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「2倍念暦」の真実

1 :サガミハラハラ:2006/12/15(金) 12:19:36
2倍年暦の専用スレを立てろという希望が多いので再建することにいたしました。
前回は05年の3月に鄭声(旧字)之氏によってたてられたのですが、そのなか
から一部を再録します。
1:05/03/05/07:28:33
テンプレがわりのコピペ

441;日本@名無史さんー以後名無と表記
春秋暦=2倍暦の話。

春秋年(暦)は我が国に元嘉暦が渡来する以前に使われていたと考
えられる。これは春分秋分のころの満月の日をもって「年の初め」
とするもので、「魏志倭人伝」に見えるハイ松之注に「魏略に曰く、
其の俗正歳四節を知らず、但、春耕秋収を計って年季となすのみ」[16]
とあるのは、三世紀ごろの我が国の春秋暦のありさまを述べたもので
あろう。太陰暦が導入されて以降、春と秋の「年の初め」の儀式は次
第に正月と盆(七月)の行事に九州されていった。民俗学者の柳田國
男は「盆と正月とは春秋の彼岸と同様に、古くは一年に二度の時祭」
[17]であったと言っている。春秋年の豊富な例は記・紀に見えている
古代天皇の宝算である。そのいずれも四五歳から一六八歳であるか
ら、一年に二回歳を取ったと考えれば、合理的な数値であろう。こうし
た考えは、すでに明治十三年にイギリス人ウイリアム・ブラムゼンが表
明している[18]。『日本書紀」は安康三年以降に元嘉暦を使っている
ので、それ以前の紀年には春秋年(暦)が使われていたとおもわれる。

http://www.h2.dion.ne.jp/〜taki99/kodaisi02htm.htm


2 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 12:46:35
念暦w

3 :サガミハラハラ:2006/12/15(金) 12:54:45
はい、みおとしました。

4 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 12:56:43
まじで、二倍年暦の研究をして
記紀の解明をしないとな...

一応、学会では2003年には発表されたんだろう?
今まで何をしてきたんだか...



5 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 12:58:29
2003年に何が?

6 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:00:39
伸びねーよこんなスレ。スレタイ間違ってるし意味わかんねーもん

7 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:04:21
>>5
記紀の時代は、倍年暦だったというやつ。
学会が公式に発表したと思うが、全国メディアはあんまり報道しなかったな。
でも、関西のローカルだったら、そのニュースやっていた。
やはり、関西のことがメインだからね、記紀の話は。


8 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:18:10
おー、やっとバイキンスレ…、い、いや、バイレキスレが立ったか。
めでたし、めでたし。

9 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:21:51
倍年暦は最近、研究が始まったばかりだから。
これからはだな。
日本書紀だけじゃなくて、古事記の干支没年も倍年暦だし。


10 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 19:18:08
クソスレ立てるな

11 :太国:2006/12/15(金) 20:13:22
近隣スレの「邪馬台国は大和朝廷になったのか?part21」に、2倍暦等表を断続
にて>411〜>499までに作りましたので、ご覧下さい。

12 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:42:01
神武天皇の即位年は、干支を意識したものだから信じられないが
(そもそも、彼は皇帝というよりは、三輪山の一領主で人生を終えた)
古事記、日本書記を倍年暦で計算して
また、日本書紀の仁徳天皇の即位が、神功皇后の生存期間を
卑弥呼にぶつけるためにやったことを考慮して計算したら
一応、紀元前106年の日向の国で産まれたことが分かった。(誤差はあるかも?)
いつ即位したのは分からん。というか、彼はただの地方豪族。
だから、日向からの遠征前に即位したみたいな訳の分からんこと言ったんだろう?

ちなみに、崇神天皇の在位期間だが、西暦206年から240年だ。
彼が生まれたのは、西暦156年。
マキムク遺跡の古墳が3世紀後半だから、彼の死後
古墳が作られるのと見事に合点が行く。

13 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/15(金) 21:34:21
うーんとですね、156〜240なら宝算85歳。
それじゃあ長過ぎるって感じがするでしょ?

神武元年をAD57年にして崇神年間まで三倍区間で良いんですよ

且つ神武〜崇神で計7世代

14 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:24:23
サガミハラハラさん来てくれって感じ。
本当に雄略天皇の在位期間って合っているのか?
あれじゃ、古事記の彼の年齢124歳と整合性とれないじゃん。
二倍暦で換算しても、倍くらい誤差がある。
日本書紀だと一致するんだけど...
本当に古代の日本の官僚たちは、かなりの馬鹿だ!

15 :太国:2006/12/15(金) 23:30:12
サガミハラハラさんのは五王の一人を雄略天皇に当てて論を展開して
いるようですが、あれでの紀年構築はうまくないです。
このため、より上代の数字に多少の誤算は免れません。

16 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:32:44
日本書紀と古事記って
通常暦の開始時期の天皇が違うのか?
というか、頭の中が混乱する。

一番、良いのは墓を暴くことなんだけど
だいたい、日本の気候だと遺体なんて
めったに残ってないんだよね。

17 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:39:24
>>15
ただ、雄略天皇の子供の数とか
彼の跡を継いだ息子が妃すらおらず崩御したのをみると
サガミハラハラさんの設定した年数は説得力がある。
彼は日本書紀も古事記も全て総合的に換算しているみたいだが
古事記の雄略天皇の寿命124歳をばっさり切った理由を聞きたい。
雄略天皇というのは30ちょっとで崩御したみたいだね、計算したら。
じゃあ、古事記のは倍年暦ですらない。どうよ?

18 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:46:58
古事記の著者は雄略天皇を倍年暦を考慮して計算するつもりだったんだけど
日本書紀の年齢を2分の1にするのを間違えて
逆に2倍にしちゃったんじゃないのか?w

とにかく、記紀の年数を調べようと思ったら、編纂者の計算間違いも考慮しなきゃ。
日本書紀の年代ミスというのは、仁徳天皇なんだけど、これは確信犯でやっている。
何故なら、大勢で編纂した正史だから。
しかし、古事記のほうは、少数の人が書いたものだから
割と正直だが、計算間違いもしでかしていると考えるべきだな。
というふうに、日本書紀と古事記の違いを考慮しなきゃいかん。

19 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:47:21
サガミハラハラと畿内論者のコラボレーションは見る価値なし

20 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:11:29
サガミハラハラは一人で書いたのか?
それとも、複数でちゃんと計算してやったのか?
いや、マジで計算がややこしい。
そりゃ、計算ミスしそうになるよ。
当時はアラビア数字なんて無かっただろうしw


21 :サガミハラハラ:2006/12/16(土) 08:14:46
日本書紀の在位年に関しては雄略天皇の初めのころまでは2倍年暦です。
年齢に関してはまちまちで、普通暦と混在しているものもあります。古事記日本書紀でもことなっています。
ですから古事記の雄略天皇の年齢124歳は2倍年暦で在位年は大体普通暦です。



22 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:45:52
サガミハラハラ、トリップをつけろ。
それと、あんたが歴史学の権威ではなかったら
歴史学や考古学のえらい人に
自分の意見を直接、述べよ。

23 :太国:2006/12/16(土) 09:19:41
>>21
雄略世は等倍暦、つまりいちおう普通暦でここは同意。

24 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:09:35
>>21
サガミハラハラよ、おまえの説では
雄略天皇は、倭王武ではなく、倭王康になるぞ?
どうなっているんだ?本を回収したほうが良いんじゃね〜のか?w


25 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:08:06
倭人伝が書かれた当時2倍年暦だったとすれば、
「船行1年」は、「船行6カ月」、
「船行10日陸行1月」は、「船行5日陸行15日」ってことなのか???

26 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:26:11
>>25
あと、「船行10日陸行1月」

は、1月は1日の間違いなのでは?という説もある。

27 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:28:16
>>25
倭人伝では四季では無く2季だと言っているだけなのに、
なんで年が2倍になるのだ?
お前らちゃんと漢文勉強しろ。

28 :太国:2006/12/16(土) 16:31:33
>>25
その話をしたんですが、プラムさんは否定的でした。
可能性あると思いますがね。

29 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:35:13
どうも昔は
6ヶ月で1年、一ヶ月が15日だった可能性が強いんでしょう?
記紀でも、15日以降が出てこないんだよね...


30 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:37:32
>>27
魏略でね「倭人は四季を知らない、春耕秋収で1年と見なす」と
続けさまに言っている。
あと、日本の記紀には15日以降が出てこない。
それって、1ヶ月は15日までだったんじゃね〜の?というお話。

31 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:42:40
んじゃ2陪年暦確定ですね

32 :太国:2006/12/16(土) 16:43:37
>>29
かなり可能性はあります。ただそれは欠史8代までが1日〜14日まで
で(15日も可能性あり)、崇神世になって16日以降の日が出ます。

しかし紀の後代での記述のほうでは下旬の記述が著しく少ないんです。
その理由のおおまかな理由として、たとえば現今では午後2時は14時
とする2通りの方法があって、2時はうんと使用して14時を少しのみの
使い方だとかすると理が通ってくるように、何らかの事で下旬の不使用
か、使用してもある理由で使いたがらなかったとかいうことになります。

33 :太国:2006/12/16(土) 16:46:07
>>29
あと神武世でも1回、例外でしょうが下旬の記述があったはずです。
何かそれだけ特段の理由があるんでしょう? 謎を解く鍵ですか?

34 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:53:17
>>30
>>32
自演乙

35 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:54:32
>>29>>30
>>32>>33
自演乙

36 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:03:10
自演大好き太国だもん仕方ないじゃんw

37 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:11:32
>>26
船で行けば10日、陸から行けば1月。

38 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:18:07
船行10日と陸行1月が正解。

39 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:29:27
倭人伝の記述が2倍年暦ならば
九州説がかなり有利になる事は間違いない

40 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:36:02

なわけねーだろボケカス!

41 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:36:45
船に3回乗ったナミヘイだとすればサザエさんとカツオくんとワカメちゃん
の誕生に見事に合点が行く。


42 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:43:53
中国人いわく、あの旅行者は、直接
邪馬台国とやらは行っていない。
せいぜい、奴国どまりで伝聞を聞いただけ。


43 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:45:52
マジレス。自演ではない。
自分は、倭の五王に関しては
太国と見解が違う。


44 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:49:05
>>42
伝聞を聞いたんだよ、水行二十日と十日の計一月、
それを聞き間違えて計一月を陸行一月と思い込んだ。

9臭だと、間違いなく太平洋上に出てしまう
となると、やはり機内でしょうな。

45 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 18:40:04
>船に三回乗ったナミヘイ

>>41 根拠の提示求む
一説によるところナミヘイは大のバック派、一度も乗っていないとする説もある。その娘でもあるサザエ、彼女は騎乗位派

46 :太国:2006/12/16(土) 22:48:46
>>43
見解をどうぞ。

47 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 02:53:37
742 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:34:56
天照大神とは誰か

>天文学者によると、BC138年、158年、247年、248年、454年に
>日本で皆既日食が観測されたというのである。

http://www.nagaitosiya.com/a/amaterasu.html


743 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:36:44
>>742
安本は、247年、248年って騒いでいるけど
もし、本当にアマテラスが実在の人物をモデルにしたものなら
BC138年のが一番、可能性ありだな。

48 :太国:2006/12/17(日) 15:05:54
雄略天皇の宝算は日本書紀では62歳、古事記では124歳であり、記のほうは紀の
2倍になっている。このことは雄略の世が等倍暦の世であったことを示す論拠
になりえる。これは記は1年が半年計算だったということを意味している。
しかもこの天皇世の記事を紀で調べてみると、佛伝以前の記事には
非常に少ない5月、6月の記述がある。

しかし何故か記述は1日〜20日までであり、下旬の記事が全くない。だから
1ヶ月が20日だったんではないか?と以前から勘ぐっていたが、これだと
1年が18ヶ月余あったこととなるし、13月〜18月の月というのは聞いたこと
がない。ということは、18月まで作る暦だったんではなく、何らかの理由で
下旬を無にするか、無にさせる事柄があったんではないか? との考えに傾く。
そうなってくると、たとえば下旬は物忌みで活動を避け静かに日々を送る毎日
であったんだろうとか、そんなところではないのか?

あと5月、6月の記事があるのは例えば景行の世もあり、この天皇世も下旬の
記事がまるでない。やはり神道での物忌みなのかと想いにふける。なお景行世
は2倍暦をやっていたとそれがしは観ている。

49 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:00:31
古田氏以外でも二倍年歴を主張している研究者っているの?

50 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:14:34
>>49
というか、今日の研究者の中では
当たり前になりつつある。

問題は単に二倍年暦だっただけじゃなくて、
一部では改竄があるということ。
これに関しては、年代に関しては素直な古事記との
両方で考えていくしかないわけだな。

51 :太国:2006/12/17(日) 19:37:33
>>49
確か 栗原薫氏→「日本上代の実年代」の著者だそうだ。これは持ってないが。

52 :太国:2006/12/18(月) 07:08:01
>>49
日本書紀の新年代の解読」山本武夫著 持ってないが・・・。

53 :太国:2006/12/18(月) 09:36:45
>>50
改竄したと言ってるが、舎人親王らがその文書偽造に関与したという具体的
根拠はいずれに有るのか?

54 :サガミハラハラ:2006/12/18(月) 22:36:34
前のレスから。
7:名無し:05/03/05 12:52/28
63名無し05/02/05 21:35:11
311名無し02/12/01 19:15
あのー、「二倍年歴は古田信者の妄想」だから否定する人が多いようなので、一言。

 古田と関わりなく、古気候学の研究者ではかなり有力な説です。二倍年暦。
 山本武夫が「雄略以前は二倍年歴」と仮定しないと、年輪年代法で出てきた古気候と
 記紀の古気候記事が一致しない(二倍年歴)なら一致する)という論文出してますわ。
今人に課してて、正確な内容はあげられないけど。
 朝倉書店の『気候と文明』シリーズの監修している人ですから、電波ではないですよ。

55 :サガミハラハラ:2006/12/19(火) 08:12:23
7092倍年暦03/09/29 03:02
過去ログに書きましたが、古気候学の山本武夫が
『年輪年代法で検出された古気候と、記紀の古気候記事が一致しない。
しかし、雄略以前を2倍年歴と仮定すると一致する」という論文を出しています。
1978刊行:『気候と文明・気候と歴史』(気候と人間シリーズ)に収録。
朝倉書店『気候と文明』シリーズの監修者であり、古気候学の世界では認められた学者です。
歴史学でも、「いわゆる2倍年歴について」という論文があったはずです(今掲載誌確認できず)。
神武の時代が二倍年歴か?と言う問題と、
二倍年歴が実在したか?と言う問題は別なのに、意図的に混同しているようにしか
見えません。

56 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:27:12
>>55
崇神以前は、やはり、ある程度の創作があるのか?

ああ、それとサガミハラハラさん、トリップつけたほうが良いですよ。
あるいは、Seesaa(ひとつのID・メルアドで複数ブログ作れる)
とかでブログ作るとか...
じゃないと、サガミハラハラさんに成りすます人が出てきます。

57 :サガミハラハラ:2006/12/19(火) 10:01:46
ご忠告ありがとうございます。

トリップのつけ方わすれてしまいました。
どなたか教えてください。

58 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:06:54
「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」
四季という概念を知らない。「春の耕す時期」、「秋の収穫する時期」という概念で1年を計算している。

1年を今でいう春夏と秋冬の二つの期間に分けているというふうにしか採れない

59 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:16:58
それ、四季を知らないじゃなくて暦を知らないってこと。

で、中国人が正月と4つの節で一年を区切る代わりに
倭人は春の耕作と秋の収穫で一年を区切っているということなので、
2倍年暦でも何でもないよ。

60 :サガミハラハラ:2006/12/19(火) 21:46:33
65名無し05/02/05 22:09:55
  山本武夫は2倍暦「も」御都合主義的に使っているだけで、
 彼の年代改訂には一貫性がないよ。
 それに日本書紀の数字をいじれば正しい歴史がでてくると
 きめつけてるところは完全に電波だろう。

61 :太国:2006/12/19(火) 21:53:38
>>60 サガミハラハラさん
それの 「も」 に、「 」 があるのはどういう意味でしょうか?

62 :サガミハラハラ:2006/12/19(火) 22:09:14
名無しさんの文をそのまま転載いたしました。
私も確信はできません。

63 :太国:2006/12/19(火) 22:28:13
サガミハラハラさん >60 >62
なんだかその者は、2倍暦の研究家の苦労を知らない具体性が少い批判をして
いるようですが?

こういう連中の批判は的を射ることもありましょうが、そういう批判はいいと
して、じゃぁお前はどのように古代天皇の超長寿を説明するのか?
とかの問いにはイカサマ的回答か、無言でオシマイかのいずれかにて逃げるの
があやつらのやり口のようです。

それにこの文の「も」で、いささか変わり者で若い経験が充分でない奴に
みうけられますが、その後は続きのような文面はなかったんですか?

64 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:11:42
苦労は尊いが、思い込みだけでやってる
客観性も持たない、使えない、ぺらぺらの研究で、
謙虚さもなく押し付けがましく
苦労してると言われても共感できんよ。

65 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:13:27
まったくだぜ

66 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:18:18
高天原は現在の奈良県南部から和歌山の高野山一帯。
ここの王権が、西日本一帯に自分の一族のものを派遣した。
アマテラス(実は女ではなく男)は日向(北九州)に派遣、
スサノオは出雲に派遣され、
スサノオの一子が、そのまま高天原に残って王権の本家を継いだ。
やがて、本家に子孫の男子がいなくなって、
日向に派遣された分家のアマテラスの子孫の神武が婿に入ることになり
かなり反対があって戦いにもなったが、最終的にはそれで決着した。
そういうわけで、神武天皇系は王権の分家の出であった。
そんな彼らの子孫は、一族で本家に近い出雲系や物部氏を牽制するために
自らの系統を本家筋から断絶させる必要に迫られた。
そこで、アマテラスを男ではなく女にする必要ができ、
そこから男系が始まった、万世一系が始まったということにしたわけだ。

高天原はここ↓

高天彦神社
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=t&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2005-14,GGLD:ja&q=%e9%ab%98%e5%a4%a9%e5%bd%a6%e7%a5%9e%e7%a4%be


67 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:49:39
どこの国でも、最初はわりと二倍年暦から始めるらしいね。

普通、人間というのは、日照が秋分と春分で分けられるというのを
最初に気がつくらしい。

>>66
鋭い見方だ!自分もそうかな?と思う。

68 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 03:29:25
>どこの国でも、最初はわりと二倍年暦から始めるらしいね。

そうなの? 

