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オスマン朝・オスマン帝国(02)

1 :世界@名無史さん:2006/10/15(日) 02:34:48 0
最大領域を100年以上も維持した3大陸に跨る大帝国(1299年-1922年)。イスラムの盟主。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD

前スレ
オスマン朝
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008047030/

2 :世界@名無史さん:2006/10/15(日) 03:40:50 0
>>1乙ですー
関連スレ
トルコの歴史
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1124980232/
トルコ民族の諸王朝について
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1128923035/
トルコ料理の歴史
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1080197510/
鮮卑はトルコ民族か?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1108895458/

〜トルコ語・3〜
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/gogaku/1140959524/
トルコ共和国(土耳古)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1131901303/
★★★★★ トルコ旅行 PART12 ★★★★★
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/oversea/1155997711/

前スレ以前のオスマン朝の過去スレッド

】】】】】】オスマン・トルコ【【【【【【 (50)
http://mentai.2ch.net/whis/kako/1000/10003/1000382189.html
>オスマン・トルコ< (41)
http://mentai.2ch.net/whis/kako/975/975185222.html

3 :世界@名無史さん:2006/10/15(日) 10:31:05 0
最盛期の人口ってどれくらいですか

4 :世界@名無史さん:2006/10/15(日) 15:05:01 0
>>1
スレ立て乙でした。
前スレも長寿スレでしたね。
引き続き伸ばしていきましょう。

5 :世界@名無史さん:2006/10/16(月) 17:12:34 0
オスマン朝を世界帝国にしたのはセリム1世と言ってみるテスト。

6 :世界@名無史さん:2006/10/16(月) 20:56:42 0
オスマンによるエジプト・シリア領有−はそれまで決して多数派ではなかった
ムスリムを多数派へとした。

7 :世界@名無史さん:2006/10/16(月) 21:03:06 0
穀倉地帯のエジプトを支配したことによりオスマン朝の食糧問題と
アレクサンドリア経由の地中海貿易を解決・発展させた事は重要だ。

8 :世界@名無史さん:2006/10/16(月) 21:49:18 0
>>3
18世紀まで人口調査自体やってないから難しいと思われ。

9 :世界@名無史さん:2006/10/16(月) 21:50:21 0
>>5
テストどころか鈴木センセがまさに言ってることジャマイカ?

10 :世界@名無史さん:2006/10/18(水) 02:08:15 0
オスマン帝国衰亡史読んだ人いる?いたら感想プリーズ

11 :世界@名無史さん:2006/10/19(木) 22:04:59 0
>>3
永田雄三はスレイマン1世の頃のオスマン朝の総人口は推定三千万としている。
尤も、正確な統計でなく推論で出した数字だが。

12 :世界@名無史さん:2006/10/20(金) 09:29:32 0
>>11
詳しく読んでみたいので出典を教えてください。

13 :世界@名無史さん:2006/10/20(金) 11:13:35 0
ノーベル文学賞を受賞したパムクの2冊、
「わたしの名は紅」と「雪」を注文しました。
ちょっと高かったけど、今から届くのが楽しみ。
16世紀末のイスタンブールと人々がよく描かれて
いるらしい。

14 :世界@名無史さん:2006/10/20(金) 13:17:33 0
>>13
「わたしの名は紅」は以前読んだが、16世紀のトルコ人があんなに西洋を意識していたのかどうか疑問に感じた。

15 :世界@名無史さん:2006/10/20(金) 13:19:19 0
オスマン朝研究で「Pamuk」といったら、ノーベル文学賞を受賞した
Orhan Pamukじゃなくて、兄貴でオスマン史家のŞevket Pamukの方の事だけどな。

16 :世界@名無史さん:2006/10/20(金) 15:50:56 O
ヤリマン帝国死亡wwwwwwちゅどーんwwwちゅどーんwwwwwwww

17 :世界@名無史さん:2006/10/20(金) 21:00:00 0
>>14
んーおもしろくなさそう・・・

18 :世界@名無史さん:2006/10/21(土) 09:49:45 0
トルコ語分からないので共和国の学者の本は
ハリル・イナルジュクぐらいしか読んだことない・・・

