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武田勝頼

1 :山県昌景:2006/11/29(水) 18:33:03
武田勝頼について語ろう

2 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 18:34:30
2ゲット

3 :信長:2006/11/29(水) 18:35:23
この前は虐め過ぎた。ごめん。

4 :武田典厩信繁:2006/11/29(水) 18:48:00
武田勝頼。

彼は、日本戦国史上最も強かった武将と言えまいか・・・。
彼はお家を潰した凡愚の将と取られがちではあるが、家を潰した原因は
勝頼が原因ではない。それは信玄であろう。勝頼を正式な後継者として
示さなかった事が実に悔やまれる。信勝が成人するまでの後見役という
役どころはあまりに不幸すぎるといえるだろう。
穴山梅雪などのような御親類などから、軽く見られたのも頷ける。それは
諏訪の血を引く事が影響していたとは思えないのだが・・・。つまり、
勝頼を正式な後継者と神・信玄が認めなかったこと。これにより、戦国最強
とまで謳われた武田家臣団の屋台骨は揺らぐ事となってしまったといえる
だろう。
ただ、ここで一つ考えて見てほしい。武田譜代衆の面々はほとんど、勝頼
を支持しているではないか。歴史の解釈とは違い、山県三郎右兵衛尉昌景や
馬場美濃守信房などは勝頼を支持していたという。
ただ、御親類衆の力が強すぎたこともあり、それを内外に示す事が出来なかった
事が実に悔やまれる。

恐らく、勝頼は戦国史上でも稀に見る名将であると言える。どちらかと言えば
智将というよりは、猛将と言った方が良いだろう。信長・家康が長篠後も怖れ
続けていた事を忘れてはなるまい。さらには、長篠後においても勝頼は、
家康相手に互角以上の戦をしている。
勝頼の強さと、真田昌幸の知略が融合し、まさに最強のコンビと言えただろうに。
涙なしには語れまい・・・。
もっと簡潔に言おう。自身の評価では・・・・。

信長=勝頼>家康くらいであろうか・・・。長文陳謝。

5 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:02:47
北条氏政と対陣した時、決戦して白黒決着とつけようと書状を送ったのが氏政は恐れをなして
決戦をさけた。そのまま対峙していたが徳川家康が攻めてきたことを知ると
うじうじして戦意喪失の氏政をそのままに取って返し物凄い勢いで家康のもとへ向かう
そのあまりに速さと勢いにビビッた家康もまた逃げ出す。
勝頼は家康を取り逃がして悔しがったという

まさに強すぎる大将でしたね

6 :山県昌景:2006/11/29(水) 19:04:06
武田典厩信繁の言うとおりで滅亡したのは、穴山梅雪、木曽義昌、小山田信成や
長篠の戦いに誘導させた、長坂や跡部が悪いのでもしこれらを側近に置いて
いなかったら武田家も変わっていたのであろう。
本当にかわいそうな勝頼でしかたがない

7 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:13:37
タイプ的には上杉謙信に近いと思う
ただ謙信と違うのは決定的な長篠の敗戦があること
あれさえなければまだチャンスはあったろう 運が無かったとしかいいようがない

8 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:19:47
あれだな辻と似た馬鹿
まだ辻のが世渡りの術やら部下からの信望が有るだけマシ
牟田口の性格と辻の性質…
そりゃ滅びるわけだ

9 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:58:35
急ぎすぎた 急がされたというべきかそのおかれた時代と状況が大変だった
決して無能な人ではないけれど 潔く散っていった豪気の武将
最後は信長と似てる 

10 :武田典厩信繁:2006/11/29(水) 23:01:37
その通り。運がなかったのだ・・・。運も実力と言ってしまえばそまでだが(苦笑)

ただ良く考えて見て欲しい。勝頼の力は死後も繁栄されていたのだ。家康を
が震えるほど怖れ、そして信長が怖ろしさのあまり憎みすらしたこの勝頼では
あるが、三方ヶ原にて、その勝頼の鬼神の如き武勇を間近でみた家康はこう思った
に違いない。自分とは格が違うほどの名将であり、二度と直接対決はすまいと。
勝頼とはそれほどの武将なのだ。勝頼の鬼神の如き戦を見なければ、家康も
脱糞&失禁はしなかったはず。
さらには、長篠敗戦後の勝頼は、譜代衆や御親類集以上に、他国衆である
真田昌幸を重要視している。これは勝頼の人材管理能力を如実に示している。
それだけ、部下を見る目も素晴らしかったのだ。あの幻の新府城は、真田昌幸
が築城したようなもの。その勝頼が絶大なる信頼をおいた昌幸。
その昌幸も主君勝頼を慕った。それを家康が見逃すはずはない。
真田の武勇は、ご存知徳川を2度敗退させていることからも分かる。息子・幸村が
大坂の陣のため、大坂城に入場したとき、家康は家来にこういった。
「真田が入場??昌幸か??倅か??」
これは、勝頼に一目置かれ、そして勝頼と共にあった昌幸を畏怖しての意味を
持っている。
さらには、真田幸村の赤備え隊が天王寺の決戦の折、家康本陣に何度も押し寄せ
た時、家康は切腹すら覚悟したという。
これは紛れもなく、真田信繁こと幸村の鬼神の如き攻めが、勝頼の三方ヶ原と
同じように見えたからだ・・・。まだその勝頼のトラウマから家康は抜け切れて
いなかったといえるだろう。
その死後も、存在を恐れさせ、そしてトラウマを与え続けた勝頼。
彼を名将と呼ぶ他何と呼べばよいのか、自身には分からない。





11 :日本@名無史さん:2006/11/29(水) 23:12:38
家康は武田軍が一生のトラウマになってたからね〜

12 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 06:40:17
戦国時代
http://hobby8.2ch.net/sengoku/

13 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 07:35:49
戦の才能がずばぬけてある人なんだよね
あの強さがいったいどこから来てるのかが興味ある
諏訪衆の力だったのかなんなのか 軍神の申し子みたいな武将だ

14 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 07:42:30
俺の脳内イメージ的には項羽だな(漫画赤龍王)

15 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:01:41
しかも美男子で若妻にも愛されまくってたらしいし
肖像画も柔和な感じ 猛々しいだけの人でもなさそうなんだけどね

16 :日本@名無史さん :2006/11/30(木) 13:09:43
信玄の時と違って浅井・朝倉・足利将軍・長島本願寺など、
信長のまわりに武田との同盟者がいなくなっていたことは彼の責任ではないだけに不運だな。

17 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 13:30:13
勝頼は美男子で北条の娘から愛され、そして死ぬほど強かった。
軍神を生かしておくことは、時代が許さなかったのだ。
臆病者である信長は勇将、つまり自分よりも強い武将を生かしておくことを
許さなかったのだ。

18 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 14:45:30
柴田勝頼は口だけで弱いけどな

19 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 15:25:43
武田家ってね甲斐から追い出されてね
跡部氏が専横していた甲斐をなんとか平定したあとも有力豪族との
微妙なバランスで成り立っててね
時には相続争いで国を二分したり親子で争ったりってしてた土地なのね
勝頼の代になったからってその体質は変わらないどころか
支配地域が広くなったんだから余計に豪族がまとまりつかなくなって
勢いがある頃はそれでも従ってくれるけど勢いがなくなった瞬間の分裂は
非常に速かったんだよね
本人の資質以前に組織体系や支配への正当性って部分でかわいそうな状態だったのさ

20 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 15:36:18
上杉謙信が北陸から武田勝頼が東海道から同時侵攻すれば面白かったのに

21 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 10:14:05
武田家ってね、勝頼以前数代前まで甲斐に入国すらできなかったんだよ
甲斐に入ってからも親子兄弟でクーデター騒ぎばっかり起こしててね
そのたびに豪族間の力関係が変わってるのさ
一番有名な信玄も父親を追い出して長男から危うく反乱されそうになってるだろ
しかも勝頼は諏訪家を継ぐはずだったから甲斐の豪族にとっては面白くないわな

22 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 11:15:39
勝頼は非運の武将。
愚将だったほうが救われたかもしれないな。

23 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 12:00:20
勝頼は政治が苦手で軍事が得意という点で父よりも祖父の信虎の性質を受け継いでいるな。
まあ三代続けて戦の天才を輩出したというのは大したもんだ。

24 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 12:33:21
内ゲバってのは源氏の宿命だからな 武田も清和源氏らしく
内ゲバばかりやってたようだ 一面、それが活力にもなっているわけだ
骨肉の争い、血を血で洗う抗争というやつだ
 

25 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 13:01:52
新田次郎の勝頼って贔屓の引き倒しだと思う

26 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 13:11:05
政治が苦手というよりも
中央集権化しようとして豪族にそっぽ向かれただけだ
勝ち続けている時には発言力はあるが
長篠での敗戦は豪族連合でしかない武田にとっては痛かったなあ

27 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:13:52
>>21
>甲斐に入国すらできなかったんだよ

甲府の近くの石和にいた筈だが、石和は甲斐ではないと??

28 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:51:44
>>25
小説の主人公なんてそんなもんだろ。
視点を決めて人物造形しなきゃ創作できない。
新田にとっては郷土への愛着もあったしな。

29 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:55:46
読んだけど全然>>25のようなことは感じなかったけどな
淡々とした文章だった 小説じゃないけど その時〜の勝頼の話はちょっとそれっぽかったけどw

30 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:19:06
まあ世間一般のイメージ考えると肩に力も入るんだろうが 戦国好きのマニアなら勝頼が無能じゃないことくらい知ってるよな

31 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 17:27:26
正室厨の三条ヲタは、勝頼まで嫌いだもんなw

32 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:09:36
>真田昌幸を重要視している。これは勝頼の人材管理能力を如実に示している。

真田はどうかな?真田の勧めで新府城を作って、武田家の財政が急速に悪化した
これが滅びる大きな要因になった
 元々、真田は出自が怪しげだし、近づけるべきではなかった
その後、真田幸村が大阪城に入場、善戦したというのが巷間言われているが
実際は、大阪城の財宝を真田が食いつぶして、豊臣を再起不能にまで持ち込んだ
秀吉の埋蔵金も真田がひそかに掘り出して、どこかに隠匿した
真田が食いついた相手、武田家、石田三成、豊臣家ともに滅亡している
宣伝のうまい真田がその後、本やウワサで人気を煽っているようだが
歴史的に考察してみると、狡猾な食いつぶし屋ではないかと思える

33 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 22:43:54
>>32
それ立川文庫かなにかですか?