69 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 04:01:11
つーかアマテラスの子ってスサノオが産んでるじゃん
ウケヒによってお前の子は私の子なんて理屈おかしいぞ

70 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 04:14:45
要するに、現在の天皇家は
本来は男性であった天照大神を女神にするという必要に迫られたわけだ。
つまり、天皇家の男系・万世一系は、そこから始まったことにする必要があった。
それ以前に分かれた家系については、天皇家から別系統にする必要があった。


71 :太国:2006/12/20(水) 07:50:52
>>64 >>65
じゃぁ、お前さまらは容易に紀年の構成が出来る口ぶりだから、ここに
その論を書きこめ。苦労なしに楽々やれそうなでかい言い草のようだからな。
待ってるぜ。

72 :サガミハラハラ:2006/12/20(水) 13:58:44
前スレの続き
名無し05/03/05 13:02:46
狭野05/02/17 18:20:15
書紀には、古代の天皇の在位年数が60年を基本数としてかかれている。
雄略帝までの18世代の平均が63.3年であり、崇神帝までが63年、垂仁帝から雄略帝ま
でが63.5年と、どこで切っても60年を大きく上回ることはない。
その理由としては2倍暦が有力だと思うと前スレで述べたが、
ただしこれは、「そのように在位年数を決めた」ということであり、「2倍暦で倍に伸びた」とい
うことでは全くない。

73 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:21:31
サガミハラハラさん
雄略天皇に関して、古事記は124歳、日本書紀は62歳の記述からして、それがし
はこの天皇の世を2倍暦とみなし、古事記のここの記述は1年を半年計算と
していたと思う、とその考えなんですが如何でしょうか?

言うまでもなく 62×2=124 だからであります。それが真実となりますと、
貴殿は雄略天皇世の途中で倍暦変更があったと主張してますが、それだと
この等式の成立にはなりそうもなく、一見するとその説は破綻しているよう
に感じますが、何か特段の理由があるんでしょうか?

それがしは倭の五王は各天皇とは全くイコールとはしていません。これをやって
いる限り、紀年の組み方は不合のほうに当選確実と観ていますが。

74 :↑ 太国:2006/12/20(水) 14:23:26
>>73
失礼しました。コテハン抜けてしまいました。それがしです。

75 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:07:59
古事記の年齢を二倍暦でやると48,6歳になる

76 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:12:43
サガミハラハラは、垂仁天皇の没年までの測定で
熱くなっていたが

今度は神話の世界で熱くなっているな。


77 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:40:05
普通の知性なら天智以前の天皇を語るのは馬鹿
天皇家の嘘を信じての辻褄合わせだから事実とは乖離している

78 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:41:30
>>77
そういうのをマルクス史観という。
戦後の記紀研究は、最初からそういうふうに言い切って
記紀の研究を封じ込めてきた。

79 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:13:58
はて、日本書紀に62歳の記述なんてあったかな

80 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:24:08
78曰く、学界はマルクス史観なんだそうだ
通説もマルクス史観
皇国史観以外はマルクス史観だってさ
マルクス史観の意味も知らない史学の素人が

     神道の宗教敵歴史解釈

を正しいとして皇国史観をとらない99%の日本人にレッテル貼り

81 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:05:34
>>80
おまえはアホか?
神道の宗教的歴史解釈なんて賛成していない。

特に、高天原は、九州南部ではなくて
近畿地方の金剛山高天台のことだと思うし...

82 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:19:48
>>81
およっ!?
鳥越説だな、なんと珍しい。
おれは葛城王朝説は捨てたけど、鳥越先生は、なんとなく今でも好きだな。
で、きみは倍暦をどう論じるのだ?
詳論キボ。

83 :太国:2006/12/20(水) 21:40:58
>>79
編纂者側に当時等倍暦と2倍暦の二つの暦法が込み入って行われていたと
して、紀の記述の雄略誕生から崩御まで算出すると数え62歳になるという
ことです。

紀の允恭天皇7年12月に曰く
「大泊瀬の天皇を産みはまふ夕に適り、天皇始めて藤原宮に幸したまひき。」
同 雄略23年8月7日に曰く
「大殿に崩りたまひき。」
上の文から数え62歳が計上出来ます。

近隣スレ「邪馬台国は大和朝廷になったのか?part21」の>429>426参照
皇紀か(西紀)で歳を確認されたい。

84 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:43:04
参照してください。
http://www.dmm.co.jp/digital/videob/-/image_all/=/type=video/pid=18dcow00036/cid=18dcow36/shop=videob/

85 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:45:31
>>82
あの〜葛城王朝説じゃありませんw
葛城氏というのは、神武王朝誕生以後に
皇室から分派した皇別氏族でしょうが?


86 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:05:31
ふんふん確かに

87 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:28:13
鳥越氏の意見とは違いますね、
最近、2ちゃんに貼られている金剛山高天台が高天原は。

葛城氏がここを勢力圏に置いたのは
神武天皇の即位以後で、神武天皇の後胤で臣籍降下した
葛城氏が重要な任務を任されただけでしょう?

鳥越氏が言っている説は、三王朝交代説で
旧皇族の竹田くんが反対していましたねw

88 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:25:07
葛城氏を「神武天皇の後胤で臣籍降下」というのは
間違いだとはいわないが、どこかしっくりこないものがある

89 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:35:58
>>88
記紀の系図を信じればね。葛城氏も蘇我氏もそう。
実際、神武天皇の後胤は、大臣になれた。
神武以前とか、皇統以外の氏族は、最高位は大連。

戦後、反皇国史観から、そういう記述は全部否定されたけど
彼らは大臣の位についていたから、一応、皇別氏族だったんでしょう。
じゃあ、ないと大連が最高位だか。
物部氏とかは神武以前だから、大連。
中臣氏は、別氏族だから、大連。

こういうのが全部なくなったのは、後に権力を握った藤原氏のせい。

90 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:44:24
系図で分かりやすくすると

スサノオ(宇佐の王)━(数代)━┳神武天皇
                    ┗━━(数代)━━卑弥呼

91 :サガミハラハラ:2006/12/21(木) 12:03:03
コピペの続き
11名無し05/03/05/ 13:03:28
204サガミハラハラ 05/02/18 19:29:28
>203
安本美典氏は、次のような論文を紹介した。
「貝塚茂樹氏編集の『古代殷定国』(みすず書房刊)には、次のように記されている。
ーート辞では、われわれの『今年』『来年』と同じ使い方で、『今歳』『来歳』ということがある。
この『歳』を、陳氏は年のこととせず、半年の『季』をさしていると考えるのだ。一年は、陳氏
によれば、禾季(上半年、すなわち後世の春夏)と麦(下半年)とにわかれる。−−−ト辞の『春』『秋』は
それぞれ禾季と麦季にあたる。そして『今歳』や『来歳』は今来、来季のことで『歳』は
半年単位のシーズンをさしているのだと。ーーー」
というわけで、殷の時代の中国では2倍暦が使用されていたらしい。殷末に箕子が朝鮮に行き、
殷の文化を伝えたのである。
ところで古代の日本は中国や朝鮮からの文化や文明を輸入し使用していたのである。
よって2倍暦も輸入され使われていたと結論づけられるのである。

92 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 12:33:55
>>91
もう倍年暦に関しては、賛成ですね。
それに普通、最初に暦を考え付くとしたら
四季ではなく、二季で考える。

問題は、倍年暦でも説明がつかない数箇所だけ。

神代、神武のころは、置いといて
まず、いけるところか数えなおすしかない。

ところで、サガミハラハラ氏は、雄略天皇の年代について
どうお考えですか?


93 :太国:2006/12/21(木) 14:48:39
>>91 サガミハラハラさん
その結論ですが? 逆に日本から大陸へ輸出したとも考えられますがね?
この点、どうなんでしょうか? 輸入だとする根拠があるんですか?

94 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 15:20:20
みんな長い寿命のようで仲哀天皇は早く死んでるのは一致してるな

95 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 16:00:42
自分は二倍年暦が輸出か輸入かは別として
人間が最初に気がつく暦ってのは
四季ではなくて、二季で1年だと思うんですよ。
天岩戸の神話も、暗闇と光ですし...
あれは、日が暮れるのが早い時期と、日が暮れるのが遅い時期があることを
表しているんだと思う。

96 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 17:46:16
学問板とは思えない低レベル


97 :サガミハラハラ:2006/12/21(木) 17:52:09
そうですか。では学問板まであなたの力で高めてください。
この件はこれからの日本古代史研究に大きな影響を与えることになります。この研究によってあなたの名声も高まること請け合いです。

98 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 19:23:41
>>97
そうですね。日本の古代史研究を深めようと思ったら
この倍年暦研究によって年代測定しないと始まらない。
まず、そこからが始まりだと思います。
じゃ、ないと、邪馬台国も神武天皇も天照の研究まで進まない。

とにかく、サガミハラハラさんの本を楽しみにしています。


99 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 21:41:53
普通に邪馬台国以前の暦が残っていたとは思えんのだが・・・

100 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 21:47:41
普通が此処では通じない
所謂意図ある歴史解釈と意図に沿った事実の選択と加工が此処で行われている

101 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:02:19
>>91
>殷末に箕子が朝鮮に行き、
殷の文化を伝えたのである。

箕子って実在したのでしょうか?


102 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:43:10
>>100
いーんじゃないの。信者さんとの間で楽しんでもらえば。
「邪馬台国はなかった」「逆説の日本史」とかと違い、他に与える影響なんて皆無だし。

103 :サガミハラハラ:2006/12/22(金) 08:15:30
このスレでの意図とは、真実の追求です。

104 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:30:28
二倍年暦の解明は古代史の解明にとって重要ですね。
垂仁天皇までは解明が進んでいるみたいですが...
そこから前の解明が進むことも重要ですね。

古代の神話の時代の解明

アマテラスは男性で高天原(畿内南部の高天台)で家督を継いでいたが
跡取りの子供が居なくて、弟のスサノオ(須佐で分家していた)に家督を奪われるのを恐れていた。
で、兄弟は争ったみたいだが、最終的には仲直りして
その弟の子供の一人を養子に貰ってたみたい。

スサノオの須佐は現在の宇佐で、神武天皇もそこの出身でその子孫。
西暦1〜2世紀頃、神武はその須佐(宇佐)分家から
畿内(高天原)本家に婿養子に入った。
また、須佐(宇佐)は山戸の州都であり、その山戸は
後に魏志では邪馬台国と言われている。

西暦3世紀の邪馬台国は、高天原(畿内南部の高天台)本家の
宇佐分家の王朝であり、卑弥呼はそこの巫女だった。
宇佐(須佐)は、男王が政治をし、巫女が祭祀をする、政教分離体制を整っていた。
魏志に出てくる邪馬台国の時代は、スサノオや神武より後の時代。



105 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 15:54:47
とにかく、サガミハラハラさんの本が楽しみだ。



106 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 17:00:56
なぜ、成務天皇の在位期間が水増しと分かったのか?



107 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:00:25
サガミハラハラさんの
神武が西暦120年ころって、どういう理由からですか?

垂仁の没年を西暦314年と仮定すれば、
その先を倍年暦だったと仮定して計算したら
神武は紀元前の人になってしまうんですけど...

ということは、神武〜崇神の間でまた年代を操作しているだろうと
いうことが分かったのですか?

108 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:54:08
古事記の孝元天皇と開化天皇の年齢って
天皇の在位期間とごちゃくちゃになってないか?



109 :サガミハラハラ:2006/12/22(金) 19:02:41
安康以前の在位年は二倍年暦であるとはいっても、綺麗に二倍年暦になっているわけではありません。仁徳帝の時代は22年の水増しがあり、
成務天皇は在位60年といわれながら、実際は7〜8年しかありませんでした。
崇神天皇以前も同様綺麗な2倍年暦ではないとおもわれます。
スイゼイ即位を160年と仮定して、垂仁崩御314年の間、10代154年で1代平均15.4年となり、天皇の1代平均として無理はないでしょう。
神武120年代即位は私の史観の根幹をなすものです。
これが崩れることは、史観の組みなおしをいみします。

110 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:16:58
>>109
>神武120年代即位は私の史観の根幹をなすものです。
>これが崩れることは、史観の組みなおしをいみします。

それって、どういう意味ですか?
最初から全部やり直し? 
それとも、あくまでも崇神以前だけやり直し?
また、神武さんをその年代に設定した理由をお教えください。
本は買いますのでw

111 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:19:33
夢想スレ

112 :太国:2006/12/22(金) 19:45:14
サガミハラハラさんは倭の五王を当時の各天皇と盲目的に信じて結論付け、
これで紀年を組む根底としていますが、五王は天皇ではないので、安康、雄略
以前の殆どの天皇の年代がそれだけで数十年はズレてしまい、失敗です。
少なくともかなり前からサガミハラハラさんには忠言していたのですが、
当人はイコール説を過信しており、理論の崩壊は目に見えるようです。

なお待ってたんですが、どうも拙者への質問の回答もないようで失望してます。

113 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:14:11
>>112
サガミハラハラさんは、別に綺麗に
倭の五王と天皇を合わせているわけではないですよ。
サガミハラハラさんが出した応神天皇〜雄略天皇の間の即位・崩年は
倭の五王の使者が来た年数を綺麗に算出したわけではないと思います。

114 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/22(金) 20:17:04
>>112
例えば古事記の
仁徳没年干支丁卯(427年)の3年後
→430. 1 ★倭國王遣使獻方物。

同、履中壬申(432年)の6年後
→438. 4 ☆以倭國王珍爲安東將軍。

同、反正丁丑(437年)の6年後
→443   ★…倭國竝遣使獻方物。

同、允恭甲午(454年)の6年後
→460.12 ★倭國遣使獻方物。

安興没年干支は不記載
→477.11 ★倭國遣使獻方物。

こう云う感じで古事記と宋書が
一定間隔でズレてる事は考えられないでしょうか?

宋書の蛮夷伝と帝紀を同期させて考えた場合の、
・済死丗子興遣使貢獻の460年 - 済の最初の遣使443 = 済の治世17年
・古事記の、19代・允恭没454年 - 18代・反正没437年 = 允恭治世17年

ピッタリ17年ずつですが如何でしょうか?

115 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:42:32
サガミハラハラ氏は、
一応、垂仁の没年までは、二倍年暦と若干の補正で考えたけど
それ以前の天皇に関しては、かなり独自の史観で
無理を通したんじゃないのかな?
神武天皇が120年代の即位なんて、どう考えても無理だよ。
崇神から神武までギュウギュウだ。
普通に考えれば、最低でも紀元前1世紀内は突き出してしまうよ。



116 :太国:2006/12/22(金) 21:02:42
>>114
そういう数字の一致というのは結構起こりうるものなんですよ。
それがしの神武即位が実年代で紀元元年っていう主張も、正直言って
たまたまやってったらそうなったということで、まだ証拠が少ないし
結論を特定できません。

あの倉西の婆さんも120年のズレだったでしょうか? だいぶ記憶が薄れて
きたので数字がそれだったか、彼女の書を新たに読まねば心配ですが、あの
人は確かその数字をピッタリだとか主張し真だと主張してたことに、今回の
ことは同様的に準じると思います。

つまりそれらの数字のピッタリというのは、こういう研究をしてると度々
起こるもので、そのピッタリが黄金の数字に見えますが、実はそうでなく
真鍮であったということなんです。みどもも今まで数字の一致などはノートを
見せて示してあげたいが数えきれずあるんです。だからそのピッタリに
はまって真を得たなどと思わないほうが賢明です。

ですから、みどもも 神武即位=実年代紀元元年 などと云ってますが、
ピッタリの語は表に出していません。今のところ、おっかなびっくりこれが
正かな? と半信半疑的に主張してるに過ぎません。完全にひっくり返され
る指摘が不動ならば撤回するしかありませんので。うまく一致してたら
それがしも狂喜しますし、その気もあるわけですが・・・。w

ところで

卑弥呼の女王国が 邪馬壹國
倭の五王の国が  邪馬臺國

とするのが、みどもの見解です。

117 :サガミハラハラ:2006/12/22(金) 21:05:53
>>112
質問みおとしたようです。どのスレの何番だったでしょうか?すみませんです。

118 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/22(金) 21:08:07
神武即位が120年で、垂仁崩御が314年なら、経過年は194年
書紀では神武元年BC660〜AD70で、経過年は729年

ざっと3.75倍差ですね
神武即位が130年の場合は3.96倍になります


サガミハラハラさんは3倍説を認めて居ないので
2倍で消費可能分との差は全て虚構年扱いで片付けていると思いますが
実際はどうなんでしょうね

119 :太国:2006/12/22(金) 21:10:59
>>117 サガミハラハラさん

>>73>>74 と  >>93 です。前者はコテハンぬけましたがそれがしです。
他スレも質問しましたがだいぶ時間が経ってますので、どこだったか忘失です。

120 :サガミハラハラ:2006/12/22(金) 21:19:15
すみませんでした。雄略帝については、日本書紀紀年法がついに解明されたのスレの>>513にかきこみました。
スレ違いでした。>>93については、一般的に考えると、大陸から日本へだとおもわれ、私もそう思います。

121 :太国:2006/12/22(金) 21:25:41
>>120 サガミハラハさん
無理強いのようで失礼しました。あちらの>513を覗かせてもらいました。
疑念は残りますが、適正回答だと思います。

122 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 21:31:18
孝霊天皇のときに富士山が噴火したらしいですが
今、ちょっとグーグってみたら、
富士山って約1800年前に噴火したらしいですね。
http://www.geocities.jp/takuji0781/fujisannanrokunoyouganjukei.htm

これって、孝霊天皇の時代とばっちりじゃないですか?

