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♪【精強】♪♪オーストリア海軍♪♪【帝国】♪

1 :フェルディナント・マックス:04/04/04 01:34
え〜でるわぁいす♪ えぇ〜、出るわぁ〜♪

いまは内陸国になってしまった、美しき国の海軍について語る場です。

ちなみに小生は子供のころ、サウンド・オブ・ミュージックのトラップ男爵が
海軍大佐であった背景が理解できませんでした。

541 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/07/26(火) 20:21:43 0 ?#
久々に水没逃れのカキコ。

福井静夫の二重帝国海軍戦艦評なぞ。

それは、英国系の技術を基とし、またその戦艦の性格は極めて英国のものと類似している。
アドリア海と言う制限された作戦海面のために、その装甲艦(戦艦)は、(1)伊海軍の対応艦を目標とした。
(2)作戦海面の特徴である多島嶼、狭水路の運動に適するよう、比較的小型、高速を目的とし、主砲、副砲の配置に苦心の跡が見られる。

英国式装甲艦は、多年二重帝国海軍の中核であって、ポプラーのサミューダ造船所で外国向きに多数建造された、所謂、エドワード・リード
式装甲艦の系統であり、我が扶桑(初代)や、当時のトルコ戦艦の多数と同系統のものである。

二重帝国の戦艦の特徴として、
 (1) リッサ海戦以後、特にラムを重視し、頑丈、かつ著しい艦首の突出ラムを有し、また重砲(主砲及び準主砲)の前方射撃を良好とした。
    その門数の50%以上は前方に発射可能である。この傾向は、第一次大戦時の弩級艦、即ち最後の主力艦まで一貫している。
 (2) 第一次大戦時の弩級艦は三連装30cm砲塔4基を背負式として搭載し、近代戦艦の主砲配置として、断然進歩した方法を率先して採用、
    当時の列強海軍の注目の的となった。
    しかし、主砲の爆風が強く、また、その機構の作動など、色々の欠点があったようで、次いで第一次大戦末までに計画された(設計のみ)
    新大型戦艦及び巡洋戦艦は、この方式を廃止し、大戦前のドイツ戦艦の要領に近い方法にと転換を意図しつつあったようである。
    (一方ではドイツ海軍は二重帝国海軍式の「Michigan」配置へと転換しつつあった。

以後、色々興味深いことが書いてあるので、ちょこちょこ保守的に書いていく予定。

542 :権兵衛さん:2005/07/27(水) 18:06:57 0

 眠い人さん、こんにちわ。

  久々の救援、ありがとうございます。

  夏休みに入ったので、各スレッドの進行が早くなっているので、
  監視の回数を増やさないといけないと思っております。

543 :ハウス:2005/07/29(金) 22:13:09 0

眠い人さん&権兵衛さん、ご無沙汰しております。

福井静夫評といえば『日本潜水艦物語』の中にも(3)リッツオ艇長の偉勲(4)人間魚雷の
ポーラ軍港進入、という見出しでオーストリア海軍とのやりとりがまとめられています。
今年の『歴史群像2月号』と内容は重なりますが(>>358のレス参照 )。

さて再度購入を試みているアントン・ハウス提督の伝記本ですが、8月中下旬には自宅に
届くはずなので、このスレでもその内容を紹介していければと考えております。

544 :権兵衛さん:2005/08/01(月) 02:12:17 0

>それは、英国系の技術を基とし、またその戦艦の性格は極めて
英国のものと類似している。

 欧州というのが別々の国々と見えて、実は2千年前は単一の「帝国」
 の領域でもあったわけで、違いもあれば共通点もたくさんあるわけ
 です。
  おなじみの「トラップ少佐」にしても、その始めの妻はイギリス系
 のアガーテ・ホワイトヘッドでした。その祖父は近代的魚形水雷の発
 明者としても知られているわけですから、技術的にも関係が深かった
 のでしょうね。その叔母のひとりがビスマルクの息子の嫁になったり
 もしているので、「華麗なる一族」のひとつでもあったわけです。
  第1次大戦のイギリス、ドイツ、ロシアの皇帝もすべてイギリスの
 ヴィクトリア女王の孫筋に当たるのですから、トラップ家の例など、
 それこそ掃いて捨てるほどあったことは間違いありませんね。

  などといいながら、何回目なるのかわからないほど見た「サウンド・
 オブ・ミュージック」を見てきました。(さすがに、併映された「山
 猫」(ヴィスコンティ監督の傑作のひとつ)とは違う分野の作品である
 ことを実感させらましたね。)

545 :権兵衛さん:2005/08/10(水) 22:20:29 0

 ヴィスコンティ監督の「山猫」は1860年の「イタリア統一戦争」
 時代を背景にしたシチリア島の大貴族の物語です。ローマ帝国が崩壊
 てから、1500年近くも四裂五分の状態であったイタリア半島が形
 の上にせよ「統一」された王国になるということが、アドリア海と
 アルプス山脈という自然の要害によって隔てられていた大陸諸国へ大
 きな衝撃をもって迎えられたことは容易に想像できます。
  アドリア海とそれに連なる地中海の制海権を巡って、壮絶な海軍拡
 張競争の産物のひとつが「オーストリア=ハンガリー二重帝国海軍」
 ですね。ギリシャ、オスマン=トルコ、エジプト、フランス、スペイ
 ンに加えて、イギリスとロシアも絡んだ半世紀に及ぶ歴史も見もので
 す。この競争に北欧の諸国だけでなく、新興のドイツが加わったこと
 でついに「(第一次)世界大戦」となるわけです。

  この辺りの詳細は「ハウス」さん、「眠い人」さんなどにおまかせ
 しますが、愚生もそれなりに資料を漁ってみますね。

546 :ハウス:2005/08/13(土) 11:51:41 0
学習研究社の『図説世界の歴史6 現代世界の試練』斎藤孝監修、の中でオーストリア海軍
に関する記事・資料をいくつか。

・ヴィリブス・ユニタス号1911年トリエステで進水したオーストリア・ハンガリー帝国
の戦艦で、排水量2万トン、305ミリ砲を12門装備していた。ウイーン軍事史博物館蔵〔62頁〕

・「ふたつの実験」 40センチ装甲板が砲撃を受けた場合の抵抗を検証するため、20世紀初め、
オーストリア海軍によって行われた実験。上:貫通された装甲板 下:貫通しない砲弾。とも
にイタリア・トリエステ戦争博物館蔵〔62頁〕

547 :ハウス:2005/08/13(土) 11:52:26 0
・「プーラ港風景」 ユーゴスラヴィア西北にあったオーストリア・ハンガリー艦隊の最重要
基地。1917年8月、イタリア軍の空爆を受けた。〔104頁〕

・「アドリア海の激戦」 上:イタリア海軍大尉ルイジ・リッツオの指揮下、1918年6月10日、
アドリア海のプレムダ島付近でオーストリア戦艦聖イストヴァン号≠撃沈した魚雷艇マー
ス15号。右:沈没する聖イストヴァン号≠ニもにフラッカローリ・コレクション蔵〔128頁〕

548 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/08/16(火) 12:20:42 0 ?#
>541の続き

 (3) 軍港としてはアドリア海北部のポーラと同南部のカッタロを主に使用した。
    前者は立派な大軍港で工廠もあり、後者は第一次大戦中に作戦基地として使用され、整備された。
    ポーラ軍港は二重帝国海軍の全艦隊を収容できる大軍港であった。
 (4) 戦艦の建造は、ポーラ工廠とトリエステの造船所で行った。
    トリエステのスタビリメント・テクニコ社は世界一流の大造船所で、付近にも大艦を建造できる分工場を有し
    (第一次大戦後はイタリアの大造船所となり、現在に至る)、弩級艦などはここで建造された。
    他にも相当の施設があり、ポーラ工廠も巨艦を建造する様に拡張中であった。
 (5) 砲は主にクルップ系とシュコダ系を使用した。
    しかし、弩級艦の3連装30cm砲は、英国Vickersの技術を導入したという。
 (6) 魚雷は英国のホワイトヘッドが発明して実用化した直後に、その工場をフューメに設立し、此処で生産する
    ホワイトヘッド魚雷は世界の各海軍が使用し、我が国でも明治10年代より、ここから購入した。

549 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/08/16(火) 12:21:13 0 ?#
 (7) 二重帝国の戦艦は、第一次大戦では優勢な伊および連合国海軍(主に英)にアドリア海入口のオトラント海峡
    を厳重に封鎖され、アドリア海内でも制海権を伊に抑えられて、ポーラ軍港に留まり、時折出撃するくらいであった。
    しかし、その性能より見るに、決してアドリア海のみの行動に我慢したようではない。
    殊にラデツキー型およびフィリブス・ウニーティス型弩級艦は、当時の一流戦艦であり、その7隻の存在は伊
    海軍にとって一大脅威であり、特攻的襲撃で弩級艦4隻中2隻を沈めることに成功した。
    しかし、一般的に見て、航続力は他国の大戦艦と同じであっても、二重帝国海軍戦艦の居住性はかなり苦しく、
    長期の連続外洋行動は不必要のためもあるが、性能的に困難だったと思われる。
    その主因の一つは、立派なダメージ・コントロール装置と、防御区画法であったようだ。
    二重帝国海軍のダメージ・コントロールは第一次大戦中、独戦艦のそれに比肩しうる程であって、戦後押収した
    二重帝国海軍戦艦の艦内を調査した連合国技術調査団に大なる感銘を与えている。
    例えば、前弩級艦ラデツキーの応急訓練及びそのダメージ・コントロール取扱書の完備などは、独戦艦以上の
    ものであったという。

550 :世界@名無史さん:2005/08/23(火) 23:46:16 0
オーストリア海軍萌え

551 :ハウス:2005/08/24(水) 22:30:39 0

ageも兼ねて、オーストリア海軍概略史その1

オーストリアと海との接触は、当時のハプスブルク家君主レオポルト3世が1382年に
アドリア海に面したトリエステを保護領として獲得し、初めて沿岸部に進出した時
でした。この沿岸部の住民の主導の下で15世紀からは海運業が発展し、彼らはオス
マン・トルコやアラブ人海賊から商船の保護に努めましたが、海軍そのものは長い
間建設されませんでした。

18世紀に入りカール6世の治世下にはトリエステの整備が進められ、同時に東地中海
を航行する商船保護を目的とした海軍建設が試みられましたが、これは財政難のため
不成功に終わりました。その一方で、国内のドナウ川にはすでに小艦隊が編成されて
おり、17〜18世紀にかけては陸軍と共同し、当時国境を接していたオスマン・トルコ
からの侵略に備えておりました。

1797年のカンポ・フォルミオ条約によりオーストリアはベネチアからダルマチア沿岸
部に至る長い海岸線を獲得し、この時に消滅したベネチア共和国の艦隊を入手して本
格的な海軍建設が進められました。以後ベネチアの艦隊及びこれに所属するイタリア
人水兵はオーストリア海軍の基礎を成します。その後対ナポレオン戦争の相次ぐ敗北
により一時沿岸部を失う事となりますが、1815年のウイーン条約により同地は再びオ
ーストリアの支配下に戻されました。

続く

552 :ハウス:2005/08/27(土) 20:52:23 0

オーストリア海軍概略史その2

これによりベネチアの艦船及び造船所は
すべてオーストリアに帰属して海軍が再建されました。
オーストリアの産業革命は1830年から始まりましたが、
同時に海軍の拡張も行なわれ、
戦列艦、フリゲイト、コルベット、ブリッグ、スクーナーといった
多数の帆走軍艦を保有するまでになります。
こうした中ベネチアはオーストリア海軍の最重要軍港として発展し、
軍艦はこことトリエステで建造されました。

1848年のフランス2月革命はオーストリアにも波及して
各地で民族運動が起こりましたが、
これは大部分のイタリア人水兵が蜂起する事を意味し、
ベネチアに停泊していた軍艦の多くが彼らに占拠されてしまいます。
このため海軍は急遽再編成を迫られると同時に
陸軍と共同してベネチア湾を封鎖し、
翌49年8月には反乱を鎮圧して艦艇を回収しましたが、
海軍の根拠地(本部)はベネチアからポーラ(現クロアチア領プーラ)に移され、
1853年にはイタリア語に代わりドイツ語が海軍の主要言語とされました。
ただしベネチアそのものは1866年までオーストリア領に留まりました。

続く

553 :ハウス:2005/08/27(土) 22:13:12 0

スレの趣旨から外れますが、
本日の世界・ふしぎ発見!では
「アドリア海の楽園・クロアチア紀行」の特集でした。

ポーラ(現クロアチア領プーラ)の円形劇場に敷かれた超巨大なネクタイ
(クロアチアはネクタイの発祥の地らしい)
リッサ島(現クロアチア領ヴィス島)の港や郷土料理
同島近くの小島にあるこの世の楽園とも呼べる神秘的な洞窟
アドリア海の真珠・ドブロブニークのまち
なんかが取り上げられていて、とても興味深い内容でした。

554 :カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/08/28(日) 11:01:50 0
>>553
見逃したー!
そゆことは放送前に言って欲しかったです

>クロアチアはネクタイの発祥の地らしい
ルイ14世がクロアチア人の使節が首に布巻いているのを見て流行らせたとか何とか。
フランス語ではネクタイのことをcravateというのだけど、これはHrvat(クロアチア人)に由来。

555 :ハウス:2005/09/02(金) 23:33:12 0
世界史板のなんでイタリアって戦争弱いの?二世紀目のスレに
リッサ島沖海戦の話題(677〜)がされていました。
サラッと見ただけですが、なかなかおもしろい!

