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築山殿瀬名姫を再評価しよう!

1 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 16:21:33
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153802162/1-100
と名前が似ていますね。先に謝っておきます。
築山殿瀬名姫といえば、家康の正室で、勝気でプライドが高く、信長の娘、五徳姫を苛めて、
その五徳が信長にチクッたたね殺されたという悪女と名高いお方です。
しかし、五徳をいじめていたというのも最近は間違っているのではと取り沙汰され、
さらに信長の命で殺されたのではなく、なんらかの理由で家康は築山殿とその息子、信康が邪魔になって殺し、
信長が死んだ後自分の行為を正当化するため信長に命令されたと嘘をついたという説まであります。
ここで築山殿について再評価してみたいなと思います。

2 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 18:00:00
戦国時代
http://hobby8.2ch.net/sengoku/

3 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 21:59:55
地元の資料では、
若き日の家康が瀬名姫との結婚を望んだとある。才色兼備の美女だったとのこと。
徳川家の資料だと、年上で売れ残り女の瀬名姫を無理やり押し付けたとあるが、どっちが本当なのかわからん。

4 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 00:44:27
静岡市葵区瀬名出身の俺が来ましたよ


5 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 03:48:57
家康絡みの事を議論する時には、所謂「神君」史観を排除する必要があるね。

6 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 06:03:29
いくら待遇が良くても、人質しょ?無理矢理押し付けるってのは有りあのかな?


7 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 08:43:13
築山殿は桶狭間以降、家康に遠ざけられたみたいだけど、
それなのに、なぜわざわざ人質交換までして岡崎に連れてきたんだ?


8 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 09:35:21
>瀬名
なぜ誰もつっこまない。

9 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 12:55:06
>>7もれなく息子が付いてくるから、とか?

10 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 13:27:48
息子だけ連れてくればいいのに…
家康の母親も祖母も子供置いて離婚してるし

11 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 16:40:55
>>8
瀬名にどう突っ込めと。

12 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 16:53:13
>1
わざわざ単独スレたてること無いんじゃないかね。
戦国女性の他スレでも充分な話題じゃん。

あの悪妻ぶりなどは、ただの伝承だし、小説の創作だし
史実としてどこをどう再評価しろと?
諸田玲子の小説では良く書かれてるよ、としか言えん罠w

13 :日本@名無史さん:2006/08/29(火) 20:17:49
旭姫の菩提を弔い、寺まで建ててるのに
築山殿の墓すら作らない家康って・・・

14 :日本@名無しさん:2006/08/30(水) 07:58:25
家康は所詮傾きかけてた三河の小大名の嫡男に過ぎなかったんだし、
ましてや人質の分際で義元の姪を望むなんて馬鹿なことすはずないと思うが
・・・。
たとえ押し付けられたとしても結婚当初はいろんな意味で
有り難かったのでは?
桶狭間以降は瀬名は用なし。
どんなに温和な人物でも家康の仕打ちに暴発することがあったのでは?
それを大げさに伝えられたとか・・・所詮駿河女に過ぎなかったんだろうなぁ。

15 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 10:00:10
>>8
あいるとん?

16 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 12:24:11
>>1の何らかの理由って何?

17 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 13:20:03
この人に関する確実な記録って、残ってないんだよね。
今川サイドの資料にも残ってないのかな?

18 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 13:59:01
>13
築山殿の墓なら浜松にありますよ


19 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 16:08:34
>>16
信康は頭がよくて、家康は跡継ぎにしたら自分のいうことを聞かなくなると危ぶみ、
信康+邪魔だった築山殿を殺し、おとなしかった秀忠を跡継ぎにしたという説があるらしいが。

20 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 17:07:10
信康が死んだとき秀忠は赤ん坊だったのでは?

