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日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]

1 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:38:21
日本書紀紀年法は、応神元年を西暦三九〇年と位置付けて、以下の式に
表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統十一年の697年までの
一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって多列・並列構造になっています。
このように考えますと、日本書紀紀年法をきれいに説明することができます。
日本書紀紀年法について、自由に議論をいたしましょう。

  日本書紀紀年法がついに解明されました[part3]
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145579835
  日本書紀紀年法がついに解明されました[part2]
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140936342
  日本書紀紀年法がついに解明されました
  http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322

2 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:41:38
「日本書紀紀年法がついに解明されました[part3]」が、
512kを超えているとの理由で、書き込みをすることができなくなりました。
パート4を立てました。


3 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:44:54
応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)の基準年は、
以下のとおりです。

 応神列(A列):応神元年=390年
 雄略列(B列):雄略五年=461年
 允恭列(C列):允恭五年=437年
 仁徳列(D列):仁徳元年=397年

4 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:48:33
「日本書紀紀年法がついに解明されました[パート3]」にてのご質問や
ご意見につきましては、引き続きパート4にて、お答えいたしたいと思います。

5 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:56:46
パート3の970さん

>詳しい解説ありがとうございます
>系譜関係まで微妙に違いがあることを知ってびっくりしました
>ところで、この二つの書物の内で一人の日本人として読むべき書物はどちらなのでしょうか?
>それとも二つともただの「史書」にすぎず「日本人として」読む様な代モノではないのでしょうか?
>日本人の古今を通ずるアイデンティティを見いだすための書物を探しています。あればいいけど・・・

970さんのご質問につきましては、『日本書紀』と『古事記』もどちらも日本人として読むべき書物
であると思います。多くの違いがあることから、『日本書紀』と『古事記』は矛盾しているように見えますが、
実は、グランド・プランともいえるような相互補完関係にあります。
例えば、>>1>>3で述べた日本書紀紀年法の多列・並列構造は、『古事記』崩年干支によって、再構築できました。
『日本書紀』と『古事記』は、日本の国の成り立ちや、紆余曲折の歴史をよく伝えています。

6 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:10:43
パート3の972の858さん

>『古事記』におけるA天皇の宝算−『日本書紀』におけるA天皇の宝算=在位年数

>全く理解できません。マイナスになる天皇も多いし、仲哀天皇は崩年が同じです。
>両者の間にはどんな法則もないと思います。
>記紀の編者が採る操作法の傾向の違いがあるだけです。

マイナスになる天皇は女性ではないかと考えております。仲哀天皇については、パート3の980を
ご覧ください。
『日本書紀』は養老四(720)年、『古事記』は和銅五(712)年というように近い時期に成立しており、
また、編纂の時期も重なっています。にもかかわらず、歴代天皇の享年(宝算)に
違いがあることは、奇妙なことです。
欠史八代など、宝算が伝わっていたとは考えられないような時代の天皇の宝算が記されていて、
5世紀、6世紀、7世紀といった編纂期に近い天皇の宝算が記されていないことを、
不可思議であるとは思いませんか?敢えて、異なる数字を記したと考えたほうが、
蓋然性が高いと思います。

7 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:26:59
パート3の971征東大将軍さん、973さん
日本人としてのアイデンティティーの確認ためには、『日本書紀』神代紀上下や
『古事記』上巻だけではなく、すべての天皇紀や天皇の段を読むべきであると思います。
日本人が辿ってきた歴史的経緯は、天皇紀や天皇の段に記録されているのですから。
970さんに、間違ったアドヴァイスをなさらないでください。
また、『日本書紀』の各々の紀年に相当する実年代が、わかるようになってきたわけですので、
日本古代史の実相は、これからもっとはっきりとしてくることになります。


8 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:35:29
パート3の974さん

>仲哀と神功の宝算が記紀で一致する理由は
>記紀編纂時期までに異説が存在しない程の新しい創作物だったから。
>また神社で仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰らを
>祭神としはじめた時代の上限は記紀編纂時期に近い。

仲哀天皇と神功天皇の宝算が一致する理由は、パート3の980でも述べましたように、
何らかの構想、もしくは、理念にもとづいていると考えられます。
また、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰らを祭神としはじめた時代の上限は
記紀編纂時期に近いことにつきましては、そのような傾向にあることは、
奈良時代の政治史が関連していると推論することができます。

9 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:57:12
パート3の981・982の征東大将軍さん
981の允恭元年につきましては、「允恭五年=437年」、「允恭二十二年=454年」と、
考えて、允恭元年を求めてみてください。
どちらの式からも允恭元年は、433年となります。
982につきましては、『白河本旧事記』とは、どのような系列の『旧事記』でしょうか。
『旧事記』には、諸本がありますが、「白河本」なるものがあることは、
私は知りませんでした。
何年の書写本で、奥書にはどのよなことが記録されているものなのでしょうか。
『日本書紀』と『白河本旧事記』における宝算の相違などには興味がありますが、
『白河本旧事記』は偽書かもしれませんので、『白河本旧事記』につきまして、
ご説明いただきたいと思います。

10 :征東大将軍:2006/05/27(土) 12:09:08
さぁ、知らんな

ここも面白い
http://www.geocities.jp/identaisi22000/4kujikitokikinoitiran.html

11 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/27(土) 12:20:59
これでいいかw
白河本旧事紀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E6%9C%AC%E6%97%A7%E4%BA%8B%E7%B4%80

白川伯王家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E4%BC%AF%E7%8E%8B%E5%AE%B6

12 :日本@名無史さん:2006/05/27(土) 12:32:03
そこにも在る様に書紀のように仲哀52歳没じゃあ、父子関係が崩れるな



13 :太国:2006/05/27(土) 14:38:50
日本書紀紀年法研究家さん (前スレ末)
貴女の頭の中の民主主義的夢はあいかわらず治らんようですねぇ〜?w
それにそれがしは独裁とかはあんまり言っていないですよ。実際暦法を創るのは
天皇の下の面々でしょうが? 独裁暦などというのは貴女の新造語であって、それ
以外の何物でもないですよ。民主主義というのは西欧、あちらが発祥なわけで、
これはまだ古代日本に浸透はしていないんですよ。浸透し始めたのは明治の頃で
あり、当時の古代日本に浸透していたのは神道とかなんですよ。江戸時代には
犬将軍もいたわけであり、この例など幕府の信用失墜と問われますがねぇ〜。
ですがそういう時代もあったわけであり、武烈天皇の非業を思えば貴女の云う
頭のいい指導者ばっかりが当時固まっていたものでもないでしょう。
なにせ義務教育もなかったはずであろうし、それが貴女は貴女の頭脳と同程度の
ランクまで古代人の頭を引き上げて物事を考えるから、そんな哀れな滅茶苦茶な
暦法の有無の結論になっちゃうんですよ。w 貴女の言い分は現代にITがある
から古代もそうでなければならないとの発想論理に基づくそれがしへの批判で
あり、タイム・マシン的空想と古代の現実とをごっちゃ煮にした、非常に矛盾を
含んだ議論であり、これはこれは困ったさんの状態だなぁと危惧しております。

14 :日本@名無史さん:2006/05/27(土) 18:10:14
>>6
ますます理解できません。オッカムの剃刀にもあるように、
より少ない仮定で説明できる説がおそらく最も正しい説だと思います。
あなたの主張は根拠不明な仮定が多すぎます。

15 :太国:2006/05/27(土) 19:42:23
part3 >980
>現時点におきましては、憶測の域をでませんが、仲哀天皇については日本書紀
>紀年法の構造上においては、日本武尊と同一人物であると想定できること、
>神功皇后については、卑弥呼や台与など複数の人物が付会されており、特定の
>人物の史実としての在位ではないという理由にもとづくのではないか云々〜
日本書紀紀年法研究家さん
これではまたお得意の探偵小説的怪人二十面相理論の方式がでましたね。w

 仲哀天皇=日本武尊

などと本気で信じておられるんですか?w あまいあま〜〜いですなぁ。
その次には神功皇后と卑弥呼、台与が付会になっておいるとか?
これでは実に牽強付会の大亡説ですよ。臥海でこんな説を主張してるんですか?
貴女の頭の中はもうイコール説の「不史議の国のアリス」ですなぁ?
本当に「困ったさん」ですね。ww もう治らないかなぁ〜?治療しなくちゃ。

16 :日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:57:42
太国のふざけた口調は別として、レス内容には見るべき物が多いと思う。研究家
氏には、半年2ちゃんねるを離れ、自説の見直し・2ちゃんねるのルールの把握
をすることを勧めときます。あと太国にトリップ付けを希望しとく。

17 :日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:55:37
1/1スケール日本史A┬→x1x2x3+αスケール日本史C┬年齢計算→白河本旧事紀
              │                    │        ↓
              │                    └年齢計算→日本書紀
              │                             ↑
1/1スケール日本史B┴――――――――――――――――――→古事記


こう云うシナリオも考えられ無くない

18 :征東大将軍:2006/05/28(日) 02:28:50
例の操作からして没年が一番最後に決ってる筈だから、

没年最終決定作業後に寿命を求めた故に計算違いが生じたとも考えれる

と云うか再計算していないのか

19 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:12:33
>>10 征東大将軍さん
白河本旧事記とは、『旧事紀白川家三十巻本』のことですね。
『旧事記』には、偽書が多いため、偽書であるかどうかは、わかりませんが、
享年(宝算)の数字には、何らかの伝承にもとづく意味があるかもしれませんので、
少し研究してみようかとも思っています。

20 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:17:05
>>11 ◆16/YXRFBRM さん
せっかく、『白河本旧事記』や白川伯王家についてのwikipediaのアドレスを
表示してくださいましてありがたく思いますが、アドレスが壊れているようです。

21 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:25:12
>>12さん
仲哀天皇の享年(宝算)が52歳であると日本武尊と仲哀天皇との親子関係が
繋がらないという問題は、すでに江戸時代に新井白石によって指摘されています。
しかしながら、パート3でも提起させていただきました「天皇即位=立太子構想」
によって、「確定崇神列」上において、日本武尊の薨年の翌年が、仲哀天皇の
即位年となります。
すなわち、日本武尊と仲哀天皇の親子関係の断絶問題は氷解するのです。

22 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:38:41
>>13>>15 太国さん
古代人が頭が悪く愚か者であると考えることにも問題があります。
一般市民でしたならば、多少頭が悪くとも問題はありませんが、
為政者においてはそうはゆきません。
統治というものは、頭が良くなければできません。国民を守るという責務を果たさなければならないからです。
「紀記」神話でも、すさのお尊は、よく国を治めることができなくて、
根の国に追放されています。昔から、統治には統治能力が必要と認識されてきたのです。
「紀紀」神話の意義を考えてみてください。
天皇家が存続したのは、こうした難しい統治の役割を、天皇以外に任せて、
神祇祭祀を専らとしてきたからでしょう。
日本武尊と仲哀天皇につきましては、>>21で述べましたように「天皇即位=立太子構想」では、
日本武尊(30歳)の薨去の翌年が、仲哀天皇(31歳)の即位年となることから、
日本武尊とは仲哀天皇のことではないかと推論いたしました。

23 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:48:39
>>14さん
私の「宝算年差の法則」という仮説は、欠史八代という『日本書紀』の編年にそのまましたがいますと、
紀元前に位置付けられるような天皇たちの享年(宝算)がすべて算出できるように
なぜ、『日本書紀』では設定されているのか、という疑問から出発いたしました。
『日本書紀』と『古事記』の編纂期に近い天皇の享年(宝算)が伝わらず、
紀元前の天皇の享年が伝わっていることは、奇妙であると思ったのです。
そこで、『日本書紀』は、何らかの紀年構想を欠史八代の享年に託していると考えました。
「プラス・マイナス120年構想」でも、『古事記』の崩年干支が役割を果たしているように、
欠史八代に設定されている享年には構想上の意味があると推論することができるのです。

24 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 11:01:01
>>16さん

>研究家氏には、半年2ちゃんねるを離れ、自説の見直し・2ちゃんねるのルールの把握
をすることを勧めときます。

とのことですが、まず、自説の再検証は常日頃、適宜行っています。
2ちゃんねるの書き込みに対応するために、パソコンに一日中はりついている
わけではありませんので、自らの研究はきちんと進めています。
私は、日本書紀紀年法についての議論の場をオープンにしておくことは
大切なことであると思っております。
スレ主は私ですので、2ちゃんねるを離れるということは、スレッドの閉鎖を意味します。
このスレッドに書き込んで意見を述べたい方々や読者の方々が閉鎖をお望みになるのならそういたしますが、
お望みにならず、議論を続けたいとお考えであるのならば、スレッドは開いておきます。
また、2ちゃんねるのルールを恰も私が守っていないかのようにおっしゃられますが、
どのようなルール違反を私が行ったのか、具体的に挙げていただきたいと思います。

25 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 11:15:02
>>17さん
17さんのお説における「スケール日本史A」は推古朝の『帝紀』・『国記』
「スケール日本史B」が『古事記』、「スケール日本史C」が天武朝の『帝紀』・『上古諸事』
という想定も成り立つ気がいたしますが、果たして『白河本旧事記』にどの程度の信憑性があるのかは疑問です。
ただし、『白河本旧事記』と『日本書紀』の間には歴代天皇の在位年数をめぐって、反正天皇の「6年」のみが
異なっているだけであとは、まったく一致していることは、注目されます。
天皇の享年(宝算)をめぐっては、宝算構想という構想がやはり存在しているのではないでしょうか。
私の「宝算年差の法則」は、その一試案として提起できる内容なのではないかと思います。

26 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 11:17:18
>>17さん >>18 征東大将軍さん
年齢を計算したのではなく、その数字に設定したとは考えられえないでしょうか。

27 :太国:2006/05/28(日) 11:17:25
>>22 日本書紀紀年法研究家さん
貴女の理屈とは下記のようなことなんですな?

興王=木梨軽皇子=某天皇

成務=卑弥呼

日本武尊=仲哀天皇

これでは、あまりにもイコール多すぎると、え〜おかしいと考えませんか?ww
貴女は古代史の研究よりも、山村美沙さんのように探偵小説作家の技能のほう
が優れていると思われますがね。怪人二十面相的紀年法論ではまことに面白
おかしくデンパ読者には格好のエサですが、真の古代史等を追究するんには
これでは非常に困るわけですよ。ww
このごろ貴女はこういう等式理論に疑いもなく乗りかかってしまい、昨今では
飛鳥氏の古代人イコール超多用論のご親戚の感を呈しています。ww
まったく頭の制動装置がおかしくなっているんですね。困った困ったさん。

28 :日本@名無史さん:2006/05/28(日) 20:45:19
>>23
なにを言ってるか判りません。
誰と誰は同一人物だとか、男ではなく女だとか、誰それは複数いたとか
あなたの説には意味不明な仮定が多すぎるので、皆呆れています。
何度も言いますが、より少ない仮定で説明できる説が正しい仮説なのです。
この基準に立つ限り、あなたの主張は失格です。論外なのです。

29 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/28(日) 23:09:01
>>20
壊れてるわけじゃなくて、その時あっちのサーバが落ちてただけかも
分かると思うけどwikipediaで「白河本旧事紀」を検索すれば良いだけだから
ご自分でお調べになってください。
http://ja.wikipedia.org/

> 享保年間に三重松庵が『先代旧事本紀大成経』を30巻にして
> 白河家伝の書いわゆる白河本として発行したとされており
> 内容もほぼおなじものとなっている

こういう落ち目の人間がルサンチマンを同源として過去にアイデンティティーを
求めるのは至極真っ当な行動かと思いますから(それが正しいかはどうかは別)
「白河本旧事紀」は偽書と見て間違いないでしょう。

>>24
2ちゃんねるのような匿名掲示板における暗黙のルールみたいなものに
こだわる古参気取りの人もいるから「空気読めない奴」と思われても仕方ないかもね
>>1さんはスレ主だけどスレッドの所有者でもないんだから
居なくなったとて結局「>>1は電波でトンデモ」として終了しても
結果が早まっただけで問題ないと思うよ。

なんにせよ『古事記』『日本書紀』だけでは確実に571年から628年以前の紀年は
再構成することは出来ないという結論に至ってしまうわけだから
宝算や崩年干支をどうしようと無駄です。

30 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:26:10
>>28
>誰と誰は同一人物だとか、男ではなく女だとか、誰それは複数いたとか
>あなたの説には意味不明な仮定が多すぎるので

今までの研究家さんの意見をよく読め。
同一人物だとか、男ではなく女だとかは言っておられない。

>この基準に立つ限り、あなたの主張は失格です

君こそ自分の思い入れを基準にし過ぎ。


31 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:30:40
>>27
爺さん。

>デンパ読者には格好のエサですが

キリストと神武の関係について言ってたあなたが言うのもおかしい。


32 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:34:52
>>29
あなたは征東大将軍氏ですか?

33 :日本@名無史さん:2006/05/29(月) 06:48:27
応神天皇の即位が390年は正確なんdねすか?

34 :33:2006/05/29(月) 06:50:59
応神天皇の即位が390年は正確ですか?

35 :太国:2006/05/29(月) 07:53:02
>>34
もともと臥海の説は無用心らしく、信用に疑問を抱くべきで、そこの説を
信じすぎたことから倉西女史の決めた年なので、もはや正確かどうかはブレーキ
ペダルを踏んでバックして再考ほうがいい。

36 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:25:52
>>27>>35太国さん
付会説につきましては、日本書紀紀年法の構造上、興=木梨軽皇子=雄略天皇、
成務天皇=卑弥呼、日本武尊=仲哀天皇というように推論されてくると、
私は述べているだけです。根拠無く付会説を提起しているのではありません。
また、応神元年が西暦390年となることは、私が決めた年代ではありません。
応神紀に見える百済王の即位や薨年を『三国史記』「百済本紀」の当該百済王の
即位年や薨年と照らし合わせることによって、求めることができる年代です。
明治時代から、既に定説とされています。

37 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:40:35
>>28さん
日本書紀紀年法は、さまざまな構想から成り立っています。
28さんは、まずは、そのひとつの「プラス・マイナス120年構想」から理解しましょう。
>>1で述べた以下の式を計算なさってみてください。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

・応神元年〜雄略五年までの合計紀年数は、「41(応神)+2(空位)+87(仁徳)+6(履中)+
5(反正)+1(空位)+42(允恭)+3(安康)+5(雄略1〜5)」となります。
・応神元年は390年、雄略五年は461年です。
・神功元年は201年、神功69年は西暦389年です。

神功紀では120年分の紀年数が不足しており、一方、応神元年から雄略5年までの間では、
120年分の紀年数が、超過していることがわかります。
このような構造を「プラス・マイナス120年構想」といいます。


38 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:49:46
>>◆16YXRFBRMさん
『白河本旧事記』につきましては、wikipediaなどで、調べてみよと思います。
ご親切にも、wikipediaに『白河本旧事記』について記載があることを
教えてくださいまして、ありがたく思います。
『先代旧事本紀大成経』は、偽書である可能性が高いとされておりますので、
『白河本旧事記』も、偽書かもしれませんが、なぜ、歴代天皇の享年(宝算)が、
大きく異なっているのか、気になりますので、やはり、少し、
研究をおこなってみたいと思います。

39 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:54:20
>>33さん
応神天皇即位が西暦390年であることは、明治時代から定説とされています。
理由は、>>36で述べましたように、海外資料によって確定することができます。

40 :太国:2006/05/29(月) 09:17:11
>>36
どうもこの前の七支刀の説明からして、そのへんは怪しいと思うようになり
ましたよ。なかなか油断がならない定説のようですな。
そんなにイコールがあるものなんですかねぇ〜? 「おかしいわねぇ?」と
貴女は思わんのですか? 数歩譲って、たとえ運良くイコールがあったとしても
1個くらいなもんでしょうが? そのうち
 神武=崇神=應神
などと主張し始めるんじゃぁありませんか?ww

41 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 13:04:07
>>40 太国さん
イコールではありません。付会です。
七支刀につきましては、銘文によって、東晋の時代に鋳造されたのではないかと推論できます。
巻九神功紀が4世紀後半を扱っていることになりますので、
巻十応神紀の応神元年は390年と考えて問題はありません。
「ちっとも、おかしくないわ」と思います。

42 :太国:2006/05/29(月) 14:27:47
>>41 日本書紀紀年法研究家さん
イコールでないならば不等号なんだから「別人である」とハッキリ言うべき
ですよ。貴女は雌雄が正反対だから、自動車の運転免許証をもらってないので
運転はしないわけだからこれでホッとしますがねぇ。もしそれの交付を受けて
いて、運転中に赤信号を貴女が見てっ、「いや、あの信号は赤じゃなくて青だわ
よ。」などと強く主張する可能性が充分あるわけで、これはもう一大事的困った
さんだということになって来ます。雌雄が逆に観じる貴女には赤青が逆に見え
ることになり、大事故の原因になりますからねぇ?ww→mm
貴女の説でもっともまずいのがイコールとこの雌雄逆説な訳ですよ。正負逆で、
1+1 を 1−1 だと言ってるのと大略同様であり、これは精神科直行を
アドバイスせねばなりますまい。話かわり、
それがしの現今での説は應神元年が376年であり、貴女の説との差は14年だから
ものにもよりますが、このへんはお互いに支障が少ないかも知れませんがね?

43 :征東大将軍:2006/05/29(月) 18:14:37
>>32
何故そう思う?

それじゃ話の筋が通らないだろ


ちなみに>>17は私だ

44 :16:2006/05/29(月) 22:00:29
研究家さんがルール違反しているとかじゃなくてでですねー、自分のメアド晒
したりトリップの付け方知らなかったり・・・とりあえず2ちゃんの基礎を知ってくれ
ということです。

45 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 06:57:03
>>37
72年を引いて189年を足す意味が判りません。

46 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 08:23:08
>>42太国さん
例えば、『日本書紀』が卑弥呼や台与を「神功皇后」とみなしているように、
時代の異なる複数の人物が付会されている場合もありますので、イコールではないのです。
また、私が、車の運転免許証を取得するつもりがないのは、私は運動神経があまりよくありませんし
(テニスぐらいしかできません)、私の性格も車の運転には向いていないのではないかと考えているからです。
自分が柱や壁にぶつかるのならばまだしも、他者を傷つけてしまいましたら、申し訳ありませんもの。
できないことを行って、周りに迷惑をかけるよりも、自分にできることを着実にこなしてゆくのが、私のモットーです。
お勉強には、運動神経は必要ありませんので、一生懸命に、日本古代史の研究を続けています。
したがいまして、古代史研究においては、「青信号」を「赤信号」と間違えることはありません。

47 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 08:36:27
>>44 16さん
私のメールアドレスを公開されてしまいましたり、トリップの付け方すら知らなかったことは、
たしかに2ちゃんねるについての基礎知識不足であり、不甲斐のないスレ主であったと反省しています。


48 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 08:41:26
>>45さん
「72」は、応神元年の西暦390年から雄略五年の西暦461年までの間に
実際に経過した年数のことです(390〜461年)。
「189」は、神功元年を西暦201年、神功六十九年を西暦389年に位置付けて、
その間に実際に経過した年数のことです(201〜389年)。
「72年を引いて189年を足す」のではなく、以下の式が成り立っているのです。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

49 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:00:42
>>44
誰でも最初はわからないのだから、
細かい事をごちゃごちゃ言うな。


50 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/30(火) 14:09:21
>>38
16/YXRFBRMとしては「歴代天皇の享年(宝算)が、 大きく異なる」のは
『白河本旧事記』が日本書紀の紀年上の矛盾を独自に解消しようとした
結果だろう、と想定しています。
もちろん、ご研究されるなら『白河本旧事記』の成り立ちからするのでしょう、
何か成果があるといいですね。

>>32>>43
よろしく

>>44
メアドもトリップも既に解決済みじゃねーか、何言ってんのよ?

51 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 14:29:19
この議論は面白くてROMっているのだが、太国の(内容ではなく)文体がいただけない。
良スレだと思って読んでいる人もいるのだから、例えどんなにデンパでトンデモだろうと
それなりの文体で返してもらいたいと切に願う。
>>1が(内容はともかく)最低限のマナーをもって誠実に一つ一つレスしている姿には好感を持った。

参加できるほどの知識もない人間の横槍で申し訳ない。

52 :太国:2006/05/30(火) 15:07:32
どこがいかんのだどう?

53 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 16:13:00
>>50 ◆16/YXRFBRMさん
◆16/YXRFBRMさんは、『日本書紀』と『白河本旧事記』のどちらが、
先に成立したとお考えでしょうか。
『日本書紀』は、養老四(720)年に成立して、「旧事記」は、9世紀頃の
成立と考えておりますので、『日本書紀』が先と考えられますが、
『日本書紀』にも、「旧事記」にも、原典となるような史書があった可能性があります。


54 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 16:20:15
>>52 太国さん
私も、時々、文体については変であるというご指摘を受けてしまっており、
人のことは言えませんが、太国さんの場合には、思考が先走ってしまい、
主語、述語、目的語などが、どこで、どう繋がっているのか、
こんがらがっている文章があるように思います。
また、前後の脈絡が不明である場合もあります。

55 :国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/30(火) 16:26:25

爺ちゃん、久しぶりだね…

例えば>>42なんて、3行目から下はいらないよ。

56 :征東大将軍:2006/05/30(火) 16:28:21
ちょっと閃きました

神武治世元年から懿徳治世末年の翌年の空位1年までを足すと185年、
孝昭と孝安の治世年間を足すと185年になります

前者は4代で、後者は2代で、185年ですから
これで神武〜欠史八代に適用可能な倍率が収束されて来ましたね

57 :征東大将軍:2006/05/30(火) 18:14:20
part1スレの人のと合成すると

185、
185、
133+60+68+99+121=481、
121+99+68+60+133=481、
13+1+11。

こんな感じに整理出来ますね
これで見通しが良くなりました


それと空位の扱いがいよいよ怪しくなりましたね
本当に空位なんか存在したんでしょうか?
書紀に何故空位が挿入されているかを旨く説明出来ると
1/1スケール日本史A(仮称)、1/1スケール日本史B(仮称)
から日本書紀が出来た成り立ちがスッキリ説明出来そうです

それぞれの天皇の尺より、上記の尺が先に決っていたので
演算上の誤差を空位にしたとか

例えばこんな感じ

先ずは1/1スケール日本史を作る
→倍率換算スケール日本史を作る
→複数代天皇間での尺を決める(上記)
→一代ごとの天皇の治世年間を尺に合わせて増減させて微修正(一定法則?)
→最終的な誤差は在位年数に織り込まず空位にする

うーん、どうでしょう
他にも色々考えられそうですが

58 :征東大将軍:2006/05/30(火) 18:46:48
>>26
没年の年齢は尺によって変わりそうですし、
立太子時の年齢を先に設定した可能性なんてのもどうでしょう


それと>>6>>8での研究家さんの前スレからの引用文で思いましたが
私も宝年にはそれなりに意味があると思います
神功や仲哀にも・・・角度とかw


これは結構マジレスです

59 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 18:51:38
>>48
神功元年を西暦201年に位置付ける根拠が判りません。

60 :征東大将軍:2006/05/30(火) 19:11:24
私が思う所を解説しますに、神功記と云うのは、
日本書紀をY、実際の西暦値をXとしますと、少なくとも

漢籍引用に用いられるY=X直線と、
百済関係に用いられるY=X-120直線と
更にもう一つ、実年代に用いられるY=3X-902直線の

3直線が重層的に統合されて日本書紀側からは見えるのですが


例えばY=X-120直線上で神功末年(神功69年)の実年代389年を取る事で
応神元年が同直線上からも単純に390年と解釈可能な訳です


その上で研究家さんは、書紀(Y)201年時に実年代(X)西暦321年を取る
百済関係に用いられるY=X-120直線以外にも、

漢籍引用に用いられるY=X直線も使える筈じゃないかと言って
神功元年の書紀(Y)201年時の実年代(X)は正に西暦201年だ!