チラシの裏でスマソですが、注文したハウス提督の伝記本
自宅への配送がまた1ヶ月ほど遅れるとの事。
いつになったら提督を極める日が来るのやら・・。


>>552続き
オーストリア海軍概略史その3

1850年以降フェルディナント・マクシミリアン大公※の指揮の下
地中海を巡航するオーストリア艦隊の姿がありましたが、
大公はオーストリア海軍の最高司令官に指名され、
彼の指導により近代的な蒸気動力を使用した
新しい船(汽走フリゲイト)の建造計画が進められました。
ポーラは整備・拡張され、また将校のための海軍兵学校が
フューメ(現クロアチア領リエカ)に設立されました。
(※皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟でのちにメキシコ皇帝となる)

その一方で、海軍は国家の財政及び科学の振興にも大きな役割を果たす事となります。
マクシミリアン大公の支援により(数名の科学者を乗せた)
フリゲイト艦「ノヴァラ」の世界周航が1857〜59年にかけて行なわれました。
ノヴァラはジブラルタル・リオデジャネイロ・喜望峰を経て研究のために様々な島を訪れ、
オーストラリアのシドニーに到着する前にインド・マニラ・香港・上海と航海を続け、
その後タヒチ経由で南アメリカのホーン岬を通り大西洋を北上してトリエステに戻りました。
ノヴァラは世界を周航したオーストリア初の船であると共に、
偉業を成し遂げた最期の帆走軍艦でした。(その後同艦は
1864年にマクシミリアン大公をメキシコへと運び、66年にはリッサの海戦にも参加、
翌67年には異郷の地で非業の死を遂げた大公の遺体をオーストリア本国へ運んでいる)

556 :ハウス:2005/09/10(土) 10:35:31 0

オーストリア海軍概略史その4

1860年代にオーストリアは2つの重要な海戦を経験しました。
まずは1864年5月9日にデンマークとの間で行なわれたヘルゴランド沖海戦で、
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン領をめぐる紛争で
プロイセンと同盟したオーストリアは北海に艦隊を派遣して戦い、
苦戦を強いられたものの最終的に戦略的勝利を収めました。
これは木造艦隊同士の最後の海戦となりました。
続く1866年7月20日に行なわれたリッサ海戦は、
上記領土の処理をめぐる普墺戦争で
プロイセンと同盟したイタリアとの間で行なわれ、
テゲトフ提督の指揮するオーストリア艦隊は衝角(ラム)を用いた大胆な戦術により
優勢なイタリア海軍を打ち破りました。
これは初の装甲艦隊同士の海戦であるとともに、
以後各国の海戦術や軍艦設計に大きな影響を及ぼしました。

平和な時期オーストリアの海外への関心は外交及び通商をその特質とし、
オーストリアの船はそれを目的として極東、南北アメリカ、および太平洋を訪れました
(フランツ・ヨーゼフ諸島を発見する北極の調査にも参加した)。
そして時には海軍は時折旗を掲げて海外で活動する事を要求され、
1900年の義和団事件の時には他の列強と共に艦隊を中国海域に派遣し、
海兵隊は大使館員および自国民の保護を目的として北京へ侵攻しました。
海軍はその後1913年のバルカン戦争時に派遣された国際艦隊にも参加しました。


そういえば先日地元の図書館で、以前権兵衛さんが>>527で紹介してくれた
ウッドハウス暎子著『北京燃ゆ−義和団事変とモリソン』東洋経済新報社1989年12月21日発行
を見つけました。義和団事件発生当時の北京・オーストリア大使館における
オーストリア海軍士官フォン・トーマン中佐やオーストリア兵の行動・やりとりなんかが
モリソンの日記として生々しく?まとめられていました。

557 :ハウス:2005/09/17(土) 10:15:03 0

9月10日に講談社から発行している『オーストリア皇太子の日本日記−明治26年夏の記録−』
(フランツ・フェルディナント 安藤勉訳)について。
この本はオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントの世界旅行日記
Franz Ferdinand,Erzherzog von Osterreich-Este:Tagebuch meiner Reise um die Erde.1892−1893.
2 Bde. Wien:Alfred Holder 1895/96.の第一巻・第二巻から日本に関する部分を邦訳したものです。

はじめに&第一章の箇所を少しばかり紹介します。
「わたしの世界一周旅行のほとんどは、わが誉れ高きオーストリア・ハンガリー帝国艦隊の宝石、
すなわち水雷巡洋艦エリーザベト皇后号によって成し遂げられた。
これはひとえに、このうえなく慈悲深いフランツ・ヨーゼフ皇帝陛下のご配慮の賜物である。
わがエリーザベト皇后号は皇帝陛下のご意志にしたがい、東アジア各海域を巡航した。
すなわち、陛下がエリーザベト皇后号を派遣されたのは、
海軍に対し洋上航海訓練の機会を多くあたえ、
同時にこれを海洋研究の契機にしたいとお考えになったからである。
のみならず、この壮麗な軍艦の遠洋派遣を機に君主制を不動のものとし、
あわせて商業政策上の権益獲得を有利に推し進めたいという狙いもおもちであった。
こうしたエリーザベト皇后号派遣の意図と、わたしが考えていた旅程が一致したのである。」
〔4〜5頁〕

また長崎 8月2日では、エリーザベト皇后号が長崎港の沖合いに来た時に、
日本海軍の巡洋艦八重山が港へ先導してくれて、
同艦の甲板で軍楽隊がオーストリア国歌を演奏してくれたことや、
名高い景勝地の瀬戸内海をエリーザベト皇后号の甲板から楽しみながら
横浜まで行って、そこで公式訪問旅行に切り換えるという
本人の希望を断念しなくてはならずに残念がっていたこと〔16〜17頁〕などありました。

続きはこれから読み進めていきまつ。

558 :ハウス:2005/09/17(土) 10:16:59 0

オーストリア海軍概略史その5

1867年以来オーストリアの国防及び外交に関する問題は、
オーストリア及びハンガリーの両議会が決定権を持ち
(アウスグライヒによりオーストリア・ハンガリー帝国が成立していた)、
この二重帝国では海軍が決定した予算案に対し、
自領内の問題を優先するハンガリー側がしばしば異議を唱えました。
従って、オーストリア(・ハンガリー)の海軍はフランスはおろか
イタリアに匹敵するほどの十分な資金を与えられませんでした。
それにもかかわらず1897〜1913年までの間スパウン、モンテクッコリの両提督による
海軍の拡張と近代的な艦艇の建設が進められました。
これを積極的に支援したのがフランツ・フェルディナント大公で、
彼は海軍の偉大な保護者ならびに後援者でした。
1911年には初のドレッドノート型の戦艦(ド級戦艦)がトリエステで進水し、
それは「ヴィリブス・ウニーティス」(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のモットー
:帝国内の諸民族が力をあわせて)と名づけられました。その後3隻の同型艦がこれに続きました。
オーストリア海軍は多民族かつ多重言語で構成されているところに特徴があり、
公用語はドイツ語で、同時にイタリア人が依然としてその7分の1を占めていました。

この時期オーストリアの海運業も順調で、2つの海運会社が中心となり
トリエステから乗客を乗せて出航していきました。
オーストリア・ロイドライン社は、アドリア海と地中海を経て
エジプト・中東・インド・中国まで航海し、
オーストロ・アメリカライン社は北アメリカ及び南アメリカへ航海し、
観光客だけではなく移民も運びました。

559 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/09/20(火) 23:29:44 0
保守を兼ねたカキコ。

先日、光人社NF文庫の「日露戦争の兵器」という本を読んでいましたら、後半が、「兵器廠保管参考兵器沿革書」
と言う、1929年に陸軍兵器本廠が編纂した本をそのまま掲載していました。

その中に、1914年の青島攻略の際、港内で自沈した、「カイゼリン・エリザベート」に装備していた兵器類が1929年
現在でも兵器廠に保管されていたみたいです。

小は水兵が装備していた銃剣、マンリッヘル1888年式、1890年式小銃から、シュコダの水冷式重機関銃、シュワル
ツローゼ機関銃とかがありました。
もしかしたら、速射砲とかその辺も保管されていたのかも知れませんね。

560 :ハウス:2005/09/24(土) 10:49:29 0

>>559
眠い人さんこんにちは。
これからもよろしくお願いします。

オーストリア海軍概略史その6(最終章)

第一次世界大戦勃発前夜のオーストリア・ハンガリーは世界で第7番目の海軍力を保有し
(戦艦16隻 巡洋艦12隻 駆逐艦23隻 水雷艇62隻 潜水艦6隻、さらに大戦中に
戦艦1隻 巡洋艦2隻 駆逐艦4隻 潜水艦21隻が竣工)その艦隊はハウス提督が指揮しておりました。

1914年6月28日にフェルディナント大公がセルビアの民族主義者により暗殺され、
これが引き金で大戦が勃発しましたが、
大戦中海軍の主要任務はダルマチア沿岸部を保護する事でした。
それと同時に英仏伊を中心とする連合国海軍がオトラント海峡を封鎖したために、
海軍の活動区域は必然的にアドリア海に制限されました。
そして海峡を封鎖している連合国の船はホルティ提督(のちの独立ハンガリー王国摂政)率いる
オーストリア艦隊及びトラップ率いるオーストリア潜水艦部隊の攻撃目標となりました。

オーストリアの海軍はその多民族の構成にもかかわらずなんとか機能し続けましたが、
1918年2月にはカッタロで水兵の反乱が起こり民族主義が海軍を悩まし始めました。
その後11月にはハプスブルクの君主制が崩壊して帝国は消滅し、
また大戦の敗北によりオーストリアは海に面した領土を失いました。
海軍の残された艦艇は大部分が連合国に、一部が後継国家に分配されました。
こうしてオーストリア海軍は歴史上から消滅しました。

ひとまず終わり

次回からは、今回レスした第一次大戦での海軍の戦況の詳細を
1914年7月から順次まとめてみたいと思います。
まあこれにはまる前にハウス提督本の到着をひそかに期待しているのですが・・。

561 :世界@名無史さん:2005/10/03(月) 10:49:50 0

ハウスさん、お久しぶりです。

  今年の猛暑はどう乗り切られましたか?当方はあえなく「夏ばて」で
 「ドック入り」はまぬかれたものの、桟橋に係留・待機となってしまい
 ました。どうやら涼しくなったので少し外へ出て、洋書店などを覗いて
 みることしようと思ってます。これで寒くなると桟橋につながれること
 になるので、案外時間は限られてしまいそうです。

  「ハウス提督伝」意外に手間取りますね。欧州の出版物は1000部
 くらいしか刷ってないのも珍しくないし、この手の本は購入者はそのま
 ま手元に留めておくのが普通なので「古書」市場にでにくいのかも知れ
 ませんね。700年の歴史を誇った「オーストリア海軍最後の大物」ら
 しく、簡単にその「お姿」を現して下さらないようですね。

  CWニコルの「特務艦隊」ですが、日英側の記述が主でオーストリア
 側のそれは皆無のようです。小説の構成上仕方がないのですが、ちょっ
 と残念です。

562 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆4yzbf0MFE. :2005/10/06(木) 00:50:52 0
兵庫県の小野市で青島で捕虜になった巡洋艦カイザリン・エリザベート号の
水兵さんたち演奏した音楽を復元する催しが開催されます。

「ふるさとをしのぶ音楽会」―青野原俘虜収容所演奏会の復元―
  日時 10月10日(祝) 午後2時開演
解説 大津留厚(神戸大学教授)
演奏 神戸大学交響楽団
ttp://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/notice/notice.html


563 :ハウス:2005/10/08(土) 10:42:53 0

>>561
権兵衛さんこんにちは。
こちらも今年の猛暑にはかなり参ってしまいました。
体調を崩されてしまったようですが、どうかご自愛を。

ハウス本がなかなか到着しない件ですが、
ひょっとしたら、俺が偉大なる提督閣下のハンドルネームを
(ずうずうしく)使い続けていることに内心お腹立ちなのかなぁ?

まあそれは冗談として、第一次大戦中の海軍の戦況でも時折レスしながら
気長に待つことにしますか。

>>562
ギシュクラさんこんにちは。
レス参考にさせていただきます。

564 :ハウス:2005/10/15(土) 10:36:16 0
以前レスした内容の訂正を少々。

【第一次世界大戦勃発前夜のオーストリア・ハンガリー海軍】

第1戦艦戦隊〔マクシミリアン・ニェゴヴァン提督【中将】〕
 ド級戦艦(艦隊旗艦)ヴィリブス・ウニーティス〔アントン・ハウス提督【大将】〕、テゲトフ、プリンツ・
 オイゲン(第1戦艦隊)準ド級戦艦エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント、ラデツキー、ズリーニ
 (第2戦艦隊)

第2戦艦戦隊〔フランツ・レイフラー提督【少将】〕
 前ド級戦艦エルツヘルツォーク・カール、エルツヘルツオーク・フリードリヒ、エルツヘルツォーク・フェルデ
 ィナント・マックス(第3戦艦隊)ハプスブルク、アルパード、バーベンベルク(第4戦艦隊)

巡洋戦隊〔ポール・フィードラー提督【中将】〕
 装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ、カイザー・カール6世、カイゼリン ウント ケイニギン・マリア テレジア、
 軽(防護)巡洋艦ツェンタ、アスペルン、シゲトヴァール

第1水雷戦隊 :軽巡洋艦サイダ、駆逐艦12隻、水雷艇10隻 
第2水雷戦隊 :軽巡洋艦アドミラル・スパウン、駆逐艦6隻、水雷艇18隻
 
沿岸守備隊 :海防戦艦モナーク、ウイーン、ブダペスト(第5戦艦隊)防護巡洋艦カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世、
       水雷巡洋艦パンター

□トリエステ:水雷艇4隻
□ポーラ(現クロアチア領プーラ):装甲艦マルス(旧テゲトフ)、駆逐艦3隻、水雷艇15隻、潜水艦6隻 
□セベニコ(現クロアチア領シベニク):水雷艇10隻
□カッタロ(現セルビア・モンテネグロ領コトル):砲塔装甲艦クロンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ
     、水雷艇6隻
□フューメ(現クロアチア領リエカ):ド級戦艦セント・イシュトヴァーン、軽巡洋艦ヘルゴラント、ノヴァラ
      建造中
(□青島:防護巡洋艦カイゼリン・エリザベート)

565 :ハウス:2005/10/15(土) 10:43:27 0

ちなみに当時のホルティ・ミクローシュは、
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世陛下の侍従海軍武官。
ゲオルグ・フォン・トラップ中尉は、潜水艦U5艦長。

それでこの時のホルティ閣下の「階級」は何だったのだろう? 
ご存知の方いらっしゃいますか?

