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津軽の人々はそろそろ南部に謝罪 普通に10

1 :日本@名無史さん:2006/07/24(月) 10:59:53
前のスレッドは酷すぎ。普通に語れ。

ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1148799956/




471 :今日のお話:2006/08/11(金) 15:22:37

「津軽、南部と北方警備」今回は1813年の「ゴローニン事件」事件である。

前回書いた択捉島襲撃以後、幕府の外交姿勢は軟化したようだ。蝦夷地に
来航するロシアには、しばしば薪や水を供与している。
1842年の薪水給与令の先駆けともいえる政治方針である。

この際、ロシア側はいくどか日本側の役人にロシア政府からの贈り物を受け
取らせようとし、拒否されたり送り返されたりしている。
「give and take」を成り立たせ、既成事実化して日本の開国への
突破口にしようとしたのだろう。

そんな中、「ゴローニン事件」は起こった。

1813年5月26日、ロシアの軍艦、ディアナ号が測量を目的にクナシリを周航する。
クナシリに在勤していた幕府の調役奈佐瀬左衛門政辰は、南部藩士に命じて一度は
砲撃するものの、結局艦長ゴローニンと水・食料・薪などの供与の交渉中を始める。
しかし、交渉中、ロシア側に不審な行動あったため、奈佐は、南部藩士に命じて、
ゴローニンおよびその部下数名を捕縛。
このさい艦長を救うべく、ディアナ号からの砲撃があったものの、
南部藩士は応戦。見事、ディアナ号を撤退させている

ちなみに測量というのは、当時としては立派な軍事行為であり、
ゴローニンは自分達の目的が測量であることを隠していた。

少人数だったとはいえ、武装していたであろうゴローニンたちを
捕縛し、さらにロシア艦からの砲撃に応戦したのだから評価していい。
ロシア側の砲撃に対処できず、僅か数名の数名のロシア人に上陸を許し
食料を奪われた択捉島襲撃事件に比べれば、大いに違いがある

まして、病人を置いて逃げ出した津軽藩士とは、雲泥の差である。

472 :今日のお話:2006/08/11(金) 15:24:37
ttp://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-03/shishi_03-03-08-00-01~02.htm

>当時ここには調役奈佐瀬左衛門政辰が在勤しており、これを見るやただちに
>南部藩の守備兵に命じて砲撃させた。

>ところがロシア人は承知せず、そのうちわが挙動に不安を感じたのか海岸に向かって
>逃げ出したので、瀬左衛門はこれをことごとく捕えさせたのである。
>この状況を艦上から見た副艦長リコルドは、ただちに艦を進めて接近してきたので、
>南部藩の守備兵は砲を発してこれを迎え撃ち、彼もまた応戦したが及ばずと見て沖へ退き、

その後、ゴローニンは大黒屋光太夫などと引き換えに、ロシアに送り返され、
日本に関する著作「日本幽囚記」を書く。そのが、この時期の欧米における日本の
印象を確立していたようだ。

その交渉において、ロシア側は、前回書いた択捉島襲撃事件などの非を詫び、
指揮官を処罰している。

それ以後の歴史からみると意外なことだが、明治に入るまで、ロシアは日本に
対しては非常に友好的な国であった。
「樺太千島交換条約」は対等に交渉がなされ、「日魯通好条約」は、
不平等条約ではあるが、諸外国に比べ、日本に不利な要素は少ない。

当時は、帝国主義の時代であり、軍事力なくしては国際交渉での発言権はなかった。
そういう意味においても南部藩士の奮戦は、おおいに日本の国益に貢献したといえる。

473 :今日のお話:2006/08/11(金) 15:33:02
ttp://homepage2.nifty.com/kitaqare/hist163.htm
>そして、この時、ロシア側は文化3・4年の衝突事件の非を認め、日本側に謝罪しました。

ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_russia_2005/2_
>箱館、下田、長崎の3港の開港(第3条)のほか、双務的な領事裁判権が
>規定されていることもこの条約の特徴です(第8条)。

ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_russia_2005/2_2.html

ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/area/russia/shukou_150/index.html
>その後もプチャーチンは日本に好意を持ち続け、サンクトペテルブルクに滞在する
>日本人留学生の庇護に努めるとともに、在ロシア日本公使館開設(1874年)後には、
>各種の周旋を依頼されるなど、様々なかたちで日本に貢献しました。

とりわけ、プチャーチンの日本贔屓は有名だったらしい。


ということで今日はこれまで。とりあえず「津軽、南部の北方警備」に
関しては一段落。

しばらくは、このシリーズもお休みして、津軽側が「自分達の歴史」に
対して、どういう認識を持っているのか返答を待っているよ。

津軽側が「自分達の歴史認識」を出さない限り、対話は不可能なんだから。
嫌がらせをするで気でなく、ちゃんと歴史認識を提示して欲しい。

そうでなければ、対話がうまれないからね。

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