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【第三巻】信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎

1 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:10:19
織田信長正室濃姫(帰蝶)について語りましょう。
濃姫以外の話題は基本的にご遠慮ください。
資料にもとづく憶測、推測はOKですが、
たんなる希望的観測や妄想もご遠慮ください。
なお「〜マンセー」など、明らかな誹謗中傷の言葉を慎み、
荒らしはスルーでお願いします。
荒らされないためにsage進行で行きましょう。

前スレ 【第二巻】信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1161084144/

前々スレ 信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1159689153/

参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E8%9D%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

2 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:11:26
関連スレ

【美濃】斉藤道三について熱く語れ【マムシ】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1142326248/
悲劇の☆お姫様伝説☆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1055001525/
姫さま総合スレ  in  戦国時代板
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150038398/
【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152424560/
織田勝長総合スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151724055/
美濃斎藤家
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150539318/
*  織田信忠  *
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156156397/

3 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:15:28
クリスマスに立てたのか湯名人は暇だなwww

4 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:36:42
スレたてた人乙!
第二巻をずっとロムらせてもらったよ。
信長、濃姫、生駒その他の側室の事実関係がはっきりしてきた。
率直な感想だが、生駒が信忠の生母には疑問を感じるようになった。
生駒って我々が思うよりもはるかに織田家にとって存在感のない
側室だったよう思えてきた。生駒家だけがその功績を残し、
さらに第三者が武功夜話で従来の生駒像を定着させていったイメージだな。

5 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:59:09
重複してんだろ。いい加減にしろ。

6 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:11:04
織田厨は信長のみならずかみさん贔屓もウザイんだな。
しかも編集人の主観入りまくりのwikiを参考にってもうねw
オナニー討論したいだけなら戦国板でやりゃいいのにさ

7 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:15:06
信長最愛の恋人といわれた生駒も晩年寵愛したというお鍋も子供を3人産んでるけど
その後ばったり産まないのはなぜだい?

単純に信長と床をともにしなくなったということなんだと思うんだけど、
寵愛が深かったということと矛盾してないか?

子供を3人も多く産んだから、この二人への寵愛が深かったと
思われていただけ?だったりして。

8 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:21:10
>>6 Wikiに文句をいえば?ここでそんなこと書き込まれても迷惑なんだけど。


9 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:25:25
>>7 生駒やお鍋を信長が寵愛したって、何を根拠に言ってるの?
その認識もはや古杉
男子を産んで側室の仕事が終了したら、お床入りも終了しただけのこと。


10 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 19:43:34
>>8みたいな文盲レスが付くとはヤキがまわってきたか?

11 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 20:09:56
のっけからいやに荒れてるな。
いやならこなきゃいいのに。
結局みんな濃姫好きなんだね。

12 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:15:34
いやなら戦国板でやればいいのに。
結局濃姫好きの人たちって勝手なんだね。

13 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:41:51
そもそも類が信雄生母と断定はできてないはずだぞ。
武功は嘘だ、土田弥平次の後家でもない、
と生駒に関しては謎が多いままなのに、
類が生駒だとどうして断定できるんだ?
生駒と推測される女性が生駒家に偽装工作されている可能性があるな。

14 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:08:40
生駒マンセーの最近の傾向は、生駒は弥平次の後家ではないので、
信忠の生母になんの矛盾もないんだ、って言い張る。
生駒家の家系図で婚姻関係がはっきりしてるのに。
それでいて、信忠、信雄、五徳の生母である根拠が生駒家の
家系図に記されているから、なんだよ。
一級史料でないにしろ、書いてあるんだから無視できないだろうと
むきになってくる。
ずいぶんご都合主義だよな。

15 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:25:24
>>12
類と断定できないというのは、言い過ぎだと思うね。
類というのは生駒家に伝わっている名前だからだ。
しかし、武功夜話で吉乃が前面に出てきてしまったので、
類という名前が無視されているだけの話。
また、信雄生母と限らないというのは貫あげにくい。
生駒家で類と伝わる、生駒氏女は、なんで信雄が喪主をつとめたというんだ?
信長は、何故信雄を通して久昌寺に知行を与えてるんだ?
信忠に関しては、確かに当時の史料で関係を直接示唆するものはない。
だが、信雄の生母が生駒氏女だというのは、特に疑う必要はないと思う。