34 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:25:43
韮崎に新府城をつくったのは、穴山の勧めだと、どこかで見たことがある。
そして金を無駄に使わせて、武田の評判を落とし、最後は裏切って
武田を乗っ取ろうとした極悪人、穴山梅窃

35 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:57:44
新田次郎の影響受け過ぎ

36 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:31:41
設楽原であんな破滅的な敗北(過信なのか、やむにやまれずか)をし、
高天神城の後詰すらできない男が強いとは思えん。
立場的には諏訪のよそ者ってことで弱かった。

37 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 01:50:49
>>29
武田信玄よんでみ
上杉謙信が基地外のように書かれていてこれはひどいと思った。
郷土愛かなんかしらんがあれ越後の人にとっても噴飯ものだろう

38 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:19:29
昔読んだ本では跡部長坂は勝頼に甘言を並べて宿老の献策を排除し、
武田を滅亡に追い込んだ張本人として描かれていて、消防ながらに絞め殺したい程むかついたものだ。
だが新田の本ではその二人は真田曾根に次ぐ有能な文官であり、
逆に穴山らの宿老を武田滅亡の張本人として描いている。
滅亡の責任をどこかに求めなければならないとは言え、あまりに両極端な見方に驚いた。

39 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:46:57
新田次郎は郷土贔屓がひど過ぎる。
武田をもちあげるあまり、敵対する人々を極端に貶める所が好かん。
山岳小説や文学では第一人者だが、武田ものは正直いって他地方の人には
不愉快なだけ

40 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 07:20:07
それって単にお前らがアンチ武田だからでは?

41 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 07:23:35
>>37
海音寺の天と地とってどんな感じ?w どうせ武田が悪者扱いだろ?

42 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:24:12
時代小説で作者の好き嫌いが出るのはしょうがないわな
善悪をはっきりさせたほうが物語性も引き立つし

43 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:42:36
実際 穴山 木曾 小山田は裏切り者だな
親族衆筆頭の穴山が裏切ったのはでかい よって一番の悪人は穴山でいいと思う

44 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:44:57
>>39
はは、違うスレでも同じようなことこぼしてただろ?
新田が諏訪氏に肩入れするのも、
作家の個性のひとつと了承して読みなよ。
「小説」なんだからさ。

45 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 09:29:47
そもそも武田家は他家よりも増して豪族連合だからなあ
跡部や長坂の重用に面白くない豪族も多いし
見事に織田家の切り崩しにあってボロボロにされちゃうし

46 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 09:52:29
その織田家とやらも最後はボロボロだったけどな

47 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 13:28:24
>33
立川文庫などではない 以前に豊臣秀吉の埋蔵金について調べたことがある
兵庫県の稲川銀山だが、そこの資料を調べてみて真田の正体を見破った
真田は埋蔵金関係者から埋蔵場所を聞き出して、大判小判を掘り出して隠匿した
大阪冬の陣、夏の陣のドサクサまぎれに埋蔵金関係者を斬り殺している
大阪城入場は徳川家康などと気脈を通じた上で、豊臣の財宝の食いつぶしを
狙って入ったものだろう 現実に兄は徳川方の武将だ
真の悪党とは真田のようなもののことを言うのだろう
大阪夏の陣の後で、家康が真田幸村の首実検をしなかったのも不可解
恐らく、替え玉を殺して幸村に仕立てたのだろう

48 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 15:27:00
>>33
すみません、真田悪党キャンペーンはそれはそれでいいし、
自レスの説明も良いのですが、
武田勝頼についてはどうなんでしょうか。

また、銀山の「資料」って伝承伝説まみれでもありますよね・・・

49 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 15:31:44
ただ勝頼が最後に真田によらずに小山田にいって裏切られたが、
真田にいっても同じ結果になっていたと思う。
昌幸も所詮豪族連合の片割れだし、武田に準じる義理ないから、
どの道詰んでいたと思う。

50 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 15:53:47
どの大名も所詮豪族連合だろw

51 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 15:57:19
織田家の画期的な所はその絶頂期に豪族家臣達に裏切られ滅亡したことだなw

52 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:21:07
明智氏や羽柴氏は豪族や国人ではないよ。
なんで織田家を引き合いにだすのか意味不明。

53 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:28:42
織田ヲタ以外所詮豪族だの言わねーからw

54 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:46:14
織田家が豪族連合ならあの極端なまでの国替え攻撃でとっくに謀反で滅んでるよ


55 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:48:02
どっちみち滅んどるがな

56 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 17:34:18
>48
豊臣秀吉の埋蔵金伝説は確かに伝説の部分が多いが、それを確認するため
各種資料を渉猟して分析した その中に真田が掘り出したという記録も
あるのでかなり調べた

勝頼はしょせん諏訪氏の系統で武田が滅ぼした諏訪氏がああいう形で
逆に諏訪氏が武田氏を滅ぼしたものだろうと見ている
その意味で勝頼を頭領にすべきでは無かった 因果は巡るというやつだ

57 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 17:38:36
自分で自分に復讐するかよw 現に高遠では弟仁科五郎が頑強に抵抗してるだろ

58 :ブリ汚:2006/12/19(火) 17:40:07
>>47
首実験ってなんですか?
まさか家康が信長みたいな残酷な事したの?

59 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 18:02:25
>58
首実検というのは、戦争後、誰が誰を倒したかを確認するため
首を家康らにみせて確認してもらうこと、首次第で恩賞がかなり違う
実際には、戦後に首の奪い合いなどが多かったらしいが、、、
福島隊の可児才蔵は首を19個上げている 首の口の中に笹の葉を差し込んで
他のものに取られないようにしていた

60 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:18:51
>>58
おいおい^^;
徳川家康を髑髏に金を塗って実験するようなキチガイと一緒にしないでくれよw


61 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:24:08
金髑髏は空想

62 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:24:38
>>55

>>52は織田家が豪族連合だから滅んだと受け取れる発言をしているが、
それじゃあ答えになってないぞ。
滅亡した理由を聞かれて、どっちみち滅んでるがなじゃあ
返事になってない。

63 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:25:34
>>52ではなく>>51のレスだった。
まあ文意は通じるだろう。

64 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:26:40
豪族だろうがなんだろうが家臣に殺されてるだろうがw
豪族だろうが百姓だろうが関係ねーってこった

65 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:28:28
豪族じゃねー家臣とやらに殺されてりゃ世話ねーな
戦国の黄金バッドノブナガはw

66 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:33:58
戦国では主君を裏切るものはみんな豪族と呼ばれていたのです

67 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:06:55
ヘイノウブンリすれば謀反は無くなるって信長が言ってた

68 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:23:39
>>43
その中では木曾を別格にしてほしいなぁ。
あの裏切りに不快感は感じないよ。

>>56
んで、いつ信繁が兵庫に行ったの?

69 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:47:08
豪族連合だから滅びるっていかにも織田ヲタの考え付きそうな妄想だね

70 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:03:01
まとまらない山国を守護大名とはいえ、統治に何代もかけて漸く掌握できた
信虎、信玄も勝ち続けることによって求心力を高めてきたが、
勝頼が豪族あがりの重臣たちの進言をはねのけて、大敗し
大将首いっぱいとられて甲斐に逃げ帰ったシナー
超略されるわ、ライバルの織田家は勝頼同様に後継を自他共に認める
信忠が快進撃をつづけ、縁戚を結んでいた北条や、武田と長年戦ってきた
徳川も進撃してきたとあってはそりゃ誰もついていかないわな。
土着でもなんでもない甲斐源氏に最後まで忠誠誓ってもなーんのメリットも
無いし、一門衆筆頭の信君も裏切るわ、重臣の信茂も裏切るわで
求心力がもうなかったんだよ。
あなたは豪族連合の盟主としては不適格。 
大体なんで征服地信濃の諏訪氏の裔をかつがなにゃならん。
勝頼の首さしだして本領安堵とった方が利口じゃね?と名古屋人の俺なら普通に
思うわね

71 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:25:18
勝ち続けても求心力保てないで家臣に殺された尾張のうつけも
同じ尾張の秀吉に後をついでもらったから安心して地獄に行ったろうよ

72 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:26:52
武田勝頼は相当強いよ。軍事的な面で言えば信玄はもとより謙信よりも上じゃないか?謙信は進んだり退いたりの繰り返しで後年まったく良いとこなし。それに比べ勝頼は凄まじいばかりの勢いで進んでいった。
ただ織田に対してはもう少し策を張り巡らせた戦をして欲しかったが…

73 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:28:38
長篠って織田徳川が柵の後ろでビビって引きこもってただけだろw


74 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:32:08
大河信長の長篠の戦いの武田軍のかっこよさは異常

75 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:34:51
>>72
高天神城のことをいっているなら、徳川も織田もうごいてない。
単に小笠原氏との戦いでおちただけ。

一説には信玄は3年間喪に伏せといったとされるが(ちなみにこれ裏とれているのかね信玄の遺言)
勝頼って国内を固めずに翌年高天神城を落としてる。
高坂らが高天神攻めをとめたらしいが、(織田を刺激するから)
ひとっつもきかないから主家滅亡の前兆と危惧してもいる。

で高坂の危惧はあたって後年の大敗北へとつながる。


76 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:37:17
あの柵は武田軍に弱兵尾張兵が糞尿チビっても逃げ出さないために作ったんだよ

77 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:36:43
>>73
そんな相手に大敗し、総崩れになって有力重臣を死なせた
弱い大将がいましたね。

78 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:44:11
それだけ大敗しても相手がびびって追撃できなかったのがすごいよね
よほどのヘタレだったんだね 尾張兵

79 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:53:01
逆に言うと烏合の衆の織田軍ではあれだけの特攻攻撃はできなかったよな 
武田家のために殉じる武将があれだけいたこと自体がすごいし かっこいい
 

80 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:58:11
>>78
それは馬場が死に物狂いでしんがりを勤めたからだろう。
>>78
ムダ死にを喜ぶ、バカ集団ってことかい。自爆集団?


