
それをある意味幕府に認めさせてしまったと言えます。

414 :水戸黄門は“悪人”だった :2006/07/29(土) 19:39:29
水戸黄門=水戸光圀の悪業のかずかず
今でも地元でさんざんな水戸黄門評
水戸藩の恐怖政治にハタハタと美人が逃げた
水戸光圀の歪んだ生い立ちと生涯の負い目
青年光圀のご乱行と世子の務めの二重人格
光圀の事業好きと遊び好きで赤字のたれ流し
歴史編纂は誰のため、何のためなのか
光圀の宗教弾圧は“天才の御奇想”の産物
恐ろしい光圀の厳罰主義と、公然の家老刺殺
「お手打ち」蕎麦好きと庶子を認めない「女好き」〔ほか〕
●年貢を納めさせるため百姓を拷問責め
●遊び半分で「非人」を試し切りにして自慢
●衆人環視のなか、笑いながら家老を刺殺
●手をつけた妊婦を預けて「男子なら殺せ」の命令
などなど「黄門伝説」をひっくりかえす事実が満載!!


415 :TBSのドラマだけ:2006/07/29(土) 19:44:28
幕末に講談師の桃林亭東玉が「水戸黄門漫遊記」を創作してからポピュラー
になったようです。「この印籠が目に入らぬかぁ!」「ははぁ〜!」」とい
うシーンはTBSのドラマだけ。

もともと水戸家は幕末に「勤王の大本山」とされた藩で、水戸光圀が編纂さ
せた「大日本史(明治39年に完成)」は幕末の勤王志士の歴史観に大きな影
響を与えていて、光圀は幕末・明治の読書人に身近な存在でした。
光圀は、この「大日本史」に必要な資料を集めるために諸国に家臣を派遣し
ており、そうしたことも諸国漫遊話しの下地になっているようです。

また、光圀は徳川綱吉や柳沢吉保と時代を同じくし、「生類憐れみの令」
に反して牛や羊を平気で食べ、将軍へもずけずけものを言ったため、
庶民の受けも良く、名君とされる人です。

光圀自身は徳川家康の孫にあたります。当時の将軍の綱吉は家光の四男
で家康の曾孫。神君家康を基準とすればより近い尊い血になります。


416 :蛇足ながら:2006/07/29(土) 19:45:27
蛇足ながら、水戸家が「御三家」に加えられたのは家光の代の晩期頃からで、
家格も極官が権中納言と一段低いままでした。
建前上は御三家は平等に将軍候補を出せる家柄とされましたが、
実際には紀伊家、尾張家のどちらかから出すものと決まっていました。


417 :副将軍:2006/07/29(土) 19:49:15
ただし、御三家といえども紀伊家、尾張家は参勤交代の義務があり
ましたが、水戸家だけは例外的に江戸常府であり、都合による帰国
もかなり自由に認められていました。こうした特別待遇から水戸家
を指して「副将軍」と呼ばれるようになりました。「副将軍」と呼
ばれたのは光圀だけではなく歴代藩主も同様でした。
特に幕末時の藩主”烈公”斉昭は自らも「副将軍」然として振る舞い、
幕閣から畏怖されました。


418 :越後屋の闘いは終わらない:2006/07/29(土) 20:00:52
小学校の低学年の頃だと思う。
学校から帰ってきて、おじいちゃんの家に行っては、おじいちゃんと
一緒に水戸黄門ばかり見ていた。主題歌である、「」を覚えるほどだ
った。小学校の頃の友達も友達で、私と同じで水戸黄門を見ていて、
一緒に「人生楽ありゃ苦もあるさ〜」なんて歌っていたものだ。
何が好きだったのか。小さい頃は、特に音楽が大好きだった。
「助さん、格さん、こらしめてやりなさい」と、黄門様が言った後に
かかる曲。「ここに居られるお方をどなたと心得る。
〜省略〜水戸光圀候にあらしゃられるぞ〜」と印籠を見せた後、
黄門様がアップになる所でかかる曲。最後の場面、ナレーションが
入って、道をみんなで歩く所にかかる曲。例えば越後屋が悪巧みを
しようとしているときにかかる曲。その音楽全てが大好きで、
それを聞くために見ていたっていう部分もあったりする。
特に好きな曲が、「こらしめてやりなさい」と言った後にかかる曲
である。その曲を分かってもらえないのは残念だけれど、
その曲がかからない限り、私の中で敵(例えば越後屋(笑))を倒
すことは出来ないのである。でも、たまに、好きではないものがか
かったりする。そうすると、「あ〜」とガックリしたものだ。
それは今でも思ってしまう。あの曲がかからない限り、
私と越後屋の闘いは終わらないのだから。


419 :水戸黄門印籠データ:2006/07/29(土) 20:12:34
2003年 3月17日 20時45分19秒 土下座人数約15人チャンバラ時間70秒
2003年 3月10日 20時45分51秒 土下座人数約15人チャンバラ時間90秒
2003年 3月 3日 20時44分34秒 土下座人数約55人チャンバラ時間45秒
2003年 2月24日 20時44分08秒 土下座人数約15人チャンバラ時間60秒
2003年 2月17日 20時45分05秒 土下座人数約20人チャンバラ時間110秒
2003年 2月10日 20時45分38秒 土下座人数約25人チャンバラ時間45秒
2003年 2月 3日 20時45分35秒 土下座人数約25人チャンバラ時間70秒
2003年 1月27日 20時46分26秒 土下座人数約15人チャンバラ時間105秒
2003年 1月20日 録画失敗のため計測不可。
2003年 1月13日 20時36分29秒 土下座人数約12人チャンバラ時間90秒
2003年 1月 6日 20時42分30秒 土下座人数約20人チャンバラ時間75秒
2002年12月16日 20時46分20秒 土下座人数約40人チャンバラ時間75秒
2002年12月 2日 20時45分40秒 土下座人数約20人チャンバラ時間50秒
2002年11月25日 20時46分39秒 土下座人数約20人チャンバラ時間90秒
2002年11月18日 20時45分47秒 土下座人数約20人チャンバラ時間72秒
2002年11月11日 20時46分51秒 土下座人数約20人チャンバラ時間100秒
2002年11月 4日 20時46分44秒 土下座人数約12人チャンバラ時間60秒
2002年10月28日 20時46分35秒 土下座人数約23人チャンバラ時間65秒
2002年10月21日 20時44分26秒 土下座人数約20人チャンバラ時間49秒
2002年10月14日 20時44分07秒 土下座人数約15人

420 :オリジナルの漢字:2006/07/29(土) 20:16:32
中国史上唯一の女帝である則天武后!
この則天武后は、「圀」を含む17のオリジナルの
漢字を作っていたんです!そして、「圀」だけが
日本でも使われています!ちなみに、則天武后の


別の言い方に武則天という呼び方もあります!


421 :日本@名無史さん:2006/07/30(日) 09:46:37
水戸光圀が綱吉擁立に尽力したなんて・・・疑わしい。
酒井忠清が有栖川宮を迎え入れようとしたのは、家綱の側妾おまるが
家綱を遺児を身ごもっていたから。
綱吉=チョン説なんて、ガセネタ以前の妄想。
鳶魚なんかがしきりに言ってる戯言。

422 :日本@名無史さん:2006/07/30(日) 14:34:01
アナル光圀はチャンコロに大和魂を売った売国奴

423 :江戸城を朝廷と呼ばせ:2006/07/30(日) 17:24:11
元禄時代の徳川綱吉将軍の生母は、朝鮮国済州島出身の「於玉」である。
昔から日本では、大陸系出身者は昔から貴種とされていたから、
「於玉の方の子であるゆえ、よって、わしは貴の生まれである」と言い出した。
そして江戸城を朝廷と呼ばせ、己は新皇と号していた。
(これは赤穂義人纂書に書かれている)このため東下りの公卿は遠慮して、
京を出る前にひとまず「前中納言」とか
「前侍従」となって、江戸の伝奏屋敷に入ったものである。
そして使いを終えて京へ戻ると、すぐさま又前の官位に復位している。

424 :日本@名無史さん:2006/07/30(日) 17:42:17
>>423
それに該当する「赤穂義人纂書」の原文を挙げてくれないか。

425 :日本@名無史さん:2006/07/30(日) 19:24:48
>>424
どうせ八切止夫のコピペだから、
原典の提示を求めても無理ですよ。
史実を無視して、妄想を展開し、その荒唐無稽さを売り物にした作家。

426 :日本@名無史さん:2006/07/31(月) 09:23:20
ところで、江戸時代の農民の多くは天皇を知らなかったでいいのかな?

427 :日本@名無史さん:2006/07/31(月) 09:37:07
江戸城が朝廷?いいねぇ。
京都のはもういらねえからな。

428 :日本@名無史さん:2006/07/31(月) 09:46:48
江戸時代に平和が長く続いたのも、
朝廷を閉じ込めたおかげ、
朝廷が前面に出るとろくなことがない

429 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 09:49:13
朝廷がもっと早くつぶれていれば、
日本の歴史ももっとましになってただろうな

430 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 11:37:25
>>426
農民にとって天皇は価値が無いし
農民の人生にも生活にも天皇は何の関係も影響も無い
明治時代のように強制されたり現代のように右翼の暴力でもなければ
自分の人生や生活に関係ない天皇なんて興味をひかない
その時代の天皇なんて現代の徳川家のようなもの
現代において徳川家に忠誠を誓う人はいない

431 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 19:16:28
>>426
知っていますね
想像で言っても、個別には色々と残ってるからな
庄屋同盟による小作人まで一体の運動や
一揆の時に幕府批判に天子を使ったりとかね


432 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 19:19:51
>>430
元号制定
また暦の制定は一時期から幕府主導に成ったが
生活暦や農民の行事の大半は天皇が起源だからな〜
また天皇を中心とした農耕は左翼ですら認めてるんだが


433 :天皇制の利点と難点:2006/08/01(火) 19:48:43
天皇制の利点
1.日本の伝統歴史を引継ぐ
2.政府や国会や外交に、権威(正統性)を与える
3.「良き家庭」を演じる事で、保守的な家族のモデルとなる
4.スキャンダルを含め、週刊誌やワイドショーの目玉となる
5.皇居や古墳が乱開発されない

天皇制の難点
1.血統のみの身分制であり、差別の象徴で、民主主義に反する
2.特に「万世1系」など明治直後の極端な絶対主義天皇制が残っている
3.政府や政治団体が、何でも「天皇のために」と言う無責任が横行
4.天皇自身の人権や自由が無い(北欧の王族比べても国家の奴隷)
5.皇居地下トンネルや、皇室関連古墳の技術発掘などが進まない


434 :天皇制の賛成派と廃止派:2006/08/01(火) 19:50:25
賛成派
(1)戦後の天皇制は米国の押し付けだから、戦前に戻るべき。
(2)戦前は良くないが、今の天皇制は賛成。現状維持。
(3)時代に合わせて、女帝とか多少は見直して、維持すべき

廃止派
(1)即時全廃して普通の人間にする
(2)伝統(国宝のようなもの)としては続けるが、国家の制度としては廃止する
(3)天皇家は続けるが、宮中はもっとオープンにする

賛成派(1)や廃止派(1)は、国民の5%未満の極論だろう。
賛成派(3)と廃止派(3)は、ほとんど中身が変わらない。


435 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 20:29:41
>>432普通の農民が元号をいつ使うんだ?
それに西暦使っているからキリスト教でもないし

神道学校の馬鹿な話は日本史板ではなくオカルト板だよ

436 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 21:57:00
8.5【東京】

■「皇室と日本を考える」第三回学習会       
◆8月5日(土)開始時間:13:30〜16:00 (最大延長60分)
◆豊島区勤労福祉会館 第四会議室
豊島区西池袋2-37-4 池袋南口から徒歩3分TEL:03-3980-3131
http://nihon.lar.jp/02.html
◆参加費:無料  参加連絡不要

●今月のテーマ
「天皇と日本とはいったい何か?
 〜神話と神道から、その在り方を考える〜/國山たかし」

※思想家たちを通じて、神道からみた"日本のあり方や根本"という基礎的概念を考えます。
 日本国についての思想家たちの間にある共通部分とそれぞれの特殊な部分とを浮き彫りにし、神話や神道と切り離せない天皇の意義を皆さんとともに考えたいと思います。

 その他、トークディスカッション等、ミニコーナーを予定してます。

◆主催:「皇室と日本を考える」実行委員会
共催:女系天皇に断固反対する会 (mixiコミュニティ)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458
協力:(財)国民精神研修財団 他
◆お問合せ&連絡先:「皇室と日本を考える」実行委員会 info@nihon.lar.jp
http://nihon.lar.jp/

質問要望などは下記のスレまでお願いします。
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1147608766/

437 :日本@名無史さん:2006/08/01(火) 23:42:15

「江戸幕府初代将軍である徳川家康が、東照大権現という神号をもち日光東照宮にまつられていることは、
日本人の常識である。『権現様』『神君』『東照宮』と称されて、徳川将軍家、旗本、譜代大名、さらには
外様大名まで、カリスマとしてその精神的な拠り所、精神的支柱として重要なイデオロギー面での役割を
果たし続けた。だが、東照大権現の神号をおくり、神としてまつったのは、将軍ではなく天皇であった。
将軍には絶対まねのできない機能なのである。

 そして、神格を与えられた家康をまつる神社は、当初は日光東照社であったが、それに一段高い格を
与えて日光東照宮としたのも、幕府が勝手にやったのではなく、天皇であった。徳川家康を神にまつり、
その社に宮号をおくったのは天皇なのである。天皇なしに日光東照宮も東照大権現もこの世になかった。」

藤田覚(東京大学文学部教授)「幕末の天皇」(講談社選書メチエ)


438 :日本@名無史さん:2006/08/02(水) 01:10:29
>>352
年貢、税や役所実務(江戸時代は寺)=出生なども、記帳があります。
改元が有れば何故か報されますよ


439 :日本@名無史さん:2006/08/03(木) 10:59:19
藤田が言いたいのは、今まで近世での朝廷が無視されすぎたって事。

実態は、幕府の圧倒的権力と権威で、
天皇を適当に使いまわしていたことに変わりはない。

440 :明治天皇誕生の真相:2006/08/03(木) 20:13:48
孝明天皇が36歳で急死し、実子の16歳の睦仁(むつひと)親王が明治天皇になったという
のが正史である。孝明天皇の死は毒殺説と刺殺説があるものの、暗殺はまず間違いない。孝
明天皇は徳川体制の維持を前提とした強固な公武合体論者で、薩長にとっては邪魔な存在で
あった。

 睦仁親王は砲声と宮女の悲鳴に卒倒するような、華奢なお公家さんだったことは記録にあ
る。ほどなく睦仁親王は毒殺され、大室寅之祐(18歳)なる人物と入れ替わった。



 では、この大室寅之祐は何者かというと、後醍醐天皇の末裔の光良(みつなが)親王の子孫
で、長州に匿われていたという。当時、南朝の正系の良泰(ながやす)親王の子孫は熊沢天皇
家として水戸藩に、美良(よしなが)親王の子孫は三浦天皇家として尾張藩に、そして長州では
大室天皇家としていずれも貧窮のうちに棲息していた。このような天皇家のスペアーは、何事
にも用意周到な徳川家にもあり、日光東照宮の宮司がそれで代々天皇家の血筋である。



441 :明治天皇誕生の真相:2006/08/03(木) 20:14:19
華奢な睦仁親王は明治天皇になると二十四貫の巨体となり、馬上から大元帥として号令を
掛け、気が向けば側近を相撲で投げ飛ばすなど、まるで別人であった。それもそのはずで、2
歳年上の別人だからである。明治天皇がわがままを言うと、西郷が「昔の身分にかえします
ぞ」と凄んだという。明治政府があわてて南朝を正統としたのも、万一世間の知るところとなっ
た際、偽系との誹りを逃れるためである。

 このへんの事情は知っている人は知っていることらしい。薩摩が西郷の敗死もあり失速した
あとは、天皇をメイクした長州の天下となり佐藤栄作まで国政をリードした。



442 :コ川恒孝明治天皇の縁戚の真相:2006/08/03(木) 20:16:01
18代将軍コ川恒孝(つねなり)氏は、明治天皇の弟の血筋である大室近祐の次男を、岸信
介が除籍の上徳川家の養子に出し、徳川宗家を継がせたものであると「明治天皇出自の真
相」で述べた。
 平成16年11月9日(火)の「徹子の部屋」に、コ川恒孝氏本人が出演されたので、これはよ
い機会とじっくり拝見した。
 恒孝氏は日本郵船(株)の副社長を退職後、平成15年に(財)徳川記念財団を設立し、将軍
家に伝わる絵画、工芸調度品、着物、古文書などの保護にあたっている。

443 :コ川恒孝明治天皇の縁戚の真相:2006/08/03(木) 20:16:35
恒孝氏の風貌は、ずんぐりした体躯と、NHKの磯村さんや松平さんと同系の福々しい顔つき
で、どこか家康公の肖像にも似ている。幼い頃に悪戯をすると周りの大人から「なり様、城が
落ちます」と叱られたとも語った。
 これは本物だ一目瞭然だ、決して横から入った闖入者などではない、直感がそう告げる。幼
時の記憶もはっきりしているので、正統なご子孫に間違いない。
 「岸信介が除籍の上徳川家の養子に出し云々」というのは、つまらぬ俗説にすぎないと判断
する。

444 :週刊女性の記事:2006/08/03(木) 20:24:44
「秋篠宮さま「残念」発言に雅子さま“重大決定”も!」
この「雅子さま」の「重大決定」とは、「雅子さま」が「皇室」を去ること。

 つまり「離婚」だと言う。

 しかも、その場合、「皇太子さまは雅子妃と行動をともにされるであろう」
との観測もあるとか。
 秋篠宮が頻繁にご学友と交流したり、眞子さまとかを連れて天皇・皇后と会
ったりしてるのに比べ、皇太子家は引きこもりがちで、天皇が「来い」と言っ
てもなかなか会おうとしないという。はっきり言って仲が悪いと言わざるをえ
ない。
 皇太子が抜けたら、秋篠宮が皇太子になり、今の皇太子は皇族から籍を抜い
て雅子さまと一緒にどこかへ行ってしまうだろう。なんだかこんな状況を容認
する空気が徐々に出来上がりつつあるような気がして。


445 :後南朝の皆様 :2006/08/03(木) 20:25:28
後南朝の皆様
小倉宮 1428挙兵 1443神器奪還 同年自刃
義仁王 1428挙兵 同年土岐氏に討たれる
義有王 1444挙兵 1447自刃
自天王 1448即位 1457赤松遺臣に討たれる
日尊王 1469挙兵 1470討ち死に


446 :殺された皇族:2006/08/03(木) 20:26:29
殺された皇族(追い詰められての自害も含む)
天皇⇒安康、崇峻、弘文、淳仁、安徳
命 ⇒五瀬、手研耳、武埴安、狭穂彦
皇子⇒大碓、麛坂、忍熊、大山守、隼総別、住吉仲、大草香
   磐坂市辺押磐、美馬、木梨軽、境黒彦、八釣白彦、磐城
   星川稚宮、穴穂部、宅部、古人大兄、有馬、大津、早良
親王⇒伊予、尊良、護良、恒良、能久
王 ⇒蒲見別、眉輪、山背大兄(一族)、長屋、桑田、膳夫、黄文
葛木、鈎取、和気、塩焼、道祖、他戸、以仁、尊秀、教尊
円胤、義仁、義有、自天、日尊



447 :日本@名無史さん:2006/08/03(木) 20:44:37
池田屋に集まったテロリスト達の真の目的は孝明天皇殺害だったかもしれない
岩倉や七卿落ちのメンバーが邪魔な孝明天皇を除くためにテロを計画


448 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 00:07:35
女系天皇はもはや天皇ではない :竹田恒泰氏(旧皇族子孫)会見
http://www.youtube.com/watch?v=Cc-7Dvx3LCc&search=%E5%A4%A9%E7%9A%87

外国人記者クラブでの会見です
見てない人は是非見てください!
わかりやすくて、おもしろいです!
外国人記者からの「あなたの主張は、普通の近代国家に合わないし
男系継承のみを認めている皇室典範は違憲だと思いませんか」
「天皇は国家元首であるべきか象徴であるべきか」などの質問にも答えています

天皇陛下万歳!( ´∀`)


449 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 10:39:57
女系天皇が楽しみだな。
キコさんの子も女の子がいいね。
ムフフ、女系天皇が楽しみだ。
もはや天皇ではなければ、それも楽しみ。

450 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 10:52:45
共和にまさるものはなし

451 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 13:51:45
日本共和国ってなるのかな?