私は、サガミハラハラさんの垂仁天皇の没年から
純粋に倍年暦で孝霊天皇の在位期間を算出したら
134-171.5ぐらいになったんです。

もうちょっと詳しい地質学の情報があれば良いのですが...

123 :サガミハラハラ:2006/12/22(金) 21:33:22
私の史観の根幹はAD57年の金印授受においています。倭国が金印をもらったのは、出雲もふくめた倭を統一できたからだとみています。
となると、統一に時期は40年から50年にかけてとみることができます。(金印が貰えたのは武帝のお見舞いへの褒美とも考えられるが、
統一していたことは条件であったろう)。朝鮮の三国史記に40年代に王があちこちに降臨していることから、
これが、倭国の高天原からの降臨のことであろうと判断しました。
其の時にニニギの命は0歳であったことから、人間の結婚や寿命を考えて下ってくると、120年代が神武の東征の時期となります。

拙著の「卑弥呼の登場 明窓出版刊 1500円」に三国史記の部分はありませんがのっております。(三国史記の件は本を発行してから見つけました。)


124 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 21:37:17
>>123
サガミハラハラさんは、高天原って、どこだと考えたんですか?


125 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 21:38:30
崇神5年の大飢饉の記述も気になりますね。
これは年輪調査で、ある程度
分かるような気がするんですけど...

126 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/22(金) 21:42:57

まぁ、太国さんの紀元元年説の場合は、書紀製作者サイドには作為性が認められず
太国さんサイドに倍率適用区間に作為性が認められるので本当にタマタマだと思いますが

127 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 21:48:48
年輪年代測定方法で、1世紀〜4世紀くらいのいつに
大飢饉らしいものがあったのか知りたい。

崇神5年がいつぐらいなのか?分かるわけで。

128 :サガミハラハラ:2006/12/22(金) 22:03:32
私が考えている高天原は佐賀県背振山地です。山地の中央部は高原がひろがっています。
周辺に記紀伝説の地名があり、ニニギノ命の伝承があります。

129 :サガミハラハラ:2006/12/22(金) 22:07:32
>>121どうもスレをあちこちとみていたり、じっくり考えてみようとおもっているうちに、どんどんすぎていって、答えそこねとかもありました。どうもすみませんでした。

130 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:08:49
>>128
私が考えている高天原は、奈良県金剛山高天台。
それに関しては、サガミハラハラさんと全く違う。
あと、邪馬台国の否定地は大分県の宇佐です。これも
サガミハラハラさんとは全く違う。
これらに関しての理由は、また違う機会に書きます。

しかし、垂仁天皇までは、結構、サガミハラハラさんと同じ考えですね。

131 :太国:2006/12/22(金) 22:40:29
>>126
倍暦適用はいろいろ統計をとったり、前後の記述に無理はないか?
生物学的におかしくはないか?→例えば10歳あたりでもう子供を設けたとか。
一見表を眺めて窮屈が見え見えでおかしくはないか?とか。
まだ100歳を超える長寿の状態ではあにのか?とか。
かなり検討はしたつもりです。

132 :太国:2006/12/22(金) 22:42:55
>>131 訂正

×状態ではあにのか?とか    ○状態が残ってないか?とか

133 :太国:2006/12/22(金) 23:08:22
≪崇神世が3倍暦のようだとの考察。≫

崇神1年(1年は元年)と同2年、同3年とを区分けし、各々の数字に3を
加えていくのを毎回繰り返して行き、三表の区分けする。

紀の記録の月数を追って三表に配分すると

【元年基点表】
元年  1月 2月
4年  10月
7年  2月 8月 11月
10年  7月 9月(2回) 10月(2回)

【2年基点表】
8年  4月 12月
11年  4月
17年  7月 10月
62年  7月
65年  7月
68年  12月

【3年基点表】
3年  2月
9年  3月 4月
12年  3月 9月
48年  1月 4月
60年  7月
69年  8月


134 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:12:52
前から思うんだが、考古学や歴史学と
地質学などとの協力関係って
出来てないのか?

135 :太国:2006/12/22(金) 23:26:41
>>133 続き
三つの表の各々の月数の統計は


 1年基点    2年基点    3年基点

 1月 1    1月 0    1月 1
 2月 2    2月 0    2月 1
 3月 0    3月 0    3月 2
 4月 0    4月 2    4月 2
 5月 0    5月 0    5月 0
 6月 0    6月 0    6月 0
 7月 1    7月 3    7月 1
 8月 1    8月 0    8月 1
 9月 2    9月 0    9月 1
 10月 3    10月 1    10月 0
 11月 1    11月 0    11月 0
 12月 0    12月 2    12月 0

136 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:37:18
考霊36年 富士山噴火=>崇神5年 大凶作

誰か、年輪年代法の詳しいサイト、知りませんか?
以上のことを調べたいのです。

137 :太国:2006/12/22(金) 23:52:46
>>133 >>135 続き

>135表を眺めると
1年基点の1年、4年、7年、10年・・・・・の年数となる列は3月は別として
 4月、5月、6月が0で紀に記述が見られない。
2年基点の2年、5年、8年、11年・・・・・の年数となる列は
 1月、2月、3月が0で紀に記述が見られない。
3年基点の3年、6年、9年、12年・・・・・の年数となる列は
 10月、11月、12月が0で紀に記述が見られない。

このことから推察できることは、1年基点の
元年、4年、7年、10年・・・・・の年は4,5,6月の三ヶ月を空亡月として
その三つの月が無く、1年が12ヶ月のところ9ヶ月で1ヶ月が14日制の
実質の1年が 9×14=126日 であっただろうと思うのである。

その間ある月は1〜14日、ある月は15〜28日など互い違いかどうかは
これからの研究にかかるが、そんなようなやり方だったろうと考えている。

2年基点も同様でこの場合は1,2,3月が空亡であり、3年基点も同様
10,11,12月が空亡月であったということである。これを3年ごとに順繰りと
繰り返して年を過ごしていたのであろう。

3倍暦だから
126×3=378日 で 378−365=13 の行き過ぎの閏月が14日に1日不足で
可能となる。

実際紀の記述は14日の2倍の28日まであり、現今の午後3時が15時でも同等
の意味であると同様、月後半の28日までの数字もこんな感じで使って
いたのかも知れない。


138 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:22:47
太国氏は著作出版予定はないのですか?

139 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 08:13:30
>>101
箕氏の実在は100%間違いありません。
史記にでており、歴史上の人物ですし、中国史ではそれほど古い時代の人物ではありません。

140 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 08:40:42
なぜ成務天皇が水増しだとわかったのか。
 せい務天皇は紀では在位60年としるされています。普通暦で30年となります。
これが水増しであることですが、
仲哀天皇没を355年におきます。在位9年ですから、即位は352年となります。成務天皇の崩御は351年となります。
仲哀天皇は26歳で死んだので、生年は329年です。仲哀が10歳にもならぬのに父のヤマトタケルの命が死んだといいますから、
ヤマトタケルの没年は337年ごろとみられます。ヤマトタケルの死後も景行天皇の治世なので、景行の治世は340年まではあったとみることができます。
そういすると、成務351年没で景行340年まで生存ですから351−340=11でこの時点で成務治世年水増しがわかります。
かようにして各人の年代をおっていくと、成務即位345年とでてきます。

141 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 08:57:32
>>140
たしかに、成務天皇に関しては、前後の天皇の在位期間とか年齢から判断して
無理があるだろうなと思ってました。



142 :太国:2006/12/23(土) 09:57:10
3倍暦があったとするならば、無理は解消に向かうと思います。
この天皇世は3倍暦であったと観ています。そうでないと竹内宿禰の寿命が
100歳を超えてしまいまして、2倍暦でも同様の意味で考えにくいです。

成務の時代は

サガミハラハラさんは 水増しがあった。
それがしは 3倍暦をやっていた。

との見解違いがあるわけです。

143 :太国:2006/12/23(土) 10:07:53
>>138
2倍暦3倍暦に関して、出版のことを考え巡らしたことは多々ありますし、
現在でもそんなことを想うこともしばしばです。
ですが、それがしは紀年は素人のカジリなので、実際は本気にやろうとまで
心が進んでいません。素人的でよいとか条件が似合うならば可能性はあります。

144 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 10:09:12
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。



145 :太国:2006/12/23(土) 10:11:48
>>144
紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。

146 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 11:21:29
武内スクネは百年以上生きたものとおもわれます。
景行6年うまれと仮定すると、普通暦で3年で景行元年が315年ですから317年うまれとなります。
仁徳50年に最後の記事となっていますが、仁徳50年は在位期間から比例配分すると仁徳
治世12年となります。
仁徳元年は411年ですから治世12年は422年となります。
422−317=105となり105歳となります。現代人でもはっきりと受け答えできる
のは105歳ぐらいですのでこれでOKであると考えます。

147 :太国:2006/12/23(土) 11:33:11
>>146
そうしますと5代に竹内宿禰は使えてきたわけですが、5代の各天皇が
2倍暦で、みな相当の妥当的寿命で収まるということですか?
5代が全部ではないでしょうが、各々の天皇の代に水増し年が挿入されて
いたということですか?

想うに、いろいろ部分的に水増しがあるとすれば、どんな紀年の組み方でも
矛盾は解消しちゃうように感じますが、あまりにも水増しの程度が多くて
疑問には思わないですかね?所々水増しでは恣意的に思えます。

それともそれを納得させる合理的根拠、論をお持ちなんですか?

148 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:09:40
>>146
サガミハラハラさん。
仁徳の治世は12年?
あなた、そんなこと言ってましたか?
たしか、仁徳の治世は2倍に水増ししていて
本当の治世は22年?くらいだったと言っていた筈...
あなたも、数字がゴチャゴチャになってませんか?

149 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:16:35
>>146
サガミハラハラさんよ、あなたも自分で言ってて、
数字がゴチャゴチャになってないか?w
あなたは、前にこう言ってたw
仁徳の治世は12年じゃない!あなた計算が間違っているよ!!


679 :サガミハラハラ :2006/12/15(金) 13:15:28
応神天皇と仁徳天皇の間は応神天皇崩御410年春、空年があって411年春が追う神天皇在位最終年、411年秋仁徳天皇即位となります。

仁徳天皇の在位期間には、神功皇后を卑弥呼の年代に持ち上げるために、2倍年暦で44年普通暦では22年の虚構年(水増し年)がはいっています。

150 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 12:38:18
書き間違えました。仁徳50年は普通年では12年頃にあたるということです。
治世という語の使い方の間違いです。すみませんでした。

151 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 12:43:59
>>147
それが古事記分註天皇崩年干支です。

152 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:45:40
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ

153 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 12:56:39
サガミハラハラさん、本を書くに当たって
ちゃんと計算が間違ってないか
誰かに確かめてもらった?

じゃないと、その間違った計算で本を書いている可能性がある。
なんせ、複雑だわな、この計算はw

アラビア数字のない古代の人も頭の中、
ゴチャゴチャになったんじゃないの?


154 :太国:2006/12/23(土) 13:01:33
≪垂仁世も3倍暦のようだとの考察≫

垂仁1年(1年は元年)と同2年、同3年とを区分けし、各々の数字に3を
加えていくのを毎回繰り返して行き、三表の区分けをする。(>>133と同様)

紀の記録の月数を追って三表に配分すると

【元年基点表】     【2年基点表】     【3年基点表】
元年 1月 8月    2年 2月 10月    3年 3月
   10月 11月    5年 10月      15年 2月 8月
4年 9月       23年 9月 10月    27年 8月
7年 7月          11月       30年 1月
25年 2月 3月    26年 8月 10月   39年 10月
28年 10月 11月    32年 7月      87年 2月
34年 3月       35年 9月 10月   90年 2月
37年 1月                   99年 7月 12月
88年 7月                   100年 3月

155 :太国:2006/12/23(土) 13:23:27
>>154 続き
三つの表の各々の月数の統計は(>>135と同様)


1年基点    2年基点    3年基点

1月 2    1月 0    1月 1
2月 1    2月 1    2月 3
3月 2    3月 0    3月 2
4月 0    4月 0    4月 0
5月 0    5月 0    5月 0
6月 0    6月 0    6月 0 
7月 2    7月 1    7月 1
8月 1    8月 1    8月 2
9月 1    9月 2    9月 0
10月 2    10月 5    10月 1
11月 2    11月 1    11月 0
12月 0    12月 0    12月 1

156 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:32:27
 1年基点    2年基点    3年基点

 1月 2    1月 0    1月 1
 2月 1    2月 1    2月 3
 3月 2    3月 0    3月 2
 4月 0    4月 0    4月 0
 5月 0    5月 0    5月 0
 6月 0    6月 0    6月 0
 7月 2    7月 1    7月 1
 8月 1    8月 1    8月 2
 9月 1    9月 2    9月 0
 10月 2    10月 5    10月 1
 11月 2    11月 1    11月 0
 12月 0    12月 0    12月 1

157 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:41:28
【元年基点表】     【2年基点表】     【3年基点表】
元年 1月 8月    2年 2月 10月    
   10月 11月
3年 3月
5年 10月        4年 9月     
7年 7月                
15年 2月 8月
23年 9月 10月 11月
25年 2月 3月     26年 8月 10月   
27年 8月         28年 10月 11月          
               30年 1月
35年 9月 10月    32年 7月
37年 1月        34年 3月
39年 10月        
               90年 2月
87年 2月        88年 7月        
99年 7月 12月    100年 3月

158 :太国:2006/12/23(土) 13:43:36
>>154 >>155 続き

>>137と同様
三ヶ月記述が連続して0の月は、1年(元年)、2年、3年とも総てが
4月、5月、6月の月になっている。この3ヶ月の間は紀の垂仁の文には
記述がまったく無いということなのである。

ということは、毎年毎年が4月、5月、6月 の三ヶ月間を空亡の月として
使用しないで、3月から7月へ直結して暦を運用していたと推定できる。
現今のアパート、マンションが、104号室を欠けさせて室番をとる如くである。

そして1ヶ月が14日間であるのは崇神世と同様であり(>>137) 、15日以降
の月の使用は特別な事情の無い限り使用しなかったのである。ここの
ところが崇神世との違いであろう?

それは垂仁の紀の内容では、15日以降の月後半の記述がたった1回しかないこと
でうなづける。(垂仁4年 9/23 狭穂彦の反乱 のみである。)
おそらく現今での午後2時が14時と同等で二種類の時間の表現法をやって
いるのと同類のことなのであろう? 不吉な事件とかは、月後半の日数で示し
ていたのだと推定している。

159 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:47:27
 1年基点    2年基点    3年基点

 1月 2    1月 1    1月 
 2月 3    2月 2    2月 
 3月 2    3月 2    3月 
 4月 0    4月 0    4月 
 5月 0    5月 0    5月 
 6月 0    6月 0    6月 
 7月 2    7月 2    7月 
 8月 3    8月 1    8月 
 9月 2    9月 1    9月 
 10月 5    10月 3    10月 
 11月 2    11月 1    11月 
 12月 1    12月 0    12月

160 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 13:49:36
これ凄く脈がありそうですね

太国さんはもう日本書紀の全年間で調べましたか?

161 :太国:2006/12/23(土) 13:54:22
>>154 >>155 訂正
ちょっと間違いました。
垂仁100年(3/12)は3年基点でなく、元年基点でした。

>>155の 1年基点の3月  ×2回   ○3回
     3年基点の3月  ×2回   ○1回

162 :太国:2006/12/23(土) 14:02:04
>>160
全年間は、やってないです。というのは等倍暦と断定できる舒明以降は
かなりやってはいますが全部ではないです。
手前のほうはだいたいは、充分統計等は、やっています。
しかし月の統計、日の統計のほかに、他の角度からの統計もできますから、
とことんではないです。w

163 :太国:2006/12/23(土) 14:14:53
>>159 征東大将軍さん
これのみ3年基点が書かれてないようですが、貴殿は垂仁世を2倍暦と観て
いるわけですな?

164 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 14:33:10
垂仁〜成務が特に悩みどころなのでちょっと試してみました。

垂仁紀までは三倍区間であるほうが、治世年間的にも
標準世代モデルとの一致性に措いても筋が通ってると思うんですが、
そうすると景行以降を二倍区間と考える必要があるだろうと。

しかしそれでは武内宿禰の寿命を考慮すると、
景行元年から三倍区間が始まっている方が良い筈であるし

等と考えて迷ってる訳です

165 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 15:04:36
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ

166 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 15:08:22
>>128 :サガミハラハラ :2006/12/22(金) 22:03:32
>私が考えている高天原は佐賀県背振山地です。山地の中央部は高原がひろがっています。
>周辺に記紀伝説の地名があり、ニニギノ命の伝承があります。

二倍年暦とは話が違うけど

みなさん、高天原と高千穂を同一視していないか?
サガミハラハラさんも含めて...

高天原と高千穂は名前は似ていますけど全く違いますよ。

高千穂に降臨したのは、ニニギノ命(アマテラスの孫)でしたが
高天原のほうは、アマテラスやスサノオが降臨したところです。

高千穂は九州のどこか(佐賀県か?宮崎県の北端か?など)だと思いますが

高天原のほうは奈良県御所市の金剛山高天だと思う。



167 :太国:2006/12/23(土) 15:15:05
>>164 征東大将軍さん
景行世はそれがし2倍暦と観ております。同天皇世を3倍暦と考えると
日本武尊の寿命が12歳行くか行かないかという年齢となり、ちょっと少ない
とは思いませんか? 3倍暦だと16、17歳位で丁度いいです。

なにせ日本童男と云われるように、日本武尊は少年で死亡したということです。
等倍暦だと32歳でなにか不審性がない年に思えましょうが、それだと竹内宿禰
の寿命が100歳を超えてきて考えにくいのです。

それで日本武尊のエゾ、九州への征伐話は、少年の日本武尊を強力な配下が助力
して辺地へ行ったということなのでしょう。景行天皇はかなり日本武尊の日常の
なりふりが尋常でないので、騒ぎでも起こされたら大事だと心の中でそう
考えていたんだと思います。だから天皇の己れから遠く隔離したい意図が
あったからだと、そう考えております。

168 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 15:42:32
>>167
うーんそうですね。日本武尊の寿命が短くなり過ぎる感じですよね

では景行の>>154>>155のような区分けの結果はどうでしたか?
二倍特有の出現パタン等が見られましたでしょうか?