16 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:26:08
>>15
間違いです
>貫あげにくい×
考えにくい○

17 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:32:45
生駒マンセーも濃マンセーも傍から見れば同じレベルでご都合主義。
濃以外の話題は遠慮と言いながら指摘されれば信長に関することだから
何たらと都合よく信長を使うのだから人のことはまず言えないだろ。
マンセー同士の叩き合いがしたいなら他板へ逝け。
そして二度と史板にこんなスレ立てるな。

18 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 22:51:44
>>6
某信長好きサイトの知人数人と飲んだ時にこのスレのことが
話題になったが内容に関してみんな冷笑してたぞ。
正室も側室も懸命に生きて信長を支えたのだし、信忠の側近が
美濃関係者が多いというのは確かなことで、生母が誰だろうと
別に史実がひっくり返るわけでもないのになってね。



19 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:11:38
>>15 よくしらんが、その久昌寺の墓は確かに「類」のものなの?
つまり、後年「これはどうやら家系図によると信雄の母親の墓みたいで
該当するんはたぶん類さんの墓だから」とかなんとかで、類さんの
墓ということになっちゃっとか?
濃姫の墓もそんな感じじゃん。
消去法でこれは濃姫以外考えられない、ということでとりあえず
そうなってるけど、決定的なものってないのでしょ?

20 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:17:54
>>18 生駒家子孫にとっては命がけで守るべきことなんだろ。
生駒家にとって織田家嫡男の生母が生駒だというのが
唯一の自慢話だったんだから。
武功夜話が偽書なんだから、生駒が信長の最愛の女性、
なんていうのも作り話。
嫡男生母が最後の砦だもの。必死なわけだよ。


21 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:35:14
>>20
必死というが生駒家の末裔と直接会ったり話したりしたことあるのかよ。
塩川のところみたく堂々と言っているなら別だが。

22 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:40:43
>>18
リアルで2ちゃんのスレの話なんてしてるのかよ。
キモイ

23 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:50:08
濃姫の話しようぜ

24 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:55:37
>>18
濃姫好きだからといって、ほかの女性を馬鹿にしすぎだよね。
側室たちだって>懸命に生きて信長を支えたのだろうし、に同感。

信忠だって「母の出自が低いコンプ者」呼ばわりされたり気の毒だ。
彼は織田家の家督をついだ者として死んでいったのだし
閨閥事情がどうあれ、歴史が変わるわけもなし。

25 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 23:58:14
新スレ立つ頃には、必ずスレを立たせたくなさそうな人間が荒らしにくるのはなんとかならないものか

26 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:28:21
関連スレの多さを見てもわかる通り他にも議論できる場が
いくつもあるのに新たに個別スレを立てるからやられるということに
なんで気づかないのかと。
前スレの進行からしてお濃の話だけしたいからなんていう寝言は
もう完全に通用しないよ。

27 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:35:15
側室といえども、ここの一般庶民に可哀想がられるほど身分は低くはない。
変な哀れみをかける方が逆にバカにしてるように思える。

28 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:07:21
生駒の墓の横に柱がたってて、戒名と『吉乃の墓』と書いてある。
『吉乃の墓』とある時点で、断定材料は武功夜話だとわかるし、
そうなると墓の信憑性も怪しいなと思ってるよ。
生駒家に類という女性がいたのは事実だとしても、
はたしてその女性が信長の側室になったのか、どうかは
推測の域をでていないと思う。
側室になったのは生駒家のまったく別の女性だった可能性もある。
そもそもあの墓は後年建立されたものだしね。

それと信雄が喪主になったというけど、生駒が亡くなった当時は
まだ8歳。喪主をつとめたのは本当か?と疑問だった。
だいたい久昌寺って『久昌寺縁記』で「吉乃を失った信長殿は、
小牧山城の望楼に登り、はるか西方、小折新野葬地に向かい、
涙して佇む日が多かった」なんて伝えているところからして
怪しい寺。

29 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:12:41
>>28 吉乃、とあるということは久昌寺縁記って武功夜話が作られてから
付随して作られたものってこと?