81 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:59:20
家臣に殺され家臣に乗っ取られぐちゃぐちゃになった織田家の醜さより
長篠の戦での武田の武将達の散り様のなんと勇ましくもはかなく美しいことよ

82 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 05:06:04
「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。
その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。
たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。
すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」
勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、
実に説得力のある戒めである。

以上wikiより引用

まさしく勝頼の勇将ぶりのなんと底が浅いことか。
戦について父である信玄があの世でないておるわ

83 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 09:44:30
まあ冷静に分析してみれば
信虎も跡を継いでから甲斐統一と信濃で戦い続けるしかなかったし
晴信も跡を継いでから信濃、駿河と戦い続けるしかなかったし
勝頼だって同じで戦い続けることでしか求心力を保てなかったんだよ

織田家との比較で織田家だって豪族の集合体という人もいるかもしれんが
成り立ちの基盤が全然違う
信長のオヤジの時点からしっかりと基盤ができていた信長は自身の代になって
さらにそれを固めているから自分の裁量というのである程度動かせたが
武田家の場合は明らかに豪族の方が力がでかくお館様自身は力を持っていない
名家を担いだ豪族連合って感じの集団だからね
代を変わるごとに主要豪族が裏で暗躍してるんだよ


84 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 09:51:58
>>82
あのさー。ある程度の知識をもった人も多数いるこの板で、
wikiの引用なんてしないでくれる?

85 :うんの:2006/12/20(水) 10:22:15
>>617
馬氏は中国系ではないが不明 屋号の「アンダ」の意味は「友達」と聞いた
門中(ムンチュウ)制度は中国から伝わった制度ではない
門中は沖縄の士族などが有した中国風の姓の集団
どちらかいうと韓国の氏の制度に似ている

中国系の久米36世(蔡・鄭など)をはじめ
中国系以外の士族も漢姓を持っている
例えば馬以外には有名なのが尚であと向・毛など星の数ほどある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E4%B8%AD#.E4.B8.AD.E5.9B.BD.E3.81.AE.E9.96.80.E4.B8.AD

86 :うんの:2006/12/20(水) 10:23:37
85はミスです 申し訳ない


87 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:09:33
>>84
wikiを上回る識見を示せば済む話。
ある程度の知識とやらを見せてくれ。

88 :日本@名無史さん :2006/12/20(水) 12:18:01
相変わらず武田と織田の争いが醜いんだが。


89 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:27:07
謙信かて似たようなもんだ
管領職を継いだ時などは関東に大号令出して8万の軍で小田原城を囲んだもんだが
結局は越後一国だけで終わったじゃないか

90 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:31:17
そうだそうだ。武田は温泉に入っていろ、織田はお茶でも飲んでいろ!
光秀は思いました。

91 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:36:16
小田原・北条氏康「呼んだ?」

92 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:42:15
信玄も信濃征服戦の過程で砥石崩れで板垣、横田など当時の武田家首脳陣が
討ち死にしまくりな敗戦を経験している
ただ、勝頼の時との違いは周囲の環境

晴信砥石崩れ後→三国同盟により東南は磐石、敵は北信村上小笠原連合「のみ」
一度は負けても国力の差が武田>>>村上小笠原
勝頼長篠大敗後→甲相同盟により東南のみ安定、敵は織田、徳川、上杉
上杉とは冷戦状態だったとは言え、北信上野には兵を貼り付けておかないといけない
この差は大きい

93 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:55:11
信玄は上杉を頼れと言い残したそうだが、家名を残せという遺訓の象徴だろう。
勝頼は戦ばたらきの事ばかり考えて織田、徳川、上杉との和平をまったく考えてない。
信玄の死後、わずか一年で高天神を攻め押せばそりゃあ織田・徳川を刺激する。
設楽原以降の急速な弱体化ももとはといえば重臣たちの諫言を試みず
一人つっぱしって将兵を失い、この国主は駄目だと器量を見切られたんだろう。


94 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 12:55:14
>>92
織田が天下人として足場を固め終わったのも大きいと思うよ
長篠の敗戦時点ではまだ崩壊に至っていないからなあ

95 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:01:14
>>94
ですね。相手が悪すぎた気もします。
織田だけでもきついのに徳川までいますしね。
おまけに信玄時代の織田徳川をある程度抑えられる同盟国は軒並み滅んでるし。
この状況でよく7年ももったもんだと思います。

96 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:06:01
長篠の両軍戦死者数−織田600人・武田1000人。

97 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:07:43
>>96
織田は大将首はほとんど死んでない。
武田は文字通り瓦解した。

98 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:18:33
いや、そういう事ではないだろ^^

99 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:27:21
そういうことだよ

100 :日本@名無史さん :2006/12/20(水) 13:28:44
それで武田勝頼が死んだのと同じ年に織田信長も殺されているわけだが

101 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:36:08
マジレスすれば最後の大抵抗勢力である武田を潰したことで
織田の天下が磐石のモノとなりここで一気に信長が役職について天下人になる予定だった
それが九条前久が以前から準備していた信長太政大臣就任説
だが実際には太政大臣に就任する直前に本能寺の変
変を起こしたのは義昭はじめ幕府要職と親交の厚い光秀だったというお話

102 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:51:06
>68
>んで、いつ信繁が兵庫に行ったの?

家来が兵庫県の猪名川銀山に行ってるね 3000枚ほど掘り出したということだ
慶長大判は今では1枚1000万円くらいする 昔はどうかわからんが真田丸の
工事費用にでも当てたのだろう

103 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:13:13
>>89
そんなバカな。七尾城などを降して越後+越中+能登+加賀+東上野だ。
(いわゆる手取り川の戦い時に越前の一部にも侵攻している)

>>101
黒幕説はみんな根拠がない。
1の信長、既に織田家の当主で2の信忠がわずか護衛で京にいるという、
千載一遇の好機だったので3の光秀(畿内の軍権・民生を掌握)が天下を狙っただけ、
秀吉の大返しがなければ天下取りは成功していた確率が高い。

104 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:23:48
手取り川の戦い
手取り川の戦い
手取り川の戦い
手取り川の戦い
手取り川の戦い
手取り川の戦い
手取り川の戦い

馬鹿かおまえは 実在していない合戦など出してくる新潟人に哀れみすら覚えるw

105 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:31:49
>>104
だから、「いわゆる」という前置きをしてるだろ。
日本語をお勉強してね。
このとき謙信は七尾城や加賀の大聖寺城などを攻略し、能登、加賀を勢力圏
にしている。

106 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:40:12
いわゆるも糞も手取川の戦いなんて実在していない。
つまり織田の軍勢を排除できていないのに
周辺を実効支配できる道理がないと理解できないのか?

107 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:54:19
>>106
「天正八年閏3月9日、柴田勝家は加賀へ侵入して添川・手取川を越え
、宮の腰に陣を取って諸方へ放火した。」と信長公記の巻十三にあるように、
織田は能登・加賀は謙信が死んで2年たっても支配してなかったんだが。
もっとよく、勉強しましょう。

108 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:31:19
手取川合戦も無かったということ。
そもそも謙信の話題はすれ違いだから失せろ

109 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:32:42
いくら武田が弱体化したからって、甲斐・信濃の原住民とか、土着兵が必死の抵抗をしたら
織田が来ても、数年は持ちこたえただろう。
みんな勝頼を見捨てて逃げ出して、ろくに戦いもできずに武田家滅亡

110 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:40:00
>>109
だから、中央政府ができそうな雰囲気になってきて
それに抵抗しているのが自分のところの殿様だけっていう状態で
なんとか中央政府と仲良くしようぜと言っているのに徹底抗戦と言って聞かないお殿様
これじゃ分裂しても仕方なかろう


111 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:57:44
しかし勝頼馬路で無能だな。
大敗した時点で信長に恥も外聞もなく頭下げて甲斐は本領安堵してください
とお家存続はかればよかったんだよ。

112 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:59:07
だが、ことわる。

降伏した武田逍遥軒みたいに斬首になるんじゃねえの?


113 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:00:05
>>108
89が間違いなので正しただけ。
手取川の合戦があったかどうかは不明だが、七尾城を救援するハズの織田軍が
なぜか越前に退却し、能登・加賀が謙信の支配下に入った。(信長公記)
「謙信の能登・加賀攻略戦」と書いても解りにくいので、一般的な手取川の戦いと
「いわゆる」を付けて書いてるんだよ。文意をよく汲み取りましょう。

114 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:04:20
>>111
長篠では大敗かもしれんが、本願寺はまだ持ちこたえていて、
謙信のはむしろ織田側を押しまくっている状況ではまだ頭を下げるのは
早すぎる。

115 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:12:21
逆に考えれば和議を結ぶにはその時点でしかないんじゃね?
圧倒的に織田家優位になってから和議を結ぶ必要は信長には無いんだし
そこらを見極めるのが国主の役目じゃ

116 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:14:09
まあ無能でないことは確か

117 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:17:11
手取川で織田(柴田勝家)は上杉謙信に大敗してる
秀吉が合戦に反対して戦線離脱したのは有名だが、いずれにせよ負けた
ここの厨は歴史事実まで否定するのかよ

118 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:20:54
>>113
穴山は一族筆頭だったにもかかわらず、温存どころか家康の客将として
伊賀越えもしている落命したけど結構な待遇じゃね。

勝頼も苦しい時期に信長に和議を申し立てていたら、本領安堵ぐらい勝ち取れたと思う。
ま、秀吉の毛利処分のように大幅削減は免れないだろうが、和議していれば本能寺は
予見できないにせよ、信長が無くなった後に旧領韃靼のチャンスもあった。
それもこれも生きていればこそ恥をすすぐ機会もあるわけで
死んでは何もならない。

119 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:28:53
和議した場合の処分だが、信勝に誰かを娶わせて男子がうまれたら家名を継ぐと言う事にしても良いし、
奉納時変後、滝j川も治められなかった事を考慮すると家督を武田信勝にゆずり、滝川が名代として
補佐するという形でも信長にとっては悪くないはず。
予見できないとはいえ、信長は天目山後、わずか数ヶ月で運命が暗転するんだから
なんとしてもそこまでいきのびるべきであったとは思うな。