169 :太国:2006/12/23(土) 16:03:31
>>164 征東大将軍さん (>>167

すでに宣化と開化世との等倍暦、2倍暦の理由を、それぞれどこかのスレ
ニ書きこんでありますが、景行の『景』の文字には「日」の字が1個しか
ありせん。宣化の『宣』のウカンムリの中は、二日の「二」を分断した
形象のなので、宣化世からは等倍と考えるということです。

つまり『宣』は、開化の大日日尊の2倍暦の示唆と観ている二つの「日」
を「二」の分断にて否定していることであり、開化の『開』にも「日」が
二つあるのが知れます。

しかし景行の『景』の文字は「日」が1個しかなく、これは景行の世は
2倍暦なのかと考えてしまうこととなりますが。この字の「日」の下に
あるナベブタの『亠』は、号を命名した者が隠しとぼけてる秘のもので、
実は『亠』は『ニ』を隠匿している形象なんです。だから景行は号に
『二』があり、2倍暦の時代だということが露見するのです。
ナベブタの上部の点は故意に点として縮めているもので、横に引き伸ば
せば『二』になるからです。
景行天皇は根来の忍びの祖の系と、それがしは昔からそう観ています。

さらに先述のように崇神、垂仁世のように月数の表をしらべますと、
3ヶ月連続での空亡月群というのが、三表での元年基点では無いこと
(2年基点はあり)が表を作れば一目瞭然で判明するのです。

それでそれまでの二天皇世で行われていた3倍暦は景行世で
やめたようだとわかり、かつ日本武尊と武内宿禰の年齢の不具合が
おかしくならないと観られる暦は 2倍暦 だと結論するわけです。

170 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 16:09:40
(年-月/月)

元年基準   二年基準

1-7       2-2
3-2       4-2
         12-7/8/9/10/11
13-5
17-3      18-3/4/5/6/7/8
19-9      20-2
25-7
27-2/8/10/12 28-2
         40-6/7/10
43
51-1/8    52-5/7
53-8/10/12 54-9
55-2      56-8
57-7/9/10  58-2
         60-11

171 :太国:2006/12/23(土) 16:35:50
征東大将軍さん
いずれにしろ仁徳とか雄略とかあのへんの天皇以前、神武からそれらの天皇世
まで、一直線、単純にその全部が2倍暦あるいは全部が3倍暦などという
論拠では(等倍暦も含めて)必ずと云ってよいほど、どこかに日本武尊や
武内宿禰の寿命が不具合だとか生物学的におかしいとかとの矛盾が出て解決
するのは困難の、破綻が到来します。

これを解決するには、水増し、挿入とか讖緯説、60年120年繰り上げ下げとか
の論に行き着くか、それがしのように各天皇世で倍暦変更があったと観るか
になって来ます。
2倍暦として考えた、景行世の奇数年、隅数年表二つを眺めましたが、欠の
月は各々多少ありますが、ほぼランダムで何とも?です。
云えることは、いずれの月日数を調べても下旬の数字がただの一回もないと
いうことです。1日〜20日までしかありません。21日以降は0です。

詳細を調べますと、15〜20日まではほぼ総てが九州行幸還幸の記事に限ります。
(景行54年 9/19 天皇マキムク行幸とかはあります。)
ですから、天皇の旅行の時はまず月後半の数字になるのであります。これは
当時九州が月後半の数字を常用していたか?とも推察できましょうが、通常時は
やはり1〜14日までで1ヵ月としていたと、そういう考えに至ります。
すると半年のうちに12ヶ月埋まることとなって来ます。半年182日として
14×12=168日   182−168=14日  で閏月が成ります。
やはり景行世は2倍暦との感をぬぐえません。


172 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 16:42:44
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ


173 :太国:2006/12/23(土) 16:46:54
>>167 訂正

× 3倍暦だと16,17歳位で丁度いいです。

○ 2倍暦だと16,17歳位で丁度いいです。

174 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 16:48:52
×12-7/8/9/10/11 → 〇12-7/8/9/10/11/12
×57-7/9/10 → 〇57-9/10

 1年基点    2年基点 

 1月 1    1月 0 
 2月 3    2月 5 
 3月 1    3月 1
 4月 0    4月 1 
 5月 1    5月 2 
 6月 0    6月 2 
 7月 3    7月 3 
 8月 3    8月 3 
 9月 2    9月 2 
 10月 3    10月 2 
 11月 0    11月 2 
 12月 2    12月 1 

 1年基点    2年基点    3年基点

 1月 0    1月 0    1月 1 
 2月 4    2月 2    2月 2
 3月 0    3月 1    3月 1
 4月 0    4月 0    4月 1
 5月 2    5月 0    5月 1
 6月 1    6月 0    6月 1
 7月 3    7月 0    7月 2
 8月 0    8月 2    8月 4
 9月 1    9月 0    9月 3
 10月 1    10月 1    10月 3
 11月 0    11月 0    11月 2
 12月 0    12月 1    12月 2

175 :初心者:2006/12/23(土) 16:51:05
歴史マニアが多いですな〜ww


176 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 17:28:05
うーん、では日の統計でのパタン出現まで視野に入れなければなりませんね

ただ、それが正しいなら、この年間はもともとは純粋に1〜14日までで編まれていて
15〜20日の記事は後から書き足した痕跡をワザと残している
と云う事でしょうかね

177 :太国:2006/12/23(土) 18:59:06
>>176
その可能性はあります。またいろいろと〜類推?

別々の原書の内容をストレートに記述したために、そうなったのやも知れません。
片方の原書は通常の14日までの記述でもう片方のそれは24時間制の譬えの
ように、倍の28日までの記述方法であったとか?
さまざま考えられるんではありませんか? 

178 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 19:11:28
>>153実は一番心配しているのはそのことなのです。
今まで銀座駅前大学や横浜歴研、神奈川歴研、東アジアの古代等の研究発表で発表したのですが、何の論評もされず、わからないという反応しかありませんでした。
ですから、計算は大丈夫かといわれても、多分としかいいようがありません。
出版してから、足し算がまちがっているとか8から4をひいたら3じゃなくて4だろう。とかの苦情が殺到するのではないかと苦慮しております。
間違いが見つかりましたら、手紙、ファックス、2ちゃんねるでご連絡ねがいます。

179 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 20:05:23
>>174の抽出が合ってるなら、景行紀の3ヶ月連続空亡月群は3表分類での

1年基点で、「11月、12月、1月」と見れば三つ続きじゃないですか?

この年間は「11、12、1」「2、3、,4」「5、6、7」「8、9、10」でセットだとすると
2年基準では4月を飛ばして「5月、6月、7月」で三つ続き

3年基準はナシと


うーん、まぁ他の天皇でのパタンと照合しないとこの正否はちょっと解らないですね

180 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:32:41
>>178
>今まで銀座駅前大学や横浜歴研、神奈川歴研、東アジアの古代等の
>研究発表で発表したのですが、何の論評もされず、
>わからないという反応しかありませんでした。

どういうことですか? あんまり共感がえられなかったの?
それとも、計算がややこしくて、みんな「?」になったの?

あと、>>166だと
高天原と高千穂は、名前が似ているけど、全く違うところだそうです。
自分も、高天原と高千穂、ごっちゃになってました。
でも、こういう人、意外に多いんじゃないのかな...
言われてみれば、高天原は畿内の可能性が強くて
高千穂は九州の可能性が強そうですね...
でも、この場合って、紀元前に一度、日本全国規模の連合体が
出来ていたということですかね?

181 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:40:19
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ


182 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 20:44:37
サガミハラハラの案って、信じられないなと思ったのは
神武天皇のところだな。
あれだけ、倍年暦で計算しようとしたのに

最後の最後に限って、神武天皇のところで、
ちゃんと記紀を年代を解明しようとせず、
適当に中国史書と金印で、無理やり神武を合わせようとした。

サガミハラハラは甘い、甘い。本なんて立ち読みで十分だ!


183 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 21:05:43
垂仁以前についての記紀の年代での検証はまだおこなっておりません。これからです。その検証の結果と
中国の史料による神武の年代がうまく接続できるかどうかはこれからの研究にかかっています。

184 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:32:31
>>188
本は買います。ただ、中国の史書と神武の年代を合わせるのは
悪いとまでは言いませんが、ちょっと...

まあ、他に何か資料があるのかよ?って言われれば、それまでですが...

だからこそ、古墳の発掘とか、年輪年代測定方法とかで
出来るだけ調べるべきだと...

185 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 21:40:14
2倍年暦は一般には全く新しい理論なので、それを受け入れる下地がないために、ほとんどのかたは何をいっているのかわからないようです。

186 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:41:42
>>185
それって、受け入れられていないというよりも
まだ新しくて、これから?ってことですか?

187 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:42:19
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQ

188 :太国:2006/12/23(土) 21:57:12
>>179 征東大将軍さん
1年基点で
景行4年11月(マキムクに都をつくる)があり、三ヶ月連続は無いです。

189 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:58:33
太国ってこんなに○○でも
生きていて楽しい?


190 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 22:00:19
そうです。2倍年暦の研究は専門在野を問わず、これから始まるのです。
私の本はその叩き台となるのです。

191 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 22:01:51
年代の合わせ方の問題なんですよ

サガミハラハラさんは帥升と神武は同時代と言っていますが
帥升と同時代なのはAD107年即位元年の懿徳で

建武中元二年=AD57年倭奴国の遣使と同時代が、AD57年即位元年の神武でしょう




>>188
ホントだ、すいません。見落としです

192 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 22:15:39
サガミハラハラさんは垂仁没を314年と決定する前提に
崇神没は258年はそのまま使っていたと思いますが

それでは垂仁の治世年間が長過ぎやしないですか?


雄略没年を古事記没年の489以前である書紀没年479年に
そのまま従う事以上の不審点です

193 :サガミハラハラ:2006/12/23(土) 22:31:46
垂仁没の前提は崇神ではありません。
景行紀の検討から315年ごろと算出し、住吉大社年代記の干支を2倍年暦とみて、垂仁没314年をだしました。
垂仁の即位年はまだ検討していません。

194 :太国:2006/12/23(土) 22:32:51
それがしは崇神没は259年と観てます。近いですね。

195 :太国:2006/12/23(土) 22:35:17
314? 315年ですか? 長いような気がします。

196 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:36:01
>>194
どうしてw?

197 :太国:2006/12/23(土) 22:39:08
>>196
説明は長くなってしまいます。1度年表を見て下さい。
「邪馬台国は大和朝廷になったのか part21」に倍暦表を出してます。

198 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:40:16
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQ

199 :太国:2006/12/23(土) 22:42:54
>>196
同スレpart21 の >411〜>499 に断続的に表があります。

200 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:43:40
ところで太国さんは古神道の最高権威なのですか?

201 :太国:2006/12/23(土) 22:47:46
>200
モノを出せばそうなります。なるべくここのスレの話をしましょう。
甘餓鬼(>>198)はシカトして下さい。ww

202 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:50:41
145 :太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144
紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。


203 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:51:53
>>201 >>202
紀年のほうは生かじりなんですか?

204 :太国:2006/12/23(土) 22:54:36
>>203
でなければ出版を手がけますよ。

205 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 22:55:27
そうでしたか?

サガミハラハラさんはT類やU類との切り換えを行なったりしても
住吉大社神代記の崇神と垂仁の没年干支を古事記と同等と断定して扱っている所までは良い訳ですよね?

古事記二倍年暦説で垂仁没年が314年である正しさは、
同一文献に崇神と垂仁の没年干支が記載され、且つ崇神の没年干支が古事記と同一
であり担保されているんじゃなかったんですか?

206 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:55:52
>>203
出版をしたことがあるんですか?

207 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:57:51
>>204
何の分野の本を出版したんですか?

208 :太国:2006/12/23(土) 23:00:36
>204は
紀年が生かじりでなければ、出版をやろうとしますよということです。

209 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:02:36
>>208
文章下手すぎますからね
無理ですよ貴方じゃ

>でなければ出版を手がけますよ。
これは返事としてふさわしいですか?


210 :太国:2006/12/23(土) 23:08:28
>>209
そんなことを言える柄か〜?
    ↓
お前の文の上半分は読点が無いではないか? 
                     いらぬことよ。

211 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:11:07
生齧りといっている人の返事に、
出版が出てくるとは、
凄い文章センスですよ!

212 :太国:2006/12/23(土) 23:13:05
>>205
実年代314年は日本武尊の没年と観てますが・・・。

213 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:36:16
ここのコテは、
太国に付き合えるんだから、
総て自作なんだろうなw

214 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/23(土) 23:44:17
私が以前に検証した時に、確か崇神没年を258春年にした場合の
二巡目の辛未年が314秋年だったと思うんですが記憶違いでしょうか?

サガミハラハラさんが垂仁即位年に付いて回避するのは、
そのまま古事記の崇神没年干支年が何時であるかに
言及しなければならないからじゃないんですか?


サガミハラハラさんの説には疑惑が沢山あります。
仁徳の在位年数を比率で出す算出方法と、
武内宿禰の寿命を決め打ちして生年を逆算しているところです。


本当はそう云う論理展開は成り立たないんじゃないんですか?

予め別の拘束条件から導かれた仁徳在位年数と武内宿禰の寿命を持ち出して
ソコから逆算して見せるのは不当なロジックなんじゃないですか?

サガミハラハラさんは、そんなロジックで景行元年を求めた訳じゃない筈ですよね

サガミハラハラさんは、古事記二倍年暦説で
崇神没年干支年から垂仁没年を算出して、その次の半期を景行元年にした筈ですよ

仁徳の辻褄も武内宿禰の辻褄もそこから計算した筈です

しかしサガミハラハラさんは垂仁の治世年間が長過ぎる事を知っているので
垂仁元年が明らかになってしまう、崇神の古事記没年に付いて言及したがらないんです

そう、雄略の古事記没年干支年の時のように


サガミハラハラさんの説が理解されないのは、計算の繁雑さだけでなく、そう云う不正行為を隠蔽している事が真の原因でしょう

215 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:47:56
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQ




216 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:58:35
>サガミハラハラさんの説が理解されないのは、計算の繁雑さだけでなく、そう云う不正行為を隠蔽している事が真の原因でしょう

つか紀年法じたいが理解されにくいという現状

217 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:05:29
145 :太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144
紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。
203 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:51:53
>>201 >>202
紀年のほうは生かじりなんですか?
204 :太国 :2006/12/23(土) 22:54:36
>>203
でなければ出版を手がけますよ。
206 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:55:52
>>203
出版をしたことがあるんですか?
207 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:57:51
>>204
何の分野の本を出版したんですか?
208 :太国 :2006/12/23(土) 23:00:36
>204は
紀年が生かじりでなければ、出版をやろうとしますよということです。
209 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:02:36
>>208
文章下手すぎますからね
無理ですよ貴方じゃ
>でなければ出版を手がけますよ。
これは返事としてふさわしいですか?
211 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:11:07
生齧りといっている人の返事に、
出版が出てくるとは、
凄い文章センスですよ!
                太国の敗退の巻

218 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 05:00:05
崇神5年の飢餓と、年輪年代測定方法がどう結びつくかで
二倍年暦が確かになる。


219 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 07:28:31
自分は、57年の奴国と107年の倭王は
無理に天皇に合わせようとするべきではないと思う。


220 :太国:2006/12/24(日) 07:30:37
サガミハラハラさんは、なにかいじくりすぎの感がある。
とくに水増しというのは1〜2回ならまだしも、それ以上水増しがあったと
いう状態ならば、論自体に疑念が出てそれがぬぐえなくなる。つまり、これは
どうか〜? の想いにひたる。

荒氏の餓鬼の丸、コテ無パンがわめいてきましたのでシカトして下さい。以前
余にコテンパンにやっつけられ、奴はうらめしやの泣き餓鬼になっています。w

221 :サガミハラハラ:2006/12/24(日) 08:26:26
>>205確かに住吉大社年代記ではそうですが、それをそのまま鵜呑みにするわけにはまいりません。一つ一つ検証する必要があります。
で、まだその検証はおこなっておりません。

222 :サガミハラハラ:2006/12/24(日) 09:00:49
>>214崇神没年の候補の一つに、古事記干支U類での258年春年があります。垂仁没年314年秋年は辛未年です。
これでは垂仁治世が60年近くになってしまいます。非現実的と私は考えました。
前にいろいろ書いたのですが、中途のものが多く、いろいろ考え検証し、最初のものと異なっていることが多いです。
集大成は今度の出版の中に記してあります。
垂仁即位年と崇神没年はほぼ同時ですので、垂仁即位年をきめると同時に崇神没年がきまりますが、そのことはまだ検証しておりませんので、
今回は回避いたしました。
なにぶん最近2倍年暦のことが論議研究されはじめているようなので、ぐずぐずしていると先を越されそうなので、
ここで出版としたわけです。
武内スクネの件はあくまでも、景行紀の傍証としてもちだしたものです。
仁徳紀を比例して105歳と仮定して当てはめてみたところ、偶然というか
それが真実であったからでしょうかドンピシャリとあてはまったわけです。
理解されないのは前に書いたように、新しすぎてうけつけられなかったからです。


223 :サガミハラハラ:2006/12/24(日) 09:10:43
>>222訂正お願いいたします。
 ぐずぐずしていると先を越されそうなのでを
 ここで私の愚説を述べ、何らかの参考にしていただけたらと思い

 としてください。

224 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 09:11:03
62)2002.8.26 弥生時代へ

琵琶湖の湖南地域に邪馬台国の主勢力があったとする推理があります。
滋賀県の守山市・栗東市一帯で近江富士を望む地域です。
野洲町・大岩山からは1〜2世紀に東海勢が作った「三遠式」と
近畿勢の「近畿式」銅鐸が混在するように24個出土している。

この推理を組み立てているのは次の点です。

紀元前三世紀...丹後・扇谷遺跡の鉄屑ー中国との交易が推定される

紀元前一世紀...丹後・奈具岡遺跡の玉類加工していた大規模集落
            針などの鉄製工具も大量に出土している

紀元前後...若狭湾ー琵琶湖北西岸地域…塩の道として機能し鉄製品の交易ルートか

          滋賀・熊野本遺跡の高地性集落で大量の鉄が出土
          土器の交易と重なる鉄の交易ルートー琵琶湖の湖南経由か
       
紀元一世紀前半...丹後・三坂神社墳墓群の中国製太刀ー朝鮮半島では鉄の技術低い頃

          当時、鉄の交易先は東海・北陸方面と考えられている

紀元1〜2世紀末...湖南の伊勢遺跡群などの都市ともいえる大集落群

http://www.geocities.jp/arashiyamabungaku/tango6-6.html

225 :サガミハラハラ:2006/12/24(日) 09:18:50
>>220
紀の編者がいじくりすぎたから、それを元に戻すためにあれこれと組み立てなおさなければ
ならないのですよ。綺麗に2倍年暦にならんでいるのなら、こんなに苦労しませんです。

226 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 09:32:21
>>225
唯一の希望は、古事記のほうは淡白だけど
まあ干支没年に関しては、素直に記述していることですか?
(誤記はあるでしょうが...)
それで、日本書紀を探るしかないと...