19 :世界@名無史さん:2006/10/21(土) 16:44:07 0
Halil İnalcıkも以前はトルコを離れてシカゴ大学とかアメリカの大学で教えていたが、
Suraiya Faroqhi、Şerif Mardin、Şevket Pamuk、Cemal Kafadar、
Metin Kunt、Gülru Necipoğlu、Huri İslamoğlu-İnan、Salih Özbaran・・・などなど
トルコ人の研究者でも(欧米に留学したり、欧米の大学で教えている研究者は特に)、
普通に英語で研究書を出してるけどな。

20 :世界@名無史さん:2006/10/21(土) 22:00:24 0
Faroqiはドイツ生まれみたい。Born October 2, 1941, Berlinってあった
ドイツのトルコ系移民なんだろうか
その影響で、ドイツ語でも研究書を出しているのか
ミュンヘン大学で教えてるし

あと、永田雄三みたいにトルコ語で論文出している非トルコ人もいるな
参考文献のところに、Nagata Yuzo〜ってトルコ語の論文があった
日本語版も出してくれないのかな

21 :世界@名無史さん:2006/10/23(月) 02:05:45 0
>>14
長い間想いを寄せていた女と逢引していきなり
口でしてもらおうとする主人公もどうなのかと

22 :世界@名無史さん:2006/10/29(日) 23:28:06 0
>>21
いま、ちょうどそこを読んだところ。
内容的にはかなり面白くなってきた。
1590年代のイスタンブルって、けっこう
暮らしやすそうだね。

23 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 21:18:38 0
1590年代のイスタンブルか。
暇さえあればコーヒーハウスで世間話に興じて
後は公衆浴場でマターリする生活が想像できる。

24 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 21:36:44 0
その頃だったら文化的にもヨーロッパよりも上かな

25 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 21:39:18 0
衛生観念&識字率では圧倒的に西欧東欧より上だったろう。

26 :世界@名無史さん:2006/10/30(月) 22:48:37 0
ブダペストのキラーイ温泉は・・・もう出来ている頃か。>1590年代
この頃だったか、もう一度ドイツとかイタリアあたりで銭湯が流行るんだっけ。

27 :世界@名無史さん:2006/11/01(水) 23:11:49 0
1571年のレパントの海戦に敗れて斜陽に
なりはじめた時期?
敗戦の影響はあまり無かったようにも聞くが・・。

28 :世界@名無史さん:2006/11/01(水) 23:32:51 0
>23
宮廷は女人政治で混乱してても
民間はマターリとしていたのか?

29 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 01:40:02 0
ジェラーリーの乱とかなかったっけ?

30 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 11:42:23 0
>>27
その後にウイーン包囲をするくらいだから、国力が
そう衰えたとはいえないんじゃない?
ハプスブルク王朝は、その後もずっとオスマントルコ
対策に頭を悩ませていたわけだし。

31 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 17:12:55 0
>>27
影響がないわけじゃなかった
多くの艦隊を損失したんだから、それなりにダメージはあった
とはいえ、冬の間に造船してほぼ復旧できたみたいだけど
以前ほどの力はなくなりつつあったかもしれないけど
その時点ではヨーロッパ諸国に脅かされるほどではなかったと思う

32 :世界@名無史さん:2006/11/02(木) 19:45:42 0
艦隊云々では無く、その頃から交易の重要地としての地中海の存在意義が薄れて
その結果、大西洋航路を支配した西欧諸国に脅かされたと見るべきでは?

東欧では依然、大国であったけど。

33 :世界@名無史さん:2006/11/03(金) 19:42:39 0
16世紀後半になると押し切れなくなるのは確かだけどね
16世紀末のハプスブルクやペルシャとの10年以上にわたる戦いも不毛な消耗戦で
決着つかなかった


34 :世界@名無史さん:2006/11/03(金) 20:02:41 0
>>24
ルネサンスの圧勝だろ


35 :世界@名無史さん:2006/11/03(金) 21:10:22 0
ウイーンがもし陥落していたら、その後の展開も
また変わっていただろう。
どうなっていたんだろうか?

