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【治天の君】 院政 【院近臣】

1 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 13:58:46
院政と、それを支えた院近臣について語りましょう。

2 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 14:02:05
院の近臣って稚児小姓のこと?
夜伽とかしてたの?

3 :日本@名無史さん:2006/10/13(金) 20:29:27
院近臣は、実務官僚系と大国受領系に分かれる。前者の代表が、藤原信西。
後者の代表が、藤原信頼。摂関時代は下級貴族だったのが、院の抜擢で急速に
政治的地位を得た。もっとも、昇進の上限は大納言程度までだが。

4 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 03:28:08
ホモかホモじゃないかの違い

5 :日本@名無史さん:2006/10/14(土) 08:52:35
信頼の家って下級貴族にまで没落してたの?

6 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 13:52:12
関白道隆の子で、「刀伊の入寇」を撃退した隆家の子孫が信頼。
摂関家の主流が道長の系統に移ってしまい、凋落していた。

信頼の祖父である基隆が、母が堀河天皇の乳母だった関係で、
播磨・伊予の受領を歴任、従三位に昇進した。


7 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 17:00:05
基隆の子・忠隆は10歳で丹波守になり、父と同じく播磨・伊予の受領を
歴任して、従三位に到達した。忠隆の妻は崇徳の乳母、妹は後白河の乳母に
なっている。叔母が後白河の乳母だったことが、信頼が後白河の信任を受ける
理由の一つとなった。

信西は、忠隆のことを「数国の刺史を経て家富財多し。性、鷹・犬を好む。人がため
施しを好み、その報いを望まず。世その大度に伏す」、「馬癖あり。もっとも控御を
巧む」(『本朝世紀』)と高く評価している。しかし信西は、その子の信頼によって
惨殺される運命を辿る。

8 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:19:43
院政を開始した白河法皇の父・後三条天皇(尊仁親王)は、後朱雀天皇の第二皇子。
母は三条天皇の皇女・禎子(ていし)内親王である。彼女は、眼病により譲位させられた父、
皇太子の地位を奪われた兄(敦明親王・小一条院)の無念と悲運を心に刻みつけて
成長したと思われる。

後朱雀天皇は、第一皇子・親仁の後は第二皇子・尊仁に皇位を継がせるつもりだったらしい。
しかし、これには関白頼通が強硬に反対した。それに対して、尊仁立太子を主張したのが
頼通の弟・能信である。源倫子を母とする頼通・教通・彰子が栄華を極めたのに比べ、源明子を
母とする能信は、母の父・源高明が失脚したためか、摂関家の本流から外れてしまった。

能信は禎子内親王の皇后宮大夫となり、尊仁のもとに養女・茂子(もし・閑院流公成の娘)をいれる。
その子が貞仁親王、後の白河法皇である。白河法皇は後年、能信を恩人として追慕している。

9 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:31:20
後朱雀天皇が没すると、第一皇子・親仁が即位して後冷泉天皇となり、尊仁は
皇太子となった。能信は東宮大夫となる。関白頼通は、尊仁即位を防ぐために
後冷泉天皇に娘をいれ、皇子の誕生を待った。一方で同母弟の教通も後冷泉天皇に
娘をいれ、頼通・教通兄弟の関係は冷却化する。摂関家は、頼通・教通・能信の
兄弟が対立して分裂状態となった。

治暦4(1068)年、後冷泉天皇が没すると尊仁が35歳で即位した。皇太子となって
23年目だった。頼通は自らの敗北を悟り、政界から隠退した。嫡子・師実を関白に就任
させる約束と引き換えであったという。

10 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 05:30:17
後三条天皇は「延久の荘園整理令」を出す。荘園整理令自体はたびたび出されており、
それほど画期的なものではない。律令制は「公地公民」が建前であり、荘園のような
私有地は認めていない。

@太政官に証拠文書を提出すること、A文書に荘園の所在・領主・田畠の面積を表示すること
以上を義務付けたのが、画期的だった。太政官の審査を通過すれば、荘園は認可される。
つまり荘園の公認であり、律令制古代国家から中世国家への転換点となった。

文書整理のために記録荘園券契所(記録所)が設置されて、「才智は人に過ぎ、
文書は他に勝る、誠の是れ天下の明鏡なり」(『中右記』)と言われた29歳の
大江匡房が辣腕を振るう。国司が徴収できる課役は公領に限定されていたので、
内裏造営のような重要な租税を、公領・荘園の両方から徴収する一国平均役に
する動きがあった。荘園からの徴収には荘園領主の協力が不可欠であり、土地台帳の
大田文がこの時に作成されたと推定される。

ただし、頼通の所領だけは特例として、文書提出を免除されたようである。
荘園整理をめぐる天皇と頼通の激しい対立を、明らかにしたものといえる。

11 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 05:14:17
延久3(1071)年、後三条天皇に第二皇子・実仁親王が生まれた。実仁の母は、
源基子。道長に皇太子の地位を奪われた小一条院・敦明親王の孫娘だった。小一条院の
妹・陽明門院禎子は、後三条天皇の母である。兄の無念を見ていた陽明門院は、実仁の
即位を熱望する。

後三条天皇は貞仁(白河天皇)に譲位すると、実仁を皇太子とした。つまり、白河天皇は
実仁が成長するまでの中継ぎ(!)に過ぎなかった。自らの立場が不安定なことに悩んだ
白河天皇は、中宮・賢子(源顕房の娘)の養父である左大臣・師実の支援を求めて提携する。

延久5(1073)年、後三条上皇が急死する。政敵であった頼通・教通・彰子も相次いで
他界した。さらに応徳2(1085)年、皇太子・実仁も急死する。しかし、上皇の母の
陽明門院は健在であり、実仁の同母弟・輔仁は13歳だった。白河天皇の皇子・善仁(たるひと)は
まだ7歳である。

応徳3(1086)年、突如として8歳の善仁に皇太子宣下がされ、同日に白河天皇譲位と
善仁即位が強行された。堀河天皇である。この早業で、輔仁即位が当面は阻止された。

12 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 22:05:28
寛治8(1094)年、師実が引退して師通が関白となる。同年に陽明門院が没して
輔仁(すけひと)勢力は弱体化した。堀河天皇も成長して自立し、師通と共に積極的な
政務を展開した。白河上皇は政治の世界から身を引いて、鳥羽殿で遊興の日々を送る。
この頃、京都では田楽の熱狂的大流行が起こり(永長の大田楽)、上皇も田楽に没頭する。
一方で「太上皇最愛之女」といわれた、皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)が死去。
上皇はショックのあまり、出家して法皇となる。