出来れば、失われた天皇記などの書物が出てきてほしいですね...

最近、衛星探査などで、地表に隠れている人工遺跡を探る技術とか
発展しているわけですから、それで、いろいろ遺跡が発掘されると良いですね。

丹後地方なんかでは、紀元前1世紀の鉄とか前漢の鏡とか
これまでの考古学の常識を覆すものが発掘されているし、

物部氏とか海部氏の遺物なんかでは、どうも天皇家は
皇統譜を操作していたみたいだし...
(どうも一族同士の関係で操作した形跡があるらしい...
これは発覚したところで、今の天皇家には全くリスクは無いように思うのだが...)

227 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 12:06:34
ここは他のスレよりも比較的まともに思えるので質問させてください。

古田氏の九州王朝説を骨子に見ていくと
このスレの主題はじめ、五王の問題や白村江以後の問題など、
いろいろと納得できる点が多いのですが、
そのあたりの古田氏の評価ってどうなんでしょう?
細かいところで異論反論があるのは当然としても
あまりにも評価が低い(DQN扱いとか)ので以前から気になってました。

やっぱ「東日流外三郡誌」なる偽書を掴んだせいで、
それまでの研究・考察の成果も落ちちゃったってことでしょうか?
だとしたらある意味被害者と言える気もするのですが。

関係者でもなければ信者でもありませんが、一ファンとして気になってました。
他のスレで訊いてもまともな見解はいられなかったもので。

228 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 12:31:00
根本的に事実無根の記紀に歴史を合わせようとするから符合しない
大和朝廷の痕跡は4世紀以前では出ていない
支配には意思の伝達手段としての文字が必要であり形として残らねばならない
20〜30の寿命では口承による伝承は100年も持たない
また1世代の伝承でさえ語り手と聞き手の想像による差異が内容を変えてしまう

229 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 12:41:56


やっぱり自作自演確定だねw
こんなに文章が弱い人達が集まりますか?ふつう(太国の真似)!



230 :太国:2006/12/24(日) 13:06:23
>>227
だから、古田先生の言う九州王朝はおおむね正解ですよ。

卑弥呼の女王国  邪馬壹國
倭の五王朝の国  邪馬臺國

こういうことですよ。双方が九州にあったんです。
津軽が間違いだとしても、九州もそうにはならないわけで、
当時二つの王朝が九州に並立して存在したの真です。

231 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:17:06
>だから、古田先生の言う九州王朝はおおむね正解ですよ。



232 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:37:47
なんかさ、安易に「王朝」みたいな言葉を特別視しすぎていると思う。

中世だとさ、大友家とか島津家も九州王朝にいえるしね。
でも、彼らは一方で、畿内の朝廷や幕府と主従関係も結んでいたし、また、
彼らの遠い親戚が日本全国にいたし、また他の地域の諸侯とも姻戚関係も結んでいた。

その何か...これが「王朝」でこれが「王朝ではない」という
言葉に対して、あまりにも大きくなりすぎているのが
古代史の研究での解釈だと思う。

最近、言われているように、畿内王権と九州王権の指導層が
親族関係にあったというのも、中世みたいな関係が出来ていたともいえる。

それにしても、王朝以外にも何か、別の言葉とかないか?


233 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:36:27
>>230
太国さんよ今度は古田説かw
論がメチャクチャだよなお前w
しかも古田さんからも発展してるみたいだし、
証拠あるのか?www

234 :↑   太国:2006/12/24(日) 17:38:47
コテ無パン

倭留を懲らしめ一筋に〜 苦難の道も恐れない〜♪

235 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:41:30
>>234
お前の自作自演には、
いつも証拠は必要ないみたいだしなwww

236 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:44:52
>>232
>中世だとさ、大友家とか島津家も九州王朝にいえるしね。

言えねぇダロ。


237 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:45:45
145 :太国 :2006/12/23(土) 10:11:48
>>144
紀年のほうは生かじりです。古神道の機密は確保しています。
203 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:51:53
>>201 >>202
紀年のほうは生かじりなんですか?
204 :太国 :2006/12/23(土) 22:54:36
>>203
でなければ出版を手がけますよ。
206 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:55:52
>>203
出版をしたことがあるんですか?
207 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 22:57:51
>>204
何の分野の本を出版したんですか?
208 :太国 :2006/12/23(土) 23:00:36
>204は
紀年が生かじりでなければ、出版をやろうとしますよということです。
209 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:02:36
>>208
文章下手すぎますからね
無理ですよ貴方じゃ
>でなければ出版を手がけますよ。
これは返事としてふさわしいですか?
211 :日本@名無史さん :2006/12/23(土) 23:11:07
生齧りといっている人の返事に、
出版が出てくるとは、
凄い文章センスですよ!
                太国の敗退の巻


238 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:31:06
サガミハラハラさん、
107年の倭国王・「帥升等」って、全部、人名じゃないでしょうか?
「シシト」と読むように思います。どうでしょうか?

実は、これと近い名前の天皇が一人居ます。
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)です。

実は、あなたの倍年暦で計算で、欠史八代の天皇を計算したら
孝安天皇の在位期間が、83年〜133年になるんです。
(計算間違ってたら、ごめんなさい)

どうでしょうか?
あなたは欠史八代には、違うやり方を適用しようとしていますが、
むしろ、愚直に崇神天皇以前も倍年暦で計算したらどうですか?

107年の倭国王・「帥升等」は、前の57年の奴国王と違って
倭国王というふうに認定されていることに意味があります。

後漢書に「倭面土國王」とあり、ヤマトの国王と読めるかもしれません。


239 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:59:17
987 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 18:57:49
やっぱり、邪馬台国って畿内じゃないのか?
そういうふうに思えてきた...
卑弥呼(ひみこ)=御真津比売命(みまつひめのみこと)
台与(とよ)=豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)初代・斎宮。

狗奴国は熊襲かもしれんが...
ということは、当時の大和王権は、畿内〜北九州まで
一応、緩やかながらも連合体を構築していたんじゃないのか?

240 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:16:55
サガミハラハラさんの倍年暦補正計算で算出したら
西暦230年〜264年が崇神天皇の在位期間。
(計算間違っていたら、ごめんなさい)

これを信じるのなら、記紀では崇神天皇5年に飢餓が起こったということだから
倍年暦で補正したら、西暦233年くらいに飢餓が起こった。

ちょうど、その時代に卑弥呼が邪馬台国の国王になっている可能性がある。
つまり、飢餓のせいで、即位間もない崇神天皇が妹の御真津比売命に
祭祀政治をさせた可能性がある。

台与(とよ)というのは、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)で
初代・斎宮になった人物じゃないのか?

107年の倭国王・「帥升等」シシトは、
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)の可能性あり。
孝安天皇の在位期間(サガミハラハラさんの倍年暦で83年〜133年)
の可能性が高い。

サガミハラハラさん、あなたの倍年暦計算を
崇神天皇以前は、日本書紀の即位期間を信じて愚直に計算してみるべきでは?

問題は57年の奴国王の金印ですね。これは、どういう意味を表しているのか?

241 :太国:2006/12/24(日) 19:40:41
卑弥呼は崇神より後代の人物ですな。

なお不良らしきものがこのスレに来て蠢いていますので、シカトされたい。w

242 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:21:47
>>240
マキムク遺跡って、祭祀政治の根拠地という印象が強いみたいだね。
つまり、崇神5年の飢餓の影響で大困難になり、
若い崇神は、妹を巫女とした祭祀政治を始めた。
この妹のことを卑弥呼といった。
また、飢餓の困難さが、マキムクという祭祀都市を建設し
前方後円墳という宗教的要素が強い古墳の始まりとなった。

それでOK?

243 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:24:03
>卑弥呼は崇神より後代の人物ですな。
それは難しいでしょうね。
記紀のトリック(繰り返し)に騙されています。
何度も登場する神であり天皇を、伝承にて確認なさった方がよろしいですね。
有名な伝承にヒントがありますよ。しかも其其断片もある。
貴方の得意な想像は幾ら長けても、納得する方が少ないですが、伝承は不動の為説得力を持ちますからね。
いかがでしょうか?

244 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:36:17
今、日本書紀をちょっと読んだけど

崇神の妹で、巫女をやっている人が登場する。
彼女の名前は御真津比売命(みまつひめのみこと)...

んで、疫病で多くの人が餓死しているのとか...
あと、その妹の場面では、遠い蛮族が謀反を起こしていて
それを、この巫女やっている妹が悲しんでいるとか...
この遠くにいる蛮族って、狗奴国(熊襲)じゃないのか?

あと、年輪年代法では、この3世紀というのは
飢饉があったのでは?と言われているらしい。

でも、こういうのが分かったのって、全部
サガミハラハラさんの倍年暦+一部補正方法のおかげだ。

245 :太国:2006/12/24(日) 21:54:23
>>243
それは大間違いですね。神功39年の卑弥呼らしいかすかな資料は伊達では
ありません。神功の世の前後のころの姫です。
着の編者らが卑弥呼を神功皇后だろうとして挿入した記事ではありません。
そのころ九州にいた女王ということを編者らは原書で気がついていたという
ことです。貴殿のは時系列の錯誤をして失敗ですよ。

246 :太国:2006/12/24(日) 22:09:20
>>245 訂正

× 着の      ○ 紀の

247 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:19:43
少しづつ、絞られてきてないか?

ただし、>>239
の卑弥呼は倭迹迹日百襲姫だと思われ。

248 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/24(日) 22:33:08
神武治世元年(BC660=AD-659)天皇即位=建武中元二年(AD57)倭奴國遣使、
懿徳治世元年(BC510=AD-509)天皇即位=永初元年(AD107)倭國王帥升等遣使
崇神治世十年(BC88=AD-87)倭迹迹日百襲姫命没=正始八年(AD247)卑弥呼没

http://kodaishi2006.web.fc2.com/index.html

これで良い筈ですよ

249 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:51:52
みんな、いろいろ言っているうちに
徐々に修正されていきながらも、絞られてきたんじゃないのか?
こりゃ、ここ5年以内に空白の歴史が埋まると思う。

箸墓=卑弥呼の墓は確定。
ただし、記紀に書いてある孝霊天皇の皇女ではなく
妊娠した年齢から言って、孝元天皇の皇女だと思う。
孝霊天皇の皇女と孝元天皇の皇女は名前は殆ど似ているし...
記紀の編纂者がゴチャゴチャになったんじゃないのか?

あと、107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
おそらく、第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)
サガミハラハラさんの倍年暦を崇神天皇以前も
愚直に計算していったら、この天皇になった。

250 :太国:2006/12/24(日) 22:54:41
確定はしてないでしょ。

251 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:56:59
>>248
よい線までいった。ただし、ちょっと違う。

まず、57年の倭奴国王は、無理に天皇にあわす必要は無いと思う。
たしかに、この国王は金印を貰ったが、この国王は倭国全体の王とは認定されていない。
あくまでも奴国の王としてだ。
サガミハラハラさんの倍年暦だと、孝昭天皇(41.5-82.5)だ。
よって、畿内の天皇家は関与していない。

あとは>>249を参考に。

252 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:04:23
>>250
自分は今まで、邪馬台国は九州で、別に畿内王権があった説だったけど、
でも、今はちょっと、邪馬台国=畿内王権じゃないのか?と思っている。

というのは、サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にあてたら
107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
と一致したから。

あと、崇神天皇のところで、飢饉が起こって、
遠い蛮族に謀反を起こされるというのが出てくるが、おそらく狗奴国の謀反だろう。
また、崇神は叔母に祭祀を頼んで宗教の力に頼る記述が出てくるが
この叔母こそ卑弥呼じゃないのか?倭迹迹姫命だ。
記紀には倭迹迹日百襲姫命で崇神の大叔母の名前が書いてあるが
名前が似ているから記紀の編纂者もゴチャゴチャになったはず。
あるいは、途中で入れ替わったのかも。
なんせ、妊娠したわけだから、年齢から考えてね...

253 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:11:26
>>245
神功と卑彌呼はまるで一致するところがない。
馬鹿馬鹿しい。

254 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:49:33
>>253
自分もそう思う。たしか、サガミハラハラ氏は
日本書紀の編纂者は、倍年暦だったことを考慮しないまま
無理に卑弥呼と神功をすり合わせたらしいな。

卑弥呼は、どうも崇神天皇の大叔母か叔母だろうね。

255 :とりあえず、まとめ:2006/12/25(月) 00:59:17
サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。愚直に。

57年の漢倭奴国王が金印。これは、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、奴国の王の可能性が強い。
また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので、金印を貰えたのではないだろうか?
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代であり、奴国王は、天皇に黙って、
使節を送ったのではないだろうか?

107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)

崇神天皇の時代(230.5-264)

崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。

そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)

この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。

また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。

崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。

256 :鄭聲之:2006/12/25(月) 01:55:08
まだやってたんかいw

257 :太国:2006/12/25(月) 07:57:53
>>253
馬鹿馬鹿しくはないですよ。紀の編者は神功39年に卑弥呼らしい記事を挿入
したのは  卑弥呼=神功皇后  との先入観から書き入れたのではなく、
当時の時代に女王が九州に存在していたことを各原書等から把握して神功39年
に位置させたもので、少ない記事ではあるが、これは揺るがせません。

上の等式は成立はしませんが、神功の時代に九州に女王国があったことは
不動ですよ。神武の時代に卑弥呼がいてその娘、血族が卑弥呼だと主張するの
ならば、魏志倭人伝には女王国とかの記述などはしないはずで、天皇国とかの
その名称に近い国名で記述がなされてるはずです。紀の神武の時代に畿内に
女王がいたなどとの記載はまるで無いではありませんか。

これは神武の世に卑弥呼がいないことを意味していますよ。女王などの天皇に
匹敵する女の勢力があった記事など、全く記紀の神武世の箇所にはありません。

258 :まとめ改訂版:2006/12/25(月) 08:59:59
サガミハラハラさんの二倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。

57年の漢委奴国王が金印。漢委奴国王は、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、委奴国(伊都国)の王の可能性が強い。
また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので金印を貰えたか? あるいは偽者なのか?
これより約200年後の魏志倭人伝には、邪馬台国(やまと王権?)の対外出先機関が
伊都国にあったというふうに書かれていたから、そういう重要な関係上
伊都国の王が金印を後漢から貰った可能性がある。
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代である。いずれにせよ、漢委奴国王は天皇ではないと思う。

107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
よく、 倭国王・帥升(すいしょう)と教科書では覚えたが、これは間違いである。

崇神天皇の時代(230.5-264)
崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。
そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。
また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。
崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。

259 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 09:02:25
>>258
サガミハラハラさん、これで、ほぼ正解じゃないですか?
神武は西暦2世紀の人物ではありません。

260 :太国:2006/12/25(月) 10:07:12
>>257
漢委奴国王は天皇ではないと思う。同意。

しかしながら、 倭迹迹姫命≠卑弥呼 である。
これが等号で結ばれるならば、紀の神武のところの題名『神武天皇』は廃され、
まるっきり違った題名の『卑弥呼女王』として紀に載ることになる。

261 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:24:21
>>260
邪馬台国の「台」は、「たい」と読まずに「と」と読んだほうがよい。
よって、邪馬台国(やまとこく)と読むべき。
邪馬台国(やまたいこく)は間違い。
台与も「とよ」と読む。

おそらく、祭祀都市マキムク宮や前方後円墳の登場は
崇神5年の疫病と飢餓の発生が大きい。
そういう切欠から、崇神天皇は、
叔母の巫女による祭祀政治に頼ったのだと思う。

狗奴国(くとこく)は、九州の宇土半島にあった国だろう。
記紀では、崇神のところで、飢餓の発生で全国で反乱が起こって
遠いところで蛮族が反乱を起こしたとか言っているから
この狗奴国(くとこく)のことを言っているのだろう。


262 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:25:42
>>260
おまえ、神武=崇神とでも思っているのか?
二人は全く違う人物だ。

263 :サガミハラハラ:2006/12/25(月) 10:28:55
まだ神武以降のことは詳しく考えておりませんが、もろもろのご意見参考に
させていただきます。

264 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:35:10
>>263
サガミハラハラさん、崇神天皇以前も
あなたの倍年暦を、日本書紀の即位年代に
素直に適応したほうが良いと思う。

近年、崇神天皇の祖父の孝元天皇の皇子の一人の名前が書いたものが
発掘されているから、欠史八代もいたのでしょう。
邪馬台国(やまとこく)は、畿内のマキムクにあって
畿内から北九州まで押さえていたように思う。


265 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:38:07
>>258
魏志倭人伝には、帯法郡の使節をむかえる迎賓館が
伊都国にあったと書いてある。

よって、57年の「漢委奴国王」というのは
漢の委奴(いと)国王と読むべきだろう。

266 :太国:2006/12/25(月) 10:47:00
>>262
さっきの文をよく読め、どこに余が  神武=崇神  などと主張した。?
そんなことは言っていないぞ。そのようなホモ論説は否定されするべきである。

神武≠崇神

が正である。これは別人だ。

267 :太国:2006/12/25(月) 10:49:18
>>261
ヤマタイをヤマトなんぞと読んで、大和にするんでは古代史の明智小五郎
にはなれんぞ。ww

268 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:53:42
古事記の著者は、年代に関しては正直だけど
それでも勘違いで間違えた箇所がある。

それは、孝元天皇と開化天皇の寿命を
即位期間と間違えて書いている。
これは悪意ではなく、勘違いであろう。

これによって、日本書紀との整合性がとれなくなったw

まあ、古事記も日本書紀も、どちらも間違いを犯しているw

でも、古事記が発見されて良かったな。
日本書紀だけでは、とてもじゃないけど、解明できなかった。

あと、年輪年代法では、3世紀に飢餓が起こっていることが
分かっているらしい。ちょっとソースは忘れたが...