452 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 14:29:54
国号は日本国のまま、天皇がいなくなるだけ。

453 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 15:33:45
最近のレス、みんなスレ違い。
天皇制の是非やら今の皇室の話なぞ、別でやってくれ。


454 :日本@名無史さん:2006/08/04(金) 16:02:39
江戸時代の天皇は駕籠の鳥
父親に会いに行くこともできなかったw

455 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 09:24:08
>>449
でも男系の皇統が無くなる訳じゃないわだよな
天皇には後付けのもいる
未来には男系の皇統が復活するだけだよ
神社仏閣が有るうちは皇統の権威は無くなることは無いんだよな
家が檀家の寺は皇族の血筋が貫主だし


456 :生き延びて来た:2006/08/05(土) 10:28:41
「天皇」という存在が一般化したのは明治時代からでね。
それまで殆どの人間は天皇なんぞ知らなかったんだよ。
天皇は「生き延びて来た」だけで「守られて来た」わけじゃない。


457 :万世一系は大嘘である:2006/08/05(土) 10:37:58
万世一系は大嘘である。
奈良・平安時代などは、天皇や皇族の後ろ盾にいる各豪族の抗争次第で、
皇位は血統原理と関係なく移動したのである。
例えば、聖徳太子は、血統原理から言えば正統な皇位継承者だったのだが、
結局天皇にはなれなかった。また672年に起きた壬申の乱では、
天皇と名乗る大友皇子(天智天皇の子)を大海人皇子が武力で倒し自らが
天皇になった。
又、天皇家は、万世多系であった。桓武天皇の母親は朝鮮からきた人とい
うのは有名な話である。また皇室には代々側室なるものが存在し、
その側室は平民から選ばれたのである。明治天皇や大正天皇は側室の子供
である。(明治天皇の側室で大正天皇の生母であった柳原愛子さんは大正
天皇が知的障害者であったことの責任をなすりつけられたそうである)
そのことは皇室の家系図には書かれておらず、あたかも天皇が一人で子供
を産んだように書かれており、見る人に天皇家は万世一系につながってい
ると思い込ませているのである。
更に、現在の天皇家は足利尊氏が無理矢理作り出した北朝の子孫であるこ
とである。血統原理でいくならば、正統な皇位継承権は南朝にあるのである。
(南朝の子孫とされる熊沢という人が大東亜戦争後に、皇位継承権は自分
にある。と訴えた話は有名である)


458 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 10:40:20
伝統芸能の家元か本願寺の門主みたいな感じで、民間で生き延びればよい。
国家による庇護は不要。

459 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 10:42:00
憲法改正しないとねw


460 :差別事例:2006/08/05(土) 10:54:08
天皇・皇族の部落民に対する差別事例をここでいくつか挙げてみる。
1868年に制定された『法令全書』の第1巻686号には、天皇が巡幸する際
に穢れ多い部落が見えないように部落を筵で隠すべきということが書い
てある。
そのことの事例として、1922年に起きた大分県の的が浜地区焼き討ち事件、
がある。事件のあらましは、皇族が列車で巡幸する際、沿道沿いにある、
的が浜スラム地区、が皇族の目に触れないように、その地区を警官が焼き
討ちした、という事件である。的が浜地区は正確には被差別部落ではないが、
非人系の部落民や、ハンセン病者や、浮浪者が多数居住していたスラム地区
であった。
また、天皇は、部落民の土地を取り上げたりもした。
これは大正年代の出来事だが、奈良県の畝傍山のふもとにあった洞(ほうら)
部落が、その下にある神武天皇陵を見下ろす位置にあるとして、
行政側は1917年にその部落の強制移転を求め、20年にそれを強制執行した。
その際、洞部落の部落民の遺骨も穢れているとして、徹底的に取り除かせた。


461 :天皇制に反対:2006/08/05(土) 11:31:12
雅子さんは療養中
紀子さんも昔とあまりにも違う
もうね。天皇家廃止しようよ
現代の宦官と妄想右翼のせいで、天皇家の人たちの人格形成ってまともに行われないよ
普通の人より酷い待遇
一生発言や行動を縛られて、人として可哀想
もっと自由に生きる道を進ましてやるべき。
天皇家の人たちを大事に思うなら、逆に天皇制に反対すべきだと思います。


462 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 11:36:10
ぶっちゃけ、マサコが離婚するか夫婦ともども民間に去ればすむだけのこと。

463 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 12:44:47
むこうの該当スレに、詳しい論客がいて太刀打ちできないからって、
こっちのスレに逃げてくンなよなあ。
天皇制賛成派も反対派も、現代オタは来ンな!
「江戸時代の〜」って文字読めンのか?


464 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 13:43:29
むこうのスレは単なる鬼女板のコピペの羅列にすぎないわけだが・・・

465 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:43:24
だいたい「江戸時代の農民は・・・」とか「庶民は・・・」とか、
そんな大雑把なククリで、天皇を知ってるとか知っていないとか、
あんまり意味のないことを大げさに結論づけようとするレスが、
現代ヲタを呼ぶ込む、恰好の前フリになったな。

現代の天ヲタが跳梁するスレは日本史板だけでも複数あるし、
近現代板にもあるから、そっちで息巻いたら。

466 :日本@名無史さん:2006/08/06(日) 16:47:21
庶民レベルの民間信仰てのは
案外古い時代の記憶を濃厚に残していてね
江戸時代になったとたんに
全ての人達が天皇の記憶を失うなんてことはありえないんですよね

467 :日本@名無史さん:2006/08/06(日) 17:03:27
むしろ禁じられている秘密ほど
人々を魅力するものはないでしょう。

幽閉された真の国主、についての記憶をたどり
心情的に支持する人々の地下水脈は次第に大きくなり
やがて維新回天となり地上に噴出したのでした。

468 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 09:47:46
庶民レベルの天皇信仰なんてなかったよw
いつの何を指しているの?

469 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 10:04:52
天皇が国主ってのはいつの時代の話をしているのだろうか???

470 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 13:36:12
飛鳥〜南北朝まで。
鎌倉期も朝廷が国家としての公権力を行使してたし、武家と拮抗していた。
南北朝で傀儡化した北朝の国家機能が武家政権に接収され、国主の実態を喪失。

鎌倉以降、武家に侵食された国家としての機能が完全に消失した。

471 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 16:01:16
>>463 御所千度参りなんかかな。
まあ、あれは信仰というよりは著名人に飢饉の救済をもとめたっつーだけの庶民がおこした政治的利用みたいなもんだけど。

472 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 20:51:45
>>470
>鎌倉期も朝廷が国家としての公権力を行使してたし、武家と拮抗していた。

この時代「国家としての」という言葉自体に疑念があるが、
それは措くとしても、
公権力とは、いくつくところ、徴税権と軍事権に集約される。
守護・地頭の台頭により、国司は名目化し、徴税権も軍事権も持たない。
厳密に言えば、平安期、荘園制が拡大し、律令制・公地公民制が崩壊していく過程で、
あなたのいう天皇を国主とする体制は、事実上崩壊していた。


473 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 21:33:26
>>468
反日ブサヨは朝鮮に帰れ!
全ての日本人は古代から朝目覚めたら皇居遥拝。就寝前に皇居遥拝が3000年続く美しい伝統なんだよ。

474 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 21:57:08
>>473
3000年まえには「日本人」なんてものはそもそも存在しなかったわけだが。


475 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 22:08:02
>>473
そもそもお前はしてるんだろうな?

476 :日本@名無史さん:2006/08/07(月) 22:47:32
当たり前田のクラッカー
俺は貴様らと違って日本人だからw

477 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 09:59:36
太陽信仰はあったけど、天皇信仰はなかったんじゃないかな?

478 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 12:07:52
>当たり前田のクラッカー

おまえ中年だろうw

479 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 12:11:23
団塊の世代をサバンナにおいてきぼりにしよう!
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/wild/1132304779/


団塊の世代をまとめてンゴロンゴロ国立公園に裸でおいてきぼりにする。

日本を蝕む口先だけの無能な団塊の世代を日本という温室から弱肉強食の草原に放り投げてやるのだ!

団塊の世代の生き残りをかけた戦いが、セレンゲティで始まる・・・・

480 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 14:20:37
敗戦で皇居遥拝を止めた人って多いよね

481 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 15:07:37
うちの祖父母も敗戦でショックを受けて遥拝止めたと昔言ってた

482 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 21:35:20
朝鮮人はそうだよw

483 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 22:11:41
最近、低脳厨多いな

484 :日本@名無史さん:2006/08/08(火) 22:48:30
>>483
夏休みだしね。
オレはしばらくこの板は見ないことにするよ。

485 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 21:42:35
>>467
うむ。別スレでも話題になった
「太平記読み」
江戸初期にその講釈を熱望した武士達は
まさしく志士の先駆けであり
江戸時代に隠れ尊皇派の血脈が受け継がれていたことの証と言えましょう。

486 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 21:49:22
「太平記」ファン=尊王?
もっと真面目に歴史を学びませう。

487 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 21:59:17
天皇に民心が集まっていたなら天皇が貧窮にあえぐこともなかったろうに
御所の修理でも葬儀でも金に困ることなんてなかったろうに

488 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 22:02:49
東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 

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489 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 22:21:25
>>485
何で尊皇の志士が逆賊に担ぎ出された偽朝廷を尊敬するんだよ

490 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 22:22:53
>>485
何で尊皇の志士が逆賊に担ぎ出された偽朝廷を尊敬するんだよ

491 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 23:10:10
偽朝廷ではない。
南北朝はその当時の時代に限ったことと
太平記を今の朝廷を否定する政治的道具に
利用しようという卑劣な読み方をするような人はいませんでした
ゴルァ!

492 :日本@名無史さん:2006/08/09(水) 23:11:40
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
PU=プラム=安曇連=がいやまん =太国=ヒッキー=サガミハラ=本田=定ちゃん=彼都
♪探して♪探して♪ 更新望む


【PU作成HPワクワクするね必見だよ!】
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
このアドレスよその窓に、貼り付けてみてください。この窓からは重いかも
PUのマニアックな生態が窺い知れます。

お仕置きしちゃだめ

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしだから
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
【大ヒット書き込み中】先行ぷスレ 今は座談会になってます。 【大ヒット書き込み中】


493 :二人の女帝:2006/08/10(木) 13:02:41
江戸時代には、二人の女帝が即位した。明正{めいしょう}、後桜町{ごさ
くらまち}天皇である。明正天皇は、紫衣事件で後水尾{ごみずのお}天皇が
譲位したために即位した。後桜町天皇は、桃園天皇の皇位継承者英仁{ひでひ
と}天皇(後の後桃園天皇)が成長するまで皇位を継いだ。この後に女帝が即
位したことはない。



494 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 14:09:23
江戸時代の武士は藩主に忠義を尽くすのであり、
天皇に忠義を尽くすとは、理論的にも現実にもありえない。
倒幕勤王が出てきたのは幕末の最終段階のみ。

495 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 14:17:09
幕末は財政難からリストラされた浪士が都に行けば食えるかな?と京都に集まり
結局食えなくて犯罪者集団になっちゃった〜って連中が天皇の名をかたって天誅強盗しってたんだよな


496 :黒船の砲艦外交当時:2006/08/10(木) 14:48:38
黒船の砲艦外交当時、尊王攘夷を掲げ西洋列強の脅威と戦ったのは、
薩摩藩一藩のみであった。薩摩藩だけが、強豪のイギリス艦隊を相手に
戦ったのである。
 この抵抗で薩摩の街は火の海になったが、一方イギリス艦隊も多大な
損害を出した。
 また長州藩においても、1863年下関海峡を通過する外国船を砲撃
する事件が勃発する。これこそ、まさに尊王攘夷であり、一般には馬関
戦争と言われている。

 ところがこの砲撃に対し、翌年の元治元年、英・仏・米・蘭の四ヵ国
連合艦隊が下関を砲撃する事件が起こった。これが四国艦隊下関砲撃事
件である。
 この事件は、前年長州藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃したので、
その報復として行われた事に端を発する。そして長州藩は勇敢に戦ったが、
武器が古いこともあって苦戦を強いられ、無態に惨敗する。


497 :武士道など微塵もなかった:2006/08/10(木) 14:49:17
以上の二つの事件を併せて、当時の日本人の心情を探ると、薩摩藩
と長州藩以外の日本人は、「黒船」と聞くと、まるで今日の日本人が、
「癌イコール死」と結び付けて恐れているように、黒船の所有する大
砲を、原爆並みに恐れていたのである。
 したがって時代に慣らされ、非武装に慣らされた平和ボケの幕府の
役人どもは、自らの弱さや、日本人の戦意の無さを無意識に感じ取り、
競って防壁の門扉を開き、「開国」に廻ったというのが実情であろう。

 こうした中に、当時の武士階級には、武士道など微塵もなかったと
言ってよい。


498 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 14:53:11
黒船来航は1年ほど前から幕府は知ってたらしいな。
協議して、「ぶらかし」策で行くことにした。
開国は当時の判断では、もっとも国益にかなった策。
明治新政府も継承している。

499 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 14:54:38
武士道が微塵もなければ、朝廷に忠義を尽くした武士も微塵もないわけだが

500 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 14:59:13
後水尾天皇と光格天皇ぐらいしか知らん。

501 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 15:08:13
平和だねぇ。

502 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 15:11:07
僕が好きな天皇は天武天皇と称徳天皇です。

503 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 15:13:38
つぎの天皇にナルヒトは?

504 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 15:14:37
舎人親王

505 :武士の実態:2006/08/10(木) 15:37:37
江戸時代において、二百有余藩が理不尽な理由で取り潰されている。
しかし忠臣を全うし、武士道を実践したのは、赤穂藩ただ一藩であり、
その一藩も、家臣三百人も居ながら、三百人中、主君の為に討ち入った
のは僅かに四十七人で、これは日本の武士階級の総数からすると、
余りにも少ない数字である。

 お家が取り潰され、お城明け渡しともなると、一度は
「籠城(ろうじょう)し、城を枕に討ち死にせん」と豪語する武士は、
必ず何人かがいる。時には、「家臣一同切腹して、その武士の生き態
(ざま)を天下に知らしめん」と、息巻く武士もいる。
 しかしこうした事は、一例もなく、二五十年間の中で、
赤穂浪士四十七士ただ一例だけが、討ち入りをして、主君の恨みを晴
らすという事に止まったのである。

 結局のところ、日本において、理不尽な横暴に対し、勇ましい掛け
声はかけるが、いつの間にか、一人去り、二人去るというのが実情であり、
最後は全員が浪人になったり、町人に身を窶(やつ)すというのが偽わ
ざる武士の実態であったようだ。


506 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 16:03:22
武士のヘタレぶりは日本軍に受け継がれたね

507 :冨永恭次陸軍中将:2006/08/10(木) 16:15:16
東条英機の腰巾着として虚栄と傲慢(ごうまん)を極めた、
冨永恭次陸軍中将は、フィリピン第四航空軍の司令官であったが、
冨永は出撃をする若い部下たちに、「諸君らは神である。君達ばかりを
死なせない。自分も最期の一機に乗って出撃し、諸君のあとを追おう。
あとの事は引き受ける。心置きなく、勇敢に死んでくれ!」とまで豪語し、
特攻隊の出撃に激励しておきながら、フィリピンにアメリカ軍が上陸すると、
戦闘の護衛機を付けて台湾へ逃げ帰ったのである。
 特攻隊が出撃する時は一機の護衛機も従(つ)けずに激戦地に送り出し
ながら、自分が逃げる時には数機の戦闘機に護衛をさせ、台湾へと向かっ
たのである。
 以降、冨永は前線には再び戻ろうとせず、台湾の北投(ペイトウ)温泉
で静養したと言う恥知らずの将軍であった


508 :江戸時代は、一見封建主義に見えながらも:2006/08/10(木) 16:16:47
江戸時代は、一見封建主義に見えながらも、実はそうではなかった。
 士分でありながらも、出世欲は旺盛で、商人同様に金勘定に聰(さと)く、
意外に主君や主家を平気で変え、条件の良い就職先や、他藩に転職
するという転職組も多かったのである。

 事実、賄賂政治と批判?され、天明飢饉などにより、失敗に終った
といわれる田沼意次(おきづぐ)・意知(おきとも)の時代は、
貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など幕政の積極的打開を意図したが
それは成就することがなかった。
 田沼時代(明和4〜天明6の20年間)の当来は、意次が小姓を経
て側用人となり、遠江(とおとうみ)相良(さがら)の城主に取り立
てられ、老中にまで登り詰める出世競争を考えて見ても、幕政の実権
を握った意次が、どの程度の武士であったか、容易に想像がつこう。


509 :本音は「飢えは恥じより苦しい」:2006/08/10(木) 16:18:06
だから武士道が起こった。
 武士の為体(ていたらく)を嘆く、憂国の士によって
「武士道とは何か」と、再検討されたことは、必然的な成り行き
であった。
 そして驚く事は、「忠臣蔵」のモデルになった討ち入りした
四十七士も、こうした転職組の武士達であり、大部分は親の代、
もしくは本人の代になって、浅野家へ仕官した家臣で、祖父の
代からの家臣は数える程しかいなかった。

 では、浅野家・家臣四十七士は何故、徒党を組み、討ち入り
に参加したのか。
 それは彼等が親の代、あるいは本人の代になってからの転職組
であり、それ以前は浪人であった。彼等は浪人生活の苦しさを
熟知している。
 したがって浅野家断絶後、転職したり、町人に身を窶したりし
た武士も、相当に居たかも知れないが、再び浪人して苦しい生活
に戻るよりは、徒党を組んで、ひと暴れし、世間をアッと言わせ
る方を選択したと言えなくもない。
 しかし武士は「二君に仕えず」と言うけれども、これはあくま
で建前の事であり、本音は「飢えは恥じより苦しい」というのが、
当時の武士階級の偽わざる実情であった。
 そしてこうした伝統は、明治以降も続くのである。


510 :武士の実態 2:2006/08/10(木) 16:19:47
徳川時代の大名家は拝領する領地なども、ヨーロッパの中世貴族
に比べて非常に狹く、また自立性に乏しく、思考性に欠け、
家臣は少なく、武力も貧弱であった。特に弱少の外様大名は、
こうしたことを後々までに強いられた。そして外様大名に対する
圧力は、徳川幕府と言う幕藩体制が「中央集権的封建制」と言う
独特な政治形態を作り上げていたからである。

 また弱少の外様大名でなくても、かつての加藤家(肥後国を領有)、
福島家(安芸・備後五十万石を領有)、最上家(山形五十七万石を
領有)まどの五十万石級の大大名であっても、徳川幕府に逆らえず、
易々と取り潰されたと言う歴史を持っている。彼等、大大名家は大坂
「冬の陣」や「夏の陣」の抵抗すらせず、まんまと幕府に取り潰され
ている。


511 :武士の実態 3:2006/08/10(木) 16:20:39
後の世の1897年には、徳川幕府は周知のように薩長二藩を母体
とする西南雄藩の反乱と、一部の浪人の暴動で、幕府は意図も簡単
に崩壊する。「尚武の国」と言い、「武士道の国」と言う武士階級
層が、この当時、一体どれほど、徳川将軍家に忠誠をつくし、
命を投げ出した忠義の旗本・御家人がどれほどいただろうか。

 それでも、佐幕の為に会津藩や桑名藩は、徳川幕府の為に人力
をつくし、戊辰戦争を勇敢に戦ったのである。しかしこの二藩は
徳川家遠縁の、今日で言う子会社的な存在であった。
更には、新撰組や京都見廻組は寄せ集めのガードマン的なものに
過ぎず、徳川家とは全く関係ない外部団体であった。


512 :日本@名無史さん:2006/08/10(木) 21:44:18
薩摩隼人は神代以来の天皇の親兵ですが
何か?

513 :日本@名無史さん :2006/08/10(木) 23:02:24
496〜511の長文
で結局何が言いたいの?

514 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 01:39:35
熊襲族と同じ反乱部族だった隼人族が「神代以来の天皇の親兵」とか
神武以前の「3千年前から皇居遥拝」していたとか、バカレス見苦しい。

515 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 04:40:37
隼人司・隼人舞・隼人盾はあるね。

516 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 10:05:25
隼人は、夷も服従しているということを示すために連れて行かれていた。
隼人の「叫び」もある。

517 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 13:38:47
>>495 お前、いちどマイナー人物スレとか行ってこい。
藩の有職者や馬廻り以上の禄取り、神社や庄屋・豪農・豪商クラスなんかばっかりだぞ。

彼らはもとから食えてないような浪士だとたんじゃなくて、故郷や家族や藩をすてて浪士になっている経緯がほとんどじゃん。


518 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 13:46:08
リストラされたとは言わず脱藩と見栄はってただけだろ

519 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 14:33:50
志士たちの経済学
って本なかったけ?

