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哲学は神学の婢 2

1 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 09:59:22
哲学とは所与の世界が何らかの原因によって崩壊した後に現れる思考の運動である。哲学的
認識とは知的に世界を再構成することであり、それは失われた自己自身の復元作業である。

この運動の論理的帰結は「無知の知」である。何故なら、世界に属する者が世界を超えることは
できず、自己から派生した精神が自己自身を超えることはできないから。しかし何らかの「否定」
によって出発した精神の運動は止まず、それは積極性なき否定となる。

信仰とはまさしくこの人間が人間であるが故に抱える自家撞着の切断としてある。信仰とは
哲学的認識の放棄であり、認識された世界の放棄であり、自己自身の放棄である。つまり、
信仰にあるとき、人は見るものから見られるものになり、規定するものから規定されるもの
へと遷移する。人は信仰によって見る主体としては死に、同時に見る主体によって構成された
自己の死という境界もまた消え去るが故に、永遠の生命として生まれ変わる。

この信仰の場から発せられる記述が神学であり、その記述において哲学が援用されてもそれは
あくまでも信仰の周辺としての学に留まる。哲学の役目とは人間知性を「無知の知」に導くことに
あり、あくまでも消極的なものであり、それは神学の婢としてこそ意義を持つ。

前スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1143607550/

2 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 10:05:47
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1143607550/986
> 薬物や電極などの脳操作や心理操作諸技術でもつくれてしまうので、弱いと思います。

確かにこういう現象の研究は色々あるようですね。それはそれで面白いと思います。
ただ、解釈がやはり難しいだろうと思います。脳はそれ自体自立したシステムでは
ありませんから、「脳現象」として扱って終りにはできないのです。

3 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 10:24:59
このスレ1を見たときは、またキリスト教の宣伝か何かなのかと軽い感じで見ていたけど
今いい感じじゃない。
で、ほとんど世界は神学に占領されたといいたいのかね?

4 :ContextSurfer:2006/06/05(月) 10:33:04
神様乙!

■哲学板に「神」が舞い降りた!?

「信仰」がただただ神を信仰するものであるとしても、神をいかに理解するかという問題が残ります。
だからさまざまに議論され、さまざまな宗派がある。信仰に神学という学問があるのはそのためで
す。これは、真理へ到達しようとする運動性であり、このように意味では、宗教は哲学とかわりません。

では運動性がない「信仰」は存在するのか。あるいは「言葉がないところに「信仰」は存在するか」と
いうことです。完全に突然に言葉なくすべてが与えられる。啓示とはそのようなものかもしれません。
それとて神からすべてが与えられることではなく、その後、運動性を必要とします。ただ「神の子」とし
て選ばれたものであるなら、運動性のない「信仰」を持ち得るのかもしれません。

では「運動性のない信仰」を説くむじんくんは、その存在を以下に獲得したのでしょうか。「神の子」な
のでしょうか。それとも「基地外」なのでしょうか。


5 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 10:39:44
機械スレを目指すのはわかるが無理があるような・・・

6 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 10:45:41
むじんくんは宗教じゃなくて神学を述べている。
ただ哲学が終わっていることを伝えたいだけ。

7 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 10:45:48
哲学と信仰を言葉で比較することが信仰ともっとも遠い行為であるという
パラドクスね。

8 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 10:49:20
このスレのネタ性がわかるか、わからないかが、
哲学の登竜門だな。>>6はアウトですな。

9 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 11:05:57
ネタだったのここは?

10 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 11:19:55
>>3
> で、ほとんど世界は神学に占領されたといいたいのかね?

いえ、ますます占領領域が無くなっていくということです。

11 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 11:21:52
>>4
> 神様乙!

やあ、どうも。ブログ視聴率はいかがですか。

12 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 11:23:24
>>10
では信仰が占領しはじめているのかね?
それともどちらも衰退の一途をたどっているのかね?

13 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 12:19:57
ニート

14 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 12:21:29
>4
日本語めちゃくちゃじゃないか。精神的にまいってるだろ?

15 :ContextSurfer:2006/06/05(月) 12:25:38
>>11
ん〜いまいちですね。なかなかむじんくんさんのようにうまく釣れませんね。
ブログ界隈の方が漁場が固いですね(笑)

16 :ContextSurfer:2006/06/05(月) 12:37:42
いぜん間に合わせで書いたので宜しければ添削願います。
しかし内容的にこれでツンでいると思います。
「むじんくんには自己言及がない」それだけでしょ。(笑)


17 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 12:58:38
お大事に。

18 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 13:04:17
>>16
まぁ、ぴか氏が「真理へ到達しようとする運動性」ではなくてブログ視聴率を高めて生き生き
しようというホンネ吐露へと移行したのは分かりやすいと思いますよ。


19 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 13:25:32
人生の大半を費やすであろう定職をもたないものは説得力に欠ける

20 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 13:58:48
定職持ってないことがなんか問題なわけ?
天皇が下民にもの申す態度だな。時代劇にも出てこね〜よ。

21 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/05(月) 14:11:28
新スレおめでとうございます。

前スレ>>999
資本主義的運動はもちろん「そうしたいからされる」ものではないよ。
資本主義的運動それ自体が、次の資本主義的運動を要求し続けるから止まらない。
だから実際には、「土に帰る」のも「関係を取り戻す」のも不可能だよね。

ただ、むじんくんの仮定では強迫的な運動が止まらざるをえないからね。
まぁ普通はありえないんだが、もし止まったとしたら、生産力と流通量が落ちて
土に帰らざるをえなくなるわけだ。「土に帰って」「関係を取り戻したい」から
そうするんじゃなくて、モノがないからそうするしかなくなるだけ。

22 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/05(月) 14:12:02
ところで、資本主義的運動が停止したら商人資本的活動も不可能になる、というには、
いかなる場所でも「欠乏」が発生しないというしかないと思うがどうなんですかね?

利潤は貨幣によって生まれるのではなく、距離的時間的差異から生まれるものだから、
「利潤がないから商人は活動しません」とは言えない。
差異(欠乏と余剰)が生まれないと説明しなきゃいけないわけだが。

23 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 14:24:34
むじんくん
新スレおめでとうございます。
>>1について質問です。
>しかし何らかの「否定」によって出発した精神の運動は止まず、
 それは積極性なき否定となる。

西洋哲学史にはアルチュセールが言ったようなエピクロスから
連なる「地下水脈」というのがあって、ここではニーチェを
取りあげます。
ニーチェは、キリスト教を弱者のルサンチマンとして徹底的に
批判します。その一方で、彼は『力への意志』において
「不条理な生」を自らが積極的に選んだものとして、積極的に
肯定する「大いなる肯定(ja)」ということを言い出します。
これはヘーゲルに収斂するような「否定性」の哲学とは違い、
積極的、肯定の哲学です。つまり、哲学が「積極性なき否定」
となるとは言えないと思いますが。どう思われますか。

24 :ContextSurfer:2006/06/05(月) 15:00:01
>>18
「信仰」ネタで「真理へ到達しようとする運動性」を活性化させて生き生きしようとするむじん神さんと
ブログ視聴率?を高めて生き生きしようとするぴかぁさん
どっちもどっちでしょう。言っている内容も同じだし。
ともに生き生きのために頑張れば良いとおもいますよ。(笑)


25 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 16:01:56
>>21>>22
> まぁ普通はありえないんだが、もし止まったとしたら、生産力と流通量が落ちて
> 土に帰らざるをえなくなるわけだ。

いや、考慮すべきは「土へ帰る」ということなしに強迫的運動が静止する状況ですね。具体的に
といわれると分からないのですが(笑)。そうでなければ、資本主義の運動が続くだろうと思うのです。

> ところで、資本主義的運動が停止したら商人資本的活動も不可能になる、というには、
> いかなる場所でも「欠乏」が発生しないというしかないと思うがどうなんですかね?

この「欠乏」は資本主義を駆り立てる「空虚な穴」です。ですから、実質的な欠乏、飢えなどの不足が
あるわけではないのですね。むしろ飢えている人がどこかにいても恐慌時にはモノを捨てます。問題は
資本主義社会では人々が賃労働へと転落し、借金背負わされている状況で走り続けないといけない
という点だと思います。

26 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 16:20:49
>>23
> 西洋哲学史にはアルチュセールが言ったようなエピクロスから
> 連なる「地下水脈」というのがあって、ここではニーチェを
> 取りあげます。

ニーチェはどうにでも読めてしまうので難しいですけど、そもそもニーチェは
哲学を否定しちゃってますよね(笑)。理由は弱者の怨念から発した言説だから、
ということです。ソクラテスは醜かったからあんなこと言ったんだ、とか(笑)。


27 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 17:41:20
悪の存在を認めることは悪を正当化することではない。
悪の存在から目を背けることなく、悪が存在することを認める。
一方神が予測可能な未来にこの世の在り方を変えることを拒んでいるように見えることに対して
神を有罪とし、神には弁明の余地はないとさえする点に
逆の罠が潜んでいる可能性もある。
その見方は(不用意に)一種の『身代わり山羊』を仕立てることにつながる。
つまり神を責めることを奨励し、そのことによって、
人間は実際たいしたことは出来ないという印象を与えないのである。
では『我々にできること』とは何か。


28 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/05(月) 17:49:33
>>25
>具体的にといわれると分からないのですが(笑)。

生産手段が無限に偏在する状況だろう。
そういう条件を満たす地域だけに人が存在するほどに人口が減ればよい。

>問題は資本主義社会では人々が賃労働へと転落し、借金背負わされている状況で
>走り続けないといけないという点だと思います。

いや、これはむじんくんの仮定を考えるには無関係だろ。
もはや資本主義的運動が不可能な状態なんだから、こんなこと問題にしても意味ない。

29 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/05(月) 17:50:38
>「欠乏」は資本主義を駆り立てる「空虚な穴」です。ですから、
>実質的な欠乏、飢えなどの不足があるわけではないのですね。

資本主義の動力はそういう「欠乏」だよな。実質的な欠乏とは関係がない。
しかし俺の主張は、全てを一つの資本が所有しても実質的欠乏がなくなるわけでは
ないことと、資本主義的運動が不可能でも商人資本的運動は可能だということだ。

実質的欠乏がおこらない(塩が取れない地域で塩が不足しないこと)を説明するか、
実質的欠乏があっても商人の活動が不可能になることを説明してくれ。

30 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 17:54:55
むじんくん
>しかし何らかの「否定」によって出発した精神の運動は止まず、
 それは積極性なき否定となる。

それに反して、積極性のある肯定の哲学があることには同意されますか?
例えば、エピクロス、スピノザ、ニーチェです。

31 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/05(月) 18:08:44
>>25
>考慮すべきは「土へ帰る」ということなしに強迫的運動が静止する状況ですね。

これには同意するよ。俺はむじんくんの言う「信仰」というあり方を詳しく検討したいから、
類比的に「共産主義」=「土へ帰ることなしに強迫的運動が停止する状態」を検討している。

で、むじんくんの仮定でこの状況が発生するかを考えた結果、それは無理だと論じている。
消費と生産の関係からして、どうしても土に帰らざるを得ないんだよね。

実質的欠乏が発生しなくなるにはどうすればいいか。
身体的欲求すらなくなってしまえばいいんだな。生産物を一切消費しなければいい。
これなら生産手段の所有も意味がないし、商人資本の活動も不可能になるね。

32 :純一:2006/06/05(月) 19:54:34
やあ、

33 :純一:2006/06/05(月) 19:55:20
やろうかな、やめとこうかな・・・

34 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 20:07:37
やっちゃってください

35 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 20:22:08
キチガイキタ−−−−−−−−−−−−!!!!

36 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 20:41:28
>>24
> どっちもどっちでしょう。言っている内容も同じだし。

とりあえずは同じっていうのは止めていただければ結構ですよ。

37 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 20:59:34
>>28>>29>>31
まず、実質的欠乏の問題は依然として確かにあるわけで、それは解消しなければならないでしょう。
つまり途上国などの貧困の解決ですね。ただ、今の生産手段の発達状況で、仮に週休4日でやって
いけるかどうか、というと結構できちゃうんじゃないか、そういう話はできると思うのです。

仮に週休4日でやっていけるとしたら、何でそれ以上働いちゃうんだろうかと。これが資本主義社会に
住む人々が背負わされている何ものか、なわけです。そして資本主義社会をそのように動かしている
のは欠乏の補填であり、量的な世界を無制限に所有せんとする運動です。

仮に週休4日でやっていけるとしたら、或いは一日の労働時間が3時間とかでやっていけるとしたら
どうなるか?ということですね。そうなると労働というものの位置づけは全く変わると思います。



38 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/05(月) 21:01:55
>>30
> 例えば、エピクロス、スピノザ、ニーチェです。

ええ。ただ、スピノザの第三種の認識というものは、あれは思考ではもはやありませんね。
なので、哲学という言い方ができるかどうか、というのはあると思います。

39 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 21:03:50
むじんくん
積極性のある肯定の哲学があることに同意されますか?

40 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/05(月) 22:34:37
>>37
実質的欠乏の問題は別に途上国に限らないよ。
日本とかあっという間に欠乏しまくるだろ。自給率高いのは米ぐらいなんだから。

超巨大資本が資本主義的運動やめました。もう儲ける必要はないので、
いちいち日本まで食料や石油を運んできてくれるわけありません。
さて、誰が日本人が必要とする物資を運んできてくれるんですか?という問題だ。

「土に帰るか」「ジャイアンに媚びて運んでもらうか」の二択じゃない?

41 :考える名無しさん:2006/06/05(月) 23:03:15
>>1
麻薬や催眠術などで神秘体験をさせるが
でも、これはあくまでも信仰のための手段にすぎない、と隠さずに教えている宗教が大昔からあります。
神秘体験も、これを解釈する教理あってこそ、きちんと意味付けられるわけです。
体験を安易に主にしてしまうと、神性があいまいになる危険があります。

42 :考える名無しさん:2006/06/06(火) 00:52:24
今の資本主義を支えているのは、
価格競争と、それに伴う市場の疲れを払拭するブレックスルー。
産業を多産多死させ、市場原理を働かせ、淘汰させ、無理矢理進化を促す。
そして、かぎりなく市場をあさっていくこと。

もともと、資本主義は、市場の拡大均質化によって成り立ってたわけだが
それは、世界恐慌で分かるように行き詰まった。

それからの一時の繁栄は、戦争による需要の拡大とそのときの開発技術を市場に
流した結果だよ。
つまり、電子テクノロジーの市場参入。
何を持って資本主義というのか分からんが、
経済発展型の国営方法とでも言った方がいんじゃないか。


43 :革命者:2006/06/06(火) 10:12:15
純粋資本主義国なんてありませんよね。
資本主義大国のアメリカでさえ混合ですもんね。
ただ、これから、インターネットの普及・デジタル情報革命によって、
より純粋に資本主義がおこなえる条件が整うと言われていますが。

百年単位で見れば、社会主義だってまだ可能性はあるのですよ。
もちろん狭義の純粋社会主義は無理でしょうけど。
また、資本主義と社会(社民)主義は単純に斥け合うべきものとも言い切れないでしょう。
いずれにしても、まだアイデアは出尽くしてもいないし、いわんや実行されつくしてもいません。

そろそろ、対立を超えた、第三のシステムの可能性を想像・創造してみるのもいいと思います。
ドン・キホーテになりそうですが・・・


44 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/06(火) 11:04:05
>>39
> 積極性のある肯定の哲学があることに同意されますか?

ここではそのような思考を哲学とは呼んでません。また、スピノザの第三種の認識、及び
「エチカ」の全体は思考過程の結果として出てきたものではないのです。最初に第三種の
認識があり、そこから「エチカ」が書かれています。

45 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/06(火) 11:16:20
>>40
> 「土に帰るか」「ジャイアンに媚びて運んでもらうか」の二択じゃない?

巨大資本が無くても流通業が無くなるわけではないと思います。もっと言えば、貨幣会得の
ために何事かを行う、ということが無くなるわけでもないと思うのですね。むしろ、貨幣は
我々を超えた何ものかとして機能し続ける必要があると思います。

問題は、マルクスが「搾取」と呼んだような事象で、利潤会得のための強迫的運動をどう
するかということだと思います。収入を得て、それを散財する、というだけであれば富の
集中は起きません。

46 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/06(火) 11:20:49
>>41
> 体験を安易に主にしてしまうと、神性があいまいになる危険があります。

それは仰るとおりで、ですからここでは「信仰」という言葉を使っているのです。
つまり、そのような体験を引き起こす「外」の存在こそが重要であり、その存在に
よって自己が規定される状態、これを述べているのです。

47 :考える名無しさん:2006/06/06(火) 12:36:26
外は語れないよ。そんなの常識。

48 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/06(火) 13:45:38
>>45
>巨大資本が無くても流通業が無くなるわけではないと思います。

巨大資本が「登場しても」、だよな? なんで真逆の話になってるんだよw

むじんくんの仮定では、革新を利用した資本主義的運動は起こらない。
しかし、革新を利用しない商人資本的活動は可能だし、必要ともされる。
よって、巨大資本の活動は商人資本的なものにならざるをえないということだ。

労働力以外の全ての生産手段を所有する巨大資本の株主(資本家)と、
労働力以外には何も持っていない圧倒的多数のプロレタリアートがいる世界。

さて、誰にどうやって流通業をしてもらいましょうかね?

49 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/06(火) 13:46:45
まぁ考えてみよう。

生産手段に労働力が投入されて初めて生産物が生まれる。
これを別の場所に運ぶ必要があるということは、労働者が生み出した生産物の何割かは
商人が持っていくことになるわけだ。かわりに何を渡そう?別の場所での生産物か。

この過程は結局こうなるな。
労働者が生産手段に「接続して」働く。生産物は全部「商人」が持っていき、流通させる。
代わりに「労働票」が労働者には渡される。労働者は「労働票」と他の生産物を交換する。

どこかで聞いたようなシステムだねw

50 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/06(火) 19:54:06
>>48>>49
> どこかで聞いたようなシステムだねw

どうも商人資本を登場させたいようですが、それはあり得ないと思います。普通に貨幣会得のための
流通業があるだけでしょう。

私は問題は私有財産制に基づく財の集中、拡大だと思います。そこには持たないものが持つものから
借金をするという構造が必然的に形成されるわけで、そこが解消されればいいんですね。具体的には
分からないのですけど(笑)。

51 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/06(火) 22:44:53
>>50
「誰にどうやって流通業を担当してもらうのか」
「搾取や財の集中を起こさずに、モノを流通させるにはどうすればいいか」

商人資本の登場がありえないと思うなら、その根拠をどうぞ。

52 :考える名無しさん:2006/06/06(火) 23:07:32
>>44
要は、はじめに信仰というか直観というか独断ありき、というわけでしょ。
でも、大半の哲学はあるていど独断的形而上学を含んでしまっているでしょ。神学までいかなくとも。
むじんくんが言う意味での(純粋な)哲学なんて、
現代のほんの一部が実践できていることに過ぎないのでは?