等と大体そう云う事を言って120年構想だと言っている訳です

61 :太国:2006/05/30(火) 19:24:12
>>59
これは通常の年代の突き合わせから出た数字ですな。倍暦とかでない、一般的
素直な照合からの得られた数字ですよ。

62 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/30(火) 21:02:03
>>53
『白川本旧事記』は『先代旧事本紀大蔵経』を元に作成された、らしいので
『日本書紀』より早い成立はないでしょう。
『旧事記』の原典については別の問題だと思いますので保留。

>>56-58
将軍様はなかなか鋭いね、185・185は今まで気づきませんでした

これはまだ途中なんだけど何か意味あると思いますか?

a 83+64+60=207
b 153
c 99

a-b=54
b-c=54

詳細省略。
他のグループには成り立たないんだけど気になる


63 :日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:35:39
記紀は藤原不比等らの権力側による捏造歴史書で、本来の日本の歴史はそれ以前の
古文書を読めばすっきりする。権力側(現在まで続く)はそれを読まれたくないために
弾圧してきた歴史がある。皆さん「竹内文書」を読んで見なさい。歴史観が一変する
から!そして、世界の歴史も見方が変わってくる。さらに天皇(スメラミコト)の
意味も解るでしょう!!

64 :征東大将軍:2006/05/30(火) 23:39:22
あぁー

a古事記仁徳宝算83年、履中64年、反正60年
b古事記垂仁宝算153年
c書紀垂仁治世の99年=仁徳・履中・反正・空位の99年

って事ですね?
cの121年相当でちょっとやってみましたが合いませんでした



と云うか、A、B、Cから
差をA-B、B-C、C-Aと三つ出すと

一番大きい値は、小さい二つの値の和と同じになるようです

えぇーこう云う場合数学的に云うと・・・


誰か説明して下さいw

65 :太国:2006/05/30(火) 23:55:00
>>63
竹内文献が捏造でないと言うわけか?

66 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 09:44:20
>>57 征東大将軍さん

>part1スレの人のと合成すると

>185、
>185、
>133+60+68+99+121=481、
>121+99+68+60+133=481、
>13+1+11。

「part1スレの人」とは、パート1で、日本書紀の紀年は、孝霊元年から壬申年までの間で、
対称関係が成り立っていると主張された「日本@名無史」さんのお説であると拝察いたします。
同じことを、たしかパート1で、「◆16/YXRFBRM」もおっしゃられておりました。
このような対称関係が成り立っていることも、日本書紀紀年法が数学的思考にもとづいて
構成されている支証となるのではないかと思います。

67 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 09:50:07
>>58 征東大将軍さん
>>66でも述べましたように、日本書紀紀年法は、数学的思考にもとづいて
構成されていますので、歴代天皇の享年(宝算)にも数学的構想が、設定されている可能性があります。
そこで、私は、一案として「宝算年差の法則」を提案いたしました。
他にも、宝算構想案があるかもしれませんので、
征東大将軍さんも、宝算についても、考えてみてはいかがでしょうか。


68 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 09:54:54
>>59さん
『日本書紀』において、神武元年を紀元前660年、持統十一年を697年に位置付ける編年
において、神功元年が西暦201年となります。


69 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 10:11:55
>>62 ◆16/YXRFBRMさん
『日本書紀』の成立よりも『白河本旧事記』の成立が遅いのでるならば、
『日本書紀』が、『白河本旧事記』の歴代天皇の享年の数字を変えたという
東征大将軍さんのお説には、反することになるわけですね。
孝霊元年から壬申年までの対称関係など、◆16/YXRFBRMさんと東征大将軍
さんは、研究対象が同じようですので、>>32さんが、お二人を同一人物なのではないかと
ご指摘されていたように、私も、お二人は、同一人物なのではないかと思いましたが、
お説が異なっておりますので、こんがらないように注意いたしたいと思います。

70 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 10:17:37
>>63さん
「竹内文書」は、偽書であるといわれてきましたので、私は読んだことはありません。
「竹内文書」が、本当に『日本書紀』や『古事記』以前にあった古文書であるのならば、
たいへん重要な文献であることになります。
63さんは、まずは、「竹内文書」が偽書ではないという論拠を提示して
いただきたくお願い申し上げます。
また、『日本書紀』と『古事記』が、藤原不比等によって捏造された歴史書と
決め付けてしまうことにも、問題があります。

71 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 10:22:56
太国さん
◆16/YXRFBRMさんや征東大将軍さんなどが、唱えておられる孝霊元年から
壬申年までの数字的対称関係において、たしか、西暦元年と関連するような設定があった
ように思います。具体的にどのような設定であったのかは忘れてしまいましたが、
もしかしましたら、太国さんの二倍暦・三倍暦における西暦元年問題と
関連しているかもしれません。

72 :太国:2006/05/31(水) 11:32:33
>>71 日本書紀紀年法研究家さん
天皇の寿命、宝算は自然が関係しているわけですから、計算とかで割合や和差等
の関係を調べることは、史学的にはメリットはどういうものか? と疑問を抱き
ますな? 確かに記紀の編纂者とその取り巻き、及び原書の書いた者とその関係
が故意に宝算をいじくった等の可能性があるならば役に立つこともあるでしょう。
竹内文献の史学界での論議は今のところ、存在価値を疑っている連中が多いで
しょうから、呈上は無理としか考えざるを得ません。

73 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/31(水) 12:45:10
降参

74 : ◆LYO.s2lkEw :2006/05/31(水) 12:47:10
test

75 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 12:51:16
>>72 太国さん
日本書紀紀年法をめぐって、私が多列・並列構造論などを提起しておりますように、
また、◆16/YXRFBRMさんや征東大将軍さんたちが、孝霊元年から壬申年(672)年までの
紀年には、数字的対称関係が構築されていると唱えておられるように、
数学が、その構成要素として、大きな役割を果たしていると考えられます。
したがいまして、数学的構想が、天皇の享年(宝算)の数字にも及んでいると
推論することができます。このような意味においてメリットはあると思います。
また、『竹内文書』につきましては、わたくしは読んだことがありませんので、
どなたか、お読みになった方が、その概略を説明していただければ、さいわいです。

76 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 12:54:23
>>73 ◆16/YXRFBRMさん
「降参」とは、どのような意味でしょうか。
◆16/YXRFBRMが唱えておられた孝霊元年から壬申年までの
数字的対称関係は、一応、首肯できるのではないかと思います。

77 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 12:56:21
>>74 ◆LYO.s2lkEwさん
「test」とは、どのような意味でしょうか。意味不明です。

78 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/31(水) 13:07:18
>>64
途中は省略

a-b=b-c
a-2b+c=0

まず、aとbは古事記の同一書を典拠するものである。
cは日本書紀を典拠とするものである。
そして、cの値がaとbによって導き出されたと仮定はする場合

c=2b-a

という式が成り立つね?
つまり99年という枠組みは古事記の宝算から算出されたと考えられる
ということです。どうかな?

79 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/31(水) 13:08:51
>>76-77
ごめんね。あんた、もう用ねぇーから。

80 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/31(水) 13:13:46
ちなみにpart1スレの人や
綏靖スレの36も16/YXRFBRM本人ですから了解してくだされ。
紛らわしくてすみません。

81 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/31(水) 13:18:59
LYO.s2lkEw ってのはトリップパスを一文字間違えたのが出力されたやつ
なんですよ。>>51氏も真面目にやるのを期待してるようだから
おふざけやめたいんですけどねー。

82 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/31(水) 13:32:25
>>69
真面目な話、将軍様と16/YXRFBRMは別人ですから
16/YXRFBRMとしては紀年の対称関係性等から
当初欽明以降、現在は敏達(記571年)以降から信頼性があると
考えています。
部分的に允恭前後も信じたいんですけど
複数年代列という考え方がキーポイントになるのかな?

83 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:45:25
>>78-82

何 を う ろ た え て る ん だ、 お ま え は

84 : ◆16/YXRFBRM :2006/05/31(水) 14:08:57
うるせーな、いいわけだ

85 :太国:2006/05/31(水) 14:38:55
>>84さん
感情的にならず、今後もアドバイス等よろしく願います。

86 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 15:28:43
>>78>>82 ◆16/YXRFBRMさん
>>76>>77は、私の書き込みです。私に対しまして、

>ごめんね。あんた、もう用ねぇーから。

とは、どういう意味でしょうか。
私が、スレ主ですので、このような暴言をおっしゃられるのであれば、
このスレッドには、二度と書き込まないでください。
すなわち、◆16/YXRFBRMさんは、このスレッドがら出て行ってください。


87 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 15:35:33
>>85 太国さん
このスレッドは、日本書紀紀年法について学術的に論じるために私が立てました。
◆16/YXRFBRMさんは、スレ主である私を追い出して、スレッドを乗っ取るという
マナー違反をしております。
太国さんも、◆16/YXRFBRMさんのお仲間で、マナー違反に同調なさるようでしたならば、
太国さんも、このスレッドから出て行ってください。

88 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 15:41:42
「日本書紀紀年法がついに解明されました」の読者の皆様へ
「日本書紀紀年法がついに解明されました」というテーマでスレッドを
立てましてから、半年ほどが経ちました。スレッドでの議論がパート4まで
続いておりますことを、よろこばしく思っております。
しかしながら、私を追い出して、このスレッドの乗っ取りを試みている方々がおられるようで、
困惑しております。
ぜひ、マナーを守っていただきたくお願いもうしあげます。

89 :太国:2006/05/31(水) 15:42:54
>>87 日本書紀紀年法研究家さん
自分は同調などしてはいないですがね。相手の感情を鎮めて適正な論を
書きこむよう忠告するのは当然ではないですか?
それがしに「出ていけ」は早計な語だと思いますよ。
そんなことなら、>>84氏よりお先に逐電しますわ。おさらば。

90 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 16:48:11
762 :太国 :2006/05/30(火) 15:37:57
>>750 の結論に至った倍暦の内容

神武世    3倍暦と等倍暦
綏靖世    等倍暦
安寧、懿徳世 2倍暦
孝昭〜孝元世 3倍暦
開化世    2倍暦
崇神、垂仁世 3倍暦
景行世    2倍暦
成務世    3倍暦
仲哀世    等倍暦
神功〜仁徳世 3倍暦
履中、反正世 2倍暦
允恭〜武烈世 等倍暦
繼體、安閑世 2倍暦
宣化世以降  等倍暦

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こんなのありですか?
強引に合わせただけじゃん。

91 :前スレ858:2006/05/31(水) 18:22:23
年代復元にあたって、古事記なら2倍年暦は有効なケースもある。
書紀は、単純に60年分を水増しする方法ではどうやっても説明できないので、
最近は、干支12年の整数倍ではないかと思うようになった。

92 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 19:32:17
>>91 前スレ858さん
「干支12年の整数倍」とは、12、24、36、48、60のいずれかの年数を
水増ししたというお考えでしょうか。

93 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:20:18
研究家さん、>>51です。
今回の研究家さんの態度はいかがなものでしょうか。

太国さんは小生の意見を聞き入れて下さって、マジメな文体で応対して頂いていたのに
スレ主である研究家さんを追い出そうとしているからという解釈の下で追い出すのはいかがなのでしょうか。

拙い読解力かもしれませんが、小生が読む限りでは
>>85での太国さんは◆16/YXRFBRMさんに同調しているわけではないと思います。

研究家さんの研究内容を興味深く拝読させて頂いておりましたぶん
このようなことで議論が止まってしまうのは大変残念です。

たしかに◆16/YXRFBRMさんの態度はいただけなかったと思いますが、それと同じように反応されていては
ご自分が自信を持たれている説の信憑性が違う方面から疑われてしまうと思います。

乱文乱筆にて申し訳ありません。私もこのスレからは失礼いたします。

94 :征東大将軍:2006/05/31(水) 22:22:51



│  │
│  │
│  │  │
6   3   1

大、中、小と並び替えて考えたら話が早かったですね
大-小の差が、大-中の差と、中-小の差の和に等しいです




│  │
│  │
│  │  │
207  153  99=c

さっきので云うと大-小の差の108の1/2の54になってて
中の立ち位置が丁度、大―54→153、153←54―99
って成ってるから、成立していると云う事でしょうか

他は大-小の差の1/2差の立ち位置に中がなってないようです

95 :征東大将軍:2006/05/31(水) 22:34:19
◆16/YXRFBRMさんこそがどうやらpart1スレの例の人のようですね

16と付いていたので、てっきり邪馬台国スレの某16歳の人か何かだと思ってました


>>67
宝算に付いては依然に少しお話ししましたが
プランと云うか、、、仮説は既に建てています

でも研究家さんとはアプローチが違った方向になると思います


>>69
>>56-57>>32さんが勘違いされた以降の話ですから、
>>32さんの勘違いは別の理由じゃないでしょうか

96 :日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:51:48
「竹内文書」「宮下文書」等の古文書を先入観なしに読んでみるといい。
なぜこれらの古文書を偽書と片付けてしまうのか、学会はその証明を全てする
必要がある。同様に記紀もすべて真書とする証明も必要だろう。
お互いそれができないなら、検証する必要がある。日本の歴史は記紀だけで
網羅できないのだから、古文書を検証していく必要がある。
伊勢神宮文庫には神代文字があり、八咫の鏡の裏に書かれている文字は
「ヒフ文字」であるという。あるいは古代ヘブライ文字でもあるといわれている。
決して、漢字でもなくカタカナ・ひらがな文字ではない!これは皇室の奥の深い
秘密があるということの証明でもある。だから、日本の歴史はまだまだ奥がある。


97 :征東大将軍:2006/05/31(水) 23:14:34
>>90
例えばですね、>>57を見て貰うと解り易いですが、10代までの天皇で云うと

185年(神武76、空位3、綏靖33、安寧38、懿徳34、空位1)
185年(孝昭83、孝安102)
481年
 133年(孝昭76、孝安57)
 60年(開化60)
 68年(崇神689

こうなる訳ですが、

とするとですね、(綏靖33、安寧38、懿徳34)と(孝昭83、孝安102)を比べると
後者の異常さが解り易いですよね。

前者は三代で累積治世105年しかない訳だから
逆に孝安102は最低でも常人の3倍分に治世が水増しされてるんじゃないか?とか

同一185年区切りの孝昭も3倍に水増しされてるんじゃないか?
寿命的にも3で割ると手頃だ、とか


まぁ、最終的にそれが在りか無しかはですね、世代モデルの一致性と、
他の要因からも、その必然性が導かれるかですかね


98 :征東大将軍:2006/05/31(水) 23:31:52
01 神武      (BC660)  丙子(BC585) 76(3) 127
03 安寧 *癸丑(BC548)  庚寅(BC511) 38     57
07 孝霊   辛未(BC290)  丙戌(BC215) 76   #128

こう云うのもアレですね

99 :日本@名無史さん:2006/06/01(木) 02:29:23
>>92
12〜72年くらいです。
例えば、孝安天皇の在位期間102年は、60年引いても42年です。
少し長すぎるので、72年は水増しされているのではないかと
思うようになりました。

100 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/01(木) 13:24:41
>>94>>95>>97>>98 征東大将軍さん

>◆16/YXRFBRMさんこそがどうやらpart1スレの例の人

パート1にて、孝霊元年から壬申年までの間に数字的対称関係が成立していることを
◆16/YXRFBRMさんと、もう一方、匿名の方が指摘されていました。
◆16/YXRFBRMさんは、パート1から「◆16/YXRFBRM」というコテハンを用いています。
すなわち、数字的対称関係を指摘されていた方は、お二人おります。
したがいまして、そのもう一人の人物は、東征大将軍さんではないかと推理いたしましたが、
いかがでしょうか。
私は、東征大将軍さんが、>>97にて指摘されている「185」も含めて、孝霊元年から壬申年までの
数字的対称関係は、おそらく、『日本書紀』の編纂者が設定したものではないかと考えております。
このことからも、日本書紀紀年法が、いかに数学的構造物であるのかがわかります。
宝算につきましても、東征大将軍さんの案をたのしみにしております。

101 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/01(木) 13:29:48
>>96さん
96さんが、そこまで力説されるのでしたならば、きっとなにか日本古代史の
謎を解くヒントのような内容なのかもしれませんので、『竹内文書』を
読んでみたいと思います。
また、『日本書紀』と『古事記』が、どの程度、史料的価値があるのかにつきましては、
多列・並列構造にあることがわかり、多くの紀年に相当する実年代
を求めることができるようになりましたので、史料的価値は大いに上がったと思います。

102 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/01(木) 13:32:23
>>99 前スレ858さん
歴代天皇の在位年数から、12〜72までの倍数のどの数字を引けばよいのかということを
決める基準は何でしょうか。

103 :質問のいらつめ:2006/06/01(木) 14:18:17
>>93さん、ならびに、皆様方
 つかぬ事をおたずねしますが、2ちゃんねるのルールといたしまして、
スレ主に、スレ参加者を追い出す権限は、認められているのでしょうか?
もしも、スレ主に権限がないのにもかかわらず、論者を追い出したと
いうことになりますと、それは、越権行為となってしまうかもしれません。
スレ主の妹として、スレ主が判断を誤り、皆様方にご迷惑をおかけしたの
ではないかと、心配いたしております。スレ主の権限の範囲については、
幅広い了解が必要であると思いますので、どなたか、教えてくださいませ。

104 :日本@名無史さん:2006/06/01(木) 15:43:35
>>103
2chにおいては基本的にスレ主という概念は存在しません。
参加者は皆平等です。
それは、極々少数の例外はあるものの、運営側、削除人などのボランティアの人間であっても変わりません。

ただしスレ立て人が話の振り役である以上、実質上のスレ主のような役割を果たす場合はありますが、それはそれだけのことであり、なんらかの権限が与えられる訳ではありません。
一応スレ違いのレスに関しては削除依頼(要請の方だったかな?)が出来ますが、スレ立て人以外にも同等の権利があり、実際に削除されるか否かは削除人、あるいは運営側次第です。

105 :日本@名無史さん:2006/06/01(木) 20:36:10
日本書紀紀年法研究家へ
 ありがとうございます。「記紀」「竹内文書」「宮下文書」等の年代区分は
「多次元同時存在の法則」(蘢神社第82代宮司・海部氏の説)によって解明
出来るとあります。つまり、記紀の神武天皇から仁徳天皇までは同一人物の別名
表記である可能性があるということ。つまり、天照大神(イエス・キリスト)である。
伊勢神宮は三宮からなり、国史も三書からなる。古事記・日本書記・先代旧事本紀
であるのに、先代旧事本紀のみは藤原不比等によって封じ込められた。それは、物部氏が
神武以前の記録を預かっているからであり、それが公になれば権力側に不都合だから。
この日本は古代ユダヤ民族(秦氏がその代表)の国になり、表は八百万の神々を敬って
いることになっているが、裏は一神教だということ。伊勢神宮はその象徴。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/index.htm
このサイトも参照してください!仁徳御陵とピラミッドは同じ尺度で作られている
ことが解ります。学者の検証が必要ですが・・・


106 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/02(金) 08:30:00
>>104さん ならびに >>103 質問のいらつめさん
たしかに、私は、議論の議題の提案者であって、書き込みをなさる方々を追い出す権利は
ないかもしれません。
しかしながら、このスレッドは、私の多列・並列構造論が議題ですので、
「用は無い」、すなわち、書き込むなと言われてしまいますと、困ったことになります。
議題が私の説であるにもかかわらず、私本人が質疑応答することができなくなるからです。
問題は、マナー違反者にどのように対処するかです。
私は、◆16/YXRFBRMさんに対しては、「このような暴言をおっしゃられるのであれば」、
太国さんに対しては、「マナー違反に同調なさるのであるならば」という条件を付けました。
それでも、もう議論に参加されないようでしたならば、条件を守るおつもりがないのでしょうから、
しかたがありません。

107 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/02(金) 08:43:19
>>105さん
興味深いご指摘と思います。
日本書紀紀年法の構造的観点から、『日本書紀』と『古事記』が、
グランド・プランとも称せるるような密接な相互補完関係にあることは、
はっきりしています。これに『先代旧事本紀』が加わるというわけですね。
籠神社の先代海部様が、様々な史書の「多次元同時存在の法則」について
ご研究なされていることは、存じ上げております。
かなり、研究を進められたようなのですが、道半ばで、逝去されてしまわれたそうです。
以前に、籠神社の現宮司の海部様より先代の研究成果を見せていただけるとのお話があったのですが、
私も、自分の研究に忙しく、そのままになっておりました。
研究者の方で、どなたか、先代海部様のご研究を引き継がれておられる方はいらっしゃるのでしょうか。

108 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 08:59:29
>>106
> 「用は無い」

は◆16/YXRFBRMさんにとって研究家さんに対してレスする気がないという意思表明なだけであって、
研究家さんに対して書き込むなといってるわけではないと思います。
相手に議論する気がない以上はスルーしかありません。
ちょっときつい言い方になりますが、相手が無視するよ〜と泣いても誰も助けてくれません。
そういった相手は無視をするか、あるいはスレの価値がなくなったと判断して去るかのどちらかしかないでしょう。

あと「多列・並列構造論」を中心に据えたいのであれば、スレタイ等を工夫する必要があるかもしれません。
研究家さんにとっては日本書紀紀年法=多列・並列構造論なのでしょうが、その他の構造論を主張する人もいます。
多列・並列構造論を論じないレスも現行ではスレ違いとは言い切れない状態であります。
研究家さんが多列・並列構造論のみについて議論したいのであればスレタイ変更をお勧めします。

109 :日本@名無史さん:2006/06/02(金) 09:26:27
十七条の憲法現代語訳

第1条 お前ら仲良くしる
第2条 仏様とお経と坊さんは大切にしろよ
第3条 天皇陛下の詔勅は謹んで受けろ
第4条 役人は礼儀と身分をわきまえろ
第5条 人を裁く奴は賄賂とかに惑わされんなよ
第6条 DQNは叩け。いいことしろ。
第7条 役人はちゃんと自分の仕事をしろ。
第8条 役人は朝早く出勤して夜遅く帰れ。きっちり定時なんかに帰るなよ。
第9条 信用は大切だぞ。
第10条 他人が何か間違ったことしてもあんまり怒るな。
第11条 功績や過ちはハッキリさせて、賞罰とかその辺きっちりさせろよ。
第12条 役人は住民から搾取しちゃダメだろ。
第13条 役人ども、おまいらは同僚が何やってるかはきっちり知っておけよ。
第14条 役人は他の市とかの方が給料高いからって妬んだりすんな。
第15条 役人どもはてめー財布のことばっかり考えてないで国のために働け。
第16条 国民に何か課すときは、必ず時期とか空気読んでやれよ。
第17条 重要事項は会議して決めろ。ひとりでこそこそやんなよ。


110 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 08:37:03
神武天皇は西暦60年に即位が一番あってるんじゃない?

111 :征東大将軍:2006/06/03(土) 10:05:02
60年以前にしないと世代モデルを合わせるのが難しい筈

系図を無視した兄弟相続説を取るなら大丈夫だろうけど

112 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:21:23
>>108さん
日本書紀紀年法の多列・並列構造論は私の説で、論文、著作において2002年から2003年にかけて
発表いたしました。
日本書紀紀年法が、多列・並列構造にあることは疑いがありませんので、せっかくの
研究成果を多くの研究者や一般の方々に知っていただきたいと思いました。
私の論文と著作を読んだ人々しか、知らないというのでは、研究成果が日本古代史研究の役に立ちません。
そこで、このスレッドを立てたわけです。
多列・並列構造についてのご質問に対しては、誠実にお答えしてきたつもりです。
ところが、暴言、暴論をもって、私の説を潰そうとしたり、スレッドから私を追い出そうという
動きがあったようで、困惑することになりました。
スレ主には、追い出す権利があるというご意見が、以前にありましたので、
>>86>>87のような対応をいたしました。
追い出す権利がないとおっしゃられる方々もおられるようですので、これからは、
気をつけたいと思います。


113 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:27:19
>>109さん
憲法十七条に限らず、『日本書紀』や『古事記』を、わかり易い、
平易な現代語訳にしますと、時代の様相が見えてくる場合があります。
もう少し、丁寧な言葉を使ったようがよいとも思いますが、憲法十七条の内容には、
当時、綱紀粛正が必要であったことが、表れているのでしょう。

114 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:29:32
>>110さん

>神武天皇は西暦60年に即位が一番あってるんじゃない?

どのような論理構成において、「一番あっている」のでしょうか。

115 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:31:43
>>111さん

>60年以前にしないと世代モデルを合わせるのが難しい筈

「世代モデル」とは、何でしょうか。

116 :征東大将軍:2006/06/03(土) 11:30:54
 生年  即位年 崩御年   備考
神武b60  b30   b01

綏靖b30  001   031

安寧001  031   061

懿徳031

孝昭061

孝安091

孝霊121

孝元151

開化181  211   241     卑弥呼遣使239

崇神211  241   271     崇神十年箸墓/卑弥呼死248頃

垂仁241              天日槍来朝

景行271   
┠―――――――┐
武尊301~30    成務     武内宿禰
┃ 
仲哀331====神功     七支刀作刀369、七支刀伝来
┃ 
応神361  391
┃ 
仁徳391大鷦鷯皇子      木兎宿禰    菟道稚朗子

117 :征東大将軍:2006/06/03(土) 12:15:04
まぁ、これは極端な標準モデルの例で、
一世30年モデルで即位年に皇位継承者が生まれると設定な訳だが

私の場合は、崇神末年を268年、応神元年が390年に設定している
説を建てている訳だから、この間は、ほぼ完全に合ってる


崇神の没年を干支一順手前に持ってくると、世代モデル的にちょっと苦しい


それと神武から昭和までの正統天皇が71世代
日本の歴史を2000年とすれば、2000/71で28.16年/世?