520 :戊辰戦争研究会:2006/08/11(金) 16:38:25
戊辰戦争研究会の掲示板に「戊辰戦争で略奪暴行を働いたのは正規の
長州藩士ではなく、道徳心の欠けた部落出身の奇兵隊メンバーだ」という書き込みがあった。
・・・
と思ったら今朝になったら削除されていた。

都合の悪いことはなかったことにするのが会津クオリティ。
解同から抗議でもあったのかねえ。


521 :日本@名無史さん:2006/08/11(金) 17:38:52
なんか、幕末に来日した欧米人の旅行記なんかを読むと当時の欧米人ってのは
天皇をローマ法王、徳川将軍を神聖ローマ皇帝になぞらえていたように思えるのだが
これって相互の関係を説明するのにすごくいい線ついているような気がするのだが、
本当のところはどうなんだろう。だれか偉い人教えて。

522 :日本@名無史さん:2006/08/12(土) 17:00:15
>>521
大変興味深い示唆ですね。
政治権力を握った時代に権威を失い、逆に権力を失った時代に権威を増す――
歴史的経緯も、教皇と天皇は似ている。
現状では、両者とも男子しか継げないという点もね。
また教皇の権威によって戴冠される神聖ローマ帝国皇帝と、
天皇によって征夷大将軍に任じられる徳川将軍家とも似ている。
特に、のちに神聖ローマ帝国皇帝はハプスブルク家に世襲されたし。


523 :日本@名無史さん:2006/08/13(日) 00:02:38
欧米人に「天皇」を説明するのに、英訳の「Emperor(皇帝)」より
日本の「Pope(教皇)」様と説明した方が、しっくりくるって云う
カトリック信者もいるみたい。

 http://yumesaki.therapy.under.jp/?cid=19280

524 :日本@名無史さん:2006/08/13(日) 21:20:32
>>514>>516
やれやれ、また浅はかで不勉強な思いこみでの反論というより
いちゃもんか。

ちなみに反乱を起こしていたからと言って
もともと反天皇的な部族というのはまったくの間違い。
勉強不足もはなはだしい。
西南戦争を起こした西郷どんは
反天皇的だったからなのか?
それともマルキストだったのかな?

525 :日本@名無史さん:2006/08/13(日) 22:45:58
>>524
ここは個々人の思想をぶつけ合う板じゃなくって
事実をもとに思索する歴史板なんだから他人に不勉強と言うのなら
事実を示して言うべきだよ
その事実は個人的見解を述べた書籍や異なった解釈が多数ある中の一つを抽出は駄目
それをせず他人を不勉強だと罵ってはいけない


526 :日本@名無史さん:2006/08/13(日) 23:31:39
>>525
禿同!

527 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 00:44:35
>>525
事実をもとに思索したものを思想というのだが。

君は不勉強だね。

528 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 00:59:03
授業で江戸時代(幕末除く)の人は天皇が今も存在してることすら知らなかったって聞いたけど、マジ?

529 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 01:06:13
嘘,浄瑠璃などではよくとりあげられてたし
水戸学なんかは江戸初期の水戸光圀の大日本史編纂が契機
戦国時代なんかも一揆の仲裁役として活躍してる
例えば本願寺とかね

530 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 01:13:13
少なくとも>>512の言う「神代以来の・・・」云々は、事実とは言えない。
・隼人族が頑強に大和朝廷への服属を拒んでいたこと。
・それでも中央に連行された一部は、早くから土着し、歌舞や宮門の衛戍に
 あたっていたこと。
・しかし薩摩大隅地方では反抗が続き、8世紀に至って、ようやく服属した
 こと。

これらは歴史の通説で、これを覆すつもりなら、論拠を示してもらいたい。
まア、「神代以来の」とか「3000年前から」とか、まるで軍歌の歌詞みたいな
戯言を振り回したり、
筋違いな西郷を持ち出したり、マルキストなんて古色蒼然とした言葉を使った
たり、オツムの程度が知れる。

531 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 01:13:26
江戸の人:昔はいたらしいけど今もいるの?

みたいな感じじゃなかったってこと?

532 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 01:22:36
だから、もうやめようよ。
「江戸時代の人は」なんていう大雑把なククリでは、
天皇を知らない、というのも嘘。
知っていた、というのも嘘。
嘘が言いすぎなら、正確でない、と云うべきか。

533 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 02:37:16
江戸時代の人間が天皇を知らなかったというのは、京都を知らなかった
と言ってるのと同じで馬鹿馬鹿しいな。

534 :521:2006/08/14(月) 07:23:05
>>522>>523
なるほど、当たらずとも遠からずといったとこですか。

戦後アメリカが天皇を処刑でなく利用することにした事もひょっとしたら>>523みたいな
認識が影響していたとしたら面白いですね。

話はかわりますが、財政難で豪華な料理も全ての皿に手を付けられなかった(数日前から
使い回して既に腐った料理の載った皿が混じっていた)とか凄い話も残っているんですけど、
天領とかからの収入もあっただろうに、そんなに困っていたのかなあ?参勤交代も無茶な
土木工事とかもやる義務はなかったわけですよね。

徳川幕府に苛められていたのか、それとも経済が米を中心とする在来型から近代的貨幣経済に
シフトしたことが大きかったのか?この辺って結構幕末の幕府と朝廷との関係を推測するのに
重要なバックグラウンドだと思うんですけど、みなさんどう思います?

535 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 10:32:18
蘇民将来の子孫なりと書く。素戔嗚尊が疫病を予言し忠告した
のが始まりとされる。牛頭大王とかと習合されそうになったりよく分からない
経緯があるがとりあえず忠告を受けて被害に遭わなかったという故事から
お札にそう書いて配るという風習がある。

祇園と牛頭信仰だが後深草上皇がそれにはまったかららしい。まあ祈祷とか
故事研究みたいなもんだろう。

536 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 15:21:40
東北の農民は、江戸は知っていても、
京都は知らなかったろうな・・・

537 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2006/08/14(月) 15:23:47
日本人自体が朝鮮起源だからね

538 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 15:24:02
>だれか偉い人教えて。

でました!天オタ君の自作自演のスタートです。
このほかにも彼の書き方はいろいろあるけどすぐわかるねw

539 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 19:39:17
>>530
笑った。
まず隼人とひとくくりに言っているが
部族が別れていることを知れよ。

さらに隼人がどのように朝廷に仕えていたか
実態を知れば、蝦夷とは異なり
隼人があきらかに古代から天皇となんらかの深い関係を有していた考えるのは
間違いではなかろう。
詳細はたしか昔天皇の起源スレに書いた気がするが。
まあスレ違いになるのでこのへんで。
おまえは夏休みの間、もう少し勉強しろな!

540 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 19:41:13
>>536
戦後のアンチ天皇プロパガンダをいまだに
信じてしまう人の知識はこの程度、禿藁

541 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 20:31:04
>>536
東北農民は、義経も蝦夷征伐も知らなかったのか?

542 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 20:34:11
戦後のアンチ天皇のプロパガンダってどのようなものでしょうか?
謝罪教育をされたと言っていた人が他スレにみえたのですがどうやら嘘だったようです。
一部の人が一部の人に教え込んだとしてもそれは一般化される現象ではないのではないでしょうか。
国策や指導要綱に謝罪教育やアンチ天皇が在ったとは思えません。
個人や小集団の思想を取り締まる国ではない以上思想の多様性は尊重されるべきもので民主主義の重大な要素ではないでしょうか?
アンチ天皇プロパガンダ・謝罪教育について押し付けられた経験者の方がもしみえられたら教えてください。



543 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 20:48:22
108代 後陽成天皇 109代 後水尾天皇 110代 明正天皇
111代 後光明天皇 112代 後西天皇 113代 霊元天皇
114代 東山天皇 115代 中御門天皇 116代 桜町天皇
117代 桃園天皇 118代 後桜町天皇 119代 後桃園天皇
120代 光格天皇 121代 仁孝天皇 122代 孝明天皇

幕府の真綿首絞め攻撃に窒息寸前だった、天皇の多いこと多いこと。

江戸時代は将軍によって若干の差異あれど、
天皇(及び朝廷)に対しての基本政策は、抑圧と牽制と監視だから、
下々の民は、幕末まで知らなかったか、関心がなかった、これが現実。

544 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:00:17
「鳴物停止令がだされるのは、幕府の関係では、将軍とその一族、および老中などの死であり、
朝廷の関係では、天皇、上皇、女院などの死であった。鳴物停止令は、幕府の手によって全国に
触れられるので、雲の上の人などという観念的存在ではない、生身の天皇の存在を、江戸時代の
全国民が認識する重要な機会であった。」

(藤田覚 「幕末の天皇」)

545 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:06:14
>>544
権威のないソースだね
隣のおっちゃんが言ってたと同レベル

546 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:18:37
>>545
けんいのあるそーすってなあに?

547 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:20:53
>>546
俺様の意見
俺様に反する意見は全部チョン

548 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:35:14
>>545東大教授は権威がありまくりだが…

549 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:44:14
>>548
姜尚中東大教授や高橋哲也東大教授の意見は権威あるんだね

550 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 21:58:43
俺も今度生まれ変わったら、東大教授になりたいな

551 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 22:32:53
>>536
逆だよ。特に東北日本海側の場合、西廻り航路によって
京都や大坂と経済的にも文化的にも深く結びついていた。
だが、
参勤交代で江戸へ行く必要がある殿様と一部藩士以外、
一般住民は江戸のことなんて全く知らなくてもどうでもいい。
将軍は遠いどこかの領地の殿様の一種だとしか思われてなかったろう。
「京や浪速のことは知っていても、江戸のことは知らなかった」
というほうが正しいだろうね。

552 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 22:39:52
>>551
ソースは?

553 :日本@名無史さん:2006/08/14(月) 22:41:51
皇學館の教授?

554 :コロッケ君:2006/08/14(月) 22:42:00
>*:;;;:*ぉまじなぃ*:;;;:*
>> 告られたぃ!!告られたぃ!!告られたぃ!!
>> ・・・この文をそのまんまコピーして違ぅスレに3つ貼り付けると1週間以内に好きな人に告白されます☆
>> 好きな人に告白されたぃなら今すぐ実行しましょぅ★
>

555 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 08:54:52
>藤田覚

うん、いい学者だ。
左翼のマルクス主義派だけどね。内容はいい。
ただ、彼の主張のキモは
江戸時代に天皇制度がシステムに内在化していたというで、
権威が高かったとかそういうことではない。
鳴り物停止令の期間も、将軍のほうが天皇の2倍くらい長かったしね

556 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 12:14:17
>>543
まったく情けない帝ばかりだったな。
なぜ倒幕挙兵を誰も決行しなかったのか。
後鳥羽院や後醍醐帝の後に続こうという
勇気ある帝や院はいなかったのか。
倒幕の院宣と綸旨を全国の諸大名に下せば
江戸幕府など簡単にぶっ潰せたはずだ。

557 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 12:58:50
>>556 
プラムさんその理由が解らないなら歴史辞めてください。
それとも下手な釣りですか?程度が低いですね!


558 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 14:06:15
>>556
みんなが我先にと、幕府に密告し、
譲位させられるのがオチ。

つか、幕府側の関白がそれを許さんわな。

559 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 14:20:45
>>558 それが>>556の答ですか? 自作自演バレるほど程度低いな!プラムよ!

560 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 16:13:39
>鳴り物停止令の期間も、将軍のほうが天皇の2倍くらい長かったしね

そうだね。
公方様のほうが権威があったんだね

561 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 18:54:23
正親町や後陽成や江戸時代の天皇や上皇がヘタレだったのは明らか。
織田や羽柴や徳川ごときにいいように操られて、平然としてたのか?

これも武家政権のカイライ一族・持明院統の宿命かwwww

562 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 19:06:41
>>556
武家伝奏に幕府にチクられて遠島がオチ
天皇の宣旨が権威あったのは織豊までだし
幕末の朝廷権威高揚も幕府の威信低下に伴うシーソー力学だしね

563 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 19:39:56
 高埜利彦氏の研究によれば、幕府は天皇が衆庶の目にふれることを極端に恐れ、いわゆる行幸を制限し、
天皇が仙洞に見舞うのさえ嫌ったという。したがって大嘗会は復興したものの、これにともなう重要な神事
である賀茂川畦への「禊行幸」だけは許可しなかった。・・・天皇の行幸復活は、幕末の1863年、孝明天皇の
有名な攘夷祈願からであるという。このようにみてくると。天皇を物理的に押し込め、大衆から隠す政策は、
ある程度成功した。
 とはいえ、天皇権威の高まりはあきらかであった。天照大神に対抗すべく創出された東照大権現の神威は、
武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆のあいだに天皇祖神を
祭る伊勢の権威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついていた。
 伊勢以外の神社の場合は、18世紀から19世紀にかけて、公家で神道家の吉田家と白川家が積極的に
中小雑社の組織化をはかっており、地方諸社もまたその統制に服したことが指摘されている。江戸中期になると、
神官にかぎらず、陰陽師・鋳物師・盲僧・相撲など諸芸集団が、京都の土御門家・真継家・青蓮院など、諸本所の
権威をもとめるようになる。そうなると、学芸・宗教という枠内に収まらないある種の世俗的権威が公家・寺社に
生じ、ひいては天皇の権威をおしあげるという構造を形成していくことになった。中世末期に断ち切られたはずの
座や本所の権威が姿かたちを変えて復活していくのである。

(今谷明「武家と天皇」 岩波新書)

564 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 19:45:58
>>561
>正親町や後陽成や江戸時代の天皇や上皇がヘタレだったのは明らか。

1576年頃から信長は正親町天皇としっくりいかなくなっており、再三にわたって
正親町天皇の譲位をうながす。天皇の嫡子誠仁を擁立しようとしたためであった。
しかし正親町天皇は、ぬらりくらりと信長の要請をはぐらかした。業をにやした
信長が、1581年の2月から3月にかけて、内裏付近で二度にわたり、御馬揃えを
挙行して圧力をかけたにもかかわらず、老獪な正親町天皇はついに譲位拒否を
貫きとおした。

(今谷明 「武家と天皇」)

565 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 23:10:37
>>563
なぜ幕府は天皇が庶民の目にふれるのを恐れ
かたくなまでに隠し通したのでしょうか?

566 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 23:16:30
>>542
教えてください。て
ついこの前まで普通に学校教育の現場でやってたろ。とぼけるな。

567 :日本@名無史さん:2006/08/15(火) 23:20:54
ところで江戸城に勅使がやって来るとなると
道を掃き清めるのはもちろん
泊まる部屋の全ての畳も替えていたらしいが
やはり将軍様にとっても勅使は
神聖なものだったんですのぉ

568 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:00:01
>>565
幕府にとってみれば天皇なんか何でもない無力な存在だった。
後陽成や江戸時代の天皇や上皇がヘタレだったのは明らか。
だから幕府は隠していたのだよ。

569 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:31:52
>>567
貧乏な公家に幕府の力と経済力を見せ付けて完膚なきまで平伏させるため

570 :太国:2006/08/16(水) 00:34:30
>>569 頭わり

571 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:37:37
勅使饗応役でありながら刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は有無を言わさず
切腹になったからね。

572 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 01:11:27
>>539
一向に論拠の提示がない。
何の権威もない君が別スレで書いたことなど興味なし。

だいだい「神代から・・・」なんて言葉、知性のある人は使わない。


573 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 01:57:34
>>546は支那人

574 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 04:56:36
だいたい征夷大将軍自体、非常時に天皇の統治権を代行する権限にすぎないわけで
もともと民草に君臨する政治的権威の根っこは天皇に由来するので形式上は天皇の
方が偉いのは当然。

幕府が認めなくても日本全国津々浦々にある神社の神主はちゃんと事態を理解して
いただろうな。

575 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 07:11:44
>>564
織田ごときがお上に圧力を掛けるとは・・・
このような明確な反逆行為を展開した織田に対しては
なぜ明治〜戦中の歴史界は「逆賊」のレッテルを貼らなかった?
足利が「逆賊」なら、織田はそれ以上の逆臣のはず。
禁中並公家諸法度なるものを押し付けた徳川にいたっては
史上最悪の逆臣なのではないのか?

576 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 07:33:05
天子サマより将軍様

577 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 08:45:17
>>575
軍事パレードやっただけで結果的に天皇の威光に屈した信長をなぜ朝敵?

むしろ明智光秀の方が逆賊扱いだったねえ。実際に武力行使するかどうかがポイントだろう。
大政奉還と無血開城という事実上の無条件降伏をした徳川慶喜への処遇を考えると参考になる
かもね。

578 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 18:59:49
>>572
権威?書き込みに権威が必要とは恐れいった、苦藁
572は天皇のような伝統的権威を攻撃するやつほど
権威主義者なのだということを証明するいいサンプルだ。

579 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 19:01:46
日本神話は民族の遠い記憶を伝える貴重な遺産です。

580 :月輪山陵 Mausleum on Mt.Tsukinowa:2006/08/16(水) 19:40:25
泉涌寺のパンフレットには、「仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に
葬られてからは、歴代天皇の山陵がこの地に営まれるようになり、爾来、
皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。当寺が「みてら」
と呼称される所以である。」と紹介されている。
四条天皇から、次に祀られる108代後水尾天皇までは400年ほど隔たっており、
この間、天皇陵は12帝を祀る深草北陵などを除いて各々独立して造営さ
れたが、徳川幕府になり、後水尾天皇から仁孝天皇までの天皇家の墓所は
ここに定められた。公家諸法度が制定されてから江戸幕府が崩壊するまで、
歴代天皇はこの小さな月輪山陵に質素に祀られてきたことになる。
幕府の皇室に対する徹底した姿勢が伺える。


581 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 19:54:15
それでも存在し続けて来た皇室ってスゴス

582 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 21:36:20
まるで朝鮮人のようだね

583 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 21:47:23
563も>高埜利彦氏の研究によれば
とあるように個人的見解にすぎない

自分に都合のいい個人的見解を引っ張ってきても説得力がない
学界で相手にされない説をソースにするのはいかに物を知らないかの証明でしかない

584 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 21:50:14
天皇は本名大室である

ソースは2チャンネルの書き込みだ

このレベルでは話にならない

585 :日本@名無史さん:2006/08/16(水) 22:33:27
>>583
で、おまえの個人的見解は何よ?wwwwwwwwwww

586 :日本@名無史さん:2006/08/17(木) 07:17:16
徳川ごときに支配されて誰も悔しいと思わなかったのか?

以仁王・後鳥羽院・後醍醐帝・大塔宮らに
想いを馳せる空気が朝廷内には無かったのか

587 :日本@名無史さん:2006/08/17(木) 09:18:11
天皇は朝鮮民族である

588 :ひまじ:2006/08/17(木) 12:49:39 ?2BP(0)
たとえば、天皇と上皇が会うことはできなかったの?
答え−平安・鎌倉時代の上皇は参内しない慣例だったが、江戸時代には譲位後の「御幸始」に内裏に御幸(天皇の出行が行幸で、上皇のが御幸)し、その後もたびたび上皇の側から内裏に出向いていた。
特に女帝後桜町院は光格天皇のいる内裏にたびたび出向いては、「人君たるものは仁を」などと説教して楽しんでいたらしい。

「日本随筆大成」などをひもとけば、江戸時代の随筆になんと朝廷関係の記事が多いことか。話題にしにくい幕府にかわり、知識人の関心の対象だったんだね。
それに芝居や小説で天皇の存在を背景にしたものは枚挙にいとまがない。少なくとも都市の識字層(江戸や各地の城下町の町人も含む)にとって天皇の存在は常識だった。

また、正月の舞楽などは、レンタルの裃(袴なしの上だけでよかった)を着れば、誰でも一日中御所の中を歩き回れた。天皇は出歩けなかったが、中級以下の公家
は墓参りや神社への月参りの名目で、お忍びで平野の花を見たり、東山で遊んだりするのは普通だった。
京都はまさに御所の城下町といった感じであり、口減らしのため一生童貞を強制された門跡宮様の寺院の数々(円山応挙を引き立てたのは光格の兄の妙法院宮)、本居宣長程度の名士
となら付き合いたがる公家連中、そういう文化人と宮廷人の交際はかなり広く、文化人は地方に弟子を持った。冷泉家のように地方の有力者まで広く弟子にもつ公家もいた。
近世の朝廷の存在意義は、幅広い人間の(売名的な部分もあるが)ネットワークによって作られた文化的なものだった。
行幸できなかったからといって、忘れられた存在だったなんてことはない。
ちなみに、江戸時代の公家日記は量が多くて幻惑されるが、公家日記ばっかりをしこしこ研究しても、江戸時代の朝廷の存在意義は見えてこない。


589 :日本@名無史さん:2006/08/17(木) 21:25:09
安土桃山から幕末の歴朝において
後陽成天皇と霊元天皇は能書の二大帝王らしいね

590 :日本@名無史さん:2006/08/17(木) 21:39:28
>>589
誰の説?