53 :考える名無しさん:2006/06/07(水) 10:37:20
むじんくんの言う信仰は、知的に高度でないとできないよね。
だから広まってないんだろうね。

54 :考える名無しさん:2006/06/07(水) 10:55:07
商人資本が登場しなくても流通はさせられると思うが、その場合は流通と分配を
誰かが取り仕切らなくてはならない。巨大資本がやらないなら、共産党か。

ま、いずれにしても腐敗するし、人々も真面目に働かなくなって欠乏するね。

55 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/07(水) 10:56:05
>>51
> 商人資本の登場がありえないと思うなら、その根拠をどうぞ。

?前にも書いたとおりですね。旧来の共同体復活があり得ないからです。

56 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/07(水) 11:00:13
>>55
共同体の復活はありえるよ。土に帰らざるをえなくなれば復活する。と言ってるんだが。

それはともかく、商人資本も共産党もなしでモノを流通させる方法を提示してくれ。
こんなことも理論上解決できないで、「共同体や商人資本の復活はありえない」と
言われても、むじんくんがそう思いたいというだけの話にしか聞こえない。

57 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/07(水) 11:01:10
>>56
> それはともかく、商人資本も共産党もなしでモノを流通させる方法を提示してくれ。

普通に流通業が流通させるでしょうね。何かそれだと困りますか。

58 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/07(水) 11:01:50
しかしふと気づいたが、むじんくんの「信仰」は強迫的運動からの脱落なんだから、
全くプロテスタント的じゃないね。どちらかというと仏教(唯識)に近い。

プロテスタントでは、「救われるか救われないかは既に決定されている」が、
それを人間が知ることはできない。
ただ労働に埋没することによって救われていることを確信できるだけ、という感じ。
「神の国はすぐそこにきている」という急迫性も特徴だな。

仏教(唯識)は「全ては空である」というやつで、人間の意識の奥にある自我への
妄執(マナ識)のさらに奥底にある、命への妄執(アラヤ識)まで解体する。

生きなければならない、拡大しなければならない、自己でなければならない。
こうした運動は妄執であり空なのだ、ということに気づくのが仏教的な悟りだ。

59 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/07(水) 11:04:16
>>57
誰が何のために流通させるんだよw

60 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/07(水) 11:07:57
>>59
> 誰が何のために流通させるんだよw

よくわかりませんね。普通に貨幣のために流通業が機能すればいいわけです。


61 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/07(水) 11:17:11
>>60
「貨幣のために」。そういうことだな。
貨幣を求めて得れば、今度は貯めこんだ貨幣を守りたくなる。これが商人資本だ。

しかーし、むじんくんの仮定では貨幣を貯めても資本にならない。投資する場所がないから。
さらに、貨幣を貯めても生産手段を買えるわけでもない。それはもう誰かが独占してる。
つまり貨幣を求める意味がないわけだ。モノだけあればいい。

流通業者は既にモノを持ってるぞ。なんでわざわざ他人のために遠くまで運ばなきゃいかんのだ。
強制されなきゃ十分な流通は行われないですよ、むじんくんの仮定では。

62 :考える名無しさん:2006/06/07(水) 12:34:43
働きましょう

63 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/07(水) 13:02:24
>>53
> むじんくんの言う信仰は、知的に高度でないとできないよね。

いや、全く知的な面は関係ないと思います。

64 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/07(水) 13:17:17
>>61
> 貨幣を求めて得れば、今度は貯めこんだ貨幣を守りたくなる。これが商人資本だ。

どうしても商人資本を登場させたいようですけど(笑)、貨幣を溜め込んでいるのが
商人資本っていうのは違いますね。彼らは仕入れをして売るということを続けないと
やっていけないわけですから。

ただ、貨幣の蓄積を求めるというのは一つのポイントだろうとは思います。つまり資本主義の
誕生のためには最初にそういった蓄積がなければならない。そして、私有財産という形で
それが存在するわけで、私的財の拡大を求める運動、これが問題の焦点だと思います。

一つは、貨幣を蓄積しても意味の無い状況というのを想定するのは意味があるかも知れません。
不況対策などで昔から行われていた地域通貨のような、持っていても利子が付かない、或いは
価値が目減りしていく貨幣が流通する状況ですね。ただ、利子の根拠は貨幣はそれを生産手段
に投下することによって最終的に増殖する、マルクスの言い方に従うとお金を持てば搾取ができる
という点にあるので、そこを何とかする必要があると思います。

65 :考える名無しさん:2006/06/07(水) 13:23:09
このスレは
「ウェーバー:ブロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
に改名しなさいよ。

66 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/07(水) 14:36:27
>>65
はじめはその線で議論してたんだが、むじんくんの「信仰」がプロテスタントと
無関係だと分かってからウェーバーの議論はもう使ってないねw

>>64
>どうしても商人資本を登場させたいようですけど(笑)、貨幣を溜め込んでいるのが
>商人資本っていうのは違いますね。

商人資本が出てくるのは、むじんくんの仮定で考えてるせいなんだってw
「貨幣のための流通業」とか「資本主義競争で勝ち残った巨大資本」とかさ。
俺の考えでも、共産主義に移れる条件が整えば、商人資本の再登場はたぶんないよ。

あと、商人資本は「貨幣を溜め込んでいる」ではなく「貯めた貨幣を守りたがる」だ。
「貨幣のための」流通業となると、権力に近づく商人資本になっていくことを示唆した。


67 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/07(水) 14:38:45
>貨幣を蓄積しても意味の無い状況というのを想定するのは意味があるかも知れません。
>お金を持てば搾取ができる という点にあるので、そこを何とかする必要があると思います。

これはまさに正しいと思う。

「超巨大資本が登場してもう拡大できない」状況では、貨幣を持っても搾取できない。
ただ、生産手段を抑えている巨大資本が直接的に搾取できてしまう。
そして、貨幣の意味がなくなれば流通が止まってしまう。「土に帰る」しかなくなる。
かといって、貨幣が意味を持つとすると、商人資本が再登場するだけだ。

これらは、「貨幣を蓄積しても意味のない状況」を「資本がもう拡大できない状況」とした
解釈が誤っていることに由来している。不況の例は悪くないと思うよ。そっちの方向だろう。

68 :愛国者:2006/06/07(水) 23:25:07
日の丸君が代強制にはじまり、教育基本法への愛国教育の規定、愛国評定や国歌斉唱の音量測定、違反者への罰則つくりなど、
恥ずかしくなるような低脳政策がはびこり始めた。これはまさに、社会の多様化と流動化に絶えられずパニックに陥った不安の人人の、なけなしの知恵であり自慰であり暴走であろう。

同類意識にしがみつきたがる不安の人人は、思想統制という熟慮なき原始的方法によって、公とか連帯や同類意識をつくろうとしているが、
こんなものは思想の退行としか言えない。しかも、それどころか、彼らの思惑通りの成功の可能性も低いであろう。
まさに悲劇というか喜劇である。
ただし、こんな茶番が通じない程度の知性の持ち主たちや必要がない人たちには、甚だ迷惑で有害であるから、
黙認しているわけにもいかない。
例え、アノミーの人々であっても、こんな馬鹿げたものに付き合うくらいなら、きちんとした宗教を信じたほうがマシだ。

むじんくんのいう信仰は、こういう病気への処方箋・解毒剤になるのか?

69 :考える名無しさん:2006/06/07(水) 23:48:30
>>68
馬鹿だな。
いかにも脳内だけで考えましたって答えだよ。つーか釣りだろ。



70 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 00:23:56
君が代 サイコー 

71 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 10:07:00
>>67
> ただ、生産手段を抑えている巨大資本が直接的に搾取できてしまう。
> そして、貨幣の意味がなくなれば流通が止まってしまう。「土に帰る」しかなくなる。

貨幣は利子なしで存在しえるか?ということですね。ケインズは世界恐慌の時に仮に
当時の英国の10倍の豊かさを実現できるならば、その時人間は一般に考えられている
「労働」というものから解放されるだろう、と言ってます。その時、単純に生活のために
貨幣を会得するという意味ではなく、貨幣それ自体への偏愛というものがいかに倒錯で
あったかが分かるだろうと。

貨幣への偏愛は、貨幣がそれ自体増殖し、支配する何かのごとくに機能しているから
です。それは認識の営みによって世界を支配したつもりになるのと等価だと思います。

72 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 10:20:09
>>68
> むじんくんのいう信仰は、こういう病気への処方箋・解毒剤になるのか?

なりません(笑)。ただ、何故愛国教育ということに与党が拘るのか、というのはハッキリした
理由があると思います。つまり、もう今後55年体制のような超均質化した日本空間というものは
復元できないだろう、ということでしょう。理由の遠因は冷戦の崩壊ですが、そもそも55年体制に
見られるような「日本的」と呼ばれる社会はどこまでも個人を社会が救ってあげることによって
成立していましたが、財政破綻間際でそれはもうできないし、やらないということでしょう。

そうなると当然格差が出てくるわけで、その不平不満を愛国という最も安上がりな方法でまとめ
ようと。日本の敗戦前もそうですけど、愛国といったものを声高に言うときというのは、何か実質的な
問題を隠そうとして行われるのです。

73 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 10:29:30
もう一つは、愛国というものを宗教代わりにしてるんじゃないか?というのは確かに
あると思います。マルクスは宗教は阿片だと言いましたが、結局近代社会の均質空間、
可能性の空間の中にあって、何故自分はこうでしかあり得ないのか、という問題。
パスカルの「自分は何故ここにいてあそこにいないのか」という問い。これに対して
何らかの回答を与えていたのが西欧ではキリスト教だったわけでしょう。

これも今の日本で流行している「格差」の問題と等価だと思います。つまり今までは
決して比喩ではなくて、学歴などによる給与の差はあまりありませんでした。なので、
確かに皆が弁護士にはなれなかったのですが、そこで「何故自分は弁護士になれない
のか?」という声は上がらなかったのです。これが今後上がってきます。生まれた家庭の
事情、生まれつきの知能の高低、顔の美醜、たまたま与えられるチャンスの有無、
こういう差がはっきりと所得として反映されるようになると、「何故自分は?」という、
つまり自分から見た世界というものは一体どうしてくれるんだ?という問いが強まるのです。

74 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 10:38:51
フォイエルバッハはキリスト教を自己を直接全体たらしめてしまう空想である、と言って
批判しました。しかし、これは近代社会では必要な空想なのだ、というのがマルクスの
「宗教は阿片」という言葉です。もし自己がそれ自体としての全体性をもてないならば、
つまり共同的な、一般的なものの一部であるならば、例えば醜い人はどうするのか、
避けようも無い貧困がやってきたときどうするのか、不慮の不幸、身近な人の死、こういう
ことはどうするのか。

近代社会では「それはお前の問題だ」として切って捨てる社会であり、誰も自分には
関心など実は持っていない社会であり、つまり自己は一般的なものの一部としては
「現実に」存在していないのです。だからマルクスは、フォイエルバッハのような
宗教批判を「重力という思想に逆らえれば空が飛べる」と考えるに等しいといいました。

75 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 10:44:11
>例えば醜い人はどうするのか、 避けようも無い貧困がやってきたとき
>どうするのか、不慮の不幸、身近な人の死、こういうことはどうするのか。

どうするのか、って、そんなことは近代社会だろうが前近代社会だろうが、
キリスト教だろうがマルクス主義だろうが愛国心だろうが、
資本主義だろうが共産主義だろうが、全く同じようにどうにもならんよw

76 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 10:49:29
>>75
> キリスト教だろうがマルクス主義だろうが愛国心だろうが、
> 資本主義だろうが共産主義だろうが、全く同じようにどうにもならんよw

前近代社会では社会的にどうにかしていました。西欧のキリスト教も社会的制度でした。
近代社会では個人でどうにかすることになっており、西欧のキリスト教も内面の問題となりました。

77 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 11:04:55
>前近代社会では社会的にどうにかしていました。

へえ、「どう」していたんだい?

78 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 13:27:34
つまり
むじんくんが言いたいのは
哲学を放棄して信仰に入ったら
主観世界がめちゃくちゃ狭くなって
客観世界がだだっ広くなることだしょ?

79 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/08(木) 18:15:08
>>71
>貨幣への偏愛は、貨幣がそれ自体増殖し、支配する何かのごとくに機能しているから
>です。それは認識の営みによって世界を支配したつもりになるのと等価だと思います。

生産手段を抑えることがモノを抑えることになり、それが他人に対する支配力になる。
これが「交換」という過程を通すことで、貨幣に対するフェティシズムに変質する。

「交換」がなければむじんくんの言うような思い込みもなくなるが、だからといって
生産手段やモノを抑えることが支配力になるという事実まで消えるわけじゃない。
つまりむじんくんの仮定はたんなる退行でしかない。これをまず認めなさい。

生産手段やモノを抑えることが支配力にならない状況が実現されなければ意味がない。
そういう意味でケインズは「10倍の豊かさを実現できるならば」と言ったんだろうし、
俺も「生産力が実質的に無限になれば」と言ったんだよ。

80 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 19:47:57
まだまだ、小同門の世界だな

81 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 20:16:06
むじんくんは、現代日本人の思想的萎縮(左右両方)や愛国病への処方箋は何だと思う?


82 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 20:41:55
>>77
> へえ、「どう」していたんだい?

前近代的社会とは、共同体内の象徴体系が静的な社会です。ですから、顔が
醜いのは醜いので、それなりの解釈が成立したわけです。ただ、そこには身分制度が
存在し、且つ制度外の人間扱いされない人々がいたというのはあるわけですが。

83 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 20:42:25
>>78
> 主観世界がめちゃくちゃ狭くなって
> 客観世界がだだっ広くなることだしょ?

主観/客観という構造自体の消去です。

84 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 21:08:25
>>79
> つまりむじんくんの仮定はたんなる退行でしかない。これをまず認めなさい。

???。交換がなくなればという仮定?私の仮定というのは、資本が究極まで増大し、
統一された状態はそれ自体資本の死であるということです。しかし、社会化された生産手段の
連関が消えてなくなるわけではありませんね。

> 生産手段やモノを抑えることが支配力にならない状況が実現されなければ意味がない。
> そういう意味でケインズは「10倍の豊かさを実現できるならば」と言ったんだろうし、

ただ、今でも実質的に週休5日とかでやっていけるとも言えてしまうわけです。それがそうなら
ないのは?ということでしょうね。

85 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 21:23:25
なんというか、日本人は8人の奴隷を飼っていると言われてるんだが、
人間の奴隷がいなくても、土臭い生活をしないためにはそれなりの代償がいるってことだわな。
そういう隠れた消費が当たり前のもの、永遠につづくものと思ってしまうのは
傲慢というか、かつての支配階級がいつも見落とし、軽んじてきたものだと思うのだが。


86 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/08(木) 21:37:44
>>81
> むじんくんは、現代日本人の思想的萎縮(左右両方)や愛国病への処方箋は何だと思う?

