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菜食について考える part5

1 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 16:45:27
事実をもとに主張をすることができ、
そういう意見であるからこそ反論することが出来る。
質問はそのまま反論になるわけではなく、
反証が反論となる。

動物に対する倫理、動物の権利(アニマルライツ)はどうか?
これが選好功利主義による倫理学によるベジタリアンだとすれば、痛覚をもつ神経組織のない植物には話は言及しない。
倫理ベジとはどんな立場の人を意味してるのか?
植物に意識があるのか?
意識的に肉を排除しているのが菜食なのか?
シーフードベジタリアンはベジタリアンなのか?
肉食は罪や罰になるのか?
生物に序列を付けなければ ならないがそのことは罪ではないか?
あるいは、序列を無視することが罪ではないのか?

自然のホメオスタシスが崩れたとき、
崩れる原因を罪と呼び、災難または災害を罰と呼ぶ。
そうなのか?

★ ループしがちになる事実をお読みください。 >>2-20

過去スレ
 菜食について考える part4
 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1162539065/l50
 菜食について考える part3
 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161877753/
 菜食について考える part2
 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161242483/
 菜食について考える
 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1160328102/

264 :毛皮OKの人:2006/11/15(水) 06:59:26
功利主義にたったときの、幸福の主体についてであるが、
これは、功利主義の始祖と言われるベンサムから始まって多くの功利主義者が、
功利の範囲は、幸せを感じる能力を持つ者が主体だと主張してる。
シンガーどころかベンサムも、やがては政府の庇護が動物にまで及ぶだろうと書いた。

この点、俺には、一つ異論がある。
幸せを感じる能力を持っていないものを擬人化して大切にしたいという個人の欲求というものがあるからだ。
そのような欲求を持つ者にとっては、動物どころか、車を大切にすることさえ個人の善であり得る。
幸せを感じる能力を持っていると言うことの意味は、
やがて多くの人にとって功利の範囲が動物になるかもしれない程度の意味しか持たない。

ベンサムもシンガーも功利主義は、幸せを感じる能力がある者にまで
押し広げるべきというような考え方を持っているのかも知れないが、

それはおかしいと思う。功利主義の論理からは、そのような結論を導くことはできない。
せめて、幸せを感じる能力を感じる能力がある者にまで押し広げることが「できる」というべきだ。

つまり、前提を置かなければ、他者愛(個人の功利計算の範囲)をどこまでにするべきかなどという質問に答えはない。
倫理学説としての功利主義は、最も重大な論点を隠蔽しているというというのはここから出てくるのではないだろうか?
しかし、集団にとって好ましい他者愛の形というのは存在する。(道徳的に善である他者愛・倫理観は検討できる)
けれども、そうすると次は、集団の範囲が問題になる。
やはり、この集団の範囲はどこまでにするべきかという質問に答えはない。

「政府は」という前提を置いてみよう…
政府は社会契約によって作られているというように見れば、政府の範囲は
契約者に限定される。そこで、政府の善は、「国民の最大多数の最大幸福」と言う言葉が出てくる。
政治・法・社会の功利計算の範囲は、人間(国民)とするべきである。
経済学では、モデルを作るに当たって、任意の経済活動の主体に限定される。
つまり、集団にとっての善悪(道徳)は、集団の幸福を増加させることであるから、
何の集団にとっての善悪を考えているのかという前提が必要になる。
常識においては、人間とペットくらいを集団と捉えてるんだろう。

265 :毛皮OKの人:2006/11/15(水) 07:01:13
幸福は数量化できないという、功利主義に対する批判はよくある。
しかし、例えば、経済学の効用という考え方を見てわかるとおり、
このような考え方に意義があるのは、式にできると言うことだ。
式があるから、わかりやすく説明できるし、応用もできる。
計算という言葉は数量化することを意味してるわけじゃない。

正義は自分の嗜好に過ぎない
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1157971895/でのレスを使い回す。

死刑制度廃止が日本にとっての善か否か

死刑制度廃止による幸福の総和の変化量が正の値であるとき、これは善になる。

死刑制度廃止による幸福の総和の変化量を構成するものは、
・死刑囚にとっての、命拾いする幸福
・関係者にとっての、殺さなくてすむ幸福
・遺族にとっての、復讐感情を満足させられない不幸(−の幸福)
・一般人にとっての、抑止力が弱まる不幸
・一般人にとっての、法を変える不幸
・国際イメージ向上による幸福
などがある。

意識的にせよ、無意識的にせよ、こういう風に考えるからこそ、
「死刑制度についての議論ができる。」
「死刑制度は廃止すべきだ。」
「なぜなら、命を奪うというのはあまりにも、犯罪者を不幸にする。」
「いや、それを補って余りある、抑止力の向上という幸福がある。」
「それでは、終身刑を設けるなどして、抑止力を低下させない措置をとりつつ死刑制度を廃止すべきだ。」
「しかし、それによって増加する利益よりも、法を変える労力の方が社会にとって大きい。」
とかいう風にね。

266 :毛皮OKの人:2006/11/15(水) 07:01:56
ちなみに、選好功利主義は、数量化が可能な場面を掘り下げた。
個人の欲求の強さは、顕示(商品の売買、選挙権の行使)によって明らかにされると考えた。
経営学の機会費用の考え方も功利計算と同じだ。

>「幸福は客観的な価値なのだから、宇宙全体の幸福の総量を増やすのが
>客観的な善である」と考えるのが、私の理解する「功利主義」である。
確かに、そういうようなことを一部の功利主義者達は言ってる匂いがする。
それは間違ってると俺も思う。

>>152
前半全く同意。
しかし、上で書いたとおりそれこそ、そのような見方こそ、
王権神授説や人権神授説に取って代わった、政治における功利主義の応用だ。

>>153
功利主義者であっても、僕のように他者愛の範囲が狭く弱い人間はいる。
豚が涙を流して目の前で殺されても、ほんの少々悪いと思うだけで、
豚肉をおいしく頂けるような人間がね。

他に、教育においては、どのような形の個人の倫理観を育てるべきかが問題になる。
公教育なら、現在及び将来の国民の最大多数の最大幸福を実現できる倫理観を育てるべきだろう。
それは、基本的には、一般的な倫理観の注入になる。

一応言っておくが、
政治・法・社会の功利計算の範囲が、人間(国民)に限定されても、
動物に対する福祉が全く不要と言うことには為らない。
なぜなら、政府を構成する人間の他者愛という欲求が動物にまで及んでいることがあるからだ。

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