30 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 21:24:28
>>29 あれ?しらなかったの?久昌寺縁記って偽書だよ。

31 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:10:25
生駒って織田家嫡男生母のわりには戒名も墓も粗末だよね。
秀忠生母のお愛の方は死後秀忠が「宝台院殿松誉貞樹大姉」と
謚名をしたり、埋葬されている寺も徳川が全面的に保護してる。
信雄の生母の墓でもあるのに、織田家に関するものが何もなく
生駒カラーのみというのも不思議なもんだ。

32 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:15:50
ちょっとスレから逸れるけど、
大河ドラマや著名小説の流行にともなって
実際の名でもないのに「○○の墓」と標識がたったり
ただの供養塔を墓と宣伝して観光地になったりする。
困りものだよね。


33 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:20:08
>>31 信雄自ら自分は信忠と同腹の生駒の子だ、としきりに強調していたわりには
生母に対して配慮がないね。

34 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:27:11
>>31
ごめん、一行目はそうだよなと同感もするけど
しぼんで衰退した織田家と、全国支配を遂げた将軍家の墓建立と
同じ次元で語れるものだろうか?

秀忠は時代の施政者将軍職であり、
その母として寛永年間に従一位を贈られたような宝台院の墓を
同じように考えるのはちょっとね。

35 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:53:16
>>34 いや一例として思い浮かんだのがお愛の方だったから。
同等までとはいえないけど、信雄の系統は現代まで続いているのに
初代の生母の墓が織田家のカラーがまったくないのも不思議だなと思って。
将軍ご生母なみとはいかないまでも、織田家の家紋のはいった
生駒だけ別格の墓かと思いきや、生駒家当主たちと横並びの普通の墓石って
ちょっとな?と思ったんだ。
信雄もほんの短い期間だけど100万石大名だった時期だって
あったわけだしさ。

36 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:12:11
濃姫の話をしようぜ

37 :日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:36:23
大大名だった頃は安土殿が側に居て
実の母の墓に手をつけるような状況じゃなかったんじゃない?
フロイスの本だと、信雄と信忠って、ごっちゃに育ってるみたいだったから
生駒女の死後、生駒女の子供達は濃姫が後見してたんだろうと思ってた。
まあ、実際に面倒を見るのは乳母だろうけど。
御料地があるはずなのに更に知行与えているし、以外に信雄と濃姫は親子らしい関係だったのかも?

前スレで、国中往還認可状が本物なら永禄3年9月に奥を下がっていると考えている人が居たけど
そんな早い時期から奥を下がって居たんだとしたら、生駒氏のこと、母親って実感はなかった
かもしれないね。
乳飲み子置いて奥を下がったとしたら、産後の肥立ちが悪くて一時帰郷のつもりが
病が癒えずそのまま奥を下がってしまったとかなのかな。
って、推論に推論を重ねるとどんどん事実から遠ざかっていきそうだけど。

墓に全く手を加えていないなら、あまりにも早い別離の為に、
お腹様としての敬意は払いつつも、親子の情のとなるとピンとこなかったというのも
ありえなくは無い気がするね。

38 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:09:24
その墓の主とは信雄はなんの面識もなかったからだよ。

もし本当なら総見院に墓を移してもよさそうなもんじゃないか?
信高とお鍋は親子仲良くいるぞ。
信忠・信雄・五徳の墓もあるんだから、生母の墓がいっしょでも
信雄の代になっていたら誰も文句をいうものもいなかったろうに。
お鍋の墓は明らかに後日移転したような墓じゃないか?
一人だけ墓石の系統が違うから。

39 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:19:01
「新説・生駒の謎…墓が語る400年後の真実」だな。

>>信雄と濃姫は親子らしい関係

でも信雄も生駒が去って、数年後には北畠家に養子にだされているから。
そこで嫁をもらってるし、濃姫と親子の情を結ぶほどの
時間も機会もなかったと思うよ。

40 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 00:40:41
信雄が北畠に行ったのは12、3歳ぐらいだっけ。
生駒が五徳を産んで間もなくに奥を下がって、その後濃姫が面倒を見ることになったんだとしたら
10年ほどは一緒にいたことになるから、そこそこ交流はあったかも。

41 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 11:12:10
実子にとっても生駒がその程度の存在だったとしたら
信長にとったらさらにそれ以下の存在価値の女性だったということになる。

類は弥平次と結婚し、後家になってから
出家して39歳で亡くなって葬られ、それがあの墓。
信雄の生母は武功の話とはまったく関係ない生駒家の女性で
信長の側室としてあがり、何らかの理由で
側室を下がることになったあとに誰かと再婚したので、
生駒家に墓がないのでは?