21 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 18:23:20
築山殿って本当に悪女だったんだろうか?
マンガの「徳川家康」を読んだ時にちょっと築山殿に同情してしまった

22 :日本@名無史さん:2006/08/30(水) 23:17:10
>>18
浜松にある築山殿の墓は明治になってから、つくられたやつだよ。
実家の子孫の人が供養してるらしい。

23 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 01:59:18
>>19
秀忠の母親は家康の遠縁だし、
秀忠母の親族が信康の処刑に関わっているんだよね。

24 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 05:24:03
減敬だか滅敬だかいう医者と密通していたのは事実なの?

25 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 08:22:11
>23
秀忠の母さんは金谷の人じゃなかったけ?

26 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:25:59
>>1
小説やドラマでの性格設定を信じるような馬鹿はほっとけってw

27 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 11:18:52
>>17
徳川家によって消されたんじゃないの?
公開されてない資料だってあるだろうし

28 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 13:54:55
>>24
事実かどうかは分からないんだけど、当時の武家の女性は
簡単に密通とか出来る環境に住んでたわけじゃないから、多分うそだと思う。


29 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 22:17:48
>>28
医者や僧の場合は話は別になる。

30 :日本@名無史さん:2006/08/31(木) 22:45:21
アイルトン瀬名

31 :YAP?:2006/08/31(木) 23:06:05
築山殿の名前が「瀬名」というのは、確かな史料がありますか?

「瀬名」というと、今川一門の瀬名氏(確か堀越氏と同様、了俊の
子孫だったと思うが)が思い浮かびますが、築山殿は、関口氏の
はずだし、確かその母は、今川家(本家)の出だったのでは?

32 :日本@名無史さん:2006/09/01(金) 00:14:12
>>31
瀬名姫の「瀬名」は確か地名だったかと。
築山殿の母親は、今川家の養女で義元とは血縁者ではないみたいです。

33 :日本@名無史さん:2006/09/01(金) 14:14:15
hoー・・・・

34 :日本@名無史さん:2006/09/02(土) 00:02:22
今川氏真とはどうだったのだろう

35 :日本@名無史さん:2006/09/02(土) 01:04:21
築山殿は被害者だと思ってる。
信康も冤罪くさい。
本願寺との長期戦でイラついてた中、浅井長政や荒木村重などに裏切られて人間不信に陥ってた信長が試したんじゃないだろうか?
家康は信長が怖かったし織田との同盟無くして家が保てないと考えていたので、信長に忠誠をつくしたんだと思う

36 :日本@名無史さん:2006/09/02(土) 05:41:39
違うな。信康切腹はあくまで家康の発議だよ。
信康は家康とわずか16歳しか違わない。これでは親子というより、競争相手になりかねない。
過酷な乱世においては親子兄弟といえども容易に敵対関係になりえた。
名門今川氏の血が流れる信康としては織田氏と同盟する気になれない。むしろ同じ名門武田氏とともに織田と戦うのを希望する。
家康はまた、信康の日頃の乱行に手を焼いた酒井忠次、大久保忠世から報告を受け、織田氏との同盟関係維持の為には信康を殺すしかないと判断したのであろう。
酒井が安土に赴いたのは信長から信康殺害を命じられたのではなく、信康殺害の承諾を求める為ではあるまいか。いくら乱行な息子でも、
信長は信康の舅である。舅に断らずに倅を処分するわけにはいかないであろう。

37 :日本@名無史さん:2006/09/02(土) 06:10:53
>>36
その後の行動見ると、
武田と通じてたのは家康側のような気がする。
信康はもちろん、築山殿にとっても
今川なんて既に過去のことだろうよ。

38 :日本@名無史さん:2006/09/03(日) 17:42:12
信康はアレだったけど、亀姫はまあまあ幸せだったと思ふ

39 :日本@名無史さん:2006/09/03(日) 21:20:10
信康切腹は徳川家のお家騒動なのは事実でしょう。
神君が子殺しをしちゃまずいから信長の命で殺したことにしちゃったんじゃないかね

40 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 01:33:02
信長の息子は、信康に比べて出来が悪かった、ということも考えられるのでは?