591 :霊元天皇:2006/08/18(金) 12:07:17
1654年長兄後光明天皇の崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。
1658年に親王宣下をおこなった。1662年12月に元服し、1663年1月、
兄の後西天皇から譲位されて踐祚した。

治世の最初は父である後水尾法皇に院政を敷かれていたが、1680年、
後水尾法皇崩御後は直接政務を執った。霊元天皇は幕府と距離をとる
ことが多く、この時代、「親幕派」と認められた公卿は徹底的に干された。
特に1682年、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば左大臣で
ある近衛基熙を関白に任じるべきところを、霊元天皇は彼を「親幕派」
と睨んでいたため、これを無視して右大臣の一条兼輝を越任させるとい
う贔屓の人事をおこなって京都所司代稲葉正往を驚愕させた。

その後、幕府と霊元朝の暗闘がはじまったが、幕府は、皇太子の朝
仁親王(東山天皇)や近衛基熙に接近をはかって霊元天皇に対抗し、
1687年に朝仁親王(東山天皇)への譲位にこぎつけた。東山天皇は、
即座に一条兼輝を解任し、近衛基熙を関白に就任させ、幕府との関
係改善をはかった。一方、退位した霊元天皇は、仙洞御所に入って
院政を敷いたが、以降もしばしば東山天皇、またその後の中御門天
皇の治世に掣肘をくだし、朝廷政治に重きをなした。1713年 落飾
して法皇となる。法名は素浄。1732年に崩御。


592 :日本@名無史さん:2006/08/19(土) 23:01:48
一条兼輝は、東山帝即位後も約3年間、摂政・関白の任にあった。
霊元上皇の人事だからね。「即座に解任」は無理だよ。
霊元・一条兼輝と東山・近衛基熈の対立は、後光明天皇死後の皇位をめぐる
後水尾法皇・後西VS霊元に始まっている。
圧巻は、東山天皇の皇太子をめぐって、皇弟京極宮と藤内侍との不倫の子に
跡を継がせようと画策した霊元上皇・一条派と、これを阻止しようと必死の
東山天皇・近衛派の激しい争い。
近衛は、池田光政の娘を母とする一条兼輝の血統を露骨に蔑み、
零元は、基熈・家熈・家久の近衛三代を呪う願文を下御霊神社に掲げている。
一条兼輝の正室が、紀伊綱教の姉、近衛基熈の娘が甲府綱豊の正室、
というのも、当時の将軍後継争いと絡んで面白い。


593 :霊元天皇と後水尾法皇:2006/08/20(日) 17:25:20
霊元天皇が後水尾法皇による強い監督下におかれる中で、後水尾法皇
と霊元天皇の関係は強い対立となって顕在化していきます。
近衛基熙の様な、後水尾法皇の姻戚関係や昵近を持つ廷臣と、
霊元天皇の信任を得た一条兼輝を中心とする廷臣の対立はその顕著な
例といえます。この時期の朝廷内のシステム(摂家・武家伝奏・議奏)
は正常に十分機能したとは正確にはいえず、天皇への執奏に摂関が介
在せず、少数の廷臣によって行なわれるという事態も現出しました。
霊元天皇は自分の側近衆を積極的に利用し、独自の政策を展開してい
きます。
この霊元院による政策は霊元自己を中心とした朝廷の再編といえる
側面を有し、貞享三(1686)年の霊元上皇の院政の開始も、
後水尾法皇の院政の場合とは性格が若干異なり、「院政」の積極性を
面に押し出したものであるというのが現在の見解です。

594 :霊元天皇と後水尾法皇:2006/08/20(日) 17:27:00
しかし幕府はこのような霊元上皇を中心とした動きを警戒し、
院政の内容を制限、1690年、幕府との「協調路線」を取り、
後水尾法皇と昵近で、霊元天皇と疎遠であったといわれる近衛
基熙が関白に就任すると、「基本的」朝廷支配の体制を強化し
ていきます。このように霊元天皇期はその上皇期を含め、
朝廷内部で幕府親和志向の廷臣と、それから逸脱した志向を有
する廷臣層により、内部での確執が存在していたようです。
 そして、近衛基煕を中心とした朝幕の協調的姿勢の中で、
1709年、新井白石の提唱による閑院宮家創設が行われます。
将軍は家宣を経て、幼少の家継となります。将軍権威の補完
の為にも、朝廷権威の充実化、儀礼の充実化が行われました。


595 :日本@名無史さん:2006/08/20(日) 19:17:59
>>588
勉強になります

596 :日本@名無史さん:2006/08/20(日) 19:19:10
>>594
将軍権威はやはり天皇に支えられていたんですねえ

597 :日本@名無史さん:2006/08/21(月) 17:46:19
はあ
でも平安期以降飾りでしょう
一般人は天皇のこと知らないでしょう、今もあんましらんでしょう
幕府でしょう
天皇の名前より武将の名前のが有名でしょう
実質天皇崇拝は明治期に生まれたようなもんでしょう
倒幕派も利用して自分達が権力握ったでしょう


598 :日本@名無史さん:2006/08/21(月) 20:51:29
『玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとする』
維新後の新政府もそう・・・
『玉を奪え」
の言葉に象徴されるように、維新前の勤皇の志士といわれた連中もそう・・・
皆、天皇は利用しただけ。

599 :日本@名無史さん:2006/08/22(火) 21:42:38
>>258
人民告諭ねえ・・・


明治二年の奥羽地方に出された告諭は次のように述べる。

  天子様は天照皇大神宮様のご子孫様にて、この世の始めより日本の主にましまし、神様の御位正一位など
  国々にあるも、みな天子さまより御ゆるし遊ばされ候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地、一人の民も
  みな天子様のものにて、日本国の父母にましませば・・・・。

そこに天照大神の子孫と書かれずに、わざわざ「天照皇大神宮様の御子孫様」と記されているのは、東北の地まで
神宮の信仰が及んでおり、神宮といえば理解されるであろうと考えたことを示している。たいへんおおまかな言い方に
なるけれども、江戸時代二百数十の諸藩に分割されていた日本が、天皇のもとに一つの明治国家として展開して
いった背後には、この奥羽人民告諭に端的にみられるような、神宮あるいは伊勢信仰による共通の意識が広く
人々の間にあったという事実が存在していたのだといえよう。

(西垣晴次『お伊勢まいり』 岩波書店)

600 :日本@名無史さん:2006/08/22(火) 22:15:46
みんな尊皇だからね
というか皇国史観な公式文書は、そっち側の資料しか残してないだけだが
それが進歩の否定として岩波の論調になっていく
行動を見る限り当時の薩摩出身の近衛兵とかまったく尊皇の意志なさそうなんだけど
その辺の感覚が正直な所じゃないかな

601 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 12:21:25
>>599
>(西垣晴次『お伊勢まいり』 岩波書店)
これって岩波新書のあれか?
君は読んでないな?

>この奥羽人民告諭に端的にみられるような、神宮あるいは伊勢信仰による
>共通の意識が広く人々の間にあったという事実が存在していたのだといえよう
これは伊勢信仰が広まっていたという話。
天皇を知っていたとか、崇拝していたとかは著者は全く言ってない。
事実伊勢信仰と天皇は全く無関係の別認識。

602 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 12:29:20
「さて今の御代と申すは、まづ天照大御神の御はからひ、
朝廷の御任によりて 東照神御祖命(家康)より御つぎ、
大将軍家の天下の御政をば敷行はせ給ふ御世にして

その御政を、また一国一郡と分て御大名たち各これを預かり、
行なひ給ふ御事なれば其御領内御領内の民も、
全く私の民にあらず、国も私の国にあらず、

天下の民はみな当時これを、東照神御祖命御代々の大将軍家へ、
天照大御神の預けさせ給へる御民なり、国もまた天照大御神の
預けさせ給へる御国なり」  本居宣長・『玉くしげ』


603 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 15:29:30
人民告諭が出されたってことは、
それはそれなりの理由があるわけで、
東北の農民に天皇という人がいることを広める必要があった。
そして天皇巡幸でお披露目だな。

604 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 15:33:49
天皇が人々の信仰を集めていたのなら寄進が集まり裕福だったろう
天皇が死んでも葬式もできないほど貧乏になることは無いくらいに

605 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 16:30:50
だから地方大名たちから寄進が集まって大葬礼や御所改築をしてるじゃん。

ちなみに困窮した民衆は自分たちで精一杯だよ。
寺社や領主を知っていても自分から金を出ださない。
出さないから知らないなんて主張はキチガイ。

606 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 17:15:04
「吉田松陰」 徳富蘇峰著 岩波クラシックス

毛利氏は、従順なる幕府の家奴にあらず。
彼は外様中の外様なり。その乃祖元就が、
正親町天皇の即位大礼の資を献じて以来、 ←
恩賜の菊桐は彼が伝家の記号となり、
大膳太夫は、彼が伝来の通称となれり。
彼は幕府を経由せずして、皇家と直接の関係を有したり。
彼は京都に藩邸を置くの特許を得たり。
彼は三条橋上を白毛?々たる長槍を荷い、
儀衛堂々、横行を闊歩して練り行くの特権を有したり。

607 :日本@名無史さん:2006/08/23(水) 20:58:15
>>605
ソースをだせばいいじじゃん
一事が万事じゃない普遍的なソースを

608 :日本@名無史さん:2006/08/24(木) 09:12:53
江戸時代の庶民(武士以下の階級)がひとくくりに困窮していたという表現はいかがなものかと。

米の収量が高い地方と収量の低い地方とでは大きな違いがあるし、貨幣経済の浸透度合いでも
かなり違いが出てくる。比較的裕福で教育の機会の多い地域での話と、毎年春先になると餓死者
がるいるいと雪の下から姿を現すような地域とではおのずから違いが出てくる。

609 :日本@名無史さん:2006/08/24(木) 12:05:53
毛利氏の援助と民衆の天皇認知に何の関係があるんだ?

戦国時代に朝廷が貧窮してたことは自明だろ

610 :日本@名無史さん:2006/08/24(木) 20:37:57
天皇家ってのは金がいろいろかかるんだなあ。多分、人件費と祭祀関連の費用が最大の
ものだったと思うけど。

徳川氏の大名大リストラ作戦を横目で見ながら、あんなにリストラしたらかわいそうとか
話してたんだろうなあ。目に浮かぶようだ。

611 :謹んで告知いたします:2006/08/24(木) 21:06:15
■「皇室と日本を考える」第四回学習会
◆9月2日(土)開始時間:17:40〜20:20 (最大延長20分)
◆豊島区勤労福祉会館 第六会議室
豊島区西池袋2-37-4 池袋南口から徒歩3分TEL:03-3980-3131
http://nihon.lar.jp/02.html
◆参加費:無料  参加連絡不要

●今月のテーマ
「ナショナリズムの芽生え
 〜幕末・維新における尊王論を考える〜/孤高の相場師(民族派・株式経済評論家)」

※小泉純一郎総裁の任期が今月終わる。小泉政権の政治特徴は、
常にネイションを意識し国民に訴えかけるパフォーマンスにあったといえよう。
それは日本近代の成熟期、経済情勢も混沌とした中で誕生したのであり、
その背後にあってネット文化の進化とともに徐々に沸きあがるナショナリズムは無視できない。
それは幕末の排外的な「攘夷」運動すら思い起こさせ、
今は第二の幕末・維新前夜なのだとの感は日々強まりつつある。
この現代を知るためにも、当時の国家意識・尊皇運動はどうような思想であり、
どのような構造をもっていたのか? その芽生えと勃興の時代情況は?
近代日本の政治思想を、皆さんとともに考えてみたいと思います。

◆主催:「皇室と日本を考える」実行委員会
共催:女系天皇に断固反対する会 (mixiコミュニティ)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=334458
◆お問合せ&連絡先:「皇室と日本を考える」実行委員会 info@nihon.lar.jp
http://nihon.lar.jp/

メールするまでもない質問意見要望などは下記のスレッドまでどうぞ。
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1147608766/

612 :日本@名無史さん:2006/08/24(木) 22:21:09
天皇家が全国の神社の総本山のようなものだったとしたら貧窮にあえぐのは変だよね
各地の神社が集めた金を天皇家に入れれば天皇家も潤っただろうに

613 :日本@名無史さん:2006/08/25(金) 02:09:59
全国にあまたある神社が、国家神道のもとに系列化されたのは、
明治以降のこと。
神社に詣でることを、天皇崇拝に結びつける短絡、
笑っちゃうね。

614 :日本@名無史さん:2006/08/25(金) 12:40:58
全国の神社の創立はすべて天皇家の許可がいると思ってるらしい。
注意したんだが、無駄だったようだ。
現在の朝廷の神事が、多くは明治以後の創作だという点についての
理解不足があるようだ。

615 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 01:41:04
>>603
あんな短い項目でか?
脳内解釈だね
あの程度は江戸時代にめだされてるし


616 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 16:57:26
>>615
江戸時代のいつ、幕府が「あの程度の」そんなもの出したんだ?
詳しく知りたいなあ?
間違っても、尊王運動家の檄文なんか持ち出すなよな!


617 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 17:16:49
無学なDQNはいつの世にもいるわけだし。
今の世でも、外務大臣、財務大臣、官房長官が誰なのか知らない奴がいるかもしれないし。
庭訓とか往来もので教育を受けることができたレベル以下の人間は知らなかった可能性が高いと見ても
しょうがないんじゃないの?つーか、将軍の存在すら知らなかったかもしれないし。

618 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 18:16:18
興味や必要がないものを知らないのは当たり前だと思う
現代人で今の天皇の名前や年齢を知ってる人は滅多にいない
自分から積極的に天皇のことを知ろうと思わないのは興味がないから

619 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 21:11:34
しかし、小泉、安倍、麻生のような人はキャラ立ってて目立つけど、
谷垣さんなんて地味すぎて、政治に全然興味ない中高生や若者なら、
知らなくてもしょうがないと思う。

それに、いつの間にか派閥の名前が変わってて、領袖も小物ばっかりで、
これで政治家の名前覚えろっていっても無理。

620 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 21:13:40
いまの小泉内閣だって安倍、麻生、竹中、小池以外は世間的な知名度低い人ばっかり。

621 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 21:50:11
政治家の名前知らないから「無学なDQN」ってのもな。
小泉とか安倍とか小沢級の大物ならともかく、それ以外の政治家なんて大臣でも
大多数は選挙区の人間しか知らないような程度の連中だし。
政治記者や政治評論家でもない、一般人がそんなものいちいち覚える必要あんのか?

622 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 23:05:46
だからお前はDQNだと言われるんだよ

623 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 23:23:47
情報が溢れているのに、政治的に無知・無関心な現代のDQNと、
日々の糧を得るのにに汲々とする生活レベルと
『民をして依らしむべし、知らしむべからず』の愚民化政策で、
天皇はもとより「まつりごと」に無知・無関心を強いられた
江戸時代の庶民・農民を一まとめにすべきでない。


624 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 23:31:50
昔、深夜番組で画伯になる前のジミー大西が自民党の国会議員を300人
丸暗記するという企画があった。

政治家の名前覚えるなんて、所詮、その程度のこった。
国会議員なんて、大臣といっても、あらかたはどうでもいいザコなんだから、
そんなもの知らなく立ってDQNではない。
辺に国士ぶって政治家の名前覚えてるネトウヨ小僧の方がDQNに近い。

625 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 11:45:17
江戸時代に人民告諭がでていたというレスの
ソースはまだでしょうか?

よろしくお願いします。

626 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 11:56:05
615 :日本@名無史さん :2006/08/27(日) 01:41:04
>>603
あんな短い項目でか?
脳内解釈だね
あの程度は江戸時代にめだされてるし

これか・・・
爆笑ものなんだけど、あわれでな・・・

627 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 16:43:45
>知らしめべかざる

これはどうかな。
お触れはけっこう民衆むけには庄屋あてに文書で出てるようだけど。
だから人民告諭の重要性があるんだよね。
天皇を知らしめすべしとのお触れ。

628 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 10:11:34
>>614
延喜式って知ってる?
神祇長官非公認の神社を教えてください
>604
新体制を知らしめて何か問題でも?
おまえの理屈だと戦前は天皇を知らないとの詭弁も成り立つ


629 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 10:21:38
>>628
日本全国の村の神社

630 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 10:24:22
>>628
そう新体制を知らしめた
天皇という存在をアピールしたんだね

江戸時代の人民告諭はまだ?

631 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 16:18:32
村の鎮守様

632 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 16:35:10
>>629
具体的に?名前は?場所は?祀る神は祭式は?
>>630
そいつは俺じゃ無いが最初、徳川幕府の公布には院宣によりと有る。
そもそも新体制を知らせたら知らないとかバカな奴は少数。どえせ議論板辺りの屁理屈観て喜んだ口だろうが。

例えば近代化農業により都市に溢れた17〜18世紀の欧州で、キリスト教を溢れた民は知らないので知らしめる為と書簡を送っていても
それを本当に知らないと受け取っている学者は少数なように。


633 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 11:27:57
>>632
全国の無数の氷川神社や神明神社を天皇が許可したと?
神社には上からの神社と下からの神社があるんだよ。

後半の文章は意味不明。

634 :日本@名無史さん:2006/09/01(金) 04:42:36
>>633
吉田家により支配を受けてる

それと氷川と神田に電凸して聞いてやろか
天皇制下の秩序に入っていたかと。
うちの市にも古くから明神神社が有るが聖母明神(神功皇后)なんて関係もある。


635 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 09:51:15
>>634
電話したの?
村々の神社が天皇序列に入ったのは明治以降だよ。
一村一社制度で、たくさんの神社が廃された。
あと、明神と神明は違うのだけどね。

636 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 12:51:42
国民総教化のためとはいえ明治政府は極悪振りを発揮したことはいがめない

637 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 13:54:34
>>635
氷川神社は延喜式による天皇秩序下の神社。
あと明治の一村一社運動は廃されたのでは無く「合祀」したので祭神、が変更したり無くなったのでは無い。神道側は反対していた。
神明神社は天照皇大神を祭り伊勢神宮による布教社でした。
神明神社なんてのは明治政府もたくさん合祀令で潰したが
内容は明治が禁止した講も有り明治なんかよりも天皇主義に成る布教神社ですよw


638 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 14:49:02
神明神社か。
神明神社は確かに何万社も実際には有って数の把握が難しいくらい多いから、中には農民が下から造った神社も多いでしょ。
勿論、近くの神明神社に許可や協力はとってるはずだけど。
神社本庁ですら現在でも実数は把握しきれてないくらい多い。農民が造った小さな祠も在る。 
江戸時代や明治に移動させために武士が社を調べたら祀られていたのは天照大神だったなんて例も有るみたいだしな。
でも勝手に造った神社に伊勢神宮から御師を呼んぶ為に奉納したりもしてる。

確かに下からの神社でも天皇秩序と無関係と言えるのか?


639 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 15:51:15
氷川神社は、延喜式よりずっと古くからあった。
もとは埼玉県。
朝廷が作ったのではなく、格付けしただけ。

明治天皇が東京(江戸)に来たとき、「よろしくお願いします」
みたいな感じでお参りにいった。

640 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 16:48:06
>>637
>明治の一村一社運動は廃されたのでは無く「合祀」した
神様のいなくなった神社からみれば廃止されたと同じことだけどな
村々の人は悲しんだことだろう

641 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 00:31:50
>>639
一言、横から言いますと、その屁理屈は無理です。
官位を与え延喜式により天皇制の序列下に置かれていたのは「事実」です。
天皇制の序列に入ったのは明治からでは無いので。
神祇官長が神官任命をしていたことある。

明治天皇が天皇勅祭にしたのは明治からだが、天皇による序列には既に昔から入っていた。

いつから天皇体制に組み込まれていたかの議論が→天皇が造った神社議論に変質したのですか?


642 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 01:04:11
神祇官長って何?