思想的萎縮とかがあるかどうかは分かりませんが、以前と変わりないとは言えるんじゃない
でしょうか。そして昔から日本ではサヨクはウヨクであり、ウヨクはサヨクです。愛国党の赤尾敏が
共産党員だったのは有名ですが(笑)。

処方箋と言いますが、所謂「日本的社会構造」という、戦後に総動員体制を元に機能してきたシステムが
現実に解体してきているわけで、それはウヨク=サヨクの崩壊になるんじゃないでしょうか。

87 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 21:56:18
日本の戦後からの歴史を振り返るのはまだ速い。



88 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/08(木) 22:50:45
>>84
むじんくんの主張は「資本が究極まで増大し資本が死ねば、私的所有の意味もなくなり、
社会的所有に移れる」というもの。この認識が誤りだったということだ。

「過剰な生産力」という前提が大事なんだよ。資本の増大はどうでもいい。

>>85
そういうことだな。
日本での労働は相対的に価値が高いから「週二日でやっていける」とか言えるわけで、
価値の低い労働との交換があることをむじんくんは認識してない。

89 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 23:21:28
>>86
でも「戦後以降の日本的社会構造」の解体の反動で、より悪いシステムになる可能性もあるでしょ。
いちおう警戒するべきだとは思うけどな。
教育改革というなら、愛国心云々よりも、まず近現代史と現国家の仕組みの徹底的な教育だよね。
そうしないと、愛国を見直すにせよ、情緒的愛国ムードに乗せられた馬鹿を生産するだけ、になる。

要は、自分たちの国・社会を自分たちで育て守っていくという国民意識と社会の一員としての自覚の育成をしたいわけだろ。
このためにあえて愛国の観念を刷り込む必要があるかどうか疑問だな。

まあ、むじんくんもいうように、愛国という観念は、社会不適応者の心の支えとしての、言い換えればアノミー吸収装置としての機能や、
格差に対する不満そらしの機能もあるかもわからないけど、みんな同じという思想が格差意識を過剰に生み出してる面があるよね。
日本人は差異と格差をうまく区別できないんだよね。
勝ち組負け組みなんて、単一モノサシによる奇妙な区別が意味をもつ国だからね。



90 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 23:35:24
>教育改革というなら、愛国心云々よりも、まず近現代史と現国家の仕組みの徹底的な教育だよね。
要するに洗脳じゃん。
何も知らない子供に、これが正しい認識ですよとすり込む。
愛国と何が違うのかとw
戦後の日本は一つの思想に統一することを恐れつづけた結果
政治より民間の経済発展だけに専念した。
それが経済が停滞してきて、心のよりどころを求めはじめた。
それで国の結束を固めるためにやっと国のあり方についてやんわりとやってるのに
いきなり極論をもってきて場面を糊塗しようなんてのはあまりに野暮。


91 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 23:44:11
>>90
今の日本の愛国教育は、中国や韓国と同類だよ。
西洋の愛国は違う。
民主主義と資本主義が上手くいくためには、思想統制ではダメだよ。
弱小の鎖国的帝国にでもしたいなら別だけど。

92 :考える名無しさん:2006/06/08(木) 23:52:12
>>91
そこに君の幻想があると思うよw
まあ、言っても譲らないと思うからどうしょうもないけど




93 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 00:16:36
>>92
よほど思想統制したいみたいだけど、何か特別な感情でもあるなかな?
事実から見て、豊かな国になり得ているのは、
民主主義と資本主義をきわめたところ。
西欧米の愛国教育は単純な思想統制とは違うんだよね。
教育の基本は洗脳だといっても、程度の問題が大切ね。
何でもかんでも思想統制じゃ、能がないな。





94 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 00:21:12
はいはい 粘着粘着

95 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 09:40:52
>>88
> 「過剰な生産力」という前提が大事なんだよ。資本の増大はどうでもいい。
> 価値の低い労働との交換があることをむじんくんは認識してない。

いや、生産力は既に過剰とも言えるわけです。しかし、利潤は必ず労働者が一定の
労働、そして可能であれば死ぬまで黙って働く量の労働まで引き上げようとすることで
得られますね。そこが問題だろうと思います。

マルクスは利潤率の傾向的低下の法則と言ってますが、生産手段が高度に発達し、
100年前と比較にならないぐらいの物質的豊かさがあったとしても、労働者の労働は
依然としてそのあり方を変えず、貧困が存在し、それを原因に日本のような豊かな社会
でも自殺者が多く出るのです。

96 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 09:47:07
>>88
> 日本での労働は相対的に価値が高いから「週二日でやっていける」とか言えるわけで、
> 価値の低い労働との交換があることをむじんくんは認識してない。

あと、これは今の話と全く関係ないことですね。つまり国際通貨価値の問題なわけで、これは
中国などもそうなってきてますけど、時間と共にその差は縮小していきます。

この後の話というのは、もう技術的、個別具体的な話になってしまうので、このスレッドの
主旨と外れますし、私もよく分かりません。ただ、昔法人資本主義の奥村宏がどこかで
書いてましたけど、従業員がオーナーの都合で倒産させようとした会社を買い取る、という
話がありました。これは一つのヒントになるんじゃないかと思います。ある生産手段は社会的
に機能し、機能しているということは必要だということです。これを必要とする人々の所有に
するということですね。市場での「神の手」を消去することもありません。

97 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 10:01:46
>>89
> いちおう警戒するべきだとは思うけどな。

近代国家のあり方、及び近現代史を重視するというのは賛成です。ただ、精神力で
実生活を変えられるわけではありませんから、いくら学校が頑張ってウヨク的思想を
持ち上げてもダメだろうとは思います。

やはり注目すべきは、自分が社会の一部であるという感覚が切断されるということでしょう。
日本は基本的に構成員に対して「YES」といい続けることをやってきました。これが消滅する
ということですね。そういうものを期待しての愛国であるならば、それはもう無いのだから
教育してもダメでしょう。

98 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 11:09:49
>97
要は、茶番劇として見守っておればよい、というわけですな。
しかし、どちらにしても、極度の趣味人や求道者や信仰者でないかぎり、社会からの孤立・疎外には絶えられないので、
何らかの共同体や居場所を与え、社会次元につなぎとめないと危険なのでは?
愛国教育は論外だとしても、その処方箋は必要だと思いますな。

99 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 11:21:12
はっきり言えば「愛国教育の是非」というのは、趣味嗜好の問題であって、
哲学とは何の関係もない。
「国」の代わりに「人間」「自然」「地球」「隣人」「自分」その他、
何を入れても、基本的には同じことだ。

100 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 11:29:56
>>98
> 愛国教育は論外だとしても、その処方箋は必要だと思いますな。

いえ、徹底的に不要というべきだと思います。その意味で、私は愛国教育反対派です。つまり、
そういう処方箋として愛国教育があるわけで、それだと今までと対して変わらないのですね。
今と同じ状況を何とか持続させようという、対処療法なわけです。更にその対処療法はどこかで
破綻するでしょう。

それが決定的に切断されるということ、これが注目すべき変化なのです。これは日本社会に
今まで不要とされていた「超越的なもの」が到来するということでもあります。


101 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 11:46:25
>今まで不要とされていた「超越的なもの」
これは何を意味してるのか?

102 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 13:26:20
>>101
> これは何を意味してるのか?

それはマルクスが「阿片」と呼んだものです。これは戦後日本には不要でした。社会は
無制限に人々を救う、救うべきとされてきました。これが破綻します。

103 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/09(金) 14:42:08
>>96
>あと、これは今の話と全く関係ないことですね。

日本では1時間バイトすれば900円近く手に入る。
ところが、中国では100円以下しか手に入らない。

この差があるから「週二日でもやっていける」って話が出てくるんだろw
で、格差が縮まれば当然ながら週二日でやっていけるわけがない。

日本の現在の物質的豊かさは、「革新=時間的差異」を作り続けて、外国産の
商品を安く買い叩くことで実現されている、という現実をまず認識しなさい。
「日本人には8人の奴隷がいる」ってのはこういう意味なんだよ。

104 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 15:05:35
>>103
> この差があるから「週二日でもやっていける」って話が出てくるんだろw

いえ、そういう話は全くしてませんね。現実の生産手段の高度化によって週休5日ぐらいでも
結構な暮らしができるんじゃないか、ということです。

それができないということは、それは生産手段の高度化と関係なく、労働というもののあり方が
変わらないからです。



105 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 15:07:56
>>102
>それはマルクスが「阿片」と呼んだものです。
これは宗教だよね?何教がでてくるのか?前時代的すぎないか。

106 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/09(金) 15:18:27
自分たちの豊かさが「搾取」の上に成り立っている事実を無視して、
既に「生産力は過剰とも言える」と言ってしまう無恥と無知。

購買力の高い日本という「欲望の中心」に住みながら、あまりにも無自覚。

107 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 15:38:13
>>105
> これは宗教だよね?何教がでてくるのか?前時代的すぎないか。

いえ。カントの言う「理念」ですね。

108 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 15:40:11
>>106
> 既に「生産力は過剰とも言える」と言ってしまう無恥と無知。

いや、そうではなくて(笑)、単純にその話をしていないというだけです。生産力
そのものは過剰と言えるんじゃないでしょうか。それと、各々の国家内部の
商品価値が相違しているというのは違った問題ですね。

109 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/09(金) 15:50:05
>>104
>いえ、そういう話は全くしてませんね。現実の生産手段の高度化によって週休5日
>ぐらいでも結構な暮らしができるんじゃないか、ということです。

むじんくんは>>95で「生産力は既に過剰とも言える」と述べていた。
ところがここでは、「生産手段が高度化すれば」という風に主張のニュアンスが変わっている。

さらに高度化しないと不可能なのか、現状でも労働のあり方が変われば可能なのか。
どっちかはっきりしてくれ。

110 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/09(金) 16:15:37
日本では既に一般化しているが、途上国では全然一般化していないものなど
たくさんある。エアコン、携帯電話、車、テレビ・・・。

これらを一般化するには組み立て・設計の他に、原料生産、材料加工など
全てを増産する必要がある。膨大な下部労働量の増加が必要とされる。
たぶん、その前に石油や電気が足りなくなる。

週二日の労働では全く足りないと思うのだが、「既に生産力は過剰」なのか?w

111 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 16:26:09
>>109>>110
どうも全く関係のない話へ飛んでしまってますね。現状の生産手段の高度化が
労働のあり方自体を変えるということにはなっていないという話ですね。

途上国の産業構造を云々というのは、全く別問題です。

112 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/09(金) 18:15:25
>>111
俺は関係ある話しかしてないよw

生産手段の高度化によって労働が変化しうる。これには同意している。
ただし、現状の「生産手段の高度化」は労働の質を変えられるほどには進展していない。
つまり、「既に生産は過剰といえる」というむじんくんの呑気な認識を否定している。

先進国は先進国、途上国は途上国と区別して考えることはできない。

113 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 18:27:22
>>97
人間から精神を奪ったら機械と同じだよ。
情動のない営みに一体なんの意味があるというのか!
君にかかれば、母親の涙さえ、ただの塩化ナトリウムと水の合成物になってしまうね。
共産主義の失敗と同じ轍を踏んでいると気づかないのだろうか。愚かしい


114 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 18:44:59
>>111
大いに関係あるよ。
途上国が先進国に追いつけば、当然人件費が上がる。
ということは、日本で安く売っていたものが、それまでどおりとはいかなくなる。つまり物価の高騰。
すると、日本国内のほとんどが今までの生活水準を維持できなくなるだろう。
すると、国は国民が生活するのに最低限必要な食糧、簡素な衣服、住を減税し、
低所得でも暮らせるようにする。
この場合、農業や生活に必要な基本的な職業に携わっている人たちは潤うだろうが、
サービス業や娯楽業といった人たちは大打撃を受ける。(もちろん今、国はそうさせないために
公共事業や技術革新をはかっているのだが。)
それでも、需要低下が日本だけなら、産業を海外に向けて発信すればいいが
途上国のような多くの消費を要求してくれるような国がなくなれば、
世界的に需要がなくなるだろう。
第2の世界恐慌が起きるというわけだ。



115 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 19:51:41
>>112
> ただし、現状の「生産手段の高度化」は労働の質を変えられるほどには進展していない。

いや、ですからそれが関係ないというのですね(笑)。生産手段が高度化しても労働というものは
変わってないということです。生産力が我々の生活を必要十分に満たすほど発達していても
労働の条件が変わるわけではないということです。

116 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 19:52:28
>>113
> 共産主義の失敗と同じ轍を踏んでいると気づかないのだろうか。愚かしい

いや、どちらかというと今までの日本社会は「無精神」でよかったのです。実際、
そういうことはよく言われてましたね。日本的スノビズムとか。

117 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 19:53:18
>>114
> 大いに関係あるよ。
> 途上国のような多くの消費を要求してくれるような国がなくなれば、

そういう話ではないのです(笑)。

118 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 21:02:03
>>116
それはここ50年のこと。
日本人というより、日本国が明確なビジョンを持ち合わせていなかったことは
無精神とも受け取れることと言える。これは政治をとりあえず置いといて経済にのみ
専念してきたからで、これは結果として成功に終わったが、不安を今に残している。
一方、日本人が無精神というのは少しちがう。
日本人は、和の精神を尊んできたが、これは極めて神道的側面をもつ。
すべてを包み込んで許してしまう自然の寛容さを日本という風土がよく保ち続けており、
それが人々の心に影響したことに由来するものだろう。
世界一般では宗教とは排他的なもので、排他的でない宗教はありえないゆえ
日本人は無宗教であり、無精神と受け取られがちだが、決して無宗教、無精神というわけではない。

>>117
だから関係ある話なんだってw
現実をみないで、論理だけ先行しても意味ないでしょ。
どうしてそれが分かんないかなあ。
腹が減っては戦はできぬというのになw

植物も動物もいなくて人間だけがいる。
その人間は食べたり飲んだりしなくてもすむ。
眠りもしなければ夢も見ず無駄口もきかない。
生まれたときには老衰していて、死ぬ時にまだ乳を飲んでいる。
そんな世界は、科学的というより、哲学的な夢想の世界だな。


119 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 21:13:58
>>118
> それはここ50年のこと。

それは仰るとおりだと思います。敗戦直後、或いは明治時代は違っていたわけで、それは

> すべてを包み込んで許してしまう自然の寛容さを日本という風土がよく保ち続けており、
> それが人々の心に影響したことに由来するものだろう。

こういうものが解体した状態だったからです。

> >>117
> そんな世界は、科学的というより、哲学的な夢想の世界だな。

そんな世界の話は全くしてませんね。

120 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 21:21:05
>>119
明治時代はいくぶん過渡的だったから、どうかと思うな。
天皇制をキリスト教の西洋における絶対性に真似、近づけようとしたことによって
制度が硬直化し、どんな体制にも移行できる柔軟さが失われた。
これは必要悪であったとも言えるが、この悪影響は現在にまでつづいている。

>そんな世界の話は全くしてませんね。
まあ、観念の遊戯で終わらないように


121 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/09(金) 22:02:57
>>115
またそうやって話をすりかえる。
実際、生産手段が無限に偏在したからって労働の質が変わるとは限らないよそりゃ。

ただこういう条件が満たされてはじめて、労働の質が変わり「うる」と言っている。
そして現状の生産手段の状態と生産力では労働の質は変わり「えない」。

人間の心がどう変わろうと、経済的下部構造が変化しなければ労働も変質しないって
いう当たり前のこといってるだけなんですけどね。

122 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 22:22:04
>>120
> これは必要悪であったとも言えるが、この悪影響は現在にまでつづいている。

いや、明治初期の為政者はかなり緊張していたし、頭もよく使って考えていたと思いますよ。
天皇をキリスト教の神と等価なものとして掲げ、絶対的なものとする一方で、明治の日本は
戦後日本とは違い財閥がおり、労働者の流動性も高く(もちろん大半が農民だったですけど)、
都市と農村、貧富の差などが激しかったわけです。

ところが、それを変革しようとしたのが戦時中の「革新官僚」で、彼らはこういう資本主義を
嫌ってソ連などをモデルにした計画経済をやろうとしたわけです。これが戦時統制経済に
なり、戦後も体制の骨格となって残存したのですね。

日本が「皆同じ民族だ」という同族意識を持ったのは戦後暫くたってから、1970年ごろから
とも言われてます。つまり高度成長時代に入るときですね。

123 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/09(金) 22:25:37
>>121
> ただこういう条件が満たされてはじめて、労働の質が変わり「うる」と言っている。

そういう量的問題ではないという話を繰り返し言っているわけです(笑)。現状の生産手段で
人々が週休5日で働いても結構な生活ができると思いますよ。50年、100年前とは比較に
ならないぐらい生産技術は進歩しているのです。なのに、どうして労働のあり方は比例的に
変化しないのだろうか?という話ですね。これで分かるですか(笑)。

124 :考える名無しさん:2006/06/09(金) 22:54:22
>>122
かなり無理してましたって。
新興国家としての、構造の固定化、癒着がなかった分
無茶は聞いたのだと思いますが、確実にその後への悪影響となってます。
むしろ、明治の栄光の中で蓄積された膿が昭和になって一気に吹き出たと言える。

>>123
週休2日は企業が労働者に対して賃金を払えないからやもえずそうなっただけで
儲かってるなら使ってるよ。事実社長が休みがないくらい忙しいのは
働かないと儲からないからだし。一般労働者は気楽な身分だよ。
しかし、こんな労働者でも普通以上に暮らせるのは日本の円が強い力を持ってるから。


125 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 05:57:20
>>123
>そういう量的問題ではないという話を繰り返し言っているわけです(笑)。

商人資本が登場するには、まず貨幣が一定量存在することが前提だ。
量の問題が、質的な変化をもたらすことはよくある。
同様に、生産力の過剰という量的変化が労働の質の変化の条件になる。

>50年、100年前とは比較にならないぐらい生産技術は進歩しているのです。

確かに進歩しているが、労働の質が変化できるほどの進歩ではない。
食糧生産だけ考えても、マルサスの理論をひっくり返せるほどの進歩はしていない。
むじんくんは「50年前・100年前とは比較にならないぐらい」人口が増えている
ことを見落としている。

ゆえに、「現状でも週二日労働でおk」という議論は誤り。

126 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 07:32:48
まぁもう飽きたし話題を変えてみよう。

むじんくんは「力への意志」をどう考えてるんだ?
これは「生命とは、他を虐げ、支配し、無限に拡大しようとするのが
デフォルトである」という思考だ。進化論的に見ても、生物学的に見ても
「力への意志」という擬制は説得力あると思う。

これは、超越論的運動や資本主義的運動なんかが「喪失の奪回」として
行われるというむじんくんの思考に対する明白なる反対になる。
「喪失」などあってもなくても、無限に拡大しようとするって話だから。

「喪失がないことに気づけば、そのような運動も止まる」っていうのは、個人レベル
ではよく分かるんだが、集団で考えたら想定内のエラーに過ぎないと思うんだよね。

127 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 11:05:53
>>124
> むしろ、明治の栄光の中で蓄積された膿が昭和になって一気に吹き出たと言える。

いえ、戦後の日本型経済というのは、戦時中の「革新官僚」による統制経済が元になってます。

> >>123
> しかし、こんな労働者でも普通以上に暮らせるのは日本の円が強い力を持ってるから。

ですから、単純にその話していないんですって(笑)。

128 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 11:26:36
>>125
> むじんくんは「50年前・100年前とは比較にならないぐらい」人口が増えている
> ことを見落としている。

なるほど、どうも妙なこと言っているなぁと思っていたのですが、マル"ク"スではなくて
マル"サ"スのこと言っていたわけですか(笑)。

マルサスの理論は端的に間違いですね。まず、技術革新ということを考慮に入れていません。
フランスなどは食料自給率高いですが、担っているのは人口の数%です。これはマルサスの
時代とは全く違うわけです。

あと、そもそも人口が減っても労働の質が変わるわけではないのです。逆に人口増加に比して
生産力が飛躍的に伸びても変わらない。これをマルクスは指摘したわけですね。どんなに
高度に発達した技術が聳え立つ社会でも、貧困が存在し、死ぬまで労働するということは発生
しえるのです。

マルサスの理論は結局当時発生していた労働の過剰、過剰を理由とした賃金の引き下げという
状況を肯定するための理論です。そうではなくて、資本主義社会の構造が必然的に一定の
「過剰な人口」を作り出すと言うこと。だからこそ競争が発生し、賃金引下げの圧力がかかると
いうこと。それをマルクスは問題にしたのです。


129 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 11:34:02
>>126
> デフォルトである」という思考だ。進化論的に見ても、生物学的に見ても

だとしたら、人間は様々な意味でダメ動物ですから死んだほうがいいということに
なります、進化論的には(笑)。

ヘーゲルは主奴の弁証法から出発して、奴のみを観察対象としたのは理由が
あるわけです。主はそれ以上変異しないわけで、「精神現象」の過程を通らない。
その過程を通るのは否定を刻印された者だけだということですね。

130 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 13:54:04
>>128
>どんなに高度に発達した技術が聳え立つ社会でも、貧困が存在し、死ぬまで
>労働するということは発生しえるのです。

別に「発生しえること」なんて否定してないんだけどw
生産手段が無限に偏在すれば、こうした現象を止めることは可能になるけど、
相変わらず発生し続けるかもしれない。当たり前の話だ。
とりあえず、現状ではこうした現象の発生を止めることはできないね。

>>129
進化論は「死んだほうがいい」なんて言わないけどね。
なんかかなり怪しい理解してそうだなキミ。

で、「力への意志」についてどう思ってるのかをはっきり述べてくれんかね。

131 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 14:02:23
>>127
もういいよ。同じループだ(なんの論拠もなしの断定だし)

>>128
フランスでも人口問題が問題で移民政策とかしてんのかね。
やがて、主客逆転して、住む人も文化も転々としていきながら
場所だけが変わらないのは、なんの意味もないと思うのは俺だけか。
場所とそこに住む人はセットだよ。
じゃなければ、やはり人口増加こそ強みだ。

>>129
逆だろ。人口が減る傾向にある方が生物的に見て末期症状だ。
自己保存、自己拡大意味ないじゃんって思った生物から滅んでく。
歴史には残った種こそ偉大と記されるだけ。



132 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 14:08:48
>>129
むじんくんさ、
えてして、最高のスペックが
市場でかならずしも支持されるわけではないと知ってるかい?
え?、それが安くなれば支持されるじゃないかって?
じゃあ、なぜその最高のスペックが安く販売されるようになったか
考えようよ。


133 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 14:37:39
>>130
> 生産手段が無限に偏在すれば、こうした現象を止めることは可能になるけど、

「無限」っていうあり得ない言葉を便利に使ってますが、そういう話ではないということですよ(笑)。
人口が生産力に比べて著しく縮小しても、「過剰な人口」が生成される、これが必然的に生成
されるというのがマルクスの資本主義分析です。「かもしれない」とかいう話ではないのですね。

> >>129
> で、「力への意志」についてどう思ってるのかをはっきり述べてくれんかね。

?どう思っているとは?