もっとも初期の天皇寿命は60歳を下回るだろうから、
神武の生年がbc60と云うのが限界年代近くであるとも言えると云う事かもしれないが
長子継承でない場合を考えれば、もう少し古くても構わないはず


逆にちょっと頑張れば無理なく神武即位年に紀元元年に持ってくる事は可能だが
ad60年だと、うーんやっぱりそれはどうだろう、って感じがする

2代以下の天皇に対して、系図を無視して兄弟関係に据えることで
これを解決しようと云う論もある

118 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/04(日) 09:34:56
>>116>>117 征東大将軍さん
征東大将軍さんは、歴代天皇の平均財年数30年という統計学的手法をもって、
標準モデルを作られたわけですね。
私の説でも応神元年は390年になりますので、参考になります。
しかしながら、日本書紀紀年法では、しん緯暦運説がもちいられていて、
一元の「60年」が多用されているために、きれいに390年となるとは考えられないでしょうか。
30年は、一元の半分の年数ですので。
また、統計学による数値は、実際の数値と異なる場合がありますが、これは
どのようにお考えでしょうか。

119 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 10:55:34
http://blog.ipetclub.jp/

120 :日本@名無史さん:2006/06/04(日) 11:51:29
5世紀の天皇を見ると凄く短い期間なんだよね

121 :征東大将軍:2006/06/04(日) 12:28:15
えぇー、在位年数30年を設定したんじゃなくて
生年差を30年に設定した訳ですが

天皇の平均在位年数と云うのは、
結局は一世あたり平均の生年差数に依存する訳ですから


それと統計ってのはサンプル数が多ければ多いほど収束性がある訳ですし
標準値で30の所を、算出値で30弱と云うのは、整合性が高い事の証明でしょう

一世の意味自体も30年ですしね。歴史的数値じゃないでしょうか


それと、この系図が正しいとして、応神生年を361年を基準に設定して

一世20歳でカウントすれば神武の生年はad81年
一世25歳でカウントすれば神武の生年はad11年
一世30歳でカウントした神武の生年がbc60年でしょうか

一世28歳だと神武の生年がad-31、
これだとAD1年辺りに即位しても不自然さはないですかね
まぁ、これらは、あくまでも「モデル」ですが


それに10歳で次期継承者が生まれたり、80歳で次期継承が生まれたり
と云う異常な実年代モデルが復元されるなら、それはチョットおかしい訳ですから

そうなれば系図を否定するか、系図の正当性を認めながら
その世代モデルの異常さを正当化するか、復元した当該実年代モデルを否定するか
と云う事なんかが迫られるので、実年代検証には崩御年の特定以上に
生年の特定(或いは合理的に設定)する事の方が、
その各説での実年代復元モデルの正当性を強固にする筈です

122 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/05(月) 13:05:04
>>121 征東大将軍さん
「生年差を30年に設定」したわけですね。
『日本書紀』では、1)兄弟相承がかなりあることと、2)異世代間の通婚がますので、
世代モデルを作成することは、難しいのではないかと思います。
兄弟姉妹の間で、かなり、年齢差があると考えられます。
むしろ、「異常な実年代モデル」が復元されてしまう気がするのですが、この点は、いかがお考えでしょうか。

123 :質問のいらつめ:2006/06/07(水) 17:26:01
>> 日本書紀紀年法研究家さん
 基本に戻って質問いたしますが、紀年法と暦法とは、どこが違うの
でしょうか?また、それぞれの特徴を教えてくださいませ。

124 :日本@名無史さん:2006/06/07(水) 20:38:23
日本書紀紀年法研究家さん・・・
貴方の「記紀」の解釈には尊敬の念を感じます。
ところで、古史3部の一翼を担う「先代旧事本紀大成経」
(ほとんど世に顕れない)の一部でも読まれたことは
ありますか?私には難解過ぎてお手上げです。
しかし、この天皇家と六家が秘匿してきた内容を纏めた
この古書にこそ、本来の日本の歴史の根元があると思うのですが・・・
ピラミッドや日本の古墳が何を示しているのか、おぼろげながら理解
できます。
また、神武天皇とは人間の姿をしていたのか?興味深い点もありますが・・


125 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/08(木) 09:58:19
>>123 質問のいらつめさん
紀年法は「年」の構成法で、暦法は「年月日(暦日)」の構成法であるといえます。
例えば、元号や干支紀年法は紀年法ですし、西暦(グレゴリウス暦)や元嘉暦などは暦法です。
紀年法と暦法は一致する場合があります。例えば、2006年1月1日は、平成18年1月1日です。
しかしながら、一致しない場合もあります。
『日本書紀』の暦法については、小川清彦氏によって元嘉暦と儀鳳暦が用いられていることが明らかとされています。
では、紀年法はどうかといいますと、研究史上、各々の紀年に相当する実年代は求めることができないとされてきました。
それは、紀年と実年代との関係に明らかな矛盾が認められるからです。
すなわち、日本書紀紀年法は未解明の問題であったのです。
そこで、日本書紀紀年法が、どのように構成されているのかについて、
多列並列構造説を提起させていただきました。多列並列構造にあると考えますと、
これまで、矛盾として捉えられていた点を論理的に説明できるようになるのです。
多列並列構造説については、研究者、ならびに、一般の皆様に、ぜひに、
その是々非々を議論していただきたいと考え、このスレッドを立てさせていただきました。

126 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/08(木) 10:07:09
>>124さん
「先代旧事本紀大成経」は、偽書であるとのことでしたので、読んだことがありません。
しかしながら、124さんのご指摘から、たいへん興味を持ちました。
ぜひ、読んでみたいと思います。
『日本書紀』と『古事記』だけでは説明できない部分が、見えてくるのかもしれません。
また、「神武天皇とは人間の姿をしていたのか?」につきましては、
これは、神武天皇は、実在していたわけではなく、ピラミッドや古墳の意味と関連した
観念的存在であったということなのでしょうか。

127 :質問のいらつめ:2006/06/08(木) 17:44:32
>>日本書紀紀年法研究家さん
 大変基本的な質問ですが、『日本書紀』は、いつ頃、誰によってに作成され
たのでしょうか?定説では、舎人親王ということになっておりますが、この
定説のとおりに考えても差し支えはないのでしょうか?

128 :日本@名無史さん:2006/06/08(木) 22:19:07
>>研究家さん

太国爺さんが、このスレに戻ってきてもいいでしょ?
研究家さんは別に怒っておられないのでしょ?

129 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/09(金) 08:24:50
>>質問のいらつめさん
『続日本紀』によれば、『日本紀』は養老四(720)年に成立したとされています。
養老五年には、『日本紀』の講義が、朝廷において行われていますので、『日本紀』は
720年に成立したと考えられます。
しかしながら、日本書紀紀年法の構成からは、『日本書紀』として成立したのは、
740年代なのではないかと推論できます。
すなわち、『日本紀』が改編されて、740年代に『日本書紀』が成立したのではないでしょうか。
『日本紀』の成立過程、そしてまた、現存『日本書紀』の成立過程については、まだ、きちんと明らかにされている
わけではありませんので、興味深い研究テーマです。

130 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/09(金) 08:42:03
>>128さん
このスレッドにての書き込みは自由です。
そもそも、スレ主には、追い出す権利は無いようですので。
ただし、私を追い出そうとなさらないでください。
問題の発端は、16◆/YXRFBRMさんが、暴言によって私をスレッドから追い出そうとしたことにあります。
スレ主にも追い出す権利は無いのですから、書き込まれる方々にもスレ主を追い出す権利は無いはずです。

131 :質問のいらつめ:2006/06/09(金) 20:09:06
>>日本書紀紀年法研究家さん
 『日本書紀』の成立以前に『日本紀』が編纂されていたとのことですが、
両者には、どのような違いがあるのでしょうか。紀年法や暦法にも異なる
点が見られるのでしょうか?

132 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/10(土) 09:37:36
>>131質問のいらつめさん
紀年法の構成(編年)や記述内容が多少異なっていたと考えられます。
基本年代列の応神列(A列)と雄略列(B列)との間には、実年代との関係において
120年のズレがあります。この年差を利用して、奈良時代の政治的事象を用明紀、崇峻紀、推古紀
に付会させています。
ただし、プラス・マイナス120年構想は、720(養老四)年の『日本紀』の成立時に
すでに設定されてあったと考えられます。

133 :質問のいらつめ:2006/06/10(土) 10:16:06
>>日本書紀紀年法研究家さん
 現存の『日本書紀』に見られる多列型の紀年法は、『日本紀』の成立
時点において、既に用いられていたのではないか、と考えておられるよ
うですが、このように推測には、何か、根拠があるのでしょうか?

134 :征東大将軍:2006/06/10(土) 17:32:38
y=3x-902上で
三国史記百済本紀418年記事と
日本書紀353仁徳41年記事が直交する事を確認した

と云う事でこっちの方が分がありそうだ

書紀379年記事は古事記没年干支年に合わせて
設定されて居たと云う意味になりそうだ

135 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/11(日) 09:03:42
>>133 質問のいらつめさん
プラス・マイナス120年構想は、『古事記』崩年干支を用いることで、
復元できるようになっています。
『古事記』は、和銅五(712)年に成立したとされていますので、
養老四(720)年の『日本紀』の成立時には、既に設定されてあったのではないかと
考えられます。また、『日本書紀』と『古事記』の相互補完関係を踏まえると、
『古事記』の成立は、養老四(720)年に近い年代であるかもしれません。

136 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/11(日) 09:12:58
>>134 征東大将軍さん
仁徳41年は西暦418であるとおっしゃられておられるのでしょうか。
「Y」は西暦(実年代)、「X」は『日本書紀』の編年上の年代ということでしょうか。
もし、そであるのならば、「Y=3X−902」の式においては、3年ごとにしか実年代を
求めることができない気がします。


137 :質問のいらつめ:2006/06/11(日) 16:21:07
>>日本書紀紀年法研究家さん
 『日本書紀』と『古事記』が相互補完関係にある、ということが、すなわち、
『日本紀』と『日本書紀』が同じような紀年構造(多列構造)を持っていたこ
との論拠となるのでしょうか?もし『日本紀』と『古事記』が、紀年を解くた
めに二書一対として編纂されたとしますならば、『古事記』が推古期で終わっ
ている理由は、推古期以降には多列構造を用いる必要がないため、と解釈でき
ると思われますが、いかがでしょうか?

138 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/12(月) 07:56:03
>>137 質問のいらつめさん
日本書紀紀年法において、応神列(A列)と雄略列(B列)との間に実年代に対して、
120年のズレがあることを用いて、奈良時代の歴史的事象を用明紀・崇峻紀・推古紀
に投影させるという構想も設定されています。この構想は、推古紀までですので、
『古事記』は推古紀までになっているのではないかと推論いたしております。
逆説的には、推古三十六年の628年に120年を加えた748年以前に、
これらの構想が設定されたと考えることができます。

139 :質問のいらつめ:2006/06/12(月) 15:24:33
>>日本書紀紀年法研究家さん
 それでは、『日本書紀』と『日本紀』とは、どのように違うのでしょうか?
『日本紀』の編纂の後に、わざわざ『日本書紀』に改編しなおした理由は、
どのような歴史的事情に求められるのでしょうか?

140 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/13(火) 08:11:57
>>139 質問のいらつめさん
憶推とはなりますが、『日本紀』の段階で、プラス・マイナス120年構想などのいくつかの構想が設定
され、『日本紀』を改編して、さらに別の紀年構想を加えてたのが『日本書紀』ではないかと考えます。
例えば、応神列(A列)と雄略列(B列)との間に実年代に対して120年の年差があることから、
奈良時代の歴史的事象を用明紀、崇峻紀、推古紀に、多少投影させる構想などが、
新たに加えられた紀年構想であると考えられます。
日本書紀紀年法という数学的構造物は、さらに複雑なものとなったことになります。

141 :質問のいらつめ:2006/06/13(火) 16:03:09
>>日本書紀紀年法研究家さん
 それでは、何故、『日本紀』の編纂に際してプラス・マイナス120年構想が
設定されたのでしょうか。それ以前の史書には、こうした構想がなかったと
考える理由とは、どのようなものなのでしょうか?

142 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/14(水) 09:50:36
>>141質問のいらつめさん
プラス・マイナス120年構想が、いつの段階において構想されたのかはわかりません。
それは、プラス・マイナス120年構想は、およそ3世紀から5世紀までをカバーしていますので、
6世紀以降に史書の編纂があった場合に、その時から設定されていた可能性もなきにしもあらずであるからです。
例えば、欽明・継体天皇の頃の「帝紀」・「旧辞」、推古朝の「天皇記」・「国記」、
そして、天武朝の「帝紀」・「上古諸事」などがありますので、いずれかの史書が成立した際に、
既に、プラス・マイナス120年構想が設定されてあったとも考えられます。
また、このような構想が考えられた理由は、おそらくは、多列・並列構造ですと、
5世紀史をよく表現できると考えられていたからではないかと、思います。

143 :質問のいらつめ:2006/06/14(水) 17:41:45
>>日本書紀紀年法研究家さん
 『日本書紀』には、特に神代の巻に「ある書に曰く…」という表現が多く
見られますが、この異説を複数並べるという並列的な表記と紀年法の全体の
多列構造とは、何か関係があるのでしょうか?

144 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/15(木) 08:56:53
>>143質問のいらつめさん
なぜ、『日本書紀』神代紀においてのみ、複数の説が並べてあるのか、万人を納得させるような説は、
研究史上もたらされておりません。
神代紀において複数の書の説が併記されていることは、大変興味深い研究課題なのです。
私も、研究しておりますが、この研究課題はかなり難しく、日本書紀紀年法の多列・並列構造と関連あるのか、
ないのか、現時点では、まだわかりません。
神代紀の説の並列説問題を解くには時間がかかりそうです。

145 :質問のいらつめ:2006/06/15(木) 09:57:06
>>日本書紀紀年法研究家さん
 そういたしますと、『日本書紀』の紀年法が、多列構造になっている
理由は、三世紀から五世紀にかけての”歴史”にある可能性が最も高い
ということなのでしょうか?紀年の列には「応神列」「雄略列」「允恭
列」「仁徳列」がありますが、これらの何れもが、上記の期間に含まれ
ておりますことも、何らかの意味があるのでしょうか?

146 :太国:2006/06/15(木) 14:32:21
研究家さん、ご無沙汰です〜!
まぁ余は2倍年歴の真実スレに書き込んでましたが〜、
なかなかスレも伸びないので、またここに書き込ませてもらいます。
よろしく〜!

147 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/16(金) 15:32:02
>>145 質問のいらつめさん
>『日本書紀』の紀年法が、多列構造になっている
>理由は、三世紀から五世紀にかけての”歴史”にある

多列・並列構造になっている理由は、3〜5世紀史にあると推論しております。
では、それが具体的にどのような歴史的状況を表現したものであるのか、
という段階になりますと、難しい課題です。
まだ、仮説の段階ですが、試案はありますので、説得力のある説明ができるのではないかと考えております。

148 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/16(金) 15:39:29
>>146 太国さん
日本書紀の編年や歴代天皇の享年(宝算)に見える非現実的数字を説明する
アプローチとして、二倍・三倍年暦が説得力があるのか、それとも、
私が提起させていただいている多列・並列構造論に説得力があるのか、
まだ決着は着いておりません。
太国さんには、二倍・三倍年暦説を、皆様や私に納得の行くような理論構成で
披瀝していただきたいと思います。


149 :質問のいらつめ:2006/06/17(土) 09:22:26
>>日本書紀紀年法研究家さん
 『日本書紀』の多列構造におきましては、”プラス・マイナス120年”、
つまり、”120”という数字が鍵となっているように見受けられます。この
数字には、何らかの意味があるのでしょうか?それとも、偶然に過ぎない
のでしょうか?

150 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/17(土) 11:46:15
>>149質問のいらつめさん
120年という数字は、しん緯暦運説の四六二六相乗説にもとづいていると考えられます。
すなわち、4×6=240年と2×6=120年は、重要な天数です。
三善清之の「革命勘文」にも、120年と240年については言及がなされており、
清之自身は、これらの数字、どのように日本書紀紀年法に応用されているのかを知らなかったようなのですが、
120年と240年という数字が日本書紀紀年法を構成する重要な数字であることだけは、
朝廷知識層の間に、伝承されていたのではないかと推論できます。

151 :質問のいらつめ:2006/06/17(土) 16:27:47
>>日本書紀紀年法研究家さん
 120年を重要な天数とするしん緯暦運説とは、いつ頃の時代に唱えられた説
なのでしょうか?

152 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/18(日) 10:23:25
>>151質問のいらつめさん
『易緯』や『詩緯』などの緯書の解釈として緯暦運説がありますが、これには多くの説があります。
四六二六法も、その一説で、『易緯』の解釈にもとづいています。
三善清之の「革命勘文」によると、わが国には、『易緯』のじょう玄の注として四六二六法が伝わっていたようです。
じょう玄は後漢の学者ですので、遅くとも、1世紀頃から唱えられていた説となります。

153 :日本@名無史さん:2006/06/21(水) 19:14:08
正直言って、紀年法の事で研究家さんに質問する事は、
2ちゃんねるの人間には限界がありますw
もっと歴史全般に話を拡げられてはいかがでしょうか?

154 :日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/22(木) 12:47:50
>>153さん
日本書紀紀年法を最も論理的、合理的に説明し得る仮説として、プラス・マイナス120年構想、
ならびに、多列・並列構造論を提起させていただきました。
もし、私の説が正しければ、日本書紀研究が進み、
史学・考古学などの研究者の方々にも利用、応用していただくことができるようになります。
すなわち、スレッドを立てた目的は、これまで実年代を求めることができないとされていた日本書紀の紀年の多くが、
これを求めることができるようになったということを、多くの人々に知っていただきたかったからです。

155 :日本@名無史さん:2006/06/25(日) 20:38:21
東北6県−青森−岩手−山形−宮城−福島

156 :日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:44:29
★朝鮮人が漢字を習得したのは日本人より後・・★

朝鮮人(新羅人)は10世紀まで、漢字の読み書きができなかった。
918年に高句麗人の残党が建国した高麗になってから、半島東南部=旧新羅でも
漢字が普及し始めた。
つまり、朝鮮人が漢字の読み書きを覚えたのは11世紀以降。
早くても10世紀後半から。

【在日コリアンとの共生は身近な国際化・・・】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1150741452/662-688


157 :日本@名無史さん:2006/07/12(水) 22:21:46
へえ

158 :征東大将軍:2006/07/12(水) 22:31:34
ヤレヤレだぜ

159 :日本@名無史さん:2006/07/13(木) 08:55:39
還暦2周とかじゃないの?


160 :日本@名無史さん:2006/07/14(金) 00:48:23
一世30年と考えるのは古代では苦しいでしょ
10〜20年と考えるべきじゃないかな

161 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:40:34
★初代天皇=神武天皇(じんむ天皇)
(在位:紀元前129年1月1日〜紀元前92年3月11日=37年)
                 (空位・・・・・4年)
第2代天皇=綏靖天皇(すいぜい天皇)
(在位:紀元前88年1月8日〜紀元前72年5月10日=16年)
第3代安寧天皇(あんねい天皇)
(在位:紀元前72年7月3日〜紀元前53年12月6日=19年)
第4代天皇=懿コ天皇(いとく天皇)
(在位:紀元前53年2月4日〜紀元前36年9月8日=17年)
(空位・・・・・2年)
第5代天皇=孝昭天皇(こうしょう天皇)
(在位:紀元前34年1月9日〜紀元前9年8月5日=25年)

第6代天皇=孝安天皇(こうあん天皇)
(在位:紀元前8年1月7日〜43年1月9日=51年)
(空位・・・・・1年)
第7代天皇=孝靈天皇(こうれい天皇)
(在位:44年1月12日〜82年2月8日=38年)
(空位・・・・・1年)
第8代天皇=孝元天皇(こうげん天皇)
(在位:83年1月14日〜111年9月2日=28年)
第9代天皇=開化天皇(かいか天皇)
(在位:111年11月12日〜141年4月9日=30年)

第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇)
(在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年)


162 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:47:28
応神天皇の母=神功皇后(じんぐう皇后)
(在位:308年〜357年4月17日=49年)
(空位・・・・・1年)
第15代天皇=応神天皇(おうじん天皇)
(在位:358年1月1日〜378年2月15日=20年)
<生没年201年〜310年没>

第16代天皇=仁徳天皇(にんとく天皇)
(在位:381年1月3日〜424年1月16日=43年)
<生没年257年〜399年没>

第17代天皇=履中天皇(りちゅう天皇)
(在位:425年2月1日〜428年3月15日=2年半)
<生没年319年?〜405年没>
(空位・・・・・1年)
第18代天皇=反正天皇(はんぜい天皇)
(在位:429年1月2日〜431年1月23日=2年)
<生没年336年?〜410年没>
(空位・・・・・2年)



163 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:48:38
第19代天皇=允恭天皇(いんぎょう天皇)
(在位:433年12月〜454年1月14日=20年半)
<生没年 ?年〜453年没>

第20代天皇=安康天皇(あんこう天皇)
(在位:454年12月14日〜456年8月9日=1年半)
<生没年 ?年生〜456年没>

第21代天皇=雄略天皇(ゆうりゃく天皇。418年生):【注】この天皇の代から歴代天皇の寿命が正常になる。
(在位:456年11月13日〜479年8月7日=23年)
<生没年  ?年生〜479年没>

第22代天皇=清寧天皇(せいねい天皇)
(在位:480年1月15日〜484年1月16日=4年)
<生没年444年?〜484年没>

第23代天皇=顯宗天皇(けんぞう天皇)
(在位:485年1月1日〜487年4月25日=2年)
<生没年450年〜487年没>

第24代天皇=仁賢天皇(にんけん天皇)
(在位:488年1月5日〜498年8月8日=10年)
<生没年449年〜498年没>

第25代天皇=武烈天皇(ぶれつ天皇)
(在位:498年12月〜506年12月8日=8年)
<生没年489年〜507年>


164 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:50:30
第26代天皇=継体天皇(けいたい天皇)
(在位:507年2月4日〜531年2月7日=24年)
<生没年450年生?〜531年没>
第27代天皇=安閑天皇(あんかん天皇。466年生)
(在位:531年2月7日〜535年12月17日=4年)
<生没年466年生〜536年没>
第28代天皇=宣化天皇(せんか天皇。467年生)
(在位:535年12月〜539年2月10日=4年)
<生没年467年生〜539年没>
第29代天皇=欽明天皇(きんめい天皇509年生)
(在位:539年12月5日〜571年4月15日=32年)
<生没年509年生〜571年没>
第30代天皇=敏達天皇(びだつ天皇。538年生?)
(在位:572年4月3日〜585年8月15日=13年)
<生没年538年生〜585年没>
第31代天皇=用明天皇(ようめい天皇。生年不明)
(在位:585年9月5日〜587年4月9日=2年)
<生没年  ?年生〜587年没>
第32代天皇=崇峻天皇(すしゅん天皇。生年不明 )
(在位:587年8月2日〜592年11月3日=5年)
<生没年  ?年生〜592年没>

第33代天皇=推古天皇(すいこ天皇。女性天皇)
(在位:592年12月8日〜628年3月7日=36年)
<生没年 554年生〜628年没>



165 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:55:48
第14代天皇=仲哀天皇(ちゅうあい天皇)
(在位:289年1月11日〜307年2月6日=18年)
             
(空位・・・・・1年)
応神天皇の母=神功皇后(じんぐう皇后)
(在位:308年〜357年4月17日=49年)
第15代天皇=応神天皇(おうじん天皇)
(在位:358年1月1日〜378年2月15日=20年)
<生没年201年〜310年没>
第16代天皇=仁徳天皇(にんとく天皇)
(在位:381年1月3日〜424年1月16日=43年)
<生没年257年〜399年没>
第17代天皇=履中天皇(りちゅう天皇)
(在位:425年2月1日〜428年3月15日=2年半)
<生没年319年?〜405年没>
(空位・・・・・1年)
第18代天皇=反正天皇(はんぜい天皇)
(在位:429年1月2日〜431年1月23日=2年)
<生没年336年?〜410年没>
(空位・・・・・2年)
第19代天皇=允恭天皇(いんぎょう天皇)
(在位:433年12月〜454年1月14日=20年半)
<生没年 ?年〜453年没>
第20代天皇=安康天皇(あんこう天皇)
(在位:454年12月14日〜456年8月9日=1年半)
<生没年 ?年生〜456年没>



166 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:59:15
>>161の続き

第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇)
(在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年)

第11代天皇=垂仁天皇(すいにん天皇)
(在位:176年1月2日〜226年7月14日=50年)
                
                   (空位・・・・・1年)
第12代天皇=景行天皇 (けいこう天皇)
(在位:227年7月11日〜257年11月7日=30年)

第13代天皇=成務天皇(せいむ天皇)
(在位:258年1月5日〜288年6月11日=30年)

                   (空位・・・・・1年)
第14代天皇=仲哀天皇(ちゅうあい天皇)
(在位:289年1月11日〜307年2月6日=18年)
             


167 :tr:2006/07/29(土) 13:01:32
強くて優秀な男に導かれることは女の本能だ.

韓国女は日本男をバカにするが

日本女性には韓国の男が偶像だ.

女達の目は正確だ.

日本人は劣等だ.



168 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:11:04
第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。
この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。

やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢は不安定化し、
北方のワイ人がシラキに流入し始めたようだ。
3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、
やがてシラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。


169 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:14:46
>>167
そんなことはドーでもよろしい(W

重要なのは、日本古代史を研究すればするほど、
日本人と朝鮮人の<無関係性>が明らかになっていくことだ。

朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないことが分かる。


170 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:25:39
第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇)
(在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年)

第11代天皇=垂仁天皇(すいにん天皇)
(在位:176年1月2日〜226年7月14日=50年)
                
                   (空位・・・・・1年)

第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。
この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。

やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢は不安定化し、
北方のワイ人がシラキに流入し始めたようだ。
3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、
やがてシラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。


171 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:28:02
天オタの自作自演の場所なら他にいっぱいあるでしょうに
まじめな議論をしているスレまで学問とは関係ないイデオロギーで荒らすのは止めましょうよ

172 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 14:09:24
>>17
何かあったの?
何番に言ってるの?




173 :日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:15:39
■歴代天皇【日本版ダヴィンチコード】■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1148778771/49-54

卑弥呼は、神功皇后ではないようだね。
卑弥呼は垂仁天皇と同時代の人間だから・・。

第13代=成務天皇の時代には、卑弥呼はすでに死んでいる。

天日矛が日本に移住したのは、魏が公孫氏領=楽浪郡を滅ぼしたことと
関係があるようだね。
魏と公孫氏の戦争のトバッチリを受けたのかな。
天日矛は、なぜヤマトに亡命したのか、みんなで考えてみよう。


174 :日本@名無史さん:2006/08/03(木) 20:48:54
■歴代天皇【日本版ダヴィンチコード】■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1148778771/49-54

どうやら、百済を建国したのは神功皇后のようだ・・・。
百済が最初に建国されたのは西暦314年。
神功皇后の時代と重なる。

 百済国=百姓国(はくせい国)
  百姓=多くの姓=百官(多くの官吏)

やはり、楽浪郡の役人たちの亡命政権らしい。


175 :日本@名無史さん:2006/08/05(土) 18:01:28
>>174
やっぱり、大和朝廷が百済建国に関与していたか!






176 :ぴくぽぽでみ:2006/08/10(木) 13:52:28
日本書紀紀年法研究家さん、始めまして。

ネットでいろいろ思いつきを書き込みしている、ぴくぽぽでみと申します。
ちなみに日本書紀の原文はちょっと読めない程度のものです。
よろしくお願いします。

どうも先生は紀年が多系列になっている理由は、その時代の王権の構造に関連すると考えておられるようですね。
つまり、政治軍事外交に実権をもった王と、日嗣の王の二系統があると考えておられるようだと推察します。
実は私もそのような考えに至っています。

理由は記紀の系図に関する考察です。
実は景行天皇の異常な異世代婚について考えて見たのですが、この異常はもしや古い系図を後に改変したせいではないかと気づきました。
そこで、景行伝説の核心部分に当たる系図、オシロワケ、ヲウス、オオウスの三人の婚姻関係に着目して、天皇系図の女性との世代関係を調べてみると、景行の世代を、崇神と同世代とすることで、矛盾がもっとも少なくなることに気がつきました。
それでもハリマノイナビノオホ郎女などとは世代が逆になるのですが、記紀本文に見える、百襲姫を叔母とよび、タケハニヤスを我之庶兄と呼ぶ状況から、7,8,9代の天皇に後の一代追加があることを想定すると、同世代となり問題がなくなります。
そこで、古い記紀の物語では、王統が二系であったとして、それぞれの王統の性格をみてみると、崇神、垂仁は主に祭祀を行い、自らは戦地に赴かず誰かを派遣しますが、景行以下仲哀にいたる系図は、成務を除いて自ら戦地に出かけてゆきます。
成務も景行紀には、自ら警備をした話が出てきます。
このあたり、祭祀を司る王と、軍事を司る王が別であったというふうに思えるんですね。

177 :日本@名無史さん:2006/08/17(木) 20:41:28
>スサノオは、黄泉国に行く前に、姉のアマテラスに別れの挨拶をしようと天上に昇る。
>スサノオが天に昇るとき、海は轟きわたり、山も鳴りひびいた。このあまりの猛々しい登場ぶりに、
>アマテラスは、スサノオが国を奪いに来たのかと男の姿で武装してのぞむ。

★日本神話におけるアマテラスとスサノオの関係★
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/1067010993/148-150

古代日本の二大勢力、日向族と出雲族の戦争が、神話に投影されている。

>スサノオの行いがひどかった。
>アマテラスが機殿で神衣を織っているところに、屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を投げ入れるという
>スサノオの暴挙に対し、それまで我慢していたアマテラスもとうとう怒る。
>アマテラスは天の岩屋戸に閉じこもり、世界は暗闇につつまれてしまう。

スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。


178 :日本@名無史さん:2006/08/19(土) 12:30:10
日本書紀紀年法研究家さん、質問です。
仮説には反証可能性がないといけないわけですが、
日本書紀紀年法研究家さんはご自分の仮説に対してどのような反証があり得ると想定されていますか?