643 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 02:19:34
神祇官「の」長(トップ)ですね。
長官だと卿に成るのでキチンと書かないと。白川伯王家が神祇官長と呼ばれた事も有りますが。
例えば吉田家も歴代神祇大副の家柄で、戦国乱世の間に「神祇長上」を名乗って神祇官のトップを自認していたわけで、
いずれにしても政治組織(朝廷)の官職として、その権限において神祇行政を司ったわけです。

644 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 16:22:12
村々には無数の神社があった。
ほとんどが農業神で、村の自治が背景にあった

645 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 19:32:47
>>644
具体的にお願いします。
まぁ、その農村の神社もアマテラスや記紀の神を祀る。
さらに造のには有力神社から分社したり社家が関与する。
飢饉の時に豊作祈願でアマテラスを祀る祠(ほこら)を造ってるように体系内での。


646 :氏子による祭りの一部には『天照大御神への服従をしめすもの』が有る:2006/09/05(火) 19:47:55
まずは出雲族は天皇家の親戚扱いの天照大神の子孫と定義されてる天皇神話の秩序に入ってるとの知識を付けましょう。
氷川神社の創建は、社伝では孝昭天皇三年四月中の未の日、
素盞嗚尊・稲田姫命・大己貴命三神を祀ったという。
次いで『景行天皇の皇子』・日本武尊東征の折り、
当社を『祈願所にした』ことにより、相殿に日本武尊を祀るが、
現在は相殿に祀られていない。
成務天皇の御代、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり、当社を奉崇した。
社名の氷川は、出雲肥河(斐伊川)の川上に鎮座する
杵築大社(出雲大社)からの勧請によるもの。
出雲大社からの勧請なら大己貴命が主祭神だと思うが、
主祭神は素盞嗚尊。
出雲斐伊神社の由緒では、斐伊神社の分霊が当社へ祀られたとされており、
斐伊神社は、斐伊川(肥河)の側にある素盞嗚尊を祀る神社。
氷川神社の分社、あるいは関連社は武蔵全域に多い。
神紋は八雲紋。祭神・素盞嗚尊の有名な八雲の歌に依存するのだろう。
当社の神輿は三之鳥居を出ないのが決まりらしく、素盞嗚尊の『天照大御神への服従をしめすもの』という。
現在の境内地は約3万坪。
明治17年に社殿背後の16万坪が大宮市に寄付され、
大宮公園となった。



647 :氷川の責任者は天皇の命で決められた記録もある:2006/09/05(火) 19:50:44
氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年
四月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将
の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、
成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が『朝命』により武蔵国造となっ
て氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式
高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定され
た延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り、又臨時祭にも奉幣に預っています。
氷川神社
所在地 大宮市高鼻四ノ一ノ一
 氷川神社は、社記によると代五代孝昭天皇の三年四月未の日の創立と伝えられる。
 当神社は、古くから歴朝や武将の尊崇をあつめた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、
「大宮」の地名もこの氷川神社に由来することは衆知のとおりである。
 古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また成務天皇の
とき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引きつれてこの地に移住し、氷川神社を奉崇し
たと伝えられる。その後、聖武天皇(七二四〜四九年)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、つい
で称徳天皇の天平神護二年(七六六)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進さ
れた。さらに醍醐天皇の延長五年(九二七)の「延喜式神明帳」には、名神大社として破格の月次
新嘗の社格が与えられている。


648 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 15:31:15
各地の無数の神社が朝廷の認可があると、
本当に信じてる天オタくんがいるスレはここですか?

649 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 15:46:40
江戸時代は君が代なんてみんな知らなかったよ。
戦国時代も。たぶんその前も。

650 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 15:52:56
そりゃそうだろうナ

651 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 16:29:41
明治前半も、
君が代を歌うのは陛下に恐れ多い、
ということで、あまり歌わなかった。
明治後期から広まりだした。
とどめは国定教科書。

652 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 18:26:26
そうなのか?「どうせ君が代なんかどっかの古典から引っ張ってきたんだろ?」
と自分も思っていた。しかし調べてみたら結婚式のときのお祝いの歌で、
各地でいろんなバリエーションがあったとか聞いたぞ。

653 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 21:05:22
江戸時代の天皇はむしろ
仏教の元締め

654 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 00:26:00
俺の近所にも神社があって、終戦前までは国幣社だったんだって。
町内会のよしみで、氏子でもないのに境内の清掃に狩り出され、
「これって、憲法違反じゃないの?」って素朴な疑問を抱きつつ、
学会員ほどの志操のない俺は、隣近所のつき合い上、ついつい応じている。
元旦などは、詣でて酒を振舞われている負い目もあるし・・・
だが祈ること・・・ったら、家内安全、無病息災・・・
神社の謂れなど、誰が知る?
江戸時代の庶民だって、きっとそう。
延喜式がどうたらこうたら・・・神社オタクのお題目はウンザリ。
まして天皇信仰・・・? やめてよ!




655 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 00:53:32
紀子さま、男のお子さまご出産

 秋篠宮文仁親王殿下(40)と同妃紀子殿下(39)の第3子が6日午前8時27分、
東京都港区の愛育病院で誕生された。宮内庁によると、お子さまは親王(男子)で、
体重は2558グラム、身長は48.8センチ。
皇族としては初めてとなる帝王切開でのご出産となったが、母子ともにお元気。
皇室では昭和40年にお生まれになった秋篠宮さま以来、41年ぶりの男子で、
皇位継承順位は皇太子さま、秋篠宮さまに次いで第3位。
天皇、皇后両陛下には皇太子さまの長女、愛子さま(4)に続く4人目の孫。
皇室は23人となられた。




656 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 02:33:22
帝王切開で生まれた子は皇帝になる

657 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 03:46:38
>>654
江戸時代は例えば神宮御師が神社で「講」を開いたりしている。
今とは違うのだよ。布教神社だって在る時代
布教要素が禁止の明治以降とは違う。


658 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 07:30:32
70歳以上…後水尾、明正、霊元、後桜町、光格
40歳以下、後光明、中御門、桜町、桃園、後桃園、孝明

659 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 16:31:22
神宮御師が神社で講を開いていたが、
内容は現世利益!
伊勢にいった人も求めたのは現世利益!
現世利益だから人心をつかんだ。
天照は出てきても、
天皇は出てこないよ〜ん。

660 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 18:15:37
まあ、江戸時代は徳川幕府が天皇の勢力を押さえる事は気を払っていたでしょう。
京都の幕府がからんだ多くの寺も天皇を見張るためだったり。
平家は天皇を擁立して滅んだけど、頼朝からは持ち上げながら牽制してるよね。
天皇の権勢はだいたい平安後期には終っている。
明治は対江戸幕府のために薩長が担ぎ上げたんだよね。

661 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 21:11:33
>>680
その無礼な牽制に怒りを爆発させたのが
勇敢なる後鳥羽院と後醍醐帝か・・・

662 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 21:32:13
>>661
ヒットで一塁に出た
俺が帰れば逆転だ
相手ピッチャーは俺の足を警戒している
牽制の繰り返し
そのたびにファーストがグラブで俺を叩く
嫌がらせか
ついにはグラブで俺の顔面を叩いた
その無礼な牽制に怒りを爆発させたのが後鳥羽院と後醍醐

と680に書くつもりだったのがよくわかったな

663 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 23:15:03
もし、伏見宮貞行親王が、夭折しなければ、後亀山帝以来の名前に仁が付かない天皇になったんだろうね。
それにしても、中御門帝以降大正帝まで、天皇の兄弟は、天皇以外の親王は、夭折ばかりだね。
一番長生きしたのが、貞行親王の13歳だからね。
霊元帝の第一皇子、済深法親王の祟りかな。

664 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 06:06:45
>>663
後亀山院の兄貴・長慶院の名前は
ルビが無けりゃ正確に読めないw
後堀河院の名前も実は超難読

665 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 12:34:39
桂宮は、光格天皇皇子、盛仁(たけひと)親王、仁孝天皇皇子、節仁(みさひと)親王、と天皇の皇子が継いでいるが、どっちも幼児期に死亡。
どちらかが長生きして子孫が残っていれば、今みたいな事も起きなかっただろう。
ちなみに、節仁親王は、征夷大将軍・源家茂の夫人になった親子内親王の同母兄。

666 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 16:35:14
後鳥羽も後醍醐も、お公家さんたちから評判悪かった。
武家に従うことこそ、朝廷の新たな伝統。

667 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 16:41:14
666
オーメン

古いか・・・

668 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 19:58:28
>>666
冗談じゃ無く実際そうだよ。
軍事や政治から離れてこそ、また本来のシャーマンなんだけどね。

669 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 20:19:22
>>666
後鳥羽院と後醍醐帝は野心燃え滾る勇敢な戦士。
正親町以降のヘタレどもとは次元が違います。

正親町帝も室町将軍家と協力して織田討伐を敢行すべきだった。
京の町に火を掛け、自らに退位を迫るどこの馬の骨とも分からぬ
無礼者ごときにヘコヘコして悔しくなかったのか。
尊成や尊治の後に続いて織田追討の綸旨を全国に発せばよかったのだ。

670 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 22:42:18
天皇が直接統治してたらとっくに民衆の反対で滅びてたんじゃないの?
武家が統治してたからワンクッションあって滅びずに生き延びてこられたのでは。

671 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 02:04:54
>>659
民衆レベルでは常の世や根の国へ行く
などの信仰はかなりの数、確認されてるからそれは違うな。


672 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 03:01:05
>>670
前半は日本は革命は難しかったと思うけれど実権を持つものに滅ぼされていたかもしれない。
後半はその通りだろう。
天皇は海外の王の様に子や兄弟など近い人間じゃ無くて、何代も遡った他人のように遠い一族でも
正統な天皇として迎えられやすかったので、政争があっても廃止しなくても乗っ取れるし
続けやすい制度ではあったと思う。

673 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 23:48:37
>>665
節仁は、統仁の同母弟。
親子の兄は、胤宮。

674 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 12:05:43
>>669
後鳥羽と後醍醐は、状況分析ができなかったアホ。
すんでのところで天皇制を滅ぼすところだった。

>>672
>天皇は海外の王の様に子や兄弟など近い人間じゃ無くて、何代も遡った他人のように遠い一族でも
>正統な天皇として迎えられやすかったので、政争があっても廃止しなくても乗っ取れるし
>続けやすい制度ではあったと思う。
同意見。傀儡を作りやすい。
かつ、前天皇にライバル意識を持ってたりするので、よけい使いやすい。
喜んで、向こうから擦り寄ってくる。

675 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 16:09:04
>>674
滅ぼすところだったという点では、昭和帝もそうでは?

676 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 16:23:37
光格天皇は、朝廷の権威を向上させたと言われるが、
尊号一件では、もろ負けた。
やはり、孝明天皇の時期までは、幕府の権威が圧倒的だったのではないだろうか。

677 :日本@名無史さん:2006/09/12(火) 15:11:57
天皇を支える3神

天照大神
藤原氏の氏神
源氏の氏神、八幡神

藤原氏と武家との調和の上に存在する天皇
それは中世からの天皇の求められた資質

678 :日本@名無史さん:2006/09/12(火) 18:12:24
なんといっても江戸時代の天皇は庶民にとっては
門跡など仏教的イメージのが強いんじゃないかな

679 :日本@名無史さん:2006/09/13(水) 15:58:54
>>678
確かにな。
仏教天皇だからな。

680 :日本@名無史さん:2006/09/13(水) 17:50:19
寛永寺の宮様なんかに親しんだ
江戸庶民からしたら、天皇は仏教の元締みたいなものだったんだろう。
名だたる宗派の本山もほとんど上方に集中しているし

681 :日本@名無史さん:2006/09/13(水) 19:56:39
親しんだって・・・お前は幼稚園児か?

682 :日本@名無史さん:2006/09/13(水) 20:29:32
>>677
何言ってんだ、宇佐八幡でぐぐってみろ。
源氏なんて存在する前から、もしかしたら畿内に侵入する前からあるぞ。
下手すら祖神に近い。伊勢神宮なんてだいぶ後だし。

683 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 02:38:29
>>677
おれは神道の信徒ではないが
それは失礼だろう。
神様が天皇を支えるんじゃ無い。

神に対して祈り奉る立場が天皇だ。

684 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 15:25:49
江戸時代に庶民が天皇を尊敬してたなら、
神田明神のお祭りなんかなかっただろう。

幕府は将門が好きだったようだけどな。

685 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 15:38:22
すごい決めつけだな。
西郷や東武皇帝のような反逆者でも東京じゃ銅像になってるだろ。
その他、失政者や敵対した被征服者でも死後は鎮め奉り神とするのが
日本の伝統の一つだろ?


686 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 19:03:02
>>685
前者は皇室基準じゃ無く、日本の成り立ちの中での尽力が評価されて。
後者は基本的に神道は荒ぶる御霊を鎮める宗教なので、恨みを買った相手が祟るのを恐れ
その魂を鎮めて祟られないようにご機嫌をとって持ち上げるために奉るんだよ。
信奉する意味と、呪術のように神域に奉り上げ封じ込めるような感覚とあるんだ。
神道は恐れと汚れを祓う宗教だから。
その祟る方向の気を、同じく対決するものに対してお守りのように使う事がある。
幕府にとって平将門は反朝廷の神で、つまり幕府にとっては守護神にできるからだよ。

687 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 19:24:53
平将門〜朝廷〜幕府の関係
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80

武士の起こりのようなところがあるんだね。
まあ武士が長く政権を持つのって、結局武力や権勢で朝廷の支配から離れ
征夷大将軍の名目上の全権委任で事実上の国の頂点をもぎとるようなものだからな。
将軍の統治を揺るがす流れになりそうな事は推奨はしなかったろう。





688 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 20:00:17
いや、それはわかっているよ。
>>684はそれらの日本文化を解さず
江戸庶民が将門を奉る(祭る・祀る)のは
鎮魂や信仰ではなく反皇室的行動だといっているから反論したまで。
(将門を奉るという反皇室行動をしてい
る江戸庶民が皇室を信仰しているわけがないというのが
>>684の論旨)

689 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 20:04:13
どうなんだろうな〜、平将門が何をしたかは江戸庶民的に有名だったんじゃないかな。
ソースは無し。だってお江戸における平将門だよ?

690 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 20:12:00
一口に江戸時代と言っても、将軍のお膝元と京都ではまた温度差があったろうね。
でも基本的に幕府の全国に及ぶ制圧下で400年だからね。
そのまえの戦国時代も諸国に大名に対して皇室が具体的に権力を振るえる環境にないのを庶民は経験してるし。
あんまり神仏の境目も無くなってる時代だしね。神様でも現世で利益のある神様が人気だった時代だし。
子宝だの商売繁盛だの。

691 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 20:17:22
>>688
>>684は理解してるから言ってると思う。
自分には奉る感覚を背景にして>>684違和感無い
反皇室では無くて皇室が視野に無いって意味だと受け取った。

692 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:01:00
昔の人って天皇のこと知ってたんですか
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1146418159/l50

693 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:10:31
>>684の問題はそこなんだよ。
皇室を視野をいれた行事なら可否を論じれる。

視野に入れていない行事だと684がわかっていながら、
江戸庶民が天皇を信仰していない根拠にあげた理由が
わからないんだよ。

694 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:38:02
それぞれ論は違うんでいいとおもうけど
自分は京都辺りはかなり親しみを持っていたと思うがそれでも治世は将軍の認識だったし
江戸城下となると一般の民衆は将軍のお膝元である事に圧倒的な誇りを持っていたろうから
日常天皇をそんなに意識はしていないと思うね。
正直こういうものは明治でさえ熱心な教育で啓蒙しているから。
神社があっても神社それぞれへの祭神への信仰が中心だし、御利益が無いと思えば
別のに帰依しようぐらいな世相だから
地方にしても将軍の治世だし、生活上は村の神仏があれば足りる。
その程度が数百年は続いているかと。

695 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:40:59
>>693
視野に無いと言いながらどうして信奉にまで話を強引に持っていけるのかw

696 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 22:00:39
強引ではないよ。
ただ>>684は将門を奉るから天皇を尊敬しない
と「尊敬」について話してるので
、私も信仰と変えないで「尊敬」の語句をそのまま引用し続けた方が
適切だったと思う。
ただ、論旨は変わらないし、そこではない。
何で「尊敬」にしろ信仰にしろ関係ないものを使って江戸庶民の「尊敬」の有無を 684が説いたのか?
しかも、それがわかった上でならなおさら。

697 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 22:04:52
>>693
そもそも江戸時代に当時の今上天皇を「信仰」の対象としていた香具師は
庶民の中には上方も含めて(上方ならば何より)ほとんどいなかっただろう。
一部の原理主義的国学者や水戸学者などは別だが。
今上天皇への「信仰」と天照大神への「信仰」は別物だよ。
そして、今上天皇への「信仰」と、今上天皇への「畏敬」ともまた別物。
徳川将軍の始祖が「東照大権現」として神になっていても、
同時代の将軍自体が信仰の対象ではなかったのと同じ。
しかし、世俗権威の源泉としての京の今上天皇への畏敬は存在しただろう。
やはり征夷大将軍を宣下(任命)するのは京の天皇なのだから。

歴史上の人物が朝敵なのか勤皇なのかという厳しい二分法は、
多分に特定アジアの朱子学的なもので、日本の庶民の信仰には関係が無かった。
「長い物に巻かれる」あるいは逆に「判官贔屓」という
具体的権力に対する様々な態度はあっただろうけどね。
江戸における将門人気は敗者に対する判官贔屓の一種だろうよ。

698 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 22:10:41
>>697続き
江戸における将門人気というものが、儒教的正統性の問題ではなく
権力闘争の歴史上の結果に対する判官贔屓であったことの何よりの証拠は、
江戸庶民にとって平将門のカウンターとされたのが
京都の朝廷ではなく実際に追討した藤原秀郷だったことで良く分かる。
今でも、東京神田の神田明神氏子の一部は
藤原秀郷ゆかりの成田山へ決して参詣しない。

699 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 22:15:19
>>696
眼中に無いものを尊敬とはあまり考えないわな
見下してもいないだろうけれど。
眼中に無いんだもの。

700 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 22:54:15
684はがバカだというのがわかった。

701 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 23:05:46
アンカーの付け方を知らないよりはマシかもな

702 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 23:17:23
>>684支持 ふつうじゃん
>>685のほうが日本語あやしいし解釈が変だよな

703 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 23:22:41
単に連想だけど
江戸時代人気を集めた七福神がほとんどヒンズー教とかの神で
たった1人の日本古来の神が、よりによって「夷」なのが結構象徴的。

704 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 12:27:57
>>677


天照大神
春日大明神
八幡大明神


705 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 16:19:37
>>704
天皇守護の3神
後醍醐帝の掛け軸?にも書いてある。
皇家と藤原家と源氏の統合なのか?

706 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 17:18:46
春日大明神は大日如来の化身とされる。
八幡は伊勢神宮より古い天皇家の祖神とされる。

707 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 17:28:45
八幡は武の神
伊勢は平和の神

「平和の神の伊勢に依願したからなのか・・・」
敗戦時の昭和天皇の言葉という

708 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 17:31:45
宇佐八幡は渡来神らしいが?

709 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 17:41:14
>>708
天皇家もどうしてもやっぱ渡来だからな。

後醍醐帝の頃の世界観は今のように平和と武という対比では無かったと思うから
皇室にとっての象徴的で重要な3神だったのだろうと思われる。
背景の3神は当時の思想で仏教と神道がごちゃ混ぜで
釈迦三尊像のようなイメージのセットだったのではないか。
春日大明神は掛け軸などに多く描かれ、信仰の対象になっていた。

710 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 17:46:16
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E
宇佐八幡は祖神にして阿弥陀如来の化身らしいよ。
まあ仏としての位置付けは神道の重要度に合わせてその時代に後付けしたんだろうけど。

711 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 17:55:58
八幡、宇佐とか比売大神となると卑弥呼とも相まって
大和朝廷発祥の匂いがちょとある

712 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 00:46:38
宇佐八幡が渡来神というのは一仮説。
別の説では・・・
時代背景からすると、朝鮮半島南部に拠点を持っていたものが、
白村江の敗戦で拠点を失い、前線基地として重要だった沖ノ島から
宗像族が引き揚げてきた。この時の阿曇族とのトラブルは「イナバのシロウサギ」
の伝承でも有名。
宇佐の神は、もともと宗像一族の神にして、外来神ではない。

713 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 04:49:23
その辺は各論あるけど詳細に話すなら宇佐スレで。
天皇家や邪馬台国の発祥とつながり論争にまで絶対なるものw
歴史上決め手が無くて、どの論も推論で、日本史上の最大のミステリー。
ネタがでかすぎて江戸時代の天皇から離れすぎてしまう。

八幡、天照、春日は神仏集合思想時の天皇の主な守護神ではあるわな。
春日神宮はとくに仏と縁が深い。八幡と大和朝廷は切っても切れない関係。

714 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 05:37:55
平将門が天皇皇統だとは祭りの時にも。祝詞でも伝承、や劇でも出て来るからね。


715 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 11:42:24
>>714
で、何が言いたいんだ?
天皇皇統だから、将門を祭るのは天皇崇拝ってか?