566 :◆Ny8weMFDds :2005/10/15(土) 19:55:12 0
>>1
日本海軍が最強に決まってるだろ馬鹿

567 :権兵衛さん:2005/10/17(月) 01:38:03 0

 ハウス閣下、こんにちわ。

>それでこの時のホルティ閣下の「階級」は何だったのだろう? 
ご存知の方いらっしゃいますか?

 はっきりとしませんが、彼の略伝によれば1913年に大佐(Linien-
schiffskapitean)に昇進したとあります。1918年に少将に任ぜられ
たことはしられていますね。ということで第1次大戦勃発時には大佐で
あったということになります。  

 


568 :ハウス:2005/10/20(木) 23:25:19 0

>>567
権兵衛さんレスありがとうございます。
なるほど、ホルティ閣下の第一次大戦勃発時の階級は大佐でしたか。

「提督」の称号は少将以上の人物に与えられるので、
少将に任じられる以前のホルティに「提督」をつけるのは、
厳密には間違いということになるのかな?
今後レスする時には気をつけてみます。

さて>>564の艦隊ですが、10月23日(日)あたりから動かせそうです。
以後1〜2週間に一度くらいを目安に海軍の戦況レスをしていく予定なので、
よろしければ参考にどうぞ。

569 :ハウス:2005/10/22(土) 22:28:53 0

【 第一次世界大戦とオーストリア海軍〔1914年〕】その1

1914年6月24日、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公は、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方で行なわれる陸軍大演習視察のため
当時帝国の外港だったトリエステからド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」に乗り込んで
ダルマチア沿岸部のネレトバ川河口まで行きました。
大公はここで汽船「ダルマト(Dalmat)」に乗り換えて、川に沿って内陸部へと進みました。

サラエボ近郊のイリッツェで陸軍大演習を3日間視察した後、フェルディナント大公はサラエボ入りし、
ウイーンから汽車で来た妻のゾフィーと再会しました。
しかし6月28日に、大公夫妻はサラエボ市街でオープンカーに乗っている時に
セルビア人の学生ガブリロ・プリンチップに撃たれて死亡しました。
大公夫妻の遺体はサラエボからネレトバ川へと移され、
そこから汽船「ダルマト(Dalmat)」によって河口へと運ばれました。

フェルディナント大公暗殺の訃報を受け、
オーストリア・ハンガリー帝国海軍長官&艦隊総司令官を務めていたアントン・ハウス提督は、
ただちにポーラ軍港で汽船「ラクロマ(Lacroma)」に乗り、
護衛艦2隻(ド級戦艦「テゲトフ」 軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」)とともに
ネレトバ川河口へと急ぎました。
かけつけた護衛艦隊に見守られながら、大公の遺体は戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」に移され、
その後このオーストリア・ハンガリーの艦隊はゆっくりとトリエステに移動しました。
艦隊が沿岸部のまちや村を通過するごとに、教会の鐘は祈りの文句を歌い、
住民も去り行く艦隊に対し敬意を払いました。

570 :ハウス:2005/10/22(土) 22:29:48 0

いわゆる7月危機と呼ばれるこの1ヶ月間、ハウス提督はポーラに留まっておりましたが、
7月18日に彼は海軍をバルカン半島方面での戦争に備えて動員するようにとの指令を受け、
22日には準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」「ラデツキー」「ズリーニ」を
カッタロへ派遣しました。
当時砲塔装甲艦1隻と小型艦艇のみに守られていた同地を強化するためですが、
2週間もしないうちに、3隻の戦艦はポーラへと引き下がり、
カッタロへは駆逐艦・水雷艇数隻と水上飛行艇が送られました。

セルビアに対する最後通牒が下された運命の7月23日、ハウスはドナウ(ダニューブ)川の河川艦隊を動員し、
オーストリアがセルビアに宣戦布告したちょうど1時間後・同28日から29日にかけて、
河川砲艦「テメシュ」「ボドログ」「ツァモス」はベオグラードを砲撃しました。

571 :世界@名無史さん:2005/10/22(土) 22:50:27 0
オーストリアといったら陸軍というイメージがあるんだが

572 :世界@名無史さん:2005/10/23(日) 15:42:39 0
だからこそ海軍を語ろうってスレなんでしょ?

573 :ハウス:2005/10/29(土) 12:54:34 0

【第一次世界大戦とオーストリア海軍〔1914年〕】その2

対バルカン半島方面での戦争に備え所定の海軍力動員を行う中、ハウス提督はイタリア情勢と
三国同盟内の海軍協定に基づくオーストリア、イタリア両国海軍の行動の見通しを考えていました。

あいにくこの数ヶ月の間、オーストリア・ハンガリーとイタリアの関係は再び悪化の方向へと向かっていました。
アルバニアを巡る両国の関係は、2度にわたるバルカン戦争を通し改善されましたが、
1914年の夏には再び行き詰まりを見せていました。
またイタリアは、オーストリアがダルマチア南部のカッタロへの影響力を強めていることにも強い懸念を示しました。

1913〜14年にかけてイタリアは、オーストリアがモンテネグロ(セルビアの同盟国)のロヴツェン山
(Mount Lovcen:カッタロに隣接している地域)を購入もしくは併合することを恐れていました。
ロヴツェン山頂のモンテネグロ砲台はオーストリアにとっては厄介な存在であり、
同国がロヴツェン山の潜在的な敵の戦力を排除することによってカッタロは安全な港となり、
より多くの艦隊が停泊するオーストリア・ハンガリー海軍の根拠地となる道が開けるでしょう。

イタリア海軍の提督達は、イタリア、オーストリア両国海軍の共同作戦計画が実施されることを想定しておりました。
実際「イタリア海軍(ド級戦艦隊)の戦争準備と(燃料となる)石炭の蓄えられた状態が、
ハプスブルクの艦隊のために使われる」という報告をハウス提督は受け取っておりました。

しかしオーストリア側の期待は、7月31日にイタリア政府の返答「オーストリアのセルビアへの宣戦は
三国同盟条約第7条により不当な侵略行為とみなし、その結果イタリアには参戦の義務はない」
というものを目にした時に打ち砕かれました。
同日オーストリア・ハンガリーは総動員令を発しましたが、イタリアは8月2日に中立を宣言しました。
その一方で、8月4日の早朝にはドイツ海軍・地中海艦隊の巡洋戦艦「ゲーベン」が、
フランス領アルジェリアの港を砲撃(ドイツは8月3日にフランスに宣戦)しました。

574 :ハウス:2005/11/05(土) 12:22:51 0

【第一次世界大戦とオーストリア海軍〔1914年〕】その3


ドイツ地中海艦隊を率いていたウィルヘルム・スーホン提督【少将】は、
フェルディナント大公暗殺の後ハウスよりポーラ軍港の使用を認められていました。
スーホン率いる巡洋戦艦「ゲーベン」と軽巡洋艦「ブレスラウ」は大戦勃発時にポーラを出港し、
8月2日にはシチリア島のメッシナに入りました。

メッシナは、独墺伊の三国連合艦隊が非常事態時には集結する場所でしたが、
スーホンはここでイタリアの中立宣言を知り、単独でアルジェリア沿岸部へ向かいました。
8月4日早朝、スーホンはフランス領アルジェリアの港を砲撃(ドイツは8月3日にフランスと開戦)の後、
再びメッシナへ向かいましたが、同日英国もドイツに対し宣戦しました。
その後マルタから出撃した英国艦隊がメッシナ周辺部を封鎖しているという情報を耳にし、
スーホンは8月5日にオーストリアの助力を求める嘆願をポーラへ打電しました。

それはハウスにとっては厄介な問題でした。当時英仏はすでにドイツと開戦していましたが、
両国はオーストリア・ハンガリーに対しては宣戦しておりませんでした。
いずれにせよ、ハウスは「ゲーベン」と「ブレスラウ」を救うために
オーストリアの艦隊を動かすというリスクを冒す気にはなれませんでした。
またスーホンの電報がポーラへ到着した時、ハウスは(8月4日の時点で)
すでにフランス艦隊がツーロンを出港・コルシカ島沖に到達していることも知っていました。

電報が繰り返される中で、ハウスは地理的な面と速度の面という単純な理由により
自らの艦隊を港に留めておく正当性を強調しました。
オーストリア・ハンガリー海軍艦艇の大部分はポーラにあり、
メッシナからは580マイル(1マイルは約1609メートル)も離れていました。
またドイツ巡洋戦艦は依然としてオーストリアのド級・準ド級戦艦隊よりも数ノット速かったので、
「ゲーベン」の目的がただ単に敵の追跡から逃げきることなのであれば、
オーストリア艦隊の護衛は無意味でした。

575 :ハウス:2005/11/05(土) 12:24:47 0

再びメッシナに入っていたスーホンの艦隊は8月6日の夕方に同地を出港し、
アドリア海の入り口にあたるオトラント海峡へ向かいました。
ベルリン政府はオーストリア側の方針変更を求め、
ハウスの艦隊にアドリア海南部のブリンディジまで来ることを要求しました。
そこは長靴の形をしたイタリア半島のかかとの部分にあたり、
オーストリア艦隊と「ゲーベン」「ブレスラウ」との集合地点として指定されました。

スーホンの艦隊がアドリア海での避難場所を捜し求めていると考え、
8月7日アントン・ハウス提督は、ド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」「テゲトフ」「プリンツ・オイゲン」
準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」「ラデツキー」「ズリーニ」
装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」 軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」駆逐艦6隻、水雷艇13隻よりなる
オーストリア・ハンガリーの大艦隊をポーラから出動させてアドリア海南部へと急がせました。

それは危険な賭けでした。
出動したオーストリア・ハンガリー艦隊と合流したドイツ軍艦2隻は、
いざという時には英国艦隊を打ち破るだけの力は十分ありましたが、
もし英仏艦隊が連合すれば、その勢力はオーストリア、ドイツ艦隊を圧倒することでしょう。

しかしオーストリア海軍の作戦任務は、
大艦隊がアドリア海中部をさらに南下しようとした所で突然の終わりを迎えました。
7日の午後ドイツの海軍司令部はスーホンの艦隊に行き先の変更を命じ、
「ゲーベン」と「ブレスラウ」はギリシャ南部のマタパン岬沖を通り
オスマン・トルコ帝国入り口に当たるダーダネルス海峡へ向かうこととなりました。
最終的にハウスは彼の艦隊にポーラへ戻るよう命じました。

576 :ハウス:2005/11/12(土) 14:23:38 0

【第一次世界大戦とオーストリア海軍〔1914年〕】その4

皮肉にも、オーストリアの戦艦隊はアドリア海を放棄して黒海に配置されるべきという
大胆かつ向こう見ずな考えが実際にウイーンで発生し、
エルウィン・フォン・カリガ提督【少将】※は自らの主導のもと8月4日にその考えを提起しました。
ひどく立腹したハウスは即座にその団体(勢力)を解散させましたが、
陸軍参謀総長のコンラート・フォン・ヘッツェンドルフでさえも
最終的に(カリガが外相のベルヒトルトに提示した大胆な計画実行をためらう)ハウスの消極姿勢を批判しました。
(ハウスをひどく失望させた)この外相ベルヒトルトは、ロシアに対抗するために
ブルガリアとルーマニアに圧力をかけて中央同盟側に参加させることに熱心で、
オーストリア・ハンガリーの艦隊を黒海に配置・展開させることにより
彼の外交努力の成果を完全に実現させられる(ドイツがその考えを支持してからはいっそう)と考えました。

8月8日にアドリア海南部へ出動していた大艦隊がポーラへ戻った後、
ハウスは即座に動いてその計画案を破棄させました。
彼は優勢な英仏海軍によって自国海軍の行動が阻止されることなく、
オーストリアの艦隊をアドリア海から黒海へ移動・配置させることは
国家の安全を何ら保証するものではない、たとえ黒海に艦隊を配置させようとも
それが自国へ戻るのは戦争終了後以外にはないことを指摘しました。
さらに黒海におけるオスマン・トルコ帝国の港では、
ただコンスタンティノープルだけが艦隊を支援するための基本的な機能を持っており、
それはまた作戦行動を行うロシアの沿岸地帯からは遠距離にありました。
ハウスはまた、もしオーストリア・ハンガリー帝国のアドリア海沿岸部が無防備状態になってしまったら、
それは必然的に同沿岸部を容易に占領できるという見込みからイタリアが協商国側へ寝返るという
二重帝国にとっては破滅的な結果を招くであろうことを強調しました。
ドイツの海軍武官は黒海へのオーストリア艦隊派遣を求めて(準ド級艦3隻の派遣を求めた)
ポーラへやってきましたが、ハウスは自らの主張を変えませんでした。
失望したベルヒトルトはコンラートに対し、彼(ハウス)は妥協を知らない頑固な海軍司令官だとひそかに打ち明けました。

577 :ハウス:2005/11/12(土) 14:24:22 0

ドイツは英仏両国がオーストリア・ハンガリー帝国に対し宣戦した8月12日以降
ハウスの姿勢が変化することを望んでいましたが、
これでダーダネルス海峡へのルート上で英仏海軍の勢力と遭遇することがほぼ確実となり、
先の考えを実行することの危険性がいっそう明らかになりました。
巡洋戦艦「ゲーベン」の窮地と黒海への艦隊配置に対するハウスの返答は、
オーストリア海軍がアドリア海の外側へ進んで主力艦隊を派遣することに対するドイツの疑念をいっそう強めました。

578 :ハウス:2005/11/19(土) 11:01:58 0

【Marching Along/CDで聴く世界の行進曲】
世界のマーチ(2)/オーストリアの行進曲、オーストリアの軍楽隊より

Historische Marsche der k.u.k. Marine 〜オーストリア海軍行進曲集
ヨーゼフ・シュピルク中佐揮/オーストリア連邦軍ザルツブルク軍楽隊

テゲットホフ行進曲(ローゼンクランツ)/ノヴァラ行進曲(サヴァートハル)/
モンテクッコリー提督行進曲(プリゾッキー)/海軍行進曲(J・F・ヴァーグナー)/
提督行進曲(シュトルク)/ラ・ボラ行進曲(ツィッタ)/ロフツェン行進曲(マーデル)/
オーストリア連合艦隊行進曲(ヤークシュ)/海軍行進曲(シュトルク)/王立海軍行進曲
(レフェブレ)/ボルハール行進曲(ツェートナー)/アッディオ・マムラ行進曲(マーデル)/
シュパウン提督行進曲(シュミット)/ツェンタ行進曲(マーデル)/(全14曲) 輸入CD

詳細はこちら↓
ttp://homepage3.nifty.com/marching_along/world/world2.html

579 :世界@名無史さん:2005/12/02(金) 02:41:18 0

  ハウス閣下、お久しぶりであります!