生駒家に伝わる家伝書の類でそのへんがごちゃごちゃになっている
可能性もあるんじゃないかな?

久昌寺縁記が信長に関することが捏造なんだから、寄進されたとか、
信雄が喪主だとかいう箇所も捏造ではないとは言い切れない。

42 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 11:47:51
諸悪の根源が武功夜話ということだな。
あの話にこじつけるために史実がゆがめられてしまったわけだ。


43 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:00:05
織田信雄分限帳の一番最初が「生駒式部少輔」だし、信雄と生駒の関係はあるんだろうがなぁ。
そういえば、分限帳には久昌寺の名前はないよな。
生駒の菩提寺だから、信雄が与える必要はないけど。

信雄(茶筅)が喪主だったって言うのは、久昌寺縁起に載ってるか?

44 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 12:55:36
久昌寺縁起には「吉乃」とか吉乃を「信長の室」と書いてあるんだよな。
武功夜話の柱骨になっている偽書の一つじゃないかね。
茶筅が喪主だったとかいう話は縁記の中ではなく、久昌寺の別史料
に載っていたと思ったが、縁記にも載っていたのかもしれん。

45 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 14:44:37
久昌寺の生駒の墓は後年配置換えされてああいう並びになった。
その際墓石も建立しなおしたということだ。
いくら信長側室だったとはいえ歴代当主の並びにあるというのは本来ありえない配置。
生駒を生駒家当主なみの配置にしちゃうあたりが久昌寺の計算高いところだな。

生駒を商業化しているのは生駒家ではないんだよ。
生駒家の子孫にしてみれば武功のような偽書のせいで
史実と異なる生駒像を語られるのも、先祖に対する侮辱さ。

46 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 16:02:15
久昌寺縁記って公に開示されてんの?
伊勢湾台風の時どっかの家の倉から見つかったとかっていうんじゃないだろうな?

47 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:05:20
久昌寺縁記って武功夜話の中でしかみないな。
久昌寺縁記では〜のように記されている、みたいな補足説明的なかんじで
武功の信憑性を高めるために作られた偽補足用史料?じゃないかい?

48 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:42:53
濃姫の話をしようぜ。

49 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:01:27
偽装と捏造でつくられた生駒像だったんだ・・・

こうなりゃ嫡男ご生母というのも本当に怪しい。

50 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:43:34
濃姫の話をしようぜ。

永禄元年6月に、信長が津島天王祭に連れて行った御簾中は正室の事だと思うんだが、
この時の祭りは、何か特別だったんだろうか?
記録に残ってるのは、この年だけだと思うんだが、何故この年だったんだろう?
丁度、信賢が叛旗を翻した時期だろ?

51 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:49:44
>>41 その説を全部を鵜呑みにはしないけど、
仮に類と生駒が違う人物だったら、信忠・信雄・五徳の生母であっても
なんの矛盾は生じないから、この3人の生母であったというのは
本当だったと思うんだよね。信雄だってすぐに露見するような嘘でたらめを
主張するわけもないよ。(別に生駒に特別思い入れはないけど)

生駒家の家系図って主要人物しか残されてなくて、女子が
ほとんど記されてない。類の妹あたりだったんじゃないか?

52 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:02:11
>>50 この時代で大名夫妻がともに祭りを楽しむことが珍しいことで
なければ単なるレジャーだったんだと思うけど。
異例のことなら、何かしら意味のあることだったのかもしれないな。
御簾中という表現は貴人の妻に対する呼称だから間違いなく
この時点では濃姫を指すと思う。同じ年に濃姫の依頼と思われる
道三の肖像画が常在寺にあるから。

御台やこの御簾中という呼称を側室にも用いたのだろうと
ここのスレでも主張している人がいるけど、このような
記録を作成している人物は当時ではかなり教養が高いはずなので
そんな適当な表記はしないよ。

