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どうして人を殺してはいけないのですか?4

1 :考える名無しさん:2005/11/13(日) 17:14:14
どうして?


どうして人を殺してはいけないのですか?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1126001287/
どうして人を殺してはいけないのですか?2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1127472365/
前スレ
どうして人を殺してはいけないのですか?3
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1130157792/

952 :考える名無しさん:2005/12/10(土) 23:13:40
現在の司法では、ノイローゼや鬱病、躁鬱病、あるいは精神病で
人を殺したと認められた者は心身薄弱として裁けないことになる。

しかしながら、殺人に至る状況を作り上げた因子を特定し、
修正あるいは破壊せねば、いずれ同様の「現象」が発生することは自明である。

正常な人間を狂気に追いやる仕組みを特定できねば、殺人への
刑罰を軽くしようが重くしようが同じことだ。恥や罰では、衝動的に
行われる殺人は決して止められないのだから。

953 :考える名無しさん:2005/12/10(土) 23:21:22
臨床社会心理学とか、そいういう話になるのかな。

954 :考える名無しさん:2005/12/10(土) 23:21:28
かといって短絡的に動機や原因を追求しようとすれば、
かつての「有害図書指定運動」や昨今の「ゲーム脳」など、
科学的/統計的に証明されていない憶測的/トンデモ的な
関連性を声高に主張し、敵対する存在を都合良く
排斥しようとする者たちが表れるのは目に見えている。

果たして人間というものに、無数の因子から構成されるグラフを
俯瞰し、望ましい方向に加工するという都合の良い能力は
備わっているのだろうか? もし在るなら、それをシステム化する
ことはできないだろうか?



955 :考える名無しさん:2005/12/10(土) 23:31:38
無数の要因全てを把握することは不可能にしても、
だいたいの原因は見える人には見えている。
ただ、それを受け入れれる人間があまりにも少なすぎる。

956 :考える名無しさん:2005/12/10(土) 23:42:03
例えば喫煙は緩慢な自殺であるし、飲酒運転は確率的な殺人である。
これらの因子は統計データとして保険会社の商品の内容に影響するが、
社会的には確定的な影響は無い。
喫煙でガンになるかどうかは本人にしてみれば確率的な問題だし、
飲酒運転も無事に済んでしまう確率が大きい以上 重罰化は
飲酒運転を撲滅する手段とはならないだろう。
結局、本人の行動を(学習によって)変えるには、行為に対する確実な
デメリットこそが必要なのである。

個人の自殺や殺人――起こってしまったこと――を罰するのではなく、
事件の要因たる喫煙や飲酒運転それ自体に対する罰を、一切の偏見無しに
一律に与えられる仕組みの構築こそが必要である。
子育て、就職、出会い、様々な場面に潜む問題は、もはや個人の領域から
溢れ出し、社会的な亡霊となって存在している。

かつて、亡霊は宗教によって祓われるものだった。
宗教無き今、哲学は亡霊を相手にしなければならないのではないだろうか。
(と、強引にまとめてしまいたいわけで…)
(いいのかよそれで…)
(眠いからもう寝たいわけで…)
(じゃあ寝ろよ)
(おやすみノシ)

957 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 05:19:16
>>956
自殺は処罰対象にならない(この点は議論の余地があるが)から、
喫煙の処罰を自殺を理由に基礎付けることはできない。

飲酒運転は、道路交通法違反なので、建前の上では「一切の偏見無しに
一律に与えられる仕組み」はすでに構築されている。

デメリットを確実に与えることが必要だという点を強調・誇張すると、
監視カメラを至る所に設置せよ、といった要求になる。

それから、通常、デメリットによって行動を変えることは、
学習によって変えることだとみなされない
(956の文脈でいう学習は、例えば、飲酒運転のリスクや
 損害の重大性を理解して、理解に見合った行動をとることだから)

>>857
個体に対する教育で変更できる行動パターンは、本能とは言えない。
嫌悪感を感じることが、仮に先天的な要因に基づくとしても、
それによって個体の行動パターンが規定されないならば、本能ではない。

それと、基本的な態度の話になるが、ドラえもんのようなキャラを使って
絵で説明すべき点を端折って相手の思い込みに委ねたり、【淘汰圧】とか
「倫理記号の恣意性」のように、議論の内容に対する解釈の方向性を
誘導するようなHNを使って箔付けするのは、見苦しいのでやめるべきだと
思う。