36 :世界@名無史さん:2006/11/03(金) 22:32:29 0
押すマンチョ、引くマンチョ

37 :世界@名無史さん:2006/11/04(土) 00:06:21 0
>>35
ウィーンが陥落していたら、フランスあたりがローマ皇帝になってウィーン奪還十字軍を行ったのでは?
オスマントルコは本拠地から遠いから、ウィーンはすぐに奪還されただろう。
それに人口が400万人の大国のハンガリーも独立運動が本格化し、すぐに独立してしまう可能性がある。
ハンガリーが支配されていたのはハプスブルク帝国とオスマン帝国に分割されていたからだし。


38 :世界@名無史さん:2006/11/04(土) 17:08:17 0
>>37
>ウィーンが陥落していたら、フランスあたりがローマ皇帝になってウィーン奪還十字軍を行ったのでは?

フランスはこの当時、オスマンと反ハプスブルク同盟を結んで友好関係にあったのでその可能性は低いと思われ。


39 :世界@名無史さん:2006/11/04(土) 21:14:13 0
コンスタンティノープルが奪還されなかったわけだから、
ウィーンも大丈夫だったかも・・・。

40 :世界@名無史さん:2006/11/04(土) 21:58:51 0
そっすねー、ウィーン陥落したら
フランスはここぞとばかりにネーデルラントやラインラントを奪いに出ていた様に思えちゃいますねー
ローマ皇帝は選定侯じゃないからなれんと思うのね

41 :世界@名無史さん:2006/11/05(日) 00:31:45 0
>>38
>反ハプスブルク同盟を結んで友好関係にあったのでその可能性は低いと思われ。

まったく脳天気な世界史好きだな。
緩衝地や互いの敵が無くなったら旧来の条約も同盟も自然消滅するのは定石だろ。

42 :世界@名無史さん:2006/11/06(月) 05:15:31 0
日本語で読めるオスマン朝の歴史書を教えて下さい。

43 :世界@名無史さん:2006/11/07(火) 23:17:48 0
パムクの「わたしの名は紅」を読了しました。とても面白かった。
ヨーロッパ芸術(ルネッサンス絵画)に対するイスタンブルの細密画師
たちの苦悩や葛藤を描いているわけだけど、そもそもイスタンブルには
ビザンツ文化が色濃く残っていたはずなのに、なんで主人公たちはあれほ
どヨーロッパの絵画に衝撃を受けたのだろうか?ちょっと気になる。
ちなみに時代は16世紀末。

44 :世界@名無史さん:2006/11/07(火) 23:37:19 0
>>42
鈴木董・三橋冨治男・林佳世子・新井政美・永田雄三
この辺りの研究者の著書に当たればいいかと

「オスマン朝の歴史書」というのが「オスマン朝時代に書かれた
歴史書の日本語訳」という意味だと、あまり思い当たらないけど

45 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 09:41:38 0
ビザンツ絵画も平面的な感じがするけど

46 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 13:11:49 0
そういやアヤソフィアの壁画はずっと漆喰で埋めてあったんだっけ。

47 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 13:14:08 0
>>43
コンスタンティノープルを陥落させたからといっても、
ローマ時代から続くビザンツ文化を吸収しようなんて
考えは微塵も無かったんじゃない?
イスラム文化やペルシャ文化こそが神(アラー)につながる
唯一のものであるという考えだったはずだから・・。

48 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 13:20:56 0
ティマール制度はビザンツのプロノイアの影響があるとか何かで読んだような・・・
でもプロノイアもイクター制の影響だったりするのかな?

49 :世界@名無史さん:2006/11/08(水) 21:42:16 0
>>46
>アヤソフィアの壁画はずっと漆喰で埋めてあった
漆喰のおかげで外気にさらされず、結果的に壁画の保存状態が良かったという皮肉。

50 :世界@名無史さん:2006/11/10(金) 14:02:15 0
>>40
選帝侯以外は皇帝になれないなんて規則あったか?