崇神、卑弥呼(崇神の叔母)、マキムク宮、前方後円墳の誕生と、
飢餓・疫病の発生は密接にかかわっている。

269 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:55:39
>>267
おそらく、邪馬台国(やまとこく)とは
かなり広範囲に影響力を保持していたのだろう。
感覚的に、室町時代前期の足利政権だ。
ただし、常に諸侯が各地で謀反や反乱を起こしていた。

270 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:02:09
近世の徳川政権でも、直轄領(天領)、親藩、譜代、外様
というふうに各地域が色分けされていた。

そういう意味で、古代の畿内の邪馬台国(やまとこく)は
北九州に直轄領(天領)を持っていて、
反乱を起こしていた狗奴国(宇土半島にあった国)の鎮圧に当たっていたのでは?
熊襲という蛮族の国の可能性が高い狗奴国の押さえには
邪馬台国(やまとこく)が直接、睨みを利かせねばいけなかった。
だからこそ、そのあたりに直轄地を持っていた。

そうじゃないところは、ある程度、自治・半独立が認められていた。
近世の徳川政権下の外様大名みたいにだ。

271 :太国:2006/12/25(月) 11:02:52
古代史の初心者が最初にひっかかりやすいのが

ヤマタイ→ヤマト→大和(ここで研究が進んで、次)→畿内説

そして最初のこの先入観が根付いて脱却できないほどの強信となり、
最後までこの考えの失敗からなかなか眼を覚ますことが難しくなる。
哀れこの上もない。

272 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 11:31:13
>>271
自分も、あなたと同じように考えた、当初は。
よって、あなたと同じような主張を繰り広げていた。
でも、今はそうは思わなくなってきている。

やまと王権の統治政策というのは、日本全国の
国々を、直結国・自治国というふうに色分けしていた可能性が強い。

実際に、平安時代なんかでも、全国の国々を
上国、遠国、大国などに分けていた(延喜式の格)

これは、古代からの日本の統治スタイルで、国々に
格付けをして、互いを監視させる仕組みで、

鎌倉時代は、御家人・非御家人・守護・国司
室町時代も、足利幕僚・非足利幕僚
徳川時代も、親藩・譜代・外様

これは昔からの日本の統治スタイルである。

よって、魏志倭人伝には、崇神天皇の周りみたいな
人物が出てくるのに、方角は北九州みたいな記述にあった。

記紀でも記載されているが、崇神のやまと王権は
狗奴国の反乱で、それを抑えるために
九州に軍を出動させて、そこに臨時の軍府を置いていたと思う。
魏の将軍は、それを見に行った可能性が強い。

273 :太国:2006/12/25(月) 11:36:31
女王国が畿内ならば、陳寿さんらはついでに天皇国の記述も並行して
倭人伝に載せるはずだよ。
これから昼飯だ。あとでな。

274 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:21:49
妄想だらけの砂上の楼閣みたいなスレやな。
アマチュアがプロに馬鹿にされるわけだw

275 :太国:2006/12/25(月) 14:23:11
>>274
倍暦論をどうど!

276 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 14:26:25
妄想というか、かなり確信を突いてきた。

これって、サガミハラハラさんが
記紀の実年代への修正の研究がうまくいったからだろう?
あとは、年輪年代測定法で、崇神5年を詳しく調べるだけだ。

277 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/25(月) 18:52:56
>>251
いいえ、日本書紀の制作サイドの人間は、
実年代のAD57年と書紀のBC660を合わせて原点にしている筈です

2倍ではなく3倍で計算して見て下さい。そうすると

実年代のAD57年中に、書紀のBC660、BC659、BC658
実年代のAD107年中に、書紀のBC510、BC509、BC508
実年代のAD247年中に、書紀のBC90、BC89、BC88

この様に配分されます。つまり

神武元年BC660即位=AD57倭奴国遣使
崇神十年BC88倭迹迹日百襲姫命没=AD247卑弥呼没

彼等はこの様に漢籍上の列島史と合わせて日本書紀を設計した筈ですよ

彼等が列島史上でもっとも古い年次記録であるAD57年を神武元年=日本建国年に
しようと考えた、としても動機としては十分でしょう


それにサガミハラハラさんの説で314年から逆算して虚構年を認めずにそのまま2倍とすれば、
神武元年は紀元前になる訳ですよね。
>>251さんは孝昭天皇をそのまま(41.5-82.5)としている訳ですし。

278 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/25(月) 18:54:31
海部氏が宮司の籠神社(元伊勢と言われる神社)所有の
伝世鏡に邊津鏡(前漢鏡)と息津鏡(後漢鏡)があります。

海部氏勘注系図には、天祖がこれを火明命(=饒速日命)に授け、
更に火明命が邊津鏡を子の天香語山命に分け授け・・・
等と云う旨があります

先代旧事本紀では天香語山命が高倉下命であるとしています

高倉下命は日本書紀の神武天皇即位前紀にあるフツノミタマの剣を皇軍に授けた熊野の高倉下の事です。


ですから神武と天香語山命は同世代で、
その一世代前の火明命(=饒速日命)が息津鏡(後漢鏡)を持っていた。と云う事に成ります


つまり後漢鏡を火明命(=饒速日命)が授かってないといけないので
神武が紀元前などとすると辻褄が合いませんし

光武帝がAD25〜57で神武がAD57〜なので
とするとやはり57年までに火明命(=饒速日命)が存在していたと見るべきでしょう

以上のように、神代と人代の切り替わりが一世紀である事が
息津鏡(後漢鏡)と火明命(=饒速日命)の関係からも裏付けられます

279 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:10:48
>>277
>神武元年BC660即位=AD57倭奴国遣使

57年の漢委奴国王が金印。
漢委奴国王は、漢の委奴国(伊都国)の国王という意味。
これより約200年後の魏志倭人伝には、邪馬台国(やまと王権?)の迎賓館が
伊都国にあったというふうに書かれていたから、そういう重要な関係上
伊都国の王が金印を後漢から貰った可能性がある。
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代である。
いずれにせよ、漢委奴国王は天皇ではないと思う。


280 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:14:08
こういうコピペをみつけた
漢委奴国王は、「漢(かん)」の「委奴(伊都)国」の「王」という意味。


100 :日本@名無史さん :2006/12/25(月) 21:54:08
>>60
中国王朝の慣例から言うと金印等の国王への印綬は主国・従属国・役職(王)
であり、勝手に三段に読むのは日本の学者だけ。
他の国に送られた印綬をみてみれば明快である。漢>委奴>国王としかこの印
綬は読めない。

281 :太国:2006/12/25(月) 22:43:33
履中天皇、反正天皇世が2倍暦なる理由

天皇の号の頭文字は『履』であるが、倍暦に関係する「日」の文字が一つしか
ないのがわかる。だから、愚直に考えれば「日」二つならば2倍暦に想いが
当然行くが、ここは否定して間違いに走りやすい判断のところなのである。

よく考えれば『履』の左上部分に死体を意味する「尸」があり、
これは「日」の再生(二度の生)を無にする屍の意味合いのものであり、
やはり2倍暦でないように見受けられるが、「尸」の右下部分に
「日」の字を回復させたい「復」が「日」とともにある。これは死の「尸」
を覆したい第二の「日」の再生をさせんがための強調の黙示であるのだ。
つまり文字の「日」は一つなるも、『履』は二に復する2数を示唆する、2個
の「日」を消極的に教えているのである。

このことは、履中の世が2倍暦を施行する意味なのだ。さらに反正の御名も
蝮の水歯別命で、その頭文字もなにかしらツクリが共通している。反正世も
2倍暦という示唆の御名である。ここの二天皇世は短い時代だが2倍暦であり、
そうすれば真の紀年の構築に至りうる。

282 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:02:03
>280
それも古田氏が主張してる点だよね。
学会でもそういう方向になってんの?

283 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:14:25
>>255
ありきたりの意見を長々とありがとうございますw

284 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:46:15
>>283
ありきたりの意見だけど...

結局はそういうことだろう...

285 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 01:50:07
「念」暦には叶わないよ

286 :太国:2006/12/26(火) 05:56:31
>>281
神武、崇神、神功、應神のように「神」の字のつく天皇らの世は3倍暦だな。

「日」の字のことだが、号でなく御名のほうによく 日本・・〜・・尊 など
の「日」は直接関係ないようである。

287 :太国:2006/12/26(火) 06:21:33
>>281
ここの主張は1点疑「念」が見つかりました。w
従って、あとで撤回致すやも知れません?
その理由はいずれ・・・・・・・・・。

288 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 07:31:07
いよいよ煮詰まってきましたな

289 :太国:2006/12/26(火) 09:07:32
>>287

>>281の論の疑念が解消しました。やはり、あれで間違いないと考えています。
疑念というのは、履中天皇の即位から皇位は初めての兄弟継承が行われ
たわけですが、履中、反正と允恭において、允恭は等倍暦と観てますから、
兄弟継承の途中で倍暦の変更などやったのか? むしろ残り兄弟の允恭まで
一緒の、同じ倍暦で臨むのが自然ではないのか?

となれば、履中から允恭までの兄弟総てが2倍暦で終始か等倍暦で終始かの
いずれかの選択を取ったんではないのか? と、こう考えていましたが、熟考の
結果、>>281の考えが真であるに至ったものです。理由を書けば辞書のように
厚くなる位論を重ねねばならないので、論はいったん保留せざるを得ませんが、
履中、反正では2倍暦を行い、允恭に至りて兄弟ながら2倍を取りやめ、等倍暦
に以降したということです。(>>281のとおり)

290 :古田二世:2006/12/26(火) 11:18:14
古田一世は数々の画期的ともいえる真説を書紀に発表しそれなりの評価をも得て、日本古代史研究上不滅の功績を残し、学術的にも
大きな功績を残しそうになったのであるが、東日流外三郡史というとんでもない偽書にひっかかり、それまでの功績を一瞬のうちに
灰燼に帰すこととなった。その結果、日本古代史研究は急速に交代し、昭和40年代以前の学説が幅をきかせるようになった。
今では古田説によればと注釈をつけると笑殺されるありさまである。
しかし、正しい説もあるのであるから、彼の説と言わずに自説として発表したほうがよいであろう。
いってみれば、彼の説はいってみれば、草刈場であるといえる。はやいもの勝ちともいえる。


291 :太国:2006/12/26(火) 11:22:12
九州王朝と津軽は別。後者はマズクても前者はほぼ正解。
倍暦の論もどうぞ! さあ昼飯、いったん終了。w

292 :古田二世:2006/12/26(火) 11:26:08
>>290訂正
書紀を初期   交代を後退  いってみればを一つ削除

293 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 15:35:29
二倍念力

294 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:59:01
>>290
サガミハラハラさんにも、古田の二の舞になってもらいたくない。

いいせんまで言っているのだが、
最後の最後で道を踏み外してほしくないと思う。

絶対に「こうだ!」って断定せずに、
一つの良い説くらいにとどめておくべき。

とくに、倍年暦に関しては、なぜ、日本書紀の編纂者は
仁徳天皇と成務天皇の箇所は改竄したのか、その有力な説を
いくつか提起しておくべきだろう。

あと、サガミハラハラさんの最後の危険性は
あれだけ根気よく垂仁天皇の没年まで算出しようとしていたのに
最後の最後になって、「自分の史観だ!」という思い込みで
道を踏み外して、神武の即位年代を出そうとしたこと。

また、神代の部分に関しては、神話学の分野だから、
へんに介入しないほうが良いだろう。
まずは、神武までの測定に全力を出す。

295 :サガミハラハラ:2006/12/26(火) 19:41:16
ご忠告ありがとうございます。
私の史観、今後の研究次第では大きく変更する場合もあります。
学問研究は日進月歩、常に真理にむかって進み続けます。

296 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 20:22:19
>>295
本を楽しみにしているよ。あなたの本を買う。
自分もあなたの本を参考にして、自説に役立てたい。
少なくとも、神武以降は、記紀の編纂者は人代としたわけだから
神武以降は何とかしたい。
神武以前は、神代なので、比較神話学とか、また違う分野が入ってくるから
とりあえず、後回しにしたい。

297 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/26(火) 21:08:34
良いですか?

サガミハラハラさんが垂仁の没年までしか出せないのは
基準点である崇神の没年を出すと、垂仁の治世年間が長すぎる事が露呈してしまうからですよ。
明らかな不審点が発生するので、話をそこで打ち切るしかないです


基準点に使った崇神没年と、算出年である垂仁没年の差が56年にもなってしまうのです。
これでは明らかにおかしい訳ですよ

ですからそれ以前の年代には「史観では〜」等と言ってこの問題の言及を回避しなければならないのです。


それに虚構年を認めずに314秋年から単純に書紀に依存して2倍だと計算しても、
垂仁の治世年間は五十年弱にもなります。この事だけでも、これは不審だと考えなければなりません

298 :太国:2006/12/26(火) 22:13:10
安寧、懿徳世が2倍暦の理由

理由を総て書きこむのはなかなか大変だが、簡単なもの一つを拾い出してみる。
号の安寧だが、これは孝安天皇の『安』の字と清寧天皇の『寧』の字で構成
されている。孝安の世は3倍暦で清寧の世は等倍暦の使用である。

つまり安寧の号は3倍暦と等倍暦の各々の天皇の号の組み合わせであり、
一の天皇世で二種類の暦法は使用しないとの考察から、安寧とはこの二つの暦法
を否定する号だという黙示となる。3倍と等倍の二個の号が各々欠けた号が
安寧の号字なのである。

ということはこの二つの暦法以外の暦法を使ったんだということであり、それ
は2倍暦を使用するという意味なのである。懿徳は先述したことがあるが、
もう一度説明すると、『懿』はヘンが「壹」であり(邪馬壹国とはここの
件は無関係)ツクリの上部は「次」になっている。結局壹の次だよという示唆
であり、所長、次長の「次」でナンバー2を意味している。

懿徳も2倍暦で行くとの号だということが理解できるのだ。

299 :サガミハラハラ:2006/12/26(火) 22:14:52
征東大将軍様、図星です。
けどそのうち解決しようと思っています。

300 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:47:45
ずっと前に、仁徳天皇の水増しは
倍年暦を考慮せずに、神功皇后の在位年代を
卑弥呼に合わせるためにやったというのを聞いたんですけど、

では、成務天皇の在位期間の水増しって
何が目的だったんですか?

301 :太国:2006/12/26(火) 22:50:22
>>298 検討
安康世はどうなんだ? との疑問が浮かぶが、この天皇世は孝安の3倍暦と
違い等倍暦であり、また安閑はどうなんだ? とのことに指摘が行き着く。
安閑世は2倍暦であり >>298 の考察は強引だとの反論を生む。

だからいったん先の論は保留としたいが、w 安寧も孝安も言わずと知れ
た欠史八代だから、近親性を観た孝安の「安」の意味としたい。w

302 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:55:26
>>297
あなたの言うとおりだ。
垂仁天皇の在位期間を倍年暦だったとして補正すれば
彼の在位期間は50年弱になる...

崇神天皇没年と垂仁天皇没年の間を、古事記の干支没年で考えたら
ちょうど区切りが良いのが、56年の差ということになるのか?

うんじゃ、この6,7年のズレは何なのか?

崇神天皇の頃って、飢饉で社会不安があって、
皇室出身の巫女による神権政治や、
宗教的な都市マキムク宮の建設、
宗教的な前方後円墳の建設が開始された都市だから
何か、これが関係しているのか?

303 :サガミハラハラ:2006/12/26(火) 22:59:57
成務天皇の水増しの理由?
そういえばそれ考えなかったな。なんだろう。

304 :太国:2006/12/26(火) 23:01:55
垂仁即位 260年  同崩御 292年 と算出ですが・・・。

305 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:05:20
崇神天皇と垂仁天皇のずれって、巫女政治と関係ないのか?
たしか、崇神天皇の娘が初代斎宮で彼女が台与(とよ)だとか...

今後、研究課題だな...


306 :古田二世:2006/12/26(火) 23:10:37
皆さん台与といっていますが、壱与が正しいですよ。ですから台与(トヨ)をもとにした、豊国台与由来説はなりたちません。

307 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:18:59
Wikiで気になった箇所を拾ってみる。


『日本書紀』から主な事績を拾い出してみる。

崇神天皇3年(紀元前95年)、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
即位してまもなく疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。これを鎮めるべく、
従来宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

天照大神を豊鍬入姫命(台与か?)に託して、
笠縫邑(現在の檜原神社・奈良県桜井市)に祭らせ、
その後各地を移動したが、垂仁天皇25年(紀元前5年)に
現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。(詳細記事:元伊勢)

崇神天皇48年(紀元前50年)、豊城命(豊城入彦命・豊鍬入姫命の同母兄)と
活目命(垂仁天皇)を呼びどちらを皇太子にするか決めた。
その結果、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

崇神天皇68年(紀元前30年)、120歳で崩御。(『古事記』では168歳)

308 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:29:57
Wikiで気になった箇所を拾ってみる。垂仁天皇編。

皇后は初め狭穂姫であったが、兄の狭穂彦(さほひこ)が叛乱を
起こしたので、皇后は兄に従って焼死。
その後、丹波から日葉酢媛を迎えて皇后とした。
また、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託し、伊勢神宮を興したと伝える。
日葉酢媛が薨じた時、野見宿禰(のみのすくね)の進言に従い、
殉死に替えて土偶を葬ったが、これは埴輪の起源説話として著名。


狭穂彦王(さほひこのみこ、生年不詳 - 垂仁天皇5年(紀元前24年)10月没)とは、
記紀における皇族(王族)

垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。
叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺する。
この「狭穂毘古の叛乱」は、『古事記』における最も物語性の
高い記述とされる。


309 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:32:13
>>307-308
以上のことから、崇神天皇から垂仁天皇の間では
社会不安、皇族内の対立・紛争、宗教的な変化など
いろいろとあったもよう。

310 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:35:07
>>307-309
サガミハラハラさんの感想を期待。
崇神と垂仁の間にも大きな虚構年がある可能性大。


311 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/26(火) 23:40:55
崇神では30年分、垂仁では47年分が連続で記事が飛んでますから

倍暦や等倍での虚構年を認めるなら此処でしょう

312 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:46:53
記紀によると、垂仁天皇って、古墳に殉死者が埋めるのを禁止するかわりに
埴輪を埋めさそうとした最初の天皇なんだよな。

考古学的には、3世紀中葉〜後葉になって
前方後円墳の周りに埴輪が出てくる。

だから、垂仁もこのへんの天皇だというのは確か。

313 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:26:54
>>311
虚構年の定義は分からんけど

崇神天皇から垂仁天皇への皇位継承は
すんなりとは行っていないということだろう?