酒井などは、信康と肌が合わず反感をもってたのかも?
信康は、家康と違って苦労知らずのお坊っちゃま育ちだから、家臣へのおもいやりなどがあまり無く尊大で我儘な面があったのかもしれない

41 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 11:31:06
>>40

*  織田信忠  *
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156156397/

>35 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 Mail: sage 投稿日: 2006/08/29(火) 23:58:33 ID: PAuX+Q/C
>信康の件は伝わってる流れを見れば、家康の意思で処刑したのがわかる。
>当然やるはずの助命嘆願をやっていない、家康が軍勢を率いて岡崎城に入り、信康とかなり激しい口論を行ってから岡崎から追い出した、
>岡崎城で譜代の武田内通があり信康がからんでいた疑いがある、これだけじゃないけど、信康は謀反を企んでいた疑いが濃厚。
>
>さらに獲物が獲れないと僧侶の首に縄をかけて引きずり殺したり、妾にばかり溺れる信康へ忠告した五徳の侍女が、口に手を入れられ引き裂かれて殺されただの
>人間的に欠陥があった可能性もあり。たとえ嘘でもまともな人間がこんな逸話のこさないよなあ。


42 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 11:35:33
>>40
>信長の息子は、信康に比べて出来が悪かったという事も

あのさー、そんなこと大昔からさんざん言われてて
山のように書かれてることじゃん。今さらねー
(真実は歴史の闇の中だけど)

瀬名の名が何だかんだと、戦国女性史の本見りゃ
普通に当然に書いてあることばかりじゃん、
ここ、レベル低すぎだよ。

43 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 14:05:09
信康の父ちゃんは桶狭間で死んでるんだよ

44 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 20:02:53
>>39
徳川にお家騒動があったとしても、
家康は信長ほど簡単に人は殺さないな

家康にとって信康は邪魔だから殺すはずだというのは信長信者の発想

45 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 20:21:35
簡単には殺さなくても、信康の件も築山の件も後になって家臣にネチネチネチネチ……臣下はたまらんわ

46 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 20:27:41
酒井なんか殺されるより愚痴、ぼやきを聞かされるほうがまだましだろ

47 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 21:11:57
松平家忠の日記には、
信康が岡崎城から出されただけで、処刑されたとは書いてない。
築山殿に関しては記述すらない。

48 :日本@名無史さん:2006/09/04(月) 21:58:41
当時の徳川家は、岡崎派の石川氏と、浜松派の酒井氏に
分かれていたんだよな。
信康が自害した二俣城の城主は、浜松派の大久保忠世だが、
後年、信康の命日に割腹自殺したとも言われている。

49 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 15:10:24
信長に他家の正室や嫡男を殺す権限なんてあるのかよ
そんなことしたら即刻同盟破棄だろ

50 :日本@名無史さん:2006/09/05(火) 17:59:00
築山殿の首塚は岡崎だよね?家康は隠居後、築山殿を弔う気がないから駿府に?

51 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 23:16:49
築山殿の父親は切腹したらしいけど、他に身内はいなかったのかな?

52 :日本@名無史さん:2006/09/06(水) 23:42:50
自分で調べれば?

53 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 18:08:42
築山殿の兄弟もいたし、父母の兄弟もいたよ。

54 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 19:17:10
家康が武田とも裏で手を組もうとしていて、その仲介者が築山殿だったのでは。

55 :日本@名無史さん:2006/09/07(木) 21:54:00
wwwここ、何人いるのかな?