51 :世界@名無史さん:2006/11/10(金) 23:06:52 0
無いな。
イングランド王ヘンリー三世の弟は、大空位時代に一応は皇帝になっている?けど、どう見ても選帝侯関係無いし。
ハプスブルク家も選帝侯とはほぼ無関係だし。

52 :世界@名無史さん:2006/11/11(土) 00:02:39 0
選帝侯は選定する権利を持っているだけで
選定される側は別に選帝侯である必要はなかったと思う
選定されるには巨額の選挙資金が必要だったらしいw

53 :世界@名無史さん:2006/11/11(土) 12:42:25 0
公職選挙法もないからやりたい放題じゃねーか。

54 :世界@名無史さん:2006/11/11(土) 21:06:25 0
選挙結果が気に入らなきゃ実力行使。

55 :42:2006/11/13(月) 03:51:55 0
>>44
レス有難うございます。
取り敢えず近所の本屋にあった鈴木董の
『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』を購入して
今、読んでいますが奥の深い王朝なんですね。

56 :世界@名無史さん:2006/11/13(月) 20:43:25 0
>>43
現代の欧州とトルコを意識し杉なんでねーの
ルネッサンス時期のヨーロッパなんかまだまだ大したことねーと思うが

57 :世界@名無史さん:2006/11/13(月) 23:38:28 0
>>56
まあ確かに今の欧州とトルコを前提に見ちゃっているからかな。
あの時代のオスマン帝国は、もっと自信を持っていたはず
だからね。

58 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 10:37:29 0
「わたしの名は紅」ちらっと読んだけど、登場するオスマンル達がイタリア絵画に
インパクトを感じていたのは、主に「立体的」という点のようだった。
モスクより巨大な豚を描いて「ただの遠近法です」と言い張るとかいうネタがあったw

あと細密画師が内職で春画を描いてるとかいう話がちらっと出てきたけど
そういうものは実際にあったんでしょうか? 現存するなら見てみたいが・・・

59 :世界@名無史さん:2006/11/14(火) 20:05:29 0
たしかに春画が現存しているのなら見てみたいですね。
その絵だけがやけに立体的で写実的だったりしたら、
ビックリしてしまいますよね。

60 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 14:41:48 0
アタチュルクが登場しなかったら、今でもスルタンがいたのだろうか?
それともトルコという国自体がもう無くなっていたのか・・?
ビザンチンの皇帝やオスマンのスルタンのように、政教一致の元首が
いるような国がこの時代にも一つくらい残っていて欲しかった。


61 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 20:09:21 0
サウジアラビア

62 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 20:17:49 0
>>60
「トルコという国自体がもう無くなっていた」でたぶん正しいかと。
当時のアナトリアは列強諸国による分割寸前で、それを救ったのがアタテュルク(と軍隊)だった。
トルコ国民がアタテュルクをいまだに国父(アタテュルク=トルコの父)として崇めているのはこのため。

個人崇拝として批判するのもいいが、彼がいないとトルコ自体がなかったのだから、
崇めてしまうのもそれなりに理解できると俺は思う。

63 :世界@名無史さん:2006/11/22(水) 23:33:46 0
そうだな。確かにアタテュルクは国の英雄だ。
ただイスラムを排斥しようとしたために、最近では
イスラム過激派を産む温床にもなっているようだが。

15〜16世紀のオスマン時代は今のトルコ人にとっても
大切な時代だろうからな。そこまで否定してしまうと、
反動も起きよう。


64 :世界@名無史さん:2006/11/24(金) 01:30:56 0
>>63
過激派に関しては、まわりの国に比べたら相当ましだと思うけど。
イスラム原理主義者から見れば、トルコ人てとんでもない偶像崇拝者だろうね。