単純に虚構年を入れたという解釈よりは
この間の皇位継承がすんなり行ってなくて
混乱したというのが、後世の年代換算の混乱の原因になっていると思う。

崇神天皇の末期に次期天皇を誰にするのか?という問題があったし
その垂仁の兄の同母妹は、初代斎宮の女性だし、
また、垂仁天皇の最初の皇后が、兄(彼も皇族出身)と計って
謀反を起こすという、ただならぬ混乱があるし...


314 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:38:49
日本書紀では、崇神天皇から垂仁天皇まで
すんなり皇位が継承されたような干支即位年が設定されているが
このへんは信用できない。
少なくとも、垂仁天皇の初期は、一族同士の
ただならぬ権力闘争が勃発している。


315 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:51:48
大きく飛んでるところ。

崇神天皇十七年〜崇神天皇四八年

崇神天皇四八年〜崇神天皇六〇年

垂仁天皇三九年〜垂仁天皇八七年

316 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 01:37:42
○崇神・大彦の活躍した年代
 古事記によると、崇神の崩御した年の干支(崩年干支)は戊寅(ぼいん)という。
これが318年か258年か議論されたが、
田中卓氏は「住吉大社神代記」のなかに、
次の垂仁天皇の崩年干支が辛未(311年相当)とあるのを発見し、
「崇神の崩御=258年」説を確認した。原さんもこの説を支持。
 258年といえば、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなった
248年からたった10年後。卑弥呼と崇神は同時代の人物になる。

http://www.begin.or.jp/sakura/sinpo01.htm

317 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 01:43:43
>>316
この人は倍年暦では計算してないが、
住吉大社の神代記では、垂仁天皇の干支没年が判明している。


318 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 04:23:45
ああ、今、初歩的なことに気がついたw

紀元0年って、存在しなかったんだw

いや〜紀元1年からなんだよねw このへんの計算ミスも
やらかしてしまったのかもw

ああ、うっとおしいw

319 :太国:2006/12/27(水) 08:01:45
履中、反正世が在位期間が短いし、允恭世はそれが長いようだということから、
前者が等倍で後者が2倍暦ではないのかと思ってしまうほうに考えが傾くで
あろうが、そうではなく前者が2倍暦で後者が等倍暦なのである。

紀から、允恭天皇は自己への医療をよくやっていたように伺える。だから
在位期間が長く保持できたのであろう。

320 :太国:2006/12/27(水) 08:13:47
>>316

卑弥呼−−→・←−−崇神  というH説は大間違い。

卑弥呼は神功の世の前後ころの九州の人物。

321 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:04:56
紀元1年をまたぐ年数計算

これって間違いやすい。



322 :太国:2006/12/27(水) 11:30:29
雄略世が等倍暦の理由

雄略4年に天皇が一言主神という人物に遭遇して
いるが、これは1倍暦即ち等倍暦の黙示のようである。

また同年から他の倍暦でやってたのを雄略4年から等倍暦に変更したとかの
意味ではなく、当然雄略元年から次代の天皇元年の前年までが等倍暦で
行く意味であろう。途中から倍暦変更はしないと思う。

323 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:53:33
サガミハラハラさんという人が年代を出そうとしているけど

自分も年代を出そうとしているんだけど、
紀元の年代の出しかたってややこしい。

小数点で出すと、たとえば
紀元345.5年と出すと、これは
345年なのか、346年なのかで、頭が混乱するし、
紀元前のまたぎの計算だと、紀元0年というのがなくて
紀元1世紀の前が、紀元前1世紀だから、やたら、ややこしくなる。

324 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/27(水) 19:58:53
まぁ、

99-47で52、
311-258で53ですから

n倍とかではなくて、倉西さんみたいに等倍の多列並列構造だった
って方向かもしれません

唐松山さんが言う「増し」も、等倍の多列並列構造と同じですね

325 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:21:27
サガミハラハラさんの本、高そうだな...
彼の過去の450ページくらいの本って
2万円超えているじゃん...

もっと安く出来ないのか...

326 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 21:41:54
日本書紀に書いてある出来事の年表が載っているサイトってないの?
倍年暦補正していないままの...

それを元に自分も倍年暦補正してみたい。

327 :太国:2006/12/27(水) 23:28:34
>>298
綏天皇が立太子となったのは 皇紀42年1/3 であるが、
安寧天皇の即位が 皇紀113年7/3 であり、月日数に注視すれば両者には
ピタリ半年の差があることが分かる。

このことが、それがしが紀年に興味を持つ始まりになった。このへんの世の
天皇は総てと言ってよいくらい1月即位が殆どである。なのに安寧のみは
なぜか7月即位だということである。(かろうじて例外は開化であろう。)
このことを思案して、安寧世は2倍暦の世と観るようになって行った。

開化も並外れて11月即位ということは、安寧にひっかけて特異な月の即位と
見せて、安寧と同様2倍暦世の黙示ではないかと考えるようになった。
このことは、いまも考えが変わらない。安寧も開化も2倍暦の時代と観る。

328 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 15:27:43
>>327
単純に昔の天皇は、何年には分かったとしても
何月に即位したかまで分からなかったのでは?
だから、一月即位ということにしたんだろう?
でも、開化天皇くらいは、何月に即位したかまで分かったんだろうと思う。


329 :サガミハラハラ:2006/12/28(木) 19:34:44
崇神天皇没年の古事記干支の戊寅は二倍年暦では一類273年、303年、333年。
ニ類は258年、288年、318年です。
ちなみにわたしが考えている垂仁天皇の没年の314年はU類です。

330 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 20:24:07
開化、景行、成務の3人は在位年数がぴったり60年
実在はしたと思うが、本当に即位したのか?
疑っているのは私だけですか?

331 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 21:41:17
>>329
一類、二類ってなに?


332 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/28(木) 22:21:48
日本書紀の年代操作区間の天皇の治世年数(在位年数ではなく)は、
対称関係を取る為に加算(減算)して調整した後の値なので、綺麗な数字になっているだけです

ですから、書紀のn倍暦論の立場を取るなら、実年代の年代列を算出するには
最初に減算(加算)してから割り算を始めなければならない筈なんです


>>331
二類は古事記二倍年暦論で崇神没258春年が戊寅になる年代列で

一類は古事記二倍年暦論で成務没351秋年が乙卯になる年代列

で良かったと思います


333 :サガミハラハラ:2006/12/28(木) 22:38:48
古事記干支には、西暦に当てるとき二種類あるのです。
      T類  U類
351年春 甲寅  甲申 
    秋 乙卯  乙酉 成務天皇崩御
352年春 丙辰  丙戌 仲哀天皇即位
    秋 丁巳  丁亥 仲哀2年
353年春 戊午  戊子 仲哀3年
    秋 己未  己丑 仲哀4年
となります。十干は同じですが十二支が異なります。

334 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:44:06
>>332
こうは考えられないかい
開化・・ネコ族
崇神・垂仁・カサカ・オシクマ・・・イリ族
景行・成務・・・・・・・・・・・・タラシ族
仲哀・・・・・・・・・・・・・・・タラシ族
神功・・・・・・・・・・・・・・・ネコ族
開化と景行・成務が即位していなかったら応神の正統性が成り立たない。

335 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 08:23:00
神武〜崇神までの年代は分からないけど
崇神は3世紀前半〜中期
垂仁が3世紀中期〜4世紀初頭の人物だというのは
古墳などの発掘状況からもよく分かる。
だから、垂仁は314年没、崇神は258年没でOKだと思う。
日本書紀で、崇神〜垂仁間は、合わないみたいだけど、
日本書紀は、いろいろ虚構年を設けてしまったわけだから
混乱が生じていると解釈するしかない...

57年の漢倭奴国王に関しては、後漢書では「倭」なんだけど
発見された金印では、「委」になっている。
でも、これだけ言えるのだろうが、「倭の奴国」とか「委の奴国」というふうに
分けて読んではいけない。
おそらく、「倭奴国」か「委奴国」なんだろうね。
ところで、後漢書って、いつ書かれたんだ?

336 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:14:15
>>335
後漢書は、書いてる内容は後漢の時代だけど
書かれた時代は、倭の五王よりも後の時代の可能性が高い。

中国史料で日本について記述してるもので
それが書かれた年代までピックアップしたサイト
ないかな?

いや、これだけ古代史について語っているサイトが多いのに
史書の原文について、日本のものから中国のものまで
まとめたサイトが殆ど無い。

337 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:37:00
57年の金印を貰う前って、立て続けに
半島の国々も、後漢から印綬を貰っているんだよね。
その延長線上で、委奴国も金印を貰ったくさい。

「委」か「倭」かどっちが正しいかは
実際に発掘されたのが「委」だったから、「委」のほうが
正しいんじゃないのか?
後漢書というのは、日本の名称が「倭」だと固まったずっと後ころに
書かれたものだから...その影響をたぶんに受けている。


338 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:53:28
記紀の仲哀天皇の章で
天皇家の祖先が、伊都国王から、いろいろ(三種の神器とか?)
譲り受けたみたいな記述になっている。

よって、畿内に居た天皇家は1世紀〜2世紀にかけて
北九州の伊都国から外交権を奪った可能性がある。

339 :太国:2006/12/29(金) 19:09:52
允恭天皇世が等倍暦の理由

紀の記述を見ると、允恭と宣化とは即位がともに12月なのに、何故か即位日数
が書かれていない。ここの共通点のことと、他の理由から、双方の時代が
等倍暦であったと、それがしは観ている。

編者側は困っていたのだ。文書偽造は国家のスキャンダルになろうし、やる、
関与するわけには行かない。これがために日の確定を渋り、保留とせざるを得
なかったのである。それは紀の原書類に2個の即位日の異なる数字があったため
で、いずれが真の日数なのかが分からず、彼らは混迷し続けたものである。

彼らは倍暦を知っていたか否か、その点は分からぬが、原書群には等倍暦のと
2倍暦等のと2種類の記述がされていたわけで、その判別も出来なかったのか、
選択を避けて、月数の記載までて停止としてしまった。こういう事である。

340 :太国:2006/12/29(金) 19:48:41
>>339 続き

紀の 允恭4年9/28 の文

『詔したまひしく「・・・・・各探湯(クガタチ)せよ。」とのりたまひて、
 味橿の丘の辞禍戸のサキに深湯瓮を坐えて諸人を引き赴かしめて、「実を
 得る者はおのづからに全く、偽れるはかならず害はえむ。」とのりたまひき。
 ・・・・・実を得る者はおのづからに全く、実を得ざる者は皆傷つく。』

もの凄い! 手を熱湯にぶち入れて真者は何でもなく偽者は大火傷を手に負う
という判別をする、超手厳しい行事の記事の文なわけなのである。
これはだ、イカアマは完璧に排除し、真のみを金剛のように保持するという
決意の具現なのだ。 〜ということは、
ここの 9/28 の日数はデタラメがないぞ、真そのものであるぞとの赤裸々な
文証なのだ。28日が事実、当時この世で嘘偽りなくその日が存在して、1ヵ月
が4週間の28日分で暦を現実に使用したという、力強い意思の文面なのである。
28日は真の日数の示唆なわけである。

結論はここで出た。1日〜28日まであったということは、允恭の時代が等倍暦
を使用したということであり、1ヶ月を丸々(他だし28日間)現今に近い状態で
使用していたという事である。28日だから閏月が生まれる。
原書群の作者の一部は等倍を、他の作者は同じ記事を2倍等でそれぞれ記載
していたために、紀の編者らはこの併用に戸惑って日の記述をあきらめたと
いうことであろう。現今の時間表記が午後2時と14時とが同等で両用できるの
と同様、これと似たようなことである。
なお允恭4年には姓氏を正した記事までもある。

341 :太国:2006/12/29(金) 19:50:03
>>340 訂正

× イカアマ     ○ イカサマ

342 :太国:2006/12/29(金) 19:53:03
>>340 訂正  すみません

× (他だし28日間)       ○ (但し 28日間)

343 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:23:02
垂仁天皇は3世紀後半が活躍の舞台だった人物
その理由


3世紀中葉〜後葉になると、畿内に出現した前方後円墳に
特殊器台形埴輪およびそれとセットをなす特殊壺形埴輪が新たに出現している。
この特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪の分布の中心は吉備から畿内へと移動しており、
その出現に際しては畿内側の役割が大きかったものと推察されている。
なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、
前方後円墳に特殊器台形土器・特殊壺形土器が採用されていることは、
吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。

日本書紀垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)(出雲国出身)が
日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、
これを埴輪の起源とする。

344 :太国:2006/12/30(土) 07:37:11
>>343

垂仁即位 260年  同崩御292年

それがしの計算とほぼ合ってますね。あと>339>340のとおり、允恭の時代を
等倍でやらない論は失敗のもよう。

345 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 11:35:40
>>339
允恭が等倍暦だとすると
古事記は1/2暦なのか?

346 :太国:2006/12/30(土) 13:21:14
>>345
1/2暦っていうのは2倍暦の反対のことか?
古事記がそういう暦法だっていうことは考えていないが、没年干支っていう
のは何らかの参考にはなろう。だが、紀のほうが正解と観ている。

347 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:02:39
おまえら、暦をいろいろ操作しすぎ。

普通に、雄略天皇の途中から暦が変わったんだろう?
よって、そのことを考慮すれば、おのずと年代は割り出される。

古事記の干支没年はほぼ正直とみている。

逆に、日本書紀の場合は、具体的に年代を出そうとしたために
神功皇后を無理やり卑弥呼に同質させようと
改竄して、後世の人間が混乱してしまっている。

348 :太国:2006/12/30(土) 14:07:37
>>347
舎人親王が改竄とやらを為したとかいう文書偽造に関与したそ論拠は?

349 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:22:25
というか、古事記の干支没年は
曖昧な年代だから、あんまり操作する必要が無いが

日本書紀の場合は、明確に年代を出そうとしたから
中国の史料との整合性が取れないと色々
まず〜と考えて、操作している。
その一つが女王卑弥呼の記述だった。
男王なら、数ある天皇の誰かにすれば良かったが
女王だったから、そういうわけにはいかず、無理して
神功皇后に合わせようとした。しかも、過去は倍年暦だったことを
考慮せずにだ。

古代史の年代は、古事記の干支没年を基に、
日本書紀の記述なども参考にして、割り出すしかない。
その場合、天皇の在位期間だけじゃなくて、それぞれの天皇の
生存期間まで割り出すべきだ。じゃないと、
日本書紀のどこが改竄しているか分からないのだ。
仁徳天皇の在位期間が改竄されていたのが分かったのは、
応神天皇と仁徳天皇の生存期間・在位期間の四つを見比べて
仁徳天皇の在位期間が不自然だったから分かった。

350 :太国:2006/12/30(土) 17:48:38
合わせるんだったら、神功皇后は卑弥呼であると書いてあるよ。
不自然だというのは君の論理に破綻がひそんでいるからで、改竄にはならない。
しかも>>340なぞはどう考えるんだ?

351 :日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:20:10
この板はもしか
養豚場でつか?

352 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 09:44:40
豚バラ一キロのお客様〜
お持ち帰りのご準備できました

353 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 13:42:52
末廬=松浦
奴国=博多
投馬=出雲
邪馬台国=大和・畿内



>大陸から見た日本<
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-5.htm

354 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 14:56:55
>>351
養豚場に見えませんか?

355 :太国:2006/12/31(日) 15:00:38
>>354
あまりそれを言わないで欲しい。というのは、それを喚き出したのが
余のニセ者であり、思い出して刺激するとまたニセ者の荒氏をやってくる。

356 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:18:56
>>354
豚野郎にはご注意ご注意


357 :日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:22:23

豚さんもたまにはお外で遊びましょうね。
豚臭いと嫌われるよ。

ブー

358 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 13:58:31
豚さん頭のまんなかがとろけてますね(^^)


359 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 20:35:52
太国さん頭のまんなかがとろけてますね(^^)


360 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 02:53:49
サガミハラハラさんは、古事記の干支没年も
最初の頃は倍年暦だったというけど、

当然、最初の頃は、通常暦だった中国の干支が入ってくるわけだから
干支も中国にあわせたものだったはずだよね。
それについては、どう考えているわけ?

361 :サガミハラハラ:2007/01/02(火) 07:55:20
おそらく干支が入ってきたとき、倭国では半年で一年なのだから、干支も倭国では半年で一つとしようと考えたものと思われます。
このような錯誤はときたまみられ、一昔前の日本でも名前を英語表記するとき、英語では名+姓であるからとして、
名を前に姓を後ろにしていたことがあります。

362 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 09:04:59
この板はもしか
養豚場でつか?