師通は、延暦寺の強訴を武力で撃退するなど剛直な政治を推進するが、永徳3(1099)年
38歳で急死する。延暦寺はその死を神罰によるものと喧伝し、以後の政務担当者は神仏の祟りを
恐れるようになり、寺社の強訴が吹き荒れることになる。

13 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 05:57:35
嘉承2(1107)年、白河法皇に対抗するかのように親政の動きを見せていた
堀河天皇が29歳の若さで亡くなる。その皇子、宗仁(むねひと)親王はわずか5歳。
輔仁親王は35歳となり、左大臣・源俊房(白河中宮賢子の実父である顕房の兄)の
支援を受けて、なお勢力を保っていた。白河法皇は宗仁即位を強行し、鳥羽天皇が
誕生した。輔仁はまたしても皇位を逃がした。

永久元(1113)年、鳥羽天皇呪詛事件が発生する。輔仁の護持僧・仁寛(俊房の子)が
配流されて、輔仁も失脚。俊房は左大臣にとどまったが、もはや政治的影響力はなかった。
ここに長年続いた、白河法皇と輔仁親王の対立は終結した。

14 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 07:32:08
師通は大江匡房に学問を学び、「好みて学び倦まず」「百家に通覧せざるはなし」
(『本朝世紀』)と抜群の才能を誇った。剛毅な性格で何事にも道理を貫き、白河
法皇や師実にも相談せずに政務を行うこともあった。師通の死は、摂関家にとって
大打撃であった。師実は健在だったが隠居の身であり、摂関家の命運は嫡子・忠実の
双肩にかかることになる。

忠実は22歳の権大納言。最年少で摂政となった頼通の26歳を下回り、大臣以外の
公卿は摂関に就く前に内覧になるのが通例であったため、関白になれず内覧にとどまった。
しかし、天皇とともに最終的な政務決裁に臨むことができた関白と異なり、内覧の立場は
弱いものである。重大問題(源義親の乱行、東大寺僧の赤袈裟着用問題)で、忠実は
自らの判断を下すことができず、法皇と天皇の合議に最終決定を委ねている。

忠実は政治的な経験は未熟であり、47歳の白河法皇に対抗するのは無理であった。
法皇は忠実の無力を見越して、藤原氏の氏寺・興福寺の人事に介入するようになる。

15 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 06:02:00
そのような忠実に追い討ちをかけたのは、鳥羽天皇が即位した時に閑院流公実が
摂政の地位を望み法皇に陳情したことだった。鳥羽天皇の母は公実の妹で、外戚
関係にあった。白河法皇も迷ったが、側近の院庁別当・源俊明が猛反対する。彼ら
上流貴族にしてみれば、格下の閑院流が摂政の地位に就くなどとんでもないこと
だった。忠実は摂政の地位を守ることはできたが、政治的地位は低落することになる。

嘉承3(1108)年正月、除目が行われて15名の受領が任命された。そのうちの
7名が院に伺候する者で、源義親を追討した平正盛が「最下品」(侍身分)でありながら
「第一国」の但馬守に補任された。その除目を主催したのは忠実だった。忠実は自らの
地位の安定を図るために、白河法皇に従属したのである。

16 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 07:46:08
白河院政初期は忠実の従属により、法皇との協調は保たれていた。しかし両者の
関係にはしだいに亀裂が生じることになる。

摂関が政権の座から転落した結果、人事権を喪失したために受領をはじめとする
中・下級貴族や武士が離反して、儀式の費用調達が困難になるという問題が発生
していた。忠実は法皇の庇護にすがるだけでなく、経済基盤の建て直しのために
荘園の集積に奔走する。

白河法皇は忠実を従属させることを望んでおり、必ずしも荘園の形成自体を否定
していたわけではないが、摂関家領荘園の集積・拡大という傾向に好意的ではなかった。
元永2(1119)年、法皇は上野国五千町歩の荘園を摂関家に寄進する動きを
禁止している。

また、法皇の介入・圧迫が強化された興福寺では悪僧蜂起が激化していたが、摂関家は
家人の減少で有力な武士がいなくなっていたため、忠実は統制・鎮圧ができなかった。
天永4(1113)年、上洛を目指した興福寺の悪僧が、京から派遣された検非違使や
平正盛以下の武士と衝突して多数の犠牲者を出すという最悪の事態となった。
法皇と興福寺の対立は、両者の板ばさみとなる忠実を窮地に追い込むことになる。

17 :日本@名無史さん:2006/11/01(水) 02:35:35
閑院流公実の娘・璋子(しょうし)は白河法皇に溺愛されていたが、永久2(1114)年頃、
忠実の嫡子・忠通との婚姻の話がもちあがった。法皇はこの縁談に積極的だったが、閑院流を
憎悪する忠実が拒否して破談となる。同時期に鳥羽天皇に対して、忠実の娘・勲子を入内させる
話も進行していたが、こちらも忠実の意向で立ち消えとなる。鳥羽天皇はまだ11歳であり、
忠実はまだ早いと考えたらしい。

永久5(1117)年、驚天動地の事態が発生する。鳥羽天皇への璋子の入内である。忠実は
動揺して、日記に璋子に対する悪評を書き付ける。この璋子に対する批判が、璋子を溺愛する
法皇の耳に入らないはずはなく、法皇と忠実の関係は取り返しのつかないものになっていく。

18 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 05:11:11
保安元(1120)年、忠実は鳥羽天皇に請われて、凍結していた勲子の入内工作を
白河法皇に無断で行った。これが忠実の命取りとなる。璋子は大納言を極官とする
閑院流出身であり中宮・皇后にはなれないはずであったが、璋子を溺愛する法皇の
意向で中宮になっていた。法皇にしてみれば、勲子の入内は璋子の立場を脅かすものと
映ったのだろう。また、鳥羽天皇が成長して法皇の意向に従わなくなってきたこともあり、
天皇と忠実の連携にくさびを打つ狙いもあったと思われる。

同年11月12日、白河法皇は忠実の内覧を停止した。事実上の関白罷免である。驚いて
かけつけてきた藤原宗忠(「中右記」の記主・忠実の従兄)に、忠実は「運がつきた」と
語った。忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされることになる。

19 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 03:37:02
白河法皇の側近は初期には、源俊明(醍醐源氏)と藤原(小野宮流)通俊だった。
俊明は白河院庁の別当で除目等に際して院と朝廷の取次ぎを行い、朝廷の政務を
院に奏上するなど、朝廷における法皇の代弁者だった。