65 :世界@名無史さん:2006/11/29(水) 22:14:16 0
>>60-64
「雪」が参考になる。オルハン・パムク作。

66 :世界@名無史さん:2006/11/30(木) 18:24:03 0
「雪」はいま読んでいる途中だけど、現代トルコでの
アタチュルク崇拝が強いことがよく分かる。
逆に、オスマン帝国時代に郷愁やを感じているトルコ
人って少ないのかなという印象。
トルコ人はもっとオスマン帝国を誇りに思ったらいいのに。
あれだけの偉業を成し遂げたわけだからね。

67 :世界@名無史さん:2006/11/30(木) 18:28:04 O
アラビアはトルコに征服してもらった方がいいんじゃないか

68 :世界@名無史さん:2006/11/30(木) 18:45:05 0
そういえばオスマン朝はマッカとメディナ以外のアラビア半島は
放置状態だったね。

69 :世界@名無史さん:2006/11/30(木) 19:25:50 0
16世紀初めから、ザイド派の反撃に遭って放棄する17世紀初めまでイエメンを100年程度支配し、
19世紀後半には再びイエメンを取り返してるし、ペルシア湾岸のハサーはオスマン領だろ。

70 :世界@名無史さん:2006/11/30(木) 20:09:34 0
イエメンと言えば先週のTBSの世界遺産で取りあげてたな。
如何にもイスラーム都市らしい感じがしてよかったよ。

71 :世界@名無史さん:2006/11/30(木) 23:02:01 0
オスマン帝国があまり西側に目を向けず、
アナトリアとアラビア半島を中心に内政を
固めていたら、帝国はまだ続いていたかも
しれない。

72 :世界@名無史さん:2006/12/01(金) 15:23:01 0
>>71
それはありえないような・・。
トルコはアラブ系のイスラムではなくて、
ペルシャ系のイスラムなんじゃないの?
そういう区分があるのかどうか、よく分からないけど・・。


73 :世界@名無史さん:2006/12/01(金) 18:51:11 0
収入の面ではルメリ側領地の方が圧倒的に多かった
ハンガリーは肥沃な穀倉地帯だし、ルメリ側がないと
収入面の利点がなくなるからな
むしろ、ウィーンを奪取して、ウィーンを西の拠点として
支配を固められたら続いてかもしれない
ヨーロッパがまとまって対抗してくるかもしれないけど
十字軍みたいにグダグダになる可能性も十分にある
所詮、今となってはどうとでも言えるんだろうが

ペルシア系のイスラームとかアラブ系のイスラームって言い方は
何となくニュアンスはわからないでもないような気はするけど・・・
原初のオスマン朝は中央アジアで主流だったスーフィズムに近い
歴代君主は、スンナ派のハナフィー派を擁護する立場だった
とはいえ、アラビア半島などでは、ハンバル派(後のワッハーブ派の源流)
のカーディーも採用されていた。

オスマン帝国の瓦解の要因としては、宗教よりも民族運動の隆盛が強い気がする
微妙なバランスで保たれていた多民族国家の中で
各民族が強固なナショナリズムを掲げれば瓦解も仕方ない
「オスマン人」としてのナショナリズムが確立されていたとすれば
話は別だったかもしれないが
あと、イェニチェリの増加などによる財政圧迫を解決できなかったことも要因だと思う
ヨーロッパは新大陸・アジア・アフリカ貿易で潤沢な資金を確保できたのに対して
オスマン朝は地中海利権やシルクロード利権の旨みが減っていった
他にも、技術革新の差など色々な要因が複合された結果とするのが無難な答えだろうな

74 :世界@名無史さん:2006/12/01(金) 21:26:54 0
イスラームは政教分離しにくい。イスラームの中心たるオスマン帝国が
政教分離するなど絵空事であったのでトルコ共和国にとってかわるしかなかった。

75 :世界@名無史さん:2006/12/05(火) 15:53:42 0
>>72
詳細な説明さんきゅ。
そうか、オスマン帝国内の人々って「オスマン人」と
してのナショナリズムが確立していなかったのか・・。
だったら瓦解も仕方がないな。
ウィーンを支配していたらという話もたしかにあるが、
でも、今現在イスタンブルを死守しているということが
考えてみれば凄いことなのかもしれない。