179 :日本@名無史さん:2006/08/20(日) 13:33:39
>>177
>スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
>この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
>せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
>神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
>アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。

スサノオが高天原で暴れて追放される話と、出雲で八岐大蛇を退治する話は、もともと別個に存在した話だ。
高天原で暴れ回る悪神の話は日向神話であり、出雲でオロチ退治する英雄神スサノオの話は出雲神話である。
そして、オロチ退治する英雄神こそが本来のスサノオの姿であり、この神話は4000年以上前の古代から
出雲に伝承されてきた神話であろう。
一方の、高天原で暴れる悪神スサノオの話は、日向族が創作した神話であり、
日向族がこの神話を作った時代は、日向族が出雲族を征服したBC200年前後であろう。
つまり、オロチを退治する英雄神スサノオの物語のほうが古い神話である。
高天原で暴れて追放された悪神スサノオと、出雲に降りてオロチを退治した英雄神スサノオでは、
とても同じ神とは思えないほど、性格が異なるが、これは別個に存在した出雲神話と日向神話を
強引に一つにしたためである。

八岐大蛇は河の氾濫=洪水を神格化したものだが、この洪水を鎮めるスサノオは「水の神」であり、
水霊(ミヅチ)である。ミヅチは聖なる蛇=龍に通じるから、スサノオという神は、もともと龍神なのだ。
つまり、スサノオの八岐大蛇退治の神話は、龍神がオロチ(愚霊=愚かな悪蛇)を退治する話なのである。


180 :日本@名無史さん:2006/08/20(日) 17:02:25
根拠のない想像を膨らませても虚しいだけ

181 :日本@名無史さん:2006/08/20(日) 17:09:46
人生の最大の幸せは何か?
どうせ、80年もしたら死ぬんだよ。
ならば、人生好き勝手に、若い女でも囲って、
朝昼チンポをしゃぶらせて、濃い精液をドバッとかけようではないか!
所詮、人間は食欲、性欲、睡眠欲だ。
その中でも、性欲だけは人生の勝利者だけに与えられる。
女を自由に弄び、男の願望を全うできる。
つまり、チンポを如何に喜ばせるかが人生の勝負だ。
だから、日々若い女を求め、精液を口の中に注ぎ込め。
それでこそ、生きている証になるというものだ。

182 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/08/24(木) 22:27:12
てst

183 :プラム 似非長州:2006/08/24(木) 22:38:38
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
PU=プラム=安曇連=がいやまん =太国=ヒッキー=サガミハラ=本田=定ちゃん=彼都
♪探して♪探して♪ 更新望む


【PU作成HPワクワクするね必見だよ!】
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
このアドレスよその窓に、貼り付けてみてください。この窓からは重いかも
PUのマニアックな生態が窺い知れます。

お仕置きしちゃだめ

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしだから
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151055171/l50
【大ヒット書き込み中】先行ぷスレ 今は座談会になってます。 【大ヒット書き込み中】



184 :日本@名無史さん:2006/08/24(木) 22:47:44
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人

錦旗に向かって唾吐くか?朝敵チョン州
朝敵チョン州
悔しかったら靴なめろ。

錦旗に向かって唾吐くか?

185 :日本@名無史さん:2006/08/27(日) 16:28:36
★日本神話と稲作文化は中国南方に起源がある★

【諏訪春雄教授プロジェクト】
『東アジア地域の演劇形成過程の比較研究』
 Study of a formative period of the East Asian's drama [Prof. Haruo Suwa]

■学習院大学・人文科学研究所=ホームページ■
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/rihum/project_suwa.html

 中国の長江中流域で一万年以前に始まった稲作は、長い年月をかけて、
日本などのアジア諸国に伝来した。稲作は、農耕の技術だけが単独に広まったのではなく、
稲作に関わる祭祀も併せて伝来させた。
 そうした祭祀の中で、演劇の発生・展開と深く関わったのが来訪神の祭りである。
複数の先祖の神々が、仮面をつけたり、蓑笠を着たりする異装の姿で、子孫の許へ訪れ、
文化を授けた始原の時間を再現する祭りは、稲作の誕生地に始まり、アジア各地に伝わった。
来訪神の祭りは、海を越えて日本にまで到達した。



186 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 01:00:39
自信過剰のこの部を潰して。
http://jbbs.livedoor.jp/school/9483/

187 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 13:28:38
>>1がいなくなったみたいだからこのスレ終わりじゃねぇ?

188 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/08/31(木) 01:08:57
今年度中にもう一度始まるんじゃないかな

189 :日本@名無史さん:2006/09/01(金) 09:21:06
「もう一度始まる」って姉妹漫才がか?

190 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 20:28:55
朝鮮には、9世紀以前の古文書がない。
歴史書も無ければ、万葉集のような「歌集」も無いのである。これは実に不思議なことである。

朝鮮人の主張によれば、
「朝鮮(古代では新羅であり、その前身であるワイ州)では、古くから文字文化が栄え、
日本よりも高度な先進文化があった。日本人に文字(漢字)を伝えたのも、我々朝鮮人
(ワイ人)だ」なのだそうだ。
もし、彼らの主張が正しく、朝鮮(ワイ)に文字文化が栄えていたならば、その事実を示す証跡が
あるはずである。
日本においても、中国においても、インドにおいても、またギリシャ・ローマにおいても、
文字文化が栄えた国々では、その事実を示す古文書や石碑などが残っているものである。
 ところが、9世紀以前の朝鮮には、文字文化の繁栄を証明する古文書が一つも無いのである。
百済や任那、志羅紀は日本人が建てた国であり、朝鮮(ワイ)とは関係ない。
また、高句麗もフヨ族が建てた国であり、朝鮮人(ワイ族)とは関係ない国である。
けっきょく、朝鮮(ワイ)の文字文化を証明する物は、何も無いのである。




191 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 22:47:40
>>161-166って明らかに16代以前の在位が不自然に長すぎる希ガス

192 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 22:49:55
>191つづき
B.C130年はさすがに古すぎる気もするが、
中国では夏王朝13世16王⇒殷王朝18世30王で親子相続⇒兄弟相続になった例もあり、
途中で違う一族が政権を奪取したと考えれば可能性もあるのか?


193 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 20:14:20
初代から16代まで553年、1代平均34.6年間。
これは、相続が末っ子相続、親孫相続を常に行わないと不可能な数字。
いかに非現実的かわかるだろう。
俺の知る限り、世界の王朝で一代の平均年数が長いのは清王朝(在位60年が2人いる)。
12代268年平均22.3年間。このあたりが限界だろう。
わかってくれ!


194 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 15:07:34
★西尾論文、お見事!★

『新しい歴史教科書をつくる会』の設立者の一人であり、
文学博士である西尾幹二氏が、朝鮮民族の性質について鋭い意見を述べているので紹介します。

【外が見えない可哀そうな民族】−西尾幹二氏−月刊誌『正論』より

我々はイスラム教徒が毎日時間がくると一斉に座して、手を前につき、アラーの神に祈りを捧げる風景を見て、
我々とは異なる宗教社会の存在をありありと感じることが少なくないであろう。
しかし、朝鮮半島となると、これは近隣で生活上の見かけも似ているので、我々とは異なる宗教社会が
あそこに存在するとは、なかなかに気がつかない。実は韓国人と韓国社会は、イスラム教とイスラム社会と
同程度か、あるいはそれ以上に、日本からはへだたる異質な社会なのである。
(後略・・・)

【外が見えない可哀そうな民族】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1148778771/76-79




195 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:00:43
【国引き神話】

 国引きの神話は、出雲国風土記の、意宇郡名伝承『八束水=臣津野命(ヤツカミツオミヅノ命)国引き』として
風土記神話の中でも最長篇で語られている。風土記の記述によると、出雲国はその昔「狭布の稚国」といって、
細く長く未完成の国であったという。
 そこで、大水主=臣津野の命(オミヅのミコト)が、出雲は狭い若国であるから、広く継ぎ足そうと言われて、
遠い志羅紀の国の余りを「国来い国来い」と引き寄せたのが杵築の岬で、その時に使われた綱は園の長浜、
そして、引いて来た国を動かないように継ぎ止めた杭が三瓶山(佐比売山)であるという。
 その風景は、稲佐の浜から現に見ることが出来る。


 出雲国風土記に記されている「志羅紀の余った土地を引き寄せて杵築の岬を造った」という記述が
何を意味しているのかは、一目瞭然である。古代出雲人が、出雲地方だけでなく志羅紀も支配していた、
という事実を示しているのだ。つまり、志羅紀人は出雲人と同族だったという事だ。
 志羅紀人(シラキ人)は日本民族だったのである。彼らは朝鮮人ではなかった。この事実を頭に入れて
考えなければ、天日矛(ツヌガアラシト=都怒我阿羅斯等)の日本への亡命、そして、それに続く天日矛の子孫
=神功皇后による<新羅征伐計画>の理由を理解することはできない。神功皇后の<新羅征伐・政策>は、
息子の応神天皇に引き継がれた。なぜ、当時の大和朝廷は、<新羅征伐>を何度も繰り返したのか。
なぜ、それほどまでに『シラキ=志羅紀』にこだわったのか。
 理由は明確である。当時の大和朝廷は出雲勢力によって牛耳られていたのであり、彼ら出雲人は、自分たちの領地
である志羅紀を異民族=朝鮮人に奪われたため、失地回復のために<新羅征伐>を断行したのだ。
すなわち、当時の出雲人は、朝鮮人(志羅紀の北方に住んでいたワイ族)と敵対関係にあったということだ。
出雲人は、「シラキは我々の領土だ」という意識があったので、朝鮮人に奪われた<シラキ>を、何が何でも
取り返したかったのである。


196 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:27:52
 糸冬 了

197 :日本@名無史さん:2006/09/15(金) 01:53:21
何でそんなムチャクチャな記録の仕方をする必要があったの?
つーか、まず聞きたいんだけど、日本書紀が書かれた時点で、舎人親王らの著者は
「今後、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書は書かれないだろうし、
書かれても、日本書紀以上に信頼されることは絶対にない」っていう確信でもあったの?

日本書紀がそんな出鱈目な年代記録をしていたら、
そういう確信がない限り、せっかく書いた日本書紀が後世、
出鱈目扱いされて無視されると考えるだろ?
それとも、著者は出鱈目扱いされても良かったのか?

今後、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書がタマタマ無かったコトをいいことに、
ムチャクチャ強引な解釈をしているようにしか見えない。

198 :197:2006/09/15(金) 01:55:11
>>197
自己レス。下から2行目訂正

× 今後、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書がタマタマ無かったコトをいいことに、
○ 以降、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書がタマタマ無かったコトをいいことに、

199 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 20:39:40
韓国人と愚かな日本人学者が『日本書紀』について妄言を宣伝している。
『2ちゃんねる』で見つけた情報である。

【新刊】森博達著(シム・ギョンホ訳)『日本書紀の秘密』(牡牛座)/原著『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書) 

 まず第一に、これは「任那日本府説」などを含む韓日古代史の謎を一挙に明らかにしてくれる本ではない。
題名の「秘密」とは「日本書紀」の内容そのものではなく、それが記された過程、特に誰が書いたのかという謎を指している。
 韓・中・日3ヵ国の言語を研究した著者は、それら3ヵ国の言語上の歴史や習慣を比較し、「日本書紀」という森を探検する。
著者はこの研究を通じて、「日本書紀」が2つの部分、すなわち完ぺきな中国式の漢文を駆使した「アルファ群」と、日本式の漢語や
単語選択の誤りが目につく「ベータ群」が混在していることを明らかにした。
そのため、文化背景が異なる複数の著者が執筆を行った可能性が高いと主張する。
 著者は中国から渡ってきた学者が執筆したアルファ群(第14〜21巻、第24〜27巻)と、新羅に留学した日本人僧侶が書いた
ベータ群(第1〜13巻、第22〜23巻、第28〜29巻)、そして、どちらにも属さない第30巻に分けられると結論づけている。
これを手がかりに、著者は『日本書紀』が執筆された7世紀末の状況を推理している。
同書は日本で第54回毎日出版文化賞を授賞した。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/03/20060903000001.html


200 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 20:42:52
『日本書紀』より引用− ※『古代史資料』 http://kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/

天智天皇五年(666)十月・己未《廿六》
◆冬十月甲午朔己未。高麗遣臣乙相奄■等進調。大使臣乙相奄■。副使達相遁。二位玄武若光等。
             ↑
 この記録に注意してほしい。高麗と書いてあるが、この国は高句麗ではなく、百済北部地方=漢城(コマ。狛国)の
ことであろう。若光は高句麗の使者ではなく、狛国の使者なのである。日本書紀の記者は、狛国と高句麗を混同している
のである。この事実は、日本書紀の記者たちが大和人であり、日本国の外に一度も出たことがない人間たちであったことを
示している。彼らは、半島の地理に疎かったのである。だから、百済(クタラ。5世紀まではコマと呼ばれた)と狛(百済北部=コマ)、
高句麗(満州地方の国。コマではない)を混同して、日本書紀を書いているのだ。
 古代日本は、百済を通じて高句麗と同盟を結んだが、あくまでも間接的な同盟であり、高句麗との直接的な結びつきは無かった。
高句麗の使節団は古代日本に来なかったし、日本も高句麗に使節団を送っていないのである。


201 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:06:44
百済本記による半島情勢年表
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/kudara.html

新羅本記による半島情勢年表
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/shiragi.html

不思議だ。
『高句麗本記による半島情勢年表』が、ネット上にはない。
『百済本記による半島情勢年表』や『新羅本気による半島情勢年表』はあるのに、
高句麗だけがない。
なぜ、ないのだろうか。


202 :サガミハラハラ:2006/10/13(金) 19:01:33
応神紀の原稿を読み直してみた。
どうも、三国史記の年紀は一年ずれているが、応神紀の元の年紀はずれがなかったのではないだろうか。
そのため、紀の編者は諸資料を合致させるために苦心しているようだ。
自分の原稿を読み直してみたが、書いたときは意味がとれていたのだが、
1週間もしてよみなおしたら、判読できなくなった。こまったな。

203 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 20:29:54
新手のあらしかも

204 :サガミハラハラ:2006/10/13(金) 23:01:28
あれ?私のことご存知ないのですか?
かなりの自惚れやなのですが。

205 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 00:25:39
私はよく知っていますよ。
五所川原のご出身で、ウチの近くの相模川のそばの
下九沢にお住まいでしたね。
小城公園に卑弥呼の墓があるとか。


206 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:32:20
いろいろ推測して西暦1年即位だと思う

当時の平均寿命は50〜60
辛酉の年
親子関係の継承
神宮皇后が4世紀中ごろ
14代天皇の年齢を当時の1年を2年と考えていた
だから200歳の人はいない

207 :サガミハラハラ:2006/10/14(土) 22:42:41
出身は青森県の青森市北金沢です。
甲田小学校卒業、甲田中学校卒業、青森高校卒業、弘前大学教育学部卒業。
神奈川県相模原市小学校教員。2000年4月病気のため中途退職です。

208 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:37:14
神宮皇后?

209 :唐松山:2006/10/17(火) 19:01:31
日本書紀の年号は ホツマ伝のアスス暦を単純に直訳したもの
アスス暦の干支の計算式を発表
ジャーン

=CHOOSE(MOD((B3+49),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+51),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","ウエ","ウト")

B3欄に入力された数字を干支(キアエ以下)に直します。
11,12年目 不明です正しい干支がわかりましたら訂正したい
たぶん 11,12年は、うるう年 1ヶ月が1年
よって 単純に現在の年号に合わせるだけなら
アスス暦 12割る5 =現在暦    これでどうでしょう。


210 :唐松山:2006/10/17(火) 20:07:28
早速 訂正
アスス暦 5割る12= 現在暦
式の中の ウエとウトを ”のメ”と”のネ”に直してください。
意味はありません(わからないという事では同じ)


211 :唐松山:2006/10/17(火) 20:14:19
ついでに
ほつま伝

http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm

212 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 11:18:54
ほつまは後世に書かれた物

213 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:46:19
そうだな、唐土のことを支那って書いてあるし

214 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 22:24:09
とこで太国は自説を潰されてGIVE UPか?

215 :太国:2006/10/18(水) 22:29:30
ここには書きこまないぞ。あの婆あは礼儀知らずだからだ。
これはその説明だから、やむを得ず書きこんだがね。

216 :サガミハラハラ:2006/10/18(水) 23:19:30
日本書紀中の春夏秋冬の季語であるが、1年を春の年と秋の年として記録していたグループと、冬の年、夏の年と記録していたグループがあったのではないだろうか?

217 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 23:41:04
暦が混在していた可能性はある。
古事記と書紀を比較すれば、古事記は1年暦と半年暦が混在している事が判る。

218 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:32:16
>>215
プ…
研究家さんにはかなわないので
逃げ出したくせにw

219 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 13:21:44
『古代の日朝関係と日本書紀』 笠井倭人

紀年論語るならこれくらい読まないと駄目だろ

220 :唐松山:2006/11/03(金) 14:58:18


記紀およびアスス歴の読み方
2倍歴は、無理がありましたので‘増し‘で考えました。
天皇に成った時、治世中、死亡時、とありますが、とりあえず‘前‘と‘後‘で表示します。

安寧と懿徳     15年、15年
孝昭        15年、40年
孝安、から崇神まで 30年、40年
垂仁        30年、45年
景行        45年  ?ねん
この‘増し‘の40年は 60歳(天皇となった時の‘増し‘も含む)を100と数えた為30年が40年となる。
そしてこの30年は、次の天皇の実年齢に加算される。景行の加算は45が正しい?
表 にしたのですがうまく張り付かないので。...。
妃等の年齢と比較してください。  例外子供の歳 そうでないと31歳の乳飲み子。
これで、神武1年から景行が天皇になるまで335年位。




221 :サガミハラハラ:2006/11/03(金) 16:36:35
百済阿シン王は応神3年に即位したとの説があります。そしてこれは三国史記の記事から西暦392年のことであるとされます。
の日本書紀には、三年冬十月三日の記事のあとに、「この年百済の----。それで百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を立てて王として帰ってきた。」
とある。
三国史記と全く食い違うのであるが、百済は高句麗に攻められ辰斯王は戦死。阿シンが後をついだが、その季節は秋遅く、または冬の初めであった。
ところが書紀では、王に立てて帰ってきた。とある。
となると、阿シン王の秋遅くの即位は動かないので紀らの件は春のことと考えられる。(紀らが到着したときには全ては終わっていたと考えられる。よって紀らの報告は虚偽である)
となると書紀の記事は392年の春のこととなる。
となると、阿シン王の即位は391年の秋のこととなる。これでは困るようであるが、実は、三国史記の年代は1年ずれているのである。
だから、阿シン王の即位は本当は391年秋のことである。
となると、紀らの百済の話は392年春のことであうことになる。
となると、日本書紀の紀年は三国史記のような1年のズレはないことになる。
よって応神3年は392年春年となる。
と考えましたがいかがでしょうか。

222 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 23:42:14
>>220
気になるので上手く表にして欲しい
出来ないなら分かりやすく教えてください

223 :唐松山:2006/11/04(土) 10:22:08

表です  生んだ年、太子を立てた年は計算上です。

    治世 太子に成、天君成、太子産む迄、産だ歳、立太子、 死亡  
崇神 68年間  19才  52歳  28年間、  80才  101才  119才  
‘‘‘‘‘27年間、、、‘‘‘、、22才、 18年間   40才  61才   49才  天君に成った時の増し30、 死亡時40
垂仁 99年間  21才  42才  17年間  59才  59才  140才
‘‘‘‘‘58年間、、、‘‘‘‘  12才、 7年間、  19才  59才  70才     同上30        同上 45
景行 60年間 40才  81才、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、137才    同上45        同上 30
‘‘‘‘‘26年間 ‘‘‘  36才   5、、、、、、41、、、、、、、62才



224 :唐松山:2006/11/04(土) 11:01:56

訂正
垂仁が太子を立てたのは、99歳のときです。
スイニン死亡65才 景行死亡52才

太子を立てて、程なく死亡このつもりで‘増し‘の数を決めました、。
妃の出産年齢等の整合性も...
最大の問題 この‘増し‘を実際の年表のどこに置くか?です。


225 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:50:21
ここの研究家というのは引退したのか?

226 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 10:26:20
歴史研究において留意すべき点

・説と結論の混同
・化学のように再現実験で事実を確かめられない事
・主観が入り込みやすい


227 :唐松山:2006/11/05(日) 13:05:42
ホ15160  クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ フソヨヨロ いまたさかりの
カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる 
国治、、、、、稲穂、、、、、4年目、、、、今年、24歳、今だ盛りの初夏、、、、、、、、、、、、、、、、、、百、万、は振り
ホ18059  ムソトシの ズはヱもムモに ソヱタをゑ ムヨトシチヱに つきかるゝ うえつぎヰモの のちのハツ ヰモツギアマの
マサカキを キミのミワザと もろともに マサカキフソの あまるコロ 

うえつぎヰモ これが‘盛り‘、、、、マサカキ20の アマル頃‘‘‘40年は、盛り

こんな読み方は、間違い?邪道?
正しい読み方を教えていただければ、幸と もうひとつ 書記に出てくる‘是歳哉‘特に日本武の記事の近くにあるヤツ

228 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/07(火) 05:43:43
ちょっと閃きました

>>56-57の絡みですが

185=37*5
481=37*13

と整理出来ますね

んでは

229 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/07(火) 06:12:53
19*7=133
15*4=60
17*4=68
11*9=99
11*11=121

こう考えると欽明以降の133も狙ったんでしょうか

19と17と11は6代までにも使われてますね

230 :唐松山:2006/11/07(火) 18:00:21

掛け算でみたとき 妃11才...どうすんの? もう少し‘増し‘な考えない?

ホ16158 ヱナのめくりも なそらえて やがてうまれん オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり タチカラオ ミソムツキます
ホ16163 サルタヒコ ソムトシをれど これはまれ 
サルタヒコが 胎児のときに 代代り、15年の‘増し‘

ホ16096  ハラヲビのヰモ つゝしみよ アモトにまねく アラミタマ 
芋の食いすぎ注意 でなく  
アモトに招く  アモト<=暦60年 と看みると
「60年の‘増し‘はないだろう 新天皇よ」と たたねこが 憤慨している。
ホ40390      ときアスス ヤホヨソミホの
ホ40391      アキアメカ これたてまつる
秋アメカ=天かわる=景行の死...843年 書記では、この5年後が代がわり
そうすると843年は、 ‘増し‘のなかの年であり 虚  たたねこ やってくれるねー

ホ00099      オオカシマ フモヨソナトシ  247歳 人間の年にしたい。



231 :サガミハラハラ:2006/11/07(火) 19:03:22
>>225ここの研究家って私のことですか?

232 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:26:49
>>231
スレ立て人の「日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCkさん」の事。

あなた自意識過剰?

233 :サガミハラハラ:2006/11/08(水) 19:16:44
>>232
そうです。私は紀年論に関しては、日本随一であると自負しております。
景行帝即位年から雄略の貢献年までの紀年を算出することに成功しました。
これは、日本古代史研究上の歴史に残る快挙です。

234 :サガミハラハラ:2006/11/08(水) 19:21:52
上のように書くと、自意識過剰ですという風にとられるな。

235 :津久井・相模湖・城山・藤野:2006/11/08(水) 19:55:00
相模原(下九沢)の恥にならないようにおながいします。

236 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/08(水) 21:31:16
>>233
算出値と算出方法とそれが正しい根拠をどうぞ

237 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:33:33
てst

238 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 12:37:38
y=3x-830

239 :サガミハラハラ:2006/11/10(金) 14:36:49
話せば長いことになるので、この件については、来春出版の予定ですので、それをお読みください。

240 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 20:00:30
そうですか、仕方ありませんね


では、>>238のy=3x-830の件の続きを始めたいと思います。

前スレの795で書いたy=3x-833を修正して

崇神天皇の実年代崩御年を268年にした場合を基準にせず
崇拝十年を247年に設定してみました


そうすると後漢書の

>建武中元二年(BC57)倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
が、日本書紀の#01神武天皇治世元年のBC660と完全に一致します


更に、
>安帝永初元年(BC107)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
が日本書紀の#04懿徳天皇治世年BC510と完全に一致します

241 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 20:21:34
それと、>>56-57でも指摘しましたが
神武治世元年から懿徳治世末年の翌年の空位までを足すと185年、
孝昭と孝安の治世年間を足すと185年、

つまり185年の両者はペアで日本書紀で設定されて居ます
この事と先ほどの事からこう云う仮説が成り立ちます


 日本書紀作成企画段階では当初、
 建武中元二年を想定する初代神武天皇と、現四代目の孝昭天皇の間には、
 安帝永初元記事を想定する1人の天皇しか想定していなかった。

 それで両者は当初、二代で185年ずつだったが
 なんらかの事情で安帝永初元記事に対応する天皇を分割する事で、代数を二つ増やした。


如何でしょうか?

242 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 21:11:26
スイマセン、>>241の訂正です

×現四代目の孝昭天皇の間には、
○現五代目の孝昭天皇の間には、

んでは、続きを
―――――――――――

勿論日本書紀等の天皇系図を重視するなら、神武即位年は
より一層BC60やAD1年付近に持って来る方が適切になって来ます。

しかし、前にも系図の不整合に付いて、>>117で少しだけ触れましたが、
確か勘注系図などと、天皇系図との世代不整合から、天皇系図の側の、
2〜4代の内2代ほどの天皇を親子関係ではなくて兄弟関係にする考えが存在します。


しかし、もともと1人だったのを3人に分割したと考えれば、
綏靖、安寧、懿徳は3人で1人の合成天皇を想定するのが適切かもしれないです


そこで当初案を想定すると、神武天皇治世年間に生まれて立太子する筈の
現・綏靖天皇の生年と立太子年をそのまま使って、
現・懿徳天皇末年の日本書紀BC477まで寿命までの天皇を想定して居たかもしれないです。
現日本書紀の元案段階では。


そう考えると、現日本書紀と勘注系図などはどちらが早く出来たのでしょうか?
先行していたのはどちらでしょうか?

243 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 22:18:54
んー、元から1人だったのを

107年に合わせて元年になる天皇を新たに作った


こうのもいけますね

244 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 18:22:20
征東大将軍さん
崇神末を268年にもってくる理由はなぜですか?

245 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/12(日) 17:20:43
先ず訂正から
>>240は、BCじゃなくてADですね。私がコピペに手入力した時に間違いました。

>>243は、こう云うのもいけますね。です。

では、本題
>>244
古事記没年干支に関する先行理論があるのですが

前スレ以前での私が考えていたのは、古事記没年干支年の設定については、
古事記の15箇所の没年干支年に全てに措いて、こう云う事が全て成り立つんじゃないかと

 古事記天皇没年干支年 ≦ 実年代天皇崩御年


これを前スレの時点でその仮説を進めて、更に条件を限定的な範囲にする為に

 古事記天皇没年干支年 ≦ 実年代天皇崩御年 ≦ 古事記天皇没年干支年+10年


とすべきじゃないかと思って、違法な手を排除しようと試した結果の産物な訳です
おっ!?+10年で268年で計算すると、248年と崇神十年が合うじゃないか!?、と


が、>>240等で書いた様に、
新しい説の方が日本書紀の設計思想としては、より相応しいと思います


因みに新しい方では実年代崇神崩御設定年は267年に成りますね

246 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/12(日) 17:53:07
それから、サガミハラハラさんが、
古事記干支二倍年暦でしたか
そう云う事で本を出されるようですのでそれに関して


「古事記・日本書紀」総合スレの方に、サガミハラハラさんは
垂仁天皇の崩年は314年で確定だと書いて居られるので

以前に2倍年暦スレで書かれた内容と大きく変わってないと思うので
触れておきます


先ず、『住吉大社神代紀』に「崇神天皇没年戊寅の年、在位年数六十八年・
垂仁天皇没年辛未の年、在位年数五十三年」という記事があるそうです

古事記干支二倍年暦では、30年に60干支が一巡します

古事記崇神没年干支年は、258年戊寅なので、基準年を設定して
一年に二干支ずつ配布します。

すると、二巡目の辛未が314.5に成ります、314年の後半と云う意味です。

本来はここで行詰まりそうですがココからが面白いです。

新たに別の基準点を設定する二倍干支年暦を
想定する事でこれを解消しています。

247 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/12(日) 20:28:07
>崇神天皇没年戊寅の年、在位年数六十八年・
これは日本書紀そのままの値で

>垂仁天皇没年辛未の年、在位年数五十三年」
これは日本書紀が99年と設定されてるのに53年あると云う意味にとって
水増し分が46年分あると云う意味にも解釈すると

丁度治世40年〜86年の47年分の空白が飛ばす根拠に使えそうな感じですね

248 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 02:14:33
質問ですが白川旧時記は飛鳥に書かれたとする説はなぜですか?