白河法皇は当初は政務を師実・師通に任せており、公卿の議定の大半は摂関が主催
する陣定で行われ、政策の決定も摂関が中心であった。源俊明を通して人事に介入
することもあったが、法皇が表面に立つことはほとんどなかった。重大事が院御所
議定で決定されることはなく、除目も院が主催するものではなかった。

20 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 03:52:37
鳥羽天皇即位により日常政務は忠実(摂関)に委ねながら、国政の重要事・緊急政務は
院御所議定を経て、院の判断で最終決定されるようになる。除目も院の主催となった。
忠実罷免の3年後に鳥羽天皇も半ば強制的に退位させられ、白河法皇の政治主導権は継続する。

摂関により開催されていた議定である陣定は、公卿層が出席してその決定は尊重された。一方
院政期の最高審議機関・院御所議定は、出席者は院の指名で非公式なものなので、議定の結果に
拘束されなかった。単に院が、有識公卿から意見聴取を行う形式的な議定だった。

摂関政治が合議体であったのに対し、院政は独裁だった。それゆえに政務の即断も可能となり、
強訴などの緊急事態に迅速に対応できるようになった。

21 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 04:11:51
白河法皇は院政を推進するにあたり、醍醐源氏・小野宮流から脱却するようになる。
彼ら上流公卿は院の政務を補佐する一方で、院の意志を制約する面もあった。摂関家が
依然、勢力を維持している段階では、摂関家に強い影響力を有する上流公卿を側近と
することに意義があった。

法皇が政治主導権を確立すると朝廷を遠隔操作する必要はなくなり、専制化の推進からも
彼らは邪魔になった。伝統的公卿は姿を消し、新たに身分の低い諸大夫(四位・五位を
昇進の上限とする貴族)出身者が院近臣として台頭する。

院庁別当は公卿別当と四位別当に分かれるが、院政確立期になると公卿別当は形式化して
四位別当が中心的となる。院は人事権をてこにして特定の近臣一族に大国受領を歴任させて
自身の経済基盤とした。彼らは院の手足として、意のままに行使される存在だった。

22 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 04:25:55
大国受領系院近臣として有名なのは、白河法皇の乳母の子・藤原顕季に始まる
末茂流、藤原隆家の子孫・道隆流、藤原隆時・清隆の良門流、法勝寺造営を
行った高階為家の高階氏である。

彼らは生涯の大半を収入の多い大国受領として過ごし、収奪に奔走して豪富を
築き法皇に対して経済奉仕に努めた。ただ、彼らは政治的能力・学識は欠如
していたため、昇進は非参議・従三位で止まり政治面で院を支えることはなかった。
上流貴族は彼らを無能と罵倒している。

23 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 04:51:09
平安後期に第一級の国と呼ばれたのは、近江・播磨・美作・備前・備中・讃岐・伊予である。
これらは多大な負担を可能とする富裕な国で、収奪が容易な地域だった。大和は興福寺の所領が
充満し、摂津も摂関家の荘園が乱立しており、収奪が困難なため「最下国」と呼ばれた。
陸奥・武蔵・肥後といった辺境諸国も遠隔の上に、律令国家の支配の弛緩でやはり収奪が困難だった。
院政期に高く評価されたのは北陸・山陰・瀬戸内海沿岸諸国で、特に播磨・伊予は受領の最高峰
「四位上臈」の国と呼ばれた。

後白河院政期になると大量の荘園が集積されて新たな経済基盤となり、受領に対する依存度は低下して
大国受領系院近臣はその使命を終える。また、知行国制の成立により知行国主の意志で国司が任命される
ようになり、播磨・伊予国司も五位以下の者がなることもあり、播磨・伊予の地位は特別なものでは
なくなった。

播磨は鎌倉時代を通して院の知行国であり、院の経済基盤となった。伊予は鎌倉時代に西園寺家の知行国と
なり、日宋貿易の拠点として西園寺家の豪富を支えることになる。

24 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 08:45:45
実務官僚系院近臣は、弁官・五位蔵人・蔵人頭を歴任して公卿に昇進することもあった。
藤原為房・高棟流平氏・大江匡房・信西などが代表である。特に為房の子孫は、為房・
顕隆・顕頼の3代にわたり、院御所議定に必ず参加し院宣の奏者となるなど、政務決裁の
中枢に関与した。

実務官僚による重大政務における諮問・取次ぎといった院に対する奏事は、緊急事態に際し
迅速な政務の決定を可能にして、院の政務を現実的・適正なものとした。強訴などの軍事的
緊張の高揚に対応した政治形態である。

大江匡房の後、重要政務の取次ぎ・政務決裁の補佐を行う実務官僚の第一人者の地位は、
為房流が独占する。白河法皇のもとでは「天下の政、此の人の一言にあり(中右記)」と
称された顕隆、鳥羽法皇のもとでは子の顕頼がその任にあった。久安4(1148)年
顕頼が死去すると、子の光頼は26歳と若年だったこともあり、信西が急速に台頭して
同様の役割を果たすことになる。

25 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 09:07:45
信西(高階通憲)は鳥羽法皇の院判官代。院庁別当のもとで、文書作成を始めとする
実務を担当していた。通憲が7歳の時に父が急死したため、高階経敏の養子となり
高階重仲の娘を妻とした。しかし、高階氏は鳥羽院政期には全盛期を過ぎており、
日向守から少納言になったものの、当時は為房流が院庁別当を独占していたため
その先は望めなかった。比類なき学才と権力への強烈な意志をもつ通憲は藤原姓に復し
39歳で出家、信西と名乗った。俗界の身分秩序を超越しようとしたのである。

信西は「本朝世紀」「法曹類林」などの書物を著し、その博識多才で鳥羽法皇の信任を
得て政治的顧問格となった。彼の2人目の妻・朝子は雅仁親王(後白河天皇)の乳母で
長男・俊憲は、鳥羽法皇寵妃・美福門院の養子である守仁親王(実父・雅仁)の学士に
任じられた。信西は美福門院と守仁に接近することで、美福門院の大きな信頼を得て
自らの地位を上昇させていた。

26 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 09:28:16
信西は鳥羽法皇死去後の混乱をついて、崇徳上皇・藤原頼長を追い落とし、
「保元の乱」で主導的役割を果たして、後白河天皇・守仁皇太子体制を確立
させた。乱後に政治の実権を握ると、荘園整理・記録所の設置・宮城の造営・
諸社の祭の整備といった政策を実施した。