56 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 12:41:40
age

57 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 17:06:49
信康は西三河衆と東三河衆の抗争に巻き込まれた、とも言われてるよね。
信康の後見は西三河衆を率いた石川数正、
信長に信康の内通疑惑について追及されたとき弁護しきれなかった(しなかった?)のが東三河衆の旗頭、酒井忠次。
そして信康が死んだ後に突如として羽柴秀吉のもとに出奔した石川数正…
まぁみんなご存知でしょうけどね。

58 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 17:38:51
世間には信長の命令ということにしたが、実際は家康の意思で殺した

59 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 20:03:04
信長は信康の内通疑惑を酒井忠次らに詰問したうえで『家康には「如何様にもしなさい」と伝えよ』と言って、判断を一任したらしい。
まぁ家康にしたら無言の圧力だな

60 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 20:19:10
家康は自分の天下になっても五徳に化粧料を払い続け、信康と築山には冷たい態度。二人を忘れたかったんだろ

61 :日本@名無史さん:2006/09/08(金) 22:46:18
家康と築山殿は離婚していたという説もあるみたい

62 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 10:55:14
築山殿は、げんけいという坊主と一緒に逃げれていれば死なずに済んだろうに...


63 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 11:50:04
墓が無いって事は、逆に、このとき死んでなくって、
別の人間として生きていたかもって事は無いかな。

男は直政しか残っていなくて、亡びる寸前だった
井伊家を、外様のなのに、やけに厚遇している。
築山殿と井伊直政は従兄弟という説もあるし。

64 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 12:42:02
徳川家の記録に、
晩年の家康が駿府で今川時代を知る老人に会ってる話があったよ。
互いに顔を伏せたまま、会話してたとか…

65 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 13:00:09
それが築山殿だったら、話の内容に興味がわくな。
死期間近の家康と、4,50年ぶりの再会とか。

66 :瀬名姫:2006/09/09(土) 21:14:06
瀬名姫ネット
http://sena.ene.to/

67 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:14:50
>>44 >>59
それこそ妄想。

68 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:17:54
このスレでも論争がある。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1126456699/l50

69 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:27:49
>>40
>信長の息子は、信康に比べて出来が悪かった、ということも考えられるのでは?

有名な俗説。
実際は信忠は若くして政務をまかされ何度も文書を発行していたのにかかわらず
信康にはそんな権限はまるで与えられなかった。
どう見ても信忠の方が出来がいいだろう。

>>44
「信者」とかで相手の意見を封殺しにかかるのはしくない。
ちゃんと論議したり史料提示したりしよう。

ちなみに家康も若い頃はあまり子供の活用法に慣れてなかっと見え
秀康を家臣に預けたまま一度も顔を合わさず冷遇したり、
実子説濃厚の土井利勝を筑山殿らはばかって認知しなかったりしてる。
秀康を秀吉に養子に出したときに
彼が殺されるといううわさが広まっても「秀吉が子殺しになるだけ」と
平然としてたという逸話もあるし。

70 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 22:05:57
>>69
信康>信忠説は大正頃の有名な学者だか作家の私見が元なんだよな。
信康が文書を発行した形跡がないってことは、家康から見てまだ未熟と思われてたのかも。
ところで戦国大名の嫡子が自分名義で文書を発行するのって何歳くらいが普通なのかな?

71 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 22:27:09
>>67
信長が信康の処分を「どうにでもしろ」と言ったのは妄想なのか?
『松平記』には家康が信康生害を信長に相談した時信長は「いかようにも存分次第」と返答した、とあるらしいけど…。


72 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 22:48:19
>>71
「家康に対する無言の圧力だな」とかいう部分ね。
別に信長は信康切腹を要求はしてないだろう。


73 :日本@名無史さん:2006/09/09(土) 23:09:16
>>69
信忠が有能だったとしたら、本能寺の変で謀反人が光秀だと聞いてすぐあきらめてしまわないで
何とか生き延びる努力をしていてもよかった

74 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 00:04:02
>>63
それこそ、諸田玲子の小説「月を吐く」なんだよ。
実は殺されていなかった築山殿って結末。

75 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 03:07:43
織田は足利義昭、浅井、朝倉、本願寺、三好、松永らの鎮圧に手を焼き、織田滅亡も有り得ると読み、家康は武田勝頼ともひそかに密約を結んだほうがいいと考えた

徳川ー武田のチャンネルとして信康ー築山殿ー減敬ー武田というルートを開拓したはよかったが、武田の瓦解、織田の天下が見えてきたので、徳川武田の密約は不要になった

信康と築山殿の口封じが必要になり、殺害を決意した。

しかし信長に真相を語るわけにはいかないので、信康の暴虐ぶりと、築山の淫奔ぶりを捏造し、殺害の承諾とその報告のために酒井を安土に派遣した

これが真相では?