249 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/13(月) 05:35:29
それは漢風諡号の撰上は聖徳太子によって推古27年にされた
と云うネタの様だ

http://www.geocities.jp/identaisi22000/kannninngu.html


この問題を解く鍵がある。
『先代旧事本紀』巻第七、天皇本紀に、
観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)(五代孝昭)は
磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)(三代安寧)の皇太子である、
という不思議な記述を残す。

『記紀』系譜では五代孝昭は、四代懿徳の子である。また『先代旧事本紀』でも、
他の箇所では五代孝昭は、四代懿徳の子とする。したがって『先代旧事本紀』の
この記述は、書写の過程で起きた単純な誤りとされてきた。

http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/12-2kyoudaikeisyou.htm 

当該箇所
http://www.h4.dion.ne.jp/~munyu/kujihonki/yaku/tennou002.htm


これは所謂十巻本の話
とすると、>>241みたいに天皇を三人一体とするのは問題がありそうですね

250 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 07:37:02
>>249
ネタとは偽物ということですか?

251 :唐松山:2006/11/13(月) 10:45:35
ほつま でみた 各天皇の治世年数と 増し
立太子を以って世代交代(基本)とみる。、
‘増し‘は 前、中、後、と 三つに分けました。 
前 は 太子から天皇に成ったとき、
中 は 任期中(太子に引き継がれるときと、引き継がれないときがあります。) 
後 は 太子を立てて死亡するまで(次の太子が天皇となって新しい暦を立てた前年)

天皇  治世   前   中   後
綏靖  20年間 35    0   12
安寧  12年間 12    0   25
懿徳  9年間  25   12   12
孝昭  12年間 12   40   18   孝昭は懿徳の子供ではない。
孝安  31年間 22   45   26
孝霊  27年間 26   8    30
孝元  25年間 38   0    32
開化  27年間 32   0    33
崇神  32年間 33   20   15
垂仁  27年間 28   30   41
景行  26年間 60   ?    ?
崇神から景行の時代を生き延びた たたねこ 85才以上 もう少し。
懿徳、孝昭 でみると、
懿徳 立太子8才 就任11才 死亡20才
孝昭 立太子18才 就任19才 孝安誕生23才 死亡43才
こんな結果になります。

252 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 14:49:06
>>251
ほつまは偽書じゃないですかね

253 : ◆16/YXRFBRM :2006/11/13(月) 23:57:50
継体が28年間の場合
開化宝算63歳に対応する件について

254 :唐松山:2006/11/14(火) 18:34:49
  ほつまつたえ
異書 として無視するほど悪書とは、思えません。 記紀に無いデーターも沢山ありますし...
特に 暦 に関しては、無視すべきではないと思います。
アスス暦 キツオサネ アミヤシナウ 酒 作 御 種  天養う の農事暦ですが、きつね=稲作 のもとですから
しかも 記紀とかなり合致する。 そして暦には、`増し`があると 書かれています。
もう一度 増し を説明します
 孝安  のところで
成太子から成天皇迄が`増し前‘...`増し中`...立太子から死亡迄が`増し後‘ 
書記の年数で(ほつま 中間1年の誤差 たぶん私の算数が間違っている!!)
 治世   成太子   成天皇 <間> 世継誕生  立太子   死亡
 102年  20才   35才  49年間  84才   111才  137才  これから`前14` ‘中40‘ ‘後26‘ を引く
 36年   20才   21才  9年間  30才   55才   55才    次の太子26才 
<間>の増し 40としましたが、妥当かどうか? という事です。

255 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:44:00
ほつまは西太ごう?だったかな
日本に来た発言があるけど
それは中国の資料を読んで付け加えたんじゃない?

256 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/14(火) 23:57:46
>>250
イエイエ、そう云う「素材」を根拠にしてると云うような意味です

まぁ、日本書紀の設計は依存関係がありますから
白河本が日本書紀の設計方針を知らずに、、
日本書紀を見ならがら、書紀に欠ける所を勝手にでっち上げたのか
共通資料から忠実に計算してるかは、
将来的に白か黒かがハッキリする類の事じゃないですかね。

それまでは偽物なんて簡単に言って切って棄てるのは時期尚早でしょう
未だ嘗て、そう云う計算に基づいた研究はされてないんですから

天皇系図と諸豪族との世代数の不一致や、
十巻本の記紀と異なる記述の側に信憑性がある事だって、

>>57>>240-242で計算上の根拠が与えられて初めて
現日本書紀の側から、客観的に裏付けられたと言えるんじゃないでしょうか
(本当に合ってるとしたら)

偽書、偽物のちゃんとした定義をどうするかは知りませんが、
その部分に関しては日本書紀は、後付けの偽物を公式にしてると言えるかもしれないです

まぁ、日本書紀が公式なんだから、他の側が全部間違ってて、日本書紀が正しいんだとか
そもそも、他の部分も全部、適当なんだから全部偽物だとか、イロイロ言えますが

真書、偽書が、本の解く本編の内容ではなく、成立由緒と成立年代の正しさによるなら、
諸本に偽書と呼べるものが拓さんあるでしょうが、個々の内容の信憑性は、それとは独立した問題でしょう

そのぐらいストライクゾーンは広く行きたいです
その方が、横に広く繋がれそうですしね

因みに>>211のサイトだって実年代の年代観は殆ど違わないですね

257 :唐松山:2006/11/15(水) 21:44:15
正しい 暦 の読み方
今後 正しい暦の回し が出てくる可能性は、ほとんど無いと思います。
理由  当時 暦は 天皇以下一部の秘匿事項 であった。
なぜならば 当時 この特権階級は、種と共に作事暦を作って 民に貸し与える。
その 揚がり で営まれていたからです。
1年が365日であることが、知れ渡ってしまえば、この制度が行き詰まってしまうから
‘増し‘ をいれて(なるべく複雑に)防止した

もし暦が盗まれれば
ホ28407  ナガスネヒコはそのクラを ひそかにあけてうつしとる
ホ29043  シホツチノ オキナすゝめてニギハヤか いかんぞゆきてむけさらん
こんな結果になります。

景行の頃から1年が365日であることが知れ渡る (2種類の暦)
だから 屯荘が営まれるようになる。
こうゆう事だと思うのですが如何でしょう。

258 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 08:20:18
西王母ウケステメ、ニシノハハカミ)が来て、菊桐姫(天照大御神の父イザナギ尊の姉か妹
又はイザナギ尊の親の世代のもよう)と会って「神仙の秘法」を授けたら喜んで帰った
また西王母は少なくとももう1回来て、仁々気根尊に山巡りでも斜めにならない輿を
奉ったので、お返しに三千実(ミチミ)の桃を賜ったら国苞(クニツト、みやげ
)にして持ち帰った。

2.驚嘆!中国の古文献と符合。

 中国の古文献の幾つか(補足2参照)には、西王母が前漢の武帝(在位BC140-BC87)に
たいして三千年にいちど実が成る桃をあげたとあります。
西王母は一般には支那伝説中の仮想的人物とされていますが、
1.ホツマ伝の記録とは対応しています
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/hotumika/shinsyo.htm


当時、日本にそんな簡単に移動できるはずがない
これは江戸時代に中国の文敵を読んで付け加えたんだろ


259 :唐松山:2006/11/17(金) 19:37:20
江戸時代ですか
ホ07067 シラヤマカミぞ イサナキは
これは コエネのクニ ネ=北です の白山 白頭山
私は上記の時の事だと思って思っていました

でも
伊勢国風土記 より
「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ
(今井似閑採択)
こんな所にも気を使い
イリヒコ の秘密も 挙げ
すごいですね。  でもこんなのは、まだ序の口
これをあげてほしかった。

景行の時代=九州女王国の衰退とその死 
14才イヨの    事とか...

260 :日本@名無史さん:2006/11/18(土) 01:59:21
>>259
景行の時に九州制覇はほぼ一致してるな
ん?結構あってる?

261 :唐松山:2006/11/18(土) 19:31:50
外見は、おおむね同じなのですが、叛いた連中
クマソは、 次いで  ウサ のミミタレ や クロマロ
名前だけで  どういう立場の人間か おおむね見当が、付くでしょう。

262 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/19(日) 00:25:39
讖緯説でBC660年を書紀の紀元にしたから、
そこを倭の年譜が打ってる最も古い記事のAD57年の建武中元二年にしたって事か

最初に等倍暦で作ってる事を前提にするなら、逆に考えて
等倍AD57を、三倍BC660にしたって事か

それと、AD266年が崇神六十五年記事になるよね
外交記事で合わせたのか

諡号も旨くいく

263 :サガミハラハラ:2006/11/19(日) 19:01:15
百済武寧王の生年が461年であることから、安康天皇の即位年が459年の秋であることがわかった。
461年の武寧王生年が雄略5年であるから、雄略元年は459年秋(安康と同じ)であっておかしくない。
なお雄略元年から5年までは、2倍年暦である。

264 :サガミハラハラ:2006/11/19(日) 19:02:27
百済武寧王の生年が461年であることから、安康天皇の即位年が459年の秋であることがわかった。
461年の武寧王生年が雄略5年であるから、雄略元年は459年秋(安康と同じ)であっておかしくない。
なお雄略元年から5年までは、2倍年暦である。

265 :日本@名無史さん:2006/11/19(日) 21:06:07
なんじゃこのスレは・・・!
気違いのはきだめみたいなスレだな

266 :サガミハラハラ:2006/11/19(日) 21:59:11
やっぱ、説明なしだと意味不明ととられますね。
しかし説明すると本一冊分ぐらいかかってしまうし、困ったね。

267 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/19(日) 23:49:57
データが飛んでしまったので今直ぐは無理ですが
サミハラハラさんの説は本が出る前に解る範囲で私が解りやすく解説します

御本人にはそれから解説して貰いましょう

ただ、倭の五王の時代は、干支を無視してるぽかったですが、
V類とかだったんでしょうか

268 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/19(日) 23:50:42
おっと失礼、

サガミハラハラさんですね

269 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:06:38
↑こいつ、ニートだぜ


270 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:22:32
説明されればされるほどサッパリ解らない件に付いて

271 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 02:55:21
紀年論って、少なくとも崇神以降の各天皇の実在を
認めないと意味ないですよね。

逆にいえば、崇神以降の王統譜の正当性を語るためには
紀年論をクリアする必要がある。

景行も応神も後世の造作だという立場にたてば
むずかしい数の操作は必要ない。

頭悪いのでどうも造作論にひかれてしまう

272 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 03:28:17
応神天皇は百済の王と同じ即位だから391年と考えていいんですね?

273 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 06:07:08
まきむく遺跡が大和王朝だから
九州の邪馬台国と別物となんで考えないのかね

274 :サガミハラハラ:2006/11/20(月) 08:03:44
百済阿シン王の即位は三国史記では392年とされています。しかし三国史記のこのあたりの年代は正規の年代より、1年ずれているといわれています。
例えば、好太王碑文では好太王即位は391年となっていますが、三国史記では392年となっています。そうすると、阿シン王即位も1年ずれて、391年即位となります。
日本書紀では、応神天皇3年に阿シン王の記事があります。
神功皇后摂政元年を356年秋としますと、応神三年は392年春年となります。しかし阿シン王の即位は秋遅くです。一方の紀の記事は春で、紀角スクネらが、阿シン王を位につけて帰ってきたとあります。
となると、スクネ等が帰ってきたのは392年春で、阿シン王が位についたのはその前年の391年秋となります。
紀には三国史記のようなズレはなかったことになります。
応神元年は391年です。

275 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 12:30:00
何を根拠に、一箇所一年ズレているから全ての年代が一年ズレると断言できるんだ?
そこだけ間違えたという可能性は無いのか?

276 :サガミハラハラ:2006/11/20(月) 16:03:10
一年のズレはわたしは二ヶ所(碑文と阿シン王即位年)あげていますが、あなたは正しいということを何箇所あげれますか。
4〜5世紀でお願いします。

277 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:54:08
神功皇后は356年でいいの?
夫が早くに死んだのは間違いないと思う
妊娠してる時の369年三韓成敗だよね?


278 :サガミハラハラ:2006/11/20(月) 19:08:50
夫の仲哀天皇は355年春年になくなっています。
355年秋年に新羅遠征を行っています。
356年春年に東征を開始、明石の海戦と逢坂の戦いにて忍熊王軍を破り、
356年秋年に摂政の位に着き、政権を掌握しております。宮処は稚桜宮です。(住吉大社神代記では最初は橿原となっています)

279 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 20:27:30
>>278
それじゃ近畿地方は敵勢力だったんですか?

280 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:28:35
二倍年暦スレが沈んで基地外が去ったかと思ったら、ここでまた基地外の独り言が始まってるよw

281 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:52:20
>>280
具体的に何がキチガいか説明しないとただの基地外だよ

282 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:35:26
研究家さんに帰って来てもらって、
ここらへんの連中を蹴散らせてもらいたいと思う。

283 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/20(月) 23:06:56
   生年
神武031                                    57年倭奴国
┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
綏靖061    安寧061+      懿徳061++        107年倭國王帥升等
┏━━━━━━━┛
孝昭091

孝安121

孝霊151
┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
孝元181    開化181+     倭迹迹日百襲姫181++     卑弥呼遣使239
┏━━━━━━━┛            
崇神211                         崇神十年箸墓/卑弥呼死247.67


>>116を改良して綏靖、安寧、懿徳を一世代、孝元、開化を一世代に改良。崇神の父は開化のままとした。

これで四道将軍も二世代に収まるし、
倭迹迹日百襲姫が孝霊の娘で崇神の姑と云う条件も満たせてる。
これで神武即位57年と懿徳即位107年の設定に無理が無い。

でも神武なんかの即位時の年齢を考えれば、あと10年生年を前倒しした方がリアルかもしれない
倭迹迹日百襲姫が10年前倒して171年生まれだとすれば、霊帝光和年間後の185年で15歳、
台与が13歳で王になったと云う記述からも、年齢上問題は無いと思う。200年頃でも20歳か
倭迹迹日百襲姫が247年死亡で享年76歳。

これが長寿過ぎると云うなら、卑弥呼が共立された時の年齢は台与よりもずっと幼い。
或いは、大乱が終結して女王になる時期まで、割と年月が経過するのか

どうだろう

284 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:34:52
>>278
書紀の紀年を絶対としているようだけど、『帝紀』を元にした『上宮聖徳法王帝説』
の欽明の在位41年が、書紀の32年と食い違うのはどう説明するの?

285 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:46:31
57年倭奴国は大和朝廷じゃない違う国でしょ

286 :サガミハラハラ:2006/11/21(火) 07:20:07
>>279仲哀天皇が九州に熊襲征伐に行ったとき、都の高穴穂宮には正妃とその子
カゴサカ王と忍熊王がのこっていました。皇后は子のホムタワケを皇位につけるために、彼らを排除したのです。

287 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:36:21
神武ースイゼイ
    |
  安寧ーイトク
     |
 |ー孝昭ー孝安―――|
 |    |    |
 |   孝霊ー孝元 |
 |    | |
 |  モモソー開化――| 崇神ー垂仁ー香坂
景行ー成務ー仲哀=神功 |
        |   クワイリスキ
        応神

288 :唐松山:2006/11/22(水) 19:22:28
垂仁天皇と景行天皇 の世継ぎ のときの ‘増し‘  

ホ37191  コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ
ホ37195 コソコホサシヱホ アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ

ホ37202  あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ
ホ37212      ...トトセぶり...

ホ38005  うけつぎて イムナタリヒコ オシロワケ アメスメラギの トシヤソヒ ...ミカザリを タミにをかませ
      ワカミヤの ハツコヨミなる フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ

垂仁90年夏6月(秋 会稽で開かれる市)に出発した タジマモリ 約10ヶ月後 翌年3月に戻ってみると 景行2年に成っていました。
暦では  10年ぶり...  トコヨの暦は皇帝が変わっても変わらないのに 我が暦は...
たたねこ 本当の暦を知る。

289 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 20:13:14
ウラシマは3ヶ月後日本に還って来ると、100年の年月が経っていました土佐

290 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 20:49:34
日本は百済の後裔。
ゆえに、百済滅亡の西暦660年をイエスが厩(=聖徳太子のモデル9で誕生した年から鏡向けに反転させた
西暦紀元前660年が神武即位になったというわけさッ!

291 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:06:46
結局、古代史なんて証拠物件がすくなすぎるので何とでも言えるんだよね!


糸冬 了

292 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:09:04
俺の友達に昔、日本書記は、日本の書記長が書いた。
すなわち当時の日本は共産主義だったと言ってる奴がいた。

293 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:10:52
そして、古事記は、資本主義の最底の奴が書いたと言っていた。
すなわち乞食が……

294 :太国:2006/11/22(水) 22:03:33
>>292 プッw

そんじゃぁ、古事記は乞食が書いたのか〜?wwwww

295 :太国:2006/11/22(水) 22:10:12
>>289
超古代(神武よりずっとずっと以前)の1年は今の1日だったかもしれんぞ?
そうなると浦島太郎のその件は合っていることとなる。3ヶ月だと90余日だから
90余年に相当して100年に近い。つまり可能性がありうるということだ。
365日分が現今の1日だな。 以前は1$が360円だったが今は200円台かな?

296 :太国:2006/11/22(水) 22:11:21
いけない、このスレは書きこみ止めてたんだっけ。オサラバ。

297 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 22:27:09
太国さんへ

「1j200円台」っていう発言だけは、繰り返さないでね、
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/rate/chart_jpy.htm
最近200円だったかどうか、よく考えましょう↑

298 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 22:40:25
200円台なんてプラザ合意の前の噺だぜ

299 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/23(木) 00:34:29
倭奴国が筑紫だろうと、大和だろうと
57年を神武即位年に設定して書かれてたんじゃないかと云う事です

それと、実際計算したら>>283で書いたのと違って、
全体に10年前倒しじゃなくて、全体に10年手前に来ますね

300 :唐松山:2006/11/25(土) 10:30:24

倭迹迹日百襲姫
ホド を突いて死ぬ
これって 堕胎に失敗して死んだ。   でしょ。

もし 崇神 の時代なら
おおものぬし(たたねこの親父か) と 結婚
孝安のむすめ  ヤマトモモソヒメ  とっくの昔から婆さん
孝元のむすめ  トトヒメ      とうの経ったおばさん(出産可かも)




301 :日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:32:14
モモソは7代孝霊の娘。
よって7代、8代は同世代
9代、10代は同世代

302 :唐松山:2006/11/25(土) 12:50:03

親子を 同世代 とは 言わんでしょう。

5代 考昭 治世24年間  死亡47才
6代      31年間     48才
7代      23年間     50才
8代      17年間     47才
9代      24年間     42才
10代 崇神  24年間     44才
11代     27年間     49才
12代 景行  28年間     49才
景行 28年春は、同40年秋になります。
もし 同世代なら どんな年齢になるんですか?



303 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 13:12:28
唐松山さんだって、孝昭は懿徳の子供ではない。とまで認めて居る訳じゃないですか

実は7代〜10代までで、その内少なくとも一代は親子関係じゃないと考えるのが相当です
そうすると世代モデルがピッタリ合います

綏靖、安寧、懿徳を一世代に扱うだけでは
世代モデルが合わないのです

304 :日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:38:47
>>301
在位60年以上の大王は干支周期を間違えたとして60年短縮して下さい。
更に、1年を2年として記録していたとして年数を半分にしてください。
すると前王と15歳未満の年齢差は親子関係ではないことが分り、
第一世代 神武、スイゼイ
第二世代 安寧、イトク
第三世代 孝昭、孝安
第四世代 孝霊、孝元
第五世代 開化、崇神
となります。こうすると色々な矛盾が解決します。

305 :日本@名無史さん:2006/11/25(土) 14:45:34
このスレ読んでると昔の日本の知識人って、年もろくに数えれないようなドアホウ揃いに思えてきますね。
アホウが無い知恵絞って年代をいじくり回して出来たのが「書紀」ってわけですか?

306 :唐松山:2006/11/25(土) 18:06:51

100歩ゆづって
2年続けて同じ季節が出てきたら 間違いとしても
妃 11才から15才 この年齢を半分にすることは、 不可能 
書記の 是年哉 (総て 掲載されているわけではないが) ‘増し‘と考えたほうが合理的

浦島太郎 の 物語は、‘増し‘の 話 倍歴では、無理

倭武 の話を 景行28年春=同40年秋 として 読み直してみてください
春九州から帰る 休むほど無く 関東下向 話の内容とっぴたり。



307 :唐松山:2006/11/25(土) 18:26:45

オオウスが 尾張に出向く (10才は間違い)可
倭武26才 熊襲武と力比べ(女装のだまし討ちでなく)
春九州から帰る 休むほど無く 関東下向 話の内容とっぴたり。

ついでに 景行 の年齢
天皇即位 21才 子作り>九州>倭武死亡>関東下向
死亡49才  総てクリア 



308 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 18:33:03
そうですね、各天皇の記事の空年がバースト的に開くので
元年と没年以外ではそう云う事も考えないといけないですね


元々等倍で作ってた物を、引き伸ばし作業の後に、
元記事を分断した物を前半から順に貼り付ける部分と、
大量の空年を挟んでその後の部分に貼り付けた部分とになったとか

309 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 18:45:53
じゃあ崇神48、60、62、65、68

これを18、19、20、21、22にしましょうか

そうすると書紀の治世68を/3で22.67なので


これが他にも使えるなら合法手ですね

310 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 20:54:37
それとも単に30年増しとかでスッキリして良いんでしょうか

311 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:28:35
俺は1世25年と考えて
西暦1年即位です

312 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/26(日) 06:29:09
閃いた

治世元年記事からは引き伸ばす前の等倍年譜をそのまま使い、
次にバースト的なインターバルがある記事からはn倍年譜のを貼り付けてるんじゃない?

日本書紀崇神元年がAD-96、末年がAD-29

これをY=3X-830で算出すると

実年代X   元年 244.67/元年267.00

三倍年譜で算出した
日本書紀崇神治世元年(AD-96年)が実年代で西暦244.67年になる

ここを起点に等倍年譜ままを使って記述しているとすると、
日本書紀崇神治世17年(AD-80年)は実年代西暦260.67年

バースト空年後はn倍年譜で、崇神のこの場合はそのまま3倍と設定とすると
日本書紀崇神治世48年(AD-49年)は実年代西暦260.33年

日本書紀崇神治世68年(AD-29年)は実年代西暦267.00年

こう考えれば治世17年と治世48年を同一年代と見る数式上の根拠ができ
且つ治世年間中のバースト空年が説明できる

これで行くと17年までは引き伸ばし前の等倍年譜、それ以降は48年〜68年までは各1/3
で治世トータルは68/3の22.67のまま

崇神以外の区間では、3倍だけ、3倍と2倍だけ、2倍だけ、2倍と等倍、等倍だけ、こう云う組合せが考えられる

だから単に、増し+何年とかじゃない筈
接続年で日付が前後してるし、この仮説が正しいかどうかはこれから検証

313 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/26(日) 06:32:06
訂正

誤:実年代X   元年 244.67/元年267.00
正:実年代X   元年 244.67/末年267.00

314 :唐松山:2006/11/26(日) 12:49:38
伸びきったパンツのゴムひも 少しくらい結んでもどうにもならんで賞
ふんどし に 履き替えてください。
つゝしみよ ハラヲビのヰモ



315 :日本@名無史さん:2006/11/28(火) 10:26:15
吉野ヶ里が邪馬台国でほぼ決まりでしょ
西暦4世紀初頭に滅びる
これが景行天皇の時?

316 :日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:45:42
廃れたな・・・・ 16のアホ謝れよ

317 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:30:44
日本書紀のキネンに関する書が来春出版されるそうですから、それを待ってということでしょう。

318 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 04:41:23
>>315
 吉野ヶ里って宣伝がうまいけど、たいしたもの出てないし、専門家でもあそこが邪馬台国なんて言ってるのは
あまりいないよ。

319 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 06:45:16
>>318
そうなんだ
写真を見る限りではかなり大きい都市に見えたけど

320 :サガミハラハラ:2006/11/30(木) 07:57:16
卑弥呼が、吉野ヶ里から小城に引越しをしたときに、たいしたものをごっそり持って引越したからです。

321 :唐松山:2006/12/01(金) 20:43:20
卑弥呼は アマテラスを祭る巫女
四六時中 民の豊作を祈っている(表向き)

誰かほかに 適当な奴はいないか?


322 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:03:40
卑弥呼が共立したのは、大和諸国が出雲への朝貢を拒否するため、シンボル的
アイドル的存在が必要だったのだ。彼女は後に天照大神として奉られる
後を継いだトヨは豊受大神となるが記紀ではカット

323 :唐松山:2006/12/01(金) 23:40:26
トヨ は イヨ(記紀では 五百野姫)の後
ほつま では
 ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ ...
ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ
ヤマトヒメ コトシモモヤツよろこびて ヨハヒいたればワレたりぬ 
わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつしつかえしむ 
クスコヲカミのミツエシロ タケノミヤヰに つゝしみて つかえはんべる

さすが後継者 すごいボディーガードだね。

324 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 03:56:26
家系図にはアマテラスは神武の祖先にあたるから
卑弥呼ではない
つか、中国の資料を鵜呑みにするのはおかしくないか?

325 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/02(土) 08:41:11
古代史研究メモ
http://www.geocities.jp/kodaishi2006/index.html

今まで書いてきた話を一通り纏めて掲載

326 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:45:45
>>325
GJ
お気に入りに入れておくよ
俺は神武西暦1世紀即位支持者

西洋と東洋は微妙にリンクしてる
アレクサンドロス大王の東征  →  100年後に始皇帝支那の統一
ローマ帝国異民族の侵入で崩壊   ほぼ同じ時期に晋も異民族の侵入で崩壊
西洋が大航海時代           明がほぼ70年前に鄭和の大航海

このように微妙にリンクしていた
日本人は西洋人に近いと言われる
同じ人種ではないが何か偶然にリンクしてるものがあるんじゃないだろうか
それが西洋人の西暦と日本人の暦が同じと考える理由です
はい、オカルトです

327 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 01:50:47
唐土・鍵遺跡はどういうものと理解してますか?

328 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 08:37:57
>>305 :日本@名無史さん :2006/11/25(土) 14:45:34
>このスレ読んでると昔の日本の知識人って、年もろくに数えれないようなドアホウ揃いに思えてきますね。
>アホウが無い知恵絞って年代をいじくり回して出来たのが「書紀」ってわけですか?

というか、日本書紀の編纂者は謙虚で
自分たちの推量だけで物事を書かないようにしている。
だから、無理やり年齢を正しい年齢に合わせようとせずに
言い伝えの年齢(暦の違った時代で計算された長い年齢)
のままで書いてあるんだろう。

古事記と日本書紀は、殆ど同時代に書かれた史料であり、

一般的に

古事記=祭祀者・自然崇拝者が神話的に書く、日本人向けに書かれた書物

日本書紀=朝廷の官僚・学者たちが、対外(中国)に日本を主張するために書かれた書物
     神別と正史に分けることによって、神話的な世界は事実上、排除している。

329 :唐松山:2006/12/03(日) 12:00:09

崇神の時代 倭国乱れる が有りませんが?

軍を四道に使わす  縄文の平定と地方の引き締め
ハニヤス  との戦だけなんですが。
これが 倭国乱れる なら  景行の クマソ は なんですか?
当時の九州は 近内 の外 九州王朝の要請を受けて 軍の出動...

330 :唐松山:2006/12/03(日) 14:40:34
倭迹迹日百襲姫命没
これは 箸でホドをつく  堕胎に失敗して死ぬ。
卑弥呼は 老衰
なぜ 同じ 人なんだ?