716 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 12:19:57
徳川なんて訳の分からん土豪上がりに服従しやがって・・・
持明院統は恥知らずのヘタレと傀儡ばかりだな
後醍醐系大覚寺統(南朝・後南朝)とはこうも違うのか

717 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 12:39:11
マッカーサーに皇位を請願した熊沢天皇

718 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 13:21:38
確かに歴史上そう訪れない一発逆転の機会だったかもな

719 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 13:33:03
平将門がなんかの間違いで天皇を責め滅ぼしたら、確かになりかわってそこから天皇の系譜が続いたろうな。
しかし朝廷的には無本人の逆賊でしか無いよ。
祟りが恐すぎて奉ってはいるものの。
それでもまつりの祝詞でそんな文にするわけにもいかんでしょうが。w

それをあがめるのは朝廷を国体として復活させない呪術のようなものだもん。

720 :日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:08:34
江戸時代の庶民にとって天皇は公方様の上にいる関係のない人。
公儀は普通は幕府をさすが、広くは天皇を頂点にして将軍・大名・家臣団と郷村の自治集落も含めた秩序
重層的な支配と重層的な土地所有が続いていた。
支配階級にとっては自分の身分を承認してくれる権威でしょうが、庶民には関係がない。

幕末に国学(平田学派)の門人地方の豪農層が尊王を叫んだが、幕府の権威に対抗する目的があった。
国学を明治になって薩長の官僚が、明治政府の権威付けに利用した。
平田門人はどちらかと言うと弾圧されたり冷遇されてます。その後、自由民権に流れた者の多い。
国学では上代を天皇が治めた理想的な時代と位置づけていますから、日本の本来あるべき姿としたのでしょう。
先の大戦中に戦争遂行のために天皇制を利用したために、大変イメージが悪くなっていますが、天皇制自体は悪用しなければ、毒にも薬にもならない。
百賞の末の私には、天皇がありがたい存在であると言うことが理解できない。

721 :日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:45:43
天皇陛下の存在が日本の伝統を支えるバックボーンなんだよ。


722 :日本@名無史さん:2006/09/19(火) 02:37:44
>>721
江戸文化も?
まあ仏教を導入し日本中に国分寺を建てて国を治めた事は
その後の日本の文化に決定的な流れを作ったからそういう意味でバックボーンだね。
基本的に次々生まれた日本独特の仏教思想と平安時代以降の和様、その後のサムライの文化が
ほとんど日本の風俗と精神文化の背骨だけどね。
あ、新興宗教は抜きにしてね。

723 :日本@名無史さん:2006/09/19(火) 16:45:30
日本文化のバックボーンは残念ながら、中国に負うところが大きい。
信長でさえ、安土城の襖に中国賢人の絵を描かせている。
そういえば、御所の紫神殿の襖にも中国賢人が描いてあったような?

724 :日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:33:58
中華文化は偉大だ
世界で最もと言っていい

日本はこれを取り入れ模倣し
アレンジして独自の文化を形成した

日本文化は中華文明が下地にあるのは間違いない

725 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 00:15:19
日本人の癖に「中華」なんて言葉使うなよ。
シナで十分。それがイヤならチャンコロだ。

726 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 00:25:55
将門についてはなんの関連性もないことは明らかだろ。
天皇はもちろん、ブッダ(釈迦)がどうの、公方がどうのは当時の江戸庶民は知っていたとしても
神田明神の将門人気で論証できるものじゃないだろ、眼中にないらしいんだから。
(歴史に詳しい人なら昔、朝廷と戦った人であることぐらいは知っていたと思うけど)

727 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 02:57:09
つか単純に”朝廷に刃向かった平将門”が東国、そして徳川幕府の守神としてあがめられたんだろう?
その背景での神田明神で、その背景でなおかつ将軍のお膝元。
一般民衆なんてそりゃ天皇、どこの人?状態だってば。

728 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 09:48:47
秀吉の怨霊を恐れて将門の怨霊パワーで対抗したてっ話しってどうなん?

729 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 16:27:37
秀吉って怨霊になったのか?

730 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 16:29:56
>>725
日本も小中華主義だったけど・・・

731 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:58:51
秀吉と将門じゃVSにならないだろが

732 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 01:13:45
>>730
> 日本も小中華主義だったけど・・・
たしかに日本の儒学者達は、支那なんぞなんの脈絡も無い、
奴らが次々、勝手に王朝作ってるんだから、奴らは中華じゃねぇ!
それに引き替え日本は万世一系で続いてきた。
支那の漢代から絶頂期唐代まで親交してたのだから、教えはちゃんと引き継いでいる。
だから日本こそ中華だ。
けど、それは一部人間ほざいてたに過ぎないし。

733 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 07:51:47
>>732
日本語でおk

734 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 09:49:07
神田明神では普通に講で尊皇唱えていたからな〜
将門だって天皇との逸話では祝詞なんかでは守護に転じてたりするし。


735 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 11:55:58
時代にもよると思うよ。
明治なんかはそんなわけにもいかないし。

736 :日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:27:05
>>732
>>730の“小”何某・・・って云いザマ、
生粋のシナ人か、シナかぶれという証し。
相手ににしなくていいよ。

737 :日本@名無史さん:2006/09/22(金) 00:37:49
和漢の学問から漢学を除くことだろ。本居宣長
小中華にとは違うような


738 :日本@名無史さん:2006/09/22(金) 01:15:35
成田山も江戸時代あたりから人気出たんじゃないのかな
将門とは対立関係にあるとこだけど。

739 :日本@名無史さん:2006/09/22(金) 16:41:34
日本も周囲を夷とか蛮とか言っていたけどな

740 :日本@名無史さん:2006/09/22(金) 21:00:00
成田山に人気が出たのは市川団十郎以降

741 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 06:07:10
シナかぶれもウヨかぶれもどっちもアレだ

742 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 13:05:41
中国に劣等感まるだしのやつがいてそっちのが
恥ずかしいな。

中国には王家も道徳心もない
もっと現実を見ろよ。

743 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 00:36:49
少なくとも江戸時代、一部の学僧や儒者を除いて、
シナを仰ぎ見るような視点はなかったろう。
庶民にとっても「国姓爺合戦」のイメージが強すぎ。



744 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 01:47:40
中国はかつてはやはり強大な権力と文化の栄えたところでは間違い無くあるわけで
だからといって日本が上だとか劣るとかという話でもないから
あまりファビョるのはむしろ劣等感の裏返しのようにも見えるから醜いよ。

徳川幕府は儒教思想で武士社会を統制したから、当時から今に到る道徳の根本には
そういった物があるし、多少の知識は庶民でも学を嗜む層にはあった。
小咄なんかにも唐の〜が〜でなんてあるでしょう?

ただ庶民にとっては天皇ぐらいの遠い遠い存在だった事でしょう。

745 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 02:56:07
>>738
成田山は天皇が孫を開祖に開いた寺だから
持ち出すと反天皇が火病に成るよ


746 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 10:18:35
ガイシュツだって

747 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 17:17:03
>日本も周囲を夷とか蛮とか言っていたけどな
確かにその視点から言えば、
間違いなく中華主義ではある。
中華という名称が妥当かどうかは別問題だが。

748 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 17:26:47
地上30メートルから飛び降りて無傷!
神の着地術!!(゚ロ゚;)
http://gotodmc.ath.cx/uploader/src/fdds.wmv

749 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 19:42:48
明治天皇が率先してちょんまげを
切らなかったら
断髪令は成功しなかったと言われている

750 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 19:47:45
慶応年間に明治天皇の
大阪行幸があって
庶民は熱狂して迎えたて聞いたが
知ってる人いますか?

751 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:20:40
>>750
うちの近くに明治天皇が来た碑が残ってるな


752 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:15:31
慶応2年に孝明天皇が死んでるからな。
その動きの一環じゃ?

753 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:26:09
>749
明治天皇は倒幕派だから切るのは当然だろう
で新政府を目指す側はそれを担いでるわけだから。
で、結果的に倒幕に成功したからその流れなだけだろう。

孝明天皇がまげを切って一般人までがそれに従ったとかなら説得力あるけど。
そうじゃないんだろ。
単に武士社会のアンチの象徴が結果の結果で広まっただけだ。

754 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:34:33
つか、この段階で1200年以上はある日本の髷という美しい伝統文化を
天皇は破壊しているな。漏れは髷は結わないけどw
明治は多くをそうしている。

まあしかし、伝統を壊し海外の文化を導入するのが大好きなのは歴史的に天皇家の常
それがおとなしいのは、江戸時代のように武士に権力で押さえられてる時ぐらい
大切な神道の姿も仏教導入時や明治に変えちゃってるしね。
江戸は良かったのかな。

755 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:48:18
倒幕派とかなんとかいうより、近代国家の体裁を整える中で、
欧米列強に侮られまいと洋風化しただけだろう。
シナ人の弁髪なんて、日本では「おくれた国の象徴」みたくコミカルに風刺されていたもんな。
最近では、共産党の幹部まで人民服から背広姿になった中共がその例。

756 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 01:07:31
>>749
そりゃ江戸時代の話じゃないんじゃない?

明治政府の事だものトップがしなきゃ下も微妙だわ

757 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:09:39
>>754

夕方頃にNHKでも見てみな。
リアルタイムで仕事から日常生活までを丁髷で過ごしている
日本人達(一部外国人)を見れるから。

758 :日本@名無史さん:2006/09/26(火) 17:14:35
天皇が髷をきったのは、岩倉使節団帰国後じゃないかな。

>>750
大阪に遷都しようと大久保は最初考えてた。
熱狂的に迎えられたかは良く知らん。
江戸に来たときは、東海道中からすでに、親孝行や年寄りに褒美金。
江戸でも大番振る舞い。酒を3日間ふるまった。

>>751
うちの近くにもある。東北巡幸の時の。
使ったトイレも残っていたが、最近再開発でなくなった。
うちの近所でも、報奨金は出たから。巡幸の先々で配ってたと思われる。

759 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 03:18:05
その資金ってどこから?

760 :日本@名無史さん:2006/09/27(水) 17:06:49
大阪遷都が失敗したのに、
江戸遷都が成功したとはある意味逆転ホームランだ。
大久保と木戸の連係プレーがその頃はまだできていたらしい
木戸は、東海道で初めて天皇が海を見たのをみて、泣いたそうだ

761 :日本@名無史さん:2006/09/28(木) 02:26:33
海に囲まれた列島なのに、海も見たことがなかった天皇 w

いかに封じ込められ蚊帳の外だった事か、象徴的。

762 :日本@名無史さん:2006/09/28(木) 07:11:15
高倉院と後鳥羽院と後醍醐帝は確実に見たことあるよね
後村上帝も見たことないはずは無い

763 :日本@名無史さん:2006/09/28(木) 07:16:25
江戸時代に限らず(島流し+身投げ以外で)
海を見た天皇ってけっこう珍しいんじゃないか。

764 :日本@名無史さん:2006/09/28(木) 22:13:20
熊野詣が好きな天皇って誰だっけ?
鳥羽院?白河院?
このあたりは行きかえりにみてるんじゃない?

765 :日本@名無史さん:2006/09/28(木) 22:16:49
院政期は熊野詣でが大流行だった。
ただし、天皇は逝っていない。譲位後は逝くけど。

766 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 10:54:04
身投げした天皇いるの?

767 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 11:03:15
安徳帝のことかな

768 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 16:31:36
木戸は明治天皇が初めて海を見たのに感動して泣いたんじゃないの?

769 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 16:48:07
>>768
その話、講談社の「日本の歴史」にのってた話だな

770 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 21:10:14
>>753
その程度の歴史認識で
明治政府を批判する資格はない

771 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 21:14:06
>>758
再開発でなくなった・・

本当に日本がいろんなものを失っているのは
この再開発とやらのせいが気がするが

772 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 21:17:51
明治時代のトイレ・・・

773 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 21:20:13
厠だろう。

774 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 21:24:27
>>750
慶応四年三月二十一日
の大阪行幸ですね

国民の前にその姿をあらわされ
国民は熱狂したと言われています。

775 :日本@名無史さん:2006/09/29(金) 21:30:06
>>753
とにかくおまえは
歴史を学びなおせ。
おまえに歴史を語る資格はない。

776 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 00:33:48
海賊の孫・大室寅之祐が海を見たことなかったと本気で信じてるのか?プ
工作・作り話を真に受けるとはな

777 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 06:24:23
>>770>>775は非常に癪に触ったらしい意見に
具体的論理的な意見をもって反論をして下さい。
それもできないようであるなら、議論に参加する資格はありません。

>>774
大阪=国民の人ですか

大阪って御陵が荒れ放題で放置されてたりするところですよね

>>776
そりゃ行き過ぎだ

778 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 12:17:56
当時御陵が荒れ放題だったのは大阪も奈良も京も同じだよ


779 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 17:09:45
天皇の住む京都を中心にしてもそれか。
ま、幕末は特種事情だよな、幕府事体が飢饉や腐敗で揺らいできて
黒船来航で国の意見が二分されたし、慶応2年じゃ考明天皇死亡(暗殺?)後だ
大政奉還目前だもの。400年中の最後だろ。

780 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:07:01
>>777
悪いが
小学生並の歴史認識のやつに
懇切丁寧に教えてやるほど
親切者ではない。

781 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:14:24
明治八年に明治天皇が
水戸徳川家の江戸屋敷を訪問したこと
知ってるか?

782 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 02:57:31
>>781
え〜っと”大政奉還以前の『江戸時代』の天皇について”のスレなんだが

明治天皇はスレ違い 江戸終ってるし

783 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 01:04:45
最大の伝統の断絶が西洋化と‘復古’の明治維新だったことは明らか。

784 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:39:20
天皇が渡来ものに目が無いのは昔から。

785 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 18:16:14
>>782
知らないなら知らないて
素直に言えよ。
ケツの穴の小せえ野郎だ。

786 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 18:19:23
>>783
それは大はずれだ。戦前まで
いや戦後しばらく日本人は普通に着物着ていたし
和風住宅で暮らしていた。

787 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 18:31:26
伏見宮家って初代以来ずっと実系相続だからすごいよな
近衛家も文麿まで一回だけしか養子とってないからすごいよな

フシミとかコノエとかこういう三文字でシンプルの名前の方が
男の子に恵まれ家系を維持できるような気がする

788 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:23:03
江戸時代の話にしたく無い人達がいますね(笑

江戸時代についてはどうも分が悪いって思わざるを得ない内容なんでしょうね。

789 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 22:47:19
>>786
>>783はもっと深い意味で言っているように思えるが。
「‘’」付きの復古・・・なんて皮肉の利いた洞察では?

790 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:50:13
江戸時代の朝廷は、幕府側に立つ関白に支配されていたみたい。
関白を恨むような記録がどこかに残っていたけど。

791 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:54:53
歴朝随一の能書家 伏見天皇

792 :コピペ:2006/10/03(火) 19:43:39
上げ底経歴と下駄履き学歴の粉飾経歴を使って優秀な女性として売り込み、
まんまと皇太子妃として皇室に入り込むことに成功した小和田雅子、
その雅子の父方、母方、双方の家系は何処をどう探してもクズ以下の糞家系。
特に父方の小和田に至っては3代前以前の先祖は何処を探しても見当たらないという、糞より酷い家系。
こんな家系でよくもまあ、図々しく皇太子妃にもぐり込んだものだと、感心。

糞以下の小和田一族が日本最高の家系を継ぐ皇太子妃地位にいる違和感、
これはまさに日本史上最大の異常事態としか言いようがない。


793 :コピペ:2006/10/03(火) 19:44:14
小和田雅子
父・小和田恒=越後・村上藩の足軽の子孫
母・江頭優美子=チッソ(水俣病公害当事者)会長令嬢


794 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 20:18:13
テンオタ活動uzeee

795 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:15:27
鬼女板にお帰り下さい

796 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 07:25:09
鬼女かN速だよな

797 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 16:10:01
>>791
http://www.joho-kyoto.or.jp/~tomio/fushimi.html
>「ふしみ」という地名は相当古い時代の文書にも出てきますが、平安時代は「俯見」「臥身」あるいは「節身」という字が当てられており、
>伏見城が造られた中世末期頃から「伏見」という字が使われるようになりました。


↑↑↑
これが本当だとすると伏見天皇の表記は
俯見が正しいんじゃないの

798 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 18:57:29
江戸時代から当時の学者たちは
本当の主権者は天皇であることを
はっきりと自覚していたのは事実のようです。

799 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:07:38
主権者天皇が「何が何でもこうしたい!」
といくら叫んでも天皇の意思なんて無視…

それを主権者というなんて賢いね

800 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:09:53
>>781
ええ!それは時代が少しずれるが
大変意義深いできごとですよね。

このことは「明治」という時代が
決して江戸時代を全否定してできたものでは
ないことを物語ってますよね。

801 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:11:07
>>788>>789
レベル低!

802 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:14:55
>>799
ふー、おこちゃま的見解だな、

803 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:18:26
日本最強のマスオさん、小和田ナルくん

日本最凶の鬼女、小和田マサコ

804 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 19:26:12
今の日本では天皇に「タイへ行け」「震災の慰問に行け」と命令する国民が主権者
天皇が命令しても国民は従うわけがない
攘夷を心底願っていても竜馬はグラバーの手先になり薩摩はイギリスと手をつなぐ
天皇の意向は利用されるものでしかなく天皇の意思で国は動かない
蘇我時代後〜摂関政治までしか天皇の意思は国の意思にはならなかった

805 :日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:22:45
なんでネトウヨはスレタイを無視したいのか
なんでネトウヨはどこでもファビョっているのか

806 :「後」の付く天皇:2006/10/06(金) 09:19:23
「後」の付く天皇は、うしろに続く天皇名にあやかるようにと付けられ
た名である。たとえば、後白河天皇は、白河天皇のように、立派な生き
方をした天皇という意味になる。

 ところが、「後」の付く天皇には、共通点がある。
それは、武家政権と戦った天皇という共通性である。
下の表で、左側が、「後」の付く天皇、右側がこの天皇と戦った人である。

後白河天皇―――平清盛、源頼朝
後鳥羽上皇―――北条義時、北条政子
後醍醐天皇―――北条高時、足利尊氏
後小松天皇―――足利義満
後水尾天皇―――徳川秀忠



807 :日本@名無史さん:2006/10/06(金) 16:07:33
後小松や後水尾が武家と戦ったかどうかは疑問
いいようにあしらわれていたとしか見えんが?

808 :日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:12:54
>>804
ダセ。その具体的に国民て誰だよ?
阿部か?阿部が主権者か?
少なくともおまえじゃないわなW

809 :日本@名無史さん:2006/10/06(金) 18:16:15
まあどっかの馬鹿が
絶対専制君主こそが主権者と
どうしても決めつけたいらしいので
それならば天皇は違うわなW。

まあ、つまらない話はおいておいて
江戸時代の学者たちは天皇こそが
本当の国主であることをはっきりとわかっていたようです。

810 :「後」の付く天皇:2006/10/06(金) 18:29:51
天皇に”後”のつく御方は(後鳥羽、後醍醐など)前後二十二人おられる。
このように”後”のつく帝は、崩御後のおくり名であるだけに、非常に意味
深長である。

日本史の秘密を解く鍵は、前帝の生涯と対比してゆけば謎解きも出来るし
「日本の天皇は常に体制側に在り、民の上に君臨していた」とあながちい
えないものがある。今日の歴史屋が説くように「適当な贈り名が見つから
ぬ場合にやむなくつけた」といった、命名の仕方ではなかったようである。
後、を付けておけば、何時かは、誰かが対比するだろうと先人は思ったの
かも知れない。

811 :日本@名無史さん:2006/10/06(金) 19:56:51
>>806
例外のほうがおおくね?