120 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:49:07
信長は本願寺が和議に応じる前なら勝頼から和議だされていたら承諾した可能性が強いんじゃないかな
織田家は実際に徳川や本願寺との和議が成立すると信長の死まで破られていない、このあたり信長は信用できる。
で、本願寺と結ぶと武田と和議を結ぶ必要が無い。 甲斐支配も武田の一族であり、勝頼のいとこでもある穴山が
甲斐・信濃侵攻の過程で寝返っているから武田逍遥軒も勝頼も必要ないと信長が判断した。
仮に穴山より先に勝頼が本願寺より先に恭順の姿勢示したり、武田逍遥軒が寝返っていたら穴山も本領安堵の上、
家康に重用されたかどうか怪しいと思われ。



121 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:03:29
信長が和議を受け入れるかどうかだな。
ちなみに信長は和議とか約束ごとはかなり破っている。
加賀の件とか、長島の件とか、朝倉攻めの件とか。
家康に信康の処分を命じたりな。
領地も甲斐一国ぐらいになるだろうな。

122 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:05:35
甲斐一国でもいいじゃん。 生きてさえ言えば本能寺で大逆転。
史実では家康が甲斐信濃を併呑したが、勝頼が生きていればやっぱり勝頼につく。

123 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 18:26:20
肝心なことを忘れているけど
たとえ勝頼が和議を申し出たいといってもそれを豪族達に納得させなきゃならんのだよ
その時点で内乱が起こって周辺国がそれに介入される危険性もあるからな

124 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:01:48
でも挽回できないんじゃね。
次から次へと内通者が出るって事は言い換えてみると、
勝頼体制では自分自身の未来まで危ないと見限っている
訳だ。高坂や馬場も亡くなってしまったし、意外と納得しそうな
気もする。

125 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:22:22
ただ、勝頼は単なる信勝の後見人に過ぎぬ。あまり発言力ない

126 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:42:54
>>70
#重臣たちの進言をはねのけて
って、信憑性低いんじゃなかったっけ?

127 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:06:59
もし、信虎が追放されなかったらどうなっていたろう。
信玄より一年長生きしているんだが、信繁&信虎政権なら織田氏にどう対抗したのかな。
すくなくとも、三国同盟の破棄はなく、天下取りに信玄よりはやくうごけたとおもうんだけどどうよ。

128 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:18:57
んで、どの道から京を目指すんだ?

129 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:31:22
美濃からいくんじゃね

130 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 04:10:53
無能じゃないよな。個別の戦の勇猛さはなかなかのモン。でもさ、内政しっ
かりやってない時点でもう終わっとるよ。それと家臣掌握術。民と家臣から
浮いちゃったら、国主としてやってかれないわ。

131 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 07:59:47
勝頼は戦には弱くなかったが、家臣の信頼がなく、状況判断が甘かった。
織田が強大になった時点で、和議するか、他の大名と同盟するかするべきだった。
少なくとも、北条と同盟続けていたら、織田だって簡単には攻め込まなかっただろう。

まるで、今の日本が、アメリカとの同盟を破棄して、中国に攻め込まれて滅亡するようなものだ

132 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:58:40
>>127
少なくとも三国同盟の破棄はあったと思うよ。
氏真君じゃ、どうしようもないよ。
滅ぼしてくれと言ってるようなもんだし。

133 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:10:04
勝頼の立場は継いだ時点でかなりつんでる
1.親父の人生全てを賭けた西上途上での頓死
これは、結果として武田家の軍資金兵糧備蓄物資をかなりの規模で消費してしまい、更に
精神的にも武田家将士に疲労感を残しただけとなった
2.周囲の状況
西南は織田徳川、北は上杉 唯一東南の北条とのみ同盟
つまり海津・上野・東美濃・東遠江が敵国との最前線で四正面もあり、機動防御可能なのは
海津〜上野方面のみで、あとは兵の貼り付けしかない
3.跡目としての軽さ
もともと諏訪四郎勝頼という名が表す通り、諏訪家の跡目として扱われ、そのため武田家累代の
「信」の一時をもらえていない
親父も親父で「死後は3年伏せろ」と言って逝く
つまり、3年は合議制で行けと言ってるようなもので、もともと国人衆の集合体のような武田家の
混乱に輪をかけてしまった(重臣衆による合議を予想していたとは思うが台頭してきたのは信玄
在世時には比較的影の薄かった御親類衆)
「俺のあとは信勝。おまえはそれまでの代理ね」と言って逝った親父のおかげでどうにもこうにも軽い
跡継ぎですらないその存在感
4.武田家を武田家たらしめた資金源の枯渇
甲州内にあった有力金山の多くが採掘量減少
つまり、甲信というもともと富裕とは言えない土地を基盤としていた武田家の活動資金が目減りしていた

本人の器量は多少武に偏っていたと思われるが、こんな状況なら信玄が信玄の後を継いでもきついべ

134 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:33:09
>>84
だな
wikiなんで誰でも編集出来るし

135 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:40:34
>>133
結局のところ、外交戦術がよろしくなかったわけだ
信玄と勝頼を比べてもっとも違うところがそこら辺の機微だな
信玄存命ならば同じ状況に陥っても織田家が優勢となった時点てとっとと和議してると思うぞ

家中の位置という意味では信玄とて磐石じゃなかったし
所詮反オヤジ派である飯富、甘利、板垣らに担がれただけの話であのとき反体制派を追い出したわけだ
勝頼にだって子飼いがいて反体制勢力を追い出すきっかけがなかっただけだ

136 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:56:10
>>135
いや〜そこが問題だなと
信玄存命なら信玄が和議するべと決めれば、もともと信玄の代で武田家を甲斐1国から
甲信駿上までの大大名に飛躍させ、織田徳川との敵対を決めたのだから家中も従いやすい
だけど、勝頼の立場は親父の悲願であった西上途上での頓死を受けて だから
和議するべってのはかな〜り言い出しにくいと思う
これがまだ信玄が西上軍をおこさないまま躑躅ケ崎で静かに老衰死したとかなら話は別ですが・・

あと反信虎派=当時の武田有力家臣衆ほぼ全てじゃないですか
勝頼とは立場が違いすぎません?

137 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 11:19:20
信虎派がいなかったわけじゃないだろ
甲斐の内乱を収めた後に急激に権力を握ろうとした信虎を疎ましく思っている豪族は多かったろうが
信虎に引き立てられた人達だって当然いたわけで
もし晴信があそこでそそのかされていなかったらどうなったかわかりませんよ
逆にその危機感から豪族連中は晴信をそそのかして弟に当主を奪われるだのなんだの吹き込んで
取り込んだわけですが

138 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 11:47:22
>>134
>>87

139 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 12:22:25
>>138
意味不明

140 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 12:29:20
>>82で指摘された勝頼の不明を否定できないからwikiを引用するなと
言い出しだ武田厨wiki否定に過ぎないし。

141 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 22:19:52
日本語でおk

142 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 05:20:45
せめて、信玄の弟の信繁が川中島で戦死してなかったら、武田も滅亡してなかったかな?



143 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 08:40:57
信玄死亡→信繁継承(次期当主は信勝という約束)
なら、武田家は安泰だったかもしれん

信廉という弟もいたが、こっちは駄目
武田家滅亡の際、逃亡した臆病者。
結局織田に見つかって殺されてる

144 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 09:19:04
信繁が生きていてもいなくても
織田包囲網に参加したままだったら結果は一緒だろ
信玄が死ぬ前に上杉を頼れとか言う前に対織田戦線の収拾させろと
遺言してればよかったのにな

145 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:31:48
武田家と豊臣政権って似てるな
信玄、秀吉という1人のカリスマだけで成り立っていたという点
支配力というより強力な人望、カリスマ


家康は先人の失敗を見て、いちはやく隠居し、名目上ながら秀忠をトップとして据え、存命中に諸侯の目に慣れさせた

146 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:46:17
家康はね幕府っていう箱といろいろな決まりを決めたのさ
これが実は重要で組織の元になる

武田家は前述されてるけど武田家の権力集中政策を取る信虎に反抗して
有力豪族が信玄を担ぎ上げて反対派を粛清してるから信玄個人というより
そういうやんわりとした体制としては成り立っていたんだけど
そこには武田家という箱はあっても明文化されたルールがなかったんだよね
秀吉の場合はもうちょっと事情が違って朝廷という箱と関白世襲というルールを
作ったのはよかったんだけど自分で秀次ぶっ殺してルールが実用的でなくなっちゃったんだよね
まあどうでもいい話か

147 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 13:40:44
結局、信玄の後継ぎとして最も相応しかったまたは器に見合ってたのは、弟・信繁、長男・太郎義信、勝頼の中で誰だろう?

148 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 13:44:30
あの頃の武田家って家督相続の度に内乱なんだよ
唯一相続の際に内乱が起こらなかったのは実は信玄→勝頼(まあ本当は信勝か)だけなんだよね
勝頼ってのはかなり認められた存在だったと思うよ
この時点で信繁が生きてたら多分内乱かなw

149 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 14:18:41
義信が生き残って、信玄死後に武田家を継承していたなら、
家臣の団結も、信玄時代と変わらなかったと思われる。
勝頼は譜代や親戚衆からすれば、余所者。とても主君と仰ぐことはできなかった。
あと義信には娘がいた筈だが、もし息子がいたら、嫡孫として家督相続したほうが、
勝頼が相続したよりも、良かっただろう

150 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 14:20:44
そうしてみると、信繁が生きてた所で武田滅亡という歴史は避けられそうにないな。考えたら勝頼も運が無かった。時代が悪すぎた。信長に敵対して生き残れた戦国大名なんか僅かだもんな。
信長があと十年生きてたら毛利輝元や上杉景勝、長宗下部なんかも滅ぼされてたような気がするよ。



151 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 14:54:59
義信がなんで跡を継げる時期にいなかったかわかるかね?
政策で対立したんだよ
しかも豪族を巻き込んでの壮大な対立になりそうだったんだよね


152 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 15:29:50
信玄死後の武田と、秀吉死後の豊臣は多少似てる気がする。
信玄も秀吉も実子より実弟の方が優秀であった可能性が高い(勝頼が信繁より劣っていたとも言えないが)。
しかも、実弟とはいえ腹違い。

優秀な弟が自分より早死にしてるのは、信玄も秀吉も死後の家の存続を考えた場合不運だったな。
豊臣も、秀吉の後継ぎが秀頼みたいなクソガキじゃなく秀長(秀長が長生きした場合ね。)だったら滅亡はしなかったかもしれないしね。
歴史にif もしも〜は無いが、そういうのを想像するのは俺は好きだな。



153 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 15:56:33
>>152
>歴史にif もしも〜は無いが、そういうのを想像するのは俺は好きだな。

はいはい。想像してる自分が好きなんだろ?