331 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 03:27:46
>>329
その中国の資料が絶対に正確というわけではないが

332 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 07:14:50
『旧唐書』に「倭国伝」と「日本国伝」を併設することにも表わされている。
「日本国は倭国の別種である。その国は日辺にあることから、日本と名づけられる云々」
に始まる日本国伝は、「倭国は自らその名の雅ならざることを悪み、改めて日本と為す」
および「日本、昔は小国だったが、倭国の地を併合した」
との二説を記し、主客問答の場における張りつめた空気をありありと伝えてくる。


333 :唐松山:2006/12/04(月) 21:09:21
もし 景行が 西暦239年からだとすると
 治世   成太子   成天皇 <間> 世継誕生  立太子   死亡
 60年  18才   81才  5年目  86才   126才  140才  これから`前57` ‘中20‘‘後10‘ を引く
 29年  18才   24才   5年目  29才   49才   53才    
増し 景行の年号より次の年を引く

 6,7,8,9,13,14,15,16,28春=40冬、47より51、55年死亡より60

崇神  西暦184年  24年間  後5年くらい縮められる
垂仁  西暦219年  27年間  後7年くらい縮められる
景行  西暦239年  29年間  後8年くらい縮められる

後漢光和年中(西暦178〜183年)、倭国大乱起る。  崇神の 国内引き締め
239景初三年、女王卑弥呼、魏に都市牛利(かしくい)、難升米(なしま)らを遣わす。 
タジマモリ トコヨの国に行く

247倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越(倭世子大江)らを遣わして郡に相攻撃する
景行による クマソ討伐
檄を為りて之を告諭す。狗奴国対女王国海戦は難升米将軍の大勝利となる。直後に卑弥呼死す。大いに冢を作る。
ホ38232  18年    ソヤヤヨヒ ...クマノガタ ヲサクマツヒコ...さとさしむ しかれどこばむ かれころす
ホ38273      アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
卑弥呼の宗女壱與(いよ、比売多多良伊須気余理比売)
ホ38300  20年    フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
28年コウス16才九州へ 休むまもなく 関東下向 

 これが 増し でみた 景行です。

334 :唐松山:2006/12/04(月) 21:31:53
訂正
増し中=6年より40年までの 20年
増し後=47年より 55=60年の 10年



335 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 21:34:07
途中までは二倍年暦だろ?

336 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 21:49:59
天孫降臨なんだから、神武のおばあさんが天照大神。
神武のおばあさんは、トヨ。宇佐の比売大神。

337 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 23:29:11
景行239年は早すぎでしょ
この時代は崇神でほぼ一致してるんじゃ

338 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 03:23:55
景行は後の世の架上だとわりきれば
もっと巧く絵が描けるのではないか

339 :唐松山:2006/12/05(火) 19:26:39
古代天皇の しのぎ はなんですか?
私は、 農事暦(月の満ち欠けに合わせた 6から8ヶ月程度のもの)と共に籾を貸し付け
その あがりで 成り立っていた。
倭国大乱とは、
ホ38116  シヅヤマの サカキをぬきて カンツエに ヤツカノツルギ ヤタカガミ シモマガタマや
シラハタを トモへにかけて わがタグヒ たがはずアメノ メグミえん
 暦を持った たたねこのような類が  自分は、‘天である‘ と主張して 独立した。
是を阻止する為、卑弥呼との間で 戦となった。
この上下関係の乱れこそ 倭国大乱
崇神の時代は、その走り 
増し でみた垂仁時代の暦 (掛け算では、このみだれは、わかりません。)
九州の現状を知った景行は畿内への波及を恐れ たけうち を 東北、関東の現状視察にだす。
九州から帰ったばかりの武尊を関東へ出向させる。
その後 景行自身も 関東下向
成務天皇による 屯倉の経営につながります。

もし 景行の時代が無かったら...

340 :唐松山:2006/12/05(火) 20:50:56
ちなみに
籾の貸付から、屯倉の経営への方向転換を考えたのは、
トコヨへ行ったタジマモリとタケウチです。

341 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 03:14:54
唐松山さん以外の
紀年論についての意見がほしい

342 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 08:55:55
2600年というのは間違いなく違うからな
中国は夏442年17代 周27代644年
いくらなんでも長すぎw

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E5%95%86%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A1%A8%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88

343 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:29:15
倍年暦で考えたら、神武天皇は
女王卑弥呼よりも少し前の時代の人物なんだよね。
ということは、神武天皇〜崇神天皇までは、
この神武王朝は日本統一政権ではなく、地方の有力政権であり、
おそらく、女王卑弥呼が誕生した国が日本を主導していたのが
崇神天皇の時に、この卑弥呼の出身国を倒したのでは?と思われる。
日本書紀の記述から考えて、女王卑弥呼の国は出雲の可能性が高い。

344 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:14:48
出雲の女王伝説って聞かないけどな

345 :唐松山:2006/12/06(水) 20:37:54
増し で暦を作っている皆様へ
 征東大将軍様の言うとうり 親子でない処が見つかりました。 
 孝元は 孝霊の子供ではなく孫でしたので
太子の生まれるまで、 は 18年でよろしいかと

ホ32131 ヤマトクニクル アマツキミ アメノミマゴの タメシなり

346 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:42:33
神武天皇は、卑弥呼より少し前の時代の人。
ほぼ、西暦1世紀〜西暦5世紀は、室町時代〜戦国時代までの歴史形態にそっくりらしい。
中国の学者や、最近の日本の一部の学者に言わせれば
日本書紀の編纂者は、持統天皇周辺のこと以外では
極めて客観的に公正に歴史を記そうと努力しているとか...
逆に皇国史観を作り上げたのは、古事記とそれを評価した
江戸時代の本居宣長だと...

古事記・・・祭祀者主導の歴史観・原始宗教的・神話的・皇国史観

日本書紀・・・律令体制の官僚主導の史観
       持統天皇や藤原不比等関連以外の記述は極めて
       客観的に歴史書を記そうと努力している。


347 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:45:05
中国の考古学者は、邪馬台国は北九州だろう?
って怒ってたな、誰だったか知らんけど...

ただし、その邪馬台国が畿内政権に変化したかとは言い切れないらしい。
普通に、邪馬台国は大和王権に滅ぼされたんじゃないのか?

348 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:55:33
>>344
卑弥呼の記述から考えて
女王というよりも、占いをする巫女のような存在だったわけで。
彼女の弟らしき人物が政治を行っていたみたいなので
本当の国王は弟と書かれている人物じゃないか?
それと出雲とか書いてあるけど、大分のあたりかもしれんしね。
とにかく、邪馬台国は畿内ではなくて
邪馬台国は、その後の日本全国政権にはならなかったのでは?と思う。


349 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:31:02
紀元前660じゃなく紀元前60年ぐらいなら
それなりに信憑性がもてるな

邪馬台国が中国との国交がなくなったのは
そこで滅びたんだろうね


350 :唐松山:2006/12/06(水) 22:04:39
神武 の頃 暦を持っていたのは、
九州では、天照と出雲 この二人
畿内に ひとつ
合計3人 
畿内は、天照より分けて貰った
ナガスネは暦を書き写して畿内へ逃げた
これを出雲(おおものぬし)が討とうとして兵を差し向けたが討てずに失敗
兵の一部が九州へ帰れず カワチや奈良方面に 住み着いた。


351 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 22:43:13
>>283
神武57年倭奴国 懿徳107年倭國王帥升等
偶然かな?
343 :日本@名無史さん :2005/05/12(木) 14:47:30
淡海三船は中国(漢)=神(カム)から承認された天皇に特別に神という字を与えた
徳という字を与えた3人も中国と関わり深い
語頭にスイの音を与えた3人もか?

神武天皇 57年 漢(カム)委(ヤマト)奴(ノ)国王(スメラミコト)
後漢に初めて朝献した
崇神天皇 239年 卑弥呼が親魏倭王に
魏に初めて朝献した
応神天皇 413年 
南朝に初めて朝献した

懿徳天皇 107年 倭国王帥升等『スキ(ト)』 (おおやまとひこ『スキ(ト)』も)
初めて倭国王に任命される
仁徳天皇 421年 倭国王讃 宋に朝献し安東将軍倭国王の除綬の詔うけた
初めて安東将軍倭国王に任命される
聖徳太子 600年 遣隋使を送る 阿毎多利思比孤
初めて隋に遣使し、倭王に任命される

綏靖天皇  すいぜい 神武の子
垂仁天皇  すいにん 崇神の子 266年 西晋に朝貢し女王台与と共に爵命を受ける
推古天皇  すいこ  摂政は聖徳太子

「漢」は中古音・上古音ともに[han]
語頭の h は漢字音導入時にはカ行音で写されている 語尾の n は m になる場合がある
例「簡(中古音[k∧n]上古音[ ka~n])」をカミ、「蝉」をセミ、「文」をフミとして中国語から借用し日本語化させた

352 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 02:42:32
神武天皇って、やはり近畿地方の狭い地域の国王だったみたいだよ。
そして、その当時、日本主導的な政権は、出雲政権。
崇神天皇の時代になって、ようやく出雲、吉備、筑紫(北九州)を支配した。


353 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 05:10:57
>>352
俺も神武は奈良あたりだけだと思うね
そこでの戦闘の話はわりとリアル
九州から移動したのも本当のような気がする
別に嘘を書かずに近畿で生まれたとか本当のことを書けばいいだけだからね
崇神で筑紫?
その後のような気もするが

354 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 07:15:05
>>347
滅ぼされたんじゃなく婚姻による統合だと確信している。
伝承には戦争より政略結婚もどきの話が多いんだが。
日本書紀よんでもさ、そう思わないほうがおかしいよ。


355 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 07:33:55
だってさ、邪馬台国2人目の女王がトヨ(豊)だと読むとすると
日本書紀に豊(トヨ)がでまくり、邪馬台国の女王がイヨだとすると関係なくなるんで自然消滅も
信じられるな・・・


356 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 08:45:12
中国の先生にぜひ見てもらいたい。
その理由は今の日本人より中国語に近い感覚で
書いていたんじゃないかと思うから。ここは大きいと思うよ。

当然、反対の意見をいわれたほうは荒れるだろうが・・・w



357 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 09:49:14
>>354
政略結婚はあるだろうが
国交が消えたから滅ぼされたんだろうと考えたんでしょ

358 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 14:00:58
「旧唐書」で、日本の使節が唐の役人に「我々は倭国ではない。
もともと小国だった日本国が倭国を併合する形になった。
だから、我々の名称を倭国から日本国に改めろ」とか言っているだろう。

これって、神武天皇〜崇神天皇までの間
天皇家の所領が、大和盆地周辺に限られていたということ。
日本書紀を見れば分かる。その狭い範囲の話しか出てこないから。
しかも、この間の天皇の妃は、出雲国関係の人だ。
つまり、倭国は出雲王家が主導し、天皇家は出雲王家の女性を妻に向かえ
政略結婚で親戚関係になることで、出雲に従属していた。

それが崇神天皇の代になって、河内(現在の大坂)に拠点を移し
出雲・吉備を制圧し(出雲から倭国指導者の座を剥奪・国譲りの話として後に神話化)、
関東も制圧し、四道将軍を配置し
筑紫も制圧しその直後、半島の任那に朝貢を強要している。
日本書紀では崇神天皇は初めての天皇らしい天皇だといっている。

つまり、神武天皇と崇神天皇は同一人物ではない。
神武天皇は天皇家の最初の確認できる男系の先祖で畿内王権の最初の国王だった。
それ以前の畿内王権の国王は、天皇家の男系の先祖ではない。
そして、崇神天皇の代になって、倭国指導者の出雲国を倒し、
更に、九州北部から関東まで勢力を拡大、任那にも朝貢を迫るようになった。
まさに、崇神天皇は始めての日本国皇帝らしい人物だ。

359 :唐松山:2006/12/07(木) 19:37:19

関東も制圧し、
は どうかな 元々畿内から派遣された人々が住んでいるんだから

四道将軍を配置し だって 一回見回りに行っただけで 畿内から離れるわけでもなし
筑紫も制圧し は無理  一応親の地であり 分家の畿内が口出しできない

その直後、半島の任那に朝貢を強要している。
これは、まあ 有りか
筑紫は 九州国内が ザワ付始めた頃だから 九州政権としては、任那より軍の出動を要請されても
出来なかった。 替わりに畿内政権から軍の出動 代価としての朝貢



360 :唐松山:2006/12/07(木) 19:52:18
でも この任那へ軍の出動により
やっと 畿内も 鉄の時代を迎える事が出来た。
(崇神以前は、鉄 がずっと少なかった)
鋤や鍬が鉄に変わる 民が崇神を誉めないわけがない。
これで 大きな塚が作れるぞーーーーー


361 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:32:20
>>359
分家とは確証できないでしょ
あくまで推測かな?


362 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:36:33
今後の歴史学会では
神武天皇は一応、実在しただろうという説が有力になるかもね。
神武・崇神同一人物説も消し飛ぶだろう。

今後の焦点は、古代の天皇の生きた時代が焦点。
東京大学の井上光貞氏は、崇神天皇を270年-290年ごろの人
安本美典は、崇神天皇を360年前後の人

この両者の意見によって、邪馬台国論争にも大きく影響すると思う。

自分は井上氏の意見を尊重したい。
安本氏は古事記のほうを重視しているように見られ
古事記というのは皇国史観の原因になった書物だと思うから
あまり尊重できない。

363 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:49:50
古事記による崇神天皇の没年干支は戊寅(258年、318年、378年)
安本説が一番しっくりくる。
378年没とすると、神武は270年から280年頃となり、卑弥呼没年248年
からの連続性が自然だね。

364 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:13:52
なぜ、古事記が皇国史観の原因なったかというと
古事記って、日本書紀と大きく違って
内容も少なくて、独自解釈がしやすい。
逆に日本書紀は内容が難解で量も多く
これは皇国史観にもっていくのは不向き。

365 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:32:54
古事記と皇国史観を一緒にされてもねえ。
古事記書いた人がそんなこと意識して書いたわけじゃない。


366 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 13:07:14
606 :日本@名無史さん :2006/12/08(金) 13:03:22
中国の学者は、日本書紀のほうを支持しているな。
だいたい、古事記って一人の人間が書いた書物じゃないか?
そんなもんに、頼ってどうするの?って感じ。
稗田阿礼がいったのを太安万侶が記述したんだろう?
逆に、日本書紀のほうが時間をかけて、
いろんな人を動員して編纂している。
ほぼ同時期に書かれた書物なのは間違いない。

古事記は稗田阿礼から分かるように神道系の書物。
逆に、日本書紀は律令体制の官僚が書いた書物。

367 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 13:29:15
中国の学者が支持してるって一体なんの話だ。
>>606ってちょっとオカシイね。

368 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:12:04
3−3 安本氏の「数理歴史学」の誤り

この安本説は、次のような誤りの塊で、数理統計学とは無縁のものです。

(イ) 奈良7代70年と吹聴する誤り
(ロ) 天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
(ハ) 天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
(ニ) 35代前が推測できるとする誤り

http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-3-3.htm


369 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 19:09:14
googleのクローラーが来た形跡がさっぱり無い件に付いてorz

http://www.geocities.jp/kodaishi2006/zu1.png
http://www.geocities.jp/kodaishi2006/index.html

図と補足文を掲載しました。ちょっとだけ更新


>>326
有難う御座います

えぇ、神武は一世紀で構わないと思います。
貴重な神武一世紀論者が増えて心強いですね。

日本人が何たるかは知りませんが、始皇帝陵の陪葬墓から見つかった骨が
ペルシャ系だと鑑定された話がありましたよね。

始皇帝自体が青い目の〜なんてネタにも興味があったので
私はほほうと思っていましたが。日本板なので此処では盛り上がらなかったようですが。


倭人こそが弥生人そのものだとしたら、我々も渡来系と云うトコロでしょうか。
どうなんでしょうね。

新羅本紀にしても一世紀にはなかなかの航海技術を倭人は持っていたようですし。
前一世紀でも所謂漢書地理志にしても
それよりもっと以前からもそうだったかもしれないですね。
徐福伝説にも興味があります。

仮に中世の倭寇の侵攻地域と同じ範囲に、紀元前に倭人が居たとすればどうですか?
はい、妄想です

370 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 19:28:05
>>345
先代旧事本紀を見ると孝霊と孝元を同世代にした方が上手い手なのかもしれません

>>351
これは凄いですね

応神が413年まで居たかは解りませんが、面白いです

年代特定を諡号からだけ推測して一致性があると云う事は
付けた側はそう云う解釈だったかもしれませんね

特に懿徳天皇を107の帥升等と特定するのは
普通に考えれば一番難しい筈です

帥升等はスキトと読めるかは解らないですが
等は藤原不比等のトですよね

私がHP上で107年に関して、倭国王帥升でなく、倭国王帥升等と「等」を入れているのは
スメラと読んだ人の解釈が面白かったので(いや、そう読めるかは知りませんが♪)

単に帥升でも良い場合でも、帥升だけでないと云う意味で通りそうなので等まで入れてたんですけど
スキトモのスキトかもしれないですね。

でもこう云う言い方をするとスキトモがスキトになったみたいですから
スキトがスキトモになったと云う事でしょうか

日本書紀は徹底して一元史観で書かれているようなので。

因みに、漢(カム)委(ヤマト)奴(ノ)国王(スメラミコト)←これだと
日本書紀製作者達は金印の文面を知って居なければならないですね

さてどうでしょうか

371 :サガミハラハラ:2006/12/08(金) 19:37:16
帥升は上古音でsyu-sengです。シュセンまたはシュシェンです。ただしこれは北部九州弁をそのまま感じにあてたものであって、
なまっていない音はスセンです。
私はこれはニニギノ命の子のスセリの命のことだとみています。

372 :サガミハラハラ:2006/12/08(金) 19:45:38
syu-sengはshu-shengの間違いでした。

373 :唐松山:2006/12/08(金) 20:26:22
増し で暦を作っている皆様へ その2

太国さんの言うように 1日がン年というところが見つかりました。
孝安の 76年=92年=102年 の可能性がありますので見極めて下さい。
ほかに気になるところ
ワカタリヒコを ヨツギミコ タケウチスクネ ムネノトミ ミコとタケウチ ヲナヒドシ
たしか1歳か2歳ちがうはずなんだが?
キサキに男子誕生 寿ぎに 祝1年かな垂仁も同じような事をやっているようだし...

374 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 20:42:44
サガミハラハラさんはAD107年が神代だと思っているんですか?

375 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 21:50:11
うーん、帥升等→スキトモ説の方が居らしゃるようですね

懿徳107年は固定ですから、この説は取って措きたいですね

376 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 21:57:49
纏向遺跡の発掘で崇神は3世紀初頭だと思われ

377 :サガミハラハラ:2006/12/08(金) 23:08:53
天岩戸事件以降の説話は史実の反映だとみていいと思います。

378 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:07:34
>>377
ただ、日本書紀の研究によると
天照神話は比較的に新しい時期に作られたらしい。
また、天皇家は当初は天照に拘りが薄かった。

よって、天照は史実の反映だが
それは天皇家とは関連性が薄く、
別の王家のものを天皇家がいただいた可能性が強い。

379 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:14:56
>>378
なんか発言してることが破綻してないか

>天照神話は比較的に新しい時期に作られたらしい。


この理由を明確に説明しないとおかしいよ

380 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:35:44
武光誠氏の「日本の神々の謎」
http://72.14.235.104/search?q=cache:zvfOKiy-TSkJ:www.kcc.zaq.ne.jp/pit/yobun4.html+%E6%AD%A6%E5%85%89%E8%AA%A0%E6%B0%8F%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%80%8D&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1

六世紀初頭に皇位をついだ継体天皇が、応神天皇の五世の孫に
相当することと関わる。継体天皇 の直前の武烈天皇が亡くなったときに、
応神天皇の次に仁徳天皇の系譜を引く皇族が全く
いなくなった。その為、仁徳天皇の弟の若野毛二俣王
(わかのげふたまたのみこ)の子孫で
越前、近江に勢力を張っていた継体天皇が迎えられたのだ。
そのことによって、継体天皇の系譜を引く諸天皇が「五世の孫」と
いう立場に特別の意味を付するようになった。その為、
神武天皇が天照大神の五代目とされたのだ。
その影響は八世紀初頭の「大宝律令」の天皇の
五世の孫までの者は皇族として扱われ皇位をつぐ権利を
もつとする規定にまでつながっている。

前記の引用の中で私が特に注目するのは、五世の孫までを
天皇位を継ぐ権利があると明文化 されていることである。
つまるところ日本神話の成立は
比較的新しいものであるといえる。


381 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:36:37
>>379

>>380にそのソースを示す。

382 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 04:44:44
武光誠氏の発言も推論でしかないわけですね

383 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:06:25
>>382
そう。武光氏の発言も推論でしかない。
ただ、天皇家がもともと天照大神や伊勢神宮に対して
対して思い入れがなかったというのは、よく聞く話。
熱田神宮ですら、当初は天皇家とは関係が無かったけど、
崇神天皇の時代、関東制覇の時に、天皇家の神にしたのでは?と思われる。


384 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:18:35
>>377
>天岩戸事件以降の説話は史実の反映だとみていいと思います。

前から思ってたがサガミハラハラは小説でも書くほうがいいと思うよ

385 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 06:57:13
>>383
よく聞く話で事実認定ですか
他の人は思い入れがないという話を聞いたことがありますか?

386 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 08:57:08
伊勢参りが盛んになったのは江戸時代からだよね。
そういえば、皇室って
熊野詣はしたけど、伊勢詣でなんてしなかったよね。


387 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:10:38
>>380
律令では皇族は4世の孫まで。
5世孫は「格」での話。平安時代にはまた4世に戻る。
この人ホントに日本史の先生?

388 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:41:19
>>387
でも、見方では、なかなか鋭い。



389 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:35:46
あくまでも一つの説であり事実ではない

390 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:51:26
>伊勢参りが盛んになったのは江戸時代からだよね


これは庶民のこと?

391 :唐松山:2006/12/09(土) 20:51:19
懿徳 を祭る神社の数 0社
マニアックな所に目を点けたなー
8歳で太子 20歳位で死亡 2才下の弟が後を継ぐ

392 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 20:53:08
壇君古記の紀年法と日本書紀の紀年法を比べると色々と発見があるよ。

393 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:21:33
>ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では
>始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、
>初めて天下を治めた天皇という意味であるが、
>はじめて国を治める天皇が二人いることになる。
>これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、
>崇神の称号にみえる国という具体的な語より上位の観念であり、
>また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武は崇神より後に
>「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられ、
>国をはじめて治めたのは崇神であると考えられる。
>『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。

結局、崇神天皇は実在性があるが、
神武天皇は新しい時代に作られた創作の可能性がある。
崇神天皇を徳川家康に例えるなら
神武天皇は徳阿弥・松平親氏みたいなものか?

394 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:55:44
崇神は大勢力にしたが
それは神武から代々作った基盤があったからでしょ

395 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 00:11:20
>>394
日本書紀だと、九州から関東まで勢力範囲に置くのは
崇神から景行の間で、景行天皇でほぼ完成される。
景行天皇は二倍年暦では4世紀初頭の人物で
前方後円墳が九州から関東まで広がるのも、それくらい。

遺跡のは発掘だと、崇神のちょっと前の王権の形も分かっている。
まあ、いずれにせよ、神武の存在は別として、
崇神が一介の浪人から王になれるわけないのであって、
その少し前の代から豪族として権力をためていたと考えるべき。

396 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 00:12:19
富本銭や無文銀銭が日本最古の貨幣であると誰か証明してくれ。

397 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 00:21:09
富本銭や無文銀銭が日本最古の貨幣であると証明できれば、
日本の貨幣の歴史は凄く古くなるね。マジ凄い。

元号でも大化と大宝の間が欠けている部分があるというけど
だれか欠けている部分の元号を発見してくれないかな。
そうすれば大化と大宝の年号がつながって元号の歴史がはっきりと
大化まで遡ることが出来るのに。


398 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 00:23:19
大化と大宝の間の元号は欠けている部分があったが、
実は欠けていなかった、というふうにならないかな?
誰か頑張って発見してくれ。

399 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 01:17:52
>>395
その少し前の代ではなく
それなりに9代ぐらいは蓄えてたのではないかと思う

崇神のちょっと前の遺跡とはどこですか?

400 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 02:41:15
崇神の墓ってそもそも
何処ということになってるの? ここの人たちは

401 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 03:09:37
山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。

現在、同陵は奈良県天理市柳本町の柳本行燈山古墳(前方後円墳・全長242m)に比定される。しかしながら、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳・全長220m)を、その真陵とする考え方もある。

行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

402 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 04:36:27
纏向遺跡の年代から
崇神天皇から3代の天皇は、二倍年暦で
あっていたということですか?

古代の天皇の年齢って、数え方によって
いろいろ、あるから困ってしまうよ。

403 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 04:51:36
記紀のミササギ記事って信用できるのでしょうか?
鳥越氏とかは信用してるみたいだが

404 :唐松山:2006/12/10(日) 10:51:47
古代の天皇の年齢 増し で読むべし

405 :唐松山:2006/12/10(日) 11:15:54
稜 の位置は、宮の西方向にあれば、男 東は、女


406 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:19:29
大市=大一=太一

407 :唐松山:2006/12/10(日) 11:37:24
崇神は、考霊  に継ぐと
総て うまくせつめいできる 

考霊36年 富士山噴火=>崇神5年 大凶作
考霊53年 西中を得ず=>崇神10年 四道将軍

モモソ姫殿 老いさらばえて 堕胎に失敗 この不名誉な記録から逃れますぞエ
マキムク元年=西暦50年頃 



408 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 13:44:46
>>407
過去の富士山噴火って、地質学の観点で分かるの?
分かるのなら、記紀の記述から
古代の天皇の生存時期を探る一つの手がかりになるかもしれない。


409 :唐松山:2006/12/10(日) 15:39:06
んーん 出ていないんだよね
阿蘇も 神代の時代 田が、埋まったと出ているんだけど



410 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:17:48
地質学だけじゃ、いつ噴火したとか
分からないのか?


411 :唐松山:2006/12/10(日) 17:21:15
 現在 この火山灰の地層は、、暦に出ている ン年のものだろう
という 状態です。
 

412 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 02:15:08
>>410
そういうの調べると分かると思うね
渤海は火山で大ダメージを受けたそうだ

413 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:14:21
日本書紀の二倍年暦って
いつから計算したら良いんですか?
一応、継体天皇の崩御年から計算したんですが、
その以後の天皇も二倍年暦使ってそうで分からないです。
誰か、そのへんの情報を教えてください。

414 :一応九州王朝説:2006/12/11(月) 22:24:18
継体頃は太陰暦が入ってきているのは確度が高いから、もう二倍年歴
じゃないと思うよ。ならその頃の天皇の生没年を2で割ったらどんな
ことになるかってことで。それにある程度歴史事象との整合性も出来
ている頃だし。

二倍年歴自体まだまだ試論の段階だが、初期のやたら没年齢が高すぎ
る天皇の頃がその対象になる。

415 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:53:10
>>414
継体天皇の年齢は以上に高いですよ。彼の時代は
まだ二倍年暦じゃなかろうか?
その次の天皇も高齢で死んでいて妃が多いのに
子供の存在が確認できないというじょとは二倍年暦だったのではと思う。
いずれにせよ、継体より少し後にならないと等倍暦に変化してないのでは?
その辺のどこから暦が変わったのか、それが分かる記述って
記紀に載ってないのだろうか?

416 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:55:31
あと、自分は三倍年暦の計算方法には反対なんです。
というのは、日本書紀の編纂者が操作したという決め付けから
そのような解釈になるんでしょうが...
二倍年暦は、春耕秋収で1年という考えで容易に想像つくんですが
三倍年暦は、何を基準にそうなるのか?

417 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:03:45
2倍暦で単純に計算すると507+660で1167 
583,5か
正確ではないがわりと近い数字が出るのではないか

418 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:35:50
いつから二倍暦から通常暦に変わったのだろうか?


419 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:40:08
欽明の途中からだろ。
又この頃から国記の編集が始まったとされている

420 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:03:03
>>419
欽明天皇の途中からか...
ややこしいな...
どこから二倍年暦に設定したら良いものか...

421 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:33:36
174 本当にあった怖い名無し New! 2006/12/11(月) 19:09:09 ID:F0l707JR0
少しだけ話が変わるが...