76 :世界@名無史さん:2006/12/06(水) 04:32:26 0
ケマルさえ現れなければ今頃コンスタンティノポリスに戻ってたというのに

77 :世界@名無史さん:2006/12/06(水) 10:07:05 0
>>76
(ギリシャ人のつぶやき)

78 :世界@名無史さん:2006/12/06(水) 19:37:50 0
まだギリシャはトルコの諸都市を旧ギリシャ名で呼んでいるんだろうか?
故大島直政氏の著作にギリシャから航空機に乗る時に混乱したと記述があった

79 :世界@名無史さん:2006/12/06(水) 23:55:13 0
アテネから飛行機乗ったが、イスタンブール逝きの逝き先表示が
「ΚΩΝΣΤ.ΠΟΛΗ/ISTANBUL」だった。

80 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 16:20:47 0
>>79
へえ、そうなんだ。
コンスタンティノポリとでも発音するのかな?
ギリシャ人にとっては、1453年以前のままってことなんだね。
もし可能なら、ビザンチン帝国を復古させたいのだろうか?
王朝の血を引く人物が存命しているのかは疑問だが・・・。
逆にオスマン朝なら、血を引く人物がまだいるかもしれないね。
でもケマルに全部消されたかな?


81 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 16:39:05 0
オスマン家の人なら国外追放後、アメリカに亡命して
子孫が在住していると聞いたけど。

パライオロゴス家の子孫は全く情報無し。

82 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 18:02:43 0
ビザンツ帝室の子孫はデヴィ夫人と一緒にパーティーしてたような。

83 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 18:07:03 0
インドネシアとビザンツの関連性が不明なんだが>>82
まさか子孫(傍流含む)が日本在住とか?

84 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 18:12:11 0
>>83
デヴィ夫人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8E

85 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 18:49:44 0
ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会なんてあったのか。
しかもパライオロゴス家の直系の子孫まで居たとは知らなかった。

86 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 22:33:43 0
ウィキペヂアでもΚωνσταντινούποληだ。
ttp://el.wikipedia.org/wiki/%CE%9A%CF%89%CE%BD%CF%83%CF%84%CE%B1%CE%BD%CF%84%CE%B9%CE%BD%CE%BF%CF%8D%CF%80%CE%BF%CE%BB%CE%B7


87 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 22:41:17 0
へえ、よく残ってたな。
この人って、コンスタンティヌス11世の末裔になるの?
それとも別の皇帝の?

88 :世界@名無史さん:2006/12/07(木) 23:53:06 0
>>87
多分モレアにいた傍系の末裔だと思う。
コンスタンティノス11世に子供はいなかったはず。

89 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 02:44:15 0
>>84
どうでもいいけど、最後を疑問形で締めくくるなんて酷い項目だなw

90 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 12:31:29 0
ちょっと素朴な疑問なんですが、
トルコはアタチュルクが英雄視されているのはよく
分かるのですが、今のトルコ人にとってメフメット2世
やスレイマン大帝ってどういう存在なんでしょう?
誇りに思っているのでしょうか?


91 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 15:19:33 0
実はオスマン家はビザンツ帝国から嫁を貰ってるから
一応、オスマン家の血筋=ビザンツ帝国の血筋でもある
第2代のオルハンがヨハネス6世の娘テオドラを嫁に貰ってる
コンスタンティノス11世の祖母ヘレネの姉妹がテオドラ
ヘレネと、コンスタンティノス11世の祖父ヨハネス5世は親同士が再従兄弟の関係
言い換えれば、ヘレネとヨハネス5世は、ミカエル8世を共通の高祖父として持つ関係
または、ミカエル8世にとって、ヘレネとヨハネス5世は両方玄孫になる