また、俊憲・貞憲の2人の息子は弁官に任じられた。弁官は実務官僚を象徴
する官職であり、兄弟2人が同時に弁官になったのは為房の子、為隆・顕隆
以来のことであり、その勢力は為房流を凌駕するものがあった。さらにもう
一人の息子・成範は受領の最高峰である播磨守となり、経済的な面でも他の
大国受領系院近臣をしのぐものとなった。

しかし、信西一門の急速な台頭はいかに彼が有能だったとはいえ、実務官僚の
名門・為房流や大国受領系院近臣の反発を招くことになる。わずか3年後、
信西は「平治の乱」で真っ先に殺されて、一門も没落した。

27 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 05:27:18
大治4(1129)年7月7日、白河法皇は77歳で死去した。鳥羽上皇は
政務を引き継ぐと、白河院政の路線修正を開始する。法皇が晩年に厳命した
殺生禁断令を撤廃し、失脚していた村上源氏俊房流や忠実の復権に動き出す。

また、白河法皇が荘園の集積に消極的だったのに対し、鳥羽上皇は荘園の
集積を容認した。鳥羽院政期に寄進地系荘園の大半が成立して、荘園・公領の
大枠が完成したとされる。この時期に、王家自体も巨大な荘園領主となった。

28 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 05:45:10
大治5(1130)年2月、忠通の娘・聖子が崇徳天皇の中宮となった。
天承元(1131)年11月17日、忠実は失脚以来12年ぶりに鳥羽上皇と
対面を遂げた。院と摂関の提携は理想の政務と考えられており、忠実の復権は
多くの公卿に歓迎された。ただし忠実は主要な政務は忠通に委ね、自らは上皇との
私的な交際を中心に活動する。

長承2(1133)年、忠実の娘・勲子が鳥羽上皇と婚姻・立后した。勲子は
すでに39歳であったが、上皇は忠実の失脚について負い目と償いの意識があり
また忠実との提携を周囲に示す政治的意図があった。勲子は立后に際して泰子と
改名し、保延5(1139)年には院号を宣下されて高陽院(かやのいん)と
なった。彼女は久寿2(1155)年に死去するまで、上皇と忠実を仲介する
役割を果たすことになる。

29 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 15:56:19
age

30 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 17:12:10
院政って、暴力装置の武士なしには考えられないな。

31 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 05:21:26
強訴の頻発により大量の軍事的動員が恒常的に必要となり、検非違使などの
正規の京都の警察組織の枠では足りず、官職に関係なく「武勇の輩」を動員
する体制が整備されたようです。

特に「承平・天慶の乱」の功労者の子孫、桓武平氏貞盛流・清和源氏満仲流が
多く起用されます。藤原秀郷の子孫は源高明が失脚した「安和の変」に連座した
ため、京都での活動はあまり見られなくなりました。

32 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 05:45:54
鳥羽院政期において院近臣の台頭を象徴するできごとは、藤原得子(美福門院)が
産んだ体仁(なりひと)親王(近衛天皇)が永治元(1141)年に即位して、
得子が皇后になったことだった。得子の父・長実は、末茂流という諸大夫層
(四位・五位を昇進の上限とする貴族)の家柄であり、それまで外戚となっていた
摂関家・閑院流・村上源氏にとって衝撃は大きかった。

一方、崇徳天皇は体仁親王を自らの養子とすることを条件に譲位に応じたが、
公表された宣命に「皇太弟」とあったことから大きな不満を抱いた。当時の原則では
天皇の直系尊属のみに院政が可能であり、天皇の父でない上皇には何の力も権威も
なかった。崇徳の系統は嫡流から排除され、崇徳の院政もまた不可能となった。

このことは、忠通の娘・聖子を崇徳の中宮にいれ外戚復活を目指した摂関家にとっても
痛手だった。鳥羽法皇(永治元(1141)年出家)は、寵妃・美福門院に連なる院近臣
勢力を重視するようになり、法皇と忠実の関係にも暗い影が差すことになる。

33 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 04:45:54
鳥羽院政期に入っても、人事の介入を巡って院と興福寺は衝突を繰り返していた。
興福寺の混乱は院や院近臣との対立を招き、摂関家の立場を悪化させる恐れがあった。
忠通の長男・覚継が事態の収拾を図るため興福寺に乗り込むが、覚継は無能で混乱の
度合いは深まっていった。

忠実は隠居の身だったが、有効な対策がとれない忠通に替わり興福寺の統制に乗り出す。
この介入は結果的に、忠実と忠通の深刻な対立の一因となる。

34 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 05:06:06
康治元(1142)年8月、興福寺悪僧15名が奥州へ配流された。忠実は
「日本一悪僧武勇」と称された信実と提携して反信実派の粛清を断行、興福寺の
統制に成功した。

この時に悪僧配流を実行したのが、河内源氏当主・源為義だった。度重なる不祥事、
暴力事件が原因で白河法皇・鳥羽法皇の信任を失い排斥されていた為義を、忠実は
興福寺悪僧の統制・荘園の管理のための武力として起用した。為義は、忠実・頼長の
身辺警護にとどまらず、公権の介入を拒む荘園や摂関家内部の紛争について、警察的な
役割を担うことになる。

35 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 07:20:11
忠通には長いこと後継とする男子がなく、弟の頼長が摂関を引き継ぐ予定だった。
ところが、康治2(1142)年8月、忠通に実子・基実が生まれたことで、忠通は
摂関譲渡に消極的となった。

久安6(1150)年正月10日、近衛天皇に頼長の養女・多子(閑院流・徳大寺公能の娘)が
入内する。摂関家にとっては久しぶりの外戚復活となるものであり、その立后の成否は
極めて重大だった。しかし翌月になって突然、忠通の養女・呈子(中御門流伊通の娘)も
入内する。忠通は自らの地位の保全を図るため、美福門院と提携して頼長を妨害に出たのである。

激しい入内競争の結果、呈子が中宮、多子が皇后となり、一条天皇期の中宮・彰子、皇后・定子の
ごとく一帝に二后が並立した。そしてこの抗争により、忠実・頼長と忠通の関係は修復不可能となった。

36 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 07:39:49
久安6(1150)年9月26日、忠通が摂関譲渡をしないことに業を煮やした
忠実は、源為義らを率いて宇治から上洛すると、摂関家の正殿・東三条殿を接収、
忠通を義絶し、氏長者を頼長に与えた。久安7(1151)年正月10日、頼長は
内覧を宣下され、関白と内覧が並立する異常事態となった。