今度、日本と中国がはじめて歴史の共同研究をするが
今まで近代史しかテーマにならなかったのに
はじめて近代史以外がテーマになる。ここがポイントだ。
特に、古代史と現代史がポイントになってくる。

現代史に関しては、中国側は「これからも研究し続ける
ことが重要だ」と提言している。これは要するに
「現代史は、日本が中国に対して友好関係にあったのは認めてやるが、
これからも日本は日中友好に努力しろよ、じゃないと、
現代史の評価は覆るぞ」という脅し。

古代史に関しては、明らかに高句麗問題。
そこでセットになってくるのは、任那日本府だ。
中国社会科学院の教授たちは、日本の記紀の通説は正しいと断定している。
また、正しいとしなかったら、中国の高句麗主張の整合性もとれないから。



422 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:34:53
175 本当にあった怖い名無し New! 2006/12/11(月) 19:11:14 ID:F0l707JR0
中国の考古学者は、日本書紀に書いてある継体天皇以前の歴史は
ほぼ二倍年暦(春〜秋で1年、秋〜春で1年)の計算で正しいと思っている。

神武天皇は紀元直前ぐらいの人で
おそらく九州王朝が畿内に派遣した軍司令官では?と思われている。
神武〜崇神の間が欠史八代なのは、
地方の軍司令官程度の存在だったのがばれるからだと思われる。

それが10代目の崇神天皇の時、マキムク(奈良県桜井市)から
全国制覇に向けて動き出したように思われる。
ちょうど、女王・卑弥呼と同時代だ。

そして、西暦300年頃、北九州から関東くらいまで制覇する。
それが景行天皇の時だ。ちょうど、息子の日本武尊の活躍で
全国平定に乗り出した頃だ。



423 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:36:09
201 本当にあった怖い名無し sage New! 2006/12/11(月) 21:47:42 ID:GxMEkATZ0
>>192
言っては悪いが、そんなものは「たかが」レベルの枝葉末節に過ぎない

これは構造的な問題でね
日本では史学系の古典研究者は学位を取っても、大学教員としての就職先が
見つかるかどうか分からないのさ
東大はじめ有名国立大学文系では、一人前の研究者を育てるのに時間がかかる
先行き怪しい古典をも効率化と称して削っているんだ


せっかく最近の遺構発掘調査で日本の古代史の実像が徐々に明らかになるような発見が
相次いでいるのに、それを解釈し、研究する人材をなくしてしまいそうな状況に陥りつつあるんだ

これに加え、日本古代史は漢文=中国語文語文で書かれている史料が多い

中国共産党の上層部はこれに目をつけて中文・中哲系の大学院の中国人留学生に記紀や
万葉集研究を推奨させて、『古事記』『日本書紀』『万葉集』で学位を取らせ
日本史ではなく、中国史の分野から日本史の論文を提出させ海外の国際学会における
古代日本史の定説を中国の言うとおりにコントロール可能なよう資料を改竄・捏造してるのさ

中国の日本学研究の大物は留学・客員先の高等研究機関でも、この中国政府が求める立場を貫いて
「日本の文化は中国文化の模倣である」と国際学会で口にしている

本来なら文科省が日本の文化を専攻する研究者を一定数確保する努力をすべきだが、
日教組や赤い方面から邪魔されて思うに任せない状況にある
このまま行けば将来、日本の古代史研究者は中国人が中心になるぞ

424 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:39:14
日本の学者や愛好家が一番駄目なのは、最初から
中国の史書の記述(57年の奴国、107年の師升、239年の卑弥呼)と
日本書紀の天皇とを無理やり関連付けしようとするから
混乱しまくるようになるわけで。
中国の史書というのは、重要な手がかりにはなるんだけど、
しかし、あまりにも記述が曖昧で、どこまで日本のことを分かっているか怪しいわけで。
こういうことは、中世以降にもあって、中世以降も日本の文献が豊富だから
それが中国側の勘違いだと分かるが、もし、その時代も日本側の文献が無かったら
これまた歴史論争で混乱していたはず。

425 :423の続きのコピペ:2006/12/12(火) 00:40:01
>>208
漏れは元大学事務で研究ドロップアウト組(しかも実は日本史系ではない)
危機的というより、このまま行けば危機に至る可能性が出だしていると言うべきかな
だが、エライひと含め危機感抱いてる香具師らがマジ準備中と聞いてる
実働始めたら手伝いには行くとオモ

>>209
上の事情で漏れがある程度知る話も数年前になるんで今とは状況がずれている
ただ全般傾向は余り変わってないとオモ

ただ国外の場合、個々の学者の人格や学術に対する良心とは別に、
家族が郷里にいたりするからな
特亜方面に限らず汚い話出ることもあるよ・・・

426 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:42:42
>>420
『帝紀』を元にした『上宮聖徳法王帝説』の欽明の在位41年
書紀の在位が32年。
この食い違いは、2倍暦から1倍暦に切り替え時差によるもの。
実際の在位は、22年間


427 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:42:49
>>425
サンキュー
同じスレを見てたんだなw

428 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:18:47
>>427
JJヲタかw

429 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:19:57
>>426
ありがとん。参考にするよ♪

430 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:24:15
>>426
それを参考して計算したら、

神武天皇が即位したのは紀元前49年くらい?


431 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:05:20
研究者は数多くいる。
だが皇国史観の代弁者は少ない。
学界では事実が重要視される。
神話に事実を合わせようとする皇国史観は史学ではない。

432 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:20:49
とにかく、応神天皇〜欽明天皇の間だって
暦の年代が混乱した時代のような気がする。
ちょうど、この間で倭の五王があった時代でしょう?

>>431
おまえ、神武天皇の時代を言っているのか?
神武天皇は記紀には神話って書いてないぞ。
記紀から考察して、畿内の小領主だったみたいだから
考古学的に実証するのは難しい。

433 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:10:53
新スレ。古代史の年代の解明に役立てたい!

■■倭の五王・仁徳天皇の皇胤たち■■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165928837/l50



434 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:21:51
>>430
いや、干支周期の繰上げもあるから3世紀後半だよ。
邪馬台国は暦をつけていなかったことが倭人から分る。
よって神武が即位したのはその後のことだよ

435 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:24:03
>>434
君はこれを読むと良い。

安本氏の「数理歴史学」の誤り
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-3-3.htm



436 :434:2006/12/13(水) 00:07:05
>435
俺はやっさんの説は、参考にしてないよ
しかし、紀元前の資料を8世紀の記紀の編集者が持っていたとはとても思えん


437 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:42:42
古事記の干支崩年で計算する考えがあるけど、
あれって、通常暦に修正した考えた干支なのか?
それとも、倍年暦のままで考えた干支なのか?

どちらなの?


438 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:03:41
>>437
俺の考えでは『帝記』を編集した時点で倍年暦だった。
記紀が編集された時点で干支の周期が数周追加され、更に皇紀元年が引き伸ばされた

439 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:33:52
>>438
いや、皇紀元年は置いておいて...
とりあえず、崇神、景行、応神〜雄略あたりを探らないと
このあたりは外国の史書にも頻発してくるし。

もう、なんか訳が分からんな...
結局、中国・朝鮮の史書とかちあう年代をあわせて、考えるしかないわけで。
でも、日本書紀・古事記の中には当然、ヒントがあるわけだ。

ああ、それと、朝鮮の史書って、
あれって10世紀以降に書かれた新しい書物みたいだが、
ちゃんと通常暦に修正して書いてあるのか?
それとも、倍年暦のところは、そのままにしているのか?
誰か教えてくれ。
というのは、高句麗好大王関係・百済辰斯王関係で、
西暦391年、西暦369年ってあるが、あれって通常暦で書いてあるの?

440 :438:2006/12/13(水) 22:49:42
西暦391年、369年は修正した年代記にすれば、欠史八代に当たるよ。
空白の4世紀にも少しは光が・・・・

441 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:04:38
でも、西暦391年、西暦369年は
そのままじゃん。
あれは、あれでOKでしょう?
もし、違うかったら、中国が半島を植民地にしていた時代と
かちあうけど、あれには、そんなこと書いていない。

442 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:31:53
>>441
と言うか、内容丸々カットだもんな

443 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 06:00:43
日本書紀や古事記って、一ヶ月が15日までの倍年暦の
可能性があるって聞いたことがあるけど
どうなんだろうか?


444 :サガミハラハラ:2006/12/14(木) 08:44:40
>>433大変よいところに気がつきました。
あれは、二倍年暦でかかれた干支なのです。
古代史研究史上このことに勘ずいたのはあなたで二人目です。

445 :サガミハラハラ:2006/12/14(木) 08:47:23
上記の>>433>>437の間違いでした。慎んでお詫び申しあげます。

446 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:18:07
>>444
日本書紀とか、古事記とか、年代がごちゃごちゃに
なっているせいは、倍年暦〜通常暦への移行が大きな要因みたいですね。
編纂者も頭が混乱したのかも?
あと、応神天皇の例の出生の経緯も、
古事記は淡々としているけど、日本書紀はそうではない。
おそらく、8世紀に日本書紀を編纂した人たちが、
倍年暦にうとい人たちで、本当に先帝の子か?って疑問を持って
あういう出産を遅らしたみたいなエピソードを作ったのかも?


447 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:22:43
血縁のない人間を血縁者に仕立て上げるためだろ。

448 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:41:12
欽明天皇から倍年暦計算して
どうしても年代がかちあわないのが
倭の五王のあたり。

449 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:43:49
>>447
応神天皇の出生は
通常暦として考えたら、どうしても若干無理があるw
でも、倍年暦で考えたら、別に不思議でもなんでもない。
古事記では、応神天皇の出生に何の疑問も持っていない。
しかし、日本書紀は中国系1世が書いたのか?
そこに不自然さを感じたんだろうね...

450 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 14:37:39
>>351
安○ 弟即位?
03 安寧 04 懿徳 ?
20 安康 21 雄略
27 安閑 28 宣化

○化 ?
09 開化 10 崇神
28 宣化 29 欽明

○明 ?
29 欽明
31 用明
34 舒明
37 斉明
43 元明

451 :唐松山:2006/12/15(金) 20:45:12
ほつま では、
孝昭は 懿徳の子供ではない 懿徳の早死が原因
孝元は 孝霊の子供ではない  孫 と書いてある
崇神は 何かがあるが まだ解りません
増し でみると  うまく繋がらない

 

452 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:48:35
12 :日本@名無史さん :2006/12/15(金) 20:42:01
神武天皇の即位年は、干支を意識したものだから信じられないが
(そもそも、彼は皇帝というよりは、三輪山の一領主で人生を終えた)
古事記、日本書記を倍年暦で計算して
また、日本書紀の仁徳天皇の即位が、神功皇后の生存期間を
卑弥呼にぶつけるためにやったことを考慮して計算したら
一応、紀元前106年の日向の国で産まれたことが分かった。(誤差はあるかも?)
いつ即位したのは分からん。というか、彼はただの地方豪族。
だから、日向からの遠征前に即位したみたいな訳の分からんこと言ったんだろう?

ちなみに、崇神天皇の在位期間だが、西暦206年から240年だ。
彼が生まれたのは、西暦156年。
マキムク遺跡の古墳が3世紀後半だから、彼の死後
古墳が作られるのと見事に合点が行く。

453 :唐松山:2006/12/15(金) 21:03:20
↑少しだけ賛成

神武は、ナガスネを討つための 先発隊 フロッグにも 勝ってしまった
すぐに本体(大物主)がやってきて 一緒に都作りを始めたのだが、
神武はすぐに別の所に都を移す。
日向は 阿蘇の噴火の後で作物の出来が悪かった為 塩じいに奨められて
遠征隊に志願した.


454 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:25:17
サガミハラハラさんは、日本書紀の年代は
清寧天皇の年代から通常暦で計算されていると踏んでいるのか?
その根拠は何だろう?ちゃんと調べたのか?

455 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 04:56:17
唐古・鍵遺跡は築造時期は紀元前220年ごろ〜200年
同じ奈良でありこの後にマキムクに移動したと考えられるね

456 :サガミハラハラ:2006/12/16(土) 07:03:00
日本書紀の年代は雄略天皇6年(AD462)から通常暦となっているとみています。
根拠の一つはAD461年雄略5年、百済武寧王誕生です。
日本書紀応神紀では、雄略元年は459年秋年となりますが、これは安康天皇の在位中にかかり、真の雄略元年は461年春となります。
なぜこんなことになるのかというと、安康天皇の治世に関して複雑な問題があるからです。
つまり、安康天皇の即位を認めない人たち(雄略天皇ら)がいたということです。
一方、認めた人たちもいます。その際たる存在は宋王朝であるわけです。


457 :サガミハラハラ:2006/12/16(土) 07:08:19
訂正
真の雄略元年は461年春は461年秋の間違いでした。
つつしんでお詫びいたします。

458 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:00:50
あれあれ?
日本書紀では雄略天皇は256年からの即位じゃなかったけ?
ということは、雄略天皇の在位の途中に
倍年暦→通常暦に変化したということ?

459 :458訂正:2006/12/16(土) 08:05:58
ちょっと間違えた。
日本書紀では雄略天皇は256年からの即位は正解だった。
で、サガミハラハラさんは、雄略天皇の即位を少し遅らせたと...

つまり、日本書紀では雄略天皇の途中から暦が変化したと?

あと、古事記の雄略天皇の異様な高い年齢はどうなんでしょうか?
あれは、倍年暦でも合わないような気がする。
古事記の著者(少数で書いている?)が、計算で混乱したのかな?


460 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:10:04
>>455
移動していない。記紀をちゃんと読め。
神武東征は日本の中心が移動したわけではない。
あれは、出雲と畿内の戦争に、
出雲の同盟者だった日向(熊襲)の援軍の将の一人(神武天皇)が
その功績を認められて、出雲王権から畿内の領主に認められただけ。


461 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:17:19
>>460
俺は崇神の時に鍵遺跡からマキムクに移動したんじゃないかと

462 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:41:28
>>461
どう考えても無理。
なぜ、神武天皇以降が欠史八代だったのか?
なぜ、日本書紀は神武天皇以降、数代にわたって出雲王家から
妃をもらっていたことを隠し続けたのか?(古事記は隠していない)

神武から崇神の間は、天皇家は出雲王家の従属するような立場だった。
そして、出雲王家から妃をもらって姻戚関係になることによって
身分保障をしていたのである。

たとえれば、出雲が北条家、天皇家が足利家みたいな関係。

それが崇神天皇の時代にこの関係を終わらせた。(出雲・吉備制圧)
実は、崇神天皇のちょっと前から、出雲王家からは妃をもらっていない。
その時代には、天皇家は独立を歩み始めていたと思われ。

足利尊氏が母方に北条家の娘をもたない久しぶりの足利家当主だったようなもの。

463 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/16(土) 08:47:59
雄略5年の実年代は本当に461年でしょうか?

神功39年記事に景初三年を盛り込む事でAD239年と見えるのと同じような
トリック記事じゃないですかね?


もし雄略6年以降から所謂通常暦になるなら
雄略の古事記没年干支設定年は479年になっている筈ですよね

>>459
456年ですね

464 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:50:20
>>462
>神武から崇神の間は、天皇家は出雲王家の従属するような立場だった。

途中から急に結論づける人ですね
それも一つの説

465 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:12:15
俺が馬鹿なのか460の言ってることが分からない
455は神武の時に唐古・鍵遺跡を征服して崇神の時に槇向に移動したと言ってるんだよね?

460は>神武東征は日本の中心が移動したわけではない
と言ってるが
中心が移動したわけではない? 何の中心が移動したわけじゃないんだ?
455の意見に答えてるの?

466 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:15:53
>>464
結論付けるのは良くないが、あの記紀の内容を読んだら
普通にそういう解釈になると思うが...ああ、決め付けは良くない...
ただ、神武天皇が日向でどういう立場だったのか分からん。それは謎。
出雲王家から妃をもらうぐらいだから、
日向のほうでは、それなりの地位じゃないと無理なような気がする。
お供もそれなりについているし。
あの戦いで、神武は兄たちを失っているんだよね。
彼は神武東征軍の司令官ではないような気がする。
おそらく、兄貴のほうがそうだったのかも。

467 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:23:50
>>463 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/16(土) 08:47:59
>雄略5年の実年代は本当に461年でしょうか?
>神功39年記事に景初三年を盛り込む事でAD239年と見えるのと同じような
>トリック記事じゃないですかね?

同じようなトリックだが、雄略5年と神功39年が決定的に違うのは
雄略天皇・継体天皇と百済王武寧王がほぼ同時代に生存していて
武寧王が人質として日本ですごしていたのが確実だということ。
日本の記紀に出てくるから、その人物が。
逆に、景初三年の場合、その倭の邪馬台国の女王・卑弥呼が
いったい、どういう人物なのか全く謎だらけなことだ。
日本の記紀には卑弥呼なんて出てこないわけで。
だから、照らし合わせようが無いわけで。
それを無理に照らし合わせようとしたから、おかしなことになった。

468 :太国:2006/12/16(土) 09:30:41
>>463
それがしの考えでは、宣化以降が普通暦(等倍暦)使用なので、雄略5年が
461年相当にならないと観てます。雄略前代の安康世以前のみで倍暦使用ならば、
当然461年にはなりましょうが、安閑までは等倍を含めての倍暦使用があり
ますから、実年代は動いていますので461年から外れます。

469 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:31:44
>>466
兄が司令官なのは
たぶんそうでしょうね
神武はそれなりの力のある人だったと思う
民族移動のような移動なのか
派遣された将軍なのか
どちらかは分かりませんが

470 :太国:2006/12/16(土) 09:32:28
すみません。このスレは書きこみしないつもりでしたが、他スレと間違い
ました。倉西の隠居さんから逃げます。

471 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:45:47
日本書紀には出雲や吉備が特別な地域として出るが
考古学からもこの地区は発展してたのが分かる
資料が間違ってるわけでもないんだよな

472 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:58:30
>>469
民族移動ではないでしょう。
感覚的に言ったら、関が原の戦いに九州南部の島津氏が出かけていくようなもの。
あの神武東征のメインは、あくまでも出雲VS畿内なわけで。
神武は出雲の同盟者として、それに加勢したに過ぎない。
だからこそ、彼の軍は少数だったし、河内上陸戦で多くの犠牲者を出し
20人ほどしか生き残れなくて、和歌山の裏手から入るしかないのに勝てた。
そのあと、出雲から妃をもらうんだけど、領地は大和盆地の南半分だけ。
日本書紀では神武は「まだまだ全国を平定し切れてない」って強がっているが
何のこと無い、出雲VS畿内の戦争で恩賞をもらって、
畿内の狭い地域に領地をもらっただけである。


473 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:06:06
>>472
その論だと近畿勢力は滅びたと考えてるんですね?

474 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:08:20
とにかく、当時は二倍年暦から通常暦への以降がすんなりいかなくて
記紀の編纂者も混乱したのではないだろうか?
今の世の中みたいに、交通と通信が発達していたわけではなく、
朝廷が暦の改定をしても、それが様々な階層や全国津々浦々まで
慣れるのには年月が必要だ。
そのために、編纂者のほうも混乱してしまった。
だから、日本書紀の編纂者たちは、通常暦の使用が長い
外国の書物を引用する引用する必要があった。
よって、日本書紀の編纂者はいたって公正だった。
唯一の不正が卑弥呼の記述を神功皇后に合わせようとしたこと。
しかし、その合わせようとした年代が、二倍年暦と通常暦で
食い違っていることを全く考慮してなかったとw

475 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:12:41
>>473
前の畿内王権の国王はナガスネヒコ。
彼は、神武東征で、出雲によって滅ぼされ、畿内は出雲に併合された。
そして、彼の領地の中で大和盆地の南半分だけが
日向(熊襲か?)からきた神武天皇の所領になった。

476 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/16(土) 10:21:54
>>467
神功紀は、景初三年と云う漢籍で確認可能な決定的一句を盛り込む事で
日本書紀での239年が、正に実年代の239年だと云う錯覚を誘うトリック記事でしょう。

しかし、書紀の神武元年(BC660)を、倭奴国遣使のAD57年であるとして、
書紀が三倍区間だと計算して見てください。


崇拝十年の倭迹迹日百襲姫命没(BC88)が、卑弥呼没のAD247年中にピッタリ一致します
コチラは実年代側に乗っていると見て間違いないです。

477 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:28:12
>>475
前の畿内王権は饒速日命じゃないのか?物部氏一族だと思う。
ナガスネヒコはその最高司令官みたいなもんだと思う。
まあ、いずれにせよ、神武以前に畿内王権が存在したということだな。
後に、それらは全部、神話時代に繋がっていることにしたが
それは、あくまでも作り話で、
だからこそ、日本書紀は、神武以前と神武以降で、神代と正史に分けた。

478 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:34:45
>>476
自分は、神武を倭奴国遣使のAD57年にあわせる必要はないと思うんだな。
倭奴国遣使だけの記述だったら、日本国王の性別をこだわる必要が無い。

しかし、卑弥呼を合わせる必要があったのは、女王だということだったから。
その時の日本の時代の国王が男王ではまずいということだった。
もし、卑弥呼のあたりの記事に女王が出てこなかったら
こんなことする必要が無かったんだと思う。

479 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/16(土) 10:37:54
■では書紀の雄略5年(AD461)は、実年代のAD461と断定出来るでしょうか?

AD462年には宋に倭王興が認められる訳ですよね。
つまりAD461年の時点では、まだ武=雄略が成立しない時代です

そしてAD478年には宋に倭王武が認められる訳ですよね。
雄略の書紀での治世年間は*(457〜479)です。
雄略の古事記没年干支設定年はAD489年です。


■現時点での検証結果から、
古事記で没年干支が打っている全天皇には次の法則が全て成り立つと見て居ます。

  「A天皇の古事記没年干支設定年 ≦ A天皇の実年代崩御設定年」

古事記での天皇没年より以前に、実年代での天皇没年が設定されている事は無いのです。

つまり、書紀の雄略没年が479年は、古事記での没年より古いので、
書紀の側が年代操作をしている事に成ります。雄略年間は通常暦と断定するのは疑問です。


■それに倭王興が安康なら、462から478まで(460〜477まで)安康ですから
雄略治世五年(AD461)は、実年代でのAD461には当たらないでしょう

実年代のAD461年の記事を、書紀の見かけ上のAD461の雄略紀に記録しただけと云う
神功紀と同じトリック記事と見るのが妥当ではないでしょうか?


まぁ、実際は、神功三十九年や、雄略五年の外事記事の年代は操作してなくて
書紀の内政記事の側を年代操作して居る訳ですから、
外事記事が正にその記録位置にある事自体はトリックではなく、
正直な記録位置。と云う事になる訳ですが

480 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:50:53
>>479
サガミハラハラに聞いてみないと分からないけど、
彼曰く、皇位継承のつなぎ目というのは
いろいり混乱があって、それぞれで独自解釈があるから
一部でだぶっていたり、空位だったりするらしいから。
その安康天皇の即位の経緯と短い在位での暗殺は
その時代、朝廷内で凄まじい争いがあったのは容易に説明がつくと。
古事記の干支年も二倍年暦もあるから、さらに事情が混乱している。
とにかく、サガミハラハラの本を待とうw

481 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:58:04
>>479
日本書記では、雄略年間は、途中から
暦の改変があるということではないのか?
だから、雄略年間がまるまる全部が通常暦ではないと。

482 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:04:42
>>479
どうだね、サガミハラハラの説だと
倭の五王の康が雄略天皇ということになる。

おい、サガミハラハラ、本を出すということだそうだが...
おまえの説は破綻しているぞ。

そもそも、その10世紀以降に書かれた半島の書物って正しいのか?年号がw


483 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:25:52
結局、宋書の倭王の変遷で
ある国王の話でどの天皇に当たるかで大混乱をきたいしているということか?


484 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 15:30:00
倭は日本ではないでしょ
倭の5王から大和朝廷と考えるべきじゃないかな

485 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 15:45:36
>>484
倭は一応、日本列島だよ、卑弥呼の時代も。
ただ、大和朝廷(畿内政権)は、倭の五王からでしょう?

ただし、当時、天皇家の皇位継承がすんなり、いっていない。
風土記なんかでは、記紀のほうでは天皇になっているのに、
ただの皇子扱いだったりしている。

それは記紀以降だってあった。

壬申の乱の大友皇子は、長い間、皇位を継承したとは見なされてなかった。
それが明治以降、弘文天皇で即位していたことになった。

南北朝時代なんてそう。
北朝と南朝のどちらが正当かなんて、史書によって違っていたし、
江戸末期までは、南朝の天皇は、ただの親王だということにされていたw

486 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:24:54
 二倍年暦→通常暦の話なんだけど、
暦法の変更って古代政権にとっては一大事だよね。
暦って「支配の象徴」だと思うんだよ。その暦を使って
いる地域が支配地というか・・・。
 たとえば、朝鮮半島なんてシナ歴代王朝の暦を使って
いたわけでしょ? あれは支配下にあるってことだよね。

 「歴法変更」は、そのくらい大きな事件なのに、古事記にも
日本書紀にも変更宣言が無い・・・。
 ってことは、次のような可能性があると思う。

(1) 政権交代があり、そこで暦法が変わった。新政権の面々は、過去の
  政権の「名」を受け継ぐため、自分たちの歴史とつなぎ合わせようとし
  たが、途中で安易に理由も無く暦法を変更した、という記述を入れる
  ことができず、チグハグな流れになった。

(2) 編纂者が、自分たちの一年を過去に使われていた一年と思い込み、
  単純に昔の暦法を用いた言い伝えをつなぎ合わせただけ。

487 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:32:14
>>486

 ああ、ごめん。法律用語で言うところの (1)=悪意 (2)=善意 って意味ね。
(1)は、編纂の時点で、過去の出来事(言い伝え)が鮮明に残っていた。
(2)は、すでにゴチャゴチャのカオス状態の言い伝えしかなく、編纂者自身も
「???」って感じで書いていた。

 まあ、どちらにしろ「二倍年暦」が事実であればの話だけど。

488 :サガミハラハラ:2006/12/16(土) 21:44:40

雄略5年が461年である件について、
書紀に雄略5年に百済武寧王がカカラの島で生まれた。
ります。武寧王の墓碑から、王は
461年に生まれたことがわかりました。
書紀の5年に生まれたとの記事がただしければ、雄略5年は461年となります。
雄略6年(462ねん)から普通年で在位23年であるから、没年は479年となります。
ただしこの計算は私の作為がはいっています。つまり、私は479年雄略天皇没年と決めて、
そこからさかのぼって、調整したわけです。
その結果、雄略5年以前は2倍年暦であるとみたわけです。
そうなると、雄略元年は459年秋になります。
これは、安康天皇の即位年と同じになります。しかし、当時二人の天皇が同時に即位したということはありません。
これは、雄略天皇は安康天皇の即位を認めず、允恭天皇のあとはただちに自分が即位したということにしたためです。
しかし、書紀の編者は安康の在位を認めたことからちぐはぐなことになったのです。
今度の本では雄略天皇の没年については確定しておりません。今後詳しく調べていくことにしています。
とりあえずはここまでを本にしてみることにいたしました。
倭王武は雄略天皇と誰もが認めているので簡単にきまるだろうと考えていたのですが、もっともてこずった天皇でした。

489 :サガミハラハラ:2006/12/16(土) 21:59:44
458年秋允恭天皇の使者出発。
459年春允恭死去
459年秋安康天皇即位
460年春允恭の使者中国の都に到着。宋書に倭国貢献の記録あり。
460年秋安康の使者出発。安康死去。
462年 安康の使者到着。     宋書に倭王興貢献の記事あり。

490 :サガミハラハラ:2006/12/16(土) 22:17:53
どういうわけか、上記のはじめの部分が消えてしまいましたので再録いたします。

安康天皇の時代の前後の貢献についてシミュレーションするとこうなります。

を初めにいれてください。

491 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:27:15
サガミハラハラさんのでは
ヤマトタケルの実年措定とかも明らかになってるのでしょうか

492 :サガミハラハラ:2006/12/16(土) 22:50:49
倭健命は307年誕生の337年死去となっています。
寿命の30歳は普通暦です。両方の暦が混在している例といえます。
これは、命の記録が民間伝承等にかなりよっていることからきているとみられます。
しかも後世につけくわえられたものともおもわれます。

493 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:56:52
>>492
そこはわかりにくいなー

494 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 02:51:53
742 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:34:56
天照大神とは誰か

>天文学者によると、BC138年、158年、247年、248年、454年に
>日本で皆既日食が観測されたというのである。

http://www.nagaitosiya.com/a/amaterasu.html


743 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:36:44
>>742
安本は、247年、248年って騒いでいるけど
もし、本当にアマテラスが実在の人物をモデルにしたものなら
BC138年のが一番、可能性ありだな。

495 :唐松山:2006/12/17(日) 09:54:39
ほつま 増し で年表を作りました。  考慮中ですが

チ=治世年数...タ=太子に成る...ア=天皇に成.ウ=世継ぎ誕生...リ=立太子...シ=死亡 年齢です
m=増し前...天皇に成った年よりり引く(=前の天皇と同じ)
n=増し中...太子が生まれる前に引く
g=増し後...立太子から死亡まで  
太子が生まれてから立てられるまで よく解りませんのであまりいじってありません。
キサキは11才とか在りますので 増しは 適用されていないようです(子供だからか?)。

1年の誤差、訂正されていない所は ご容赦

神武 チ 76 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。シ127。。。。。。。。。m..n..g35
チ 18
綏靖 チ 36。。タ 17.。。ア52.。。ウ 56.。。リ 72.。。シ 84.。。。。。。。。。m.35.n.00.g12
  チ 25。。タ 00.。。ア17.。。ウ 17.。。リ 37.。。シ 37.。。
安寧 チ 38。。タ 21.。。ア33.。。ウ 36.。。リ 45.。。シ 70.。。。。。。。。。m.12.n.00.g26
チ 12。。タ 21.。。ア21.。。ウ 25.。。リ 32.。。シ 32.。。
懿徳 チ 34。。タ 08.。。ア36.。。ウ 00.。。リ 57.。。シ 69.。。。。。。。。。m.26n.12.g12
チ 10。。タ 08.。。ア10.。。ウ 00.。。リ 00.。。シ 19.。。

496 :唐松山:2006/12/17(日) 09:55:21
孝昭 チ 83。。タ 18.。。ア31.。。ウ 75.。。リ 95.。。シ 113.。。。。。。。。m.12.n.44.g14
弟 チ 25。。タ 18.。。ア19.。。ウ 24.。。リ 43.。。シ 43.。。
孝安 チ 103。。タ 20.。。ア34.。。ウ 85.。。リ 110.。。シ 137.。。。。。。。m.14.n.46.g26
チ 32。。タ 20.。。ア20.。。ウ 25.。。リ 50.。。シ 51.。。
孝霊 チ 78。。タ 26.。。ア52.。。ウ 71.。。リ 88.。。シ 127.。。。。。。。。。m.26.n.4.g37
チ36。。タ 26.。。ア26.。。ウ 44.。。リ 57.。。シ 61.。。
孝元 チ57。。タ 18.。。ア60.。。ウ 69.。。リ 85.。。シ 117.。。。。。。。。。m.37.n.5.g34
孫 チ 19。。タ 18.。。ア23.。。ウ 25.。。リ 40.。。シ 41.。。

開化 チ60。。タ 16.。。ア51.。。ウ 59.。。リ 78.。。シ 111.。。。。。。。。。m.34.n.4.g33
チ 24。。タ 16.。。ア17.。。ウ 21.。。リ 39.。。シ 40.。。
崇神 チ68。。タ 19.。。ア52.。。ウ 81.。。リ 102.。。シ 119.。。。。。。。。。m.33.n.19.g18
チ31。。タ 19.。。ア19.。。ウ 29.。。リ 49.。。シ 49.。。
垂仁 チ 99。。タ 21.。。ア42.。。ウ 62.。。リ 79.。。シ 137.。。。。。。。。。m.18.n.13.g60
チ 27。。タ 21.。。ア24.。。ウ 32.。。リ 49.。。シ 50.。。
景行 チ 60。。タ 18.。。ア81.。。ウ 86.。。リ 126.。。シ 140.。。。。。。。。。m.60.n.20.g10
チ 30。。タ 18.。。ア21.。。ウ 26.。。リ 46.。。シ 50.。。

これで 崇神から景行までほぼ90年 たたねこ 長生きしすぎ



497 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:18:56
こういう「お遊び」って面白い?