  最近、別のサイトでこちらの情報が一部「リーク」されているのを
 「発見」いたしましたので、ご報告申し上げます。

  「オーストリアに海軍?」と題された会議室「歴史雑学」に先月か
 らアップされたものです。どうも、映画の監督が死んで「追悼番組」
 で「トラップ一家」のミュージカルが放映されたことがきっかけのよ
 うであります。

  私めがうっかりと、旧ドイツ海軍の階級名称を旧オーストリア海軍
 のそれと間違えたミスが訂正もされずに掲載されておりました。
  尉官、佐官クラスを実際には三階級であったのを、四階級としてし
 まったものであります。公には訂正をしておらなかったのが「幸い?」
 してか、「情報のリーク」が判明いた次第であります。

  本スレッドの保持・点検がてらのアップに話題を添えられました。

  ttp://www.uraken.net/ibbsre/ibbs.cgi#1056


580 :ハウス:2005/12/03(土) 14:40:32 0
>>579
権兵衛さん、こんにちは。
スレの保持・点検ありがとうございます。
アップしていただいたサイトはこれからじっくり拝見させていただきまする。

さて、第一次大戦勃発当時にアドリア海の外にあった海軍艦艇は計2隻でした。
このうち汽船「タウルス(Taurus)」は、コンスタンティノープルに停泊しておりましたが、
これは即座に動いてオーストリア本国に戻ることに成功しました。
そしてかの有名な防護巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」は、
1週間前の7月21日に中華民国のドイツ租借都市・青島に入港しておりました。
(同艦は1913年8月19日にポーラを出航していた)

あと大戦勃発前に世界中にちらばっていたオーストリア・ハンガリーの商船群ですが、
これは各港で拿捕・抑留されてしまいました。
The Austrian Lloyd 社は汽船8隻が海外の港に抑留され、
(内英国4隻 ポルトガル1隻 中国3隻)
Hungarian Adria Line 社も8隻の大型船を失いました。
(内スペイン2隻 ブラジル2隻 オランダ・フランス・ポルトガル・ロシア各1隻)
そしてAustro-Americana 社は特に多数の船舶の喪失に悩まされ、
海外で抑留された船は計18隻にのぼりました。
(内アメリカ8隻 スペイン5隻 ブラジル2隻 アルゼンチン2隻 キューバ1隻)

その一方で、大戦勃発から2週間後には、Lloyd 社の蒸気船「Baron Gautsch」が
ポーラ沖のオーストリア海軍機雷敷設域に迷い込むという事件が起こりました。
同船は大戦勃発により東地中海の様々な港に取り残された
自国の行楽・保養客を満載してカッタロ〜トリエステ間航路を航行中でしたが、
最終的に船は沈没して147名が死亡、生存者は159名でした。

581 :世界@名無史さん:2005/12/16(金) 02:01:44 0

 age

>保守・点検のために

582 :権兵衛さん:2005/12/21(水) 20:50:33 0

  ハウス閣下へのご報告

  先に報告申し上げましたサイトでありますが、シスオペと見られる
 人物の言動が不適切であったためか?その後の進捗は見られません。
  
  当スレッドにとっても、良き教訓といたすべきものがあると存じま
 すので、保守がてらご報告申し上げる次第であります。

583 :ハウス改め「Haus」:2005/12/25(日) 18:34:44 0

とある図書館で偶然目にした事典について少々。
トニー・ギボンズ編著 小島敦夫 小林則子訳『ビジュアル版 船の百科事典−紀元前5000年から現代まで−』
東洋書林 2005年 で、第1次大戦がらみのオーストリア商船&軍艦ネタを見つけました。
商船の方はほぼ丸写しですが、ひとまず紹介させていただきます。

■商船(定期客船)「カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世」
第1次大戦終結まで、オーストリアは海への出口と小さな海運を保有していた。
1903年にコジルーヒ兄弟が創設したウニオネ・アウストリアカ社である。本船は同社の主力船であった。
移民をアメリカに輸送する目的で建造され、一度南アメリカへの往復航海を行った。
19年に戦後賠償としてイタリアに分配され、コジルーヒ・ラインの手に渡った。
船名を「プレジデンテ・ウィルソン」「ゴング」「マルコ・ポーロ」と変えて運航。
その後ロイド・トリエスティノ社、アドリアティカ社へと所有が移った。
第2次大戦末期の44年、ラ・スペツィアで船体に穴を開けて沈められた。

トン数:12567総トン、主要目:145・55m×18・35m、機関:2軸 4段膨張式蒸気機関 12500馬力
巡航速度:17ノット、航路:トリエステ〜ニューヨーク、収容人数:1等125人 2等550人 3等1230人
造船所:トリエステ海軍 モンファルコネ、材質:スチール

■戦艦(前ド級戦艦)「ハプスブルク」
この艦と姉妹艦は、1897〜1904年まで海軍長官&艦隊総司令官を務めたヘルマン・フォン・スパウン提督
(ハウスの師匠)の海軍拡張政策 の折建造された当時世界最小の主力艦であった。
第1次大戦勃発の後の1915年5月23日に、イタリアが対墺宣戦した直後には一時ハウス提督が搭乗し、
翌24日には姉妹艦を含む戦艦10隻 駆逐艦4隻 水雷艇20隻と共にアンコナの砲撃作戦に参加する。

ちなみに>>530でギシュクラさんがレスしてくれたサイトによると、
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の侍従海軍武官を務めていたホルティ・ミクローシュ大佐が
第1次大戦勃発直後に一時戦艦「ハプスブルク」の指揮権を任されていたが、
当時すでに旧式化していてスピードも遅く、また装甲も貧弱?な同艦を指揮する事に
満足していない、などと打ち明けるシーンが出てきております。〔79頁〕

584 :Haus:2005/12/25(日) 18:35:35 0

上記事典には、その他ヘルゴラント沖海戦やリッサ海戦で活躍した
オーストリア海軍のフリゲイト艦や装甲艦が多数取り上げられていました。

(チラシの裏ですいませんが、以後のハンドルネーム「Haus」は、
偉大なるオーストリア海軍の提督閣下としてではなく「歴史上のとある一人物」
として使わせていただきまつ。)

585 :権兵衛さん:2005/12/30(金) 23:54:08 0

 HAUSさん、眠い人さん、ギシュクラ・ヤーノッシュさん、
 その他ROMの方々

一足、早いのですが、よい新年をお迎えください!

586 :HAUS:2006/01/01(日) 22:01:26 0

あけましておめでとうございます。

特殊な分野ではありますが、
今年もオーストリア海軍に興味・関心がある人達の
良きコミュニティとして発展することを祈りつつ
新年の初レスをさせていただきます。

(新ハンドルネームは権兵衛さんがレスしてくれた
「HAUS」の方を使わせていただきまつ。)

587 :権兵衛さん:2006/01/07(土) 22:39:29 0

 保守用の age

588 :HAUS:2006/01/09(月) 11:48:14 0

>>583で戦艦「ハプスブルク」の唯一とも呼べる戦歴が出てきたので、その補足も兼ねてレスします。

オーストリア・ハンガリー帝国の同盟国であるイタリア王国は、1915年5月4日に
三国同盟を破棄しましたが、当時帝国海軍長官&艦隊総司令官を務めていたアントン・ハウス提督は、
5月19日には軽巡洋艦・駆逐艦部隊をアドリア海中部に派遣してイタリアのガルガノ半島沖・
ペラゴサ(島)・ダルマチアのラゴスタ(島)沖防衛線の哨戒活動を行わせ、
同時に潜水艦部隊をトリエステ湾とリッサ島、モンテネグロ沖に展開させてこれに備えました。

イタリアは5月23日の16:00pmにオーストリア・ハンガリーに対し宣戦しましたが、
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は全国民に当てて声明を出し、かつての海軍の英雄テゲトフの精神と
諸民族の一致団結(ヴィリブス・ウニーティス)のもと、同盟に違反した新たな敵に全力で立ち向かう姿勢を示しました。

同日20:00pm、アントン・ハウス提督の指揮する戦艦12隻 巡洋艦5隻 駆逐艦17隻 水雷艇30隻よりなる
オーストリア・ハンガリー海軍の大艦隊がポーラからアドリア海に出撃、
ハウスは艦隊をいくつかに分けてアドリア海の中部から北部にかけてこれを展開させました。
ハウスの目標はアドリア海沿岸のイタリアの都市と鉄道を砲撃してこれを破壊することでした。

オーストリア艦隊のイタリア沿岸部に対する攻撃は、翌24日の3:00amに、
ホルティ・ミクローシュ【大佐】率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」駆逐艦1隻 水雷艇4隻が
最北部のコルシニ(nearラベンナ)を襲撃した事により始まり、
装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」水雷艇2隻がリミニ、
準ド級戦艦「ラデツキー」水雷艇2隻がポテンツァ、
その姉妹艦「ズリーニ」水雷艇2隻がセニガリアをそれぞれ砲撃しました。

589 :HAUS:2006/01/09(月) 11:50:15 0

そしてハウスとマクシミリアン・ニェゴヴァン提督【中将】の率いるド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」
「テゲトフ」「プリンツ・オイゲン」準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・フェルディナント」
前ド級戦艦「エルツヘルツォーク・カール」「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」「エルツヘルツォーク
・フェルディナント・マックス」、同じく「ハプスブルク」とその姉妹艦「アルパード」「バーベンベルク」
駆逐艦4隻 水雷艇20隻よりなる本隊は勢いよくアンコナへ進んで同地を砲撃しました。
ハウス提督は自らの旗艦「ヴィリブス・ウニーティス」ではなく戦艦「ハプスブルク」の艦上から
この作戦を指揮しました。

一方他の艦艇は、イタリア艦隊の進攻を警戒するための偵察部隊としてアドリア海中南部に展開し、
軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」「サイダ」「ヘルゴラント」防護巡洋艦「シゲトヴァール」
駆逐艦9隻がその任務を務めました。

このオーストリア海軍の(主力艦隊を含む)全体が参加する作戦任務は、(ドイツ巡洋戦艦「ゲーベン」
と軽巡洋艦「ブレスラウ」を救うために出撃して以来)実に9ヶ月と半月ぶりでした。

〜話は続く〜


(スレ違いですが、昨日映画『男たちの大和』を観てきました。
コメントは控えさせていただきますが・・)

590 :HAUS:2006/01/14(土) 13:51:57 0

リミニでは装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」が貨物輸送列車と鉄道橋に被害を与え、
セニガリアでは準ド級戦艦「ズリーニ」が列車を破壊して鉄道駅と同橋梁に損害を与えました。
同じくその姉妹艦「ラデツキー」もポテンツァの橋梁に損害を与えました。
また最北部のコルシニでは、ホルティ・ミクローシュ【大佐】率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」を中心とする艦隊が
沿岸部のイタリア軍事施設と信号場を破壊し、同時に沿岸砲台と戦闘を行いました。

こういったオーストリア・ハンガリー艦隊の攻撃に対し、軽い防備が施された
イタリア沿岸部からはほとんど反応がありませんでした。
ただしイタリア軍の沿岸砲台と戦闘を行ったホルティ艦長の「ノヴァラ」からは6名の死傷者が出ており、
これはオーストリア側の唯一の死者であり、「ノヴァラ」は損害を受けた数少ない艦艇の1つとなりました。

一方アンコナはハウス【大将】とニェゴヴァン【中将】率いるオーストリア・ハンガリー海軍本隊
(主力艦隊)の激しい砲撃にさらされており、これにより電気・ガス・そして電話サービスが一時的に途絶し、
鉄道駅とアンコナ郊外の石炭・石油施設はそのほとんどが破壊されました。
港湾部ではイタリア商船(汽船)3隻が損害を受けて1隻が撃沈されました。
また都市部の損害を受けた施設には警察署・軍の兵舎・軍事病院・砂糖精製所・そして銀行も含まれておりました。
これにより30名の軍事施設の職員と38名の民間人が死亡し、その他150名が負傷しました。

591 :HAUS:2006/01/14(土) 13:52:50 0

アドリア海中南部に展開していた巡洋艦・駆逐艦よりなる偵察部隊もまた沿岸部の鉄道に沿った拠点を攻撃しました。
バルレッタでは軽巡洋艦「ヘルゴラント」がイタリア軍要塞と貨物輸送列車を砲撃し、
テルモリでは軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」が鉄道橋梁と貨物輸送列車に被害を与え、
カンポマリノの駅舎と貨物輸送工場を破壊しました。
またマンフレドニアでは駆逐艦2隻が鉄道駅と構内を砲撃し、陸橋・商船・工場にも損害を与えました。