53 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 20:25:54
なんか古文を思い出したな。
主語がないことが多く(特に源氏物語)、尊敬語、謙譲語で
相手が誰だか推測したり、状況を判断したりしなきゃならんかった。
天皇にしか用いない言い回しとかあったな。
後年まで残るような史料を書くような人物なら
確かに教養を疑われるようなあやふやな言葉づかいはしないだろうな。

54 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:29:16
なんで信孝の生母の身分が低いから兄弟の順序まで後にまわされたんだ?
生駒氏だって当時は全然たいしたことないじゃん。
嫡男と同じ母を持ったからというのはまったく関係ないような気がするんだが。
嫡男生母が信長死後も生きていて、実家とともに勢力を持っていたというなら
まだしもさ。

55 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:08:04
身分が低いからって言うのは、信雄側の文献からだから
単純に、信雄が清洲で生まれたので、生まれて数時間後には
織田家中で周知されてた。
そこに後から報告が来たから、三男でいいやってことになったんじゃ?

56 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 00:42:11
その時点では信孝の生母はどういうわけか清洲の城内にはいなかった、つまり
公に側室の披露もされてなかった、という意味で生駒より身分が低い、みたいな
感覚で思われていたかもしれないけど。
たぶんそういう立場で生まれた子供は扱いも低く、信雄が優先されちゃったん
だろうな。実子に名を連ねられただけでもラッキーだったかもよ。

57 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 09:49:43
清洲会議って目くそ鼻くそ会議だな。
しょせん身分の低い側室同士の子供が足の引っ張り合いで跡目争い。
生駒が嫡男を産んだと言い張っても、信雄は周囲の誰からも認められなかった。
自分が兄だと言っていた信孝も見方は勝家だけ。
正統な当主になったのは、信忠の名もしれん側女の産んだ怪しげな3才児。
事実上織田家を傀儡に実権をとったのは、さらに怪しげな百姓出身の男。
信忠の奥向きのことをしっかりせずに、正室も娶らなかった
信長の大失策。

58 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:30:23
生駒が正室だ、と信雄が生駒家の家系図を偽造してもまったく
意味がなかったんだな。みっともねぇな。

59 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 13:21:57
藤原紀香は平家の血を引くから挙式には12単を着ると
いうことだ。親が在日だというのは誰もが知ってるのに。
出自にコンプがあるやつほど自分の家系図や先祖を高貴なものに
飾りたがるもんさ。

60 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 16:38:46
生駒家は土豪あがりの馬借などの商家。
そこそこ財力はあっても武家としての格式は低い。
信雄も信孝もどっちもどっち。

まぁ信雄がアホだったために、信孝みたいに死に追いやられる
まではいかんかっただけのことだな。

61 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 16:42:06
>>50
津島天王祭は旧暦で6月14、15日に宵祭、朝祭りをしていたそうだ。
本能寺直後の天正十年の祭りでは、信長が乗る予定だった車を素車にして
お渡りってことにしたようだね。
永禄元年(弘治4年という記載みたい)も、信長は女房(漢文の方では「御簾中」)を
連れて行ってるから、年間行事として楽しんでたようだし、ある程度、行動予定の
中に入っていたのかもしれないね。
信賢が信長に敵対したのが5月、はっきり落ち着いたのが7月の浮野の戦後だった
はずだから、尾張国内が揺れている時だしね。

62 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 17:44:26
勝長(信房)が信忠の与力だから、優遇されていない、単なる信忠の家臣という
書き込みを、とあるとこで見たんだが、自分は勝長が信忠の与力というのは、
信長直属で、信忠の下につけられたという意味で受け取っていたんだが、
信忠直属で、誰かの下につけられていたのだろうか?
信忠直属であれば、確かに単なる信忠の家臣だが、信長直属で信忠の下であれば
単なる家臣ではないと思うのだが?