958 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 05:43:27
>>739 >>742 >>762 倫理記号の恣意性は、

 ・客観的(科学的)に規定される概念を使って何か言えば、客観的な説明になるという
  自分や一部の他人の勘違いに頼った議論をしている >>739@

   →種の存続は、殺人の例で問題になる、ほぼすべての個体の生死と「客観的」に
     無関係だから、客観的に無関係な種の存続という観点から、個体の生死に関する
     問題を規定することはできない。

 ・法律と道徳の論理的な関係を把握せずに、同じ次元の事柄として列挙している >>739A

   →道徳による禁止の成立を認めるなら、伝統的な罪に対する法的規制は、道徳の
    成立の帰結になる。その場合には、法的規制は、道徳を実効的に担保するための
    手段として位置づけられるから、Aへの解答にはならない。

   ※また、道徳とは無関係に法的規制がなされるとしても、法的規制は、直接的には
    法的規制を避けるべきことを判断材料として与えるだけであり、規制内容の是非と
    論理的な関係を持つわけではない。ある行為を規制する内容を持つ法的規制が
    なされるのは、ある行為を規制する理由(規制すべき事情)があるからであって、
    法的規制があるならば、ある行為を規制する内容を持つ法的規制が正当化される
    とはいえない。

959 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 05:43:58
 ・『この私』という無根拠なレトリックで、「私」の実存を、利己的な判断傾向に誘導している
   >>739B

   →語る私は『この私』だが、論じられる私が『この私』に限定されるとは限らない。
     『この私』に語りかける私も『この私』、無関係な私も『この私』でなければ
     意味を持たない論じ方を、739自身、行っているのだから、論じられる私は、
     端的に『(それぞれの)私』とすべきである。
     『(それぞれの)私』が実存的に答えを作ることは、「各人によって異なる」
     ように答えを作ることではない。「各人の過程は異なるものとして把握される」
     ことと、「各人によって答えが異なると言える(かどうか)」は、別次元の話である。

   →『この私』が支持するかどうかが、殺人の禁止が成立する条件であるかのような、
     奇妙な見方をしている。その見方の奇妙さは、Bの問いのところで、『私』でなく
     『この私』とし、答えや補足のところでは、私 や 各人 にすることで、わかり
     にくくされている。

  ・>>742 禁止の理由に答えるために、道徳の根拠となる第一原理などというものを
       問題にすべき必然性はない。禁止の理由は、道徳的なものでなくてよいからだ。
       これは、倫理記号の恣意性自身が>>739Aで認めてしまっていることでもある
       (理解していないだろうが)。法規制(禁止)の必要が道徳的である必然性はない。

 倫理記号の恣意性の恣意性は、>>585>>602の恣意性と良く似ている。

960 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 05:50:26
>>957 訂正

絵で説明すべき点を端折って相手の思い込みに委ねたり、
→絵による演出を使って、理屈を説明すべき点を端折って相手の思い込みに委ねたり、

961 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 10:07:33
>>89
制裁を条件としておくことでごまかしているが、
89は「殺したければ殺してもいい」と書いているに過ぎない。

願望が帰結を正当化するなら、「殺されたくなければ殺されてはいけない」も、
同じ理屈で正当化できる。そして、実際には、この判断しか正当化できない。
なぜなら、89は、誰かが死んでも自分は困らないという、自分に関する判断
(殺人の事実と無関係な判断)を、殺される者が殺されることにつき、不可避的に
含まれる事実を無視・隠蔽して「殺人」の事実を考察しているからである。

ある総合的な事実の考察にあたって、ある総合的な事実に論理的・不可避的に
含まれる類型的事実を、無視することが許されるというのであれば、それは、
不都合な事実は無視して考察してもかまわない、議論が議論でなくても、
人が述べたという事実でもって議論として受け入れるべきだ、と強弁しているに
すぎない。「殺してもいい」は、そのような暴言からの帰結にすぎず、問題の
争点について直接的な判断をした結論ではない。89は、議論によらず、単に
暴力を賞賛しているだけの話である。

962 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 10:11:30
>>961 訂正

なぜなら、89は、誰かが死んでも自分は困らないという、自分に関する判断
(殺人の事実と無関係な判断)を、殺される者が殺されることにつき、不可避的に
含まれる事実を無視・隠蔽して「殺人」の事実を考察しているからである。