76 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 05:10:07
築山殿事件の頃は、
井伊直政もいたし、今川氏真だって家康に保護されてたのに、あっさり殺されてたり
築山殿の侍女だった、お万が岡崎城ではなく浜松城にいたりとか、
結構不審な点が多い。

77 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 09:02:57
>>73
信忠の唯一の落ち度ね。
たとえ無様な最後の可能性があってもあきらめずに東に逃げるべきだったね。

もっとも家康も絶望のあまり、
このまま度民の手にかかって無残な最期を迎えるよりも
明智に敵わぬまでもせめて一太刀浴びせて腹を切ろうと発言したのを
家臣が諌めて伊賀越えを決意したという話しもある。

78 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 09:04:33
あと、例え信康切腹が家康の決断にあったにせよ、
のちに公開して、それを酒井と信長に責任転嫁して
彼らを憎んだという可能性はあるね。

79 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 13:45:26
>>69
>「信者」とかで相手の意見を封殺しにかかるのはしくない。

そう思うのはお前が信長信者だからだろw
基本的に2chでは言論を封殺されたほうが負け

そもそもこの問題はスタンスの違いで最初からとる説が決まっていて、
理由は後から取り繕いのために付けられるようなもの
最近の信長人気の興隆とともに家康主導説が広まってきたことがそのへんの事情を表す
相手のスタンスを指摘するのは必ずしも悪いことではない

80 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 14:20:08
アホ


81 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 15:11:50
信者と書くと封殺気分を味わえる 単純でいいなネット中毒者は

82 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:25:55
>>79
それは君が無知なだけ。
相手を信者扱いするのではなく
論とか史料提示で対抗してもらいたい。
君だって「信長主導説は単なる家康信者の願望」とかで
斬り捨てられたらたまったもんじゃないだろう。

83 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:37:07
まあ確かに家康主導説を認めたがらない奴って小説厨とかゲーム厨が多いんだよね。

例えば関が原での家康と近習のやり取りの
「こんな時にせがれが居ったら」
「そうですな。秀忠殿の軍勢が到着してくれましたら」
「あいつではないわ信康のことよ!!」

というやりとりは名場面だが、これが司馬の創作だという事も知らない奴が多い。
ただ、隆慶一郎など多くの歴史作家が流用してるので、史実だと思ってる奴が多いだけなんだけどね。
なんにせよ信康切腹の家康主導説は多くのそれを下敷きに書かれた歴史小説などの
ロマンが否定されてしまうものなのでそれが嫌って事なんだろうね。
それでその論者を「信長信者」とかいってアタマごなしに叩いて論争すらしようとしない。
なんてお気楽な連中なんだろうと呆れるばかりだ。

84 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:40:43
築山殿は、家康ではなくて氏真と結ばれたほうが幸せだったのかもしれない...

女性一人も幸せにできない家康って最悪。

85 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:51:52
普通に考えたら信長の命令だよね あいつはそういうやつ

86 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 20:20:15
>>83
司馬ってやけに影響力あるんだな
中公新書「徳川家康」(北島正元著)にも載ってたぞ

87 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 20:33:33
何らかの形で、信長が関わっていたとしても
最終的に決断くだしたのは家康だろ?
妻子の供養もろくにしてないし。

88 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 20:38:48
そもそも信康切腹が家康主導という説は信長信者の発案とかいうのが
家康信者のイタサなんだよね。
信長をカバーするために家康のせいにしているとい言いたいらしいが、
はっきり言って信長好きな人はそんな事気にしてない。
別に信長が誰を殺そうがどんな残虐なふるまいをしようが「さもありなん」だ。
なんせ叡山の虐殺が小規模なものだったという新研究にガッカリするくらいだしさ。