134 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 14:39:54
>>131
すみません、何を仰りたいのか全く分からないですが。

135 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 14:45:51
ニーチェはどうにでも読めてしまうのですが、基本的に「力」というキーワードに
よって人間の精神を動的に考えようとしたという点で、ヘーゲルと似ているわけです。

問題は、彼がヘーゲルが言うような「否定」に対して反対をしていたか?ということ
ですが、そこはどうとでも読めてしまうのですね。ツァラトゥストラに出てくる「三段の変化」
などはヘーゲル的発達段階とも読めます。

私はニーチェが所謂「野蛮人」賛美していたという解釈は反対です。彼が告発して
いたのは、現実の否定性の世界の中において、空想的な肯定で慰めようとする「弱者の思考」
だろうと思います。キルケゴールの「水平化」という言葉と対応することですね。

136 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 14:51:13
>>134
だから、むじんくんが見てる表象だけで論理の正しさを証明しようとしても
無理だって言ってるわけ。とりあえず、移民政策でググってみ。

137 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 14:52:58
一神教徒なんでしょうね、彼はあなたの神を信教していないのに。

138 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 15:39:25
現実はえいや それを後で論理づける

139 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 16:01:58
>>133
>人口が生産力に比べて著しく縮小しても、「過剰な人口」が生成される

だから、「週二日の労働でそこそこの生活」なんて無理なわけだ。
「過剰な人口」=「過小な供給」ということなんだから。

>>135
>現実の否定性の世界の中において、空想的な肯定で慰めようとする「弱者の思考」
>だろうと思います。

この解釈には同意するけど、そう考えたら「信仰」によって超越論的運動が止まる
というような思考はアホらしいと思うんだが。

「喪失の奪回として行われる」と分析するまでなら別にいいんだが、喪失などないと
気づけば超越論的運動が止まるという結論は、「力への意志」からは出せないんじゃない?

喪失なんかあってもなくても、自己は外部を飲み込もうとし続けるんだから。

140 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 17:38:45
>>139
> 「過剰な人口」=「過小な供給」ということなんだから。

これ、そんなに分かりにくい話ですか?(笑)。生産力の発達で週休5日でもやって
いけるほどになったとしても、人々が週休5日で生活できるかというとそうはならない
ということです。過小な供給では決してありません。資本主義社会ではむしろ過剰生産
されますが、にも関わらず貧困が生成される、つまり「過剰な人口」が生成されるのです。

> >>135
> 喪失なんかあってもなくても、自己は外部を飲み込もうとし続けるんだから。

意味不明ですね。自己は喪失によって形成されます。自己とは運動であり、それは
否定=喪失の奪回の運動です。

141 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 17:58:07
ニーチェが「主」として考えていたのは、或いはヘーゲルも同じですけど、貴族的傲慢さです。
これは世界が自己に対して肯定しているということを当然当たり前と思う精神です。
もっと言えば、裸の王様ということですね。それを妨げるものは不快であり、除去して
しまおうという。

近代社会にはこういった「おばかさんな王様」(王様は常にバカでなくてはなりません)がいない
のです。

142 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 18:09:44
ニーチェが最後の人間と呼んだ人々、これは近代人一般を指しますが、裸の王様とは
違って怜悧であり、自分が何であるかを常に反省しており、「良心の呵責」をすぐに感じて
しまう。この自己関係の視点の起源をニーチェは被支配者としての存在から引き出すわけです。
ヘーゲルも全く同じです。

ですから、近代では後先考えずに英雄が思い切った行動をする、というドラマが発生しない
わけです。全てが計画済みであり、無理をせず、反省し続ける人間による退屈な時間が
ひたすら流れるのだと。


143 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 18:18:09
>>140
言葉遊びで、「現状の生産力で週二日労働でやっていける」というキミの主張が
本当かウソかという本題から逃げるなって。キミの話はとっくに理解できてるから。

私的所有が無意味になるほどに生産力が増せば、資本主義的運動は止まりうる。
しかし現状では不可能。今問題にしてるのはこれだけだ。

>自己は喪失によって形成されます。自己とは運動であり、それは
>否定=喪失の奪回の運動です。

これはキミの思考の話じゃん。
「意味不明ですね」じゃなくて、少しは他人の議論を理解しようとしたら?

ニーチェはまず、支配し、拡大しようとする運動(=力への意志)を考える。
これに対する「反感」として奴隷道徳を説明するわけだ。

俺が聞いたのは、このロジックからどうやって「喪失」を導き出すのかってこと。
まず、ニーチェの議論は「喪失」を前提にしているのかいないのかに答えてくれ。
前提にしているというなら、そう述べている部分を教えてくれ。

144 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 18:19:18
お、解説入ってたな。悪い悪い

145 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 18:30:55
>>143
> 私的所有が無意味になるほどに生産力が増せば、資本主義的運動は止まりうる。
> しかし現状では不可能。今問題にしてるのはこれだけだ。

言葉遊びはそちらが参照しているマルサスの論ですね。構造的に資本主義社会では
「過剰人口」を生成し、それが賃金引下げへの圧力となるということをマルクスは問題に
してました。それを「過剰な人口がいるから生活が悪くなるんだ」という言葉遊びに終始
しているのが、探求氏の論法なのです。

前も書きましたが、フランスの食料自給率は高く、その産業へ従事している人口比は数%
です。衣食住プラスアルファ、しかも100年前に比べたら遥かにいい暮らしを別に今でも
左団扇でやっていけるんじゃないですかね。ですから、生産力がいくら発達しても、資本主義
運動がとまるわけでは全然ないのですね。

146 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 18:37:44
>>141-142
うんうん、特に異論はない。

ところで原理的な話になるが、奴隷が貴族的傲慢に対して反感を抱いたのはなぜだ?
奴隷だって、できれば傲慢に振舞いたかったからだろう。
「傲慢に振舞いたい」「支配したい」という意志がなければ、支配されていたって
全然負けじゃないわけだ。ペットは主人に反感なんて抱かないようにね。

傲慢に振舞いたいのに、現実的に支配されててそれはできない。むかつく。
この現実の「負け」をひっくり返すために、奴隷道徳に基づいた「良心の呵責」が
発明され、人々の心に埋め込まれた。そして近代人はもう貴族的に振舞えなくなった。

こういう流れだよな、ニーチェの議論って。
で、どこに「喪失」があるんだ?俺は奴隷道徳にしか見出せないんだが。

147 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 18:37:54
>>142
なんか極論出てきたな。
欲のない人間は存在しないと思ってたが
石になった方が幸せな人間が多くなんのかよ未来はw
魂の存在を認める訳じゃないが、
人間てのを予測可能になるには人間の情報処理速度じゃ無理だよ。
処理速度より時間の流れの方が早いからさ。
だから、論理より直観が優先されるのさ。
量子コンピュータができたら分かんないけど。


148 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 18:43:21
>>145
新たな視点を「その話はしていない」の一言で却下するような人に言われたくないなw

フランスの農業人口が数パーセントでも、食糧自給率高いのはなぜ?
他のやつらと農業を分担してそれが継続できるわけないだろ。
日本でもフランスでもここは一緒。国内だけで考えてるからおかしなことになる。

まぁもういいよ、この話題は。飽きた。

149 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 19:44:27
>>146
> で、どこに「喪失」があるんだ?俺は奴隷道徳にしか見出せないんだが。

近代社会というのは、「裸の王様」を殺害することで成立します。それが近代社会の
「喪失」でしょうね。

>>148
> 他のやつらと農業を分担してそれが継続できるわけないだろ。

できるわけない?(笑)。

ですから、生産力がいくら増大し、過剰生産になったとしても貧困があり、常に「過剰人口」が発生し、
労働者は競争を強いられ、賃金を引き下げる方向へ力が働く。これが資本主義社会です。
何度も言いますが。

まぁ、あれです。マルサスのようなブルジョアパンフレットなんか参照するのは時間の無駄以外の
何ものでもないということですね。「仕事が無いのはお前が禁欲しないからだろ」なんていうバカ
丸出しの論を展開してしまうわけですからね(笑)。しかも、あれはマルクスによると全部他人の剽窃
だったそうですね。

150 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 20:02:19
先進国の人口は軒並み減ってますが・・・

151 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 20:10:30
>>149
ふむ。裸の王様(貴族的支配者)の殺害=喪失であると。

「信仰」=「喪失などないと気づくあり方」だとすると、これは「私たちは
本当は貴族的支配者を殺してなんかいなかったんだ」と気づくことにあたるね。

そうなれば「良心の呵責」を感じずに、非強迫的に支配や拡大を欲し続ける
ことができるようになるわけだ。ニーチェの議論に即するならね。

この帰結はむじんくんの結論とはたぶん異なっているだろう。
だから、「力への意志」をどう思ってる?って聞いたんだけども。


>できるわけない?(笑)。

できるわけがないんですよ。むじんくんはできると思ってるみたいだけど呑気すぎ。

152 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 20:14:04



( ・3・)ひよりちゃん
http://rerere.sytes.net/imgboard3/img-box/img20060610104055.jpg







153 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 20:16:03
>>150
だから、この国の支配者たちは心底、人口減を恐れているのだろうね。つまり、
賃金がそれによって高騰することを。

154 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 20:20:55
>>153
そんなこと考えてねえってw
たいがいモラトリアム人間だよ

155 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 21:09:17
>>151
> この帰結はむじんくんの結論とはたぶん異なっているだろう。

そうですね、逆です。拡大の運動が静止するわけです。近代人というのは結局「主なき奴」
なわけです。近代的精神の膨張というのは、決して英雄的な直接支配ではないのですね。一旦
屈折した、骸骨のように冷たい手によって世界を掴み取ることです。

> できるわけがないんですよ。むじんくんはできると思ってるみたいだけど呑気すぎ。

もちろんできないわけですが、その理由は生産力がショボイからではないということです。
人口の数%によってその国の食糧自給が成り立つという時点でマルサスの論は破綻です。


156 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 21:10:45
>>153
> 賃金がそれによって高騰することを。

賃金は高騰しない、これがマルクスの分析なわけです。

やっぱあれですね、「資本論」は読んだほうがいいですよ。あんな面白い本ありませんよ。

157 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 21:54:32
>>156
では、なぜ政官財の連中は少子化をあれほど恐れるの? それとも、あれは
何かのポーズ?

マルクスを抽象的な(教養)レベルで云々しているの? 現実の経済について
彼の語ったこと(予言)は、ほとんど外れたと言っていい。「資本論」を面白
いと感じるのは、もちろんむじんくんの自由ですが。

158 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 22:01:27
>>155
>拡大の運動が静止するわけです。

それはもう分かってるから、その結論を導かない「力への意志」について
どう思っているかを述べてくれって。むじんくんの思考と矛盾する前提なんだろ?

>人口の数%によってその国の食糧自給が成り立つという時点でマルサスの論は破綻です。

マルサスの作ったモデルの有用性は高いよ。ちゃんと応用して考えれば。
食糧市場に限定せずに他の市場についても考えてみるといいよ。例えばエアコンとかね。

159 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 22:09:14
>>157
> では、なぜ政官財の連中は少子化をあれほど恐れるの? 

それは再配分の問題が発生するからでしょうね。賃金の高騰ではなくて、変わらないのに
給料の大半をかっぱらわれたら怒る人続出しますよね。

> マルクスを抽象的な(教養)レベルで云々しているの? 現実の経済について
> 彼の語ったこと(予言)は、ほとんど外れたと言っていい。

いや、マルクスの主要な論点は全く生きつづけており、全く外れてませんよ。


160 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/10(土) 22:18:47
>>158
> それはもう分かってるから、その結論を導かない「力への意志」について
> どう思っているかを述べてくれって。むじんくんの思考と矛盾する前提なんだろ?

前提は矛盾しないと思いますよ。

> 食糧市場に限定せずに他の市場についても考えてみるといいよ。例えばエアコンとかね。

マルサスのモデルというのは結局自分の身の回りで発生している貧困を「自業自得」と言っている
だけです。その理由は単純で、彼自身がブルジョアだからです。更に、マルクスによると書いている
ことの大半が他人の剽窃だそうです。

161 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/10(土) 22:26:08
>>160
>前提は矛盾しないと思いますよ。

ほー。で、どう思ってるの?


162 :考える名無しさん:2006/06/10(土) 22:33:07
>>160
自業自得でいいんじゃない?
だって働いても働いても、報われない社会なら誰もが不満で壊すだろ。



163 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/11(日) 07:57:04
>>161
> ほー。で、どう思ってるの?

いや、ヘーゲルと同じように動的に精神のあり方を考えるという点で、そういう「力」を前提
とするというのは同じだということです。

164 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/11(日) 07:59:00
>>162
> 自業自得でいいんじゃない?

いや、資本主義社会では必然的に過剰労働というものを生成し、貧困を生成するのです。
日本でもレストランなどで食料が大量に捨てられる一方で、借金地獄で自殺する人がいます。

やはり「資本論」は読んだほうがいいですよ。あんな面白い本はありませんよ。

165 :考える名無しさん:2006/06/11(日) 13:18:42
>>164
それは、弱肉強食の自然の原理じゃないのかな。
家畜だって、毎日殺されてみんなの口の中に入ってますよ

166 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/11(日) 13:39:49
>>165
> それは、弱肉強食の自然の原理じゃないのかな。

つまり、アネバマンションも「自然現象」ということですか?自然災害と人災と区別しないという
ことですか。

例えば私があなたの職場のオーナーで、「おい、お前の給料3割増してやるから今日から倍働け」と
言ったとします。あなたはそれを「自然現象」として、更に「弱肉強食の世界」で生き残るために進んで
頑張るわけですね。

「嫌だったらそれでもいいぞ、もう一人のやつを雇ってお前を解雇するから」という言葉にも、それは
「自然現象」であり、「弱肉強食の世界」で生き残るために進んで頑張るわけですね。頑張ってくださいね(笑)。

167 :考える名無しさん:2006/06/11(日) 13:58:36
>>166
アネハマンションは違法じゃん。
また、多くの人間がそれは不当であると感じたことでしょう?
そうでなきゃ、それは新しく違法行為として取り締まる程度ではないということです。

職場のオーナーにしても、それでも頑張る人がいればオーナーはそっちを
雇いたいでしょうよ。それは人間の欲というものです。
あなただって、異性をえらぶときは人間平等、出会ったはじめの人にすると
適当に選べますか?選べないでしょう。
欲を優先させすぎず、法を優先させすぎない最適な場所が人の納得するところです。
人間論理だけでは動きません、理解はできるが納得できないことがありますから。


168 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/11(日) 17:57:07
>>163
なるほど。喪失や否定されること(反感)を前提とせずとも「力への意志」がある
というニーチェの思考の重要部分(価値転倒)は無視して理解してるわけだね。

むじんくんの分析は常にこの調子ですな。
都合のよい部分だけをみて、都合の悪い部分は平気でシカトする。
シカトしても問題ないことを説明する必要があるとも思ってない。
だから誰とも議論がかみ合わない。

肯定の哲学もあると言われたら「それは哲学とは呼ばない」と答え、
別の市場との関係を無視できないと言われたら「そんな話はしてない」と答え、
マルクスもブルジョワだったのに「マルサスはブルジョワだから」と説明したりする。

こういう態度をおかしいと思えないむじんくんは、数学が苦手に違いないw

169 :ContextSurfer:2006/06/11(日) 18:04:28
>むじんくんの分析は常にこの調子ですな。
>都合のよい部分だけをみて、都合の悪い部分は平気でシカトする。
>シカトしても問題ないことを説明する必要があるとも思ってない。
>だから誰とも議論がかみ合わない。

禿同(笑)
むじんくんさんはただ続けることが目的なんでしょう。
この掲示板の向こうに、こちら側に逃げ続けなければならない
問題があるんだと思います。

170 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/11(日) 19:54:32
>>167
> あなただって、異性をえらぶときは人間平等、出会ったはじめの人にすると
> 適当に選べますか?選べないでしょう。