 ↓

なぜなら、89は、誰かが死んでも自分は困らないという、自分に関する判断
(殺人の事実と無関係な判断)だけを(殺される者が殺されることに不可避的

含まれる事実を無視・隠蔽しながら)「殺人」の事実と見せかけて考察して
いるに過ぎないからである。

963 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 10:12:15
>>92 (=89)
迷惑という語の用例が主観主義的でムチャクチャだから、ムチャクチャ言える、と
強弁しているにすぎない。抽象的に迷惑と迷惑を対置してムチャクチャさを
隠蔽しているが、92の議論は次のようになる。

例えば、歩きタバコが迷惑であることと、注意を迷惑と感じることが対置される。
このとき、歩きタバコの迷惑と注意の迷惑は、結論において矛盾する関係にない。

つまり、注意が、仮に歩きタバコをしていた者から迷惑だとみなされたとしても、
注意の内容が何らかの事情に基づいて正当化できるなら、注意が、歩きタバコを
していた者の主観性だけを理由に無効になることはない。

逆に、注意を「迷惑だ」として、歩きタバコに対置させる考えは、歩きタバコは迷惑
でないという主張ではなく (それなら、歩きタバコへの注意は正しくない、という
議論に訴えるはずだ)、その注意が妥当であるかどうかに関係なく、うっとうしい
から無視したい、という考えである。つまり、気に入らない考えは無視したい、と
しているにすぎず、そもそも注意の迷惑を論じたことになっていない。

逆に言えば、歩きタバコが迷惑だという主張が正しいとしても、どのような「注意」の
仕方でも正しい(例えば殴っても正しい)とはいえない。しかし、そのような仕方の
「注意」が、一般に注意とみなされているとはいえない。だから、タバコへの注意
として、そのような「注意」を対置しなければ成り立たないような抽象化をする理由はない。

だから、正しく論じるなら、歩きタバコの迷惑と注意の迷惑は対置できないか、
対置することが不合理である。92の議論は、89のような人間が主張を理不尽に
通すことを好むために、結果的に思いつくタイプの考えにすぎない。

964 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 10:13:50
>>93- (ゾルレン)
道徳と規範(命令・禁止)を区別していないのがおかしい。
道徳は、規範的でなければ、その存立根拠を論理的に失うが、
規範は必ず道徳的であるとは言えない。両者を区別していないために、
ゾルレンは、既成道徳に見られる混乱や、解釈上の不自由さを、
規範の解釈に無批判に持ち込んでしまっている。特に>>125に顕著。

例えば、「味方は殺すな。敵は殺せ。」という道徳は、ゾルレンの立場からすれば、
道徳たりうるということになるが >>115、その道徳は、「人を殺すな」という道徳から
みれば、ゾルレンがいう個別性の禁止を満たしていないから、道徳として成り立って
いないと論理的にいえることになる。

なぜなら、味方も敵も人であることは、万人が論理的に認めざるを得ない。ゾルレンは
「人を殺すな」という命令は「種」や「類」による区別の理由付けによっては諸々の条件と
両立しうる、とするが、そのような区別が論理的に人という概念からする個別性の禁止に
反することも、「人は殺すな」を命ずることが可能であることも明らかである。

命じられるならば、多数派の間で事実上一般性をかちえている、などの、非道徳的な基準を
持ち出さない限り、味方・敵について言う道徳は、人について言う道徳から見たとき、その
道徳性を根拠付けることができないはずである。味方・敵はすべて人だからである。人の
道徳見るかどうかは論理的な問題で、現に多数派がどう見るかの問題ではない。多数派に
よって合意され、それが事実上一般性をかちえている点に道徳の根拠を求めるならば、
見解>>93 多数派が個別性の禁止を撤廃してもそれを道徳とすることはできない、と矛盾する。
同様に、「生命体を殺すな」という道徳から見れば、「人を殺すな」という道徳も、個別性の禁止を
満たしていないことになる。

965 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 11:26:24
(>>964続き)

既存の道徳が「個別性の禁止を撤廃していない」見かけを持っているのは、個別性の禁止が
守られているからではなく、個別性を禁止しないケース自体を指示に用いる概念に含めてしまう
ことで体裁を保つやり方が守られているからにすぎない。そうしたやり方は、ゾルレンが想定して
いるよりも、もっと小さい社会的単位、個人単位において実行することが可能であるし、現によく
行われる。殺人というケースばかり考えるから、もっともらしいことを言っているつもりらしいが、
そんな極端なケースを考えなければ、味方・敵が著しく恣意的で一般性のかけらもない観念で
あることくらい、中高生でも、というより、中高生あたりが、よく承知していることだろう。