154 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 17:13:23
恋に恋した女の子みたいな表現だな

155 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 17:21:46
信繁は同腹じゃなかったっけ?

156 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:04:15
>>155
そんくらいググれカス

157 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:10:55
信玄の後継者の勝頼は、謙信の後継者の景勝よりは優れた武将だったようだな。力量は信長の長男だった信忠くらいか?



158 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:18:12
パパっ子・信忠よりは上だろうさ

159 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:25:25
>>155
晴信とは同母兄弟です

160 :152:2006/12/22(金) 18:43:39
>>159  母ちゃん一緒だったのか。 失礼した。

161 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:22:09
定恵院
太郎
次郎
孫六

こいつらは同腹

162 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:21:48
>>157
何を根拠に?w 信忠はともかく、国主を継承し片方は滅び、片方は
生き残ってるわけだから、文句なく景勝が上。

163 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:40:41
>>162
ネタか?
バ景勝が凄いと本気で思っとるんか?

164 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:13:50
>>163
景勝も相当なもんだと思うけどな。
君よりは劣るのかもしれないが。

なーんてことはどうでも良くて、
秀長も同腹じゃなかったっけ?
じゃないと、年齢がおかしな事になったはず。

まぁ、同腹であろうがなかろうが
兄を支えつづけた信繁・秀長って異色だよなぁ。


165 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:26:01
景勝マンセー論者は大概、前田慶次の漫画や一夢庵風流記に影響うけたヤシ

166 :164:2006/12/23(土) 00:00:45
前田慶次の漫画も、一夢庵風流記も見てない。
はい妄想乙。

167 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:05:13
バ景勝マンセーは無知すぎっす

168 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:56:45
パンチ効いてるの湧いてるなw 勝頼も迷惑がってるぞ、信者どもw 

169 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:57:38
まず改行を覚えてね

170 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:08:10
景勝って家康が目の前で軍を取って返しているのに、追撃しなかったヘタレでしょw

171 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:21:44
>>170
そーそー
その馬鹿

172 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 05:25:48
直江が追撃を強く進言したにも関わらず
領土保全の為に、それを蹴ったっけ
所詮その程度のアホなんだよ

173 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 05:27:39
直江が投手だったらいいなーーw

174 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 05:31:19
伊達と一月にらみ合った挙句の果てに米沢30万石に減らされた訳で、
謙信も信玄もろくな後継者に恵まれてないな。

175 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 16:47:33
景勝は何気にすごいのでは
徳川、伊達を相手という誌面楚歌の状態で存続したんだし、豊臣への義も示した
伊達政宗よりも上と思うがな
北条氏政も無能とは思わない

176 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:14:36
まぁ四面楚歌の状態になっちゃう時点でアレなんだがな
最後まで義を貫けず30万石で手を打っちゃうのもアレだし

177 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:31:07
>>176 しかも、織田の北陸攻めでは、かなり押さえ込まれてたらしいしな。謙信は柴田勝家率いる織田家北陸征討軍を返り討ちにしたが、景勝は……。
本能寺の変が起きなきゃ、上杉家も武田家のように滅ぼされてた可能性は高いと思う。
秀吉に押されてた毛利もだが。



178 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:21:11
>>177新発田重家の反乱が6年も続いたんだよね。
柴田勝家と挟撃されたら、ひとたまりもなかったな。

179 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:30:05
>>175
戦を仕掛けた張本人のくせに
家康に土下座してまで、生きながらえて
こんなのを見てたら反吐が出るわ

180 :OPS:2006/12/23(土) 22:30:31
直江山城がいなかったら上杉家は取り潰される予定だったらしい。

181 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:23:40
直江状って本当にあったの?イチャモン?

182 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:54:23
>>175
関が原の後も戦いつづけてるしね。
ここで文句言ってるやつらよりは
確実に数段上だろうね。


183 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:05:04
>>178
勝頼の場合と違うのは裏切りは新発田くらいのもので、
甲州崩れのように裏切りがドミノ倒しのように連鎖することはなかった。
例えば、新発田の裏切り後、柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政ら
3万の兵に攻められた魚津城(守備兵3千8百)は3ヶ月間持ちこたえ玉砕
柴田軍団の進撃の足止めをしている。



184 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:53:52
裏切りの連鎖は堪えるね。ほんと。

185 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 01:18:01
見殺しにされた高天神城が原因でございます

186 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 02:13:58
>>179
正確にいうと仕掛けたのは家康。
最初は前田が謀反ということで戦を起こそうとしたが前田がヘタレで戦にならず、
今度は上杉謀反ということで仕掛けたが、前田の場合と違い上杉は売られたケンカを買った。

187 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 04:09:19
勝ちゃん男前。

188 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:04:57
景勝も勝頼も実子でないのに親の血を引いて戦上手だったのは、環境の力だろうな
これは現代社会にもいえるが

189 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:06:20
親というより武田、上杉の血を引いてか

190 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:32:53
北条室泣ける。あんな連れ添ってくれる奥さんほすぃ。

191 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:59:23
職務放棄して自国に篭って軍備増強こいてる奴なんか討伐されて当然じゃん

192 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:09:22
きめぇ

193 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:03:28
ところで景勝は本来の後継者でなかったとされるから
ある意味簒奪者になるんだろうか?

強引にすすめて家督を襲うのもある意味長尾上杉家らしいんだけど…

194 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:47:09
上杉景勝には直江景綱という股肱の家臣がいた
義信には飯富という重臣がつけられたが、勝頼は余所者だから守り役はいなかった?
最後に残ったのは、穴山とか小山田とかの裏切り者だけ

195 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 16:08:33
当然勝頼にだって守役はおりますが

196 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 16:30:24
>>188
勝頼は信玄の実子ではないという新説がでたのかーw

>>194
側室とはいえ名流諏訪家の母をもつ信玄の子に
守役のいないはずが無いだろ。
というより、大名家の子息なら乳母に守役・お側衆がいて当然なんだが。
それに、穴山や小山田を単純に裏切り者と書く知識にも笑える。


197 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 16:36:00
穴山や小山田、秋山と比べると
今川の朝比奈泰朝の天晴れぶりは光るな

198 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 16:54:02
勝頼についてた守役は、只の小物なんだろ
当然、家臣への影響力はゼロ

199 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:25:31
ただどうだろう? 勝頼の性格からして、気に入らない意見いうジジイを
遠ざけ、好みの意見具申する奴を近くに置いた結果小物しか残らんという
傾向はあると思う。それも勝頼の資質になるわけだが。

200 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:45:27
跡部とか長坂が小物かと。。。

201 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:31:47
>>197
秋山と一言で言うが、勝頼の幼少期から仕えて
天目山に殉じた秋山紀伊守一族もいるのだがな。
小山田信繁の従兄弟や甥と伝わる小山田の一党で
天目山で殉じている者もいる。

武田の場合、同じ名字でも色んな系統がいることを知ろうね。

202 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 19:34:38
訂正
×小山田信繁
  ↓
○小山田信茂

203 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:01:03
>>197
もしかしたらw
大河板に朝比奈で大河やれって書いてた?

204 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:53:36
朝比奈で大河は無理だろw

205 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 14:02:58
後で裏切るか最初に裏切るかでは天と地ほどの差だな。
木曾や穴山は安泰なのに、小山田信茂や武田信廉は主君を裏切ったという理由で処刑。

206 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 14:18:43
裏切りのタイミングもそうだが
世の中の情勢も重要だぞ
他の勢力が強くて取り急ぎ安定させたい場合だと助かるが
他の勢力を潰した後だと徹底的に処断される

207 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:58:54
信長がいなかったら、勝頼も長生きしただろうに
信長なんて、今川に潰されて消えるべきだった

208 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:07:27
穴山も木曽も、裏切り者は結局不幸な結末を迎えて
滅亡している
勝頼の祟りだ

209 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:45:30
w祟るくらいの力があったら、滅亡してないだろうよ。

だいたい祟りなんていってたら
戦国乱世の盛者必衰は、みんな祟り祟られで解明できるよな。

210 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 12:04:24
信玄が対織田で友好関係を結び続けていればよかったのだよ
中央のくだらない政争に巻き込まれおって

211 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:09:43
かみさん姉妹の嫁ぎ先が嫁ぎ先だから仕方ないべ。

212 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:12:38
それを言ったら織田とて娘の嫁ぎ先予定地だったろうに

213 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:50:04
すでに嫁に出ているのとまだ出ていないのとではかなりの開きがある。

214 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:58:14
祟りっちゃあ、やっぱタケミナカタの子孫が諏訪を出るのは冒険だったんだよ。

215 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:37:29
信玄の娘を嫁にしておきながら裏切った木曽と穴山は
地獄に落ちただろう

216 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:54:17
木曽の親父は武田に殺されてるのだが

217 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 07:55:14
穴夜間うめゆきwは、勝頼より自分のほうが、武田家の継承者にふさわしいと
たわけ事を言っていたらしい

うまくいったと喜んでたら、本能寺の変後の逃亡に失敗して自滅
日本有数の大馬鹿者だ

218 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 08:03:00
その発言は創作だろ、流石に。
信玄の血を引いていない穴山が武田家当主になれる道理はない。

219 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 13:20:58
梅雪の母親は、信玄の姉妹らしい
そして穴山家も、武田からの分家

220 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:28:20
>>215穴山・小山田・木曾は、半独立の豪族だからな。織田と従属的同盟を結んでる徳川みたいなもんだ。武田宗家と倶に滅亡し、また領民が虐殺されるいわれはない。
>>217武田直臣の約半数は、武田宗家と同じ甲斐源氏。武田を名乗る一門衆や板垣・馬場・甘利・穴山・逸見・山縣等の重臣、果ては武川衆(柳澤 他)等の小身まで数えたら限がない。
穴山信君(梅雪)は武田庶流のなかでも一番の大身。信玄の義弟でもあり、一門衆筆頭。初め諏訪家を嗣ぎ、又いままさに武田家を自壊させた勝頼(諱に武田一門の<信>がなく、諏訪神家党の<頼>がある)よりも、自分こそが統領にふさわしいと考えてもおかしくはない。

221 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:34:15
>>220
>信玄の義弟でもあり
義弟というのは、妹の夫のことだろ?