イメージ的には「信康は信長の命令で殺された」は良い落しどころなんだが、
歴史学の世界はそんなイメージとか願望で決めていいものではない。

89 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 20:43:20
司馬は出典も明かさずに
当たり前のようにものを言うので
騙される人は多いね。

90 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:01:30
ちなみに中公新書「徳川家康」は、S38年発行ね

91 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:26:42
>>90の話しが本当なら>>83の「関が原の逸話は司馬の創作」は間違いになるね。
でも関が原の逸話は少なくとも後世の創作ではあるらしいよ。
それと仮に事実だったとしても、
信康切腹をのちに後悔したというだけの話しで証拠にはならない。

92 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:38:12
信康の墓所は二俣城跡の近くにある清滝寺にある。
しかしその墓は小さな塚を建ててその上に五輪塔を築くという質素なものである。
おまけに、家康は改葬すらしていない。
信長存命中なら信康の遺体を改葬することは不可能だったろうが、
信長が天正10年に死去した後ならば、改葬もできたはずである。
多くの史書では「家康は智勇兼備の嫡男であった信康を愛していた」としているが、
これが本当に愛する我が子に対する処置であろうか。
築山殿の墓所は現在、浜松市の西来院にあるが、
これは明治時代に築山殿の実家である関口氏の子孫に当たる
静岡県令・関口隆吉によって改葬されたものであり、それまでは浜名湖畔の原野に
みすぼらしい墓を立てて弔われているだけだったのである。

さらに家康は、信康切腹の一因をなした徳姫に対して尾張岩倉に2000石という化粧料を終身、与えているのである。
家康は後に信康の死を深く悲しんだと言われ、
多くの逸話が残っているが、これらの逸話はできすぎたものも多すぎるため、後年の創作ではないかとさえ言われている。

近年ではこの事件の背景には信康と伊奈忠次をはじめとする
信康側近組による「家康追放計画」があったとする説も浮上している。
この問題の真相も不明のままである。



93 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:03:32
「鹿の立物の兜をつけたる織田信忠の働き目ざまし」とは、
この時代の戦記にみな出てくる点で一致し、奇妙丸から菅九郎に名のりをかえた
十四歳の永禄十一年の池田城攻めの時から、二十一歳の時の岩村城攻めでも、
いつも信長の長男は、先登になって突撃している。
凡愚であった岡崎信康などとはまったく比べものにはならない。
信康が死んだとき、その伴をしたのはわずか近習二名であったが、
信忠が天正十年六月二日、宿舎の妙覚寺から二条御所へ移って討死したときは、
その伴をした村井貞勝父子、団平八、みな一城の主ばかり五百人が、
これに殉じ、脱走したのは「家康の生母於大につながると俗称される三河苅屋城主水野宗兵衛と、
織田有楽」のわずか二名という格差でもはっきりと優劣は大きく引き離されている。
これから考えても俗説のように、その娘をスパイに使ってまで信長が岡崎信康の偉丈夫ぶりを
おそれ、将来わが長子信忠の敵となるのを心配し、家康に殺させたという
俗説はどうもおかしくなる。
 しかし「近江右衛門義綱」の筆名をつかった、近江の百姓の伜の沢田源内という元
禄時代の本つくりがつくった贋本の『三河後風土記』や、それを史料と間違えて下敷
きにした『岩淵夜話』になると、岡崎三郎信康を天晴れな若武者に仕立てあげたのも
残っている。しかし信康に関してはっきりいえる事は、彼についていた岡崎衆を率い
て「東三河衆筆頭」だった石川数正が、浜松や静岡衆を率いていた「西三河衆筆頭酒
井忠次」と同格であったが、信康の死後は冷遇されていたたまれなくなり、信康の娘
を貰った連中と共に逃亡して、秀吉の家来になってしまった事実ぐらいだろう。