だから、道徳は個別性の禁止 (=普遍化可能性・適用の一般性)を要素とすると定式化した
ところで、無意味である。 それは、ある道徳的言明がそのような帰結をもたなければ論理的に
一貫性がなく、恣意的であることを言っているにすぎない。一見恣意的でないように見えても、
指示の対象となる概念設定自体が恣意的(すぎる)なら、それは(十分な)一般性を持っていると
論ずることはできない。恣意的であることは存在が欠けることを意味しないから、恣意的な道徳が
存在しないとは言えない。たいていの道徳は、定式化すると、ゾルレンが例示するように恣意的で
死体臭いので、私は道徳はあてにならないと考えている。

966 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 11:26:58
また、仮に十分な一般性を持つと認められる道徳的言明があったとしても、それが、道徳の
一般性という本質の証拠となることはない。それは、「ある」道徳的言明が要求する一般性を
言うことに過ぎない。そして、そのような「道徳的言明」が広範な合意を得る状況の多くは、
法律である。法律である場合には、規範的とは言えても、必ず道徳的であるとは言えない。

道徳の内容は、例えそれが形式的なものに見えても、その存在の根拠は主体性であり、
論理ではない。論理を一貫させるのは主体であって、論理ではない。
そして、道徳が指示する内容の多くを、既存の道徳が支えていると見るのは、おそらく
事実に即していない。味方を殺すな。仲間を殺せ。という道徳を、意識的かつ本気で
受け入れる人間が、「人」を<殺さない>ような人間として育つと思うのは馬鹿げている。
味方・敵という概念が恣意的であることは明白だからだ。

私は、道徳と呼ばれうる、それなりに大事な観念が不可能だとか、現実にないとは考えていないが、
いずれにせよ、ある道徳は、規範違反になる行為と離れる原因となりうる事情の一つに過ぎず、
ことさらにあげつらって論ずべきことだとは考えない。そのような必要は規範の整合的説明に
ついて生じるだけであり、その指摘を受け入れるかどうかが道徳的素養の問題である。

>>964 訂正
人の道徳見るかどうかは→人の道徳から見るかどうかは

967 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 11:49:31
それでも、あえて道徳の本質的な要素を言うべきだとすれば、
私は、他者への共感についての誠実さが重要だと思う。

ただ、それがいつも重要になるとは思わない。
普通は、気楽さ、明るさ、素朴さ、などが、うまく作用しているケース
であるとか、規範違反から離れる原因となる、規範違反において問題と
なる行為と全く無関係なことを、普通の状態でこなす全ての行為は、
全て道徳的だとしてよい、と思っている。

968 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 13:18:10
例えば>>1を正当化する視点から議論を進めるために、
「人を殺さなければならない状況」を仮定するというのはどうだろうか?

誰かが全人類を滅ぼせるミサイルのボタンに手を伸ばして、
人類もろともの自殺を企てた時とか。

例外に道徳で対処したなら、ゲームオーバーになるぜ?

969 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 19:41:43
>>968
普通、人は、自分が普通におかれる状況に即して>>1について考え、
それを正当化するのであり、特殊な状況だけでそう考える必要を認める
わけではない。規範的内容が普通の状況にもかかわるからである。
だから、968のような提案は結論をはじめから>>1を否定する方向に
誘導するものにすぎない。それに、提案の内容も、混乱している。

まず、ゲームオーバーになるかどうかは、例の「誰か」がどういう
人間であるかの問題であり、道徳の有効性の問題ではない。

道徳は、特定の個体の観念を直接的にコントロールするような機能を
そもそも持っていないし、持つべきでもない(そんな機能がある道徳は、
おそらく脳に機械を埋め込むような仕方で達成されるだろう)。

道徳で対処することを言うなら、「誰か」が例のような「自殺」を
企てる前の「対処」(それは「対処」という語から連想されそうな
ものにはならないだろうが)することを考えるべきで、ゲームオーバー
直前になってあれこれ言ったところで無駄である(戦争についても、
968と同種の議論を振る人がよく見られるが、前提がおかしい)。

それに、ある個人が他人を巻き込む「自殺」は、自殺でなく他殺である。
心中は自殺でなく、他殺である。

970 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 19:45:55
さらに、そもそも、自殺の規範的な正しさは、自殺の正しさにあるわけ
ではない。自殺をする・した人は、「自殺しなければならない」状況にある・
あったとは言えない。なぜなら、自殺者・自殺願望を持つ者は、自殺を
「自殺によってもたらされる何か」のために望んでいる、たとえば苦境からの
開放を求めているのであって、自殺にともなう類型的な苦痛を求めている
わけではないからだ。