その後偵察部隊は巡洋艦2隻・駆逐艦2隻よりなるイタリア海軍艦艇と出くわしましたが、
ペラゴサ島沖で軽巡洋艦「ヘルゴラント」と駆逐艦3隻よりなるオーストリア艦隊は
イタリア駆逐艦「タービン」を追い詰めてこれを撃沈しました。
ただし「タービン」の攻撃でオーストリア駆逐艦「セペル」も軽い被害を受けており、
その乗組員数名も負傷させられました。
その戦闘の後「セペル」艦長 ジャンコ・ブコヴィッチはその予想を遥かに超えていた≠ニいう
イタリア国籍・同艦艇乗組員の奮闘を高く評価したようです。

オーストリア艦隊の攻撃によりイタリア沿岸部の鉄道は長い間機能不能状態となりました。
ただ初日に軍用列車が中心部と南部から前線に向かうと同時にイタリア側は別のルートへと
方向転換せざるを得なくなりました。
イタリア国民は意気消沈し、特に砲撃を受けた都市の市民とローマの代表者達は、
オーストリア・ハンガリー海軍が300マイルもの海岸線にわたる多くの拠点を
(ほとんど損害を受けずに)砲撃できた事、その艦艇を失う事なく自国の港に戻れた事に驚かされました。

592 :権兵衛さん:2006/01/22(日) 03:58:01 0

 保守の為

 age

593 :世界@名無史さん:2006/01/22(日) 12:08:22 0
イタリアはマトモな戦いでオーストリア=ハンガリーに勝ったこと無いよなw

594 :HAUS:2006/01/22(日) 16:32:44 0

現在第一次世界大戦におけるオーストリア・ハンガリー海軍の戦況の詳細を
気の向くままに書いておりますが、
今後は同テーマで『今までこのスレで取り上げられていない内容』を中心に
レスしていければと考えております。

今回は前回ちょこっと出てきたホルティネタについて少々

オーストリア・ハンガリー帝国海軍の改アドミラル・スパウン級軽巡洋艦「ノヴァラ」は
1915年1月10日にフューメ(現クロアチア領リエカ)のダヌビウス造船所で竣工しましたが、
ホルティ・ミクローシュ【大佐】が艦長を務める同艦に初の大仕事が回ってきました。

ドイツはオーストリア海軍に対しダーダネルス海峡へ潜水艦を派遣する事を要請してきましたが、
ハウス提督がそれを拒否したために自国海軍の潜水艦を同地に送る事を考えました。
ただしオーストリア海軍の水上艦がドイツ潜水艦をギリシャのイオニア海域まで牽引する事となり、
5月2日にホルティ艦長の軽巡「ノヴァラ」はドイツ潜水艦「UB8」を伴いポーラを出航しました。

その後2隻の艦艇はオトラント海峡を無事に通過しましたが、
すでに同海峡を封鎖していたフランス巡洋艦隊が退いてから1週間近くが経過しておりました。
(4月26〜27日にかけてゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の指揮するオーストリア潜水艦「U5」が
同海峡を哨戒していた仏装甲巡洋艦「レオン・ガンベッタ」を撃沈した事による)

595 :HAUS:2006/01/22(日) 16:33:29 0

とあるサイトによると、5月6日にホルティ艦長の軽巡「ノヴァラ」は
イオニア海のキファリニア島沖で、同海域に退いていたフランス艦隊と遭遇したらしいのですが、
それを見事にかわし、独潜水艦を切り離した後無事にアドリア海内の母港へ戻る事に成功したようです。
(潜水艦は11日にコンスタンティノープルに到着した)
ホルティが作戦任務を行った場所はカッタロから約300マイル南の地にありました。
その後5月15〜16日にはオーストリア駆逐艦「トリグラヴ」が独潜「UB7」を伴い
ホルティの偉業に続きました。

それから3週間後の5月24日3:00amに、ホルティは軽巡「ノヴァラ」 駆逐艦1隻 水雷艇4隻を率い
オーストリア・ハンガリー艦隊の先陣を切ってアドリア海に面したイタリア北部のコルシニを襲撃し、
同地の沿岸砲台と接近戦を交えたのです。

596 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/01/22(日) 20:41:03 0

ごめんなさい!トリップをつける練習でした。

597 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆4yzbf0MFE. :2006/01/23(月) 00:22:37 0
ご無沙汰いたしております

英文のホルティ提督の回想録を見つけました。
PDFファイルです。
ttp://www.hungarian-history.hu/lib/horthy/horthy.pdf

ご参考になれば幸いです。

598 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/01/25(水) 22:30:11 0
>>597
ギシュクラさん、ありがとうございます。
大いに参考にさせていただきます。

さて、>>588-591 にあるオーストリア艦隊のイタリア沿岸部に対する砲撃作戦ですが、
以下の2つの文献でも触れられているので参考までに。

江村洋『フランツ・ヨーゼフ−ハプスブルク最後≠フ皇帝−』東京書籍 1994年
「〜略〜この宣言が出された1915年5月23日から24日の夜にかけて、
オーストリア・ハンガリー帝国海軍は、ヴェネチアからイタリア半島の南端にわたって、
同盟に違反した国への威嚇射撃と砲弾を見舞った。〔389頁〕」

久保田正志『ハプスブルク家かく戦えり−ヨーロッパ軍事史の一断面−』錦正社 2001年
「〜略〜5月23日にイタリアがオーストリアに宣戦すると、オーストリア艦隊はイタリア沿岸に出動し、
24日にアンコナ、リミニと海岸の鉄道を砲撃して打撃を与え、
また、イタリア軍のモンテネグロ上陸を警戒してその沖合に潜水艦を派遣した。〔457頁〕」

599 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/01/29(日) 20:42:51 0

>>594-595の補足も兼ねて)
1915年2月下旬に連合国海軍によるオスマン・トルコ帝国のダーダネルス海峡への攻撃が始まると、
ドイツはハウス提督に対し、オスマン・トルコに艦艇を送って援助するよう圧力をかけてきました。
ハウスは(一時)新しく竣工した最新軽巡洋艦「ノヴァラ」とその姉妹艦「アドミラル・スパウン」に
軍需物資を積み込んでトルコへ送る事を検討していたようで、
特に大胆さと勇気さを兼ね備えたホルティ【大佐】が艦長を務める「ノヴァラ」がその任務に適していると考えました。
しかし最終的にその任務はリスクが大きすぎると判断したようです。

ドイツはまたオーストリア海軍に対し潜水艦2隻をダーダネルス海峡へ派遣して
同地の連合国海軍に当たらせるよう要請してきました。
しかし当時のオーストリア海軍には戦闘に用いる事のできる潜水艦が5隻しかなく、
ハウスが拒否したためにこれも立ち消えとなりました。

さて、オーストリア海軍は1914年に防護巡洋艦「ツェンタ」と「カイゼリン・エリザベート」を失いましたが、
こういった喪失艦艇の埋め合わせをする事がほとんどできず、
中華民国用に建造されていた4900トン級大型巡洋艦と1860トン級巡洋艦3隻を接収しようと考えました。
ちなみにこれらの艦艇を建造していたモンファルコーネ(トリエステ北西部)の造船所ですが、
パイロンズオフィス編『MILITARY ILLUSTRATED 未完成艦名鑑 1906〜45』株式会社光栄 1998年によると
「イタリアの参戦後に、一時イタリア軍に造船所ごと占領されるという事態に陥ったが、
オーストリア軍が造船所を再占領し、ことなきを得ている。その後(上記大型巡洋艦は)
オーストリア式の武装で再設計され、同海軍の巡洋艦として建造が続けられたが、
結局竣工しないまま廃棄された。〔44頁〕」との事です。

↓以下は眠い人さんが別スレでレスした内容です。
>67
基本的にオーストリア・ハンガリー二重帝国の諸艦は、大多数がSTT
(Stabilimento Tecnico Triestino)で、一部がDanubiusで建造されていますね。
Danubiusは王国領のフィウメにあり、STTは帝国領のトリエステですね。
あと、トリエステにはCNT(Cantiere Navale Triestino)とMonfalconeがあります。

600 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/02/03(金) 21:26:26 0 ?
そう言えば、600ゲト(ぉ。

この前、マルタの碑という小説を読んで、その辺の事を調べたくなったので、日本海軍地中海遠征記とか、
その辺の書籍を買い込んで読んでいたのですが、日本海軍の第二特務艦隊に属する駆逐艦が、輸送船
護衛からの帰還時、アドリア海の入り口を偵察する様命じられたくだりがあります。
この時は、潜水艦の待ち伏せがある危険海域に、護衛艦船を入れて、万一失われたら大変だと言うことで、
中止されました。

休戦の後、1918年11月24日と26日の両日、第二十二駆逐隊の「桂」「楓」がマルタから出港し、イタリア半島の
付け根にあるブリンジンに向かい、其処からアドリア海に入り、セベニコ、ザラを経て12月2日にポーラ軍港に入り、
敵艦の監視任務に就いています。
また、第二十三駆逐隊の「松」「榊」も同じくポーラ軍港で、敵艦船の監視と武装解除任務に就いていました。
ポーラには12月8日まで滞在した後、ベニスに移動しています。

ちなみに、「日進」と「楠」「梅」「桃」「樫」「柏」「栴檀」「橄欖」は、ギリシャからトルコのイスタンブールに入って、
休戦監視の任務に就いています。

その後、「楠」「梅」は、アドリア海に入って、12月下旬に先の「桂」「楓」と同じコースを通って、12月31日にフュー
メに向かったそうです。

601 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/02/05(日) 14:18:46 0
>>600
眠い人さん、お久しぶりです。

眠い人さんが購入された『日本海軍地中海遠征記』の本は、以前本屋で何度か目にしたものの、
内容はパラパラと見たくらいでほとんど覚えておりません。
地中海(含アドリア海)における日本海軍とオーストリア海軍の関わりでは、
1917年6月11日にギリシャ・クレタ島沖にて、
例の駆逐艦「榊」がオーストリア潜水艦「U27」の魚雷攻撃を受けて艦首を吹き飛ばされた事件
くらいしか知らないので、大変勉強になります。

ご存知かもしれませんが、以前こんな邦文サイトを見かけましたので。
「第二特務艦隊記念写真帖より」
ttp://homepage3.nifty.com/hscedoyashiki/edoyashiki/edo_03/edo03_photo.htm

話は変わりますが、もしご存知の方がいらっしゃれば
オーストリア・ハンガリー帝国海軍 駆逐艦の「名前の読み方」について教えてください。
できれば「名前の由来」についてもご教授いただけるとありがたいのですが・・。

「Tatra」タトラ「Balaton」バラトン「Lika」リカ「Triglav」トリグラフ「Ulan」ウラン「Velebit」ベレビト
「Dinara」ディナラ「Reka」レカ「Streiter」ストレイター「Warasdiner」ワラスディナー「Wildfang」
ウィルドファング「Blitz」ブリツ「Trabant」トラバントは何とか読めるのですが

「Uzsok」?「Huszar」? 「Scharfschutze」?「Csepel」セペル? セッペル? チェペル? 「Dukla」ドゥクラ?
「Orjen」オルジェン? オルゼン? オルエン?「Csikos」サイコス? 「Pandur」パンドゥル?「Turul」トゥルル?
「Uskoke」ウスコーク?「Magnet」マグネート?「Satellit」?「Komet」コメト?「Planet」プラネート?
は読み方がよくわからなかったり、読めても?だったりです。

現在「名前の読み方」&「名前の由来」がわかっている艦は、
タトラ、バラトン、トリグラフ、ベレビトくらいでしょうか。
以前詳細な地図で旧オーストリア・ハンガリー帝国領内の湖・山・山脈なんかを
シコシコと調べていたのですが、あまり成果はなかったようでつ。

602 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/02/05(日) 14:20:13 0

↓以下は、以前眠い人さんの東欧スレ&このスレで気になった書き込みです。

234 :名無し三等兵 :03/09/10 16:13 ID:???
どなたか二重帝国の駆逐艦タトラ級の8隻目の名前を教えてください。
イタリアに譲渡とされた7隻、リカ、トリグラフ、ウソツォク、オルエン、タトラ、セッペル、バラトンは
世界の艦船196911月号(数年前にJR水道橋から神保町へ向かう途中の古書店で1冊100円で20冊くらい買ったうちの1冊)
でわかったのですが。
大日本絵画の「第二次大戦駆逐艦総覧」のイタリアの項目にも譲渡のあった7隻しかのっていません。
光栄の「艦船名鑑1939-45」も退役済らしくて載ってません、まあこれはもともと網羅されていませんが。
素人でよくわかりませんのでご協力お願いします。
しかしユーゴとルーマニアでは、二重帝国の旧水雷艇がWWU後も使用されているんですね。

410 :世界@名無史さん :05/01/17 20:08:21 ,
駆逐艦、主力駆逐艦7隻が20年9月伊に戦利艦として移籍。
 Tatra(タトラ)、Fasana(ファサナ)と命名、23年除籍。
 Balaton(バラトン)、Zenzon(ゼンゾン)と命名、23年除籍。
 Csepel(チェペル)、Muggia(ムッジア)と命名29年3月15日廈門沖で台風で喪失。
 Orzen(オルゼン)、Pola(ポーラ)と命名。31年Zenzonを襲名。37年除籍。
 Triglav(トリグラフ)、Grado(グラード)と命名。37年除籍。
 Lika(リカ)、Cortellazzo(コルテラッツォ)と命名。39年頃除籍。
 Uzsok(ウツォーク)、Monfalcone(モンファルコーネ)と命名。39年頃除籍。
  [第二次大戦駆逐艦総覧:大日本絵画]
  [世界の艦船No147(1969年8月号)掲載の写真イタリア駆逐艦史第7回]

603 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/02/05(日) 23:36:29 0 ?
う〜みゅ、ATOK暴走につき再度入力(鬱氏

Tatra Classの駆逐艦は6隻が、1912〜13年に掛けて6隻が建造されています。
Tatra、Balaton、Csepel、Lika、Triglav、Orjen
いずれも、Porto Re(Kraljevica)にあるDanubiusの建造。