92 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 19:37:21 0
>>91
オルハンとテオドラとの間にはハリルという子が生まれているが、オルハンの跡を
継いだのは異母兄弟のムラト(1世、母のニリュフェルはヤルヒサルのギリシア系領主の娘と
言われるが、「ニリュフェル」(蓮の花)という名から女奴隷だった可能性も高い)であって、
オスマン家の主流にはビザンツの支配層との血縁関係はない。
オスマン家の初期にはバルカンやアナトリアの領主たちの家系と数多く婚姻関係を結んでいるが、
多くは全くの政略結婚で、結婚しても子どもがいないか、子どもがいても世継にはならず、
世継の大部分は女奴隷から生まれている。
スルタンの母親が自由身分の女性だったとはっきり分かるのは、セリム1世の母のアイシェ・ハトゥン
(ズルガドゥル侯国の王女)と、スレイマンの母のハフサ・ハトゥン(クリム・ハン国の王女)
ぐらいしかいないのではないかと思われる。

93 :世界@名無史さん:2006/12/08(金) 22:28:45 0
>>91-92
詳細な説明、乙。
博識な人がいてくれると、スレが締まってよいね。

94 :世界@名無史さん:2006/12/09(土) 02:10:57 0
>>92
オルハンとテオドラの子供の血統が、その後も引き継がれていったかを
きちんと考えていなかった。家系図を見て単純に判断してしまった
そういえば、立法者スレイマン辺りまではそれなりに由緒のある令嬢が
母親ってことになってるけど、やはり……な部分も否めないか
当時なんてDNA鑑定どころか血液型検査すらないし
ただ、ハレムの宦官が黒人だったことを考えると
本当に君主の子供化かを結構きにかけてるみたいだけど
訂正及びさらなる解説をありがとう

95 :世界@名無史さん:2006/12/10(日) 02:33:00 0
>>92
スレイマン1世の母アイシェ・ハフサ・ハトゥンが
クリミア王女の出自という説はよく見る気がしますが、
どうも万人の支持を受けていないようで、
王女のほうはアイシェ・ハフサと別人のアイシェ・ハトゥンいう王妃だったという説もあります。
そうであれば、やっぱり奴隷身分出自ということらしい。

関係して、手元の本と関係するサイトをいくつか見てみましたが、
メフメット1世の母デヴレット・ハトゥン(デヴレットシャー・ハトゥン)がゲルミヤン君侯国、
ムラト2世の母エミネ・ハトゥンがドゥルカドゥル君侯国の王女、という説もある模様。
ただ異教徒出身としている本もあったので、よくわからない。

結局、諸書一致して自由身分出自としているのは
セリム1世の母(アイシェ・ハトゥンまたはギュルバハル・ハトゥン)だけでした。

96 :世界@名無史さん:2006/12/10(日) 11:16:17 0
>>79
ロシア史スレで聞いた話だが、ブルガリアでは今でもイスタンブールを
「ツァーリグラード」と呼んでいるとか・・・

97 :世界@名無史さん:2006/12/10(日) 23:25:31 0
ttp://bg.wikipedia.org/wiki/%D0%98%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B1%D1%83%D0%BB
>Истанбул, наричан още Цариград
だそうだ。

98 :世界@名無史さん:2006/12/11(月) 07:03:58 0
英語の地図だと旅順がポートアーサーだったりするし、そんなもんでしょ

特にバルカン諸国ってのはその辺拘るからな
ギリシャなど、公の場で迂闊なことを口走ると拘束される場合もある

99 :世界@名無史さん:2006/12/14(木) 00:57:49 0
西洋ではそれぞれの王家が断絶してるようで
ローマ皇帝の後継者をイメージしてたり、古代から綿々とイメージは連なっている。
オスマン皇帝の場合、ビザンチン皇帝(つまり正統なローマ皇帝)と
ペルシア世界のシャーとイスラムのカリフを兼ねていると考えた方がわかりやすい。
(これにチュルク系遊牧民のハーンも重なってくる)
さらにスレイマンあたりはギリシアとペルシアアレキサンダー帝国の再来とも自負していた。

100 :世界@名無史さん:2006/12/14(木) 09:07:46 0
オスマン朝の皇帝の子孫は今ニューヨークにいるんだよな。

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