しかし氏長者・内覧となったものの、頼長は私的報復を好み残酷な刑罰を行うなど
政治家としての資質に問題があった。仁平元(1151)年、頼長はささいなことで
院近臣・藤原家成(美福門院の従兄弟、鳥羽法皇第一の寵臣)の邸宅を破壊し、鳥羽
法皇の信頼を失った。鳥羽院政末期には、美福門院に連なる信西ら院近臣勢力と、忠実・
頼長の摂関家が政界を二分して対峙していたが、院近臣との軋轢は頼長の政治的立場を
著しく悪化させることになる。

37 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 08:00:46
久寿2(1155)年7月23日、近衛天皇が17歳で死去した。皇子がいなかったため、
鳥羽殿において皇位継承者を決める議定(王者議定)が行われた。候補は重仁(しげひと)
親王(崇徳上皇の子)と守仁(もりひと)親王(崇徳の同母弟・雅仁の子)で、二人とも
美福門院の養子となっていた。

重仁が最有力と思われていたが、予想に反して守仁の即位を前提に、中継ぎとして守仁の
実父・雅仁(まさひと)親王(後白河天皇)が擁立された。雅仁はこの時まで半ば忘れ
去られていた存在で、帝王としての教育を受けることもなく俗謡の今様に明け暮れていた。

崇徳上皇は、またしても皇統から排除されてしまった。さらに近衛天皇の死が、忠実・頼長の
呪詛によるものという噂が流れ、それを信じて激怒した鳥羽法皇は頼長の内覧を奪い、頼長は
失脚した。忠実は娘の高陽院を通して法皇の怒りを解こうとするが、12月16日、高陽院が
死去してその手段を失った。

38 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 08:25:40
近衛天皇死去から後白河天皇即位に至る、めまぐるしい事態の急変の背景としては
崇徳の院政を恐れる美福門院、妻が乳母をしていた雅仁の擁立を目指す信西、娘の
中宮・聖子が崇徳の寵愛を失う原因となった、重仁とその生母・兵衛佐局を憎悪する
忠通といった三者の連携と工作があったと思われる。

しかし、中継ぎとして即位した後白河天皇と幼少の皇太子・守仁親王という体制は、
極めて変則的で、十分な政治的権威がなく不安定だった。これに対して、崇徳上皇には
重仁という有力な皇子があり、忠実・頼長には摂関家の莫大な財力・武力があった。
鳥羽法皇が死去すれば、崇徳・忠実・頼長が復権する可能性は大いに有り得ることだった。

保元元(1156)年7月2日、鳥羽法皇が死去した。後白河天皇を擁する信西ら
院近臣勢力は時を移さず、崇徳・頼長を政治的に抹殺するため行動を開始する。
追い詰められた崇徳・頼長は、源為義らと共に白河北殿に立てこもった。7月11日未明、
平清盛・源義朝・源義康の兵が白河北殿を攻撃して、「保元の乱」が勃発する。

39 :日本@名無史さん:2006/11/19(日) 05:41:31
藤原為房(1049〜1115)

延久5(1073)年、叙爵。遠江守・五位蔵人・左少弁・加賀守・修理権大夫・
尾張守・宗仁親王(鳥羽天皇)の春宮亮を歴任する。白河院別当・宗仁親王の家司を
務める一方で、藤原師実・師通の家司、忠実の政所別当でもあり、院・天皇・摂関家の
三者から信任を得ていた。

加賀守在任中の寛治5(1091)年、為房下人が日吉社神人とトラブルを起こし
阿波権守に左遷されるが、すぐに許され帰京する。嘉承2(1107)年、鳥羽天皇が
即位すると蔵人頭に任命され、内蔵頭を兼ねた。天永2(1111)年、参議に昇進。

実務能力の才能に富み「本朝博物之士」と称される。後に、大江匡房・藤原伊房と並び
「前の三房」と呼ばれた。

40 :日本@名無史さん:2006/11/19(日) 06:06:20
藤原顕季(1055〜1123)

母が白河天皇の乳母・従二位親子だったことから、天皇の外伯父・閑院流実季の
猶子となり朝廷に出仕。承保2(1075)年、讃岐守に任ぜられてから30年
丹波・尾張・伊予・播磨・美作といった熟国受領を歴任して財力を蓄えた。
嘉保元(1094)年、修理大夫となり、居所にちなみ「六条修理大夫」と呼ばれる。

応徳3(1086)年より白河院別当を務め、経済官僚として白河院政を支える。
長治元(1104)年、仁和寺に阿弥陀堂を建て、9体の丈六阿弥陀仏を安置した時は
臣下として丈六仏9体を造ったのは、藤原道長以来のことだと周囲を驚かせる(中右記、
3月17日条)など財力は摂関家をしのぐものがあった。

典型的な大国受領系院近臣でありながら歌人としても優れ、「柿本人麻呂影供歌会」を
主催したり、勅撰集に57首が入集するなど六条藤家歌学の祖でもあった。

41 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:50:27
院庁の初見は嵯峨上皇の時である。上皇・女院のために院中の庶務を処理する機関で
円融上皇の時には主要な機構は成立していた。

白河・鳥羽院政の下では院庁は院務処理の機能しかもたず、直接に国政に関わる機能は
もっていなかった。院政は基本的に、太政官を中心とする従前の政治機構により運営され
その機構に重要な位置を占める廷臣を院司として、また院司を重要な官職(蔵人頭・受領・
内蔵頭など)に任じることでその機構を掌握した。

院司となることは、上皇との間に一種の私的な主従関係を結ぶことであり、有力廷臣の多くを
院司として掌握することは、上皇の政治権力を構成する重要な要素だった。

42 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 23:07:49
院政の下では上皇の信任と支持が重要であり、上皇の寵を失うとその勢力は
たちまち衰退することになった。

顕季の子、長実と家保は父と同じく大国受領を歴任し、特に長実は大国受領系
院近臣としては異例の権中納言に昇進する。これについて右大臣・藤原宗忠は
「無才の人、納言に昇るはいまだかつてあらず」(中右記・長承2(1133)年
8月19日条)と罵倒している。

しかし、白河院政から鳥羽院政に替わると、長実の子・顕盛は白河院政下で
鳥羽上皇を軽んじる態度をとっていたことから失脚し、一族も処断される。
一方、家保の子・家成は当初から鳥羽上皇に近侍していたため急激に権勢を
振るい、以後、顕季流の中心は家成の系統に移ることになる。