ところが、このうちのLika、Triglavの2隻は、Durazzoで1915年11月29日に触雷、
沈没しました。

でもって、1917年に同じ造船所で、改型のTatra Classが4隻建造されました。
これは機関出力を増大し、船型が僅かながら大きくなり、8mm機関銃が追加されています。

これらの艦には、Triglav(II)、Lika(II)、Dukla、Uzsokと命名されています。
つまり、TriglavとLikaはTatra級と改Tatra級の2艦が存在した、と。

で、後者の内、Duklaだけは、フランスに引き渡され、Pierre Durandとなって、1936年に除籍されました。

ちなみに、同型艦に同じ艦名を与えているのは、前級のHuszar Classでも、ネームシップのHuszarが、1908年12月3日に
座礁沈没したので、1910年にPola海軍工廠で建造された同型艦に同じ名前を付けています。
この辺、不幸な沈没では名前を継承しなかった日本とは違いますね。

後、駆逐艦としては、Tatra Classの更なる改良型が4隻発注されましたが、これは建造着手で敗戦を迎えました。
この艦は、タービンをAEG-Curtissから、Danubiusに変更し、主砲を10cmから12cmに口径を増大、対空砲も66mmから90mmに
口径を増したものとなっていました。

604 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/02/05(日) 23:45:55 0 ?
後、二重帝国の駆逐艦としては、先のHuszarとTatraの間に、Warasdinerと言う駆逐艦が
1隻だけ建造されています。

これは、STTが1911年に、清国政府から受注していたもので、Huszarをタイプシップとし、
Luan Tuanと命名された試作艦が建造された後、12隻が建造される予定でしたが、1912年に
清朝が瓦解、で、二重帝国に譲渡され、Warasdinerと命名されて二重帝国仕様の武装に変更
して1隻だけ就役したものです。
ちなみに、この艦は大戦を生き抜き、1920年にイタリアに引き渡されてスクラップとなりました。

もう少し、清朝瓦解が遅ければ、もしかしたら日本海軍にこの艦が鹵獲されていたかもしれません。

605 :世界@名無史さん:2006/02/06(月) 07:50:44 0
「Uzsok」→ウジョーク?(地名らしい)
「Huszar」→フザール(ユサール兵 マジャール軽騎兵)
「Scharfschutze」→シャルフシュッツェ(狙撃兵)
「Csepel」→チェペル (ブダペストの川中島)
「Dukla」ドゥクラ(プラハのサッカーチームに同名のがあるが詳細不明)
「Orjen」→オルイェン?(ダルマチアの山の名前?)
「Csikos」チコーシュ(馬)
「Pandur」パンドゥール(パンドゥール兵 軽歩兵の一種)
「Turul」トゥルル(ハンガリーの建国伝説上の鳥)
「Uskoke」ウシュコケ?
「Magnet」マグネート(磁石)
「Satellit」ザテリート(衛星)
「Komet」コメート(彗星)
「Planet」プラネート(惑星)


606 :世界@名無史さん:2006/02/06(月) 08:19:29 0
フザールじゃなくてフサールだね

607 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/02/08(水) 23:03:57 0
>>603-604
ご丁寧にありがとうございます。
>>602 は駆逐艦の「名前の読み方」で参考になるという理由でコピペしてみたのですが、
なんか一方的にこちらが得しちゃったようですね。

>>605-606
ありがとうございます。ここ数年の疑問点が解消されつつあるようです。
興味をそそられるバラエティ豊かな名前が並んでおりますな!
まさか?と思いましたが、やはり磁石や惑星を意味する艦もあったのですね。

せっかくなので、今後海軍の戦況をレスする時には駆逐艦名も入れてみようかな?
ただ読みにくくなるのだけは避けたいですが。

608 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/02/12(日) 15:42:35 0

>>564の補足です。

【第一次世界大戦勃発前夜のオーストリア・ハンガリー海軍】

■第1水雷戦隊:軽巡洋艦「サイダ」駆逐艦12隻 水雷艇10隻、での駆逐艦の構成は、
タトラ(Tatra)級6隻「タトラ」「バラトン」「チェペル」「オルイェン?」「リカ」「トリグラフ」全てと、
フサール(Huszar)級12隻 「フサール」「チコーシュ」「ディナラ」「パンドゥール」「レカ」「シャルフシュッツェ」
「ストレイター」「トゥルル」「ウラン」「ウシュコケ?」「ベレビト」「ウィルドファング」の内6隻で構成。

■第2水雷戦隊:軽巡洋艦「アドミラル・スパウン」駆逐艦6隻 水雷艇18隻、での駆逐艦の構成は、
フサール(Huszar)級12隻の内残りの6隻で構成。

ちなみにタトラ級6隻は1912〜13年にかけて、
フサール級12隻は1906〜10年にかけてそれぞれ建造されました。

□ポーラ(現クロアチア領プーラ):装甲艦マルス(旧テゲトフ)駆逐艦3隻 水雷艇15隻 潜水艦6隻、
については、手持ちの文献に Pola included three obsolete destroyers とあるので、
おそらく1888年に建造されたブリツ(Blitz)級4隻「ブリツ」「コメート」「プラネート」「トラバント」
の内の3隻だと思われます。

609 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/02/12(日) 16:24:31 0

第1次世界大戦での海軍の戦況レスについてですが、
最近その構成や展開に行き詰まりが出てきてしまいました。
そこでワンクッション・ツークッション置こうという事で、
1「1900年の義和団事件・清国海域における海軍の作戦任務」
2「1915年12月29日のアドリア海南部における海軍の作戦任務」について
ひとまずレスしていこうと思います(自分の趣味にしっかりと走っておりますが)。

2については眠い人さんのレスにもあるように、触雷により初めて駆逐艦2隻を失い、
また1917年5月15日にアドリア海南部で行なわれた海軍の作戦任務
&英伊海軍との間で行なわれたオトラント海峡海戦(ホルティ【大佐】参加)の前哨戦との事ですので、
よろしければ参考にしてみてください。

610 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/02/19(日) 15:16:52 0

先日アマゾンからメールが送られてきました。

なんでも『The Naval Policy of Austria-Hungary, 1867-1918: Navalism, Industrial Development,
and the Politics of Dualism』をお買い上げのお客様は、
Jakob Ludwig Hellerの著書もお求めの方が多いため、このご案内をお送りしているとの事。
『Long Forgotten Events from Imperial Austria (Studies in Austrian Literature, Culture,
and Thought Translation Series)』、Jakob Ludwig Heller (著), ペーパーバック
価格: ¥4,382(税込)近日(2006/02/28 )発売予定。 ご予約は以下をクリック。

近いうちに上記発売予定本の内容も確認してみたいところだが、
この著者の事を調べてみようとしたところ、手がかりはつかめず。

それにしても、『The Naval Policy〜』の本を購入した人は日本でどのくらいいるのだろうか?
まあ単なる趣味でこういった特殊な本を買う物好き?な人はなかなかいなさそうだが。

611 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 08:25:49 0
>>601
独語読みか洪語読みだと

「Streiter」シュトライター   「Warasdiner」ヴァラスディナー  「Wildfang」
ヴィルトファング    「Velebit」フェレビット

612 :世界@名無史さん:2006/02/25(土) 08:26:27 0
「Pandur」パンドゥール

613 :世界@名無史さん:2006/03/02(木) 20:09:34 0
age

614 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/04(土) 11:04:13 0

>>611
ドイツ語とマジャール語で同じ読み方になるんですね。
これでチェコ語やクロアチア語読みなんかだと、また別の読み方になるのかな?


615 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/05(日) 22:27:27 0

>>609の1915年12月29日に行われた海軍の作戦任務≠ノ入る前に、
それまでのアドリア海における戦況を、何度かに分けて時系列的にレスしていきたいと思います。
なにぶんかなり前にまとめた内容が中心なので、訂正どころや突込みどころが満載?かと思いますが。
なにか気になる点がありましたら、是非ご指摘下さい。
ひとまず>>599 の続きという事で・・。

1915年5月23日にオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦したイタリア王国は、
主力となるタラント軍港にド級・前ド級戦艦、
アドリア海に面した南部のブリンディジ港には巡洋艦、駆逐艦を配備し、
ベネチアには前ド級戦艦2隻、装甲巡洋艦4隻を中心とした艦隊を進出させ、
さらに英仏から派遣された戦艦、軽巡、駆逐艦も加えオトラント海峡の封鎖活動を始めました。
これにより、南部に退いていた英仏海軍もブリンディジを根拠地として再びアドリア海内に進出し、
6月5日、イタリア海軍は仏駆逐艦4隻に護衛された巡洋艦4隻を派遣して
ダルマチア南部のラグーサ(現クロアチア領ドブロブニーク)・カッタロ間の鉄道を砲撃し、
同日軽巡洋艦「ニーノ・ビクシオ」と仏伊駆逐艦4隻もリッサ島を砲撃しました。

これに対し、オーストリア・ハンガリー帝国海軍長官&艦隊総司令官のアントン・ハウス提督【大将】は、
戦艦を中心とした主力艦隊の温存策をとりつつも、
軽巡洋艦、駆逐艦、潜水艦を活用したTip and run raidsと呼ばれる奇襲攻撃で
敵に被害を与える作戦を取りました。
6月9日にはルドルフ・ジングレ【大尉】の指揮する潜水艦「U4」が
アルバニア沿岸部で英巡洋艦「ダブリン」を雷撃して損傷を負わせ、
同17日には装甲巡洋艦「サンクト・ゲオルグ」水雷艇14隻がリミニその他のイタリア沿岸を、
17〜18日にかけてはホルティ・ミクローシュ【大佐】の率いる軽巡洋艦「ノヴァラ」「アドミラル・スパウン」
駆逐艦4隻 水雷艇4隻よりなる艦隊がアンコーナとリミニの中間にある
軍事施設ファノとペサロを攻撃して打撃を与えました。
ホルティの艦隊はさらに北上してリミニも砲撃しました。

616 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/05(日) 22:29:42 0

一方ドイツ本国からは分解した潜水艦(「UB1」「UB15」)が 鉄道を通してポーラ港まで運び込まれ
オーストリア潜水艦「U10」「U11」として 就役していましたが、
6月10日に「U11」はベネチア沖でイタリア潜水艦「メドゥーサ」を撃沈し、
また同26日には「U10」が同海域でイタリア水雷艇「PN5」を沈めました。
そして7月7日には潜水艦「U26」(独潜水艦「UB14」がオーストリア艦籍に編入されたもので
乗組員は全員ドイツ人)が北アドリア海に進出していたイタリア装甲巡洋艦「アマルフィ」を撃沈し、
18日にはルドルフ・ジングレ【大尉】の指揮する潜水艦「U4」が南ダルマチアのラグーサ・グラヴォサ沖で、
同地の鉄道を砲撃していたイタリア装甲巡洋艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」「ヴァレーゼ」
「フランチェスコ・フェルッキオ」を急襲し、旗艦「ジュゼッペ・ガリバルディ」を魚雷攻撃で沈めました。
これと同日、イタリア軽巡洋艦「マルサーラ」「クアルト」 駆逐艦3隻よりなる艦隊も
別ののダルマチア沿岸部を砲撃していました。

以上のように、オーストリア潜水艦部隊はドイツの援助で着々と強化されつつあり、
ドイツ本国からは分解した潜水艦を鉄道を通してポーラ港まで運び込み、
この地で組み立てて順次アドリア海での戦闘に参加させ、
またポーラ工廠では独のUB型をもとに新しい潜水艦を順次建造・竣工させました。
(これによりオーストリアの潜水艦は大戦中に新たに21隻(計27隻)が就役しました。)
一方オーストリア側は8月8・13日のベネチア沖と南アドリア海の戦闘で
潜水艦「U3」と「U12」を失いました。

617 :世界@名無史さん:2006/03/07(火) 00:15:57 0
>>614
書き方が悪かった
ドイツ語とマヂャル語で同じ読み方をするわけではないです

618 :世界@名無史さん:2006/03/10(金) 19:47:07 0

  ハウスさん、保守点検、ご苦労様です。(^^)/~

 愚生はただ今「珊瑚海=ミッドウェー方面」作戦に専念中のため、
地中海方面戦線については貴殿にお任せいたします。

619 :シッシーナ公爵夫人:2006/03/10(金) 20:11:32 O
オーストリアには海軍は今もありますよ。1918年からは帝政を廃止し連邦立憲君主制に移行したので海軍は健在。今のオーストリア国王はオットー・1世です。

620 :世界@名無史さん:2006/03/10(金) 23:00:25 0
二重帝国時代の版図は凄かったな。
あのまま存続していないのが残念至極。
間違いなく欧州の極になれる国だったのに。

オーストリアの人もさぞかし悔しがっているのではないかな????

621 :皇太后ゾフィー:2006/03/11(土) 13:31:56 0
ハプスブルクは現在のオーストリア王朝です。

622 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/11(土) 22:08:02 0

>>618
権兵衛さん、お久しぶりです。
よろしければそちらのスレも是非ご紹介下さい。
まあ知識がないのでROMするだけですが・・。

>>619
今もあるオーストリアの海軍というのは、やはりドナウ川の河川部隊の事でしょうか?
このスレでも上記河川部隊については詳しく取り上げられております。

>>620
話は変わりますが、第1次大戦の戦勝国であるイタリア王国は、
戦後建造された重巡洋艦に「トリエステ」「ポーラ」「フューメ」「ザラ」などという
旧オーストリア・ハンガリー帝国領の地名を付けております。

しかも旧海軍の軍港にちなんだ名前ばかりで、
これはオーストリアやハンガリーにとっては屈辱的だったでしょうねぇ。

623 :世界@名無史さん:2006/03/12(日) 15:11:38 0
現在でもどっかの馬鹿な国が
空母に「独島」とかいうフザけた名前を付けてるけどね。
もっとも彼らは戦勝国でも何でもないが。

624 :世界@名無史さん:2006/03/12(日) 18:46:53 0
プレスブルクってどこ?