穴山梅雪の妻は信玄の娘だから、信玄の甥でもあり、義理の息子でもあるが
義弟ではないと思う

222 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 18:25:58
>>221間違い指摘dクスm(_ _)m
なんか、実際に梅雪の子が@武田の家名を継いだA武田の家督を嗣いだ って説があるけど、両方とも本当なのかな?
もし正しいなら、穴山家誅滅は甲斐支配を狙った家康の仕業だね。

223 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 01:13:58
武田本家を相続する予定だった穴矢間ウメユキwの息子は、歴史から消滅した
おそらく、家康に暗殺されたのだろう

224 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 01:26:15
穴山梅雪暗殺は、下山領及び江尻を欲しかった家康の仕業だろう。ゆくゆくは甲斐国全部を狙っていただろうし。
そればかりか河尻秀隆暗殺も、家康が武田旧臣を扇動したからに違いない。河尻(川尻)家が西軍につくのも当然。


信長も、武田旧臣に対しては寛容に処置し、甲斐を穴山・小山田両家に任せればよかったのにな。

225 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 02:34:37
梅雪の暗殺なんて話は架空戦記のたぐいで、
実際には梅雪は家康がとったルートを一日おくれでとっていて
宇治で土民一揆に殺されたわけだが、
家康を妙にかんぐってしまわずに一緒に帰れば普通に帰れたろうし、
かえって家康を暗殺するチャンスもあったかもしれない。



226 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 04:34:17
>>224
生きるか死ぬかの伊賀越えを敢行している最中にそんな策謀巡らす余裕なんかあるもんかい
実際は持病の痔が悪化して騎乗での移動ができず家康一行から取り残されたってだけの話だ

227 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 09:28:00
梅雪暗殺は家康の仕業でないにしても
梅雪息子の暗殺は、家康がやったに違いない

228 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:23:28
禿同
明智と共謀し、信長を暗殺した黒幕も家康
穴山を証拠隠滅で暗殺したと考えれば辻褄が合うな

229 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:43:46
>>226『神君伊賀越え』なんて徳川幕府による作り話だろ。

230 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:26:46
鉄砲がなけりゃ勝頼が最強になれたんだろうか?

231 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:36:53
>>230
無理。
長篠では鉄砲以前に、既に兵力が違いすぎる。

232 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:57:05
兵力の差は絶対ではない。日本軍がそれを証明している。
この意見に反対する奴は全て三国人認定するから反論しないように。

233 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:35:27
>232
反論ではなくて質問。

先の大戦では兵力に劣る日本軍がそのままボロ負けする結果となったわけなのに
いったい何を証明してるの?

234 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:42:34
やっぱ長篠での直接の敗因は、兵力と鉄砲?

235 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:45:55
情報が入手にしくい時代こそ寡兵でも勝つことが出来たが、
近代からの情報戦では基本的に物量で決まってしまう

236 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 17:28:21
>>233
232ではないが、さすがにそういう質問を投げかける君の歴史知識自体が幼稚すぎるぞ
太平洋戦争とは島嶼戦と海戦の繰り返し
海域を制した方が勝った

兵力の差が絶対ではないというのは近代に入ってからなら日露時の大陸での陣地戦や
独仏戦争やWW2のバルバロッサ作戦1年目、クルスク戦車戦などのことだろうな

237 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 19:07:30
長篠の合戦で武田が惨敗したのは
戦力の差と、前後から挟撃されたからだ。
織田が襲来する情報があった時点で陣形を立て直すか、撤退するべきだった。
それができない勝頼は阿呆

238 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 19:10:13
まぁ、親の七光りってところか?
調子に乗っていたんじゃないのか?

239 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 19:12:26
長篠で大敗し、高天神城を見殺しにしたので、
勝頼の信用度は地に落ちた。

240 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:35:19
高天神城の見殺しは信長の謀略だよ、あれによって完全に信用が低下した。
長篠後にすぐに攻めなかったのは、自滅するまで辛抱強く待ってたから、
孫子の戦わずして勝つ作戦

調子に乗っていたというより第二次大戦の日本軍や三国志の蜀と一緒で、国力に
差がある以上常に勝ち続けるしかないので、決戦を急ぎ無理をしたから。


241 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:48:58
なんかレベルが落ちた。

242 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:59:42
>>234
いや、やはり陣城だろうね。
連子川を堀としてその背後に三重の馬防柵と空堀、これは設楽原に城を一つ作ったのとほぼ同義。
城攻めには敵の10倍の兵力が必要というのは兵法の基本中の基本、にも関わらず1万5千の兵力で3万5千(うち千が鉄砲部隊)が籠る陣城を攻めたのは勝頼の慢心としか言いようがない。

243 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 22:48:46
やっと信長自らやってきたんだから、決戦を急ぐでしょう普通。
いちいち甲斐から来るだけで負担がかかるし、兵農分離してないから
時期が限られるし、連戦連勝で勢いに乗ってることだし信長なんて大した事ないと
思ったんじゃない。

244 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 23:04:40
>>243
>やっと信長自らやってきたんだから、決戦を急ぐでしょう普通
‥普通のやり方で勝てる信長なら天下統一の一歩前まで行かんでしょうに
>いちいち甲斐から来るだけで負担がかかるし、兵農分離してないから時期が限られるし
‥だからといって無謀な戦を仕掛ける理由にはならない
彼我の情勢を良く見極め、不利と悟ったなら敢えて干戈を交えず撤退する事も時には必要
その見極めが出来るか否かがそのまま信玄と勝頼の決定的な差と言える
>連戦連勝で勢いに乗ってることだし信長なんて大した事ないと思ったんじゃない
‥それこそ慢心以外の何物でもない
一軍の将としてもっとも忌避すべき事
この一事をもって彼が『強すぎたる大将』と呼ばれる所以となる

245 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 23:55:49
>敢えて干戈を交えず撤退する事も時には必要
それを信長がしていたから武田軍が疲弊したんだよ。
>やっと信長自らやってきたんだから
それこそが信長の心理戦。
武人としては勝頼は強いが将としての経験は薄い、そこをみごとに利用されたということ。



246 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:10:47
>>245
誰のレスに対する回答なのかワカンネ
取り敢えず、sageくらいちゃんとしようぜ?

247 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:25:33
>>238
親が偉大なとこはデカいが、ライバル心だと思う。勝気な性格が裏目だと
思う。内政おろそかにして外征ばっかしとる。なまじっか無能で阿呆じゃ
ないとこがまずかった。老臣を見返してやろうという気持ちも強かったろう。

248 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:29:55
仁科盛信と一緒に高遠城で討ち死にしてたら神だったと思う片倉住人

249 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:34:36
>>247
まぁ、無理もない事かもしれん。
いくら信玄の実子とはいっても、所詮本来であれば諏訪氏総領となるべき立場。つまり他の重臣と同じような位置付けでしかなかった。それがいきなり武田源氏150万石の頂点に収まったワケだから、他の一門衆や重臣衆に対し色々とコンプレックスを持っても致し方無い事であって…

250 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:41:16
>>248
再起を計るべく落ちゆく勝頼に時間を稼がせる為の盛信の奮戦であったのに、その勝頼自身が高遠くんだりで織田の小倅ごときに首を渡してしまったとすれば、神どころかそれこそ救いようの無い大たわけ者としか言い様が無いのでは?
名門甲斐源氏の血脈を守るべき立場の者が率先して死地に飛び込んでどうすんだw

251 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:49:08
家臣団からも重く扱われずに助けてくれたかもしれない真田にも頼らずに
最期は小山田に裏切られて右往左往して死ぬよりは、
兄弟守ろうとして供に死ぬなんて未だ華があるじゃないか。

252 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:49:49
>>249
うん、そういう姿勢になったのはしゃーないとして、やっぱ国主として
の能力がちと欠けてた。やり方がマズイ。父の信玄は内政もかなり念入りに
やってたもんな。秀吉も元同僚みたいな奴の上に立たなきゃならないことに
なるけど、自分のやり方で従わざるを得なくしていったわけで。

253 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:59:21
ヘタレな2代目ってことで勝頼の武将としての器量は
同じように先代が偉大過ぎた輝元、秀忠、秀頼と同格



254 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:05:25
輝元は親戚が優秀なのと、中央から離れてたのでラッキーだったねw

255 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:44:06
勝頼は個々の戦には勝つことがあっても大局観が欠けていた。
そもそも戦国時代に成り上がった武将は、外交や間諜を使っての工作が上手かった。
戦の前に最大限の謀略をめぐらして、寝返りとか離反とか誘ってから戦を仕掛けるのが普通だ。
それにひきかえ、勝頼は、目をつぶって正面からぶつかっていくような戦ばかり。

256 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:46:46
>>251
兄弟以前に宗家を守る家臣だろ
なんの為に盛信が命張って織田の大軍を食い止めたのか、その理由をよく考えてみろ
そもそも一国の太守ともあろう立場の者が戦場の華と散る道を安易に選んでいてはお家が立ち行かんだろう
小山田の謀反にしたって結果論でしかない。外様の真田よりは同族の小山田をと考えるのは当然だし、要害である岩殿山に拠って再挙の機会を伺おうと考えるのもまた国主としては当然行き着く考えだろうに

257 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:55:55
小山田は旧臣ではあっても、武田の同族ではない筈だが。
どこかに小山田が武田一族だという新説が生まれた?