63 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 17:45:51
>>62
>単なる家臣ではないと思うのだが?
は、
単なる信忠の家臣ではないと思うのだが?
です。

64 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 18:07:52
>>63 単なる家臣とそでない家臣の違いがよくわからんが。
とりあえず、当時の与力の定義はこうだったらしい。

【戦国時代織田家では、自らは一国又は半国を領する大名であっても、
その地方を治める部隊長の加勢者として軍事的・政治的に指揮下に
入る者もそう(与力)呼ばれた】

信忠の支配下に置かれたことには変わりないと思うが。

65 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 18:18:15
>>62 勝長が織田家に戻り、元服した頃は、織田家はもはや敵なし状態。
信雄&信孝あたりが元服した頃に比べたら処遇が全然違っていて
当たり前だよ。だから嫡男以外の兄達に比べたら優遇されているように
感じるだけっしょ。

66 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:47:05
濃姫の話しようぜ。

67 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 16:18:02
小見の方が明智光継の姫なら、祖父は美濃守護だった土岐成頼だし、
土岐家とのつながりは義龍よりも小見の方の産んだ濃姫の実弟たちのほうが
強かったと思うが、なぜに美濃国の旧土岐派の連中は
それこそまぎれもなく土岐の血をひく弟達を手にかけた義龍を
支持したんだ?

それと濃姫は美濃国守護の土岐家の血を引く母に持っていたので、
濃姫の子が美濃国の国主になった場合、道三の譲り渡し状により
信長が治めるよりも、より正統性があり、そういう理由もあって
信長があっさり信忠に美濃国を譲ったのでは?とも考えている。
実権はどうせ信長が握っているのだから、美濃を安泰に治める
ことが先決だったのではないかな。

68 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 16:26:55
道三が強引に美濃を奪った事を嫌っていたので、旧土岐派は
義龍が土岐頼芸の胤であるかもしれない事を利用したんだな。
もし、本当に頼芸の胤なら、より正当性があるってこと。
道三も美濃支配の為に、義龍の実父が頼芸かもという説を
否定せず利用していたようだしね。
あと、実母の深芳野が一色氏の娘だから、足利の血を引くってことで
将軍家により近いという事もあったのかもね。

信忠の美濃支配に関しては、これまでに見ない説だが
ある種の説得力があるね。

69 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 17:52:41
>>67
道三の姫として濃姫を盾にしたのではなく、土岐の血を引く姫である
濃姫を盾にしたということだな。

確かに美濃には反斎藤分子も多かったろうし、元々の支配者である土岐家の
正統性をだしたほうが治めやすかったと思うけど。

>>68
義龍の実父がどうのこうのは、江戸時代に庶民の勧善懲悪志向のために
創作された、という説があるよ。
主君を裏切った報いが主君の胤である嫡男に抹殺された、としたかったみたい。

義龍と道三が仲違いしたのは、反信長派の義龍と信長友好派の道三の
意見の相違から、親子喧嘩から始まり、そこへ旧土岐派の反道三派が
義龍をたきつけ、さらに道三への不満分子たちが
集まって、あんなことになったんじゃないかな。

道山が義龍の廃嫡をもくろみ、正室の子を嫡男にすえようと
画策したということだから、そのへんもやはり側室の子ゆえの
義龍のあせりみたいなもんがあったかもな。
「范可」という署名からも、道三を実父だと認識した上で
手をかけたことを戒めているようにも思うんだけど。

70 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 18:46:48
一般的にこの時代の婚姻関係は、女性は嫁ぎ先に入り込むのではなく
実家に属したままの認識で嫁ぎ先で夫と共同生活を営む、という感覚だった
そうだ。固有財産も認められていたし、けっこう女性の権利が強く
守られていた時代でもある。
濃姫は織田家が美濃国を支配することは内心複雑な思いでいたと思うよ。
壷事件の時に思わずそんな不満な気持ちがでて、信長に逆らって
斉藤家の味方をしたのかな、なんて思った。

71 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 19:35:26
折角美濃を少ない労力で手に入れたのに、壷如きで旧勢力と衝突し泥沼の内戦にはまり込むのを
回避したかったっていうのもあると思うんだけども。
壷を取られて斉藤の面々がそのまま大人しくしているとは思えないし(その場のノリで自害するとか言っちゃった訳だし)。
激昂して前後が見えなくなってしまっていた信長の目を覚まさせただけだと思ってた。
でも、確かに実家に気持ちが有ったというのも充分あり得るよね。