812 :日本@名無史さん:2006/10/06(金) 19:59:12
>>810
後醍醐院は生前の自選だったのでは。

813 :日本@名無史さん:2006/10/07(土) 10:54:57
>>809
学者の名前をあげよ。江戸後期の国学者だろ。ウヨじゃん。

814 :日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:20:49
>>813
やはり馬脚を表したな、藁。
その程度の國史の知識がないやつが皇室批判する資格はねえよ。

一人は新井白石だ。
まだいるぞ。てめーで探してみろ。

815 :日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:33:46
>>814
やはりアンチ皇室は中国人でしょうな。

では私も一人。
水戸のご老公
はどうでしょう


816 :日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:38:00
たまにアンチ皇室の佐幕ヲタがいるが
あれはイカサマ野郎だな。
本当に佐幕なら、天皇がいなくなったら
将軍も幕府も復活できない。

817 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:45:44
カリフだな

818 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:16:42
最近、低脳な議論、大杉

819 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 12:13:26
平将門は江戸時代
霊元天皇から勅免されているんだね。
官幣と勅額が贈られてます。

820 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 12:22:10
よく江戸時代の神社は
朝廷や天皇と無縁であったという
勉強不足な適当な説を堂々と流す馬鹿がいるが
吉田家の神道裁許状などと
天皇の口宣案が各地の神社に残されている事実は
実際には江戸時代においても
天皇、朝廷と各地の神社の結び付きは
案外深かったのだろうと推察できる

821 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:14:29
官軍と戦った会津、桑名の松平兄弟が
日光東照宮宮司になったのは
明治天皇が父孝明天皇に松平兄弟が尽くした
忠誠を嘉せられ、閉居を解かれ
宮司に任命されたのであるから
その皇恩を忘れてはならない

822 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:52:16
しかし、明治政府は
旧公家、旧武士ともに華族として
国から爵位を与えて、議員職も与えたのだから
まさに公武合体が実現したといえましょう

823 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:56:00
最高位の公爵は摂家と徳川宗家のみ
明治政府は敵であったはずの徳川家にも配慮している。
(もっとも将軍は天皇に対して終始恭順の意をしめしていたのだが)

824 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 14:59:03
天皇イラネ

825 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:19:51
皇国史観の馬鹿話
事実じゃないし主流じゃない
学界でも無視され2チャンで低偏差値を証明する

826 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:15:42
代表例として挙げた名が・・・新井白石?
嗤っちゃう。
教科書的な知識で、白石を語るなよ。
あとは探せ・・・だって。
逃げの一手か。
多くを語れないワンフレーズ・馬鹿さん。

827 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:24:33
水戸家も公爵だが?

828 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 23:21:12
>>826
一番明快なのは山鹿素行かなぁ。
天皇と将軍はあくまで君臣関係であり、
将軍は天皇から政治を委任されているというのが彼の主張。

儒学者たちは大義名分論の関係から、
何らかの位置づけを天皇に与える必要があったからね。
中には「君主」的な位置づけを
与えようとするものがいたとしても不思議じゃないさ。
それが一般的であったかどうかなんて別問題。
>>809>>813も極端すぎて話にならない。

829 :日本@名無史さん:2006/10/09(月) 00:59:23
山鹿素行は「変節」とまでは言わないが、
赤穂に配流されるまでとと、許されて江戸に戻ってからとは、思想に変化が見られる。
当たり前といえばそれまでだが、彼は明確に王政復古を否定していたし。



830 :日本@名無史さん:2006/10/09(月) 01:17:31
>>821
何が「皇恩」だッ!
斗南で苦しみ抜いた藩士の受難、知らないのか?


831 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:25:34
>>827


>>830
それが?

832 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:29:42
明治政府の中枢は公家と武家。
徳川家などの上級武家と下級武士
これら相反する階層を統合できたのは
やはり天皇の力のおかげという他ない。

833 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:35:41
>>832
皇国史観は日本史板ではありません


834 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:39:48
>>833
なにをもって皇国史観?

いかなる事実でも天皇が活躍すれば
皇国史観のレッテル貼りですか

じつに偏狭な心しかもっていないんだなあ
と感じました

835 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:57:24
>>834
好きに理解してかまわないからさ日本史板の邪魔はやめようね

836 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:01:14
>>835
いや日本史なら天皇の話しは避けては
通れないことですから
むしろ天皇に関していい話しが出るたびに
レッテル貼りをされるほうが邪魔をしているといえるでしょう。

837 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:02:28
レッテル貼りをするほうが

838 :日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:54:57
つまり>>632は普通に事実

839 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 01:14:30
徳川が天下を統一できたのはもちろん実力です。
朝廷は徳川政権の一要素に過ぎない。

840 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 07:41:27
朝廷が無くても徳川政権は成立した。
徳川政権に媚びなければ朝廷は存続できなかった。
これは動かし要がない真実

841 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 09:46:37
途中から糞スレ化してるところがあるけど
最初から読んでみたら割と良スレ。

もれみたいなドキュンには勉強になるよ。


842 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 16:37:17
>>840
そゆこと。

843 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 16:40:09
132 名前:水戸光圀 メール: 投稿日:2006/07/01(土) 17:45:02
俺の意見では、水戸光圀、こいつの罪は相当重いんでないか?
御三家の一つでありながら、後に幕藩体制のシソー的基盤を
揺らがせる安っぽい宋学経由の名分論にかぶれ、天皇中心の
歴史書を書き、多くの幕臣を混乱させた。しかし、言い換えれば、
テンノー制イデオロギーの成立には外来儒教思想の宋学が入って
いるわけで、情けねぇよなぁ。

あと、平田篤胤。こいつは国家神道の源流の一つだが、こいつの著作の
種本はイエズス会士のマテオリッチの宗教書(既にバレバレ)。
この本からキリスト教の絶対神の記述をそっくりそのまま剽窃して、
天皇に当てはめた。って、どこが日本古来の思想だっつーの?

てことで、近世に形作られた天皇制思想は、虚言と妄想で固められた
人工的産物。こんなん馬鹿正直に有難がってる関西人は哀れだが、
まぁ勝手にやっとくれ、俺は知らん。

844 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 19:50:56
ふー、やれやれ。

中心こそが両極にある
ものを統べることができるのです。

近代化への功績は素直に認めろよ。

845 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 19:52:48
>>840
誰も否定してないことを
なにを一人で力説してるのやら、苦笑

846 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 19:57:02
徳川家は維新後ちゃんと明治政府に参加していますよ。

摂家、徳川家、公家、大名、武士、町人、百姓

まさに国をあげての政権ですね

847 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:15:30
徳川家も慶喜も明治天皇に許されていますからね。
天皇は殺生はお嫌いですから。

豊臣家が絶滅させられたのとは
やはり対照的

848 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:35:21
豊臣家ゆかりの大名も絶滅させられてるしね

明治天皇は父孝明天皇に仕えた
会津公には義を感じて東照宮宮司に任命してるしね!

849 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:42:09
普通だったら徳川家は断絶。
慶喜公は打ち首獄門。

爵位やら貴族院議員なんて夢のまた夢。

東照宮だって普通は破壊されてるよ。

850 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:01:01
東照宮といえば
江戸時代通じて毎年のように朝廷から
勅使いが行ってるが
街道沿いの庶民はそれをなんと思っていたのだろうか?

851 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:10:18
>>849
由緒ある寺院は破壊しただろ

大恩ある島津公や毛利公には糞見たな肩書き押しつけるだけで恩仇で返してけどなw

852 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:20:22
>>851
君はどうして悪意ある視点からしか見れないのかね?
ちなみに後学のためその由緒ある寺院というのを
3〜4つ教えてくだされ

853 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:24:46
>>851
近代化への大改革は否定ですか?
ネット通信を切って、毛筆で投書してください。藁

854 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:25:35
>>850
http://www.geocities.jp/gkhyagi/5kaido/go-28reiheisi.htm
>日光例幣使異聞

>ところがこの例幣使の貫例は徳川幕府の威光をしめすものにほかならず、朝廷にとってははなはだ屈辱にみちていました。
>例幣使の一行は横暴の限りを尽くし、とりわけ中山道から離れ日光例幣使道に入るとその増長振りは目を覆うほどと謂われています。
>乗っている駕籠をわざと揺すり金品を要求する行為は「強請(ゆすり)」の語源になるくらいです、怖い街道ですね。
>宿場や沿道の民家は雨戸を閉め、節穴は紙で目張りをすることが命じられ、宿場は「昵懇金(じっこんきん)」を用意してユスリに対処しました。
>一行は江戸に出ると、日光より持ち帰った前年の金幣を細かく刻み江戸表の大名屋敷に送りつけ金品を要求する始末でした。

855 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:27:23
>>851はいわゆる負け犬の遠吠え
じつにみっともない

856 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 23:29:07
なぜ秀吉や家康が朝廷から委任を受ける形で実質上の「国王」になったのに
明治維新では天皇が表に出たんだ?まるで審判が選手になるようなものだ。
明治天皇以外の「国王」候補はいなかったのか?

857 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 23:32:36
講談調の解説はやめような。
慶喜が助命されたのも、東照宮が破却されなかったのも、
天皇の寛恕によるものなんかじゃない。
新政府が寄り合い所帯であった背景から、さまざまな勢力の
政治的な駆け引きや思惑が交錯する中で決まったこと。
小御所会議での議論や勝・西郷の会談の内容みてみろや。
英仏の介入を防ぐため、内戦の収束が急務だったことなどもある。
豊臣VS徳川と同列に論じるな。

858 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 23:49:32
>>852
興福寺、平泉寺、法隆寺、寛永寺

純真無垢な尊皇攘夷の志士はゴミ箱に廃棄され、金と権力の亡者だけが生き残った。

859 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 23:55:42
>>856
そういう形態を改め神武の創業に戻すというが明治維新だろうが。

860 :日本@名無史さん:2006/10/11(水) 23:56:47
慶喜公は駿府に押し込められ、ヨボヨボになってからゴミクズみたいな名前を恩着せがましく押しつけられた。
会津公は日光の山奥に押し込められ、下界の降りられないように閉じこめられた。
徳川家には傍流の家達とか言う馬の骨を本宗として押しつけて弱体化を図った。
自分はまともな餓鬼を一人も産めない君主欠格者は先祖の偉業を全否定

861 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:00:31
家達は吉宗直系だろうが。傍系の慶喜に移ったのを戻しただけだ。

862 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:08:28
>>854
だから
>www.geocities.jp
この捏造やマイ説ばかりのをソースにするなと何度言ったら分かるんだよ
最低でも「.co.jp」クラスじゃないと。
もちろん.co.jpや.ne.jpや.comクラスにも間違いは有るが
www.geocities.みたいな歪曲サイトばかりのよりかはマシ。

863 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:24:01
>>843
どこの板のどのスレッドだ?
まあ最終段落以外には凡そ同意できるよ。水戸学は国粋主義のようにみえて
実は特ア的な朱子学儒教そのもの。日本の伝統でも何でもない。
幕末以来、水戸学が捻じり込んだ朱子学は近代日本において
深刻な害悪を垂れ流し続けているからね。
平田はあのように見えて一種の思想的開化主義者なので、
結局文明開化本流の思想に淘汰されてしまうから大した問題は無い。


だが、最後の段落だけは完全な間違いだ。
水戸学的な朱子学思想に最も強烈に熱中したのは、関西人ではなく
日本の地方文化の中で畿内文化から最も縁遠い水戸と熊本の連中だ。
一番畿内王権の文化から縁遠い連中が、一番熱心に専制的天皇像を崇拝する。
しかも異国の特定アジア思想そのままに。これはもはやギャグだよw

864 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:27:52
同じく>>854
幕府のお茶壺道中よりはマシだろう。


865 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:31:18
ここは便所だな。きったねぇ!!!!
書き込んでる奴馬鹿ばっかり。

866 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:57:30
>>859
それはただの方便だろうが。島津が将軍で毛利が関白の二頭体制とか
だったらだめなのか?

867 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:42:06
だめだろ。まあ実際はそれに近い薩長政権をしばらく続けたわけだが。
島津将軍じゃ徳川も降伏しないだろ。

868 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 03:03:06
>>867
まあそういうことだろうね。慶応末年当時の島津侯や毛利侯では
新しい覇者としてのカリスマが足りない。徳川に勝てないんだよ。
(そうせい侯あたりは密かに狙っていたとも言うが)
だから早急に徳川政権を打倒するには天皇親政を建前として持ちだすしか無い。
豊臣は別格にしても、織田や徳川のような
なり上がり者が政権を握れたのは、その前段階で戦国の動乱があって
1世紀以上の長い時間をかけて足利氏の権威が完全に失墜していたから。
最低でも南北朝くらいの動乱期が無いと、全く別の武家が幕府を開くのは難しい。
まあ、桜田門外の変以降50年くらい内乱状態が続いたら、
島津幕府か毛利幕府が開けたかもしれないけどね。
まあその前に日本がどこかの植民地になっていることは確実だろうね。

869 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 06:57:24
なんだかどっかできいたような俗説ばっかりだなw

870 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 07:21:53
「尊皇攘夷」を唱えながらできた政権は「侮皇媚夷」

871 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:38:40
今、フジテレビで前世地方の村の農民の娘が
前世の記憶で話していたが
元号をかなり知っているぞ。

解説の学者によれば
基本的に江戸時代の農民は
寺子屋や僧侶、学者などの知識人に教えて
もらって元号をみんな知っていたんだと

872 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:44:53
>>858
>>849は宗教的感情の入った
廃仏棄釈のことを言っているのではないぞ。
文脈を読みとる能力はないんかい。
レベル低いなあ

873 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:52:14
>>857
ふーん、じゃあ東照宮が破壊されなかった経緯と
慶喜公が助命された経緯と
徳川家が存続された経緯と
それから最高位の爵位を与えられた経緯と
それから貴族院議長に選出された経緯を
だれのどんな思惑でそうなったか
詳しく語ってください。

ついでに豊臣が断絶された経緯と豊臣家ゆかりの大名が
滅亡させられた経緯と豊国神社が
破壊された経緯もな、W

874 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:56:58
>>868
おまえの話しはヒジョーにつまらん。

というよりそれじゃあ明治維新
のいろいろな偉業は理解できないだろうな。

875 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:01:14
>>863
おまえはいつも浅い自分勝手な解釈ばかりだな。

876 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:09:44
>>871
島崎藤村「夜明け前」の終わりのほうで主人公が孫に過去の元号を暗誦させている場面があった。

877 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:26:36
>>876
貴重な情報サンクス。
夜明け前は当時の状況を克明に
描いている歴史資料でも
あると言われていますからね

878 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:29:21
アンチのデーブはまた
夜中にこっそり荒らしまがいのカキコミを
繰り返すんだろうな。

卑劣かつ姑息で劣等感の固まりのようなあの精神は
なぜ生まれたんだろう?

879 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:32:01
>>841
過去ろぐ倉庫の中に
このスレッドの前スレがあると思いますよ!

880 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:33:03
先日諏訪大社に行ってきたんだが、その宝物殿に安永9年(1780)の棟札が展示されてた。
そこには、将軍や城主の武運祈願に先立って、今上皇帝の聖寿長久の願文が書かれていた。
この年、光格天皇数え年10歳。

881 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:49:51
>>880
素晴らしい!この板に欠けているのは
このようなフィールドワークに基づく調査と証言だ。
誰かが書いた文章を丸呑みコピペして
天皇批判なんて誰でもできる。

882 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:50:39
>>871
やらせ蛆テレビのオカルト番組がソースとはw

883 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:38:04
信仰を語るんじゃなくて歴史を語るのが歴史板
教祖の嘘を「疑いません」と自分に言い聞かせるのはオカルト板でやれ

884 :日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:08:51
>>881
誰かが書いた文章を丸呑みコピペして
天皇礼賛なんて誰でもできる。


885 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:04:00
天皇が珍しく表に出てきたのは欧米列強がいて植民地化される恐れが
あったため、早急に戦争を終わらせる必要があったから、ということですか。
しかし、島津が頼朝の子孫といったのは徳川に代わる意図があったからなんですかねえ?
まあ、島津幕府は成立しなかったけど、したらどこが首都になったんだろう?
まさか、鹿児島が・・・

886 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:35:41
新しい幕府が見たかった・・・・
日本が中国並みの歴史を持ってたらいろんな幕府を見れたのに・・

887 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 01:00:19
>まさか、鹿児島が・・・
なるわけない。足利や岡崎に幕府は開かれてない。
大久保が進言してた大阪になってた可能性は高いと思う。

888 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 17:37:38
亀レス

確かに天皇がいなくても、
徳川幕府は成立したなぁ

889 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 18:14:45
それは東軍を中心とする軍事連合体制がだろ。
その連合軍が日本国の統治機構として 新王朝を樹立したならいざ知らず
朝廷の一機構・一官位を拝命した形で
政権が発足しているのに
関係がないもあったもんじゃないだろ。

890 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 21:54:44
天皇は統一に役に立ったのは確かだが・・・
すぐにまた京都に帰って暮らすのが誰にとっても良かったんじゃないか?

891 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:19:05
>>889
もう一度勉強し直せ

892 :イランジン:2006/10/13(金) 22:24:37
        __    ,、-‐ '´:::......`!‐''"~`ヽ、
       /;;;;〃;;>'´,、::.、:::::::;、'' ‐-:、._ :::::::::::\、‐:.ii''''';;,
       |;;〃//::::_::::`''゛      ヽ :::::::::ヽ;;;;ヾ;;;;l
   ‐ '''>-:'-/ ,/ ''"´..,ゝ ゛`ヽ      ヽ:;:::::::\;;|!;|_,.、-こんばんわ。アスカです。
  /゛/::::;. '゛,:  ./  /::ヾ       ,ヽ `ヽ;!::/"'‐-..、
  '゛ /::;'/::;;/...:   .:  ,  ヽ  ',....  :.. ':,:\:::....ヽヽ \ヽ.  在日朝鮮人と天皇陛下とニーートの
   i :/i ,;:''::i..:::::  .:::; ,'  :  ::..!;::::::....:::. ',:...`,‐::、ヽ ':,:::', ヽ
   !/ |'゛l::::l::::/  .:::/::/'i:... i ::.  ::::lヽ:ヾ:::::::. ':,::::',:ノ`ヽ  ',::i   見分けができません。
     l::::| ::i ::i ..:::/l:/__ ';::::l ::::. i :::|__ヽ!\::: ト;:::l_; l:.  ',:|
     ヽ:| ∨| :/'"|,、;ッ、ヽ:ト、:: i,゛|,、-,、"'ヽ. fヽ!} l::  `l    どれも他人のお金でメシ食ってるわ。
      `! i :ヽ/ヽヾ ゞ:ソ  ヽ |!/ !'::ソ`>'ハ :|,.イ',  l::   ',
      l i ::::::l::|:',  ´    ヽ!  `゛  /``!::::l:. ', l::::.  ',   まあ、ニートは親だけど。
        l i ::::::l:::|::ヽ     :!      ,:':i:::::::i::::';::. ', l:::::.  ',
       ',! ::::::l::|::  l`:..、 `'''"  /!:::l::::::::i:::::',::. ',l::::::.  ',    人のカネでいい思いしてるのは
       ,' .:::i i::l::  l :: ` ;、 ,,.. '´  i:';::l::i::::::i::::.':;: l:::::::.  ::',
       ,' ::::::i ::i::  ノ /;``!    _,、ゝ=ヽi::::::i::::. ';: 'l::::::::  :::',   明確な共通項ですよね!
      ,' .::::::| ::i:::,、:'゛/- '1 _,.、‐ '゛    ヽ::::i::::. ', ';:::::::  ::::',
      ,' i::::::::l::/  | 、. ,、:'´         \l::::.  ',:::::::  ::::',

893 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 20:57:47
>>890
幕末から明治にかけてのことか?。
あの時代のことをまじめに勉強すれば
統一だけでなく近代化のためにどれだけ
天皇が貢献したかわかるはず。
少なくとも現代に生きる我々はこの時代の恩恵を受けていると思うぞ。

894 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:03:07
>>883
自分に都合の悪い、または気にくわない歴史事実を
全てオカルト扱いしている
あなたのが完全にカルトです。
反天皇という信仰にとりつかれて
いるのはあなたですよ。

天皇の歴史には悪い面もあったかもしれないが
いい面もあった。それを認められないあなたはカルトだ。

895 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:13:38
将軍と部落民、公家と武家、大名と下級武士、

これらを等しく統合しえたのは
天皇しかいなかった

896 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:15:07
>>886
中国並の大量虐殺の歴史をおのぞみとは・・絶句

897 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:18:06
>>885>>886
やれやれ、幕府ヲタかよ。
当時の世界情勢からすれば
呑気に新しい幕府などとは言えないだろうに。
歴史を学べよ。

898 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 14:04:03
幕府というのは見方を変えれば立憲君主制なんだよ

899 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 14:06:59
天皇か幕府かって対立関係でしか
とらえられないアホがいるな

900 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:50:06
>>899に禿同
>>873に至っては口あんぐり・・・無知さらけ出し。
おまえなあ、慶喜が助かったのは、ヤツ自身が幕府の将兵を置き去りにして、
江戸へ逃げ帰った慶応4年の1月から3月20日に西郷が慶喜助命の勅裁を得るまでの間、
なりふり構わず、哀れなまでの必死さで自分の命乞いに奔走したから。
輪王寺宮、静寛院宮、天璋院、徳川慶勝、水戸昭武、松平春嶽らに頼んでな。
だがそれより決定的だったのは、やはり慶喜助命を条件に江戸無血開城を約定した勝・西郷会談だろうな。
小栗忠順らが仏公使ロッシュと通謀していたのは、すでに知られていた。
助命をエサに幕府本体との抗争を終らせ、列強の介入を防ぎたかった思惑は明白。
慶喜自身の助命運動も的を射たもので、当時はまだ薩長土肥芸に将軍家の親藩・家門
たる尾越の連合政権として発足した新政府には、慶喜を殺すことによる連立の動揺と
幕府軍の徹底抗戦による内戦の長期化が恐ろしかったのだろう。
以上の経緯に天皇は登場しない。