自然災害と人災の区別が無いだけでなく、限りなくお人よしですね。例えばあなたがここで
言うところの「異性」だとして、それはただの異性ではなくて娼婦としての異性だということを
忘れてはいけませんよ。できれば安く抑えたいのが「人間の欲」ですね。

171 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/11(日) 20:09:48
>>168
> なるほど。喪失や否定されること(反感)を前提とせずとも「力への意志」がある
> というニーチェの思考の重要部分(価値転倒)は無視して理解してるわけだね。

違いますよね。別に否定があるからニーチェが前提とする「力」があるとか言ってませんよ。
そして、その「力」がどのように変異するか、という点においてもニーチェが間違っているとは
思いません。

ただ、彼の「永劫回帰」や「超人」といったものが何を指しているか?ということは、どうにでも
解釈されてきちゃったということです。最初に言いましたが、私は「超人」が野蛮主義で
あるという解釈は反対です。むしろツァラトゥストラの「三段の変化」において最後に子供を
喩えとして出していることからも、ヘーゲルの言葉でいう「奴を放棄した奴」というのが
「超人」の印象です。

> マルクスもブルジョワだったのに「マルサスはブルジョワだから」と説明したりする。

マルクスはブルジョアでしたが、ブルジョア思想ではありませんね。正直だったということです。

172 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/11(日) 20:13:43
>>169
> 禿同(笑)

よかったですね、最近のピカ先生の思想とピッタリな出来事、「小さな曼荼羅」が強化される出来事が起きて(笑)。

173 :探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/11(日) 23:51:12
むじんくんのロジック:
超越論的運動は必ず「喪失の奪回」としてなされる。
ゆえに「喪失」などないことに気づけば(=「信仰」)、超越論的運動は止まる。

ニーチェのロジック:
まず「力への意志」があり、それに対する屈折・反動として「喪失の奪回」が行われる。
ゆえに「喪失」がないことに気づいても、「力への意志」による運動が続く。

論理的に考えるならば、むじんくんは「力への意志」を拒否しなければならない。
しかし論理性と無縁の彼は、そうする必要性があることにすら気づかない。

こういう部分を曖昧にしたまま「超人」や「子ども」を都合よく解釈し、
自分の思考と共通する部分のみを取り上げるのが彼の「哲学」のあり方である。

174 :考える名無しさん:2006/06/12(月) 00:13:22
むじんくん
私がむじんくんとの対話を閉ざしてしまったのも、ニーチェを
巡ってです。「力への意志」において、ニーチェは不条理な生を
自ら積極的に選んだ、肯定的なものとして生きる、という哲学を
展開します。このような「積極性」ある「肯定」の哲学が、思想史
に存在していることをむじんくんに問うたところ、「ここではそれを
哲学とは呼ばない」といわれてしまったので、もうこれ以上、対話は
あり得ないかな、と思いあぐねていたところです。
消極的な否定の哲学のみ、哲学として認め、それをもって哲学は神学の
婢、と主張されては、極めて限定的な哲学だけを対象とすることになり
ます。

175 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/12(月) 10:14:39
>>173
そのニーチェ解釈というのは、良心の呵責を感じる以前の人間こそが「超人」で
あるというものですね。それであれば私は否定しますし、そういうニーチェの解釈も
しません。

ただ、前提となる「力」というもの、これを軸にして様々な精神のあり方を考えるという
点では異論はないということです。カントのように、ある時点の人間の精神構造を
スナップショットを撮るようにして描くというのとは、ニーチェ、或いはヘーゲルの思想は
違うわけですね。

176 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/12(月) 10:21:56
>>174
> 消極的な否定の哲学のみ、哲学として認め、それをもって哲学は神学の

では、例えばスピノザの「第三種の認識」、ニーチェの「永劫回帰」というもの、これらが
哲学的思索の産物か?ということ違うでしょう。そして、ニーチェ自身、「哲学」なるものを
否定していたのです。

177 :考える名無しさん:2006/06/12(月) 12:46:37
むじんくん
スピノザの「第三種の認識」は概念の認識(第二種の認識)の原因の
認識を指します。これをもって神的知性とされますが、これは哲学的
思索の産物だと思います。ニーチェの「永劫回帰」も有名な湖畔での
体験から着想を得たとされますが、これも哲学的思索の産物だと思い
ます。この両者を同列には論じられませんが、主知主義的に絶対なる
ものを認識する仕方も、哲学の立派な仕事です。またニーチェが哲学
を否定した、というのは、まさにむじんくんが仰るような、否定性の
上に成り立つ、ソクラテス以来の哲学(理性至上主義)です。だから
彼は「身体に問い尋ねよ」と語ります。彼にとって身体とは、理性が
その一部に過ぎないような「大いなる理性」を指します。それは積極
性のある肯定の哲学です。このような積極的、肯定的な哲学はこの
スレッドからは排除されますか?

178 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/12(月) 13:31:57
>>177
> スレッドからは排除されますか?

いや、削除はしませんが(笑)。しかし、精神が「真理」に至るならばそこで哲学的思考は
終りを告げるわけで、ニーチェの永劫回帰にしても、その「大いなる理性」からの言説と
いうのは哲学的言説にはならないでしょう。

コジェーブはだから「エチカ」のおかしなところは、そこに至るまでの時間が無視されており、
「一瞬のうちに」思惟され、書かれ、読まれねばならない、という点にあると言ってますね。
最初に彼は「第三種の認識」にあるわけで、「エチカ」の中ではそれが到達点として描かれて
いるわけです。


179 :考える名無しさん:2006/06/12(月) 14:46:46
むじんくん
ニーチェは哲学者たちが「真理」と呼んできたものを迷妄として
否定します。それはこの世界の彼岸を想定するものである、と。
彼にとって重要なのは、この世界を彼岸に訴えることなく、そのまま
此岸として肯定することです。ここに「信仰」に拠ることなく、
世界を肯定する、受け入れる哲学があります。これは哲学は神学(信仰)
の婢とは呼ぶことのできない哲学だと思います。

180 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/12(月) 15:23:54
>>179
> 彼にとって重要なのは、この世界を彼岸に訴えることなく、そのまま
> 此岸として肯定することです。ここに「信仰」に拠ることなく、

つまり、此岸の肯定とは「真理」なるものを掴み取ろうとする運動の静止、哲学的言説の
終わる場所、ということだと思います。


181 :考える名無しさん:2006/06/12(月) 19:42:42
むじんくん
そうすると「信仰」に拠らずに哲学的言説に拠って「此岸の肯定」に
たどりつける回路が存在することになりますよね。「此岸の肯定」を
もって哲学的言説が終わるとしても。ならば「哲学は神学の婢」ではなく
哲学も神学と同じ位相に存在する価値を有すると言えると思います。

182 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/12(月) 21:02:49
>>181
> そうすると「信仰」に拠らずに哲学的言説に拠って「此岸の肯定」に
> たどりつける回路が存在することになりますよね。

いや、それは無いと思います。哲学的思考の果てにあるのは常にニヒリズムです。
スピノザにしてもニーチェにしても、その「肯定」は決して思索の結果ではないのです。

183 :考える名無しさん:2006/06/12(月) 21:32:10
むじんくん
ではニーチェの「肯定」は何の結果ですか?
哲学的思考の果てにあるのは常にニヒリズムであるというのは、ニーチェに
当てはまるとは到底思えません。彼は哲学的思考の果てに「大いなる肯定」
にたどりついたのですよ?

184 :考える名無しさん:2006/06/12(月) 22:50:00
>>182
むじんくんの哲学観にはおおむね賛成できるけど、
哲学思考が最終的にたどり着くのはニヒリズム、というのは、ミスリーディングだと思う。
ニヒリズムを次のように言い換えると納得できる。
「無知の知と無根拠」と。どうですか?




185 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/13(火) 09:40:48
>>183
> ではニーチェの「肯定」は何の結果ですか?

何の結果、ではなくて端的な「肯定」ですね。目的としての何かではなく。


186 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/13(火) 09:42:34
>>184
> 「無知の知と無根拠」と。どうですか?

そうですね、そちらの方が正確だと思います。ただ、ニーチェの文脈では、
それは「ニヒリズム」であるというわけですね。無いものを目標として前進
し続けることであり、それに疲れた存在が「最後の人間」だというわけです。

187 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/13(火) 11:53:39
ないものをさがす最後の人間むじんくん(笑)

188 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 11:56:57
お前も荒らされるのがいやなら、人にもするなよ。
クソガキぴかぁ

189 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/13(火) 12:07:59
>>187
最近のピカ先生の思想動向としては、「無いものを有るって言っちゃおうよ!」という
ことですね。無知の知から無知の無知へまい進しているということですね(笑)。

190 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 12:10:14
>>187
結局カマッテ欲しいんじゃないか。
性格丸だしだな。
哀れなやつ…

191 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 12:16:36
むじんくん
ニーチェはニヒリズムに到達したのではなくて
「新たに価値を創造する人間」に到達したのですよ。

192 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/13(火) 13:16:31
>>191
その到達は哲学的思考の結果ではないということです。哲学的思考の
決別としてその到達があります。

193 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 13:22:00
むじんくん
明らかにニーチェの軌跡はキリスト教の否定とニヒリズムの克服と
いう哲学的思考の結果として、大いなる肯定、価値創造者としての
超人、運命愛、という思想が生まれてますよ。

194 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/13(火) 16:26:05
>>193
哲学的思考の結果ではなくて、哲学的思考の否定ですね。そして、それは
認識の営みの結果とは違う、ある種の体験としてやってきた、これは自身が
述べてますよね。

195 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 16:29:20
むじんくんの信仰とは一体なんなのかいまだよくわからないんだけどね。

196 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 16:38:05
明らかな間違い。末人は没落を好まず回避しようとする。

197 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 16:43:17
そして末人は賢い世渡り上手

198 :考える名無しさん:2006/06/13(火) 19:30:25
>>186
なるほど、(真理という)空虚を求めるからニヒリズムというわけなんですね(と読みました)。

むじんくん視座では、最終的にはニーチェは、哲学を踏み外し=踏み越え、ある意味で、新たな神と神学を発明した、ということになるわけですよね?
そうなると、ニーチェも最終的には、哲学としてはいうまでもなく、「(むじんくんのいう)語れない超越性」の理論としてさえも、語りすぎ作り過ぎていると言えませんか?
つまり、ニーチェ自身もニヒリズムに堕ちている、ということにはなりませんか?



199 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/14(水) 10:44:27
>>198
> つまり、ニーチェ自身もニヒリズムに堕ちている、ということにはなりませんか?

いえ、ニーチェはあらたな「偶像」を据え付けていたわけではないですね。求める
対象としての偶像が不要であることを主張するわけです。しかし、彼の到達点は
「永劫回帰」や「超人」という言葉では述べられてますが、決して積極的にこうである、
という説明的記述はされないのです。むしろあらゆる「偶像」がニヒリズムであることの
告発によってしか輪郭が描かれない何者かなのです。

200 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/14(水) 17:08:01
カントは「啓蒙とは何か」で、啓蒙とは子供が大人になる、他人からの言葉によって
自分を規定するのではなく、自分が自分を規定する存在となることだといいました。

しかし、ニーチェは「大人がもう一度子供になる」ことを述べた思想家です。子供は
目標を持ちません。成すべき事柄を知りません。しかしその存在自体に快活さが
あります。

201 :考える名無しさん:2006/06/14(水) 22:59:37
>>200
納得しました。

読み方によってはニーチェ思想自体が真理=偶像になるおそれはありませんか?

むじんくんの哲学観では、
ニーチェの思想のすべてを(厳密な意味で)哲学とみなしますか?


202 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/16(金) 11:45:35
>>201
> 読み方によってはニーチェ思想自体が真理=偶像になるおそれはありませんか?

そうですね。ニーチェの「超人」などはそういう扱いをされやすいし、実際に「ニーチェ主義」と
も言うべきものは出てきたわけですね、今まで。逆に「ソクラテス主義」とか「カント主義」などは
難しいでしょう。その意味では危険性があると言えると思います。

また、私は以前も書きましたように、ニーチェの記述は"哲学"からはみ出していると思いますし、
実際その中核と言われる「超人」や「永劫回帰」などについては哲学的記述をしていません。

203 :考える名無しさん:2006/06/16(金) 14:04:21
むじんくんって普段何をしていますか?例えば結婚などはしていますか?
大変興味があります。


204 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/20(火) 12:22:23
スノビはおしまいかね

205 :考える名無しさん:2006/06/25(日) 16:17:13
むじんくん 象牙の塔に 引きこもり

206 :考える名無しさん:2006/06/25(日) 16:19:01
朝から晩まで オナニー三昧

207 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/26(月) 12:08:04
>>203
> むじんくんって普段何をしていますか?例えば結婚などはしていますか?

すみません、ちょっと離れてました。具体的なことについてはあまり書くつもりは
ありません。ただ、このスレッドの関連で言うならば、「ただの人」であることは
述べておくことは意味があるのかも知れませんね。何か特別な要素が私の
生活、活動などには無いと思います。

208 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/06/26(月) 12:14:13
>>204
> スノビはおしまいかね

まぁ、そんなに寂しがらないでくださいよ(笑)。私の中では時間が基本的には静止している
ので、スノビズムしなければならないという運動はありません。如何にして静止するか?
というのはこのスレッドの話題でもありますが。

209 :考える名無しさん:2006/06/26(月) 22:20:48
いろんな意味で2ちゃん最強のぴかぁ〜は、
いろんな意味において、スノビズムの塊のスノッブだなw

210 :考える名無しさん:2006/06/26(月) 23:01:35
>>207
少なくとも2ちゃんでは、むじんくんは普通の人ではないと思う。
むじんくんは2ちゃん最高クラスの賢者だと思う。
僕は、むじんくんのスレやレスはきちんと読むことにしている。
これからも、がんばってたくさん文を書いてくださいね。

211 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 23:08:09
>私の中では時間が基本的には静止しているので

・・・・

212 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/03(月) 10:17:26
>>210
> これからも、がんばってたくさん文を書いてくださいね。

ありがとうございます。ちょっと忙しくてここで書いているようなこと考えるヒマが
ありませんでした(笑)。

しかし、様々な意味で「特殊な存在」であろうとすること、これをいかに避けるか、その動機から
自由であることができるか、これは重要なことです。

特性無き、つまり何らかのストーリーが剥ぎ取られた状態での実存を可能にすること。これが
「信仰」です。自分が何らかの意味ある存在であること、そして意味ある存在として引き上げられる
対象となること、この運動の静止。

「私とはいかなる意味であるか」「私はいかなる物語としてあるか」は、「私は何か」であるわけですが、
これを非常にうまく表現した言葉に「自分の顔を自分の目で直接見ようとすること」というのがあります。
これは禅語録によく出てきます。結局のところ、そういう運動の結果として現れるのは空中楼閣に
過ぎません。

213 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/03(月) 10:44:10
>>211
> 私の中では時間が基本的には静止しているので
> ・・・・

近代的自己意識の運動と近代的時間概念、これは密接な関連、というよりも同じものだと
思います。近代的時間の特徴は、「進歩」というもので、これは人間の「成長」を時間軸上に
描くという形で語られますね。

その極北にあるのは、「フィネガンズ・ウェイク」のような世界ではないかと思います。全ての
ことが一瞬のうちに起こる。そして、その「極北」は始まりへの回帰でもあります。

214 :考える名無しさん:2006/07/09(日) 14:54:44
たしかにヴィーコ、ダーウィン、コンドルセ、ヘーゲル、コント、スペンサー、マルクスなどはそうですね。

215 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 15:06:53
「進歩」という時間性は技術進歩にしかないですね。
そして技術の進歩によって、「近代的自己意識」と「近代的時間概念」、
さらに資本主義思想、すなわち近代以降の全ては依存するわけですな。

特に世界大戦の前はこの進歩思想の高揚感の絶頂ですね。
人間(テクネー)は世界を征服できる。


216 :考える名無しさん:2006/07/09(日) 16:49:07
↑マルクス主義者↑

217 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 17:12:52
リオタールが「ポストモダンの条件」において大きな物語の消失でいったのは、
まさにこの進歩史観の消失ですね。様々な科学技術の限界によって、
マルクス主義的史観の消失を指摘した。

しかし現代、ボクたちはいまだに技術の進歩を信じています。
確かに環境問題など、かつての進歩への楽観主義への疑いがあります。
ネットなどへの熱狂は技術進歩への熱狂です。

すなわちなぜに人は技術に熱狂するのか。ということが問題になるわけです。
たとえば資本主義の原動力は人々の豊かになりたいという功利主義的なもの
ではないということです。

218 :考える名無しさん:2006/07/09(日) 17:16:50
>>217
>たとえば資本主義の原動力は人々の豊かになりたいという功利主義的
>なものではないということです
柄谷行人のマルクス読解だとそれは逆になる。産業資本主義においては
資本が存続するために、剰余価値を時間的差異から得る仕組みになって
いる。つまり絶え間ない技術革新によって時間的に価値の差異を産みだし
そこから利潤を得る。人々の欲望が資本の原動力になってるのではなく、
資本の原動力が人々の欲望を喚起している、という構図。

219 :考える名無しさん:2006/07/09(日) 17:26:48
>人々の欲望が資本の原動力になってるのではなく、
>資本の原動力が人々の欲望を喚起している、という構図。

資本の原動力が欲望を喚起するとは、ラカンでいうと「欲望とは大文字の他者(象徴界)の欲望である」ということです。
すなわち構造主義的な考え方ですね。

いま別スレに以下の文を書きました。

>>
有名な13歳の岩崎恭子が金メダルととってときの
「生きてきた中で一番幸せです」の滑稽さは、まさに言語の働きを示しているだろう。

あの滑稽さは、まさろくに生きていない子供がこまっしゃくれて大人のような発言をする
ことにある。それはどこかで聞いたことをそのまま言っている。このようなコンテクスト(文脈)では
このように発言するということで発言させるが、それは大人がいうことであるというコンテクストが
わからずにズレているということだ。うまく空気(文脈)を読みすげて、空気を読めなかったということだろう。

この本質は、人は空気を読んで発言するというよりも、空気が人に言葉を言わせる
ということであり、人間存在そのものが空気(文脈)の中で作られる表象であるということ。
口を開き私という言葉を発言することで、私があり、本質的な私という存在がいるように
錯覚されるということだ。
これがラカンの「無意識は言語のように構造化されている」ということである。
<<