258 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:55:58
>>252
そこが勝頼が父信玄にも、信長にも、また秀吉や家康といった英傑に一歩及ばない所以かもしれん…
尤も秀吉にしても信長死後の織田家臣団を『そっくりそのまま自分の家臣団として継承』していたら相当苦労しただろうけどね
織田家臣団がそれぞれ独立大名の体をもって分裂してくれたからこそ、秀吉はあそこまで迅速に信長後の中原を制覇する事ができたんだと思う

259 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:57:23
んなことしても戦が長引くだけだからとっとと滅んで正解

260 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:01:05
>>257
小山田信有の妻は信虎の妹

261 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:02:23
>>259
戦国のいくさとベトナム戦争の区別もつかんのかw

262 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:31:08
安堵状発行してもらえるなら武田にこだわる必要ないしなぁ
親分が守ってくれないなら鞍替えも悪いこっちゃねぇし

263 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 06:10:51
>>260
妻が武田出身だったら同族??
そんなこと言ったら、今川とか北条も武田の同族になってしまうぞ

264 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 07:11:32
今川と武田は先祖が兄弟なんだから同族だろ。

265 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 08:10:05
勝頼は引こうとしてなかったっけ?

266 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 09:48:20
北条は、清和源氏でもないし、武田の同族ではない

267 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 09:49:59
偽源氏の得川(新田支流と自称)だって、武田の同族になってしまう
きりがない

268 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 11:22:04
北条も平で皇室から別れたわけだから同族だよw
って言ったら日本人はみな同族になってしまうかも

269 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 11:26:21
北条は武田と違って義理堅いよな
義元亡き後の今川家の対処とか見れば一目瞭然

裏切りで領地拡大して裏切りで滅亡と

270 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:37:04
>>268
このスレの流れからいくと、後北条氏だろ。違うだろw

271 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:37:29
人類みな兄弟

272 ::日本@名無史さん :2006/12/30(土) 14:43:35
武田活よりは諏訪の能無しwww後継ぎに失敗して武田軍内部分裂崩壊w

273 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:37:51
>>263
いや、小山田は元々平氏だし。
でも母親(祖母との説もあり)が信玄の伯母である以上、同族であると言っても過言はないんじゃ?
同族という言葉に語弊があるなら、親族と言い換えても良いが。
なんにせよ、信茂が武田源氏の血をひく人物であるのは事実。

274 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:48:23
>>272
後継が上手くいかなかったのは信玄の責任だろw
片田舎の弱小土豪じゃねんだぞ、7ヶ国150万石にまで広がった一大王国の継承だ。前の殿様が死んだからってハイじゃあ次と簡単にいくようなもんじゃない。
しかも継ぐ勝頼自身は元来家来筋の人間。実子の中で最長子だったからたまたま陣代になれたけど、本来なら武田の屋形に収まるような立場じゃなかった。
そういう人間を後継に立てるなら、それ相応の手続きを取って権力の継承が滞りなくいくような手回しをぬかり無くしなければならない。が、信玄がそういった手順を履んだ形跡は殆ど無い。
いわば勝頼は、なんの下準備も無いまま身の程に合わない『武田王国の長』に据えられてしまった、とも言える。
憐れとしか言い様がない。

275 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:35:36
年齢的に無理あるかもしれないけど、
信玄が生きてたら、長篠は三方ヶ原みたいになったと思う?

276 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:50:10
>>275
信玄ならそもそも撤退してる。

戦う前に既に決着がついているように深慮遠謀を巡らすのが信玄の戦の真骨頂。海のものとも山のものとも知れない状態の敵陣に無謀な攻撃を仕掛けさせるような信玄なら、第四次川中島で既に謙信に討ち取られていたことだろう。

277 :275:2006/12/30(土) 18:17:11
確かにそうだな。うん。
分かりやすい回答ありがとう。

278 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 19:21:25
信玄の遺言では、信玄の後継者は勝頼ではなく、
勝頼の息子の信勝
勝頼は信勝が18才になるまでの後見人

そして信勝が18才になった時、信長が攻め込んできて
武田家滅亡

つまり勝頼は、職権濫用して会社を潰してしまった会社の相談役のようなものだ

279 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 21:00:23
×武田勝頼
○武田負頼

改名しました

280 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:19:44
>>278
>勝頼は後見人
ソースはなんだ?甲陽軍鑑か?
あれの勝頼に関する記述は殆ど私怨だからアテにならんぞ。
不安定ながらも勝頼は武田の屋形であった。これは厳然たる事実だ。

281 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:55:04
ああ義信さえ生き延びていれば・・・・
すべては信玄が悪い

282 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 22:58:05
>>279
勝ち戦の方が多い。

283 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:17:45
勝ち負けの数ではない
家を滅亡させてしまったのだから、他にいくら勝っていても駄目だ
武田負頼はミジメ

284 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:25:38
いくら信玄でも織田の鉄砲隊の前には為す術もないだろ
武田は資金源も枯渇してたしあの時の信長は誰も止められんよ
信長に従わなかったら確実に滅ぼされてた
三方ヶ原時の時の織田ならともかく長篠の時なら信玄でも無理





285 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:55:06
従うまでいかんでも、同盟でもいいわけさ。位置的には毛利や長曽我部より
キツくない。信長は用心深い男だから、諜報者を使って、勝頼の資質や
民心の離反なんかを探って勝てる可能性高いと見て長篠に出ている。
長篠までの期間、信玄が政治的権謀を駆使してれば分からない。信長は
勝てなければ出ないから、長篠の戦いはない。仮定だから断言はできんよ。

286 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 02:22:23
結局プロセスなんだよな。信長の信玄在世時の平身低頭で分かるとおり、
一流の将は、有利なほうに有利なほうに下ごしらえして、極力負ける戦
は避ける。勝てそうな戦をやる。信長も信玄も同じ。

287 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 09:20:21
そう戦国時代って、単に戦の時に兵何千で勝った負けたって言ってるけど
実はその前に、記録に残っていない水面下で
諜報戦や政治駆け引き等、かなりの戦いがなされていたんじゃないか
って気がする。
忍者の活動なんて記録に残ってないのでよくわからんが、
記録に残る部分だけみても結局の所、よくわからない。

288 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 09:35:14
信玄の上洛にしたところで、
自分の体が良くないことを知っていたはずの信玄がなぜ
死の直前になってようやく兵を挙げたのか、わからない。
(信長の贈り物作戦に騙されてうっかりしてたとか言う人がいるがそんな筈はなかろう。)

三方が原で、あの慎重な家康が、なぜ負け戦と知りつつ打って出たのかも、わからない。
(信玄が浜松城を無視して素通りするのが家康のプライドを刺激したのだ、
とか言うけど、それ位でむざむざ死地に赴くようなアホなら天下は取れない。)

三方が原の後、なんで信玄はすぐ上洛に向わずに
何か月もぐずぐずしていたのかも、よくわからない。
(これは単に病気が悪化したからかも知れんが)

289 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 12:27:16
>>288
上杉北条が留守を狙わないと確信がもてない限り動けん
逆に死を感じたからこそラストチャンスと見切りで動いたともいえる

口先だけでは信用されないから行動で示した、行動する事によって
配下の意識統一を図った。
ただ、適当なとこで切り上げる予定がうんこ漏らすほどの大負け
になったのは計算外だったのかもしんない。

徳川の抗戦により織田に準備有り、と勘繰ったっつーのも有るかも
しんない


290 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 12:54:37
>>278
信玄の後継は勝頼で勝頼陣代説は一次史料にはない俗説。
まだこんなの信じてる人がいるんだな。
あと武田信勝の享年は15歳。

291 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 21:38:31
信玄って上洛をしようとしたことあったっけ?
家康の三方が原は、前線を見殺しにしないという
必死のポーズでしょ。


292 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 23:05:14
なんか特定小説家の代弁スレが多いですね

293 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 23:47:47
必死のポーズって
それで全軍がボロ負けしてちゃ仕方ないじゃんw さすがに家康もそんなにアホではないのでは。

歴史を見る時に、全部無理やり説明つけようとしないで、
わからんものはわからん、と認める態度は重要だと思うよ。

三方原で何故家康が無謀な出陣をしたのかは、誰にもわからない謎。
それをはっきり認識した上で、家康側に何か重大な作戦ミスがあったのだろうとか、
信玄の計略がさえまくって家康が出陣せざるを得ない何らかの状況に追い詰められたのだろうとか、
色々空想をふくらませることは自由。

294 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 23:53:24
うん自由にやらしてもらってま

295 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 02:53:27
>>280,>>290清和源氏共通の通字である[義]、或いは甲斐源氏(小笠原・南部を含む)の通字[信]が諱にないのは何故ですか?
[頼]も源氏の諱に使われますが、勝頼公の場合は諏訪一門の通字として用いたと考えられます。
武田の屋形であったならば、何故に改名しなかったのですか?
この一事だけでも、統領ではなくあくまでも重臣の筆頭に過ぎないと言えなくはないでしょう?

296 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 02:56:45
>>293
三方原では早々に家康の本陣勢が崩壊し、パニックになった家康は
とても逃げ切れぬと自害しようとした(夏の陣でも同じ)。
本能寺の変を堺で聞いた時も自害しようとして家臣に止められている。
そんなにアホではないかもしれないが沈着冷静という感じでもない。


297 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 03:28:57
家康は織田方に目付け役として平手なんかをつけられていたため動くしかなかったのでは?まぁ平手はそのとき死んだけどな!