498 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/17(日) 11:24:25
>>489
の筋書きはなんかオカシクないですかね

漢籍で年譜が打ってる記事は、基本的に
1、倭王が死んで新倭王が送った遣使記事
2、新倭王に対する詔勅

がセットで


460年の帝紀に書かれる「倭國、『遣使獻方物』 」は、1のパタンで
蛮夷伝での「濟死丗子興、『遣使貢獻』 」との対応してるんじゃなかったですか

>>489だと
允恭=濟が死んだ事を、允恭が死ぬ前に出した使者が告げる事になる筈

どうなんですかね

499 :唐松山:2006/12/17(日) 11:29:10
増しで  景行 を精査
西暦 239年から 268年
西暦 239年 景行 天皇に成る...60年の増し
西暦 242年 タケウチ生まれる..尾張行幸..ワカタリヒコ生まれる...景行4、5、6,7,8、は同年
西暦 244年 景行12年 熊襲叛く(九州王朝に対し)要請を受け8月15日出立...景行12,13,14は同年
西暦 247年 景行17年 再度出向 九州各地を転戦
西暦 248年 景行18年 クマノガタ平定、閏7月4日筑紫のオオミケ死亡
西暦 250年 景行20年 五百野姫14歳を伊勢より筑紫に入れる(約100人の兵隊、付き人共)
西暦 257年 景行27年 熊襲また叛く 12月コウス下向...景行28=40
西暦 258年 景行40年 武尊(コウス)2月九州と穴門平定、より帰都、10月伊勢、関東下向
西暦 259年 景行41年春 武尊 尾張に帰る、同武尊死亡、
西暦 264年 景行46年 ワカタリヒコを太子とする...景行46、より51年は同年
西暦 266年 景行53年 景行関東下向...(景行52年は、53年と同年として見た方が自然)
西暦 268年 景行55年秋 景行死亡...景行55年、=景行60年



500 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/17(日) 11:37:33
しかも入宋と入れ違いになったからと

安康=興の初の遣使が462年だとし、且つ、また入れ違いに没していると考えてる。むむむ

501 :唐松山:2006/12/17(日) 11:39:47
これを お遊び というのは、まあ許す。
では、記紀に 閏月が無い 理由を 述べよ


502 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 14:42:42
どっかの神社の延喜式で開化のときに初めて外国から攻撃を受けたと書いてある
そうだが、知っている人は教えてくれ!

503 :唐松山:2006/12/17(日) 15:21:57
考霊から崇神は、
私にとっても????の時代
九州を除くイヅモ、カワチ、畿内統一の時代 

504 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 15:38:58
海部氏系図について、どう思いますか?

また、その神社には、前漢や後漢の銅鏡が
収められていたんでしょう?

505 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/17(日) 17:11:09
海部氏系図は先代旧事本紀と共に重要視していますよ

書紀の年代引き伸ばしに伴う系図書き変え部を、
年代復元計算と云う内的手段以外に
先代旧事本紀と海部氏系図によって確認できますし

不整合部があっても相互に参照する事で復元を試みる先行研究もありますし
書紀研究にとっては必須じゃないでしょうか


書紀の神武元年はAD57と算出しましたので、それを前提にすると
海部氏が書紀の神代に相当する前漢鏡を持って居る事は
神代に当たる時代も安易に棄ててはいけないと云う事になるので、神代は神代でなくなりますよね。


それに3倍引き伸ばし/AD57年設定説を取らない人や
先代旧事本紀/海部氏系図なんかの記紀以外の史料を重視しない人は、

書紀の上位十天皇に付いて実年代復元を試みても、天皇の父子関係に注目すると
・年代算出が間違っていて、上位十天皇の直系十世十代の世系は正当なのか
・年代算出は正しくて、上位十天皇の直系十世十代の世系が不当なのか
と云う最終的な結論が得られないんじゃないでしょうか?

しかし、3倍引き伸ばし/AD57年設定説や、先代旧事本紀/海部氏系図等を重視する立場なら
記紀の欠史八代の系図こそが当初の物から改変されたと結論付けられますし、改変箇所も絞り込めます。


ですので、書紀研究の上でも重要な史料だと思います。

506 :唐松山:2006/12/17(日) 21:02:48
大彦 考霊4年生まれ
大彦の娘11才で崇神の妃となる
崇神9年 大彦 越のオシとなる
モモソ姫 共????の時代です

507 :唐松山:2006/12/17(日) 21:27:20
この間に 私として 入れたい物
崇神5,6年大凶作
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年
(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』とする。
出雲の国譲り
出雲の国王大物主にモモソ姫が嫁ぐ
モモソ姫?の子供堕胎に失敗


508 :サガミハラハラ:2006/12/18(月) 19:06:43
アクセス規制のためご質問のおこたえできませんでした。

>>498
不明年と460年の記事とは出典がことなります。
460年の記事は宋書孝武帝紀で、不明年の記事は宋書倭国伝です。
460年の記事は王の名が不明です。となるとこの記事が不明年の前のことなのか、後のことなのかということになります。
紀においては、済=允恭天皇な在位は長く、興=安康天皇の在位はとても短くかいてあります。
となると、これは不明年の前に入るとみるのが適切であると考えます。

藤間生大氏の「倭の五王」(岩波新書p25)の年表では、不明年の次に460年の文がありますが、これは順序を入れ替えたほうが適切であるとおもいます。

509 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 05:10:53
サガミハラハラさん、
神武東征の舞台になった日向は
北九州の山門(ヤマト)の日向だというのは
正解だと思います。

ただ、サガミハラハラさんの「高天原は福岡の山だ」だという説は間違っています。
高天原は、奈良県の高天台です。
神武の先祖は、高天原(畿内)政権の王族の分家として生まれ
日向の国へ派遣されました。
そして、神武の代になって、本家の入婿になったのです。

510 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:47:35
>北九州の山門(ヤマト)の日向だというのは

これは面白い見方だけど
山門は後から言われた可能性もあるんじゃ?

>神武の先祖は、高天原(畿内)政権の王族の分家として生まれ
日向の国へ派遣されました。


そん説は始めて聞いたよ
新説?

511 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:02:29
>>510
普通に国文学で読んでいけば、そういう結論になる。

おそらく、後に九州南部が日向と言われるようになったから
後世の人間が大きな誤解をしたんだろけど、

普通に記紀には、筑紫(字はこれと違っていた?ちょっと忘れた)の日向
とかいう記述が出てくる。
神武東征の最近まで信じられていたルートも、日向から
わざわざ遠回りして、北九州の港に立ち寄っている。
実はそこにも日向あるんだよね。

山門の地名に関しては、福岡市以外にもあるんだけど、
大分だとか佐賀だとか、北九州ばかり。このどこかだろう?
畿内にあるヤマトは、いずれも、倭とか大和とか大倭だとか...
よって、普通に北九州の山門が、畿内に来て大和の字を当てるようになったと見るべき。

高天原が、近畿地方の金剛山高天台だというのは
新説でもなくて、これから徐々に言われるんじゃないのか?
これまで三王朝交代説を唱えた鳥越氏のせいで、敬遠されていた説だがw
自分は鳥越氏とは全く違って、イザナギから一応、続いていたと思う説。

記紀の神話の部分で、イザナギ以降を読んだら
おのずと、そういうことが分かってくる。
また、天皇家の大国主神に対するスタンスだとか
伊勢神宮軽視で、高木神を大切にする皇室の宮中祭祀だとか
明治天皇が東京へ行く前に高天彦神社に参ったとか。

512 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 05:32:05
>>511
日本は崇神の前にわりと統一されてたということですか?

513 :サガミハラハラ:2006/12/21(木) 07:46:28
雄略天皇の紀年について
書紀の在位年は雄略天皇の中途から普通年であるとかんがえています。その根拠は、
安康天皇の460年代が確定している以上、頭はおさえられています。(武寧王誕生461年=雄略5年)
尻尾の法はどうかといいますと、これは三国史記の百済滅亡や諸王の動向などから、
470年代末に崩御と考えられます。そうするとその間20年くらいですから、書紀の
在位23年とあい、日本書紀の雄略天皇在位は普通年で記述されていたとわかります。
年齢については、古事記では124歳とありますが、書紀での記載は今の所みつかりません。
ただ、古事記では赤猪子の話があり、80年待った、ということから普通年40年だ
とすると、これは在位23年を大きくオーバーしてしまいます。
天皇の年齢についてはシミュレーションはしておりませんので、年齢についてはわかりません。
今後検討してみます。

514 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:43:25
サガミハラハラさん、邪馬台国の所在地について
本を書いてしまったのですか?

あと、神武天皇の東征地にもついて書いてしまったのですか?

たぶん、サガミハラハラさんの推理は少し違うのでは?と

古事記・日本書紀スレに来てください。

515 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:54:10
系図で分かりやすくすると

スサノオ(宇佐の王)━(数代)━┳神武天皇
                    ┗━━(数代)━━卑弥呼


516 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:46:53
174 :日本@名無史さん :2006/12/21(木) 13:16:06
>>172
物部氏というのは、天皇家と同じで、イザナギの末裔を名乗っていて、
どちらも、元々は高木神を祭っていた。

そして、物部氏は日本全国に分家が多く居て
そういう意味では、神武天皇後胤の天皇家や蘇我氏や
中臣氏から分派した新興氏族の藤原氏を遥かにしのぐ勢力だった。

ひとつ違えば、神武天皇の後胤である天皇家を
屈服させる力があった。どちらも、同族だしね。

だからこそ、天皇家は自分の先祖にアマテラスという女神を挿入することによって
男系では物部氏と家系を断絶させる必要があった?


175 :174の続き :2006/12/21(木) 13:21:21
本来、高木神が皇祖だったはずの天皇家が
アマテラスという新興の女神を作り出すことによって
世間では、そちらのほうが皇祖ということにした。
そうすることによって、物部氏を皇祖の子孫から外した。
ただし、宮中祭祀では未だに高木神を皇祖と扱っている。

また、高木神のほうも昔と同じままではなく、
様々な神様を合体させることによって
高皇産霊神という意味合いが少し違う神様を作り出すことによって
元の原型を隠す必要があった。

517 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 04:37:39
>>509
>神武東征の舞台になった日向は
>北九州の山門(ヤマト)の日向だというのは
>正解だと思います。

勝手に決め付けるな。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm
>例えば宮崎市の生目(いきめ)古墳群1号墳(墳長130メートル)は
>箸墓(はしはか)古墳(墳長280メートル)の2分の1、
>鹿児島県高山町の塚崎古墳群10号墳(墳長40メートル)は
>行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵、墳長240メートル)の
>6分の1の平面規格という。
>前方部と後円部の長さの比や、
>古墳中央部のくびれ具合までぴったり相似することを
>偶然と見なすわけにはいくまい。

東遷したなら、やっぱり「南九州」だろ。

518 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:41:25
>>516
高木神が徐福ってこと?
本家 物部出雲
分家 天孫日向

519 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:05:33
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ

520 :サガミハラハラ:2006/12/24(日) 23:30:41
今一寸神武即位年を片手間に計算してみたら(試算といいます)、AD131年と簡単にでてしまった。長年の懸案がこんなに簡単にでてしまっていいのだろうか。

521 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:21:50
>>520
心配だ! あなた間違っている。
なぜ、倍年暦で記紀を素直に計算しない。

522 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:22:53
240 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 19:16:55
サガミハラハラさんの倍年暦補正計算で算出したら
西暦230年〜264年が崇神天皇の在位期間。
(計算間違っていたら、ごめんなさい)

これを信じるのなら、記紀では崇神天皇5年に飢餓が起こったということだから
倍年暦で補正したら、西暦233年くらいに飢餓が起こった。

ちょうど、その時代に卑弥呼が邪馬台国の国王になっている可能性がある。
つまり、飢餓のせいで、即位間もない崇神天皇が妹の御真津比売命に
祭祀政治をさせた可能性がある。

台与(とよ)というのは、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)で
初代・斎宮になった人物じゃないのか?

107年の倭国王・「帥升等」シシトは、
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)の可能性あり。
孝安天皇の在位期間(サガミハラハラさんの倍年暦で83年〜133年)
の可能性が高い。

サガミハラハラさん、あなたの倍年暦計算を
崇神天皇以前は、日本書紀の即位期間を信じて愚直に計算してみるべきでは?

問題は57年の奴国王の金印ですね。これは、どういう意味を表しているのか?

523 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:24:32
>>520
サガミハラハラさんへ。

837 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 22:48:54
箸墓=卑弥呼の墓は確定。
ただし、記紀に書いてある孝霊天皇の皇女ではなく
妊娠した年齢から言って、孝元天皇の皇女だと思う。
孝霊天皇の皇女と孝元天皇の皇女は名前は殆ど似ているし...
記紀の編纂者がゴチャゴチャになったんじゃないのか?

あと、107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
おそらく、第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)

524 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:31:22
252 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 23:04:23
>>250
自分は今まで、邪馬台国は九州で、別に畿内王権があった説だったけど、
でも、今はちょっと、邪馬台国=畿内王権じゃないのか?と思っている。

というのは、サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にあてたら
107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
と一致したから。

あと、崇神天皇のところで、飢饉が起こって、
遠い蛮族に謀反を起こされるというのが出てくるが、おそらく狗奴国の謀反だろう。
また、崇神は叔母に祭祀を頼んで宗教の力に頼る記述が出てくるが
この叔母こそ卑弥呼じゃないのか?倭迹迹姫命だ。
記紀には倭迹迹日百襲姫命で崇神の大叔母の名前が書いてあるが
名前が似ているから記紀の編纂者もゴチャゴチャになったはず。
あるいは、途中で入れ替わったのかも。
なんせ、妊娠したわけだから、年齢から考えてね...


問題は、57年の漢倭奴国王。でも、これは特定の名前が無く
しかも、冒頭に「漢」という字が着いている。
つまり、これは、倭国全体の国王ではなくて、奴国王。
しかも、後漢の州知事みたいな立場として認定されて
金印を貰ったんじゃないのか?

ちなみに、同時代の天皇は、サガミハラハラさんの倍年暦を愚直に追及すれば
孝昭天皇(41.5-82.5)。

おそらく、欠史八代の間に、畿内の天皇家の力が増大して
奴国王は追い込まれていったのかもしれない。

525 :とりあえず、まとめ:2006/12/25(月) 01:01:12
サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。愚直に。

57年の漢倭奴国王が金印。これは、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、奴国の王の可能性が強い。
また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので、金印を貰えたのではないだろうか?
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代であり、奴国王は、天皇に黙って、
使節を送ったのではないだろうか?

107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)

崇神天皇の時代(230.5-264)

崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。

そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)

この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。

また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。

崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。

526 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:59:16
八木壮司が主張する『倍年説』がある。倭と中国から呼ばれていた
当時の日本では一年が今の半年として数えられたとする学説が
「魏略」を根拠にして存在する。これに従えば、神武天皇は127歳生きていたのではなく
その半分の約63歳で天寿を迎えたことになり学問的にも信頼性が高まる。
また神武天皇即位も紀元前660年ではなく西暦181年になる。


なんで181になるんだろ
もっと長くなると思うが


527 :唐松山:2006/12/26(火) 17:46:18
倍暦で 閏月は、どうなるの??
増しで 景行の閏月を見ました。
景行元年=垂仁90年=同99年です
西暦239年 景行元年 垂仁99年 アフミ
西暦242年 同 4、5年  4年ネシモ=5年ネシモ
西暦243年 同 6,7,8,9,10年 該当記事なし
西暦245年 同 12,13,14,15、16年   12年アフミ
西暦247年 同 18年          18年アフミ
西暦248年 より西暦254年まで 該当記事なし
西暦255年 同 25年         25年ネシモ
西暦258年 同 28年=40年     40年セミナ
西暦259年より西暦263年まで 該当記事なし
西暦264年 同 46年=51年  該当記事なし
西暦265年 同 52年       52年アフミ
西暦267年 同 54,55=60年 景行死亡 該当記事なし
29年間で7ヶ所確認できました。

かなり 良い線 行っている(自我自賛)

528 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:48:43
>>526
八木説は、素直に倍年で計算してないから
そういうアホな数字になる。
(倍年暦だったことに気が付くまでは良かったが...)

日本書紀が倍年だけじゃなくて、それ以外に改竄しているところは
卑弥呼と神功皇后を無理に合わせるために
仁徳天皇の即位期間を二倍にしたことがあるらしい。

そういうのを考慮したら、神武天皇は紀元前1世紀の即位だ。

529 :唐松山:2006/12/26(火) 19:22:55
倍暦って
ゴムひもに目盛りを刻んで 伸び縮みさせて 歴史の長さを謀る方法です
サイコロの方が まだマシ


530 :唐松山:2006/12/28(木) 16:54:44
とりあえず 年号の干支は、でたらめ
では、月の えとは?
   日々の えとは?
増し でみた時 日々のえとは、合っているようです
崇神を 日々の干支で見たとき 24年から26年の 治世です。
今 まとめていますので そのうち

531 :唐松山:2006/12/30(土) 09:57:50

崇神の治世年数を日々の干支で診てみました。
まず 是までの私の予めの予想 27年間 この辺りの年数でみました。
最も妥当だと思った 26年 だけ 発表します。
崇神1年1月1日 ねしえ
垂仁1年1月1日 つあと
まず 太陽暦で
26年*365.25=9496.5
つぎ 太陰暦で
月の数26*12/2=156
大の月、小の月共156 とする
閏月 19年で7回とし26年で 9回
 30*156+29*156+30*9=9474
9496.5-9474=22.5 誤差の範囲以内
崇神1年1月1日 ねしえ
垂仁1年1月1日 つあと
1を ねしえ として +9474=つあえ +1日で つあと
崇神 治世26年とするとピッタリ 細かい操作不要
なお68年で見た場合15日ほどずれます。

書記で1ヶ所 試してみたが合わなかった

532 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:19:19
この板はもしか
養豚場でつか?

533 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 09:06:08
そのようでつね。
黒豚はおいちいのでつか?


534 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 14:58:34

>>533
多分おいちいでチュ
アスパラ巻きでどうじょ


535 :唐松山:2007/01/07(日) 08:22:41

日々の干支で年数を計算する 方法  最も 単純な 太陰暦です。

5行 B5から+1 AE5まで横に30   2段にしたら60年 3段...
6行 5行*365.25  太陽暦日数 
7行 5行*6*30+5行*6*29
8行 閏 19年で7回  0,0,1,1,1,2,2、2 ...と言う具合
9行 8行*30    閏月の日数 (29日にすると調整が大変)
10行 7行+9行    太陰暦の日数(太陽暦の日数を超えない事)
11行 21    調整用  時々変える必要あり +−9の範囲内で 注意+−6で似た干支になります
12行 10行+11行
13行 干支に換算する式  下記の式をお使いください。
=CHOOSE(MOD((B12+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(MOD((B12+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
この式で1年365日の干支も計算できます。合わせて表を作ると便利
当時の 日暦は、全て1080日です

成務 元年春正月甲申朔戊子  仲哀 元年春正月庚寅朔庚子 二年春正月甲寅朔甲子
沢山集めて 挑戦して下さい。



536 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 09:06:11
当時の 日暦は、全て1080日です

遂に三倍に転向か♪

537 :唐松山:2007/01/07(日) 09:40:00

上記の 干支 に依る年数割出し に使った 年数数字と 調整日数です
書記の 干支を 使いました

94孝霊 23
127孝元 20
152開化 19
175崇神 19
202垂仁 21 は2年度の2月の干支により算出
228景行 24
255成務 21
279仲哀 21



538 :唐松山:2007/01/07(日) 09:43:54
1080日在れば どんな年でも使えるという事だと思います。
カレンダーの使いまわし
その様に書いてあります。


539 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 09:56:58
どこに書いてるんですか?

540 :唐松山:2007/01/07(日) 10:50:21
当時(弥生 古墳時代)の暦を正しく再現したい人は、
ほつま を参考にしたら如何でしょうか?

ホ16084  みめくりすべて チヤソなり
この辺の 文章がそうだと思うのですが さっぱり解りません

3月か4月 最大39日(何年かおき) 5月新暦
私には、この辺までしか...



541 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:56:19
ホツマを作った人は、一旦日本書紀を自分の解釈で解いた筈でしょ

そのロジックをそのまま書いときゃ良いのに、ホツマ自体を解かなきゃ
作者の意思を汲み取れないなんて面倒な話だな



542 :唐松山:2007/01/07(日) 11:23:39
書記に、書いてない事も 山ほど載っています
ほつま から 日本書記はある程度再現出来ますが、
日本書紀 から ほつま は再現できません

では キツネ=稲の神様 はどこから出来たか?
ほつまの暦 キツサネ からきたことは想像できても 日本書紀を暗記するほど読んでも
答えは、出ないでしょう。

543 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 11:28:18
それって日本書紀に書いてない事がホツマに書いてあるって事は
要するに日本書紀はホツマから出来てないけど
ホツマは日本書紀から出来てるって事だよね

544 :唐松山:2007/01/07(日) 11:43:43
ぎゃくでしょう
日本書紀は 全てを採用していないと言う事
たとえば
書記の景行18年あたり  遣五百野皇女 と出ていますが
ほつまでは       いおのひめ これ 筑紫向け と書いてあります
書記では意味がまったく解りません


545 :唐松山:2007/01/07(日) 12:23:06
どうせ ほつま伝を読まずに批判しているでしょうから
読んでから批判してください。

ぽエー 無  でないヤツ
ホツマ伝 ミカサフミ
http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm


546 :唐松山:2007/01/08(月) 16:41:57
このような 年表が 出来ました  私の年代感です。

神武 西暦 –12 橿原 飛鳥川に都
綏靖 西暦 6 
安寧 西暦 25 
懿徳 西暦 35 8才で天皇
孝昭 西暦 44 弟
孝安 西暦 70
孝霊 西暦 105 31年頃宝物庫火災焼失  領地を広げる
孝元 西暦 138 孫
開化 西暦 163
崇神 西暦 186 飢饉 出雲併合
垂仁 西暦 208 新都 巻向へ都を移す 三輪山も移動?(こちらは、崇神かも)
景行 西暦 239 要請により九州出兵 東海、関東以北を平定
成務 西暦 266 屯倉、国造の設置
仲哀 西暦 290

たたねこ 80才 人間に成れたが
ももそ姫殿が…  今しばらくお待ち下され…
 天皇家の短命は、血液のせい だと思います

547 :唐松山:2007/01/08(月) 20:45:46
早速 訂正を兼ねて

年次数は 西暦−9です 干支は、元年1月1日 調整日 です
神武 西暦 –12 
綏靖 西暦 7  壬申 21 
安寧 西暦 24 ?辛卯22 元年10月より59日2年乙酉より
懿徳 西暦 36 己卯 23 2月より30日
孝昭 西暦 45 丙戌 22
孝安 西暦 70 乙酉 22
孝霊 西暦 105壬辰 23
孝元 西暦 138辛未 20
開化 西暦 163庚午 19
崇神 西暦 186壬午 19 
垂仁 西暦 212 戊申21 2年2月より−30日が壬寅
景行 西暦 238 ?壬申21 2年3月より−60日丙寅
成務 西暦 266甲申 21 
仲哀 西暦 290庚寅 21
神功 西暦 298壬申 21

最も 頼りにしていた 景行が づれてしまった しかも誤差の少ない方へ
私の予想の 閏月からみると悪い方へ  

548 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:20:04
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!


549 :太国:2007/01/09(火) 22:32:52
>>548
712年に成った古事記を眺めて、不足分、誤認等の改正を必要な箇所の有無を
検討して紀の編者らは720年日本書紀を完成したわけであるから、記紀の歳の
相違では、後者である紀の修正化の記載の数字のほうがずっと正確だという
ことであり、こちらを選択すればよい。

550 :太国:2007/01/09(火) 22:34:33
ここは倉西さんのスレだったので、〜早急に立ち去ります。

551 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:58:57
http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/EqualLink?txt_author=%E5%80%89%E8%A5%BF%E8%A3%95%E5%AD%90

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