72 :日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:04:21
政宗も愛姫もすごい紆余曲折あったよね。
愛姫の実家の田村家がらみで、夫婦が本当に険悪になっていたのも事実で、
そのために子供ができたのが遅かったし。
田村家を政宗が乗っ取ったみたいになっちゃったからな。
でも関係が修復したら40才過ぎても愛姫は子供を産んでる。
政宗の母親も実家の最上家がらみでいろいろやってた。
伊達家と最上家で戦がおきそうになった時に
中間地点の小屋に鎧姿でなぎなたもって座り込みをし、
戦を止めさせたなんていう逸話も残っている。
濃姫が実家の名誉のために信長に逆らった(かどうかは確かじゃないが)、
のは、結果的に両家の和解のためのポーズだったんだろうから
それも正室の仕事のうちなんだろうな。

73 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 21:57:19
信忠の生母が崇福寺に埋葬されているというのをなんかの文献で読んだ。
もちろん生駒ではない別人で、法名も違っていた。
崇福寺に生母の位牌所を信忠がもうけ、寺の税金を免除する判物を
だしたりもしているそうだ。
そのあたりの詳細を知っている人いたら教えてください。


74 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:30:03
崇福寺って元々道三の祈願所として信長が保護した寺で
信長と信忠の遺品を「なへ」が送って廟にしてる寺か。

「なへ」は本当に小倉なのかな?
小倉がなんで道三の祈願所に?という気はするな。

だが、信忠生母の墓所があるのなら、そのくらいはするか?

75 :日本@名無史さん:2007/01/09(火) 23:14:33
>>73 信忠生母の件はわからないけど、天正5年6月に信忠が崇福寺に関する
判持をだしているから、そのことかな?だとしたら天正5年に生母が亡くなった
ということになるな。

>>74 お鍋は天正10年12月にも丹羽長秀あてにも手紙をだしてる。
信長死後早々に位牌所を設けたり、信長の重臣とのこういうやりとりから
お鍋が正室格でいた、という推測が成り立ったんだろうけど、
淀殿ぐらい権力があれば別だけど、ただの側室の立場ではちょっと考えられないな。
信長の遺品は安土城から持ち出したものだろうけど、側室の立場でそんなこと
許されるのか?という疑問もある。
署名は「な屋」だったから、濃姫の本名は「な屋」だったんじゃないか?

76 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 01:38:37
当時の信長閨房の中で、発言力を擁していた側室でいいじゃん。

77 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 08:48:28
でも信長死後親族の誰よりも早く位牌所をもうけ信長の供養をした女性が
あっさり秀吉に取り込まれていったというのも不思議な話だ。
結果的に織田家を売るような真似をしたわけだろ?
親族中心の一周忌には出席せずに秀吉が取り仕切った一周忌の
ほうに出席して母子の保身に走っている。
墓などをみても明らかに織田一族とは一線を引かれているし
信長最愛の女性というにはちょっと浅はかすぎる気がする。

78 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 10:00:39
手紙の主が側室お鍋の方だとなったのは、濃姫が信長が亡くなった頃には
離縁されたか、死んだかで、正室として存在しなかったということが
信じられていたからだと思うよ。
「な屋」なら「なへ」「なべ」ではなく、「なや」という名の女性だったかもしれない。
お鍋の方であると決め付ける根拠は何もないよ。

崇福寺に信忠の生母の墓があったとしても、信忠の系統は断絶したし、
生母が生駒だということになっているので無縁仏となってしまっているだろうな。
過去帳を調べればわかると思うんだけど、そういう情報を寺が個人に教えてくれるのかな?

79 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 13:01:07
永姫も生母では謎がある。
前田家関連の史料「本藩歴譜」には生駒が生母と記されている。
鶴林寺には生母の位牌や墓といわれていたものもあったそうだ。
なので久昌寺の吉乃とはまったくの別人ということになる。
永姫生母が亡くなったされたのは1618年という記録もある。
それとここの過去スレにあったと思うんだけど、
前田利家、信長、信長室(濃姫もしくは永の生母)、信忠、の供養搭が
瑞龍寺にあるが、この搭は寺伝では慶長18年の建立なので、
濃姫が亡くなった翌年に建立されたのは間違いないだろう。

80 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 13:16:48
>>79だけど、搭の信長室は濃姫に間違いないだろうという意味

81 :日本@名無史さん:2007/01/10(水) 15:25:48
類の話がデタラメなら、墓石に書いてあることも鵜呑みにできない。
生駒は信雄と永姫の生母だったんじゃないか?
永姫は信雄の子供を養女にもらってるしな。

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