類型的な苦痛を求めていない、むしろ避けるといえるのであれば、自殺も
「その観点からは」好ましくない手段として位置づけられることになる。
生きて感じうる苦痛を強要される謂れがないから、自殺が正当化されうる
のであり、苦痛を強要される謂れがないという観点からすれば、自殺に
伴う類型的苦痛も、自殺を選択することとは関係なく、規範的に否定
されるべきものとして捉えることができる。

971 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 19:57:47
ナガイ レスガ ヨメナイ オレハ コンキガ ナイノ?

972 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 20:13:33
>>958-959 に追加

>>762

 殺人の禁止は認めるが、戦争や死刑によって人が殺されるのは「支持する」
 (殺人の禁止について問題にした上で、それを肯定する論旨のはずなのに、
  なぜか結論は「殺人」を「支持する」となっている)

 →殺人の禁止を認めるのなら、戦争・死刑について「支持する」と結論するのは不自然。
  それらは「許容されるべき」だ、という主張になる(当然、その是非は別論であるが)。

  倫理記号の恣意性のようなタイプの論者は、>>958-959に批判されたレスの傾向からも
  読み取れるように、もともと「何をしてもいい」という考えを好んでいる。

  それは、殺人を好むというより、暴力が一般化した世界において、強い者が自分の
  好むままに願望を充足する機会が認められる可能性があること、その可能性を愛する
  ような心理に根ざしている(殺人の肯定はその心理からの印象的帰結にすぎない)。
  自分がそうなる可能性があるかどうかは、現実がそうでないから問題でない(ここでは
  現実に返れる自分に欺瞞的な満足を覚える)。彼のような人間にとって、暴力の肯定は
  趣味的なのである。

973 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 20:17:45

  しかし、「何をしてもいい」とストレートに書いても、このスレにいるおかしな同類の
  散発的な支持しか受けられない(現実には相手にされない)。彼は、自分の暴力的趣味を
  より多くの人にわかって欲しいと思っているし、世間的な同調が受けられないことは、
  現実的には一個の普通人に過ぎない、倫理記号の恣意性にとって苦痛だ。

  だから、本当は否定する気など全くないことが(結論だけ捉えたり、偏見のあてはめで
  文章を読まない人間からすれば)丸分かりの論陣を、自分がどう考えようが、殺人が
  肯定されようがない範疇について張り、殺人を否定してみせた後で、その論陣の帰結と
  称して、一般的な同調が期待できそうな例については、臆面もなく「支持する」という
  わけだ。
  
  このレスは、もっぱらゾルレンのような人に考えてもらいたい。道徳は上のような
  趣味的な議論に論理的にかかわっていけるような仕組みになっていない。彼らのような
  タイプは、道徳と聞けば、趣味に合わないものの総合として考え、無視するだけだ。
  そして、道徳は前述のとおりあいまいなので、何が無視されているのかすら、ろくに
  確定できない。論理的に説明される道徳には、人を感化する力がない。そのような
  道徳は死んでおり、無意味だ。道徳的な結果を招きたいなら、心理学で非道徳な人間の
  記述をやったほうがマシだ。
  
  >>971 根気がないのではなく、特に正しさに関心がなく、むしろ、半角カナで
     長文を無視する同調を煽ろうとするあたりからして、卑劣なだけだろう。

974 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 20:19:19
>>52-
そもそも「・・・はいけない(べきでない)」=禁止は、願望から演繹できなければ
「成り立たない」何かだ、という見方を、根拠が無いのに前提としようとするから、
おかしなことになるだけだ。禁止は、ある結果が起こらないほうが好ましいという
判断がされるときに、ある結果が起こらないようにある結果を引き起こしうる行為を
しないように表示する、伝統的に形成された表現であり、それ以上のものではない。
ある結果が起こらないことから帰納的に導ける行為について記述するという性質上、
演繹的判断は字面に反映されないし、それで問題はない。>>66は、よい指摘。

975 :考える名無しさん:2005/12/11(日) 22:23:29
人間に感情がある以上、殺すなってことじゃないか?
憎しみが憎しみを生むって言うあれ。
途方も無いドミノ倒しになるから、最初のドミノを倒すなって事にならん?
道徳よりも法律よりの意見か。