43 :日本@名無史さん:2006/11/23(木) 06:48:25
院庁の中心は別当と判官代である。白河院政当初に公卿別当になったのは、
閑院流・藤原(中御門流)宗通・源俊明だったが、鳥羽院政末期には無差別
かつ大量に選ばれるようになり形式化してしまった。専制的な上皇に近習し
活躍したのは、中・下級貴族出身の四位別当であり実際に院庁を取り仕切る
「執行別当」には、為房流が多く任ぜられた。

白河法皇・鳥羽法皇の院庁執行別当としては、為房の次男・顕隆の系統が活躍する。
これは、長男・為隆の才能が弟に劣っていたということではなく、為隆が「関白・
摂政のうしろみ」と呼ばれて師通・忠実に近侍していたことによる。父・為房は
白河院別当であると同時に、摂関家の家司でもあった。つまり、長男・為隆が摂関家
家司の面を継いだのに対し、次男・顕隆が院司の面を継いだことによる違いだった。

44 :日本@名無史さん:2006/11/25(土) 17:18:51
藤原宗忠(1062〜1141)

頼通の弟、頼宗の子孫・中御門流の嫡流に生まれる。頼宗は、後三条天皇の
皇太子時代に東宮大夫だった能信の同母兄であり、政治的に後三条天皇に近かった。
承暦2(1078)年に侍従、次いで右少将・左少将となる。しかしこの頃は、
12歳年下の叔父・宗通が、幼時から白河法皇に寵愛されていたことにより院庁
別当として勢威を振るって、中御門流の中心となっていた。

この当時、公卿になる方法としては、近衛少将・中将を経て蔵人頭(頭中将)と
なって公卿に昇進する「近衛ルート」と、弁官を経て蔵人頭(頭弁)となって公卿に
昇進する「弁官ルート」の2つがあった。「弁官ルート」は職務上、文筆の才を含む
実務能力が要求されたので、中級以下の貴族でも才識によってはこのルートにより
公卿に昇進することができた。

45 :日本@名無史さん:2006/11/25(土) 17:36:23
「近衛ルート」での昇進に行き詰まった宗忠は、寛治8(1094)年、右中弁と
なり「弁官ルート」に転進する。以後、左中弁から右大弁となり、内蔵頭・蔵人頭を
歴任する。白河法皇・堀河天皇の厚い信任を受けて、康和元(1099)年、参議に
昇進した。永久元(1113)年には、検非違使別当となる。

宗忠の母は、紀伝道を家学に代々文章博士を輩出した日野流藤原氏の出身であり、
宗忠は日野家の人々との交流を通して、実務の素養を身につけたと思われる。さらに
白河法皇側近である源俊明・藤原(小野宮流)通俊に故実を習い、典礼故実に精通する
当代有数の有識家と称されるようになった。勤勉温厚な人柄で宮廷各方面から信任された。

46 :日本@名無史さん:2006/11/28(火) 07:10:58
宗忠は政治的には、道長の子孫・御堂流としての意識を強くもち、忠実の母方の
従兄弟だったことから忠実の幼少時から近侍して、政治顧問となっていた。
大治5(1130)年、頼長の昇殿の際は、道長の「長」と頼通の「頼」を
合わせて「頼長」の名を選んでいる。

保安元(1220)年、忠実が失脚すると宗忠も窮地に立ち、朝廷への出仕を
見合わせざるを得なくなるが、鳥羽院政の開始で忠実が復権すると忠実の推挙で
内大臣・右大臣となった。彼の日記「中右記」は白河天皇の譲位の翌年、寛治元
(1087)年から保延4(1138)年まで記述され、白河院政を知る重要資料と
なっている。

47 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 05:30:55
輔仁(すけひと)親王は永久元(1113)年の鳥羽天皇呪詛事件で失脚して
謹慎処分となったが、永久3(1115)年に白河法皇は輔仁の謹慎を解き、
輔仁の子・有仁(ありひと)を自らの猶子とした。このことは白河法皇と輔仁の
和解を周囲に示すものであった。輔仁は程無く病死するが、有仁は源姓を賜わり
左大臣に昇進する。詩歌・管絃に優れ、「花園左大臣」と称された。

一方、輔仁の生母・基子の同母弟である園城寺の僧・行尊も、和歌・琵琶・書に
通じた文化人で法皇に重用される。行尊は若い頃に熊野で修行に明け暮れ、修験道
形成に貢献した。白河法皇がしばしば熊野詣に出かけたのも、行尊の強い勧めが
あったと思われる。

48 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:27:30
大江匡房(1041〜1111)

文章道(紀伝道)を家学とする大江氏の嫡流に生まれる。幼少の頃より博学で、
神童と呼ばれた。康平元(1058)年、国家最高文官試験といえる「対策」に
18歳で及第する。菅原道真でも対策及第は26歳であり、順調に学者としての
道を歩んでいた。

治暦3(1067)年、尊仁親王の東宮学士に任じられ、翌年に尊仁が即位して
後三条天皇となると蔵人に抜擢される。さらに、左衛門権佐・右少弁を兼ねて
天皇の秘書・検非違使・太政官の事務を、同時に行うことになる。また、新たに
設置された記録所の寄人として、荘園文書の処理・審査業務も担当した。この頃、
発給された荘園認可の太政官符には、例外なく匡房の署名がある。

49 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:47:34
延久5(1073)年、後三条天皇が没し、白河天皇の親政が始まる。翌年、
匡房は美作守となり、弁官・蔵人の任を離れた。実務官僚である匡房にすれば
弁官の職を解かれることは不本意であったかもしれないが、受領は財力を蓄える
ためには恰好の職だった。大江氏は学者の家で、富裕ではなかった。匡房は
国司在任中に経済的安定を得て、土地を購入し邸宅を建て、文庫を整備した。
ただ、この文庫は仁平3(1153)年、火災により焼失している。

承暦4(1080)年、京に戻った匡房は権左中弁となり、藤原(小野宮流)
通俊と共に政治の中枢で活躍する。匡房と通俊は、白河法皇から「近古の名臣」
(古事談)と呼ばれた。寛治2(1088)年、参議に昇進。寛治8(1094)
年には、通俊と同時に権中納言となる。

50 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 13:02:04
匡房は関白師通と学問によって親交を結び、師通の命で宮廷儀礼を整理した
「江家次第」を著した。師通は「おりゐのみかどの門に車立つ様やはある」
(今鏡)と公言し、白河法皇の政治介入に批判的だった。匡房は古来の天皇
親政を理想と考えていたようで、両者は気が合ったものと思われる。百人一首の
「高砂の尾の上の桜さきにけり とやまの霞たたずもあらなん」の作は、
師通邸での和歌の会で詠まれたものである。