625 :カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/03/12(日) 21:33:00 0
スロヴァキアの首都ブラチスラヴァのドイツ語名……

626 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/12(日) 23:54:01 0

>>623
スレ違いですが、参考までに上記イタリア重巡洋艦の末路を・・。
(『世界の艦船 イタリア巡洋艦史』より抜粋)

「トリエステ」は1941年11月21日にマルタ・コンボイ阻止作戦行動中、
英潜水艦「アトモースト」の雷撃で大破。
その後43年4月10日ラ・マッダレーナで米陸軍機の爆撃を受け沈没した。

「ポーラ」はマタパン岬沖海戦で英軍機の雷撃により航行不能となり、
救助に来た僚艦「ザラ」「フューメ」ともども1941年3月29日夜、
レーダー装備の英艦隊の攻撃を受け、沈没して果てた。

これをオーストリアやハンガリーはどのように感じたのかな?
もうどうでもいいやって感じかな?

627 :権兵衛さん:2006/03/13(月) 18:50:30 0

  >> 622  ハウスさん、こんにちわ。
 
  最近はもっぱら、ニフティサーブの軍事フォーラム(FDR)で
 海戦会議室で書いております。太平洋戦争での海戦を中心に書いて
 おりますので、ご照覧ください。

628 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/18(土) 22:15:18 0

>>627
遅レスですが、ありがとうございます。
参考にさせていただきます。


さて、イタリア海軍は1915年7月11日にリッサ島の南80キロに位置する
オーストリア領のペラゴサ島を急襲してこれを占領しました。
オーストリア・ハンガリー海軍はアドリア海中部のイタリア・ガルガノ半島〜ペラゴサ島
〜ダルマチアのラゴスタ島にかけて防衛ラインを設定しており、
ペラゴサ島はオーストリア海軍の戦略上重要な拠点でした。
イタリア側はアドリア海を南北に分断してオーストリア海軍を遮断するための足がかりとして、
またダルマチア沿岸部に対する偵察拠点確保のためにペラゴサ島へ進出しようとしたようです。

イタリア海軍はどのような艦隊構成でこの島を攻撃・占拠したかについては
手元に資料がないためよくわからないのですが、
当時島にはオーストリア軍の通信兵が6名しかおらず、
イタリア軍は40〜90名の兵を上陸させて3インチの銃砲2門たらずでこれを占拠したようです。
以後イタリア海軍は島とその周辺部に潜水艦部隊を配備するようになりました。
また7月12日には北東に位置するラゴスタ島をフランス艦艇が砲撃したようですが、
フランス軍の同島占領を望まないイタリア政府はこれを拒絶しました。

629 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/18(土) 22:16:20 0

これにより、オーストリア海軍のアントン・ハウス提督はラゴスタ島の防衛ラインを強化するとともに、
7月19日には水雷艇3隻でリッサ島沖での機雷施設を開始しました。
早くも7月13日にはオーストリア駆逐艦「タトラ」が空中からの偵察機の支援により
ペラゴサ島のイタリア側の拠点砲撃を試みたようですが、
これがフランス潜水艦「フレスネル」に阻止されたり、
同艦がオーストリア水上飛行艇の攻撃を受けたりと早くも戦闘が始まりました。
オーストリア海軍は7月27〜28日にかけては軽巡洋艦「ヘルゴラント」「サイダ」
駆逐艦(タトラ級)6隻、水雷艇4隻よりなる艦隊をペラゴサ島に派遣し、
108名の兵を上陸させましたが、以後2週間にわたり抵抗を受けたようです。
オーストリア・イタリア両国軍がどのような戦闘を行ったのかは資料不足でわかりませんが、
ただこの時オーストリア駆逐艦「バラトン」がフランス潜水艦「アンペレ」の雷撃を受けました。
まあ大事には至らなかったようですが・・。

一方オーストリア海軍の根拠地ポーラからは、7月31日に準ド級戦艦「エルツヘルツォーク・フランツ・
フェルディナント」前ド級戦艦「エルツヘルツォーク・カール」「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」
「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス」巡洋艦3隻、駆逐艦16隻が出動したものの、
48時間後には港に戻ってきております。
これは外洋に出動しようとしていたのか、それともポーラ周辺部の哨戒活動に出ていたのか、
詳しい事情や目的はちとわかりませんが・・。
ただし潜水艦部隊はペラゴサ島方面に出動させたようで、
8月5日にはゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の指揮する潜水艦「U5」が、
ペラゴサ島沖合部に展開していたイタリア潜水艦「ネリーデ」と交戦してこれを撃沈しました。
その後8月16〜17日にかけて軽巡洋艦「ヘルゴラント」「サイダ」駆逐艦4隻、水雷艇4隻よりなる
オーストリア艦隊が再びペラゴサ島を攻撃しました。
この時駆逐艦「ディナラ」が敵潜水艦の雷撃を受けたようですが、特に大事には至らなかったようで、
イタリア側は貯水施設に被害を受けた後、この島から撤退していきました。

630 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/03/21(火) 15:42:14 0

前回のレスの補足を少々。

ペラゴサ島を巡るイタリア・オーストリア両国軍の攻防についてですが、
手持ちの『The naval policy〜』の文献によると、
「The garrison(イタリア軍守備隊は) withstood(よく持ちこたえた)an attack on 28 July.
(7月28日のオーストリア軍の攻撃に対し)〔281頁〕」という記述がある事から、
両国間にそれなりの激戦?らしきものがあったと思われます。
その後「Pelagosa was evacuated on 18 August,one day after a heavy shelling from
the scout cruisers Saida and Helgoland and several destroyers.〔同頁〕」とあり、
イタリア軍がどのような形で島から兵を撤退させたのか興味がある所です。

もちろんゲオルグ・フォン・トラップ【中尉】の活躍も、
「the U5 - then still under Trapp's command - torpedoed and sank the Italian submarine Nereide.〔同頁〕」
という形で記述されております。

631 :世界@名無史さん:2006/03/25(土) 00:35:27 0
あのー、オーストリア・ハンガリーの軍艦の名前に付いている「SMS」って、
何の略ですか。

632 :世界@名無史さん:2006/03/25(土) 02:01:43 0
>631
Seiner Majestaet Schiff (tの後のaeはaウムラウト)陛下の船
転じて帝国海軍軍艦の意。WWTまでのドイツ海軍でも使っていた。
イギリス海軍ではいまでも同様な「HMS」 His(Her) majesty's ship
を用いている。

こちらも便乗質問。WWTオーストリア・ハンガリー海軍での
SMSとkuk(kaiserlich und koeniglich)の明確なつかいわけは?
軍艦名に冠するのがSMSで艦種、海軍や艦隊に冠するのがkuk
の解釈でいいのかな?

633 :632:2006/03/25(土) 02:11:20 0
補足、上の解釈はSMSヴィヴリス・ユニチスと呼ぶのが正しく
kukヴィヴリス・ユニチスと呼ぶのは間違いで、kuk艦隊、kukの潜水艦
と使うのが正しいのかという意味です。

634 :世界@名無史さん:2006/03/25(土) 02:44:56 0
ヴィリブス(Vilibus)だろ

635 :632:2006/03/25(土) 21:50:42 0
>634
スマン世界史か軍事板のうろおぼえスレ探してくる。

636 :権兵衛さん:2006/03/27(月) 20:14:06 0

 個艦名では「SMS」で、「KuK」は「帝國海軍」を指すと
考えてよいはず。

 イギリスでは「Royal Navy」でも「HMS」とな
っている。「RN Repules」などとは呼ばない。米国
でも同じ「USN」であり、艦名には「USS」が付く。


637 :世界@名無史さん:2006/03/28(火) 14:54:13 0
2018年までにオーストリア=ハンガリー連邦民主共和国の設立をしましょう!

638 :世界@名無史さん:2006/03/30(木) 03:48:15 0
民主とか付くと東側臭が

639 :権兵衛さん:2006/04/04(火) 00:31:06 0
 
 geh' die schiff auf !

640 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/04/05(水) 22:47:23 0

先日本屋で以下の本を見つけました。アマゾンによると、
馬場優 著『オーストリア・ハンガリーとバルカン戦争−第一次世界大戦への道−』単行本 (2006/03)
法政大学出版局 ¥6,195(税込)という内容の本です。

本書は各国の外交書や膨大な未公刊一次資料を駆使して詳細に記述しているとの事で、
なかなか読み応えのある本のようです。

チラ見しただけで記憶が曖昧なのですが、
海軍ネタとしては、本文中にハプスブルク帝国の首脳会議に出席したA・ハウス提督や
モンテネグロ派遣艦隊司令官であるM・ニェゴヴァン提督(本文ではネゴヴァン【少将】)の名が
出てきております。詳しくは本書の内容をご確認下さい。

一応以前レスしたつたない内容のコピペを・・。
それでこの時のオーストリア海軍の派遣艦隊を率いていたのがマクシミリアン・ニェゴヴァン提督【海軍中将】でして、
艦隊の陣容は準ド級戦艦「エルツヘルツォ−ク・フランツ・フェルディナント」「ラデツキー」「ズリーニ」
軽巡洋艦(防護巡洋艦)「アスペルン」 水雷艇数隻でした。(訂正:当時は【中将】ではなく【少将】)

余談ですが、ニェゴヴァン(ネゴヴァン)提督は、
ハウス提督亡き後の1917年2月〜18年2月にかけては海軍長官&艦隊総司令官を務めました。
そして彼の後オーストリア・ハンガリー帝国海軍最後の艦隊総司令官に就任したのが、
ホルティ・ミクローシュ提督(この時【大佐】から【少将】に昇級して名実ともに「提督」となった)です。

641 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/04/05(水) 23:07:11 0 ?
>640 HAUS殿
良書の紹介有難う御座います。
早速購入手続きをば。

今、その辺の歴史に凝っておりますので…。

642 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/04/08(土) 21:44:46 0

>>641
こちらこそ、お役に立てて光栄です。

さて、現在軍事板の何某スレではドイツ海軍やオーストリア海軍の
主に技術面での議論・話題がなされておりますが、
こういった話題に無知な自分としては大変勉強になっておりまつ。

軍板も奥が深い!

643 :世界@名無史さん:2006/04/09(日) 02:04:27 0
二重帝国の潜水艦技術って、どうだったのですか?
WW1前に、デンマークへ潜水艦を輸出しているらしいのですが。

644 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/04/09(日) 12:17:10 0 ?
>643
保守的な体質(と言うか予算制限とか色々なファクター)があって、米英仏と言った主要海軍国が
潜水艇を採用したことが明らかになるまで、潜水艇の採用はありませんでした。

1904年に帝国海軍技術委員会(MTK)が、潜水艇の建造を提言しますが、それは種々の理由で却下
され、1905年1月に改めて機密プロジェクトとして、潜水艇の実用試験艇を建造することになりました。

1908〜09年に掛けて、米国のLakeがポーラで建造したU1級2隻、キールのGermania造船所が建造した
U3級2隻、リェカのWhitehead社がHolland社の設計に基づいて建造したU5級3隻(ノックダウン生産が2隻、
国産化1隻)の3クラス7隻により、採用が比較検討されました。
これらは米国設計のものが単殻式、ドイツ設計のものが複殻式船体を持ち、ガソリンエンジンとモーター
を装備していました。

LakeのU1は、潜行性能、操舵性は良かったのですが、装備していたガソリンエンジンが出力不足で、
それらの性能の良さが相殺されました。
GermaniaのU3は、潜行性能が思わしくなく、装備したエンジンは屡々煙を吐き出すのですが、反面、
居住性は最も良かったとされました。
HollandのU5は、ガソリンエンジンによるガス中毒が常習的に発生しました。

これら試験艇の評価の結果、二重帝国海軍は、排水量500t程度、複殻式船体とディーゼル主機により、
水上速力16〜18ktsを発揮、武装は45cm魚雷発射管3〜5門を有する潜水艦を、WhiteheadとGermaniaに
発注します。

このほか、水中速力12Ktsを発揮できる500tの大型潜水艦をGermania造船所に発注しています。
運用的には、従来の可潜艦と言うことで隠密性重視からすると、水中速力重視というのは全く新しい
概念を模索していたと言えるでしょう。
残念ながら、この艦は建造時に大戦が勃発し、ドイツに売却されましたが。

645 :世界@名無史さん:2006/04/10(月) 00:14:40 0
なるほど。いつもながら丁寧な解説ありがとうございます。
水中高速艦というのは興味深いです。

デンマーク向け輸出艦は、WhiteheadのFiume造船所製らしいです。
3隻建造で、1911〜13年頃竣工、無事に引き渡されているとありました。
水上排水量164tとありますから、Hollandの改型ということでしょうか。

646 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/04/11(火) 22:52:58 0

オーストリア・ハンガリー海軍の誇る元祖?潜水艦(3クラス7隻)ですが、
いろいろと運用上の問題があったようで・・。

ジングレ【大尉】、トラップ【中尉】、レルヒ【少尉】の指揮により、
これら潜水艦は大きな戦果を挙げているわけですが、
その一方でこれら艦長や乗組員の人達はいろいろと苦労があったのでしょうねぇ。

こういった潜水艦がダーダネルス海峡へ派遣されていたかもしれないというのはやはり驚きです。

647 :眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/04/12(水) 00:12:21 0 ?
>645
改型と言うか、まぁ独自設計に近いかな、と。
その前の1908年にDenmarkは初めての潜水艦をItalyに発注しますが、これも
余りにも低性能&ガソリンエンジンの信頼性の無さで1隻だけに留まり、次に
Whiteheadに発注した訳で。
これらの艇(A級と後に呼ばれた)は、その後国産化され3隻(うち1隻は国民の献金
で)建造されています。

ちなみに、FiumeのWhiteheadでは、Peru、Portugal、Holland、Brazil、Bulgaria
にもU5クラスの潜水艦を売り込んたそうです。

>646
U1クラスについては、後にディーゼルエンジンに換装していますね。
お陰で、開戦時は戦力にならなかったそうで。

648 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆4yzbf0MFE. :2006/04/16(日) 03:32:12 0
http://www.historicaltextarchive.com/books.php?op=viewbook&bookid=9
ホルティ回想録 ここでも読めますよ。

649 :世界@名無史さん:2006/04/16(日) 05:25:53 0
age

650 :ギシュクラ・ヤーノシュ ◆4yzbf0MFE. :2006/04/19(水) 01:03:13 0
もう終ってしまった催しですが、カイザリン・エリザベートの乗組員たち
が収容されていた青野ヶ原の俘虜収容所についてです。

ttp://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/onotokuten2005.html

651 :mauro:2006/04/19(水) 23:12:12 0
Se siete interessati a visitare un angolo d’Italia ……la Sardegna….http://www.webalice.it/mauromelis169/ e altre foto su: . http://www.mauromelis169.altervista.org/

Yooroshiku onegai shimasu.