976 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 00:36:31
> ある結果が起こらないことから帰納的に導ける行為について記述するという性質上、
> 演繹的判断は字面に反映されないし、それで問題はない。>>66は、よい指摘。

演繹とか帰納とかいう言葉の意味が分ってるのかどうか疑いたくなる発言だなあ。


977 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 01:00:59
まあ、大抵の場合、冷静に考える余裕が無くなった時、殺しちゃうんだろうね。
そういうことも勘案するから、「計画的犯行」ってのが罪の過多に影響してくる。

978 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 01:13:54
>>976
どのへんから疑いたくなるのかきちんと書けよヘタレ




979 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 01:20:54
>>976
疑いたくなるけど、根拠は書けないんだよね。馬鹿だから。

>>977
冷静に考える余裕が無くなって殺しちゃうことのどこが大抵の場合なの?

980 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 01:37:51
>>979
あんたは、質問する前に、読解力を付けた方がいいな。

981 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 01:58:15
そろそろ次スレよろ

982 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 01:58:54
980は立派な読解力を持っているのに、979の質問に答えることすらできないんだね。
自分の理解力を示すことはできないから、相手の理解力がないと繰り返して
自分の理解力がそれよりましだと思わせようとすることしかできないんだ。

983 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 01:59:04
殺されることが大抵の人にとって最高の悪だから。
だから最高刑は死刑。


984 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:02:44
鍋を用意して、煮立たせ油の中に生き物を放り込んでいる。

985 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:05:18
>>981
974でFAだからいらんのでわ

986 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:10:11
殺すことが相手に利益をあたえるとしたら誰も恨んでる人を殺そうとさえしない

987 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:16:09
そのところの話だというのに、昇天したい願望がすごい

988 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:18:31
>>982
てか、頓珍漢な質問をされると、どうやってレスをしたらいいのか困るのだが。

989 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:22:07
質問に対してどうレスをしたらいいか困ったときには、
相手の質問が頓珍漢だということにすればいいというわけですね?

990 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:25:47
憶えてないかなぁ〜

991 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:26:01
>>988
>>979は頓珍漢じゃないと思うが。確かに「大抵の場合」は変だ。
>>977を普通に読むと、まるで冷静に考える余裕がない人間はすぐ殺人をするかのようだ。

そんなわけがないなら、977のレスがおかしいわけで、979が「読解力」で977の考えを
補ってやらなければならないというのはおかしい。

992 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 02:31:12
次スレ

どうして人を殺してはいけないのですか?5
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1134322234/

993 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 03:01:30
IDが出ないと、やり放題ですね。

994 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 07:22:34
IDが出ていても、>>977=>>980=>>988=>>993がやられ放題になることは、変わらない気がするんだけど

995 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 09:31:14
TBSで遣ってた、みのニュースソース↓
大学4回生在学中の
EQ知症、IQ基地害じゃねーかぁ!コピペで大学卒業しようと言う化けの皮を小6女児に暴かれて正体を晒したねぇコピペ大学生めがっ!
氏んじまえよなぁ…基地害共っやはり…やらかしやがったなぁこれが、基地害、コピペ大卒のEQ知症IQ精神異常コピペ大卒共の正体何だよ!
やはり…やらかしやがった苦笑可哀相な紗也乃ちゃん(;_;)…氏ねコピペ大学生共!萩野めぇ
大学生や大卒に人権はいらない過大評価で大学生や大卒異常者選別面接がザルに成っているよ今時の社会はぁ!

996 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 10:39:46

逆に

「あなたは他人に殺されてもいいですか?」
「あなたの大切な人が他人に殺されても平気でいられますか?」

この辺から考え始めると答えが見つかりやすいような気がする。


997 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 10:40:42
>>996>>1に対するモノでした。

998 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 12:33:16
>>996
そこから考え始めても全然分からない。

客観的に死ぬべき人間かもしれないが、それでも主観的に死ぬのは嫌だから抵抗する。

有馬記念でディープインパクトが負けても主観的に平気ではいられないが、
だからといって、ディープインパクトが勝つことが客観的に正しい・正義にかなうとは思わない。

999 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 12:41:31
998よりは996の方が考え始めとしてはまともだ。
998は、なぜかはなっから死ぬべきだという方向にだけ飛躍している。

1000 :考える名無しさん:2005/12/12(月) 12:42:39
人を殺してはいけません。

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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