言語(資本主義的は主に数字)の作動が主体をつくり、欲望を喚起する。


220 :考える名無しさん:2006/07/09(日) 17:37:45
>資本主義の原動力は人々の豊かになりたいという功利主義的なもの
>ではないということです。

ボクたちが豊かになりたいという功利主義的な欲望は、
柄谷的に「資本の原動力が人々の欲望を喚起している」ものです。

しかしラカンはこの構造主義的な思想を越えていきます。
それでもこの構造を動かす力が必要だということです。
それが享楽です。

それは外部へ向かうコントロールできない生の力(欲"動")です。
この力によって資本主義とは、自然を破壊し、後進国から搾取し、
たえず増殖するものです。
ドゥルーズ的に「器官なき身体」です。

柄谷の思想で問題なのが、この生の力がないということですね。
「世界共和国」には外部がない。
マルクスはこの生の力がコントロールさせ自然と協調する世界が
可能であるという理想主義です。

221 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 17:39:55
>>219-220
コテつけ忘れた。

222 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 17:43:01
>すなわちなぜに人は技術に熱狂するのか。ということが問題になるわけです。

この意味では、技術が享楽を促進するからです。
技術とは、混沌を開拓する有効な道具です。
自然(外部)を征服することが人間本来の快楽だからです。

ネットとは疑似自然ですね。新たな技術は新たなフロンティアを開きます。

223 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 18:17:32
中沢は、ラカンのボロメオの輪(想像界=象徴界=現実界)をもとに、
社会を「贈与=交換=純粋贈与」として示します。

ここで重要なのか、純粋贈与という外部(自然)との関係が、
贈与、交換という作動させる力となるということです。


柄谷が示すボロメオの輪は、資本ーネーション−国家です。
これは「ネーション(互酬(贈与))=国家(再配分)=資本(交換)」のように言えます。

これを比較すると、柄谷には現実界(外部)がないのですね。
それは最終的に外部のない世界=世界共和国となるわけです。
これはネグリの「帝国」と近く、現代の内部が消失する傾向と対応していますが、
それでも外部はどこに見いだされるか、
社会を動かす根本的な人間の力はどこへ向かうのかと言う問題があります。
ネグリはマルチチュードにそれを見たのですが。(これで十分とは
言いにくいですが)






224 :考える名無しさん:2006/07/09(日) 18:25:14
マルクスはその根底で自然との調和、内部(社会)と外部(自然)との調和をおいて
おいていました。
二人ともこの延長線上にはあります。
中沢は純粋贈与によって外部との良好な贈与関係を思考します。
柄谷は外部が全て取り込まれた世界を描きます。

その意味ではともに外部の本質、トラウマ的な不確実性をとらえそこなっていると
思います。外部は簡単に調和したり、取り込めたりするものではないからです。
しかしその構図に外部(純粋贈与)をおいた中沢の構造の方が、
有効であると思います。


225 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 18:32:07
コテが消える・・・
>>219-224でした。

226 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 18:42:21
続けると、
ボクは、「互酬(贈与)=(再配分=交換)=純粋略奪(純粋贈与)」を考えています。

想像界・・・互酬(共同体=繋がり、規範)
象徴界・・・再配分(国家=法、秩序)
 グレイゾーン・・・交換(資本=法則)←科学技術の発達で19世紀以降全面化
                         社会から想像界、現実界を排除していく。
現実界・・・純粋略奪(自然の恵み、天災=混沌)


227 :考える名無しさん:2006/07/10(月) 12:37:46
>>223
柄谷はボロメオの環を示すことで、一見外部が見えないものに見えるけど
いずれの交換関係でもないアソシエーションを構想することで外部を示して
はいるよ。
ネグリ=ハートの帝国論はスピノザの神即自然に近くて、帝国=マルチチュード
だから、外部がないという言い方はこっちのほうが成り立つ

228 :考える名無しさん:2006/07/10(月) 12:47:41
むじんくんってキリスト教徒なの?
洗礼受けた?
それとも勝手に自分で信仰しちゃってるだけ?

229 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 13:41:15
>>227
なぜ「アソシエーションが外部となるのでしょうか。
まさに贈与と交換の調和=内部調和ではないでしょうか。

帝国=マルチチュードは無理矢理では。
ドルゥーズから来ているのですから。
マルチチュードは「器官なき身体」であって、
内部にありながら、外部でしょう。
控えめな外部ではありますが・・・

230 :考える名無しさん:2006/07/10(月) 14:26:45
>>229
柄谷のトランスクリティークを読む限り、彼によれば交換は4つに
類型される。互酬性(ネーション)、強奪−再分配(国家)、貨幣
交換(資本主義)、アソシーエション。このうち前者3つによって
世界は成り立っている。つまりネーション、国家、資本主義によって
ボロメオの環は形成されている。未だ実現されていない交換のタイプ
ということでアソシエーションを持ち出すことで、3つの交換タイプ
から成り立つ世界の「外部」を構想しようとする。これは自分の考え
ではなくて、柄谷の考えだからね。トランスクリティークや世界共和国
を読めばそういう理論が提示されている

231 :考える名無しさん:2006/07/10(月) 14:30:12
>>229
「マルチチュード」というのはスピノザから来てる。「帝国」を
読めば分かると思うけど、帝国という新たな主権概念は、その構成
要員としてマルチチュードを包摂している。だからマルチチュードに
よるローカルな反抗は、そのまま帝国の核心部を撃つ、という形に
なる。この構図はスピノザの「神即自然」の構図と同じ。従って
帝国=マルチチュードとなる。これもネグリ=ハートが帝国の中で
言っていることなので、自分の考えではないけどね。

232 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 15:45:24
>>230
「アソシーエション」は交換のように贈与が行われるという歴史上
いまだ達成していない交通様式です。
これは外部というよりも「未来」と見るべきです。
ボクがいう「外部」は共時的「外部」です。

>>231
スピノザは、マルクス、ドゥルーズ経由ですよ。
だからマルチチュードは「器官なき身体」であって、
内部にありながら、外部でしょう。
マルチチュードが「外部内内部」も、
ネグリ=ハートが帝国の中で言っていることで、
常識では?


233 :考える名無しさん:2006/07/10(月) 22:21:08
>>232
>これは外部というよりも「未来」と見るべきです
そうね、未来と言ってもいいよ。ただ柄谷は、現実にアソシエーションの
運動を現実に始めちゃったけどね。

>マルチチュードが「外部内内部」
それでいいけど、帝国の後に出された「マルチチュード」という本で
彼らはマルチチュードの内実を何とかして示そうとしてるんだけど、
うまくいってないように思える

234 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 23:27:57
未来というと外部ではないですね。やはり柄谷には外部がない。
内部が完成する形態がアソシエーションなのです。

「マルチチュード」となにか。ネグリは示し得ていませんね。

235 :考える名無しさん:2006/07/11(火) 00:17:19
人のスレ荒らさないで自分のところでやれ、バカァ〜

236 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/11(火) 12:06:53
ちょっと見ない間に増えてますね。さすがピカ先生です(笑)。

>>228
> むじんくんってキリスト教徒なの?

はい。普通の教会に子供の頃から行ってます。

237 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/11(火) 12:22:40
>>226
> ボクは、「互酬(贈与)=(再配分=交換)=純粋略奪(純粋贈与)」を考えています。

ピカ先生が「グレイゾーン」と資本を呼ぶのは正しいと思います。というのは、資本の運動は秩序形成の
主体でありながら、その動力がここで議論されている「外部」だからですね。そして、その二重性、境界に
位置する存在が、フーコーが言うところの「人間」なわけです。

だから、スタティックな構造が存在し、その上に規定される存在として近代的人間を捉えることができない。
そもそもそういう規定秩序から常にはみ出すように強いられている存在が近代人だからです。

この「秩序形成の主体」であるというのは、やはり西欧で発生した革命的な事象です。カントは啓蒙とは
外的な何かに寄りかからずに自律的になること、と述べましたけども、これは無に向けて自己を投棄する
ようなもので、余程のことがないと発生しない運動だと思います。




238 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/11(火) 13:18:36
「内部」的なものとは、つまりナルシシズムです。その一次的な充足を断念し、二次的な、
つまり社会的な回路へと迂回させるのが人間の成長だとしても、やはりそこで形成される
秩序とはつまりは「内部」的秩序、一旦迂回した形でのナルシシズムの成就を目指すための
ものです。

近代社会では、この内部的秩序形成の願望が永続的に禁止されます。フロイドがコンプレクスと
呼んだ外的なものとは、どこまでも到達不能な異質なものであり、それを例外ではなくて能動的な
秩序形成の動力としたところに近代社会の革命的な部分があります。

239 :考える名無しさん:2006/07/11(火) 14:12:14
むじんくんの通ってらっしゃる教会ってカトリック?
プロテスタント?

240 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 17:35:18
>ピカ先生が「グレイゾーン」と資本を呼ぶのは正しいと思います。

お褒めにあずかり光栄です。で、「信仰」なるトンデモはいずこへ?

241 :考える名無しさん:2006/07/11(火) 18:16:02
また来たのか、ばかぁ〜

242 :考える名無しさん:2006/07/12(水) 17:16:20


知らない事を、然も知って居る

       様に誤魔化す。

       それも、哲学さ。

243 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/13(木) 12:10:26
>>239
> プロテスタント?

プロテスタントです。ただ、前も書きましたが子供の頃からなので、別に
思想的にどうこう考えて選んだわけではないです。

244 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/13(木) 12:13:42
>>240
> お褒めにあずかり光栄です。で、「信仰」なるトンデモはいずこへ?

信仰とは「外部」のみの世界への参入です。これは自己の他者化、「私とは他なるものである」
ことの実現です。そして言うまでも無くこれは「真理」なのであり、その真理から絶えず離脱して
「私は私である」ことの運動を継続するのが近代的自己なるもの、近代的「人間」です。

245 :考える名無しさん:2006/07/13(木) 12:22:05
むじんくんの通ってらっしゃる教会って大きいですか
それとも小さめの「町の教会」みたいなところですか

246 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 14:11:45
>>244
思弁はよいから。その「悟り」がどうしたのかね。

1 僕は「悟り」を開いた
2 僕は「悟り」フェチだ
3 哲学板で「悟り」の話をするとかまってもらえるかなと思った
4 ただスノブな僕なのさ 

どれ?

247 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/13(木) 18:22:47
>>246
> どれ?

またそれですか(笑)。

248 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 19:31:50
また逃げた(笑)

249 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/14(金) 17:20:47
>>248
> また逃げた(笑)

確かに、その質問はこのスレッドの問題とも関係してますね。つまり、「ただ単に語る」という
ことが如何にして可能か?という問題です。或いは、こう言い換えることもできます。如何にして
原因の物語を共有する誘惑から逃れるか?

250 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/14(金) 17:25:55
>>249
簡単でしょ。患うのです。

251 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/14(金) 17:55:00
>>250
患うのは簡単じゃないと思いますよ(笑)。スノビストぴか氏としては、「人間はみんな九官鳥」という
ことなんでしょうが、そうではない発話がいかにして可能か?ということですね。

252 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/14(金) 18:04:20
くるくるぱーになればよいのですよ。
ボクは悟りに逃避するつもりはないのでなりませんが

253 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/14(金) 18:31:32
>>252
> くるくるぱーになればよいのですよ。

そりゃ難しいと思いますよ。ぴか哲学風に言えば、くるくるぱーの「コンテクスト」に乗る形に
なっちゃうわけです。それこそぴか氏が好きな「コンテクストサーフ」ってやつですね。

254 :PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/14(金) 18:34:56
くるくるぱーになれないからサーフするわけで、
文字通り、くるくるぱ−になればよいのですよ。
簡単でしょ。ボクは興味はないですが。

255 :考える名無しさん:2006/07/14(金) 18:40:19
寂しいんだね、ぴかぁ〜
カワイソ

256 :考える名無しさん:2006/07/15(土) 00:35:41
>>252
無垢の欲望を取り戻す、って一種の悟りが必要では?

257 :考える名無しさん:2006/07/15(土) 02:15:39

51 名前:TR-774 :2006/07/11(火) 00:48:37 ID:???
マテ「お前アルジェリア移民なのに髪の毛ナイジェリアだよねププ」


  ゴスッ!

     \○ノ
   /て○//三
   人  /ヽ



52 名前:TR-774 :2006/07/12(水) 13:53:33 ID:OzCYZD3U
わんもーたーい


53 名前:ズオドプゲラプケ :2006/07/15(土) 01:47:04 ID:???
ホアエズオドプゲラプゲラレンチョピピレンチョピピットコリアーッ!! ホエズオドットアーアーッ!!
 ホアプゲラレンチョピピーッ!! アーッ!! ホアーッ!! 、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!! ーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!! ーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!! っ、ホアほほ、ほーっ、ホアアーホアーッ!! 、
ほーっ、ホアエズオドプゲラプゲラレンチョピピレンチョピピットコリアーッ!! ホエズオドットアーアーッ!!
 ホアプゲラレンチョピピーッ!! アーッ!! ホアーッ!! 、ほーっ、ホアアーッ!!



258 :考える名無しさん:2006/07/15(土) 12:44:54
むじんくんは新約聖書の中でどれが好きですか
ぼくはマタイによる福音が好きです
好きな言葉とかありますか

259 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/19(水) 12:10:50
>>254
> 簡単でしょ。ボクは興味はないですが。

バカになろうというのは利口な行為ですね。それもまたコンテクストへ
乗るための行為です。そこから離脱することとは何か?ということです。


260 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/19(水) 12:12:13
>>258
> 好きな言葉とかありますか

そうですね。私はヨハネ伝が好きですね。「はじめに言葉ありき」という。

261 :考える名無しさん:2006/07/19(水) 13:01:12
無垢ってどういう意味で使うのですか?

262 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 13:54:08
>>259
・・・逝っちゃいなってこと


>>261
ロリータ、岡本太郎、新緑、箱から出す前のPC・・・

263 :考える名無しさん:2006/07/19(水) 14:00:54
ウザイんだよ、ぴかぁ
ネタがないからって、アラシにくるな。
ラカンでもフロイトでもいいから読んで、血がでるまでズリかいてろボケ。

264 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 14:04:46
発見早っ!

265 :考える名無しさん:2006/07/19(水) 14:17:24
アゲればわかるだろ。
こいつ真性のバカァ?

266 :考える名無しさん:2006/07/20(木) 09:58:03
むじんくんの教会で使ってる聖書って「共同訳」ですか
ウチはカトリックなんだけど、通ってる人には「共同訳」
使ってるよ
でも神父用の隠された聖書があるらしい…

267 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/20(木) 16:02:34
>>262
> ・・・逝っちゃいなってこと

?自発的に狂って成功した例は知りませんね。また、自殺ならばそれは
まさしくコンテクストに沿った行為です。

268 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/20(木) 16:04:00
>>266
> むじんくんの教会で使ってる聖書って「共同訳」ですか

教会では共同訳ですね。神父の隠れた聖書って何ですか?

269 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 16:32:32
ロボトミーとかしらないのかな

270 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/20(木) 17:29:50
>>269
> ロボトミーとかしらないのかな

ロボトミーしても狂人になるのは難しいでしょうね。

271 :考える名無しさん:2006/07/20(木) 17:56:14
>>268
神父の隠れた聖書って、神父がミサのときとかに
使うやつなんだよね(やたらデカい)
あとたぶんギリシア語原典もうちの教会には
あるらしい。友だちが見たって言ってた

272 :考える名無しさん:2006/07/20(木) 17:59:27
ミサの典礼文だろ。
聖書ではないだろ。

273 :考える名無しさん:2006/07/20(木) 18:16:20
>>272
そっか、あれ典礼文なのか。ありがとう。いつも最初から壇上に
置かれてるから、通ってる人は手にとって見たこと
ないんだよね…神父はそれ見ながら聖書の文句をスラスラ
言うから、てっきり聖書かと思ってたよ。

274 :野次馬:2006/07/20(木) 23:06:00
ぴかぁ〜氏は、ドゥルーズの縮小コピーの浅田彰みたいなのの、さらにまた縮小粗悪コピーに見える。
(許されないほどに曲解=誤解したオレ流の)ジャーゴンをめちゃめちゃくちゃに合成して何を生み出したいんだろうか・・・
ここではいちおう、彼はきちんとした理論と主張をもっており、自分で自分の言ってることがきちんと分かっており、戦略的に独自の文体を生み出した、と好意的に解釈しておこう。
彼は、極限的に2ちゃんねる的だし、いろんな意味において怪物だ。

むじんくんは、2ちゃんでもまれなほど上質であり、まともな知識人であろう。

275 :考える名無しさん:2006/07/20(木) 23:32:45
ぴかぁもそれを感じるからこそ、嫉妬心からむじんくんに絡むのだろうね。
彼の理論はいざしらず、ネット上とはいえ行動は稚気に属する。

276 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 23:36:24
>>274
どういう風にドゥルーズの粗悪なのでしょうか?より具体的に言えればどうぞ。
ダメならば口を閉じてることで了承します。

277 :考える名無しさん:2006/07/20(木) 23:43:03
2ちゃんねるは限りなく発散的であり、そこにある構造物はことごとく解体され、一瞬にして便所の紙のごとく過去ログとして流されていく。
だから建設者には忌み嫌われる。
2ちゃんねるでは、建設者はそのプライドを捨てて名もなきいち「名無しさん」になれはてなければならないし、そして書かれた有り難いお言葉は、訳のわからない厨房に馬鹿にされ、さらにはその人格まで誹謗中傷されたあげくに、一瞬にして便所の紙となりはてる。
このような屈辱に耐えられるか。だから建設者は、保護された自分の居場所をもち、じっくり建設する。

278 :考える名無しさん:2006/07/21(金) 00:05:22
>>276
ドゥルーズの領域横断的なジャーゴンの合成は、西洋的思惟・世界観・人間観の根本構造の転倒・破壊と
新たな世界観や概念の創造、という確たる志向に基付いている。
しかし、ぴかぁ〜さんは、ジャーゴンつかう必然性が見えないし、
自分の貧相な場当たり的意見にたいする単なる武装・装飾でしょ。
ジャーゴンが無意味に浮いてる。(ポモ批評家とかの猿真似? でも少なくとも浅田はぴかぁ〜さんと全く違って、的確にジャーゴンを利用してに明快なんだけどな)