363 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 09:34:49


はい 豚だらけでつ。




364 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 00:05:43
サガミハラハラに出てきてほしい。

自分の最近の説は、邪馬台国の前身は、邪馬国で、そこの王権が
九州の大半を制覇したように思う。
この邪馬国が存在したのが八女で、その近くには山門郡が存在している。
山門とは、邪馬国の入り口という意味で
この国が九州全域を統治するにおいて、博多のほうにも山門という地名が出来た。

ちなみに、天皇家の出身地は投馬(つま)国で、
宮崎に存在したいた国家。ここの官には、ミミという名が多くて特殊だが
神武の前後の人間には、ミミという名が多いから
その当時の天皇家の流行の名だったのだろう。どうよ?

365 :サガミハラハラ:2007/01/04(木) 12:01:50
九州はいくつかの馬(間=居間客間土間などの間と同じ意味)にわかれ、北部九州が邪馬で其の中にあったのが邪馬の台国です。
都は惣座、吉野ヶ里そして小城と移動しています。
天皇の出身地は福岡氏で、宮崎説は紀の編者の誤認によるものです。耳川はタギシミミ等人名の尊称と同じであるが、これは、紀が神話当の舞台としたことから、誰かが
あやかってミミ川としたか、偶然であったろうと考えます。


366 :日本@名無史さん:2007/01/04(木) 12:12:55
それにしても、何故
投馬国と邪馬台国の都だけ
あういう「水行○日、陸行○月」みたいな書き方になったんだ?

普通に、○里て書けばよいじゃん、他みたいに。


367 :サガミハラハラ:2007/01/04(木) 12:16:57
どうも、陳寿の参考にした資料が複数あったようなのです。

368 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 10:21:30
結局、サガミハラハラさんは、
投馬国、邪馬台国、狗奴国を
どこにあったとしたのですか?


369 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 00:22:36




日本史板の常識

コテ=馬鹿






370 :太国:2007/01/06(土) 11:10:29
【繼體世の日数の統計表】

1日 3   11日 1   21日 0
2日 0   12日 0   22日 0
3日 2   13日 1   23日 0
4日 2   14日 2   24日 1
5日 3   15日 0   25日 0
6日 1   16日 0   26日 1
7日 2   17日 0   27日 0
8日 1   18日 0   28日 0
9日 2   19日 0   29日 0
10日 1   20日 0   30日 0

月前半の記述が殆どである。繼體の時代も倍暦をやっていたのが濃厚である。

371 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 12:04:14

ないから

372 :太国:2007/01/06(土) 12:53:41
>>370
24日というのは、繼體天皇が即位前に楠葉宮へ行かれたときの1/24であり、
数少ない下旬の記述が残存しているわけであるが、この天皇世が倍暦使用をして
いたと観るときに宮行きは即位前であることから、おそらくは先帝(武烈)の
世の異なる暦法の名残りと観られ、それがしは先帝は等倍暦だったろうと考察
していることから、24日の日付はうなづけるものである。

数少ないうちのもうひとつ、
26日は百済の武寧王の太子が死亡した體繼7年8/26のことであり、同世が倍暦
使用であってあちらが(おそらく通常の)等倍暦使用のことから、ストレート
記載にて下旬の記述になったのであろうと推察している。

あちらの文献記録が下旬になっていて、当時の日本では繼體世が下旬のないこと
での別暦法使用から断層ができ、日の数字は一致させることが出来なかったので
あろうと感じとれる。

373 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 12:54:23

日本史板の常識

太国=馬鹿



374 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:43:10
>>372
九州王朝肯定派が、
継体の楠葉宮とか2倍年暦検討するのか?
何を拠り所に肯定しているか、さっぱりだねw

375 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 02:59:36
354 :日本@名無史さん :2006/12/31(日) 14:56:55
>>351
養豚場に見えませんか?
355 :太国 :2006/12/31(日) 15:00:38
>>354
あまりそれを言わないで欲しい。というのは、それを喚き出したのが
余のニセ者であり、思い出して刺激するとまたニセ者の荒氏をやってくる。

www太国又語るに落ちてたよwww
私は荒らしをやってますって書いてあるぞ!

376 :太国:2007/01/07(日) 07:17:50
>>374
九州王朝があったことと繼體のこの件とは相互の関連はうすい。
君は倭の五王が当時の各天皇だと思っていて武烈の次代の天皇だから、双方に
影響があったと考えているんだろう? 五王は天皇ではない。

百済の記事は畿内から九州より遠い大陸からの当時の情報ではあるが、
肯定の論にからむことはありえるが、これでその論を押し進めるものでもない。

377 :太国:2007/01/07(日) 07:59:07
>>372
佛伝以前の天皇の即位は1月が非常に多い。これは1年の最初の月であるから、
ナンバーワンというものが朝廷の優先性につながるし、しょっぱなというのを
重んじることから先頭の月の1月を即位にあてるとするのはうなづける話である。
だから1月でない月に天皇が即位するのは、何らかの事情があったと推察したく
なる。たとえば垂仁と反正は1/2即位で双方が同一月日で1月即位だが、成務と
仁賢は1/5即位で同様、明確なのは神武、應神、顕宗は同様に1/1である。
安康は12月即位でへぇ〜と驚くし、武烈などは11月の即位である。

ところが、繼體は即位が1月でない2月で、日まで調べれば2/4であり、これは
懿徳と即位月日が同一である。このことから懿徳の2倍暦に因んで繼體世も
先帝とは異なる2倍暦を選択したからではないのか? との感を深くしたの
である。先帝の武烈は11月即位であったが、これは2倍暦の世の開化の即位と
同月であり、武烈の崩御11/11にあっては開化の即位11/12の、月日上での1日
手前の日だという事が分かる。それで武烈崩御の翌日からは流動的ではあるが、
繼體の世とみなすことが云える。翌日とは11/12だから、このことで繼體世は
開化と同様2倍暦の時代だったろうと推定した。それは今も考えが変わらない。

378 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:05:06
354 :日本@名無史さん :2006/12/31(日) 14:56:55
>>351
養豚場に見えませんか?
355 :太国 :2006/12/31(日) 15:00:38
>>354
あまりそれを言わないで欲しい。というのは、それを喚き出したのが
余のニセ者であり、思い出して刺激するとまたニセ者の荒氏をやってくる。

www太国又語るに落ちてたよwww
私は荒らしをやってますって書いてあるぞ!


379 :太国:2007/01/07(日) 10:06:12
>>377
武烈崩御の 11/11→11/12 という翌日移行から 1→2 という日付の一桁目
の動きで 1倍暦(等倍暦)→2倍暦 を黙示したのではないかと考えている。

>>340から想うことは、等倍暦の允恭世に熱湯に手をつっこむ壮絶な「探湯」と
いう、偽を選別し真を確保する行事がおこなわれており、その日が28日で
あることから1ヶ月がまるまる4週間あったという等倍暦の使用を確信したが、
手を熱湯につっこめば真っ赤にヤケドをするのがオチで、深考するに繼體天皇
のお后は名を手白香皇女という。この名は手が芳しく綺麗に白い手であったよう
でその名がつけられたのかと想うが、このほうは熱湯につっこんだばかりの手
の意味と反対のようで、これが繼體の皇后の名とすれば、允恭の等倍に反して
他の倍暦を使用するぞとの示唆だったのではないかと推察している。

允恭世と違う倍暦となることから、それに因んで皇女の名をつけたのかも
しれない。>>370の表と>>372から、下旬の二つの日の特異さを認容して別物と
すれば、あとは総ての繼體世の記述が1日〜14日までの月前半の記述で埋まっ
てしまうのが分かる。よって、当時は1ヵ月が今の2週間に相当し、
1年が実質上の半年になり、2倍暦をやっていたことがなおも濃厚になるのだ。

380 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:28:25
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ

381 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 12:46:36
こんにちわ
Q2倍年暦を提唱している人って、
結局記紀の時間は間違いだと、
認めているんですよね?

382 :太国:2007/01/07(日) 13:11:00
>>381
片方的にはそのとおりだ。なぜなら記紀双方では寿命の数字が
違っている。記はまぁ間違いが多いだろう。ただ倍暦に参考になる
数字とかがひそんでいるようだから、研究の参考になる。

紀は記の後に成立したもので、記の成立過程の反省検討の上成ったもの
で、記の誤りを修正しているからこちらのほうが正解である。
恵也氏は記紀が人間の頭脳内に置き留めたものだから、あてにならない
旨主張しているが、記は太安万侶が稗田阿礼の脳からの発露で成立させ
たものだから、この点同氏の云う歳の数字が間違いである可能性は
相当程度認容できる。しかし同氏は紀までが当時の何某の頭脳からの
発露で成ったものだから記と同様に数字がからきし出鱈目であるとは
云いすぎであり、紀の文は「一書に曰く・・・」の記載に終始し、当時
多数の紀の原書があって記述したものだから、信用性は多大である。

しかしながら、紀の「 」の書きこみは神武以前の神代がほぼ全部で
あるから、神代関係の数字は多様性のもので確定しにくいものの、
神武即位以降はそうでなく紀のほぼ全域にわたり年月日は日の数字まで
記載されている箇所が大半であり、立太子、即位、崩御等整然と記述
されているところから、信用性は(津田病患者の脳以外はw)充分で
あり、史容疑の初代名人から幾代続き残される紀戦の紀譜が不動のように
正確なる記載と認容できうる。超長寿の記載は倍暦のため矛盾がない。

つまり恵也のいう紀が口答のみで記録がない頭の記憶から出来た書だと
いうのは、これこそデタラメなのである。

383 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 13:39:01
ども
なんだかんだ言っても間違いを認めている史書の、
その他の部分を、都合よく盲目的に信用されてもね〜、
全く説得力がありませんよ太国さん。
どうしてそんなに都合良く出来るんですか?
偉い先生の受け売りなだけでしょw
あと文章キチンと書くべきですよ。

384 :太国:2007/01/07(日) 14:01:56
>>383
およそ大なる利害関係がなければ、舎人が文書偽造に関与するとは認め
難い。よく欠史八代を増加させたとか、その辺の天皇を超長寿にしたとか
云われるが、たった8代増加させたくらいでは利害の埋め合わせには
少なすぎる数であり、偽造決行には至りにくい数字である。
八百長をやるには、例えば背後に極めて多大な金が動くとかで、
何としてもイカサマをしたいとかの利害甚大なるある何かがあってこそ、
はじめて八百代とかの代数伸長をやる筈である。

君も津田病の軽度の患者に思えてくるが、イカサマをする相当な根拠
を出してからそういうことを云ってくれ。>>383にそれがないぞ。
さらに超長寿ばかりはイカサマの記載だとは云うが、編者側はそんなに
一見してデタラメと思える記載をそんなに当たり前に書くだろうかと
いうことを考えた場合、八百長をやるなら一見して第三者に発覚しない
ようにやるはずである。紀の数字の寿命は一見してべらぼうであるから
そんな300歳とかの数字のイカサマでは舎人が間抜けすぎる。警察の
前で捕まえて下さいと泥棒をやるようなもので、稀にそんなトンマは
いるものの、考えられる可能性は極めてうすいと云える。

385 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:07:19
何もかも太国さんは都合がいいんですね、
私には改竄史書は改竄史書にしか写らないけど、
太国さんも間違い認めてれば一体何処証明する必要があるんです、
気は確かですか?

386 :太国:2007/01/07(日) 14:22:47
>>384 続き
超長寿ということは一見して現代人の寿命を見れば、とても考えにくい
ほど極端であり、表面からみれば馬鹿じゃないかと思うくらいにイカサマだと
考えたくはなる。しかしこれほど舎人らがトンマな発覚を伊達や酔狂で
行ったのかと考えたとき、八百長にしては巧妙性がまるでないから、どうやら
何らかの特段の事情がそのへんにひそんでいると観るのが、冷静な考えで
あるのだ。ではそれはいったい何か? 知れたこと。2倍暦等をやっていたから
長く見えるだけで、紀の1年は現代の半年分であり、短縮可能が露呈して来る。
な〜んだと、今の人間の寿命と大して違いはないということなのである。
かように矛盾は解消されて行く。つまり偽造ではない。

紀では、欽明2年3月 帝王本記から
 「今は古今を考へ覈りてその眞正に歸す。」
と、事実だぞと記している。

387 :太国:2007/01/07(日) 14:29:31
>>385
この>>386の「  」の文は逆に観れば、失礼だが貴殿の改ざんだとかこそが
出鱈目だという編者側の強い意思の文なのだ。

388 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:36:41
この人ホントに馬鹿だねw

389 :唐松山:2007/01/08(月) 10:04:09
「今は古今を考へ覈りてその眞正に歸す。」

全く 同感  現実に記録を執った時点の記述をそのとうりに著す

で... 何で掛け算なの?
違う?  日にちを 間引いた 季節を 間引いた

それで 百姓出来ますか
米は 作れますか

390 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:26:03
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!


391 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 15:49:47
空白の4世紀の隠された事実は天皇陵にある。
調査を拒む理由は?本格調査の前に事前調査をやる。
そこで天皇に都合の良い結果が出そうだと判断すれば大々的にアピールして本格調査。
だが天皇に都合の悪い事実が出そうなら調査は拒否する。
そして事前調査で当たり障りのない処だけ限定的に開放する。
懸念されるのは事実の隠蔽が破壊に変わること。
都合の悪い資料を破壊してしまうこと。

我々は物語を研究しているのではない。
事実を知りたいのだ。
記紀や黄表紙等を研究している人もそれとは別に事実は事実として認めて欲しい。

392 :太国:2007/01/08(月) 15:58:36
たとえばA陵を発掘したとする。そこから出てきた物がAかA以前の時代
のモノと認容できれば、これは信頼がおける。
しかしA以降の時代の物が出たからといって、Aではなく後世の時代の陵
だろうとは云えまい。なぜなら、建造されて長期間時間が経過したと
して、その間に某時代の者らが陵にはいり、お供物的に物品を置いて
祭礼等をやるだろうし、ならばそのお供物的物品は、出来た陵より後世
に陵内に搬入したものと考えられるからだ。

393 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 16:00:20

太国の九州説って何なのですか?
早く返事ください!
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1141320606/401
では畿内説と全く同じですよね。
邪馬台国の扱いも聞きたいですね。


394 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:47:36
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!

395 :日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:12:03
二倍年暦で謎のなのは
崇神天皇に関しては、月の15日以降も出てきて
この時代は、一倍年暦だったのでは?と思わせるんだよね。
もし、そうなら、日本では一度、一倍年暦を導入して
再び二倍年暦に戻したことになる。

396 :太国:2007/01/09(火) 22:25:38
允恭世が等倍暦の理由〜続き
 >>319 >>339 >>340 (訂正 >>341 >>342

雄略天皇は允恭7年の誕生、清寧天皇は允恭33年の誕生である。
清寧は雄略の子であることからして、このことから允恭世が通常暦(等倍暦)
でやってたとなると、清寧は雄略が26歳の時生まれた皇子ということとなる。

ところが允恭世が2倍暦の時代だと仮定すると、雄略が13歳のときに清寧が
生まれたことになる。これでは生物学的に考えて絶対不可能とは言えまいが、
あまりにも子供ができる歳にしては早過ぎるきらいがあるわけで、2倍暦使用
の考えは遠のくという他はない。3倍暦ならなおさら成立しないわけで、
やはり允恭の時代は等倍暦であったというのが至当なのである。

紀の允恭7年には雄略の誕生の記載があるも、探してみたが清寧の誕生が何時
だったかの記述はないらしく、どうやら水鏡に41歳、神皇正統記には39歳と
あるということで、このへんから清寧の誕生年を決めたのではなかろうかと
想っているが定かではない。まずその文献だとは想う。

そういうことから清寧の誕生年を一般には444年としているようだが、拙者の
倍暦の計算からは、白髪皇子の誕生は458年、幼武尊にあっては432年が正と
観ている。

397 :太国:2007/01/09(火) 22:38:41
>>395
すでに崇神の世の前の綏の時代で1倍年暦をやっています。

398 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:56:13
太国さんも、記/紀王統譜はすべて事実だと考えられているということで
オーケーですか? 実在しなかったスメラミコトはゼロということでしょうか。

399 :太国:2007/01/10(水) 07:21:02
>>398
古史古伝にそこはもほぼ同じ書きこみですよ。神功皇后を天皇に扱っているとか
かの違いも少しありますが、いなかったならば、どれかに大きな欠とかの相違が
あってしかりです。古代天皇の並外れた超長寿の記載により不実在とする論を
言い出すならば、それ相応に最もだとは思いますが、倍暦の理が分かれば何の
ことはない、現代人とあんまり変わらない似通った寿命だったということで
矛盾は解消しますから、この点も不合理はありません。

400 :太国:2007/01/10(水) 08:13:12
>>396
清寧は御名を白髪武廣國押稚日本根子尊といい、稚児の時からか頭髪が白く、
「稚」の字は大泊瀬幼武尊(雄略)の「幼」の字に相対しているが、「白髪」の
文字と「幼」を比較すれば、雄略は若く清寧は老人との想念が頭に浮かぶ。

手白香皇女(繼體の后)は手白髪皇女とも書き、清寧の名から関連付けてこの
御名となったのかも知れぬが、清寧世も允恭世とともに等倍暦と観てるところ、
どうも浦島太郎と玉手箱を連想してしまう。皇女の御名の手と白髪は身体の別
の場所にあるも、何かこの皇女も年をとって一寸老齢にでも見えたのかと
考えすぎをしてしまうが、その御名は現実の肉体の衰えという意味よりは、
浦島の帰郷時の玉手箱の煙によっての瞬時の白髪老人化した説話を示唆して
いるような気がする。つまりだ長い年月に見えた等倍暦法も2倍暦となれば
半分の短期に縮小するわけで、皇女の御名は2倍暦の黙示ではなかっただろう
かと思えてくるのだ。

玉手箱を連想する「師木津日子玉手見尊」とは安寧天皇の御名であるが、安寧
は2倍暦の時代と拙者は見ている事から、玉手箱の煙からの浦島の白髪の連想
となる手白髪皇女の時代とは、安寧の時と同様2倍暦をやっていたと考えて
いるのだ。すなわち繼體世は2倍暦の時代と結論している。

白髪皇子は「稚」の字がある為まだ倍暦への短縮はなく、(繼體の后の)
手白髪皇女の時代になって2倍暦への浦島短縮をしたと考えるべきである。

401 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 16:29:52

すっげー妄想プッ

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