94 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:23:45
浅井・明智に対してノーマークであり松永に対してさえ事後対応の信長が
事前に信康を恐れることなど考えられないので家康主導は明らかだろう
ただ信忠は武将としては有能だったがすぐに死を選んでしまうのは大将として駄目である
大将たるもの生に執着して意地でも逃げる覚悟が必要だからだ
だから信康も信忠も所詮どっちもどっちの次元で優劣などない

95 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 23:13:19
確か関が原の家康の弁も
岩淵夜話が転居じゃなかったかな?
かなり信用性のない書物ではあるが。

96 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 23:32:31
信康が優秀かどうかはあまり関係ないんじゃないの?
家康もたいした仕事させなかったみたいだし、
何らかの業績があったとしても、意図的に消されてるかもしれないし。

97 :日本@名無史さん:2006/09/10(日) 23:52:33
>>96
業績を消す必要はないような気が・・・・

それなのにご乱行話しはしっかり残ってるのは不思議。

98 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 00:22:55
>>97
信康の乱行、築山殿の悪妻説は
家康の妻子殺害を正当化させるため。
悪役設定になってる人は大体このパターンで貶められてる。

99 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 01:02:17
>>98
乱行はウソ
神君伝説は本当

と都合のいい話しばかり取り上げるのはね・・・
信康の乱行について言うと確かにあんまりバカバカしい話しは嘘らしいけど、
どうやら一部には本当の話もあるらしいよ。

100 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 07:18:27
>>94
信長ってかなり間抜けだよね

101 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 11:36:30
今川氏真、井伊直政、西郡局、信康の妻子、亀姫一家…
築山殿と信康の縁者はみんな優遇されてる。

102 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:41:29
再評価してどうなるものでも・・・・

103 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 18:40:29
水野信元事件で信元を殺害した、もしくは自害に追い込んだとされる石川数正と平岩親吉を股肱と頼む信康と、
その水野信元の妹で家康の母・於大の方。

もし於大が自分の兄であり水野家当主の信元を手にかけたとする石川平岩を敵視していたとしたら、「マザコン」だったと言われる家康と信康の間に不穏な空気があったとしてもおかしくはないのかな。

104 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 19:09:45
水野信元事件も、信長の命令だったとか言われてるね。
築山殿事件と経緯が似てるんだが。

105 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 19:24:59
>>101
家康って度量が広いんだろうね

106 :日本@名無史さん:2006/09/11(月) 22:49:32
まあいろんな見方をする人がいるもので、
消された後継者の典厩五郎なんかだと、何考えてるかわからん、てことになる

107 :日本@名無史さん:2006/09/12(火) 02:31:04
瀬名姫の功績

F1ドライバーのセナが出てきた時
日本にも似たような名前の人物がいたと親近感を湧かせた

108 :日本@名無史さん:2006/09/12(火) 09:41:18
>>103
マザコンというより、
母方の縁が強い気がする

109 :日本@名無史さん:2006/09/14(木) 15:42:21
岡崎城主の生母という肩書きのみで生かされてた状態だったから、
息子が死んだら、もう用済みだったんだろう

110 :日本@名無史さん:2006/09/16(土) 19:00:44
信康、亀姫を産ませた後は 家康は瀬名姫を抱かなかったのか?
女盛りの20代、30代を悶々と過ごした瀬名姫が哀れだな

111 :YAP?:2006/09/17(日) 00:53:26
しかし、築山殿の母が、井伊氏から義元に献上された側室で、それを妹として、一門席口氏に
下賜したちうのは、いくらなんでもトンデモのような気がする。

大体、義元は、異母兄と戦って家督相続したぐらいだから、一門の機嫌を損ねるようなことは、
できるはずがない。

112 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 15:40:39
確か、リアルタイムの資料には築山殿っていう名前は出てこなかったんじゃなかった?