279 :考える名無しさん:2006/07/21(金) 00:13:47
>>278
ドゥルーズとぴかぁ〜をジャーゴンだけでつなげるなよ。
ドゥルーズである必然がないだろう。
ドゥルーズ知らないのに無理するなよw


280 :278:2006/07/21(金) 00:35:58
ちょっとむりしちゃたので、
ぴかぁ〜さん、ドゥルーズの説明おねがいします。

281 :考える名無しさん:2006/07/21(金) 00:43:31
祟りじゃ〜ジャーゴン様の祟りじゃ〜

282 :考える名無しさん:2006/07/21(金) 02:01:06
少しスレ違いになってきてます

283 :考える名無しさん:2006/07/21(金) 22:46:03
ぴかぁ〜のジャーゴンコンプレックスすごいなw


284 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/22(土) 08:52:48
例えば、自分の言葉が本当に通じるかどうかを深刻に疑問に思ってしまっていたヴィトゲンシュタインは
ジャーゴンを使いませんね。やはり、ある種の思考の地盤を再確認するためにジャーゴンはあるんじゃないかと
思います。

例えば、「国語」は一つのジャーゴンの集積と言えるかも知れません。それを繰り返し九官鳥のように
お互い言い合うことで何かを強固にしていると感じ続けることが、例えば「日本民族」の輪郭を形成する。
これがソシュールの議論ですね。

285 :考える名無しさん:2006/07/22(土) 08:52:54
>>277
それはまさに哲学の姿ですね

286 :考える名無しさん:2006/07/23(日) 23:09:40
>>284
ジャーゴンを広義に捉えれば国語も含まれるというわけですか。面白いですね。
狭義の(つまり学的)ジャーゴンは、より機能的ですね。特定目的・主題に特化してますから。

生活世界の思想(自然ジャーゴン=自然言語の組織)と、科学(人口ジャーゴン=人工言語の組織)とは連続的である、ということが一部のラジカルな現代哲学では言われてますよ。
いずれにしても、思索・反省を忘れ、レトリック・言葉遊びを忘れた言葉は、(悪い意味での)イデオロギーに堕ちますね。

(ところで、ぴかぁ〜氏のジャーゴンは? まあ、地=知に足がついてない言葉遊びではありますが、何かを生み出すのでしょうか・・・)

287 :考える名無しさん:2006/07/26(水) 22:48:22
神は死んだ。人間は死んだ。哲学は死んだ。

288 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/27(木) 10:42:22
>>287
> 神は死んだ。人間は死んだ。哲学は死んだ。

信仰とは、最初に「神の死」、つまり偶像の解体がなければなりません。そして、偶像の解体は
人間の解体であり、人間の解体は哲学の解体です。信仰はその果てにあるものです。

289 :考える名無しさん:2006/07/27(木) 11:46:33
>>288
>信仰とは、最初に「神の死」、つまり偶像の解体がなければ
 なりません

しかし、そのような物言いは、偶像崇拝を否定した後に現われる
特定の宗教だけを特権視する態度であって、信仰というものが
原初的な、神話的形態をとる宗教においても存在する事実を忘れさせ
てしまう。宗教にも諸形態があり、信仰の形態も様々にある。

290 :考える名無しさん:2006/07/27(木) 14:52:47
むじんくん
お久しぶりです。以前、むじんくんはスピノザの第三種の認識や
ニーチェの晩年の思想を「あれはもう哲学ではないですね」と仰られて
ましたよね。むじんくんにとって、哲学であることと、哲学ではないこと
の境界設定はどこに求められますか?論理性、つまり論理的言説では
なくなったときですか、それとも一種の信仰にも似た直覚知のようなもの
が現われてしまったときですか。その辺をお教え下さい。

291 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/27(木) 17:04:43
>>290
それに関して的確なのは、ヘーゲルの「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」という
言葉です。つまり哲学というのは事後的なんですね。哲学の対象として立ち現れる
ものは既に死んでいるものだということです。

認識はこのスレの冒頭に書いたように、ある種の失望から発する運動だと思います。
それは自己自身の基盤を確認しようという運動です。しかし、現実はどうかというと、
その認識したものは次の未来の瞬間には成立しないかも知れないのです。そういう
「破綻の可能性」が常に付きまとうのが哲学的認識の限界点であり、最良の哲学は
それを例えば「物自体」という形で想定し、認識の限界を自ら認めるのです。

292 :wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/07/27(木) 18:18:27
>291
「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」という言葉の解釈はヘーゲルの弁証法が、結果からみた後付けロジックにすぎない、ということも象徴しているように思います。

293 :考える名無しさん:2006/07/27(木) 19:47:44
>>291
むじんくん
>認識はこのスレの冒頭に書いたように、ある種の失望から発する
 運動だと思います

例えば、古代哲学には認識論は無かったと言われますね。認識論が
哲学の分野として哲学上の問題になるのは、大雑把に言えばデカルト
以降の近代哲学からでしょう。

>それは自己自身の基盤を確認しようという運動
乱暴に解釈してしまえば、デカルトが客観的に世界を認識する基盤を
整えたと同時に、彼は認識主体としてのコギトも想定せざるを得ない
わけですね。主客問題というのはここから始まってます。

そうすると、むじんくんの言われる「哲学」は、認識の方法としての学
として見た場合には、近代以降に展開された哲学、近代哲学の圏域に
限定された哲学である、という主張には同意されますか?

294 :考える名無しさん:2006/07/28(金) 23:27:49
むじんくんのいう哲学は、デリダ的だね。

295 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/29(土) 10:41:30
>>292
> 「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」という言葉の解釈はヘーゲルの弁証法が、結果からみた後付けロジックにすぎない、ということも象徴しているように思います。

いや、もちろんそうですよ。なので、ヘーゲルというのは正直だったんですね。

296 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/29(土) 10:47:16
>>293
> そうすると、むじんくんの言われる「哲学」は、認識の方法としての学
> として見た場合には、近代以降に展開された哲学、近代哲学の圏域に
> 限定された哲学である、という主張には同意されますか?

いや、例えばソクラテスはどうか。彼は時代としては近代社会には生きてません
でしたが、その思考は近代的だったといえると思います。

297 :考える名無しさん:2006/07/29(土) 12:03:18
>>296
むじんくん
>例えばソクラテスはどうか。彼は時代としては近代社会には生きてません
でしたが、その思考は近代的だったといえると思います

そうすると、近代的思考が事後的に世界を認識する方法であって、それが
ソクラテスにも見出せるので、彼は近代的であった、というこの主張は、
明らかにむじんくんの言う「哲学」が、近代哲学の圏域にあるものであること
を示しているではないですか。。
あと、古代には認識論は無かったんですよ。

298 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/29(土) 12:57:34
>>297
> あと、古代には認識論は無かったんですよ。

そうですね。ソクラテスとは、そういう場に認識論を持ち込んだと言えるんじゃないか
と思います。目の前の事象で完結せず、そう認識している自己への関係を持ち込んだ。

299 :考える名無しさん:2006/07/29(土) 15:20:36
むじんくん
むじんくんは、生成する哲学というものを、哲学とは認めてらっしゃらない
のですか?ここで言う生成する哲学とは、例えばドゥルーズの説明によれば
ルクレティウス、エピクロス、スピノザ、ニーチェ、マルクスといった人たちです。
ドゥルーズの考えでは、彼らは認識が否定性へと導かれ、消極的な思考として
しか現われないような哲学−ヘーゲルが代表ですが−に敵対する、西洋哲学に
おける1つの積極的な哲学の系譜のことです。
むじんくんにとって、哲学とはヘーゲルに代表されるような哲学を指すことで
あって、それだけを哲学として取りあげることは、西洋哲学史の一側面しか
見ていないことに思われるのです。
上記の構図では、ソクラテスの立ち位置は微妙です。積極的な哲学を自らは
展開せず、ソフィストたちの真理の認識を否定性へ導く知のあり方として
ソクラテスを捉えるならば、彼はヘーゲルに連なる哲学者の系譜に入るでしょう。

300 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/01(火) 16:29:55
>>299
> むじんくんは、生成する哲学というものを、哲学とは認めてらっしゃらない
> のですか?

以前の話に戻っちゃいましたが(笑)。それはもはや哲学ではないという立場だと
言いましたよね。

301 :考える名無しさん:2006/08/01(火) 19:47:21
むじんくん
むじんくんの哲学観がわかりました。ところで、否定性に導かれる
哲学を「哲学」として、それに対置させるのに「神学」を持ってくる
必然性はどこに求められますか。むじんくんが否定される、もう1つの
哲学の系譜、「生成する哲学」を対置しても構わないように思います
けれども…

302 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/03(木) 15:58:20
>>301
> 哲学を「哲学」として、それに対置させるのに「神学」を持ってくる

神学というのは、信仰にある人間の記述で、その特徴は「直接性」じゃないかと思います。
哲学は否定性ですから、哲学的に言ったらそれは反省を経てない記述に映りますね。

生成の哲学というものは、ある種の内的直感を哲学的言説によって表現するということ
ですが、あくまでもそれは哲学ですから、「直接性」の記述ではありません。神学において、
基本的に神の存在の証明などを記述するのはナンセンスです。Aという人間が目の前に
いて、その本人に向かって「すいません、Aさんってあなたですか?あなたはここにいる
んでしょうか?」という問いぐらい馬鹿げたことです。

303 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/03(木) 17:23:29
あと、相場で凄く感じるのは、情報によって見方にバイアスがかかってしまうことです。例えば
昨日は結構強い感じでしたが、その前に私はあるホームページで「もうすぐブレイクする」という
話を読んでしまっていました。これだけ強いと十分ありえる。もしブレイクしたら思いっきり上に
上げてしまうだろうと。

そこで昨日の引け前に買いを入れて持ち越してしまったのです。今日経は節目の価格ですから
戻りがある可能性のほうが高いわけですけど、買ってしまったんですねぇ。どうしても読んだ記事の
言葉から自由になることができませんでした。

こういう、ある情報にすがり付いちゃうっていうことがよくあります。その結果は悪いことのほうが多いです。
というのは、そういう思い込みがあると思いと違った方向に動いても損きりができないんですね。


304 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/03(木) 17:24:35
すいません、関係ない話を送信してしまいました。

305 :考える名無しさん:2006/08/03(木) 19:48:52
>>302
むじんくん
なるほど、今度はむじんくんの「神学」観がわかったような気がします

>基本的に神の存在の証明などを記述するのはナンセンスです

そうすると、トマス・アクィナスに代表されるような神の存在証明や
あるいは否定神学も否定されるのですね。
では、カール・バルトはどうでしょうか。キルケゴール的な弁証法
神学を打ち立てた有名な神学者ですが。ご存知なかったら仕方ない
ですけど…ところで、むじんくんが神学で影響を受けた方って誰ですか?

306 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/05(土) 11:56:36
>>305
> ですけど…ところで、むじんくんが神学で影響を受けた方って誰ですか?

前もちょっと書きましたが、私は神学についてはあまり詳しくないのです(笑)。ただ、カール
バルトは「ロマ書」などで影響を受けてます。20世紀の、ナチの脅威が高まる中で突出した
牧師だったんじゃないでしょうか。

トマスなどの、理性から神を把握するというのは、これは当時の西欧キリスト教社会の必要性
としてはあったんだろうと思います。ただ、信仰をその方向から捉えることは不可能ですね。
同じようなことは、イスラム社会にもあります。スンニ派とシーア派はそういう構造の対立ですし、
特にスーフィズムなどは完全に理性の体系を否定します。

307 :哲オタ ◆RSVCHQV.72 :2006/08/06(日) 09:56:40
やあ  むじんくんから、スーフィズムなんて意外だな 



308 :考える名無しさん:2006/08/06(日) 22:49:53
むじんくんが否定している哲学は、形而上学のことでしょ。

309 :考える名無しさん:2006/08/16(水) 03:32:28
ほんとうにそうか?

310 :考える名無しさん:2006/08/20(日) 07:10:43
パッペペンパクも読まずに哲学を語る奴は痛いなぁ

311 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/20(日) 09:07:02
長らくご無沙汰でした。ちょっと自由時間が増えますのでまた書いていきたいと
思います。

ところで、「形而上学」という言葉ですが、私はこれを言語の効果として出現する
蜃気楼のようなものと考えます。同じ発想はカントの批判書の冒頭にも出てきますね。

例えば、今靖国問題なんかで色々ありますが、そこで語られるナショナリズムなどは
そういう蜃気楼です。所謂「イデア論」というのは、人間精神が実体、カントの言う「物」
に規定されず、言語活動によって世界創造ができるかの如く錯覚すること、精神の
究極の自立性を宣言することだろうと思います。

哲学はこのスレの冒頭に書いたように、出発点において世界からの断絶があるわけです
から、言語の運動による蜃気楼生成といえます。しかし、最良の哲学において、それは
その活動自体の批判となり、つまり「無知の知」へと至る。

312 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/20(日) 09:17:17
問題は、この「蜃気楼」というものが人間には常に付きまとい、そこから逃れることが非常に難しい
ということ、そしてその「蜃気楼」によって現実の生活に影響が出る。所謂「思想のために死ぬ」と
いうようなことが現実に発生し得るということです。

精神分析は、この「蜃気楼」の発生原理を追跡するわけですね。マルクスの唯物論も同じです。
単純に批判して終わりにはできない。ある特定の「蜃気楼」はある実生活からの必要性から
出現するのだ、というのがマルクスの唯物論です。

313 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/20(日) 09:56:01
その点で、ユダヤ教系の一神教というのはこの人間に付き纏う「蜃気楼」の問題に対して
ある特異な解決策を提示していると思います。つまり、この世の一切を「非真理」とする。
全ては超越的な人格神の「被造物」とするということです。この偶像崇拝禁止というのは、
形而上学の問題に対して、今もって強力に作用するものとして機能しています。

314 :考える名無しさん:2006/08/20(日) 23:31:27
むじんくんは、無信仰・無神論をどう定義しますか?

315 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/22(火) 12:14:59
>>314
> むじんくんは、無信仰・無神論をどう定義しますか?

そこは2つあると思います。一つは、例えば欧米キリスト教社会であったり、イスラム社会などの
中で「無神論」を主張するというもの。これは、ドストエフスキーが「大審問官」で提起した無神論
問題ですね。こういう、積極的な思想としての無神論。

もう一つは、日本などで多いと言われている無神論。つまり「いや、別に何も信じてないっすねぇ」
といった感覚状態ですね。消極的な、ほとんど無意識的に選択している無神論。この2つは
全く別種のものなわけです。

316 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/22(火) 12:23:23
哲学的に問題となるのは、前者だけです。後者の「特に信じてません」という感覚というのは、意識的な
信というものが無いだけで、実際にはそれを補完する何かを、無意識的に信用しています。信用可能
ということは、それだけ幸福な生活だと言えると思いますし、逆に言えば、状況の変化に依存しています。
今後日本がどうなるか不透明ですが、旧来の高度の社会保障、社会的信用の瓦解があれば、こういう
意識は変化するだろうと思います。

ところが、前者についてはそういう状況の変化も何も関係ないわけです。状況がどうだろうと、信じないのだと。
もっと言えば、これは人間理性の絶対性、自律性の維持そのものなわけです。この無神論にとってもっとも
忌むべきものは、自己の自律性を放棄すること、自己を明け渡すことです。ドストエフスキーはこの精神を
問題にしました。

317 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/22(火) 12:30:38
キルケゴールは、この積極的無神論を「絶望」と呼びました。そして、信仰というのはこの絶望を
経由しないではあり得ないというわけです。ドストエフスキーも何故、こういう精神を問題にしたか
というと、信仰に最も積極的に反発し、遠いところにいるこの無神論こそが、実は最も信仰に近いから
なのですね。

318 :考える名無しさん:2006/08/23(水) 00:28:09
むじんくんの言われる信仰と、そういう真の無神論とは、厳密にはどう違うのでしょうか?

319 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/23(水) 09:52:35
>>318
そこがこのスレのテーマです(笑)。

この無神論を私は「哲学的精神」と考えるわけです。哲学的精神は失われた対象を
言語の力によって復元しようとする精神であり、更に言えば、復元することが不可能で
あること自体を認識する精神です。

真実に「哲学的精神」であらざるを得ない状況というのは、これは非常に危機的状態です。
対象復元の欲望に引き寄せられ、その欲望の赴くままに押し流されていけば、本当に
対象が復元できたと思ってしまう、つまり妄想への転落が待っているのです。

320 :考える名無しさん:2006/08/23(水) 23:10:03
むじんくんは、
いい意味での哲学=純粋な哲学の完成者、
悪い意味での哲学=形而上学=対象復元妄想に転落した哲学の完成者は、
それぞれ誰だと考えられますか?

321 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/26(土) 09:20:34
>>320
> いい意味での哲学=純粋な哲学の完成者、

ソクラテス、カント

> 悪い意味での哲学=形而上学=対象復元妄想に転落した哲学の完成者は、

これは歴史上に名前が登場しないんじゃないでしょうか(笑)。どこぞの新宗教の
教祖とか?

322 :考える名無しさん:2006/08/26(土) 14:59:56
むじんくんの言われる信仰は、いったんは無神論を経験する必要があるのでしょうか?

323 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/27(日) 14:56:34
>>322
そうです。坂口安吾が「先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない」と言ってますが、
地獄とはあらゆる救いの蒸発した世界、人間の欲望の対象が欠落した、荒涼とした「物」の世界
です。信仰とは、この地獄の暗闇に差し込む光として存在します。

地獄=無神論の世界こそは、人間が生まれ持っている様々な偶像崇拝の願望を徹底的に打ち砕く
のです。偶像崇拝するものが、どうして真実の信仰へと入ることができるでしょうか。信仰の前に
暗闇があるのは、これは必然なのです。

324 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/27(日) 15:31:25
私は近代的精神にこの「無神論」を見ます。実際、西欧近代社会の成立というのは、
宗教戦争なしにはあり得なかったんじゃないでしょうか。西欧近代社会というのは、
確固たる無神論の社会を打ち立てたことにこそ功績があるのですね。その点で、
「近代社会もまた、様々な神々の一つに過ぎない」と言った、近代社会を様々な
前近代的社会の文化と相対的に見る発想は完全に間違ってます。

325 :考える名無しさん:2006/08/27(日) 23:25:08
むじんくんのような境地・信仰にいたるために、
哲学的思索以外のもの(特別な修行・体験など)は必要なのでしょうか?