永長2(1097)年、太宰権帥となり九州に下向する。赴任中の康和3(1101)
年、対馬守・源義親が九州の各地を荒らし回ったため、中央に告発している。
義親は翌年、隠岐に配流される。

51 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 13:13:42
康和4(1102)年、匡房は帰京する。関白師通や実務官僚としてのライバルだった
通俊はすでに故人であり、嫡男・隆兼にも先立たれ厭世的となった。長治3(1106)
年には再び太宰権帥に任じられるが、病気のため赴任しなかった。晩年は家で客人を相手に
雑談をすることが多くなり、その談話は「江談」としてまとめられている。

匡房は政界を引退して悠々自適の生活を送りたかったようだが、白河法皇の信任は厚く、
たびたび法皇から諮問を受けている。天永2(1111)年、死の直前に大蔵卿に任じられた。

52 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 13:42:11
「前九年の役」の終結後に源義家は、父・頼義が伊予守に任命されたことへの
御礼のために、宇治の頼通のもとを訪れていた。たまたま、宇治にいた匡房は
義家を「優れた武将だが、兵法を知らない」と評した。義家の郎党が聞きつけて
義家に伝えると、義家は匡房の邸で兵法の講釈を受けるようになった。

「後三年の役」で義家は、雁の列が乱れたのを見て伏兵を見破った。義家は
「軍兵野に伏すときは飛雁行を破る」と匡房から教えられていたという。

53 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:42:50
源義家は「後三年の役」で清原氏を滅ぼして、朝廷に追討官符を申請して恩賞を要求したが
却下された。清原氏は「国宣を重くし朝威をかたじけなく(奥州後三年記)」していて、
朝廷に忠実であったため、朝廷は義家に停戦命令を下すが、義家は聞き入れず軍事行動を
続行する。この際に、徴税を怠り中央への貢納をしなかったことで、陸奥守を解任される。

一方で、弟の義綱は「平師妙の乱」を鎮圧して、従四位下・美濃守に任じられ優遇される。
白河法皇は、皇位にあった永保元(1081)年の石清水行幸に義家が供奉していたことから
義家に個人的親近感があったようで、院殿上人・正四位下に任じている。

54 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:57:19
康和3(1101)年、義家の嫡男・義親は対馬守だったが、九州の各地で狼藉を
働き、追討使が派遣される。白河法皇は追討の前に、義親を呼び戻すよう義家に
命じた。義家は腹心の郎党・藤原資通を派遣して事態の収拾を図るが、資通は義親と
組んで追討使を殺害してしまい、義家の面目は丸潰れとなる。

失態を重ねる河内源氏に対し、伊勢平氏の平正盛は伊賀の所領を、白河法皇が皇女・
郁芳門院を弔うために造営した六条院御堂に寄進したのを契機に、北面に加えられた。

55 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:10:56
北面の武士の「北面」とは北側にある部屋であり、院御所の北側にあった詰所に
控えていた武士である。大治4(1129)年7月15日の白河法皇の葬儀では
80人以上の「北面に侯ずる者」がいた(中右記)。

「北面に侯ずる者」=「院北面衆」は「上北面」と「下北面(北面下臈)」に
分かれる。「上北面」は諸大夫(四位〜五位を昇進の上限とする貴族)、
「下北面」はそれより下の、侍身分の者が任じられた。平正盛も諸大夫の身分で
なかったため、生涯「下北面」のままであった。侍身分は、貴族社会で
「最下品(最低ランク)」だった。

56 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:25:12
「北面」の設置は、康和年間(1099〜1104)と推定される。
「為房卿記」康和5(1103)年8月17日条によれば、
「北面伺侯五位六位十人許」が白河法皇の御車に、「弓箭を帯して」供奉している。

別に院武者所という組織もあったが、北面の整備で縮小されたと考えられる。
この時期は、師通・師実の相次ぐ死で摂関家は弱体化していた。法皇の政治的
主導権が高まっていた頃に、法皇の私的軍事力として整備された。

北面衆は院武者所と異なり、当初は寵童などを囲っておく場であったらしい。
北面衆からは、検非違使や受領に抜擢されるケースもあった。

57 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 10:05:12
後三条天皇は、宇多天皇以来およそ170年ぶりに出現した、生母が藤原氏でない
天皇だった。藤原道長は4人の娘〔彰子(しょうし)・妍子(けんし)・威子(いし)・
嬉子(きし)〕を天皇の中宮にして、3代の天皇(後一条・後朱雀・後冷泉)の祖父と
なり、絶大な権勢を誇った。

しかし、天皇の妃を出せる家が道長一門に限定されると、入内する女子の数も少なく
なり、外戚関係の維持が困難になるという問題が生じた。頼通・教通は相次いで関白と
なったが、運に見放されて天皇の祖父にはなれなかった。

道長は長らく内覧・左大臣であり、その権勢は天皇の祖父という立場によるものが
大きかった。外戚関係の断絶により、摂関家の権威は大きく低下する。代わって
外戚として台頭するのが、閑院流藤原氏と村上源氏である。

58 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 10:22:46
閑院流藤原氏は道長の叔父・公季に始まる。公季の孫に、道長の4男・能信の妻となった
女子がいて、能信は妻の姪にあたる茂子(もし)を養女として、尊仁親王(後三条天皇)の
妃にした。茂子の産んだのが、白河法皇である。

白河法皇は自らの子・堀河天皇の妃に母方の叔父・実季の娘、苡子(いし)を選ぶ。
苡子は宗仁親王(鳥羽天皇)を産んですぐに他界するが、苡子の兄・公実は鳥羽天皇の
即位に尽力し、嘉承2(1107)年、天皇の伯父であることを理由に摂政の地位を望んだ。
しかし、摂関の地位は道長の子孫が継ぐものであるという認識が、貴族社会に強くあったため
その悲願は果たされなかった。千載一遇のチャンスを逃がした公実は、失意のあまり
同年、死去した。

59 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 10:32:44
公実の忘れ形見である璋子(しょうし・待賢門院)は、白河法皇の寵妃・祇園女御に
引き取られ、法皇に溺愛されて育つ。璋子は鳥羽天皇の中宮となり、顕仁親王(崇徳
天皇)・雅仁親王(後白河天皇)らを産んだ。璋子の兄である実行・通季・実能は、
崇徳天皇が即位すると外戚としてそれぞれ官位を上げ、朝廷内で大きな勢力を築いた。