東照宮に至っては、実際は東征軍に破壊される寸前だった。これを救ったのは、
板垣退助らの土佐軍で、彼には新政府の議定で、やはり親幕的な旧藩主山内容堂からの密命があった。

公爵だ、貴族院議長だ・・・それがどうかしたか?
政治的実権は何もなく、秀吉の下で御伽衆になった織田有楽斎みたいなものか。
しかも豊臣家とその恩顧の大名らの末路と比較までして・・・
時代認識がまったくアポーンだな。
近代国家となり、領土も武力も徴税権さえ奪われた徳川家に何ができる?
霊廟を破壊し、一族を根絶やしにしておかなけらば、まだ葵の御旗を掲げるとおそれていたとでも?
それより同じ支配階級の血族として、藩屏に取り込むぐらいの智恵は当然あっただろうよ。

901 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:20:25
肝心の江戸時代の天皇についての話が全然無いよ。天皇の京都での役割とか。
しかし、五条天皇と七条天皇と八条天皇が無いのが惜しい。

902 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 19:00:54
>>900
熱弁乙、徳川家が明治政権に
関与した経緯については苦しまぎれだな、藁

903 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 19:05:41
対立構造でしかとらえられないのは>>900
徳川家が明治天皇に許されて政権に関与した
っていう歴史的事実を認めたくないんだろな。

904 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:15:30
>>902-903
徳川家は初めから明治政権に関与していたと、何で読み取れないんだろうね。
慶喜が助命されたのも、東照宮が破却されなかったのも、家達が貴院議長になれたのも、
徳川将軍家の豊臣家への仕打ちと比較する歴史認識の馬鹿さ加減をさらけだして、
明治天皇の寛大さで片づけようとする無知を笑っただけ。
貴族院議長を「選出」などというお馬鹿さんには何を言ってもわからないだろうが・・・

905 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:22:10
>>904
いつまでもあとからくずぐずうるせえやつだ。

どうとりつくおうがおまえの負けだ。

906 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:11:16
>>905
うぜえのは、おまえの方さ。
俺は初めから勝負なんてしてないぜ。
馬鹿を笑ってるだけ。
何一つ反論できない無知は黙ってろ。

907 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 17:20:05

     r「l l h         /        /
     | 、. !j        _
     ゝ .f       ,r'⌒  ⌒ヽ、 
     ,」  L_     f ,,r' ̄ ̄ヾ. ヽ.    / / さっきのニュースでおれの
    ヾー‐' |     ゞ‐=H:=‐fー)r、)    / 資産 5800億円 と出たが
     |   じ、     ゙iー'・・ー' i.トソ  !少ないなイランジンもっと送れよ在日から
     \    \.     l、 r==i ,; |'     かき集めて送金してくれ松茸やるから 
      \   ノリ^ー->==__,..-‐ヘ__   /  /| /  おまえにも少し分けてやるよ
        \      |_/oヽ__/    \   /  |_ たいへんだろうけどがんばれ!
         ヽ__    |         \/  /  ヽ___
             |    |   O へ    \ /   /   /
             /   |       |\/  |   /   /
             |   |       |/| _ |  /__/
             |   |       |  「  \:"::/
             |  コ[□]ニ    |  ⌒ リ川/



908 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 22:47:47
左翼が江戸時代の農民を馬鹿にしてるのは分かった

今日のこの後の午前1時からNHK教育で農民の一揆やらやるから観てみな
かなり知識を熟知してるのが分かるから


909 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 20:15:21
朝な夕な民のかまどのにぎわひを
なびく煙におもひこそやれ

孝明天皇御製



江戸時代に天皇が民の繁栄をおもって作った
歌です。

910 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 20:25:07
>>849
うーん、じつはアンチ天皇派が旗印に
担ごうとしている徳川家はじつは案外
尊皇家だったんですよね。
ただ幕府初期には豊臣家の強烈な後ろ盾に
なっていた朝廷を完全に封じこめる必要性が
あったためやむなく弾圧を加えたんですね。

911 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 18:20:56
國民のやすきを祈る
かみがきにかけてぞ
なびく雪のしらふゆ

孝明天皇

912 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 18:30:57
神道学校らしい偏差値の低い組織的書き込みは汚らしくって嫌

913 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 19:49:17
神道学校を見下す高慢不遜な書き込みも汚らしくって嫌

914 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 14:08:05
>>901
九条天皇もいないよね。
南北の主要大路を追号にもつ天皇も朱雀天皇だけかな?

915 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 14:16:48
>>913
偏差値が低いのは事実だろ
それとも「本当は東大に行ける知能の持ち主だったのにコミンテルンの陰謀で成績を貶められた被害者」
とでも言って欲しいの?w

916 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 15:44:30
今もなほ 民のかまどの煙まで まもりやすらむ わが國のため
孝明天皇の御製って、後宇多天皇のパクリかな?
あの時代も元寇があって大変だったもんな。
浪費癖があり贅沢好きな孝明は、民草を憂う一方で、本願寺や商人から金を借りまくり、
その証文回収のため、昭和期、特高が動いたそうな。
まあ、こうした二面性は、彼自身の中では何の矛盾も感じていないのだろ。

917 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:20:45
浪費癖で贅沢好きとか
勝手に歴史をつくるデーブお得意の歴史捏造

918 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:26:29
神宮宝物館には歴代将軍が
伊勢神宮に捧げた宝刀が
何本も所蔵されています。
幕府も深く伊勢神宮を崇敬していたんですね。

919 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 20:31:56
>>917
孝明はよほど倒幕派が嫌いだったんだろうね。
特に禁門の変以降、呑気になってさかんに酒宴を開き、酒池肉林のありさま。
「奥向日々遊郭同様、御内儀は日々歓楽」と日記に書いてあきれたのは中山忠能。
中川宮朝彦はご相伴にあずかりながら、夜半に続く天皇の酒宴を批判。
岩倉具視に至っては、『続叢裏鳴虫』という意見書をしたため、孝明の淫蕩ぶりを
嘆いている。

920 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:20:52
孝明天皇はあの時代の高貴な人物には珍しく
風邪ひとつ引かない丈夫な体質だったのに
治りかけていた天然痘が突如急変してポックリ

921 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:26:53
貴種に連なる方は、胤を残すことが責務です。
名君は色事が盛んというのも常識です。

子作りは嫌らしいことではありません。神聖な責務です。
神聖な責務とはいて、少々気持ち良いので、うしろめたい気持ちになる方が
いらっしゃるようですが、そんなことではだめです。精々励みましょう。

922 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:44:52
じゃあ、昭和天皇以降は、その責務を果たしていないワケだ。
皇祖皇霊に対し奉り謝すべし。


923 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 23:09:12
色事をいけないこと等と思うようになったのは、西洋カブレの戦後のことです。
我が国では、色事はお家繁栄の根本であり、当主の責務です。「律義者の子沢山」
と言われるように、真面目な当主は子作りに励むのが当然です。

跡継ぎが無いのは、一家の滅亡です。跡継ぎがない者は一人前として相手にされません。

924 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 23:13:53
>>921>>923
論点がズレてるな。
後宮制度はちゃんとあった。
酒色に耽るのと、子孫繁昌とはまったく次元が違う。

925 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:10:57
昭和天皇は、側室を盛んに勧める周囲の雑音に抗って、
戦前から一夫一婦を貫いた。
戦後の話ではないよお。

926 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:53:33
戦前でも、明治のころからじわじわと西洋かぶれが広まったからね。
色事にふけるのと子孫繁栄は同じことだよ。

927 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 20:02:20
すめらぎにつかへまつれと
われを生みし
わがたらちねぞたふとかりける

佐久良東雄

安政五年

928 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 21:10:30
>>917
九条廃帝(仲恭天皇)はいるけどね。

929 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 00:16:53
天皇の使命はセックスだとクダクダ言い張る、DQNが一匹。
それも妙に力説するとこが、またケッサク。

930 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 16:41:09
王の使命は生殖にあり

931 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 16:47:27
>>930
古今東西、同じだな

932 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:39:53
天皇股関説・・・いや種馬説。
くだらん話題でいつもでも貼りつくなよ・・・学校帰りの厨房

933 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 21:26:06
・・・引用場辛子・・・
>釈迦はキノコを食べて死んで有名な坊さんからも「知恵がないやつだ。」と言われた。が太国さんはもっと知恵があるよ。


934 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 06:41:12
明仁氏の気配を最近、感じないのですが
ご存命でしょうか?

憲法1条のみの改正準備を進めないと、
またニセモノを天皇として即位させる事態になりかねません。

現在の偽皇太子も正当性がないのは明らか。オウム大量殺人への関与も無視できない水準です。
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/soc/1137727591/
このまま即位させれば国が潰れかねません。

岩倉具視、伊藤博文らによる暗殺に斃れた孝明天皇の系統の復帰が出来ないなら、
憲法1条のみに限定して改正するしかないのではないでしょうか?
明らかなニセモノの即位は「美しき日本」とは対極的な状況であり
日本の黒社会化を促進させる危惧があります。

参考文献:長州の天皇征伐〜日本の悲劇は全てここから始まった〜  太田龍
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4880861898/503-4909883-0820712


935 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 22:58:31
あきないねえ、大室厨。
何度、棺桶から死体引っ張り出して「かんかんのう」を踊らせる気だ。

936 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 06:39:25
どうでもいいよこんなスレ

礼幣使がどんな沿道庶民に馬鹿にされてたかって事実だけで十分

937 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 15:43:19
礼幣使はバカにされていたの?
詳細キボンヌ!

938 :イランジン:2006/10/27(金) 21:09:52
               ,.'´ ____   _,.◯_  \
              /‐''"´.:.:.:.:.:.:`.:'.:ーニェニ-- ._ \
       ♪    /.:..:.:.:.:.:.:_.: -‐¬、.:.:.:.:  _,.    ̄\
            {.:.:.:.:> '",. -z 'T丁「`‐匕 ,,`ヽ、   }
                `'<>'" |〆-‐弋|‐|∧ノ_\`ト、 ヽ、ノ
             / |   | _,、____-     ̄ソ、i `Y    ♪
           _//|   | ` ̄ ̄`   z__ 〉 l|  牟田口の〜 ムダ口で兵が死に〜♪
             ̄7イ ヘ   i |      ,    ̄ソ .|i|
               / /!ヘ |l |     , - 、    八l |i |  司令官に任命したのは天皇陛下〜♪
                 ∨ リ ! |、リ    !_ ノ   /j | リ l |
                |ノWl 、      ,. イ \!   ソ
          ♪       _」__>ェ≦⊥、
                   ┌「 ̄ ̄「卩 ̄ ̄У\_
             _.. -┘_\.__, ┴、.__/ , - < ̄ ~ '' ーァ一-、 大元帥さまはマッカーサーに土下座して命乞い〜〜〜♪
          ,.  ' ´     ` ‐テ‐=f´‐ '´       r─v / ̄ヽ、
         ,.´           /   l          {辷j/ , '⌒ヽ、
       /{           /\_/|        i:.  〉∠/ ,. - !`、
        / i   .:.i/     〉、  /l       |.:,.<二<_/ ,.、 〉 \
     /   丶.:./        /\`´/|!      ,.<ニニ三>`"´  /l、
     ノ   :.:.У       /〉、 ¨ /!l    ,.<ニニ三>'´〔     /| } \

939 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:11:25
ほことりて
守れ宮人ここのへの
みはしのさくら風そよぐなり

孝明天皇

940 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:15:38
日光例幣使の道中での横暴・・・
そんなもの前レスにもあったお茶壺道中や幕府巡検使の横着振りに比べれば
可愛いもの。
後者の例では、その讒言により減封・転封の憂き目に遭った明石城主本多政利などの例は
あまたある。
一部を切り取った知識ですべてを断じるような論法・・・無知の為せる業。

941 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 19:54:14
戦時中、島嶼では玉砕と称して日本兵はお互いに足を引っ張り合いながら団子になって死んでいった訳だが、
生き残った人が「彼らの死を無意味だったとは遺族には言えない」と言っていた。
どうすれば彼らの死を無駄にさせないことが出来るか、思い悩んでいる様でもあった。

日本では、未だに戦争の張本人、責任者である天皇の戦争責任が問われていない。
これを明らかとし、二度とこの様なことが起きない様に天皇制を廃棄する事こそが、彼らの死に報いることではないだろうか。
そうして初めて、戦争で死んでいった数百万の日本人の死が無駄ではなくなるのである。


942 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:42:40
よもの海みなはらからと
思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ
明治天皇

943 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:45:46
烏羽玉の夜すがら
冬のさむきにもつれて
おもふは國民のこと

944 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:58:40
>>941
無駄にしないというのは臭いものには蓋をして>>942みたいに何も疑いを持たずに狂喜しながら虫けらみたいに死ぬ人間をたくさん生産すること

945 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:05:39
天皇の戦争責任論なんて、別板で。

946 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:25:32
御製オタク。。。ウザイ!!!
カキコすんなら、自分の言葉でな。

947 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 22:44:14
ま、こういうバカは18年前に食事中に血便の量を聞きながら一喜一憂していたんだろうな

948 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:14:33
>>946>>947
このケガレものが

日ノ本のものではない中国か半島の人間だな。

949 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:17:08
大君のためにとつくせ
真心をわが生みの子の
いやつぎつぎに

河上彦斎

950 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:23:43
>>946
おまえのつまらない妄想を書き散らすなら思想板
にでも行け。

951 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:27:06
「日ノ本」って書くなら「中国」なんて書くなよな。
そこら中のスレに貼りついているみたいだが。
要は何を詠んだかじゃない。何をやったかだ!
スルーしたいが、ウザすぎ。

952 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:27:37
幾千度命死ぬとも
大皇の大御為には
をしからなくに

佐久良東雄

953 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:30:26
>>951
おまえただのアホォだな、句省

954 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:40:10
いや>>951は間違いなく
子供の発言だな

955 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 23:44:36
独りで必死こかなくてもいいぞ。
他人の歌や罵詈雑言以外に、ちゃんと自分の意見語ってみろや。
冷静に聴いてやっからさ。

956 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 00:18:58
日教組陰謀巡らせ
俺中卒今は愛国
語るニート

>>952

957 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 00:44:19
>>955
やれやれ、おまえに冷静に人の意見を判断する能力はないと
いうことを知れ。

御製や和歌は歴史的資料だろ。
違うか?

958 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 00:44:45
ま、殺人犯でもすました顔して美しい歌は詠める。
河上彦斎がいい例。
「大君のためにとつくせ…」って、佐久間象山を殺すことらしい。
「真心をわが生みの子の いやつぎつぎに 」って子孫に殺人教唆まで。
待ち望んだ天皇政府に斬首され、種を断たれて「嗚呼 以て瞑すべし」


959 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 00:54:22
>>941>>951あたりを総合すれば
彼がなぜ民と國の平和と安寧を願った御製に
過剰に反応するのかわかるだろう。
つまり彼にとっては天皇は好戦的で
戦争で何人も殺し贅沢の限りを尽くして民を苦しめてきた
憎むべき専制君主でなければならないわけなのだろう。

つまり、いくら平和や安寧を願った歌を詠んでも
関係ない、ようは戦争をした大罪人だと言いたいわけなのだろう。

しかし、冷静かつ真摯に日本史を学んできたものに
とって、そのような見方は極めて異常で異様に歪んだなにかしらの理由で憎悪にかきたてられた
極めて悪意的な見解

960 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 00:57:52
>>958
君の心はなぜそんなに歪んで
けがれているのかね?
天皇は殺人犯ではないが
なぜそう思うのかね?
自分の言葉で語ってみたまえ。
冷静に聞いてやっからよ。

961 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:01:41
君が代を思ふ心のひとすじに
わが身ありとはおもはざりけり

梅田雲濱

962 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:01:59
>>957
@「おまえに冷静に人の意見を判断する能力はないと いうことを知れ」
A「御製や和歌は歴史的資料だろ」
低脳ひねって自分の言葉で語ったのは、この二つか?
@は、相変わらずの罵詈雑言。
Aは、見当はずれな言いがかり。



963 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:05:43
>>962
まあ冷静に判断する能力があれば
そのレス自体の低能ぶりは明らかなはずだが?

なにか学歴コンプレックスでもあるのかな?

964 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:07:51
>>962
悪いが寝るから
もうつきあえないぞ。

965 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:29:42
釣りにダボハゼ大漁(藁)
>>959
俺は>>951だが、>>941ではない。
「彼」って一からげにしてほしくないな。
天皇が好戦的とも憎むべき専制君主とも言ってないし、思っていない。
美しく詠まれた御製の羅列では、天皇の実像は窺えないってこと。
「冷静かつ真摯に日本史を学」ぶとは、史実に照らして何をやったかを
勉強するってことだろお。

>>960
俺は一言も「天皇は殺人犯」なんて言ってない。
言ってないことに「なぜそう思う」と迫られても…なあ。

>>963
学歴云々・・で片付けるヤツってよくみかけるけど、発想が卑しい。

要は、一応歴史スレなんだから、盲目的な天皇礼賛もイデオロギッシュな
天皇批判も見苦しいんだよ。


966 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 09:44:23
やはりひな祭り

967 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 21:44:22
天皇の名前さえ覚えれば日本史完璧って感じだった戦前


馬鹿みたい

968 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 19:09:42
天皇の名前の暗記は必修のうちの一つだったけど
それで日本史が完璧とされた事実はない。
勝手にねつ造するなよ。

969 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 22:47:26
あまり大したボケでもないのにマジでツッコむなよ

970 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 22:48:08
970

971 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:32:21
>>965
あまり相手にしたくない
愉快犯にしか見えないが
一言言わせてもらえば
御製や和歌は当時の天皇や
人々が心情を表した貴重な歴史的資料には
違いない。

もちろんそれをどう解釈するかは
各人の自由だが
そういう資料の書き込み自体を
それに反対する資料や歴史的事実なども
あげずに自分の勝手な感想や独善だけで否定するのは
歴史を語るものの姿勢ではないということぐらい
理解して欲しい。

こういうことをされたら
この板での多くの歴史的な会話なり議論は
全てストップして無縁ななじりあいになっていくだけだ。

972 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:34:17
>>967
アンチでもいいがスレタイに沿った話題にしてくれ

973 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:41:09
たとえばアンチはアンチなりに
なぜ天皇がこのような歌を詠んだのか
そういう歴史的な背景を知ろうともせずに
ただ自分が気に入らないから
という自己中心的な理由で
歴史的資料を頭から否定するメンタリティは極めて低いと言わざるを得ない。

974 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:43:08
四方の海をさまる世とて国つ民
にぎはひうたふ声もゆたけし

仁孝天皇

975 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:47:06
無形文化財
熊野灘に伝わる船の祭(名前は失念)
の起源は神武天皇が熊野灘で遭難した時に
二隻の船が救助したのが起源

976 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 21:23:58
額田女王のエロエロ作戦で、大友軍勢は骨抜きになり、
十市のフナの味噌ずけ攻撃でノックダウンしたのさ。

977 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 21:50:19
ところで隠岐島には
当時から後鳥羽院の御陵を代々
守り続けている一族が今でもいると
聞きましたが詳細を知っている方いませんか

978 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 22:12:47
宇多天皇が太子に
天子たるものこれだけは早く読みなさいと
遺訓した帝王学のバイブル「群書治要」は
本家中国ではとっくに失われ
日本でのみ伝来されて、清朝末に逆輸出されました。

979 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 23:04:59
「群書治要」は王朝の天皇の保護のもと
12世紀以来、蓮華王院所蔵本として伝えられ
清原家が訓説を伝えた。

徳川家も天皇家に倣い、秀忠、尾張家が開板し、
昭和には清家の宮内庁本が影印された。

980 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 23:21:36
980

981 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 04:02:48
>>977
当然居るだろ

982 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:56:05
 

983 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:57:39
 

984 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:59:12
 

985 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:00:12
 

986 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:01:16
985

987 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:15:33
ウメ

988 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:16:29


989 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:17:06
うめ

990 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:20:24
990

991 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:23:54
 

992 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:31:54
 

993 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:41:53
埋め

994 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:43:10
 

995 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:45:11


996 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:49:42
 

997 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:50:54
 

998 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:52:13
 

999 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:53:20
999

1000 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 20:54:15
1000

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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