326 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/28(月) 14:39:02
>>325
> 哲学的思索以外のもの(特別な修行・体験など)は必要なのでしょうか?

思索も修行も意味ないのではないでしょうか。ただ、そこに至る過程で、思索が発生して
しまうということはあり得ますし、ここで述べている「哲学的精神」とはそういうものです。

327 :考える名無しさん:2006/08/28(月) 23:48:13
ニーチェの神・信仰は、むじんくんの神・信仰とどう違うのでしょうか?

328 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/29(火) 18:01:40
>>327
> ニーチェの神・信仰は、むじんくんの神・信仰とどう違うのでしょうか?

ニーチェの永劫回帰などですか?それはあまり内実は変わらないように思います。

329 :考える名無しさん:2006/08/29(火) 23:37:16
同じような立場の信仰・思想(例えばむじんくんとニーチェのように)をもつなら、
それらが形式的には異なった宗教の信者であろうと、同じ信仰による同じ神を見ていると考えられますか?
むじんくんの信仰・神=ニーチェの信仰・神=別の何とか教の信仰・神とみなすことはありえますか?

330 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/30(水) 13:16:58
>>329
> むじんくんの信仰・神=ニーチェの信仰・神=別の何とか教の信仰・神とみなすことはありえますか?

それは難しい点で、不問にしておくべきとしか言えませんね。確かに、その信仰の内実について考察する、
つまり哲学的思考として把握するならば、それは同一なのです。しかし、これは一方で「信仰」ですから。
それを概念的に同一構造だから、「同一の神」という言い方をすべきではないのですね。

もっと言えば、何故「同一の神」という思考をしたいのか?と問うべきでしょう。それはやはり一般性への
誘惑。人間主義の思考の内部へと「神」を回収したいという誘惑です。思考の対象に「神」がなってしまえば、
それは操作されるべき対象となります。その時点でその思考は偶像崇拝と化します。

331 :考える名無しさん:2006/08/30(水) 14:30:50
またベタな形而上学だな。
でもこれを形而上学と呼ぶと哲学になっちゃうのでアウトなわけで、
ただ信仰しないといけないわけね。
それにしても<ベタな形而上学>(かっこ<>内を大きな×)だな。

332 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/30(水) 15:56:44
>>331
> またベタな形而上学だな。

形而上学というのは、哲学的思考が無意識に前提とする対象です。これは言語の分節効果の
中でしか生成しない、空中楼閣ですね。哲学はこれを前提とした思考の運動であるからこそ、
根本的に無意味な行為とされるわけです。

カントやソクラテスはその限界点を認識しようとするわけですね。

333 :考える名無しさん:2006/08/30(水) 16:07:04
そういう解説は哲学なのだから言ってはダメだよ。

334 :考える名無しさん:2006/08/30(水) 16:10:44
ハイタメといった時点で自らハシタメになる。深いですね。

335 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 16:24:19
稚拙な哲学知識で目立つには否定すること
ベタで自己顕示が強いのです彼は

336 :考える名無しさん:2006/08/30(水) 19:24:07
哲学・神学・信仰
http://www.geocities.jp/bluewhitered34/index.html

337 :考える名無しさん:2006/08/30(水) 23:06:34
>>332
認識の限界点へのカント的潔癖さを捨てた哲学、例えばヘーゲル哲学など(大胆に形而上学を語ってしまっている哲学)、
こういうものを(マトモな)哲学とみなすことができますか?

338 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/31(木) 11:02:20
>>333
> そういう解説は哲学なのだから言ってはダメだよ。

形而上学批判は哲学です。

339 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/31(木) 11:03:13
>>335
> ベタで自己顕示が強いのです彼は

やぁ、どうも久しぶりですね。なぜピカ氏のように心理学に拘泥する人が多いんだろうか?
というのはちょっと考えてみたいと思います(笑)。

340 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/31(木) 11:18:30
>>337
なので、ヘーゲルというのは哲学というよりも政治的言説なんですね。ヘーゲル自身、政治的だった
と思いますし。弁証法というのは、現実に発生した我々の行為の世界、力の関係性を記述するわけです。
ただ、それは常に「事後的」です。

好意的に見れば、ヘーゲル哲学というのはスピノザの第三種の認識に至るまでの精神遍歴を
記述したのだともいえます。いえないかな、やっぱ(笑)。

341 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 11:25:05
心理学でなく、動物化したむじんくんにはないといいはる自己言及ですよ。


342 :考える名無しさん:2006/08/31(木) 23:16:22
>>340
むじんくんは、スピノザの神についてどう診断しますか?

>ヘーゲルというのは哲学というよりも政治的言説
マルクスの思想も、哲学というより、社会学というか政治的言説ではないかと思います。




343 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/06(水) 13:06:39
>>341
> 心理学でなく、動物化したむじんくんにはないといいはる自己言及ですよ。

哲学的な自己言及とピカ心理学の自意識とは違うと思いますが(笑)。

344 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/06(水) 13:23:41
>>342
> むじんくんは、スピノザの神についてどう診断しますか?

スピノザに関しては「ああ、そうですね」とかしか言えませんよね(笑)。ただ、「エチカ」と
いうのは、書いている順番が逆なわけです。第三種の認識、というのがまず最初に
前提とされているわけで、認識の果てにそれがあるわけではないですね。

コジェーブはだから、「エチカ」は一瞬のうちに思考されなければならない、と言ってます。
ヘーゲルというのはそこに歴史を挿入するわけですね。

> マルクスの思想も、哲学というより、社会学というか政治的言説ではないかと思います。

ヘーゲルはカントの理性が現実生活の力関係から派生すると言ったわけですが、マルクスも
それを経済的諸関係からみますけど引き継いでますね。ただ、ヘーゲルの場合、概念が現実
と等価なものとされるわけで、言葉によって現実を変える、という意味での「政治」へと転用
されやすいんじゃないか。

345 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/06(水) 14:55:11
スピノザで疑問に思うのは、最後に「神の自己認識」という言い方がされますよね。これは
どうなんだろうかと。つまり、神というのは自己認識しちゃいけないんじゃないかと思うのですね(笑)。
自己認識というのは、何らかの欠けている状態を前提とするわけです。

完全な存在である神が自己認識するということは、自分で自分自身を制限するというんでしょうか、
自己限定を神があえてする、ということになりますね。それを最高の境地とするというのは、どうも
おかしな気がするんですけどね。

346 :考える名無しさん:2006/09/06(水) 15:09:03
人間自身がアポロンの成句にあるように「汝自身を知れ」だろ
古代秘儀に行き着くと思うが、ピタゴラスもそうだな

347 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 19:30:16
>哲学的な自己言及とピカ心理学の自意識とは違うと思いますが(笑)。

どのように?

348 :考える名無しさん:2006/09/06(水) 22:15:47
むじんくんの言う「信仰」の内実とは、キリスト教本流とはあまり関係のない
一種の神秘主義だ。こういう神秘主義に定位して、「哲学は神学の婢」と言う
のだから、言い換えれば「哲学は神秘主義の婢」になってしまう。神秘主義
というのは一種の体験としてしかあり得ないのだから、これに反駁するのは
最初から不可能だ。
また、そうした神秘主義に定位するむじんくんが措定する「哲学」とは西洋
哲学の一側面に過ぎない。それはヘーゲルに代表されるような否定性に定位
する哲学の系譜だ。むじんくんはこうした否定性の哲学のみを「哲学」として
認めて、神学=神秘主義的認識の立場からそのような否定性の哲学を否定する。
西洋には否定性の哲学ではない、ニーチェやスピノザに代表されるような
肯定の哲学の系譜があるにも関わらず、それらは「哲学じゃない」と言う。
要するにむじんくんが展開している議論は、神学といいつつ実は神秘主義に
自らを定位して、西洋哲学の一側面だけを裁断しているだけのものだ。肝心の
キリスト教神学には「よく知らないんです」といい、積極性ある哲学に対して
は「あれは哲学じゃない」という、勝手気ままな議論を展開しているに過ぎない。
神秘主義者なのだから、これは反駁できないよ。「神秘的体験」を拠りどころ
としているのだから。これは強いとも、卑怯とも言える。むじんくんを論理的に
追い詰めようとしても、最終審級では「神秘的認識」が全てなのだから。

349 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 22:26:38
そう、ここはむじんくんの暇つぶしスレです。

350 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/07(木) 11:55:39
>>347
> どのように?

心理学はある共通言語空間の内部で承認される言葉を語るものです。哲学的自己言及というのは
その言葉が何故語られたかを追跡するものですね。

351 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/07(木) 12:02:13
>>348
> 西洋には否定性の哲学ではない、ニーチェやスピノザに代表されるような
> 肯定の哲学の系譜があるにも関わらず、それらは「哲学じゃない」と言う。

だけど、ニーチェ自身が自分は反哲学者だって言ってるんだから仕方ありませんよ(笑)。

あと、ここで述べているのは哲学の否定性を批判する一方で、それを評価しているわけです。
哲学は否定として、ある言語空間の規定構造からズレる限りにおいて有効なわけですから。
そうじゃないと、予め頷きあうことが予想される言葉を発し、その共犯関係を強固にするための
言葉、偶像崇拝の言葉が跋扈してしまうのです。

352 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/07(木) 12:22:37
>>350
自己言及ですね。

353 :考える名無しさん:2006/09/07(木) 17:29:11
>>351
哲学内部でも、そういう問題、起こっているのではないでしょうか?
言い換えれば、哲学のイデオロギー・(むじんくんが否定している意味での)神学・節度なき形而上学への転落という問題、ということでしょうかね・・・
むじんくんの哲学観は、哲学の範囲を狭め過ぎている感もあるものの、
そういう問題に対しては有効な処方箋ですね。



354 :考える名無しさん:2006/09/07(木) 17:54:54
哲学には視座があり意識にはコギトがある。だから哲学自体が

355 :考える名無しさん:2006/09/07(木) 18:30:44
>>351
>ニーチェ自身が自分は反哲学者だって言ってるんだから仕方
 ありませんよ

こうやってむじんくんは「ニーチェの哲学」を自身の議論の問題圏から
排除するわけね。ニーチェが反哲学と言うときの「哲学」とは何を指し
ているか、は不問に付して。

むじんくんが否定し評価もする哲学は「形而上学」に限られる。それは
神学という名の神秘主義の立場をとるむじんくんにとっては、常に
「無知の知」に陥らざるを得ないものに映る。そんなの当たり前だ。
むじんくんは西洋哲学の内部において「形而上学の解体」を志向する
哲学にはアレルギー・近親憎悪に近いものを感じるのだろう。
「そんなものは哲学じゃない」というわけだ。

356 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/13(水) 10:27:30
>>352
> 自己言及ですね。

そこはどうでしょうか。というのは、哲学的自己言及というのは、裏側に「真理への意思」と
いうべきものが存在します。ぴか氏的ポストモダンというのは、それが無いので最終的には
心理学へ転落するんじゃないですか?

357 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/13(水) 10:31:29
>>353
> 哲学内部でも、そういう問題、起こっているのではないでしょうか?

それは誘惑として常にあると思いますが、どうでしょうね。「哲学内部」って
言葉が形容矛盾だと思います(笑)。結局それは哲学史の学習ということを
指すと思いますが、哲学的思考とは関係の無いことですね。

358 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/13(水) 10:38:30
>>355
> むじんくんは西洋哲学の内部において「形而上学の解体」を志向する
> 哲学にはアレルギー・近親憎悪に近いものを感じるのだろう。
> 「そんなものは哲学じゃない」というわけだ。

いえ、それが哲学だと言っているのですが(笑)。

359 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/13(水) 17:27:54
>>356
>じこげんきゅうせい[じこげんきふ―] 【自己言及性】 self-reference
>自己自身を指示・言及すること。

話が通じないと思ったら、自己言及を知らなかったわけですね。
ようは「オマエモナー」ということですよ。

360 :考える名無しさん:2006/09/13(水) 20:19:01
>>359
なんで喧嘩腰なの?

361 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/13(水) 20:38:38
>>360
ん”!?

362 :考える名無しさん:2006/09/14(木) 00:34:24
>>358
形而上学の解体を志向しながらも、結局、別の形而上学を生み出してしまうという悲喜劇(たとえば典型的なのがハイデガー)がしばしばありますね。
そういうことは、どう分析・診断されますか?

363 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/15(金) 13:09:14
>>359
> ようは「オマエモナー」ということですよ。

哲学的自己言及、自己の二重化というのは、虚の点としての「真実」の場を想定
しています。それが無ければ心身二元論にはなりませんからね。ぴか氏的ポスト
モダンっていうのはそれを認めないんでしょ?

364 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/15(金) 13:15:02
自己言及の意味、理解できたかな。

365 :考える名無しさん:2006/09/15(金) 15:27:04
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの
古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。
全くヒドいものだの一語につきる。
日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家ミシェル・フーコのような、現代もの
でも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、ジル・ドゥールズらの思想は
「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを生まで扱う学問ではない。
現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、自分たちが、アメリカ
の支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究しかできない人々だ。
副島隆彦「日本の秘密」

前ページに神学対近代学問(サイエンス)の壮大な対立図式を示した。これ以外に下等学問としての
「人文」というのがある。この人文というのはヒューマニティーズの日本語訳である。
ヒューマニティーズとは「人間、および記録された文学に関わること」という意味である。
だから人文は、簡単に言えば現在で言う文学(部)のことである。他には歴史学があり、その内容は
古文書や石碑の文の解説などを行うことだ。これらは、学問としては下等学問である。
副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」


366 :考える名無しさん:2006/09/18(月) 14:46:40
クンコガクと神学は関係がない

367 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/19(火) 11:21:46
>>362
> そういうことは、どう分析・診断されますか?

やはり「罠」ということじゃないでしょうか。ただ、危ないのは形而上学を意識的に志向するのでは
なく、排除しているつもりで接近することですね。カントはその点で形而上学から人が逃れられない
ということをハッキリと意識するところから出発するわけです。


368 :考える名無しさん:2006/09/19(火) 14:50:14
>>367
カントの「物自体」を
「形而上学的真理」に置き換えて読んでもよい、ということでしょうか。

369 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/20(水) 10:31:39
>>368
> カントの「物自体」を
> 「形而上学的真理」に置き換えて読んでもよい、ということでしょうか。

そうです。人は知らないうちに形而上学を語ってしまうわけですが、その境界はどこにある
のか?というのが純粋理性批判のテーマですね。形而上学的真理があるか無いかではなく、
どのような記述が形而上学なのか、という。更に、認識の領域においては、そのような"真理"は
消極的にしか提示できない。これが物自体というものですね。

370 :考える名無しさん:2006/09/21(木) 10:58:44
>>369
カント的視点からすれば、
唯心論、唯物論、精神分析などは、一種の形而上学と言えるのではないでしょうか?

371 :考える名無しさん:2006/09/21(木) 18:12:06
  このスレのひとにとってこの教皇ベネディクト16世の発言は
  以外に面白いかも。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message143.htm
   マスコミで言われているようにイスラム教を批判したのではなく
  信仰と理性の関係について講演しているものだから。

372 :考える名無しさん:2006/10/13(金) 22:59:02
age

373 :考える名無しさん:2006/12/23(土) 04:23:59
( ´,_ゝ`)いやぁ名無しになっていてもすぐにわかるなぁw
でもなんで折角立派な名前があるのに名無しにしちゃうんだろうねw
精神病院のパソコンじゃ定期的に名無しに戻させる機能がついてるのかな?




374 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/01(月) 17:13:45
あけましておめでとうございます。

このスレ、生きてますか?

375 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/01(月) 17:33:34
お、生きてますね。

>>371の講演は面白いですね。というのは、このスレで語られる問題、つまり人間と神との関係に
おける回答として、「それは統合可能である」と宣言しているからです。それはこの講演にもあるように
「ギリシャ的」なものであり、典型的なカソリック的思考と言えるでしょう。

以前どこかで読んだ、「我々はユダヤ人かギリシャ人か?」というデリダの問いを思い出しました。
人間精神の問題というのは、とどのつまりこの「ユダヤ人かギリシャ人か?」という問いに集約
されると思います。

そして、カント哲学というのは「ユダヤ人」であると語る哲学です。プロテスタント神学もユダヤ人で
あるという宣言です。そして、この講演は「ギリシャ人」であると語る。基本的にカソリックはギリシャ的
思考を好みますね。


376 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/09(火) 13:12:51
「ユダヤ的」であるということは、つまり「反自然的」であるということです。ユダヤ系の一神教の
本質にあるのは、この反自然主義です。

反自然主義とはつまりは自己における身体と精神の分離であり、対立です。自己の「自然な」
感情への蔑視、懐疑。これがユダヤ-キリスト教の精神の基本です。

377 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/09(火) 13:18:13
自然から、身体から離脱した精神というものの成立のためには、神は自然の神であっては
なりません。人間は自然の内部に在り、人々の関係の内部にある、所謂「類的存在」である
というのが自然な感覚だとしたら、そこからの離脱を可能にするのは、個を直接類と等価と
してしまうような神、つまり超越的な神がいなければなりません。

「啓示宗教」というのは、こういうことです。自然の発達段階によって、ある段階でユダヤ的な
ものが生じるのではない。それは超越的な場からの稲妻のような啓示によってもたらされます。
それは類的なものを度外視し、個に直接意味を与えます。

378 :むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/09(火) 13:33:09
西欧哲学にはこの超越性というものが常につきまといます。個の思考がそれ自体として
意義を持つ、正しさを持つというのは、超越性なしには語れない。例えば、デカルトの
有名な懐疑は、外界との諸関係を遮断した精神の記述こそが曇りの無い、正しいものだと
宣言するわけですが、その宣言の直前に真っ正直にも「神の保障」を求めてます。これが
無ければ、外界から切り離された精神の思考は自立性を持つことができず、結果として
具体的な、身体的な他者との諸関係による「保障」によって思考が成立するという話に
なったことでしょう。

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