60 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 10:49:54
村上源氏は、村上天皇の孫・師房が「源」の姓を賜ったことに始まる。父を早く亡くした
師房は、関白頼通の養子として育てられた。師房は、道長の娘・尊子(そんし)を妻として
摂関家とつながりを深め、右大臣に昇進した。娘の麗子(れいし)は、頼通の嫡子・師実の
妻となる。師実は妻の姪にあたる賢子(けんし)を養女として、白河天皇の中宮とした。

賢子は善仁親王(堀河天皇)を産み、麗子の兄弟である俊房・顕房はそれぞれ、左大臣・
右大臣になり、顕房の子・雅実は太政大臣になるなど、高位高官をほしいままにした。
顕房の娘・師子(しし)は忠実の正室となり、忠通を産む。摂関家との関係は極めて親密で
「源氏と雖も、土御門右丞相(師房)の子孫は御堂(道長)の末葉に入る(台記)」と
同族としてみなされていた。

61 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 11:07:08
村上源氏は堀河天皇が死去すると、外戚関係の断絶により凋落の兆しを見せ始めた。
雅実の子・雅定は家の没落を防ぐため、白河院近臣・藤原顕季の娘を妻に迎え、
顕季の孫で近衛天皇生母・得子(とくし・美福門院)に接近して、得子が立后すると
皇后宮大夫となった。

崇徳系(待賢門院)と近衛系(美福門院)の対立は、そのまま閑院流と村上源氏の
対立となった。実行・実能(璋子の兄)と雅定は大臣の地位を巡り、互いを牽制する。
鳥羽法皇は両者の対立を解決できず、保延4(1138)年、藤原宗忠が辞任してから
右大臣が、久安3(1147)年、源有仁が辞任してからは左大臣までが空席となり、
大臣は、内大臣・頼長のみという異常事態となった。

62 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 11:19:19
この状態は久安5(1149)年、実行が右大臣、雅定が内大臣に同時に昇進して
解消される。翌久安6(1150)年、実能も内大臣に昇進した。実能の娘である
幸子(こうし)は頼長の正室であり、頼長は閑院流を支援していた。このことは、
美福門院の反発を招き、忠通と頼長による近衛天皇の入内競争に発展する。

63 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 11:34:52
鎌倉時代になると、閑院流からは西園寺公経が太政大臣となり、子孫は関東申次を
世襲して朝幕関係の調整を一手に引き受け、隆盛を極めた。村上源氏からは、土御門
通親が、後鳥羽天皇の乳人(めのと・乳母の夫)、土御門天皇の祖父として権勢を
振るう。「承久の乱」で一時的に没落するが、通親の孫・通子(つうし)が産んだ
邦仁王(後嵯峨天皇)が鎌倉幕府の後押しで即位すると、通親の嫡子・久我通光は
太政大臣となった。

近世には、三条家(実行の子孫)・西園寺家(通季の子孫)・徳大寺家(実能の子孫)
菊亭家(西園寺の分家)・久我家(村上源氏嫡流)は、大臣を出す「清華家」としての
地位を確立した。

64 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:36:07
大国受領系院近臣として院政期に栄えた高階氏は、藤原氏と対立して失脚・自害した
長屋王の子孫である。承和11(844)年、峯緒(みねお)王は「高階真人」の姓を
賜り、伊勢権守として斎宮・恬子(てんし)内親王に親しく仕えた。

ところが貞観8(866)年、内親王と在原業平の密通事件が起こる。事後処理に
奔走した峯緒は、内親王の産んだ男子を引き取り、師尚(もろひさ)と名付けた。
師尚は高階氏を継ぐが、斎宮の不義の子であることは公然の秘密であり、以後の
高階氏は、伊勢大神宮に参拝することができなくなってしまう。

65 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:54:28
師尚の孫・成忠(なりただ)は、一条天皇の東宮学士・侍読を務めていたが
娘の貴子(きし)が関白道隆の正室となり、定子(ていし)・伊周・隆家らを
産んだことから急速に昇進した。中宮・定子の祖父として従二位となり、
「高階朝臣」に改姓する。

しかし、道隆が死去して伊周・隆家が失脚・配流となり、成忠の系統も中関白家と
運命を共にして没落する。定子の産んだ敦康親王は皇位の最有力者であったが、
道長に妨害されてしまう。道長の側近・藤原行成は、親王の母・定子が伊勢大神宮の
怒りを買った高階氏の血を引いていることから、皇位を継ぐのはふさわしくないと
奏上している。

一方、成忠の弟・敏忠(としただ)の系統は、道長・頼通に接近することで地歩を
固め、敏忠の孫・成章(なりあきら)は大宰大弐となった。成章は後冷泉天皇の
乳母・藤原賢子(けんし・紫式部の娘)を妻としている。

66 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 11:11:16
成章の子・為家(ためいえ)は白河法皇に仕え、周防・美作・播磨・伊予・近江
越前・丹後・備中の受領となり財力を蓄えた。承保2(1075)年、法勝寺の
金堂・講堂・回廊を造営する。近江守在任中の寛治7(1093)年、興福寺の
強訴により土佐に配流されるが、翌年には召還される。長治元(1104)年、
尊勝寺の阿弥陀堂を造営する。

為家の子・為章(ためあきら)も法皇に院司として仕え、「白河法皇寵遇之人」と
称された。寛治7(1093)年の興福寺強訴では、父・為家に連座するところを
法皇の「臨時の恩」によって難を逃れている。

鳥羽院政期になると高階氏は衰退したため、他の有力な院近臣家と結ぶことで
勢力の維持を図った。藤原家成(鳥羽法皇第一の寵臣)の妻(隆季・家明生母)と
平清盛の妻(重盛・基盛生母)は高階氏の出身である。

67 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 11:27:14
後白河院政期になると、高階栄子(えいし・丹後局)が法皇の寵妃となり
法皇の生前にとどまらず、死去の後も、土御門通親と結び政界で活躍した。
高階泰経は法皇の近臣として信任を受け、治承3(1179)年・平家クーデター
クー寿永2(1183)年・義仲の法住寺殿攻撃、文治元(1185)年・
義経・行家の謀叛への同意で、3度にわたり解官されるなど終始、法皇と
行動を共にした。

高階氏は南北朝期の寛経(ひろつね)を最後に公卿がいなくなり、歴史の舞台から
姿を消した。なお、室町幕府初期の実力者・高師直は、大宰大弐・成章の弟である
成佐(なりすけ)の後裔とされる。

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