298 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 06:49:50
>>296
その後の政治的しぶとさ、したたかさを見るとやはりなかなか沈着冷静な
人物だと思うが。取り乱しても家臣の言う事に耳傾けるし、どこまで本気
の逆上か分からんとこがある。結局自害してないしw
三方が原はさしもの家康もまだ若いし切迫してるので、逆上したというのも
あるかもだが、ま、分からんな実際は。
結果的に家康の+になったのは確かだな。周囲に計算だけではない律儀者と
いう印象を与えた影響は大きい。


299 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 10:05:03
>>295
徳川秀忠、綱吉、吉宗も正当な当主だが通字が入ってないな。
もともと跡をつぐはずでなかった者が継ぐ場合、通字が入らないわけだが
だからといってそれが正当の後継者でない、とは限らない。
(家茂のように改名する場合もあるが)

300 :OPS:2007/01/01(月) 10:18:08
将軍家はやりたい放題。

301 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 13:16:48
>>298
家康は人質時代の話や子供達に気性が激しいのが多いのからして
生来の気質は激しい気性だったんだろうな。
それが苦労や経験をつんで抑えられるようになったのだろう。

302 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 16:40:32
家康の正室の長子で、徳川家を継承する予定だったのは信康
家康の父親は広忠、祖父は清康
徳川宗家の通字が家になったのは、家光以降
それまでは、康か忠が通字

303 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 16:42:46
家康の正室の長子で、徳川家を継承する予定だったのは信康
家康の父親は広忠、祖父は清康
徳川宗家の通字が家になったのは、家光以降
それまでは、康か忠が通字

304 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 17:47:37
秀忠も家忠に改名する予定だったが花山院家の当主も家忠だったので遠慮して出来なかった。
少なくとも徳川家では家康の時点で「家」を通字とする認識はあった。

305 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 07:16:24
信長が恐ろしくて信つけたが信家では家が下にきて気に食わなかった
のかも

306 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 21:55:41
家康の息子の信康の信は信長から
秀康と秀忠の秀は秀吉からもらった字

たやすく改名できないだろ

307 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 21:59:15
天と地と

308 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 02:52:06
諏訪四郎神勝頼の話をして下さい。

309 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 05:10:57
シンゲンにカリスマ性がありすぎたから家臣団がカツヨリについていかず…

310 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 07:58:18
信家って何か変だな

311 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:01:59
負頼には信頼できる重臣がいなかったのか
義信死刑に関連して誅殺された飯富のような、命がけで主君を守る重臣がいたら
負頼の最後も違っていただろう

312 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:04:32
>>246
偉そうに講釈たれる244にだろ!


>>290
16歳だよ〜

>>293
家康が信玄の息子だった説がでてるな。



313 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:23:55
さすがに上杉、織田、徳川を敵に回したら勝てない罠
信長は機が熟すまで武田や上杉に貢物贈って矛先が向かわないように尽力したしな
外交下手過ぎ
戦がいくら上手くても勝てないわな

314 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:52:11
武田滅亡時の武田周辺の外交関係は

同盟 なし
友好 上杉
敵対 北条
戦闘中 織田 徳川

おまけに内部分裂して家臣もついてこないのでは、信長に勝てる訳ない

315 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 08:55:20
平安末期から続く甲斐武田400年が、わずか数ヶ月で滅び去ったんだから
哀れだ

316 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:15:24
信玄も名家を踏み潰してたから
自業自得かもよ。

317 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:21:02
表裏あざなえる縄の如しの戦国乱世で自業自得ってのもねぇw

318 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 01:58:26
>>315
次男の子孫が高家として残ったから、滅び去ったわけではないだろ。
血筋でいえば正室の子だし。



319 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 02:04:06
森鴎外の「伊澤蘭軒」に、
旗本伊澤氏は武田信玄の裔だって書いてあったような。
(「伊澤」の苗字は、石和温泉の「石和」から来ているらしい)
武田氏の裔も結構残っていたものと思われる。

320 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 07:49:19
>318
次男の子孫が明治になって男爵授爵の沙汰がきたけど
「伯爵の上杉家より同格以上でないならいらない」と
断ったとか。

321 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 09:16:59
やっぱりそういうのってあるんだな。
スケートの織田くんのお母さんも嫁いだときに
お姑さんから明智の家紋だから桔梗は買うなって
言われたらしいし。

322 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 10:35:20
最近の光秀美化の傾向について
信成はどう思ってんのかな
頭悪そうだし特に思うところなしって感じかな

323 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 12:51:00
織田君は博愛主義者だからたぶん何とも思ってないと予想。

324 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 13:20:15
悲劇の人は日本では一般的に人気がある。
私も勝頼、石田三成など好きだ。
特に負け組に最後まで忠節を尽くす家臣などにはぐっと来る。
光秀も、優秀で人格者、家康黒幕説があり、信長のひどい仕打ちを考えると、
忠義と逆だが、美化の傾向があるのだろう。

325 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:32:41
信成は信長の血というよりは信高の子孫だよな。
祖先自体信長とほとんどかかわってないし(小さい頃に死んだ)
長じてからもあまりみるべきところない・・・・・
値は引いているが、だから何?って感じ

326 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:36:56
wikiみると、毛利や南部の血もはいっているじゃん信成

327 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 09:05:51
総理候補のスキャンダル(義信事件)で1年生議員がいきなり総理になるよ
うなもんだから、経験不足もあるし党内(武田家)からのやっかみや連立の失敗、
もあるし野党(信長)に対抗するのは難しかったんじゃないの。

328 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:07:06
>>325
そうクサすなよ。
平民のひがみに映るぞ。

329 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 02:50:06
>>327
むしろ武田のぐだぐだぶりは野党の迷走ぶりに似ているんじゃないか?
織田という与党に対抗しなきゃいけないのにまったく纏まる気配がないという…

330 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 13:17:42
諏訪勝頼

331 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 05:31:17
朝倉義景の意味不明な撤退が織田包囲網を崩壊させたよなあ・・・・
信玄がたとえ死んでも、朝倉がしっかりしてりゃあのまま上洛しても
よかったろ。

332 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 14:07:13
漫画「センゴク」での朝倉義景の格好よさは異常

333 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 20:14:13
負頼が家督を継ぐよりも、信廉を影武者にして、信勝の成人まで待ったほうが良かった

334 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:00:17
どの道、信玄の死自体遺言に3年は付せとかかれてあったか真偽は別として
あっというまにしれわたっているから無理。



335 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 23:23:38
>>333
そんなことをしていたら今の戦に強いという評価も消えていそうだが

336 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:06:22
逃廉じゃなぁ…

337 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:29:33
信玄の北進策から南進策への転換そのものが失敗なんじゃなかろうか
短期的には領土拡張できたけど嫡男の死と征服したはずの信濃の豪族
諏訪氏の名跡を継がす予定の4男を暫定とはいえ、後を託す羽目に
なった事がミスっだったな。

機略や機知に富んだと思われる信玄が、自国が豪族連増であるという
認識はあったろうに求心力に不安のある勝頼を仮とはいえ国主に
せざるを得ない点で詰んでるんだよな。
当初は信玄も毛利家のように有力豪族に自分の血族をいれて磐石
にしていく構想だったと思うが、思えば桶狭間で今川が頓死した事が
日本史を大きくかえたのかもしれん。

338 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:51:34
北進しようが寿命はそうかわらんだろ、弱り目で肥沃な駿河遠江を見逃す手は無い罠

339 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:59:49
さらに北進したら、果てしない泥沼になると思うんだが・・・
北も東も駄目となると南しか行き場が無いんだよね。
西に進めれば良かったんだけどね。

340 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 02:13:45
西というと美濃攻めということになるか。
あそこ信濃から当時の道路事情で大軍攻勢は可能なんだろうか

341 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 02:38:42
可能、関ヶ原時は秀忠3万5千が進軍した(途中で止まったけど)
当時は中山道(東山道)の方が主要道路

342 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 03:14:21
そうなんだ。
なんで信玄はじゃあ寿命がせまっているのにわざわざ徳川の領地からいったんだろ?
信濃から直接信長の岐阜攻めてもよかったんじゃね

343 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 03:54:22
あそこまで早く逝くとは、気づいてたかどうだか。家康とは領地を接してる
わけだし、無傷で残してくより現実に潰走さしてるから決して間違いじゃ
ないと思うんだが。

344 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 03:56:47
まずは徳川を葬ってから、織田と戦うつもりだったんだろう
美濃から行ったら、いきなり無傷の織田・徳川連合軍と戦うことになる
どっちにしろ、織田を倒さなければ、京都に行けない

345 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 04:00:14
勝頼は「ピュロスぼ勝利」みたいだね

346 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 06:10:49
>>344
でも逆に考えると、補給線がながすぎるし、徳川をつぶす気が信玄にあったかどうかちと疑問。
三方ガ原の合戦では、信玄の行軍につられた家康が合戦を挑んできたけど、あれも徳川が
出てくるなんてそうとう博打にちかいんでは?
出てきたから良かったけど、もし出なかったらどうするつもりだったんだろう。

もう一つは合戦といっても今川の時みたいに大将が戦で死ぬ確率なんてそうは無い。
普通に考えて合戦して国主が逃げて篭城するとなると、長期戦を強いられる訳で
その間に信長をとりまく状況が好転する可能性も考えられるわけで、
徳川戦にかなりのリソース割く必要があると事前に予測できたはず。
さらに、三河武士の結束考えると、信玄といえどもそうたやすく慰撫できんだろうし、
次の尾張攻略も信長の地元なんだよね。
うすうす死期が近いと本人も自覚して上洛したんだろうけど、信玄の戦にしては
かなり雑だとおもうんだね。三方ガ原の戦い自体は圧勝だったんだけど、
あの上洛半ば見切り発車だったんじゃないだろうか。


347 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 06:39:08
信玄の西進は慎重だった。
二俣城攻略にも二ヶ月、野田城攻略にも一ヶ月費やした。
ルートも美濃、三河、遠江の三方から侵攻し、
美濃で織田を引き付け、遠江で徳川を叩いて弱体化させ、
その後三河をじっくり攻略する戦略だったと思う。
飯田から三河へのルートを確保し、三河の拠点の確保し、
織田と徳川を分断して、その後北条と共に徳川を締め上げ、
遠江を確保し徳川を滅亡させるはずが、野田城攻略で体調不良で退却、死亡し頓挫。

一方の勝頼は、三河のみから侵攻し、長篠城攻略の間に奇襲を受け、簡単に退路を断たれてしまう。
攻略できていない足助方面を、1万5千の軍が、細い山道をまとまって退却するのは不可能。
激しい追撃で壊滅するのは必至だった。
袋の鼠になった勝頼軍は織田、徳川が作った防護陣地に突っ込んで、
兵力を減らしてから退却するしかなかったのである。

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