113 :日本@名無史さん:2006/09/17(日) 16:00:05
死にたくなければ、このレスをコピーして他のスレに □
□10回貼り付けて下さい。1時間以内にです!もし無視■
■した場合は、今日寝ている間に富子さんがやってきて□
□貴方の首を絞めに来ます。富子さんは太平洋戦争の■
■時に16歳という若さで亡くなった女の子で、未だに成□
□仏していないそうです。信じる信じないは貴方次第。 ■
■今年になってからこのレスを無視した人で、“呪われ□
□て死亡した人"が続出しています。これは富子さんの■
■呪い。呪われて死んでもいいのならこれを無視するこ□
□とでしょうね。 ■
■――貴方がこうしているうちに富子さんが後ろから見□
□ていますよ…。 ■■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


114 :YAP?:2006/09/18(月) 00:30:21
もう一度、確認するが築山殿が、「瀬名」という名前だったと言う
確実な「史料」ああるのかね?
誰か、小説家がつけたものではなんだろうな?
「湖衣ひめ」とか「由布姫」などといった・・・。

築山殿が、同じ今川一門でも「瀬名氏」の
出自だったりすれば、荘呼ばれた可能性はあるのだが、

115 :日本@名無史さん:2006/09/18(月) 05:29:46
勝頼の母、諏訪御料人の実名は定かではなく、
井上靖の「風林火山」では由布姫、
新田次郎の「武田信玄」では湖衣姫と名づけられ、
美貌の悲劇のヒロインとして著名になりました。

などと書いてみるw


116 :日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:19:33
>>114
山岡荘八の徳川家康では鶴姫になってた

117 :日本@名無史さん:2006/09/20(水) 01:22:42
普通に土地名から言い始めたんでないのー。

118 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 19:26:31
10歳年上だったとか無茶苦茶な説があるな

119 :日本@名無史さん:2006/09/24(日) 00:34:56
>>118
そういうのは(年上婆を押し付けられて可哀想な家康君)路線のネタだろう

120 :日本@名無史さん:2006/09/24(日) 11:03:26
>>112
「駿河御前」だったかな?

121 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 18:44:20
しかし、なんで邪魔者扱いしなくちゃいけない女を
わざわざ岡崎に連れてくるかねー?
きっぱりと縁を切ればよかったのに、
家康の自業自得じゃね?

122 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:09:57
家康と築山殿が、駿府で結婚した当日、駿府で火事があり
百軒以上焼失する大火事があったと思う。
二人の将来を暗示する様な…

123 :日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:14:12
毎日のように火事があったという江戸の華を暗示・・・・かも…


124 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:51:27
築山殿の侍女だった於万が、なぜ浜松城にいたのか不思議だ

125 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 16:54:47
お万は結局出自不詳なんじゃないのか?
奉公のきっかけとかも不明なんだから、
色んな巷説があっても不思議はないのでは。

126 :日本@名無史さん:2006/10/05(木) 16:33:10
家康の浜松移住の際に転勤になったとか

127 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 23:20:51
「月を吐く」はよかったぞ

128 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 00:15:43
「月を吐く」、作者の諸田さんは静岡出身。

129 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 13:25:09
>>100
そだね。


130 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 19:40:20
この人は意図的に情報操作されてるな

131 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 16:25:03
現存している肖像画は近代のものらしい

132 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 22:06:49
>>131
そんなん、画風と様式見ただけでわかる事さw

133 :家康:2006/11/17(金) 23:08:46
昔は可愛いかったんだよ…
昔はね

134 :日本@名無史さん:2006/11/17(金) 23:34:06
彼女が変わったとして
それは家康さんにも責任のあることでは?

135 :日本@名無史さん:2006/11/27(月) 15:58:51
石川数正はどう思ってたんだろう

136 :日本@名無史さん:2006/11/27(月) 17:08:23
>>100

人間失敗することもあるって

137 :瀬名:2006/11/27(月) 18:21:48
>>133
あーたも昔はカッコよかったのよ…

138 :日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:29:54
大賀弥四郎とやってたのかな?

139 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:37:17
hoshu

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