652 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/04/22(土) 22:05:02 0

>>648
趣味で第1次大戦における海軍の戦況を調べている者としては、
やはり1917年5月15日に行われたオトラント海峡海戦≠フ内容を
特に参考にさせていただきたいと思います。

上記海戦に関しては、
ギシュクラさんにアップしていただいた『ホルティの回想録』と
手持ちの文献『The naval policy〜』の2つの内容を、
それぞれこのスレで紹介できればと考えております。

>>650
既出ですが、オーストリア・ハンガリー海軍の防護巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」に関する
サイトを2つほど(上のサイトは以前ギシュクラさんに紹介していただきましたが)。

世にも奇妙な日本とオーストリアの戦争
ttp://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-30.htm
日本とオーストリアのたった一度の戦争(青島要塞攻防戦)
ttp://homepage2.nifty.com/TAMACHAN/Qingwar.htm

653 :世界@名無史さん:2006/04/29(土) 23:04:22 O
2006年のオーストリア海軍の全陣容は

哨戒艇2隻
人員24名
伝統の軍艦旗もあり

(世界の艦船誌より)

654 :世界@名無史さん:2006/05/02(火) 22:27:07 0
確か、正式には陸軍の舟艇部隊だよね。
ドナウ水上旅団とか、そんな名前だったような。
数年前の「丸」に特集記事があったはず。

655 :世界@名無史さん:2006/05/06(土) 23:29:10 0
age

656 :世界@名無史さん:2006/05/14(日) 21:57:48 0

オーストリア(・ハンガリー)帝国海軍について、概史程度のものなら
あるけども、ハウスさんが書いているような詳細なものは手元にはない。
何年か先にはウィーンに足を伸ばして、参考になるものを捜してみよう。
でも、いつになるのやら、それが問題だな。(;o;)

657 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/05/15(月) 22:25:30 0

>>656
私なんかはウィーンはおろか、国外へ出たことすらない人間なんですが、
参考にしている欧文文献なんかは、すべてアマゾンを通して購入しております。
3年前にたまたま欧文サイトで見つけたモノを即座に購入したわけなんですが・・。
(ただしハウス提督の伝記本は未だ入手できておらず)

658 :権兵衛さん:2006/05/25(木) 03:06:09 0

 保守のため

 age


659 :権兵衛さん:2006/06/01(木) 02:37:03 0

新発売のDVD「サウンド・オブ・ミュージック(ファミリー・バージョン)」
をまたも買ってしまった。ビデオだの、LDだの、DVDも三種類もある。
本編は変らんのに、アホじゃわいな。ま、「おまけ」が目当てで買ったのだ
けれども。1996年のドキュメンタリー「トラップ一家物語」が目玉だな。

 潜水艦長ゲオルグ・リッター・フォン・トラップ大尉(またしても「大佐」
のままだが)の勇姿も見られる。動画はドイツ海軍のU−ボートエースのフォ
ン・アルノルト少佐が個人的に撮影したものを使っているけど。

 日本語吹き替えの新版はいただけないけどね。布施明の「トラップ男爵」で
は貫禄不足なんてものじゃない。マリアの島田歌穂も無理な訳詩ではまともな
ものじゃなかった。歌まで吹き替えにするので、歌手が担当したが所詮、俳優
ではないので、セリフの言い回しはダメ。まあ、見ないから関係ないけどね。

 画質は2005年の「デジタル・リマスター版」を使用しているので、よく
なっている。おまけのジュリー・アンドリュースらのコメントで我慢する。

660 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/06/03(土) 21:32:46 0

>>658 >>659
権兵衛さん、こんにちは。
スレの保守・点検ありがとうございます。

最近このスレにはカキコしていませんが、現在は自分のブログの方で
第1次大戦時のオーストリア海軍の戦況について書いております。

661 :世界@名無史さん:2006/06/05(月) 09:33:28 O
興味津々
ブログの宣伝してくだせぇ

662 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/06/10(土) 12:20:30 0

>>661さん、このブログです。
ttp://aahaus.exblog.jp/

このスレでレスした内容と重複する箇所もありますが、
1914年6月から始まり、現在は15年5月のイタリア沿岸部砲撃作戦
の所まで書き込みを進めております。

今後はこのスレでレスしていない内容を中心に、
2週間に一度位のペースで更新していければと考えております。

663 :権兵衛さん:2006/06/11(日) 04:26:49 0
age


664 :世界@名無史さん:2006/06/11(日) 09:51:33 O
HAUS氏
サンクスじゃない
ダンケ

665 :世界@名無史さん:2006/06/19(月) 20:01:53 O
保守

666 :権兵衛さん:2006/07/01(土) 21:13:19 0

  age 保守

667 :世界@名無史さん:2006/07/03(月) 07:10:04 O
なぜオーストリアは落ちぶれたの?

668 :世界@名無史さん:2006/07/05(水) 04:24:35 0
多民族国家だったから

669 :世界@名無史さん:2006/07/13(木) 01:10:15 0

「人がよかったから」余計なお荷物を抱え込み過ぎた。

670 :権兵衛さん:2006/07/18(火) 23:43:29 0
保守

671 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 20:36:37 0
??????????????????
???????????????

??????? ????? ????

672 :世界@名無史さん:2006/07/26(水) 21:08:59 0
バルカンでは自決する民族が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた

だけども問題は うちの海軍 海がない

行かなくちゃ 封鎖を解きにに行かなくちゃ
海峡に行かなくちゃ 魚雷に追われ

673 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/07/29(土) 04:56:11 0

朝早く目が覚めてしまったので少々・・。
まったく書き込んでいない自分が言うのもなんですが、
最近このスレの行く末が気になっています。

今までいろいろとお世話になっていたので(親切にご教授いただいていたので)
それなりに思い入れや愛着がありますし・・。

まあネタを一方的にパクられるのがばからしくなって
書き込みをやめたわけなんですけどね。

674 :世界@名無史さん:2006/08/10(木) 20:03:29 0
ネタはないけど、
age

675 :世界@名無史さん:2006/08/20(日) 21:11:56 0
オーストリア海軍の歴史
ttp://d.hatena.ne.jp/Europedia/20060718

このスレのどなたかのものかもしれませんので少し。
火狐ですと、左側に、ベタッとカレンダー以下がかぶって読めません。
トップに戻って、ズラーッとおろしてみれば読めるんですがね。

676 :権兵衛さん:2006/08/27(日) 16:33:29 0

  >> 675

良サイトのご紹介、感謝。

 若干の間違いを散見するものの、総じてよくまとめてあります。
 上記のサイト/20060718 をはずして入ってから、カレンダーを
 クリックするといいようです。2006年7月18日の意味で
 すから。一応、7月19,20、21日の計4回載っています。

677 :権兵衛さん:2006/08/29(火) 01:15:57 0

 第1次世界大戦の関係者の肖像がずらり。
 名前は聞いたことがあっても、どんな風貌をしていたのか見当も
 つかなかった人物たちの肖像が見られます。

 ttp://porait.kaar.at/Erster%20Weltkrieg/index.html

トラップ大尉のほか、日本の大正天皇もあります。一応、参戦国のひとつ
 だったから、当然かな。その他、日本の人名辞典ではわからない人物もか
 なりあるので、第1次大戦を知りたい人にとっては興味があるものでは?

678 :世界@名無史さん:2006/09/03(日) 00:19:12 0
海のない国の海軍てなんかカッコイイな。
でも規模的に「河川警備隊」にした方が安いし、効率的だと思うけどね。
「軍」にする必要ってあるのかね。

679 :世界@名無史さん:2006/09/06(水) 06:03:19 0
今は陸軍の一部じゃ

680 :世界@名無史さん:2006/09/09(土) 02:00:42 0
age

681 :権兵衛さん:2006/09/17(日) 21:53:30 0

第1次大戦中、地中海で被雷した駆逐艦「榊」は、通説にいうドイツ海軍
のUーボートによるこうげきでなく、オーストリア海軍のUボートによるも
であった。彼の地での唯一の「日墺交戦」と思われる。

682 :世界@名無史さん:2006/10/02(月) 01:33:33 0
age



683 :世界@名無史さん:2006/10/12(木) 14:07:05 0
そろそろ上げとくか

684 :世界@名無史さん:2006/10/24(火) 20:04:24 0
  潜行も2週間続くとつらくなってくるので、空気取り入れのため、浮上!

685 :世界@名無史さん:2006/10/25(水) 18:08:25 O
第1次世界大戦中に
イタリアの特殊部隊とMAS魚雷艇1隻によって
オーストリア海軍の戦艦2隻失ったとなんかの本に書いてあったけど
詳細はどうなんですか?

686 :世界@名無史さん:2006/11/07(火) 04:16:46 0
>>685

過去スレをよく探して!

687 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 02:45:49 0
6:11】【国際】オーストリア→オーストリー 日本語表音表記が変わります…駐日オーストリー大使館
1 名前:依頼446@試されるだいちっちφ ★ 2006/11/15(水) 02:41:46 ID:???0
★Osterreich 日本語表音表記 の変更について
日本ではオーストリアはオーストラリアと常に混同されております。この違いを明確にするため調査を始めたとこ
ろ、Osterreich には以前は別の呼び名があったことが判明致しました。 Hungary(現在のハンガリー共和国)が
ホンガリーと呼ばれていた頃、すなわち19 世紀から1945 年までの間、Osterreich はまさに「オウストリ」と表記
されていたのです。 今日でも多くの日本人は「オウストリ」をOsterreich として認識しております。 当時も今日と
同様に、国名表記の標準化はありませんでした。
文献を紐解けば、1873 年に発行された地理誌「萬國地名往来」にもOsterreich は「ヲウストリ」と表音表記され
ております。日本が参加した1874 年のウィーン万国博覧会においても、Osterreich は「オウストリ」と紹介されて
おります。
そこで、私たちは発音と表記を考慮し長音(ー)を入れ、Osterreich の呼称を 「オーストリー」 と変更することで、
オーストラリアとの違いを明確に致します。
オーストリー大使館、及びオーストリー大使館商務部の表示は現在変更中であり、名刺の表記は既に変更済み
です。
より多くのオーストリー及び日本の機関、企業、個人の方にこの新しい表記を使用していただくことにより、 「オー
ストリー」 の名が広く速やかに浸透していくことと存じます。
2006 年10 月、東京
ペーター・モーザー エルンスト・ラーシャン
駐日オーストリー大使 駐日オーストリー大使館 商務参事官
オーストリー大使館商務部
http://www.austriantrade.org/japan/our-office-in-tokyo/ja/
http://www.austriantrade.org/fileadmin/f/jp/PDF/Umbenennung_von_Oesterreich_im_Japanischen.doc.pdf
関連スレ(国際+)
オーストリアとオーストラリアを日本人がよく混同するから、オーストリーにします(11/14)


688 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 02:54:35 0
×オーストリア・ハンガリー帝国
○オーストりー・ホンガリー帝国

689 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 10:45:15 0

エステルライヒ=マジャール帝國じゃないか?

690 :世界@名無史さん:2006/11/15(水) 16:17:40 0
×マジャール
○マジャーロルサーク

691 :世界@名無史さん:2006/11/16(木) 22:05:23 0
>>690

ドイツ語は大学で少し習ったけど、ウンガリッシュ(ドイツ語表記)の方は
皆目判らんので。あんがとさん。

 欧州各国の地名がそれぞれの国語で表記されている面白い地図があった
が、行方不明だ。ドイツ語が併記されていたな。

692 :カイゼリン・エリザベート:2006/11/18(土) 16:25:10 0
誰かオーストリアの歴史(特に近現代史の好著)に関する書籍があったら、
紹介してください。

693 :権兵衛さん:2006/11/29(水) 03:38:22 0
ハウスさんち、空き家になってるけど、どうなったのだろう?

694 :HAUS ◆Vsb1IJhbMs :2006/12/02(土) 20:08:24 0

>>693
引っ越ししました。


695 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 14:46:38 0
保守

696 :世界@名無史さん:2006/12/17(日) 16:04:08 0
オーストリーにするくらいなら、ウスターライヒのほうが
まだ良かったのに…。だいたいオーストリアって英語じゃん。

697 :世界@名無史さん:2006/12/22(金) 11:51:01 0
じゃあウスターライヒは何語なんだよ

698 :世界@名無史さん:2006/12/23(土) 23:33:59 0
 ドイツ語(現地の人間に言わせれば、ドイツという言い方自体が方言だが)
の「ウムラウト・オー」の発音を日本語で表記するのは難しい。

 「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」という川柳にある音だ。

 強いて言えば、「エステル(東の意味)」と「オスター」の中間音だ。

 口を尖らせて「オー」を発音する形で、「エー」と発する感じだ。

699 :世界@名無史さん:2007/01/02(火) 01:52:38 0
保守


700 :世界@名無史さん:2007/01/02(火) 01:53:08 0
and #700 get!

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